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2017年06月24日

フェニックス・プログラムとPRU


長年、様々な憶測をもって語られてきた『フェニックス・プログラム』と『PRU』ですが、近年米国では情報公開法に基づく情報開示請求によってベトナム戦争当時CIAが作成した内部文書が機密指定解除されて公開されており、またそれら一次史料を基に学術的な研究を行った論文が多数CIAの公式サイトに掲載されています。

米国CIA 情報研究センター(Center for the Study of Intelligence)

今回は、それらの中から、かつて実際にPRUを指揮した元アメリカ海兵隊将校が自身の体験も交えて記した以下の論文の抜粋をご紹介します。

The Tay Ninh Provincial Reconnaissance Unit and Its Role in the Phoenix Program, 1969-70, Colonel Andrew R. Finlayson, USMC (Ret.), Last Updated: Jun 26, 2008 07:13 AM

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※用語の表記について

[フェニックス・プログラム]
ベトナム語: Chương trình Phụng Hoàn (漢字: 章程鳳凰)
英語: Phoenix Program
ベトナム語の『Phụng Hoàn』を日本語訳すると『鳳凰』、『Phoenix』は『不死鳥』となるがこの記事では便宜的にフェニックス』を用いる

[PRU]
ベトナム語: Đại Đội Trinh sát biệt lập (ĐĐ/TS/BL) またはĐại Đội Trinh sát ĐPQ (ĐĐ/TS/ĐPQ)
英語: Provincial Reconnaissance Unit (PRU)
PRUはベトナム共和国軍地方軍のパトロール部隊であり、本来のベトナム語名から邦訳すれば『地方軍(独立)偵察中隊』となる。
中隊は省(地方軍小区)単位で編成されたため、『省の偵察隊』と言う意味で英語名のPRUは名付けられた。
PRUの日本語訳としては『地方偵察隊』が用いられる事が多いが、Provincialは『地方』ではなく『省』と訳すべきと思われる
この記事は英語文献からの翻訳の為、便宜的に英語表記のPRUを用いる。

[省]
国の地方行政区画である省(Tỉnh)にはそれぞれ地方軍の管轄区画である小区(Tiểu khu)が割り振られており、タイニン省(Tỉnh Tây Ninh)は地方軍の編成上、第3戦術地区/軍管区の『タイニン小区(Tiểu khu Tây Ninh)』となる。
つまりタイニン省PRUのベトナム語の正式名は『タイニン小区地方軍偵察中隊』となる。
なお、この記事では原文が省(Province)で統一されている事から、小区ではなく全て省と表記する。

[ベトコン]
ベトナム語: Việt Cộng(VC)
英語: Vietnamese communist / Viet Cong (VC)
ベトナム人が使う『Việt Cộng』と、アメリカや日本など外国で使われる『Viet Cong(ベトコン)』という言葉は、その意味する所が異なる。
ベトナムにおけるViệt Cộngは『越共』、つまり共産主義ベトナム人全般を指し、1930年代のインドシナ共産党に始まり北ベトナムのベトナム労働党政権、現在のベトナム共産党政権に至るまでベトナムに存在した全ての共産主義系組織を指す。
それに対して外国人が用いるベトコンは、ベトナム共和国領内に1960年から1976年まで存在した反政府ゲリラ組織南ベトナム解放民族戦線(MTDTGPMN)』のみを指す場合が多い。
普段このブログではベトコンをベトナム語の意味(共産主義組織全般)で用いているが、この記事では原文に倣い解放民族戦線という意味でベトコンという単語を用いる。

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タイニン省PRUとフェニックス・プログラムにおけるその役割、
1969-1970年

アメリカ合衆国海兵隊 アンドリュー・R・フィンレイソン退役大佐
(タイガ訳)

 フェニックス・プログラムはアメリカおよび南ベトナム政府がベトナム戦争中に行った政策の中でも最も誤解され、また物議を呼んだプログラムである。簡潔に述べると、これは南ベトナムにおけるベトナム労働党の政治基盤(以下、ベトコンインフラまたはVCI)を攻撃、破壊する事を目的とする一連のプログラムであった。(※1)
 当時フェニックスは機密事項であり、報道関係者が得られた情報の多くは誇張、捏造、または事実誤認であったため、このプログラムは大いに誤解された。そして米国やその他の国々の反戦運動家や批判的な学者は、このプログラム一般市民を対象とした違法で残忍な殺戮計画であるかのように吹聴したため、論争を巻き起こす事となった。
 残念ながら、これまでフェニックスについて客観的な分析が行われた事はほとんどなく、ベトナム戦争を研究する者の多くがこのプログラムを疑惑と誤解をもって見ていた。

 以下に、南ベトナムのタイニン省で行われた一連のフェニックスの一部始終の概要を示す。これらは限られた年代と地域における一例であるが、そこからは1968年のテト攻勢後の数年間でフェニックスが効果を発揮する事が出来た重要な要因の一つが見て取れる。それは全国で実施されたフェニックスの実行部隊たる省偵察隊(PRU)』に関する事柄である。


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フェニックスの構造
 フェニックスは1960年代にCIAが南ベトナムで実施した平定および農村警備プログラムの一つである。もし南ベトナム政府とアメリカが農民たちに対し、彼等を真剣にベトコンから守る意志があると説得できれば、農民自身に自衛の為の訓練を施す事で、米軍が直接介入せずとも南ベトナムの広大な農村地帯を敵から防衛する事が出来る。これが平定達成の為の条件であった。

 1967年までに、米軍ベトナム軍事援助司令部(MACV)は軍民全ての平定プログラムを『民事作戦および革新的開発支援(CORDS)』という一つの組織に統合する事に成功する。
 CORDSにはCIAとMACVが深く関与しており、サイゴン政府と共同で運営されていた。CORDSの指揮は当初、元CIA局員のロバート・H・コマーが執っていたが、CORDSが最も活発に活動し成果を挙げたのは1968年にコマーの後任として赴任したウィリアム・コルビーの時代であった。
 コルビーは1959年から1962年にかけてCIAサイゴン支部長を務め、その後はCIA極東地域部長の地位にあった人物であった。コルビーはアメリカが南部の村々を支配する共産主義系勢力を排除し、地方のベトコンインフラ(VCI)を根絶しなければならないと確信していた。そのためCORDSは村落防衛・民事活動プログラム─後に土地改良、インフラ建設、経済発展を含むに取り組み、VCIの根絶に相当の労力を費やした。

 CORDSのもう一つの要素がフェニックス・プログラムであった。(※2) フェニックスは表向きはサイゴン政府によって運営されていたが、実際に資金を提供しその活動を管理していたのはCIAであった。フェニックスは南ベトナムの100以上の省および地区でVCIに関する情報を収集し、野戦警察および準軍事組織によるベトコン掃討の基礎となる情報を提供するためにCIAが構築した情報作戦委員会(Intelligence operation committees)』というネットワークを基礎に構築された。

▲フェニックス・プログラムを非難するポスターに描かれたウィリアム・コルビー。CIA史料写真。年代不明

 基本的に、この委員会の活動は、VCI活動者と目される人物のリストを作成する事であった。一度VCIメンバー個人の名前、階級、居場所が判明すれば、CIAの準軍事部隊、南ベトナムの警察または軍隊がその人物を拘束し、共産主義組織の内部構造と活動に関する情報を得るために取り調べた。
 このリストはベトナム国家警察、米海軍SEAL、米陸軍特殊部隊群、そしてタイニン省を含む各省PRUなどのフェニックス実行部隊に使用された。そしてこれらの部隊は村落に出向き、指定された人物を特定し、その"中和(Neutralize)"を試みた。リストに記載された人物は取り調べのために逮捕・拘束され、抵抗した場合は殺害された。当初CIAはベトナム側の協力の下、省または地区政府レベルで取り調べを行っていた。その後、このプログラムがサイゴン政府に移譲されると、CIAは情報収集活動のみを担当した。最終的に、CIAと米軍軍人合わせて約600名のアメリカ人がVCI容疑者の取り調べに直接関与した。

 PRUはフェニックスにおいて恐らく最も物議の的となった要素である。彼は元々1964年に南ベトナム政府とCIAによって創設された準軍事特殊部隊であり、当初彼は対テロ部隊と認知されていた。PRUには最終的に4,000名以上の兵士が所属し、南ベトナム領内の44の省の全てで活動していた。PRUは1969年11月まで米軍将校および上級下士官によって指揮されており、それ以降はCIAのアドバイザーに引き継がれた。
 米国のベトナムへの関与に批判的な人々は、PRUは殺戮部隊に他ならず、戦争全期間を通じたVCI死者数の内、南ベトナム軍・警察および米軍との戦闘による戦死者以外のほとんど、すなわち全体の14%がフェニックス・プログラムの期間中にPRUによって殺害されたと主張している。

 1972年のCORDSの報告によると、1968年のテト攻勢以来、フェニックスは5,000名以上のVCIの活動・軍事行動を阻止し、そして2万名を超えるとみられるVCIがフェニックスの成果によって─ベトコン組織から脱走した。またMACVは、フェニックスおよびテト攻勢に対する米軍の反撃は、他の農村保安や民兵プログラムとも相まって、投降、拘束または殺害によって8万名を上回るVCIを無力化したと主張している。
 ただしこれらは多く見積もった場合の数字であり、実際にはその数は各々の統計の信頼性に左右される。しかしながら、ほとんどの─ベトコン側を含む─資料に共通している点は、フェニックス(1971年終了)およびその他の平定プログラムはVCI組織を地下深くに追いやり、実質的な活動が不可能になるほど弱体化させたという事である。フェニックスおよび同盟軍の活動はVCIに深刻な打撃を与え、1972年のイースター攻勢や1975年の時点でも、VCIおよびベトコンゲリラ部隊の活動は見られなかった。


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※2. 1967年末、南ベトナム首相は政府が行う対VCI活動の全てを一つのプログラムに統合し、それを特別な力を持つ神話上の鳥"鳳凰(Phụng Hoàn)"と名付けた。コマーはそれをアメリカ人顧問に分かり易いよう、欧米で鳳凰に相当する"不死鳥(Phoenix)"と名付けた。

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(中略)
※訳者注: ベトナム戦争中アメリカ海兵隊将校としてフォースリーコン、後に歩兵中隊長を務めていた筆者は1969年にPRUでの勤務を希望し、CIAの面接を受けて採用され、1969年9月にPRU指揮官としてタイニン省に赴任する。

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 タイニンに到着すると、私は省政府担当官(PIOC)─実際には省政府付きのCIA上級局員で、日々我々の活動を監督している─が率いるアメリカ人チームと合流した。私はチームのメンバーから、我々は二人の"ボス"の下で働くことになる事を教えられた。一人はアメリカ側のPIOC、一人はタイニン省における作戦権限の全てを司る南ベトナム側のタイニン省長官である。翌日、私は省長官と面会した。彼は英語の堪能なベトナム軍の中佐であり、有能で自信に満ち、尊敬されるリーダーである事が分かった。私にとって彼は理想的なリーダーであり、南ベトナムの省政府関係者によく見られるような堕落した部分が一切ない人物に見えた。


タイニン省PRUの隊員たちとは?

 タイニン到着の二日目、私は比較的カジュアルな会合、私が指揮・助言する事になる92名のタイニン省PRUメンバーたちの多くと初顔合わせをした。彼は皆勇敢で経験豊富な兵士で、一部にはかつてカオダイ軍(ベトミンと戦った民兵)や南ベトナム軍空挺師団、米軍特殊部隊に指揮された不正規民間防衛隊(CIDG)に所属した経験がある者も居た。またPRU隊員のほとんどはカオダイ教徒であり、一部にローマ・カトリック教徒、そしてクメール族が2・3人所属していた。彼皆ベトコンに対し深い憎しみを持っている人々であった。その主な理由は、や彼の家族がベトコンによる残虐行為の被害者だったからでである。彼にとって宗教と家族は人生で最も大切なものだった。

 タイニンPRUは18人編成のチームが5チームで構成(各チームは3個の分隊で構成)され、4チームがタイニン省の4つの地区それぞれに、1チームが省都タイニン市に配置された。タイニンPRU本部はタイニン市チームと合同で設置され、司令官と作戦将校の2名が指揮を執った。またタイニン市チームの指揮官はタイニンPRUの副指令も兼務した。
 PRUの武装はM16ライフル、M60マシンガン、45口径自動拳銃、M79グレネードランチャーであったが、各々の隊員はそれらに加えて個人的に入手した様々な武器を持っていた。さらに部隊にはPRC-25無線機、7x50双眼鏡、医療キット、トヨタ製四輪駆動トラック、ホンダ製のオートバイが装備されていた。隊員たちは地区本部の駐屯地では私服を着ており、前線ではタイガーストライプもしくはブラックパジャマを着ていた。また部隊付きの米軍アドバイザーも同様の装備・武装であった。

▲タイニン省PRUとフェニックス・プログラムにおけるその役割、1969-1970年 より

 私がPRUの作戦能力についてまず初めに感じた事は、各チームはほとんどの状況でうまく機能しているものの、火力支援に関する部分が欠けているという事であった。つまり、各チームは火力支援の下で効果的に行動する事が出来ず、また支援兵器(一般的には砲撃)に対して射撃要求や調整を行う事が十分に出来ていなかった。そのため部隊は敵と偶然遭遇した場合や、敵側がこちらと戦う用意をしている場合にはうまく機能しなかった。
 これは彼が受けていた非体系的かつ不安定な訓練にある程度原因があった。PRU隊員たちのほとんどはPRUに来るまで精強な戦闘部隊で何年も生き残ってきた経験豊富な元軍人であったが、一方で一部は初歩的な野戦訓練しか受けていないか、もしくは非戦闘部隊で勤務していた者たちであった。PRUの訓練は国レベルでは南シナ海沿岸にあるブンタウ近郊のキャンプで行われたが、地方レベルでは活動の順延が許される状況の時のみ米軍司令官とアドバイサーが訓練を施していた。その結果、訓練の頻度や部隊の能力はまちまちになっていた。

 一方、PRUの強みはタイニン省の住民や地理に関して深く完全な知識を持っている事である。この知識こそが訓練の欠点を補い、地方のVCIに対する作戦を成功に導いた核心であった。この地域に根差した知識は対VCI情報網を発展させ、体系的な作戦の計画に大いに貢献した。またPRU隊員は擬装、潜伏、そして夜間行動に精通していた事から、結果として彼は決定的な戦果を得るために待ち伏せ攻撃に特化する傾向があった。


情報源

 CORDS関連のシステムの導入により、タイニン省PRUは理論的には幅広い有用な情報源を持つ事ができ、地方の諜報員レポートから国家レベルの情報機関まで全ての情報を地区情報作戦調整センター(DIOCCs)を介して得られ、米軍の地区アドバイザーはその地区のPRUの作戦優位性を確保できるはずであった。なお、省レベルでも整合をとるため同様の組織構造が存在したが、省におけるアメリカ人PRUアドバイザーの役割はあくまで、地区付きの軍事顧問という地位に充てられていた。
 しかし実際には当事国の事情により、地区レベルでも一部の指揮権はアメリカ側だけでなくPRU側と共同という事になっていた。ベトナム国家警察、ベトナム特別警察、そして地区指揮官との間にはいささかの管轄争いがあり、それが現場におけるPRUの優位性を妨げる事もあった。
 同様の問題はアメリカ側にも存在しており、米軍司令官や民間のアドバイザーは歩み寄りを拒んでベトナム側と情報を共有する事に消極的であった。情けない事に、アメリカの民間アドバイザーはサイゴンのアメリカ大使館から特にそうするよう指示を受けた場合であってもPRU側と情報を共有する事を渋っており、さらに彼の多くは仕事の成果を横取りされないよう、他の米国機関との情報共有にすら消極的であった。
 理屈の上では、DIOCCのシステムは作戦運用の向上や実行時に大いに役立つはずであった。しかしながら、個人の非協力的な姿勢と官僚的な組織対立のために、タイニン省では概してこの仕組みは正しく機能していなかった。

 一様に不正確だった情報源が、米軍情報部隊によって組織された諜報員からのレポートだった。私がPRUアドバイザーを務めていた10か月間、PRUが米軍から受け取ったレポートの中で価値のある情報と判断されたものは一つもなかった。米軍は諜報員に対し歩合制で報酬を支払っていた為、価値のないレポートの乱造を引き起こしていた。
 同様にベトナム国家警察からの諜報員レポートも役に立たず、場合によっては危険なほど不正確だった。国家レベルでもたらされる情報は正確だったものの、それらはしばしばVCIには関連性のない情報だった。彼等は省内からVCIを根絶する上で、PRUの活動にさほど重きを置いていなかった。

 PRUにとってある程度重要で価値のある情報は、ベトナム特別警察が省政府取り調べセンター(PIC)で容疑者への尋問によって聞き出したものであった。PICに収容されている容疑者の多くがVCIのメンバーと活動について正確でタイムリーな情報をもたらしてくれた。これはそう頻繁にある事ではないが、そういった情報がPRUと共有されれば通常大きな成果に結び付いた。
 そして特に重要だったのは、チューホイ・プログラム(Chieu Hoi Program)によって南ベトナム政府側に転向した多数の元ベトコン達だった。彼等"Hoi Chanhs (転向者)"は南ベトナム政府に降伏後PICで取り調べを受け選抜された者たちであり、彼等はしばしば高烈度競合地域におけるVIC容疑者逮捕のためPRUチームを先導する任務に志願した。転向者たちは通常、他の容疑者よりもはるかに信頼度が高く、彼等がかつてベトコンゲリラや北ベトナム兵(NVA)であったのにも関わらず、彼等はVCI目標に関する有用な情報をもたらしてくれた。

 また分析に時間を要し利用も簡単ではなかったものの、しばしば生産的だったもう一つの情報源が、1963年から64年にかけて不服調査(Census Grievance)チームが蓄積した膨大なデータの数々であった。このチームは国勢調査の際に住民との面談を行い、その思想の傾向を密かに調査した。そして各世帯の南ベトナム政府への忠誠度を色で表した地図を省・地区・村落単位で作製した。緑の世帯は政府に従順であり、黄色は中立、赤はベトコンに同調的である事を示していた。
 さらにこの地図に記載された各世帯の家族構成の名簿には、VCIメンバーないし共産主義に同調する者の名が含まれている事がよくあった。そのためこれらのデータはタイニン市内にあるCIAの施設に保管され、米国の運用指導アドバイザーによって定期的に見直しが行われていた。ほとんどの場合、その名簿からは容疑者にたどり着けないか、既に死亡している、または共産主義シンパとして逮捕されていたように、その情報は古く活用困難だった。しかしその一方で、いくつかの例において、この不服調査マップによる情報の成果としてVCI中堅の重要人物を逮捕ないし討伐出来た事は特筆に値する。もしこの地図がデジタル化され、データベースに簡単にアクセスできたならば、情報収集にかかる時間は大幅に短縮され、より多くの作戦を優位に進められたはずである。

