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2023年11月05日

ノジャンシュルマルヌ慰霊祭

※2023年11月9日更新

ただいま日本。土曜日の夜遅くに帰国しました。

フランスでは観光もしましたが、今回の旅の主たる目的は、ノジャンシュルマルヌの軍人墓地にて開催された、ベトナム軍*戦没者慰霊祭への参列でした。
この慰霊祭は第一次インドシナ戦争からベトナム戦争にかけて、共産主義者によるテロからベトナムを防衛すべく戦い命を落とした約30万人のベトナム軍戦没者を追悼するもので、毎年11月2日にノジャンシュルマルヌ墓地のインドシナ人・自由ベトナム軍人記念碑前で執り行われており、今年で23回目の開催になります。

※ベトナム軍の名称は以下の変遷を辿っています。なお私はベトナム人民軍を「ベトナム軍」と呼ぶことはありません。
1949-1952: ベトナム国家衛兵隊(VBQGVN)
1952-1955: ベトナム国軍(QĐQGVN)
1955-1967: ベトナム共和国軍(QĐVNCH)
1967-1975: ベトナム共和国軍(QLVNCH)

式の主催はフランス在住ベトナム軍退役軍人および空挺部隊協会。加えてUNP(全国落下傘兵協会)等のフランス退役軍人協会ならびにノジャンシュルマルヌ市が協賛しています。そのため式にはフランス在住ベトナム人に加えて、多数のフランス退役軍人ならびに現役の外人部隊、ノジャンシュルマルヌ市関係者が参列しました。
式ではまず、主催代表のホアン・コー・ラン大佐(ベトナム陸軍空挺師団軍医)が式辞を述べ、次いでフランス軍空挺部隊所属のカトリック司祭ならびにベトナム人仏教僧が祭礼を執り行いました。



私を招待してくれたカオ准尉(フランス海兵隊ベテラン)に聞いた話では、在仏共産ベトナム大使館は以前からこの慰霊祭を中止するようノジャンシュルマルヌ市役所に圧力をかけているそうです。幸い、今の副市長がたまたま元外人部隊将校だったのでこの手の慰霊祭には理解があり、今回も滞りなく開催できましたが、今後の市長選の結果次第では、引き続きこの慰霊祭が開催できるか不透明だそうです・・・。
国外での慰霊祭すら潰しにかかるベトナム共産党政府の性根の悪さよ。


こうして1時間ほどベトナム軍慰霊祭を行った後は、同じノジャンシュルマルヌ墓地内にある戦争記念碑前に会場を移し、ディエンビエンフー戦没者慰霊祭が開催されました。
この慰霊祭は1954年の『ディエンビエンフーの戦い』およびその後のベトミン軍による抑留の中で命を落としたフランス連合軍将兵を追悼するもので、主催はANAPI(全国インドシナ抑留者連合協会)会長フィリップ・ド・マリーシエ少将、ディエンビエンフー従軍軍人協会会長ウィリアム・シラルディ氏の両名です。
またフランス連合軍所属のインドシナ少数民族将兵を代表し、在仏モン族保存協会会長のヴァン・ヤン氏によるスピーチも行われました。




ちなみに私は当日、在仏ベトナム空挺協会(UNP第780支部所属)のゲストとして、UNPの正装ならびにベトナム空挺ベレーを着用して式に参列しました。(当日はかなり寒かったのでコートを着ています。)
これまで文献で知っているだけの存在だった伝説的なベトナム軍将校の方々と生でお話しできて感無量でした。詳しい話は後日あらためて記事にします。


  


2023年10月07日

出色戦士

※2023年10月21日更新


ベトナム戦争中、ベトナム共和国軍では年に一度、将兵の中からその年の出色戦士(Chiến sĩ Xuất sắc)』推薦によって選出して表彰する制度がありました。
この制度がいつ始まったのかはまだ把握できていませんが、少なくとも1960年代末以降は、国慶日(11月1日)にならぶベトナム共和国の最重要祝日である国軍の日(6月19日)に合わせて表彰式典が行われていました。

※国軍の日は1965年6月19日の軍政成立を記念するもので、実際に祝日として祝われたのは1966年が最初。過去記事祝日とパレードとクーデター』参照


当時、出色戦士に選出される事は軍人にとって大変に名誉な事とされ、毎年数百名が出色戦士を受賞しました。
(私が唯一受賞者数を把握しているのは1973年度の約600名(戦死者100名含む)ですが、この年はパリ休戦により北ベトナムから返還された捕虜200名分が追加されているので、他の年度ではもっと少なかったと考えられます)

出色戦士受賞者は首都サイゴンでパレードが行われる6月19日の数日前に決定、本人に通知され、表彰の為、前線からサイゴンに招聘されます。そしてそこで、国家の英雄として以下の催しに参加します。(1973年度の例)

・6/18 マスメディアによる取材
6/18 サイゴン市議会主催のパーティー(サイゴン市長による表彰)
6/18 ビエンホア国軍墓地での追悼式典(総参謀長以下軍高官が列席)
6/18 下院議会主催のパーティー
・6/19 国軍の日パレード(VIP用観閲席からの観閲)
6/19 総統府(独立宮殿)での総統主催パーティー
6/19 ザーロン学校・ドンカイン学校の女子学生とのスポーツ交流会
6/19 総参謀部での総参謀長主催のパーティー(総統・総統夫人列席)
・6/20 上院議会主催のパーティー
・6/20 政治戦総局長主催のパーティー
(その間、サイゴン市内の高級ホテルに宿泊。10軒のホテルが出色戦士の為に貸し切り)

▲グエン・バン・テュー総統から勲章を授与される出色戦士受賞者[撮影年不明]


国軍の日パレードを観閲席から観閲する出色戦士受賞者 [1972年6月19日サイゴン


受賞者には以下のような報奨・休暇が与えられました。(1973年度の例)

・所属部隊司令からの報奨金:5千500ドン
・サイゴン市議会からの報奨金(サイゴン市民からの寄付金):1万ドン
・下院議会からの報奨金:1万ドン
・上院議会からの報奨金:1万ドン
・総統からの報奨金:2万ドン
・総参謀長からの報奨金:1万5千ドン
・7日間の休暇
台湾への慰安旅行

▲台湾に到着したベトナム軍の出色戦士受者一行[1973年台湾 桃園空港]
(制服・旅行鞄等は旅行のために新たに支給される)


