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2017年05月21日

5月の撮影会

埼玉県某所で二日間に渡ってプチ撮影会をしてきました~
写真は全てスマホで撮った物をPCのPhotoshopで加工したものです。
古写真風加工についてはこちらの記事をご覧ください。

1日目 ベトナム陸軍歩兵 (1960年代前半~中盤)





以下、当時の動画


ベトナム陸軍第7歩兵師団 "アプバクの戦い" (1963年1月 ディントゥオン省アプバク)


アメリカ陸軍によるベトナム共和国軍への支援活動 (1963年)

世界的にベトナム戦争ヒストリカルというと、大抵ハリウッド映画の真似をするために1960年代末の設定にされしまいますが、僕にはその年代に拘る理由が無いので、1946年から1975年までのベトナム政府軍をリエナクトメントの対象としています。(まだ50年代以前はあまり揃ってないけど)
映画の真似をしたいと思う事自体は否定しませんが、この趣味はあくまでフィクション作品ではなく現実の歴史を題材とするものですので、もっと広い視野で歴史再現に取り組む人が増えてくれたら良いなと思っています。



2日目 ベトナム国家警察野戦警察隊(1960年代末)



同じく当時の動画


テト攻勢"チョロン市街戦" (1968年2月 ジアディン省サイゴン)


チャイマット野戦警察訓練キャンプ (1970年2月 トゥエンドゥック省ダラット)


  


2017年05月01日

グレイタイガーの4月30日

※2017年5月3日加筆・修正

過去の記事

 昨日、このブログを始めて4回目の4月30日『サイゴン陥落』の日を迎えました。ベトナム本土では今年も相変わらず、ベトナム共産党(当時労働党)が800万人もの人命を犠牲にして強行した『解放』と『統一』の偉業が喧伝され、祝賀ムードが演出されています。
 一方、終戦後共産政権による弾圧と暴政から逃れ国外に脱出したベトナム難民とその子孫ら約300万人の在外ベトナム人たちは、この『国恨の日(Ngày Quốc Hận)と呼び、ベトナム全土がベトナム共産党というテロ組織の支配下に墜ちた悲劇の日として記憶されています。

 昨年12月、私は友人の紹介で、米国カリフォルニア州在住の元ベトナム難民、ファム・チャウ・タイ(Phạm Châu Tài)という人物にお会いしてきました。タイ氏グレイタイガー(Hổ Xám)』の異名で知られる元ベトナム陸軍特殊部隊少佐で、ベトナム戦争中MACV-SOGプロジェクト・デルタ、第81空挺コマンド群に所属し、常に最前線で共産軍と戦い続けた歴史の生き証人の一人です。今回はタイ氏が経験した4月30日の物語をお伝えします。

▲タイ少佐(左手前)、ホア少尉(左手奥)、ハウ監督(右手前)、私(右手奥) [2016年12月カリフォルニア州ウェストミンスター]

▲タイ氏が所属したNKT雷虎第1強襲戦闘団(MACV-SOG CCN) FOB2 チーム『オハイオ』 [1966-1967年頃 コントゥム]

▲LLĐBプロジェクト・デルタ時代のタイ大尉(当時 写真右から2番目) [1960年代末]

▲タイ大尉(当時)が指揮した第81空挺コマンド群第3強襲中隊 [1972年 アンロクの戦い]
戦車砲の防盾上に立つ人物がタイ大尉

 幾多もの激戦を渡り歩き、特に1972年の『アンロクの戦い』において、迫りくる共産軍機甲部隊に対し歩兵による対戦車戦闘を指揮して見事な勝利を掴んだタイ大尉は、同年少佐に昇進し、『グレイタイガー(灰虎)』の勇名は国中に知れ渡るところとなった。
 それから3年後の1975年、アメリカからの支援を失ったベトナム共和国軍は、依然中ソによる支援を受けながら南侵を続ける北ベトナム軍の勢いを止める事が出来ず、戦況は悪化の一途をだどっていた。3月には南ベトナム中部(第2軍管区)の失陥を許し、補給路が分断された事で北部の第1軍管区も孤立。さらに4月には、サイゴン防衛の要衝であるロンカン省スンロクが北ベトナム軍4個師団に包囲される。この『スンロクの戦い』において、レ・ミン・ダオ准将麾下の共和国軍第18歩兵師団および第81空挺コマンド群は4倍の兵力の敵に対し猛烈な反撃を行い北ベトナムの進攻を12日間遅らせる事に成功したものの、最終的に共和国軍は首都防衛の戦力を温存するためスンロクを放棄し、ビエンホア街道からサイゴンに撤退した。

▲1975年3月から4月にかけての北ベトナム軍の南侵 (クリックで拡大)
South Vietnam - The final days 1975, U.S.Army

 この逼迫した状況の中で、タイ少佐が指揮する第81空挺コマンド群第3戦術本部(Bộ Chỉ Huy Chiến Thuật Số 3)は4月26日、参謀総本部を含むタンソンニュット空港・空軍基地周囲の守備を命じらる。
 一方、ベトコン側のスパイとしてベトナム共和国空軍に潜入しており、4月8日にF-5戦闘機で総統府を爆撃したグエン・タン・チュンは、北ベトナムへの逃亡後すぐさま南侵部隊に合流しており、4月28日には北ベトナム軍によって占領されたファンラン基地からA-37攻撃機で再びサイゴンへ向けて飛び立ち、タンソンニット空港への爆撃を実行した。この時タイ少佐は、守備対象である空港が自軍の攻撃機によって爆撃されるのを地上から見ている事しか出来なかったた。
 同28日、1965年以来10年間に渡ってベトナム共和国軍参謀総長を務めていたカオ・バン・ビエン大将は、敗戦すれば家族もろとも共産軍から拷問を受けて処刑されると考え、正式な辞任を経ずに家族を連れて密かにサイゴンから脱出してしまった。また辞任したグエン・バン・チュー前総統に代わって4月21日に総統に就任したチャン・バン・フォンも、就任から1週間後のこの日、ベトコン側に停戦交渉を拒否されたため総統を辞任した。

▲ベトナム共和国軍参謀総本部庁舎 [ジアディン省タンビン区]

 翌4月29日、敵が目前まで迫る中、ビエン大将の失踪を受けて参謀総本部(BTTM)はビン・ロック中将を新たな参謀総長に選任した。そして同日午後、タイ少佐はサイゴン守備部隊指揮官の一人として、新体制となった参謀総本部での戦況会議に招集される。参謀総本部はタンソンニットから目と鼻の先であり、タイ少佐が完全武装した4名の護衛と共に会議室に入ると、彼は英雄が到着したとしてビン・ロック中将ら幹部に紹介された。この時、会議室内の雰囲気は非常に緊迫しており、数十人居る参謀将官・佐官たちの内、椅子に座っている者はほとんどいなかったと言う。
 参謀総長への挨拶を済ませると、タイ少佐はグエン・フー・コ(Nguyễn Hữu Có)中将ら幹部の将官らと今後の対応を協議した。この中でタイ少佐は、もはや敗戦は避けられない情勢である事を理解し、将軍たちにこう語った。

「我が隊は、明日の朝まではここ参謀総本部を守り抜くつもりです。明日の朝が限度です。もう答えは出ています」 

タイ少佐は顔をあげて将軍たちの顔を見渡した。これに対し、将は自信を持った口調で皆に向けて答えた。

「私はこの部屋にいる将官や士官たちに誓う。今夜、ここ参謀総本部にはアリ一匹、ハエ一匹通しはしない。当然ベトコンもだ。」

▲グエン・フー・コ中将
 グエン・フー・コ中将かつて軍事政権で国防長官を務めていたが、1967年に政権内部の政争に敗れ軍から追放されていた。しかし1975年になり戦況が悪化すると、停戦交渉の前提としてチュー政権関係者の排除を求めるベトコン側の要求に応じ、ベトナム政府は1975年4月28日にズオン・バン・ミン大将を総統に、グエン・フー・コ中将を軍部の顧問として政府に復帰させた。しかしそれでもベトコン側は交渉のテーブルに付く事はなかった。

 それからコ中将はタイ少佐に、何か手伝える事はあるかと尋ね、タイ少佐は以下の提案をした。

「私の隊の一部を閉鎖された陸軍工廠に撤退させて頂けませんか。あそこに立て籠れば戦力を補えます。」

しかしそれにはタイ少佐が受け持つ約1000名の部隊からその1/4の人員を裂く必要があり、首都防衛最後の拠点である参謀総本部の守備が薄くなる事を意味していた。コ中将はこの提案を受け、すぐに結論を出すため電話で緊急の会議を招集した。そこで参謀たちは守備兵力を裂くことに不安を滲ませたものの、タイ少佐の案は了承され、部隊は陸軍工廠への移動を開始した。しかし夜になると命令は変更され、陸軍工廠守備隊は再びタイ少佐の元へ引き返す事となる。

 4月29日の夜になると、タンソンニット周辺で多数の銃声が鳴り響いた。空挺コマンド部隊は複数の地点に分かれて散発的な銃撃戦を続けたが、その都度敵は少なからぬ損害を出し退却していった。この時点でタイ少佐の部隊の損害は軽微であり、兵士たちは高い士気を維持していたという。
 散発的な戦闘の後、一旦敵の攻撃が収まると、長い静かな夜が訪れた。兵士たちは狭い指揮所の中で身を寄せ合い、眠れぬ夜を過ごした。しかし部隊長のタイ少佐は、命令を出す必要がある時だけ起き上がり、それ以外の時間は横になって寝ていた。それは、この参謀総本部を守る戦いがこの一晩で終わるとは考えていなかったからであった。必要であれば、タイ少佐は南ベトナムを救う手立てが見つかるまで何日でもこの場所で戦い続けるつもりであった。

 そして運命の4月30日が始まった。夜明けと共に北ベトナム軍の機甲部隊は多方面からサイゴン市内への突入を開始した。タイ少佐は、ついに最後の時がやってきたと部下のホアン・クイ・フォンに伝え、兵士たちに無線で指示を送った。
 タイ少佐は、敵は必ず戦車を先頭にし、それに続いて歩兵部隊が前進する事を知っており、それを阻止するにまず先頭の戦車を足止めする必要があった。そのためタイ少佐は、敵が通行するであろうクアンチュン訓練センター付近で攻撃を行う事に決めた。クアンチュン訓練センターはタンソンニュットの北に位置し、その周囲は戦車を待ち伏せ攻撃するのに適した地形であった。また訓練センターには、対戦車戦闘の教育を受けた新兵たちが今も多数立てこもっていた。タイ少佐は彼ら新兵に無線で指示を送り、2両の戦車を撃破することに成功した。しかし他の戦車は歩兵を乗せたトラックを従えてサイゴン市街へと前進を続けた。
 そして敵部隊が参謀総本部まで約2kmのバイヒェン交差点に到達すると、待ち構えていた第81空挺コマンド群第3戦術本部本隊と接触した。空挺コマンドは周囲の建物に身を潜め、交差点に差し掛かった敵戦車を頭上からM72対戦車ロケットで攻撃した。同時刻、敵戦車はタンソンニット空港のフィーロン門およびランチャカ(ピニョー・ド・ベーヌ廟)付近にも進軍し、空挺コマンドはそこでも対戦車戦闘を行い、複数の敵戦車を撃破した。
 しかし後続の戦車が次々と押し寄せ敵が反撃に転じると、空挺コマンドは参謀総本部まで撤退するよう命じられた。

▲タンソンニュット周辺およびサイゴン市街の位置関係 [1971年版サイゴン・ジアディン省地図より]

ランチャカ前で空挺コマンドに撃破された北ベトナム軍のT-54/55戦車 [1975年4月30日ジアディン省タンビン区]

 参謀総本部正門前まで退却したタイ少佐らは午前9時30分に、参謀総本部第3室(作戦参謀部)の参謀から無線を受け、停戦を命じられた。しかしタイ少佐はこれを拒否し、その参謀に、自分は参謀総長からの直接命令以外受け入れない。空挺コマンドは今も参謀総本部を守って戦っているのだと回答した。
 それから30分後の午前10時、ズオン・バン・ミン大将(総統)は無線通信を通じて、全軍将兵に戦闘を停止し武器を捨てるよう命じた。これを聞いたタイ少佐は参謀総本部前の防御陣地離れ、独立宮殿(総統府)に居る新参謀総長グエン・ヒュー・ハン准将に個人的に電話をかけ、軍の最高司令官であるズオン・バン・ミン将軍と直接話したいと伝えた。そして電話口で15分待った後、ついにミンが応答した。

「こちらはズオン・バン・ミン大将だ」

大将閣下、私は空挺コマンドのファム・チャウ・タイ少佐です。我々は最終的決定が下るまで、ここ参謀総本部を防衛せよと命令を受けています。1時間前、我々は停戦するよう無線を受け、そして先ほども将軍が無線で停戦を呼びかけているのを聞きました。我々としては、その停戦について、もう一度詳しくお聞きしたいです。」

ミン将軍はしばらく言葉を発するのを躊躇った後、タイ少佐に語った。

「・・・もうなす術はない。君も投降する準備をしてほしい。」

大将閣下、それでは無条件降伏ではないですか!」

重苦しい沈黙の後、タイ少佐は口を開いた。

「閣下、我々はここを死守せよと命令を受けました。事実我々は朝から敵の攻撃を退けており、すでにこの付近だけで敵戦車を6両撃破しました。しかも我が方はほぼ無傷です。閣下、我々は降伏などできません。我々はいったい何年軍の為に尽くしてきたとお思いですか・・・」

「従いたまえ」

「閣下、もし閣下が降伏なされば、今も参謀総本部で戦っている2000名の将兵の身は安全であるという保証はどこにあるのですか」

沈黙の後、ミン将軍は最後にタイ少佐に一言だけ述べ、電話を切った。

「敵の戦車が市街に突入しようとしている。従ってくれ」

▲ベトナム共和国最後の総統ズオン・バン・ミン大将 [1975年4月30日 独立宮殿]

 電話を切られたタイ少佐は、やむなく自分の防御陣地に戻る事にした。そして正門に続く基地内の長い道路を歩いている途中で、ある高級将校と出くわし、独立宮殿で何が起こっているかを知らされた。彼が最後に聞いたズオン・バン・ミン大将からの通信は、独立宮殿に敵戦車が突入したという言葉だったという。
 それを聞いたタイ少佐は、すぐさま部隊を率いて独立宮殿に乗り込んでミン将軍を救出し、そして軍と兵士の安全を確保した上での停戦となるようミン将軍を今一度説得しようと考えた。タイ少佐は防御陣地に戻ると、自分の部隊を見渡した。空挺コマンドの兵士たちはいまだ銃を手にし、眼前に迫る敵軍から目をそらしていなかった。

▲タイ少佐が最後の防御陣地とした参謀総本部正門 [ジアディン省タンビン区]

 その時、無線機から再びズオン・バン・ミン大将発の命令が聞こえてきた。そしてその命令は停戦ではなく、速やかな投降、つまり無条件降伏を命じるものであった。この瞬間、1946年以来30年間近くにおよんだベトナム政府と共産主義勢力との戦いは、共産側の勝利に終わった。北ベトナム軍は参謀総本部を包囲するため次々と押し寄せてきたが、銃声は止んでおり、辺りは不気味な静けさに包まれていた。

 15分後、参謀総本部周辺の住民たちが通りに出てきて、兵士たちに語り掛けてきた。

「兄さんたち、もう戦わなくていいんだよ。平和になったんだ。家に帰ろう」

そして人々は家から急いでTシャツなどの私服を持ってきて空挺コマンド隊員たちに与えた。

「軍服を着てちゃダメだ。これに着替えな」

サイゴン市民は政府軍降伏の知らせを聞くと、兵士たちを共産軍による報復から守るため、街の至る所で早く私服に着替えて逃げるよう促していた。

▲軍服を脱ぎ捨てる第81空挺コマンド群兵士 [1975年4月30日ジアディン省タンビン区]


 兵士たちが投降の準備を進める中、タイ少佐は最後にもう一度自分の部隊を集めた。そして彼は部下への命令としてではなく、共に幾多の苦難を乗り越えてきた兄弟たちへの言葉として、兵士たちに訴えた。

「我々は空挺コマンドである。降伏などしない。戦いを投げ出し、怯え隠れてはならない。どうか降伏しないで欲しい。空挺コマンドは決して降伏しない!」

 兵士たちも皆、同じ気持であった。しかし最高司令官から下った命令は明白であり、またこれ以上の抵抗は誰の目にも無意味であった。最終的にタイ少佐は参謀総本部正門前で、部下たちと共に共産軍による武装解除に応じた。こうしてファム・チャウ・タイの戦争は終わった。

空挺コマンド "グレイタイガー" ファム・チャウ・タイ少佐

出典:
Hoàng Khởi Phong
30-4-1975: Trận Chiến Cuối của Hổ Xám Phạm Châu Tài- Liên Đoàn 81- Biệt Cách Nhảy Dù

Vương Hồng Anh
30.4.75: Nhảy Dù, Biệt Cách Dù Kịch Chiến Với CQ Trước Giờ G


 投降後、戦犯として共産軍に逮捕されたタイは強制収容所での長く過酷な生活を経験した後アメリカに亡命し、現在はカリフォルニア州ウェストミンスター市のベトナム移民街リトル・サイゴンで穏やかな生活を送っておられます。
 氏は普段、メディアからの取材は全て断っているそうですが、今回は「戦後ベトナム生まれの若者たちに自分たち祖父の時代を知ってほしい」という熱意を持った若き映像作家からの依頼により、インタビューが実現しました。その為インタビューは全てベトナム語で進められたので、はその場では内容をあまり理解出来ませんでしたが、友人が「今のベトナムの若者に何を伝えたいですか?」と問いかけた時のタイ氏の表情を私は決して忘れません。
 友人の問いかけに、氏は目にうっすら涙を浮かべ、言葉を詰まらせたままおよそ3分間ほど沈黙が続きました。その間、氏の脳裏には恐らく、当時死んでいった若者たちの事、自分たちが共産軍を倒せなかった為に祖国を恐怖が支配する独裁国家にしてしまった事、そしてその中でホー・チ・ミンと共産党の偉業だけを教育され育っていく戦後のベトナム人たちのへの複雑な思いが駆け巡っていただろう思います。長い沈黙の後、タイ氏は友人に自らの思いを打ち明けました。その内容はインタビューの英語翻訳版の完成を待たなければなりませんが、その言葉を語るタイ氏の目を見ているうちに、少なくともそれは、この41年間、氏の心に重くのしかかり、口を閉ざしていた想いの片鱗であった事は理解できました。この貴重なインタビューを日本で公開できる日を心待ちにしています。

  


2017年04月18日

ベトナム軍のM1系ヘルメット その1

 ベトナム共和国軍では、1948年の国軍創設から1975年のベトナム戦争終結まで、30年近くに渡って様々なモデルの米軍M1系ヘルメットが使用されていました。今回は、それらベトナム軍で使用されたヘルメットについてご紹介します。


M1ヘルメット (大戦モデル)/アメリカ製
使用期間: 1948年~


 第1次インドシナ戦争中、ベトナム軍で最も普及していたヘルメットがアメリカ製のM1ヘルメットでした。これは第2次大戦集結後、再建が始まったフランス軍への軍事支援としてアメリカが供与したもので、第1次インドシナ戦争期のフランス連合軍で最も多用されたヘルメットでした。またM1ヘルメットには各種空挺部隊仕様(後述)が存在しましたが、それらは十分な数が揃わなかったため、空挺部隊でも通常型(一般兵科用)のM1ヘルメットが使用されていました。
 なお、ここで言うM1ヘルメットとは第二次大戦中の1940年代前半に生産されたモデルになります。大戦モデルと言っても色々ありますが、写真から判別できるのは、大戦中一般的だったJフック型チンストラップが付いたM1という事ぐらいであり、また米軍の中古がまとめて供与されたものなので、細かい仕様はごちゃ混ぜだったと思われます。


