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2017年11月21日

いろんなTAP47

先日撮影会を行った際に、TAP47系ジャケットを着て集合写真を撮る事が出来ました。


左から
WPG製リプロ TAP47/52(旧製品)
WPG製リプロ TAP47/52(旧製品・染色加工)
実物 パステルリーフTAP47
実物 TAP47/53
WPG製リプロ TAP47/52(現行品)

僕は当日メダルを忘れてしまい、さらに持参した白靴紐のジャンプブーツに履き替えるタイミングも逃してしまったので、礼装状態ではありません。また改めてフルメダルのパレード装をやりたいと思います。


 Tenue de saut Mle 1947、通称『TAP47降下服』とは、フランス軍が1947年に採用した戦闘服の一種で、落下傘降下時の防風・防寒を目的とした空挺部隊(TAP)向け被服です。折しも当時は第一次インドシナ戦争が激化の一途を辿っており、TAP47降下服はインドシナに派遣されたフランス陸軍(本土軍・植民地軍・外人部隊)の空挺部隊に大々的に使用されます。そしてその後もTAP47は改良を重ねながらアルジェリア戦争期まで使用されていました。
 また第一次インドシナ戦争中にフランス植民地軍内に組織され、後にそれぞれの国軍となったインドシナ諸国の空挺部隊もフランス軍からこのTAP47系降下服を供与されており、それらの国々では1956年にフランス軍がインドシナ半島から完全撤退した後も、TAP47という服はエリート部隊の証と見做され、1970年代まで空挺部隊の伝統を表す正装として扱われていました。この記事では特にベトナム軍で使用された各種TAP47系降下服をご紹介します。




<フランス軍TAP47>
インドシナ諸国で使用されたTAP47はフランス連合時代にフランス軍から供与されたものがでした。

TAP47 (カーキ)

最初期のTAP47にはリザード迷彩生地とカーキ単色生地の二種類が存在し、その中カーキのタイプがベトナム軍に供与されていたのが当時の写真から確認できます。
[画像: ベトナム陸軍第1空挺大隊, 1951年]


TAP47/52

TAP47/52はTAP47の1952年改良型で、1953~1954年までベトナム国軍空挺部隊に供与され、ディエンビエンフーの戦いなど数々の激戦で用いられた、TAP47シリーズの中でも最も多く戦闘に用いられたタイプです。第一インドシナ戦争終結後も、1960年代初頭までTAP47/52は空挺部隊で実用される降下用被服でしたが、後に作戦服はブラッドケーキ迷彩服等に切り替わっていったため、以後TAP47/52(主にジャケット)は礼装として珍重されるようになります。
[画像: ベトナム陸軍特殊部隊, 1960年代後半~1970年代前半]


TAP47/53

TAP47/53はTAP47の1953年改良型で、第一インドシナ戦争中に採用されたものの、フランスで生産されたこの服が実際にインドシナに到着したのは終戦間際の1954年前半であり、本格的に前線部隊への支給が始まったのは第一インドシナ戦争終結後と考えられています。戦後に支給されたため47/52と比べると戦闘による消耗は少なく、1960年代以降はこの47/53が礼装として多く用いられるようになります。なお上の写真のように上下揃いで着用されるのは部隊単位で在庫していたまたは購入した場合のみで、個人の場合は上下揃いで買う者は少なく、多くの場合着用されるのはジャケットのみでした。
[画像: ベトナム陸軍空挺師団, 1967年11月1日国慶日]


<非正規TAP47>

 1960年代に第二次インドシナ戦争が激化すると、需要と反比例してフランス製のTAP47シリーズの在庫は枯渇していったため、特にベトナム共和国軍では当時国内存在していた各種迷彩生地を使ったTAP47と同型の非正規な服が、パレード用の礼装や晴れ着として、部隊単位あるいは個人的に製作されるようになりました。

イギリス軍ウィンドプルーフ(ブラッシュ)迷彩生地
ウィンドプルーフ(ブラッシュ)迷彩は元々、第二次大戦中にイギリス軍が開発した空挺部隊の降下スモックに用いられていた生地で、第一次インドシナ戦争期にイギリスがフランス軍に供与し、さらにその後フランス軍によってベトナム軍にも供与されました。こうした経緯から、1960年代初頭にはウィンドプルーフ迷彩を基にしたブラッドケーキ迷彩がベトナム軍によって新たに開発されます。ただしウィンドプルーフ迷彩の被服は通常、イギリス軍と同型のスモックや、同じ生地を使用したパンツであり、写真のTAP47型は個人的にオーダーメイドされたと思われる非常に稀な例です。
[画像: ベトナム陸軍空挺師団, 1960年代後半]


ベトナム海兵隊ザーコップ(タイガーストライプ)迷彩生地
ザーコップ(タイガーストライプ)迷彩は、フランス軍のTAP47(および同じ生地のTTA47)のリザード迷彩を基にベトナム海兵隊が1950年代末に開発した迷彩です。ただし海兵隊は空挺部隊を保有していない為、実戦で降下服を着用する事はなく、写真のTAP47型は純粋にパレード用の礼装として極わずかに制作された物と考えられます。
[画像: ベトナム海兵隊海兵旅団, 1966年6月19日国軍の日]


民間ERDL(インビジブルリーフ)迷彩生地
ERDLパターンは元々、1948年に米陸軍ナティック研究所で開発されたものの、米軍での採用は長年見送られており、軍よりも先に民間のハンター用迷彩服として出回った迷彩でした。ベトナム軍は1965頃にこのERDL(インビジブル)迷彩を作戦服の迷彩として採用し、1967年頃まで支給しました。このTAP47型はその期間中、パレード用礼装として極わずかに制作されたものと考えられます。
[画像: ベトナム陸軍空挺師団, 1966年?]


アメリカ軍ERDL(グリーンリーフ)迷彩生地
1967年にアメリカ軍がついにTCU(熱帯戦闘服)用迷彩として改良型ERDL(グリーンリーフ)迷彩を採用すると、ベトナム軍の標準迷彩もインビジブルからグリーンリーフに切り替わり、以後70年代初頭までグリーンリーフ迷彩の作戦服が支給されました。写真のTAP47型はその期間中、パレード用礼装として極わずかに制作されたものと考えられます。
[画像: トナム陸軍空挺師団および海兵隊, 1967~1969年頃]


ベトナム軍ERDLレンジャー・エアボーン(パステルリーフ)迷彩生地
レンジャー・エアボーン(パステルリーフ)迷彩はアメリカ軍のERDL迷彩を基にしたベトナム国産の迷彩で、1968年頃から支給が始まり、1970年代に入るとグリーンリーフにとって代わってベトナム軍の標準迷彩となりました。写真のTAP47型はその期間中、パレード用礼装として極わずかに制作されたものと考えられます。
[画像: ベトナム陸軍空挺師団, 1960年代末~70年代前半]


フランス軍リザード迷彩ポンチョ生地
上記のようにベトナム国産のTAP47系降下服には様々な迷彩生地が用いられたものの、将兵の間で最もステータスとされたのはやはりオリジナルのフランス製(リザード迷彩)でした。しかしフランス連合脱退から20年近く経過し、オリジナルは入手困難であったことから、中には迷彩服ではなく、フランス軍の迷彩ポンチョを改造してまでリザード迷彩にこだわる士官もいた事が写真から伺えます。
[画像: ベトナム陸軍空挺師団衛生大隊主任軍医チャン・ドゥック・トゥオン博士, 1970年代前半]


上記以外にも、聞くこところによるとフランス製TAP47の欠乏に伴いベトナム軍が韓国に発注して作らせたという韓国製リザード迷彩や、ベトナム国家警察ナショナルポリス(クラウド)迷彩のTAP47系降下服まで存在したそうなのですが、残念ながらそれと確認できる当時の写真を僕はまだ見付けられていません。


<おまけ>

今回記事を書くにあたってTAP47系の着用例を見直していたところ、非常に気になる写真を見つけてしまいました。

 
撮影時期は不詳なのですが、クーデターによって1963年11月2日に暗殺されるゴ・ディン・ジエム総統が映っている事から、確実にそれ以前の写真です。
手前の兵士はTAP47系の降下服を着ていますが、問題は服ではなくその袖に付いている部隊章です。服装から部隊は空挺旅団である事は間違いないと思うのですが、その部隊章が、どうも当時空挺旅団で使われていたと考えられているタイプ(下向きの鷲)には見えないのです。むしろ、どちらかと言うと、1964年後半以降(※)に見られる新型(白頭鷲)に見えます。かなり不鮮明なのですが、拡大して見比べてみるとこうなります。

※新型が使われたのは、一般的には空挺旅団が師団に昇格した1965年12月末(実質的に1966年)以降とされていますが、実際には1964年中から使用されていた事を以前記事にしました。過去記事撮影会②空挺旅団 1963年サイゴン』参照
 
もしこれが新型であったらなら、これまで一般に1965年12月と書かれ、僕自身も1964年中だと思っていた採用時期は、さらに遡って1963年以前という事になります。これはすごい発見かも知れません。しかしこの画像だけでは確かな事は言えないので、さらに当時の写真を調べて行こうと思います。
  


2017年11月13日

迷彩ヘルメット塗装

ずっと前からこの柄の迷彩ヘルメットが欲しかったんです。



過去記事『つるつるヘルメット』でやったように、安物のレプリカM1ヘルメットの塗装をペイントリムーバーで剥離。



最初はカモフラージュの下書きをマジックで塗装面に直接書いたけど、いざ塗り始めると境目が見えなくなって下書きの意味が無くなってしまったので、これは失敗。塗装全部落としてやり直し。



今度はマスキングテープを全体に貼り、その上に下書き。
さらに下書きに沿ってマスキングテープを各色ごとに切り出し、一旦すべてはがす。



各色ごとにエアブラシで塗装。塗ったら切り出したマスキングテープを再度乗せて、別の色を吹く。


しかし調色時と吹き付け時、乾燥後で色が全然違って見えてしまい、気に入った色にならず何度も何度も塗り直す事になる。
薄青緑の部分はMr.カラーの「ライトブルー」をベースに「エアスペリオリティーブルー」、「スカイブルー」、「グリーン(緑)」を加えて調色。最終的には納得のいく色になったけど、もう二度とこの色を再現できない。
茶色部分は「艦底色」に「ブラック(黒)」と「レッド(赤)」を混ぜたもの。黒を入れ過ぎたせいで赤みが薄れてしまった。何も加えず「艦底色」そのままの方が良かったかもしれない。


塗り分けから調色まで何度も何度もやり直す事となり疲れてしまったので、一応これで完成とします・・・。
結局最後まで茶色の部分の調色に悔いが残ったので、自分としては70点。
なんか納得いかないので、今回のは試作品として、そのうちまた作り直します。
  


2017年11月07日

ベトナム製リプロの憂鬱

 前回の記事『2ポケット作戦服の裁断とカーキ作戦服』で紹介したベトナム製リプロにもうひと手間かけてディテールアップ、と言うか悪あがき。
 前回、この服は肩部分は迷彩服型のように肩当とエポレットの両方を備えており、カーキ作戦服としては不自然と書きましたが、変な部分はそれだけではありません。本来、2ポケット作戦服は首元まで襟を閉じられるよう第1ボタンとボタンホールが備わっているのですが、このリプロにはそれがありません。1970年代に普及する4ポケット作戦服からは第1ボタンが省略されるようになりますが、2ポケットはどのタイプでも必ずと言っていいほど第1ボタンを備えています。なので昨日、自分で穴かがり所(ボタンホール加工専門業者)にこの服を持ち込み持ち込み、ボタンホールを作ってもらいました。単発だと工賃は結構高くて、一カ所開けただけなのに540円しました。
 しかし、ボタンホールは単に加工すれば簡単に解決できる事なので大した問題ではありません。この服の本当の恐ろしさは下の写真の中に隠されています・・・。

おわかりいただけただろうか・・・・・・。

 そう、第2ボタン以降、前合わせのボタンホールが4つ全て縦に開けられているのだ・・・。これはベトナムで買った時点で最初からこうなっていました。無駄に肩当・エポレット付けてそれっぽい雰囲気出そうとしてるくせに、なんでこの部分を間違える・・・。
 なので当初は前合わせの生地の端を内側に織り込んで縦ボタンホールを隠し、新たに横穴を4つ開けようと考えていましたが、いざ工程を考えてみると、前合わせは襟の形に直結する部分なので、下手にいじれないという事が分かり、結局その案は断念せざるを得ませんでした。
 したがって第1ボタンを追加するにあたっては、ボタンホールの向きを正しい横向きにするか、他の穴に合わせて縦にするか悩みました。第1ボタンも縦にしてしまえば、一つだけ向きが違うという違和感は無いですが、襟はボタンホールが一番目立つところなので、そこが縦なのは恥ずかし過ぎます。結局、第2~第4ボタンは、ボタンを閉じてしまえば穴の向きなんてあまり見えよね!と自分に言い聞かせて、第1ボタンは横穴にしました。不本意ですが、僕にはこれ以上の改修は無理です・・・。

 ちなみに過去に何度か記事に載せている、このベトナム製実物パステルリーフ生地リプロ(生地は当時物だけど縫われたのは近年)も全く同じ状態でした。2ポケットなのに第1ボタン無し。前合わせボタンホールは縦穴・・・。せっかく実物生地なのにこれは残念過ぎます。もったいない・・・。


 今気付いたのですが、この服も一緒にボタンホール開けてもらえばよかったです。すっかり忘れてました。また近いうち穴かがり所に持ち込みます。

 なんで本国製のリプロがこんなにいい加減なんじゃい!と憤りを覚えます。恐らくこれらのリプロは外国のマニアや業者がベトナムの洋裁屋に発注して作らせたものですが、その際服の仕様のに指示が上手く伝わらなかった、あるいはそもそも発注する側に知識がなかったのだと思います。当然ですが、いくらベトナムであっても、その辺の町の洋裁屋さんが3・40年前に消えた旧政権の軍服について詳しい知識を持っている訳が無く、単に注文された通りに作っただだけのはずです。またその後、「こういう服は外国のマニアに高く売れる」と気付いたベトナムの業者が、先に生産した=誤った仕様の服をそのまま同じ形で作り続けた為に、このような粗悪なリプロが出回っているのだろうと推測しています。
 これはパッチについても言える事で、一度マニアがベトナムにレプリカパッチを発注すると、その後同じものが大量に出回るという現象が20年以上前から続いています。ただし、近年はナム戦マニア人口の減少によって正しい知識を持った客が少なくなってきたためか、レプリカを作る側もどんどんいい加減になり、最近ベトナム国内で作られているレプリカパッチの多くは、もはやレプリカとも言えない劣化版?お土産品?ばかりになってしまいました。これからは過去に作られた良質なレプリカパッチの値段が上がっていくかもしれませんね・・・。いや、マニア人口が減って需要が無くなるから、そうでもないか。


