カテゴリ
News! (70)
銃器 (27)
映画 (14)
音楽 (12)
言論 (26)
民生 (2)
人物 (25)
式典 (3)
BB/歩兵 (18)
ND/空挺 (23)
KB/騎兵 (8)
PB/砲兵 (3)
TT/通信 (1)
QV/輸送 (2)
HQ/海軍 (5)
KQ/空軍 (4)
FULRO (9)
デガ (15)
モン族 (13)
ヌン族 (6)
本土軍 (2)
GCMA (2)
SDECE (3)
1914-1918 (1)
1918-1939 (4)
1939-1945 (10)
1945-1954 (30)
1954-1975 (230)
1975-1989 (5)

2018年07月18日

漢字にすれば、いいのです

過去記事『ベトナム語を読む』で少しだけ触れましたが、ベトナムと日本は古代から中国文化に強い影響を受けており、今でこそベトナム語は漢字を廃止してクォックグー(ローマ字)に完全移行したものの、20世紀中盤までは漢字(および漢字を基にしたチュノム)が広く使われていました。なので現在でもベトナム語の名詞の多くはクォックグーから漢字に逆変換でき、漢字に慣れ親しんだ私たち日本人であればその意味を容易に理解できるようになっています。(中国からの輸入語の場合、読み方も日本語漢字の音読に似ている場合が多い)

こちらのサイトでクォックグー/漢字を双方向で変換できます。

特に兵法・軍事に関しては両国とも中国から輸入された概念や用語を広く取り入れているため、漢字表記すればその意味は非常に分かり易く、また共通している単語も多々あります。
ただし、それらの漢字・単語は、各国に取り入れられてから千~二千年と長い歳月が経っているため、それぞれの漢字が持つ細かい意味・ニュアンスは各国で若干変わっている場合もあります。


上記のように、分隊・旅団・師団・軍団などは両国とも全く同じ漢字・意味で使われていますが、日本語で言う小隊~連隊までは微妙に異なっており、クォックグーから漢字にしたものをそのまま日本語の意味で捉えると齟齬が生じます。(なお、本家中国ではまたさらに違う言い方に変化している)
また、日本語の班に相当するToánは算という漢字に変換できますが、これは同音異義語であり、軍事的な意味におけるToánの漢字表記はまだ把握できていません。(中国漢字にベトナム語の意味に該当する文字が無い場合はチュノムが使われるが、チュノムにも該当する文字がいまだ見つからない)

加えて、以下はベトナム語(旧ベトナム共和国軍)特有の部隊編成に関する用語になります。一部で日本語と共通している単語もありますが、多くは日本語的な感覚では正しく理解できないため意訳が必要となります。とは言え、漢字を見れば大体の意味は何となく分かるかと思います。(ただし一部に連隊=中隊未満など引っ掛けがありますが)



またベトナム共和国軍の『部隊名』に関しても、同様に日本語と共通する部分が多く、一部で意訳が必要な場合でも、漢字から意味を推測するのは容易です。



なお、ベトナム語には漢字表記すると『兵種』となる『Binh Chủng』という単語があり、上の表はそのBinh Chủngの一部なのですが、上であえて『兵科・兵種』ではなく『部隊名』と書いたのには理由があります。実はベトナム語(ベトナム共和国軍)におけるBinh Chủngは日本語(旧帝国陸軍・陸上自衛隊)における兵科・兵種・職種とはまた異なった概念なのです。
まず、日本語における兵科・兵種はその名の通り、その分野の専門技能を持った将兵の職種を意味しています。その為日本では陸軍のどの部署に属していようとも、歩兵や砲兵などの兵科毎に横のつながりがあり、それぞれの兵科が一種の派閥を作っています。
一方、ベトナム共和国軍はフランス植民地軍を前身としているため、その構成もフランス式となっています。もちろんフランス軍にも兵科に相当するものはありますが、同時に空挺部隊、海兵隊(旧植民地軍)、外人部隊等は同じフランス陸軍に属しながらもそれぞれ別の組織であるかのように独立性を持っています。兵科が横のつながりならば、こういった部隊毎の独立性は言わば縦のつながりであり、ベトナム語のBinh Chủngとはまさにこの部隊の縦割りを意味する言葉なのです。
もちろん各部隊の中にはそれぞれ歩兵や砲兵、工兵、通信など様々な兵科の将兵が所属していましたが、特に独自のベレー帽が制定されているようなエリート部隊は兵科毎のつながりよりも、伝統を持った部隊ごとの団結を重視しました*。したがって上の表にある歩兵**や空挺、遊撃隊(レンジャー)、海兵隊などは、兵科ではなく部隊名であり、私はBinh Chủngを『部隊』と意訳する事にしています。

* 日本やそれ以外でも空挺部隊や特殊部隊などのエリート部隊は同様に部隊ごとに独立性が強いですが、フランス軍やベトナム軍はそういった独立性のある部隊の割合が他国と比べて高いのが特徴と言えます
** 歩兵(Bộ Binh)という単語は兵科名(歩兵科)、部隊名(歩兵師団)以外にも、エリート部隊を除く陸軍全般を指す用語として用いられる場合もあります。例えば総参謀部が編纂した当時の軍装規定では、陸軍全般で広く使われたオリーブ色のベレー帽が歩兵(Bộ Binh)用として紹介されています。また当時の士官学校では陸海空軍いずれに進もうとも、士官候補生は全員陸軍の訓練センターで歩兵科士官課程(中隊指揮官レベル)を修了する必要があったので、ベトナム共和国軍の将校はパイロットも航海士も会計隊も全員が歩兵戦闘を心得た『歩兵の軍隊』だったと言えます。

Huấn Lệnh Điều Hành Căn Bản, ベトナム共和国軍総参謀部第5室編 (1969)
  


2018年07月03日

ベトナム陸軍空挺部隊の部隊章

 過去記事『撮影会②空挺旅団 1963年サイゴン』の中で、ベトナム陸軍空挺部隊の3rdタイプ(白頭鷲のデザイン)の部隊章は、マニアの間で一般に空挺旅団が空挺師団に昇格した1965年12月31日、実質1966年以降に使用されたと言われているが、実際には旅団時代の1964年11月には現場で使われていた事をご紹介しました。

▲反政府デモを鎮圧する空挺旅団兵士[サイゴン, 1964年11月30日]


 更ににその後の記事『いろんなTAP47』では、ゴ・ディン・ジエム総統の閲兵を受ける空挺旅団の写真の中に、3rdタイプに似たパッチを身に着けた兵士が映っており、もしこれが本当に3rdタイプならその採用時期は遅くともジエム総統がクーデターで暗殺される1963年11月より前となると書きました。ただし、その時点では画像が不鮮明なため、あくまで可能性があるという表現に留めておきました。

ジエム総統の閲兵を受ける空挺旅団 [サイゴン]
※画像のキャプションには1962年3月撮影と記載されていましたが、そのまま鵜呑みには出来ません。


 ところが先日、僕と同じ疑問を持っていた海外の研究者の方とこのパッチについて話し合ったところ、決定的な情報を提供していただく事が出来ました。まず、不鮮明だった上の写真の高画質版が発見され、3rdタイプは1963年11月以前から使われていた事が確定しました。

(画像提供: Francois Millard氏)

 さらに別の方から提供された史料が驚きです。1951年に設立された民間で最も権威ある軍事徽章研究者グループThe Military Heraldry Societyが発行している会報の1963年4月版で、すでに3rdタイプが紹介されていたのです!

▲The Military Heraldry Society 1963年4月
(画像提供: Richard Woods氏)

 という事は、3rdタイプの採用は遅くとも1963年4月より前という事になります。さらに、インターネットの無い時代に民間のマニアが採用から即座にパッチの詳細を把握できたとは考え辛い事から、Millard氏は3rdタイプの実際の採用時期は1962年中だった可能性も大いにあると述べています。
 まさか、こんなに時代が遡るとは驚きです。だって3rdタイプの使用時期は一般には1966年以降と言われており、僕自身も確実に使用例が確認できるのは1964年以降という認識だったのですから。

つまり、改めてまとめると、ベトナム陸軍空挺部隊の部隊章は以下の変遷を辿りました。


 しかし、今も多くの元空挺部隊ベテランが存命であり、マニア・研究者の中でも人気の高い部隊なのに、なぜその部隊章の採用時期がここまであやふやだったのかと言いますと、まず当時軍が作成した徽章に関する命令書の多くは敗戦による混乱で失われており、一次史料による検証はまず困難となっています。
 次に今もご健在のベテランの多くは1960年代末以降に入隊した比較的若い世代であり、1960年代初頭に現役だった世代はもうほとんど他界しているため、当人たちによる証言が得られない点が挙げられます。(仮に生きていても、そんな事覚えている人はなかなかいないでしょうし)
 さらに、写真史料による採用時期特定を困難にしているのが、当時の空挺部隊における部隊章の位置づけです。上で「確実に使用例が確認できるのは1964年以降」と述べたように、実は空挺部隊が前線で部隊章を身に着けるようになったのは1964年末以降であり、逆に言うと1951年のベトナム陸軍空挺部隊創立から1964年までの13年間、作戦時に部隊章を縫い付けている例は全く見られません。
 その時代、空挺部隊が部隊章を身に着けるのは、儀仗、パレード、チノ勤務服などのフォーマルな軍装の場合に限られており、それらの写真が撮影される機会はそう多くは無いため、今まで多くのマニアが部隊章のデザインは1962~63年に変更されていた事に気付かなかったという訳です。現に、上のジエム総統の閲兵の写真も、部隊章を付けているのは儀仗隊であり、同時期の前線の写真を見ても、部隊章を身に着けている兵士は見られません。

▲ジエム政権に対するクーデター成功直後の空挺旅団兵士 [サイゴン, 1963年11月]



おまけ

これの準備は9割がた整ったので



次の目標はこれ


  


2018年06月27日

週末の写真

今回は動画撮影がメインだったのでスチルは少なめです。





 



お昼ご飯は、当時前線での食事として一般的だったと聞く、乾燥米にヌックマムをかけたものと魚の干物というメニューを再現しました。
お米は市販の備蓄用アルファ米、魚はめざしをその場で焼いて食べました。