 しかし、これらよりはるかに多くPRUの情報源として用いられたのは、PRU独自の諜報システムであった。先に記したように、他の情報機関はVCI目標に関する情報を共有する事に消極的であったため、タイニン省PRUは自前の情報源を開拓する事を余儀なくされた。タイニン省PRUの隊員は、全員ではないにしてもほとんどの者はこのタイニン省で生まれ育ち、この省の住民として働き生活している者たちであった。彼等は皆地域社会の一員であり、また彼らの家族・親戚はタイニン省の至る所で、あらゆる職業に関与していた。PRUはこうした親類からの情報提供を通じて、村落レベルでVCIの活動を調査し、VCIに関する正確な情報を上手く収集する広域情報システムを構築するに至った。
 多くの場合、PRUに捕らえられたVCI幹部は、PRU隊員たちにとって個人的に、むしろ子供のころからよく知っている人であり、彼等はVCI容疑者の家族と私生活についても詳細を把握していた。そのため、時にはPRU隊員は自ら諜報員としてVCI内部に潜入する事にすら成功していた。
 彼等のVCIに関する非常に正確で深い知識は、幾度も作戦の優位性と、複数のVCI重要人物の討伐につながった。私がタイニン省PRUの米国側アドバイザーであった期間中、PRUによって逮捕ないし討伐されたVCI容疑者のおよそ2/3が、PRUが構築した生活の中での諜報活動システムによって特定された人物であった。


運用上の関係

 PRUプログラムはアメリカのCORDS、そしてベトナム内務省の管理下にある全国規模の組織であるものの、実際には各省の"実力部隊"であった。PRUに下される逮捕命令や作戦命令にサインする事が出来る指揮権限者は省長官ただ一人であり、彼がPRUの運用方針と権限の全てを握っていた。
 そのため私はタイニン省付きの米国側PRUアドバイザーとして、ベトナム軍・アメリカ軍双方の調整をしながら作戦の計画を練っていたが、それは私には耐えがたい事であった。タイニン省PRUがVCI目標に対して何らかの作戦を行う際には、私は毎回タイニン省長官に書面で作戦遂行の許可を要請し、長官の承認とサインを得なければならなかったのである。
 とは言え長官と彼の側近、米国側アドバイザーは毎日のように顔を合わせていたので、この件がPRUの作戦遂行を実際に妨げる事はなかった。省の下位の地区レベルでは、ベトナム側の地区司令官は米国PRUアドバイザーと省長官の承認を経ずにその地域のPRUを作戦に投入す事は出来なかった。しかしそれでも、地区情報作戦調整センター(DIOCC)は運用要請を迅速に処理できるよう組織されていた為、私の在任中、地区レベルでのPRUの作戦承認に遅れは見られなかった。


アメリカが関与する役割の変化による影響

 私のPRUにおける立場が変わる時がやってきた。1969年9月にPRUの"指揮官"として配置された私は、同年11月以降"アドバイザー"という肩書に変わった。それまでPRUの"指揮官"には米軍の将校や上級下士官が割り当てられていたが、この仕組みは11月以降変更された。それは米国国内でフェニックス・プログラムが残虐な作戦であると認識されてしまった事、そしてその残虐だという主張がこの戦争への支持を打ち消してしまう事をMACV司令官クレイトン・エイブラムス将軍が懸念した為であった。
 11月、エイブラムス将軍はPRUに配置されたアメリカ兵の肩書を"指揮官"から"アドバイザー"に変更する命令を下した。彼はまた、アメリカ人はPRUチームに同行して現場に赴く事はない、とも規定した。これは、アメリカ人が軍法統一規定(The Uniform Code of Military Justice)に抵触する恐れのある活動に関与する可能性を避ける為であった。
 私自身はエイブラムスや彼の参謀がこれらの制限を設定した時、その理由については関知していなかったが、これだけは言える。タイニン省での任期中、私はアメリカ人・PRU隊員のどちらも軍規に反する作戦行動を行った例は一度として見た事がないし、聞いたこともなかった。

▲タイニン省PRUでは正式な隊伍を組む事は稀であった。これは米陸軍第25歩兵師団との合同作戦中に勇敢な行為のあった4名のPRU隊員が米軍からブロンズスター勲章を授与される際の写真である。撮影: 筆者
 
 この新たな方針はタイニン省の兵士たちから士気と実効性を奪い去った。PRUは危険な作戦にも同行して米軍支援部隊、特に救急ヘリコプターや砲兵部隊との無線交信を担うアメリカ人に大きく依存していた。アメリカ人による手引きが失われたことで、PRUはC戦区(War Zone C)やカンボジア国境のアンタィン・カイメー地域などのタイニン市北部及び西部競合地域への出撃を躊躇するようになっていった。もし緊急事態に直面した場合でも、アメリカ人が一緒でなければ米軍ヘリによる救護避難、火力支援、そして緊急脱出が受けられない事を彼等は知っていたからである。
 タイニン省PRUにとって、その問題は小さくはなかった。チームは北ベトナム軍の第5、第7、第9師団が展開する地域内で活動していた。軽武装のPRUは、もし北ベトナム軍やベトコン主力部隊との戦闘に遭遇した場合、速やかに米軍による火力支援を受ける必要があったのである。

 1969年11月以降、タイニン省PRU隊員たちが進んで競合地域に出撃するようになるまでには数ヶ月の長い訓練を要した。私のPRUへの忠義とリーダーシップというものへの理解に立脚し、私はMACVが課した制限に対し度々疑問を感じていたことを認めざるをえない。私は正式に方針の見直しを上申したが、その要請は却下された。


PRUチームがVCI壊滅に成功した理由とは?

 私の体験が必ずしも他のPRUアドバイザーや部隊に当てはまる訳ではないと思うが、少なくとも私の任期中、タイニン省PRUは成功を収めた部隊だった。1969年9月から1970年6月までにタイニン省PRUは31名のVCIを討伐、64名を逮捕した。一方、PRU隊員の損害は戦死2名、負傷2名のみであった。
 テト攻勢後の数ヶ月間でVCI上級幹部の大半がタイニン省PRUによって討伐または逮捕されたか、隣国のカンボジアに逃亡した事が1968年12月初旬の時点で明らかになっていた。私が1970年6月にベトナムを離れる頃には、ベトコンはあらゆる面で政治的脅威としての存在感を失っていた。
 PRUの活動が高い成果を挙げていた事実は、1975年に共産軍が南ベトナムを敗北させた際にも証明された(※4)。タイニン省を占領した北ベトナム軍司令官は、すぐさまこの地に200名の民間政治幹部を派遣するよう北ベトナム政府に要請した。彼の報告によると、戦後タイニン省の統治に携わるはずだったベトコン幹部は、この時点でたった6人しか残っていなかったという。
 タイニン省PRUが成功を収めた主な理由、それは彼等が省内、住民、そして敵側の事情に精通した集団だったからであった。また彼等には規律、強力なリーダーシップ、そしてベトコンを壊滅させるという個人的かつ激しい動機が備わっていた。彼等は敵に付け入る隙を与えない正確で非常に効率的な諜報システムを持っており、それらは家族との強い絆と宗教、そして住民との信頼関係に支えられたものであった。
 アメリカ人司令官およびアドバイザーが果たした役割は重要なものであった。しかしどの省でも、1年以上勤務した者はほとんど居なかった。私(そして同輩のPRUアドバイザーたち)もPRUに貢献するため、そういった信頼関係を築きたいと思っていたが、結局、それは私(そして我々)には成し得ない事であった。アメリカ人が南ベトナムを去った後も長らく、タイニン省PRUはVCIの根絶に従事し続けた。この作戦のコンセプトはアメリカ側の発案であったが、その実行と応用は完全にベトナム側によるものだった。

 1975年4月のサイゴン陥落以降、タイニン省PRU隊員たちの人生は一転して悲惨なものとなった。彼等は捜索に遭い逮捕もしくは殺害された。多くの者が再教育収容所に投獄され、長期間拷問と強制労働を強いられた。その内一部の者は収容所を脱出し、アメリカ政府から住居と就職先が与えられアメリカに定住した。
 しかしほとんどの者は処刑されたか、収容所の劣悪な環境の中で死亡した。ただしごく一部の者は決して降伏せず、彼等PRUの生き残りは"黄龍(Yellow Dragons)"と呼ばれる"残存"部隊を組織し、ベトナム共産党と南部のシンパに対する戦いを続けた。その活動は1990年代に入ってもタイニン省の共産政権当局によって報告されていた。

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※4. 私がベトナムを去った後のタイニン省におけるVCIの状況に関しては、1985年にアメリカに亡命した2名の元タイニン省PRU隊員たちから聞き取った情報である。

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教訓

 タイニン省での経験を踏まえて、私はある部隊がPRU同様に組織、装備、訓練されている場合、他の地域や時代でもPRUのような成功を再現できるかを時折考える。武装勢力を特定・逮捕するため地域社会の人間で構成された特別警察は、我々が信じる民主主義の原則に沿った上で成功するだろうか?私は、PRUに備わっていた以下の条件が満たされさえすればそれは可能だと信じている。

 特定の政府関係者や政治指導者だけでなく、国民に対し責任を負う、プロフェッショナルそして市民としての倫理観が部隊に浸透している事。
 高い水準のプロフェッショナリズムに装備・訓練されている事。
 給料が十分に(そして定期的に)支払われる事、そして具体的な成果には報酬を与える事──これは腐敗や敵の浸透を防ぐ重要な要素である。
 部隊はその者らが属するコミュニティーの者だけで構成し、小規模でも強固な絆のチームを編成する事(ベトナム戦争中、南ベトナムの人口1700万人強の内、PRU隊員だった者は4,500名足らずであった。それはPRU隊員のほとんどが生まれも育ちもその省という地元住民に限定されていたからである)。 これによって彼等は的確に司法と政治の監視下に置かれ、有効な法的権限を持つ者の命令無しに、認められていない手段の作戦を行う事が出来ない。
 部隊は別の場所に移動している間、対象の個人を識別するという目的を超えて捕虜を尋問・監禁する権限を持たない事。PRU型部隊は他の警察部隊、特に犯罪捜査および逮捕に関わる者とは明確に区別される事。
 隊員とその家族を報復の可能性から保護し、個人名が報道関係者や部外者に漏れないようにする事。
 最高水準の専門的かつ論理的なリーダーシップが提供される事。
 南ベトナムのDIOCCsのような省庁間の調整機構を通じて、目標に関する完全な情報を得られるようにする事。
 もしアメリカ人アドバイザーがそれらの部隊に配置される場合、その者は事前に言語・文化・情報管理・小規模部隊戦術、幕僚計画について専門的な訓練を受ける必要がある。

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以上のフィンレイソン大佐の論文も踏まえて、フェニックスとPRUに対する僕の認識をまとめると、以下になります。

・フェニックス・プログラムとは米国CIAが主導したベトナム政府による一連のベトコン政治基盤(VCI)破壊工作
フェニックス・プログラムの実行は米国CIA・米軍MACVの下部組織であるCORDSが担った。
・CIA、ベトナム国家警察などの情報報機関が収集したVCIに関する情報はCORDSによって調査・整理される。
CORDSが入念な捜査によって目標を特定すると、各省のPRUや国家警察野戦警察隊米海軍SEAL、米陸軍特殊部隊に逮捕命令が下る。
・PRUは省政府(地方軍小区)の保有する対ゲリラ部隊であり、CIAから派遣された米軍人アドバイザーによって指揮された。
PRU隊員やその家族はその地域の住民であるため、地元のVCIについては政府や米国の情報機関よりも正確な情報を得られた
・逮捕されたVCI容疑者は省政府の取り調べセンター(PIC)に連行され、特別警察によって取り調べを受ける。
・PRUの任務は容疑者の逮捕であり、尋問を行う権限は無い。
・PRUは競合地域内に潜伏するゲリラの逮捕を行っていたため、ゲリラ側が抵抗した場合は戦闘の末殺害する事があった。
一般市民は概してPRUに協力的であり、市民からの情報提供によって国内のベトコン組織はほぼ完全に壊滅した。

 これらはベトナム共産党を支持する者や、その宣伝を信じた人々が書いた本を鵜呑みにしている多くのミリタリーマニアの認識とは真逆ではないでしょうか。"CIAの秘密殺戮部隊"・・・。マニアにとっては夢のあるお話なんでしょうが、それにはかなりの誇張、捏造が含まれていると考えます。あるのはただ、年間2,000人もの人々を虐殺しているベトコンというテロ組織を、あくまで司法に則った形で追い詰め、郷里と家族、信仰を守ろうとした父や夫たちの姿でした。

  


2017年04月18日

ベトナム軍のM1系ヘルメット その1

 ベトナム共和国軍では、1948年の国軍創設から1975年のベトナム戦争終結まで、30年近くに渡って様々なモデルの米軍M1系ヘルメットが使用されていました。今回は、それらベトナム軍で使用されたヘルメットについてご紹介します。


M1ヘルメット (大戦モデル)/アメリカ製
使用期間: 1948年~


 第1次インドシナ戦争中、ベトナム軍で最も普及していたヘルメットがアメリカ製のM1ヘルメットでした。これは第2次大戦集結後、再建が始まったフランス軍への軍事支援としてアメリカが供与したもので、第1次インドシナ戦争期のフランス連合軍で最も多用されたヘルメットでした。またM1ヘルメットには各種空挺部隊仕様(後述)が存在しましたが、それらは十分な数が揃わなかったため、空挺部隊でも通常型(一般兵科用)のM1ヘルメットが使用されていました。
 なお、ここで言うM1ヘルメットとは第二次大戦中の1940年代前半に生産されたモデルになります。大戦モデルと言っても色々ありますが、写真から判別できるのは、大戦中一般的だったJフック型チンストラップが付いたM1という事ぐらいであり、また米軍の中古がまとめて供与されたものなので、細かい仕様はごちゃ混ぜだったと思われます。


M1Cヘルメット (布製チンストラップモデル)/アメリカ製
使用期間: 1951年~


 M1Cヘルメットはアメリカ軍が1943年に採用したM1ヘルメットの空挺部隊仕様で、M1のライナーに空挺降下時の安定性を高めるAストラップを追加し、またシェル側のチンストラップにスナップボタンを備えライナーと固定できるデザインとなっていました。第1次インドシナ戦争中、ベトナム国軍を含むフランス連合軍の空挺部隊では、M1と同じくアメリカから供与されたこのM1Cヘルメットが多用されていました。なお当時のM1Cは、革製チンカップに代わって大戦末期に採用された布製チンストラップのタイプが一般的でした。


M1ヘルメット EO改修型アメリカ製・フランス軍改造
使用期間: 1952年~


 フランス連合軍の空挺部隊にはアメリカ製のM1Cヘルメットが支給されていたものの、その数には限りがあり、空挺部隊の規模拡大と共にヘルメットが不足していきました。そこでフランス軍は1952年に、在庫に余裕のある一般兵科用M1ヘルメットのライナーにM1Cのような空挺降下時の安定性を高めるAストラップを取り付ける改造を行い極東(EO)=インドシナ派遣部隊への支給を開始します。この改造されたM1は"M1ヘルメットEO改修型(Casque M-1 modifié Extrême-Orient)"と呼ばれ、M1Cのような爪付きバックルではなく、左右2個ずつ備えたDリングで布製のウェビングチンストラップを締め上げる方式のAストラップを備えていました。


Mle 51 TTA OTANヘルメット/フランス製
使用期間: 1952年~


 Mle 51 TTA OTANヘルメット(Casque troupes toutes armes modèle 51 OTAN)はM1ヘルメットを基にフランス軍が1951年に制式採用した一般兵科用ヘルメットです。第2次大戦による荒廃と戦後の東西冷戦による緊張状態を迎えた西欧諸国は、軍の再建をアメリカからの軍事支援に頼っており、ヘルメットもアメリカ製のM1ヘルメットが北大西洋条約機構軍の標準装備となっていました。この中でフランスは装備の国産化を図り、北大西洋条約機構(仏語略称:OTAN)の標準ヘルメットであるM1を国産化した物がMle 51 TTA、通称OTANヘルメットでした。 このOTANヘルメットはM1ヘルメットとほぼ同じ構造でしたが、シェルの前側のバイザー部分がM1より短く、逆に後ろ側がM1より大きく突き出ているのが特徴でした。OTANヘルメットはフランスからベトナム軍に供与された期間が短かったため数は少ないものの、1960年代まで使用例が見られます。

なお、フランス軍は1953年に、OTANヘルメットにM1Cと同様のAストラップを追加した空挺部隊向けの"Mle 51 TAPヘルメット"を採用しましたが、インドシナ派遣部隊もしくはベトナム国軍での使用例については未確認です。


M1ヘルメット (戦後モデル)/アメリカ製
使用期間: 1950年代末?~


 フランスがベトナムから撤退した後、ベトナム共和国軍はアメリカから直接軍事支援を受けるようになり、個人装備も急速にアメリカ式に切り替わっていきます。M1ヘルメットも大戦期の旧モデルから、当時のアメリカ軍の現用(いわゆる戦後モデル)へと更新されていきます。さらに1960年代に入るとベトナム軍のヘルメットの大半はこの戦後モデルに置き換わり、以後1975年まで長きに渡って使用されました。なお空挺部隊においても、空挺用ヘルメットの不足から、一般兵科用M1は引き続き使用されました。
 戦後モデル(1950年代から1960年代前半)のM1ヘルメットは、大戦期のJフック型に代わり、既定の圧力でバックルが外れるように設計されたT1型チンストラップが装備されているのが大きな特徴でした。(T1ストラップは1944年に採用されたものの、実際に普及するのは1950年代になってからでした。) また、ライナーの革製チンストラップは標準装備でしたが、前線ではシェルの内側に隠されたり、外されている場合も多々ありました。


M1Cヘルメット (戦後モデル)/アメリカ製
使用期間: 1950年代末?~


 M1と同様に、空挺部隊向けのM1Cヘルメットも順次戦後モデルに切り替わっていきました。M1C戦後モデルは、M1と同様シェル側にはT1型チンストラップ(スナップボタン付き)が装備されており、またライナー側のウェブチンストラップも金属ハトメ付きの新型になっています(※2017年4月19日訂正: 形状は大戦末期の物と同じでした)。なお、M1Cのライナーは一般兵科用M1のシェルと互換性がある為、戦後モデルもしくは後述する国産M1のシェルにM1C(空挺用)ライナーが取り付けられている事もあります。


国産M1ヘルメット/ベトナム製
使用期間: 1960年代中盤?~


 1960年代半ばになると米国製M1(戦後モデル)をコピーしたベトナム国産のヘルメットの生産が始まり、以後終戦まで米国製と共に広く使われていきます。国産M1ヘルメットの特徴は、米国製M1のような反射防止の砂吹付塗装がなされておらず表面がツルツルであった事でした。この砂吹付の省略は、同じくM1を国産化していた台湾軍やタイ王国軍でも行われました。塗装色は米軍のようなオリーブドラブではなく、青みがかった緑色と言った感じの色をよく見ます。またライナーの革製チンストラップは不要と見なされ、最初から備えていなかったと思われます。


◆M1 / M1Cヘルメット (1965年モデル)/アメリカ製について
 アメリカ軍は1941年以来ほぼ同じ構造だったM1およびM1Cヘルメットの大掛かりなマイナーチェンジを1965年に行い、ベトナム派遣アメリカ軍部隊が使用するヘルメットは順次この新型(1965年モデル*)に切り替わっていきました。この1965年モデルのM1/M1Cは、戦後モデルと同様にベトナム共和国軍に供与された可能性は十分あるものの、ライナーの内装が写っていない限り当時の写真からではそのM1が戦後モデルなのか1965年モデルなのかを判断するのは難しいため、僕はまだ1965年モデルのM1がベトナム軍でも使用されていたという確証は得られていません。
マニアの間では1965年モデルのM1およびM1Cに"M2"という通称がつけられていますが、M2とは本来、1942年に開発された最初期の空挺仕様M1ヘルメット(M1Cより前のモデル)の名称です。1965年モデルをM2と呼ぶのはかなり間違ってるので止めた方がいいと思います。