M1Cヘルメット (布製チンストラップモデル)/アメリカ製
使用期間: 1951年~


 M1Cヘルメットはアメリカ軍が1943年に採用したM1ヘルメットの空挺部隊仕様で、M1のライナーに空挺降下時の安定性を高めるAストラップを追加し、またシェル側のチンストラップにスナップボタンを備えライナーと固定できるデザインとなっていました。第1次インドシナ戦争中、ベトナム国軍を含むフランス連合軍の空挺部隊では、M1と同じくアメリカから供与されたこのM1Cヘルメットが多用されていました。なお当時のM1Cは、革製チンカップに代わって大戦末期に採用された布製チンストラップのタイプが一般的でした。


M1ヘルメット EO改修型アメリカ製・フランス軍改造
使用期間: 1952年~


 フランス連合軍の空挺部隊にはアメリカ製のM1Cヘルメットが支給されていたものの、その数には限りがあり、空挺部隊の規模拡大と共にヘルメットが不足していきました。そこでフランス軍は1952年に、在庫に余裕のある一般兵科用M1ヘルメットのライナーにM1Cのような空挺降下時の安定性を高めるAストラップを取り付ける改造を行い極東(EO)=インドシナ派遣部隊への支給を開始します。この改造されたM1は"M1ヘルメットEO改修型(Casque M-1 modifié Extrême-Orient)"と呼ばれ、M1Cのような爪付きバックルではなく、左右2個ずつ備えたDリングで布製のウェビングチンストラップを締め上げる方式のAストラップを備えていました。


Mle 51 TTA OTANヘルメット/フランス製
使用期間: 1952年~


 Mle 51 TTA OTANヘルメット(Casque troupes toutes armes modèle 51 OTAN)はM1ヘルメットを基にフランス軍が1951年に制式採用した一般兵科用ヘルメットです。第2次大戦による荒廃と戦後の東西冷戦による緊張状態を迎えた西欧諸国は、軍の再建をアメリカからの軍事支援に頼っており、ヘルメットもアメリカ製のM1ヘルメットが北大西洋条約機構軍の標準装備となっていました。この中でフランスは装備の国産化を図り、北大西洋条約機構(仏語略称:OTAN)の標準ヘルメットであるM1を国産化した物がMle 51 TTA、通称OTANヘルメットでした。 このOTANヘルメットはM1ヘルメットとほぼ同じ構造でしたが、シェルの前側のバイザー部分がM1より短く、逆に後ろ側がM1より大きく突き出ているのが特徴でした。OTANヘルメットはフランスからベトナム軍に供与された期間が短かったため数は少ないものの、1960年代まで使用例が見られます。

なお、フランス軍は1953年に、OTANヘルメットにM1Cと同様のAストラップを追加した空挺部隊向けの"Mle 51 TAPヘルメット"を採用しましたが、インドシナ派遣部隊もしくはベトナム国軍での使用例については未確認です。


M1ヘルメット (戦後モデル)/アメリカ製
使用期間: 1950年代末?~


 フランスがベトナムから撤退した後、ベトナム共和国軍はアメリカから直接軍事支援を受けるようになり、個人装備も急速にアメリカ式に切り替わっていきます。M1ヘルメットも大戦期の旧モデルから、当時のアメリカ軍の現用(いわゆる戦後モデル)へと更新されていきます。さらに1960年代に入るとベトナム軍のヘルメットの大半はこの戦後モデルに置き換わり、以後1975年まで長きに渡って使用されました。なお空挺部隊においても、空挺用ヘルメットの不足から、一般兵科用M1は引き続き使用されました。
 戦後モデル(1950年代から1960年代前半)のM1ヘルメットは、大戦期のJフック型に代わり、既定の圧力でバックルが外れるように設計されたT1型チンストラップが装備されているのが大きな特徴でした。(T1ストラップは1944年に採用されたものの、実際に普及するのは1950年代になってからでした。) また、ライナーの革製チンストラップは標準装備でしたが、前線ではシェルの内側に隠されたり、外されている場合も多々ありました。


M1Cヘルメット (戦後モデル)/アメリカ製
使用期間: 1950年代末?~


 M1と同様に、空挺部隊向けのM1Cヘルメットも順次戦後モデルに切り替わっていきました。M1C戦後モデルは、M1と同様シェル側にはT1型チンストラップ(スナップボタン付き)が装備されており、またライナー側のウェブチンストラップも金属ハトメ付きの新型になっています(※2017年4月19日訂正: 形状は大戦末期の物と同じでした)。なお、M1Cのライナーは一般兵科用M1のシェルと互換性がある為、戦後モデルもしくは後述する国産M1のシェルにM1C(空挺用)ライナーが取り付けられている事もあります。


国産M1ヘルメット/ベトナム製
使用期間: 1960年代中盤?~


 1960年代半ばになると米国製M1(戦後モデル)をコピーしたベトナム国産のヘルメットの生産が始まり、以後終戦まで米国製と共に広く使われていきます。国産M1ヘルメットの特徴は、米国製M1のような反射防止の砂吹付塗装がなされておらず表面がツルツルであった事でした。この砂吹付の省略は、同じくM1を国産化していた台湾軍やタイ王国軍でも行われました。塗装色は米軍のようなオリーブドラブではなく、青みがかった緑色と言った感じの色をよく見ます。またライナーの革製チンストラップは不要と見なされ、最初から備えていなかったと思われます。


◆M1 / M1Cヘルメット (1965年モデル)/アメリカ製について
 アメリカ軍は1941年以来ほぼ同じ構造だったM1およびM1Cヘルメットの大掛かりなマイナーチェンジを1965年に行い、ベトナム派遣アメリカ軍部隊が使用するヘルメットは順次この新型(1965年モデル*)に切り替わっていきました。この1965年モデルのM1/M1Cは、戦後モデルと同様にベトナム共和国軍に供与された可能性は十分あるものの、ライナーの内装が写っていない限り当時の写真からではそのM1が戦後モデルなのか1965年モデルなのかを判断するのは難しいため、僕はまだ1965年モデルのM1がベトナム軍でも使用されていたという確証は得られていません。
マニアの間では1965年モデルのM1およびM1Cに"M2"という通称がつけられていますが、M2とは本来、1942年に開発された最初期の空挺仕様M1ヘルメット(M1Cより前のモデル)の名称です。1965年モデルをM2と呼ぶのはかなり間違ってるので止めた方がいいと思います。



おまけ

ツルツルヘルメット計画、進行中

   


2017年04月12日

ベトナム海軍LĐNN/SEAL

先日のベトベトで「LĐNNを盛り上げよう!」というお話を頂いたのですが、僕自身まだちゃんと分かっていない部分も多かったので、勉強がてらLĐNNとSEALの歴史について概要をまとめてみました。超カッコいい部隊なので興味を持ってくれる人が増えたらいいなぁ。

※2017年4月14日追記

第1期LĐNNとシーコマンド

 1960年、ベトナム海軍は水中破壊チームの創設を計画し、その後海軍の分遣隊が台湾でアメリカ海軍によるUDT訓練を受講した。1961年7月、海軍は『フロッグマン部隊(Liên Đội Người Nhái, 以下LĐNN)』を創設し、台湾での訓練を終えた海軍士官1名、水兵7名がLĐNNの幹部となった。さらに国内で選抜された48名の海軍将兵が集結し、海難救助、水中障害物除去、桟橋の防御、水陸特殊作戦を任務とする第1期LĐNNが始動した。

▲創設当時のベトナム海軍フロッグマン部隊((LĐNN)部隊章

▲第1期LĐNN隊員の訓練[1962年5月 ベトナム]

 LĐNN創設から間もなく、ジエム総統直属の特殊工作機関『総統府連絡局(Sở Liên lạc Phủ Tổng thống)』の傘下にも、水陸作戦部隊『シーコマンド=特海隊(Biệt Hải)』が組織された。シーコマンドの任務は北ベトナムその他国外における越境特殊工作であり、海軍だけでなく陸軍・海兵隊の水陸戦チームも統括する統合任務部隊であった。
 1962年2月より南ベトナムに展開を開始したアメリカ海軍SEAL(Sea Air Land)訓練チームは、翌3月より最初のシーコマンド幹部育成のための6か月間の訓練コースを開始し、空挺降下、偵察、ゲリラ戦についての教育が行われた。そして10月までに62名のシーコマンド隊員がSEAL訓練コースを修了した。
 なお1963年11月の軍事クーデターでジエム政権が崩壊すると、総統府連絡局は解体され、シーコマンドは新たに設立されたベトナム共和国軍参謀総本部直属の特殊作戦機関『開拓部(Sở Khai thác, 後のNKT)沿岸警備部(SPVDH)』の指揮下に移管される。
 1964年1月、士官1名と41名の隊員から成るLĐNNチームが、海岸からの侵入を試みる共産勢力に対抗する特殊作戦を開始。『シードッグ作戦(Operation Sea Dog)』において、フィリピンのイロイロ島(パナイ島)で共産軍の物資を輸送するジャンク船6隻を爆破した。
 1964年2月には、北ベトナムへの圧力を目的としたMACV-SOG主導の秘密作戦OP-34Aが開始された。これに伴い、第1期LĐNNは国外の目標への攻撃に参加するため、海軍の指揮下を離れSKT沿岸警備のシーコマンド部隊に編入された。(OP-34Aおよびシーコマンドについては過去記事『NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[2]』参照)

 
▲シーコマンド部隊章(左)、海軍LĐNNシーコマンド中隊(右)

▲SKTシーコマンド編入後、初代LĐNN隊長ラム・ニュット・ニン海軍大尉(写真②)はシーコマンド総隊長に任命された。
[1964年 ダナンSPVDH本部]


第2期LĐNN

 OP-34Aによって第1期LĐNN隊員のほとんどがシーコマンドに移動したことで、海軍にはフロッグマンが存在しなくなった。この穴を埋めるため、1964年7月には第2期LĐNN隊員の訓練に60名の訓練生が選抜され、9月からニャチャンにおいて訓練が開始された。この第2期LĐNN訓練コースは、『地獄の週』を含む16週間にわたって行われた。地獄の週では海上漕艇185km、長距離走120km、ボート担ぎ走33km、遠泳16kmという過酷な体力訓練が行われた。また訓練期間中、訓練生たちはニャチャンやビンズオン省において、実際に沈没した船や航空機を海中からの引き上げる作業を経験した。そして1965年1月に33名が訓練を修了し、彼ら第2期LĐNNはベトナム海軍作戦本部副部長の直接指揮下に置かれブンタウに駐屯した。
 1965年には、LĐNNは南ベトナム領内における全ての水陸特殊作戦の権限を与えられ、北ベトナムに対する水陸作戦はSKT沿岸警備部(SPVDH)の管轄となった。

▲第2期LĐNN訓練の修了式[1965年1月 ニャチャン海軍訓練センター]


第3期LĐNNとアメリカ海軍SEAL

 1960年代中盤までに、アメリカ海軍SEALチーム1および2は、越境工作部隊シーコマンドの訓練に加えて、南ベトナム領内における定期的な戦闘任務への参加を始めていた。彼らは強襲、水陸偵察、ベトコン組織破壊工作の専門家であり、国内での水陸作戦を統括するLĐNNはSEALとの協力関係を深めていった。間もなくSEALチームが南ベトナム領内で行う通常戦術作戦にはベトナム海軍LĐNN隊員も参加する事となり、LĐNNではSEAL派遣要員の選抜が開始された。1966年11月には少人数のLĐNN幹部がフィリピンのスービック湾に派遣され、アメリカ海軍にってより高度なSEAL訓練を施された。
 1967年にはSEAL派遣要員を育成する第3期LĐNN訓練が開始され、400名を超える志願者がブンタウで訓練に参加した。この第3期LĐNN訓練は、それまでUDT訓練が主だったLĐNN訓練コースとは異なり、空挺降下作戦を含む本格的なSEAL訓練が初めて大規模に実施された回であった。1年後、訓練コースを卒業した訓練生は400名中わずか27名と、脱落率94%の過酷な訓練であった。この第3期LĐNN訓練を終えた27名の隊員は、LĐNN初の本格的なSEALチーム『海撃隊(Hải Kích)』として組織化された。海撃隊の作戦範囲は主に南ベトナム国内であったが、カンボジア領内へ潜入する場合もあり、またパラシュート降下による越境作戦も存在した
 これ以降、LĐNN海撃隊はアメリカ海軍のSEALチームに人員を供給し、緊密な協力関係の下で作戦を遂行していく事となる。SEALにおけるベトナム人の役割は単なる通訳だけでなく、一般市民と敵兵を見分けて危険を察知するというベトナムで生まれ育った者にしかできない文化面での知識を持っている事も彼らがSEALに必要とされた大きな理由であった。またフェニックス計画などで情報を聞き出すためベトコン容疑者を逮捕する作戦では、SEALのアメリカ兵が対象を無理に拘束しようとすると必死に抵抗され、やむを得ず射殺してしまい任務失敗となるケースもあったが、同じベトナム人であれば言葉で脅す事でそれを防ぐ事が出来た。

LĐNN海撃隊(Hải Kích)=ベトナム海軍SEALチーム部隊章
画像: Dealing Time "Lieutenant Mike Slattery" 

アメリカ海軍SEALチーム1ヴィクター小隊所属のベトナム海軍LĐNN海撃隊員[1960年代末 ロンフー?]

▲SEALチーム2 第9小隊所属のLĐNN海撃隊員[1969年ベトナム]

▲カムラン移転後のLĐNN訓練キャンプ [1970年カムラン]
第3期LĐNN訓練が終了した直後の1968年2月、共産軍はテト攻勢を開始しブンタウでの訓練が困難となったことから、ほとんどのLĐNN部隊はカムラン湾に移動し、第4期以降のLĐNN訓練はカムランで実施された。

▲ベトナム海軍LĐNNの部隊章 [Military Advisor 2016年9月号より]
1. LĐNN 1stデザイン
2. LĐNN 2ndデザイン
3. 港湾警備チーム (Phòng thủ hải cảng) 1stデザイン
4. 港湾警備チーム (Phòng thủ hải cảng) 2ndデザイン
5. 爆発物処理 / EODチーム (Tháo gỡ)
6. 水中爆破 / UDTチーム (Thủy công)
7. 海撃/ SEALチーム (Hải Kích)
8. 爆発物処理 / EODチーム (Tháo gỡ)
9. サルベージ船隊 (Giang-Đoàn Trục Vớt)
10. バリエーション
※翼のデザインはSEAL訓練が始まった1967年以降に制定されたものと思われる。

SEALチーム2 第9小隊
フェニックス計画の際は、LĐNN隊員に加えて現地のPRU(地方軍独立偵察中隊)隊員がSEALチームに加わる事もあった。


SEAL戦闘通訳員 グエン・ホアン・ミン


 SEAL小隊に所属したベトナム人の中には、LĐNN隊員以外の者も居た。特にSEAL隊員たちから尊敬を集めたのがグエン・ホアン・ミンであった。ミンは1959年から1964年までベトナム海軍で勤務した後、1966年にアメリカ海軍河川哨戒艇部隊に通訳としてスカウトされた。その後ミンは1971年まで5年間、ミトー基地のSEALチーム2 第7小隊および第10小隊戦闘通訳者として勤務した。
 ミンは通訳、ポイントマン、時には潜入諜報員としてSEALの作戦に貢献した。またミンの妻も危険を顧みずメコンデルタ地域におけるSEALの作戦に協力し、ミン夫妻はベトナム戦争時代のSEAL最大のベトナム人功労者としてSEAL隊員たちに記憶されている。


▲ミンが所属したSEALチーム2 第10小隊 [1960年代末~1971年頃 ミトー]
上段左から5番目の弾薬ベストを着た人物がミン。ほかのベトナム人はLĐNN隊員

 1975年の敗戦後、ミンは共産軍に拘束され強制収容所に28か月間投獄された。ミン夫妻はその後45年間に渡って米農家や靴磨きをしながら貧しい生活を送る事となる。
 時は流れて2002年、海軍を退役した元SEAL隊員のジョン・ドノバンは、一冊の本の中に、かつての戦友であるグエン・ホアン・ミンの名前を見つけ、ミンがまだ生きている事を知った。ドノバンはダラスのベトナム難民関係者に連絡を取り、6年後の2008年にミンを探すためベトナムのミトーを訪れた。そして数か月後、ドノバンとミンは40年ぶりの再会を果たした。
 ミン一家の苦境を知ったドノバンは、かつてのSEALの戦友たちに連絡を取り、ミン一家のアメリカ移住を支援する基金を立ち上げた。その後、ミンへの募金は1万5000ドル以上集まったが、アメリカ国務省はミンの移民申請を却下した。その為基金は、ベトナムに住むミンの子や孫の家を補修し、生活環境の改善に当てらてた。2013年、ミンはSEALアソシエーションの招待を受けて初めてアメリカを訪れ、SEALミュージアムでかつての戦友たちと再会を果たした。

ミンのSEALへの貢献と、戦友たちとの再会を伝えるSEALチーム2アソシエーション制作のドキュメンタリー"The Why of Minh"


ベトナミゼーション

 1971年、アメリカ軍のベトナム撤退に伴うベトナム共和国政府の権限移行(ベトナミゼーション)の影響は海軍LĐNNにも及んでいた。それまでアメリカ海軍SEALが担っていた作戦のほとんどがベトナム海軍LĐNNの管轄に移行され、作戦規模は大幅に拡大した。これに伴い、ベトナム海軍フロッグマン部隊(Liên Đội Người Nhái)は、『フロッグマン群(Liên Đoàn Người Nhái*) 』へと発展・拡大した。拡大したLĐNNは海撃隊(SEALチーム)、水中爆破チーム、爆発物処理チーム、支援舟艇チームから成り、司令部は引き続きサイゴンに置かれた。略称は変わらずLĐNN
 1971年の時点で、LĐNN海撃隊は12~18名単位の分遣隊に分かれ、ホーアン、ダナン北部、フエ、ティンアンの前進基地に駐屯し、南ベトナム国内でのベトコン組織破壊または強襲作戦に従事していた。
 1972年のイースター攻勢において、南ベトナム最北端の城塞都市クアンチが北ベトナム軍によって占領されると、LĐNN海撃隊はクアンチ奪還作戦部隊の一部としてフエに移動した。その後、壮絶な戦闘の末にクアンチが奪還されると、海撃隊の一部はベトコン組織破壊作戦に復帰しクアンガイに移動した。


