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2018年06月21日

撮影会の準備

その1 ベトナム陸軍第7歩兵師団(1963年初頭)


自家製第7歩兵師団プリントパッチ取り付け

クラッシファイドさんのリプロはこれまでで最高の再現度なのですが、ただ一点、ボタンの表面はもうちょっと艶があった方が良いと思ったので、一旦ボタンをすべて外してピカールで磨きました。

左が研磨前、右が研磨後。あまり艶を出し過ぎても変になるので、難しい所です。

今回はM1グレネードアダプターを初投入。左側の2本がMk2手榴弾用のM1アダプター、右がM26用のM1A1アダプター。できれば種類を揃えたかったけど、M1A1は1本しか手に入りませんでした。
グレネード本体は僕が高校生の頃に買ったサンプロ製BBボトルに実物セーフティピン/プルリングを付けた物。ベトナム軍で使われた米国製手榴弾には、米軍のような黄色のマーキングが入っていない物も多く見受けられるので、レバーをOD色に塗っただけで、あえてマーキングは施していません。

このスタイルが目標。でも銃側に付けるM7グレネードランチャーはまだ入手できていません。



その2 クメール陸軍第23旅団第294大隊(1970年代前半)

『はじめてのFANK』で作った自家製第294大隊パッチを、知人から買った怪しげなTCU風ジャケットに縫い付け。

後身頃が二枚になっています。なんじゃこりゃ?

メーカータグが付いていたので検索してみたら、FAME (Fabricaciones Militares Ecuatorianas)とはエクアドル軍需産業という意味でした。てことはエクアドル軍の服なのかな。
第294大隊は『ドクロのヘルメット鉢巻き』という個性的なビジュアルのみで選んだイロモノな設定なので、手元にあったこのエクアドルTCUをとりあえず代用品として使ってしまいます。
この次はちゃんとクメール陸軍で一般的だった隠しボタン2ポケ戦闘服を再現して、もっと普通のビジュアルの部隊をやりたいと思います。
  


2018年06月08日

ベトナム空軍神風部隊~トートン~浮世絵

 ベトナム空軍では、他の西側諸国と同様に、航空機の機首にノーズアートが描かれている例がいくつかありましたが、中でも特によく知られているのが、グエン・カオ・キ中将(後の副総統)の直接指揮下にあった第83特殊作戦航空団『※神風部隊(Biệt Đoàn Thần Phong)』のものだと思います。この神風部隊では少なくとも以下の二種類の特徴的なノーズアートがA-1スカイレイダー攻撃機の機首右側面に描かれていました。



※日本の神風特攻隊とは関係ありません。
※なお、この神風部隊は特殊作戦を専門とする『空の特殊部隊』であったからか、本来国籍マークが入るはずの機体胴体側面には部隊のシンボルマークがペインいる点が他の部隊の機体ペイントとは大きく異なります。

 この二つの漢字のような梵字のようなよく分からない図形の正体については、僕自身長年把握できておらず、たぶんチュノム(ベトナム語表記にローマ字=クォックグーが採用される以前に使われていた漢字を基にした表語文字)の一種なのかな、くらいに考えていました。ところがある日、さるベトナム空軍研究家にこのノーズアートについて話を振ったところ、即座に正解を教えて頂く事が出来ました。
 なんでもこの図形はチュノムや特定の言語の文字ではなく、ベトナムの伝統的なカードゲーム『トートン(Tổ tôm)』に描かれた、漢字を基にした記号なのだそうです。
 トートンは中国発祥のカードゲーム(紙牌)である『ハンフー(看虎)』から派生したもので、麻雀やトランプのようにいくつかのスート(柄)と数字の組み合わせでデッキが構成されていました。
 スートと数字は文字(漢字)と漢数字を組み合わせた記号で表されており、スートの文字が漢字の部首の偏のように左側に、漢数字が旁(つくり)のように右側に配置され、その記号自体が一つの漢字のようにデザインされていました。(チュノムも同様に二つの漢字を組み合わせて一つの文字としていましたが、トートンに用いられたのはチュノムではなく、単なる記号です。)
 左側のスートは、現在のトートンでは専ら文(Văn)、索(Sách)、萬(Vạn)の3つが用いられていますが、過去には升(Xừng)や[※1]湯(Thang)といった文字も使われていたようです。このうち索と萬は、もっと後の時代に考案された麻雀(索子と萬子)に受け継がれていますね。 [※2]右側の数字は1~10まであり、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と漢数字で表記されています。(十は謎の異字体が使われていますが) 

[2018年6月13日訂正]
※1 Thang (湯)は現在でも使われていました。
※2 右側に入る数字は正しくは1~9であり、一、二、三、四、五、六、七、八、九と漢数字で表記されています。下のカード一覧の一番右側にある3枚はそれぞれのスートの十ではなく、それぞれÔng Cụ (萬の行)、Chi Chi (文の行)、Thang Thang (策の行)という役を作るのに使う特殊なカードであり、これに各スートの一(萬の一、策の一、文の一)を含めたカード6種のカードが『Yêu』と呼ばれ、麻雀で言うドラのような役割を持っているそうです。

▲現在出回っている一般的なトートンのカード

そしてこの中で、神風部隊にノーズアートとして描かれたのは、升の九(Cửu Xừng)』と索の九(Cửu Sách)になります。


※なおRobert C Mikesh著『Flying Dragons: The South Vietnamese Air Force』には、神風部隊では上記の二つに加えて『萬の九』、『文の九』もマーキングされていたと記述されているそうですが、当時の写真を探してもその実例を確認する事はできませんでした。

 実はこれらを調べる過程で、頭を悩ませたのが、Cửu Xừng』についてでした。先述したように、現在のトートンで用いられているスートは文・索・萬の三つであり、インターネットで調べても、このカードに関する情報はなかなか見つかりませんでした。しかもかなり文字を崩したデザインなので、元の漢字が何だったかも全く分かりませんでした。
 さらに僕を混乱させたのが、この漢字のクォックグー表記は『Sừng』だというベトナム人からの情報でした。結果から言うと、これは間違いであり、ほぼ同じ発音をする『Xừng』の書き間違いでした。僕はさっそくSừngの漢字・チュノム表記を調べましたが、その表記は漢字では『角』、チュノムでは『䈊』、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162049参照)』、、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162050参照)』であり、カードに描かれた文字とは似ても似つきません。
 その後、別の人から『Xừng』と書かれている資料をもらい、その表記を調べると、漢字にはXừngに対応する文字はありませんでしたが、チュノムにはありました。それが『表示不可(hyouhttps://jigen.net/kanji/133567参照)』です。これも一見、カードに描かれた文字とはだいぶ違うように見えますが、上で述べたようにチュノムは、中国の漢字では表す事の出来ないベトナム語の発音を表記するために、別々の漢字を組み合わせて一つの文字としているので、このチュノムの構成要素は、『称』と『升』という二つの漢字になります。(出典: Chu Nom.org https://www.chunom.org/pages/209BF/#209BF)
 そして、この中の『升』が、かなり崩されてはいるものの、問題のカードの文字と一致しているように見えます。これでようやく点と点が繋がりました。なお、漢越辞書によると、『升』という漢字を単にクォックグー表記した場合は『Xừng』ではなく『Thăng』になるようですが、日本人なら知っているように、漢字というものはその時代や地域によって様々な読み方をされる物であり、この場合も升という漢字がXừngと読まれていたのではないかと推測しています。この推測に則り、この記事ではCửu Xừng』を『升の九』と書いています。(もし違っていたらごめんなさい)

 ところで、お気付きかも知れませんが、これらのトートンのカードに描かれている人間のイラストは、19世紀の日本人の姿だったりします。その由来はWikipediaによると、フランス植民地時代にマルセイユの玩具メーカー カモワン社(Camoin)が、自社がベトナム向けに生産していたトートンに、日本から輸入された木版画・浮世絵に描かれた日本の庶民の姿をプリントしたのが始まりだそうです。そしてそのカモワン社製トートンがベトナムで広く流通したことで、それらのイラストはトートンの絵柄として定着し、100年以上経った現在でも変わらずに使われ続けているそうです。
 では、なぜカモワン社はベトナム人向けのカードゲームに日本の木版画のイラストを採用したのかと言いますと、具体的には説明されていません。しかしおそらくは、当時フランスでは日本から輸入された木版画・浮世絵などの『エキゾチック』な芸術作品が人気を博し、ジャポニスム(Japonisme)』と呼ばれる流行が発生したため、デザイン業界でも浮世絵に描かれた『オリエント』なモチーフを取り入れられた事がその一因であろうと推察できます。また、当時ほとんどの西洋人はベトナムも日本も中国も一括りにアジア、オリエントと見做しており、それぞれの文化の違いなど気にしなかったため、両国の文化は混同され、ベトナム向けのカードゲームに浮世絵のイラストが採用されたのだろうと僕は思っています。

 余談ですが、『オリエンタリズム(Orientalisme)』という言葉に代表される、このような当時のフランス人(およびほとんどの西洋人)が持っていた『想像上の』アジアへの憧憬、そして偏見は、つい半世紀前まで続いていた欧米諸国によるアジアへの植民地支配、帝国主義と深く結びついた概念でもありました。
 ただし、異国の文化についての誤解は、なにも西洋人に限った話ではなく、日本人もヨーロッパ諸国それぞれの国の文化の違いを正しく理解している者は少ないでしょうし、もっと言えば日本の周りの国ですら、いまだにあまりよく分かっていません。過去には、自国中心の偏見に満ちたアジア観を基に周辺国への領土拡大と統治を行い、大変な反発と遺恨を生じさせた事実は日本人なら誰もが知っておくべき事柄です。また現在でも、例えば日本のテレビ番組ではしばしば海外で日本の文化がいかに誤解されているかを取り上げていますが、では日本にある外国料理は?日本人が話す外来語やカタカナ英語は本来の意味で使われているのか?と思い返してみれば、他人の事は言えないですよね。
 さらに言えば、マスメディアやインターネットでは、タイと台湾は当然のように(反日の対義語として)『親日国』として語られますが、では実際、所謂『反日国』や、それ以外の国々とどれほど違うかと言いますと、実はそんなに変わらないと僕は思っています。第二次大戦において日本と戦ったアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア・フランスはもちろん、日本軍の恫喝によって軍政下に置かれたタイや、長く中国国民党政権が続いた台湾でも、大戦中の日本軍を好意的に見ている人はほとんど居ないです。一方、戦後日本が育んだ食事や音楽などの文化、工業・医療製品については、世界の大半の国々、そして日本で反日』と呼ばれる中国や韓国でも大人気であり、特に中国の小金持ちはこぞって日本に観光に訪れ、帰国後日本に行ったと自慢する事が一種のステータスとなっている感すらあります。
 数年前、あるニュース番組で、中国で発行されている『知日』という情報誌が紹介されていました。その雑誌を編集している僕と同じ世代、1980年代生まれの中国人編集者たちはインタビューの中で、「私たちはこの雑誌で、読者に日本を好きになってもらおうとは思ってはいません。ただ、彼らを好くにせよ嫌うにせよ、まずは相手の本当の姿を知る事が、我々自身にとっても大切な事なのです」という趣旨の言葉を語っていました。その通りだと思います。日本に訪れる中国人観光客が皆こういった意識を持っているとは思っていませんが、少なくとも中国国内にはこういう理知的な人々が居り、彼らの雑誌が人気を博してる事実は、両国の未来にとって歓迎すべきことだと思います。
 なお、知日は日本でも買えるようですが、ちょっと良い値段しますし、どうせ中国語読めないのでまだ呼んだ事は無いです。もし日本語訳版を作ってくれたら、是非読んでみたいですね。