おまけ

ツルツルヘルメット計画、進行中

   


2017年04月12日

ベトナム海軍LĐNN/SEAL

先日のベトベトで「LĐNNを盛り上げよう!」というお話を頂いたのですが、僕自身まだちゃんと分かっていない部分も多かったので、勉強がてらLĐNNとSEALの歴史について概要をまとめてみました。超カッコいい部隊なので興味を持ってくれる人が増えたらいいなぁ。

※2017年4月14日追記

第1期LĐNNとシーコマンド

 1960年、ベトナム海軍は水中破壊チームの創設を計画し、その後海軍の分遣隊が台湾でアメリカ海軍によるUDT訓練を受講した。1961年7月、海軍は『フロッグマン部隊(Liên Đội Người Nhái, 以下LĐNN)』を創設し、台湾での訓練を終えた海軍士官1名、水兵7名がLĐNNの幹部となった。さらに国内で選抜された48名の海軍将兵が集結し、海難救助、水中障害物除去、桟橋の防御、水陸特殊作戦を任務とする第1期LĐNNが始動した。

▲創設当時のベトナム海軍フロッグマン部隊((LĐNN)部隊章

▲第1期LĐNN隊員の訓練[1962年5月 ベトナム]

 LĐNN創設から間もなく、ジエム総統直属の特殊工作機関『総統府連絡局(Sở Liên lạc Phủ Tổng thống)』の傘下にも、水陸作戦部隊『シーコマンド=特海隊(Biệt Hải)』が組織された。シーコマンドの任務は北ベトナムその他国外における越境特殊工作であり、海軍だけでなく陸軍・海兵隊の水陸戦チームも統括する統合任務部隊であった。
 1962年2月より南ベトナムに展開を開始したアメリカ海軍SEAL(Sea Air Land)訓練チームは、翌3月より最初のシーコマンド幹部育成のための6か月間の訓練コースを開始し、空挺降下、偵察、ゲリラ戦についての教育が行われた。そして10月までに62名のシーコマンド隊員がSEAL訓練コースを修了した。
 なお1963年11月の軍事クーデターでジエム政権が崩壊すると、総統府連絡局は解体され、シーコマンドは新たに設立されたベトナム共和国軍参謀総本部直属の特殊作戦機関『開拓部(Sở Khai thác, 後のNKT)沿岸警備部(SPVDH)』の指揮下に移管される。
 1964年1月、士官1名と41名の隊員から成るLĐNNチームが、海岸からの侵入を試みる共産勢力に対抗する特殊作戦を開始。『シードッグ作戦(Operation Sea Dog)』において、フィリピンのイロイロ島(パナイ島)で共産軍の物資を輸送するジャンク船6隻を爆破した。
 1964年2月には、北ベトナムへの圧力を目的としたMACV-SOG主導の秘密作戦OP-34Aが開始された。これに伴い、第1期LĐNNは国外の目標への攻撃に参加するため、海軍の指揮下を離れSKT沿岸警備のシーコマンド部隊に編入された。(OP-34Aおよびシーコマンドについては過去記事『NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[2]』参照)

 
▲シーコマンド部隊章(左)、海軍LĐNNシーコマンド中隊(右)

▲SKTシーコマンド編入後、初代LĐNN隊長ラム・ニュット・ニン海軍大尉(写真②)はシーコマンド総隊長に任命された。
[1964年 ダナンSPVDH本部]


第2期LĐNN

 OP-34Aによって第1期LĐNN隊員のほとんどがシーコマンドに移動したことで、海軍にはフロッグマンが存在しなくなった。この穴を埋めるため、1964年7月には第2期LĐNN隊員の訓練に60名の訓練生が選抜され、9月からニャチャンにおいて訓練が開始された。この第2期LĐNN訓練コースは、『地獄の週』を含む16週間にわたって行われた。地獄の週では海上漕艇185km、長距離走120km、ボート担ぎ走33km、遠泳16kmという過酷な体力訓練が行われた。また訓練期間中、訓練生たちはニャチャンやビンズオン省において、実際に沈没した船や航空機を海中からの引き上げる作業を経験した。そして1965年1月に33名が訓練を修了し、彼ら第2期LĐNNはベトナム海軍作戦本部副部長の直接指揮下に置かれブンタウに駐屯した。
 1965年には、LĐNNは南ベトナム領内における全ての水陸特殊作戦の権限を与えられ、北ベトナムに対する水陸作戦はSKT沿岸警備部(SPVDH)の管轄となった。

▲第2期LĐNN訓練の修了式[1965年1月 ニャチャン海軍訓練センター]


第3期LĐNNとアメリカ海軍SEAL

 1960年代中盤までに、アメリカ海軍SEALチーム1および2は、越境工作部隊シーコマンドの訓練に加えて、南ベトナム領内における定期的な戦闘任務への参加を始めていた。彼らは強襲、水陸偵察、ベトコン組織破壊工作の専門家であり、国内での水陸作戦を統括するLĐNNはSEALとの協力関係を深めていった。間もなくSEALチームが南ベトナム領内で行う通常戦術作戦にはベトナム海軍LĐNN隊員も参加する事となり、LĐNNではSEAL派遣要員の選抜が開始された。1966年11月には少人数のLĐNN幹部がフィリピンのスービック湾に派遣され、アメリカ海軍にってより高度なSEAL訓練を施された。
 1967年にはSEAL派遣要員を育成する第3期LĐNN訓練が開始され、400名を超える志願者がブンタウで訓練に参加した。この第3期LĐNN訓練は、それまでUDT訓練が主だったLĐNN訓練コースとは異なり、空挺降下作戦を含む本格的なSEAL訓練が初めて大規模に実施された回であった。1年後、訓練コースを卒業した訓練生は400名中わずか27名と、脱落率94%の過酷な訓練であった。この第3期LĐNN訓練を終えた27名の隊員は、LĐNN初の本格的なSEALチーム『海撃隊(Hải Kích)』として組織化された。海撃隊の作戦範囲は主に南ベトナム国内であったが、カンボジア領内へ潜入する場合もあり、またパラシュート降下による越境作戦も存在した
 これ以降、LĐNN海撃隊はアメリカ海軍のSEALチームに人員を供給し、緊密な協力関係の下で作戦を遂行していく事となる。SEALにおけるベトナム人の役割は単なる通訳だけでなく、一般市民と敵兵を見分けて危険を察知するというベトナムで生まれ育った者にしかできない文化面での知識を持っている事も彼らがSEALに必要とされた大きな理由であった。またフェニックス計画などで情報を聞き出すためベトコン容疑者を逮捕する作戦では、SEALのアメリカ兵が対象を無理に拘束しようとすると必死に抵抗され、やむを得ず射殺してしまい任務失敗となるケースもあったが、同じベトナム人であれば言葉で脅す事でそれを防ぐ事が出来た。

LĐNN海撃隊(Hải Kích)=ベトナム海軍SEALチーム部隊章
画像: Dealing Time "Lieutenant Mike Slattery" 

アメリカ海軍SEALチーム1ヴィクター小隊所属のベトナム海軍LĐNN海撃隊員[1960年代末 ロンフー?]

▲SEALチーム2 第9小隊所属のLĐNN海撃隊員[1969年ベトナム]

▲カムラン移転後のLĐNN訓練キャンプ [1970年カムラン]
第3期LĐNN訓練が終了した直後の1968年2月、共産軍はテト攻勢を開始しブンタウでの訓練が困難となったことから、ほとんどのLĐNN部隊はカムラン湾に移動し、第4期以降のLĐNN訓練はカムランで実施された。

▲ベトナム海軍LĐNNの部隊章 [Military Advisor 2016年9月号より]
1. LĐNN 1stデザイン
2. LĐNN 2ndデザイン
3. 港湾警備チーム (Phòng thủ hải cảng) 1stデザイン
4. 港湾警備チーム (Phòng thủ hải cảng) 2ndデザイン
5. 爆発物処理 / EODチーム (Tháo gỡ)
6. 水中爆破 / UDTチーム (Thủy công)
7. 海撃/ SEALチーム (Hải Kích)
8. 爆発物処理 / EODチーム (Tháo gỡ)
9. サルベージ船隊 (Giang-Đoàn Trục Vớt)
10. バリエーション
※翼のデザインはSEAL訓練が始まった1967年以降に制定されたものと思われる。

SEALチーム2 第9小隊
フェニックス計画の際は、LĐNN隊員に加えて現地のPRU(地方軍独立偵察中隊)隊員がSEALチームに加わる事もあった。


SEAL戦闘通訳員 グエン・ホアン・ミン


 SEAL小隊に所属したベトナム人の中には、LĐNN隊員以外の者も居た。特にSEAL隊員たちから尊敬を集めたのがグエン・ホアン・ミンであった。ミンは1959年から1964年までベトナム海軍で勤務した後、1966年にアメリカ海軍河川哨戒艇部隊に通訳としてスカウトされた。その後ミンは1971年まで5年間、ミトー基地のSEALチーム2 第7小隊および第10小隊戦闘通訳者として勤務した。
 ミンは通訳、ポイントマン、時には潜入諜報員としてSEALの作戦に貢献した。またミンの妻も危険を顧みずメコンデルタ地域におけるSEALの作戦に協力し、ミン夫妻はベトナム戦争時代のSEAL最大のベトナム人功労者としてSEAL隊員たちに記憶されている。


▲ミンが所属したSEALチーム2 第10小隊 [1960年代末~1971年頃 ミトー]
上段左から5番目の弾薬ベストを着た人物がミン。ほかのベトナム人はLĐNN隊員

 1975年の敗戦後、ミンは共産軍に拘束され強制収容所に28か月間投獄された。ミン夫妻はその後45年間に渡って米農家や靴磨きをしながら貧しい生活を送る事となる。
 時は流れて2002年、海軍を退役した元SEAL隊員のジョン・ドノバンは、一冊の本の中に、かつての戦友であるグエン・ホアン・ミンの名前を見つけ、ミンがまだ生きている事を知った。ドノバンはダラスのベトナム難民関係者に連絡を取り、6年後の2008年にミンを探すためベトナムのミトーを訪れた。そして数か月後、ドノバンとミンは40年ぶりの再会を果たした。
 ミン一家の苦境を知ったドノバンは、かつてのSEALの戦友たちに連絡を取り、ミン一家のアメリカ移住を支援する基金を立ち上げた。その後、ミンへの募金は1万5000ドル以上集まったが、アメリカ国務省はミンの移民申請を却下した。その為基金は、ベトナムに住むミンの子や孫の家を補修し、生活環境の改善に当てらてた。2013年、ミンはSEALアソシエーションの招待を受けて初めてアメリカを訪れ、SEALミュージアムでかつての戦友たちと再会を果たした。

ミンのSEALへの貢献と、戦友たちとの再会を伝えるSEALチーム2アソシエーション制作のドキュメンタリー"The Why of Minh"


ベトナミゼーション

 1971年、アメリカ軍のベトナム撤退に伴うベトナム共和国政府の権限移行(ベトナミゼーション)の影響は海軍LĐNNにも及んでいた。それまでアメリカ海軍SEALが担っていた作戦のほとんどがベトナム海軍LĐNNの管轄に移行され、作戦規模は大幅に拡大した。これに伴い、ベトナム海軍フロッグマン部隊(Liên Đội Người Nhái)は、『フロッグマン群(Liên Đoàn Người Nhái*) 』へと発展・拡大した。拡大したLĐNNは海撃隊(SEALチーム)、水中爆破チーム、爆発物処理チーム、支援舟艇チームから成り、司令部は引き続きサイゴンに置かれた。略称は変わらずLĐNN
 1971年の時点で、LĐNN海撃隊は12~18名単位の分遣隊に分かれ、ホーアン、ダナン北部、フエ、ティンアンの前進基地に駐屯し、南ベトナム国内でのベトコン組織破壊または強襲作戦に従事していた。
 1972年のイースター攻勢において、南ベトナム最北端の城塞都市クアンチが北ベトナム軍によって占領されると、LĐNN海撃隊はクアンチ奪還作戦部隊の一部としてフエに移動した。その後、壮絶な戦闘の末にクアンチが奪還されると、海撃隊の一部はベトコン組織破壊作戦に復帰しクアンガイに移動した。


バット21ブラボー救出

 イースター攻勢の最中の1972年4月2日、アメリカ空軍のEB-66電子戦機2機が北ベトナム軍の対空ミサイルによって撃墜され、クアンチ省北部に墜落した。EB-66のナビゲーター アイセル・ハンブルトン中佐(コールサイン"バット21ブラボー")は救難無線によって生存が確認されたが、墜落地点は前線から4km北側の敵支配地域であり、そこには南侵した約3万人の北ベトナム軍が展開していた。ハンブルトン中佐は対空ミサイル対抗戦術の専門家であったことから、ミサイル技術の情報が敵側に渡るのを防ぐため、その日のうちに航空機による救難捜索(SAR)が開始された。
 しかし北ベトナム軍の対空ミサイル網は非常に強力であり、SAR機に多数の被害が発生した。在ベトナム米軍司令クレイトン・エイブラムス将軍は、いかなる犠牲を払おうともミサイル技術漏洩を防ぐつもりであったが、捜索開始から5日経ってもハンブルトン中佐は発見されず、最終的に16機のSAR機が撃墜され、14名が戦死または行方不明となる結果に終わった。また誤爆を防ぐため周辺空域での空爆が禁止されたため、クアンチで戦うベトナム共和国軍部隊への航空支援が滞り、地上戦でも多数の損害が出ていた。
 そこでMACV-SOG統合救難センター(JPRC)は地上からの救出作戦を立案し、アメリカ海軍SEALのトーマス・ノリス海軍中尉がその任に当たった。ノリス中尉はこの時点でベトナムに残っていた12名のSEAL隊員の一人であり、ノリスは救出作戦のメンバーとしてNKT沿岸警備部シーコマンド部隊から5名の海軍LĐNN隊員を指名した。そしてその中の一人、グエン・バン・キェット海軍伍長と二人で漁師に変装し、漁船に偽装したサンパンで川を遡って敵支配地域に潜入し、ハンブルトン中佐および捜索中に撃墜されたOV-10のパイロット マーク・クラーク大尉の捜索を行った。その結果、二人はハンブルトン中佐・クラーク大尉の両名を発見し、敵の追撃をなんとか振り切り脱出する事に成功した。この危険極まる救出劇はベトナムにおけるSEAL最後の作戦として称えられ、ノリス中尉はアメリカ軍最高位の名誉勲章(Medal of Honor)を、キェット伍長は名誉勲章に次ぐアメリカ海軍最高位の海軍十字章(Navy Cross)を受章した。

シーコマンド/LĐNNグエン・バン・キェット伍長(左)とアメリカ海軍SEALトーマス・ノリス中尉(右) [1972年]

 1972年後半、戦闘任務の終了後もLĐNNへのアドバイザー任務を継続していたアメリカ海軍SEALが、ついにベトナムから完全に撤退した。LĐNNはSEALアドバイザーが管理していたカムランのSEAL訓練施設を引き継ぎ、LĐNN / SEAL訓練を継続したが、SEAL訓練は非常に脱落率の高い過酷なものであったため、海撃隊は常に人員不足に悩まされていた。この時点でLĐNN海撃隊の人員は200名強であったが、1971年にアメリカ本土でSEAL訓練を受けたLĐNN士官候補生21名のうち、訓練を修了して海撃隊に入隊できた者は10名しかいなかった。さらに正規軍である北ベトナム軍の南侵が激化し、戦況は悪化の一途を辿っていたことから、LĐNNは戦力を確保するため隊員の訓練期間を半分に短縮し、特に空挺降下訓練については1/5にまで削減された。
 1973年にパリ協定が結ばれベトナム戦争が停戦すると、全国に展開していたLĐNN海撃隊は作戦を終了しサイゴンの海軍本部に戻った。また対外工作機関であるNKTの沿岸警備局は解散され、シーコマンド所属のLĐNN隊員たちは原隊に復帰した。しかし停戦から間もなく、北ベトナム軍はパリ協定を無視して南進を再開し、ベトナムは再び戦火に見舞われた。


ホンサ諸島の戦い

 時を同じく、1950年代から続いていた南シナ海のホンサ諸島(西沙諸島)の領有権をめぐるベトナムと中国の対立が激化し、ベトナム共和国政府はホンサ諸島の領有を主張するため、島を占領すべく民兵の守備隊を1973年12月末に派遣した。中国政府はこれに対抗して海軍の陸戦部隊を島に上陸させた。ベトナム海軍は中国軍を撃退するため、1974年1月17日にLĐNN海撃隊をフーラム島(永興島)の西岸に潜入させたが、すでに中国海軍地上部隊は島から撤退しており、海撃隊は難なく島を占領した。
 しかし上陸から二日後の1月19日、中国海軍は突如フーラム島に砲撃を加えると共に陸戦隊を上陸させ、海撃隊との地上戦に発展した。この戦いでLĐNN海撃隊には3名の死者が発生し、島から撤退した。さらに周辺の海域で行われた海軍艦艇同士の海戦では、双方の艦艇が撃沈され、ベトナム側には50名を超える死者が出た。(※Ken Conboy氏はこの戦いでのLĐNN隊員の死者は2名で、残りは捕虜になったとしているが、元LĐNNのキェット伍長は、この時捕虜になった者はいなかったと指摘している)



サイゴン陥落

 1975年4月末までに、LĐNN海撃隊は激しい戦闘の末に人員が50名まで減少していた。4月末に共産軍が首都サイゴンに迫ると、LĐNNの残存兵力は首都防衛のためサイゴン南西のロンアン省に派遣された。この時点でLĐNNにはSEAL訓練を受講中の訓練生が200名居たが、彼らはサイゴンのLĐNN本部に温存された。
 首都陥落が差し迫った4月29日の夕方、LĐNN隊員の家族らは海軍の手引きで小型のUDTボートに分乗し、サイゴンから脱出した。その数時間後、隊員の家族らは国際水域でアメリカ海軍第7艦隊に救助された。


[参考資料]
Military Advisor: Frog-men of the repblic of Vietnam, by Clement kelley 
  


2017年04月04日

ボディアーマー

M1952Aボディアーマー再生

去年ベトナムに行った際に、中のアラミド繊維が抜かれペラペラのカバーのみの状態になったM1952Aボディアーマーを買ってきました。(もしかしたら防弾性能のあるボディアーマーはベトナムの法律では『武器』扱いになり違法だから中身が抜かれたのかも)
このカバーは中身がないだけで、ほぼデッド状態の良品だったので、どうにかしてこの中に詰め物を入れて外観を再生させようと思っていました。
問題は何を詰めるかという事で、一番リアルなのは本来入っていたはずのアラミド繊維を戻す事ですが、今時のトラウマプレートと違ってこの時代のボディアーマーは中身を交換する事は考えられていないので、アラミド繊維単品はまず手に入りません。
次に思い浮かぶのは、ヒューストン社などのミリタリー系アパレル企業が作っているボディアーマー風ベストのように、ダウンや綿を詰めるという手段ですが、実はこれには難がありまして、本来均等な厚みのアラミド繊維が入っているはずなのに、綿などの形状が定まっていないものを入れるとどうしても中で偏りカバーにたるみが出来てしまいますし、それを防ぐためにカバー一杯にパンパンに詰めると、今度は厚くなり過ぎて形が不格好になってしまう事が予想されました。市販のボディアーマー風ベストも、実物よりだいぶ分厚くなってるので一目で代用品だと分かりますものね。なので中に入れる素材としては、実物とほぼ同じ厚みで、かつ中で偏らない適度な硬さがあるものを選ぶ必要がありました。
ただし厚みに関しては、正常な状態のM1952Aを持っていないので実際の厚みは分かりませんでした。しかし、その後継である3/4カラーボディアーマー(RVNAF)(※後述)は手元にあるので、それとほとんど同じだろうと予想して選ぶことにしました。3/4カラーのアーマー各部をノギスで測ったところ、カバーを含めた厚みは概ね9mmだったので、中のアラミド繊維は約8mmと考える事にします。思っていたより薄いですね。
当初、素材としてはお風呂マットやウレタンフォームを候補として考えていましたが、ホームセンターに行って商品を見てみると、どれも思ったよりぶ厚くて、厚さ8mmの品はなかなかありません。何か良いのは無いかと探していると、ありましたよ丁度いいのが。