撮影会の最後にFANK第294大隊のコスプレもちょこっとやりました。
一緒にやるはずだった友人がこの日は病欠だったので、今回は僕一人だけです。



我ながら厳つい。
とても正規軍には見えないと言われました。
もっとカンボジア軍増やしたいな。
  


2018年06月23日

撮影会の準備 その2

前記事『撮影会の準備』の続きです。

去年作ったつるつるM1ヘルメットを庭にぶん投げて土でウェザリング。

メンバーに貸し出しする個人装備を組む。M1小銃/擲弾手用。
ちなみに写真のM1923カートリッジベルトは米国ではなくタイ製の代用品です。USスタンプが無い点以外は50年代の米国製と何も変わりません。アーモクリップは10個も持っていないので、段ボールでアンコ作ってポーチに詰めてあります。
M1945フィールドパックにはポンチョ(自衛隊ので代用)と鍋(タイ製)、ビーチサンダル(ダイソー製品)でデコレーション。ついでにグレネードアダプターやらアーモクリップやら、持ってるもの全部付けちゃった。これじゃあちょっとやり過ぎだな。何個か外そう。

これも貸し出し用。M1918ブローニング自動小銃射手用。これもマガジンがなくてペチャンコだったので急遽段ボールでアンコを作成しました。
 
これは僕の分。分隊長なのでベルト一本とカービンで十分です。(普通の兵隊も同様にサスペンダー無しの場合が結構多い)
M36ピストルベルトは僕が中学生の頃に親戚のお兄さんからもらった物で、メーカー不明のレプリカです。


この時代の米軍式個人装備はハトメにフック通しづらかったり、生地が縮んでいてスナップボタンが閉じれなかったりで、すんなり組める事の方が少ないのが困った所。入れ辛くとも力技でやってしまいますが、これを一日に何度も繰り返したせいで右手親指が内出血したみたいに痛くなってしまいました。夜お風呂に入ったら、血流が良くなったせいでさらに指先が痛みだし、いまだにズキズキします。いや~ん。。。


そう言えば先日32歳の誕生日を迎えました。当日は早朝から深夜まで仕事でへろへろになった一日でしたが、その前々日が知人のベトナム人の誕生日だったので彼女の家で誕生日パーティーをし、その席で僕の誕生日も祝ってもらえました。またその翌日も懇意にして頂いている在日ベトナム人グループの友人たちと食事をご一緒した際、そこでも皆さんからお祝いの言葉を頂きました。
僕は親以外に誕生日を祝ってもらった経験がほとんど無いので、急に大勢の人からおめでとうと言われるとなんだか気恥ずかしく感じてしまいますが、皆さんには縁もゆかりもない外国人だった僕をこうして暖かく受け入れて頂き、本当にありがたく思っています。
  


2018年06月21日

撮影会の準備

その1 ベトナム陸軍第7歩兵師団(1963年初頭)


自家製第7歩兵師団プリントパッチ取り付け

クラッシファイドさんのリプロはこれまでで最高の再現度なのですが、ただ一点、ボタンの表面はもうちょっと艶があった方が良いと思ったので、一旦ボタンをすべて外してピカールで磨きました。

左が研磨前、右が研磨後。あまり艶を出し過ぎても変になるので、難しい所です。

今回はM1グレネードアダプターを初投入。左側の2本がMk2手榴弾用のM1アダプター、右がM26用のM1A1アダプター。できれば種類を揃えたかったけど、M1A1は1本しか手に入りませんでした。
グレネード本体は僕が高校生の頃に買ったサンプロ製BBボトルに実物セーフティピン/プルリングを付けた物。ベトナム軍で使われた米国製手榴弾には、米軍のような黄色のマーキングが入っていない物も多く見受けられるので、レバーをOD色に塗っただけで、あえてマーキングは施していません。

このスタイルが目標。でも銃側に付けるM7グレネードランチャーはまだ入手できていません。



その2 クメール陸軍第23旅団第294大隊(1970年代前半)

『はじめてのFANK』で作った自家製第294大隊パッチを、知人から買った怪しげなTCU風ジャケットに縫い付け。

後身頃が二枚になっています。なんじゃこりゃ?

メーカータグが付いていたので検索してみたら、FAME (Fabricaciones Militares Ecuatorianas)とはエクアドル軍需産業という意味でした。てことはエクアドル軍の服なのかな。
第294大隊は『ドクロのヘルメット鉢巻き』という個性的なビジュアルのみで選んだイロモノな設定なので、手元にあったこのエクアドルTCUをとりあえず代用品として使ってしまいます。
この次はちゃんとクメール陸軍で一般的だった隠しボタン2ポケ戦闘服を再現して、もっと普通のビジュアルの部隊をやりたいと思います。
  


2018年06月08日

ベトナム空軍神風部隊~トートン~浮世絵

 ベトナム空軍では、他の西側諸国と同様に、航空機の機首にノーズアートが描かれている例がいくつかありましたが、中でも特によく知られているのが、グエン・カオ・キ中将(後の副総統)の直接指揮下にあった第83特殊作戦航空団『※神風部隊(Biệt Đoàn Thần Phong)』のものだと思います。この神風部隊では少なくとも以下の二種類の特徴的なノーズアートがA-1スカイレイダー攻撃機の機首右側面に描かれていました。



※日本の神風特攻隊とは関係ありません。
※なお、この神風部隊は特殊作戦を専門とする『空の特殊部隊』であったからか、本来国籍マークが入るはずの機体胴体側面には部隊のシンボルマークがペインいる点が他の部隊の機体ペイントとは大きく異なります。

 この二つの漢字のような梵字のようなよく分からない図形の正体については、僕自身長年把握できておらず、たぶんチュノム(ベトナム語表記にローマ字=クォックグーが採用される以前に使われていた漢字を基にした表語文字)の一種なのかな、くらいに考えていました。ところがある日、さるベトナム空軍研究家にこのノーズアートについて話を振ったところ、即座に正解を教えて頂く事が出来ました。
 なんでもこの図形はチュノムや特定の言語の文字ではなく、ベトナムの伝統的なカードゲーム『トートン(Tổ tôm)』に描かれた、漢字を基にした記号なのだそうです。
 トートンは中国発祥のカードゲーム(紙牌)である『ハンフー(看虎)』から派生したもので、麻雀やトランプのようにいくつかのスート(柄)と数字の組み合わせでデッキが構成されていました。
 スートと数字は文字(漢字)と漢数字を組み合わせた記号で表されており、スートの文字が漢字の部首の偏のように左側に、漢数字が旁(つくり)のように右側に配置され、その記号自体が一つの漢字のようにデザインされていました。(チュノムも同様に二つの漢字を組み合わせて一つの文字としていましたが、トートンに用いられたのはチュノムではなく、単なる記号です。)
 左側のスートは、現在のトートンでは専ら文(Văn)、索(Sách)、萬(Vạn)の3つが用いられていますが、過去には升(Xừng)や[※1]湯(Thang)といった文字も使われていたようです。このうち索と萬は、もっと後の時代に考案された麻雀(索子と萬子)に受け継がれていますね。 [※2]右側の数字は1~10まであり、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と漢数字で表記されています。(十は謎の異字体が使われていますが) 

[2018年6月13日訂正]
※1 Thang (湯)は現在でも使われていました。
※2 右側に入る数字は正しくは1~9であり、一、二、三、四、五、六、七、八、九と漢数字で表記されています。下のカード一覧の一番右側にある3枚はそれぞれのスートの十ではなく、それぞれÔng Cụ (萬の行)、Chi Chi (文の行)、Thang Thang (策の行)という役を作るのに使う特殊なカードであり、これに各スートの一(萬の一、策の一、文の一)を含めたカード6種のカードが『Yêu』と呼ばれ、麻雀で言うドラのような役割を持っているそうです。

▲現在出回っている一般的なトートンのカード

そしてこの中で、神風部隊にノーズアートとして描かれたのは、升の九(Cửu Xừng)』と索の九(Cửu Sách)になります。


※なおRobert C Mikesh著『Flying Dragons: The South Vietnamese Air Force』には、神風部隊では上記の二つに加えて『萬の九』、『文の九』もマーキングされていたと記述されているそうですが、当時の写真を探してもその実例を確認する事はできませんでした。

 実はこれらを調べる過程で、頭を悩ませたのが、Cửu Xừng』についてでした。先述したように、現在のトートンで用いられているスートは文・索・萬の三つであり、インターネットで調べても、このカードに関する情報はなかなか見つかりませんでした。しかもかなり文字を崩したデザインなので、元の漢字が何だったかも全く分かりませんでした。
 さらに僕を混乱させたのが、この漢字のクォックグー表記は『Sừng』だというベトナム人からの情報でした。結果から言うと、これは間違いであり、ほぼ同じ発音をする『Xừng』の書き間違いでした。僕はさっそくSừngの漢字・チュノム表記を調べましたが、その表記は漢字では『角』、チュノムでは『䈊』、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162049参照)』、、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162050参照)』であり、カードに描かれた文字とは似ても似つきません。
 その後、別の人から『Xừng』と書かれている資料をもらい、その表記を調べると、漢字にはXừngに対応する文字はありませんでしたが、チュノムにはありました。それが『表示不可(hyouhttps://jigen.net/kanji/133567参照)』です。これも一見、カードに描かれた文字とはだいぶ違うように見えますが、上で述べたようにチュノムは、中国の漢字では表す事の出来ないベトナム語の発音を表記するために、別々の漢字を組み合わせて一つの文字としているので、このチュノムの構成要素は、『称』と『升』という二つの漢字になります。(出典: Chu Nom.org https://www.chunom.org/pages/209BF/#209BF)
 そして、この中の『升』が、かなり崩されてはいるものの、問題のカードの文字と一致しているように見えます。これでようやく点と点が繋がりました。なお、漢越辞書によると、『升』という漢字を単にクォックグー表記した場合は『Xừng』ではなく『Thăng』になるようですが、日本人なら知っているように、漢字というものはその時代や地域によって様々な読み方をされる物であり、この場合も升という漢字がXừngと読まれていたのではないかと推測しています。この推測に則り、この記事ではCửu Xừng』を『升の九』と書いています。(もし違っていたらごめんなさい)

 ところで、お気付きかも知れませんが、これらのトートンのカードに描かれている人間のイラストは、19世紀の日本人の姿だったりします。その由来はWikipediaによると、フランス植民地時代にマルセイユの玩具メーカー カモワン社(Camoin)が、自社がベトナム向けに生産していたトートンに、日本から輸入された木版画・浮世絵に描かれた日本の庶民の姿をプリントしたのが始まりだそうです。そしてそのカモワン社製トートンがベトナムで広く流通したことで、それらのイラストはトートンの絵柄として定着し、100年以上経った現在でも変わらずに使われ続けているそうです。
 では、なぜカモワン社はベトナム人向けのカードゲームに日本の木版画のイラストを採用したのかと言いますと、具体的には説明されていません。しかしおそらくは、当時フランスでは日本から輸入された木版画・浮世絵などの『エキゾチック』な芸術作品が人気を博し、ジャポニスム(Japonisme)』と呼ばれる流行が発生したため、デザイン業界でも浮世絵に描かれた『オリエント』なモチーフを取り入れられた事がその一因であろうと推察できます。また、当時ほとんどの西洋人はベトナムも日本も中国も一括りにアジア、オリエントと見做しており、それぞれの文化の違いなど気にしなかったため、両国の文化は混同され、ベトナム向けのカードゲームに浮世絵のイラストが採用されたのだろうと僕は思っています。

