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2024年03月17日

左側テープ

※2024年3月17日更新
※2024年3月18日更新

過去記事『ベトナム軍のネームテープ』で、「一部の例外を除き、左胸ポケット上にはテープは付きません」と書きましたので、今回はその一部の例外である左側のテープについてです。

※空挺部隊のみネームテープが左側に付きますが、今回テーマにするのは、通常の「右側にネームテープが付く場合」の左側の(名前ではない)テープについてです。


I. 公式な物

①教育隊
教育隊で訓練中の兵・下士官・士官候補生では、左胸にその教育隊内での受講生番号(Danh số Khóa sinh)*や教育隊・受講課程名が入ったテープが着用されました。
※学校での出席番号のようなもので、軍人としてのID=軍籍番号(Số Quân)とは異なる

例1:ダラット ベトナム国立武備学校

▲E24154は「士官課程第24期E中隊154番」の意


例2: クアンチュン訓練センター

▲A1B056は「クアンチュン教育隊A群第1大隊B中隊056番」の意


例3:ドンデー軍校および各訓練センター

▲部隊名は入らず受講生番号のみのパターン


例4:砲兵学校

▲CBSQは「Căn Bản Sĩ Quan(士官基礎)」課程の意と思われる。


②部隊独自に設定
基本的に教育隊以外で左側にテープが付く事はありませんが、稀に部隊毎に何らかの規定(役職)を左側テープで示す場合がありました。
しかしそれらは末端の部隊毎に独自に設定された物なので、資料が残っておらず、そのほとんどが詳細不明です。

▲地方軍将校の例


II. 非公式な物

以下は全て、兵士個人がアメリカ軍のスタイル(左胸の軍種テープ)を真似て自費でオーダーメイドした非公式な軍種テープの例です。個人が勝手に作った物なので、軍装としての意味は特にありません。また使用例も極めて稀です。

例1: TQLC: Thủy Quân Lục Chiến (海兵隊)



例2: HQVN: Hải Quân Việt Nam (ベトナム海軍)



例3: VNARMY: Việt Nam Army (ベトナム陸軍)

▲こちらは"ARMY"と英語表記になっているので、マニアによって「米陸軍付き通訳者と思われる」と解説される事があります。そうかもしれませんし、そうでないかも知れません。上で述べたようにこれら軍種テープは個人製作の非公式な物なので、テープと実際の役職を結びつける規定は何も存在しません。


例4: VNNAVYViệt Nam Navy (ベトナム海軍)

▲こちらは米海軍PBR部隊に出向しているベトナム海軍軍人です。アメリカ人が理解できるよう"NAVY"と英語表記になっています。
  


2024年03月06日

ベトナム海兵隊の歴代戦闘服

※2024年3月18日更新

過去記事『ベトナム空挺の歴代戦闘服』の海兵隊版を作りました。
なお服のカットの名称については過去記事『ザーコップ:ベトナム海兵タイガーの分類』参照


1954年~1960年代初頭:仏軍TTA47系
1954年にベトナム海軍麾下の陸戦コマンド部隊として第1海軍歩兵大隊(後の海兵隊)が発足してからしばらくは、フランス連合期にフランスから供与されたTTA47系戦闘服が海兵隊で着用されました。


▲実物のTTA47/52軽量型上衣


1957~1963年頃:ザーコップ(1st/VMX)
1957年頃、海兵隊の制式迷彩として、ベトナム初の国産迷彩であるザーコップ(タイガーストライプ)が開発されます。服のカットは仏軍「TTA47/52型」が主でしたが、1958年頃には2ポケット「肩当て型」も登場しています。



1958~1965年頃:カーキ(オリーブグリーン)
陸軍と共通のカーキ(オリーブグリーン)作戦服です。裁断は「肩当て型」と、肩当てを排した「簡略型」があり、海兵隊では1960年代前半まで着用されました。



1962~1968年頃:ザーコップ(2nd/VMS)
1962年頃に登場したザーコップの新色バージョン(パターンは1stとほぼ同じ)です。「肩当て型」、「エポレット型」に加えて、1964年には「迷彩服型」も登場します。




1964~1969年頃:ホアズン(初期ERDL/インビジブルリーフ)
1948年に米軍ERDLで開発された迷彩パターンは、当の米軍で採用される事はなかったものの、その生地は1964年以降アメリカからベトナムへと輸出され、ベトナム軍空挺、レンジャー、海兵隊などのエリート部隊共通の迷彩服となりました。なお空挺、レンジャー部隊では「空挺型」が主でしたが、海兵隊では「迷彩服型」も散見されます。




1966年~?:ザーコップ(3rd/VMS亜種)
1966年には2nd/VMSのパターンを一部変更したザーコップ迷彩服が登場します。

当時の写真では2ndと3rdは見分けづらいのですが、徽章の年代的に恐らく3rdと思われる写真


1967~1975年:ザーコップ(4th/VMD)
1967年にそれまでのVMS系ザーコップからパターンを大きく変更した4th/VMDが登場します。裁断は主に「迷彩服型」です。




1967~1970年頃:ホアズン(66年型ERDL/グリーンリーフ)
米軍は長年放置してきたERDL迷彩を1966年に改良し、自軍の熱帯戦闘服(TCU)に採用するとともに、1967年にはベトナム軍に供与する迷彩生地もそれまでのインビジブルリーフから、この新型(66年型)/グリーンリーフに切り替えます。裁断は主に「迷彩服型」です。


▲東京ファントム製レプリカ


1968~1975年:ホアズン(ベトナム国産ERDL/パステルリーフ)
ベトナム軍は1968年に米国製のERDL迷彩を国産化し、以後グリーンリーフはこの国産迷彩服/パステルリーフに更新されていきます。裁断は当初は「迷彩服型」で、1973年頃から「4ポケット」や「TCU型」も加わります。




1973~1975年:ザーコップ(5th/レイトウォーラージ)
1973年頃にはタイで生産された民生タイガーストライプの一種である「レイトウォーパターン」がベトナムに逆輸入され、ベトナム海兵隊の制式迷彩(5th)として広まりました。裁断は「迷彩服型」、「4ポケット」、「TCU型」のいずれも見られます。



  


2024年02月24日

VMSっぽい服

※2024年2月25日更新

2024年2月23日に投稿した同名の記事の中で、かなり大きな勘違いを載せてしまっていたので、あらためて書き直します。

最近ベトナムのĐLCHが、ベトナム海兵隊ザーコップ迷彩の中でも1962年頃に登場した「2nd/VMSパターン」と称する服を発売したので、試しに買ってみました。
なお通常ラインナップでは「迷彩服型」で販売されていますが、今回僕は特注で「肩当て型」を作ってもらいました。

(海兵隊ザーコップの分類と裁断については過去記事『ザーコップ:ベトナム海兵タイガーの分類』参照)


ぱっと見悪くないと思います。
パターンを実物の2nd/VMSと比べてみるとこんな感じ。


パターンを印象付ける黒い模様の部分は7割くらい再現できている気がします。でも他の色の部分は完全に架空のデザインです。
ま、ĐLCHの製品はとにかく値段が安い事が取り柄で、レプリカとしての再現度は期待できないと分かった上で買ったので、そんなに不満はありません。
「VMSの代用品」としては十分なので、コスプレ撮影用に使いたいと思います。


これまでベトナム海兵隊ザーコップのレプリカと言うと「4th/VMD」ばかりで、その他のパターンはなかなか商品化されてきませんでした。
そんな中、数年前に韓国の業者が恐らく史上初のVMSのレプリカを発売しましたが、あちらはパターンはちゃんとしているのに色を大失敗していたため、僕は買いませんでした。
そして今回のĐLCH製も、色はともかくパターンの再現が中途半端。
VMDに関してはイリュージョンフォクフンから、それなりに再現度の高いレプリカが発売されましたが、VMSで決定版と言える製品はまだ存在していません。
例の韓国の業者が同じパターンで色だけ修正して再販してくれたら最高なのですが・・・。なんか自信満々で、自分の間違いを認める気はなさそうなんだよな・・・。


なお今回、僕はこの服を1962~1965年頃の設定で着るつもりなので、今のところインシグニアは一切付けないつもりです。
海兵隊の各インシグニアの導入年は、次のようになっています。
・左袖の海兵隊部隊章:1960年(実質1965年)
右胸の大隊色ネームテープ:1963年
・右胸の胸章:1966年
・右袖の大隊章:1967年?