ユーザー(USER) アルミロールマットL U-P851

キャンプなどで地面に寝る時に寝袋の下に敷く保温・緩衝用アルミロールマット、通称銀マットです。偶然にも厚さ8mmの品が並んでいました。これなら適度な硬さもあり、型崩れしなさそうなので中に入れるのにピッタリだと思いました。
さっそく買って帰って作業開始。やる事は単純で、ボディアーマーのカバーを広げて縁の形を取り、そこから縫い代分の10mm内側を切り出します。これをカバーの中に入れて、カバー開口部をミシンで縫い直せば完成。

※銀マットはもともと十分な大きさだったのに、寸法を測り間違って余計な部分を切ってしまいた。しかたなくガムテープでつなげ直しています。

こうして復活したM1952Aボディアーマー。本当に銀マットは丁度良い硬さで、思っていた以上に見栄えが良いです。

M1952Aのタグ



3/4カラーボディアーマー(RVNAF)

ついでに、今回アラミド繊維の厚みの参考にした3/4カラー・ボディアーマー(RVNAF)をご紹介。

名前の通り、このボディアーマーはRepublic of Vietnam Armed Forces=ベトナム共和国軍*に供与するために生産されたもので、タグが違うだけで物は米軍のM69ボディアーマー**と全く同一です。

アメリカ製ですが、ベトナム共和国軍での使用を前提としているため、最初からベトナム語の取説タグが付いています。なおアメリカ政府におけるFSN(連邦備品番号)は、米軍M69は8470-122-1299ですが、ベトナム軍仕様は8470-144-5798となっています。

* RVNAF
戦後誤解されていますが、当時のベトナム共和国軍の正式な英語表記はRepublic of Vietnam Armed Forces(RVNAF)であり、Army of Republic of Vietnam(ARVN)はベトナム陸軍のみを指しました。過去記事『ARVNとは?』参照

** M69ボディアーマー
3/4カラーおよびM69ボディアーマーの名称についてはマニア間でかなり誤解されています。
まず、マニア間でM69と呼ばれている物(ジッパー閉じ)は米軍でいうM69ではありません本来の名称は"3/4カラー"ボディアーマーであり、1969年制定でもありません。M69とはこの3/4カラーの後継モデルの名称なのですが、なぜかマニア間では3/4カラーそのものを指してM69と呼ばれています。
さらにこの誤った認識の上で、本来のM69(ベルクロ閉じ)は、「M69(実際は3/4カラー)の1970年仕様」だと誤解され、"M69/70"という謎の分類化がされています。タグに本来の名称書いてあるのに、なんでわざわざ関係ない名前付けるかね。
なお、RVNAF仕様は(真の)M69と全く同じ仕様ですが、タグに記載された名称はM69ではなく、なぜか3/4カラー(RVNAF)となっています。


おまけ: T61-5 3/4カラーボディアーマー

T61-5ボディアーマーがベトナム海軍でも使われていたの図。

 
T61-5はアメリカ海軍で開発されていたチタン・ナイロン混合ボディアーマーです。
フランスの米軍コレクターグループUSMC-COLLECTORSのページLES GILETS PARE-ECLATS DE L'US NAVYによると、1964年11月に海軍での採用が決定されたものの、1965年12月になっても生産前の試験が継続しており、生産されたものについてはベトナムに派遣されたアメリカ海軍の河川哨戒艇部隊で使用されたそうです。しかしこのT61-5は体温がこもりやすく、熱帯地域での着用は厳しいもので、結局大量生産には至らず消えて行ったようです。
上のベトナム海軍の写真は、アメリカ海軍が装備品をベトナム側に供与した際、その中にT61-5も混ざっていたためにそのまま使われていたのであろうと推測します。

  


2017年03月18日

トレーニング

 先週末、SAITAMA101さんが開催しているリエナクトメント・トレーニング会、略してリナトレに2日間参加させていただきました。リナトレはアメリカ陸軍第101空挺師団が行う演習という設定ですので、僕ら3名のベトナム兵ベトナム陸軍空挺師団からの研修生という体でお邪魔しました。SAITAMA101さんも僕らもベトナム戦争のリエナクトを目指していますが、今回は、昼間はともかく夜はコップに入ったコーラが凍るくらい寒かったので、ここはきっとベトナムではなく米国本土の演習場です。

<当日行った内容>

・ミディアムテント、CPテント設営



・基本教練 - 静止間の動作(気を付け、休め、整列休め、敬礼、右向け右、回れ右、駆け足からの停止)
・基本教練-分隊行動(集合、整頓、番号、行進、駆け足)
・戦闘訓練 - ほふく前進(第一~第四ほふく、尺取り虫)



・演習 - パトロール、負傷者発生、ダストオフ(緊急脱出)


▲ダストオフに使用したCPのM151A2トラックと衛生隊のM718A2救急トラック
衛生隊は現場に到着すると負傷者を担架に乗せ現場でトリアージ、救急トラックに載せ、後方に搬送します。
パトロール隊の出発から後方搬送までを全て通してやるので、実際にやってみると(戦闘中の搬出という体なので)現場では混乱が生じ、重傷者と軽症者を取り違えてしまったりと、すんなり行くものではありませんでした。この混乱もまたリアリティがありますね。

こうして訓練は無事終了しました。本当に沢山の事を学べた二日間でした。
終了後、米軍側より今後もベトナム軍の参加を歓迎すると仰っていただけたので、またの機会を楽しみにしています。
また教練の内容はマニュアル化して、今後のイベントで実践していきたいと考えていますface02



後日談


後日、リナトレの時に撮ったこの写真をFacebookに載せたら、ベトナムとアメリカ人から、「こんな腹の出た軍人いねーよwww」と馬鹿にされてイラッときた。きぃぃぃ!ムカつくーー!そのあとすぐにホア少尉らNKTベテランの方々が僕をかばう書き込みしたら、そいつらは黙っちゃったけど。
でも確かに、自分でも太り過ぎたと思う。会う人みんなに「太ったねぇ・・・」と言われる。そして何より、軍服のズボンがどんどん履けなくなっていく・・・。という訳で、本気でダイエットする事にしました。逃げ道作ってるといつになってもやらないので、期限を区切って、今年の年末までに成果を出すことを宣言します。

今から12、3年前。毎日登山、水泳、片道8kmの自転車通学してた頃。
-18kgか・・・長い道のりだ・・・。
  


2017年01月21日

ベトナム人とドナルド・トランプ



 昨日、ついにドナルド・トランプが第45代アメリカ合衆国大統領に就任してしまいました。私が付き合いのあるベトナム人およびベトナム系アメリカ人のほとんどは熱烈なトランプ支持者なので、選挙の時からず~と、Facebookを開けば毎日トランプへの賛辞にあふれていて、人間の心の弱さというものを嫌というほど見せつけられました。

 彼らがそこまでトランプを支持する主たる動機、それは中国への憎悪です。
 本土ベトナム人にとって、ベトナムは第2次インドシナ戦争終結後、常に中国からの圧力に晒されており、もともと中国へのコンプレックスが強いベトナム人の反中感情は近年の中国の南シナ海への進出によってより強まっています(ベトナム共産党は中国からの莫大な援助によって戦争に勝利したのだから戦後中国がその投資を回収しようとするのはある意味当然ですが)。またベトナム共産党政府は国民のガス抜きのため領土問題で中国との対立を装っているものの、実際にはベトナム経済の中国依存は強まるばかりであり、ベトナム政府が中国の言いなりである事はベトナム国民も理解しています。だからこそ彼らは、自国の政府ではなくアメリカのトランプに、中国弱体化の期待を抱いているのだと私は見ています。
 またベトナム(難民)系アメリカ人にとって、彼らの祖国ベトナム共和国はベトコンを介した中国の侵略によって滅ぼされており、1954年の南北分断よりも遥か彼方に分断された彼ら難民の恨みと悲しみが消え去る事は永遠にないでしょう。さらに現在は、第二の故郷アメリカの経済が下火になる一方で、中国が国際社会におけるプレゼンスを増しており、彼らの中国への憎悪と劣等感は頂点に達していました。そこにドナルド・トランプ出現したことで、彼らは既存の日和見主義政治家とは違う強固な(=他人の意見に耳を貸さない)政治姿勢のトランプならこの状況を変えられるかも知れないという期待を抱いてしまいました。またベトナム系コミュニティの中心にいる元ベトナム共和国軍人たちはトランプの支持基盤の一つであるアメリカ軍退役軍人協会と強い結びつきもあり、ベトナム系市民の中でもトランプ支持が拡大してしまいました。この流れはアメリカ以外に住むベトナム難民系コミュニティでも同じような傾向があるように見えます。

 以上が、彼らがなぜトランプを支持するのかについての私なりの理解ですが、私はこのような憎悪と劣等感に突き動かされた政治選択に強い懸念を抱いています。すでに大統領選の時点で、ベトナム系市民はアメリカ社会全体と同様に、トランプ支持と反トランプで大きく分断されていました。選挙とは常に人々の意見が対立するもので、それ自体は悪い事ではないのですが、今回の選挙がこれまでと違う所は、選挙の後もその対立感情が強まる一方だという事です。
 あるトランプ支持派の元ベトナム共和国軍人は大統領選の直後、トランプへの反対を述べたベトナム系の若者に対し、「お前らは負け犬だ」、「アメリカから出ていけ」などの罵詈雑言を浴びせていました。またある時は、オバマ大統領を(明らかに黒人であるという理由で)ゴリラに見立てて、「猿は檻(刑務所)に入れ」という内容の書き込みがベトナム人の間で大量にシェアされていました。また私と懇意にして下さっている元共和国軍人の方も、反トランプデモについて度々嫌悪感を露わにしています。「ほら見ろ、あいつらは暴動を起こした。反対派はアメリカの敵だ」と。
 私はそれを見ていて、「そんな考え方してるからあんたらの国は潰れたんだよ」と思ってしまいました。今まであえて書いてきませんでしたが、正直、戦後の元共和国軍人たちの多くは、敗戦の原因を全て中国や共産主義者のせいにして、自国の政府が行った暴政や弾圧が国内のベトコンを拡大させた事実については無視し続けています。彼らには家族や国を失い、言葉の通じぬ異国に逃げざるを得なかったという非常に辛い過去がありますし、私自身も現在まで続くベトコンによる国民へのテロリズムを憎んでいるので共和国軍人への敬意を持ってこのブログを書いてきましたが、あの時代のあの政府が最善の選択をしていたとは到底思えません。残念ながら彼らの味わった悲しみと絶望感は、彼から過去の自分たちの過ちを反省するという判断力を奪ってしまったように思えます。

 本題に戻りますが、このような自分と異なる意見に対し、それを愚かな事だと決めつけ、話を聞かず、排除しようとする安直な思考は、人権や文化の多様性を奪う、民主主義に最も逆行する行為だと私は断言します。曲がりなりにも民主主義・自由主義という理念を牽引していたアメリカ合衆国が、感情論に流されて自らその理想に背を向ける事は、アメリカ国民ひいては世界の未来に暗い影を落とす行為ではないかと思いっています。レッド・チャイナが憎いからと言って、ホワイト・チャイナになったのでは意味が無いのです。
 なので私は、友人全員を敵に回す覚悟で、あえてトランプ本人およびその支持者の一部は民主主義への理解が欠けており、危険な排外主義であると批判しました。また昨晩はトランプの大統領就任式の生中継を見ながらベトナム人たちがお祭りをしている最中、私は彼らに向けて、オバマ大統領が最後のホワイトハウス記者会見で報道陣に対して述べた言葉を投稿しました。



"But I have enjoyed working with all of you. That does not, of course, mean that I’ve enjoyed every story that you have filed, but that’s the point of this relationship. You’re not supposed to be (inaudible) fans, you’re supposed to be skeptics, you’re supposed to ask me tough questions. You’re not supposed to be complimentary, but you’re supposed to cast a critical eye on folks who hold enormous power and make sure that we are accountable to the people who sent us here, and you have done that."

「私は皆さんと一緒に楽しみながら仕事をしてきました。もちろん、あなた方が書いたすべての話を楽しめた訳ではありませんが。しかしそれこそがこの関係に大切な事なのです。あなた方は私のファンではないし、私を懐疑的に見ており、厳しい質問を投げかけるでしょう。あなた方は私を称賛しないでしょう。しかしあなた方は巨大な権力を持つ者に批判的な目を向け、我々をここホワイトハウスに送ってくれた国民に対し責任がある事を認識させてくれました。」

"And so my hope is is that you will continue with the same tenacity that you showed us, to do the hard work of getting to the bottom of stories and getting them right and to push those of us in power to be the best version of ourselves and to push this country to be the best version of itself.
I have no doubt that you will do so, I’m looking forward to being an active consumer of your work, rather than always the subject of it. I want to thank you all for your extraordinary service to our democracy."

「そして私の望みは、今後もあなた方が私に見せたように粘り強くある事です。徹底的に取材し、正義を求め、権力の座にある者、そしてこの国を最善の状態にすべく仕事に打ち込む事です。私はあなた方がそうすると信じて疑いませんし、今後もそのニュースの題材よりも、あなた方がその仕事の積極的な担い手であることを楽しみにしています。私は皆さんの民主主義への特段の貢献に感謝したいです。」

"if you find yourself isolated because the process breaks down or if you’re only hearing from people who agree with you on everything or if you haven’t created a process that is fact-checking and probing and asking hard questions about policies or promises that you’ve made, that’s when you start making mistakes."

「物事がうまくいかずに孤立した時や、自分に同意する人たちからしか話を聞こうとしない時、事実確認をせずに物事を進め自身の政策や公約に対し手厳しい追及を受ける時、それは間違いを犯す時なのです。」

The New York Times
Obama’s Last News Conference: Full Transcript and Video (JAN. 18, 2017)

 投稿してすぐに、予想通りオバマは詐欺師、容共、イスラムシンパなど批判的な書き込みが相次ぎました。もうタダでベトナム人の家に泊めてもらえないかもね。でもこのくらいで縁を切るような度量が狭い人間とは最初から付き合う気はないので、別に良いのです。それにFacebookで友達になったベトナム人500人のうち、5人はイイネ!してくれたし(笑)、ベトナム系アメリカ人の中にもオバマ大統領を擁護する声は存在しました。しかしトランプ支持派と反対派で口論になり始めたので、私としては以下の考えを述べて締めくくりました。

"Thank you all for give me your opinions. I don't know actually his domestic politics because I'm not in America, and the news from foreign lands have been reported in fragments in Japan. I just know American society has big and deep problems still now so it is natural that people find fault with Obama. Of course excepting a violence even there is any reason, I believe that the act of criticizing makes the wholesome Democracy."

「みんな意見をくれてありがとう。僕はアメリカに住んでるわけではないし、外国のニュースは日本には断片的にしか入ってこないから、実際のところ僕はオバマ政権の内政に関してはよく知らないんだ。ただアメリカ社会はいまだに大きく深刻な問題を抱えている事は知っている。だからオバマ政権の問題点が指摘されることは当然の事だと思うよ。もちろんいかなる理由があろうとも暴力に走る事を除いてだけど、『批判する事』こそが健全な民主主義を作るのだと信じているよ。」


当てつけも含んでいるけど、僕の意図が伝わってくれていればいいなぁ。
  


2017年01月13日

米国のガンストアとマニアのお宅訪問

先月アメリカに行った時に見てきた場所です。

ジョージア州のサープラスストア

 友人の行きつけの店です。軍服やら個人装備、キャンプ用品やらが並んでいるのは日本のサープラスとほとんど変わりませんが、アメリカだけあって銃を扱ってるコーナーもあります。


 各種セミオートライフルが並んでいますが、コルトやH&Kなど軍隊御用達の高級ブランドは見なかったと思います。名前を聞いたことがあるようなないような、よく分からない中小メーカーがメインでした。
 面白かったのが、モシン・ナガン。YoutubeのDaijiro357氏の動画で、モシン・ナガンはアメリカで激安で売られていると聞いていましたが、確かに安かったです。一丁220ドルくらいでした。探せばもっと安い店があるらしいです。陳列の仕方もいい加減で、他の銃のように壁に掛ける事はなく、ガラスケースの前の地べたに置かれたライフルスタンドに、ワイヤーも何も掛けずに並べられてました。なので、冷やかしついでにカチャカチャいじってきました。

 また店内のジャンク箱には、どの銃に合うかすら書いていない中古マガジンや中古ホルスターが捨て値で山積みにされてました。マガジンは税関で止められそうだけど、ホルスターくらいお土産で買ってくればよかったなと少し後悔。


 結局僕がこのお店で買ったのは、米軍の特殊部隊ハンドブック(ST31-180)の複製品と、勲章などのバッジのピン留めを10個くらい。
 私が知る限り、アメリカのサープラスストアには必ず隠し部屋にロケットランチャーが置いてあるのですが、残念ながらそれを拝む機会はありませんでした。





ウエストバージニア州のアウトドアストア

 ケンタッキー州にガンシューティングに行った際、友人の友人の友人がバレット82を貸してくれる事になったなので、自分たちが撃つ分の12.7mmNATO弾を買うために、お隣ウエストバージニア州にある大きなアウトドアストアに行きました。1階建てですが、ホームセンターなみの広さのお店で、店内には銃器弾薬を含めたハンティング・シューティング用品、釣り、カヌー、登山、キャンプなどのアウトドアスポーツ用品が盛りだくさんです。店内の様子はGoogleストリートビューで見る事が出来ます。(店内は僕が行った時と殆ど同じです。)


 店の中央には、アメリカの大自然が育んだ豊かな生態系と野生動物たち、つまりハンティングの獲物たちの壮大な剥製ジオラマが展示されていて圧巻です。ハンティングは動物をスポーツ、リクリエーションとして殺す行為なので銃器好きの中でも好き嫌いは分かれると思います(僕自身ハンティングをしようとは思わない)が、このお店の剥製展示を見ていると、アメリカの美しい自然に対する深い愛情と畏敬の念が伝わってきます。少なくとも大型哺乳類のハンティングは人間の側も動物に反撃されるリスクを負っており、自然の恩恵と脅威、生と死のサイクルを体感するという意味では究極のアウトドアスポーツと言えるかもしれません。


 上記のように、この店は総合アウトドア用品店であり銃器専門店ではありませんが、それでも銃器類の品揃え、売り場面積はそこいらのガンショップの数倍~十倍くらいあると思います。陳列棚には各種ライフルが並べられ、ボルトとトリガーはロックされていますが、自由に手に取る事が出来ます。また売り場の奥には『ガン・ライブラリー』と名付けられた高級またはビンテージ銃専用の展示室があります。置かれているのは基本数千ドル、中には1万ドルを超える高級品やスコープもあり、貧乏人には雲の上の世界でした。でもラックにかけてある銃を手に取るのは自由だったので、ここぞとばかりに大戦中に製造されたビンテージのM1カービンやM1ガランド、Kar98kなどを舐めまわすように触ってきました(笑)


Sさん宅

 山の上に撃ちに行く日の朝、ケンタッキー在住のSさんの自宅に集まって、彼の銃やターゲットをピックアップトラックに積み込みしました。弾薬やターゲットなどは自宅の横にある趣味専用の小屋に保管してあります。弾もハンドロードしているので、小屋の中には作業場もあります。男の趣味の理想形ですね!