 余談ですが、『オリエンタリズム(Orientalisme)』という言葉に代表される、このような当時のフランス人(およびほとんどの西洋人)が持っていた『想像上の』アジアへの憧憬、そして偏見は、つい半世紀前まで続いていた欧米諸国によるアジアへの植民地支配、帝国主義と深く結びついた概念でもありました。
 ただし、異国の文化についての誤解は、なにも西洋人に限った話ではなく、日本人もヨーロッパ諸国それぞれの国の文化の違いを正しく理解している者は少ないでしょうし、もっと言えば日本の周りの国ですら、いまだにあまりよく分かっていません。過去には、自国中心の偏見に満ちたアジア観を基に周辺国への領土拡大と統治を行い、大変な反発と遺恨を生じさせた事実は日本人なら誰もが知っておくべき事柄です。また現在でも、例えば日本のテレビ番組ではしばしば海外で日本の文化がいかに誤解されているかを取り上げていますが、では日本にある外国料理は?日本人が話す外来語やカタカナ英語は本来の意味で使われているのか?と思い返してみれば、他人の事は言えないですよね。
 さらに言えば、マスメディアやインターネットでは、タイと台湾は当然のように(反日の対義語として)『親日国』として語られますが、では実際、所謂『反日国』や、それ以外の国々とどれほど違うかと言いますと、実はそんなに変わらないと僕は思っています。第二次大戦において日本と戦ったアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア・フランスはもちろん、日本軍の恫喝によって軍政下に置かれたタイや、長く中国国民党政権が続いた台湾でも、大戦中の日本軍を好意的に見ている人はほとんど居ないです。一方、戦後日本が育んだ食事や音楽などの文化、工業・医療製品については、世界の大半の国々、そして日本で反日』と呼ばれる中国や韓国でも大人気であり、特に中国の小金持ちはこぞって日本に観光に訪れ、帰国後日本に行ったと自慢する事が一種のステータスとなっている感すらあります。
 数年前、あるニュース番組で、中国で発行されている『知日』という情報誌が紹介されていました。その雑誌を編集している僕と同じ世代、1980年代生まれの中国人編集者たちはインタビューの中で、「私たちはこの雑誌で、読者に日本を好きになってもらおうとは思ってはいません。ただ、彼らを好くにせよ嫌うにせよ、まずは相手の本当の姿を知る事が、我々自身にとっても大切な事なのです」という趣旨の言葉を語っていました。その通りだと思います。日本に訪れる中国人観光客が皆こういった意識を持っているとは思っていませんが、少なくとも中国国内にはこういう理知的な人々が居り、彼らの雑誌が人気を博してる事実は、両国の未来にとって歓迎すべきことだと思います。
 なお、知日は日本でも買えるようですが、ちょっと良い値段しますし、どうせ中国語読めないのでまだ呼んだ事は無いです。もし日本語訳版を作ってくれたら、是非読んでみたいですね。

こちらで販売中

今日は我ながら、いろんな方向に話が飛んでいくブログでした。
  


2018年06月02日

レンジャー大隊識別色

 前回、1971年以降にレンジャー部隊で使用された軍団色付きタブについて書きましたが、それ以前に使用されていた色付きタブについてもかなり踏み込んだ情報をベテラン兼研究者の方々から得られました。

(元レンジャー部隊付きアドバイザーの米陸軍大尉Dennis Kim氏の回答, 2018年5月16日)
1962年から1970年まで、レンジャー部隊は6個レンジャー群、計20個のレンジャー大隊で構成されており、それらは全国4つの戦略区に分かれて配置されていた。この時期、軍団を示すタブは用いられていなかったが、大隊を示す色付きタブが左肩に縫い付けられていた。タブには手書きで中隊番号が記入され、色によって各レンジャー群(LĐ BĐQ)内の大隊を以下のように示していた:
1st RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 21st Bn., Blue 37th Bn., Yellow 39th Bn. 
2nd RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 11th Bn., Blue 22nd Bn., Yellow 23rd Bn. 
3rd RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 31st Bn., Blue 36th Bn., Yellow 52nd Bn. 
4th RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 32nd Bn., Blue 41st Bn., Yellow 42nd Bn. Purple 43rd Bn., Maroon 44th Bn. 
5th RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 30th Bn., Blue 33rd Bn., Yellow 38th Bn. 
6th RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 34th Bn., Black 35th Bn., Yellow 51st Bn. 

これを要約すると、色分けは基本的には群本部(BCH/LĐ BĐQ)が緑、次いでそのレンジャー群内で番号の若い大隊(TĐ BĐQ)順に赤・青・黄であった事になります。
ただし第4レンジャー群は他の群よりも大隊の数が多かったため、通常の4色に加えて第43レンジャー大隊が紫、第44レンジャー大隊がマルーンとなっています。また理由は不明ですが、第6レンジャー群内の第35レンジャー大隊だけは青ではなく黒とされています。
またこの色分けは左肩上*またはレンジャー部隊章の上のタブだけでなく、右胸のネームテープでも同様だったようでうす。

※作戦服にエポレットがある場合はエポレットに通すスリーブ状のタブになりますが、エポレットが無い場合は単に四角形の布を直接縫い付ける方式でした。

これら大隊識別色タブ・ネームテープの使用状況は全部隊で統一されていたわけでく、当時の写真からはいくつかのパターンが見られるので、以下に使用例を示していきます。

ネームテープ
この写真は第4レンジャー群とされているので、赤いネームテープから第32レンジャー大隊だと分かります。

▲ネームテープ
上と同時期の第4レンジャー群の写真ですが、紫色のネームテープなのでこの写真は第43レンジャー大隊だと分かります。

▲レンジャー部隊章上のタブ
右手前の人物は赤色、中央は紫色のタブを縫い付けている。
紫色が用いられた大隊は一つだけなので、写真中央の人物は第4レンジャー群第43レンジャー大隊と特定できます。また右の人物は同じ第4レンジャー群の第32レンジャー大隊の可能性が高いと考えられます。
1971年以降の軍団タブと紛らわしいですが、大隊タブには軍団タブのように群や大隊番号は入りません。

レンジャー部隊章上のタブとネームテープ併用
この写真は1971年のラムソン719作戦中に撮影されたものであり、ラムソン719に投入されたレンジャー群は第1レンジャー群のみなので、この部隊は第1レンジャー群第37レンジャー大隊だと考えられます。

エポレットの無い服の左肩上タブとネームテープ併用
第1レンジャー群第21レンジャー大隊
エポレットがない為タブが肩の上側に直接縫い付けられています。

エポレットのある服の左肩上タブとネームテープ併用
エポレットがあるため、タブはスリーブ状になっています。
この写真は1971年のラムソン719作戦中に撮影されたものであり、ラムソン719に投入されたレンジャー群は第1レンジャー群のみなので、この部隊は第1レンジャー群第39レンジャー大隊だと考えられます。



ネッカチーフについて

なお、前線で使用されるネッカチーフは大隊ではなく、各大隊内の中隊を示していたそうです。しかしその色については単色以外にも二色や三色もあり、その色の組み合わせにはいくつものパターンがあるので、これらが全での大隊で統一されていた配色かは疑問であり、恐らくは各大隊が独自に決めていたものと思われます。

▲赤青二色のネッカチーフ(第4レンジャー群第42レンジャー大隊)
  


2018年05月26日

70年代のレンジャーと軍団タブについて

 以前『部隊識別色』の中で、ベトナム陸軍レンジャー部隊が1970年代に使用していた軍団識別色タブについて書きましたが、その後当時レンジャー部隊にアドバイザーとして派遣されていた元米軍将校や、元レンジャー隊員の方々に意見をうかがったところ、新たに有力な情報をお寄せ頂けましたので、前記事の訂正を兼ねて1970年代のレンジャー部隊と、その軍団タブについて解説させて頂きます。


1970年代のレンジャー部隊略史

 ベトナム陸軍レンジャー部隊(BĐQ)は1960年代末まで、全国4つの軍団指令部直属の機動軽歩兵部隊として6個レンジャー群、計20個大隊で構成されていた。
 アメリカ軍の撤退にともない1970年にCIDG計画が終了すると、それまでベトナム陸軍特殊部隊(LLĐB)に所属していた数十の国境特殊部隊キャンプ駐屯CIDG部隊(CSF)は全てBĐQに移管され、CSF1970年8月から1971年1月にかけて順次、国境レンジャー大隊(BĐQ-BP)へと改編された(過去記事CIDG計画の組織』参照)。国境レンジャー大隊は全国で計37個大隊編成され、BĐQの兵力は約2.5倍に増加した。国境レンジャー大隊は既存のレンジャー大隊と同様に、各キャンプの所在地を管轄する各軍団のレンジャー本部の指揮下に置かれたが、この時点ではそれらを統括するレンジャー群は編成されず、国境レンジャー大隊は軍団レンジャー本部の直接指揮下にあった。
 同じころ、それまで第3軍団レンジャー司令部の指揮下にあった第5・第6レンジャー群が第3軍団を離れ、総参謀部直属の即応部隊として全国に派遣される『統合予備部隊(TTB)』に1970年中に編入された。
 その後1973年中盤になり、BĐQに対して最後の大規模な再編成が行われた。
1. 第1~第3軍団レンジャー内に各国境レンジャー大隊を統括する9個のレンジャー群(7, 11, 14, 15, 21, 22, 24, 25, 33レンジャー群)を新設し、全ての国境レンジャー大隊がその指揮下に入る。
2. 第4軍団レンジャー本部を解体し、その指揮下にあった第4レンジャー群は統合予備部隊に、国境レンジャー大隊は第1~第3軍団内の各レンジャー群に編入。
3. 第1, 2, 3, 5レンジャー群の名称を、第12, 23, 31, 32レンジャー群へと改称。(この時点で第5レンジャー群は統合予備部隊から第3軍団へ復帰していた)
4. 第6レンジャー群に加え、第4軍団から異動した第4レンジャー群、および新設された第7レンジャー群統合予備部隊とする。
 加えて1974年10月、パリ協定による捕虜返還およびBĐQの戦力増強の為、捕虜収容所を運営していた第9および第14憲兵大隊が解体され、同大隊の人員はBĐQに編入され、第3軍団内に第8レンジャー群として再編成される。1975年1月には、同じく第7および第8憲兵大隊が解体され、第3軍団内に第9レンジャー群として再編成される。
 その後も戦況は悪化の一途を辿った事から、BĐQは1975年3月末から4月上旬にかけて残存部隊の再編成を行い、統合予備部隊として第101および第106レンジャー師団の2師団を創設した。この2師団は首都防衛の任に充てられ、4月30日のサイゴン陥落まで最後の抵抗を続けた。