海兵隊部隊章については、1960年に採用されたものの、実際に普及し始めるのは1965年頃です。
同様にネームテープ1963年にはすでに着用例があるものの、1960年代中盤までは着用が徹底されていませんでした。
なので1965年までは、作戦服に何のインシグニアも着用していない将兵が大勢見られます。

1965年の『南ベトナム海兵大隊戦記』で有名な第2海兵大隊第2中隊長グエン・バン・ハイ大尉も、インシグニアを着用していません。

また過去記事『レプリカ海兵ベレー』で書いたように、この年代に合わせた海兵隊兵卒ベレー(1956年~1966年頃)はすでに準備済みです。



振り返ってみれば、東大で南ベトナム海兵大隊戦記を鑑賞してから12年。ようやく、その年代の海兵の軍装が揃いました。
春になったらさっそく撮影会で着たいと思います。
  


2024年02月14日

ラオスの黒虎


こちらは言わずと知れたベトナム陸軍レンジャー部隊のトレードマーク「黒虎(Cọp đen)」ですが、実はこれと同じデザイン、と言うかこのレンジャー部隊章がそっくりそのまま同時期のラオス王国軍でも使われていました。

使用していた部隊はラオス陸軍第4軍管区特別遊撃隊(MR4 SGU)です。(SGUは米国CIA・タイ国境警備警察PARUアドバイザーの指揮下にある、モン族・ブル族等の少数民族で構成されたコマンド部隊)



ラオス陸軍では米軍式のSSI(左袖に部隊章縫い付け)の他に、部隊章を左胸ポケット上に着用する場合もありました。



上の写真の2枚に写っている、部隊章の上に付いているタブはこちらと思われます。



この部隊章は徽章だけでなく、基地内の装飾にも使われています。



また、それこそベトナム軍レンジャーを模倣しているかのごとく、ヘルメットへの黒虎のマーキングも見られます。(ただし黒虎マーキングのヘルメットはベトナム軍レンジャーでは野戦で使用されたが、ラオス軍SGUでは式典用の正装としてのみ使用)

 


そもそもベトナム軍とラオス軍どちらが先にこのデザインを作ったのか、はっきりとした証拠はありませんが、ベトナム軍でこの部隊章が制定されたのはレンジャー部隊が発足した1960年頃(遅くとも1962年)なのに対し、ラオス軍SGUでこの部隊章が確認できるのは今のところ1968年が最初なので、オリジナルはベトナム軍で間違いないと思います。

ではなぜSGUは他国の部隊章をそっくりそのまま採用したのでしょうか?
これも確たる情報は何もありません。しいて言えばラオスにとって南ベトナムは同じアメリカ傘下の同盟国であり、また第4軍管区はラオスで唯一南ベトナムと国境を接している軍管区でありますが・・・、これだけじゃ根拠が希薄です。何ならラオスにとってはベトナムよりも、同じタイ系民族のタイ王国の方がよっぽど深い関係にあります。(ラオス人諸国家は何百年にも渡ってシャム王国=タイと朝貢関係にあった)

なんか実はちゃんとした理由なんか無くて、単にたまたまベトナム軍レンジャー部隊章を知ったSGU幹部が、「それカッコいいじゃん!うちも使う!」と、他国のデザインである事なんか意に介さずパクっただけのような気がします。特にSGUは建前上はラオス軍所属ですが、実質的な指揮権はCIAにある民兵組織であり、構成員も低地ラオ族(ラオスの多数派民族)ではありません。そのためラオス軍としてのコンプライアンス意識は希薄であったと思われます。

という訳で、正確な事は何もわかりませんでした!いかがでしたか?
  


2024年02月11日

甲辰年元旦節

新年明けましておめでとうございます!
今年もいつものベトナム寺に元旦節の初詣に行ってきました。





お寺で偶然、知り合いの元ベトナム共和国軍将校(陸軍中尉)Tさんと再会。


Tさんと初めて会ったのは今から約10年前の2014年で、その時の感想は過去記事『生き証人』に記したとおりです。
僕にとっては初めて生で会話したベトナム軍ベテランであり、またその時に地雷を踏んで義足になった足を見せてもらい、自分の歴史・軍事趣味は、今現在生きている人間の人生の記録でもあるのだと強烈に印象付けられました。

また、会場ではTさんのご友人方ともお話しさせて頂きました。皆さん40数年前に難民として来日し、そのまま定住された方々です。(戦争中は学生だったので、元軍人ではない)
日本におけるインドシナ難民の受け入れと支援体制は、『無いよりはマシ』程度のもので、同じく難民として欧米に移住したベトナム人コミュニティと比べると、日本のベトナム難民はだいぶ苦労したと皆さん仰っていました。
そんな中、Tさんは自身が身体障害を負いながらも、年下の仲間の相談に乗り、仕事の世話をするなどし、周囲からの尊敬を集めていたといいます。

この10年で僕は、日本・ベトナム・アメリカ・フランスに住む大勢のベテランおよび難民の方々とお会いしてきましたが、初めて出会ったベテランがこの方で本当に良かったと思います。
  


2024年02月05日

ベトナム軍のネームテープ

※2024年2月6日更新

ベトナム戦争期のベトナム軍では様々なタイプの作戦服用ネームテープが用いられましたが、今回はそれらをサイズ、着用位置、テープ色、文字色、文字入れの方法、文字の内容、文字の書体という7つの項目で分類してみました。


【サイズ】

標準:120×25mm
当時のレギュレーションで定められたサイズは下の図の通りです。
ただしこれはあくまで目安だったようで、横幅は胸ポケットの幅に合わせるというのはほぼ共通でしたが、テープの高さや文字サイズにはバラつきがあります。



着用位置】

標準:右胸ポケット直上
そもそも作戦服へのネームテープ着用は当時関係を深めていたアメリカ軍に倣って1960年代初頭に導入された制度でした。そのため一部の例外を除き、ネームテープの着用位置はアメリカ軍と同じ右胸ポケットの直上です。
(アメリカ軍の場合左胸には軍種のテープが付きますが、ベトナム軍ではそちらは採用されていません。一部の例外を除き、左胸ポケット上にはテープは付きません)
またネームテープの着用は徹底されておらず、着用しない兵士も大勢いました。特に特殊部隊では機密作戦に従事する都合上、あえてネームテープを付けていない兵士の割合がかなり多かった模様です。



例外左胸ポケット直上
理由は不明なものの、空挺部隊のみネームテープの着用位置は左胸ポケット直上で統一されています。






【テープ色】

標準①:
全軍で用いられた最も基本的なテープ色です。60年代中盤までは一部のエリート部隊を除きこの白テープほぼ統一されていましたが、白という目立つ色は野戦には不向きなため、60年代後半に入ると陸軍および地方軍の戦闘部隊ではカーキ(オリーブグリーン)のテープが好まれ、白テープの使用は減っていきます。(ただし支援部隊および海軍・空軍では引き続き多用された)



標準②:カーキ(オリーブグリーン)
60年代後半以降、陸軍および地方軍の戦闘部隊ではサブデュード(低視認性)を追及したカーキ(オリーブグリーン)色のネームテープが広く普及しました。



例外①:迷彩
主に60年代後半以降の空挺部隊・特殊部隊・偵察部隊、また1971年以降のレンジャー部隊では、着用する迷彩服と同じ生地でネームテープが作られました。



例外②:青
国家警察ではネームテープの色は青と定められていました。(ただし一部で迷彩生地あり)



例外③:各色(レンジャー)
レンジャー部隊では1965年頃~1971年までの約6年間、所属部隊を色で表したネームテープが用いられました。
私は過去記事レンジャー大隊識別色』デニス・キム氏が提唱している色=大隊説を採用し、その一覧も載せていました。
しかし最近、同じ大隊のはずなのに写真によって色が違ったり、色の一覧に当てはまらない例が複数か見つかったため、改めて検証が必要だと感じています。なので現時点では詳細は不明とさせていただきます。
また1971年末に部隊章の上に付ける軍団色・大隊番号タブが導入されると、色付きネームテープは廃止され、迷彩生地に替わった模様です。



例外④:各色(海兵隊)
海兵隊では1963年頃からテープ色と文字色の組み合わせで所属大隊(および師団・旅団本部等)を表したネームテープが用いられました。
ただしこの識別色ネームテープの導入時期は部隊によって異なり、海兵隊全体で見られるようになるのは60年代後半以降です。



例外⑤:各色(予備士官候補生)
トゥドゥック歩兵学校やドンデー軍校の予備士官課程では、期ごとに異なるテープ色、文字色が定められており、そのパターンは膨大になります。



例外⑥:色・模様付き(部隊独自)
上記の他にも各部隊で独自に設定された色・模様付きのネームテープが存在していましたが、資料が残っていないので詳細は不明なものが多いです。



例外⑦:テープの端に色付き(部隊独自)
野戦で目立たないようカーキまたは迷彩生地テープを着用していますが、その両端に各部隊で独自に定めた小さな識別色が付いている例が1970年代に多く見られます。



【文字色】

標準:黒
全軍で用いられる最も基本的な文字色です。テープ色が白でもカーキでも迷彩でも、基本的には文字は黒色です。



例外①:白(国家警察)
国家警察では基本的には青テープに白文字が用いられました。(一部例外あり)