 銃を積み込みしている時、SさんのSPRアッパーレシーバー付きAR-15A2を見て「カッコいい~!」と言ってたら、なんと庭で撃たせてくれました。※ターゲットが置いてある道は公道からSさん宅に続く私道です。


スコープ付きのライフルが大好きなPくん。ナイショッ!

 ちなみにSさんは80年代アクション映画(木曜洋画劇場系)や、ゴジラシリーズが好きなギークさんなので、僕と趣味が合います。ゴジラではゴジラvsキングギドラ(1991)が一番のお気に入りだそうです。また人生最高の映画はターミネーター2という点でも意気投合しました。



フリーメイソンおじさん宅

 Sさん宅を出発した後、この日一緒に撃ちに行くSさんの友人Tさんの家にも寄りました。TさんはNFA(National Firearms Act)対象の武器を扱う事が出来る、SOT(Special Occupational Taxpayers)な銃器ディーラー。分かりやすく言うとフルオートの軍用銃やらサイレンサーやら、そういう危なっかしい武器を販売する事を連邦政府から許可された、限られた業者の一人なのだそうです。なので自宅の1階は銃の部品や弾薬を製造するための工場になっていました。


 Tさんは、はるばる日本から鉄砲好きの兄ちゃんが来たという事で、Tさんのプライベート・コレクションが収められた巨大な金庫の中から銃を次から次へと出しては、「ほれ、持ってみなと」と手渡してきます。ありがたいけど、僕の手は千手観音ではないので、2丁以上持てません。
 また銃だけでなく、金庫の中にあった古めかしいサーベルも見せてくれました。

 

 なんでも、Tさんの家系は代々フリーメイソンだそうで、このサーベルは200年前にTさんのご先祖様がフリーメイソンリーの儀式で使っていた物だそうです。うわー、スゲー!そしてTさん自身も現役のフリーメイソン。指にはフリーメイソンリーの指輪を付け、車にまでフリーメイソンリースッテカーを貼ってました。


 アメリカ合衆国という国とフリーメイソンリーは建国前から深い関係にあるという事は、話としては知っていましたが、リアルで会員の人と出会うのはこれが初めてでした。こんなにオープンでいいんだ(笑)
 またTさんの家系は数百年前に最初に北米大陸に入植した白人入植者に遡れるそうで、先祖はアメリカ独立戦争や南北戦争を戦ったという、自他ともに認める『生粋のアメリカ人』なのだそうです。そして自宅の庭の国旗掲揚竿には星条旗と共に南軍旗が高らかに掲げられ、絵に描いたようなコッテコテの南部人である事を誇りとしてるお方でした。
 Tさんが僕に「アメリカに来るのは初めてかい?」と訊いたので、僕は「二回目です。去年カリフォルニアに行きました。」と答えると、「あんな所アメリカじゃねぇよ!」と言ってました。Tさんはじめ、アメリカの銃器愛好家の白人はほぼもれなくトランプ支持の保守・白人右派なので、伝統的に民主党系のリベラルが強く、S&W社が撤退するほどの強烈な銃器規制が制定されるカリフォルニア州の政治は、彼らには非常に評判が悪いです。直接言葉にはしませんでしたが、要は「カリフォルニアは左翼とメキシコ人に乗っ取られた」と言いたいのでしょう。
 とは言えTさん自身は、アメリカは白人の国だという人種意識は持ってるでしょうけど、低能貧乏白人がハマるKKKやネオナチのようなラジカルな人種主義とは無縁の、『古き良きアメリカ』を愛する伝統的な保守と言ったところだと思います。そうでなければ、見ず知らずのアジア人にあんな大量の武器弾薬を無償で与えたりしないでしょうし(笑)



 しっかし、アメリカって知れば知るほど不思議な国。良い面と悪い面が複雑に絡み合ってて、訪れる度にとても一言では言い表せない思いを抱きます。たぶん向こうの人が日本に来ても、同じような事思うかもしれないけど。
 先日、日本で一緒に遊んだアメリカの友人に言われて自分自身不思議に思ったのが、日本とアメリカの商店のシャッターの違い。日本では多くの商店が閉店後にシャッターを閉めるけど、アメリカではよほど治安の悪いスラム街以外にはシャッターが無いのだそうです。友人は「日本は治安が良いのになんでみんなシャッター閉めるの?この光景見ると、すごい危険な街に来た気分になるよ」と言ってました。
 僕は「日本は銃やドラッグの犯罪は少ないけど、泥棒は沢山いるからね」と答えるしかありませんでしたが、確かに、言われてみればアメリカのほうがよっぽどシャッター閉めた方が良さそうなのに、逆に何故アメリカに無いのか不思議です。こういう部分も、文化の違いってやつなんでしょうか。

  


Posted by タイガ at 00:31Comments(0)【アメリカ】銃器旅行・海外

2017年01月09日

ベトナム空挺の降下作戦1955-1975

 先日ジャンクションシティー作戦について記事を書きましたが、ジャンクションシティー作戦と言えばベトナム戦争中アメリカ軍が行った唯一のエアボーン作戦として有名ですよね。一方、第1次インドシナ戦争中に40回以上のエアボーン作戦に参加していたベトナム空挺部隊(フランス植民地軍時代含む)は、ベトナム戦争においても度々エアボーン作戦を実施していました。以下は1955年から1975年までにベトナム共和国軍が行ったエアボーン作戦の概要です。


ベトナム共和国軍空挺部隊のエアボーン作戦

空挺部隊が降下した地点
黒が陸軍空挺部隊(Binh Chủng Nhẩy Dù)
青がマイクフォース(Lực lượng xung kích cơ động)

 ヘリコプターの性能向上によってヘリボーンによる迅速な展開・強襲が可能になったことから、第1次インドシナ戦争期と比べるとエアボーン作戦の回数はかなり少なくなりましたが、それでも大規模な戦闘降下作戦は少なくとも13回は実施されたようです。
 なお、マイクフォースは特殊部隊の指揮下にありましたが、マイクフォース自体は小人数で偵察や破壊工作を行うコマンド部隊ではなく、中隊規模以上の戦力でエアボーンまたはヘリボーンによる強襲を行大規模な空中機動部隊でした。

日付: 1955年9月23日・24日
降下部隊: 空挺群
目的: ビンスェン派の掃討
領域: ベトナム共和国ジアディン省ズンサック

日付: 1962年3月5日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 守備隊の支援
領域: ベトナム共和国タイニン省ボートゥック

日付: 1962年7月14日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 待ち伏せ攻撃の支援
領域: ベトナム共和国ジアディン省サイゴン北部

日付: 1963年1月2日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 第7歩兵師団の支援(アプバクの戦い)
領域: ベトナム共和国ディントゥオン省アプバク

日付: 1965年8月3日
降下部隊: 空挺旅団
目的: ドゥッコー特殊部隊キャンプ奪還の支援
領域: ベトナム共和国プレイク省ドゥッコー

日付: 1965年11月
降下部隊: 空挺旅団
目的: 解放戦線部隊への強襲
領域: ベトナム共和国ビンディン省アンケー

日付: 1966年3月3日
降下部隊: 空挺師団
目的: 敵部隊への強襲
領域: ベトナム共和国フーイェン省ソンコウ

日付: 1966年12月27日
降下部隊: 空挺師団
目的: 解放戦線支配地域中心部の強襲
領域: ベトナム共和国チュンティエン省

日付: 1967年4月2日
降下部隊: 特殊部隊第5MSFC(第5マイクフォース), 第1MSF大隊, 第2・第3中隊
作戦: ハーヴェスト・ムーン作戦
兵員: 356名
領域: ベトナム共和国クアンドゥック省
降下地点: Bu Prang CIDG訓練キャンプ
航空機: C-130輸送機
降下方法: 昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ

日付: 1967年5月13日午前6時
降下部隊: 特殊部隊第5MSFC(第5マイクフォース), 第1MSF大隊, 第3・第4・第5中隊および4.2インチ迫撃砲小隊
作戦: ブラックジャック作戦
兵員: 486名
領域: ベトナム共和国チャウドゥック省バイニュー
降下地点:バイニュー付近の水田
降下方法:  昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ, 高度200mより水田上に降下

日付: 1967年10月5日
降下部隊: 特殊部隊第2MSFC(第2軍団マイクフォース)第2MSF大隊, 第24中隊・第25中隊
作戦: ブルーマックス作戦
兵員: 250名
領域: ベトナム共和国クアンドゥック省
降下地点: Bu Prang CIDG訓練キャンプ
降下方法:  昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ

日付: 1968年11月17日
降下部隊: 空挺師団
目的: 特殊部隊による掃討作戦の支援
領域: ベトナム共和国チャウドゥック省バイニュー

日付: 1972年5月4日
降下部隊: 空挺師団
目的: 進軍ルート(チューパオ・パス)の確保
領域: ベトナム共和国コントゥム省チューパオ


ベトナム共和国軍特殊部隊の越境エアボーン潜入作戦

▲NKTのコマンド部隊がエアボーンによって潜入した地点
北ベトナム領だけで少なくとも30カ所に上る。(南カリフォルニアNKTアソシエーション資料より)

  特殊部隊が敵地に潜入するために行う小人数のエアボーン降下は、空挺部隊が行ったものよりもはるかに多くの回数が実施されました。また潜入のための降下作戦は、低高度を飛行する輸送機から順に飛び出す通常のスタティックラインジャンプだけでなく、潜入作戦という都合上、より隠密性を高めるためにHALO(高高度降下低高度開傘)を、しかも夜間に行っていた点が通常の空挺部隊とは大きく異なっていました。
 ベトナム共和国軍特殊部隊による北ベトナムへの越境潜入は、1961年に開始されたパラソル・スイッチバック作戦に始まります。作戦はアメリカ軍MAAGベトナムおよびCIAによって指揮され、ゴ・ディン・ジェム総統直属の特殊作戦機関『地理開拓局(後のLLĐB)』がその実行に当たりました。この作戦はコマンド隊員が北ベトナムまたはラオス領内にエアボーン降下で潜入した後、民間人に成りすまして敵支配地域内に長期間潜伏し、諜報および破壊活動を行うという大規模なスパイ工作でした。そのため潜入要員は南ベトナムから来た者だと悟られないよう北部出身のベトナム人はたはヌン族の兵士が選抜されました。
 ゴ・ディン・ジェム政権崩壊後の1964年、ベトナム共和国軍特殊部隊LLĐBの対外工作部門(第45室)はLLĐBから分離され、新たに参謀総本部直属の特殊作戦機関SKT(後のNKT)として再編されます。そしてそのSKT/NKTが行う対外作戦の立案・指揮をアメリカ軍MACV-SOGおよびCIAが担っていきます。以後、MACV-SOGが計画しNKTが実行した越境作戦は大きく分けて2系統ありました。

OP-34 / OP-36 ※1967年12月にOP-34からOP-36に改称
敵性地域内での直接的なサボタージュ工作。米軍SOG-36およびSOG-37が担当。作戦は任務によってさらに三段階に分類される。
・OP-34A / OP-36A: NKT沿岸警備局およびNKT第68群が実行。パラソル・スイッチバック作戦に続く長期または短期潜入・諜報・破壊工作。
・OP-34B / OP-36B: NKT第11群が実行。STRATA(短期監視・目標捕捉)チームによる機動的なロードウォッチ任務
・OP-34C / オペレーション・フォーレ: 心理作戦

OP-35
敵性地域への偵察、破壊活動。NKT連絡部『雷虎』と米軍SOG-35合同のC&C部隊が実行。



※以下は特殊部隊が実施した越境エアボーン潜入作戦の一部ですが、元が秘密作戦だけあって具体的な回数や細かい日付は把握できていないものが多いです。今後資料を見つけ次第加筆修正していきます。

日付:1961年から1964年にかけて複数回
降下部隊: 総統連絡部 地理開拓局北方部 第77群
作戦: パラソル・スイッチバック作戦
領域: 北ベトナム, ラオス
航空機: C-46輸送機

日付:1964年から1967年にかけて複数回
降下部隊: SKT第68群
作戦: OP-34A
領域: 北ベトナム, ラオス

日付:1968年から1973年にかけて複数回
降下部隊NKT第68群
作戦: OP-36A / エルデストサン作戦
目的: 敵の弾薬集積地に潜入し、敵の使う銃弾に爆発物を仕込んだ物を紛れ込ます事で、敵兵に自軍兵器への不信感を抱かせ戦意を削ぐ
領域: 北ベトナム, ラオス, カンボジア
航空機: C-130またはMC-130輸送機
降下方法: 夜間HALO

日付: 1970年11月
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, CCN,  チーム・フロリダ
作戦: OP-35
兵員: 9名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法: 高度6400mより夜間HALO

日付: 1971年2月
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, CCN,  チーム・アラスカ
作戦: OP-35
兵員: 9名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法: 高度6400mより夜間HALO

日付: 1971年4月15日
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, 第1強襲戦闘団, チーム・ワンゼロ
作戦: OP-35
兵員: 4名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法:  高度6400mより夜間HALO

日付:1970年から1971年にかけて13回
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, C&C部隊
作戦: OP-35
領域: 北ベトナム, ラオス, カンボジア
降下方法: スタティックラインジャンプ



おまけ

▲一昨年カリフォルニアでお世話になったレ・ホアン少尉の、
STRATA時代(当時19歳)の写真。

なんか面白い銃持ってますね。


(再現図)

発想としてはシンプルだけど、意外なほど今まで見た事ないパターンだったので目からウロコです。
  


2017年01月06日

ジャンクションシティー作戦におけるベトナム共和国軍部隊

新年あけましておめでとうございます。今年も年明けから平常運転で行きます。
来る4月8日・9日開催のベトベトマニアのテーマはズバリ、『ジャンクションシティー作戦』だそうです。
ベトベトマニアVol.3 -Operation JUNCTION CITY -
 ―エピローグ―
1967年2月、南ベトナム軍と米軍はタイニン省とサイゴン北西のカンボジア国境周辺の共産主義拠点を破壊する為に『ジャンクションシティー作戦』を発令、 第1歩兵部隊と第25歩兵部隊、 第 27歩兵連隊、第196軽歩兵旅団 、第173空挺旅団の空挺部隊、 第11装甲騎兵連隊の大型装甲部隊による大規模な戦闘を行うも全体的な成果を果たせなかった。カンボジア国境に隣接するベトベト地区には解放戦線第9師団が侵攻を開始し駐留する南ベトナム、米軍の混成師団は包囲される形となってしまった。弾薬、食糧は残り少なくこれを救出すべく第173空挺旅団が効果作戦を実施する。果たしてベトベト地区に残された混成師団の運命やいかに!
リエナクターを目指す以上、イベントが指定したシチュエーションに沿わない部隊を演じる訳にはいかないので、さっそくベトナム共和国軍部隊として堂々とジャンクションシティー作戦に参加する為の根拠集めを開始。以下はアメリカ陸軍指揮幕僚大学の戦史教本"Operation JUNCTION CITY, VIETNAM 1967" (1983)からの抜粋です。


 ジャンクションシティー作戦(Operation JUNCTION CITY)はアメリカ陸軍およびベトナム陸軍によって、C戦区(War Zone C)として知られるサイゴン北西のタイニン省周辺のにおいて実施された三段階の軍事作戦であり、1967年2月から5月にかけてベトナム共産ゲリラ(解放民族戦線)および北ベトナム軍(ベトナム人民軍)との戦闘が行われた。またアメリカ空軍もこの作戦の支援に加わった。
 作戦は在ベトナム・アメリカ陸軍第2野戦軍が実施し、本部をロンビンに、戦術司令部をダウティエンに置いた。作戦の指揮は3月24日までがジョナサン・O・シーマン(Jonathan 0. Seaman)中将、残りの期間をブルース・パーマー(Bruce Palmer)中将が執った。作戦部隊はジョン・ヘイ(John Hay)少将指揮の第1歩兵師団およびジョン・ティルソンIII世(John Tillson III)少将指揮の第25歩兵師団で構成された。ジャンクションシティー作戦に当たって、第1歩兵師団および第25歩兵師団の指揮下には、他の師団からも複数の有機旅団(Organic brigade: 編成に捕らわれず有機的に展開する旅団)が加わり、合計で22個の機動大隊および14個の砲兵大隊、加えてベトナム共和国軍3個大隊を指揮下に持ち、兵力はおよそ25,000名に上った。 

在ベトナム・アメリカ陸軍 第2野戦軍
ジャンクションシティー作戦 - フェーズI 作戦部隊の編成

第1歩兵師団

第1歩兵師団第1旅団
・第2歩兵連隊第1大隊
・第26歩兵連隊第1大隊
・第28歩兵連隊第1大隊
・タスクフォース・ウォーレス (ベトナム陸軍第3軍団『ウォーレス』戦闘団)
 ├ 第35レンジャー大隊 
  第1騎兵大隊第3中隊

第1歩兵師団第3旅団
・第16歩兵連隊第1大隊
・第2歩兵連隊第2機械化大隊
・第4騎兵連隊第1大隊
・第28歩兵連隊第2大隊

第173空挺旅団
・第503歩兵連隊第1大隊
・第503歩兵連隊第4大隊

第9歩兵師団第1旅団
・第39歩兵連隊第4大隊
・第47歩兵連隊第2(機械化)大隊
・第5騎兵連隊第3大隊


第25歩兵師団

第25歩兵師団第2旅団
・第27歩兵連隊第1大隊
・第27歩兵連隊第2大隊
・第5歩兵連隊第1機械化大隊

第4歩兵師団第3旅団
・第12歩兵連隊第2大隊
・第22歩兵連隊第2機械化大隊
・第22歩兵連隊第3大隊
・第14歩兵連隊第2大隊

第196軽歩兵旅団
・第1歩兵連隊第2大隊
・第21歩兵連隊第3大隊
・第31歩兵連隊第4大隊

・第11装甲騎兵連隊第1大隊
・第11装甲騎兵連隊第3大隊
・第23歩兵連隊第4機械化大隊

タスクフォース・アルファ (ベトナム海兵旅団A戦闘団)
・第1海兵大隊『怪鳥』
・第5海兵大隊『黒龍』


対して共産軍側の主力は南部中央委員会(COSVN)司令部を含む解放戦線第9師団であり、兵力はおよそ7,000名であった。

南部中央委員会
・第70親衛連隊

解放戦線第9師団
・第271連隊
・第272連隊
・第273連隊

ベトナム人民軍 第325師団
・第101歩兵連隊


アメリカ陸軍第25歩兵師団とベトナム海兵隊TFアルファ

 ジャンクションシティー作戦に参加したベトナム共和国軍3個大隊のうち、2個の海兵大隊からなるベトナム海兵旅団A戦闘団(Chiến Đoàn A TQLC)は、アメリカ陸軍第25歩兵師団の作戦指揮下でタスクフォース・アルファ(Task Force Alpha)としてベトナム・カンボジア国境沿いのタイニン省チャンスップに展開した。TFアルファの指揮官はホアン・ティック・トゥン(Hoàng Tích Thông)少佐、主任参謀をチャン・チュン・アイ(Trần Trung Ái)大尉が務めた。この米越合同作戦に際し、アメリカ陸軍第25歩兵師団のティルソン少将TFアルファの戦力向上のため二つのベトナム海兵大隊に新型のXM16E1ライフルを供与し、従来のM1ガランドとの置き換えが進められた。
 サイゴンに駐屯していたベトナム海兵隊TFアルファはジャンクションシティー作戦二日目の1967年2月23日にC戦区『蹄鉄(horseshoe)』エリアに投入され、『蹄鉄』エリアの西側を担当するアメリカ第25歩兵師団と合流した。部隊はこの日、地域の保安任務と中隊レベルでのサーチ&デストロイ作戦を実施した。
 翌2月24日、『蹄鉄』エリア北西のTFアルファはカンボジア国境に近い作戦エリア『クーガー』(AO Cougar)にヘリボーン降下し、南に向けて進撃した。この時点で敵の抵抗は軽微であった。
 2月25日から28日にかけて第25歩兵師団第2旅団および第11装甲騎兵連隊は敵の抵抗を受けながらも『蹄鉄』エリアの掃討に成功した。
 以後、第25歩兵師団はサーチ&デストロイの対象地域を広範囲に拡大したが、敵の攻撃は激化した。3月1日から9日にかけて第1歩兵師団指揮下の部隊には多数の死傷者が発生し、第25歩兵師団指揮下の第11装甲騎兵連隊付き第23歩兵連隊第4機械化大隊にも41名の死傷者が出た。しかし第11装甲騎兵連隊は引き続きカンボジア国境に沿って敵部隊の掃討を続け、3月11日には敵部隊の一部を川の東岸に追い詰め、撃破する事に成功した。
 こうしてジャンクションシティー作戦フェーズIが一定の成果を上げた事で、第2野戦軍はフェーズIIに向けて主要部隊の配置換えを開始した。この中でTFアルファは3月11日にジャンクションシティー作戦への参加を終了してサイゴンへと帰還した。