こちらで販売中

今日は我ながら、いろんな方向に話が飛んでいくブログでした。
  


2018年06月07日

ヒーノス歯磨き粉

 随分前の事ですが、DeMilitarized Zone氏のブログこちらの記事で、『ヒーノス(Hynos)』がまだ製造されている事を知り驚きました。ヒーノスとはベトナム国産の歯磨き粉ブランドで、ベトナム共和国時代の写真を見ていると、ヒーノストレードマークである白い歯を輝かせて笑う黒人おじさん看板をよく見かけます。


 そのヒーノスがまだ売っているなら僕としては是非とも欲しいし、日本のベトナム軍リエナクター仲間へのお土産にも良いだろうと思い、一昨年ベトナムに行った時にコンビニなどで探したのですが、残念ながらその時は見つける事はできませんでした。サイゴン在住の友人に訊いても、どこで売ってるかは分からないと言っていました。
 それからしばらくヒーノスの事は忘れていましたが、最近ふと思い出しFacebookで友人たちに「これどこで売ってるの?」と質問してみたら、いろいろ教えてもらう事が出来ました。
 まず彼らから得た情報としては、ヒーノスブランドは現在市販されておらず、ホテルのアメニティグッズとしてのみブランドが継続しているとの事でした。なるほど、どうりで街のコンビニでは見つからないはずだ。ただし、当然ベトナムの全てのホテルに備わっている訳ではないので、僕がサイゴンのホテルに泊まった時は残念ながら見かけませんでした。
 ありがたいことに、何人かは「このホテルに置いてあったよ」と、ヒーノスが置いてあったというホテルをいくつか教えてくれたので、どこのホテルに置いてあるかは分かったのですが、歯磨き粉をもらう為だけにわざわざその街に行く訳にはいかないですよね。おそらくサイゴンのホテルにも普通に置いてあるっぽいですが、部屋を予約する時に「ヒーノスの歯磨き粉置いてますか?」なんて聞くのは恥ずかしいなぁ(笑) 

 さらにインターネットを調べてみると、ヒーノスに関する詳細な情報が載っていました。

Báo điện tử Pháp Luật thành phố Hồ Chí Minh(ーチミン市司法局 ホーチミン市法律電子新聞)
Hynos - cứ ngỡ kem đánh răng ngoại

Người Lao Động (ホーチミン市労働者連盟電子新聞 労働者)
Thắp lại hào quang thương hiệu Việt: Từ P/S đến Hynos

 これによると、ヒーノスは元々1950年代にユダヤ系アメリカ人実業家が南ベトナムに工場を作り立ち上げたブランドでした。しかしその創業者は、国に残してきた妻が亡くなった事で傷心し、アメリカに帰国してしまいす。その後、ヒーノスの経営を受け継いだのが、創業者の下で働いていたベトナム人従業員のブン・ダオ・ギア(Vương Đạo Nghĩa)でした。商才に恵まれたギアは、その後10年間でヒーノスをベトナムを代表する有名ブランドに成長させます。
 当時、サイゴンを中心とするベトナム南部の都市部の消費者の指向は欧米的で、いかに広告を打つかがビジネスの鍵であったため、多くの企業が美男美女をイメージキャラクターとして広告に使用しました。しかしヒーノスはあえてありきたりな美男美女を避け、ストレートに歯磨き粉としての効能、歯を白く美しくするという点をアピールするために、あえて肌の色と白い歯のコントラストが印象的な黒人男性の顔をトレードマークに採用します。そして街の至る所に看板を設置し、ラジオCMでは子供向けの陽気なテーマソングを放送するなどして、大人から子供まで誰もが知っている有名ブランドの地位を確立していきました。以下はラジオ広告で放送されたヒーノスの歌です。
Chà chà chà, Hynos, chà chà chà.
Chà chà chà, hàm răng em trắng bóc.
Cha cha cha, cha cha cha.
Và ngàn nụ cười, nụ cười tươi như hoa.

チャチャチャ ヒーノス チャチャチャ
チャチャチャ みんなの歯を白くする
チャチャチャ チャチャチャ
だからみんながにっこり 花のようににっこり
(筆者による意訳)
 しかし1975年4月30日、ベトナム共産軍がサイゴンを占領しベトナム全土がベトナム共産党の支配下に堕ちると、共産主義に則り南ベトナムに存在したすべての企業が国有化され、政府の統制下に置かれます。ヒーノスも例外ではなく、1975年に国有化された後、かつてのライバル企業であるコルペルロン(Kolperlon)と合併し、歯磨き粉の生産はその子会社のフォンラン(Phong Lan)へと引き継がれました。
 さらに1980年には他の三社とも合併し、ホーチミン市産業局直轄の化学化粧品合弁会社(Xí nghiệp Liên hiệp Hóa Mỹ Phẩm)となりますが、ドイモイ政策開始後の1990年に同社は解体され、フォンラン歯磨き粉を含む傘下にあった企業はそれぞれホーチミン市産業局の下で独立した企業となります。
 翌1991年、フォンラン歯磨き粉はP/S化学会社(Công ty Hóa phẩm P/S)へと改称され、さらにその後、1997年には英・蘭の多国籍企業ユニリーバ(Unilever)がP/Sに出資し、以後P/Sはユニリーバ傘下の化学化粧品メーカーとして現在にいたります。
 現在でもP/Sはベトナムの歯磨き粉トップシェアを誇り、どこのコンビニやスーパーに行ってもP/Sの歯磨き粉が売られていますが、ヒーノスというブランド自体は既に多くのベトナム国民から忘れられており、ホテルのアメニティとして細々と存続しているだけのようです。(もしかしたら一部では市販されているかも知れませんが、少なくとも若い世代におけるヒーノスという商品名の認知度はかなり低いです)


おまけ:1970年代初頭のサイゴン市内のスーパーマーケット


この数年後、サイゴンは北ベトナム軍の侵攻を受けて陥落し、ベトナム共産党政権による南部の『解放』が開始されます。以後ベトナムはベトナム共産党の施政下で世界の最貧国の一つに転落し、ベトナム国民は歯磨き粉はおろか食料すら満足に得られず、数十万人の国民が難民として国外に脱出する事となります。その後ベトナムは自由市場を一部導入する事でなんとか経済を持ち直し、ベトナム共和国時代に存在したような近代的なスーパーマーケットもようやく復活しましたが、そこに至るまでには十数年の歳月と数えきれない国民の犠牲を要したのでした。
  


2018年06月02日

レンジャー大隊識別色

 前回、1971年以降にレンジャー部隊で使用された軍団色付きタブについて書きましたが、それ以前に使用されていた色付きタブについてもかなり踏み込んだ情報をベテラン兼研究者の方々から得られました。

(元レンジャー部隊付きアドバイザーの米陸軍大尉Dennis Kim氏の回答, 2018年5月16日)
1962年から1970年まで、レンジャー部隊は6個レンジャー群、計20個のレンジャー大隊で構成されており、それらは全国4つの戦略区に分かれて配置されていた。この時期、軍団を示すタブは用いられていなかったが、大隊を示す色付きタブが左肩に縫い付けられていた。タブには手書きで中隊番号が記入され、色によって各レンジャー群(LĐ BĐQ)内の大隊を以下のように示していた:
1st RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 21st Bn., Blue 37th Bn., Yellow 39th Bn. 
2nd RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 11th Bn., Blue 22nd Bn., Yellow 23rd Bn. 
3rd RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 31st Bn., Blue 36th Bn., Yellow 52nd Bn. 
4th RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 32nd Bn., Blue 41st Bn., Yellow 42nd Bn. Purple 43rd Bn., Maroon 44th Bn. 
5th RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 30th Bn., Blue 33rd Bn., Yellow 38th Bn. 
6th RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 34th Bn., Black 35th Bn., Yellow 51st Bn. 

これを要約すると、色分けは基本的には群本部(BCH/LĐ BĐQ)が緑、次いでそのレンジャー群内で番号の若い大隊(TĐ BĐQ)順に赤・青・黄であった事になります。
ただし第4レンジャー群は他の群よりも大隊の数が多かったため、通常の4色に加えて第43レンジャー大隊が紫、第44レンジャー大隊がマルーンとなっています。また理由は不明ですが、第6レンジャー群内の第35レンジャー大隊だけは青ではなく黒とされています。
またこの色分けは左肩上*またはレンジャー部隊章の上のタブだけでなく、右胸のネームテープでも同様だったようでうす。

※作戦服にエポレットがある場合はエポレットに通すスリーブ状のタブになりますが、エポレットが無い場合は単に四角形の布を直接縫い付ける方式でした。

これら大隊識別色タブ・ネームテープの使用状況は全部隊で統一されていたわけでく、当時の写真からはいくつかのパターンが見られるので、以下に使用例を示していきます。

ネームテープ
この写真は第4レンジャー群とされているので、赤いネームテープから第32レンジャー大隊だと分かります。

▲ネームテープ
上と同時期の第4レンジャー群の写真ですが、紫色のネームテープなのでこの写真は第43レンジャー大隊だと分かります。

▲レンジャー部隊章上のタブ
右手前の人物は赤色、中央は紫色のタブを縫い付けている。
紫色が用いられた大隊は一つだけなので、写真中央の人物は第4レンジャー群第43レンジャー大隊と特定できます。また右の人物は同じ第4レンジャー群の第32レンジャー大隊の可能性が高いと考えられます。
1971年以降の軍団タブと紛らわしいですが、大隊タブには軍団タブのように群や大隊番号は入りません。

レンジャー部隊章上のタブとネームテープ併用
この写真は1971年のラムソン719作戦中に撮影されたものであり、ラムソン719に投入されたレンジャー群は第1レンジャー群のみなので、この部隊は第1レンジャー群第37レンジャー大隊だと考えられます。

エポレットの無い服の左肩上タブとネームテープ併用
第1レンジャー群第21レンジャー大隊
エポレットがない為タブが肩の上側に直接縫い付けられています。

エポレットのある服の左肩上タブとネームテープ併用
エポレットがあるため、タブはスリーブ状になっています。
この写真は1971年のラムソン719作戦中に撮影されたものであり、ラムソン719に投入されたレンジャー群は第1レンジャー群のみなので、この部隊は第1レンジャー群第39レンジャー大隊だと考えられます。