例外②:各色(海兵隊)
先述のとおり、海兵隊ではテープと文字の色の組み合わせで大隊を表したため、黒以外にも白、赤、黄色の文字色が存在ていました。(『続・海兵隊ネームテープ色』参照)



例外③:各色(予備士官候補生)
先述の通り予備士官候補生では、期ごとに異なるテープ色、文字色が用いられました。



例外④各色(部隊独自)
テープ色同様、各部隊で独自に設定された文字色が存在していましたが、詳細は不明です。



例外⑤:黄色
空挺部隊や特殊部隊の一部において、非公式なおしゃれとして迷彩生地テープに黄色い糸で刺繍した例が散見されます。



【文字の内容】

標準①:名のみ(簡易ローマ字表記)
同じ姓の多いベトナム人は日常生活でも軍隊でも基本的にではなく名を使って呼び合うので、ネームテープにも名が入ります。
また本来ベトナム語(クォックグー)にはベトナム語独自のアルファベットと声調記号があるのですが、それらはネームテープという大量生産しなければならない製品の性質上、省略してもやむなしと見做されたようで、兵卒に支給されるネームテープのほとんどは、英語等と同じシンプルなローマ字表記に省略されています。(ベトナム人同士であれば、記号が無くても本来のスペルはだいたい想像できるため)
下の例では"HÙNG"または"HƯNG"だったものが、"HUNG"に省略されています。



標準②:名のみ(クォックグー表記)

上で述べたように、ベトナム語を表記するローマ字(クォックグー)は英語等と異なり、ベトナム語独自のアルファベットと声調記号が用いられます。(過去記事ベトナム語とフォネティックコード』参照)
このクォックグー表記はベトナム語としては正しいものの、ネームテープを作る上では生産性が悪いので、ちゃんとクォックグー表記されたネームテープは官給品ではなく、将校・下士官が自費でオーダーメイドしたもの(主に刺繍)と思われます。



例外①:名のみ(フォネティックコード表記)
軍の支給ではなく個人でオーダーメイドしたもので、クォックグーのスペルを軍で無線交信に用いられるベトナム語フォネティックコードで表記している例が散見されます。
下の例では"BÍNH"だったものがフォネティックコードに則り"BINHL"と表記されています。(過去記事ベトナム語とフォネティックコード』参照)



例外②:フルネーム
こちらもオーダーメイドで、名のみではなくフルネームをネームテープに入れている例が見られます。
ただし、よほど短い名前ならまだしも、普通のベトナム人の姓名を全て入れるにはテープのスペースが足りないため、ありふれた姓やミドルネームは一文字ないし二文字に省略して表記されている場合が多いです。
下の例では"Nguyễn"が"NG"に、"Văn"が"V"に省略されています。



例外③:海兵隊中隊番号
海兵隊では同名の他人との混同を避けるためか、名の後に中隊番号を追加している例が散見されます。



【文字入れの方法】

標準①:プリント
全軍で最も多用されたのが文字をプリントしたものです。
プリントの方法はステンシルの場合が多いですが、米軍のようにブロック式のスタンプも用いられました。
またプリントの場合、名前が後述の簡易ローマ字で表記されている場合が多いです。



標準②:刺繍
刺繍も一般的な文字入れ方法でした。刺繍では簡易ローマ字、正式なクォックグー表記の両方が見られます。
またテープが迷彩生地の場合はもれなく刺繍になります。



例外:手書き
支給の段階で文字が入っておらず、兵士自身がペンで手書きした例が一部で見られます。



【文字の書体】

標準①:セリフ体
プリント製・刺繍製ともに用いられる基本的な書体です。



標準②:ゴシック体
刺繍製でよく使われますが、プリント製(スタンプ式)でも一部で用いられます。



例外:その他の書体
オーダーメイドしたネームテープでは筆記体やポップな感じの書体も一部で用いられました。




以上です。
今回は写真がやたら多くなりました。
  


2024年01月30日

カオダイ軍じゃないベレー

※2024年1月31日更新
※2024年2月2日更新


過去記事『通称"カオダイ軍ベレー"の正体について』で書いたように、欧米の多くの文献が『カオダイ軍のもの』として紹介しているこのベレー章は、実際にはカオダイ教とは何の関係もない、単なるベトナム陸軍ベレー章です。(自信をもって断言します)
そう判断する理由は上の記事にまとめてあるので、今回はなぜこのような誤解が生じたかについて私見を述べてみます。 

※カオダイ軍については過去記事『カオダイ軍の歴史[草稿]』参照

まず、誰が最初にこんな間違いを言い出したのかは分かりません。僕がベトナム戦争に興味を持ったころ(20年前)には、すでに欧米の本の多数がこのベレー章を『カオダイ軍のもの』と紹介しており、ちょっと知識のある人の間ではそれが常識になっていました。

しかし、この誤解が生じた原因なら見当が付いています。それは1955年に暗殺されたベトナム陸軍カオダイ部隊司令官チン・ミン・テー将軍の葬儀の写真です。

▲1955年5月6日サイゴン

確かにこの葬列はカオダイ部隊の物であり、彼らは問題のベレー章を着用しています。
そのため、カオダイ部隊が着用しているベレー章=カオダイ軍のベレー章と解釈されてしまったのでしょう。
そして、この誰かの勘違いが、検証される事もなく鵜呑みにされ、様々な本に繰り返し掲載されてしまったというのが、ここ数十年のベトナム徽章コレクター界の実情です。

しかし実際には、このベレー章は、単なる陸軍ベレー章(1954-1967年)です。
この写真では、たまたまカオダイ部隊司令官の葬儀でカオダイ部隊が被っていたというだけで、実際には誰の葬儀でも、何の部隊でも関係ありません。
単純に、陸軍将官の葬儀で、陸軍兵が、陸軍ベレーを着用しているだけです。カオダイ教は何も関係ありません。

今日ではこの理解は、一流の研究者の間でようやく受け入れられつつありますが、そこまで熱心ではない多くのマニアは何十年も昔の本の記述にしがみ付き、未だに知識をアップデートできていないようです。
私が尊敬する先輩研究者であるフランソワ・ミラード氏は、2011年に海外のミリタリーフォーラムで、この「カオダイ教とは無関係」説を投稿したところ、それはもう喧々諤々だったそうです。
中には頑なにカオダイ軍説を信じる人も居たそうですが、そう言う彼らの中に、自ら検証したり史料を提示する者は一人として居ませんでした。


話は変わりますが、私は長年、この陸軍ベレー章が採用されたのは、ゴ・ディン・ジエムが政権を握りベトナム国軍(QĐQGVN)がベトナム共和国軍(QĐVNCH)に改編された1955年だと思い込んでいました。(階級章や帽章等はこの時新型に代わったので)
しかしある日、上で述べたミラード先生がこんな映像を提供して下さりました。


▲1954年トゥイホア

1954年に撮影された映像に、例のベレー章が写ってるじゃないか!マジかよ。
これはけっこう衝撃的な事です。ベトナム軍の徽章類が大きく変わるのは1955年なのに、その前年にベレー章だけ先に採用されていたとは。
まだまだ知らない事が沢山あるなと思い知らされました。
さすがミラード先生だぜ。
  


2024年01月28日

クメールとベトナムの同盟

カンボジア(クメール王国)は1960年代を通じて、ベトナム戦争に対し「中立」を表明し直接戦闘には関与しない一方で、ベトナム共産軍がカンボジア領内を通行・拠点(ホーチミン・トレイル)とする事を許可し、またFULROによる反乱を支援するなど、ベトナム共和国(南ベトナム)に対する間接的な攻撃を続けていました。

しかし1970年にクメール軍のロンノル将軍がクーデターで政権を掌握すると、ロンノル政権(クメール共和国)はアメリカを盟主とする反共・西側陣営に転向し、同時に国内外の共産軍(クメールルージュおよびベトナム共産軍)との戦争に突入します。これに伴い、クメール共和国は共産軍を打倒するため、一転してベトナム共和国同盟を結ぶ事となります。
この同盟は両国共にアメリカの傘下に入ったからこそ成しえたもので、両国の千年に渡る対立の歴史を鑑みると、これは非常に驚くべき出来事でした。
そもそもベトナム人国家は現在のベトナム北部(紅河流域)から始まり、そこから千年以上かけて徐々にクメールおよびチャンパ王国(チャム族)から領土を奪いながら南に拡張していった国でした。

▲10世紀のインドシナ半島の版図。黄色がベトナム人国家の領域。


なのでクメール人にとってベトナム人は侵略者であり、現在のベトナム南部は18世紀にベトナム人に奪われるまで約800年に渡ってクメール人が支配していた土地、すなわち「奪還すべき自国の領土」でした。
そのためクメール人の間には強い反ベトナム感情が存在しており、それは1970年に起ったクメール軍による在カンボジア・ベトナム人虐殺事件の背景にもなりました。
(同様にチャム族やデガもベトナム人に征服された人々で、これが現在まで続くFULRO運動に繋がります)

