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2017年07月22日

EAリーフをレビュー

先日お伝えしたEast Asia Supplyの新商品、ベトナム共和国軍ERDLグリーンリーフ迷彩作戦服がCLASSIFIEDさんより発売となりました!

CLASSIFIEDさん商品ページ


先日アホカリに参加された方には現物をお見せしましたが、仕上がりは期待以上です!
生地はポプリン生地のERDLグリーンリーフ迷彩を再現しています。裁断はベトナム軍の迷彩服として最もオーソドックスなスタイルの、肩当・エポレット付き2ポケットジャケット、膝当て付き4ポケットパンツです。



ボタンはどのメーカーも再現を妥協しがちな部分ですが、今回のEAリーフのボタンは当時のベトナム製ボタン(厚手タイプ)の雰囲気を比較的再現できていると思います。


このくらいアップで見ると違いが分かりますが、着用してしてしまえば、ほとんど違和感は感じられません。
こだわりたい方は、完成度の高いCLASSIFIEDさんオリジナルのベトナム軍ボタンレプリカが発売されてるので、そちらに交換すればさらにリアリティが増すのでお勧めです。


雰囲気だしにTTSXQT(国防省軍需部装備生産センター)スタンプも再現されています。
この辺は着てしまえば分からないので、おまけみたいなものですね。


なお実際の服のサイズはスタンプされているベトナム軍被服サイズ表記通りではなく、現在一般的なUS-SからXLとなっているので、現代の私たちにはむしろ着やすい裁断となっています。


全体的に、コスプレやリエナクトで実用するには十分な再現度を誇るリプロであり、これを作ってくれたEAは流石だなと思います。
これが完売してしまえば、次にこのレベルのレプリカが入手できるのは何年後になるか分かりません。
ベトナム戦争コスプレに興味がある方は、迷わず最低一着は持っておくべき服だと思います!
さらに、この服さえあれば、1967年以降のベトナム共和国軍地上戦闘部隊の再現がほとんど何でも出来ちゃいます。

BĐQ (レンジャー大隊)

ND (空挺師団)

TQLC (海兵隊)


ĐĐTS (師団付き偵察中隊)

LĐNN (海軍フロッグマン/SEAL部隊)

LLĐB (特殊部隊)

NKT (技術総局)MACV-SOG


またこれらの部隊を指導していたアメリカ軍、オーストラリア軍のアドバイザーたちも同じベトナム軍リーフ迷彩服を着用していました。
このようにリーフは何着持っていても困らない服なので、手に入るうちにご注文される事を強くお勧めします!


  


2017年06月24日

フェニックス・プログラムとPRU


長年、様々な憶測をもって語られてきた『フェニックス・プログラム』と『PRU』ですが、近年米国では情報公開法に基づく情報開示請求によってベトナム戦争当時CIAが作成した内部文書が機密指定解除されて公開されており、またそれら一次史料を基に学術的な研究を行った論文が多数CIAの公式サイトに掲載されています。

米国CIA 情報研究センター(Center for the Study of Intelligence)

今回は、それらの中から、かつて実際にPRUを指揮した元アメリカ海兵隊将校が自身の体験も交えて記した以下の論文の抜粋をご紹介します。

The Tay Ninh Provincial Reconnaissance Unit and Its Role in the Phoenix Program, 1969-70, Colonel Andrew R. Finlayson, USMC (Ret.), Last Updated: Jun 26, 2008 07:13 AM

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※用語の表記について

[フェニックス・プログラム]
ベトナム語: Chương trình Phụng Hoàn (漢字: 章程鳳凰)
英語: Phoenix Program
ベトナム語の『Phụng Hoàn』を日本語訳すると『鳳凰』、『Phoenix』は『不死鳥』となるがこの記事では便宜的にフェニックス』を用いる

[PRU]
ベトナム語: Đại Đội Trinh sát biệt lập (ĐĐ/TS/BL) またはĐại Đội Trinh sát ĐPQ (ĐĐ/TS/ĐPQ)
英語: Provincial Reconnaissance Unit (PRU)
PRUはベトナム共和国軍地方軍のパトロール部隊であり、本来のベトナム語名から邦訳すれば『地方軍(独立)偵察中隊』となる。
中隊は省(地方軍小区)単位で編成されたため、『省の偵察隊』と言う意味で英語名のPRUは名付けられた。
PRUの日本語訳としては『地方偵察隊』が用いられる事が多いが、Provincialは『地方』ではなく『省』と訳すべきと思われる
この記事は英語文献からの翻訳の為、便宜的に英語表記のPRUを用いる。