軍団・部隊番号タブ

 1971年末、BĐQは全部隊で、黒豹マークの部隊章の上側に取り付ける軍団・部隊番号タブを採用した。このタブは所属する各軍団(および統合予備部隊)を5色の色で示し、その中に部隊番号または部署・役職を示す略称が入る。

左袖のレンジャー部隊章の上に縫い付けられている数字の入った長方形の布が軍団識別色タブ
写真は第3軍団第33レンジャー群第83国境レンジャー大隊, 1973-1975年

▲軍団識別色とその軍団内のレンジャー群一覧
第1軍団: 緑、第2軍団: 赤、第3軍団: マルーン、第4軍団: 黄、統合予備:青。()内はそのタブが使用たと考えられる年代。
略語はBĐQ / QĐ:軍団レンジャー、LĐ BĐQ:レンジャー群、BĐQ / TTB:統合予備レンジャー
なお軍団ではないが、ドゥックミ・レンジャー訓練センター(TTHL BĐQ Dục Mỹ)にも赤色のタブが制定された模様。

部隊番号または部署の表記例
本部付の部署・役職の略称としてはHCCV(管理担当), CHCV(指揮担当), YTCV(支援担当), CT(作戦), TT(通信), QY(衛生), CCX(対戦車)などが見られる。


おまけ:第101レンジャー師団


 BĐQ初の師団として1975年4月上旬に編成されたものの、それからわずか1ヶ月足らずで終戦を迎えた幻のレンジャー部隊の一つ、第101レンジャー師団(Sư Đoàn 101 Biệt Động Quân)とされる写真を最近初めて見ました。同時期には同じく第106レンジャー師団も編成されているのですが、存在した期間が短かった事と、敗戦間際の混乱した時期であった事から、この2師団についてはまだ不明な点が多いです。
 第101レンジャー師団については、第3軍団に所属していた第31, 32, 33レンジャー群を統合したものという記述がDÒNG SÔNG CŨにありましたが、それ以外の事はまだ分かりません。第106レンジャー師団に至っては、写真も、元となった部隊が何なのかさえも情報が見つかりません。101師団の例に倣えば、106師団は統合予備部隊であった第4, 6, 7レンジャー群が統合されたのではないかとも推測出来ますが、確かな事はまだ何も言えませんねぇ。
 一方、最初に書いた、本記事の情報源となった米越軍のベテラン兼研究者の方々は今、レンジャー部隊に関する最新の研究成果をまとめたものを何らかの形で発表すべく作業を進めているそうなので、これまで知られていなかった情報や、あるいは誤って広まってしまった不正確な情報を正しく総括してくれることを期待して止みません。
  


2018年05月15日

タイガーストライプの始まり Part 3

 僕はこれまでベトナム海兵隊がザーコップ(タイガーストライプ)迷彩服を使用し始めた時期について、タイガーストライプの始まり続・タイガーストライプの始まりの二つの記事で以下の見解を述べてきました。

ザーコップ迷彩服が採用されたのは1960年
ザーコップ迷彩服が50年代中に支給されていたと断定できる写真はまだ発見されていない

ところが先日、その認識を覆す写真が見つかりました。

(写真: Rừng Cấm / Facebook)

元ベトナム海兵隊ズン・カム中士が公開している自身のプライベート写真の中の一枚なのですが、この写真についてカム中士は以下のようにコメントしています。(2016年11月26日書き込み)

"Người đứng đầu tiên là Đồ Sơn đó, vào khoảng thời gian 1958 "
(手前の人物はドゥ・スン・ドー、1958年頃)

 プライベート写真なので本人の記憶以外に撮影日時を裏付けるものは無いのですが、当時この部隊に所属していた人物の証言なので、その信憑性は高いかと思います。
 確かにTIGER PATTERNS (1999)に掲載されているように、ザーコップ迷彩服は最も早いもので1957年製造のスタンプが確認されているので、1958年の時点で現場に支給されていても、何らおかしくはありません。
 また僕が「ザーコップ採用は1960年」の根拠としたチャン・バン・ヒェン元中佐の証言も、それまで試験的に支給が行われていたザーコップ迷彩服が正式に採用されたのが1960年だったというだけで、実際の使用開始時期が1960年だった訳ではないとも解釈できます。
 という訳で今回の発見により、ザーコップ迷彩服は遅くとも1958年頃には(部隊ごとに支給状況は異なるでしょうが、少なくとも一部では)既にまとまった数が使用されていた可能性が高いという認識へと訂正させて頂きます。

前記事では60年代初頭の可能性もあるとしたこれら旧型パッチ(1955-1960)付きの写真も、50年代中にザーコップの支給が始まっていたことを考えれば、50年代末の撮影と見るのが自然かも知れません。



おまけ:テコンドー章

新たな発見という意味では、こちらの徽章の存在も、最近ベテランから教わって初めて知りました。

元ベトナム陸軍特殊部隊将校のフォー・コック・ユン氏によると、こちらの徽章はベトナム共和国軍のテコンドー資格章(Bằng Taekwondo)であり、なかでも左の人物が付けている大きな白っぽい図柄の上に二つの点(星?)がある物は『黒帯二段テコンドー章』だそうです。
右の空軍兵士の写真は「なんか見覚えあるな」と思って自分のHDDの中から探し当てた物なので特に説明はありませんが、上側に点はありません。初段かな?とも思いましたが、初段の次は二段なんだから、初段は点1個じゃないと変じゃないか?という疑問も湧いてきます。
なお、1960年代以降、ベトナム共和国軍は軍の徒手格闘訓練にテコンドーを全面的に採用しており、将兵のほぼ全員が一度はテコンドーを経験したはずですが、僕も今まで把握していなかったくらいこのテコンドー章の使用例は少ないので、おそらくこれらのテコンドー章は黒帯(初段)以上の者だけに与えられたのだろうと推測しています。
いずれにせよまだ詳細な画像すら見た事の無い謎の多い徽章なので、これから調べていきたいと思います。



地方軍カントー訓練基地における徒手格闘訓練(1967年5月6日)
※動画のキャプションには『空手』と書いてありますが、韓国人インストラクターが教えているとも書いてあるので、正しくはテコンドーでしょう。



ドン・バ・シン特殊部隊訓練センター内のテコンドー道場 (1970年6月23日)

この時代、テコンドーはまだ日本式の道着を使っていたから、普通に国内で売ってる道着を買えば、テコンドー訓練ごっこが出来るんです。たしか高校の体育で使ってたやつをまだ持ってるはずなんだけど、どこ行っちゃったんだろう・・・?
  


2018年05月14日

5月の撮影会

その1
1971年2月 ベトナム・クアンチ省ケサン
ベトナム陸軍第1歩兵師団第1偵察中隊







こちらは ラムソン719作戦に際しケサン基地から出撃する第1偵察中隊の実際の映像
[映像: ABC News Archive]

今回僕が着た服。ヒューストン製ERDL迷彩TCUをベトナム軍2ポケ風に改造したものに自家製第1偵察中隊パッチを取り付け。


その2
1952年5月ベトナム・フクトゥイ省シェンモク
フランス植民地軍およびベトナム陸軍降下兵




噂のM113に初搭乗!

撮影会を行った会場に偶然、今話題の手作りM113が来ていました。
しかも所有者様のご厚意で、我々を上に載せて走って頂けることに。ありがとうございます!
うっひゃ―!!!楽しい―!!!カッコイイ―!!!

   


2018年05月10日

お披露目

まだ十分とは言えないですが、以前から集めていた50年代前半のフランス連合軍空挺装備がだいぶ形になってきました。

ジャケット:セスラー製 米陸軍カモフラージュHBTジャケット
パンツ:リアルマッコイズ製 英軍ウィンドプルーフ迷彩仕様のP44風なパンツ
ヘルメット:自衛隊?っぽいボロボロの放出品を米軍40年代後半製M1ヘルメットっぽくレストア
ブーツ:メーカー不明品にゴムを貼って仏軍ブッシュシューズ風に改造
銃:デニックス製M1A1カービン

サスペンダー:実物TAP50(53?)サスペンダー
ベルト:ポルトガル軍ベルト改造TAP50ベルト
ポーチ類・銃剣:米軍実物

第一次インドシナ戦争期に使われていた空挺部隊(TAP)用ピストルベルトとしては『TAP50』と、その改良型である『TAP50/53』の二種類が知られています。そのうち50/53ベルトは日本でも実物が安く売られいて入手も容易ですが、このベルトが前線で使われ始めたのは終戦間際の1954年からなので、第一次インドシナ戦争に限って言えば、使用された期間はかなり短いです。一方、初期型のTAP50ベルトは1951年の配備開始以来、空挺部隊のみならずフランス連合軍のほとんどの地上部隊で広く使われていた当時のフランス個人装備を代表するベルトなのですが、残念ながら現在は入手困難かつ非常に高価なアイテムとなっています。また僕の知る限りレプリカも存在しません。
このようにTAP50ベルトはフランス連合装備の必需品であるのと同時に最大のネックでもあり、その再現は半ば諦めていました。しかし今回そのTAP50をどうにか再現すべく、フランス軍趣味の先輩に、バックルの形状がよく似たポルトガル軍のピストルベルトをベースにTAP50風に改造して頂く事が出来ました。こうして出来上がった素晴らしい出来の代用品お陰で、ようやく装備が一式形になりました。本当にありがとうございます。




おまけ:ベトナム国軍ドッグタグ

1952年(おそらく入隊年)と打刻されたベトナム国軍のベトナム人兵士の認識票です。
板自体はフランス植民地軍のものと同一ですが、ベトナム国軍らしく内容はベトナム語で記載されており、MAUは血液型(Máu)、SQは軍籍番号(Số Quân)を意味しています。金属板は少し湾曲しており、両面に同じ内容(板を割った状態でそれぞれの両面に全ての情報が載るよう上下入れ替えて)打刻されています。

凸面。文字数の制限から氏名Ngo Ba NinhのBaはB一文字に省略されています。

凹面。割板の下側は戦死した場合に遺体から回収される物なので、輸血用の血液型情報は不要なため記載されていません。

  