おまけ

なかなかしっくりくる色合いにならず、3回目の塗り直し中。塗料代えらい使ってます。
完成したら改めて記事にします。



ベトナム軍ごっこに季節は関係ない。
ベトナムやラオスでも高地なら気温は10℃くらいまで下がるし、草木も茶色くなる。


雪が降ったらアメリカ研修ごっこすればいい。


まだ冬服そろってないけど。
  


2017年11月03日

2ポケット作戦服の裁断とカーキ作戦服

2ポケット作戦服の裁断について

改修について語る前に、まずベトナム共和国軍の作戦服の裁断についておさらいです。
ベトナム共和国軍は1950年代末まで、フランス連合時代に供与されたTTA Mle47系戦闘服を主に使用していましたが、1955年のフランス連合脱退によってフランスによる軍事援助が終了したため、TTA47系の在庫は減っていく一方でした。
そこでベトナム海兵隊(TQLC)は、独自に開発したザーコップ(タイガーストライプ)迷彩服用の裁断として、TTA47が持つエポレット・肩当のデザインを残しつつも、新たな同盟国アメリカのユーティリティユニフォームの意匠から貼り付けポケットシャツ・パンツのデザインを取り入れた新たな戦闘服を1950年代末に採用します。

1960年以降は、この海兵隊作戦服から派生した各種2ポケット裁断が一般部隊向けのカーキ作戦服(Quân phục Tác chiến Khaki)の裁断としても採用され、以後1975年の終戦まで、ベトナム共和国軍の標準的な作戦服として15年以上に渡って使用されていきます。
2ポケット作戦服にはポケットの形状や袖丈・肘当て・ペンポケット・袖ボタンの有無など、細かく見ると数えきれないくらいのバリエーションがありますが、一番分かり易い肩部分の構造に絞って分類すると、大きく分けて肩当型・迷彩服型・エポレット型・簡略型の4種類の裁断がありました。
※この名称は僕が名付けたもので、一般的なマニア間での呼び方ではありません。

・肩当型

1950年代末にベトナム海兵隊がザーコップ(タイガーストライプ)迷彩服に採用した裁断で、肩に肩当のみを持つタイプです。1960年代初頭からは一般部隊向けのカーキ作戦服の裁断としても採用され、こちらは以後1960年代末まで全軍で広く用いられました。なお、日本ではこの裁断は迷彩服型と共にM59と呼ばれてきましたが、この裁断は1958年製が確認されており、M59という呼び方は不適切だと思います。


・迷彩服型
肩当型に加えてエポレットも備えたタイプで、1960年代初頭から各種迷彩服の裁断として用いられ、1975年まで製造が続いた、エリート部隊を象徴する裁断です。一般部隊向けのカーキ作戦服にはほとんど用いられません。こちらも日本では長年M59と呼ばれてきましたが、1959年採用ではないので、M59という呼び方は不適切だと思います。



・エポレット型
肩にエポレットのみを備えたタイプで、こちらも1960年代初頭から海兵隊ザーコップ迷彩作戦服の裁断として一部で用いられました。また同時にカーキ作戦服の裁断としても採用され、以後1975年までカーキ作戦服や各種迷彩服のバリエーションとして使用例が見られます。


・簡略型
エポレットと肩当の両方を省略したタイプで、カーキ作戦服の代表的な裁断です。肩当タイプと並行して1960年代初頭から支給が開始され、以後1975年の終戦まで約15年間に渡ってベトナム共和国軍の最もスタンダードな作戦服として用いられました。また稀に迷彩服に用いられる事もあります。

[2017年11月5日追記]

また、パンツにも膝当て、カーゴポケット、貼り付けポケット等に様々なバリエーションがありますが、今回は割愛します。



戦後ベトナム製リプロをエポレット型化

昨年ベトナムに行った際、このようなベトナム共和国軍カーキ作戦服の戦後製リプロを買ってきました。使われているボタンは、ベトナム共和国軍用の実物金型をそのまま使用して戦後ベトナム人民軍の軍服用に再生産されたと思われる物で、本物と瓜二つです。


しかし上着の裁断に不満があるので自分好みに改修する事にしました。
まず、この服は肩にエポレットと肩当布の両方を備える迷彩服型の裁断ですが、カーキ作戦服にこの裁断が用いられている例はほとんど無いので、迷彩服型以外の裁断に改修する必要があります。なので今回は肩当を取り払って、エポレット型に改修してみました。一度肩口の上半分を外して肩当を取り、再度エポレットと肩口を繋げます。



ミシン跡は残るけど、生地は新品なので色違いにはならないし、何度か洗濯すれば縫い跡も目立たなくなるので大丈夫さきっと。
あと、胴体がやたら太かったので、脇から下を18cmほど詰めてスリム化しました。

残念ながら脇の辺りは立体構造なので素人には難しいく、シワになってしまいました。着てしまえば分かりませんが。
ベトナム共和国軍コスプレを始めて14年目にしてようやく気付いたのですが、実はベトナム兵を演じるにあたってスリム化すべきはパンツではなく、ジャケットである気がしてきました。確かに当時のベトナム兵の間ではパンツを細く改造する事が流行っていたようですが、それを私のような典型的な胴長短足体形の人間が真似しても、ただ足がムチムチになるだけでちっともカッコ良くありません。当時のベトナム兵はとにかく足が長くて顔が小さいモデル体型が多かったので、細いパンツも似合っていたのです。ですから、私のような体形でも足を長く見せるためには、パンツはあまり細くせず、代わりに上着を細くして上半身を小さく見せるのが一番良いと考えるようになりました。


クラッシファイド製リプロを簡略型化


こちらは友人の依頼で、肩当型を忠実に再現しているクラッシファイド製リプロから、肩当を外して簡略型にする改造を施したものです。こちらもベトナム製リプロと同様に、肩口の上半分の糸を外して肩当を取り外し、再度肩口を縫い直しています。こうする事で、肩当型の使用例が少ない1970年代の設定でも使えるようになります。
ただし、この改造は色落ちしていない新品の生地でないと、肩当を外した部分だけ色が変わってしまい恥ずかしい感じになるので、お勧めできません。やる場合は新品を購入しましょう。それだけの価値はあります。クオリティも上のベトナム製よりクラッシファイド製の方がずっと良いです。http://www.mil-classified.jp/SHOP/A-1-010-01.html

また各種裁断のカーキ作戦服はベトナム陸海空軍・地方軍・国家警察はもちろん、

CIDG(CSFおよびマイクフォース)や

PRU(米CIA指揮下)、

NKT(米MACV-SOG指揮下)、

LĐNN(米海軍SEAL出向)

といった特殊部隊にも大々的に支給されていました。
なので僕はそれぞれの部隊設定が出来るよう、カーキ作戦服をあと7着くらい欲しいです。
(パンツは7本も要らないので、できれば上着だけ売って欲しいんですけど(笑))



  


2017年10月20日

通称"カオダイ軍ベレー"の正体について

我が家にある数少ない実物軍装の一つなので、まずは外観から。


リボンに使われた形跡が無いので未使用品。TTSXQT(ベトナム国防省装備生産センター)スタンプは画像ではかなり薄いですが、目で見ると辛うじてサイズA5、1965年11月と読めます。


知ってる人には常識ですが、このベレーに付いているベレー章は『カオダイ軍(Cao Dai Army)』の物として知られています。しかし、このベレーについて調べれば調べるほど、その通説が疑わしく思えてきたので、その訳を書いていきます。またこの疑問を抱いていたのは私だけではなかったようで、海外のコレクターの間でもいくつかの説が唱えられていました。

Wehrmacht-Awards.com

このベレー章の正体については現在、大まかに言って以下の3つの仮設が挙がっています。

1. カオダイ軍およびカオダイ教徒を示すベレー章である。(通説)
2. 元々はカオダイ部隊のものだったが、1955年にカオダイ部隊がベトナム国軍に吸収されると陸軍一般兵科用として広まった。(某ベトナム人コレクター)
3. そもそもカオダイ教は無関係。ただの陸軍一般兵科ベレー章だ。(某米国人コレクターなど)

僕は正しいのは2か3の説であり、1の通説は間違っていると考えています。以下にその理由を挙げていきます。


カオダイ部隊が最も活躍した第一次インドシナ戦争中には問題のベレー章は確認できない

 
▲フランス連合カオダイ部隊(Troupes Caodaïstes)部隊章 [1947-1955年2月]
第1次インドシナ戦争中に編成されたカオダイ部隊の部隊章は右胸に付けるバッジのみでした。


◆ベレー章の使用が確認できるのは1955年から

チン・ミン・テー准将の葬儀 [1955年5月6日サイゴン]

上の写真は僕が問題のベレー章の使用を確認している最も早い時期の写真です。カオダイ部隊はフランス軍の撤退に伴い1955年2月13日にベトナム国軍に編入されると同時に部隊章も新しいデザインに更新されおり、このカオダイ部隊司令官チン・ミン・テー准将の葬儀の写真にも新デザインの部隊章を付けたカオダイ兵士が確認できます。そしてこの時点で問題のベレー章が使用されている事から、少なくともその採用時期は1955年前半だという事が分かります。

▲ベトナム国軍カオダイ部隊(Force Armée Cao Dai)部隊章 [1955年2月~1955年10月?]

ただし、このベレー章はほぼ同じ時期に他のベトナム国軍部隊でも使用例が確認できるため、カオダイ部隊を示すベレー章とは言い切れません。

 
▲ベレー章と共に看護総隊(Tổng đoàn Quân y tá)の徽章が確認できる [1955年7月]


◆ジエム政権によってカオダイ教が弾圧された時代もベレー章が政府軍によって広く使われている

1955年10月にベトナム国首相ゴ・ディン・ジエムが国民投票でバオダイ(保大帝)を追放しベトナム共和国の初代総統に就任すると間もなく、150万人以上の信徒を抱えるカオダイ教団とカオダイ部隊を危険視していたジエムは、政府軍をカオダイ教団本部のあるタイニン省に投入してカオダイ教団の動きを封じるとともに、カオダイ部隊を解散させます(先記のカオダイ部隊司令チン・ミン・テー准将の死も、ジエムら政府首脳による暗殺だという説が根強く残っています)
政府に恭順したカオダイ兵たちは一般兵としてベトナム各地の部隊に散り散りとなっていきましたが、一部の元カオダイ部隊将兵は降伏を拒否して反政府勢力として地下に潜伏したため、ジエム政権は1956~1958年にかけて3000人以上のカオダイ教徒を逮捕してカオダイ部隊の残党狩りを行っていきます。このようにベトナム共和国政府とカオダイ教は、ジエム政権が崩壊する1963年末まで敵対関係にありました。
しかし、カオダイ教が弾圧された時代でも、問題のベレー章は(弾圧していた側の)政府軍将兵に広く使用されていました。従ってこの時点でベレー章がカオダイ部隊・カオダイ教徒を示すものだったとは考えられません。

▲問題のベレー章を着用した将校に案内されるジエム総統の弟の妻チャン・レ・スアン [1960年代初頭]


◆明らかにカオダイ教徒ではない政府軍の高級将校たちも問題のベレー章を身に着けている

▲グエン・ゴック・ロアン(写真左・当時大佐・軍事保安局長官) [1965年11月1日]

1963年11月のクーデターによってジエム政権が崩壊し、新たに軍事政権が発足すると政府とカオダイ教との対立は終わり、元カオダイ部隊の幹部らもベトナム共和国軍へと復帰します。とは言え、あくまで宗教差別が撤廃されただけで、1955年以来8年間も軍から離れていたカオダイ教の将校が復帰してすぐに要職に就くという事はありえず、政権に近い高級将校の中にカオダイ教徒は居なかったと考えられます。
一方、カオダイ教が迫害されていた時期にも出世を続け高級将校になった者たちの中には、問題のベレー章を使用する者が少なからず居るため、ベレー章とカオダイ教に関係があるとはさらに考え辛くなります。


◆アメリカ国防省が作成したベトナム共和国軍制服の図解には、陸軍ベレー章(兵科士官用)として記載されている

 
(左) Pocket Guide to Vietnam, DOD, 年代不詳 / (右) Pocket Guide to Vietnam, DOD, 5 April 1966


▲A Pocket Guide to Vietnam, DOD, 20 Nov 1970
1967年の徽章改定後の版には問題のベレー章は記載されていません。これはそのベレー章が宗教を示すものではなく、単なる陸軍の帽章であり、1967年に他の徽章と同じくデザインが改定された事を意味していると言えそうです。


◆ベトナム共和国軍付きのアメリカ軍アドバイザーも着用しているが、彼らの担当はカオダイ教とは関係ない


▲ゲイリー・カミングス米陸軍特技兵 [1966-1967年頃]
当時カミングス特技兵はサデク省ヴィンロンに駐屯するMACVアドバイザーチーム60に所属しており、ベトナム陸軍第9歩兵師団付きのアドバイザーを勤めていましたが、サデク省や第9歩兵師団が特にカオダイ教にゆかりのある地域・部隊という事はありません。


◆そもそもカオダイ教のシンボルマークとベレー章のデザインとの類似性は、単に『三角形の図柄が入っている』という点のみで、見比べると全く似ていない

▲カオダイ教のシンボル(左)と問題のベレー章(右)
なおカオダイ教的には三角形ではなく『カオダイの目』と呼ばれる目の意匠の方が重要視されている模様


以上が、このベレー章をカオダイ軍の物とする1の通説への反証になります。
では、このベレー章の正体は何なのかと言うと、僕は少なくとも1955年末以降は、単なる陸軍一般兵科ベレー章(1955-1967)であったと考えています。
問題は2の「採用当初(1955年前半)はカオダイ部隊を示すものだった」という説をどう見るかです。僕としてはこれも怪しい気がしますが、これを否定できる確固たる証拠はまだ得られていませんので、まだしばらく情報収集を続けていきたいと思います。

なお、カオダイ部隊およびカオダイ教徒の戦いの歴史については現在執筆中なので、気長にお待ちください。
  


2017年09月30日

最近やった縫物

ひとまず完成したもの

◆ベトナム陸軍空挺旅団(1962-1964年頃)


◆ベトナム共和国軍トゥドゥック歩兵学校 予備士官候補生(1967-1975年頃)


◆ベトナム共和国軍ヴァンキェップ訓練センター 教導士官(1967-1975年頃)