ネッカチーフについて

なお、前線で使用されるネッカチーフは大隊ではなく、各大隊内の中隊を示していたそうです。しかしその色については単色以外にも二色や三色もあり、その色の組み合わせにはいくつものパターンがあるので、これらが全での大隊で統一されていた配色かは疑問であり、恐らくは各大隊が独自に決めていたものと思われます。

▲赤青二色のネッカチーフ(第4レンジャー群第42レンジャー大隊)
  


2018年05月26日

70年代のレンジャーと軍団タブについて

 以前『部隊識別色』の中で、ベトナム陸軍レンジャー部隊が1970年代に使用していた軍団識別色タブについて書きましたが、その後当時レンジャー部隊にアドバイザーとして派遣されていた元米軍将校や、元レンジャー隊員の方々に意見をうかがったところ、新たに有力な情報をお寄せ頂けましたので、前記事の訂正を兼ねて1970年代のレンジャー部隊と、その軍団タブについて解説させて頂きます。


1970年代のレンジャー部隊略史

 ベトナム陸軍レンジャー部隊(BĐQ)は1960年代末まで、全国4つの軍団指令部直属の機動軽歩兵部隊として6個レンジャー群、計20個大隊で構成されていた。
 アメリカ軍の撤退にともない1970年にCIDG計画が終了すると、それまでベトナム陸軍特殊部隊(LLĐB)に所属していた数十の国境特殊部隊キャンプ駐屯CIDG部隊(CSF)は全てBĐQに移管され、CSF1970年8月から1971年1月にかけて順次、国境レンジャー大隊(BĐQ-BP)へと改編された(過去記事CIDG計画の組織』参照)。国境レンジャー大隊は全国で計37個大隊編成され、BĐQの兵力は約2.5倍に増加した。国境レンジャー大隊は既存のレンジャー大隊と同様に、各キャンプの所在地を管轄する各軍団のレンジャー本部の指揮下に置かれたが、この時点ではそれらを統括するレンジャー群は編成されず、国境レンジャー大隊は軍団レンジャー本部の直接指揮下にあった。
 同じころ、それまで第3軍団レンジャー司令部の指揮下にあった第5・第6レンジャー群が第3軍団を離れ、総参謀部直属の即応部隊として全国に派遣される『統合予備部隊(TTB)』に1970年中に編入された。
 その後1973年中盤になり、BĐQに対して最後の大規模な再編成が行われた。
1. 第1~第3軍団レンジャー内に各国境レンジャー大隊を統括する9個のレンジャー群(7, 11, 14, 15, 21, 22, 24, 25, 33レンジャー群)を新設し、全ての国境レンジャー大隊がその指揮下に入る。
2. 第4軍団レンジャー本部を解体し、その指揮下にあった第4レンジャー群は統合予備部隊に、国境レンジャー大隊は第1~第3軍団内の各レンジャー群に編入。
3. 第1, 2, 3, 5レンジャー群の名称を、第12, 23, 31, 32レンジャー群へと改称。(この時点で第5レンジャー群は統合予備部隊から第3軍団へ復帰していた)
4. 第6レンジャー群に加え、第4軍団から異動した第4レンジャー群、および新設された第7レンジャー群統合予備部隊とする。
 加えて1974年10月、パリ協定による捕虜返還およびBĐQの戦力増強の為、捕虜収容所を運営していた第9および第14憲兵大隊が解体され、同大隊の人員はBĐQに編入され、第3軍団内に第8レンジャー群として再編成される。1975年1月には、同じく第7および第8憲兵大隊が解体され、第3軍団内に第9レンジャー群として再編成される。
 その後も戦況は悪化の一途を辿った事から、BĐQは1975年3月末から4月上旬にかけて残存部隊の再編成を行い、統合予備部隊として第101および第106レンジャー師団の2師団を創設した。この2師団は首都防衛の任に充てられ、4月30日のサイゴン陥落まで最後の抵抗を続けた。


軍団・部隊番号タブ

 1971年末、BĐQは全部隊で、黒豹マークの部隊章の上側に取り付ける軍団・部隊番号タブを採用した。このタブは所属する各軍団(および統合予備部隊)を5色の色で示し、その中に部隊番号または部署・役職を示す略称が入る。

左袖のレンジャー部隊章の上に縫い付けられている数字の入った長方形の布が軍団識別色タブ
写真は第3軍団第33レンジャー群第83国境レンジャー大隊, 1973-1975年

▲軍団識別色とその軍団内のレンジャー群一覧
第1軍団: 緑、第2軍団: 赤、第3軍団: マルーン、第4軍団: 黄、統合予備:青。()内はそのタブが使用たと考えられる年代。
略語はBĐQ / QĐ:軍団レンジャー、LĐ BĐQ:レンジャー群、BĐQ / TTB:統合予備レンジャー
なお軍団ではないが、ドゥックミ・レンジャー訓練センター(TTHL BĐQ Dục Mỹ)にも赤色のタブが制定された模様。

部隊番号または部署の表記例
本部付の部署・役職の略称としてはHCCV(管理担当), CHCV(指揮担当), YTCV(支援担当), CT(作戦), TT(通信), QY(衛生), CCX(対戦車)などが見られる。


おまけ:第101レンジャー師団


 BĐQ初の師団として1975年4月上旬に編成されたものの、それからわずか1ヶ月足らずで終戦を迎えた幻のレンジャー部隊の一つ、第101レンジャー師団(Sư Đoàn 101 Biệt Động Quân)とされる写真を最近初めて見ました。同時期には同じく第106レンジャー師団も編成されているのですが、存在した期間が短かった事と、敗戦間際の混乱した時期であった事から、この2師団についてはまだ不明な点が多いです。
 第101レンジャー師団については、第3軍団に所属していた第31, 32, 33レンジャー群を統合したものという記述がDÒNG SÔNG CŨにありましたが、それ以外の事はまだ分かりません。第106レンジャー師団に至っては、写真も、元となった部隊が何なのかさえも情報が見つかりません。101師団の例に倣えば、106師団は統合予備部隊であった第4, 6, 7レンジャー群が統合されたのではないかとも推測出来ますが、確かな事はまだ何も言えませんねぇ。
 一方、最初に書いた、本記事の情報源となった米越軍のベテラン兼研究者の方々は今、レンジャー部隊に関する最新の研究成果をまとめたものを何らかの形で発表すべく作業を進めているそうなので、これまで知られていなかった情報や、あるいは誤って広まってしまった不正確な情報を正しく総括してくれることを期待して止みません。
  


2018年05月15日

タイガーストライプの始まり Part 3

 僕はこれまでベトナム海兵隊がザーコップ(タイガーストライプ)迷彩服を使用し始めた時期について、タイガーストライプの始まり続・タイガーストライプの始まりの二つの記事で以下の見解を述べてきました。

ザーコップ迷彩服が採用されたのは1960年
ザーコップ迷彩服が50年代中に支給されていたと断定できる写真はまだ発見されていない

ところが先日、その認識を覆す写真が見つかりました。

(写真: Rừng Cấm / Facebook)

元ベトナム海兵隊ズン・カム中士が公開している自身のプライベート写真の中の一枚なのですが、この写真についてカム中士は以下のようにコメントしています。(2016年11月26日書き込み)

"Người đứng đầu tiên là Đồ Sơn đó, vào khoảng thời gian 1958 "
(手前の人物はドゥ・スン・ドー、1958年頃)

 プライベート写真なので本人の記憶以外に撮影日時を裏付けるものは無いのですが、当時この部隊に所属していた人物の証言なので、その信憑性は高いかと思います。
 確かにTIGER PATTERNS (1999)に掲載されているように、ザーコップ迷彩服は最も早いもので1957年製造のスタンプが確認されているので、1958年の時点で現場に支給されていても、何らおかしくはありません。
 また僕が「ザーコップ採用は1960年」の根拠としたチャン・バン・ヒェン元中佐の証言も、それまで試験的に支給が行われていたザーコップ迷彩服が正式に採用されたのが1960年だったというだけで、実際の使用開始時期が1960年だった訳ではないとも解釈できます。
 という訳で今回の発見により、ザーコップ迷彩服は遅くとも1958年頃には(部隊ごとに支給状況は異なるでしょうが、少なくとも一部では)既にまとまった数が使用されていた可能性が高いという認識へと訂正させて頂きます。

前記事では60年代初頭の可能性もあるとしたこれら旧型パッチ(1955-1960)付きの写真も、50年代中にザーコップの支給が始まっていたことを考えれば、50年代末の撮影と見るのが自然かも知れません。



おまけ:テコンドー章

新たな発見という意味では、こちらの徽章の存在も、最近ベテランから教わって初めて知りました。

元ベトナム陸軍特殊部隊将校のフォー・コック・ユン氏によると、こちらの徽章はベトナム共和国軍のテコンドー資格章(Bằng Taekwondo)であり、なかでも左の人物が付けている大きな白っぽい図柄の上に二つの点(星?)がある物は『黒帯二段テコンドー章』だそうです。
右の空軍兵士の写真は「なんか見覚えあるな」と思って自分のHDDの中から探し当てた物なので特に説明はありませんが、上側に点はありません。初段かな?とも思いましたが、初段の次は二段なんだから、初段は点1個じゃないと変じゃないか?という疑問も湧いてきます。
なお、1960年代以降、ベトナム共和国軍は軍の徒手格闘訓練にテコンドーを全面的に採用しており、将兵のほぼ全員が一度はテコンドーを経験したはずですが、僕も今まで把握していなかったくらいこのテコンドー章の使用例は少ないので、おそらくこれらのテコンドー章は黒帯(初段)以上の者だけに与えられたのだろうと推測しています。
いずれにせよまだ詳細な画像すら見た事の無い謎の多い徽章なので、これから調べていきたいと思います。



地方軍カントー訓練基地における徒手格闘訓練(1967年5月6日)
※動画のキャプションには『空手』と書いてありますが、韓国人インストラクターが教えているとも書いてあるので、正しくはテコンドーでしょう。



ドン・バ・シン特殊部隊訓練センター内のテコンドー道場 (1970年6月23日)

この時代、テコンドーはまだ日本式の道着を使っていたから、普通に国内で売ってる道着を買えば、テコンドー訓練ごっこが出来るんです。たしか高校の体育で使ってたやつをまだ持ってるはずなんだけど、どこ行っちゃったんだろう・・・?
  


2018年05月14日

5月の撮影会

その1
1971年2月 ベトナム・クアンチ省ケサン
ベトナム陸軍第1歩兵師団第1偵察中隊







こちらは ラムソン719作戦に際しケサン基地から出撃する第1偵察中隊の実際の映像
[映像: ABC News Archive]

今回僕が着た服。ヒューストン製ERDL迷彩TCUをベトナム軍2ポケ風に改造したものに自家製第1偵察中隊パッチを取り付け。


その2
1952年5月ベトナム・フクトゥイ省シェンモク
フランス植民地軍およびベトナム陸軍降下兵




噂のM113に初搭乗!