加えて、受者には出色戦士を示す徽章が授与され、制服の胸ポケットに佩用されます。

サイゴン市議会主催のパーティーに出席するグエン・バン・クー騎兵中尉[1973年6月18日サイゴン]

出色戦士章の一例
少なくとも1973年度はこのデザインが使用されたようだが、他の年度では違うデザインも見られる。

▲1969年度の出色戦士
画像が不鮮明だが、明るい色の下地の上に黒っぽい文字が描かれているので、明らかに1973年版とは異なるデザインである。


  


2023年10月02日

シーウェーブ写経会

過去記事『シーウェーブ写経』で書いたように、香港Illusion militaria製のベトナム海兵隊ザーコップ迷彩4thタイプ(通称VMD/シーウェーブ)レプリカの黒い模様の部分をサインペンで塗りつぶす作業を2022年1月に始めた訳ですが、始めてみるとマジで精神力を要する途方もない作業だという事が分かりました。
そして作業の途中で僕の心はぼっきり折れてしまい、しばらく手を付ける事すらできなくなり、作業開始から1年8ヶ月経ってもまだ半分も進んでいないという状態でした。
しかし、このままでは一生完成しないので、先日一念発起して友人に助けを求めました。(一人で完成させることは諦めました)
そして日曜、朝10:30に友人宅に行き、二人で分担して塗り進む事となりました。


途中休憩を取りつつ、計7時間ほどひたすらこの作業を行いました。
しかし二人がかりで7時間やっても、結局この日の夜までに進んだのは全体の3/4程度まででした。まだパンツが片足分残っています。
当初は、この日のうちに上下全てを完成させるつもりでいたのですが、見通しが甘かったです。シーウェーブはそんなに優しくありません。
しかしそれでも、一人で黙って作業するよりかは、はるかに精神的に楽でしたし、彼の協力無しにここまで進む事は不可能でした。マジ感謝です。

そして18:30頃、作業を終えて夕飯を食べに出発。



協力してくれた友人を労い、ちょっと良い個室海鮮レストランでご飯を食べてもらいました。
さらにその後、スーパー銭湯でひとっ風呂浴びて解散。

服自体は完成しなかったけど、久しぶりに達成感を覚える、濃密な一日を過ごすことが出来ました。
  


2023年09月09日

黒キャンバスブーツのレプリカ発売。しかし・・・

かねてよりWhat Price Glory(以下WPG)で企画されていたMDAP黒キャンバスブーツのレプリカが発売間際のようです。



なお、このレプリカには米軍コントラクト/調達局コードスタンプも再現されているようで、そのコードは『DA-92-557』となっています。これは1965~1966年に日本(沖縄含む)で生産された事を意味します。

長年待ち望んでいた初のレプリカであり、宣伝写真からもなかり精巧に再現されている事が分かったので、発売を本当に楽しみにしていました。
そして先日、WPGの中の人に近い友人から価格や在庫数などの先行販売情報が回って来たのですが・・・
今回生産されるサイズは、7 1/2から13。僕の靴のサイズは7なので、7 1/2ならなんとか履けるのですが、その7 1/2サイズは、僕に話が回って来た時点ですでに予約満了でした。次に小さいサイズは8 1/2ですが、これでは大きすぎます・・・。

本来この靴はベトナム軍・ラオス軍向けの支援物資であり、アメリカ兵に着用される事はほとんど無かったのですが、今回レプリカを作るにあたっては大柄な欧米人マニアがターゲットにされたため、小柄なアジア人サイズは無視されてしまいました。くっそ~!

という訳で、僕にとっては『発売前に完売した』という事実が分かっただけで今回は終わりです。悲C・・・。
友人が、売れ行きが良ければ再生産もあるかも、と言っていたので、それに望みをかけるしかありません。

なお、物自体はかなり良さそうなので、サイズが合う方はこの機会に買っておく事をお勧めします。
(そして僕のために再生産につなげてください)
  


2023年08月27日

ベトナム軍の戦役章

今回はベトナム共和国軍(主に陸軍・海兵隊)で用いられた戦役章について、現時点で把握している情報をまとめました。

ベトナム共和国軍は1949年の創設以来、幾多の激戦を経験してきましたが、戦役章が制定された戦いというのは、そう多くはありません。
私が把握している限りでは、戦役章が制定された戦役は大きく分けて以下の3つです。

I. カオダイ/ホアハオ部隊の粛清(1956年)
II. カンボジア作戦(1970~1971年)
III. 赤火の夏/イースター攻勢(1972年)

さらにこの中で、時期や地域によって戦役章が複数制定されています。


I. カオダイ/ホアハオ部隊の粛清(1956年)

以下のグエンフエ、タインゴックハウ、チュウンタンブウという三つの戦役はいずれも、ベトナム共和国政府が自国軍内のカオダイ教徒およびホアハオ教徒部隊粛清・掃討した戦役です。
フランス連合(第一次インドシナ戦争)時代、フランス植民地軍は、ベトナム国内で少数派ではあるものの数十万人規模の組織力と社会的影響力を持っていたカオダイ教・ホアハオ教、またビンスエン団(やくざ)や少数民族自軍の戦力として活用するために軍事組織化し、ベトミンへの対抗戦力としました。
しかし1954年に第一次インドシナ戦争が終結しフランス軍が撤退を始めると、フランス軍の麾下にあったそれらの部隊は同年中にベトナム国軍へと編入されます。
ところが翌1955年、クーデターによって南ベトナムの実権を握ったゴ・ディン・ジェム総統はフランス連合からの脱退を宣言するとともに、フランスの統制下にあるこれら少数派勢力を危険視し、部隊の解散を命じました。
この中でカオダイ教・ホアハオ教部隊将兵の一部は武装解除に応じず、政府に抵抗した事から、政府軍による掃討作戦が立て続けに行われました。


戦役章①グエンフエ戦役および②タインゴックハウ戦役(Chiến Dịch Nguyễn Huệ / Thoại Ngọc Hầu)

上段のタブが1956年1月-5月の『グエンフエ戦役』、下段の虫のパッチが1956年6月-10月の『タインゴックハウ戦役』を表す。
この二つの戦役は立て続けに行われたことから、戦役章もセットで着用される事が多い。
着用例は1957年の第133地方連隊