まだ作成中

◆ベトナム国家警察 第222野戦警察群 第611野戦警察中隊"白虎" (1967-1975年頃)
本当はネームテープはプリントではなく刺繍が正解なので、いずれ作り直します。


◆ベトナム陸軍第3軍団マイクフォース (1966-1968年頃)
やる気が出たらボタン取り替えます。


◆ベトナム陸軍第5マイクフォース (1966-1968年頃)
既存の第5マイクフォースパッチのリプロは、上側にMIKE FORCE / AIRBORNEタブが予め組み合わさってるもの(画像左)しか出ていないようです。しかし当時の写真をよく見てみると、このタイプはMSF付きのアメリカ兵が左胸ポケットに付けているのは見ますが、ベトナム兵はどちらかと言うと上側にタブが無いタイプのパッチにAIRBORNEタブのみを後付けしている(画像右)事が多い気がしています。

 
なので、そのタブ無し(かつ上側が丸くなっている)タイプが、どうにか手に入らないかな~と探し中です。別にタブ付きタイプでも間違いではないのですが、思い入れのある部隊なので、どうせならそこも拘りたいんです。それに当時はパッチ付けてない兵隊も多く居ましたから、良いパッチが見つかるまでは無理して付ける事ないかと思ってます。


◆ラオス軍モン族第21機動群 (1970-1975年頃)
当時の兵隊が野戦服に徽章つけてるのあまり見ないので、、これで完成としちゃっても良いんですが、この上あえて付けるとしたら落下傘降下資格章とネームテープくらいかな。作ろうと思えばいつでも作れるので、気が向いた時にでも進めていきます。


次作ろうとしている服

◆迷彩じゃないマイクフォース (1968-1970年頃)

ベトナマイゼーションに伴い1968年に米国のCIDG計画が終了すると、マイクフォースを含む全CIDG部隊の指揮権は正式に米軍からベトナム陸軍特殊部隊(LLĐB)に移管されます。それまでCIDG部隊の被服・装備品の多くはCIAの予算で調達されたMDAPやCISOによる非正規装備品(タイガーストライプなど)が支給されていましたが、この移管によってそれらの支給は終わり、以後CIDG部隊にはベトナム軍2ポケ作戦服や米軍TCUなど越米軍の迷彩ではない正式な被服が支給されていく事になります。(※)
またこの際、それまでCSFおよびMSF(マイクフォース)の部隊章は部隊ごとにバラバラだった事から、それぞれCSF共通(画像左)、MSF共通(画像右)の新デザインが採用されます。

 

※ただしLLĐB移管から2年弱経った1970年にはLLĐBが解散し、CSFはベトナム陸軍BĐQ(レンジャー科)へ、MSFはNKT(越境特殊部隊)へと編入されて、それぞれの編入先でベトナム軍制式の迷彩服を支給されます。


◆ラオス陸軍モン族SGU (1960-1970年頃)

ベレー(ラオス陸軍一般兵科ベレー)入手済み。被服はベトナム軍ので代用。


あとはパッチのみ。
  


2017年09月26日

撮影会②空挺旅団 1963年サイゴン

撮影会後半は、これまた念願の空挺旅団。翌年よりベトナムの新たな国慶節として記念された、1963年11月1日の出来事のワンシーンを再現。


革命軍のご飯タイム




赤帽の天使たち




おまけ: 空挺旅団部隊章の謎


ベトナム戦争だけで13回、第一次インドシナ戦争期を含めると50回以上の空挺降下作戦を行った20世紀を代表する空挺部隊の一つであるベトナム陸軍空挺科部隊ですが、その部隊章は1954年の空挺群創設から1975年の敗戦までに二度の変更がありました。
まず空挺科としての部隊章が最初に制定されたのは、それまでフランス軍の指揮下にあったベトナム国軍空挺大隊で構成されたフランス連合軍部隊『GAP3』が、フランスの撤退に伴い正式にベトナム国軍の指揮系統に統合され、『空挺群(Liên Đoàn Nhẩy Dù)』として再編された1954年5月1日でした。この時制定された空挺群の部隊章は、『赤地にペガサス』というデザインです。

  

その後、空挺群は規模拡大と陸軍の大規模再編に伴い、1959年10月26日に『空挺旅団(Lữ Đoàn Nhẩy Dù)』へと昇格します。この際、一度目の部隊章の変更が行われ、『白いパラーシュートに青緑色の鷲』がデザインされたものが空挺旅団の部隊章として採用されました。

 
※2枚目の写真はモノクロ写真に後から着色されたものなのでパッチの配色は正しくない

このように、一度目の変更は空挺科部隊が群(Liên Đoàn)から旅団(Lữ Đoàn)へと昇格した際に行われたのでタイミングとしては分かり易いのですが、次の二度目の変更は少し不可解なのです。
旅団昇格から6年後の1965年12月31日、空挺旅団はついに『空挺師団(Sư Đoàn Nhẩy Dù)』へと昇格します。この空挺師団では『青いパラシュートに白頭鷲』という新しいデザインの部隊章が1975年の終戦まで使われていきました。空挺科ベテラン公式サイトでも、この三代目の部隊章は空挺師団のものとして紹介されています。

しかし当時の写真をよく見てみると、実際には新デザインの部隊章は師団に昇格する1年以上前から空挺旅団の部隊章として使われている事が分かります。まだ正確な時期は把握していませんが、遅くとも1964年11月までには、新しいデザインに変更されていたのです。また同時に、空挺科の兵科章『天使の翼章』(※後述)をデザインした胸章も採用され、以後左袖の部隊章と左胸の胸章はセットで服に縫い付けられるようになります。
この1964年中に行われた二度目の変更については、一度目の時のように部隊の編成が大幅に変わったという事もなく、どのような理由で部隊章の変更と胸章の採用が行われたかについては、未だ把握できていません。

 
▲写真二枚: 1964年11月30日サイゴンで発生した反政府デモを鎮圧する空挺旅団兵士
新デザインの部隊章と胸章が確認できます。


【天使の翼について】


剣を握る大天使ミカエルをモチーフにした天使のは、元々1946年にフランス軍空挺部隊のベレー章として採用されたデザインで、フランス植民地軍から発展したベトナム陸軍空挺部隊も1955年までフランス軍と同じベレー帽およびベレー章を使用していました。またベトナムがフランス連合から脱退した後も、ベトナム陸軍空挺科はフランス連合時代の伝統と栄光を受け継いで天使ののデザインを空挺科の兵科章『天使の翼章(Huy hiệu Cánh Thiên Thần)』として採用します。
なお、天使の翼章は、英語では"Parachutist Jump Status Indicator (降下資格章)"と呼ばれますが、実際には落下傘降下資格を示す徽章は軍服の右胸ポケット上に佩用する他の金属または布製バッジ(Bằng nhảy dù)であり、また天使の翼は(兵科章なので当然)空挺科以外の部隊では一切使用されないため、Jump Statusという英語名は不適切だと思います。
  


2017年09月21日

撮影会①士官候補生 夏季準礼服あわせ

ついに、念願だったトゥドゥック歩兵学校の夏季準礼服を着て写真を撮れました。




最初に集め始めてから何年経っただろう。ようやく、しかも最高のロケーションで着ることができました。
懸念されていたパンツも、ダイエットの甲斐あってギリギリ履くことが出来ました。頑張って良かった

さらに、空軍士官候補生とのツーショットまで実現!!




兄弟(僕が兄)という設定で家族写真とかも撮りましたが、実は歩兵学校は陸軍限定ではなく三軍統合の予備士官学校です。
士官候補生はまず、ダラット国立軍事アカデミーやトゥドゥック歩兵学校、ドンジェ軍学校などの三軍統合の士官学校を卒業後、さらに陸軍の各兵科学校や空軍訓練センター、海軍訓練センターに進み、そこでの専門的な教育を経て各ブランチの士官に任官するというのが当時のベトナム共和国軍における士官養成システムでした。
そのため、すでに空軍士官候補生になっている、つまり三軍統合の士官過程(一般士官過程(4年)または予備士官過程(9か月))を修了して空軍で訓練中の弟の方が、軍では先輩という事になります。
たぶん兄貴は第一バカロレア(フランス式の高卒・大学入試資格試験)に落ちたので、浪人・再受験して歩兵学校に入ったんだと思います(笑)  


2017年09月13日

TTHL/QGインストラクターのヘルメット

今度は新潟に1週間出張中なので、ネットカフェで記事書いてます。

近々、ベトナム共和国軍リエナクトメント兼撮影会兼勉強会として、基本教練会を友人たちと行う予定です。シチュエーションとては、1960年代末から1970年代前半の国立訓練センター(Trung Tâm Huấn Luyện Quốc Gia (TTHL/QG))の新兵教育を想定しています。TTHL/QGは全国に少なくとも10か所*設置されていたベトナム共和国軍の訓練センターで、兵卒から士官候補生まで、陸海空軍・海兵隊・地方軍・義勇軍を含む、共和国軍に入隊した全ての者が最初に基本教育を受ける場所です。
僕が今現在把握しているTTHL/QGは以下の通りです。

【第1戦術地区/軍管区】
ドンダ国訓練センター (TTHL/QG/Đống Đa)
フアケム国訓練センター (TTHL/QG/Hòa Cầm)

【第2戦術地区/軍管区】
ラムソン国訓練センター (TTHL/QG/Lam Sơn)
フーキャット国訓練センター (TTHL/QG/Phù Cát)
プレイク/トュルンション国訓練センター (TTHL/QG/Pleiku / Trường Sơn)

【第3戦術地区/軍管区】
クアンチュン国訓練センター (TTHL/QG/Quang Trung)
ヴァンキェップ国訓練センター (TTHL/QG/Vạn Kiếp)
ソンマオ国訓練センター (TTHL/QG/Sông Mao) ※2017年9月24日追記

【第4戦術地区/軍管区】
チーラン国訓練センター (TTHL/QG/Chi Lăng)
カオラン国訓練センター (TTHL/QG/Cao Lãnh)

▲ベトナム共和国軍の教育機関の部隊章

教練会開催の言い出しっぺの僕は今回、インストラクター役を務めることとなったので、TTHL/QGにおける教練を再現するにあたり、教練内容に加えてインストラクターとしての衣装もちゃんと用意しなくてはと思い、当時の写真を整理・分析してみました。またそれに当たって、複数の共和国軍ベテランの方々から貴重な情報を提供していただけましたので、この場を借りて御礼申し上げます。

まず、TTHL/QGのインストラクターには、大きく分けて『教導』と『訓練』の2種類の職種があり、それぞれに士官(教官・主に尉官)と下士官(助教・軍曹・曹長クラス)が存在します。教導と訓練の違いについては、ある程度想像はできますが、まだはっきりとは言えないので今後の課題としていきます。

次に、彼らが訓練時に被るヘルメットライナーには、担当する訓練に応じてその役職名がペイントされており、多くの場合一目でそのインストラクターが士官なのか下士官なのか、何の訓練を担当しているかが分かるようになっていました。ただし後述するように、そのペイントは完全に統一されていた訳ではなく、訓練センターそれぞれや、時代によっても変わってくるため多数のパターンが見られ、僕もそれを完全に把握するまでには至っていません。


教導士官および教導下士官
(Sĩ Quan Hướng dẫn / Hạ Sĩ Quan Hướng dẫn)
ヘルメットライナーの正面に担当する訓練名(略語)が赤字で書かれ、全周に白と水色のライン(士官は上下、下士官は下のみ水色)がペイントされています。側面には何も描かれません。訓練センターで最も多く目にするパターンです。

【訓練名】

武器 Vũ Khí (VK): 射撃や整備など基本的な武器の取り扱いを担当

戦術 Chiến Thuật (CT): 障害物走や行軍、戦闘行動など戦闘訓練を担当

体育 Thể Dục (TD): 体力錬成を担当

総括 Tổng Quát (TQ) : 訓練全体を統括



訓練士官および訓練下士官
(Sĩ Quan Huấn luyện / Hạ Sĩ Quan Huấn luyện)
ヘルメット正面に階級章がペイントされ、両側面には担当訓練と訓練センター名が略語で記されます。各センターによってラインのデザインが大きく異なります。

訓練士官 Sĩ Quan Huấn luyện

訓練下士官 Hạ Sĩ Quan Huấn luyện


不明なもの

訓練員 Huấn Luyện Viên (HLV)
『教導』のように白・水色ラインがペイントされているものの、両側面には『訓練』のように担当とセンター名が書かれている例があるため、そのどちらなのか、あるいはどちらでもない他のカテゴリーが存在していたのか未だ不明です。(実物画像: Francois Millard氏コレクション)

幹部 Cadre
フランス語で幹部を意味する"CADRE"とペイントされています。1962年にフアケム演習場で撮影された訓練の映像の中に見られます。しかしこの映像以外にこのパターンはまだ確認できておらず、またフランス語で書かれていることからも、1960年代の早い時期に撤廃されたパターンだろうと予測しています。


教導士官ヘルメット作成!

さて、ある程度ペイントのパターンが出そろったところで、今回の教練会で使うヘルメット作りを始めます。
今回の設定は、比較的映像資料の多いヴァンキェップ訓練センターとし、他の設定でも使いまわせるようセンター名の入らない教導士官のヘルメットを作りたいと思います。

▲ヴァンキェップ訓練センターにおける義勇軍兵士への訓練 [1970年2月10日]


素材は以前つるつるヘルメットを作る際に買った安っすいレプリカM1のライナー。これなら失敗しても痛くありません。
それを缶スプレーと筆塗りで塗装していきます。


そして完成したのがこちら。


今回、正面の文字はTQ(統括)としましたが、実は文字は塗装ではなく赤いカッティングシートを貼ってあるだけなので、今後教練内容によってVKやCTなど他の文字にも変える事が出来るようになっています。

ヴァンキェップ訓練センターの自家製プリント部隊章も出来たし、あとは服に縫い付けるだけです。


おまけ

ヴァンキェップの訓練兵の左胸ポケット上には白や赤、青色の三角形の布が縫い付けられているのをよく目にします。

そのうち白色については、ヴァンキェップ教育隊の『タインタイ(※)大隊』を意味しているという事が当時の映像から判明しました。
※阮朝の第10代皇帝 成泰帝(Thành Thái)の事

布を三角に切って貼るだけなので、さっそく真似してみたいと思います!
  