撮影会を行った会場に偶然、今話題の手作りM113が来ていました。
しかも所有者様のご厚意で、我々を上に載せて走って頂けることに。ありがとうございます!
うっひゃ―!!!楽しい―!!!カッコイイ―!!!

   


2018年05月03日

おフランスのおべべ

前回の続き

仏軍供与の戦闘服を一気に作りました。





カットがいろいろあって困っていたフロッグスキンは結局、米海兵隊のP44で描きました。同じくウィンドプルーフも仏軍によるジャケット改造型とかありますが、今回は一番数が多いであろうオリジナルの英軍プルオーバー式スモックにしておきました。
これで1948年から1975年までのベトナム陸軍空挺部隊の主だった戦闘服は一通り書き終えました。次は小火器と個人装備。



おまけ:国産リザード迷彩パンツ?

リザード迷彩の戦闘服はいつ頃まで現場で使われていたんだろう?と60年代の写真を調べていたところ、今まで把握していなかった謎のパンツの存在が浮かび上がってきました。

この人の着てる服、上着は普通のTAP47/52っぽいですが、パンツに付いているべきカーゴポケットがありません。という事はTAP47でもTTA47でもないという事になります。なんじゃこりゃ?生地は上着と同じフランス製に見えます。
(写真: Southeast Asia US Army Security Agency Veterans Association, 1963-1964年頃, サイゴン)

こちらのパンツにいたっては、カーゴポケットが無いどころか、あきらかに米軍およびベトナム国産作戦服と同じ「貼り付け式ポケット」を備えている事がわかります。こんなパンツがあったんだ~!こちらも生地は上着と同じに見えるので、フランス製の生地から縫製したと考えられます。
(写真: 1963年11月, サイゴン)

しかしこれらのパンツ、個人がテーラーで作らせたにしてはデザインが地味過ぎると思います。フランスが置いていったTAP47は1960年代には在庫が枯渇しており、将兵の間でプレミア価格で取引される人気の服のはずなのに、そのオリジナルの生地を使ってわざわざ地味な国産型を作る意味が分からない。となると、このパンツは個人オーダーではなく、国産型の裁断が採用された1960年以降に工場で正規に生産された物である可能性もあります。リザード迷彩を含むフランスから供与された被服は全てフランスで縫製された後、インドシナに輸送されたという認識だったのですが、縫製前の生地も送られていたのでしょうか・・・?
  


2018年04月28日

イラスト進捗

とりあえず、空挺とレンジャーの迷彩服は1962~1975年までほぼ完了。海兵隊はまだ。


僕は常々「あの戦争を理解するためには、1940年代から1975年までの歴史を通しで捉える必要がある。」
と考えているので、そうなると軍装ガイドも1946年から始めたくなってしまいます。
当初は1960年以降に絞る気だったけど、もうここまで来たら、思い残す事の無いよう全部やってしまおう。
まだまだ時間かかるぜこりゃ。

あと問題は、その時代のフロッグスキンのカットがバラバラ過ぎて、
どれを一般的なスタイルとして載せたらいいか判断しかねる事。

(フランス植民地軍空挺インドシナ人中隊のベトナム人落下傘兵 1950年代前半)

「何でもいい」は困るんだよ。
夕飯何がいい?って聞いてるお母さんの気分。


  


2018年04月16日

代用ブーツ

ブラックレザーコンバットブーツ

 ベトナム共和国軍のブーツと言えばオリーブやブラック色キャンバス生地のキャンバスブーツがよく知られていますが、実はオーソドックスなスタイルのブラックレザーコンバットブーツも1960年代を通じて大量に使われていました。ある元陸軍将校の話では、当時キャンバスブーツは兵卒に支給される安物の靴という認識だったと言い、実際当時の写真を見てみても、空挺・海兵隊等のエリート部隊の隊員や一般部隊の士官・下士官は、1960年代末まで主に米軍式のコンバットブーツを履いていた事が見て取れます。また一般部隊の兵卒でも、キャンバスブーツと併用してコンバットブーツを使用している例が多数確認できるので、コンバットブーツは部隊・階級に関係なく支給された1960年代のベトナム軍を代表するブーツだったと言えます。

1966年トゥアティエン省フエ


 なのでベトナム軍リエナクターだったら最低一足は持っておくべきマストアイテムなのですが、実は僕、今の今までコンバットブーツを持っていませんでした。だって60年代の米軍のコンバットブーツってもうレアアイテムになって久しく、そんな貴重なものを屋外で実用したくはありません。
 そこで、ほとんど同じ形で値段の安い代用品を長らく探していたところ、コレクターの先輩に、タイ軍のブーツが最適だと教えてもらいました。そしてその後2回ほどタイに行く機会があったので、そのタイ軍ブーツを探したのですが、2回ともちょうどいい物を見つける事は出来ませんでした。ぱっと見似たような物はいくらでもあるのですが、なんか所々イメージと違います。タイの友人に聞いたところ、ああいう古い形のブーツはもうタイ軍でも使ってないから、今となってはタイ国内でもレアなのだそうです。残念。
 しかし僕が帰国した後、友人から良い感じのブーツを見つけたと連絡が入りました。なんでも、今から11年前に解体されたタイ国防省関係の教育機関で支給されていたブーツらしいです。しかも幸運にも彼は仕事で日本に来る事になったので、わざわざそのブーツを持ってきてくれました。あっりがとー!


米軍のようなお尻の割れ目はありません

この靴底は今時探したってなかなか無いから嬉しいです。



トロピカルコンバットブーツ

 ブラックレザーコンバットブーツは1960年代末まで全軍で広く使用されていたと述べましたが、それ以降、60年代末から70年代にかけて急速に普及したのが米軍のトロピカルコンバットブーツ(通称ジャングルブーツ)です。これもブラックレザーと同様に、特にエリート部隊隊員や一般部隊の士官・下士官に愛用され、一般部隊兵卒にもキャンバスブーツと並行して支給されました。

1973年3月 サイゴン近郊
(Photo by Peter Bregg/Canadian Press)

 このトロピカルコンバットブーツのレプリカ(およびデザインを真似たもの)は多数のメーカーから販売されていますが、僕が今代用品として使っているのは一昔前に出回った『韓国製』と呼ばれる物です。民間メーカーがファッション用に作ったものなのか、韓国軍で使われていた物なのかはよく知りません。米軍のオリジナルと比べると、なんかキャンバスの色がやたら黄色っぽいのですが、トゥーや空気穴の形状は今売っているレプリカよりも良いと思います。また靴底がDMSソール(通称ビブラムソール)なので、使える年代が広いのもうれしいです。DMSソールトロピカルコンバットブーツ(通称3rdパターン)のレプリカは過去にエリカクラブ(現S&Graf)から発売されていましたが、今となっては入手困難ですね。

これもオリジナルとは異なり、お尻の割れ目はありません。






オリーブキャンバスブーツ(仏軍ブッシュシューズ)

 第一次インドシナ戦争中の1949年にフランス連合軍の一部として発足したベトナム陸軍は当時装備品の調達をフランス軍からの供与に依存しており、最初に陸軍の戦闘用ブーツとして普及したのがフランス軍のオリーブ色熱帯地域用キャンバスブーツ『ブッシュシューズ(Chaussures de brousse)』でした。当時インドシナに展開していたフランス軍人の間では、雨やぬかるみの多いベトナムでは革製のブーツよりもこのブッシュシューズが実用的で好まれたといいます。その後、1960年代に入りアメリカ軍による軍事援助が始まると、アメリカ軍はベトナム軍で使用されていた仏軍ブッシュシューズのコピー品を沖縄や日本本土などで生産させ、ベトナム軍に供与していきました。(詳しくは過去記事キャンバスブーツ』参照)
 ただし上で述べたように、1960年代初頭にアメリカによる軍事援助が拡大し、ベトナム軍に米軍コンバットブーツが普及すると、見た目の問題からかキャンバスブーツは将兵からの人気を失い、以後は主に一般部隊(レンジャー部隊含む)の兵卒や訓練兵、CIDG部隊に使用されるにとどまりました。とは言え、人数的にはそういった兵卒が軍の大部分を占めるので、キャンバスブーツは依然ベトナム軍の主要なブーツの一つである事に変わりはありませんでした。

キャンバスブーツを着用するレンジャー隊員
※ただし60年代後半にはレンジャー部隊ではコンバットブーツが一般的となる。


 このオリーブ色キャンバスブーツの代用品および改造については以前『短丈キャンバスブーツ』に少しの載せましたが、それとは別の代用品(改造ベース)を入手したので、これも載せておきます。仏軍ブッシュシューズのデザインはファッション業界で人気を博したため、今でもパラディウムを始めたくさんのメーカーがそのデザインをモチーフにした靴を販売していますが、残念ながらどのメーカーもことごとく、オリジナルの仏軍ブッシュシューズそのものは再現していません。なので現状では、どのメーカーの物を買おうとも改造が必要です。
 さて今回はMAG FORCEというメーカーの物らしいです。こういった中国製の安い靴は改造ベースにうってつけだったのですが、近年販売されている物は、本来内側にあるはずの踝保護用の丸いゴム板が、何故かコンバースの様に外側に取り付けられてしまっているのです。これは剥がそうと思えば剥がせない物ではありませんが、確実に跡が残るのであまりやりたくはありません。そのためコンバース風になる前の古いロットの物を探していたところ、新品をリサイクルショップで発見しました。まだ改造前なので、そのうち改造していきたいと思います。

オリジナルの仏軍ブッシュシューズが備える土踏まず保護のゴムは、どこのメーカーも再現してくれません

  


2018年03月31日

部隊識別色

 この趣味をやっていると、度々、「南ベトナム軍が付けてる色付きネームテープやネッカチーフはどういう意味?」という質問を頂きます。マニアの間では、それらは一般に『大隊または中隊の識別色』と言われており、パレード用などいくつかの例外はあるものの、前線で使われているものに関しては僕も部隊識別色と考えていいと思っています。


 では、具体的にどの色がどの部隊を示していたかと言いますと・・・ほとんど分かっていません。師団や連隊までならそれなりに研究が進んでいますが、大隊・中隊といった末端の単位までは、さすがに資料が出てきません。なおかつ、その識別色に関しては、もしかしすると全軍で統一された規定によるものではなく、それぞれの部隊が独自に決めたものである可能性もあります。その場合、色と部隊の関係を知るには中隊単位まで所属がはっきりしている当時の写真を探して確認していく、もしくはその部隊に所属していた人に聞き取りするという手段で、全国に数千個存在した大隊・中隊を一つ一つ調べていく以外に術はありません。しかし、それはいくらなんでも不可能です。なので、特に人数の多い陸軍歩兵部隊や地方軍の識別色の全容解明は、今後も期待できないかも知れません。


ベトナム海兵隊のネームテープ

 しかしその一方で、数は少いですが、資料によって把握できている部隊もあります。まずはベトナム海兵隊。海兵隊では1960年代中盤以降、作戦服に付けるネームテープに大隊識別色が採用されましたが、陸軍や地方軍と比べるとはるかに規模が小さかったため、その識別色についてはほぼ解明されています。以下は大隊とネームテープの対応関係をまとめた図になります。