2018年05月08日

ディエンビエンフー陥落から64年

 5月7日は第一次インドシナ戦争(1946-1954)の雌雄を決した『ディエンビエンフーの戦い』が終結した日という事で、今回は日本ではほとんど正しく理解されていない第一次インドシナ戦争の構造とディエンビエンフーの戦いに散ったベトナム軍空挺部隊についてご紹介します。



第一次インドシナ戦争の背景と構造

 16世紀以降、他のヨーロッパ諸国と同様に海外領土の獲得に邁進したフランスは、世界各地で侵略と戦争を繰り返しながら支配地域を拡大し、19世紀にはイギリスの『大英帝国』と双璧を成す、『フランス植民地帝国』と呼ばれる勢力圏を構築するに至ります。その最終段階でフランスは1860年代から東南アジアに進出し、ベトナム(大南国)、ラオス(ヴィエンチャン王国・ルアンパバーン王国・チャンパーサック王国)、カンボジア(カンボジア王国)を相次いで征服して1893年にフランス領インドシとして統合します。
 しかしその50年後、第2次世界大戦によってフランス本土が荒廃した事で、終戦後フランス政府は本土の復興を最優先せざるを得ず、それまでのように植民地に膨大な資金と人員を投入して完全なコントロール下に置くような政策は実行不可能になっていました。そこでフランス政府は、1945年にベトナムで発生した八月革命ような独立運動の発生を抑制し、支配体制を維持し続けるために、世界各地のフランス植民地に対して一定の地位と独立性を認め、それと引き換えにフランスの勢力内に留まらせる新たな枠組みを1946年から開始します。それがフランス共和国およびその植民地・保護領で構成された共同体『フランス連合(Union française)』です。
 時を同じく、第二次大戦終結後再びインドシナを占領したフランスの打倒を目指すベトミンは、フランス植民地政府およびフランス軍への攻撃を激化させており、後に第一インドシナ戦争と呼ばれる武力闘争を拡大していました。そこでフランスは1948年に、仏領化以前から続く阮朝大南国の第13代皇帝バオダイ(Bảo Đại)を国家元首とする新たなベトナム人国家『ベトナム国(Quốc gia Việt Nam)』を擁立し、フランス連合の枠内で独立国としての地位を認める事で反仏闘争の鎮静化を図ります。同様に、ベトナムと共にインドシナ連邦を構成していたラオスとカンボジアも、それぞれラオス王国・クメール王国として独立し、フランス連合の構成国となります。
 しかしこの『独立』はフランスの勢力下である事を前提に、ある程度の自治を認める保護国としての地位を与えたに過ぎず、ベトミンはベトナム国政府をフランスの傀儡政権と見做し、ソビエト連邦および中国共産党からの軍事支援を受けながらフランス連合軍の駆逐、およびベトナム国政府の転覆を目指して共産主義政権を樹立するためのテロ・戦争を強行していきます。
 一方、ベトナム国やラオス、カンボジアの諸政府は、経済的にも軍事的にも国家としての発展が大きく遅れている現状では、当面はフランスの勢力下に甘んじるとしても段階的な独立の道を模索する他ありませんでした。また国民の間でも、最終的には独立が悲願であるものの、一方でベトミンによる同族へのテロを目の当たりにした事でホーチミンの共産主義政権は絶対に阻止しなくてはならないという考えは次第に広がり、フランス連合の方針に同意する国民の後押しもあってベトナム国はフランス連合の一員としてベトミン掃討に大きな役割を担っていきます。


フランス軍の7割がインドシナ人兵士

 このように第一次インドシナ戦争とはフランス連合諸国とベトミンとの戦争であるため、この戦争における『フランス軍』という言葉は、必ずしもフランス共和国の国軍たるフランス軍(Forces armées françaises)だけを指すものではありません。第一次インドシナ戦争における『フランス軍』とはフランス連合軍、つまりインドシナ平定を目的に組織された極東フランス遠征軍団(CEFEO)』を意味しますが、このCEFEOはフランス軍(陸海空軍・植民地軍)に加えて、ベトナム国軍・ラオス国軍・カンボジア国軍というインドシナのフランス連合諸国軍で構成されていました。
 さらにフランス軍内の植民地軍にもインドシナ各地出身の兵士が多数所属していたため、CEFEO(いわゆる『フランス軍』)約半数がベトナム国軍であり、さらに人種的には約7割がインドシナ人(ベトナム人・ラオス人・カンボジア人・少数民族)でした。

[CEFEOの人種・国籍別兵力の推移]
195119521953
フランス人(白人)51,17550,73759,526
北アフリカ人(地中海人種)11,00022,89236,628
アフリカ人(黒人)2,00013,28119,342
外人部隊(多人種だが主に白人)11,13116,66416,586
インドシナ人(アジア人)35,00086,00060,000
フランス軍 合計110,306190,592194,263
    
ベトナム国軍70,000135,000200,000
ラオス国軍4,00010,00015,000
カンボジア国軍5,50011,00011,000
インドシナ諸国軍 合計79,500156,000226,000
    
極東フランス遠征軍団 合計189,806346,592420,263

[CEFEOの人種構成]

ベトナム第5空挺大隊

 ベトナム陸軍第5空挺大隊(仏略:5e BPVN / 越略:TÐ5 ND)は1953年9月1日、ハノイのブイ学校(チュー・バン・アン中学)にて発足した。人員はフランス植民地軍第3空挺植民地大隊(3e BPC)および第23空挺インドシナ人中隊(23e CIP)から異動した総勢1,080名の将兵からなり、23e CIPは5e BPVNの第4中隊へと改編された。これに伴い植民地軍3e BPCは1953年8月31日に解散*したが、同部隊を指揮していたフランス人指揮官は5e BPVNに異動し、引き続き部隊の指揮を執った。
(※3e BPCは1955年にフランス本土で再編成され、現在はフランス陸軍海兵隊第3海兵空挺歩兵連隊(3e RPIMa)へと改称されている。)

[5e BPVNの歴代フランス人大隊長]
1953年9月1日 - 1953年12月15日: ジャック・ブーヴリー大尉
1953年12月20日- 1954年5月: アンドレー・ブテラ少佐
1954年6月 - 1954年7月: トリー大尉
1954年7月: ルッソー大尉

 実戦で稼働するまでに装備の確保と兵士の訓練に時間を要した他のベトナム軍空挺大隊とは異なり、5e BPVNの人員は当初大半がフランス人であったことから、同大隊はすぐに戦闘に参加する事が出来た。
 1953年9月23日、フランス連合軍はケサット運河沿いの紅河デルタ地域のベトミン軍掃討を目的とする『ブォーシェ』作戦を開始した。作戦には計18個大隊が投入され、5e BPVNもその一つとして全兵力で参加した。この作戦で5e BPVNは死者21名、負傷者57名の損害を出したため、その後同部隊にはベトナム人兵士が補充され、ハノイ市内のバックマイ空港での戦闘に参加するためハノイへと引き返した。
 その後5e BPVNは他の二つのフランス軍空挺大隊と共に1953年9月27日から29日まで、ソン・ジン・ハオ地区、省道192号および17号線、アンヴェ村における『ブォーシェII』作戦に投入され、さらに1953年9月29日から11月4日まで『ブォーシェIII』、『ブォーシェIV』作戦に引き続き参加した。その間、隊の人員は随時訓練を終えたベトナム人兵士に置き換えられ、5e BPVNは本格的なベトナム国軍部隊へと発展していった。
 この後5e BPVNはディエンビエンフーへの出撃に備え、11月12に日までにハノイに帰還した。


ディエンビエンフー

 1953年11月23日、フランス連合軍はラオス国境に近いベトナム北西部の丘陵地帯ディエンビエンフーを制圧・要塞化するため、第二次世界大戦以降最大規模の空挺降下作戦『キャストール』作戦を開始した。ディエンビエンフーには4,560名を超える空挺部隊が降下し、ブテラ少佐率いる5e BPVNものその一員としてディエンビエンフーに降り立った。


キャストール作戦の成功を伝えるフランスのニュース映像
L'OPERATION CASTOR A DIEN BIEN PHU - Institut national de l'audiovisuel


ディエンビエンフーに降下した5e BPVNのベトナム人兵士
ECPAD - Opération «Castor» à Diên Biên Phu, 20 – 24 novembre 1953.


 フランス連合軍部隊はディエンビエンフー制圧に成功し、同地はその後数ヶ月で約13,000名の守備隊が防衛するフランス連合軍最強の要塞の一つへと変貌した。キャストール作戦が成功裏に終了した事で、5e BPVNは1954年1月25日、バックマイ空港防衛のため再びハノイに引き返した。
 しかしその1か月後、ディエンビエンフーに対するベトミン軍の大攻勢『ディエンビエンフーの戦い』が開始されると、5e BPVNは増援として1954年3月13日に再びディエンビエンフーに空挺降下した。以後2か月弱に渡る壮絶な戦闘の末、1954年5月7日にディエンビエンフーは陥落した。5e BPVNはその兵力のほとんどをディエンビエンフーに投入していたため、同地の陥落・降伏と同時に5e BPVNは解散した。


ソ連の宣伝カメラマン ローマン・カルメンが撮影した実際のディエンビエンフーの戦いにおけるベトミン軍

 この戦いで5e BPVNには多数の死傷者が発生し、生き残った者も全員、他のフランス連合軍部隊と共にベトミン軍に捕虜として捕えられた。5e BPVNを含むベトナム国軍兵士は、独立を阻んだ売国奴と見做され、ほとんどの将兵がホー・チ・ミン政権下の捕虜収容所で、過酷な環境と虐待によって死亡した。


[参考文献]
Võ Trung Tín, Nguyễn Hữu Viên, 『Binh Chủng Nhảy Dù 20 năm Chiến Sự』, Tac Gia Xuat Ban (2000)
Martin Windrow, 『The French Indochina War 1946-1954』, Osprey Publishing (1998)
Michael Martin, 『Angels In Red Hats: Paratroopers of the Second Indochina War』, Harmony House Pub Louisville (1995)
  


2018年05月03日

おフランスのおべべ

前回の続き

仏軍供与の戦闘服を一気に作りました。





カットがいろいろあって困っていたフロッグスキンは結局、米海兵隊のP44で描きました。同じくウィンドプルーフも仏軍によるジャケット改造型とかありますが、今回は一番数が多いであろうオリジナルの英軍プルオーバー式スモックにしておきました。
これで1948年から1975年までのベトナム陸軍空挺部隊の主だった戦闘服は一通り書き終えました。次は小火器と個人装備。



おまけ:国産リザード迷彩パンツ?