[省]
国の地方行政区画である省(Tỉnh)にはそれぞれ地方軍の管轄区画である小区(Tiểu khu)が割り振られており、タイニン省(Tỉnh Tây Ninh)は地方軍の編成上、第3戦術地区/軍管区の『タイニン小区(Tiểu khu Tây Ninh)』となる。
つまりタイニン省PRUのベトナム語の正式名は『タイニン小区地方軍偵察中隊』となる。
なお、この記事では原文が省(Province)で統一されている事から、小区ではなく全て省と表記する。

[ベトコン]
ベトナム語: Việt Cộng(VC)
英語: Vietnamese communist / Viet Cong (VC)
ベトナム人が使う『Việt Cộng』と、アメリカや日本など外国で使われる『Viet Cong(ベトコン)』という言葉は、その意味する所が異なる。
ベトナムにおけるViệt Cộngは『越共』、つまり共産主義ベトナム人全般を指し、1930年代のインドシナ共産党に始まり北ベトナムのベトナム労働党政権、現在のベトナム共産党政権に至るまでベトナムに存在した全ての共産主義系組織を指す。
それに対して外国人が用いるベトコンは、ベトナム共和国領内に1960年から1976年まで存在した反政府ゲリラ組織南ベトナム解放民族戦線(MTDTGPMN)』のみを指す場合が多い。
普段このブログではベトコンをベトナム語の意味(共産主義組織全般)で用いているが、この記事では原文に倣い解放民族戦線という意味でベトコンという単語を用いる。

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タイニン省PRUとフェニックス・プログラムにおけるその役割、
1969-1970年

アメリカ合衆国海兵隊 アンドリュー・R・フィンレイソン退役大佐
(タイガ訳)

 フェニックス・プログラムはアメリカおよび南ベトナム政府がベトナム戦争中に行った政策の中でも最も誤解され、また物議を呼んだプログラムである。簡潔に述べると、これは南ベトナムにおけるベトナム労働党の政治基盤(以下、ベトコンインフラまたはVCI)を攻撃、破壊する事を目的とする一連のプログラムであった。(※1)
 当時フェニックスは機密事項であり、報道関係者が得られた情報の多くは誇張、捏造、または事実誤認であったため、このプログラムは大いに誤解された。そして米国やその他の国々の反戦運動家や批判的な学者は、このプログラム一般市民を対象とした違法で残忍な殺戮計画であるかのように吹聴したため、論争を巻き起こす事となった。
 残念ながら、これまでフェニックスについて客観的な分析が行われた事はほとんどなく、ベトナム戦争を研究する者の多くがこのプログラムを疑惑と誤解をもって見ていた。

 以下に、南ベトナムのタイニン省で行われた一連のフェニックスの一部始終の概要を示す。これらは限られた年代と地域における一例であるが、そこからは1968年のテト攻勢後の数年間でフェニックスが効果を発揮する事が出来た重要な要因の一つが見て取れる。それは全国で実施されたフェニックスの実行部隊たる省偵察隊(PRU)』に関する事柄である。


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フェニックスの構造
 フェニックスは1960年代にCIAが南ベトナムで実施した平定および農村警備プログラムの一つである。もし南ベトナム政府とアメリカが農民たちに対し、彼等を真剣にベトコンから守る意志があると説得できれば、農民自身に自衛の為の訓練を施す事で、米軍が直接介入せずとも南ベトナムの広大な農村地帯を敵から防衛する事が出来る。これが平定達成の為の条件であった。