※2017年1月7日追記

アメリカ陸軍第1歩兵師団とベトナム陸軍TFウォーレス

 一方、蹄鉄』エリアの北部を担当するアメリカ陸軍第1歩兵師団第1旅団内には、ジャンクションシティー作戦に伴いベトナム陸軍第35レンジャー大隊および第1騎兵大隊第3中隊からなるウォーレス戦闘団(Task Force Wallace)が設置され、同旅団はビンズォン省ミンタンで出撃に備え編成が進められた。
 2月22日、ジャンクションシティー作戦フェーズI発動と同時に第1歩兵師団第1旅団は蹄鉄』エリア北部に3個大隊規模のヘリボーン強襲を実施し、その地でサーチ&デストロイ任務を遂行した。
 翌23日、同旅団はシャワー施設まで完備した大隊規模の敵軍ベースキャンプを発見した。この時点で戦闘は軽微であり、遭遇する敵は分隊規模かそれ以下であった。
 3月1日以降、旅団は断続的な戦闘を経た後、カツム北東に南部中央委員会(COSVN)宣伝センターを発見した。これを叩くため3月6日には、第1歩兵師団麾下の第173空挺旅団がカツムの南東Bo Tucの南に位置するLZに3個大隊規模のエアボーン強襲を実施した。一方、第1歩兵師団第1旅団は3月4日、フェーズIIに備えてビンロン省クァンロイに移動した。


 1967年3月15日17時24分、司令部はジャンクションシティー作戦フェーズIの終了を宣言した。アメリカ軍が『蹄鉄』エリアの掃討に成功した事で共産軍側の損害は少なくとも戦死者835名に上り、アメリカ軍は捕虜15名、小火器および重火器264個、その他莫大な量の物資と機材を接収した。
 その後もジャンクションシティー作戦は継続され、3月18日にフェーズIIが開始された。さらに4月15日にはフェーズIIIが開始され、5月14日の作戦終了まで戦闘は続いた。
  


2016年12月22日

アメリカで食べたご飯



やはり米国人向けにアレンジされているのか、洋食を食べなれた僕には、ベトナムで食べるより美味しく感じました。
野菜たっぷりヘルシー料理なはずなのに、行く前より体重増えてしまった・・・。




おまけ

ホテルで洗面器ラーメン

外でも洗面器ラーメン
  


2016年12月19日

シューティングの感想

前回に引き続き、友人たちと一緒に行ったガンシューティングについてです。

撃ちに行った場所は専用の施設や私有地ではなく、ただの山の上です。地元の銃器ファンのシューティングスポットになってるそうです。この辺りでは基本的に、安全に気を付けさえすれば、どこでも発砲していいらしいです。銃を貸してくれたT氏は出発前、道路に面した自宅の庭で普通にAR-15をぶっ放してました。さすが田舎!
とは言えここは公共の場所なので、時々一般の自動車や、放牧中の牛さんたちが周りを通るため、その時は射撃は中断となります。河原でサバゲやるのと同じノリですね。こっちは下手すると死人が出ますが。
この場所のレンジは最大1200ヤード(約1100m)で、超長距離射撃が可能ですが、1200ヤードはさすがに遠すぎるので、ライフル用のターゲットは650ヤード(約600m)の位置に設置しました。それでもこの日は風が強かったので、撃ち馴れた現地の人でも当てるのは難しかったそうです。

※2017年6月15日追記
友人がこの時の映像をカッコよく編集してくれました。




【銃ごとの感想】


コルト XSE 1911 (.45ACP)
1911は一度タイで撃ってるので、もうビビることなく、気持ち良~く撃てました。

コルト M1991A1 (.45ACP)
銃がボロいせいなのか、弾との相性なのか、無茶苦茶ジャムりました。ほとんど1発ごとにジャムってエアコキ状態。ダメだこりゃ。

マグナムリサーチ デザートイーグル (.44マグナム)
44マグナムなので撃つ前はかなりビビってましたが、銃自体が重いお陰で全然平気で撃てました。またジャムもなく快調です。

H&K MARK23 (.45ACP)
スライドが重い為、この日一番反動がマイルドな銃でした。でもグッリプがデカ過ぎて僕の手ではちゃんと握れません。

コルト AR-15 モデルSP-1 (5.56mmNATO)
いろんな意味で、この中で一番好きな鉄砲。軽くていくらでも気持ちよく撃てます。ちなみにこの銃は60年代オリジナル(.223 Rem)ではなく、近年リバイバルされた5.56mmNATO対応版です。

コルト ピストンカービン モデルP0923 (5.56mmNATO)
ダットサイトというものを人生で初めて使ってみました。ついてるのは軍用のトリジコンRX01。う~ん、アキュラシーね~!

LMT ディフェンダー2000 / ナイツ SR-15 E3 Mod 2アッパーレシーバー (5.56mmNATO)
これもダットサイト付き。水たまり撃って遊んでました。


コルト M4カービン モデルR0977 (5.56mmNATO)
軍用のR0977(フルオート)です。が、撃ってる最中にボルトキャリアが変に噛んでしまい全く動かなくなりました。その後持ち主がどうにかボルトを外しましたが、今度はチャンバー内でカートリッジが変形していて取り出せず、前からクリーニングロッドを突っ込んで押し出そうとしたらさらに変形してロッドすら抜けなくなるという大惨事に見舞われました。たぶんアッパーレシーバー丸ごとお釈迦です。ナンマイダー・・・

センチュリーアームズ AKMS  (7.62X39mm)
米国製AKMSクローンで、セミオートのみです。思った以上にコントロールしやすく、パンパン気持ちよく撃てました。友達はこれをホームディフェンスに使っているので、弾が入った状態で枕元にむき身で置いてました。チャンバーには装填していませんが、なんか恐ろしかったです。

M70AB2 (7.62X39mm)
米国製クローンですがフルオートです。フルオートで撃つのは、そこまで苦ではありませんが、暴れちゃって的に当てるのは難しかったです。

G3A3 (7.62mmNATO)
メーカーを確認しませんでしたが、これもフルオート仕様です。せっかくなのでフルオートで撃ってみたら、もうコントロールするの全然無理。それに銃自体が重いので疲れちゃいました。

九九式短小銃 (7.7mm)
銃が軽いのでリコイルはそれなりにありますが、日本人向けの銃だけあって、苦ではありませんでした。ただ、ボルトの開け閉めは練習しないと難しく感じました。

M1カービン (.30カービン)
これが撃ってて一番楽でした。なんのストレスもなくパンパン楽しく的撃ちできました。

イサカ モデル37 (12ゲージ)
普通の猟銃がなんであんなに重いのかよく分かりました。こいつはショットガンとしては軽すぎて、撃つたびにチークが顔面に当たって殴られてるような痛さでした。もう撃ちたくありません。

バレット M82A1 (12.7mmNATO)
1000ヤード越えのレンジで撃てる田舎のお金持ち専用の銃ですね。普通のライフルの射程しかない場所では、全く無用の長物です。厚着していたので体は痛くなかったけど、撃った瞬間は、本当に脳が揺れて頭殴られてる気分。イヤーマフしてても目の前に雷落ちたみたいなドカーンという轟音で耳がキーンとします。あと地味にマガジンが入れ辛くて、毎回銃を立てて交換する必要がありました。


以下、僕は撃ってないけど、友人たちが撃っていたもの。写真が多くなりすぎるので名前のみ。
ベレッタ 92F (9X19mm)
グロック 19 (9X19mm)
FNH FNX-45タクティカル (.45ACP)
マカロフ (.380ACP)
トカレフ (9X19mm)
ウィンダムウェポンリー CF SRC (5.56mmNATO)
コルト AR-15A2 HBAR / Mk12 Mod1アッパーレシーバー仕様 (5.56mmNATO)
コルト ロウエンフォースメントカービン モデルLE6920 (5.56mmNATO)
ナイツ SR-15 E3 Mod 2 (5.56mmNATO)
ノリンコ MAK-90スポーター (7.62X39mm)
H&K XM8 (5.56mmNATO)
H&K MR762A1 (7.62mmNATO)
FN SCAR MK17 (7.62mmNATO)
デザートテック SRS-A1 (.300 Win Mag)
アキュラシーインターナショナル AWM / L115A3 (.300 Win Mag)


みんな大統領選前にヒラリー政権による銃規制強化を恐れて弾丸を買い溜めしてたけど、トランプが勝って規制される恐れがなくなったからと、気前よく弾を消費しまくってましたねぇ。12.7mmはさすがに高価なので自分たちで買って持参しましたが、.45ACPや5.56mm、7.62X39は山のように在庫があるから、好きなだけ使ってくれと言われました。なのでお言葉に甘えて、たんまり撃ってきました。


遊びとしては超楽しかったですが、一方で普段日本に住んでる身としては、民間人がこれだけの武器弾薬を所持し、外で好きなだけ撃ちまくれる社会に言い知れぬ違和感を感じたのもまた事実でした。
  


Posted by タイガ at 15:49Comments(0)【アメリカ】銃器旅行・海外

2016年12月13日

鉛弾散布会


ジョージアからケンタッキーまで片道7時間車で往復。途中のマクドナルドの駐車場にて。


まさか普通のアウトドアショップで50口径が売ってるとはね。さすがアメリカ。
バレットから10発くらい撃ったら、軽い脳震盪になった。頭痛い。


クラス3(正しくはNFA対象)のアサルトライフルを山ほど持ってきてくれたケンタッキーの皆様。
この日は、半日ほどで2000発以上消費しました。それほど弾が安いんだそうです、この国では。


結論。運動不足って嫌ね。
単純に、重い物持ったせいで腕が疲れてプルプルしちゃう。僕にはM1カービンで十分ですわ。  


Posted by タイガ at 00:58Comments(0)【アメリカ】銃器旅行・海外

2016年11月24日

モデルとM

銃器趣味をやっていると、『M◯◯』や『Model ◯◯』という風に、銃器の名前にMやModelという文字がついているのをよく目にします。そして僕は、この二つの言葉の使い分けに長年違和感を感じてきました。では、MとModelはそれぞれ何を意味しているのでしょうか?
以下、僕の見解です。

M: 米軍モデルナンバー

『M』が用いられる最も代表的な例が、アメリカ軍における装備品型番=モデルナンバー(Model number)だと思います。このモデルナンバーは大文字のMとアラビア数字で表記され、またその装備の種別、口径などが列記されたものが米軍における公式な取り扱い名称になります。
例) RIFLE, CALIBER .30, M1903 (便宜的に略して『M1903 Rifle』とも表記される)

ここで注意が必要なのは、モデルナンバーのMはそもそもの由来は『モデル(Model)』の略であるものの、書類上用いられるのはあくまで『M』一文字であって、モデルナンバーを『Model』と表記することはない、という事です。つまりアメリカ軍においてMはモデルナンバーを示す単独の符号として扱われているのです。
しかしインターネットを見ていると、各国のガンマニアの間でMという記号とModelという単語の使い分けは曖昧であり、『Springfield Model 1903』のように、本来の米軍モデルナンバーとかけ離れた表記がされているのをよく見かけます。これらはあくまでマニア間で用いられる通称であり、その銃を開発・使用した米軍における名称でなない事に留意すべきだと思います。


Model: 民間メーカーの製品名

一方、民間メーカーでは、製品名にModelが付いている事が多々あります。
例) Smith & Wesson Model 19

日本ではこれを『スミス&ウェッソン M19』といった感じに表記するのを多く見かけます。これは上記の米軍モデルナンバーのModelがMに略された例に倣っての事だと思います。
しかし僕の知る限り、実際にはスミス&ウェッソンやその他大手銃器メーカーが自社の製品Modelの略としてMを使う事はありません。Modelは略される事なく『Model ◯◯』となるか、もしくはModel自体を省いて番号のみで表記されるのかのどちらかなのです。

Smith & Wesson商品ページより

Beretta USA Corp商品ページより

実は米軍以外でModelをMと略すのは日本だけの慣習であり、もっと言うと、これは日本のトイガンメーカーが始めた実銃とは無関係な呼び方だったりします。
(※ただし元々製品名がModelではなくM◯◯だったり、コルトM16やベレッタM9シリーズのように、メーカー側が軍のモデルナンバーを逆に自社製品名に取り入れた場合はまた別)


米軍における『Model』

まず、アメリカ軍が民間メーカーの製品を採用する際は、その装備品に軍が独自にモデルナンバーを付与するため、制式採用後はメーカー側の製品名は一切使用されません。なので製品名にModelとついていても、モデルナンバーは(Modelの略としてではなく符号として)『M◯◯』となります。
例) Remington Model 700 → RIFLE, 7.62MM, M40, SNIPER

一方で米軍は、必要に応じて連邦政府に制式採用されていない民間製品を臨時に購入して使用する事も多々あります。この場合、その物品には制式装備を示す『M』のモデルナンバーは付与されず、メーカーの製品名がそのまま軍での公式な取り扱い名称になります。(その為『Model』はそのまま引き継がれ、『M◯◯』にはならない)
例) Smith & Wesson Model 52 → PISTOL, CALIBER .38, AUTOMATIC: SMITH AND WESSON, MODEL 52

しかし取り扱い名称の文字数が多いと書面上煩わしいため、名称(メーカー製品名)を略して表記する事があります。この場合、米軍ではModelを『M』と略す場合と、『MOD』と略す場合の両方があります。ただし、その使い分けに規則性はあまり見られず、単に書類上の表記ゆれである可能性は否めません。
(以下、アメリカ海兵隊 「rpt2030 Marine Corps Nomenclature File Listing by NSN (Complete) (2008)」より)

Mと略され例)
Smith & Wesson Model 10 → REV 38CAL S&W M10
Smith & Wesson Model 52 → PISTOL 38CAL S&W M52
Smith & Wesson Model 60 → PISTOL 38CAL S&W M60
Winchester Model 70 → RIFLE 30/06 WIN M70
※あくまでModelの略としてMが使われているだけで、制式モデルナンバーではない

MODと略された例)
Smith & Wesson Model 459 → PISTOL 9MM S&W MOD 459
Smith & Wesson Model 469 → PISTOL 9MM S&W MOD 469
Beretta Model 92SBF → PISTOL 9MM BERETTA MOD 92SBF
Colt AR-15 Model 606 → RIFLE 5.56MM AR15 COLT MOD 06
Colt AR-15 Model 605B → SUBMACHGUN 5.56MM MOD05B COLT
Colt AR-15 Model 607 → SUBMACHGUN 5.56MM MOD07 COLT
Colt AR-15 Model 608 → SUBMACHGUN 5.56MM MOD08 COLT
Colt M16A1 Model 653 → CARBINE 5.56MM COLT MOD653
Colt M16A2 Model 727 → CARBINE 5.56MM M16A2* MOD 727
Colt M16A2 Model 733 → CARBINE 5.56MM M16A2* MOD 733
※Colt M16A2は米軍モデルナンバー『M16A2ライフル』から逆採用された名称だが、あくまでメーカー製品名であって、米軍がModel 727 / 733に対しM16A2というモデルナンバーを与えたわけではない


まとめ

米軍で制式採用された物は必ず『M』のモデルナンバーになる民間メーカー製品を米軍が採用した場合であっても『Model』は用いない。
・民間メーカーは基本的に『Model』を略さない。もしくは『Model』を省いて数字のみで型式を表記する。
・米軍が民間メーカー製品を(制式採用ではなく)臨時購入したものは『Model』のままで、モデルナンバーは与えられない。ただしModelを『M』もしくは『MOD』と略して表記する場合がある。

以上、最後がちょっとややこしいですが、MとModelのオフィシャルな使い分けはこんな感じだと思います。
  


Posted by タイガ at 00:30Comments(0)【アメリカ】銃器

2016年11月15日

ベトナム共和国軍特殊部隊キャンプ



手持ちの資料を全てまとめた特殊部隊キャンプのリストを作成中。
まだまだ?マークが多いです。悔しい。いつか全ての空欄を埋めてやる・・・。

     

 色分けは、黄色がCIDG計画の中核でありながら、なぜか戦後のマニアからガン無視され続けるCSF (Camp Strike Force: キャンプ駐屯のストライクフォース)。ベトナムに派遣されたグリーンベレー隊員のほとんどはこのCSF付きアドバイザーだったのにね。
 青がCSFから発展した空中機動部隊MSF (Mobile Strike Force: 機動的なストライクフォース)。みんな大好き"MIKE Force (マイクフォース)"の事。実はCSFに比べて規模はかなり小さい。なお"C-1"~"C-5"という名称は5thSFGのCチーム(A~E中隊)の事なので、マイクフォースの部隊名として用いるのは不適当。
 橙色がLLĐB C5やNKT所属の偵察・コマンド部隊。多くはCIDG計画とは別に、ベトナム共和国軍の特殊部隊として創設された部隊なので、隊員はもともとLLĐBのキン族(ベトナム人)およびヌン族が主だった。(1960年代中盤、サイゴン政府とデガ・チャム族・クメール族などのFULRO系少数民族は内戦状態だった。) その後、60年代後半に米軍の仲裁で政府とFULROが部分的に和解し、さらにMSFの規模拡大によって空挺降下や偵察などの技能を持ったCIDG / DSCĐ兵士が増えると、米軍の意向で偵察・コマンド部隊にもFULRO系少数民族が加わる事となった。

 また一口に『キャンプ』と言ってもその種類は様々で、ベトナム戦争中にベトナム共和国軍およびその同盟軍が建設した防御拠点は以下に分類される。
・メインベースまたはベースキャンプ
・戦闘基地、前進作戦基地(FOB)、恒久着陸ゾーン
・射撃支援基地(FSB)
・特殊部隊キャンプまたはCIDGキャンプ
・フランス軍式要塞化陣地
・射撃支援パトロール基地(FSPB)、パトロール基地または前進射撃支援基地(FFSB)
・着陸ゾーン(LZ)
・戦略村
・夜間防御施設(NDP)