リザード迷彩の戦闘服はいつ頃まで現場で使われていたんだろう?と60年代の写真を調べていたところ、今まで把握していなかった謎のパンツの存在が浮かび上がってきました。

この人の着てる服、上着は普通のTAP47/52っぽいですが、パンツに付いているべきカーゴポケットがありません。という事はTAP47でもTTA47でもないという事になります。なんじゃこりゃ?生地は上着と同じフランス製に見えます。
(写真: Southeast Asia US Army Security Agency Veterans Association, 1963-1964年頃, サイゴン)

こちらのパンツにいたっては、カーゴポケットが無いどころか、あきらかに米軍およびベトナム国産作戦服と同じ「貼り付け式ポケット」を備えている事がわかります。こんなパンツがあったんだ~!こちらも生地は上着と同じに見えるので、フランス製の生地から縫製したと考えられます。
(写真: 1963年11月, サイゴン)

しかしこれらのパンツ、個人がテーラーで作らせたにしてはデザインが地味過ぎると思います。フランスが置いていったTAP47は1960年代には在庫が枯渇しており、将兵の間でプレミア価格で取引される人気の服のはずなのに、そのオリジナルの生地を使ってわざわざ地味な国産型を作る意味が分からない。となると、このパンツは個人オーダーではなく、国産型の裁断が採用された1960年以降に工場で正規に生産された物である可能性もあります。リザード迷彩を含むフランスから供与された被服は全てフランスで縫製された後、インドシナに輸送されたという認識だったのですが、縫製前の生地も送られていたのでしょうか・・・?
  


2018年04月28日

イラスト進捗

とりあえず、空挺とレンジャーの迷彩服は1962~1975年までほぼ完了。海兵隊はまだ。


僕は常々「あの戦争を理解するためには、1940年代から1975年までの歴史を通しで捉える必要がある。」
と考えているので、そうなると軍装ガイドも1946年から始めたくなってしまいます。
当初は1960年以降に絞る気だったけど、もうここまで来たら、思い残す事の無いよう全部やってしまおう。
まだまだ時間かかるぜこりゃ。

あと問題は、その時代のフロッグスキンのカットがバラバラ過ぎて、
どれを一般的なスタイルとして載せたらいいか判断しかねる事。

(フランス植民地軍空挺インドシナ人中隊のベトナム人落下傘兵 1950年代前半)

「何でもいい」は困るんだよ。
夕飯何がいい?って聞いてるお母さんの気分。


  


2018年04月18日

カオダイ教と日本[1]

 カオダイ教(Đạo Cao Đài)とは現在ベトナム国内に約500万人の信徒を抱え、過去には日本との深い関わりもあったベトナム最大の新宗教です。今回はそのカオダイ教徒たちが辿った歴史をご紹介します。


カオダイ教団と松下光廣

 カオダイ教はベトナムのタイニン省で1920年頃に誕生した。カオダイ教はその後の20年間でコーチシナ地方(Nam Kỳ: サイゴンを中心とするベトナム南部)全域に急速に広がり、信徒数は100万人を優に超えていた。この新宗教の急速な勢力拡大に当時インドシナを支配していた仏領インドシナ植民地政府やフランス人は危機感を抱き、またカオダイ教側もタイニン省にける宗教的自治を求めて次第に植民地政府と対立していった。
 またカオダイ教団はこの時期、ベトナムで起業した日本人実業家 松下光廣(1896-1982)との関係を深めていった。熊本県天草出身の松下は1912年、若干15歳の若さでベトナムに移住し、現地の日系企業で勤めた後、1922年に貿易会社『大南公司』をハノイで創業した。その後大南公司は現地のベトナム人・ベトナム華僑と良好な関係を築き、さらにイ、マレーシア、シンガポール、ビルマ等にも支店を持つ巨大商社へと成長していった
 また松下は成功した実業家であるのと同時に、長年に渡ってベトナムの独立運動を支援してきた人物でもあった。ベトナム民族主義運動の祖ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu, 1867-1940)と共にベトナム独立を志し、その活路を求めて日本に渡った阮朝の皇族クオン・デ(Cường Để, 1882-1950)は松下を盟友とし、松下はその財力を活かしてクオン・デが結成したベトナム復国同盟会(Việt Nam Phục quốc Đồng minh Hội)を資金面で支えていた。また松下は同じく抗仏運動を展開していたコーチシナの二大新宗教カオダイ教およびホアハオ教とも親しい関係を持っており、特にカオダイ教に対し非常に強い影響力を持っていた。
 そのため植民地政府は松下を危険視し、松下が日本に一時帰国していた1937年に欠席裁判によって『禁錮8年または国外追放』の有罪判決を下したため、松下はその後3年間ベトナムに戻る事が出来ず、東京やタイ王国を移動しながら大南公司の経営を続けた。

▲壮年期の松下光廣の肖像


日本軍進駐

 1939年、オダイ教教皇ファム・コン・タク(Phạm Công Tắc, 1890-1959)神からの啓示として、近く日本軍がベトナムに到来する事を予言し、カオダイ教団は来るべきフランスへの蜂起に備えてクオン・デのベトナム復国同盟会への支援を開始した
 同年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、インドシナを統治するフランスは1940年にドイツに敗北し、フランスの政権はドイツが擁立したヴィシー政府に取って代わられた。フランスが枢軸国陣営に組み入れられた事で、ドイツの同盟国日本は米英ソによる中国への軍事支援輸送路『援蒋ルート』の遮断および資源奪取のため、1940年に北部仏印に進駐。さらに翌年には南部にも展開を進めインドシナ全域を掌握した。教皇の予言通り日本が仏印進駐を開始した事で、カオダイ教徒は日本軍を好意的に迎えた。

▲カオダイ教教皇"護法"ファム・コン・タク

 後の1941年12月に日本が米英蘭との戦争に突入すると、緒戦相次いで勝利した日本軍は、連合国が支配していた東南アジア諸地域を次々と占領していった。『八紘一宇』を掲げる日本軍は、これら占領地で現地の独立運動指導者を取り込んで親日政権を擁立し、『西洋列強植民地支配からのアジア解放という戦争の大義名分を実行していった。ただしこれらの『解放』は、実際には列強が作り上げた植民地経済・資源の利権構造を日本が掌握し日本を中心とする経済ブロック『大東亜共栄圏』を構築るための戦略的政策であり、あくまで親日政権かつ日本の軍政下である事を前提とする事実上の保護国化であった。
 一方、ベトナムを含む仏領インドシナへの対応は他のアジア占領地とは異なった。日本軍は1940~1941年に行った一連の進駐によってインドシナ全域を掌握しており、日本が必要とする経済的・軍事的な利益が十分に確保できていた事から、日本政府はドイツ・フランスとの関係に配慮してインドシナ諸国の独立運動への支援は行わず、「治安維持」の名目で引き続きフランス植民地政府に統治を委ねた。以後4年間、インドシナは植民地政府と日本軍による二重支配を受ける事となり日本軍によってインドシナの支配が「公認」されたフランスのインドシナ総督ジャン・ドゥクー(Jean Decoux, 1884-1963)海軍大将は、独立勢力への締め付けをより一層強めた。

インドシナ総督ジャン・ドゥクーと日本陸軍の将校(1941年インドシナ)

 民衆の間では日本への失望と反感が高まり、戦前から抗仏闘争を行ってきたホー・チ・ミン率いるベトナム最大の民族主義組織ベトミン(ベトナム独立同盟会)は、日本を新たな侵略者と見做し、アメリカOSSなどによる軍事支援を受けながら日本軍へのゲリラ戦を展開していく。さらに1944年後半から1945年前半にかけてベトナム北部で発生した大規模な飢饉によって数十万から数百万人とも言われる大量の餓死者を出した事で、日本軍はより一層敵視された。
 一方、ベトミンのような大規模な武装集団を持たないクオン・デのベトナム復国同盟会は、植民地政府による取り締まりから逃れるため地下に潜伏せざるを得なかった。また植民地政府は1941年7月にタイニン省のカオダイ教団本部にフランス軍部隊を突入させ、教皇ファム・コン・タクをはじめとする5名のカオダイ教指導者を逮捕した。そして彼らカオダイ教幹部は1941年8月20日に南シナ海のコンソン島に流刑され、さらにその後仏領マダガスカルに移送された。
 このような状況の中で、1940年の日本軍進駐によってベトナムに帰還を果たした松下は、彼ら非ベトミン系独立活動家への資金援助と連絡場所として、サイゴンの華人街チョロンに「レストラン ARISTO」を開業した。しかしこの活動はベトナムの独立運動を許さない日本政府の方針に反していたため、政府は松下がクオン・デを扇動して革命を起す事を危惧し、松下が日本に一時帰国すると彼の旅券を停止し、ベトナムに戻る事を禁じた。その後しばらくして、松下は日本軍に対し「現地の政治問題には関与しない」という誓約書を提出するとともに、松下の理解者である陸軍幹部の保証を得て、ようやくベトナムに帰還する事が出来た。



次回「カオダイ軍創設と明号作戦」に続く


[参考文献]

平田豊弘 (2011) 「松下光廣と大南公司」, 『周縁の文化交渉学シリーズ4 『磁器流通と西海地域』』 p.115-122, 関西大学文化交渉学教育研究拠点, <https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/5888/1/12_hirata.pdf>2018年4月15日アクセス
Andrew R. Finlayson (2008) 「The Tay Ninh Provincial Reconnaissance Unit and Its Role in the Phoenix Program, 1969-70」, 『A Retrospective on Counterinsurgency Operations』, Central Intelligence Agency<https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/csi-studies/studies/vol51no2/a-retrospective-on-counterinsurgency-operations.html>2018年4月15日アクセス
Arnaud Brotons・Yannick Bruneton・Nathalie Kouamé(dir.) (2011) 『Etat, religion et répression en Asie: Chine, Corée, Japon, Vietnam- (XIII-XXI siècles)』 KARTHALA
Chizuru Namba (2012) 『Français et Japonais en Indochine (1940-1945): Colonisation, propagande et rivalité culturelle』 KARTHALA
Dr Sergei Blagov 「Armée De Caodai」, 『Caodaisme』<http://caodaisu.tn.free.fr/cultue/0,,703,00.html>2018年4月15日アクセス
Shawn McHale 「Cochinchina – a failed revolution?」, 『End of Empire - 100 days in 1945』, <http://www.endofempire.asia/0825-cochinchina-a-failed-revolution-3/>2018年4月15日アクセス
松下光廣翁の足跡を辿る会 (2012) 「記念講演会開催のご報告墓参」<http://matsushitamitsuhiro.kataranna.com/e3246.html>2018年4月15日アクセス
Institut Pierre Renouvin1 (2015) 「La collaboration franco-caodaïste au début de la guerre d’Indochine (1945-1948) : un « pacte avec le Diable » ?」, 『Bulletin de l'Institut Pierre Renouvin1』 2015/1 (N° 41) Université Paris 1, <https://www.cairn.info/revue-bulletin-de-l-institut-pierre-renouvin1-2015-1-page-75.htm>2018年4月15日アクセス
Mémoires d'Indochine (2013) 「HỒI KÝ TRẦN QUANG VINH – MÉMOIRES DE TRAN QUANG VINH [1946]」, <https://indomemoires.hypotheses.org/8301>2018年4月15日アクセス
ORDRE DE LA LIBÉRATION 「GEORGES THIERRY D'ARGENLIEU」, <http://www.ordredelaliberation.fr/fr/les-compagnons/946/georges-thierry-d-argenlieu>2018年4月15日アクセス