 1967年までに、米軍ベトナム軍事援助司令部(MACV)は軍民全ての平定プログラムを『民事作戦および革新的開発支援(CORDS)』という一つの組織に統合する事に成功する。
 CORDSにはCIAとMACVが深く関与しており、サイゴン政府と共同で運営されていた。CORDSの指揮は当初、元CIA局員のロバート・H・コマーが執っていたが、CORDSが最も活発に活動し成果を挙げたのは1968年にコマーの後任として赴任したウィリアム・コルビーの時代であった。
 コルビーは1959年から1962年にかけてCIAサイゴン支部長を務め、その後はCIA極東地域部長の地位にあった人物であった。コルビーはアメリカが南部の村々を支配する共産主義系勢力を排除し、地方のベトコンインフラ(VCI)を根絶しなければならないと確信していた。そのためCORDSは村落防衛・民事活動プログラム─後に土地改良、インフラ建設、経済発展を含むに取り組み、VCIの根絶に相当の労力を費やした。

 CORDSのもう一つの要素がフェニックス・プログラムであった。(※2) フェニックスは表向きはサイゴン政府によって運営されていたが、実際に資金を提供しその活動を管理していたのはCIAであった。フェニックスは南ベトナムの100以上の省および地区でVCIに関する情報を収集し、野戦警察および準軍事組織によるベトコン掃討の基礎となる情報を提供するためにCIAが構築した情報作戦委員会(Intelligence operation committees)』というネットワークを基礎に構築された。

▲フェニックス・プログラムを非難するポスターに描かれたウィリアム・コルビー。CIA史料写真。年代不明

 基本的に、この委員会の活動は、VCI活動者と目される人物のリストを作成する事であった。一度VCIメンバー個人の名前、階級、居場所が判明すれば、CIAの準軍事部隊、南ベトナムの警察または軍隊がその人物を拘束し、共産主義組織の内部構造と活動に関する情報を得るために取り調べた。
 このリストはベトナム国家警察、米海軍SEAL、米陸軍特殊部隊群、そしてタイニン省を含む各省PRUなどのフェニックス実行部隊に使用された。そしてこれらの部隊は村落に出向き、指定された人物を特定し、その"中和(Neutralize)"を試みた。リストに記載された人物は取り調べのために逮捕・拘束され、抵抗した場合は殺害された。当初CIAはベトナム側の協力の下、省または地区政府レベルで取り調べを行っていた。その後、このプログラムがサイゴン政府に移譲されると、CIAは情報収集活動のみを担当した。最終的に、CIAと米軍軍人合わせて約600名のアメリカ人がVCI容疑者の取り調べに直接関与した。

 PRUはフェニックスにおいて恐らく最も物議の的となった要素である。彼は元々1964年に南ベトナム政府とCIAによって創設された準軍事特殊部隊であり、当初彼は対テロ部隊と認知されていた。PRUには最終的に4,000名以上の兵士が所属し、南ベトナム領内の44の省の全てで活動していた。PRUは1969年11月まで米軍将校および上級下士官によって指揮されており、それ以降はCIAのアドバイザーに引き継がれた。
 米国のベトナムへの関与に批判的な人々は、PRUは殺戮部隊に他ならず、戦争全期間を通じたVCI死者数の内、南ベトナム軍・警察および米軍との戦闘による戦死者以外のほとんど、すなわち全体の14%がフェニックス・プログラムの期間中にPRUによって殺害されたと主張している。

 1972年のCORDSの報告によると、1968年のテト攻勢以来、フェニックスは5,000名以上のVCIの活動・軍事行動を阻止し、そして2万名を超えるとみられるVCIがフェニックスの成果によって─ベトコン組織から脱走した。またMACVは、フェニックスおよびテト攻勢に対する米軍の反撃は、他の農村保安や民兵プログラムとも相まって、投降、拘束または殺害によって8万名を上回るVCIを無力化したと主張している。
 ただしこれらは多く見積もった場合の数字であり、実際にはその数は各々の統計の信頼性に左右される。しかしながら、ほとんどの─ベトコン側を含む─資料に共通している点は、フェニックス(1971年終了)およびその他の平定プログラムはVCI組織を地下深くに追いやり、実質的な活動が不可能になるほど弱体化させたという事である。フェニックスおよび同盟軍の活動はVCIに深刻な打撃を与え、1972年のイースター攻勢や1975年の時点でも、VCIおよびベトコンゲリラ部隊の活動は見られなかった。


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※2. 1967年末、南ベトナム首相は政府が行う対VCI活動の全てを一つのプログラムに統合し、それを特別な力を持つ神話上の鳥"鳳凰(Phụng Hoàn)"と名付けた。コマーはそれをアメリカ人顧問に分かり易いよう、欧米で鳳凰に相当する"不死鳥(Phoenix)"と名付けた。