戦役章③:チュウンタンブウ戦役(Chiến Dịch Trương Tấn Bửu)

1956年5月の『チュウンタンブウ戦役』従軍者に授与。
賞状のみで徽章は未確認。


上記の1956年の三戦役以降も大きな戦いは幾度もあったものの、戦役章はその後永きに渡って制定される事なく、14年も経った1970年になって復活します。


II. カンボジア作戦(1970~1971年)

ベトナム共和国軍初の大規模な国外軍事作戦として1970~1971年にかけて行われた一連のカンボジア進攻作戦は『境外戦役』と呼ばれ、軍団ごとに以下の作戦が実施されました。
第II軍団: ビンタイ作戦(Hành Quân Bình Tây)
第III軍団: ァンタン作戦(Hành Quân Toàn Thắng)
第IV軍団: クーロン作戦(Hành Quân Cửu Long)
※実際にはそれぞれ細かな作戦番号・フェーズに分かれている

戦役章:境外戦役(Chiến Dịch Ngoại Biên)





III. 赤火の夏(1972年)

1970年代に入ると、共産軍の主力は壊滅した南ベトナム解放民族戦線に代わって正規軍であるベトナム人民軍となり、1972年にはついに人民軍が国境を越えて南ベトナム各地に本格的な軍事進攻を開始します。
この戦いは『赤火の夏(Mùa hè đỏ lửa)』、英語では『イースター攻勢(Easter Offensive)』と呼ばれ、ベトナム戦争で最大の犠牲者を出す激戦となりました。
この戦いの後、特に激戦となったクアンチ、コントゥム、ビンロン省(アンロク市および国道13号周辺)の戦いに対し戦役章が制定されました。

役章①:クアンチ戦勝(Quảng Trị Chiến thắng)


▲(右)戦後の海兵隊ベテランによる着用例


戦役章②:コントゥム豪傑(Kontum Kiêu hùng)



戦役章③:ビンロン英勇(Bình Long Anh hùng)



  


2023年08月18日

不可思議な写真

ほとんど予定が無い長い夏休み(超さみしい)を利用してパソコン内の画像データを整理していたら、軍装的に変な写真が何枚か見つかったので、以前から不思議に思っていた写真とまとめて記事にしてみます。

1. 写真館系

▲制服はドンデー軍校(下士官学校および予備士官学校)なのに、制帽がトゥドゥック歩兵学校
ドンデーとトゥドゥックは共に予備士官学校なので、その部分だけは共通ですが、学校の所在地や徽章は全く異なります。

制服はドンデー軍校なのに、制帽が空軍
また袖に付いている階級章が陸軍一等兵または中士(軍曹)なのも、空軍の制帽と組み合わせるのはおかしいです。

▲服は陸軍空挺部隊のリザード迷彩TTA47/52(軽量型)なのに、制帽及び階級章は空軍
基本的にベトナム空軍が迷彩服を着ることは、地上勤務者であってもほぼ無い(ただし迷彩生地のフライトスーツのみ存在)ので、すごく変です。

上記の3枚は、いずれも写真館で撮影されたものであるため、こうしたちぐはぐな軍装は、写真館の貸衣装を使ったことによる考証間違いではないかと僕は予想しています。
(当時は軍人以外にも、兵士の家族や恋人が貸衣装の軍服を着て写真を撮る事が多くありました。貸衣装軍服の例)


2.現場系


服は国家警察のホアマウダット(クラウド)迷彩なのに、ベレーが陸軍空挺またはレンジャー部隊
僕が確認している限りでは、1968年のマウタン(テト攻勢)のサイゴンでの市街戦の時の写真に数例見られます。
ただし国家警察には軍からの出向者が数多く在籍しており、この写真と同様に、警察の被服に陸軍ベレー・階級章を組み合わせている例もあるので、赤ベレーはかなり貴重な例ですが、そこまで変ではないのかも知れません。


  


2023年07月26日

夏の浜辺

日曜日に友人と海水浴に行ってきました。


偶然にも、服装がベトナム海軍傘下の準軍事沿岸警備組織『海船部隊(ジャンクフォース)』に似てしまったかも知れません。


インスタっぽい足元写真も


なんか小汚ねぇなあ。


この日は朝からずっと快晴だった上、気温が29℃ほどと過ごしやすく、海で遊ぶには最高のコンディションでした。
こんな天気の日は、この歌がよく似合います。

  


2023年07月22日

籐盾の塗装完了

『怪しいタイ土産』で書いた、タイの家具職人にオーダーメイドで作ってもらった籐盾(藤牌)を塗装しました。




ベトナム国旗をあしらった国家警察野戦警察隊の塗装を再現しました。念願がついに叶いましたface02
ちなみにこの籐盾は実物とほぼ同一の材料・構造なので、実際に投石や一定の斬撃にも耐える強度を持つ、れっきとした武具です。

塗装では、黄色と赤はMr.カラースプレーを使用。
外周の緑色は、スプレーに気に入った色が無かったので、緑と青の水性ペンキを調色したものをガイアノーツのイージーペインターで吹き付けました。面積が大きいのでイージーペインターのガス缶を2本近く消費しちゃいました。


ちなみに中国南部・東南アジア全域で広く用いられてきた武具である籐盾は、主に少数民族で構成されていたCIDG部隊でも、式典・パレード時の礼装として使用さされる事がありました。

 

7年前、このCIDG礼装用籐盾を自作しましたが、その時は手抜きして、市販の笊(ザル)に持ち手を付けて塗装しただけでした。


本物の籐盾と比べてみると、全然別物ですね。
作ったはいいものの、当時から気に入っておらず、結局一度もコスプレに使う事無く捨ててしまった記憶があります。
  


2023年07月02日

怪しいタイ土産

先日一緒にサバゲーをやったタイの友人に、日本まで運んできてもらった品物です。

その1:タイの土方バラクラバ


別のタイの友人がタハーンプラーン装備用にコレクションしていたものを譲ってもらうことが出来ました。
このバラクラバは民生品であり、タイではよく、建設工事作業員がかぶっているそうです。
友人が「その辺の工事現場からかっぱらってきてあげようか?」と言ってきましたが、汗臭そうなので新品にしてくれとお願いしておきました。

タハーンプラーンでの使用例(1980年代)



その2:ラタン製ライオットシールド(籐盾)