しかし、こうした対立の歴史がありながらも、1970年のクメールとベトナムの同盟成立以降は両国の軍が歩み寄り、かなり親密な関係になります。
それまでクメールは中国・ソ連から細々と軍事物資を輸入していましたが、ベトナム戦争には参戦していなかったため、軍の規模も装備も、また能力的にも周辺国と比べるとかなり遅れていました。(周囲のベトナム、ラオス、タイはアメリカからの強力な軍事支援を受けていた)
そこで1970年にクメール共和国が成立すると、クメール軍は自国の兵士の訓練を、実戦経験も訓練設備も豊富なベトナム軍とタイ軍に頼るようになります。そして多くのクメール兵がベトナム領内で訓練を受けた後、クメールルージュとの戦闘に投入されました。

▲ベトナム軍訓練センターで訓練中のクメール軍新兵 [1970年ベトナム・フクトゥイ省]

胸にベトナム軍の射撃技能章を佩用するクメール国軍兵士 [1970年]

また同年、ロンノル政権の承認の下、ベトナム軍がホーチミン・トレイルを叩くためクメール領内に進攻(カンプチア作戦)を開始すると、ベトナム軍とクメール軍は連携して作戦を行い、共産軍に大打撃を与えることに成功します。

クメール軍第2軍管区本部で合同で指揮を執るクメール軍・ベトナム軍将校[1970年カンボジア・コンポンスプー]
顎に手を当てている人物がクメール軍第2軍管区司令ソステイン・フェルナンデス将軍で、ベレーを被った2人がベトナム軍将校。
フェルナンデス将軍は当初シハヌーク派と見做されロンノル将軍のクーデター時に失脚しかけますが、後にロンノルの信頼を得て1972年からはクメール軍最高司令官を務めます。

こうした協力関係から、両国の将校の中には、互いの階級が認識できるよう、相手国の階級章を身に着ける例も一部で見られました。

▲右襟にベトナム軍大佐の階級章を佩用するクメール軍大佐

▲左肩にクメール軍少佐の階級章を佩用するベトナム軍少佐(第1歩兵師団チャン・ゴック・フエ少佐)


しかし、この同盟は1975年に両国とも共産主義勢力に敗北した事で消滅します。
一方、同様にベトナム戦争中は同盟関係にあった共産主義勢力、すなわちベトナム労働党とクメールルージュ(カンボジア共産党)も、戦争が終結した事で互いに利用価値を失い、終戦の翌週には同盟を反故にして局地的な戦闘状態に入ります。
そして対立はエスカレートし、1978年のカンボジア・ベトナム戦争に発展。この戦争はベトナム側の勝利に終わりましたが、その後もベトナムが擁立したカンプチア人民共和国(ヘン・サムリン政権)とカンボジア駐留ベトナム人民軍に対し、カンボジア領内に残存する反ベトナム勢力は10年に渡って武力闘争を続ける事となります。
  


2024年01月16日

最近行った場所

日曜日にビクトリーショウに足を運んできました。
お目当てはこちらの展示。



デスボランティアさんが所蔵する超貴重なコレクションの数々です。鼻血が出ちゃいます。
米国カリフォルニア州ウェストミンスターにはベトナム共和国軍史資料館という私設博物館があり、私は2回訪問しているのですが、迷彩服に限って言えば、こちらの展示の方が凄いです。
いや見に行って良かったぁ~face05


また順番は前後しますが、最近、成田空港の隣にある航空科学博物館にも行ってきました。
なんとベルX-1(XS-1)1号機『グラマラス・グレニス』のコックピット部分の実物大レプリカが展示されており、中に入る事ができました。
館内にはゼロ戦のコックピットもあったけど、映画『ライトスタッフ』が好きな僕的にはX-1の方が燃える!


僕は昔は飛行機と言えば軍用機しか興味ありませんでしたが、度々海外旅行で旅客機に乗るようになってから民間エアラインにも興味が湧いてきて、ここ数年はYoutubeで、エアライン系フライトシムのゆっくり実況をやっているe92m3s65b40agogoさんの動画を毎回見ています。
これで多少はエアラインのコックピットでどのようなやり取りが行われているか知識が得られたので、その上で航空科学博物館の展示を見れたのはとても良かったです。
ちなみに僕、運行しているコンコルドに乗ったことはありませんが、ドイツのジンスハイム自動車・技術博物館に展示されている実機のコンコルドの機内・コックピットに入ったことがあるのはちょっとした自慢です。


  


2024年01月13日

ホアロイのHALO潜入作戦

過去記事『ベトナム空挺の降下作戦1955-1975』にて、ベトナム軍NKTのコマンド部隊は夜間HALO(高高度降下低高度開傘)による潜入作戦を複数回行っていたと述べましたが、それらの多くは他の特殊偵察計画と同様に、ベトナム軍NKTと米軍SOGの合同チームによって実施されていました。
しかし一部ではSOG隊員が参加せず、NKT隊員のみで実施されたHALO作戦も存在していました。今回は、こうしたNKT隊員のみで構成されたHALOチームの一つ、雷虎CCCチーム『ホアロイ(Hỏa Lôi)』のチームリーダーを務めたホアン・ニュー・バー少尉の回想録から、ホアロイが実施したベトナム軍初の夜間HALO潜入作戦の概要をまとめました。


1960年代末まで、NKTの越境コマンド部隊およびSOGとの合同チームは敵性地域への潜入作戦の際に、夜間低高度フリーフォールを多用していた。
これは夜間に、非常に低い高度を飛行するC-47やC-123輸送機からフリーフォール降下するのもので、この作戦に選抜されたNKT隊員にはロンタンのNKT訓練センターで夜間フリーフォール訓練が施された。そして作戦実施が決定されると、機密保持のため隊員はブリーフィングを終えると、出撃の日時まで数日間、基地内の立ち入り禁止区域に隔離された。
この低高度フリーフォールには、低高度からジャンプする事でチームが一か所にまとまって着地できる利点であったが、同時に以下の欠点も存在していた。
・航空機が低空を飛行した事により乱気流が発生し、パラシュートが回転したり、風に流されて着地地点から外れてしまう事がある。
・狭い範囲内で複数人のパラシュートが同時が開傘するとパラシュート同士が絡まる危険性があるため、自動開傘装置が使えない。
・航空機が低空を飛行するため、騒音が大きく、敵に発見されて潜入作戦の意味を成さなくなる。また対空火器による被害を受けやすい。

そこで米軍SOGとベトナム軍NKTは1970年に、当時研究段階にあった新技術HALO(高高度降下低高度開傘)の実戦投入を決定した。
HALOは対地高度18000フィート(約5500m)からフリーフォールし、高度2000フィート(約600m)で開傘するもので、高高度を飛行する事で敵に探知・迎撃される事を防ぐとともに、兵員が降下中に互いに近付く低高度フリーフォールと同様にチームの着地地点を一か所に集約する事が可能であった。
このHALO作戦実行のため、ロンタンのNKT訓練センターに加えて、沖縄の米軍基地にもHALO訓練コースが設置され、米軍グリーンベレーの管理・指導の下、NKTおよびSOG隊員に対し訓練が実施された。
なお、このHALO訓練コースにおいて、CCN所属のグエン・ソン准尉が訓練中の事故で死亡した。





1970年末、ホアン・ニュー・バー少尉以下ゴ・スアン・マン、ラム・サヴェル、グエン・バン・ドーの計4名からなるCCCチーム・ホアロイは、NKT訓練センターHALO訓練コースを修了した直後、同訓練センター内でブリーフィングに召集され、NKT連絡部司令グエン・バン・ミン大佐からNKT単独でのHALOによるカンボジア領内への潜入作戦の決行を告げられた。
共産軍の防空設備及び指揮所・食料集積場の存在が疑われるこの地域への潜入作戦は過去に数回、CCS所属のチームが夜間低高度フリーフォールによる潜入を実施していたが、低高度で飛行したために共産軍の対空砲火を受け、ヘリコプター2機が撃墜、コマンド隊員も2チームが失われていた。そのため今回は対空砲火を避けるため、ホアロイによるHALO潜入が選択された。
ミン大佐は今回の作戦がNKT隊員のみで実施される事について、「これはアメリカ軍がベトナム軍の能力を試す特別な作戦だ。これまでの経験があれば、我々は課題を克服して任務を完遂できると信じている」とホアロイの隊員達に訴えた。
ホアロイの4名は、通常であればそのまま基地内の隔離区域に収容されるはずであったが、その隔離区域はたまたま別のチームが使用していたため、ホアロイには特別に2日間の休暇が与えられた。未だ前例のない危険な任務であったため、ホアロイの隊員たちにとってこの2日間はただ不安を募らすだけの時間となった。
そして作戦当日、隊員たちは基地内の隔離区域に集合し、出撃の時間を待った。午後10時、隊員たちは背嚢、AK突撃銃、黄色いカーキの戦闘服(CISO戦闘服の一種)、偽装用の共産軍ブッシュハット、パラシュートといった装備を受け取り、出撃の時を迎えた。
出撃を前に、ミン大佐はホアロイの隊員一人一人に体調を尋ね、激励の言葉をかけるとともに、パンとコーラの缶を手渡し、機内で食べるよう伝えた。そしてミン大佐とホアロイの4名は米空軍のMC-130特殊戦機に乗り込み、作戦空域へと飛び立った。
午前0時45分、乗機がカンボジア領内の作戦地域上空に到達し、後部ハッチが開いた。ミン大佐は各自の肩を叩いて励まし、3回目のベルと共に機体後部のランプが赤から青に変わった。これを合図に、ホアロイの4名は高度5500mから暗黒の大地へと飛び降りた。