【識別色ネームテープの例】

 
(左)第2海兵大隊、(右)第1海兵砲兵大隊



空挺師団の大隊章

 また陸軍空挺師団では1960年代中盤以降、軍服の左肩エポレットに付ける大隊章の背景・台布が中隊ごとに色分けされていた事が知られています。空挺師団の各大隊は、中隊番号「0」の大隊本部中隊、「1」~「4」の歩兵中隊の計5個中隊で構成されており、大隊番号の末尾に中隊番号を加えたものが中隊名になります。そしてその0~4の各中隊に5色の識別色が割り振られており、0が緑、1が紫、2が青、3が黄(橙)、4が赤というパターンでほぼ統一されていました。例えば第11空挺大隊の本部中隊は「第110中隊」で、背景は「緑」になります。


 ただし理由は不明ですが、上の赤枠で囲っている大隊章だけはこの規則から外れています。まず、第3空挺大隊および第5空挺大隊では中隊ごとの色分けはされておらず、背景は全ての中隊(第30~34中隊および第50~54中隊)で青のみとなります。
 また更に不可解なのが第7空挺大隊の第71中隊でして、同大隊の他の中隊はすべて規則通りの配色になっているのにも関わらず、第71中隊だけは規則に倣った「紫」ではなく、例外的に「水色」で制定されています。

▲こちらの写真は戦時中、サイゴン市内の徽章屋が自社の空挺関連の徽章一覧を撮影したものですが、やはり第71中隊だけは水色であり、色の個体差等ではない事が分かります。(1964年制定の空挺部隊章があり、かつ1965年に編成される第9空挺大隊が入っていないので、撮影時期は64~65年頃だと思われます。)
同じ日に撮影されたと思われる別ショットの写真が見つかり、その中に1971年末に制定された徽章があったため、撮影時期はそれ以降である事が判明しました。[※2018年5月18日訂正]

▲左肩エポレットに取り付けられた中隊色付き大隊章。他部隊でもこの位置に識別色のスリーブを通す事はありますが、大隊章を取り付けるのは1960年代後半以降の空挺師団のみです。なお、この徽章の購入は任意だったようで、全体的には使用率は低かったようです。


レンジャー部隊の軍団タブ

[※2018年5月18日訂正]

 陸軍レンジャー部隊では、レンジャー部隊章の上にレンジャー群・大隊を示すタブが1970年頃1971年末採用されます。ベトナム共和国軍は第1~第4軍団という計4つの軍団および総参謀部直属の統合予備部隊で構成されており、レンジャー部隊はそれぞれの軍団本部直属の機動歩兵部隊であった事から、新たに制定された群・大隊タブでは、その色で所属している軍団(および統合予備部隊)を示していました。
しかし、この軍団ごとの色分けは制定から2年足らずの1972年ごろに廃止され、それ以降タブの色は軍団に関係なく全て「青」で統一される事となります。
※複数の研究者による検証・ベテランの証言などから、全ての軍団が青で統一されたとするRepublic of Vietnam Historical Societyの見解はどうやら誤りであったようです。

[2018年6月4日追記]
軍団タブについては新たに記事にしましたのでこちらをご覧ください。


▲レンジャー群・大隊タブの使用例。第33レンジャー群第83国境レンジャー大隊[※2018年5月6日追記]

レンジャー群・大隊タブと同じ場所に、同じような色付きのタブが付いている例が見られますが、これらは部隊を示す数字が入っておらず、色も軍団を示すものではありません。恐らくは各部隊が独自に作った、役職などを示すタブと思われます。群・大隊タブと非常に紛らわしいので要注意。


[2018年6月4日追記]
軍団タブ以前に使用されていた色付き大隊タブ・ネームテープについて新たに記事にしました。



僕が今現在把握している情報は以上になります。こういう地味な徽章に関してはまだまだ分からない事だらけなので、今後も地道に情報収集していこうと思います。



おまけ

突然ですが、色の話をしたのでラルクのVivid Colors。昨日車を運転しながら歌ってたら、またカラオケ行きたいモードに入ってきたので。

う~ん、最高。久しぶりに一人カラオケ行っちゃお~。うふふ。
  


2018年03月27日

はじめてのFANK

 FANK*には以前から興味はあったものの、ベトナムと比べるとはるかに資料やレプリカの少ない軍隊なので、なかなか始めの一歩を踏み出せずにいました。ところが最近、映画「最初に父が殺された」を見た友人が「僕もロン・ノル軍やりたい!」と言ってきたので、僕もよくやく重い腰を上げてクメール軍装に手を出す事にしました。

*FANK: (仏語)Forces armées nationales khmères / クメール国軍。1970-1975年のクメール共和国時代のカンボジア軍。大統領の名から通称「ロン・ノル軍」

 さて、FANKは1975年にクメールルージュ(カンボジア共産党軍)との内戦に敗れ、たった5年で消滅してしまいましたが、その短い歴史の中では、多種多様な軍装が用いられていました。なのでまず、どの部隊を再現するか候補を探していたところ、こんな写真に出会ってしまいました。


 見た瞬間、これに決めました。ヘルメットに鉢巻きは、決して一般的なスタイルではないのですが、とにかく個性が凄い。いかつい。加えて、幸いにもあるコレクターさんがこの部隊章の実物の画像をアップしてくれていたので、それをトレースして自作パッチを作るのも容易でした。

こうしてFANK同好会立ち上げ一発目の自作アイテムが完成しました。我ながらイイネ!


 なお、この部隊については、当初は「第294大隊」という部隊名しか把握できていなかったのですが、昨日、僕が勝手に『大師匠様』と呼んでいる人物に「あの写真の人の左袖のパッチは何ですか?」と問い合わせたところ、この部隊はクメール陸軍の第9旅団群第23旅団第294大隊なので、左袖には画像の第23旅団のパッチが付いてたはずという返答を頂きました。質問からわずか2分後にこの答え。さすが大師匠様。

▲クメール陸軍第23旅団
これについてはまだ自家製造する目途が立っていないので、おいおいとなります。



クメール陸軍の野戦服について

 これらの部隊章を取り付ける野戦服についてですが、当時の写真を見る限り、その規格は統一できていなかったようで、かなり様々なパターンの裁断が見受けられます。その中で比較的多く目にするのが、この2ポケット隠しボタンのタイプ。

もちろんこの服のリプロなど存在しません。でもポプリン生地っぽいから、OD色の米軍BDUをベースに改造すれば比較的簡単に再現できそうな気がする。今度やってみます。(BDUとほとんど同じような4ポケ隠しボタン型も使用例あり)

あとはベトナム軍のカーキ作戦服によく似た2ポケや、米軍TCUをそのまま使っている例も見受けられるので、隠しボタン型を自作するまでは、とりあえずそれらの服を使おうと思ってます。

ベトナム軍2ポケとよく似た野戦服(左)。ボタンまで同じなので、もしかしたら本当にベトナム製かも知れません。

米軍TCUの使用例(右端)


またコマンド大隊や特殊部隊、空挺旅団が着ている迷彩服にも様々な種類がありましたが、比較的手に入りやすい服もあります。

MDAPタイガーストライプ。ベトナムで使われていた米軍供与(MDAP)タイガーストライプと同一です。

▲仏軍リザード迷彩TTA47/52野戦服(60年代製)。フランス連合期の供与品ではなく、60年代に改めてフランスから輸入された物(リザード迷彩のパターンが違う)が空挺旅団を中心に多く使われています。

▲米軍グリーンリーフ迷彩TCU。米軍TCUと同型、またはエポレットが追加されたグリーンリーフ迷彩がクメール特殊部隊(Forces Speciales Khmères / FSK)でよく使われています。

ベトナム軍グリーンリーフ迷彩2ポケに似た野戦服(中央)。この他にも様々な裁断のグリーンリーフ迷彩服が使われていました。


一方、かなり入手困難なのがこちらの迷彩服。

(Youtube / AP Archive動画より https://youtu.be/pzSJMMlnQPI)

1960年代以降、仏軍リザード迷彩と並行して空挺旅団で多用されていた、まだら系の迷彩服です。ダックハンター迷彩とは似て非なるものですが、研究者が少なすぎて、まだ呼び名すら定まっていません。とりあえず、『クメール空挺パターン』とでも呼んでおきましょうか。

世界の迷彩をまとめているCamopediaに、この迷彩の貴重な実物画像が掲載されています。


以上のように、クメール陸軍の軍装を再現する上で入手困難な物はそう多くはないので、レプリカや代用品で十分揃えられます。
さぁ~て、始めたからにはとことんやろうっと!
  


2018年03月24日

49年前のペーパークラフトPBR

 先日、あるコレクターさんがフェイスブックに、1969年にベトナムで出版された子供向けのペーパークラフトの画像を投稿されました。戦時下なので、共産軍の投降を促すと同時に国内の結束をアピールする心理作戦"チューホイ計画(Chiêu Hồi)"の一環として作成されたもののようです。おそらく娯楽の乏しい農村地帯にこのチラシを飛行機からばら撒き、子供がそれを拾って遊ぶことで、子供たちにベトナム共和国政府への帰属意識を植え付ける事を意図していたと思われます。


僕はこれを見た瞬間、「こりゃ作らなきゃ!」と思ったので、さっそく画像をフォトショップで補正して、厚紙に印刷しました。
持ち主によるとオリジナルのリーフレットの寸法は12in×18inらしいので、それに合わせて実寸大で出力しました。


あとは童心に帰ってハサミでチョキチョキ、糊でペタペタするだけ。
そして完成したのがこちら!