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(中略)
※訳者注: ベトナム戦争中アメリカ海兵隊将校としてフォースリーコン、後に歩兵中隊長を務めていた筆者は1969年にPRUでの勤務を希望し、CIAの面接を受けて採用され、1969年9月にPRU指揮官としてタイニン省に赴任する。

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 タイニンに到着すると、私は省政府担当官(PIOC)─実際には省政府付きのCIA上級局員で、日々我々の活動を監督している─が率いるアメリカ人チームと合流した。私はチームのメンバーから、我々は二人の"ボス"の下で働くことになる事を教えられた。一人はアメリカ側のPIOC、一人はタイニン省における作戦権限の全てを司る南ベトナム側のタイニン省長官である。翌日、私は省長官と面会した。彼は英語の堪能なベトナム軍の中佐であり、有能で自信に満ち、尊敬されるリーダーである事が分かった。私にとって彼は理想的なリーダーであり、南ベトナムの省政府関係者によく見られるような堕落した部分が一切ない人物に見えた。


タイニン省PRUの隊員たちとは?

 タイニン到着の二日目、私は比較的カジュアルな会合、私が指揮・助言する事になる92名のタイニン省PRUメンバーたちの多くと初顔合わせをした。彼は皆勇敢で経験豊富な兵士で、一部にはかつてカオダイ軍(ベトミンと戦った民兵)や南ベトナム軍空挺師団、米軍特殊部隊に指揮された不正規民間防衛隊(CIDG)に所属した経験がある者も居た。またPRU隊員のほとんどはカオダイ教徒であり、一部にローマ・カトリック教徒、そしてクメール族が2・3人所属していた。彼皆ベトコンに対し深い憎しみを持っている人々であった。その主な理由は、や彼の家族がベトコンによる残虐行為の被害者だったからでである。彼にとって宗教と家族は人生で最も大切なものだった。

 タイニンPRUは18人編成のチームが5チームで構成(各チームは3個の分隊で構成)され、4チームがタイニン省の4つの地区それぞれに、1チームが省都タイニン市に配置された。タイニンPRU本部はタイニン市チームと合同で設置され、司令官と作戦将校の2名が指揮を執った。またタイニン市チームの指揮官はタイニンPRUの副指令も兼務した。
 PRUの武装はM16ライフル、M60マシンガン、45口径自動拳銃、M79グレネードランチャーであったが、各々の隊員はそれらに加えて個人的に入手した様々な武器を持っていた。さらに部隊にはPRC-25無線機、7x50双眼鏡、医療キット、トヨタ製四輪駆動トラック、ホンダ製のオートバイが装備されていた。隊員たちは地区本部の駐屯地では私服を着ており、前線ではタイガーストライプもしくはブラックパジャマを着ていた。また部隊付きの米軍アドバイザーも同様の装備・武装であった。

▲タイニン省PRUとフェニックス・プログラムにおけるその役割、1969-1970年 より

 私がPRUの作戦能力についてまず初めに感じた事は、各チームはほとんどの状況でうまく機能しているものの、火力支援に関する部分が欠けているという事であった。つまり、各チームは火力支援の下で効果的に行動する事が出来ず、また支援兵器(一般的には砲撃)に対して射撃要求や調整を行う事が十分に出来ていなかった。そのため部隊は敵と偶然遭遇した場合や、敵側がこちらと戦う用意をしている場合にはうまく機能しなかった。
 これは彼が受けていた非体系的かつ不安定な訓練にある程度原因があった。PRU隊員たちのほとんどはPRUに来るまで精強な戦闘部隊で何年も生き残ってきた経験豊富な元軍人であったが、一方で一部は初歩的な野戦訓練しか受けていないか、もしくは非戦闘部隊で勤務していた者たちであった。PRUの訓練は国レベルでは南シナ海沿岸にあるブンタウ近郊のキャンプで行われたが、地方レベルでは活動の順延が許される状況の時のみ米軍司令官とアドバイサーが訓練を施していた。その結果、訓練の頻度や部隊の能力はまちまちになっていた。