着地するとバー少尉を含む3名はすぐに合流したが、マンとは合流できなかった。計画ではパラシュートを隠した後、1時間その場に隠れて敵をやり過ごす事になっていたが、サヴェルのパラシュートは高い樹木に引っ掛かってしまったため、3名で協力してパラシュートを切り離さなくてはならなかった。
また午前2時半になってもマンとは合流できず、これ以上同じ場所で待つ事は出来なかったため、バー少尉はマンとの合流を諦め、予定通り東へ移動しながら目標の捜索を開始した。
夜が明け、午前9時ごろ、3名は草原で水牛の大群と出くわした。そして不運にも、異変を感じた水牛が一斉に鳴き始めた事で、付近に居た敵兵を呼び寄せる事となった。これによりホアロイの3名は敵兵に発見され、銃撃戦となる。
敵の歩兵部隊に追跡された3名は、その後4時間に渡って必死の逃走を続けた。草原にはシロアリ塚が無数に立っており、ホアロイはこれに隠れながら断続的に射撃する事で、敵の追撃を押し留めていた。しかしその間、サヴェルは足を捻挫した上、竹の枝が目に刺さる怪我を負った。
バー少尉この状況を無線で本部に伝え、救助を求めた。これを受けて、午後3時には陽動の為ベトナム空軍のF-5戦闘機が作戦地域に向けて発進した。
午後5時の時点で、ホアロイの3名は敵に包囲され、絶体絶命の状態にあった。しかし無線で現在地を報告した直後、上空にベトナム空軍のO-2観測機が現れ、FACから救援に来た旨が知らされた。
さらにその後、F-5戦闘機2機と米陸軍のAH-1コブラ4機が飛来し、敵地上部隊を空爆した。その間、米空軍のHH-53救難ヘリがホアロイの3名を縄梯子で抽出し、現地から脱出する事に成功した。

その後3名を乗せたヘリは、CCSの前線基地であるクアンロイ飛行場に到着し、そこで行方不明となっていたマンも無事発見され帰還の途にある事を知らされた。なお戦闘中に負傷したサヴェルはそのまま病院へ搬送されたが、大事には至らなかった。
翌朝、バー少尉SOGアドバイザーから、昨日の作戦目標であった敵防空施設は、今回の作戦で位置が特定できた事から、B-52による爆撃で破壊に成功したと告げられた。


以上が、NKTが単独で行った最初のHALO潜入作戦の一部始終です。
この作戦では、チームは敵に捕捉され全滅の危機に陥りましたが、結果的には死者を出すことなく全員無事帰還でき、ベトナム軍にとっては大きな前進となりました。
これ以降、ベトナマイゼーションによる米軍撤退・SOG解散により、HALOに限らず、NKT単独での作戦は急激に増加していきます。


  


2023年12月30日

ベトナム共和国とカトリック(概説)

※2023年12月31日更新

1860年代から1954年まで1世紀近くフランスの統治下にあったベトナムは、アジアの中でも特にキリスト教(主にカトリック)の割合が多い国です。
ベトナムとカトリックの関係については、掘ろうと思えばいくらでも深く掘れる分野ではありますが、僕もまだそんなに詳しくは分かってないので、今回は概説だけ書きたいと思います。


第一次インドシナ戦争

第二次大戦における日本の敗北と同時にベトナムの政権を握ったホー・チ・ミンらベトミンは、共産主義・民族主義的イデオロギーからカトリックを敵視し、カトリック信徒に対するテロ攻撃を開始します。
その後すぐにフランスがインドシナの再占領に成功し、カトリックはフランスによって保護されますが、ベトミンによるテロは続き、フランス連合側ではベトナム人カトリック信徒による民兵組織『キリスト防衛機動隊 (UMDC)』等が組織され、カトリック勢力はフランスと団結してベトミンと対峙しました。(過去記事第一次インドシナ戦争期のベトナム陸軍 その3:その他の戦闘部隊』参照)
しかし1954年、ジュネーヴ協定によってフランスが撤退し、北ベトナムにホー・チ・ミン政権(ベトナム民主共和国)が成立すると、北ベトナム領に住むカトリック信徒は生命の危機に晒されます。そしてホー・チ・ミン政権による弾圧から逃れるため、30万人以上のベトナム国民(内8割がカトリック信徒とされる)が北ベトナムを脱出して南ベトナム(ベトナム国)に退避しました。

米仏軍による輸送作戦Operation Passage to Freedomにより北ベトナム領を脱出するカトリック難民[1954年]


第一共和国期

一方、1955年に無血クーデターによって南ベトナム(ベトナム国改めベトナム共和国)の実権を握ったゴ・ディン・ジェム総統は熱心なカトリック信徒であり、カトリックはむしろ政府によって優遇される事になります。
1964年の時点で、ベトナム共和国人口1450万人の内、カトリック信徒の割合は約10%に過ぎませんでしたが、ジェム政権(第一共和国期)下では政府・軍高官の大半、そして全国の省長官の2/3をカトリック信徒が占めるなど、ベトナム共和国の政治権力はカトリック勢力が握る事となりました。
また歴史的にベトナム人は中国人を快く思っていませんでしたが、それでもジェム総統は中国共産党に弾圧された中国人カトリック難民のベトナム共和国への移住を受け入れ、土地を与えたばかりか、中国人難民が国内で武装・民兵組織化する事も許可しました。(過去記事グエン・ラック・ホア神父』参照)

▲第一共和国期を率いたゴ家の兄弟3名。左からゴ・ディン・ニュー(カンラオ党=事実上の秘密警察指導者)、ゴ・ディン・トゥック(カトリック教会フエ大司教)、ゴ・ディン・ジェム(ベトナム共和国総統)

しかし、こうした極端なカトリック優遇政策が国内に深刻な宗教対立をもたらします。
ベトコンとの内戦を抱えながら、内政でも混迷が続いた事で、ついにはジェムのスポンサーだった米国CIAもジェムを見限る結果となりました。そして新たにCIAの支援を取り付けたズオン・バン・ミン将軍ら軍部の反ジェム派は1963年11月にクーデターで政権を奪取し、ジェム総統と弟のニューは革命軍によって暗殺され、ジェム政権関係者も軒並み粛清されます。
しかしそれでも、カトリック信徒には仏領時代から続く良家・エリート層が多く、ジェム政権を倒した軍内部にもカトリック信徒が多かったため、カトリックそのものが排斥される事はなく、以後カトリック勢力とベトナム共和国政府は共存していくこととなります。


ベトナム共和国軍の従軍司祭

上記のようにベトナム共和国の人口の10%はカトリック信徒だったため、当然ベトナム共和国軍に所属する将兵の中にもカトリック信徒が一定数存在しており、特に軍の高官やエリート部隊ではカトリックの割合が非常に高かったそうです。なのでベトナム共和国軍には欧米の軍隊のようにカトリックの従軍司祭およびカトリック司祭局(政治戦総局所属)が存在しており、これは他のアジア諸国には無いベトナム共和国軍の特徴と言えます。

▲前線で礼拝するベトナム共和国軍のカトリック信徒[1970年カンボジア領内]



左胸に十字架の職種章を佩用する従軍司祭(陸軍大尉)。キャロット(略帽)にも十字架を付けていますが、陸軍ではキャロット用いられないので、カトリック司祭局独自の軍装かも知れません。

▲キャソック(司祭平服)を着た従軍司祭。恐らく上の写真と同一人物。ベレー章は他に使用例のないデザインなので、これもカトリック司祭局独自の物かも知れません。

▲陸軍第1歩兵師団所属の従軍司祭/陸軍大尉(右の人物)。[1971年ラオス領内]
前線部隊に同行する従軍司祭は、カトリック司祭局ではなく師団パッチを佩用していた模様。

▲政治戦総局カトリック司祭局の部隊章

政治戦総局カトリック司祭局局長ポール・レ・チュン・ティン神父(陸軍大佐)
ティン神父は元ブンタウ聖ヨセフ神学校の校長であり、ベトナム共和国軍カトリック司祭局の最後の局長として終戦を迎える。終戦後、ティン神父は共産政権に逮捕され、再教育キャンプに10年間投獄された後、1985年にアメリカに移住。1994年にその地で死去する。


なお、政治戦総局にはプロテスタント司祭局や仏教司祭局も存在していましたが、ベトナムにおけるプロテスタントの信徒数は非常に少なく、しかもその信徒の大半は中部高原に住むデガ(少数民族)なので、プロテスタント司祭局の活動に関する情報はほとんど見た事がありません。仏教司祭局に所属する従軍僧については、現在資料集め中ですので、ある程度揃ったら記事にしたいと思います。


カトリック民兵(人民自衛団?)