船体の文字は"Đây là Trạm Chiêu Hồi (こちらチューホイ事務局)"。
子供向けなのでかなりいい加減なペーパークラフトですが、船首の2連装重機関銃や、後部重機関銃の防盾、ドーム型の通信アンテナなどPBRの特徴は押さえていますね。

こちらがモデルになったベトナム海軍のMkII PBR(米国製)


今回使ったデータはこちらで公開しています。そのままA4サイズで印刷してお使いください。



【おまけ】

実家の荷物から、懐かしい物が出てきました。たしか中3の最後の方で、美術の時間に卒業して離れ離れになる友達へのメッセージカードを作った際のものだと思います。なお、文の内容は恥ずかしくて見せられません。


当時どんなガキんちょだったかがうかがい知れますね。他にも美術の時間に、紙粘土や木工で「卑猥な物体」を本気でリアルに作って、それを教室の壁に設置していた記憶があります。
あと夏休みの宿題でロシアのSu-37戦闘機を描いてきたり、靖国神社の桜の前で軍刀持った日本陸軍士官の絵を描いてきて、しかもそれなりの画力で本気で描いてあっただけに、先生は対応に苦慮しておられました。
当時の絵はどこに行っちゃったのかな~?捨ててないはずなんだけど。
  


2018年03月22日

タイでもらったパッチ

先日のバンコクでの撮影会の際、タイの友人たちが記念にと、タイ軍関係のパッチをいろいろプレゼントしてくれたので紹介します。



タイ王国義勇連隊"クイーンズコブラ" (FWMFタイ陸軍部隊 1967~1968年)

ベトナム戦争期、ベトナムに展開した自由世界連合軍(FWMF)の中で、韓国軍・オーストラリア軍に次いで3番目(※2018年3月22日訂正: オーストラリア軍より多かったので正しくは2番目)の規模の地上戦闘部隊を擁していたのがタイ陸軍でした。このベトナム派遣タイ陸軍部隊、通称"クイーンズコブラ連隊"は1967年にベトナムに到着し、以後アメリカ陸軍第9歩兵師団の指揮下で作戦を遂行していきます。
このパッチはリプロですが、友人曰く、当時同パッチを製造していた徽章屋が当時と同じ素材・製法で制作した高品質な複製品だそうです。なのでよほどのタイ軍コレクターでないと、真贋の見分けはつかないくらいよく出来ているそうです。


タイ王国陸軍義勇軍"ブラックパンサー師団" (FWMFタイ陸軍部隊 1968~1972年)
クイーンズコブラ連隊の派遣から間もなく、タイ政府はベトナムへの戦闘部隊の増派を決定し、1968年1月に兵力約11,000名から成るタイ王国陸軍義勇軍(RTAVF)"ブラックパンサー師団"が編成されます。FWMFに加わったブラックパンサー師団は以後、ビエンホア省等においてサーチ&デストロイ作戦や、ベトナム市民への人道支援活動に従事していきます。なお派遣の翌年の1969年にアメリカがベトナムからの撤退を表明した事で、FWMFの各国軍も順次撤退を開始し、タイ軍ブラックパンサー師団は1972年に撤退完了、解散しました。※タイを含む同盟国の活動概要については、アメリカ陸軍省編のAllied Participation in Vietnam(1985)に詳しく乗ってますので、ご参照ください。
なお上のクイーンズコブラと異なり、こちらのパッチは一目で近年作られたリプロと分かる機械刺繍製です。


タイ陸軍帽章(フィールドキャップ用)
ベトナム戦争期から変わらず使われているタイ陸軍の帽章。現代製だけど、リプロと言うよりPX品。


タイ王国空軍 F-16戦闘機搭乗員
実物らしいです。裏はベルクロ


タイ王国空軍 第5航空団
第5航空団は輸送および観測を主任務とする割と地味な航空団みたいですが、調べてみると、実は過去に日本と因縁のある部隊だという事が分かりました。
太平洋戦争開戦前夜の1941年12月7日午後11時、日本政府はタイ王国政府に対し、タイ領内における日本軍の進駐・無制限通行権を要求します。日本軍の目的はマレーおよびビルマに駐屯するイギリス軍の撃退であり、その道程にあるタイ王国は問答無用で日本への服従を強いられました。これは事実上の最後通牒であり、タイ政府は日本の要求を受け入れて独立国としての尊厳を失うか、要求を拒否して日本との戦争に突入するか選択を迫られました。しかし日本軍の戦力は圧倒的であり、タイ側は対抗手段が無い事を認めざるを得ず、武力による恫喝に屈して日本の要求に渋々同意します。
そしてその数時間後の12月8日未明、真珠湾攻撃とほぼ同時刻に日本軍がタイ領内への侵攻を開始します。しかしこれに対し、戦いもせず外国の侵略に屈する事を良しとしない一部のタイ軍部隊は、中央の命令を無視して独断で日本軍の迎撃を開始します。
タイ中部のプラチュワップキーリーカン県では、タイ空軍第5航空師団(現・第5航空団)が中心となって、上陸した日本軍に対する大規模な反攻が開始されました。戦闘は翌9日まで続き、正午には第5航空師団のプラワー・チュンサーイ中佐が、備蓄燃料が日本軍の手に渡る事を防ぐため、自軍の燃料集積所を爆撃するに至ります。
しかし同日、タイ政府は改めて日本との休戦協定を締結すると共に、現場部隊に対し休戦命令の徹底を行い、33時間におよぶタイ軍の抵抗は終わりを迎えました。尊厳よりも国家の存続を優先する苦渋の決断によって降伏したタイ軍でしたが、このプラチュワップキーリーカンの戦いでは、タイ側の戦死者は42名、一方当初圧倒的優勢と思われていた日本側の戦死者は115名以上とされており、短期間ながらタイ軍の意地と愛国心を示した英雄的な戦いとして現地には記念碑が建立されています。そして現在、その戦いを主導した第5航空師団の後継である第5航空団の部隊章には、その栄光を称えプラチュワップキーリーカンの戦い記念碑の、軍旗を掲げる航空兵の像がデザインされています。

プラチュワップキーリーカンの戦い記念碑 (画像:  กรุงเทพธุรกิจ มีเดีย จำกัด)


彼らの内何人かは、今年中に日本に遊びに来るみたいだから、その時はたっぷりおもてなししてあげよ~っと!face02
  


2018年03月16日

マウタン1968(テト攻勢)から50年

マウタン1968犠牲者追悼式典

 今から50年前の1968年2月、ベトナムで最も神聖な祝日である元旦節(テト)を狙ったベトコン(ベトナム共産軍)による同時多発テロ<マウタン1968>、通称『テト攻勢』が発生し、ベトナム戦争始まって以来最大の犠牲者を出す大惨事となりました。
 このマウタン1968から50年目の節目を迎え、日本在住ベトナム人協会は2018年2月11日、神奈川県藤沢市の寺院においてマウタン1968の犠牲者を追悼する法要・式典を執り行いました。式にはかつてのベトナム難民を始め、現在日本に住んでいるベトナム人研修生や一般労働者、在日米軍のベトナム系アメリカ軍人らも参列しました。



映像: Hiệp Hội Người Việt tại Nhật

フエ虐殺事件目撃者の声

 また法要後の懇談会では、共産軍によって行われたあの惨たらしい事件を風化させないよう、当時その場でマウタン1968を体験した方々が、戦後生まれの若い世代に自身の体験を語りかけました。お世話になってる知人が、今回も話の内容を同時通訳してくださったので、その一部をご紹介します。


映像: Hiệp Hội Người Việt tại Nhật



ブウ氏

 ブウ氏は当時、フエ在住の13歳の少年であり、共産軍による26日間のフエ占領を体験しました。
 ブウ氏によると、フエでマウタンの戦闘が始まったのはテト二日目の夜であり、最初は誰もが銃声を爆竹の音だと思い、戦闘が始まったとは思いもしなかったそうです。
 しかし朝になると街は共産軍に占領されており、通りには共産軍の兵士たちが堂々と歩いていました。戦争とは無縁の生活を送っていたブウ氏はこの時初めて実際に共産軍の姿を見ましたが、当時は子供だったため特に恐怖は感じなかったそうです。
 しかしその日、フエ市内で拘留されていた共産ゲリラ容疑者が釈放されると状況は一変します。共産軍が住民の家々に押し入り、軍人、警察、政府関係者を次々と逮捕し始めました。ブウ氏の兄2名も軍人でしたが、その年はたまたま二人とも帰省していなかったため、父がその場で尋問されただけで済んだそうです。しかし父の友人であり恩師の神父は連行され、二度と帰ることはありませんでした。
 占領下の生活の中で、ブウ氏は自宅周辺では夜しか戦闘の音が聞こえず、なぜ夜だけなのか不思議に思っていたそうです。
 その後、共産軍は逮捕者リストを作り、再度ブウ氏の自宅に押し入ってきました。そして兄たちがフエには居ないことが分かると、共産軍はブウ氏の自宅を完全に破壊しました。翌朝、ブウ氏は瓦礫の中から家族の写真を探そうとしましたが、軍服姿の兄の写真が共産軍に見つかると危険なため、父に止められたそうです。
 まもなくフエ市街と対岸を結ぶチュンティエン橋が共産軍によって爆破され、大人たちは共産軍が撤退を始めたと言いいました。この時すでに、逮捕された数千人のうち約900名が市内で殺害されていた事が後に判明します。人々は銃ではなく、鉈などで頭を割られて殺されていました。そして残る4000名の逮捕者は撤退する共産軍によって郊外に連行されました。
 共産軍が去ったのを見計らい、ブウ氏らフエ市民はすぐさま政府軍のいる方向に避難しました。しばらくすると前からアメリカ軍の黒人兵士が走ってきて、市民たちに「逃げろ!」と叫びました。市民たちはこれでようやく共産軍の恐怖から解放されました。
 一方、共産軍に連行された4000名の人々は行方知れずでしたが、間もなく郊外で全員虐殺された事が判明します。生存者は一人もおらず、遺体が遺棄された場所の捜索に一年間かかりました。結果22箇所の地中から遺体が見つかりましたが、遺体の多くは白骨化しており、遺族は残された衣服などから家族の亡骸を探し続けたそうです。
 それ以来、家族が集うベトナム民族にとって最も幸福な祝日であるはずのテトは、フエでは虐殺の日、家族の命日として記憶されており、当時を知る家庭では今でもテトは祝われず、帰省もしないとの事です。
 ベトナムの歴史上、血塗られた虐殺事件は幾度もありましたが、それらは全て、中国やフランスなど、外国によって行われたものでした。しかしベトコン、ホーチミンは同じベトナム人に対してそれを行ったのです。


カイン氏

 カイン氏は当時サイゴンの大学に通う学生で、社会奉仕団体でボランティア活動をしていたため、フエ奪還から一週間後、復興支援の為フエに赴きました。そこでカイン氏らが任されたのは、共産軍によって虐殺された人々の遺体捜索・回収でした。
 カイン氏によると、人々は地面から比較的浅い深さに、座ったような姿勢ですし詰め状態で埋められていました。外傷のある遺体は少なく、ほとんどが生き埋めにされて殺害されていました。地中から掘り出された遺体は腐乱しており、ある時は野犬が遺体から足をちぎり取っていったため、カイン氏が犬を追いかけて足を取り返すといった事もありました。
 二週間の捜索で数百の遺体を掘り出した後、カイン氏はサイゴンに戻りましたが、その後半年間は肉を食べられなくなりました。この経験でカイン氏は共産軍の残虐性を目の当たりにし、人生観が一変します。そして共産軍と戦うため、翌69年に政府軍に志願入隊しました。





戦後世代の声


ザカット氏

 ザカット氏はフエ出身で、両親祖父母がフエ占領を経験しました。戦後、フエ虐殺は共産党政府によって闇に葬られましたが、当時フエにいた者なら全員、共産軍によって何が行われたかを知っています。私は戦後生まれですが、家族から当時の話を聞いていました。


ウエン氏

 ウエン氏も両親祖父母がフエ占領の恐怖を経験しました。しかし多くの一般市民は戦後、共産党政府による弾圧を恐れてそれを口にする事は出来ませんでした。ウエン氏の両親も、娘に戦中の事を詳しくは話しておらず、戦後生まれのウエン氏は、学校で教わった共産軍の英雄的な物語を信じきっていました。ウエン氏が自国の真の歴史、家族の思いに気付く事が出来たのは、成長してインターネットで国外の情報に触れる事が出来るようになってからの事でした。