バット21ブラボー救出

 イースター攻勢の最中の1972年4月2日、アメリカ空軍のEB-66電子戦機2機が北ベトナム軍の対空ミサイルによって撃墜され、クアンチ省北部に墜落した。EB-66のナビゲーター アイセル・ハンブルトン中佐(コールサイン"バット21ブラボー")は救難無線によって生存が確認されたが、墜落地点は前線から4km北側の敵支配地域であり、そこには南侵した約3万人の北ベトナム軍が展開していた。ハンブルトン中佐は対空ミサイル対抗戦術の専門家であったことから、ミサイル技術の情報が敵側に渡るのを防ぐため、その日のうちに航空機による救難捜索(SAR)が開始された。
 しかし北ベトナム軍の対空ミサイル網は非常に強力であり、SAR機に多数の被害が発生した。在ベトナム米軍司令クレイトン・エイブラムス将軍は、いかなる犠牲を払おうともミサイル技術漏洩を防ぐつもりであったが、捜索開始から5日経ってもハンブルトン中佐は発見されず、最終的に16機のSAR機が撃墜され、14名が戦死または行方不明となる結果に終わった。また誤爆を防ぐため周辺空域での空爆が禁止されたため、クアンチで戦うベトナム共和国軍部隊への航空支援が滞り、地上戦でも多数の損害が出ていた。
 そこでMACV-SOG統合救難センター(JPRC)は地上からの救出作戦を立案し、アメリカ海軍SEALのトーマス・ノリス海軍中尉がその任に当たった。ノリス中尉はこの時点でベトナムに残っていた12名のSEAL隊員の一人であり、ノリスは救出作戦のメンバーとしてNKT沿岸警備部シーコマンド部隊から5名の海軍LĐNN隊員を指名した。そしてその中の一人、グエン・バン・キェット海軍伍長と二人で漁師に変装し、漁船に偽装したサンパンで川を遡って敵支配地域に潜入し、ハンブルトン中佐および捜索中に撃墜されたOV-10のパイロット マーク・クラーク大尉の捜索を行った。その結果、二人はハンブルトン中佐・クラーク大尉の両名を発見し、敵の追撃をなんとか振り切り脱出する事に成功した。この危険極まる救出劇はベトナムにおけるSEAL最後の作戦として称えられ、ノリス中尉はアメリカ軍最高位の名誉勲章(Medal of Honor)を、キェット伍長は名誉勲章に次ぐアメリカ海軍最高位の海軍十字章(Navy Cross)を受章した。

シーコマンド/LĐNNグエン・バン・キェット伍長(左)とアメリカ海軍SEALトーマス・ノリス中尉(右) [1972年]

 1972年後半、戦闘任務の終了後もLĐNNへのアドバイザー任務を継続していたアメリカ海軍SEALが、ついにベトナムから完全に撤退した。LĐNNはSEALアドバイザーが管理していたカムランのSEAL訓練施設を引き継ぎ、LĐNN / SEAL訓練を継続したが、SEAL訓練は非常に脱落率の高い過酷なものであったため、海撃隊は常に人員不足に悩まされていた。この時点でLĐNN海撃隊の人員は200名強であったが、1971年にアメリカ本土でSEAL訓練を受けたLĐNN士官候補生21名のうち、訓練を修了して海撃隊に入隊できた者は10名しかいなかった。さらに正規軍である北ベトナム軍の南侵が激化し、戦況は悪化の一途を辿っていたことから、LĐNNは戦力を確保するため隊員の訓練期間を半分に短縮し、特に空挺降下訓練については1/5にまで削減された。
 1973年にパリ協定が結ばれベトナム戦争が停戦すると、全国に展開していたLĐNN海撃隊は作戦を終了しサイゴンの海軍本部に戻った。また対外工作機関であるNKTの沿岸警備局は解散され、シーコマンド所属のLĐNN隊員たちは原隊に復帰した。しかし停戦から間もなく、北ベトナム軍はパリ協定を無視して南進を再開し、ベトナムは再び戦火に見舞われた。


ホンサ諸島の戦い

 時を同じく、1950年代から続いていた南シナ海のホンサ諸島(西沙諸島)の領有権をめぐるベトナムと中国の対立が激化し、ベトナム共和国政府はホンサ諸島の領有を主張するため、島を占領すべく民兵の守備隊を1973年12月末に派遣した。中国政府はこれに対抗して海軍の陸戦部隊を島に上陸させた。ベトナム海軍は中国軍を撃退するため、1974年1月17日にLĐNN海撃隊をフーラム島(永興島)の西岸に潜入させたが、すでに中国海軍地上部隊は島から撤退しており、海撃隊は難なく島を占領した。
 しかし上陸から二日後の1月19日、中国海軍は突如フーラム島に砲撃を加えると共に陸戦隊を上陸させ、海撃隊との地上戦に発展した。この戦いでLĐNN海撃隊には3名の死者が発生し、島から撤退した。さらに周辺の海域で行われた海軍艦艇同士の海戦では、双方の艦艇が撃沈され、ベトナム側には50名を超える死者が出た。(※Ken Conboy氏はこの戦いでのLĐNN隊員の死者は2名で、残りは捕虜になったとしているが、元LĐNNのキェット伍長は、この時捕虜になった者はいなかったと指摘している)



サイゴン陥落

 1975年4月末までに、LĐNN海撃隊は激しい戦闘の末に人員が50名まで減少していた。4月末に共産軍が首都サイゴンに迫ると、LĐNNの残存兵力は首都防衛のためサイゴン南西のロンアン省に派遣された。この時点でLĐNNにはSEAL訓練を受講中の訓練生が200名居たが、彼らはサイゴンのLĐNN本部に温存された。
 首都陥落が差し迫った4月29日の夕方、LĐNN隊員の家族らは海軍の手引きで小型のUDTボートに分乗し、サイゴンから脱出した。その数時間後、隊員の家族らは国際水域でアメリカ海軍第7艦隊に救助された。


[参考資料]
Military Advisor: Frog-men of the repblic of Vietnam, by Clement kelley 
  


2017年04月04日

ボディアーマー

M1952Aボディアーマー再生

去年ベトナムに行った際に、中のアラミド繊維が抜かれペラペラのカバーのみの状態になったM1952Aボディアーマーを買ってきました。(もしかしたら防弾性能のあるボディアーマーはベトナムの法律では『武器』扱いになり違法だから中身が抜かれたのかも)
このカバーは中身がないだけで、ほぼデッド状態の良品だったので、どうにかしてこの中に詰め物を入れて外観を再生させようと思っていました。
問題は何を詰めるかという事で、一番リアルなのは本来入っていたはずのアラミド繊維を戻す事ですが、今時のトラウマプレートと違ってこの時代のボディアーマーは中身を交換する事は考えられていないので、アラミド繊維単品はまず手に入りません。
次に思い浮かぶのは、ヒューストン社などのミリタリー系アパレル企業が作っているボディアーマー風ベストのように、ダウンや綿を詰めるという手段ですが、実はこれには難がありまして、本来均等な厚みのアラミド繊維が入っているはずなのに、綿などの形状が定まっていないものを入れるとどうしても中で偏りカバーにたるみが出来てしまいますし、それを防ぐためにカバー一杯にパンパンに詰めると、今度は厚くなり過ぎて形が不格好になってしまう事が予想されました。市販のボディアーマー風ベストも、実物よりだいぶ分厚くなってるので一目で代用品だと分かりますものね。なので中に入れる素材としては、実物とほぼ同じ厚みで、かつ中で偏らない適度な硬さがあるものを選ぶ必要がありました。
ただし厚みに関しては、正常な状態のM1952Aを持っていないので実際の厚みは分かりませんでした。しかし、その後継である3/4カラーボディアーマー(RVNAF)(※後述)は手元にあるので、それとほとんど同じだろうと予想して選ぶことにしました。3/4カラーのアーマー各部をノギスで測ったところ、カバーを含めた厚みは概ね9mmだったので、中のアラミド繊維は約8mmと考える事にします。思っていたより薄いですね。
当初、素材としてはお風呂マットやウレタンフォームを候補として考えていましたが、ホームセンターに行って商品を見てみると、どれも思ったよりぶ厚くて、厚さ8mmの品はなかなかありません。何か良いのは無いかと探していると、ありましたよ丁度いいのが。

ユーザー(USER) アルミロールマットL U-P851

キャンプなどで地面に寝る時に寝袋の下に敷く保温・緩衝用アルミロールマット、通称銀マットです。偶然にも厚さ8mmの品が並んでいました。これなら適度な硬さもあり、型崩れしなさそうなので中に入れるのにピッタリだと思いました。
さっそく買って帰って作業開始。やる事は単純で、ボディアーマーのカバーを広げて縁の形を取り、そこから縫い代分の10mm内側を切り出します。これをカバーの中に入れて、カバー開口部をミシンで縫い直せば完成。

※銀マットはもともと十分な大きさだったのに、寸法を測り間違って余計な部分を切ってしまいた。しかたなくガムテープでつなげ直しています。

こうして復活したM1952Aボディアーマー。本当に銀マットは丁度良い硬さで、思っていた以上に見栄えが良いです。

M1952Aのタグ



3/4カラーボディアーマー(RVNAF)

ついでに、今回アラミド繊維の厚みの参考にした3/4カラー・ボディアーマー(RVNAF)をご紹介。

名前の通り、このボディアーマーはRepublic of Vietnam Armed Forces=ベトナム共和国軍*に供与するために生産されたもので、タグが違うだけで物は米軍のM69ボディアーマー**と全く同一です。

アメリカ製ですが、ベトナム共和国軍での使用を前提としているため、最初からベトナム語の取説タグが付いています。なおアメリカ政府におけるFSN(連邦備品番号)は、米軍M69は8470-122-1299ですが、ベトナム軍仕様は8470-144-5798となっています。

* RVNAF
戦後誤解されていますが、当時のベトナム共和国軍の正式な英語表記はRepublic of Vietnam Armed Forces(RVNAF)であり、Army of Republic of Vietnam(ARVN)はベトナム陸軍のみを指しました。過去記事『ARVNとは?』参照

** M69ボディアーマー
3/4カラーおよびM69ボディアーマーの名称についてはマニア間でかなり誤解されています。
まず、マニア間でM69と呼ばれている物(ジッパー閉じ)は米軍でいうM69ではありません本来の名称は"3/4カラー"ボディアーマーであり、1969年制定でもありません。M69とはこの3/4カラーの後継モデルの名称なのですが、なぜかマニア間では3/4カラーそのものを指してM69と呼ばれています。
さらにこの誤った認識の上で、本来のM69(ベルクロ閉じ)は、「M69(実際は3/4カラー)の1970年仕様」だと誤解され、"M69/70"という謎の分類化がされています。タグに本来の名称書いてあるのに、なんでわざわざ関係ない名前付けるかね。
なお、RVNAF仕様は(真の)M69と全く同じ仕様ですが、タグに記載された名称はM69ではなく、なぜか3/4カラー(RVNAF)となっています。


おまけ: T61-5 3/4カラーボディアーマー

T61-5ボディアーマーがベトナム海軍でも使われていたの図。

 
T61-5はアメリカ海軍で開発されていたチタン・ナイロン混合ボディアーマーです。
フランスの米軍コレクターグループUSMC-COLLECTORSのページLES GILETS PARE-ECLATS DE L'US NAVYによると、1964年11月に海軍での採用が決定されたものの、1965年12月になっても生産前の試験が継続しており、生産されたものについてはベトナムに派遣されたアメリカ海軍の河川哨戒艇部隊で使用されたそうです。しかしこのT61-5は体温がこもりやすく、熱帯地域での着用は厳しいもので、結局大量生産には至らず消えて行ったようです。
上のベトナム海軍の写真は、アメリカ海軍が装備品をベトナム側に供与した際、その中にT61-5も混ざっていたためにそのまま使われていたのであろうと推測します。

  


2017年03月27日

ブラッドケーキ/ブラッシュ迷彩

 先日ベトナム海兵隊のタイガーストライプ迷彩について書きましたが、タイガーストライプと同じく1960年代初頭から使用され始め、ベトナム共和国軍を代表する迷彩服としてタイガーストライプと双璧を成していたのが『ブラッドケーキ』または『ブラッシュ』と呼ばれる迷彩服でした。(これらの呼び名はマニア間での通称であり、当時のベトナム軍における呼び名ではありません。) 今回はこのブラッドケーキ迷彩服について、当時の写真を交えながらご紹介します。



ブラッドケーキ迷彩の起源

 愛好家・コレクターの間では、ベトナム軍ブラッドケーキ迷彩の源流は第2次大戦中に開発されたイギリス陸軍の迷彩ウィンドプルーフスモックにあると考えられています。

Smock, Windproof, Camouflaged: British Army© IWM (UNI 4081)

 このウィンドプルーフスモックは第2次大戦中、ギリス軍の指導の下組織された自由フランス軍SASにデニソンスモック等の英軍装備と供与されており、さらに大戦後は米英軍の支援の下再建中のフランス陸軍(本土軍・植民地軍・外人部隊)の空挺部隊に大々的に供与され、スモックだけでなく同じ生地で作られたジャケットやパンツも生産されました。
 時を同じく、1946年に第1次インドシナ戦争が勃発すると、このウィンドプルーフ系迷彩服はインドシナ派遣部隊(CEFEO)の各空挺部隊にも支給されます。さらに1948年からは植民地軍のインドシナ人空挺中隊(CIP)に、1951年からはフランス連合の枠内で独立したベトナム、ラオス、カンボジア各国の空挺部隊でも使用されるようになります。



ウィンドプルーフ迷彩スモック、パンツを着用したCEFEO第6空挺植民地大隊CIPのベトナム人兵士[1952年11月1日]


国産化

 こうしてウィンドプルーフ系迷彩服はベトナム共和国軍へと受け継がれていった訳ですが、ジュネーブ協定後の1950年代後半になるとウィンドプルーフ迷彩の使用例は急激に減少します。なぜならフランス連合軍はベトナムから撤退する際、これから部隊に支給するはずだった新品の空挺部隊用リザード系迷彩服(TAP47系、TTA47系)を大量に南ベトナムに置いて帰ったため、ベトナム軍空挺部隊の使用する迷彩服はそれら新品のリザード系だけで十分となり、古いウィンドプルーフ系を着る必要がなくなってしまったからです。
 しかし、当然ながらフランス軍が残していったリザード系迷彩服の数にも限りがあり、訓練や戦闘で消耗されればいずれ迷彩服が不足する事は明白でした。その為ベトナム軍は空挺部隊向け新型国産迷彩服の開発を進めていきます。こうして生まれたのが、ウィンドプルーフ迷彩を基に開発されたブラッドケーキ迷彩服でした。
 このブラッドケーキ迷彩服の裁断は、海兵隊タイガーストライプや、その発展型であるベトナム軍共通の作戦服とは異なる独特のものでした。この服は空挺部隊向けの作戦服である為、空挺降下時に着用する事を念頭に設計されています。海兵隊式と違い、降下時に風圧で空気が服の中に入ってバタついたり、装備・ベルト類が引っかからないよう、前合わせやポケットのフラップが隠しボタンになっているのが大きな特徴でした。また、迷彩パターンだけでなく、ウィンドプルーフスモック本来の防風性も受け継ぎ、風を通しにくい生地が使われていました。なお、パンツは概ね海兵/一般と同じく米軍ユーティリティ式の貼り付けポケットで、カーゴポケット有り・無しが存在していました。

 しかし残念ながら、僕はまだブラッドケーキ迷彩服がいつごろ開発されたのか、詳しい情報はつかめていません。僕が写真で着用を確認している最も古い時期は、1962年になります。もっと古くからあるよ!という情報をお持ちの方、是非ご連絡下さい!
 
ブラッドケーキ迷彩服を着用し降下訓練に臨む空挺旅団兵士[1962年]

 またブラッドケーキ迷彩服は1960年代初頭から60年代末まで10年近く使用された服であるため、いくつかバリエーションが存在します。以下は、僕が写真で確認しているもののまとめになります。

2ポケット
おそらく最初に生産されたブラッドケーキ迷彩服の裁断。大きめの胸ポケットと隠しボタンの前合わせが特徴。ポケットのマチ、TTA47のような肩当て補強、エポレットはそれぞれ有り・無し両方が見受けられます。

[1963-1964年?]


ライセンス企業Alamyではこの写真の撮影年を1973年と記載していますが、僕の見立てでは1964~1966年頃だと思います。


◆小2ポケット
大ポケットの簡略型と考えられており、海兵/一般部隊向け裁断のようにポケットが小さくなっています。またエポレット無しタイプもちらほら見受けられます。※2017年4月1日訂正

ム政権への軍事クーデターに参加した空挺旅団兵士[1963年11月サイゴン ザーロン宮殿]


◆隠しジッパーポケット改造
胸ポケットの内側にさらにTAP47系降下服のような隠しジッパーポケットを追加した改造モデル。大ポケット、小ポケット共にこの改造が行われた模様です。

同じくAlamyでは1973年撮影としていますが、個人装備からして1964~1966年頃だと思います。

僕が持っている香港製のリプロは、このタイプを再現したものです。新品だとコントラストが高すぎて別物みたいですね。リアルにするには全体がグレーっぽくなるまで退色させる必要がありますが、失敗すると取り返しのつかないリスキーな作業になるので、まだ踏み出す勇気が出ません。


◆TCU(1stパターン)裁断
その名の通りアメリカ軍のTCU(熱帯戦闘服)を模した裁断です。空挺部隊ではなく、主に特殊部隊(LLĐB)で着用されていました。どちらも空挺作戦を行うエリート部隊でしたが、フランス軍によって創設された空挺部隊とは異なり、LLĐBは1950年代末からアメリカ軍特殊部隊によって育成された組織であるため、米軍グリーンベレーに倣って緑色のベレーを採用するなど、米軍からの影響をより色濃く受けていたようです。

CIDGキャンプ訪れたベン・ハレル米陸軍中将の激励を受けるベトナム軍LLĐB隊員[1964年11月]


1960年代後半

 1960年代後半になると、ベトナム陸軍のエリート部隊全体で米国の民間ハンター向け迷彩パターンをコピーした『シビリアンリーフ』迷彩が作戦服に採用され、空挺師団ではブラッドケーキからシビリアンリーフへの切り替えが始まります。さらに1967年には、米軍の新型TCU迷彩『ERDL』パターンが、海兵隊を含むベトナム軍エリート部隊共通の迷彩服として採用されます。その後も1969年からは国産の新型迷彩『レンジャー/エアボーン』パターンの配備が進められ、ベトナム軍の迷彩服は一気に様変わりしていきます。
 とは言え、数万人の兵士の迷彩服を一度に更新する事は不可能であり、徐々に切り替えが進められたため、前線部隊でのブラッドケーキ迷彩の着用例は1968年頃まで見受けられます。また自費でブラッドケーキ迷彩服をテーラーメイドした将校たちは、新型迷彩が採用された後も手持ちの迷彩服を着続けたので、あまり前線に出る事のない司令部や後方勤務者は1970年頃になってもブラッドケーキ迷彩服を着ている事がありました。

空挺師団第5空挺大隊の中尉[1967年]

テト攻勢の最中の空挺師団兵士 [1968年サイゴン]
この時期、空挺師団ではERDL迷彩が一般的となっており、一部ではレンジャー/エアボーン迷彩の支給も始まっていました。


高級将校の仕立服

高級将校は自費で迷彩服をテーラーで仕立てるため、服の裁断はある程度個人の好みで作られます。そのため、高級将校の着ている迷彩服の裁断は、一般兵に支給されていたものとは異なる可能性がある事に留意する必要があります。

2ポケット
高級将校であっても多くの場合、(仕立服だとは思いますが)一般的な2ポケット型のブラッドケーキを着ています。ただし官給品とは違い、殆どの場合でエポレットや肩当は省略される事なく備わっています。

カオ・バン・ビエン少将(当時) (写真左) [1965年10月]


ゴ・クアン・チュウン少佐(当時)(写真中央)と空挺師団付き米陸軍アドバイサー ウェスト大尉(写真左) [1964年8月]


◆TCU(1stパターン)裁断

 
ド・カオ・チ中将[1960年代中盤]
チ中将の出身部隊である空挺師団ではTCU型ブラッドケーキはほとんど見られませんが、当時チ中将は軍団司令なので米軍式の服も作ったようです。


2ポケット/前合わせボタン露出

トン・タット・ディン中将[1963年11月]
胸ポケットは隠しボタンのままですが、前合わせだけボタンが露出しています。隠しボタンは降下服としての実用性を目的とするものなので、それが取り払われたこの服は、実際に空挺降下をする事はない高級将校専用の服と言えそうです。