2017年09月02日

単発写真や動画

僕のブログは常に下書き記事が10件以上ある状態でして、暇な時にちょっとずつ書き進めていくようにしていますが、調べているうちにボリュームが増えすぎてなかなか記事が完成しないという状態が最近続いています。なので今回は息抜きに、最近見つけた興味深い画像や動画を脈絡なく貼っていきます。



【ベトナム関係】

◆パレード映像の中にムイ老師を発見!
エン・バン・ムイ(Nguyen Van Moi)1972年当時、73歳という高齢でありながら義勇軍(NQ)の小隊長を務めていた事で知られる人物です。


▲フエで行われた地方部隊(地方軍・義勇軍・人民自衛団他)の軍事パレード。 記録映画『北ベトナム軍の侵略』のワンシーン [1972年フエ]
パレード装をした義勇軍の中に、ベトナム国旗の旗手を務めるグエン・バン・ムイが映っています。また観閲するアメリカ人の中にフェニックス・プログラムを監督するCORDS(事実上のCIA)職員たちも写っている事に注目。

米国フロリダ州の地方紙サラソタジャーナルに、ムイの小隊が夜襲に成功したという記事が掲載されていました。
Sarasota Journal - Apr 22, 1971 

これによると、ムイはカマウ半島中部のチュンティェン省ドゥックロンに住む義勇軍兵士でしたが、軍の定年をとうに過ぎているため階級は持っておらず、人々は彼を"Ông (年配の男性に対する敬称)"、もしくは"Ông Moi"と敬意をこめて呼び親しんでいました。しかし数々の武功を持つムイは、高齢をものともせず第203義勇軍小隊(Trung Đội 203 Nghĩa Quân)の小隊長を務めており、民兵で構成された義勇軍小隊を率いてベトコンゲリラに対する夜襲を成功させるなど、衰えを知らない豪傑な人物でした。
またムイには五男一女、計6人の子供がいましたが、そのうち長男から三男までの3人の息子はベトコンに殺害され、四男は負傷。そして23歳になる五男が義勇軍兵士としてムイの小隊に所属していたそうです。
ムイは取材に対し、「この戦争で老人から子供まで多くの人々が死んだ。私は一刻も早くこの戦争を終わらせる事が私の使命だと確信している」、「私は死ぬまで兵士として祖国に仕えたい」と語っています。
残念ながら、私が知る限りムイがメディアに紹介されたのは1971年が最後で、この1972年のパレード以降の消息はつかめていません。


◆準軍事婦人隊(Phụ Nữ Bán Quân Sự)の制服の色が判明
モノクロ写真は何枚もありましたが、ようやくカラー写真で服の色を把握できました。

 

準軍事婦人隊は第一共和国(ゴ・ディン・ジエム政権期)に存在した国内軍部隊です。準軍事」と名はついていますが、指揮権はベトナム共和国軍総参謀部にはなく、おそらく内務省が所管する政治工作機関だったようです。"ドラゴン・レディ"として知られるジエム総統の弟の妻チャン・レ・スアン(マダム・ニュー)は、自らの支持を得るために女性の政治参加を積極的に推進しており、このような女性による準軍事組織まで創設しました。この準軍事婦人隊には、チャン・レ・スアンの長女(ジエム総統の姪にあたる)ゴ・ディン・レ・トゥイが参加し、老若男女が一して共産主義と戦う姿勢をアピールする広告塔を務めていました。

準軍事婦人隊員としてパレードに参加するゴ・ディン・レ・トゥイ

同様に、政府が組織した反共青年政治組織としては当時、『共和国青年団』が存在しており、その女性部門である『共和国少女団(Thanh Nữ Cộng Hòa)』もチャン・レ・スアンの私兵組織として機能していました。

共和国少女団のパレード装(左)と通常勤務服(右)

なお、1963年11月の軍事クーデターでゴ・ディン家の独裁体制が崩壊すると、これらの政治工作組織は解体され、以後は軍事政権の下で人民自衛団(NDTV)など軍が所管する民兵組織へと再編成されていきます。



【カンボジア関係】

クメール海兵隊の戦闘 [1973年カンボジア]


クメール海兵隊の兵力は計4個大隊ほどと決して大きな組織ではなかったので、動画はおろか写真すら滅多に見つからないんです。それがこんなにはっきりと、しかもカラー映像で見られるとは。AP通信様様。


◆プノンペンの歌姫 ロ・セレイソティアの空挺降下訓練 [1971年7月カンボジア]


↓こちらは女性が参加した別の降下訓練をカラーフィルムで撮影した映像


こちらも女性が軍に参加する姿を宣伝する事で、挙国一致を国民にアピールする狙いがあったのでしょうね。
また、リザード迷彩やリーフ迷彩をエリート部隊の証として支給していたベトナム軍やラオス軍とは異なり、カンボジア軍空挺部隊はダックハンター系の迷彩を1970年代まで多用していたのが特徴的ですね。


◆南ベトナム領内のベトナム共和国軍基地で訓練を行うクメール国軍兵士 [1970年7月ベトナム]


基地はベトナム軍の施設ですが、教官はクメール人が務めているようです。
米軍特殊部隊B-43の指揮の下、ベトナム領内のキャンプ・フクトゥイで訓練を受けていたクメール軍特殊部隊(Forces Speciales Khmères)は割と知られていますが、一般部隊までベトナムで訓練されていたのは初めて知りました。
1970年のロン・ノル政権成立によって中国・北ベトナムに反旗を翻したカンボジア(クメール共和国)は、アメリカの仲介の下で南ベトナムとの協力関係を深めていきます。しかしカンボジアとベトナムは、メコンデルタ地帯を巡って中世から戦争を繰り返してきた長年の宿敵であり、現に1970年までクメール王国(シハヌーク政権)は南ベトナムを敵国と見做して北ベトナム軍に協力すると共に、南ベトナム政府へのサボタージュ工作を幾度も行っていました。
そのカンボジアが(国内の内戦に負ける訳にはいかないという事情があったにせよ)、過去の遺恨に目をつむって南部のベトナム人と一時的に和解したという事実は驚くべきことだと思います。



【ラオス関係】

◆ラオス王国軍モン族遊撃隊 GM41の日常風景 [1969年ラオス]


モン族GM(Groupement Mobile)のプライベート動画なんて初めて見ました。撮ったのはGMを指揮したCIA戦闘員(アメリカ軍人)のようです。大変貴重な映像です。感動しました。

◆同じくGMを指揮したCIA戦闘員が楽しそうに重機関銃を撃ってる動画 [1971年ラオス]



◆ラオス王国空軍に参加したCIA(アメリカ空軍)パイロットとその息子 [1971年]


CIAだからと特別に家族がラオスに住んでいたのか、それともタイの米空軍基地に住んでいて、お父さんに会いに家族とラオスまで来たのか。プライベートビデオならではの、微笑ましくも歴史の激流を感じる映像でした。
  


2017年08月11日

制服計画の進捗

ベトナム共和国軍トゥドゥック歩兵学校 予備士官候補生 夏季準礼服
(1960年代後半~1975年)


トゥドゥック歩兵学校については過去記事参照

ほぼ完成。
肩章のみ実物で、チノ制服はセスラーの米軍レプリカで代用。
トゥドゥック制帽と英勇章飾緒(Dây Biểu Chương Anh Dũng Bội tinh)は米国製レプリカ。

トゥドゥック歩兵学校部隊章は、実物持ってるけど付けるのがもったいないので、自作プリントパッチを使用。

唯一の問題は、ちびちびと徽章などを集めている間に、僕のお腹にお肉がついてしまい、最初に買ったチノパンが履けなくなった事。買い直すの悔しいし、どうせ着る機会もそう無いから、引き続きダイエットに励みたいと思います。




フランス植民地軍 空挺インドシナ人中隊 准尉 外出服
(1948年~1950年頃)


部隊の歴史については過去記事参照


こちらの進捗はまだ7割くらい。
ベレーおよびベレー章、キメラのバッジはレプリカ。
肩章、降下資格章、飾緒は当時とほぼ同じデザインなので現用実物で代用。

剣を持つキメラがデザインされた第1および第2空挺コマンド植民地準旅団の徽章は1950年に向きが変更されており、
僕が持ってるレプリカは1950年以前のタイプ。当時既に編成されていた空挺インドシナ人中隊(CIP)というと、
1951年に編成されたベトナム国軍初の空挺部隊『第1(ベトナム)空挺大隊』の基となった、第1空挺インドシナ人中隊(1er CIP)
したがって正式な所属部隊を書くと、『フランス植民地軍 / 極東フランス遠征軍団 第2空挺コマンド植民地準旅団 第1空挺コマンド植民地大隊 第1空挺インドシナ人中隊』という長ったらしい肩書になります。
なので、胸に付ける大隊バッジは1er CIPの親部隊の『第1空挺コマンド植民地大隊(1er BCCP)』となるので、それのレプリカを探し中。左袖に付ける植民地軍バッジは、肩章と同じく現在のフランス海兵隊とほぼ同じデザインなので、それで代用しようと思っています。

※第2次大戦後から1950年代にかけてインドシナやマダカスカル、アルジェリアなどで相次いだ独立戦争によってフランス政府も帝国主義を放棄せざるを得なくなったため、1958年にフランス連合は解体され、フランス海軍省所属の植民地派遣部隊である『植民地軍(Troupes coloniales)』は、新たに海外即応派遣部隊と定義され、名称も『海兵隊(Troupes de marine)』へと改名されます。その後、海兵隊は1967年に海軍省の所管から離れ、正式にフランス陸軍に編入されました。
しかし海兵隊は現在も、陸軍内でも独立した地位を有する組織であり、肩章や袖章などのデザインは1940年代から変わっていません。その為、現在の海兵隊の徽章類が、第一次インドシナ戦争期の植民地軍制服用に使えちゃう訳です。
ただしデザインは変わっていないものの、実際には素材がモール刺繍からただの金糸刺繍に変わっているので、よく見ると別物なんですが・・・、当時物を集めるのはかなり大変だしレプリカも存在しないので、今は現用のもので妥協するしかない感じです。


なお、この服も、ウエストを絞らないとパンツが履けません。買った当時は履けたんですが…。
でもまぁ、水泳を始めてから5kgは減量したし、筋肉が復活した事で代謝も良くなっただろうから、このまま続ければきっと大丈夫なはず。はず。一応、スポーツ系の大学で水泳サークルに入ってる19歳の子と二人で、同じメニューの練習をしているので、オッサンのダイエットとしてはけっこうハードな練習をしてるつもり。最低でも一日2000m、週2回は泳いでるし。本気で競争すれば、25mまでなら現役にも負けないスピードで泳げています。25m過ぎると一気にバテて、どんどん引き離されるけど。
あと、ここ1ヶ月間体重が減らないのは、脂肪がより重い筋肉に変わったせいだと自分に言い聞かせてます。

  


2017年08月07日

第11回ありがとうコンサートとハン・ニョン中佐

米国時間8月6日、今年もカリフォルニア州サンノゼにて『Đại Nhạc Hội Cám Ơn Anh(ありがとうコンサート)』が開催されました。『ありがとうコンサート』は毎年夏にベトナム系アメリカ市民がカリフォルニア州サンノゼとガーデングローブ市の持ち回りで開催しているチャリティーコンサートで、コンサートで得られた寄付・収益は、現在もベトナムに住む元ベトナム共和国軍傷痍軍人・寡婦・遺族への生活支援にあてられます。


Người Việt Daily News: Đại Nhạc Hội ‘Cám Ơn Anh’ ở San Jose, hàng ngàn người tham dự

コンサートの様子はカリフォルニアのベトナム移民系テレビ局SBTNのYoutube公式チャンネルにて、全世界に生中継されました。


SBTNOfficial: LIVE: ĐẠI NHẠC HỘI CÁM ƠN ANH KỲ 11

当ブログも毎年このコンサートを応援しており、今年も滞りなく運んだとの事で、遠く離れた日本からもお祝い申し上げます。
2年前の第9回には、私自身も主催団体のベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会(Hội HO Cứu Trợ Thương Phế Binh và Quả Phụ Việt Nam Cộng Hòa)からプレスとして招待され、現地で取材を行ってきました。
その時の写真の一部はこちらの記事に掲載してあります。また、過去の開催内容についてはこちらの記事にまとめてあります。


しかし残念ながら、今年の『ありがとうコンサート』には、このコンサートを長年支え続けたある女性の出席は叶いませんでした。
彼女の名はグエン・ティ・ハン・ニョン(Nguyễn Thị Hạnh Nhơn)空軍中佐戦後、ベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会会長として長年戦争で身体障害を負った将兵や、戦死者の遺族への支援活動に尽力されてきた元ベトナム共和国空軍の女性将校です。
ハン・ニョン中佐はこの『ありがとうコンサート』の主催者の一人として、ご高齢の身を押して自ら先頭に立って会を率いてこられましたが、第11回コンサートが3か月後に迫った2017年4月18日、カリフォルニア州ファウンテンバレーの病院で息を引き取られました。享年91歳でした。

ベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会会長
グエン・ティ・ハン・ニョン空軍中佐(1927-2017)

 グエン・ティ・ハン・ニョンは仏領インドシナ時代の1927年、ベトナム中部のフエに生まれます。1941年にガールスカウトに入団したハン・ニョン氏は第一次インドシナ戦争中の1950年に、ガールスカウトの指導者として、ベトナム国軍第2軍管区の地方保安部隊『越兵隊(Việt binh đoàn)』に財務スタッフとして参加。後に正式にベトナム国軍の婦人隊員となります。
 終戦後の1957年、ハン・ニョン氏はフエのグエン・チ・フォン軍病院で勤務しますが、そこで多くの傷病兵や未亡人、孤児達を目の当たりにしたことが、後の彼女の人生を決定付けました。
 ベトナム戦争が悪化の一途を辿る1965年、ベトナム共和国軍は男性兵士の不足を補うため、軍の後方支援業務を担う女性軍人(Nữ Quân Nhân)制度を正式に発足し、ハン・ニョン氏は婦人隊の創設および女性軍人学校で教鞭を執った最初の女性将校となります。
 その後、ハン・ニョン氏は1967年にベトナム共和国軍総参謀部勤務となり、1969年には空軍少佐に、1972年には中佐に昇進します。ハン・ニョン中佐その後、1975年までタンソンニュット基地の空軍司令部婦人分団長を務めると共に、1950年以来25年間に渡って軍で勤務するとともに女性軍人の活躍を主導した功績を称えられ、ベトナム共和国最高位の"保国勲章5級(Đệ Ngũ Đẳng Bảo Quốc Huân Chương)"を授章します。

▲中佐に昇進し、総参謀部チャン・タイン・フォン少将によって階級章を交換されるハン・ニョン氏(1972年ジアディン省)