こちらはカトリック民兵とされる組織です。人民自衛団は本来、都市村落毎に編成される政府指揮下の自警団ですが、これはそのカトリック教区版と言ったところでしょうか。映像を見つけただけで、詳しい事はまだ分かりません。


ボーイスカウト


ベトナム共和国時代のボーイスカウト/ガールスカウトは、公にはカトリック教会所属の組織ではありませんでしたが、教会・修道院との繋がりが深く、事実上のカトリック関連組織と言って良いと思います。(ただし非カトリックでも入団できる)
戦時中、ボーイスカウトは軍の補助組織として後方支援任務の一部を担いましたが、公には民間の慈善団体であり、またカトリック教会直営という訳でもなかったため、戦後の共産主義政権下でも(共産党への忠誠を第一義とする条件で)解体をまのがれ、今日でも存続しています。
  


2023年12月21日

ベトナム国産リザード

※2023年12月23日更新

以前、『おフランスのおべべ』で、下の2枚のリザード迷彩服の写真では、上着はフランス軍と同型のTAP47(左)およびTTA47(右)である一方、パンツはベトナム国産のベイカー型(米軍ユーティリティユニフォームの派生)が着用されていると書きました。

 
▲左:1963~1964年頃サイゴン、右:1963年11月サイゴン

さらに先日、上着も国産が有ったと断定できる写真が見つかりました。
ヒュエット(ブラッドケーキ)や初期ホアズン(インビジブルリーフ)といったベトナム国産迷彩服と同じ空挺型裁断です。(パンツは上の写真と同じベイカー型)


▲1968年サイゴン
リザードを着ている兵士が被っているのは鹵獲した共産軍のガスマスクだそうです。

という訳で、1960年代にはフランス製に加えて、ベトナム国産のリザード迷彩服が使われていたことがはっきりしました。
とは言え、確実にベトナム国産だと分かる(ベトナム国産迷彩服の裁断をしている)服の着用例は上に挙げた3例ほどしか確認できておらず、極めてレアなので、おそらく官給品ではなく個人購入品だったと考えられます。

またフランス軍型(TAP47およびTTA47)のリザード迷彩服は1950年代中盤から1960年代中盤にかけて大量に使用例がありますが、写真からではそれらの服がフランス製なのか、あるいは同じ裁断のままベトナムで国産化された物なのかは判断がつきません。
なので、もしかしたら、裁断はフランス軍型だけど実はベトナム製という物もあったかも知れません。

▲TTA47/52軽量型のリザード迷彩服を着ているNKT連絡部CCN司令ホー・チャウ・トゥアン少佐(1960年代末)
リザード系迷彩服は色落ちしやすいのにもかかわらず、フランス撤退から約15年経ってもこれだけ綺麗に色が残っているという事は、この服は貴重なデッドストックであったか、もしくはベトナム製コピーのどちらかと言えそうです。
  


2023年12月15日

軍警の制服

ベトナム共和国軍の軍警(いわゆる憲兵)の制服についてご紹介します。

関連記事:QC/軍警隊


I. 制帽

軍の司法機関としての役割を持つ軍警隊では、他の職種と異なり、黒色の制帽が制定されていました。なお帽章や帽子の形状は陸軍と同一です。
制帽は礼装用の帽子ですが、同時に軍警ではヘルメットライナーも礼装時に用いられました。使い分けとしては、純粋な礼装が制帽で、礼装しつつ警備活動する場合はヘルメットライナーと言った感じでしょうか。
なお軍警ではベレーは着用されません。




II.ヘルメット

軍警隊ではアメリカ軍のMPに倣い、QCのマーキングが施されたヘルメットが常時着用されました。

①ヘルメットおよびマーキングの種類


1. 黒いヘルメットライナーに白文字QC、紅白線
軍警を象徴する最も一般的なマーキング。礼装の際もこのライナーが着用される。

2. OD色ヘルメットシェルに白文字QCのみ塗装
軍警学校の訓練生で多用される。また普通の軍警隊や捕虜収容所の一部でも使用例あり。

3. ヘルメットカバーに黒文字QC
第202軍警中隊(海兵隊付き)や第204軍警中隊(空挺部隊付き)など、迷彩服を着用する軍警中隊が前線で活動する際に見られる。

4. ヘルメットカバーに白文字QC
捕虜収容所の一部で使用例あり。


②ライナー右側面


1. 叉銃とヘルメット
軍警隊で広く使われる最も基本的なマーク

2. 翼と星
空軍付きの各軍警隊で使われるマーク

3. 交叉した錨
海軍付きの軍警隊(第201軍警中隊)で使われるマーク

4. 軍警隊部隊章マーク
一例のみ使用例を確認。詳細不明。

5. 海兵隊マーク
海兵隊付きの軍警隊(第202軍警中隊)で使われるマーク

6. 空白
使用例は比較的多いが詳細不明。


③ライナー左側面



1. ローマ数字
軍警大隊の番号。

2. アラビア数字
(独立)軍警中隊および分遣隊の番号

3. 空白
稀に使用例があるが詳細不明。


III. 被服

被服に軍警専用の物は無く、基本的には陸軍と同一です。

①カーキ作戦服
陸軍・空軍の軍警隊が勤務時に着用する最も一般的な制服
▲左:陸軍、右:空軍

▲ベトナム戦争末期(1973-1975年頃)には、軍警隊でも一般部隊と同様に4ポケット上衣/カーゴポケット付き下衣が着用されるようになる。


②迷彩服(各種)
迷彩服が支給されるエリート部隊を担当する軍警隊では、その部隊に合わせた迷彩服が着用される。

▲第204軍警中隊(空挺部隊付き):ホアズン迷彩

第202軍警中隊(海兵隊付き):ザーコップ迷彩


③海軍勤務服(ブルーグレー)
海軍を担当する第201軍警中隊では、海軍の勤務服が通常勤務・礼装の両方で着用される。



④勤務服(チノ)
儀礼用の礼装。
▲左:陸軍、右:空軍


⑤儀仗制服(白)
儀仗専用の礼装。裁断は勤務服と同じ。


その他
金バックルのピストルベルトや革製装具、警棒等は軍警ならではのアイテムですが、資料がまだまだ不足しているので、今後の課題としたいと思います。
  


2023年12月09日

続・国家警察の赤ベレー

過去記事『不可思議な写真』の中で、マウタン1968(テト攻勢)時の写真には、ベトナム国家警察の迷彩服であるホアマウダット(クラウド)を着ているにも関わらず、ベレーは赤系色(陸軍空挺もしくはレンジャー)を被っている将兵の例が複数見られると書きました。



そして先日、その中の一人が特定できました。
下の写真の中央の人物は当時の国家警察総局総監グエン・ゴック・ロアン空軍少将で、その右側の赤ベレーの人物がグエン・トゥア・ズー(Nguyễn Thừa Dzu)陸軍中佐(当時少佐)です。


ズー中佐は元々、ダナンに駐屯する陸軍第11レンジャー大隊の大隊長でした。
この第11レンジャー大隊は1966年3月に発生した中央政府(グエン・バン・テュー政権)への大規模な反政府運動の際、テュー政権に反対する立場を取り、政府の統制から離反して反政府勢力の一部となってしまいます。このまま行けば再びの軍事クーデターに繋がりかねない事態を前に、テュー政権で国家警察総監を務めていたロアン少将(当時大佐)はダナンに赴き、直接ズー中佐の説得に当たります。その結果、ズー中佐は説得を受け入れ、第11レンジャー大隊は政府の指揮下に復帰。反政府運動は鎮静化され、テュー政権は崩壊をまのがれます。以後、ベトナムでは軍事クーデターにつながるような大きな政変は起こりませんでした。
その縁からか、ズー中佐は1966年中に、ロアン少将直属の第9警察管区司令に就任します。そのためマウタン1968(テト攻勢)では、サイゴン市街戦で指揮を執るロアン少将の傍らにズー中佐の姿が見られます。

このように、ズー中佐は国家警察に出向しているレンジャー将校なので、服は国家警察の迷彩服*1であるホアマウダットを着ていますが、同時にベレーだけは自身が所属するレンジャーの物を着用していた*2ようです。
※1:ホアマウダットは国家警察全体の迷彩服なので、主に使われるのは戦闘部隊である野戦警察隊だが、その他の部署でも必要に応じて着用される
※2:通常、軍人が国家警察に出向した場合でも、ベレーは国家警察のもの(黒色)が着用される。ズー中佐のように原隊のベレーを被り続けるのは、あくまで自身の我がままを通した一部の将校のみ。
  