また懇談会では私も意見を求められたので、僭越ながらほぼ唯一の日本人参加者の視点から私の考えを述べさせていただきました。

映像: Hiệp Hội Người Việt tại Nhật



 1946年以来、数限りないテロで大量のベトナム人の命を奪い、今現在もベトナムを恐怖と暴力で支配しているベトナム共産党政権は依然として、このマウタンを解放戦争の英雄的な戦果として喧伝しています。
 欧米や日本はもちろん、世界中のほとんどの国々が民主主義を重んじている今日において、普通、非民主的な独裁政権のプロパガンダが真実として受け入れられる事はほとんどありません。例えば中国や北朝鮮政府による主張や宣伝を鵜呑みにする人はほとんど居ないでしょう。
 しかし非常に残念な事に、ベトナムに関してだけは、特定の思想によって都合良く作り出されたプロパガンダが多くの人々の思考を停止させる事に成功しており、ベトナム共産党(現ベトナム社会主義共和国政府)というテロ組織の主張や宣伝が無批判に受け入れられてしまっています。
 私はこの記事を読んでいる方に今一度、ベトナムという国に対する認識の再考をお願いしたく思います。これは単なる『外国の歴史』の問題ではありません。この記事にあるのは今現在日本に住んでいる隣人の声です。そしてその声に耳を傾けるか事が、日本を「どんな残虐な独裁政権でも都合よく解釈して好意的に見る恥知らずな国」から、「正義と人道を旨とする矜持ある国」へと挽回する唯一のチャンスです。大げさに聞こえるかもしれませんが、本来こんなのは50年前にやっておくべきだった事であり、私の世代はもう目をそらす事なく、この50年分の誤り・怠慢と向き合っていく必要があると考えています。
  


2018年03月09日

3年ぶりのバンコク撮影会

久しぶりに台湾とタイを旅してきました。
タイでは友人たちのご厚意で、再びバンコクで撮影会を行う事が出来ました!
この時が来るのを3年間待ってたぜ!

前回の撮影会はこちら『タイでコスプレ 撮影会編』


ベトナム空軍パイロット
(飛行服は友人からの借り物)


一緒に撮影会をやったタイ人の内2名がたまたまドンムアン空港で働いてる本職の航空整備士だったので、
飛行前にパイロットが行う簡易点検を一通り教えてもらいました。


間の悪い事にH-34やUH-1などヘリコプターが展示されている建物は改装工事中で入れず、
残念ながら今回はヘリはおあずけ。




ベトナム陸軍装甲騎兵


念願のM41ウォーカーブルドッグとM113APCで撮影成功!夢がまた一つ叶ったよ。
すでにM24軽戦車では撮ってるから、残すところはM48パットンだけだな。


今回一緒に遊んでくれたタイのリエナクターグループ
Pad1968 (ベトナム派遣タイ軍)
バンコク第十八歩兵師団 (日本帝国陸海軍)
の皆さま


撮影の後はみんなでチャトチャックマーケットに移動してミリタリー系の店を周り、
その後また移動して友人お勧めのタイ東北料理レストランで夕飯を食べました。


ご飯を食べながら日本とタイのリエナクトメントイベントについて話し合いましたが、
彼らもなかなかに意識高くて、うちらも負けてられないなと思いました。

みんな、ありがとー!!!
またそのうち会おうね!
  


2018年02月25日

軍装例:マウタン1968(テト攻勢)

軍装ガイドの完成ははまだまだ先になりそうですが、来週から家を空ける為しばらく作業できないので、現在描き終わっているイラストだけ先に公開しちゃいます。解説はまたおいおい書きます。
イラストは1968年当時に見られるベトナム共和国軍歩兵の軍装例です。実際にはこの他にも無数に組み合わせがありますが、イラストは私が1968年当時の例として最も典型的、あるいは特徴的だと思うものをまとめました。
当時支給されていた被服・個人装備・銃器は絶えず新たな調達品へと切り替わっていったため、その軍装は1年足らずで様変わりしています。なのでイラストはあくまで1968年前半のみの例であり、15年間続いたベトナム戦争のほんの一部分でしかない事にご注意ください。


【Mậu Thân1968】
今から50年前の1968年2月、ベトナムで最も神聖な祝日である元旦節(テト)を狙ったベトナム共産軍(ベトコン)による同時多発テロ<マウタン1968>、通称『テト攻勢』によって、南ベトナム全土が戦火に包まれ、以後半年間でベトナム戦争始まって以来最大の犠牲者を出す大惨事となりました。激しい戦闘の末、ベトナム政府軍およびアメリカ・自由世界軍(FWMF)は国内の共産ゲリラ組織(解放民族戦線)をほぼ壊滅状態にまで追い詰める事に成功しましたが、ベトナム戦争の様相はその後、アメリカ軍の撤退と北ベトナム軍による南侵の激化によって南北ベトナム正規軍同士による総力戦へと突入していきます。


(クリックで拡大)





  


2018年02月20日

作画工程

 今作ってるベトナム軍装ガイドに使うイラスト(名付けて新マネキン男くん)がほぼ完成しました。
 僕はパソコンで絵を描く時はいつも、ちょいちょい途中経過を画像で保存し、それを見直す事で、「うん、進んでる。進んでる」と自分に言い聞かす事で、どうにか絵を描くモチベーションを保つよう心がけています。
 今回はちょっとした思い付きから、それら途中経過を繋ぎ合わせてGIFアニメを作ってみました。

参考にしたのはこちら
 isLog〜イズログ〜 https://www.islog.jp/entry/gif-animation/


新マネキン男くんの作画工程

 



2010年に描いた2011年テトの年賀状


 爆れつハンターのショコラとティラがベトナム共和国軍の女性軍人(Nữ Quân Nhân)制服を着ているという、なんともオタクくさいイラスト。しかしこんな絵でも、ネット上で拡散した末に、このイラストの題材とした政治戦総局厚生局にかつて所属していた元女性将校の方が、米国で開催されるNQNベテランの集会の告知に毎回このイラストを使ってくれているのだから、嬉しいやら恥ずかしいやら。


 僕は素人にしてはまぁまぁ絵が得意な方ですが、本当は絵を描くのが好きではありません。理由は簡単で、とても面倒くさいからです。僕にとって絵は、写真や文章と同じ情報伝達手段の一つに過ぎず、またその中でも絵はとんでもなく時間と気力を使う、極めて効率の悪い手段だと感じています。
 なので僕が絵を描くのは、その情報を表現するにはイラストしかないと諦めた場合のみ。つまり他に良い手がないので仕方なく描くといった感じです。こんな心構えなので、描くのが毎回億劫でなりません。電脳化して脳内で作った映像を直接デジタルで出力出来たらどんなに楽だろうと、いつも考えています。
 ないものねだりしても始まりませんが、やっぱり面倒なものは面倒なので、いかに効率良く情報を伝えるか考えた末に生まれたのが、上の新マネキン男くんなのです。その名の通りマネキンとして着せ替え人形になってもらいます。
 昔は自分の可能性を広げようと風景画から美人画、アダルトまで何でも描きましたが、数年前に気付いてしまいました。やっぱり僕は軍服それ自体にしか興味が持てない人間です。これを自分で認められるようになってからは、今まで『手抜き』だと思い避けていた手段を、『効率化』の名目で遠慮なく使えるようになったので、むしろやる気がアップしました。今後の新マネキン男くんの活躍に乞うご期待。
  


2018年02月10日

【祝】WAR全米大学映画祭 審査員賞受賞!

過去のハウ・ルック監督作品いついては過去記事参照

2016年12月、僕は米国ジョージア州にて、アマチュア映画監督の友人が製作しているショートフィルムの撮影に参加してきました。あれから1年強、その時撮った作品がようやく完成し、この度、全米大学映画祭(Campus Movie Fest)に出品されました。
そしてその結果・・・

審査員賞(Jury Award)を受賞しました!!やったーーーーー!!!

※動画を再生出来ない場合は他のブラウザに変えてお試し下さい。



こちらが審査員賞受賞作品「WAR」 監督 ハウ・ルック



なんとなく分かると思いますが、あるベトナム人兄弟が生き別れとなり、それぞれ別々にベトナム政府軍と共産ゲリラ兵士となり、その二人が不幸にも戦場で再会し、お互いを兄弟と知らずに殺し合ってしまうという大変悲しいストーリーです。
実はこの話には元ネタがありまして、それらを全て撮れれば、なぜ兄が首にドッグタグではなく紙を三角形に折った物を下げているのか等が分かってもらえたのですが、ショートフィルムなので時間的な制限からストーリーは大幅にカットせざるを得ず、そこは描ききれませんでした。
とは言え、撮影や編集の技術が認められ、この度賞を頂けたのですから、出演者としては素直に嬉しいです。

しかし観客も審査員も、弟役を演じているのは当日ゲリラ役やってよと言われて気軽に引き受けた日本人だなんて思いもよらないだろうな。我ながら熱の入った演技をしたものだ(笑)


世にも珍しいゲリラ役のわたくし





なお我々はアマチュアなのでプロップ買うお金が無いため、銃やナイフは全部本物です。
M16はコルトAR-15モデルSP-1、56式自動歩槍はノリンコMAK-90で代用。
空砲なんて一般人には手に入らないので、発砲シーンは全部実弾。(この作品では実弾を使ったシーンは使われていません)
銃剣で腹を刺すシーンは、「ゆっくりやれ」、「ベルトに当てろ」と言われましても、なかなか怖い物です。
あと、この作品には使われていませんが、拳銃で自殺するシーンも撮りました。
いくら弾が入っていない事を何度も確認したとは言え、やっぱり実銃を頭に当てて引き金を引くのはかなり気持ち悪いものです。
しかもテイク5くらい撮り直したし・・・。
監督曰く今年の5月ごろまでには、それらの映像も使った作品をDVDでリリースするらしいので、完成を楽しみに待っています。

  


2018年01月28日

SOGの組織構造

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【お知らせ】

 このブログでも岡山県美作市が市営博物館に設置した『ホーチミン空間』なる展示に世界中のベトナム人から批判が集まっている事をお伝えしましたが、今月に入り、日本在住ベトナム人協会も、ホーチミン空間の撤去を求め美作市長および市議会議員へ送付する請願書へのウェブ署名運動を開始しました。

Change.org: 美作市作東芸術文化博物館のホー・チ・ミン像撤去に関する請願書

 私の別ブログ ベトナムウォッチに、日本在住ベトナム人協会会長グェン・フォン・カィン氏による日本語版請願文を掲載してありますので是非ご一読いただき、ご賛同いただけるようでしたらウェブ署名へのご協力をお願いいたします。