小2ポケット/胸ポケットボタン露出

 
グエン・チャン・チ少将[1965年ダナン]
上の中将の服とは逆に、胸ポケットだけボタンが露出しているタイプ。また、仕立服でありながらエポレットを備えていないのも珍しいです。


※2017年4月1日追記
◆大2ポケット前合わせ・胸ポケットボタン露出

グエン・カーン中将(当時)(写真左) [1964年サイゴン]
前合わせと胸ポケット両方のボタンが露出し、エポレット無しという、海兵/一般部隊向けとほぼ同じ裁断になっています。


※2017年3月29日追記
◆大4ポケット/胸ポケットボタン露出

グエン・バン・チュー中将(写真左) [1966年]
(TCU型を除いて)珍しい4つポケットのタイプです。ウエスト周りには降下時の空気の侵入を防ぐドローコードが見受けられます。チュー中将の出身部隊は空挺ではありませんが、降下資格は持っていますし、当時空挺科幹部の独壇場だった軍事政権の中で新たな政権を発足させたチューですから、空挺科に舐められないよう、服で箔をつけるという目的があったのかも知れません。
  


2017年03月25日

ボタンとっかえ

ここ3ヶ月間、仕事で週に3・4日は家に帰れない状況が続いているので、さすがにお疲れモードになってます。
なので休日は家から出ず、チクチク軍服をいじる事で疲れを癒しています。


前にも書きましたが、ベトナムに行った時に良い作戦服用ボタンを仕入れてきたので、手持ちのレプリカ軍服のボタンをそのベトナム製ボタンに交換する作業を進めています。


外したボタンは今後何かに使えるかもしれないので、全部保管しています。




◆東京ファントム(日本)製 2ポケット型ERDL迷彩 (半袖改造) 空挺師団仕様



◆東京ファントム(日本)製 2ポケットERDL迷彩 海兵旅団仕様



パンツァーファウスト(香港)製 2ポケット空挺型 ブラッドケーキ迷彩



実物レンジャー・エアボーン迷彩生地を使用した2ポケット型のリプロ 空挺師団仕様
こちらは上記のベトナム製ボタンではなく、当時の実物ボタン(たぶん)に交換しています。



(メーカー失念、日本製) 2ポケット型 クラウド・ナショナルポリス迷彩 第222野戦警察群仕様
軍と同じ緑ボタンでも良かったのですが、黒ボタンの方が警察っぽさが出るかなと思い、形の似たもので代用しています。またポケットの位置、形状も大幅に変更しました。過去記事警察迷彩服の続き』参照

 


あとは、朝起きたらハワイのウクレレガールズ Honoka & Azita (ホノカ&アジータ)の動画を見て、出来るだけ現実から目をそらすようにしています。いいなぁ、ハワイ。南国。常夏。まぢパラダイス。

  


2017年03月18日

トレーニング

 先週末、SAITAMA101さんが開催しているリエナクトメント・トレーニング会、略してリナトレに2日間参加させていただきました。リナトレはアメリカ陸軍第101空挺師団が行う演習という設定ですので、僕ら3名のベトナム兵ベトナム陸軍空挺師団からの研修生という体でお邪魔しました。SAITAMA101さんも僕らもベトナム戦争のリエナクトを目指していますが、今回は、昼間はともかく夜はコップに入ったコーラが凍るくらい寒かったので、ここはきっとベトナムではなく米国本土の演習場です。

<当日行った内容>

・ミディアムテント、CPテント設営



・基本教練 - 静止間の動作(気を付け、休め、整列休め、敬礼、右向け右、回れ右、駆け足からの停止)
・基本教練-分隊行動(集合、整頓、番号、行進、駆け足)
・戦闘訓練 - ほふく前進(第一~第四ほふく、尺取り虫)



・演習 - パトロール、負傷者発生、ダストオフ(緊急脱出)


▲ダストオフに使用したCPのM151A2トラックと衛生隊のM718A2救急トラック
衛生隊は現場に到着すると負傷者を担架に乗せ現場でトリアージ、救急トラックに載せ、後方に搬送します。
パトロール隊の出発から後方搬送までを全て通してやるので、実際にやってみると(戦闘中の搬出という体なので)現場では混乱が生じ、重傷者と軽症者を取り違えてしまったりと、すんなり行くものではありませんでした。この混乱もまたリアリティがありますね。

こうして訓練は無事終了しました。本当に沢山の事を学べた二日間でした。
終了後、米軍側より今後もベトナム軍の参加を歓迎すると仰っていただけたので、またの機会を楽しみにしています。
また教練の内容はマニュアル化して、今後のイベントで実践していきたいと考えていますface02



後日談


後日、リナトレの時に撮ったこの写真をFacebookに載せたら、ベトナムとアメリカ人から、「こんな腹の出た軍人いねーよwww」と馬鹿にされてイラッときた。きぃぃぃ!ムカつくーー!そのあとすぐにホア少尉らNKTベテランの方々が僕をかばう書き込みしたら、そいつらは黙っちゃったけど。
でも確かに、自分でも太り過ぎたと思う。会う人みんなに「太ったねぇ・・・」と言われる。そして何より、軍服のズボンがどんどん履けなくなっていく・・・。という訳で、本気でダイエットする事にしました。逃げ道作ってるといつになってもやらないので、期限を区切って、今年の年末までに成果を出すことを宣言します。

今から12、3年前。毎日登山、水泳、片道8kmの自転車通学してた頃。
-18kgか・・・長い道のりだ・・・。
  


2017年03月05日

ベテランの軍装

 ベトナム共和国軍は1975年4月30日の敗戦によって解体されましたが、当の共和国軍人たちにとって、彼らが最後に受け取った正式な命令は、4月30日午前10時30分にズオン・バン・ミン総統から下された『戦闘停止』までと認識されています。
 なぜなら午前12時にミン総統が全面降伏とベトナム共和国政府・軍・警察の即時解散をラジオ放送を通じて命じた時点で、ミン総統は既に共産軍に拘束されており、この降伏声明は共産軍側が用意した原稿を無理やり読まされたもので正式な命令ではないと考えられているからです。総統府(独立宮殿)が占領されミン総統が拘束された時点で、ミン総統は憲法が定める政府を代表する職権を遂行できない状態にあり、その状態で発せられた命令に効力は無いと軍人たちに受け取らています。
 そのためベトナム共和国軍は1975年に離散はしたものの、解散はしておらず、彼ら軍人も事実上復員しただけで、正式な退役はしていません。なのでこの状態を表す日本語としては残党』が当てはまると思いますが、残党はあまり聞こえの良い言葉ではないですし、実際には軍事的な活動もしていないので、僕は彼らのこと事を復員軍人もしくはベテラン*と呼ぶことにしています。(Veteranは日本では退役軍人と訳されますが、必ずしも退役している必要はなく、言わば『古参兵』を意味する言葉です。)
 従って彼らベテランは終戦から40年以上たった現在もベトナム共和国と共和国軍に『所属』しており、その軍服のデザインは彼らの歴史と誇りを語り継ぐ『現役』の制服として、今もベテランの方々に式典や会合などで着用されています。


作戦服

 当時ベトナム共和国軍将兵の大半は日ごろから作戦服(Quân phục Tác chiến)を勤務服として着用していたため、ベテランの方々も作戦服を着て式典に参加される事が多いです。しかし彼らは軍装マニアではないので、高価な実物やレプリカを購入する人はごく一部であり、殆どの人は住んでいる街の洋服屋やサープラスショップで購入した代用軍服を着用しています。その為、服の形状や迷彩柄はバラバラな事が多いです。世の中にはマニア向けの高価なレプリカ軍服がたくさんありますが、ベテランたちが着ている服は一セットの30ドルほどの中古BDUに過ぎません。しかし彼らが軍人としてそれを着た瞬間、その服はまぎれもない『本物』の共和国軍軍服になるのですから、どんな気合入ったコスプレもこれには敵いませんね。


<オリーブグリーンBDUおよびユーティリティユニフォーム、その他で代用>

▲陸軍歩兵科(Bộ Binh)


陸軍装甲騎兵科(Thiết Giáp Kỵ Binh)


▲憲兵隊(Quân Cảnh)


技術局連絡部"雷虎"偵察チーム(Biệt kích Lôi Hổ / Sở Liên Lạc / Nha Kỹ Thuật)、通称MACV-SOGの作戦時の個人装備


地方軍(Địa Phương Quân)


地方軍独立偵察中隊(Đại Đội Trinh sát biệt lập / Địa Phương Quân)、英語名PRU


<ウッドランドBDUで代用>

▲陸軍レンジャー科(Biệt Động Quân)


▲陸軍特殊部隊科(Lực Lượng Đặc Biệt)/空挺コマンド部隊(Biệt Cách Nhẩy Dù)


<仏軍その他のリザード系迷彩服で代用>

陸軍空挺科(Nhẩy Dù)


アパレル各社のタイガーストライプ系迷彩服で代用>

海兵隊(Thủy Quân Lục Chiến)


技術局連絡部"雷虎"部隊(Biệt kích Lôi Hổ / Sở Liên Lạc / Nha Kỹ Thuật)


技術局作戦部"黒龍"部隊(Biệt kích Hắc Long / Sở Công Tác Nha Kỹ Thuật)


<6カラーデザート迷彩BDUで代用>

▲国家警察野戦警察隊(Cảnh Sát Dã Chiến)/武装支援隊(Yểm Trợ Võ Trang)


<米軍パイロットスーツはまたは民間のカバーオールで代用>

▲空軍パイロット(Phi công Không quân)


黒色のアオババ>

技術局沿岸警備部"特海"部隊(Lực Lượng Biệt Hải / Sở Phòng Vệ Duyên Hải / Nha Kỹ Thuật)
黒色のアオババ(Áo bà ba)は外国人から『ブラックパジャマ』と呼ばれベトナム共産ゲリラの代名詞とされていますが、当時のベトナムでは極ありふれた作業着であり、政府軍でも特に海軍や水上部隊が作業着として好んで使用しました。※ただし当時はパッチはほとんど付けていません。


農村開拓団(Xây Dựng Nông Thôn)
黒色のアオババやシャツはベトナム国民の多数を占める農業労働者を象徴する服として、全国で数百万人が所属した人民自衛団(NDTV)や農村開拓団(XDNT)などの民兵・自警団組織では制服としても使われていました。同時にベトコンも政府軍と同様に、貧しい農家の味方である事をアピールすため同じ服をゲリラだけでなく常設戦闘部隊の戦闘服に採用していました。


正装

 元士官候補生や将校は当然ながら全員職業軍人であり、終戦後も共和国軍への強い帰属意識を維持しておられます。そのため式典の際には作戦服だけでなく、勤務服以上の正装を着用することがままあります。これら正装は、アメリカ軍の制服などで代用できるものは代用されるものの、デザイン的に大きく異なる物に関しては、ベテラン向けのリプロ業者が製作したものが使用されています。中でも元PRU将校のフン少尉は全米で最大のベテラン向けリプロ業者であり、少尉の店に行けば共和国軍の殆どの部隊の制服が手に入るところまでラインナップを充実させておられます。なお、これらベテラン向けリプロは我々マニア向けではないので、当時の物を細部まで再現する事は目的としていません。なので、サイズや材質は当時の物とは一目見て分かるほど別物です。しかし本物の軍人たちが使用する為の物である以上、これらも先述の代用品と同様に、レプリカではなく現在製の本物と言っていいと僕は思っています。

▲カリフォルニアのフン少尉のお店にて。2015年に初めて訪問し、2016年12月にもお会いしてきました。


▲陸軍士官 外出服(Quân phục Dạo phó)


海軍士官 冬季外出服(Quân phục Dạo phó Mùa đông)


海軍士官、士官候補生、下士官・水兵 夏季勤務服(Quân phục Làm việc Mùa hè)、外出服(Quân phục Dạo phó Mùa hè)




国家警察 勤務服、夏季外出服、作戦服


女性軍人(Nữ Quân nhân)外出服


幼年学校生徒(Thiếu Sinh Quân)準礼服、大礼服


空軍士官候補生およびベトナム国立武備学校士官候補生 大礼服(Quân phục Đại Lễ)
青が空軍士官候補生、赤がベトナム国立武備学校(Trường Võ Bị Quốc Gia Việt Nam)の大礼服です。


ベトナム国立武備学校(Trường Võ Bị Quốc Gia Việt Nam)士官候補生 夏季準礼服(Quân phục Tiểu Lễ Mùa hè)
なんと服だけでなく縮小版のダラットの校門まで作って再現います。


▲空軍士官候補生 夏季外出服


トゥドゥック武科学校群・歩兵学校(Liên Trường Võ Khoa & Trường Bộ Binh Thủ Đức)予備士官候補生 大礼服
白が武科学校群時代(1960年代前半)、カーキが歩兵学校時代(1960年代後半以降)の大礼服です。



ゥドゥック歩兵学校(Trường Bộ Binh Thủ Đức)予備士官候補生 夏季準礼服


ドンジェ軍校(Quân trường Đồng Đế)予備士官候補生 夏季準礼服


▲国家警察アカデミー(Học Viện Cảnh Sát Quốc Gia)士官候補生 外出服、勤務服



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 話は変わって、ちょっと小言を。今月のコンバットマガジン(2017年4月号)に載っていた菊月俊之氏のベトナム戦争特集の中の、『南ベトナム軍』の部分には正直がっかりしました。氏が米軍軍装に大変お詳しい事は私も承知していますし、専門外の南ベトナム軍について知らない事があるのは決して恥ずかしい事ではありませんが、興味も無いのに知ったかぶりして明らかな間違いや決めつけを書かれていたのはとても残念に感じました。
 私は基本的に、他人が個人ブログやサイトで間違った事を書いていても無視しています。しかしコンバットマガジンが何冊売れているのかは知りませんが、全国で売っているのだから少なくともウチみたいな一日200~500ビューくらいの個人のブログなんかよりはるかに多くの読者が居るはずです。またライターさんは素人ではなく、仕事としてお金をもらって記事を書いている訳ですから、今回は厳しめに苦言を呈します。

 加えて、コンバットマガジンはなぜかベトナム戦争終結41周年目の去年に終戦40周年記念特集号(2016年5月号)を出してましたが、その時も、ミリタリー雑誌のベトナム戦争(特にベトナム共和国)に対する認識は所詮こんなものか、という残念な感想しか抱けませんでした。(なのでこの号はむしろ菊月氏の米軍個人装備ガイドブックだけを目当てに買いました)
 商業誌は読者が読みたがってる記事を書かなきゃ商売にならないから、私みたいに好き勝手には書けないというのは分かります。しかしそうだとしても、日本国内には難民として来日しこの国に定住した約1万人の旧ベトナム共和国出身者と、日本で生まれたその家族たちが生活しています。また世界に目を広げれば、旧ベトナム共和国を祖国と仰ぐベトナム難民・移民の数は約300万人に上ります。彼ら反共派のベトナム人は1960年代から半世紀以上に渡って、大手メディアや自称『平和活動家』たちの歪んだ『正義感』の犠牲となってきました。ベトナム戦争を自身の思想を肯定するための道具にしようとする人々は、ベトコンが掲げる『民族解放』という言葉の気持ち良さに溺れ、反戦』という言葉をアメリカをバッシングする為だけに使い、一方でベトナム国民への恐怖政治と大量虐殺を繰り返すホー・チ・ミン政権とベトコンによる『解放戦争』を称賛し続けてきました。さらにその上、彼らはこの気持ち良い『正義』に相反するベトナム共和国政府と反共派ベトナム人を敵視し、終戦から40年以上経った今でも誹謗中傷の的としています。私はこのような一方的な正義感で立場の弱い人々を傷つけ、あまつさえ『良い事』をしたつもりになっている人々に強い憤りと軽蔑の念を抱いています。
 もちろん、コンバットマガジンがそのような政治思想に基づいた主張を行ったとは思っていません。記事に書かれていたのは、ベトナム戦争当時から日本国内で出回っていたごく一般的な論評であり、特別な事は何もありませんでした。しかし、その一般的な論評こそが、当時流行した反米運動、そしてその流れに迎合したメディアによって流布されたものであり、半世紀にわたって300万人の在外ベトナム人、そして数えきれない数のベトナム国民を落胆させてきたのです。
 ミリタリー、そして歴史を論ずるという事は、すなわち人間の命と人生を論ずる事に他なりません。戦争とは人間同士の憎悪と暴力の塊であり、たった40年くらいで遺恨が消えるようなものではありません。当事者はもちろん、第三者がいかに『公平』に語ろうとしても、それは必ずどちらか一方に利し、もう一方に不利と受け取られてしまいます。なのでもちろん、私が主張している事は、それと相反する立場の人々にとっては大変偏った暴論であると見做されているでしょう。しかし同時に、反対の立場の人々がどんなに自信満々に『正しい』と思う事を言ったところで、それによって傷つく人々が確実にいる事を忘れないで頂きたいです。私は、たまたまその弱い立場の人々と縁があったので、日本国内では声を上げにくい彼らに変わって、矢面に立って言うべきことを言わせてもらいます。




  


2017年02月26日

続・タイガーストライプの始まり

過去記事『タイガーストライプの始まり』の補足・訂正です。

※2017年3月1日加筆訂正

 まず、ベトナム海兵隊迷彩『Da Cọp(虎皮)』、通称タイガーストライプの原型となったのは、フランス軍の空挺部隊用迷彩(通称リザード迷彩)と言われてきましたが、それを裏付ける分かりやすい写真がM-51Parkaに関する2,3の事柄様のこちらの記事『サイゴン1955 あるいはタイガーストライプの始まり?』で紹介されています。
 一口にリザード迷彩と言っても様々なパターンがありまして、中でもタイガーストライプの原型となったのは、第一次インドシナ戦争末期に登場した、マニア間呼称で言うところのC1パターンと考えられています。フランスはフランス連合各国の空挺部隊に、このC1リザードパターン迷彩で作られたTAP47/52降下服TTA47系戦闘服を供与しており、それらの迷彩服はインドシナ諸国がフランス連合から独立した後も、1960年代まで各国の空挺部隊に使用されていきます。
※TAPとかTTAとかややこしいですが、TAPはTroupes AéroPortées(空挺部隊)、TTAはTreillis Toutes Armes(全兵科)を意味しており、同じ"Modèle 47"でも服の形が全然違います。

▲"C1パターン"TTA47/52型チュニックおよびTTA47/53型パンツ
画像引用: Vonstuck Camouflage

また、この時代のリザード系迷彩はパターンだけでなく色のバラつきも大きく、同じC1パターンであっても、全体が緑っぽく、茶色の部分がかなり黒っぽい、まるで別物のような柄があったようです。これらはあくまでフランス製のリザード迷彩なのですが、ぱっと見タイガーにしか見えません。

C1パターン亜種のTTA47/50または53型パンツ。
資料提供: デスボランティア様

 ベトナム海兵隊の新型迷彩は、当時ベトナム陸軍空挺部隊が使用していたフランス軍C1パターンをベースに、こういった亜種の影響も受けながら開発されたのではないかと推察されます。その為、現在タイガーストライプと呼ばれている迷彩の最初のモデル(通称VMX)は、ベースとなったC1と同じく、フランス軍TTA47系戦闘服の裁断で作られました。

VMXパターンTTA47戦闘服

▲フランス軍C1パターンとベトナム海兵隊VMSパターンの比較

 僕は今まで知らなかったのですが、タイガーストライプ研究のバイブルTIGER PATTERNSによると、1957年8月には既に最初のVMXパターンTTA47戦闘服が完成していたとしており、実際に1957年製造を示すベトナム国防省のスタンプの写真が掲載されています。なので『タイガーストライプの始まり』と言った場合、それは1957年まで遡れたんですね。やっぱり値段高い本は、高いなりに良い情報が載ってるんだなぁ。
 しかし1957年に開発とは言え、その時点ではタイガーストライプはまだ試作段階の迷彩であり、その服が海兵隊に制式採用され、大量発注・生産・納入されて実際に現場での着用が始まるまでには、やはり年月がかかりました。僕が他の研究者の方に意見を求めたところでも、実際にタイガーストライプの着用が確認できる最も古い時期の写真は概ね1960年頃のようです。