ベトナム戦争期のベトナム軍・警察では、ライオット任務用に、昔ながらの籐(ラタン)製の盾が使われていました。
これを再現すべく、友人の伝手でタイのラタン家具職人に、盾の制作を依頼しており、この度ついに手元に届きました。


コレクター所有の実物を参考に、構造もほぼ完全に再現しています。


▲ベトナム国家警察野戦警察隊の使用例(1974年)
軍ではOD単色塗装も見られますが、どうせなら派手派手にしたいので、これから警察仕様の国旗柄に塗装していきます。

ちなみに友人はタイを発つ際、この盾を空港に持参し、普通に手荷物として預けたそうです。



さすがに空港の係員に「なんですかこれ?」と訊かれたみたいですが、「装飾品です」とだけ答えたら、スルーしてもらえたそうです(笑)
  


2023年07月02日

デンクロVer.3:ナムドン1964

昨年10月の第2回に引き続き、第3回目の『DANGER CLOSE 196X』に参加してきました。
今回はなんと、特殊部隊マニア以外には無名な、1964年の『ナムドンの戦い』がテーマだそうです。
CIDG好きな僕としては願ってもないチャンスなので、戦いの舞台となったナムドン特殊部隊キャンプに駐屯するCIDG部隊=ナムドンCSF(キャンプストライクフォース)役で写真撮影に混ぜてもらいました。


ナムドンCSFと、CSFを指揮するアメリカ軍特殊部隊(グリーンベレー)、ベトナム軍特殊部隊(LLĐB)



ベオガム迷彩がこれだけ一堂に会するのは、1964年という設定ならでは。いや眼福。
(一応ベオガムは1960年代末までCIDGで使われましたが、60年代後半に入るとタイガーストライプの方が圧倒的多数になります)


会場で、ナムドンCSFを構成していたのはどの民族だったのか?とご質問いただいたのですが、事前の勉強不足で回答する事ができなかったため、こちらで改めて考えてみました。
まず、CSFを擁する特殊部隊キャンプは、その地域に住む住民を家族丸ごとキャンプに移住させ、武装村落化したものなので、CSFの構成員はその地域を地元とする住民となります。(ベトナム北部出身のヌン族傭兵を除く)
なので、過去記事『あなたはなに族?』で記したように、キャンプのある場所と、その地域に住む民族の分布(1975年以前のもの*)を照らし合わせば、そのCSFを構成した民族はおおよその予想がつきます。

※1975年以降はベトナム共産党政権による少数民族への弾圧、強制移住などで彼らの住む範囲が大きく変わったため、民族分布図は1975年以前のものである必要があります。

1970年版の民族分布図と、キャンプ・ナムドンの位置


実際には、各民族の住む地域がこの図の通り綺麗に線引きされている訳ではないのですが、少なくともキャンプ・ナムドンのあった場所はカツ(KATU)族が多く住む地域である事が分かりました。


僕はこの日、イベントの大半を手作りのジャライ族衣装を着て過ごしたのですが、同じデガでもマレー・ポリネシア系のジャライ族と、モン・クメール系のカツ族では言葉も民族衣装も全然違うので、ナムドンの再現としては間違いでした。
同じ1964年の、別の特殊部隊キャンプ(プレイク周辺)とお考え下さい。

  


2023年06月13日

ベトナム国家憲兵隊

※2023年8月16日更新


※日本語訳について
ベトナム軍に存在した憲兵と訳せる組織は『Hiến Binh(漢訳:憲兵)』と『Quân Cảnh(漢訳:軍警)』の二つがありました。
日本ではQuân Cảnhの方が憲兵として知られていますが、実際にはHiến Binhの方が設立時期が早く、漢字表記もそのまま『憲兵』です。
なのでこの記事ではHiến Binhを『憲兵』、Quân Cảnhを『軍警』と訳しています。


1951~1955年 ベトナム国家憲兵隊(フランス連合期)

1948年、フランス連合構成国としてベトナム国が成立。
1949年、ベトナム国の国軍たるベトナム国家衛兵隊が創設。
1951年、それまでインドシナの治安維持を担当してきたフランス国家憲兵隊(Gendarmerie nationale)に代わるベトナム政府独自の司法機関として、8月23日付の政令『138 VP/ND』に基づき、同年9月1日、ベトナム軍内に国家憲兵隊(Hiến Binh Quốc Gia)が発足する。
ベトナム国家憲兵隊はフランス国家憲兵隊の任務を引き継ぎ、公共の安全確保、秩序維持、法の執行を任務とした。その活動は多数の省庁の管轄を横断するものであり、国家憲兵隊そのものは国防省に所属していたが、同時に行政警察と国内法を管轄する内務省や、司法警察と犯罪捜査を管轄する法務省、また税関及び密輸取り締まりを管轄する経済省の業務にも国家憲兵隊は介入した。
国家憲兵隊は本部(参謀部)、国家憲兵学校2校(トゥドゥックおよびハノイ)、そして4つの中隊で構成された。

1. 南越中隊
・サイゴン小隊 分屯地:サイゴン、バリア、ビエンホア、ブンタウ、チョロン、ザーディン、ゴーコン、ゴーデン、ゴーバップ、ホンクアン、ミトー、タンアン、タイニン、トゥーダンモット、トゥドゥック、チャンバン
・カントー小隊 分屯地:カントー、バクリュー、ベンチェ、カマウ、チャウドク、ハーティエン、ロンスェン、ザックザ、サデク、ソクチャン、タンチャウ、チャービン、ビンロン

2. 中越中隊
トゥーハン小隊 分屯地:トゥーハン(ダナン)、トゥーハン(ダナン)港、ドンホイ、フェイフー(ホイアン)、フエ、クアンチ
・ニャチャン小隊 分屯地:ニャチャン、ファンラン、ファンティエット、チャム島

3. 北越中隊
・ハノイ小隊 分屯地:ハノイ、ナムディン
・ハイフォン小隊 分屯地:ハイフォン、チャンパ港、ドーソン、ハーコイ、ハイズオン、ホアガイ、モンカイ、クアンイェン、ティエンイェン