 しかし1975年の敗戦によりベトナム共産党政権に逮捕されたハン・ニョン中佐は、その後4年以上も強制収容所に投獄された後、1990年に家族と共にアメリカに亡命します。以後、ハン・ニョン中佐はカリフォルニア州オレンジ郡でベトナム"政治犯"互助会に参加し、共産党政権に"政治犯"として弾圧される人々への支援活動を開始します。そして1996年にベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会を発足し、以後21年間に渡って同会の会長を務めてこられました。また2006年からは、カリフォルニアのベトナム系音楽企業アジア・エンターテイメント、テレビ局のSBTNと共同で『ありがとうコンサート』を開催し、2017年で11回目の開催となります。ハン・ニョン中佐がこれまでの活動で集めた寄付金は100万米ドルを超えており、現在もベトナム戦争の傷跡に苦しむ元軍人や戦死者の遺族に届けられました。
 このように、今日では大々的に開催されているテャリティーコンサートですが、一方で、私が2年前にコンサートを取材した際には、ベトナム国内で行われる慈善活動はベトナム共産党政府の厳重な管理下にあり、実際には送られた寄付金の半分は支援には使われず、汚職役人や共産党幹部の懐に入れられてしまっているという嘆きもコンサート参加者から聞かれました。そのため当初は、こういった支援活動は共産党政府を間接的に支援する事になるのではと、在米ベトナム人コミュニティの中でも反対の声が多かったそうです。しかしそれでもハン・ニョン中佐らは、今も祖国で苦しむ同胞たちに少しでも支援が送れるのならと、活動を続けてこられました。
 私は、守るべき国家を失ってもなおハン・ニョン中佐が示し続けた同胞への奉仕と人間愛の精神は、これからも在米ベトナム人(ベトナム系アメリカ人)コミュニティの中で生き続けるものと確信しています。

[出典] 
Vietbao.com: Cựu Trung Tá Không Quân VNCH Nguyễn Thị Hạnh Nhơn Qua Đời Sinh Năm 1927 Qua Đời Ngày 18 Tháng 4 Năm 2017, Đại Thọ 91
VOA: Vĩnh biệt bà Nguyễn Thị Hạnh Nhơn  


2017年08月01日

B-53とワン・ゼロ・スクール

先日、MACV-SOGの"ワン・ゼロ・スクール"を運営していたのはグリーンベレーのB-53分遣隊だったのか?というご質問を頂いたので、こちらで僕の認識を述べさせていただきます。

結論から言いますと、そう考えて差し支えないと思います。
まず、1964年の創設から1972年の活動終了まで、MACV-SOG全体としての役割は基本的に、ベトナム共和国軍の特殊作戦機関であるNKT(英略称STD)への支援業務であったため、作戦計画や組織の運営はSOGの各部署が担っていましたが、SOG所属のアメリカ兵のほとんどは司令部で勤務しており、前線に出撃する事はありませんでした。
ただしSOG Ground Studies Group (SOG-35)が1965年に開始したOP-35(作戦計画35)による偵察作戦だけは、NKT連絡部コマンド雷虎(英名: SCU)で構成されたチームのリーダー(One-Zero)をアメリカ兵が務める米越合同のC&C部隊によって実施されました。このOP-35/C&C部隊には、作戦開始当初から5th SFG B-53分遣隊のメンバーが参加しており、その後もB-53がC&Cの中心的な役割を担ったようです。
また同時に、NKT雷虎隊員へのSOG偵察訓練も、1965年以降B-53によってキャンプ・カムドク(Camp Kham Duc)で行われていました。後にサイゴン東部ロンタンに雷虎を含むNKTの各コマンド部隊への訓練を行うNKT訓練センター"クェッタン/イェンディ"(米軍名称: キャンプ・ロンタン)が創設されると、イェンディ/ロンタンはSOGの訓練・教育部門であるSOG-38が所管・管理していきますが、その訓練センターでインストラクターを担ったのもB-53でした。
その後、プロジェクト・オメガやシグマ、マイクフォースの一部がC&C部隊に統合され作戦の規模が一気に増大すると、元からいた各Bチーム隊員だけではC&C部隊を指揮するアメリカ兵が足りなくなったため、B-53はカムドクにおいて、新たにC&C部隊に補充されたグリーンベレー隊員向けに、チームリーダーとしての技術を教育する偵察訓練コース"One-Zero Reconnaissance Training Program"を開始します。これがワン・ゼロ・スクールと呼ばれる訓練になります。
このように当初OP-35/C&C部隊の主体だったB-53は、作戦の規模拡大に伴い、SOG-38の指揮下でその技術をNKT・C&C所属者たちに教育するインストラクター部隊へと変貌していったと考えられます。
なお、ワン・ゼロ・スクールは当初カムドクで行われていましたが、1968年のテト攻勢によってキャンプ周辺が戦闘地域と化し訓練が続行不可能となったため、1968年後半以降はロンタンのNKT訓練センターイェンディに統合され、キャンプ・カムドクは放棄されました。

▲MACV-SOG組織図に見るSOG-38とB-53の関係 ※クリックでチャート全体を表示
画像: NKTベテラン Pham Hoa氏のブログStrategic Technical Directorateより(http://historynkt.blogspot.jp)


イェンディNKT訓練センター(キャンプ・ロンタン)で教官を務めるB-53隊員と、訓練を受講するNKTコマンド隊員たち

▲同訓練センターでワンゼロ・スクール(ワンゼロ偵察訓練プログラム)を受講するCCC所属のグリーンベレー隊員たち


▲こちらのSOGベテランのサイト(http://www.macvsog.cc/sog_training.htm)には、ワンゼロ訓練プログラムにおける偵察訓練作戦中に、実際に敵に遭遇してしまい戦死した3名のアメリカ兵の名前と所属が掲載されていますが、B-53所属者はインストラクター、CCC所属者は生徒と記載されています。

まとめると、(1973年の米軍撤退完了まで)B-53分遣隊はSOG-38が所管するNKT訓練センターにおいて、訓練全般のインストラクターを担っており、その中にワン・ゼロ・スクールも含まれていた、と考えられます。

なお参考までに、空挺レンジャー(Airborne Ranger)という言葉は、広義にはNKTを含めた特殊部隊全体を指す場合もありますが、狭義の部隊名としては、プロジェクト・デルタの中核を成したベトナム陸軍特殊部隊(LLDB)第91/81空挺コマンド大隊のみを指します。
その場合、訓練はB-53が担当するロンタンのNKT訓練センターではなく、B-51が担当するニャチャンのドン・バ・ティンLLDB訓練センターで実施されていました。

以上が、現在の僕の認識です。今後新たな資料によって間違いが見つかるかもしれないので、その際は記事を訂正しますのでお許しください。
もう一点質問を頂いているB-57/プロジェクト・ガンマについては、また後日記事にさせて頂きます。もう少々お待ちください。
  


2017年07月30日

続・マイクフォースのパッチについて

過去記事『マイクフォースのパッチについて』の後、いろいろ新たな発見があったので、内容を改訂したものをここに掲載します。


各パッチの使用例

【黒い鳥】

I Corps MSFのみで確認

I Corps MSF (1st MSFC 第113MSF中隊)



【ドラゴン】

II Corps MSFで確認
IV Corps MSFでも使用という情報あり

▲II Corps MSF (2nd MSFC)

IV Corps MSFでの使用例については写真では確認できなかったものの、
元グリーンベレー隊員のRichard Hayse氏より、
「ドラゴンの部隊章は最初IV Corrps MSFで採用され、
後にII Corrpsに受け継がれた」
と指摘を頂きました。



【ジョリーロジャー】

II, III, IV Corps MSFの三部隊で確認

 
▲II Corps MSF (USSF B-20分遣隊)

▲III Corps MSF (3th / 36th MSFC )

 
▲IV Corps MSF (4th / 40th MSFC エアボート中隊)



柳葉刀と稲妻】

IIIV Corps MSFおよび5th MSFの三部隊で確認

▲II Corps MSF (2nd / 20th MSFC 第4MSF大隊)

▲IV Corps MSF (4th / 40th MSFC エアボート中隊)

▲5th MSF (5th MSFC)
※5th MSFではベレー章としての使用のみ確認



【柳葉刀・稲妻・石弓】

5th MSFのみで確認

▲5th MSF (5th MSFC)


以上の使用例を踏まえた上で、全国で組織されたMSF(マイクフォース)の組織およびパッチの使われ方を図にまとめると以下になります。

▲クリックで拡大


このように、長年マニアの間で信じられてきた、各部隊章は「C-1~C-5/第1~第5マイクフォースに対応している」という説は誤りであったことが分かります。
通常、一つのデザインの部隊章は一つまたはその直系の部隊でのみ使用されるものですが、なぜマイクフォースでだけこのように複雑な使われ方をされていたのでしょうか?
その理由について、個々の事例については当事者に確認するまで断言はできませんが、一般論として、『部隊の異動』が大きく関係していると僕は考えています。
そもそもマイクフォースは最初から予定されて全国で一斉に編成された部隊ではありませんでした。1961年以降、CIDG計画によって全国に数十の特殊部隊キャンプが建設され、それぞれのキャンプに、後にキャンプストライクフォース(CSF)と呼ばれるCIDG歩兵部隊が編成されます。このCSFは国境地帯の防衛、パトロールを主任務とする守備部隊であり、移動手段は主に徒歩もしくはトラックしかありませんでした。
その後、CSFの一部にヘリボーンやエアボーンといった専門技能を教育し、攻撃任務に適した機動部隊として1964年に第2戦術地区に誕生したのが"イーグルフライト小隊"です。このコンセプトはMACVに高く評価され、以後全国に順次MSF(マイクフォース)が編成されていきます。
そして当時、各CSF、MSFはアドバイザーである米軍グリーンベレーおよび豪軍AATTV分遣隊の指揮下(※)にあり、部隊の編成や部隊章は彼等アドバイザーが決めていました。またこの時期、これら分遣隊は一般部隊と比べてはるかに人数が少ないため、彼等は一つのキャンプを構築し部隊を訓練し終えると、また次のキャンプに異動して同じように部隊を組織するとう作業を繰り返していました。また、編成されたMSF部隊自体も、配置換えで移動する事が度々ありました。
この際、異動する先は同じ省や戦術地区内とは限らず、要請に応じて別の戦術地区に移動する事もよくあります。そしておそらく彼等は、先に制定したMSFの部隊章を、異動した先でも使っていたのではないかと私は推測しています。つまり、これら部隊章は第1~第5MSFという分類で制定したものではなく、彼等を指導したアドバイザー分遣隊や、他の地域から異動してきたMSF部隊によって、MSF大隊・中隊毎にもたらされた考えれば、いくつもの部隊章が複数の軍管区にまたがって使われていた事にも説明がつくかと思います。

※形式的な指揮権は当初からベトナム共和国軍LLDBにあったものの、ベトナマイゼーションが開始される1968年までは、作戦計画や予算の面では、CIDG部隊の運営はほとんど米豪軍に依存している状態でした。


また繰り返しになりますが、そもそもマイクフォースをC-1~C-5と呼ぶ事自体が間違いだと考えます。C-1~C-5の"C"は"Corps (軍団)"の略ではなく、米軍グリーンベレーおよびベトナム軍LLDBの"Cチーム"を意味していました。実際にはCチームの下位にあるBチームのうちマイクフォースを担当しているのは各Cチームにつき1チーム(つまり全国で5チーム)のみで、他の数十のBチームはCSFや訓練センターなどの、マイクフォース以外の部隊を担当していました。

関連記事



おまけ: MSFCの名称について

上の図のように、第1~第4軍団MFSおよび第5MSFにはそれぞれ1つのMSFC(連隊規模のMSF司令部)が設置されており、米豪越特殊部隊の指揮下で作戦を遂行していました。しかしそのMSFCの名称については、以前から不思議に思っていた事がありました。
と言うのも、各MSFCはベトナマイゼーションの開始に伴い1968年5月に改編され、それぞれグリーンベレー分遣隊の部隊番号を受け継いだ部隊番号に改称された事がMobile Strike Forces in Vietnam 1966-70など複数の資料に記載されています。
しかし、どうもこの改称については米軍内でも徹底されていなかった、もしくは改称された事すら認識されていなかったように見受けられます。

例えばマイクフォース最精鋭部隊として知られる第5MSF(ニャチャン・マイクフォース)の"5th MSFC"は、"55th MSFC"に改称されました。

このように、司令部の看板は確実に55th MSFCに変更されています。

しかしその一方で、現場のアメリカ兵が書いたFSBの看板には、改称から2年以上たった1970年以降も"5th MSFC"と記載されています。

また、現在のアメリカ陸軍の公式サイトや、退役軍人協会の公式サイトにも、"55th"ではなく"5th MSFC"と記載されています。
同様に1st~4th MSFCもそれぞれ16th, 20th, 36th, 40th MSFCに改称されているのですが、多くの資料に改称前の部隊名のまま記載されています。
恐らくこれは、MSFCが改称された後も全体の部隊名としては1st~5th MSFが使用され続けた事から当時から"MSF"と"MSFC"が混同されており、改称後のMSFCの名称が使われる機会が少なかった為に生じた誤解ではないかと思っています。  


2017年07月22日

EAリーフをレビュー

先日お伝えしたEast Asia Supplyの新商品、ベトナム共和国軍ERDLグリーンリーフ迷彩作戦服がCLASSIFIEDさんより発売となりました!

CLASSIFIEDさん商品ページ


先日アホカリに参加された方には現物をお見せしましたが、仕上がりは期待以上です!
生地はポプリン生地のERDLグリーンリーフ迷彩を再現しています。裁断はベトナム軍の迷彩服として最もオーソドックスなスタイルの、肩当・エポレット付き2ポケットジャケット、膝当て付き4ポケットパンツです。



ボタンはどのメーカーも再現を妥協しがちな部分ですが、今回のEAリーフのボタンは当時のベトナム製ボタン(厚手タイプ)の雰囲気を比較的再現できていると思います。


このくらいアップで見ると違いが分かりますが、着用してしてしまえば、ほとんど違和感は感じられません。
こだわりたい方は、完成度の高いCLASSIFIEDさんオリジナルのベトナム軍ボタンレプリカが発売されてるので、そちらに交換すればさらにリアリティが増すのでお勧めです。


雰囲気だしにTTSXQT(国防省軍需部装備生産センター)スタンプも再現されています。
この辺は着てしまえば分からないので、おまけみたいなものですね。


なお実際の服のサイズはスタンプされているベトナム軍被服サイズ表記通りではなく、現在一般的なUS-SからXLとなっているので、現代の私たちにはむしろ着やすい裁断となっています。


全体的に、コスプレやリエナクトで実用するには十分な再現度を誇るリプロであり、これを作ってくれたEAは流石だなと思います。
これが完売してしまえば、次にこのレベルのレプリカが入手できるのは何年後になるか分かりません。
ベトナム戦争コスプレに興味がある方は、迷わず最低一着は持っておくべき服だと思います!
さらに、この服さえあれば、1967年以降のベトナム共和国軍地上戦闘部隊の再現がほとんど何でも出来ちゃいます。

BĐQ (レンジャー大隊)

ND (空挺師団)

TQLC (海兵隊)


ĐĐTS (師団付き偵察中隊)

LĐNN (海軍フロッグマン/SEAL部隊)

LLĐB (特殊部隊)

NKT (技術局)MACV-SOG


またこれらの部隊を指導していたアメリカ軍、オーストラリア軍のアドバイザーたちも同じベトナム軍リーフ迷彩服を着用していました。
このようにリーフは何着持っていても困らない服なので、手に入るうちにご注文される事を強くお勧めします!