▲VMXパターンTTA47戦闘服を着用したベトナム海兵隊員
※これらの服の袖についているパッチは1950年代後半の海兵隊のもので、1960年に制定された新型(現在は初期型と呼ばれている)海兵隊章より前のタイプです。しかしパッチが1960年に制定されたとしても、実際に行き渡るのはもっと後なので、写真からでは50年代末~60年代初頭としか言えない感じです。その為、タイガーが50年代に支給されていたと断定できる写真はまだ発見されていないようです。

 このように最初に部隊への支給が始まったタイガーストライプはTTA47型からでしたが、1960年代以降TTA47に代わってベトナム共和国軍の標準的な戦闘服となる貼り付け2ポケット裁断(通称ARVN型/M59)のタイプも、1958年製造スタンプが確認されているとデスボランティア様より情報を頂きました。なんと!貼り付け2ポケット裁断はこんな早い時期に存在していたんですね!(つまりM59という呼び方は無意味になりますね)

▲1958年製が確認されたベトナム海兵隊『貼り付け2ポケット型』
1960年代以降、この貼り付け2ポケット型は海兵隊のみならずベトナム共和国軍全体の標準作戦服となり、一般部隊向けのオリーブグリーン単色が陸海空軍で広く用いられます。さらにその後、エポレットを追加し各種迷彩生地で作られた迷彩服型や、主にオリーブグリーン単色で肩当を省略した簡略型もしくは肩当なしエポレット追加型が終戦まで全軍で広く用いられました。

※それまでフランス軍式の野戦服を使っていたベトナム軍が、アメリカ軍のユーティリティユニフォームに似たデザイン(特にパンツ)を採用した背景には、当時ゴ・ディン・ジエム政権がアメリカからの支援に依存を強めていった事と同時に、国内での生産が間に合わなかったため、これら迷彩服の生産の大部分を同じ親米国家の日本や韓国に委託していた事が影響していたのではないか、という考察をデスボランティア様からご指摘いただきました。

 しかし、当初タイガーストライプ迷彩服の生産は先に登場したTTA47型が優先されていたようで、手持ちの写真を見た限りでは、現場に支給されるタイガーがTTA47から2ポケットに切り替わるのは1961~62年頃のようです。

VMXもしくは1stパターンの2ポケット戦闘服を着用したベトナム海兵隊員[1962年]

 以上が、ベトナム共和国海兵隊がタイガーストライプを着用するまでの流れになります。それ以降は米軍がCIDGに支給するために海兵隊迷彩のコピー品をアジア各国で生産させたことで種類が多くなり過ぎて、ちょっと僕には付いていけません(汗)


おまけ

海兵隊つながりで、ちょっとレアな写真

 
▲『初期型』と呼ばれる海兵隊胸章が使われてる写真。
僕はこの胸章をこの写真でしか見た事ありません。なので本当に初期型なのか怪しいと思ってます。もしかしたら一般的な丸い胸章と同時期に存在したバリエーションなのかも。
ちなみにこの女性は髪型からして軍の婦人隊員ではなく、おそらく兵士の彼女が彼氏の軍服を着て写真館で撮ったものだと思います。

 
▲ジエム政権末期の1963年頃だけ使われていた海兵隊の帽章(ベレー章)
1963年11月1日のクーデターでジエム政権が崩壊すると、この1963年式帽章はすぐに廃止されて、改定前のタイプに戻ります。

▲海兵隊胸章を訳の分からない場所に付けてる人の図
たぶん、こうした理由は「カッコいいと思った」からなんだろうな・・・
  


2017年02月04日

最近やってたこと

足温器に包まり、椎名恵のLOVE IS ALLをリピートで聴きながらやってた事。




国旗とか



歴代指揮官リストとか

出典: Command histories and historical sketches of RVNAF divisions, アメリカ合衆国国務省

第1軍団
(1957年5月11日付の参謀総本部指令『2,145/TTM/1/1/MK』に
基づき1957年6月1日創隊)
中将 Thai Quang Hoang* 11/23/56 10/15/57
中将 Tran Van Don 10/15/57 12/07/62
少将 Le Van Nghiem 12/07/62 08/21/63
少将 Do Cao Tri 08/21/63 12/11/63
中将 Nguyen
Khanh 12/11/63 01/30/64
少将 Ton That Xung 01/30/64 11/14/64
中将 Nguyen Chanh Thi 11/14/64 03/14/66
少将 Nguyen Van Chuan 03/14/66 04/09/66
中将 Ton That Dinh 04/09/66 05/15/66
少将 Huynh Van Cao 05/15/66 05/30/66
中将 Hoang Xuan Lam 05/30/66 05/03/72
中将 Ngo Quang Truong 05/30/72
* 日付は第1軍管区の前身である旧第2軍管区司令への就任日






第2軍団
(1957年10月1日創隊)
少将 Tran Ngoc Tam 10/01/57 08/13/58
少将 Ton That Dinh 08/13/58 12/20/62
中将 Nguyen
Khanh 12/20/62 12/12/63
中将 Do Cao Tri 12/12/63 09/15/64
少将 Nguyen Huu Co 09/15/64 06/25/65
中将 Vinh
Loc 06/25/65 02/28/68
中将 Lu
Lan 02/25/68 09/28/70
中将 Ngo
Dzu 09/28/70 05/10/72
少将 Nguyen Van Toan 05/10/72
少将 Pham Van Phu 12/01/74 02/02/75






第3軍団
(1959年6月1日仮編成, 1960年5月20日正式創隊)
中将 Thai Quang Hoang 03/01/59 10/11/59
中将 Nguyen Ngoc Le 10/11/59 05/06/60
少将 Le Van Nghiem 05/06/60 12/07/62
少将 Ton That Dinh 12/07/62 01/05/64
中将 Tran Thien Khiem 01/05/64 02/02/64
少将 Lam Van Phat 02/02/64 04/04/64
中将 Tran Ngoc Tam 04/04/64 10/12/64
准将 Cao Van Vien 10/12/64 10/11/65
少将 Nguyen Bao Tri 10/11/65 06/09/66
中将 Le Nguyen Khang 06/09/66 08/05/68
中将 Do Cao Tri* 08/05/68 02/23/71
中将 Nguyen Van Minh 02/23/71 10/29/73
中将 Pham Quoc Thuan 10/29/73 10/23/74
中将 Du Quoc Dong 10/23/74 02/01/75
中将 Nguyen Van Toan 02/01/75 04/30/75
* 1971年2月23日ヘリコプター墜落により戦死






第4軍団
(1963年1月1日創隊)
少将 Huynh Van Cao* 01/01/63 11/04/63
少将 Nguyen Huu Co 11/04/63 03/04/64
少将 Duong Van Duc** 03/04/64 09/13/64
少将 Nguyen Van Thieu 09/15/64 01/20/65
中将 Dang Van Quang 01/20/65 11/23/66
少将 Nguyen Van Manh 11/23/66 02/29/68
中将 Nguyen Duc Thang 02/29/68 07/01/68
中将 Nguyen Viet Thanh*** 07/01/68 05/04/70
少将 Ngo
Dzu 05/04/70 08/24/70
中将 Ngo Quang Truong 08/24/70 05/04/72
少将 Nguyen Van Nghi 05/04/72
少将 Nguyen Khoa Nam 01/01/74 Suicide
* 1963年11月1日クーデターの直後に更迭
** 1964年9月13日クーデターを試み未遂に終わる
*** 1970年5月2日ヘリコプター墜落により戦死












第1歩兵師団
大佐 Le Van Nghiem 01/01/55 12/15/55
大佐 Nguyen
Khanh 12/15/55 08/14/57
大佐 Ton That Dinh 08/14/57 08/09/58
大佐 Nguyen Van Chuan 08/09/58 07/30/59
大佐 Ton That Xung 07/30/59 12/02/60
大佐 Nguyen Duc Thang 12/02/60 10/01/61
大佐 Nguyen Van Thieu 10/01/61 12/08/62
大佐 Do Cao Tri 12/08/62 12/12/63
大佐 Tran Thanh Phong 12/12/63 02/19/64
准将 Nguyen Chanh Thi 02/19/64 10/21/64
准将 Nguyen Van Chuan 10/21/64 03/14/66
准将 Phan Xuan Nhuan 03/14/66 06/18/66
少将 Ngo Quang Truong 06/18/66 08/23/70
少将 Pham Van Phu 08/23/70 11/12/72
准将 Le Van Thao 11/12/72 10/31/73
大佐 Nguyen Van Diem 10/31/73






第2歩兵師団
大佐 Ton That Dinh 01/01/55 11/02/56
中佐 Dang Van Son 11/22/56 06/14/57
中佐 Le Quang Luong 06/14/57 08/23/58
大佐 Duong Ngoc Lam 08/23/58 06/08/61
大佐 Lam Van Phat 06/08/61 06/18/63
大佐 Truong Van Chuong 06/18/63 01/30/64
准将 Ton That Xung 12/06/63 01/30/64
准将 Ngo
Dzu 01/30/64 07/29/64
大佐 Nguyen Thanh Sang 07/29/64 10/15/64
少将 Hoang Xuan Lam* 10/15/64 01/10/67
少将 Nguyen Van Toan 01/10/67 01/22/72
准将 Phan Hoa Hiep 01/22/72 08/27/72
准将 Tran Van Nhut 08/27/72 04/30/75
* 1966年5月30日より第1軍団指令兼任






第3歩兵師団
准将 Vu Van Giai** 10/01/71 05/03/72
少将 Nguyen Duy Hinh 06/09/72
准将 Vu Quang Giai 1973 04/30/75
** 1972年5月3日指揮官の任を解かれる






第5歩兵師団
大佐 Vong A Sang 03/01/53 10/25/56
大佐 Pham Van Dong 10/25/56 03/18/58
中佐 Nguyen Quang Thong 03/18/58 09/16/58
大佐 Ton That Xung 09/16/58 11/19/58
中佐 Dang Van Son 11/19/58 08/03/59
大佐 Nguyen Van Chuan 08/03/59 05/20/61
BG Tran Ngoc Tam 05/20/61 10/16/61
大佐 Nguyen Duc Thang 10/16/61 12/20/62
大佐 Nguyen Van Thieu 12/20/62 02/02/64
准将 Dang Thanh Liem 02/02/64 06/05/64
准将 Cao Hao Hon 06/05/64 10/21/64
准将 Tran Thanh Phong 10/21/64 07/19/65
少将 Pham Quoc Thuan 07/19/65 08/15/69
少将 Nguyen Van Hieu 08/15/69 06/14/71
准将 Le Van Hung 06/14/71 09/04/72
准将 Tran Quoc Lich 09/04/72 11/07/73
大佐 Le Nguyen Vy 11/07/73 suicide






第7歩兵師団
中佐 Nguyen Huu Co 01/01/55 06/15/55
大佐 Ton That Xung 06/15/55 04/27/57
中佐 Ngo
Dzu 04/27/57 03/17/58
大佐 Tran Thien Khiem 04/17/58 03/30/59
大佐 Huynh Van Cao 03/30/59 12/22/62
大佐 Bui Dinh Dam 12/22/62 11/01/63
准将 Nguyen Huu Co 11/01/63 11/05/63
大佐 Pham Van Dong 11/05/63 12/02/63
准将 Lam Van Phat 12/02/63 02/02/64
大佐 Hui Huu Nhon 02/02/64 03/07/64
大佐 Huynh Vau Ton 03/07/64 09/16/64
准将 Nguyen Bao Tri 09/16/64 10/09/65
准将 Nguyen Viet Thanh 10/09/65 07/03/68
准将 Nguyen Thanh Hoang 07/03/68 01/16/70
少将 Nguyen Khoa Nam 01/16/70 01/01/74
准将 Tran van Hai 04/30/75 suicide






第9歩兵師団
大佐 Bui
Dzinh 01/01/62 11/07/63
大佐 Doan Van Quang 11/07/63 02/09/64
准将 Vinh
Loc 02/09/64 05/29/65
准将 Lam Quang Thi 05/29/65 07/03/68
少将 Tran Ba Di 07/03/68 10/26/73
准将 Huynh Van Lac 10/26/73






第18歩兵師団
大佐 Nguyen Van Manh 06/05/65 08/20/65
准将 Lu
Lan 08/20/65 09/16/66
准将 Do Ke Giai 09/16/66 08/20/69
少将 Lam Quang Thi 08/20/69 04/04/72
准将 Le Minh Dao 04/04/72






第21歩兵師団
中佐 Nguyen Bao Tri* 06/01/59 09/08/59
中佐 Tran Thanh Chieu 09/08/59 02/02/60
大佐 Tran Thien Khiem 02/02/60 12/01/62
大佐 Bui Hue Nhon 12/01/62 11/01/63
大佐 Cao Hao Hon 11/01/63 06/01/64
准将 Dang Van Quang** 06/01/64 01/20/65
大佐 Nguyen Van Phuoc 01/20/65 03/24/65
准将 Nguyen Van Minh 03/24/65 06/15/68
少将 Nguyen Vinh Nghi 06/15/68 05/03/72
准将 Ho Trung Hau 05/03/72 08/21/72
准将 Chuong Dzenh Quay 08/21/72 06/09/73
准将 Le Van Hung 06/09/73 Suicide
* 1957年10月16日第21歩兵師団の前身の第11軽師団指揮官に就任
** 1965年1月20日辞職






第22歩兵師団
中佐 Nguyen Van Chuan* 08/01/55
中佐 Le Huy Duyen* 02/19/57
中佐 Ho Van To* 06/14/57
中佐 Tran Thanh Chieu* 04/01/60 09/08/60
中佐 Nguyen Hao Tri 09/08/59 11/05/63
大佐 Nguyen Thanh Sang 11/05/63 02/05/64
准将 Linh Quang Vien 02/05/64 09/07/64
大佐 Nguyen Van Hieu 09/07/64 10/24/64
准将 Nguyen Xuan Thinh 10/24/64 04/01/65
准将 Nguyen Thanh Sang 04/01/65 06/28/66
准将 Nguyen Van Hieu 06/28/66 08/11/69
准将 Le Ngoc Trien 08/11/69 03/01/72
大佐 Le Duc Dat** 03/01/72 04/01/72
准将 Phan Dinh Niem 04/02/72
* 第22歩兵師団の前身の第14軽師団指揮官
** 1972年4月22日戦闘中行方不明






第23歩兵師団
中佐 Nguyen The Nhu* 08/01/55
中佐 Nguyen Van Vinh* 09/16/56
中佐 Bui
Dzinh* 04/09/58
中佐 Tran Thanh Phong 05/19/59 05/17/61
大佐 Le Quang Luong 05/17/61 12/14/63
准将 Hoang Xuan Lam 12/14/63 10/14/64
准将 Lu
Lan 10/14/64 08/20/65
准将 Nguyen Van Manh 08/20/65 11/24/66
准将 Truong Quang An** 11/24/66 09/09/68
准将 Vo Van Canh 09/09/68 01/25/72
准将 Ly Tong Ba 01/25/72 10/20/72
准将 Tran Van Cam 10/20/72 11/14/73
大佐 Le Truong Tuong 11/24/73
* 第23歩兵師団の前身の第15軽師団指揮官
** ヘリコプター墜落により戦死






第25歩兵師団
大佐 Nguyen Van Chuan 07/01/62 12/28/62
大佐 Lu
Lan 12/28/62 04/19/64
大佐 Nguyen Viet Dan 04/19/64 12/01/64
准将 Nguyen Thanh Sang 12/01/64 04/06/65
准将 Phan Trong Chinh 04/06/65 01/10/68
中将 Nguyen Xuan Thinh 01/10/68 01/25/72
准将 Le Van Tu 01/25/72 11/07/73
大佐 Nguyen Huu Toan 11/07/73






空挺師団
中佐 Do Cao Tri 03/01/55 09/01/56
大佐 Nguyen Chanh Thi 09/01/56 11/12/60
大佐 Cao Van Vien 11/12/60 12/19/64
中将 Du Quoc Dong 12/19/64 11/11/72
准将 Le Quang Luong 11/11/72






海兵師団
中佐 Le Quang Trong 10/01/54 01/16/56
少佐 Pham Van Lieu 01/16/56 07/31/56
大尉 Bui Pho Chi* 07/31/56 09/30/56
少佐 Le Nhu Hung 09/30/56 05/07/60
少佐 Le Nguyen Khang 05/07/60 12/16/63
中佐 Nguyen Ba Lien 12/16/63 02/26/64
中将 Le Nguyen Khang 02/26/64 05/05/72
准将 Bui The Lan 05/05/72
* 指揮官代理




今こんな気分だけど、あと2か月したら終わるので、それまでじっと耐えよう・・・
  


2017年01月25日

パッチの縫い付け

ベトナム共和国軍をはじめ1960~1970年代のインドシナ諸国の軍隊では、部隊章などの軍服に付けるパッチは米軍のような刺繍よりも、『シルク織り(通称シルク)』や『シルクスクリーンプリント(通称プリント)』製が一般的でした。これらシルク織りやプリント製パッチは服への縫い付け方が独特なので、今回は僕がこの趣味を始めたころ軍装趣味の先輩に教えてもらった縫い付け方をご紹介します。

まずパッチの他に、裏地にする布を用意します。一部の実物では裏地を使わず直接縫い付けられている場合もありますが、裏地があった方が厚みが出てヨレにくくなるので、基本的には裏地をあてた方がリアルになると思います。


裏地は服に付けた後はほとんど見えなくなるですが、見えないおしゃれという事で、今回は布の織目が当時っぽいダイソーの綿100%ハンカチ(礼装用ハンカチーフ)を使いました。また白布以外では、裏地にするためにリサイクルショップで300円で買ったオリーブグリーン色のズボンなんかも布を切り取って使ったりしています。


ハンカチを適当な大きさに切って、パッチの図柄の面を内側にして裏地と重ねて、図柄の縁(あえて2・3mm余白をつける場合もある)をミシンで縫い付けていきます。


プリント製は裏に図柄が透けて見えるので縁が分かりやすいですが、シルク織りは裏からでは見え辛いので、その場合は白色の裏地を使って、図柄を透かして見るといいと思います。(この際パッチ、裏地どちらを上にして縫っても問題ありません)

 

縁を縫い終わったら、縫い目から3・4mmくらい残して余分な布を切り取ります。この際、角の部分だけは縫い目のギチギリまで切り落としておくと、後でめくり返したときに綺麗に角を出す事が出来ます。
また裏地側の中心に、内側をめくり返す為の切れ目を入れます。(パッチを切らないように注意)


切れ目から全体をめくり返して、パッチの図柄の面を外側に出します。パッチの角は千枚通しなど先の尖った物で押し出し、角を綺麗に出してやります。


さらに縁の縫い目全体をアイロンで綺麗に整えます。


これでパッチ単体は完成。


あとはこのパッチをミシンで服の袖に縫い付けて完成です。縫い付ける糸の色はパッチによって様々ですが、色合いなんか気にせず何でも白糸で縫い付けられているパターンもかなり多いので、僕も毎回白糸で縫っちゃってます。


なおパッチ(SSI)を縫い付ける位置は、パッチの上端が肩の縫い目から20mmのところと書類上規定されているようですが、実際には30mm以上離れている例もあるので、大体で大丈夫です。



パッチ付けたついでに、東京ファントム製2ポケットERDL迷彩服リプロのボタンを、去年ベトナム行った時に大量に買ってきた超リアルなボタンに交換。


このボタンはベトナム戦争後、ベトナム人民軍の軍服に使うために共和国軍ボタンの金型をそのまま使って生産されたものだそうで、リアルで当然なのです。よく比べてみると色が若干違うみたいですが、ある意味、戦後製の『本物』と言えるかもしれません。


4月のベトベトで着る服がもう出来上がってしまった。気合い入りまくりんぐ!!!