2023年11月25日

11月の撮影会その2

※2023年12月3日更新

その1に引き続き11月の撮影会の様子です。

全体テーマ①:ベトナム陸軍第1歩兵師団"ラムソン719作戦" 
(1971年3月ラオス王国カムムアン県)

そろそろ寒くなってきたので、南国のベトナム軍にとって数少ない防寒着を着るチャンスの一つである1971年の南ラオス戦役(ラムソン719作戦)をテーマに集まりました。

同じくラムソン719作戦時の空挺師団の装備を身に着けた友人
ラムソン719作戦で戦場となった南ラオス山岳地帯(ルアン山脈)は標高が高いため、気温は10℃ほどと、熱帯生まれのベトナム人には相当寒かったようで、このように防寒対策している写真が多数残っています。


全体テーマ②:ベトナム陸軍第5歩兵師団(1968~1972年頃)

11月は寒い→防寒着を着ざるを得ないと思ってラムソン719作戦をテーマに集まった訳ですが、いざ当日集まってみると、この日に限ってポカポカ陽気で、むしろフィールドジャケットを着ていると汗をかくくらい気温が高くなっちゃいました。
なので一通りラオス設定の写真を撮った後は、みんなフィールドジャケットを脱いで、第5歩兵師団(地域年代は特に定めず)に衣替え。



その他:ベトナム陸軍第18歩兵師団(1973~1975年頃)

僕は個人で、ベトナム戦争末期(1973~1975年頃)に多用された4ポケット上衣+カーゴポケット付き下衣にお着換え。

撮影会の後って毎回そうなのですが、荷物を片付けるのが面倒くさい・・・。
帰宅してその日のうちに片付けるべきなのですが、荷物を車から降ろして2階の自室まで持っていく時点で、かなりかったるい。
と気乗りしないまま撮影から1週間が経ち、まだ荷物は車の中に置いたままです。いい加減、今日こそ片付けよう。ね。
  


2023年11月15日

野戦警察撮影会

実はフランスに行く前の週にプチ撮影会を行ったのですが、まだ写真をアップしていなかったので記事にします。
今回のテーマは1960年代末~70年代前半のベトナム国家警察第222野戦警察団です。

まずは野戦風景。第222野戦警察団は元は陸軍の治安部隊だっただけあり、将校は軍のエリート部隊からの出向者が占めており、その他の隊員(警察官)も陸軍と同等の戦闘訓練を受けた、実質的な軽歩兵部隊でした。



次はデモ警備/ライオット装備。野戦警察隊は日本の警察に例えると警備部機動隊のようなもので、上記のように軍隊並みの戦闘能力は有しているものの、基本的には警察の一部であるため、デモ警備野戦警察隊の主要な任務の一つでした。


今回僕が身に付けた装備はこちら
・警杖:家にあった雪かきスコップの柄を外したもの(笑)
  


2023年11月12日

レジェンドのサイン

先日のフランス旅では、事前に著名なベトナム軍ベテランとお会できる事があらかじめ分かっていたので、この機を逃すまいと、日本からベトナム軍に関する分厚い本を4冊も持参しました。これらの本に、ベテランたちのサイン(オートグラフ)を頂こうと考えた次第です。
しかし慰霊祭会場でこれらの本を携帯する訳にはいかず、また彼らは芸能人ではないので、いきなりサイン下さいと言うのも失礼ですから、実際にサイン下さいと言えるタイミングが有ったのは、昼食会やホームパーティーをご一緒した2名のみでした。


チャン・ドゥック・トゥン陸軍中佐(空挺師団衛生大隊長)



ユー・コック・ルォン空軍大佐(NKT航空支援部司令)


これだけでも十分お宝なのですが、せっかくならサインを自分の部屋に飾りたいので、本に書いていただいたサインをスキャンし、当日一緒に撮った写真と組み合わせてプリントする事にしました。


▲ルォン大佐は現役時代の鮮明な写真が残っていないので、空軍・総参謀部・SOGのシンボルマークと組み合わせました。


それらを額縁に入れて飾ると、こんな感じ。

左上は2016年に、レ・ミン・ダオ陸軍少将(第18歩兵師団長)から頂いたサインです。

お金では買えない宝物を持つというのは、気分が良いですね。
  


2023年11月11日

フランスでお会いしたベテラン達

※2023年11月12日更新


右:チャン・ドゥック・トゥン陸軍中

トゥン中佐は陸軍空挺師団所属の軍医で、長らく第3空挺大隊の主任軍医を務め、最終的に空挺師団衛生大隊長を務めておられました。
トゥン中佐は後述するカオ准尉のご親戚(トゥン中佐はユー家の養子。ユー・コック・ルォン大佐、ドン中将の義兄弟)であり、家も近いので、慰霊祭の日はカオ准尉の車で自宅から送り迎えしました。
私は民間人なので軍隊式の敬礼はしないつもりだったのですが、別れ際に、トゥン中佐が私たちに敬礼をされたので、この時ばかりは心を込めて答礼させて頂きました。
(写真は衛生大隊長時代。1975年)










左:チャン・ディン・ヴィ陸軍大佐/フランス陸軍大佐

ヴィ大佐は第1次インドシナ戦争期に、フランス植民地軍麾下のベトナム人コマンド部隊であるコマンドス・ノーヴィトナムの中でも最も勇名を馳せたコマンド24"黒虎"の副隊長(当時曹長)として有名です。
その後1952年にフランス軍からベトナム軍へと移籍し、ベトナム戦争中は陸軍大佐として第41歩兵連隊長、ビンディン省長官(=地方軍ビンディン小区司令)等を歴任しました。
ヴィ大佐の軍歴はこれに留まらず、1975年の敗戦によりベトナムを脱出した後、1976年に特例的にフランス外人部隊に少佐として採用され、第1外人連隊連隊長に就任します。
(通常、元将校であっても、外人部隊に入隊する際は兵卒として採用されます。かつてフランス軍下士官であったとは言え、外国人がいきなり将校、しかも連隊長になるのは異例中の異例の人事です)
その後ヴィ氏は12年間フランス軍で勤務し、フランス軍でも大佐となり、1988年に退役しました。
ヴィ大佐の軍歴の長さと軍功の多さは、数多のベトナム軍人、そしてフランス軍人の中でも抜きんでており、恐らく最も多数の勲章を受章したフランス軍人と言われています。
そんな生ける伝説的な人物と直接お会いできた事は、この旅最大の感動でした。
(写真はコマンド24副隊長時代。1951年ナムディン省)





右から:
チャン・ドゥック・トゥン陸軍中佐
ホアン・コー・ラン陸軍大佐
グエン・バン・トン陸軍一等兵


ホアン・コー・ラン陸軍大佐

ラン大佐は在仏ベトナム空挺協会の代表として、毎年ノジャンシュルマルヌ墓地での慰霊祭を主催しておられる人物です。
ラン大佐はハノイ出身で、ハノイのベトナム陸軍衛生学校に在学していましたが、1954年にジュネーヴ協定によって北ベトナムがベトミン政権に明け渡されたため、衛生学校が南ベトナム領内に移転し、それに伴ってラン大佐も南ベトナムに移住しました。そこで訓練の一環として空挺部隊(当時は空挺群)による落下傘降下訓練を受講し、1957年に衛生学校を卒業すると軍医として空挺群に志願します。
当時空挺群に軍医はたった3名しかおらず、その後も空挺部隊、ひいてはベトナム軍全体が慢性的な軍医不足に悩まされていたため、部隊がひとたび戦場に出ると、一般の空挺部隊将兵がシフトを終えて基地に帰還する一方、ラン大佐を始めとする軍医は何か月も前線に留まり続けたそうです。そうした困難な任務に臨み続け、ラン大佐は最終的に空挺師団軍医長を務めておられました。
ラン大佐は昼食を食べながら私に、「私は20年近く空挺部隊にいた。それはあまりに長かったし、あまりに人の死を見過ぎたよ」と語ってくださりました。
(写真は空挺師団軍医時代)






ユー・コック・ルォン空軍大佐

ルォン大佐は長らく、総参謀部直属の特殊工作機関NKT内の航空支援部司令として、米軍MACV-SOGが企画した全ての特殊作戦の航空部門を統括していた方です。
私が持参した、NKTベテランの証言をまとめた書籍"Cuộc Chiến Bí Mật(秘密戦争)"をお見せすると、熱心に読んでおられました。
またルォン大佐はベトナム空軍が創設されて間もない1953年にフランスに派遣され、フランス空軍による飛行訓練を受けた、ベトナム空軍の最初期のパイロットの一人でもあります。
戦時中は同じくパイロットであったグエン・カオ・キ空軍中将(副総統)と近しい関係だったそうですが、戦後のキ中将の言動には他のベテランそして多くの元ベトナム共和国国民と同様にうんざりしており、キ中将の話題を振ったら「奴は話し過ぎなんだよ・・・」と嫌悪感を露にしていました。
ちなみにルォン大佐の弟さんは、陸軍空挺師団師団長として有名なユー・コック・ドン陸軍中将で、先述のトゥン中佐も義兄弟です。
(写真はNKT航空支援部司令時代)