4. 高原中隊
・ダラット小隊 分屯地:ダラット、ジリン
・バンメトート小隊 分屯地:バンメトート、アンケー、コントゥム

最盛期には、各中隊の兵力は1,000名にのぼり、それぞれの街の分屯地にはおよそ5~6名の隊員が駐在した。

1952年末までに、国家憲兵隊内部には、各軍管区司令からの要請に答え、軍警(Quân Cảnh)と呼ばれる暫定的な部署が発足する。
基本的に憲兵は国軍と軍事司法関係者および各省庁の文官と協力関係にあった一方、軍警は各司令部の配下にある国軍部隊以外とは連携しなかった点が大きく異なった。また法廷では憲兵は赤い帽子を着用し、宣誓を行う義務があったが、軍警は通常の軍服のままであり、また宣誓する必要もなかった。さらに憲兵は通常、下士官で構成される点も軍警とは異なった。
軍警はサイゴン、フエ、ハノイに駐屯地を持ち、後にミトー、ベンチェ、クアンチ、ドンハにも駐屯地を開設した。
なお軍警の任務は一般の国家憲兵とは異なるものであったが、軍警の駐屯地は常に国家憲兵隊の指揮官によって指揮・管理されており、この二つは同一の組織であった。

1953年6月29日、国家憲兵司令部は政令『70 QP』により軍事司法局(Nha Tư pháp quân sự)と合併し、新たに軍法・憲兵局(Nha Quân pháp và Hiến binh)が発足する。
1953年末の時点では、ベトナム国家憲兵隊の指揮権は依然フランス人が握っていたが、1954年に入ると指揮権は順次ベトナム人に移譲されていく。

▲ベトナム国家憲兵隊と、その指導に当たるフランス国家憲兵隊員

ゴ・ディン・ジェム首相(当時)を警護する憲兵隊員(1955年6月バンメトート)
ヘルメットにはHiến Binhの略である"HB"がペイントされている。

▲フランス連合期のベトナム国家憲兵隊の部隊章各種


1955~1964年 ベトナム国家憲兵隊(第一共和国期)

1955年、ゴ・ディン・ジェム首相がバオダイ(保大帝)を追放する無血クーデターにより共和制への移行を宣言、ベトナム共和国が成立。国軍の名称もベトナム共和国軍に改称される。
1955年9月、フランス軍撤退に伴い、国家憲兵隊司令官にベトナム人将校が就任する。また国家憲兵隊本部はサイゴン市内の国防省前(ザーロン通り)に置かれた。
1961年、軍警隊が国家憲兵隊の傘下を離れ、共和国軍内の独立した兵科に昇格する。
1963年11月、軍部のクーデター(1.11革命)によりジェム政権が崩壊。
1964年初頭、新たに発足した軍事政権は国家憲兵隊を解体。以後、ベトナムの司法機関は国家警察に一本化される。

第一共和国期の国家憲兵隊部隊章

▲国家憲兵隊の制服は陸軍と同一だが、制帽のみ赤色のものを着用する。

▲国家憲兵隊のパトカー



1966~1975年 司法軍警隊

国家憲兵隊の解散後、職員は国家警察総局および、かつて国家憲兵隊の下部組織であった軍警隊に編入される。
1966年、軍警隊内に、国家憲兵隊を前身とする司法軍警隊(Quân cảnh Tư pháp)が創設される。
司法軍警隊の任務は以下とされる。
1. 軍法違反に関する調査と対応
2. 前線軍法会議の補助
・中央戦線(サイゴン)および4つの戦術区/軍管区の前線軍法会議
・全国を担当する移動前線軍法会議
3. 国防省軍法局への支援
・犯罪に関する記録作成
・軍に関係する犯罪の捜査と起訴

この司法軍警隊は各戦術区/軍管区に1個中隊ずつ配置された。
・第1戦術区/軍管区:第14司法軍警中隊(駐屯地不明)
・第2戦術区/軍管区:第24司法軍警中隊(ニャチャン)
・第3戦術区/軍管区:第34司法軍警中隊(サイゴン)
・第4戦術区/軍管区:第44司法軍警中隊(駐屯地不明)
※実際にはこれ以外にも存在した模様

※軍警隊全体の概要については過去記事QC/軍警隊』参照

▲司法軍警と思われる写真。後ろの文字は「司法軍警第31中隊ロンアン小隊」

▲背景の文字は「司法軍警タンウイン小隊」(中隊不明)



あとがき

第一共和国期の内容が薄いのが心残り。でも手元の資料はこれで弾切れです。
この手の部署に関する資料は探してもそうそう見つかるものではないので、運よく巡り合うことを祈るしかありません。



  


2023年05月27日

ベトナム空挺の歴代戦闘服

※2023年8月17日更新
※2024年3月7日更新


ふと気が向いたので、ベトナム陸軍の華、空挺部隊の歴代の戦闘服をうちにある被服の写真でご紹介。
裁断は別として、迷彩はほぼコンプリートしております。


1948~1954年頃:フロッグスキン迷彩&ウィンドプルーフ迷彩
ベトナム陸軍空挺部隊の前身であるフランス軍インドシナ落下傘中隊(CIP)および、CIPから改変されたベトナム空挺部隊では、フランス人兵士と同様に、米軍フロッグスキン(ダックハンター)迷彩、英軍ウィンドプルーフ(ブラッシュ)迷彩、およびそれらを上下で組み合わせて着用していました。


▲上衣がセスラー製、下衣がリアルマッコイズ製レプリカ


1951~1953年頃:TTA47(一般型)
1951年にベトナム陸軍に空挺部隊が発足した当初は、迷彩服ではなく、フランス軍の全軍共通戦闘服であるTTA47が着用されていました。


▲TTA47一般型上衣の実物


1951~1953年頃:TTA47(軽量型)
TTA47の熱帯地域向け仕様であるTTA47軽量型上衣も、一般型とともに着用されました。


▲TTA47軽量型上衣の実物


1951~1954年頃:TAP47(カーキ)
ベトナム空挺にはフランス軍空挺部隊向けのTAP47降下服も支給されましたが、当初はリザード迷彩ではなくカーキ単色であり、また着用例も僅かです。



1953~1950年代末:TAP47(リザード迷彩)
1953年になると、リザード迷彩のTAP47系戦闘服が広く普及し、TTA47と置き換わってきました。
なお、この服が戦闘服として実用されるのは1950年代末までですが、第一次インドシナ戦争末期の最も戦闘が激しい時期に使用されたこのリザード迷彩TAP47は、空挺部隊の誇りを示す伝統の被服として珍重され、パレード装や個人の礼装として1975年まで着用され続けました。(過去記事いろんなTAP47』参照)