これらの内、今回表にまとめたキャンプは特殊部隊のメインベースおよびFOB、特殊部隊キャンプ、CIDGキャンプであり、それぞれの定義は概ね以下の通り。

メインベースまたはベースキャンプ
大規模な恒久施設からなる要塞化されたエリアのことで、飛行場を併設している。特殊部隊ではサイゴンのLLĐB/NKT本部、ニャチャンの5thSFG本部、およびLLĐBのC司令部(USSF Cチーム)が置かれた基地などがこれに当たる。

前進作戦基地(FOB)
メインベースを小型化したものだが恒久的な要塞化された防御陣地が付属しており、少なくとも滑走路が付属している。特殊部隊ではNKT連絡部コマンド"雷虎"のFOB 1~FOB 6や、MSFにおいて複数のFOBが建設された。

特殊部隊キャンプおよびCIDGキャンプ
FOBよりも小型であるが、恒久施設が存在する。通常、ヘリコプター用の着陸ゾーンはあるが固定翼機用の滑走路は無い。ベトナム、アメリカ軍の特殊部隊分遣隊Aチームが常駐し、その指揮下で1個大隊規模のCIDG / DSCĐ部隊が駐屯している。その周辺には兵士の家族用の住居も併設されている。

出典: 要塞戦記: ヴェトナム戦争アメリカ軍ファイヤーベース PART.1, 秋田郁夫, wardroom, 2011年



おまけ: 越米特殊部隊司令部スタッフ


LLĐB本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀本部内, 1968年8月)
5thSFGA司令ハロルド・アーロン大佐(左手前)とLLĐB司令ドァン・バン・クアン少将(右手前)


SKT本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀本部内, 1966年)
SKT司令チャン・バン・ホー大佐(中央左)と、MACV-SOG司令ジョン・シングラウブ大佐(中央右)


NKT本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀総本部内, 1970-1972年)
MACV-SOG司令ジョン・サドラー大佐(左端)と、NKT司令ドアン・バン・ニュー大佐(右端)
  


2016年11月09日

ベトナム系市民から見たアメリカ大統領選

候補者がアレなのでいつになく注目されているアメリカ大統領選。
もう間もなく結果が出ますが、その結果を見る前に、アメリカ在住の友人たち(主にベトナム系アメリカ市民)の大統領選に関する言動をここ数か月間見てきたので、僕から見た彼らの考えをまとめてみます。

ベトナム系はトランプ派?ヒラリー派?】

在米ベトナム系コミュニティとして統一した意向は形成されておらず、アメリカ社会全体と同様に大きく割れています。


【トランプ派の人々】

かなり多く見受けられます。人数的には多数派かも。
現在アメリカに住む200万人のベトナム系市民の多くは、1975年以降ベトナム共産党政権から逃れて海外に脱出した難民とその家族であり、現在でも旧ベトナム共和国(南ベトナム)の軍・政府関係者がコミュニティの中心的存在となっています。
彼らにとってヒラリーのようなベトナム反戦運動を行っていたリベラルは、アメリカ軍をベトナムから撤退させ、共産主義陣営によるベトナム侵略を加速させた人々、つまり自分たちの祖国を蹂躙した勢力の一部と見なされており、非常に嫌われています。
ベトナムに従軍したアメリカ軍人の間でも、戦後も一部のリベラルによって軍人への誹謗中傷が続いたため、退役軍人アソシエーション(※日本では考えられないくらい強い政治力を持っている)では民主党などのリベラルを嫌う人が多く、保守的な共和党が強い支持を得ています。
また銃規制の面からも民主党を拒否する声を多く聞きます。オバマ政権から始まった銃規制強化は今後ヒラリーによってさらに強化されると予想されますが、規制への反対は国内の銃器・弾薬産業のみならず、普通のアメリカ市民の間でも広まっています。これはもちろんNRAら業界団体が規制を回避するため、高い犯罪発生率の中で市民の自衛手段だけが奪われるのでは、という不安を煽った結果ですが、それだけアメリカ市民にとって銃は身近な、そして切実な問題のようです。現にアメリカでは規制前の駆け込み需要によって銃器の売り上げがアメリカ史上最高を記録しており、僕の友人も規制の対象になりそうなAR-15用30連マガジンや5.56mmNATO弾を大量に買い貯めしていました。
まとめると僕の周りのトランプ支持派は、トランプ本人を支持しているというよりは、ヒラリーと民主党への反対を動機としている人が多いように見受けられます。
またトランプによる不法移民やイスラム教徒への誹謗中傷も、自分たちは正当な移民なので関係なく、むしろ社会が安全になるのなら多少の無茶も構わないといった感じでした。これは現在のアメリカ社会が抱える不安感を如実に表しているでしょう。


【ヒラリー派の人々】

ベトナム系でも若い世代の間ではヒラリー支持、と言うか反トランプ派が多く居ます。
理由は言わずもがな、あれほど下品で浅はかな人間をアメリカ合衆国大統領にするのはアメリカの恥であり、そもそもトランプは大統領候補として不適格だという見方です。彼のデマゴーグとしか言いようのない扇動的な言動は既にアメリア国内に大きな分裂をもたらしており、その上万が一大統領になろうものなら、アメリカの外交・内政は大混乱に陥る事が必至であるとしています。
また保守層から史上最悪と非難される民主党オバマ政権ですが、実際はこれまでになく失業率が低下しており、経済も一時期よりは回復。多くの犠牲者を出したアフガニスタン、イラク戦争からの撤退を実現するなど、(ヒラリー、トランプが嫌われ過ぎているので)オバマ大統領に対する前向きな評価は任期満了が近付くにつれて高まっています。ヒラリーも基本的にはオバマ政権の方針を引き継ぐと見られており、このまま経済を安定させる事に期待する人々は民主党政権の存続を望んでいます。
銃規制に関しても、これだけ銃犯罪や無差別テロ、子供による暴発事故が頻発している中で、誰でも弾薬を無制限に買え、犯罪歴さえなければ何丁でも銃を所有できる状況は、とても自衛のための必要最小限の武装とは言えず、規制反対は銃器産業と政治家の既得権益の保護でしかないという声も根強くあります。
まとめると、ヒラリー支持者は、まずトランプの人間性を大いに疑問視しており、トランプが大統領になった場合のアメリカの混乱と破滅を恐れている訳です。トランプ同様、ヒラリー本人も嫌われている事には変わりないですが、少なくともトランプよりはマシ、というのが穏健なアメリカ市民の見方のようです。



さて、この記事を書いている時点(日本時間11/9 13:00)での出口調査ではトランプ優勢。
マジかー。悪い冗談が現実になっちまうかも。

※追記
日本時間11/9 18:00現在、トランプ当選確実。あ~あ。

He Will Make America America Again.

  


2016年10月15日

NKT雷虎について

NKTおじさんの戦友で元雷虎隊員のダニエルおじさんから聞いた話をご紹介します。

ダニエル・フォーこと、フォー・ズン氏。米国で開催されたNKTベテランの集会にて。
ベトナム戦争時代、ズン氏はベトナム共和国軍の特殊作戦機関"NKT(技術局)"内のコマンド部隊"雷虎(Lôi Hổ)"に所属していました。


ズン氏が1960年代末に所属していたNKT連絡部"雷虎" CCNの偵察チーム(RT)ダコタ。1968年9月18日
上段右から2番目がズン氏。バンダナを巻いた2名の白人がチームを指揮するアメリカ軍SOG-35 CCNの隊員。

NKTと雷虎の歴史についてはこちらも参照


タイガ:
雷虎の隊員はLLĐBからNKTに編入されたのですか?また他の部隊から移ってきた人も居ましたか?

フォー・ズン:
雷虎がSOGの指揮下にあった1966年から1970年頃にかけては、LLĐB出身もいるし、空挺師団出身も確か居たよ。
その後、1970年末にLLĐBが解散すると、プロジェクト・デルタのチームがNKTに編入されたんだ。
(その為NKT内に連絡部に加えて作戦部"黒龍"が編成されNKTは規模を拡大した)
またSCU(Special Commando Unit)として知られるSOG指揮下のヌン族、モンタニヤード、クメール族、ベトナム人で構成された民族別チームも、1970年から1971年にかけてベトナミゼーションの一環として雷虎に再統合されたよ。
ただし全てのSCUが雷虎に移った訳ではなく、一部は故郷に帰って陸軍一般部隊に加わったようだ。
共にSOGチームとして戦ってきた勇敢な男たち(SCU)が加わったことで、雷虎チームはより精強になったよ。
しかしSOGから特殊作戦の全権を引き継いだNKTは、これまで以上に危険な任務に挑む事になったんだ。

この写真を見てくれ。左の男は雷虎に編入されたSCU隊員で、ユニフォームに雷虎の部隊章とAIRBORNEタブを着けている。
多分彼はCCCかCCS所属のジャライ族とかのモンタニヤードか、クメール族だ。
第3軍団のQuảng LợiかLộc Ninhでの写真だったと思う。

タイガ:
SOGは日本のミリタリーファンの間でも有名ですが、残念ながら実際にチームを構成していた雷虎やSCU、そしてNKTの存在についてはまだまだ知られていません。
ちなみに、あなたの写真(上のRTダコタの写真)を私のブログに載せていいですか?

フォー・ズン
私のチームの写真は、すでに誰かに右側の文字の部分を切り取られてインターネットで転載されているようだね。
フェイスブックでこの写真をプロフィール画像にしているベトナム人の若者を見るよ。ハハハ
でも私は気にしていないよ。些細な事さ。
しかし、(インターネットで)この写真がSEALとして紹介されているのを見付けた時は困ったよ。
似たようなものに見えるかもしれないけど、違うんだよ。
SEALは顔を緑に塗るし、ライフジャケットと1・2日間の作戦用のデイパックしか身に付けない。
SOGは顔を黒に塗り、ロープを携帯し、5日間の作戦用にバックパックを背負うんだよ。

私たちを指導したMACV-SOG(SOG-35)の隊員たちは軍服の左胸ポケットに雷虎の部隊章を付けていたよ。
奥のNKT連絡部所属者はSOGとの調整役だった。

その後、1970年から1973年にかけてベトナミゼーションが進行し、SOGがベトナムから撤退する過程で、雷虎CCNは第1強襲戦闘団(Chiến Đoàn 1 Xung Kích)へと改編された。CCC、CCSも同様に第2、第3強襲戦闘団として再編されたよ。
同時に、SOG-35もSMAG (Special Mission Advisory Group)へと改称され、引き続きNKT連絡部と共に作戦の指揮を執っていたよ。

タイガ:
"雷虎"は、連絡部本部勤務者も含むのですか?それとも前線のコマンド部隊のみを指すのですか?

フォー・ズン
雷虎の公式な組織名が連絡部(Sở Liên Lạc)だよ。しかし敬意をこめて、いまだに雷虎の名で呼ばれているのさ。
ちなみにこれはNKT訓練センターのSOGアドバイザーチームが写っている写真だよ。

タイガ:
この服のレプリカ持ってますわ。

フォー・ズン
私はこれと似た服を着ていたけど、袖と脚にコンパスやタバコを入れる小さいポケットが付いていたよ。
CISOや沖縄メイドと呼ばれるやつさ。

タイガ:
これですか?

フォー・ズン:
そう!まさにその服を着ていた。
また、作戦時は時々、スプレーで迷彩を描く代わりに、この服を黒く染めたものを着ていたよ

▲作戦中のズン氏(右)

▲同じくズン氏。1970年以前、クアンチ省DMZ/ニッケル・スチールOA付近にて
黒染めのCISOファティーグを着て、顔をまっ黒に塗っている。

日本・沖縄のCISOから送られてくるMACV-SOG向けの装備は、まず最初にダナンのCCNに届くんだよ。
だからCCNは他のC&C部隊の装備を真似する必要はなかった。
我々CCNはC&C兄弟のお兄さんだったんだ。へへへ

これはダナン市ノンヌックにあったCCN FOB4の偵察チームの写真だけど、この中共式AKマガジンポーチをよく見てくれ。一つのポケットにマガジンが2本入るよう厚くなっていて、スナップボタンで留めれるようになっているんだよ。
あと、チームリーダーだけは新品のXM177を持ってるけど、あとのメンバーはみんな収縮式バットストックをM16の固定式に変えてある。
これらの装備は全部日本・沖縄のCISOから送られてきた物さ。

当時、一部の人はCCNの"North"を"North Vietnam"の事だと思い、我々が北ベトナム領内に駐屯していると勘違いしたんだ。
実際は南ベトナムの北部、DMZの南側およびラオス中部国境の辺りだよ。"ニッケル・スチール・オペレーション・エリア (Nickel steel OA)"ってやつさ。
なので我々CCNのチームは1971年に開始されたラオス侵攻作戦"ラムソン719"に先駆けて、1970年12月から1971年1月までラオス領内に先行して潜入していたよ。
CCCはベトナム、ラオス、カンボジア三角国境あたりだね。

これは君の写真だね?


タイガ:
はい、そうです。本物の雷虎隊員に見られるのは恥ずかしいですが。へへ

フォー・ズン:
私があの部隊を愛しているように、君もあの部隊を愛してるという事さ。
恥ずかしがる事はないよ。

私が知っている範囲で君に言える事は以上だよ。はっきりとした答えを探すには時間と手間がかかるよ。
その人が経験した活動や条件によって見解は異なるからね。ハハ
何が言いたいかというと、私は一介の兵士に過ぎないという事さ。私はただ訓練された事をやっていただけだよ。
ただ一つ言えるのは、私たちの活動は、君たちの活動(リエナクト)よりもずっと陰惨だったという事さ。
タイガ:
ありがとうございます。大変勉強になりました。


【あとがき】
以前ちょっと書きましたが、このダニエルおじさんの妹さんが東京都内でベトナム料理レストランを経営しているので、以前食べに行ってご挨拶させていただきました。
その妹さんが先日、誕生日を迎えたので、彼女のフェイスブックには日本で知り合った友人やお客さんたち(主に中年の主婦)から沢山のおめでとうコメントが寄せられていましたが、その中に混じってダニエルおじさんやNKTおじさん等NKTベテランたちのコメントが並んでいました。
日本の主婦と、20世紀を代表する特殊部隊の兵士たちが同じ場所で話している光景はなかなかシュールで、つい笑ってしまいました。
しかし少し見方を変えると、彼ら特殊部隊員もまた家族を思いやるごく普通の人間であり、戦争さえなければ人を殺すという経験をする事も、故郷を捨ててアメリカに亡命する事もなかったはずです。
私はマニアとして彼ら軍人に対しカッコいいという憧れを抱いてしまいますが、同時に人間としては、人生から取り返しのつかない大きなものを失ってしまった人たちなのだと、時々思い起こされます。
  


2016年09月14日

ベトナム戦争と戦車

関連記事『装甲騎兵』

戦車はベトナムに不向き?

 一部のマニアの間では昔から「ベトナムは水田とジャングルばかりで戦車は役に立たなかった」という説が囁かれているそうですが、必ずしもそんな事はありませんでした。地域にもよりますが実際にはベトナムはハリウッド映画で描かれるほど水田やジャングルだらけではなく、むしろ地平線を見渡せるほどの広大な原野が各地にみられました。

▲ビンロン省アンロク, 1972年

 またベトナム戦争当時、アメリカ陸軍はベトナムにおける機甲部隊の運用について調査を行い、以下の見解を示していました。
・南ベトナムの国土の65%で現代的な戦闘車輌群が使用可能
・雨季においても、戦車(※)は南ベトナムの国土の46%を走破可能。水陸両用機能を付加されている装甲兵員輸送車(APC)はそれ以上 ※アメリカ陸軍の調査なのでM48戦車での数値
・起伏にとんだ地形やジャングルは現代的な機甲部隊の戦術展開に何の支障にもならない
【引用】 要塞戦記: ヴェトナム戦争アメリカ軍ファイヤーベース PART.1, 秋田郁夫, wardroom, 2011年

 中東やヨーロッパの平原に比べれば少ないかもしれませんが、それでも国土の65%、雨季でも46%という数字は決して小さくはないでしょう。当時のベトナム共和国の面積が173,809km²なので、その65%は107,761km²、日本の本州の約半分に相当します。また46%でも79,952km²で、北海道より少し狭い程度です。これだけ広大な地域で戦車部隊が運用できたのですから、ベトナムの地形が特別機甲部隊に不向きだったとは言えません。
 そもそも機甲部隊の装軌車輌(キャタピラ車)は、通常の装輪車輌(タイヤ)では通行困難な悪路を、装輪式よりも大きな重量で走破できる事が強みです。だからこそ、世界中の戦闘車両や建設重機が装軌式を取り入れている訳です。
 装軌式が装輪式よりも走破性が良いのはひとえに接地圧の低さの賜物です。どんなに重量があっても、広い面積で地面と接していれば圧力は分散され、ぬかるみに嵌りにくくなります。雪の上を歩くかんじきやスキー板と同じ原理です。逆に軽い物でも、地面と接する面積が小さければ荷重が一点に集中するため地面へのめり込みは大きくなります。この接地圧は"psi (重量ポンド毎平方インチ)"という単位で表され、以下の数値が目安とされています。

M113A1装甲車 7.8 psi
成人男性 8 psi
M41A3軽戦車 10.2 psi 
T-54/55戦車 11.5 psi
M48A3戦車 11.8 psi
馬 25 psi
乗用車 30 psi
象 35 psi
ハイヒールを履いた女性 471 psi

 ハイヒールの先っちょは重量約52tのM48戦車の40倍も接地圧が大きいというのは驚きですね。(あくまで地面へのめり込みやすさを示す数値であって、実際にハイヒールに戦車40台分=2080tの荷重がかかる訳ではない)
 つまり、重量約12tのM113装甲車の雪やぬかるみに対する沈みにくさは、人間の足とほぼ同じなのです。また重量52tのM48戦車ですら、乗用車の約1/3程度の接地圧という事になります。そのため、自動車が通れないような水田や湿地帯でも装軌車輌ならば平然と進むことができます。また樹木などの障害物も、その低い接地圧と強力なエンジンの力でブルドーザーのようになぎ倒しながら進める、究極のオフロード性能を備えています。
 また、戦車・装甲車輌の運用というと必ず車重の問題が語られます。確かに、十数tを超えるような装甲車輌では、その重量に耐えられる橋が無いなどの問題が発生します。しかし、(敵に橋を破壊される場合もあるので)現代の戦闘車両は多少の川なら橋を使わなくてもそのまま渡河できるよう設計されていますし、それが無理な場合でも機甲部隊には必ず架橋車輌が装備されている為、橋を通行できるかどうかが運用上の決定的な問題になる訳ではなかったという事が当時の戦車の配備状況からも見て取れます。


機甲部隊の主役M113APC

 アメリカ陸軍は新型APC(装甲兵員輸送車)M113の実地テストをベトナムで行うため、1962年初頭よりベトナム陸軍第7歩兵師団、第21歩兵師団の自動車化中隊にそれぞれ15のM113を配備し、メコンデルタ地帯での機動性・渡河性の実証試験が行われていました。1963年1月には、ディントゥン省で発生した"アプバクの戦い(Trận đánh Ấp Bắc)"において、第7歩兵師団第7自動車化中隊が戦闘に参加し、M113が初めて実戦に投入されます。