 一方、PRUの強みはタイニン省の住民や地理に関して深く完全な知識を持っている事である。この知識こそが訓練の欠点を補い、地方のVCIに対する作戦を成功に導いた核心であった。この地域に根差した知識は対VCI情報網を発展させ、体系的な作戦の計画に大いに貢献した。またPRU隊員は擬装、潜伏、そして夜間行動に精通していた事から、結果として彼は決定的な戦果を得るために待ち伏せ攻撃に特化する傾向があった。


情報源

 CORDS関連のシステムの導入により、タイニン省PRUは理論的には幅広い有用な情報源を持つ事ができ、地方の諜報員レポートから国家レベルの情報機関まで全ての情報を地区情報作戦調整センター(DIOCCs)を介して得られ、米軍の地区アドバイザーはその地区のPRUの作戦優位性を確保できるはずであった。なお、省レベルでも整合をとるため同様の組織構造が存在したが、省におけるアメリカ人PRUアドバイザーの役割はあくまで、地区付きの軍事顧問という地位に充てられていた。
 しかし実際には当事国の事情により、地区レベルでも一部の指揮権はアメリカ側だけでなくPRU側と共同という事になっていた。ベトナム国家警察、ベトナム特別警察、そして地区指揮官との間にはいささかの管轄争いがあり、それが現場におけるPRUの優位性を妨げる事もあった。
 同様の問題はアメリカ側にも存在しており、米軍司令官や民間のアドバイザーは歩み寄りを拒んでベトナム側と情報を共有する事に消極的であった。情けない事に、アメリカの民間アドバイザーはサイゴンのアメリカ大使館から特にそうするよう指示を受けた場合であってもPRU側と情報を共有する事を渋っており、さらに彼の多くは仕事の成果を横取りされないよう、他の米国機関との情報共有にすら消極的であった。
 理屈の上では、DIOCCのシステムは作戦運用の向上や実行時に大いに役立つはずであった。しかしながら、個人の非協力的な姿勢と官僚的な組織対立のために、タイニン省では概してこの仕組みは正しく機能していなかった。

 一様に不正確だった情報源が、米軍情報部隊によって組織された諜報員からのレポートだった。私がPRUアドバイザーを務めていた10か月間、PRUが米軍から受け取ったレポートの中で価値のある情報と判断されたものは一つもなかった。米軍は諜報員に対し歩合制で報酬を支払っていた為、価値のないレポートの乱造を引き起こしていた。
 同様にベトナム国家警察からの諜報員レポートも役に立たず、場合によっては危険なほど不正確だった。国家レベルでもたらされる情報は正確だったものの、それらはしばしばVCIには関連性のない情報だった。彼等は省内からVCIを根絶する上で、PRUの活動にさほど重きを置いていなかった。

 PRUにとってある程度重要で価値のある情報は、ベトナム特別警察が省政府取り調べセンター(PIC)で容疑者への尋問によって聞き出したものであった。PICに収容されている容疑者の多くがVCIのメンバーと活動について正確でタイムリーな情報をもたらしてくれた。これはそう頻繁にある事ではないが、そういった情報がPRUと共有されれば通常大きな成果に結び付いた。
 そして特に重要だったのは、チューホイ・プログラム(Chieu Hoi Program)によって南ベトナム政府側に転向した多数の元ベトコン達だった。彼等"Hoi Chanhs (転向者)"は南ベトナム政府に降伏後PICで取り調べを受け選抜された者たちであり、彼等はしばしば高烈度競合地域におけるVIC容疑者逮捕のためPRUチームを先導する任務に志願した。転向者たちは通常、他の容疑者よりもはるかに信頼度が高く、彼等がかつてベトコンゲリラや北ベトナム兵(NVA)であったのにも関わらず、彼等はVCI目標に関する有用な情報をもたらしてくれた。