▲WPG製TAP47/52レプリカ


1954~1962年頃:TTA47(軽量型・リザード迷彩)
第一次インドシナ戦争末期の1954年には、リザード迷彩仕様のTTA47が登場し、1960年代初頭まで着用されました。




1961~1968年頃:ヒュエット迷彩
1961年にウィンドプルーフ迷彩を原型とするベトナム国産のヒュエット(ブラッドケーキ)迷彩服が登場し、以後リザード迷彩に代わって空挺部隊の標準戦闘服となります。なお空挺部隊の戦闘服に部隊章・胸章の縫い付けが始まるのは1964年末からです。




1964~1969年頃:ホアズン迷彩(初期ERDL/インビジブルリーフ)
米軍が1948年に開発したERDL迷彩は、当の米軍では不採用になった一方、その生地は軍事支援物資として1964年からベトナム軍に供与され、空挺・レンジャー・海兵隊・特殊部隊共通の迷彩服として大々的に着用されるようになりました。なお、ベトナムではその後に登場する色違いによる区別はなく、ERDL系迷彩は全てホアズン(Hoa Rừng)と呼ばれます。
また服の裁断はヒュエットと同じ(空挺型)が主でしたが、一部で海兵隊ザーコップ(タイガーストライプ)迷彩と同じ裁断(2ポケット迷彩服型)が採用され、これが陸軍での2ポケット迷彩服型被服の最初の例となります。




1967~1972年頃:ホアズン迷彩(66年型ERDL/グリーンリーフ)
米軍はかつて不採用としたERDL迷彩を1966年に改良し、改めて自軍の熱帯用戦闘服(TCU)に採用するとともに、ベトナムに送る迷彩服用生地もこの新型ERDL迷彩に切り替わりました。この新型ERDL迷彩は1967年以降ベトナム軍に広く普及し、インビジブリーフと置き換わりました。また裁断は最初から2ポケット迷彩服型が主です。


▲東京ファントム製レプリカ


1968~1975年:ホアズン迷彩(ベトナム国産ERDL/パステルリーフ/レンジャーエアボーンパターン)
それまでベトナム軍は迷彩服の生地を米国からの輸入に頼っていましたが、1968年になるとベトナム軍はERDL迷彩をコピー、配色を変更した国産迷彩服を採用し、以後この服が全軍共通の標準迷彩服として1975年の終戦まで多数着用されました。
なお裁断は当初は2ポケット迷彩服型でしたが、1972年には全軍の標準的な裁断として4ポケットやTCU型上衣が採用され、ホアズン迷彩もそちらに移行します。


フォクフン製2ポケット迷彩服レプリカ
  


2023年05月22日

5月のプチ撮影会

日曜日は仲間内でプチ撮影会を行ってきました。

その1:フランス植民地軍植民地歩兵連隊のベトナム兵 1950年代前半

これまで何度かフランス連合時代の歩兵部隊という設定で集まってきましたが、実は今まで特定の部隊を設定してきませんでした。
というのも、フランス連合軍はどの組織も(植民地軍も外人部隊もベトナム国軍も)皆同じフランス陸軍式の被服を着ており、また作戦中は部隊章を身に付けなかったので、軍装はほとんど同じだったからです。
そこで今回は作戦中だけでなく、略帽をかぶって植民地軍ですよアピールしてみました。
本当は階級章もあればなお良いんですが、この時代の仏軍の兵下士官級の階級章はレプリカが存在せず、自作も大変、と言うか材料が手に入らないので、まだ入手出来ていません。


合わせは上記のみで、あとはソロのコスプレです。

その2:ベトナム陸軍第3空挺大隊 1954年頃


こちらの写真がカッコ良かったので真似して撮ってみました。
でも後になって、TAP50ピストルベルトを付け忘れた事に気付く。完全再現ならず。トホホ・・・


その3:ベトナム陸軍空挺師団 1964-1967年頃



服は先日購入したĐLCH製のインビジブルリーフ(裁断は特注の空挺型)で、ライフルはJAC製M16A1改造のAR-15(コルト601)です。
この時期、空挺部隊の小銃はM1カービンやM1ガーランドが主でしたが、空挺部隊にはかつて1961~1962年にかけて米国より約400丁のコルト601が供与されており、この時の物が1960年代中頃まで散見されます。



  


2023年04月30日

サイゴン陥落から48年

48年前の今日、ベトナム共産党は約30年に及ぶ共産主義革命戦争の末にサイゴンを陥落させ、ベトナム全土を支配下に置きました。
以後、ベトナム共産党は旧ベトナム共和国政府に属した軍人・公務員を数年から十数年投獄しただけでなく、「解放」したはずの南部の市民を山岳地帯に強制移住させて農地開拓に充てる、その上経済政策の失敗により農業国のくせに全国的な飢餓を発生させるなど、暴政の限りを尽くしてきました。
20世紀後半最悪の戦争であるベトナム戦争の最中には難民がほとんど発生しなかったのにも関わらず、ベトナム共産党によるベトナム統一が成された途端、数十万人の国民が難民として海外に脱出した事実が、ベトナム共産党による統治の全てを物語っています。

さて、私は過去2回、このベトナム共産党からベトナム国民を守るため戦い、そして命を落とした旧ベトナム国・ベトナム共和国政府の軍人・公務員の墓地であるビエンホア国軍墓地 (Nghĩa Trang Quân Đội Biên Hòa)を参拝してきました。
1回目は2016年で、その時は墓地の周囲を私服警官が囲んでいたので、人目に付かない霊廟のみ参拝しました。→『ビエンホア国軍墓地』
2回目は2022年で、ベトナムで2週間ほど動画撮影ロケをした際に、ついに前回入れなかった墓地の内部に入ることが出来ました。通常、この墓地は戦死者の遺族しか入る事ができず、入り口の守衛所で全員身分証を提示する必要があります。無論、外国人などもっての外。
しかし、そこは良くも悪くもベトナム。警備員に金を渡して、私を含む撮影班は中に入る事ができらました。それでも私が外国人だとバレると危ないので、事前に私は一切言葉を話さないよう、仲間から厳命されました。こういう時、自分の顔が東南アジア風で良かったと思います(笑)
墓地の中にいる間は、警備員のおっちゃんがずっとスクーターで私達の後を付いて回り、常時監視されていました。