 戦闘の結果は、政府軍側がゲリラに対し想定を上回る損害を被るという事実上の敗北でしたが、M113の湿地帯での有効性は認められ、以後ベトナム陸軍装甲騎兵部隊は終戦までに1,600輌を超えるM113シリーズを配備していきます。またベトナム派遣アメリカ軍および自由世界軍も同様にM113を多数装備し、M113はベトナム戦争を代表する装甲車両として記憶されます。


届かない戦車

 かつてアメリカ軍は朝鮮戦争において、朝鮮半島の山がちな地形を「戦車に不向き」と判断し、戦車の配備を控えたが為に北朝鮮・中国軍のT-34戦車によって大損害を受けた経験があるため、ベトナム戦争の頃には戦車という兵器が『陸の王者』であるということをはっきり認識していました。しかしその一方で、1965年にアメリカ軍の大規模派遣が開始された当初、ベトナムには地形とは別の面で機甲部隊、特に戦車の展開を妨げる要素がありました。それは港湾施設のインフラ不足です。
 そもそも南ベトナムの港湾施設はアメリカ軍の受け入れを想定したものではなかったため、大量の軍事物資を陸揚げできるキャパシティを持ち合わせていませんでした。当時ベトナム最大の港であったサイゴン港ですら、沖合には陸揚げの順番待ちをする米軍輸送船が渋滞している状態で、カリフォルニア州サンディエゴ軍港からの10,000マイルの航海よりも、サイゴン沖で入港の順番待ちをしている日数の方が多いといった有様でした。その為、先に上陸したアメリカ軍部隊への補給、基地建設の資材、そして最も重量級である戦車の陸揚げは遅れに遅れていました。

▲サイゴン港で物資を陸揚げするアメリカ軍 [1966年7月サイゴン]
この当時はまだサイゴン港に大型のガントリークレーンが整備されておらず、50t級のM48戦車の陸揚げは容易ではなかった。

 しかしその間も、地上部隊は機甲部隊抜きで作戦を実施しなければならなかったため、新たに考案されたのがヘリコプターの大量投入による空中機動戦術でした。こうして港湾インフラの不足は結果的に、ベトナム戦争にヘリコプターが活躍する新しい戦場の姿をもたらし、現在に至るまでそのイメージが定着しています。ベトナム戦争における戦車の活躍があまり記憶されていないのは、こういった派遣初期の戦車不足と、ヘリコプター戦術のインパクトのせいなのかも知れません。
 しかし、いくらヘリコプターの有効性が認められたとしても、常に歩兵部隊に随行し、攻撃・防御の要となる機甲部隊の必要性は何も変わっていませんでした。また、派遣兵力の増強と共に装備・兵站物資の需要も高まる一方であったため、各地に小規模補給港を新設すると同時にカムラン港湾の大規模整備が急ピッチで進められます。そして米軍の本格介入から2年経った1967年、ようやく港湾インフラがある程度整ったことで機甲部隊の配置が加速していきます。


アメリカ陸軍第1歩兵師団のM48A3戦車 [1966年サイゴン郊外北部]


▲オーストラリア陸軍のセンチュリオン戦車 [1970-1971年頃 ベトナム]

※米・豪軍は僕の専門分野ではないので、今回は割愛します。


M41軽戦車の活躍

 アメリカ軍が装備するM48戦車はその重量から思うように港への陸揚げが進まなかった一方で、アメリカがベトナム陸軍に供与していたM41A3ウォーカーブルドッグ軽戦車はM48の半部程度の重量しかなかった事からM113同様重量による制約が比較的少なく、配備は順調に進んでいきました。1965年初頭からベトナム陸軍の各騎兵大隊に装備が開始されたM41は、最終的に214輌が配備され、M113と共にベトナム戦争における機甲戦術の中核を担うことになります。


▲北ベトナム軍のイースター攻勢に対抗しフエ市街に進撃するベトナム陸軍騎兵大隊 [1972年5月トゥアティエン省フエ]

 M41は軽戦車であるため装甲は貧弱であり、共産軍歩兵が装備する対戦車擲弾発射器RPG-2の強力なHEAT弾頭を防ぎきることはできませんでした。しかしRPG-2の射程は100mほどと短く、また命中精度も決して高くないため、待ち伏せが予想される視界不良地の通行を避け、同時に随伴歩兵と連携する事で、RPG-2による被害を最小限に抑える事は可能でした。
 またM41は敵のT-54/55戦車を撃破するのに十分な威力の76.2mm戦車砲を搭載していました。実際に1971年のラムソン719作戦以降、1975年のサイゴン防衛線まで幾度もT-54/55との戦車戦が行われましたが、その度にM41は友軍部隊との連携も相まって圧倒的なキルレシオで敵戦車を撃破しています。


北ベトナム軍機甲部隊の南侵

 1970年代に入ると北ベトナム軍の戦術は完全に機甲部隊が主体となり、上で述べたようにベトナムでは大規模な戦車戦・対戦車戦闘が幾度も繰り広げられました。これは、北ベトナム軍にとっても、南ベトナムの地形が戦車を運用するうえで大きな障害にはならなかった事を意味してます。
 またさらに、北ベトナム軍機甲部隊は南ベトナム領内に侵入するためにラオス・カンボジア領内のホーチミントレイルを通行して来た訳ですが、それはつまり、戦車がトリプルキャノピーと呼ばれる密林や、第2次大戦で使用された全爆弾量を遥かに上回る規模の絨毯爆撃にあった地域を数百kmも進軍できた証です。
 このように、戦車・装甲戦闘車輌が持つ高い不整地走破性は、むしろベトナムのような地形でその真価を発揮するものでした。

▲押し寄せる北ベトナム軍戦車にM72ロケットランチャーで対抗するベトナム陸軍レンジャー部隊 [1972年ビンロン省アンロク]



おまけ

▲無線遠隔操縦仕様M41軽戦車 [2014年アホカリ]

  


2016年08月20日

ジャラジャラ系

少し前ですが、何年も前から欲しかったM1ガランドの無可動をゲットしました。う~ん!カッコいい!

 無可動と言っても、実銃ベースではありません。マルシンのガスガンがベースの無可動エアソフトガン。つまり、ただの壊れたオモチャです(笑)
 僕は戦争ごっこの時もほとんど発砲しないので、弾が出る出ないは気になりません。ただ安価で外観がリアルな模造品があれば十分なので、デニックス製のモデルガンでも買おうかなと考えていた矢先にこの格安ジャンク品と出会えたので迷わず購入。良い買い物ができました。

 しかしライフルが手に入ったとなると、今度は銃に付随するアイテムも必要になってきます。特にベトナム戦争時代のM1というと欲しくなるのが、あの特徴的なアーモ&クリップ。それも出来るだけ沢山。
 M1ライフルを使った国は数多くありますが、弾薬クリップをサスペンダーやベルトに挟んでジャラジャラ下げている事が多いのはベトナム共和国軍ならではだと思います。(もしかしたら僕が知らないだけで他の国でもやってるかもしれないけど)

▲赤十字社による学童への牛乳配給を警備するベトナム共和国軍の国民行動隊員[1967年ベトナム]
※国民行動隊=民事心理戦(国内を対象とした宣伝・政治工作)を行う特殊作戦部隊。たぶん政治戦総局(TCCTCT)の下部組織。
余談ですが、そもそも特殊作戦とは通常の戦闘行動以外の作戦を指すので、銃を持って戦う戦闘部隊よりも、こういった市民への生活支援を行う部隊の方がよっぽど『特殊部隊』と呼ぶにふさわしいと考えます。実際、ベトナム時代の米軍特殊部隊の活動も、人道支援を通じた民事心理戦抜きには語れません。


 本題。これは単に弾薬を多く携帯したいという理由と共に、アメリカ政府による軍事援助として1960年代初頭からM1ライフルと共に供与されていたM1923カートリッジベルトの在庫が60年代後半に枯渇し、銃は現役で使われているのに専用の弾帯が手に入らなくなってしまった事が原因ではないかと推測しています。
 もちろんカートリッジベルトが枯渇した後もアムニションバンダリアで携帯している例はありますが、それよりもクリップを裸で吊るす方式の方がはるかに人気だったようです。(なんか見た目がカッコいいからという理由だった気がしますが)

 という訳で、せっかくM1が手に入ったからには弾薬ジャラジャラを真似しない訳にはいかないので、さっそく.30-06のダミーカートリッジを2クリップ分(16発)買いました。だけど、2個ではジャラジャラには程遠い。最低でももう2個くらい欲しい。でもダミーカートリッジって結構高い。お財布に厳しいよ・・・。
 と思っていたところ、ちょうどタイミングよく米軍のM2ボールと同じ150grのFMJ弾頭がお安く手に入ったので、元々家にあった.30-06の使用済みケースにこれを装着してダミーカートリッジを自作する事にしました。



 手持ちのケースは僕が小学生の時に叔父さんからもらった物なので、だいぶブラスの色がくすんでいました。なのでまず、弾頭を装着する前にケースを紙やすりで磨きます。マスキングテープで電動ドライバーに装着しひたすら回転。
 本当は紙やすりの後に布とピカールでポリッシュするところまでやればピカピカになるんだけど、ピカールが手元に無かったし、数が多いので途中で面倒くさくなってしまい、とりあえず黒ずみを落とす程度までしかやっていません。



 そしていよいよ弾頭装着作業に突入。しかし、ケースに弾頭を取り付けるには弾頭を既定の位置に挿した状態でケースごとかしめる必要があるのですが、うちにハンドロード用の工具など無いので、弾頭をどう取り付けるかがボトルネックでした。薬莢だけに。
 初めは頑張って木型を作ろうとか考えていたのですが、ある日こんな考えが頭に浮かびました。「こんなのグルーで接着しちゃえば良くね!?」
 フッ・・・。水は低きに流れるもの。私もまた、楽な道を選択します。そもそも実包をリローディングしている訳ではないので、弾頭なんてただ付いてさえいればいいんだもん。という訳で、弾頭はダイソーで買ったグルーガンで接着する事にしました。
 ただしこの場合、弾頭がケースの奥に行き過ぎないよう気をつけなけばなりません。とは言え内部を全てグルーで満たすのは時間かかるので、手っ取り早く5cmに切ったグルーのスティックを詰め物にして、その上に溶かしたグルーを流し込みます。そしてその上に弾頭を手作業で押し込みます。発砲済みのケースなので弾頭をかしめる部分は若干広がっているものの、そこまでスカスカではないので、多分これでポロッと弾頭が抜け落ちる事は無いはず。
 

 そして完成したのがこちら。奥の二つが自家製。手前の二つが業者が丁寧に製作した使用済みケース再使用ダミーカートリッジ。磨きをサボった分ブラスの輝きは遠く及ばないけど、まぁイベントの時に個人装備にぶら下げておく分には目立たないでしょう。

 実はもう一つインチキやってます。8発入りのクリップに詰める.30-06のケースが2個足りなかったので、外径がほとんど同じ.45ACPのケースを突っ込んで誤魔化しちゃってます。どうせサスペンダーとかに挿せば後ろ側なんて見えないし。
 こうして数々のインチキもとい創意工夫によって、ジャラジャラ系に一歩近付くことが出来たのでした。イェイ!
  


2016年07月20日

CIDG部隊指揮官ハ・キ・ラム大尉の経歴

前記事『CIDG計画の組織』の補足です。

 元ベトナム共和国陸軍大尉ハ・キ・ラム(Hà Kỳ Lam)氏のブログに、自身の経歴と当時の写真が掲載されていたので、その一部をご紹介します。ラム氏の軍歴は、1960年代~70年代にかけてCIDG(越語DSCĐ)部隊を指揮したLLĐB将校の典型であり、当時のLLĐBとCIDGの関係を示す良い例だと思います。

【本文・画像引用】
ハ・キ・ラム氏ブログ http://hakylam.com/?page_id=46

1960年 クアンナム省ホイアンで短期間教員を務める

▲教員時代のラム氏(1960年)

トゥドゥック予備士官学校13期卒業、陸軍少尉に任官
1963年 第22歩兵師団(コントゥン省ダクロタ)第40歩兵連隊第2大隊内の小隊長に着任
その後特殊部隊(LLĐB)へ異動。LLĐB将校として1964年から1970年まで国境LLĐBキャンプ(Căn cứ Biên phòng Lực Lượng Đặc Biệt)CIDGキャンプ・ストライク・フォースを指揮する。
※()内はキャンプ付き=CIDG計画担当グリーンベレー分遣隊

1964年 クアンナム省カムドク国境LLĐBキャンプ中隊長 (USSF A-105) 
1965年 クアンチ省ケサン国境LLĐBキャンプ中隊長(MACV-SOG FOB3)
1966年 トゥアティエン省アシャウ国境LLĐBキャンプ副指揮官
1966年 コントゥン省ダクサン国境LLĐBキャンプ指揮官(USSF A-245)
1967-1968年 プレイク省プレイメ国境LLĐBキャンプ指揮官(USSF A-255)
1968年 コントゥン省バンヘット国境LLĐBキャンプ指揮官
1968-1969年 コントゥン省ポレイクレン国境LLĐBキャンプ指揮官(USSF A-241)

LLĐB転科後(1964年)

ケサン国境LLĐBキャンプにて(1965年)

▲1968年当時のラム大尉

後に妻となるグエン・ティ・ニョンとサイゴンにて(1969年1月)

▲グリーンベレーマガジンに紹介されるラム大尉(1969年)
※この画像はグリーンベレーマガジンからの引用として英国の新聞に掲載されたものだが、キャプションに誤って1968年と記載されている

▲ポレイクレン国境LLĐBキャンプにて(1969年)

1970年、米軍グリーンベレーのベトナム撤退に伴いCIDG計画は終了し、国境LLĐBキャンプCIDG部隊はレンジャー科(BĐQ)に移管され、国境レンジャー(BÐQ Biên Phòng)へと改称される。
ラム大尉はBĐQに転科し、プレイク省の第81国境レンジャー大隊(旧・ドゥッコ国境LLĐBキャンプ)大隊長として引き続きCIDG部隊を指揮する。

▲作戦行動中のラム大尉(1970年11月)

▲大隊長として第81国境レンジャー大隊を閲兵するラム大尉(1971年)

1971-1974年 第3軍管区BĐQ司令部勤務
1974-1975年 アメリカ陸軍歩兵学校にて研修。IOAC-7/74(歩兵将校上級課程1974年7期)修了
1975年4月上旬 ベトナムに帰国

▲米国ジョージア州フォート・ベニング陸軍歩兵学校にて(1974年12月)

終戦後、共産政権に逮捕され収容所に6年間投獄される
1975-1976年 ビエンホア収容所(1年)
1976-1979年 ハノイ北西部ソンラ収容所(3年)
1979-1980年 ニェティン省タンキ収容所(2年)
1981年1月 釈放
1981年5月 家族を連れて47名の難民と共にボートでベトナムから脱出
3日後、公海上でフランスの貨物船に救助されシンガポールへ入港
1981年10月 UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の第三国定住プログラムによってアメリカに定住

 
現在米国ニュージャージー州で暮らすラム氏(2012年)



<参考動画>
ドン・バ・シンLLĐB訓練センターにおけるCIDG隊員への教練 (1970年6月)





  


2016年06月10日

続・マルシンM16A1

うちのマルシンM16A1さん。
これから塗装するぞ!ボルトをリアルにするぞー!とか意気込んでた矢先、
バレルが真っ二つになりました。ボキッ!

正確には、バレルのつなぎ目に溶接されていたネジ部がバレルから取れちゃいました。ショエー!
さて困った。まずこれをどうにかしないと、リアルさ云々どころではない。

とは言え、僕は当初、元から付いていた物を戻すだけだから、それほど難しい作業ではないだろうと高をくくっていました。
しかし、いざ修理計画を考えてみると、実はいくつもの障害があって、そう簡単なものではありませんでした。
それから2か月間、いくつもの方法を考え続けているのにも関わらず、未だに解決策が見つかりません。なんてこった。
以下、これまでに検討した案です。


1: メーカー純正バレルを取り寄せる

実はこのモデルガン、実物ハンドガードを装着するために、前オーナーによってバレルの長さを短くする(=バレルを切ってネジ部を付け直す)という大仕事が施しております。つまり僕も実物ハンドガードを付けるためには同じ改造をせねばならず、全然解決策になりません!


2: ネジ部を元に戻して固定系

2-1: 元と同じくろう付け
バレルとの隙間にうまくロウが入るか疑問。そもそもロウ付けが強度不足だっから今回取れたんだし。

2-2: 瞬間接着剤
同じく隙間を埋める事のが困難なのと強度が不安

2-3: バレルとオーバーラップする部分に横方向にピンorイモネジ貫通させてバレルと固定
オーバーラップする部分が短すぎて強度不足

2-4: 現ネジ部の中央(穴が開いている)に新たなボルト等を通し、それ横方向にピンorイモネジ貫通させてバレルと固定(つまり現ネジは直接固定されず、新たなボルトを介して前後から固定される) 
そんな事できるのか!?


3: ネジ部を別部品にする系

3-1: レシーバー側はM14ネジなので、バレル側にもタップでネジ切って、M14のイモネジをジョイントにする
バレルの外径はΦ17しかなく、M14のネジ切るのは強度に不安が残る

3-2: レシーバー側はM14ネジ、バレル側はネジ切らずバレルの内径に合わせ棒状になってるジョイントをワンオフで作ってもらう。それを横方向からイモネジでバレルと固定
そんなのワンオフするくらいだったら、バレルごと作るわ!


4: バレルを別部品にする系

4-1:金属棒の両端にネジを切ってバレル代わりにする
レシーバー側はM14だけどフロントサイト側はM12ネジなので、ダイスを二種類買わなくちゃいけなくなる
そのままではダサいので、ボルトの周りを何かで覆って太くする必要あり

4-2: M14の全ネジボルトをバレル代わりにして、フロントサイト側だけM12ネジを切る
M14全ネジボルトのピッチは2mmばかりで、そもそも合わない。

4-3: G&P製電動ガン用バレルを無理やり取り付ける
見た目はリアルになるけど、バレル、レシーバー共に大幅な加工が必要。さらに、ハンドガードが付くかどうかわからない。

4-4: もういっそレシーバー側も短く切断したうえでネジ切って、それに合わせたバレルを業者にワンオフで作ってもらう
これが一番確実で見た目もリアルにできるけど、かなりの金額になりそう


う~ん、今のところ一番現実的なのは3-1の『M14イモネジ・ジョイント案』かなぁ。
一応バレルはスチール製だからそれなりに強度あるし、工具もタップ一本で済むし。
とりあえずこの方法でやってみて、ダメだったら他の案を試したいと思います。
(中古で)買ってソッコー破損したボルトストップと言いハンマーと言い、この子なかなか一筋縄ではいきませんねぇ。



おまけ: Youtubeに上がってる米軍M16系ライフルの教育フィルム(Training Film)

TF9-3663 RIFLE, 5.56MM XM16E1 OPERATION AND CYCLE OF FUNCTIONING (US Army, 1966)


TF6069a  M-16 RIFLE Annual Training (US Air Force, 1967)


TF21-3908  RIFLE, M16A1 PART II Field Expedients (US Army, 1968)



僕はベトナム戦争イベントではベトナム共和国軍役しかやる気ないけど、あの時代の米軍に興味が無い訳ではないので、いつか米国本土を想定した撮影会はやってみたいなぁ。
なおベトナム帰りの元グリーンベレーや、フランス語を話すマタギも参加OKです。

  


Posted by タイガ at 14:41Comments(0)【アメリカ】銃器