  


2017年01月14日

警察迷彩服の続き

リプロお直し

以前『警察迷彩お直し』で手を付け始めてからしばらく放置していたリプロのベトナム国家警察迷彩服がとりあえず形になりました。

<新品状態>



<改造後>


 ジャケットはポケットの形を縫い直して、ボタンを別の物に交換、さらに自作のパッチを付けています。今後、もしやる気が出たらエポレットを追加して、半袖に改造しちゃってもいいかなと思ってます。パンツは特に面白くないので写真撮ってませんが、カーゴポケットを外して、ケツポケットは2ボタンのままマチの無い貼り付け式に改造しました。
 胸の部隊章は第222野戦警察群(Biệt Đoàn 222 CSDC)です。この部隊は要請に応じて全国に展開する即応部隊だったので、ヒストリカルイベントの際、他部隊と一緒に写真に写った時に、「その部隊は当時全く別の地域に居たので一緒に写っているのはおかしい」という状態にならないで済むので便利だなと思った次第です。しかしこの部隊内の構成はまだ調べ切れていないので、右袖に中隊パッチは付けていません。
※野戦警察の組織については過去記事『野戦警察』参照

▲第222野戦警察群と思しきパッチを付けた人たちが袖に第601中隊のパッチを(なぜか左袖に)付けている写真があったけど、まだ確証は得られていないので今回は作ってません。


野戦警察における階級章

 野戦警察はベトナム国家警察内の戦闘部隊(日本の警察で例えると警備部・機動隊)ですので、当然ながら隊員のほとんどは警察官であり、国家警察の階級章を身に着けていました。

 
▲国家警察の肩章式(制服用)階級章。この他に略式のスリーブ式(両肩)、バッジ式・金属バッジ式(胸に着用)が用いられました。

 しかし当時の写真を見ていると、野戦警察の将校の中にはしばしば警察ではなく陸軍の階級章を付けている者もいる事に気付きます。僕はこれらの例について当初、野戦警察は陸軍と共同で任務に当たる事もある戦闘部隊である為、陸軍側に階級を示すために警察将校が勝手に身に着けているものだと思っていました。ところがその後、どうもそうとは限らない事を示唆する写真が出てきました。

 この写真の撮影時期は不明ですが、皆作戦服姿で胸に警察戦誉勲章(Cảnh Sát Chiến Dự Bội Tinh)を佩用していることから、野戦警察における勲章授与式の写真だと思われます。ここに写っている兵士のほとんどは胸に警察下士官のバッジ式階級章を付けているのですが、真ん中のアーミーグリーン作戦服を着た人だけは、襟に陸軍中尉の階級章(刺繍)を付けています。そして彼の頭には、陸軍(一般兵科)将校用のベレーが乗っています。
 つまり彼は、陸軍の階級章を付けた警察官ではなく、正規の陸軍将校である可能性が高いという事が分かります。しかし警察の勲章を佩用し、胸ポケット上に青い警察のネームテープを付けている事からも、所属部隊は明らかに野戦警察のようです。なぜ野戦警察に陸軍将校が所属しているのでしょうか?
 これについて文献での確認はまだ取れていませんが、ある程度推測する事は可能です。まずベトナム共和国国家警察は、少なくともゴ・ディン・ジェム政権に対するクーデターによって軍事政権が発足した1963年11月以降、ベトナム共和国軍参謀総本部の指揮下にありました。歴代の国家警察長官や警察幹部は軍の高官が兼任しており、国家警察は国内の治安を担当する軍の下部組織という状態でした。テト攻勢の際のテロリスト射殺で知られる国家警察長官グエン・ゴック・ロアン少将も、元々は空軍の戦闘機パイロットでした。
 そのため軍人が警察に出向する事は決して珍しい事ではなく、中でも特に軍と共同で戦闘任務に当たる野戦警察は、より軍と近しい関係にあったと思われます。したがって当時の野戦警察に見られる陸軍の階級章を付けた者たちの中には、軍から警察に出向している陸軍将校が多く含まれているはずと推測しています。



今後の製作物

 警察の階級章欲しいけどレプリカ売ってないし、自作するにも銀テープの織り目が独特だから材料が無いんだよね。どこかに良い代用品ないかなぁ~と探してたら、ありましたよ。我らがダイソーに。


100円で階級章10人分くらい作れる。うひひ
  


2017年01月09日

ベトナム空挺の降下作戦1955-1975

 先日ジャンクションシティー作戦について記事を書きましたが、ジャンクションシティー作戦と言えばベトナム戦争中アメリカ軍が行った唯一のエアボーン作戦として有名ですよね。一方、第1次インドシナ戦争中に40回以上のエアボーン作戦に参加していたベトナム空挺部隊(フランス植民地軍時代含む)は、ベトナム戦争においても度々エアボーン作戦を実施していました。以下は1955年から1975年までにベトナム共和国軍が行ったエアボーン作戦の概要です。


ベトナム共和国軍空挺部隊のエアボーン作戦

空挺部隊が降下した地点
黒が陸軍空挺部隊(Binh Chủng Nhẩy Dù)
青がマイクフォース(Lực lượng xung kích cơ động)

 ヘリコプターの性能向上によってヘリボーンによる迅速な展開・強襲が可能になったことから、第1次インドシナ戦争期と比べるとエアボーン作戦の回数はかなり少なくなりましたが、それでも大規模な戦闘降下作戦は少なくとも13回は実施されたようです。
 なお、マイクフォースは特殊部隊の指揮下にありましたが、マイクフォース自体は小人数で偵察や破壊工作を行うコマンド部隊ではなく、中隊規模以上の戦力でエアボーンまたはヘリボーンによる強襲を行大規模な空中機動部隊でした。

日付: 1955年9月23日・24日
降下部隊: 空挺群
目的: ビンスェン派の掃討
領域: ベトナム共和国ジアディン省ズンサック

日付: 1962年3月5日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 守備隊の支援
領域: ベトナム共和国タイニン省ボートゥック

日付: 1962年7月14日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 待ち伏せ攻撃の支援
領域: ベトナム共和国ジアディン省サイゴン北部

日付: 1963年1月2日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 第7歩兵師団の支援(アプバクの戦い)
領域: ベトナム共和国ディントゥオン省アプバク

日付: 1965年8月3日
降下部隊: 空挺旅団
目的: ドゥッコー特殊部隊キャンプ奪還の支援
領域: ベトナム共和国プレイク省ドゥッコー

日付: 1965年11月
降下部隊: 空挺旅団
目的: 解放戦線部隊への強襲
領域: ベトナム共和国ビンディン省アンケー

日付: 1966年3月3日
降下部隊: 空挺師団
目的: 敵部隊への強襲
領域: ベトナム共和国フーイェン省ソンコウ

日付: 1966年12月27日
降下部隊: 空挺師団
目的: 解放戦線支配地域中心部の強襲
領域: ベトナム共和国チュンティエン省

日付: 1967年4月2日
降下部隊: 特殊部隊第5MSFC(第5マイクフォース), 第1MSF大隊, 第2・第3中隊
作戦: ハーヴェスト・ムーン作戦
兵員: 356名
領域: ベトナム共和国クアンドゥック省
降下地点: Bu Prang CIDG訓練キャンプ
航空機: C-130輸送機
降下方法: 昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ

日付: 1967年5月13日午前6時
降下部隊: 特殊部隊第5MSFC(第5マイクフォース), 第1MSF大隊, 第3・第4・第5中隊および4.2インチ迫撃砲小隊
作戦: ブラックジャック作戦
兵員: 486名
領域: ベトナム共和国チャウドゥック省バイニュー
降下地点:バイニュー付近の水田
降下方法:  昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ, 高度200mより水田上に降下

日付: 1967年10月5日
降下部隊: 特殊部隊第2MSFC(第2軍団マイクフォース)第2MSF大隊, 第24中隊・第25中隊
作戦: ブルーマックス作戦
兵員: 250名
領域: ベトナム共和国クアンドゥック省
降下地点: Bu Prang CIDG訓練キャンプ
降下方法:  昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ

日付: 1968年11月17日
降下部隊: 空挺師団
目的: 特殊部隊による掃討作戦の支援
領域: ベトナム共和国チャウドゥック省バイニュー

日付: 1972年5月4日
降下部隊: 空挺師団
目的: 進軍ルート(チューパオ・パス)の確保
領域: ベトナム共和国コントゥム省チューパオ


ベトナム共和国軍特殊部隊の越境エアボーン潜入作戦

▲NKTのコマンド部隊がエアボーンによって潜入した地点
北ベトナム領だけで少なくとも30カ所に上る。(南カリフォルニアNKTアソシエーション資料より)

  特殊部隊が敵地に潜入するために行う小人数のエアボーン降下は、空挺部隊が行ったものよりもはるかに多くの回数が実施されました。また潜入のための降下作戦は、低高度を飛行する輸送機から順に飛び出す通常のスタティックラインジャンプだけでなく、潜入作戦という都合上、より隠密性を高めるためにHALO(高高度降下低高度開傘)を、しかも夜間に行っていた点が通常の空挺部隊とは大きく異なっていました。
 ベトナム共和国軍特殊部隊による北ベトナムへの越境潜入は、1961年に開始されたパラソル・スイッチバック作戦に始まります。作戦はアメリカ軍MAAGベトナムおよびCIAによって指揮され、ゴ・ディン・ジェム総統直属の特殊作戦機関『地理開拓局(後のLLĐB)』がその実行に当たりました。この作戦はコマンド隊員が北ベトナムまたはラオス領内にエアボーン降下で潜入した後、民間人に成りすまして敵支配地域内に長期間潜伏し、諜報および破壊活動を行うという大規模なスパイ工作でした。そのため潜入要員は南ベトナムから来た者だと悟られないよう北部出身のベトナム人はたはヌン族の兵士が選抜されました。
 ゴ・ディン・ジェム政権崩壊後の1964年、ベトナム共和国軍特殊部隊LLĐBの対外工作部門(第45室)はLLĐBから分離され、新たに参謀総本部直属の特殊作戦機関SKT(後のNKT)として再編されます。そしてそのSKT/NKTが行う対外作戦の立案・指揮をアメリカ軍MACV-SOGおよびCIAが担っていきます。以後、MACV-SOGが計画しNKTが実行した越境作戦は大きく分けて2系統ありました。

OP-34 / OP-36 ※1967年12月にOP-34からOP-36に改称
敵性地域内での直接的なサボタージュ工作。米軍SOG-36およびSOG-37が担当。作戦は任務によってさらに三段階に分類される。
・OP-34A / OP-36A: NKT沿岸警備局およびNKT第68群が実行。パラソル・スイッチバック作戦に続く長期または短期潜入・諜報・破壊工作。
・OP-34B / OP-36B: NKT第11群が実行。STRATA(短期監視・目標捕捉)チームによる機動的なロードウォッチ任務
・OP-34C / オペレーション・フォーレ: 心理作戦

OP-35
敵性地域への偵察、破壊活動。NKT連絡部『雷虎』と米軍SOG-35合同のC&C部隊が実行。



※以下は特殊部隊が実施した越境エアボーン潜入作戦の一部ですが、元が秘密作戦だけあって具体的な回数や細かい日付は把握できていないものが多いです。今後資料を見つけ次第加筆修正していきます。

日付:1961年から1964年にかけて複数回
降下部隊: 総統連絡部 地理開拓局北方部 第77群
作戦: パラソル・スイッチバック作戦
領域: 北ベトナム, ラオス
航空機: C-46輸送機

日付:1964年から1967年にかけて複数回
降下部隊: SKT第68群
作戦: OP-34A
領域: 北ベトナム, ラオス

日付:1968年から1973年にかけて複数回
降下部隊NKT第68群
作戦: OP-36A / エルデストサン作戦
目的: 敵の弾薬集積地に潜入し、敵の使う銃弾に爆発物を仕込んだ物を紛れ込ます事で、敵兵に自軍兵器への不信感を抱かせ戦意を削ぐ
領域: 北ベトナム, ラオス, カンボジア
航空機: C-130またはMC-130輸送機
降下方法: 夜間HALO

日付: 1970年11月
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, CCN,  チーム・フロリダ
作戦: OP-35
兵員: 9名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法: 高度6400mより夜間HALO

日付: 1971年2月
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, CCN,  チーム・アラスカ
作戦: OP-35
兵員: 9名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法: 高度6400mより夜間HALO

日付: 1971年4月15日
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, 第1強襲戦闘団, チーム・ワンゼロ
作戦: OP-35
兵員: 4名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法:  高度6400mより夜間HALO

日付:1970年から1971年にかけて13回
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, C&C部隊
作戦: OP-35
領域: 北ベトナム, ラオス, カンボジア
降下方法: スタティックラインジャンプ



おまけ

▲一昨年カリフォルニアでお世話になったレ・ホアン少尉の、
STRATA時代(当時19歳)の写真。

なんか面白い銃持ってますね。


(再現図)

発想としてはシンプルだけど、意外なほど今まで見た事ないパターンだったので目からウロコです。
  


2017年01月06日

ジャンクションシティー作戦におけるベトナム共和国軍部隊

新年あけましておめでとうございます。今年も年明けから平常運転で行きます。
来る4月8日・9日開催のベトベトマニアのテーマはズバリ、『ジャンクションシティー作戦』だそうです。
ベトベトマニアVol.3 -Operation JUNCTION CITY -
 ―エピローグ―
1967年2月、南ベトナム軍と米軍はタイニン省とサイゴン北西のカンボジア国境周辺の共産主義拠点を破壊する為に『ジャンクションシティー作戦』を発令、 第1歩兵部隊と第25歩兵部隊、 第 27歩兵連隊、第196軽歩兵旅団 、第173空挺旅団の空挺部隊、 第11装甲騎兵連隊の大型装甲部隊による大規模な戦闘を行うも全体的な成果を果たせなかった。カンボジア国境に隣接するベトベト地区には解放戦線第9師団が侵攻を開始し駐留する南ベトナム、米軍の混成師団は包囲される形となってしまった。弾薬、食糧は残り少なくこれを救出すべく第173空挺旅団が効果作戦を実施する。果たしてベトベト地区に残された混成師団の運命やいかに!
リエナクターを目指す以上、イベントが指定したシチュエーションに沿わない部隊を演じる訳にはいかないので、さっそくベトナム共和国軍部隊として堂々とジャンクションシティー作戦に参加する為の根拠集めを開始。以下はアメリカ陸軍指揮幕僚大学の戦史教本"Operation JUNCTION CITY, VIETNAM 1967" (1983)からの抜粋です。


 ジャンクションシティー作戦(Operation JUNCTION CITY)はアメリカ陸軍およびベトナム陸軍によって、C戦区(War Zone C)として知られるサイゴン北西のタイニン省周辺のにおいて実施された三段階の軍事作戦であり、1967年2月から5月にかけてベトナム共産ゲリラ(解放民族戦線)および北ベトナム軍(ベトナム人民軍)との戦闘が行われた。またアメリカ空軍もこの作戦の支援に加わった。
 作戦は在ベトナム・アメリカ陸軍第2野戦軍が実施し、本部をロンビンに、戦術司令部をダウティエンに置いた。作戦の指揮は3月24日までがジョナサン・O・シーマン(Jonathan 0. Seaman)中将、残りの期間をブルース・パーマー(Bruce Palmer)中将が執った。作戦部隊はジョン・ヘイ(John Hay)少将指揮の第1歩兵師団およびジョン・ティルソンIII世(John Tillson III)少将指揮の第25歩兵師団で構成された。ジャンクションシティー作戦に当たって、第1歩兵師団および第25歩兵師団の指揮下には、他の師団からも複数の有機旅団(Organic brigade: 編成に捕らわれず有機的に展開する旅団)が加わり、合計で22個の機動大隊および14個の砲兵大隊、加えてベトナム共和国軍3個大隊を指揮下に持ち、兵力はおよそ25,000名に上った。 

在ベトナム・アメリカ陸軍 第2野戦軍
ジャンクションシティー作戦 - フェーズI 作戦部隊の編成

第1歩兵師団

第1歩兵師団第1旅団
・第2歩兵連隊第1大隊
・第26歩兵連隊第1大隊
・第28歩兵連隊第1大隊
・タスクフォース・ウォーレス (ベトナム陸軍第3軍団『ウォーレス』戦闘団)
 ├ 第35レンジャー大隊 
  第1騎兵大隊第3中隊

第1歩兵師団第3旅団
・第16歩兵連隊第1大隊
・第2歩兵連隊第2機械化大隊
・第4騎兵連隊第1大隊
・第28歩兵連隊第2大隊

第173空挺旅団
・第503歩兵連隊第1大隊
・第503歩兵連隊第4大隊

第9歩兵師団第1旅団
・第39歩兵連隊第4大隊
・第47歩兵連隊第2(機械化)大隊
・第5騎兵連隊第3大隊


第25歩兵師団

第25歩兵師団第2旅団
・第27歩兵連隊第1大隊
・第27歩兵連隊第2大隊
・第5歩兵連隊第1機械化大隊

第4歩兵師団第3旅団
・第12歩兵連隊第2大隊
・第22歩兵連隊第2機械化大隊
・第22歩兵連隊第3大隊
・第14歩兵連隊第2大隊

第196軽歩兵旅団
・第1歩兵連隊第2大隊
・第21歩兵連隊第3大隊
・第31歩兵連隊第4大隊

・第11装甲騎兵連隊第1大隊
・第11装甲騎兵連隊第3大隊
・第23歩兵連隊第4機械化大隊

タスクフォース・アルファ (ベトナム海兵旅団A戦闘団)
・第1海兵大隊『怪鳥』
・第5海兵大隊『黒龍』


対して共産軍側の主力は南部中央委員会(COSVN)司令部を含む解放戦線第9師団であり、兵力はおよそ7,000名であった。

南部中央委員会
・第70親衛連隊

解放戦線第9師団
・第271連隊
・第272連隊
・第273連隊

ベトナム人民軍 第325師団
・第101歩兵連隊


アメリカ陸軍第25歩兵師団とベトナム海兵隊TFアルファ

 ジャンクションシティー作戦に参加したベトナム共和国軍3個大隊のうち、2個の海兵大隊からなるベトナム海兵旅団A戦闘団(Chiến Đoàn A TQLC)は、アメリカ陸軍第25歩兵師団の作戦指揮下でタスクフォース・アルファ(Task Force Alpha)としてベトナム・カンボジア国境沿いのタイニン省チャンスップに展開した。TFアルファの指揮官はホアン・ティック・トゥン(Hoàng Tích Thông)少佐、主任参謀をチャン・チュン・アイ(Trần Trung Ái)大尉が務めた。この米越合同作戦に際し、アメリカ陸軍第25歩兵師団のティルソン少将TFアルファの戦力向上のため二つのベトナム海兵大隊に新型のXM16E1ライフルを供与し、従来のM1ガランドとの置き換えが進められた。
 サイゴンに駐屯していたベトナム海兵隊TFアルファはジャンクションシティー作戦二日目の1967年2月23日にC戦区『蹄鉄(horseshoe)』エリアに投入され、『蹄鉄』エリアの西側を担当するアメリカ第25歩兵師団と合流した。部隊はこの日、地域の保安任務と中隊レベルでのサーチ&デストロイ作戦を実施した。
 翌2月24日、『蹄鉄』エリア北西のTFアルファはカンボジア国境に近い作戦エリア『クーガー』(AO Cougar)にヘリボーン降下し、南に向けて進撃した。この時点で敵の抵抗は軽微であった。
 2月25日から28日にかけて第25歩兵師団第2旅団および第11装甲騎兵連隊は敵の抵抗を受けながらも『蹄鉄』エリアの掃討に成功した。
 以後、第25歩兵師団はサーチ&デストロイの対象地域を広範囲に拡大したが、敵の攻撃は激化した。3月1日から9日にかけて第1歩兵師団指揮下の部隊には多数の死傷者が発生し、第25歩兵師団指揮下の第11装甲騎兵連隊付き第23歩兵連隊第4機械化大隊にも41名の死傷者が出た。しかし第11装甲騎兵連隊は引き続きカンボジア国境に沿って敵部隊の掃討を続け、3月11日には敵部隊の一部を川の東岸に追い詰め、撃破する事に成功した。
 こうしてジャンクションシティー作戦フェーズIが一定の成果を上げた事で、第2野戦軍はフェーズIIに向けて主要部隊の配置換えを開始した。この中でTFアルファは3月11日にジャンクションシティー作戦への参加を終了してサイゴンへと帰還した。