中に入り、まず墓地のシンボルである義勇塔に花を供えて焼香。
この義勇塔は戦後破壊され、高さが元の1/2程度になっています。


その後、友人たちと手分けして、できるだけ多くの墓石に線香をお供えしました。
手持ちの線香に限りがあるので、一つの墓石につき一本しか供えられませんでしたが、それでも100個くらいの墓石に焼香できたと思います。



しかし、この墓石への焼香は辛いものがあります。と言うのも、戦後、共産主義者は義勇塔だけでなく、個人の墓石まで破壊していたからです。
ベトナムでは墓石に故人の顔写真を刻印する習慣があり、この軍人墓地にも多くの顔写真付きの墓石があります。しかしそれらの多くは、共産主義者によって顔の部分が無残に破壊されていました。これを見た遺族がどんな気持ちになった事か・・・。
死者にまでこんな仕打ちを平然と行う国家。それがホー・チ・ミンが1000万人の人命を犠牲にして作った現在のベトナム社会主義共和国です。



  


2023年04月22日

軍装の進捗

その1:ベトナム陸軍空挺部隊(1964~1968年頃)



前回紹介したĐLCH製インビジブルリーフ迷彩服の上衣(空挺型)にインシグニアを縫い付けしました。
部隊設定は空挺部隊にしましたが、服のカットが『空挺型』だから空挺部隊にした訳ではありません。
服のカット名は僕が勝手に名付けただけであり、また部隊によってカットが決まっていた訳でもありません。
なのでレンジャー部隊でも、インビジブル迷彩の上衣主に空挺型が使用されていました。


その2:ド・カオ・チ中尉の夏季勤務服(1951~1954年頃)


過去記事『作成中の服』で書いた、1950年代前半のド・カオ・チ大将(当時中尉)の夏季勤務服再現のために、ベトナム陸軍中尉の階級章(略式肩章)を自作しました。
当時の階級章は、ベトナム陸軍で最初に制定されたもの(1949~1955年)で、将校はフランス軍と同一のデザインでした。(過去記事『ベトナム陸軍の帽章・階級章』参照)


その3:タイ王国タハーンプラーン513部隊(1980年代前半)


すでに被服・装備類は最低限は揃っていますが、それに加えて、当時使用例の多い止血用ゴム管を56式弾帯のベルトに追加しました。



おまけ:ベトナム陸軍第3空挺大隊(1954年)

このカッコいい写真、昔から持っていたけど、よく見たら手持ちの物だけですぐに再現できる。
今度この軍装で写真撮ろっと。
  


2023年04月15日

祝リプロ・インビジブル発売

※2023年4月22日更新

先日、ベトナムのリプロメーカーĐồ lính Cộng Hòa(以下ĐLCH)が、恐らく史上初のベトナム軍インビジブルリーフ(初期ERDL/ホアズン)迷彩のリプロを発売しました。
正直、過去のĐLCHの迷彩服はただ値段が安いだけが取り柄で、僕の感覚では再現度は60~70点くらいのレベルだったのですが、今回のインビジブルは、宣伝写真を見る限りなかなか良さげでした。
しかし当時インビジブルのジャケットは主にヒュエット(ブラッドケーキ)と同じ空挺型で生産されたのにも関わらず、ĐLCHのラインナップには当時少数派である2ポケット迷彩服型(あるいは海兵型)しかありませんでした。
そこでĐLCHにお願いして特注で空挺型(風)を作ってもらっちゃいました。
そして届いた品がこちら。この日が来るのを20年近く待ってたよ!


これは良い!期待以上!
60点メーカーとか言ってゴメン!
迷彩の再現度的にはほぼ100点満点。
生地は相変わらず薄手のポリ混紡だけど、値段を考えれば十分。
生地に関しては、ĐLCH店主自身も努力したけど良いコットン生地が手に入らなかったと悔しがっていたので、今後良い生地が手に入れば改善するそうです。

また、当時インビジブルのパンツは空挺型ではなく普通のベイカー型が主だったと思いますが、今回はあえてベイカー型+カーゴポケット付きで作ってもらいました。



カーゴポケット付きはあくまで少数派ですが、使用例が一定数見られます。


僕はすでに以前、民生ハンティングウェアを改造した2ポケット型ジャケットベイカー型パンツインビジブル迷彩服を1セット作っているので、今回はまだ持っていなかったカーゴカーゴポケット付きをĐLCHに依頼した次第です。

早くインシグニアを縫い付けて写真撮りたいなface02
  


2023年04月02日

春のインドシナ撮影会

先週末予定していた撮影会が雨で延期となり、今日ようやく開催できました。
こうしてみんなで集まって軍装で撮影を行うのは去年の10月以来半年ぶりです。
そう考えると、この遊びができる期間って結構短いんですね。

今回のテーマは第一次インドシナ戦争におけるフランス連合軍ベトナム人部隊の空挺および歩兵部隊です。
(所属が植民地軍でも外人部隊でもベトナム国軍でも、軍装はほとんど変わらないので、細かい部隊設定はしていません)

①空挺部隊(1954年頃)


②歩兵部隊(1950年頃)

やはり4人も居ると、写真にした時に絵になりますね。
良い写真が沢山取れて大満足です。
前日の土浦駐屯地に続き、久しぶりに遊び倒した二日間でした。
  


2023年02月15日

作成中の服

こう寒いと外で撮影会をする気にならないので、冬は物品収集に専念してます。
その中で、まだ一式は揃っていませんが、完成する目途が立った軍装を予告的に公開。

①ベトナム陸軍第1空挺大隊 副大隊長ド・カオ・チ中尉 夏季勤務服(1951-1954年)

▲左から2番目がド・カオ・チ


僕の一番好きなベトナム軍人であるド・カオ・チ大将の中尉・第1空挺大隊時代の夏季勤務服を作成中。
上着は米軍半袖チノで代用。第1空挺大隊の徽章・ベレー章は過去記事ステホ10の時に揃えてあるので、あとは階級章を自作すればすぐにできそうです。


②ベトナム陸軍特殊部隊(1963-1964年)