  


2018年04月16日

代用ブーツ

ブラックレザーコンバットブーツ

 ベトナム共和国軍のブーツと言えばオリーブやブラック色キャンバス生地のキャンバスブーツがよく知られていますが、実はオーソドックスなスタイルのブラックレザーコンバットブーツも1960年代を通じて大量に使われていました。ある元陸軍将校の話では、当時キャンバスブーツは兵卒に支給される安物の靴という認識だったと言い、実際当時の写真を見てみても、空挺・海兵隊等のエリート部隊の隊員や一般部隊の士官・下士官は、1960年代末まで主に米軍式のコンバットブーツを履いていた事が見て取れます。また一般部隊の兵卒でも、キャンバスブーツと併用してコンバットブーツを使用している例が多数確認できるので、コンバットブーツは部隊・階級に関係なく支給された1960年代のベトナム軍を代表するブーツだったと言えます。

1966年トゥアティエン省フエ


 なのでベトナム軍リエナクターだったら最低一足は持っておくべきマストアイテムなのですが、実は僕、今の今までコンバットブーツを持っていませんでした。だって60年代の米軍のコンバットブーツってもうレアアイテムになって久しく、そんな貴重なものを屋外で実用したくはありません。
 そこで、ほとんど同じ形で値段の安い代用品を長らく探していたところ、コレクターの先輩に、タイ軍のブーツが最適だと教えてもらいました。そしてその後2回ほどタイに行く機会があったので、そのタイ軍ブーツを探したのですが、2回ともちょうどいい物を見つける事は出来ませんでした。ぱっと見似たような物はいくらでもあるのですが、なんか所々イメージと違います。タイの友人に聞いたところ、ああいう古い形のブーツはもうタイ軍でも使ってないから、今となってはタイ国内でもレアなのだそうです。残念。
 しかし僕が帰国した後、友人から良い感じのブーツを見つけたと連絡が入りました。なんでも、今から11年前に解体されたタイ国防省関係の教育機関で支給されていたブーツらしいです。しかも幸運にも彼は仕事で日本に来る事になったので、わざわざそのブーツを持ってきてくれました。あっりがとー!


米軍のようなお尻の割れ目はありません

この靴底は今時探したってなかなか無いから嬉しいです。



トロピカルコンバットブーツ

 ブラックレザーコンバットブーツは1960年代末まで全軍で広く使用されていたと述べましたが、それ以降、60年代末から70年代にかけて急速に普及したのが米軍のトロピカルコンバットブーツ(通称ジャングルブーツ)です。これもブラックレザーと同様に、特にエリート部隊隊員や一般部隊の士官・下士官に愛用され、一般部隊兵卒にもキャンバスブーツと並行して支給されました。

1973年3月 サイゴン近郊
(Photo by Peter Bregg/Canadian Press)

 このトロピカルコンバットブーツのレプリカ(およびデザインを真似たもの)は多数のメーカーから販売されていますが、僕が今代用品として使っているのは一昔前に出回った『韓国製』と呼ばれる物です。民間メーカーがファッション用に作ったものなのか、韓国軍で使われていた物なのかはよく知りません。米軍のオリジナルと比べると、なんかキャンバスの色がやたら黄色っぽいのですが、トゥーや空気穴の形状は今売っているレプリカよりも良いと思います。また靴底がDMSソール(通称ビブラムソール)なので、使える年代が広いのもうれしいです。DMSソールトロピカルコンバットブーツ(通称3rdパターン)のレプリカは過去にエリカクラブ(現S&Graf)から発売されていましたが、今となっては入手困難ですね。

これもオリジナルとは異なり、お尻の割れ目はありません。






オリーブキャンバスブーツ(仏軍ブッシュシューズ)

 第一次インドシナ戦争中の1949年にフランス連合軍の一部として発足したベトナム陸軍は当時装備品の調達をフランス軍からの供与に依存しており、最初に陸軍の戦闘用ブーツとして普及したのがフランス軍のオリーブ色熱帯地域用キャンバスブーツ『ブッシュシューズ(Chaussures de brousse)』でした。当時インドシナに展開していたフランス軍人の間では、雨やぬかるみの多いベトナムでは革製のブーツよりもこのブッシュシューズが実用的で好まれたといいます。その後、1960年代に入りアメリカ軍による軍事援助が始まると、アメリカ軍はベトナム軍で使用されていた仏軍ブッシュシューズのコピー品を沖縄や日本本土などで生産させ、ベトナム軍に供与していきました。(詳しくは過去記事キャンバスブーツ』参照)
 ただし上で述べたように、1960年代初頭にアメリカによる軍事援助が拡大し、ベトナム軍に米軍コンバットブーツが普及すると、見た目の問題からかキャンバスブーツは将兵からの人気を失い、以後は主に一般部隊(レンジャー部隊含む)の兵卒や訓練兵、CIDG部隊に使用されるにとどまりました。とは言え、人数的にはそういった兵卒が軍の大部分を占めるので、キャンバスブーツは依然ベトナム軍の主要なブーツの一つである事に変わりはありませんでした。

キャンバスブーツを着用するレンジャー隊員
※ただし60年代後半にはレンジャー部隊ではコンバットブーツが一般的となる。


 このオリーブ色キャンバスブーツの代用品および改造については以前『短丈キャンバスブーツ』に少しの載せましたが、それとは別の代用品(改造ベース)を入手したので、これも載せておきます。仏軍ブッシュシューズのデザインはファッション業界で人気を博したため、今でもパラディウムを始めたくさんのメーカーがそのデザインをモチーフにした靴を販売していますが、残念ながらどのメーカーもことごとく、オリジナルの仏軍ブッシュシューズそのものは再現していません。なので現状では、どのメーカーの物を買おうとも改造が必要です。
 さて今回はMAG FORCEというメーカーの物らしいです。こういった中国製の安い靴は改造ベースにうってつけだったのですが、近年販売されている物は、本来内側にあるはずの踝保護用の丸いゴム板が、何故かコンバースの様に外側に取り付けられてしまっているのです。これは剥がそうと思えば剥がせない物ではありませんが、確実に跡が残るのであまりやりたくはありません。そのためコンバース風になる前の古いロットの物を探していたところ、新品をリサイクルショップで発見しました。まだ改造前なので、そのうち改造していきたいと思います。

オリジナルの仏軍ブッシュシューズが備える土踏まず保護のゴムは、どこのメーカーも再現してくれません

  


2018年04月12日

4月前半まとめ

今月に入ってから立て続けに色々な事があってブログ執筆が追いつかない状況なので、手短に書きます。


美作市ホーチミン像問題

 昨年11月に岡山県美作市が同市の作東文化芸術センターに『ホーチミン空間』なる展示スペースを設けた事で、世界中のベトナム難民団体から非難が殺到している事をお伝えしてきましたが、ついに日本在住ベトナム人協会および在ドイツ、在カナダのベトナム難民団体代表者で構成された代表団が4月6日、美作市を訪れました。
 代表団は現地で抗議活動を行うと共に、市役所で市長の萩原氏と面談し、展示の撤去を求める請願書を8,000名超えの署名と共に正式に提出しました。
 また、私も支援者の一人としてこの代表団に同行し、抗議および市長との面談に同席させて頂きました。詳細は私の別ブログ ベトナムウォッチに掲載してありますので、是非ご一読ください。

ベトナムウォッチ: 美作市ホーチミン像に世界のベトナム難民団体が抗議



テレサ先生ご一行の日本ツアー

 お花見のあと、オーストラリアから来日したテレサ・チャン・キウ・ゴック先生の講演会に参加しました。講演については後日ベトナムウォッチの方で記事にまとめる予定です。→記事アップしました。ベトナムウォッチテレサ・チャン弁護士来日』
 その講演が終わった後、日本のベトナム人コミュニティ有志がテレサ先生らを歓迎する打ち上げを居酒屋で開いたので、僕も付いていきました。するとその席で、テレサ先生から直接、日本を観光したいのでもし時間があるなら案内してくれないかとオファーを頂いてしまいました。こんな有名人に誘われたら断れる訳がありません。喜んで!
 という事で、テレサ先生とその旦那様、オーストラリアおよびドイツ在住のテレサ先生の支援者の計4名に二日間同行し、富士山周辺および日光にご案内差し上げました。

忍野八海にて。美しいお方です。

得意げに案内していたところ、忍野八海の駐車場で、あろうことか車のバッテリーあがりを起こしてしまいました(泣)
ロードサービスが来るまで1時間待ちぼうけ。ごめんなさい・・・

 オーストラリアでテレサ先生の活動を支援しているテレーズさんから、ベトナム国旗柄のマフラーを頂きました。実はテレーズさんは48年前の1970年に、ベトナム共和国政府職員として市ヶ谷の防衛庁に研修に来たいたのだそうです。その時お花見で見た桜満開の風景は今でも鮮明に覚えているそうで、今回48年ぶりに再び日本で桜を楽しめたことを大変喜んでおられました。
 ちなみに、この写真をFacebookに載せたところ、以前から知り合いだったベトナム系オーストラリア人のおじさんが、「ええー!知ってる?その人私のママだよ!」と、親子で僕と知り合っていた事が判明しました。世界は狭いですね・・・(笑)



座間でホームパーティー

 美作市から帰った翌日、神奈川県のキャンプ座間に住んでる知り合いの家でホームパーティーがあるというので、またホイホイ付いて行っちゃいました。パーティーに付くと、既に座間に住んでいるベトナム系アメリカ軍人とそのご家族が3家族来ていて、子供たちとジュマンジを見ていました。