"ルイ"タン・ロック・カオ(ベトナム名カオ・タン・ロック)フランス海兵隊准尉

今回、私がフランスでご自宅にホームステイさせて頂いたのが、ルイおじさんことカオ准尉です。
カオ准尉はベトナム共和国サイゴン出身ですが、ベトナム戦争中はまだ子供だったため、ベトナム軍に従軍した事はありません。彼は1980年に国連の難民脱出プログラムによってフランスに移住し、その後フランス海兵隊将校となりました。
しかし母方のおじがベトナム陸軍空挺師団師団長として有名なユー・コック・ドン陸軍中将(ユー・コック・ルォン空軍大佐の弟)であった縁から、現在では在仏ベトナム空挺協会の若手リーダーを務めていらっしゃいます。
(カオ准尉の現役時代の所属は海兵歩兵連隊であり空挺部隊ではありませんでしたが、落下傘降下資格は持っているそうです)

ホームステイしていた5日間、カオ准尉からはフランスや旧フランス植民地におけるベトナム人コミュニティに関する興味深い話を毎日聞くことが出来ました。
例えばカオ准尉が現役時代に偶然出会った外人部隊のベトナム人曹長。彼はコテコテの北部ベトナム語を話しつつも同時にフランス語も完ぺきに話していたので、カオ准尉不思議に思い、彼に話しかけたそうです。すると彼は仏領ニューカレドニア生まれ、元ベトナム人民軍少佐、そしてフランス外人部隊曹長という異色すぎる経歴の持ち主だったそうです。大変数奇な人生を送られた方なので、この人についてもまたあらためて記事にできればと思います。
  


2023年11月05日

ノジャンシュルマルヌ慰霊祭

※2023年11月9日更新

ただいま日本。土曜日の夜遅くに帰国しました。

フランスでは観光もしましたが、今回の旅の主たる目的は、ノジャンシュルマルヌの軍人墓地にて開催された、ベトナム軍*戦没者慰霊祭への参列でした。
この慰霊祭は第一次インドシナ戦争からベトナム戦争にかけて、共産主義者によるテロからベトナムを防衛すべく戦い命を落とした約30万人のベトナム軍戦没者を追悼するもので、毎年11月2日にノジャンシュルマルヌ墓地のインドシナ人・自由ベトナム軍人記念碑前で執り行われており、今年で23回目の開催になります。

※ベトナム軍の名称は以下の変遷を辿っています。なお私はベトナム人民軍を「ベトナム軍」と呼ぶことはありません。
1949-1952: ベトナム国家衛兵隊(VBQGVN)
1952-1955: ベトナム国軍(QĐQGVN)
1955-1967: ベトナム共和国軍(QĐVNCH)
1967-1975: ベトナム共和国軍(QLVNCH)

式の主催はフランス在住ベトナム軍退役軍人および空挺部隊協会。加えてUNP(全国落下傘兵協会)等のフランス退役軍人協会ならびにノジャンシュルマルヌ市が協賛しています。そのため式にはフランス在住ベトナム人に加えて、多数のフランス退役軍人ならびに現役の外人部隊、ノジャンシュルマルヌ市関係者が参列しました。
式ではまず、主催代表のホアン・コー・ラン大佐(ベトナム陸軍空挺師団軍医)が式辞を述べ、次いでフランス軍空挺部隊所属のカトリック司祭ならびにベトナム人仏教僧が祭礼を執り行いました。



私を招待してくれたカオ准尉(フランス海兵隊ベテラン)に聞いた話では、在仏共産ベトナム大使館は以前からこの慰霊祭を中止するようノジャンシュルマルヌ市役所に圧力をかけているそうです。幸い、今の副市長がたまたま元外人部隊将校だったのでこの手の慰霊祭には理解があり、今回も滞りなく開催できましたが、今後の市長選の結果次第では、引き続きこの慰霊祭が開催できるか不透明だそうです・・・。
国外での慰霊祭すら潰しにかかるベトナム共産党政府の性根の悪さよ。


こうして1時間ほどベトナム軍慰霊祭を行った後は、同じノジャンシュルマルヌ墓地内にある戦争記念碑前に会場を移し、ディエンビエンフー戦没者慰霊祭が開催されました。
この慰霊祭は1954年の『ディエンビエンフーの戦い』およびその後のベトミン軍による抑留の中で命を落としたフランス連合軍将兵を追悼するもので、主催はANAPI(全国インドシナ抑留者連合協会)会長フィリップ・ド・マリーシエ少将、ディエンビエンフー従軍軍人協会会長ウィリアム・シラルディ氏の両名です。
またフランス連合軍所属のインドシナ少数民族将兵を代表し、在仏モン族保存協会会長のヴァン・ヤン氏によるスピーチも行われました。




ちなみに私は当日、在仏ベトナム空挺協会(UNP第780支部所属)のゲストとして、UNPの正装ならびにベトナム空挺ベレーを着用して式に参列しました。(当日はかなり寒かったのでコートを着ています。)
これまで文献で知っているだけの存在だった伝説的なベトナム軍将校の方々と生でお話しできて感無量でした。詳しい話は後日あらためて記事にします。


  


2023年10月07日

出色戦士

※2023年10月21日更新


ベトナム戦争中、ベトナム共和国軍では年に一度、将兵の中からその年の出色戦士(Chiến sĩ Xuất sắc)』推薦によって選出して表彰する制度がありました。
この制度がいつ始まったのかはまだ把握できていませんが、少なくとも1960年代末以降は、国慶日(11月1日)にならぶベトナム共和国の最重要祝日である国軍の日(6月19日)に合わせて表彰式典が行われていました。

※国軍の日は1965年6月19日の軍政成立を記念するもので、実際に祝日として祝われたのは1966年が最初。過去記事祝日とパレードとクーデター』参照


当時、出色戦士に選出される事は軍人にとって大変に名誉な事とされ、毎年数百名が出色戦士を受賞しました。
(私が唯一受賞者数を把握しているのは1973年度の約600名(戦死者100名含む)ですが、この年はパリ休戦により北ベトナムから返還された捕虜200名分が追加されているので、他の年度ではもっと少なかったと考えられます)

出色戦士受賞者は首都サイゴンでパレードが行われる6月19日の数日前に決定、本人に通知され、表彰の為、前線からサイゴンに招聘されます。そしてそこで、国家の英雄として以下の催しに参加します。(1973年度の例)

・6/18 マスメディアによる取材
6/18 サイゴン市議会主催のパーティー(サイゴン市長による表彰)
6/18 ビエンホア国軍墓地での追悼式典(総参謀長以下軍高官が列席)
6/18 下院議会主催のパーティー
・6/19 国軍の日パレード(VIP用観閲席からの観閲)
6/19 総統府(独立宮殿)での総統主催パーティー
6/19 ザーロン学校・ドンカイン学校の女子学生とのスポーツ交流会
6/19 総参謀部での総参謀長主催のパーティー(総統・総統夫人列席)
・6/20 上院議会主催のパーティー
・6/20 政治戦総局長主催のパーティー
(その間、サイゴン市内の高級ホテルに宿泊。10軒のホテルが出色戦士の為に貸し切り)

▲グエン・バン・テュー総統から勲章を授与される出色戦士受賞者[撮影年不明]


国軍の日パレードを観閲席から観閲する出色戦士受賞者 [1972年6月19日サイゴン


受賞者には以下のような報奨・休暇が与えられました。(1973年度の例)

・所属部隊司令からの報奨金:5千500ドン
・サイゴン市議会からの報奨金(サイゴン市民からの寄付金):1万ドン
・下院議会からの報奨金:1万ドン
・上院議会からの報奨金:1万ドン
・総統からの報奨金:2万ドン
・総参謀長からの報奨金:1万5千ドン
・7日間の休暇
台湾への慰安旅行

▲台湾に到着したベトナム軍の出色戦士受者一行[1973年台湾 桃園空港]
(制服・旅行鞄等は旅行のために新たに支給される)


加えて、受者には出色戦士を示す徽章が授与され、制服の胸ポケットに佩用されます。

サイゴン市議会主催のパーティーに出席するグエン・バン・クー騎兵中尉[1973年6月18日サイゴン]

出色戦士章の一例
少なくとも1973年度はこのデザインが使用されたようだが、他の年度では違うデザインも見られる。

▲1969年度の出色戦士
画像が不鮮明だが、明るい色の下地の上に黒っぽい文字が描かれているので、明らかに1973年版とは異なるデザインである。