発足当初の特殊部隊(LLĐB)の軍装です。
LLĐBはジエム総統直属の特務機関として仏教徒危機で学生とかお坊さんをボコボコに殴ってたら、ミン将軍のクーデターでLLĐB司令タン大佐はジエム総統もろとも暗殺発足から1年経たずしてLLĐB本部は解体。翌年には新体制下で再スタートできたけど、ベレー・徽章類はその時変更となったので、この黒ベレーはとても短命に終わったスタイルです。(過去記事『LLĐBのベレー』参照)
服は民生ハンティングウェアですが、60年初頭の特殊部隊は同型の米国製ハンティングウェアが多数使われていたので、無改造で使うものありだと思っています。


③ベトナム派遣タイ陸軍義勇連隊クイーンズコブラ(1967-1968年)




タイの刺繍屋にオーダーしていた徽章一式がようやく完成したと知らせが来ました。ここまでの道のりは長かったんですよ。
バンコクにベトナム戦争時代に実際にこれらの徽章を作っていた刺繍屋があるので、そこに頼もうと思っていたら、店主が高齢で、コロナが怖くて店を閉めてしまったそうなんです。なので店を探すところからやり直し。
幸いタイの友人がバンコクではない他の街に古い刺繍屋を見つけてくれたので、そこに頼むことが出来ました。到着が待ち遠しい!

  


2023年01月20日

ベトナム国産キャンバスブーツ

僕はコレクターではないので実物軍装は集めていないのですが、先日コレクターの友人が、「同じの何個も持ってるからあげるよ」と言って、こんなブーツをプレゼントしてくれました。


過去記事『キャンバスブーツ』でも少し触れましたが、このブーツはベトナム共和国軍で使用された、ベトナム国産と言われるキャンバスブーツです。
全体的にMDAPキャンバスブーツ(丈長)をオリーブ色生地に変えただけのような印象ですが、米軍ジャングルブーツの影響か、斜めに補強の生地が縫い付けられています。
一方、敵である北ベトナム軍のキャンバスブーツも似たような斜めの補強が入っているので、奇しくも南北両軍ともよく似たデザインになってしまいました。

この個体にはスタンプはありませんが、他のコレクターの所蔵品には"KO/3259 2-8-74"および"PHAM THI KINH"というスタンプの入った個体が確認されています。
KO/3259 2-8-74の"74"は恐らく1974年契約を意味すると思われ、実際当時の写真を見ても、終戦間際の短い期間のみ使用例が見られます。

▲ベトナム海兵隊の着用例[1975年]

▲サイゴン陥落後、降伏したベトナム共和国軍が脱ぎ捨てた軍服の中に、今回のキャンバスブーツが多数見られます。[1975年]

解説としては、これくらい。
入手するのはそんなに難しくありませんが、使われた期間が短いため、あまり情報の無いアイテムです。
  


2023年01月08日

ダラットの徽章

※2023年1月9日更新
※2023年1月16日更新
※2024年4月12日更新


第1次インドシナ戦争からベトナム戦争期にかけてのベトナム軍(ベトナム国軍・ベトナム共和国軍)士官学校「ダラット」の徽章についてまとめました。

※この士官学校の校名は、ベトナム士官学校→ダラット統合武備学校→ベトナム国家武備学校と時代によって移り変わっていますが、この記事では「ダラット」で統一します。
※士官課程第1期および2期のみ、ダラットではなくトゥアティエン省フエ市ダップダのベトナム士官学校時代に実施されました。
※同じくダラットには政治戦士官を養成するダラット政治戦大学が存在しましたが、これは本記事で言う「ダラット」とは別の学校です。


I. 校章

第1~2期(1948年~)
未確認


②第3期~(1950年~)
仏軍式の金属製バッジを右胸ポケットに佩用する。

 


③1959年~
校名がベトナム国家武備学校に改称。米軍式の布製パッチを左袖に佩用する。



II. 帽章

第1~11期(1948年~)
ダラット独自の帽章は制定されず、陸軍(ベトナム国軍陸軍)帽章が用いられる。またダラット学生は黒または濃紺色ベレーを常時着用するが、ベレー章は制定されていない。

▲制帽章(上)、ベレー章なし(下)


第12~31期(1955年~)
赤地の制帽章が制定される。また後(1959年より後)にベレー章も制定される。

▲制帽章(上)、ベレー章(下)


III. 士官候補生学年章

階級章に相当。任官前の士官候補生(Sinh Viên Sĩ Quan)は正式な軍人ではなく、階級を持たない。ただし士官候補生である事を示す『α(アルファ)』の意匠の徽章を階級章と同様に着用する。またこの徽章は学校ごとにデザインが異なる。

第1~11期(1948年~)
初代のダラット士官候補生章は肩章のみ。台布色は黒で、アルファの上に龍の刺繍が施されている。当時の教育期間は1年未満であったため、学年による等級は無い。



第12~31期(1955年~)
台布色が赤色に変更される。また服装に応じて正肩章(準礼服・外出服)、略肩章(勤務服)、襟章(作戦服)、胸章(作戦服で襟に指揮官章が付いている場合)の4種が使い分けられる
さらに教育期間が延長され、最終的に4年制となったため、学年による等級が設定される。2年生以降アルファの下に線が追加され、4年生で3本線となる。




IV. 学生隊指揮官章

第12期から学生隊内での役職を示す指揮官章が制定される。

①第12~21期(1955年~)
作業着(作戦服)および外出服の両襟に佩用される学生隊指揮官章は以下の通り。


▲第17期生の参謀(モノクロのため等級不明)


②第22期(1965年~)
第22期以降の学生隊指揮官章は、ブルゾンまたはジャケット着用時(冬季大礼服・冬季準礼服・冬季勤務服・冬季外出服・夏季外出服)のみ両襟に佩用される。なお1965年に制定された指揮官章は第22期のみ用いられた。



③第23~31期(1966年~)
第23期から改定された学生隊指揮官章は1975年の終戦まで使用された。

▲連隊参謀(左)、連隊長(右)


V. 初年生教育隊指揮官章

ダラットでは初年生への教育は上級生が担い、学生隊とは別に、初年生教育隊における指揮官章が設定された。
(採用時期は未確認だが、デザインが1965年制定学生隊指揮官章と似ているので、同時に制定かも?)



▲ 初年生教育隊小隊長。胸の徽章は学年章(2年生)


VI. 部隊感状

ダラットは学校の部隊感状として英勇章飾緒 (Dây Biểu Chương "Anh Dũng Bội tinh")を佩用する。


英勇章飾緒については過去記事『英勇章部隊感状と飾緒について』参照