  


2017年07月10日

アホカリ準備完了


当初はレンジャーリーフを着よう思っていたので、友人と青テープ合わせをするためテープを作って縫い付け。
この服は生地は実物だけど縫製は戦後なので、遠慮せずリプロ徽章を取り付けちゃいます。
しかし後になって、参加申込書ををよく読んだら設定年代が「1967~68年頃」と書かれていた事に気付いてしまう。
レンジャーリーフは1968年中には前線への支給が確認できるので決して間違いではないし、年代設定も努力目標であって絶対ではないのは分かっているけど、やっぱり1967~68年頃といったらグリーンリーフの方がメイン。
それに、自分がコスプレしたいからと言って主催が設定したイベントの年代設定から外れるのは僕のプライドが許さないので、この服を着るのはやめる事にする


という訳で急遽、東京ファントム製のグリーンリーフを着る事に。
すでにこの状態にセットアップしてあったので、特に今回手を付け加える点はないです。


友人が今回初めて空挺師団として参加するので、
彼が購入したレンジャーリーフのリプロに、僕の自家製プリントパッチ3点セットを縫い付け。
オリジナルからトレースしたものなので、廉価版とは言え、見た目は悪くないと思います。



友人たちが土曜日に、黒のパイロットスーツを着てベトナム空軍のヘリコプター搭乗員コスプレするのを知り、
僕も仲間に入れてもらいたくて、大急ぎで自家製パッチを作って作戦服に縫い付け。
ベトナム空軍第3空軍師団(ビエンホア基地)第23戦術航空団の整備兵を再現してます。

でも一番の自慢は服ではなく、一昨年タイで入手した黒キャップです(笑)


青緑つるつるヘルメット3点完成。真ん中が自分用で、両サイドが友人からの依頼分です。


これで今回作らなくてはならない物は全て完成しました。
あとは当日忘れ物のないよう気を付けるしかありません。
最近はイベントの度に、ヘルメットやらブーツやら、なかなかの大物を忘れる事態が続いているので、
今回はちゃんとパソコンの前に持ち物リストを貼って、すべてチェックしてから出発するようにします。


そうそう、待ちに待ったEAの新作ベトナム軍2ポケット・グリーンリーフが届いたので、これも現地に持参します。
まだ日本発売前ですが、EAの社長が「欲しい?」と聞いてきたので、二つ返事で注文して、一足早く入手しました。
(たぶん僕に宣伝させたいんでしょう)

嬉しさのあまり、届いてすぐに袖を通し、リビングで弟に写真を撮らせました。
服の出来は、この表情が物語ってるとお考え下さい。
詳細は後日改めて記事にします!
  


2017年06月24日

フェニックス・プログラムとPRU


長年、様々な憶測をもって語られてきた『フェニックス・プログラム』と『PRU』ですが、近年米国では情報公開法に基づく情報開示請求によってベトナム戦争当時CIAが作成した内部文書が機密指定解除されて公開されており、またそれら一次史料を基に学術的な研究を行った論文が多数CIAの公式サイトに掲載されています。

米国CIA 情報研究センター(Center for the Study of Intelligence)

今回は、それらの中から、かつて実際にPRUを指揮した元アメリカ海兵隊将校が自身の体験も交えて記した以下の論文の抜粋をご紹介します。

The Tay Ninh Provincial Reconnaissance Unit and Its Role in the Phoenix Program, 1969-70, Colonel Andrew R. Finlayson, USMC (Ret.), Last Updated: Jun 26, 2008 07:13 AM

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※用語の表記について

[フェニックス・プログラム]
ベトナム語: Chương trình Phụng Hoàn (漢字: 章程鳳凰)
英語: Phoenix Program
ベトナム語の『Phụng Hoàn』を日本語訳すると『鳳凰』、『Phoenix』は『不死鳥』となるがこの記事では便宜的にフェニックス』を用いる

[PRU] ※2017年9月29日訂正
ベトナム語: Đại Đội Trinh sát biệt lập (ĐĐ/TS/BL) またはĐại Đội Trinh sát ĐPQ (ĐĐ/TS/ĐPQ)
英語: Provincial Reconnaissance Unit (PRU)
PRUはベトナム共和国軍地方軍のパトロール部隊であり、本来のベトナム語名から邦訳すれば『地方軍(独立)偵察中隊』となる。
中隊は省(地方軍小区)単位で編成されたため、『省の探察隊』と言う意味で英語名のPRUは名付けられた。
PRUの日本語訳としては『地方偵察隊』が用いられる事が多いが、Provincialは『地方』ではなく『省』と訳すべきと思われる
この記事は英語文献からの翻訳の為、便宜的に英語表記のPRUを用いる。
PRUのベトナム語表記は正しくは『Đơn Vị Thám Sát Tỉnh』でした。また『地方軍(独立)偵察中隊(Đại Đội Trinh sát biệt lập (ĐĐ/TS/BL) またはĐại Đội Trinh sát ĐPQ (ĐĐ/TS/ĐPQ))』は、フェニックス・プログラム終了に伴って各省のPRUが地方軍に編入された1972年以降の部隊名でした。


[省]
国の地方行政区画である省(Tỉnh)にはそれぞれ地方軍の管轄区画である小区(Tiểu khu)が割り振られており、タイニン省(Tỉnh Tây Ninh)は地方軍の編成上、第3戦術地区/軍管区の『タイニン小区(Tiểu khu Tây Ninh)』となる。
つまりタイニン省PRUのベトナム語の正式名は『タイニン小区地方軍偵察中隊』となる。
なお、この記事では原文が省(Province)で統一されている事から、小区ではなく全て省と表記する。

[ベトコン]
ベトナム語: Việt Cộng(VC)
英語: Vietnamese communist / Viet Cong (VC)
ベトナム人が使う『Việt Cộng』と、アメリカや日本など外国で使われる『Viet Cong(ベトコン)』という言葉は、その意味する所が異なる。
ベトナムにおけるViệt Cộngは『越共』、つまり共産主義ベトナム人全般を指し、1930年代のインドシナ共産党に始まり北ベトナムのベトナム労働党政権、現在のベトナム共産党政権に至るまでベトナムに存在した全ての共産主義系組織を指す。
それに対して外国人が用いるベトコンは、ベトナム共和国領内に1960年から1976年まで存在した反政府ゲリラ組織南ベトナム解放民族戦線(MTDTGPMN)』のみを指す場合が多い。
普段このブログではベトコンをベトナム語の意味(共産主義組織全般)で用いているが、この記事では原文に倣い解放民族戦線という意味でベトコンという単語を用いる。

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タイニン省PRUとフェニックス・プログラムにおけるその役割、
1969-1970年

アメリカ合衆国海兵隊 アンドリュー・R・フィンレイソン退役大佐
(タイガ訳)

 フェニックス・プログラムはアメリカおよび南ベトナム政府がベトナム戦争中に行った政策の中でも最も誤解され、また物議を呼んだプログラムである。簡潔に述べると、これは南ベトナムにおけるベトナム労働党の政治基盤(以下、ベトコンインフラまたはVCI)を攻撃、破壊する事を目的とする一連のプログラムであった。(※1)
 当時フェニックスは機密事項であり、報道関係者が得られた情報の多くは誇張、捏造、または事実誤認であったため、このプログラムは大いに誤解された。そして米国やその他の国々の反戦運動家や批判的な学者は、このプログラム一般市民を対象とした違法で残忍な殺戮計画であるかのように吹聴したため、論争を巻き起こす事となった。
 残念ながら、これまでフェニックスについて客観的な分析が行われた事はほとんどなく、ベトナム戦争を研究する者の多くがこのプログラムを疑惑と誤解をもって見ていた。

 以下に、南ベトナムのタイニン省で行われた一連のフェニックスの一部始終の概要を示す。これらは限られた年代と地域における一例であるが、そこからは1968年のテト攻勢後の数年間でフェニックスが効果を発揮する事が出来た重要な要因の一つが見て取れる。それは全国で実施されたフェニックスの実行部隊たる省探察隊(PRU)』に関する事柄である。


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フェニックスの構造
 フェニックスは1960年代にCIAが南ベトナムで実施した平定および農村警備プログラムの一つである。もし南ベトナム政府とアメリカが農民たちに対し、彼等を真剣にベトコンから守る意志があると説得できれば、農民自身に自衛の為の訓練を施す事で、米軍が直接介入せずとも南ベトナムの広大な農村地帯を敵から防衛する事が出来る。これが平定達成の為の条件であった。

 1967年までに、米軍ベトナム軍事援助司令部(MACV)は軍民全ての平定プログラムを『民事作戦および革新的開発支援(CORDS)』という一つの組織に統合する事に成功する。
 CORDSにはCIAとMACVが深く関与しており、サイゴン政府と共同で運営されていた。CORDSの指揮は当初、元CIA局員のロバート・H・コマーが執っていたが、CORDSが最も活発に活動し成果を挙げたのは1968年にコマーの後任として赴任したウィリアム・コルビーの時代であった。
 コルビーは1959年から1962年にかけてCIAサイゴン支部長を務め、その後はCIA極東地域部長の地位にあった人物であった。コルビーはアメリカが南部の村々を支配する共産主義系勢力を排除し、地方のベトコンインフラ(VCI)を根絶しなければならないと確信していた。そのためCORDSは村落防衛・民事活動プログラム─後に土地改良、インフラ建設、経済発展を含むに取り組み、VCIの根絶に相当の労力を費やした。

 CORDSのもう一つの要素がフェニックス・プログラムであった。(※2) フェニックスは表向きはサイゴン政府によって運営されていたが、実際に資金を提供しその活動を管理していたのはCIAであった。フェニックスは南ベトナムの100以上の省および地区でVCIに関する情報を収集し、野戦警察および準軍事組織によるベトコン掃討の基礎となる情報を提供するためにCIAが構築した情報作戦委員会(Intelligence operation committees)』というネットワークを基礎に構築された。

▲フェニックス・プログラムを非難するポスターに描かれたウィリアム・コルビー。CIA史料写真。年代不明

 基本的に、この委員会の活動は、VCI活動者と目される人物のリストを作成する事であった。一度VCIメンバー個人の名前、階級、居場所が判明すれば、CIAの準軍事部隊、南ベトナムの警察または軍隊がその人物を拘束し、共産主義組織の内部構造と活動に関する情報を得るために取り調べた。
 このリストはベトナム国家警察、米海軍SEAL、米陸軍特殊部隊群、そしてタイニン省を含む各省PRUなどのフェニックス実行部隊に使用された。そしてこれらの部隊は村落に出向き、指定された人物を特定し、その"中和(Neutralize)"を試みた。リストに記載された人物は取り調べのために逮捕・拘束され、抵抗した場合は殺害された。当初CIAはベトナム側の協力の下、省または地区政府レベルで取り調べを行っていた。その後、このプログラムがサイゴン政府に移譲されると、CIAは情報収集活動のみを担当した。最終的に、CIAと米軍軍人合わせて約600名のアメリカ人がVCI容疑者の取り調べに直接関与した。

 PRUはフェニックスにおいて恐らく最も物議の的となった要素である。彼は元々1964年に南ベトナム政府とCIAによって創設された準軍事特殊部隊であり、当初彼は対テロ部隊と認知されていた。PRUには最終的に4,000名以上の兵士が所属し、南ベトナム領内の44の省の全てで活動していた。PRUは1969年11月まで米軍将校および上級下士官によって指揮されており、それ以降はCIAのアドバイザーに引き継がれた。
 米国のベトナムへの関与に批判的な人々は、PRUは殺戮部隊に他ならず、戦争全期間を通じたVCI死者数の内、南ベトナム軍・警察および米軍との戦闘による戦死者以外のほとんど、すなわち全体の14%がフェニックス・プログラムの期間中にPRUによって殺害されたと主張している。

 1972年のCORDSの報告によると、1968年のテト攻勢以来、フェニックスは5,000名以上のVCIの活動・軍事行動を阻止し、そして2万名を超えるとみられるVCIがフェニックスの成果によって─ベトコン組織から脱走した。またMACVは、フェニックスおよびテト攻勢に対する米軍の反撃は、他の農村保安や民兵プログラムとも相まって、投降、拘束または殺害によって8万名を上回るVCIを無力化したと主張している。
 ただしこれらは多く見積もった場合の数字であり、実際にはその数は各々の統計の信頼性に左右される。しかしながら、ほとんどの─ベトコン側を含む─資料に共通している点は、フェニックス(1971年終了)およびその他の平定プログラムはVCI組織を地下深くに追いやり、実質的な活動が不可能になるほど弱体化させたという事である。フェニックスおよび同盟軍の活動はVCIに深刻な打撃を与え、1972年のイースター攻勢や1975年の時点でも、VCIおよびベトコンゲリラ部隊の活動は見られなかった。


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※2. 1967年末、南ベトナム首相は政府が行う対VCI活動の全てを一つのプログラムに統合し、それを特別な力を持つ神話上の鳥"鳳凰(Phụng Hoàn)"と名付けた。コマーはそれをアメリカ人顧問に分かり易いよう、欧米で鳳凰に相当する"不死鳥(Phoenix)"と名付けた。

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(中略)
※訳者注: ベトナム戦争中アメリカ海兵隊将校としてフォースリーコン、後に歩兵中隊長を務めていた筆者は1969年にPRUでの勤務を希望し、CIAの面接を受けて採用され、1969年9月にPRU指揮官としてタイニン省に赴任する。

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 タイニンに到着すると、私は省政府担当官(PIOC)─実際には省政府付きのCIA上級局員で、日々我々の活動を監督している─が率いるアメリカ人チームと合流した。私はチームのメンバーから、我々は二人の"ボス"の下で働くことになる事を教えられた。一人はアメリカ側のPIOC、一人はタイニン省における作戦権限の全てを司る南ベトナム側のタイニン省長官である。翌日、私は省長官と面会した。彼は英語の堪能なベトナム軍の中佐であり、有能で自信に満ち、尊敬されるリーダーである事が分かった。私にとって彼は理想的なリーダーであり、南ベトナムの省政府関係者によく見られるような堕落した部分が一切ない人物に見えた。


タイニン省PRUの隊員たちとは?