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【以下、記事本文】


 当ブログでは度々、米軍SOGが支援するベトナム共和国軍の特殊作戦機関 NKT(技術局, 英略称STD)について紹介にしてきましたが、SOGそのものについてはまだちゃんと解説していなかったので、今回は戦争当時SOG本部がペンタゴンの統合参謀本部に向けて作成した報告書"Draft MACSOG Documentation Study (U) (1970年7月10日)"に掲載されている組織図で、SOGの組織構造についてざっとまとめてみます。



※SOGの意味と邦訳について
 SOG (Studies and Observation Group)という組織名は、実は"Special Operations Group (特殊作戦群)"のカバーネームであるという噂が、現在のマニアはもちろん、当時SOGに所属していた兵士たちにも実しやかに信じられています。現在Studies and Observation Groupの日本語訳としては"研究・観測グループ"という訳が定着しており、多くのマニアが「『アメリカ軍最強特殊部隊』の名称に"研究"や"観測"という不相応な言葉が使われているのは、実態を隠すためのカバーネームだろう」と考えているようです。しかし私はこれに異を唱えたいと思います。
 まずStudyの意味は一般的には"研究"や"勉強"ですが、ジーニアス英和辞典によるとStudyはもともと"努力する"を原義としており、"専門とする"というような意味もあるようです。さらに複数形のStudiesの場合には研究対象の題目を表す時に用いられる事もあるそうで、例えば"cultual studies"で"教養学科"となるそうです。これは軍隊風に意訳すれば、"専門分野=技術"と捉える事ができ、SOGのようなアメリカ陸海空軍海兵隊・CIA・NSAなどから集結した各分野における特殊作戦の専門家集団の名称としては自然だと思います。また実際、SOGと一体で作戦を遂行するベトナム軍側の特殊作戦機関は"技術局(Nha Kỹ Thuật)"という名称です。その為この記事では、意味が分かり易いよう"Studies"を"研究"ではなく"技術"と訳しています。
 次に"Observation (観測)"ですが、これは科学の分野での観測だけでなく、"オブザーバー(観測者)"という言葉に表されるように、"意見する"も意味します。これもSOGの主任務であるベトナム軍特殊部隊への支援・助言と合致します。
 以上の点から、"Studies and Observation"は実態を隠すための無意味なカバーネームではなく、SOGの任務をありのままに表記した、非常に実態に即した名称だと私は考えています。
 
MACVと列記する場合の表記について
 SOGはアメリカ軍ベトナム軍事援助司令部(MACV, MAC-V))直属の機関であったことから、MACV-SOGあるいはMACSOGとも表記されます。民間の書籍ではMACV-SOGが一般的ですが、今回引用している報告書など、当時の米軍の公式文書ではMACVのVは省略されて"MACSOG"が使用されている場合が多いです。

作戦計画について
 SOG参謀および作戦部門の各部署は、ペンタゴンおよびCIAが策定した"作戦計画(Operation Plan)"に合わせて編成されていました。例えば作戦計画30(Operation Plan 30)の担当はSOG-30となります。なお、Operation Planの略称としてはOP, OPLAN, Opsなどが使われますが、意味はどれも同じです。




【SOGの全体像】

▲SOG組織図(1965年1月)

▲SOG組織図(1968年12月)

▲SOG組織図(1969年6月)

▲SOGとベトナム軍NKT(STD)各部署の対応関係



【SOG本部】

SOG-00 司令室 (Office of the Chief)

SOG-01 次席司令 (Deputy)
SOG-02 副司令 (Executive Officer)
SOG-03 特別補佐官(Special Assistant)
SOG-04 総監 (Inspector General)
SOG-05 本部支援隊 (Headquarters Support)


SOG-10 人事・管理部 (Personnel and Administration Division)


SOG-20 情報部 (Intelligence Division)



SOG-40 兵站部 (Logistics Division)



SOG-50 計画部 (Plans Division)


SOG-60 通信部 (Communications Division)



SOG-90 監査部 (Comptroller Division)



【SOG参謀部門】

SOG-30 / OP-30 作戦・訓練技術部
(Operations and Training Studies Division)


SOG-31 / OP-31 海上技術課 (Maritime Studies Branch)
SOG-32 / OP-32 航空技術 (Air Studies Branch)
SOG-33 / OP-33 心理戦技術 (Psyops Studies Branch)
SOG-34 / OP-34 地上技術 (Ground Studies Branch)
状況分析班 (Status and Analysis Section)




【SOG作戦部門】

SOG-35 / OP-35 地上技術グループ (Ground Studies Group)


OP-35はベトナム軍NKT連絡部(コマンド雷虎)で構成されたC&C部隊(SCU)による国境地帯への越境偵察作戦。
規模はSOG作戦部門の中で最大。また本部での指揮だけでなくSCU偵察チームの現場指揮もSOG-35隊員が担った。

▲SOG-35隊員
主に陸軍第5特殊部隊群隊員で構成

▲NKTコマンド雷虎(SCU)とSOG-35隊員(右)
雷虎は元々正規のベトナム軍人のみで構成されていたが、後にOP-35の規模拡大に伴い、CIDG兵士で構成されたプロジェクト・シグマやガンマのチームもSCUに編入された。


SOG-36 / OP-36 空挺技術グループ (Airborne Studies Group)


OP-36はNKT第11群および第68群による空挺降下潜入工作作戦。主に敵軍または民間人に変装して敵性地域に潜入し、情報収集および破壊工作を行う。
1961年にCIAの指揮の下開始されたパラソル・スイッチバック作戦を起源とし、1964年にOP-34AとしてSOG所管の作戦となる。後に作戦の実行はOP-36として独立した作戦となる。
SOG-36隊員は本部での指揮・運用のみで出撃はしない。

▲NKT第11群STRATAチーム(チーム111)

▲NKT第68群アースエンジェルチームとSOG-36隊員(左)


SOG-37 / OP-37 海上技術グループ (Maritime Studies Group)

OP-37はNKT沿岸警備部による海上からの越境工作作戦。1964年にOP-34Aとして開始され、後に作戦の実行はOP-37として独立した作戦となる。
SOG-37は当初はNAD(海軍顧問団)として編成され、主に本部での指揮・運用を担ったが、一部でSOG-37所属のSEALおよび特殊ボート隊員がNKT沿岸警備部部隊と共に出撃する事もあった。

▲SOG-37隊員
主に海軍および海兵隊員で構成

▲NKT沿岸警備局シーコマンド(特海部隊)とSOG-37のSEAL隊員

NKT沿岸警備局シーパトロール(海探部隊)のナスティ高速哨戒艇


SOG-38 / OP-38 教導技術グループ (Training Studies Group)


OP-38はNKTの各コマンド部隊への訓練計画サイゴン東部ロンタンに設置されたNKT訓練センター"クェッタン / イェンディ"を運営する。またOP-35の規模が拡大すると、C&C部隊のチームリーダー(1-0)を育成するため、SOG-35所属のアメリカ兵に訓練を施す『ワンゼロ偵察訓練プログラム(通称ワンゼロスクール)』も実施した。
SOG-38は主に陸軍第5特殊部隊群B-53分遣隊で構成され、NKT訓練センターのインストラクターを務めた。

▲SOG-38のインストラクターとNKTコマンド訓練生

SOG-38によるワンゼロ偵察訓練コースを受講するSOG-35隊員



SOG-39 / OP-39 心理戦技術グループ (Psyops Studies Group)


OP-39はNKT心理戦部による北ベトナム・ラオス・カンボジアへの心理戦工作。
宣伝ラジオ放送はOP-70でも行われたが、OP-39は偽情報による攪乱を行う、心理戦の中でも『ブラック』と規定される作戦を行った。
例えばベトナム人とカンボジア人の歴史的な対立感情を煽る事で、ベトナム共産軍とクメールルージュ間での対立を画策するなど、より攻撃的な心理作戦を担った。


SOG-70 / OP-70 ラジオ技術グループ (Radio Studies Group)


OP-70は当初はSOG-40として編成された、NKT心理戦部によるラジオ放送心理戦工作。
偽情報を流すOP-39と異なり、OP-70では『ホワイト』ないし『グレー』と規定される、概ね事実に基づいた情報を放送した。


SOG-75 航空技術グループ (Air Studies Group)

SOG-75はNKT航空支援部およびアメリカ軍飛行隊の運用調整を行う。
以下の飛行隊が常時SOG-75の調整の下、NKTによる作戦の支援にあたった。

SOG第1飛行隊(1st Flight Squadron): C-123輸送機
アメリカ空軍 第15特殊作戦飛行隊: C-130輸送機
アメリカ空軍 第90特殊作戦飛行隊: C-130輸送機
アメリカ空軍 第20特殊作戦飛行隊: UH-1Fヘリコプター
ベトナム空軍 第219ヘリコプター飛行隊: H-34ヘリコプター
アメリカ海軍: EC-121電子戦機

また上記以外にも必要に応じてベトナム空軍・アメリカ空軍の飛行隊を運用した。

▲SOG-75第1飛行隊

▲NKT航空支援部/ベトナム空軍第219飛行隊"龍馬”/キングビー飛行隊とSOG-75隊員


SOG-80 / OP-80 救難技術グループ (Recovery Studies Group)


OP-80はにNKT作戦部隊を支援する特殊作戦レスキュー計画。
人員はSOG-80 "統合捜索救難センター(Joint Personnel Recovery Center)"のアメリカ兵で構成され、行方不明となったNKTおよびSOGのコマンド隊員の捜索・救難を担った。
1973年にアメリカ軍がベトナムから撤退した後も、JPRCは"統合遭難者解決センター(Joint Casualty Resolution Center)"と改称してベトナムに残留し、NSA(国家安全保障局)およびDIA(国防情報局)の指揮下でアメリカ軍捕虜・行方不明者の捜索にあたった。
1975年にサイゴンが陥落すると、JCRC本部はハワイ ハーバーズポイントのNSA秘密施設972に移転。その後インドシナ地域を担当するJCRCは他の捜索機関と統合されていき、現在はハワイ州ヒッカム空軍基地に本部を置くJPAC(統合捕虜・不明者対策コマンド)となっている。




おまけ: ベトナム軍装ガイド制作進行中


 以前、アニメ風女性キャラクターが軍服を着ているイラストでベトナム軍装ガイドを制作している事をブログに載せてきましたが、その後気が変わり、男性の絵に描き直す事にしたので、時間がかかってしまいました。イラストさえ出来てしまえば、解説なんていつもブログで書いているのと大差ないので、完成まで大してかからないはずです。多分。
 残念ながら、これまで日本のベトナム戦争ヒストリカルにおいて、<フィクションではなく現実の>ベトナム共和国軍への理解度は非常に低いものだったと言わざるを得ない為、今後少しでも正しい情報が普及する事を祈って、イベントで最も需要があると思われる1968~1969年頃の軍装については無料公開しようと考えています。
 なお有料版では、仏領インドシナ成立後、初めてベトナムに国軍が創設された1948年から、サイゴン政府が消滅する1975年までの約30年分の各部隊の軍装を紹介する事が最終的な目標です。なのでこの軍装ガイドのタイトルは『南ベトナム』ではなく、『ベトナム』軍装ガイドなのです。