奥様方の手作りベトナム料理、男衆の焼いたバーベキュー、コストコの春巻きをお腹いっぱい頂きました。

 なお、この家のご主人とはこれまでベトナム人協会のイベントで何度かお話ししただけで、アメリカ陸軍に所属しているベトナム系アメリカ人という事しか知らなかったのですが、今回お仕事について聞いてみたらビックリ。なんと中佐さんでした。えー!そんなに偉かったの~!?顔がかなり若い感じの人なので、僕より少し年上くらいだと思ってら、本当は40半ばでした。
 なんでも以前は第1歩兵師団、第1騎兵師団所属の通信科将校としてしアフガニスタンに出征し、歩兵および機甲部隊の通信を担当していたそうです。でも軍でやりたい仕事はやり尽くしたので、日本駐留が終わったら早期退役して民間に再就職すると言っていました。
 とは言え、やっぱり陸軍が好きなんでしょうね。子供たちが外に遊びに行くと、リビングのテレビで、アフガニスタンやイラクで活動する米軍の映像を流し、みんなに見せようとしていました。でもみんな喋くってて見やしないので、ミリタリーマニアの僕だけが反応。でもその人の本業の通信の話は僕が聞いてもチンプンカンプンなので、M4カービンとかM240マシンガンとか、そういう分かり易い武器の話だけ聞かせてもらいました。
 そして気をよくした彼は、頼んでもいないのに何故かファイーベース・グロリア(邦題「地獄の軍団スクワッド」)のDVDを上映。図らずも、米軍基地の中でアメリカ人とベトナム人が殺し合う映像を見ながらベトナム系アメリカ軍人と酒を交わすというシュールな体験をする事となりました。



  


2018年04月05日

お花見

 現在、ベトナム出身オーストラリア在住著名な弁護士・人権活動家テレサ・チャン・キウ・ゴック(Teresa Trần Kiều Ngọc)先生が初来日し、東京・姫路・大阪の三都市を周って日本在住ベトナム人コミュニティに向けた講演会が開催されています。
 その東京講演に合わせ、いつも懇意にして頂いている関東在住のベトナム人グループから、講演が始まる夕方まで日中お花見をするけど一緒にどうかとお誘い頂いたので、僕も参加させて頂きました。


僕の家に大きなブルーシートがあったので、当日は朝から、幹事と僕の二名で場所取り。11時過ぎるまでビルの陰で日光が当たらず寒かったです。


昼頃になってようやく皆さん集まり、お花見を楽しみました。お花見という事で、普段コミュニティ活動には参加されないお子さんや年配のご家族も一緒です。


各自持ち寄った手作りベトナム料理とかお菓子を食べながら宴会。初めて会う人もいるので順番に自己紹介して盛り上がる。僕と初めて会う人はほぼ100%、僕の事を日本生まれのベトナム人だと勘違いするので、ベトナムとは全く無縁の出自と知り、皆さん驚かれます。


夕方から講演会があるので、お酒はほどほどに(?)


そして16時ごろまでお花見を楽しんだのち、講演会参加者は会場のニコラ・バレ修道院に移動。講演会については後日詳しく記事にします。
  


2018年03月31日

部隊識別色

 この趣味をやっていると、度々、「南ベトナム軍が付けてる色付きネームテープやネッカチーフはどういう意味?」という質問を頂きます。マニアの間では、それらは一般に『大隊または中隊の識別色』と言われており、パレード用などいくつかの例外はあるものの、前線で使われているものに関しては僕も部隊識別色と考えていいと思っています。


 では、具体的にどの色がどの部隊を示していたかと言いますと・・・ほとんど分かっていません。師団や連隊までならそれなりに研究が進んでいますが、大隊・中隊といった末端の単位までは、さすがに資料が出てきません。なおかつ、その識別色に関しては、もしかしすると全軍で統一された規定によるものではなく、それぞれの部隊が独自に決めたものである可能性もあります。その場合、色と部隊の関係を知るには中隊単位まで所属がはっきりしている当時の写真を探して確認していく、もしくはその部隊に所属していた人に聞き取りするという手段で、全国に数千個存在した大隊・中隊を一つ一つ調べていく以外に術はありません。しかし、それはいくらなんでも不可能です。なので、特に人数の多い陸軍歩兵部隊や地方軍の識別色の全容解明は、今後も期待できないかも知れません。


ベトナム海兵隊のネームテープ

 しかしその一方で、数は少いですが、資料によって把握できている部隊もあります。まずはベトナム海兵隊。海兵隊では1960年代中盤以降、作戦服に付けるネームテープに大隊識別色が採用されましたが、陸軍や地方軍と比べるとはるかに規模が小さかったため、その識別色についてはほぼ解明されています。以下は大隊とネームテープの対応関係をまとめた図になります。


【識別色ネームテープの例】

 
(左)第2海兵大隊、(右)第1海兵砲兵大隊



空挺師団の大隊章

 また陸軍空挺師団では1960年代中盤以降、軍服の左肩エポレットに付ける大隊章の背景・台布が中隊ごとに色分けされていた事が知られています。空挺師団の各大隊は、中隊番号「0」の大隊本部中隊、「1」~「4」の歩兵中隊の計5個中隊で構成されており、大隊番号の末尾に中隊番号を加えたものが中隊名になります。そしてその0~4の各中隊に5色の識別色が割り振られており、0が緑、1が紫、2が青、3が黄(橙)、4が赤というパターンでほぼ統一されていました。例えば第11空挺大隊の本部中隊は「第110中隊」で、背景は「緑」になります。


 ただし理由は不明ですが、上の赤枠で囲っている大隊章だけはこの規則から外れています。まず、第3空挺大隊および第5空挺大隊では中隊ごとの色分けはされておらず、背景は全ての中隊(第30~34中隊および第50~54中隊)で青のみとなります。
 また更に不可解なのが第7空挺大隊の第71中隊でして、同大隊の他の中隊はすべて規則通りの配色になっているのにも関わらず、第71中隊だけは規則に倣った「紫」ではなく、例外的に「水色」で制定されています。

▲こちらの写真は戦時中、サイゴン市内の徽章屋が自社の空挺関連の徽章一覧を撮影したものですが、やはり第71中隊だけは水色であり、色の個体差等ではない事が分かります。(1964年制定の空挺部隊章があり、かつ1965年に編成される第9空挺大隊が入っていないので、撮影時期は64~65年頃だと思われます。)
同じ日に撮影されたと思われる別ショットの写真が見つかり、その中に1971年末に制定された徽章があったため、撮影時期はそれ以降である事が判明しました。[※2018年5月18日訂正]

▲左肩エポレットに取り付けられた中隊色付き大隊章。他部隊でもこの位置に識別色のスリーブを通す事はありますが、大隊章を取り付けるのは1960年代後半以降の空挺師団のみです。なお、この徽章の購入は任意だったようで、全体的には使用率は低かったようです。


レンジャー部隊の軍団タブ

[※2018年5月18日訂正]

 陸軍レンジャー部隊では、レンジャー部隊章の上にレンジャー群・大隊を示すタブが1970年頃1971年末採用されます。ベトナム共和国軍は第1~第4軍団という計4つの軍団および総参謀部直属の統合予備部隊で構成されており、レンジャー部隊はそれぞれの軍団本部直属の機動歩兵部隊であった事から、新たに制定された群・大隊タブでは、その色で所属している軍団(および統合予備部隊)を示していました。
しかし、この軍団ごとの色分けは制定から2年足らずの1972年ごろに廃止され、それ以降タブの色は軍団に関係なく全て「青」で統一される事となります。
※複数の研究者による検証・ベテランの証言などから、全ての軍団が青で統一されたとするRepublic of Vietnam Historical Societyの見解はどうやら誤りであったようです。

[2018年6月4日追記]
軍団タブについては新たに記事にしましたのでこちらをご覧ください。


▲レンジャー群・大隊タブの使用例。第33レンジャー群第83国境レンジャー大隊[※2018年5月6日追記]

レンジャー群・大隊タブと同じ場所に、同じような色付きのタブが付いている例が見られますが、これらは部隊を示す数字が入っておらず、色も軍団を示すものではありません。恐らくは各部隊が独自に作った、役職などを示すタブと思われます。群・大隊タブと非常に紛らわしいので要注意。


[2018年6月4日追記]
軍団タブ以前に使用されていた色付き大隊タブ・ネームテープについて新たに記事にしました。



僕が今現在把握している情報は以上になります。こういう地味な徽章に関してはまだまだ分からない事だらけなので、今後も地道に情報収集していこうと思います。



おまけ

突然ですが、色の話をしたのでラルクのVivid Colors。昨日車を運転しながら歌ってたら、またカラオケ行きたいモードに入ってきたので。

う~ん、最高。久しぶりに一人カラオケ行っちゃお~。うふふ。
  


2018年03月24日

49年前のペーパークラフトPBR

 先日、あるコレクターさんがフェイスブックに、1969年にベトナムで出版された子供向けのペーパークラフトの画像を投稿されました。戦時下なので、共産軍の投降を促すと同時に国内の結束をアピールする心理作戦"チューホイ計画(Chiêu Hồi)"の一環として作成されたもののようです。おそらく娯楽の乏しい農村地帯にこのチラシを飛行機からばら撒き、子供がそれを拾って遊ぶことで、子供たちにベトナム共和国政府への帰属意識を植え付ける事を意図していたと思われます。


僕はこれを見た瞬間、「こりゃ作らなきゃ!」と思ったので、さっそく画像をフォトショップで補正して、厚紙に印刷しました。
持ち主によるとオリジナルのリーフレットの寸法は12in×18inらしいので、それに合わせて実寸大で出力しました。


あとは童心に帰ってハサミでチョキチョキ、糊でペタペタするだけ。
そして完成したのがこちら!

船体の文字は"Đây là Trạm Chiêu Hồi (こちらチューホイ事務局)"。
子供向けなのでかなりいい加減なペーパークラフトですが、船首の2連装重機関銃や、後部重機関銃の防盾、ドーム型の通信アンテナなどPBRの特徴は押さえていますね。

こちらがモデルになったベトナム海軍のMkII PBR(米国製)


今回使ったデータはこちらで公開しています。そのままA4サイズで印刷してお使いください。



【おまけ】

実家の荷物から、懐かしい物が出てきました。たしか中3の最後の方で、美術の時間に卒業して離れ離れになる友達へのメッセージカードを作った際のものだと思います。なお、文の内容は恥ずかしくて見せられません。


当時どんなガキんちょだったかがうかがい知れますね。他にも美術の時間に、紙粘土や木工で「卑猥な物体」を本気でリアルに作って、それを教室の壁に設置していた記憶があります。
あと夏休みの宿題でロシアのSu-37戦闘機を描いてきたり、靖国神社の桜の前で軍刀持った日本陸軍士官の絵を描いてきて、しかもそれなりの画力で本気で描いてあっただけに、先生は対応に苦慮しておられました。
当時の絵はどこに行っちゃったのかな~?捨ててないはずなんだけど。