 タイニン到着の二日目、私は比較的カジュアルな会合、私が指揮・助言する事になる92名のタイニン省PRUメンバーたちの多くと初顔合わせをした。彼は皆勇敢で経験豊富な兵士で、一部にはかつてカオダイ軍(ベトミンと戦った民兵)や南ベトナム軍空挺師団、米軍特殊部隊に指揮された不正規民間防衛隊(CIDG)に所属した経験がある者も居た。またPRU隊員のほとんどはカオダイ教徒であり、一部にローマ・カトリック教徒、そしてクメール族が2・3人所属していた。彼皆ベトコンに対し深い憎しみを持っている人々であった。その主な理由は、や彼の家族がベトコンによる残虐行為の被害者だったからでである。彼にとって宗教と家族は人生で最も大切なものだった。

 タイニンPRUは18人編成のチームが5チームで構成(各チームは3個の分隊で構成)され、4チームがタイニン省の4つの地区それぞれに、1チームが省都タイニン市に配置された。タイニンPRU本部はタイニン市チームと合同で設置され、司令官と作戦将校の2名が指揮を執った。またタイニン市チームの指揮官はタイニンPRUの副指令も兼務した。
 PRUの武装はM16ライフル、M60マシンガン、45口径自動拳銃、M79グレネードランチャーであったが、各々の隊員はそれらに加えて個人的に入手した様々な武器を持っていた。さらに部隊にはPRC-25無線機、7x50双眼鏡、医療キット、トヨタ製四輪駆動トラック、ホンダ製のオートバイが装備されていた。隊員たちは地区本部の駐屯地では私服を着ており、前線ではタイガーストライプもしくはブラックパジャマを着ていた。また部隊付きの米軍アドバイザーも同様の装備・武装であった。

▲タイニン省PRUとフェニックス・プログラムにおけるその役割、1969-1970年 より

 私がPRUの作戦能力についてまず初めに感じた事は、各チームはほとんどの状況でうまく機能しているものの、火力支援に関する部分が欠けているという事であった。つまり、各チームは火力支援の下で効果的に行動する事が出来ず、また支援兵器(一般的には砲撃)に対して射撃要求や調整を行う事が十分に出来ていなかった。そのため部隊は敵と偶然遭遇した場合や、敵側がこちらと戦う用意をしている場合にはうまく機能しなかった。
 これは彼が受けていた非体系的かつ不安定な訓練にある程度原因があった。PRU隊員たちのほとんどはPRUに来るまで精強な戦闘部隊で何年も生き残ってきた経験豊富な元軍人であったが、一方で一部は初歩的な野戦訓練しか受けていないか、もしくは非戦闘部隊で勤務していた者たちであった。PRUの訓練は国レベルでは南シナ海沿岸にあるブンタウ近郊のキャンプで行われたが、地方レベルでは活動の順延が許される状況の時のみ米軍司令官とアドバイサーが訓練を施していた。その結果、訓練の頻度や部隊の能力はまちまちになっていた。

 一方、PRUの強みはタイニン省の住民や地理に関して深く完全な知識を持っている事である。この知識こそが訓練の欠点を補い、地方のVCIに対する作戦を成功に導いた核心であった。この地域に根差した知識は対VCI情報網を発展させ、体系的な作戦の計画に大いに貢献した。またPRU隊員は擬装、潜伏、そして夜間行動に精通していた事から、結果として彼は決定的な戦果を得るために待ち伏せ攻撃に特化する傾向があった。


情報源

 CORDS関連のシステムの導入により、タイニン省PRUは理論的には幅広い有用な情報源を持つ事ができ、地方の諜報員レポートから国家レベルの情報機関まで全ての情報を地区情報作戦調整センター(DIOCCs)を介して得られ、米軍の地区アドバイザーはその地区のPRUの作戦優位性を確保できるはずであった。なお、省レベルでも整合をとるため同様の組織構造が存在したが、省におけるアメリカ人PRUアドバイザーの役割はあくまで、地区付きの軍事顧問という地位に充てられていた。
 しかし実際には当事国の事情により、地区レベルでも一部の指揮権はアメリカ側だけでなくPRU側と共同という事になっていた。ベトナム国家警察、ベトナム特別警察、そして地区指揮官との間にはいささかの管轄争いがあり、それが現場におけるPRUの優位性を妨げる事もあった。
 同様の問題はアメリカ側にも存在しており、米軍司令官や民間のアドバイザーは歩み寄りを拒んでベトナム側と情報を共有する事に消極的であった。情けない事に、アメリカの民間アドバイザーはサイゴンのアメリカ大使館から特にそうするよう指示を受けた場合であってもPRU側と情報を共有する事を渋っており、さらに彼の多くは仕事の成果を横取りされないよう、他の米国機関との情報共有にすら消極的であった。
 理屈の上では、DIOCCのシステムは作戦運用の向上や実行時に大いに役立つはずであった。しかしながら、個人の非協力的な姿勢と官僚的な組織対立のために、タイニン省では概してこの仕組みは正しく機能していなかった。

 一様に不正確だった情報源が、米軍情報部隊によって組織された諜報員からのレポートだった。私がPRUアドバイザーを務めていた10か月間、PRUが米軍から受け取ったレポートの中で価値のある情報と判断されたものは一つもなかった。米軍は諜報員に対し歩合制で報酬を支払っていた為、価値のないレポートの乱造を引き起こしていた。
 同様にベトナム国家警察からの諜報員レポートも役に立たず、場合によっては危険なほど不正確だった。国家レベルでもたらされる情報は正確だったものの、それらはしばしばVCIには関連性のない情報だった。彼等は省内からVCIを根絶する上で、PRUの活動にさほど重きを置いていなかった。

 PRUにとってある程度重要で価値のある情報は、ベトナム特別警察が省政府取り調べセンター(PIC)で容疑者への尋問によって聞き出したものであった。PICに収容されている容疑者の多くがVCIのメンバーと活動について正確でタイムリーな情報をもたらしてくれた。これはそう頻繁にある事ではないが、そういった情報がPRUと共有されれば通常大きな成果に結び付いた。
 そして特に重要だったのは、チューホイ・プログラム(Chieu Hoi Program)によって南ベトナム政府側に転向した多数の元ベトコン達だった。彼等"Hoi Chanhs (転向者)"は南ベトナム政府に降伏後PICで取り調べを受け選抜された者たちであり、彼等はしばしば高烈度競合地域におけるVIC容疑者逮捕のためPRUチームを先導する任務に志願した。転向者たちは通常、他の容疑者よりもはるかに信頼度が高く、彼等がかつてベトコンゲリラや北ベトナム兵(NVA)であったのにも関わらず、彼等はVCI目標に関する有用な情報をもたらしてくれた。

 また分析に時間を要し利用も簡単ではなかったものの、しばしば生産的だったもう一つの情報源が、1963年から64年にかけて不服調査(Census Grievance)チームが蓄積した膨大なデータの数々であった。このチームは国勢調査の際に住民との面談を行い、その思想の傾向を密かに調査した。そして各世帯の南ベトナム政府への忠誠度を色で表した地図を省・地区・村落単位で作製した。緑の世帯は政府に従順であり、黄色は中立、赤はベトコンに同調的である事を示していた。
 さらにこの地図に記載された各世帯の家族構成の名簿には、VCIメンバーないし共産主義に同調する者の名が含まれている事がよくあった。そのためこれらのデータはタイニン市内にあるCIAの施設に保管され、米国の運用指導アドバイザーによって定期的に見直しが行われていた。ほとんどの場合、その名簿からは容疑者にたどり着けないか、既に死亡している、または共産主義シンパとして逮捕されていたように、その情報は古く活用困難だった。しかしその一方で、いくつかの例において、この不服調査マップによる情報の成果としてVCI中堅の重要人物を逮捕ないし討伐出来た事は特筆に値する。もしこの地図がデジタル化され、データベースに簡単にアクセスできたならば、情報収集にかかる時間は大幅に短縮され、より多くの作戦を優位に進められたはずである。

 しかし、これらよりはるかに多くPRUの情報源として用いられたのは、PRU独自の諜報システムであった。先に記したように、他の情報機関はVCI目標に関する情報を共有する事に消極的であったため、タイニン省PRUは自前の情報源を開拓する事を余儀なくされた。タイニン省PRUの隊員は、全員ではないにしてもほとんどの者はこのタイニン省で生まれ育ち、この省の住民として働き生活している者たちであった。彼等は皆地域社会の一員であり、また彼らの家族・親戚はタイニン省の至る所で、あらゆる職業に関与していた。PRUはこうした親類からの情報提供を通じて、村落レベルでVCIの活動を調査し、VCIに関する正確な情報を上手く収集する広域情報システムを構築するに至った。
 多くの場合、PRUに捕らえられたVCI幹部は、PRU隊員たちにとって個人的に、むしろ子供のころからよく知っている人であり、彼等はVCI容疑者の家族と私生活についても詳細を把握していた。そのため、時にはPRU隊員は自ら諜報員としてVCI内部に潜入する事にすら成功していた。
 彼等のVCIに関する非常に正確で深い知識は、幾度も作戦の優位性と、複数のVCI重要人物の討伐につながった。私がタイニン省PRUの米国側アドバイザーであった期間中、PRUによって逮捕ないし討伐されたVCI容疑者のおよそ2/3が、PRUが構築した生活の中での諜報活動システムによって特定された人物であった。


運用上の関係

 PRUプログラムはアメリカのCORDS、そしてベトナム内務省の管理下にある全国規模の組織であるものの、実際には各省の"実力部隊"であった。PRUに下される逮捕命令や作戦命令にサインする事が出来る指揮権限者は省長官ただ一人であり、彼がPRUの運用方針と権限の全てを握っていた。
 そのため私はタイニン省付きの米国側PRUアドバイザーとして、ベトナム軍・アメリカ軍双方の調整をしながら作戦の計画を練っていたが、それは私には耐えがたい事であった。タイニン省PRUがVCI目標に対して何らかの作戦を行う際には、私は毎回タイニン省長官に書面で作戦遂行の許可を要請し、長官の承認とサインを得なければならなかったのである。
 とは言え長官と彼の側近、米国側アドバイザーは毎日のように顔を合わせていたので、この件がPRUの作戦遂行を実際に妨げる事はなかった。省の下位の地区レベルでは、ベトナム側の地区司令官は米国PRUアドバイザーと省長官の承認を経ずにその地域のPRUを作戦に投入す事は出来なかった。しかしそれでも、地区情報作戦調整センター(DIOCC)は運用要請を迅速に処理できるよう組織されていた為、私の在任中、地区レベルでのPRUの作戦承認に遅れは見られなかった。


アメリカが関与する役割の変化による影響

 私のPRUにおける立場が変わる時がやってきた。1969年9月にPRUの"指揮官"として配置された私は、同年11月以降"アドバイザー"という肩書に変わった。それまでPRUの"指揮官"には米軍の将校や上級下士官が割り当てられていたが、この仕組みは11月以降変更された。それは米国国内でフェニックス・プログラムが残虐な作戦であると認識されてしまった事、そしてその残虐だという主張がこの戦争への支持を打ち消してしまう事をMACV司令官クレイトン・エイブラムス将軍が懸念した為であった。
 11月、エイブラムス将軍はPRUに配置されたアメリカ兵の肩書を"指揮官"から"アドバイザー"に変更する命令を下した。彼はまた、アメリカ人はPRUチームに同行して現場に赴く事はない、とも規定した。これは、アメリカ人が軍法統一規定(The Uniform Code of Military Justice)に抵触する恐れのある活動に関与する可能性を避ける為であった。
 私自身はエイブラムスや彼の参謀がこれらの制限を設定した時、その理由については関知していなかったが、これだけは言える。タイニン省での任期中、私はアメリカ人・PRU隊員のどちらも軍規に反する作戦行動を行った例は一度として見た事がないし、聞いたこともなかった。

▲タイニン省PRUでは正式な隊伍を組む事は稀であった。これは米陸軍第25歩兵師団との合同作戦中に勇敢な行為のあった4名のPRU隊員が米軍からブロンズスター勲章を授与される際の写真である。撮影: 筆者
 
 この新たな方針はタイニン省の兵士たちから士気と実効性を奪い去った。PRUは危険な作戦にも同行して米軍支援部隊、特に救急ヘリコプターや砲兵部隊との無線交信を担うアメリカ人に大きく依存していた。アメリカ人による手引きが失われたことで、PRUはC戦区(War Zone C)やカンボジア国境のアンタィン・カイメー地域などのタイニン市北部及び西部競合地域への出撃を躊躇するようになっていった。もし緊急事態に直面した場合でも、アメリカ人が一緒でなければ米軍ヘリによる救護避難、火力支援、そして緊急脱出が受けられない事を彼等は知っていたからである。
 タイニン省PRUにとって、その問題は小さくはなかった。チームは北ベトナム軍の第5、第7、第9師団が展開する地域内で活動していた。軽武装のPRUは、もし北ベトナム軍やベトコン主力部隊との戦闘に遭遇した場合、速やかに米軍による火力支援を受ける必要があったのである。

 1969年11月以降、タイニン省PRU隊員たちが進んで競合地域に出撃するようになるまでには数ヶ月の長い訓練を要した。私のPRUへの忠義とリーダーシップというものへの理解に立脚し、私はMACVが課した制限に対し度々疑問を感じていたことを認めざるをえない。私は正式に方針の見直しを上申したが、その要請は却下された。


PRUチームがVCI壊滅に成功した理由とは?