※2017年1月7日追記

アメリカ陸軍第1歩兵師団とベトナム陸軍TFウォーレス

 一方、蹄鉄』エリアの北部を担当するアメリカ陸軍第1歩兵師団第1旅団内には、ジャンクションシティー作戦に伴いベトナム陸軍第35レンジャー大隊および第1騎兵大隊第3中隊からなるウォーレス戦闘団(Task Force Wallace)が設置され、同旅団はビンズォン省ミンタンで出撃に備え編成が進められた。
 2月22日、ジャンクションシティー作戦フェーズI発動と同時に第1歩兵師団第1旅団は蹄鉄』エリア北部に3個大隊規模のヘリボーン強襲を実施し、その地でサーチ&デストロイ任務を遂行した。
 翌23日、同旅団はシャワー施設まで完備した大隊規模の敵軍ベースキャンプを発見した。この時点で戦闘は軽微であり、遭遇する敵は分隊規模かそれ以下であった。
 3月1日以降、旅団は断続的な戦闘を経た後、カツム北東に南部中央委員会(COSVN)宣伝センターを発見した。これを叩くため3月6日には、第1歩兵師団麾下の第173空挺旅団がカツムの南東Bo Tucの南に位置するLZに3個大隊規模のエアボーン強襲を実施した。一方、第1歩兵師団第1旅団は3月4日、フェーズIIに備えてビンロン省クァンロイに移動した。


 1967年3月15日17時24分、司令部はジャンクションシティー作戦フェーズIの終了を宣言した。アメリカ軍が『蹄鉄』エリアの掃討に成功した事で共産軍側の損害は少なくとも戦死者835名に上り、アメリカ軍は捕虜15名、小火器および重火器264個、その他莫大な量の物資と機材を接収した。
 その後もジャンクションシティー作戦は継続され、3月18日にフェーズIIが開始された。さらに4月15日にはフェーズIIIが開始され、5月14日の作戦終了まで戦闘は続いた。
  


2016年12月24日

野戦警察

ついにEAからベトナム警察迷彩服のリプロが発表されましたね!
この時を何年待ちわびたことか。日本への入荷が待ちきれません!



という訳で今回は、ベトナム共和国国家警察野戦警察部隊について、ベテランズアソシエーションのホームページで見付けた情報をいくつかご紹介します。
引用: Gia Đình Mũ Đỏ Việt Nam, Bộ Huy Hiệu Cảnh Sát Quốc Gia VNCH, BKT sưu tầm

※2016年12月25日加筆・修正


野戦警察の概要

野戦警察(Cảnh Sát Dã Chiến, CSDC)ベトナム共和国国家警察(Cảnh Sát Quốc Gia, CSQG)が保有する武装部隊であり、1965年1月27日に設立された。野戦警察は地域の秩序および安全の維持を目的とし、共産ゲリラによる破壊活動阻止及び国内の暴動の鎮圧を遂行した。野戦警察には陸軍歩兵部隊と同等の訓練・装備が施され、最終的に全国で約16,500名の警察官が戦闘任務に当たった。
野戦警察の士官は国家警察アカデミー(Học Viện CSQG)を卒業した後、共和国軍のトゥドゥック歩兵学校において軍の士官課程も修了する必要があった。また野戦警察の士官・下士官はマレーシアやフィリピンの訓練センターに派遣され、暴徒鎮圧やジャングル戦の訓練を受講した。一般の隊員はブンタウで警察官基本課程を修了した後、ダラットの野戦警察訓練センター(TTHL CSDC Ðà Lạt)において軍事および野戦警察の専門知識を学んだ上で部隊配属となった。

▲野戦警察の部隊章


野戦警察中隊 (省)
国家警察は各省の国家警察本部野戦警察中隊(Đại Đội CSDC)を1個中隊配置し、省付きとしては全国で計44個中隊が駐屯した。また各中隊にはその省の人口に応じた数の小隊が編成された。
例として第1戦略区最大のフエ―トゥアティエン省を管轄する第102野戦警察中隊は10-13個小隊、計500名の小銃兵で構成された。またトゥアティエン国家警察本部(BCH CSQG Thừa Thiên)の職員は野戦警察を含めて約5000名に上り、共和国軍の少佐が本部長を務めた。

戦略区/軍管区野戦警察中隊
1Quảng Trị101
Thừa Thiên102
Quảng Nam103
Quảng Tín104
Quảng Ngãi106
2Kontum201
Bình Định202
Pleiku203
Phú Bổn204
Phú Yên205
Darlac (BMT)206
Khánh Hòa 207
Quảng Đức208
Tuyên Đức209
Ninh Thuận210
Lâm Đồng211
Bình Thuận212
3Phước Long301
Bình Long302
Bình Tuy303
Long Khánh304
Bình Dương305
Biên Hòa306
Phước Tuy307
Tây Ninh308
Hậu Nghĩa309
Long An310
Gia Định311
4Định Tường401
Kiến Tường402
Gò Công403
Kiến Hòa404
Kiến Phong405
Vĩnh Bình406
Vĩnh Long407
Sa Đéc408
Châu Đốc409
Phong Dinh410
An Giang411
Ba Xuyên412
Bạc Liêu413
Chương Thiện414
Kiên Giang415
An xuyên417


野戦警察中隊 (自治都市)
省付きの他に、以下の6つの自治都市には野戦警察中隊が各1個中隊駐屯する。

戦略区/軍管区都市野戦警察中隊
1Đà Nẵng105
2Thị xã Cam Ranh?
3Thị xã Vũng Tàu?
Thị xã Long Bình?
Thủ đô Sài Gòn?
4Đảo Phú Quốc?


中央野戦警察群
野戦警察には地方を所管する野戦警察中隊の他に、サイゴンに駐屯する中央野戦警察群(Biệt Đoàn CSDC Trung ương)が二部隊存在した。
サイゴン市警察本部に駐屯する第5野戦警察群は、首都サイゴンおよびジアディン省の都市部を管轄し、11-14個の作戦中隊で構成された。
同じくサイゴン駐屯の第222野戦警察群は必要に応じて全国に派遣される国家警察本部直属の即応展開部隊であり、6個中隊で構成された。
なお各中央野戦警察群内の中隊は4個小隊で構成された。

戦略区/軍管区 地域 中央野戦警察群
首都特区・3 首都サイゴンおよびジアディン省 5
- 全国 222

第5野戦警察群(左), 第222野戦警察群(右)部隊章


特別警察本部
米国CIAの主導によるベトコンインフラ破壊工作『プロジェクト・フェニックス(Project Phoenix)』が開始されると、ベトナム国家警察はフェニックス計画の実行を指揮する特別警察(Cảnh sát Đặc Biệt)本部を軍団本部に設置した。警察の指揮下にはフェニックス計画の実行に当たる野戦警察、地方軍パトロール中隊(PRU)、CIDGキャンプおよび各民兵組織が集結し、市民への宣伝工作からベトコン容疑者の誘拐・暗殺まで様々な特殊作戦を統括した。

▲国家警察第1軍団特警察 部隊章


国家警察本部部隊

駐屯地部隊名部隊番号
サイゴン国家警察本部600
ブンタウ国家警察アカデミー士官候補生隊605



今回は発見できたのは主に野戦警察に関する事柄であり、他の警察組織についてはまだ不明な点だらけです。
とは言え上の野戦警察中隊リストを見る限りでは、制服の右袖に付ける丸い部隊章の数字は省を示す番号と思われ、恐らく野戦警察もその他の警察組織も共通だという事が分かったのは大きな収穫でした。
ただし500番台はリストには記載されておらず、どういった部署なのかはまだ把握できていません。

▲うちにある506のパッチ
正体が分かったら改造した警察迷彩服リプロに付けようと思ってたのに、まだ微妙なまま。
  


2016年12月03日

リュックのおまけ

先日知人が某所でオリジナルの『インディジネス・ラックサック』を入手しました。
これ自体かなりの掘り出し物だったのですが、さらにそのポケットの中から、面白いものが出てきました。


くしゃくしゃに丸まったB5サイズほどの紙2枚と、小さめの紙1枚です。あ!なんか出てきた~!と、思わぬおまけにみんなウキウキ。だけどそれはなかなかの古い紙で所々虫に食われており、無理に広げるとそのままボロボロと崩れそうなので、慎重を期して広げていきます。
するとその紙には、なにやらベトナム語が印刷されていました。おおー!これはもしかしたら、ベトナム戦争当時NKTやLLĐBなどのベトナム共和国軍特殊部隊員が使った当時の書類がそのまま入ってたんじゃないか!?と、一気に興奮しました。
でも誰もベトナム語が読めないので、それが何の書類なのかその場では分からず。なので僕がこれを借り受け、内容を調べる事になりました。
その後、一応自分でもGoogle翻訳を使って翻訳してみましたが、ベトナム人に読んでもらう方が確実なので、スキャンした画像を知り合いに見てもらったところ、以下の内容だという事が分かりました。

まず大きい紙の方は、何かの『返品請求書』だそうです。内容は記載されておらず、真ん中の表は注文商品、商品の説明、重量・サイズ、材質、数量、単価、合計金額がを記入する欄だそうです。また、このフォーマットの作成日は1983年3月24日と印刷されていました。

次に赤い印刷の紙は、手巻き煙草の巻紙のパッケージだそうです。こちらに印字されている日付は1988年9月12日となっていました。

両方とも1980年代の物なので、期待していたようにベトナム戦争時代の物ではありませんでしたが、これはこれで、このリュックが戦後も使われていた事の証拠と言えます。
1975年に戦争に勝利したハノイ政権は戦後、旧ベトナム共和国軍の装備品を接収し、戦闘機からブーツに至るまでベトナム人民軍の装備に加えてその後のカンボジアや中国との戦争に使用していきました。
なので1960年代初頭にアメリカ軍がCIDG向けの装備として設計したこのインディジネス・ラックサックも、戦後のベトナム人民軍で長らく使用されたそうです。
今回見つけたリュックが人民軍で使用された物かどうかはこれらの書類からだけでは判然としませんが、少なくとも80年代までベトナム国内で誰かに使われていた事は確かであり、このリュックが見てきたであろうベトナムの苦難の歴史につい思いを馳せます。

ちなみに、旧ベトナム共和国軍の装備品の一部は今でも人民軍で現役で使用されており、僕が今年ベトナムに行った時も、人民軍の基地近くの街道を米国製のM35トラックが何台も走っていました。またM113やXM706(V-100)装甲兵員輸送車もまだまだ現役であり、さらに近年、長年倉庫に眠っていたXM16E1/M16A1ライフルをカービン風に改修した『M18小銃 (Súng M18)』が新たに人民軍の特殊部隊に採用されるなど、いかに大量のアメリカ製装備が戦後も残っていたかを物語っていますね。

▲現在のベトナム人民軍陸軍の憲兵
車輌はともかく、M1ヘルメットやM69ボディーアーマーまで現役ってのには驚かされます。
決して物が無い訳ではないので、こうまでして使い続ける理由は多分、
単純に『見た目がカッコいいから』なんだろうなぁ。
  


2016年11月24日

撮影会

先月末から今月にかけて撮った写真です。


マイクフォース撮影会

参加者実質2名(笑) だからお互いに撮り合ったため、ピンの写真しかないです。
ロケーションは最高なので、またここでやりたいです。



マイクフォースではないけど、Pan American Airwaysさんと二人で、米軍のスナイパー(スポッター)ごっこもしました。
パッチさえ写ってなければ、ただのタイガー着た米兵さ!もしくは研修で米軍スナイパーチームのスポッターやってるベトナム兵。

ライフルはPan American Airwaysさんの並々ならぬこだわりで作らてた見事な米軍仕様のウィンチェスター・モデル70。
スポッティングスコープは実物のM49オブザベーションテレスコープです。50年前の品とは思えないほどのクリアな視界にびっくりしました。



前線司令部撮影会

こちらは総勢9名の大所帯(南べ的には)で撮影ができました。
市街戦で焼けた廃墟に設置された指揮所を想定しています。


 



楽しかった\(^_^)/


土浦秘宝館

何度行っても飽きない茨城の武器学校。
特にWW2~冷戦時代の車輛や銃器が好きな人にはお宝の山です。
今回は習志野から第一空挺団の人たちが来ていて、落下傘装着体験をやっていました。
なので『今回は』ちゃんと許可を得たコスプレです!

鉄帽は無かったのでライナー被ってます。
でも落下傘は中身の詰まった本物。
「引きたい。この綱引いて開傘したい。」と心の中で呟いていましたが、
ここを出禁にされるのは困るので、ぐっと我慢しました。

そういえば僕も高校生くらいまでは、自衛隊入るって息巻いてたなぁ。
ワンダーフォーゲル部に入ったのも、自衛隊に入るために体力付けるためだったし。
資料請求の手紙を出したら、地連の人が家に来ちゃって、両親と四者面談みたいになっちゃったし。
でも僕が自衛隊って騒いでたのは単にミリタリー趣味の延長で憧れてただけで、
真面目に仕事として考えた時に自分には務まりそうもないなと気付いてしまったので、結局志願する事はありませんでした。
よく考えたら趣味の面でも、特に自衛隊マニアって訳ではないし。
今思えば、勢いで入隊しないで良かったと思います。その後サラリーマンになった僕は、常に上司に楯突いて、
気に食わない指示は全て無視する問題児だったので、そもそも公務員が務まりません。
軍隊マニアのくせして一番軍隊に向かない性格なんです。
当然これではシャバでもうまく行かない事の方が多いので何度も打ちのめされたけど、
同時にこの性格のおかげで色々面白い体験ができたので、反省はあるけど後悔はしてないです。



おまけ: 久しぶりにお気に入りの歌

機械/妖精帝國
  


2016年11月19日

ベトナム共和国軍陸軍部隊一覧

また一覧表系。
地方軍、特殊部隊と来たら、正規の陸軍部隊をやらない訳にはいかないですよね。
まだ創設年や支援部隊など調べ切れていない部分はありますが、陸上戦闘部隊に関しては大隊単位まで大体(笑)網羅出来てると思います。

軍団師団旅団・連隊・群大隊・中隊
第1軍団第21機動群 (1953-1954)
第21師団 (1954-1955)
第1歩兵師団 (1955-)
第1歩兵連隊第1歩兵大隊(1/1)
第2歩兵大隊(2/1)
第3歩兵大隊(3/1)
第4歩兵大隊(4/1)
第2歩兵連隊
※11/1971 SD3BBへ異動
第1歩兵大隊(1/2)
第2歩兵大隊(2/2)
第3歩兵大隊(3/2)
第4歩兵大隊(4/2)
第3歩兵連隊第1歩兵大隊(1/3)
第2歩兵大隊(2/3)
第3歩兵大隊(3/3)
第4歩兵大隊(4/3)
第51歩兵連隊第1歩兵大隊(1/51)
第2歩兵大隊(2/51)
第3歩兵大隊(3/51)
第4歩兵大隊(4/51)
第54歩兵連隊 (6/1968-)第1歩兵大隊(1/54)
第2歩兵大隊(2/54)
第3歩兵大隊(3/54)
第4歩兵大隊(4/54)
(師団付き)第10砲兵大隊
第11砲兵大隊
第12砲兵大隊
第14砲兵大隊
第7騎兵大隊 (1966-)
第1工兵大隊
第1衛生大隊
第101憲兵中隊
第1偵察中隊
強襲中隊
第32機動群 (1953-1954)
第32師団 (1954-1955)
第2歩兵師団 (1955-)
第4歩兵連隊第1歩兵大隊(1/4)
第2歩兵大隊(2/4)
第3歩兵大隊(3/4)
第4歩兵大隊(4/4)
第5歩兵連隊第1歩兵大隊(1/5)
第2歩兵大隊(2/5)
第3歩兵大隊(3/5)
第4歩兵大隊(4/5)
第6歩兵連隊第1歩兵大隊(1/6)
第2歩兵大隊(2/6)
第3歩兵大隊(3/6)
第4歩兵大隊(4/6)
(師団付き)第20砲兵大隊
第21砲兵大隊
第22砲兵大隊
第23砲兵大隊
第4装甲連隊 (1955-1963)
第4騎兵大隊 (1963-)
第2工兵大隊
第102憲兵中隊
第3歩兵師団 (1971-)第56歩兵連隊第1歩兵大隊(1/56)
第2歩兵大隊(2/56)
第3歩兵大隊(3/56)
第4歩兵大隊(4/56)
第57歩兵連隊第1歩兵大隊(1/57)
第2歩兵大隊(2/57)
第3歩兵大隊(3/57)
第4歩兵大隊(4/57)
第2歩兵連隊 (11/1971-)
※1971年第1歩兵師団より編入
第1歩兵大隊(1/2)
第2歩兵大隊(2/2)
第3歩兵大隊(3/2)
第4歩兵大隊(4/2)
(師団付き)第30砲兵大隊
第31砲兵大隊
第32砲兵大隊
第33砲兵大隊
第11騎兵大隊 (1968-)
第3工兵大隊
第3衛生大隊
第103憲兵中隊
(第1軍団レンジャー)第1レンジャー群 (1966-1973)
第12レンジャー群 (1973-)
第21レンジャー大隊
第37レンジャー大隊
第39レンジャー大隊
第11レンジャー群 (1973-)第68国境レンジャー大隊 (1970-)
第69国境レンジャー大隊 (1970-)
第70国境レンジャー大隊 (1970-)
第14レンジャー群 (1973-)第77国境レンジャー大隊 (1970-)
第78国境レンジャー大隊 (1970-)
第79国境レンジャー大隊 (1970-)
第15レンジャー群 (1973-)第60国境レンジャー大隊
第61国境レンジャー大隊(1970-)
第94国境レンジャー大隊 (1970-)
※1973年第4軍団より編入
第87国境レンジャー大隊 (1970-)
※1974年 第8レンジャー群に異動
第1騎兵旅団 (1968-)第17騎兵大隊 (1968-)
第20騎兵大隊 (1972-)
(第1軍団砲兵)第1砲兵大隊
第3砲兵大隊
第44砲兵大隊
第64砲兵大隊
第101砲兵大隊
第102砲兵大隊
第105砲兵大隊
第1憲兵大隊
第1海軍管区
第1空軍師団
第2軍団第2軽師団 (1955-1956)
第4軽師団 (1955-1956)
第12軽師団 (1956-1959)
第14軽師団 (1956-1959)
第22歩兵師団 (1959-)
第40歩兵連隊第1歩兵大隊(1/40)
第2歩兵大隊(2/40)
第3歩兵大隊(3/40)
第4歩兵大隊(4/40)
第41歩兵連隊
※1973年 SD23BBへ異動
第1歩兵大隊(1/41)
第2歩兵大隊(2/41)
第3歩兵大隊(3/41)
第4歩兵大隊(4/41)
第24特殊戦団
第42歩兵連隊 (1969-)
※1969年SD22BBへ編入
第1歩兵大隊(1/42)
第2歩兵大隊(2/42)
第3歩兵大隊(3/42)
第4歩兵大隊(4/42)
第47歩兵連隊第1歩兵大隊(1/47)
第2歩兵大隊(2/47)
第3歩兵大隊(3/47)
第4歩兵大隊(4/47)
(師団付き)第220砲兵大隊
第221砲兵大隊
第222砲兵大隊
第223砲兵大隊
第14騎兵大隊 (1968-)
第22工兵大隊
第22衛生大隊
第22偵察中隊
第5軽師団 (1955-1956)
第15軽師団 (1956-1959)
第23歩兵師団 (1959-)
第41歩兵連隊
※1973年 SD22BBより編入
第1歩兵大隊(1/41)
第2歩兵大隊(2/41)
第3歩兵大隊(3/41)
第4歩兵大隊(4/41)
第44歩兵連隊第1歩兵大隊(1/44)
第2歩兵大隊(2/44)
第3歩兵大隊(3/44)
第4歩兵大隊(4/44)
第45歩兵連隊第1歩兵大隊(1/45)
第2歩兵大隊(2/45)
第3歩兵大隊(3/45)
第4歩兵大隊(4/45)
第53歩兵連隊第1歩兵大隊(1/53)
第2歩兵大隊(2/53)
第3歩兵大隊(3/53)
第4歩兵大隊(4/53)
(師団付き)第230砲兵大隊
第231砲兵大隊
第232砲兵大隊
第233砲兵大隊
第8騎兵大隊 (1966-)
第23工兵大隊
第23偵察中隊
第23政治戦中隊
第2騎兵旅団 (1971-)第19騎兵大隊 (1971-)
第21騎兵大隊 (1972?-)
(第2軍団砲兵)第4砲兵大隊
第37砲兵大隊
第63砲兵大隊
第69砲兵大隊
第103砲兵大隊
(第2軍団レンジャー)第2レンジャー群 (1966-1973)
第23レンジャー群 (1973-)
第11レンジャー大隊
第22レンジャー大隊
第23レンジャー大隊
第21レンジャー群 (1973-)第72国境レンジャー大隊 (1970-)
第89国境レンジャー大隊 (1970-)
第96国境レンジャー大隊 (1971-)
第22レンジャー群 (1973-)第62国境レンジャー大隊 (1970-)
第88国境レンジャー大隊 (1970-)
第95国境レンジャー大隊 (1970-)
第24レンジャー群 (1973-)第63国境レンジャー大隊 (1970-)
第81国境レンジャー大隊 (1970-)
第82国境レンジャー大隊 (1970-)
第25レンジャー群 (1973-)第67国境レンジャー大隊 (1970-)
※1973年第2軍団より編入
第76国境レンジャー大隊 (1970-)
※1973年第2軍団より編入
第90国境レンジャー大隊 (1970-)
?第71国境レンジャー大隊 (1970-)
?第80国境レンジャー大隊 (1970-)
第2憲兵大隊
第2海軍管区
第2空軍師団
第6空軍師団
第3軍団第6軽師団 (1955-1956)
第3野戦師団 (1956-1959)
第5歩兵師団 (1959-)
第7歩兵連隊第1歩兵大隊(1/7)
第2歩兵大隊(2/7)
第3歩兵大隊(3/7)
第4歩兵大隊(4/7)
第8歩兵連隊第1歩兵大隊(1/8)
第2歩兵大隊(2/8)
第3歩兵大隊(3/8)
第4歩兵大隊(4/8)
第9歩兵連隊第1歩兵大隊(1/9)
第2歩兵大隊(2/9)
第3歩兵大隊(3/9)
第4歩兵大隊(4/9)
(師団付き)第50砲兵大隊
第51砲兵大隊
第52砲兵大隊
第53砲兵大隊
第1装甲連隊 (1955-1963)
第1騎兵大隊 (1963-)
第5工兵大隊
第5偵察中隊
第10歩兵師団 (1965-1967)
第18歩兵師団 (1967-)
第43歩兵連隊第1歩兵大隊(1/43)
第2歩兵大隊(2/43)
第3歩兵大隊(3/43)
第4歩兵大隊(4/48)
第48歩兵連隊第1歩兵大隊(1/48)
第2歩兵大隊(2/48)
第3歩兵大隊(3/48)
第4歩兵大隊(4/48)
第52歩兵連隊第1歩兵大隊(1/52)
第2歩兵大隊(2/52)
第3歩兵大隊(3/52)
第4歩兵大隊(4/52)
(師団付き)第180砲兵大隊
第181砲兵大隊
第182砲兵大隊
第183砲兵大隊
第5騎兵大隊 (1963-)
第18工兵大隊
第18偵察中隊
第18憲兵中隊
第25歩兵師団 (1962-)第46歩兵連隊第1歩兵大隊(1/46)
第2歩兵大隊(2/46)
第3歩兵大隊(3/46)
第4歩兵大隊(4/46)
第49歩兵連隊第1歩兵大隊(1/49)
第2歩兵大隊(2/49)
第3歩兵大隊(3/49)
第4歩兵大隊(4/49)
第50歩兵連隊第1歩兵大隊(1/50)
第2歩兵大隊(2/50)
第3歩兵大隊(3/50)
第4歩兵大隊(4/50)
(師団付き)第250砲兵大隊
第251砲兵大隊
第252砲兵大隊
第253砲兵大隊
第10騎兵大隊 (1966-)
第25工兵大隊
第25通信大隊
第25偵察中隊
第3強襲団 (1974-)第3騎兵旅団 (1970-)第15騎兵大隊 (1968-1974)
第315戦闘団 (1974-)
第18騎兵大隊 (1968-1974)
第318戦闘団 (1974-)
第22騎兵大隊 (1974?)
第322戦闘団 (1974-)
第33レンジャー群 (1973-)第64国境レンジャー大隊 (1970-)
第83国境レンジャー大隊 (1970-)
第92国境レンジャー大隊 (1970-)
(第3軍団レンジャー)第3レンジャー群 (1966-1973)
第31レンジャー群 (1973-)
第31レンジャー大隊
第36レンジャー大隊
第52レンジャー大隊
第5レンジャー群 (1966-1973)
第32レンジャー群 (1973-)
第30レンジャー大隊
第33レンジャー大隊
第38レンジャー大隊
第6レンジャー群 (1968-)
※1974年総合予備部隊へ異動
第34レンジャー大隊
第35レンジャー大隊
第51レンジャー大隊
第65国境レンジャー大隊 (1970-)
第73国境レンジャー大隊 (1970-)
第74国境レンジャー大隊 (1970-)
第84国境レンジャー大隊 (1970-)
※1974年第8レンジャー群へ異動
第91国境レンジャー大隊 (1970-)
第97国境レンジャー大隊 (1970-)
※1975年第9レンジャー群へ異動
(第3軍団砲兵)第4砲兵大隊
第61砲兵大隊
第104砲兵大隊
第3憲兵大隊
第3海軍管区
第3河川管区
第3空軍師団
第5空軍師団
第4軍団第7機動群 (1953-1955)
第7軽師団 (1955-1956)
第7野戦師団 (1956-1959)
第7歩兵師団 (1959-)
第10歩兵連隊第1歩兵大隊(1/10)
第2歩兵大隊(2/10)
第3歩兵大隊(3/10)
第4歩兵大隊(4/10)
第11歩兵連隊第1歩兵大隊(1/11)
第2歩兵大隊(2/11)
第3歩兵大隊(3/11)
第4歩兵大隊(4/11)
第12歩兵連隊第1歩兵大隊(1/12)
第2歩兵大隊(2/12)
第3歩兵大隊(3/12)
第4歩兵大隊(4/12)
(師団付き)第70砲兵大隊
第71砲兵大隊
第72砲兵大隊
第73砲兵大隊
第6騎兵大隊 (1963-)
第7工兵大隊
第7衛生大隊
第7通信大隊
第7偵察中隊
第107憲兵中隊
第9歩兵師団 (1962-)第14歩兵連隊第1歩兵大隊(1/14)
第2歩兵大隊(2/14)
第3歩兵大隊(3/14)
第4歩兵大隊(4/14)
第15歩兵連隊第1歩兵大隊(1/15)
第2歩兵大隊(2/15)
第3歩兵大隊(3/15)
第4歩兵大隊(4/15)
第16歩兵連隊第1歩兵大隊(1/16)
第2歩兵大隊(2/16)
第3歩兵大隊(3/16)
第4歩兵大隊(4/16)
(師団付き)第90砲兵大隊
第91砲兵大隊
第92砲兵大隊
第93砲兵大隊
第2装甲連隊 (1955-1963)
第2騎兵大隊 (1963-)
第9工兵大隊
第9衛生大隊
第9通信大隊
第9憲兵中隊
第9偵察中隊
第11歩兵連隊 (1954-1955)
第1軽師団 (1955-1956)
第3軽師団 (1955-1956)
第11軽師団 (1956-1959)
第13軽師団 (1956-1959)
第21歩兵師団 (1959-)
第31歩兵連隊第1歩兵大隊(1/31)
第2歩兵大隊(2/31)
第3歩兵大隊(3/31)
第4歩兵大隊(4/31)
第32歩兵連隊第1歩兵大隊(1/32)
第2歩兵大隊(2/32)
第3歩兵大隊(3/32)
第4歩兵大隊(4/32)
第33歩兵連隊第1歩兵大隊(1/33)
第2歩兵大隊(2/33)
第3歩兵大隊(3/33)
第4歩兵大隊(4/33)
(師団付き)第210砲兵大隊
第211砲兵大隊
第212砲兵大隊
第213砲兵大隊
第9騎兵大隊 (1966-)
第21工兵大隊
第4騎兵旅団 (1969-)第12騎兵大隊 (1968-)
第16騎兵大隊 (1968-)
(第4軍団砲兵)第47砲兵大隊
第67砲兵大隊
第68砲兵大隊
第4軍団レンジャー第4レンジャー群 (1966-)
※1974年総合予備部隊へ異動
第42レンジャー大隊
第43レンジャー大隊
第44レンジャー大隊
第66国境レンジャー大隊 (1970-)
第67国境レンジャー大隊 (1970-)
※1973年第25レンジャー群へ異動
第75国境レンジャー大隊 (1970-)
第76国境レンジャー大隊 (1970-)
※1973年第25レンジャー群へ異動
第85国境レンジャー大隊 (1970-)
※1974年第7レンジャー群へ異動
第86国境レンジャー大隊 (1970-)
※1974年第8レンジャー群へ異動
第93国境レンジャー大隊 (1970-)
※1975年第9レンジャー群へ異動
第94国境レンジャー大隊 (1970-)
※1973年第15レンジャー群へ異動
第98国境レンジャー大隊 (1970-)
※1975年第9レンジャー群へ異動
第4憲兵大隊
第4海軍管区
第5海軍管区
第4河川管区
第4空軍師団
首都特別管区隊(儀仗部隊)
第6憲兵大隊
(総合予備部隊)GAP3 (1954-1955)
空挺群 (1955-1959)
空挺旅団 (1959-1965)
空挺師団 (1965-)
第1空挺旅団第1空挺大隊 (1951-)
第8空挺大隊 (1961-)
第9空挺大隊 (1965-)
第1砲兵大隊 (1968-)
第1偵察中隊 (1968-)
第2空挺旅団第5空挺大隊 (1953-)
第7空挺大隊 (1953-1955, 1961-)
第11空挺大隊 (1967-)
第2砲兵大隊 (1967-)
第2偵察中隊 (1968-)
第3空挺旅団第2空挺大隊 (1965-)
第3空挺大隊 (1952-)
第6空挺大隊 (1954-)
第3砲兵大隊 (1968-)
第3偵察中隊 (1968-)
第4空挺旅団 (1974-)第12空挺大隊 (1974-)
第14空挺大隊 (1974-)
第15空挺大隊 (1974-)
(師団付き)空挺支援大隊 (1954-)
空挺通信大隊
空挺工兵大隊
空挺衛生大隊
海兵群 (1956-1965)
海兵旅団 (1965-1968)
海兵師団 (1968-)
第147海兵旅団第1海軍歩兵大隊
第1海兵大隊
第4海兵大隊 (1961-)
第7海兵大隊 (1969-)
第147偵察中隊
第1砲兵大隊
第258海兵旅団第2海軍歩兵大隊 (1955-)
第2海兵大隊
第5海兵大隊 (1964-)
第8海兵大隊 (1969-)
第258偵察中隊
第2砲兵大隊
第369海兵旅団第3海軍歩兵大隊 (1957-)
第3海兵大隊
第6海兵大隊 (1967-)
第9海兵大隊 (1970-)
第369偵察中隊
第3砲兵大隊
第468海兵旅団第14海兵大隊
第16海兵大隊
第18海兵大隊
第468偵察中隊
第4砲兵大隊
(師団付き)偵察中隊
第202憲兵中隊
第91空挺コマンド大隊 (1964-1968)
第81空挺コマンド大隊 (1968-1970)
第81空挺コマンド群 (1970-)
第1戦術司令部 (1975-)
第2戦術司令部 (1975-)
第3戦術司令部 (1975-)
第811部隊 (1975-)
第812部隊 (1975-)
第813部隊 (1975-)
第814部隊 (1975-)
デルタ偵察チーム (1964-1968)
偵察中隊 (1968-1975)
第815部隊 (1975-)
(総合予備レンジャー)
※1974年 総合予備部隊として再編制、1975年 レンジャー師団創設予定のまま未完
第4レンジャー群 (1966-)
※1974年第4軍団より編入
第42レンジャー大隊
第43レンジャー大隊
第44レンジャー大隊
第6レンジャー群 (1968-)
※1974年第3軍団より編入
第34レンジャー大隊
第35レンジャー大隊
第51レンジャー大隊
第7レンジャー群 (1974-)第32レンジャー大隊
第58レンジャー大隊
第85国境レンジャー大隊 (1970-)
※1974年第4軍団より編入
第8レンジャー群 (1974-)第84国境レンジャー大隊 (1970-)
※1974年第3軍団より編入
第86国境レンジャー大隊 (1970-)
※1974年第4軍団より編入
第87国境レンジャー大隊 (1970-)
※1974年 第1軍団より編入
第9レンジャー群 (1975-)第93国境レンジャー大隊 (1970-)
※1975年第4軍団より編入
第97国境レンジャー大隊 (1970-)
※1975年第3軍団より編入
第98国境レンジャー大隊 (1970-)
※1975年第4軍団より編入
第5憲兵大隊



おまけ: インシグニアについて

ベトナム共和国軍というのは部隊章に非常にこだわりのある軍隊でして、米軍では通常連隊単位までしか部隊章を持たないのに対し、ベトナム陸軍は大隊単位(中には中隊まで)で部隊章が制定されているので、その種類は膨大です。そしてその一部が米国のベトナム共和国歴史協会 (Republic of Vietnam Historical Society)さんのサイトで公開されています。
歩兵師団・連隊・大隊 http://rvnhs.com/museum/arvninsignia.html

以下、歩兵師団、地方軍、空挺師団、レンジャー、海兵師団のインシグニアの種類についてまとめ中の図解。


 
レンジャーと海兵は、そのうち作ります。
  


2016年11月15日

ベトナム共和国軍特殊部隊キャンプ



手持ちの資料を全てまとめた特殊部隊キャンプのリストを作成中。
まだまだ?マークが多いです。悔しい。いつか全ての空欄を埋めてやる・・・。

     

 色分けは、黄色がCIDG計画の中核でありながら、なぜか戦後のマニアからガン無視され続けるCSF (Camp Strike Force: キャンプ駐屯のストライクフォース)。ベトナムに派遣されたグリーンベレー隊員のほとんどはこのCSF付きアドバイザーだったのにね。
 青がCSFから発展した空中機動部隊MSF (Mobile Strike Force: 機動的なストライクフォース)。みんな大好き"MIKE Force (マイクフォース)"の事。実はCSFに比べて規模はかなり小さい。なお"C-1"~"C-5"という名称は5thSFGのCチーム(A~E中隊)の事なので、マイクフォースの部隊名として用いるのは不適当。
 橙色がLLĐB C5やNKT所属の偵察・コマンド部隊。多くはCIDG計画とは別に、ベトナム共和国軍の特殊部隊として創設された部隊なので、隊員はもともとLLĐBのキン族(ベトナム人)およびヌン族が主だった。(1960年代中盤、サイゴン政府とデガ・チャム族・クメール族などのFULRO系少数民族は内戦状態だった。) その後、60年代後半に米軍の仲裁で政府とFULROが部分的に和解し、さらにMSFの規模拡大によって空挺降下や偵察などの技能を持ったCIDG / DSCĐ兵士が増えると、米軍の意向で偵察・コマンド部隊にもFULRO系少数民族が加わる事となった。

 また一口に『キャンプ』と言ってもその種類は様々で、ベトナム戦争中にベトナム共和国軍およびその同盟軍が建設した防御拠点は以下に分類される。
・メインベースまたはベースキャンプ
・戦闘基地、前進作戦基地(FOB)、恒久着陸ゾーン
・射撃支援基地(FSB)
・特殊部隊キャンプまたはCIDGキャンプ
・フランス軍式要塞化陣地
・射撃支援パトロール基地(FSPB)、パトロール基地または前進射撃支援基地(FFSB)
・着陸ゾーン(LZ)
・戦略村
・夜間防御施設(NDP)

これらの内、今回表にまとめたキャンプは特殊部隊のメインベースおよびFOB、特殊部隊キャンプ、CIDGキャンプであり、それぞれの定義は概ね以下の通り。

メインベースまたはベースキャンプ
大規模な恒久施設からなる要塞化されたエリアのことで、飛行場を併設している。特殊部隊ではサイゴンのLLĐB/NKT本部、ニャチャンの5thSFG本部、およびLLĐBのC司令部(USSF Cチーム)が置かれた基地などがこれに当たる。

前進作戦基地(FOB)
メインベースを小型化したものだが恒久的な要塞化された防御陣地が付属しており、少なくとも滑走路が付属している。特殊部隊ではNKT連絡部コマンド"雷虎"のFOB 1~FOB 6や、MSFにおいて複数のFOBが建設された。

特殊部隊キャンプおよびCIDGキャンプ
FOBよりも小型であるが、恒久施設が存在する。通常、ヘリコプター用の着陸ゾーンはあるが固定翼機用の滑走路は無い。ベトナム、アメリカ軍の特殊部隊分遣隊Aチームが常駐し、その指揮下で1個大隊規模のCIDG / DSCĐ部隊が駐屯している。その周辺には兵士の家族用の住居も併設されている。

出典: 要塞戦記: ヴェトナム戦争アメリカ軍ファイヤーベース PART.1, 秋田郁夫, wardroom, 2011年



おまけ: 越米特殊部隊司令部スタッフ


LLĐB本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀本部内, 1968年8月)
5thSFGA司令ハロルド・アーロン大佐(左手前)とLLĐB司令ドァン・バン・クアン少将(右手前)


SKT本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀本部内, 1966年)
SKT司令チャン・バン・ホー大佐(中央左)と、MACV-SOG司令ジョン・シングラウブ大佐(中央右)


NKT本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀総本部内, 1970-1972年)
MACV-SOG司令ジョン・サドラー大佐(左端)と、NKT司令ドアン・バン・ニュー大佐(右端)