 私の体験が必ずしも他のPRUアドバイザーや部隊に当てはまる訳ではないと思うが、少なくとも私の任期中、タイニン省PRUは成功を収めた部隊だった。1969年9月から1970年6月までにタイニン省PRUは31名のVCIを討伐、64名を逮捕した。一方、PRU隊員の損害は戦死2名、負傷2名のみであった。
 テト攻勢後の数ヶ月間でVCI上級幹部の大半がタイニン省PRUによって討伐または逮捕されたか、隣国のカンボジアに逃亡した事が1968年12月初旬の時点で明らかになっていた。私が1970年6月にベトナムを離れる頃には、ベトコンはあらゆる面で政治的脅威としての存在感を失っていた。
 PRUの活動が高い成果を挙げていた事実は、1975年に共産軍が南ベトナムを敗北させた際にも証明された(※4)。タイニン省を占領した北ベトナム軍司令官は、すぐさまこの地に200名の民間政治幹部を派遣するよう北ベトナム政府に要請した。彼の報告によると、戦後タイニン省の統治に携わるはずだったベトコン幹部は、この時点でたった6人しか残っていなかったという。
 タイニン省PRUが成功を収めた主な理由、それは彼等が省内、住民、そして敵側の事情に精通した集団だったからであった。また彼等には規律、強力なリーダーシップ、そしてベトコンを壊滅させるという個人的かつ激しい動機が備わっていた。彼等は敵に付け入る隙を与えない正確で非常に効率的な諜報システムを持っており、それらは家族との強い絆と宗教、そして住民との信頼関係に支えられたものであった。
 アメリカ人司令官およびアドバイザーが果たした役割は重要なものであった。しかしどの省でも、1年以上勤務した者はほとんど居なかった。私(そして同輩のPRUアドバイザーたち)もPRUに貢献するため、そういった信頼関係を築きたいと思っていたが、結局、それは私(そして我々)には成し得ない事であった。アメリカ人が南ベトナムを去った後も長らく、タイニン省PRUはVCIの根絶に従事し続けた。この作戦のコンセプトはアメリカ側の発案であったが、その実行と応用は完全にベトナム側によるものだった。

 1975年4月のサイゴン陥落以降、タイニン省PRU隊員たちの人生は一転して悲惨なものとなった。彼等は捜索に遭い逮捕もしくは殺害された。多くの者が再教育収容所に投獄され、長期間拷問と強制労働を強いられた。その内一部の者は収容所を脱出し、アメリカ政府から住居と就職先が与えられアメリカに定住した。
 しかしほとんどの者は処刑されたか、収容所の劣悪な環境の中で死亡した。ただしごく一部の者は決して降伏せず、彼等PRUの生き残りは"黄龍(Yellow Dragons)"と呼ばれる"残存"部隊を組織し、ベトナム共産党と南部のシンパに対する戦いを続けた。その活動は1990年代に入ってもタイニン省の共産政権当局によって報告されていた。

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※4. 私がベトナムを去った後のタイニン省におけるVCIの状況に関しては、1985年にアメリカに亡命した2名の元タイニン省PRU隊員たちから聞き取った情報である。

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教訓

 タイニン省での経験を踏まえて、私はある部隊がPRU同様に組織、装備、訓練されている場合、他の地域や時代でもPRUのような成功を再現できるかを時折考える。武装勢力を特定・逮捕するため地域社会の人間で構成された特別警察は、我々が信じる民主主義の原則に沿った上で成功するだろうか?私は、PRUに備わっていた以下の条件が満たされさえすればそれは可能だと信じている。

 特定の政府関係者や政治指導者だけでなく、国民に対し責任を負う、プロフェッショナルそして市民としての倫理観が部隊に浸透している事。
 高い水準のプロフェッショナリズムに装備・訓練されている事。
 給料が十分に(そして定期的に)支払われる事、そして具体的な成果には報酬を与える事──これは腐敗や敵の浸透を防ぐ重要な要素である。
 部隊はその者らが属するコミュニティーの者だけで構成し、小規模でも強固な絆のチームを編成する事(ベトナム戦争中、南ベトナムの人口1700万人強の内、PRU隊員だった者は4,500名足らずであった。それはPRU隊員のほとんどが生まれも育ちもその省という地元住民に限定されていたからである)。 これによって彼等は的確に司法と政治の監視下に置かれ、有効な法的権限を持つ者の命令無しに、認められていない手段の作戦を行う事が出来ない。
 部隊は別の場所に移動している間、対象の個人を識別するという目的を超えて捕虜を尋問・監禁する権限を持たない事。PRU型部隊は他の警察部隊、特に犯罪捜査および逮捕に関わる者とは明確に区別される事。
 隊員とその家族を報復の可能性から保護し、個人名が報道関係者や部外者に漏れないようにする事。
 最高水準の専門的かつ論理的なリーダーシップが提供される事。
 南ベトナムのDIOCCsのような省庁間の調整機構を通じて、目標に関する完全な情報を得られるようにする事。
 もしアメリカ人アドバイザーがそれらの部隊に配置される場合、その者は事前に言語・文化・情報管理・小規模部隊戦術、幕僚計画について専門的な訓練を受ける必要がある。

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以上のフィンレイソン大佐の論文も踏まえて、フェニックスとPRUに対する僕の認識をまとめると、以下になります。

・フェニックス・プログラムとは米国CIAが主導したベトナム政府による一連のベトコン政治基盤(VCI)破壊工作
フェニックス・プログラムの実行は米国CIA・米軍MACVの下部組織であるCORDSが担った。
・CIA、ベトナム国家警察などの情報報機関が収集したVCIに関する情報はCORDSによって調査・整理される。
CORDSが入念な捜査によって目標を特定すると、各省のPRUや国家警察野戦警察隊米海軍SEAL、米陸軍特殊部隊に逮捕命令が下る。
・PRUは省政府保有する対ゲリラ部隊であり、CIAから派遣された米軍人アドバイザーによって指揮された。
PRU隊員やその家族はその地域の住民であるため、地元のVCIについては政府や米国の情報機関よりも正確な情報を得られた
・逮捕されたVCI容疑者は省政府の取り調べセンター(PIC)に連行され、特別警察によって取り調べを受ける。
・PRUの任務は容疑者の逮捕であり、尋問を行う権限は無い。
・PRUは競合地域内に潜伏するゲリラの逮捕を行っていたため、ゲリラ側が抵抗した場合は戦闘の末殺害する事があった。
一般市民は概してPRUに協力的であり、市民からの情報提供によって国内のベトコン組織はほぼ完全に壊滅した。

 これらはベトナム共産党を支持する者や、その宣伝を信じた人々が書いた本を鵜呑みにしている多くのミリタリーマニアの認識とは真逆ではないでしょうか。"CIAの秘密殺戮部隊"・・・。マニアにとっては夢のあるお話なんでしょうが、それにはかなりの誇張、捏造が含まれていると考えます。あるのはただ、年間2,000人もの人々を虐殺しているベトコンというテロ組織を、あくまで司法に則った形で追い詰め、郷里と家族、信仰を守ろうとした父や夫たちの姿でした。

  


2017年06月15日

映画 Trên Bốn Vùng Chiến Thuật ── 四つの戦術地区で ──

前回の記事に「おまけ」として書きましたが、改めて記事にします。

ベトナム出身で米国在住のセミプロ映像作家の友人が監督し、僕も制作に関わった新作ドキュメンタリー映画『Trên Bốn Vùng Chiến Thuật (四つの戦術地区で)』が6月18日(僕の誕生日!)に米国のベトナム移民系テレビ局SBTNで放映され、翌6月19日『国軍の日(Ngày Quân Lực)』にDVDでリリースされます!
この『四つの戦術地区で』は、元共和国軍人やご遺族へのインタビュー、現在の戦跡、当時の記録映像と再現VTRなどで、若い世代の目線からベトナム共和国軍とベトナム戦争の歴史を紐解いていくドキュメンタリー映画です。

画像: SBTN chuẩn bị trình chiếu và ra mắt DVD bộ phim tài liệu “Trên Bốn Vùng Chiến Thuật”


新たにDVDのCMが公開されました。



僕もまだ完成版は見てないのですが、監督本人から、本編にはタイガもけっこう登場しているよ、と教えてもらいました。
たぶんここら辺の映像が使われていると思います。

サイゴン 独立宮殿(旧総統府)

ビエンホア国軍墓地


米国ジョージア州およびケンタッキー州 ドラマ・再現VTR撮影



去年4月、彼がHồi Ức』製作しSBTNで放映された事を記事にした時、僕はこう書いていました。

「彼とはそう遠くないうちに会う事になる気がしています。情熱さえあれば、地球なんて案外狭いものさ。」

しかし、まさかその3か月後に二人でベトナムを旅し、12月にはアメリカで一緒に映画を撮る事になるとは予想だにしていませんでした。
しかも彼は、彼と出会う前に僕が日本で友達になった別の在日ベトナム人とドンタップ省の中学校で同級生だったという奇跡まで発生しました。
地球狭いとは言ったけど、狭すぎるだろ!(笑)
  


2017年06月14日

国際郵便

 友人がアメリカにベトナム共和国軍史博物館を作る計画を進めているので、僕も数年前からそのお手伝いとして、日本国内で物を集めてアメリカに送る活動をしています。僕には1円も入ってこないけど、向こうで散々家に泊めてもらったり飯おごってもらってるので、このくらいの恩返しはしなくちゃね。
 しかし今まで何度も郵便局から国際郵便で品物を送ってきたものの、郵便局には小包を送るサービスだけでEMS(国際スピード郵便)、国際eパケット(国際書留付き航空小形包装物)、国際eパケットライト、小形包装物、国際小包、国際通常郵便と、こんなに種類があるので、どれがお得な送り方なのか毎回悩みます。
 日本郵便の公式サイトからダウンロードできる料金表を見ればある程度は分かるのですが、料金一覧は各サービス毎に分かれて掲載されていますし、書留や保険の可否・料金はサービスによって変わってくるので、比較という点ではいまいち分かりにくいんです。


なので、ついに重い腰を上げて自分用に国際郵便サービスの一覧表を作りました。
自分用なので日数と料金は北米・アメリカのみしか記載していませんが、こんな感じです。
※もしかしたら誤解や書き間違いもあるかもしれないので、正確な情報は郵便局で確認して下さい。


さて、一覧表も出来たところで、今回送るのはこちら。


大きさ 32x25x11cm
重量 約1.4kg
内容品の価格 約3万円

以下の3つの条件で比較し、消去法でどの国際郵便サービスを使うか決めていきます。

1. 大きさ、重量

大きさ、重量の面では全てのサービスを利用可


2. 保険、損害賠償

今回の品物は値が張る物なので、追跡サービス、保険は必須。
しかし国際eパケット、国際eパケットライト、小形包装物保険付にできない。
国際eパケットと小形包装物は損害賠償のある書留にする事は出来るが、書留の補償は6,000円までなので、今回の荷物には不十分。
したがって今回使えるサービスは最大200万円までの補償が出るEMS、国際小包、国際通常郵便の三つに絞られる。


3. 料金

EMS、国際小包、国際通常郵便の料金を、追跡サービス・保険を含めた総額で比較


・船便は安いけど、さすがに2か月は長過ぎるので今回は除外
・国際小包、国際通常郵便の保険はオプション(400円~)
EMS、国際小包は初めから追跡可。国際通常郵便は書留(410円)にする事で追跡可

なんということでしょう。EMSは届くのが早い分値段も高いと思っていましたが、追跡(or書留)・保険料金を含めると、必ずしもそうではないんですね!
EMSには予め追跡サービスと補償が設定されている分、オプション料金が少なくて済みます。届け出が無くても2万円まで補償されているので、それを超えた分の保険料50円を追加するだけでいいんです。
送る物の条件によって変わってくると思いますが、今回に限って言えば、一番早いEMSが一番安いという、目からうろこな結果となりました。



おまけ


  


2017年06月05日

QC/軍警隊

※2017年6月6日訂正・追記

もう3年も前の記事ですが、ヘルメットと腕章の訂正・補足です。
ベトナム共和国軍の"Quân Cảnh"について、当時分からなかった事が分かってきたので、新たに記事にします。

その前に、僕は今まで慣例通りQuân Cảnhを"憲兵"と日本語訳してきましたが、ちょっと表記を改めようと思います。
実はベトナム共和国には1950年代に、フランス国家憲兵隊(Gendarmerie nationale)に倣った軍事警察組織"ベトナム国家憲兵隊(Hiến Binh Quốc Gia)"が存在しており、その"Hiến Binh(HB)"の漢字表記は"憲兵"でした。一方、国家憲兵隊の下部組織として1955年に発足し、1961年に共和国軍内の独立した兵科に昇格した"Quân Cảnh(QC)"の漢字表記は"軍警"です。
国家憲兵隊が一般人も対象とした犯罪捜査を行う司法機関だったのに対し、QCはあくまで軍内部の秩序維持を第一義とした組織であり、その性格は全く異なるものでした。
従って国家憲兵QCを混同するのはよろしくないため、今後はQCを"軍警"と表記していこうと思います。
(ただし軍警隊には1966年に犯罪捜査を行う軍警司法中隊が発足し、過去の国家憲兵としての役割も復活させます)


以下、現在手元にある情報をまとめた軍警科(Binh chủng Quân cảnh)部隊の一覧です。


出典:
Gia Đình Mũ Đỏ Việt Nam "Huy hiệu Binh Chủng Quân Cảnh"
その他ベテランの証言より


当時の軍警隊の写真からはXIやXIVなどのヘルメットマーキングが見てとれるので、少なくとも軍警大隊は第14大隊まで存在しているだろうと予測はしていましたが、それらが具体的にどこを所管している部隊なのかは長年さっぱり分からないままでした。それがようやく分かってホッとしています。

▲フーコック島の共産軍捕虜収容所(Trại giam TBCS / Phú Quốc)を運営する第14軍警大隊


ちなみに現在の社会主義ベトナムでは、これらの捕虜収容所では軍警によって日々残虐な拷問が行われていたと宣伝され、歴史資料館にはご丁寧に実寸ジオラマまで展示されていますが・・・



世界中のメディアが特ダネ求めてスキャンダルを嗅ぎまわり、赤十字国際委員会も常駐してジュネーヴ条約履行を監視している中で、どうやってそんな事が行えたんですかねぇ?


むしろ西側諸国で反戦(と言う名の反米・親共)運動が盛り上がる中で、ベトナム共和国政府は捕虜に対しこれでもかと医療、教育、職業訓練、クリエーションなどの手厚い待遇を施し、それを国際社会に示して自らの正当性をアピールするのと同時に、共産軍兵士の戦意を削ぐ心理戦術として活用していました。



 


写真: flicker "Trại tù binh Phú Quốc 1973", By: manhhai 

もちろん、これらの写真だけでは捕虜虐待が無かった証拠にはなりませんが、少なくとも共和国軍政治戦総局が1963年より実施している『チューホイ(Chiêu Hồi)計画』では、実際にこれら厚遇を受けた多数の捕虜が政府側に転向し、ラジオ放送や伝単などを通じてベトコン側に投降を呼びかけた事で、1971年の時点で累計17万人以上のベトコン兵士が脱走・投降してサイゴン政府側に寝返っています。
参照: Psywarrior, "THE CHIEU HOI PROGRAM OF VIETNAM", by SGM Herbert A. Friedman (Ret.)

戦わずして敵兵力を十数個師団分削る事が出来る訳ですから、こんなにコストパフォーマンスの高い戦術は他にはなく、ベトナム共和国政府・軍はこの政策を本気で行っていた事は確かだと考えます。