 また分析に時間を要し利用も簡単ではなかったものの、しばしば生産的だったもう一つの情報源が、1963年から64年にかけて不服調査(Census Grievance)チームが蓄積した膨大なデータの数々であった。このチームは国勢調査の際に住民との面談を行い、その思想の傾向を密かに調査した。そして各世帯の南ベトナム政府への忠誠度を色で表した地図を省・地区・村落単位で作製した。緑の世帯は政府に従順であり、黄色は中立、赤はベトコンに同調的である事を示していた。
 さらにこの地図に記載された各世帯の家族構成の名簿には、VCIメンバーないし共産主義に同調する者の名が含まれている事がよくあった。そのためこれらのデータはタイニン市内にあるCIAの施設に保管され、米国の運用指導アドバイザーによって定期的に見直しが行われていた。ほとんどの場合、その名簿からは容疑者にたどり着けないか、既に死亡している、または共産主義シンパとして逮捕されていたように、その情報は古く活用困難だった。しかしその一方で、いくつかの例において、この不服調査マップによる情報の成果としてVCI中堅の重要人物を逮捕ないし討伐出来た事は特筆に値する。もしこの地図がデジタル化され、データベースに簡単にアクセスできたならば、情報収集にかかる時間は大幅に短縮され、より多くの作戦を優位に進められたはずである。

 しかし、これらよりはるかに多くPRUの情報源として用いられたのは、PRU独自の諜報システムであった。先に記したように、他の情報機関はVCI目標に関する情報を共有する事に消極的であったため、タイニン省PRUは自前の情報源を開拓する事を余儀なくされた。タイニン省PRUの隊員は、全員ではないにしてもほとんどの者はこのタイニン省で生まれ育ち、この省の住民として働き生活している者たちであった。彼等は皆地域社会の一員であり、また彼らの家族・親戚はタイニン省の至る所で、あらゆる職業に関与していた。PRUはこうした親類からの情報提供を通じて、村落レベルでVCIの活動を調査し、VCIに関する正確な情報を上手く収集する広域情報システムを構築するに至った。
 多くの場合、PRUに捕らえられたVCI幹部は、PRU隊員たちにとって個人的に、むしろ子供のころからよく知っている人であり、彼等はVCI容疑者の家族と私生活についても詳細を把握していた。そのため、時にはPRU隊員は自ら諜報員としてVCI内部に潜入する事にすら成功していた。
 彼等のVCIに関する非常に正確で深い知識は、幾度も作戦の優位性と、複数のVCI重要人物の討伐につながった。私がタイニン省PRUの米国側アドバイザーであった期間中、PRUによって逮捕ないし討伐されたVCI容疑者のおよそ2/3が、PRUが構築した生活の中での諜報活動システムによって特定された人物であった。


運用上の関係

 PRUプログラムはアメリカのCORDS、そしてベトナム内務省の管理下にある全国規模の組織であるものの、実際には各省の"実力部隊"であった。PRUに下される逮捕命令や作戦命令にサインする事が出来る指揮権限者は省長官ただ一人であり、彼がPRUの運用方針と権限の全てを握っていた。
 そのため私はタイニン省付きの米国側PRUアドバイザーとして、ベトナム軍・アメリカ軍双方の調整をしながら作戦の計画を練っていたが、それは私には耐えがたい事であった。タイニン省PRUがVCI目標に対して何らかの作戦を行う際には、私は毎回タイニン省長官に書面で作戦遂行の許可を要請し、長官の承認とサインを得なければならなかったのである。
 とは言え長官と彼の側近、米国側アドバイザーは毎日のように顔を合わせていたので、この件がPRUの作戦遂行を実際に妨げる事はなかった。省の下位の地区レベルでは、ベトナム側の地区司令官は米国PRUアドバイザーと省長官の承認を経ずにその地域のPRUを作戦に投入す事は出来なかった。しかしそれでも、地区情報作戦調整センター(DIOCC)は運用要請を迅速に処理できるよう組織されていた為、私の在任中、地区レベルでのPRUの作戦承認に遅れは見られなかった。


アメリカが関与する役割の変化による影響

 私のPRUにおける立場が変わる時がやってきた。1969年9月にPRUの"指揮官"として配置された私は、同年11月以降"アドバイザー"という肩書に変わった。それまでPRUの"指揮官"には米軍の将校や上級下士官が割り当てられていたが、この仕組みは11月以降変更された。それは米国国内でフェニックス・プログラムが残虐な作戦であると認識されてしまった事、そしてその残虐だという主張がこの戦争への支持を打ち消してしまう事をMACV司令官クレイトン・エイブラムス将軍が懸念した為であった。
 11月、エイブラムス将軍はPRUに配置されたアメリカ兵の肩書を"指揮官"から"アドバイザー"に変更する命令を下した。彼はまた、アメリカ人はPRUチームに同行して現場に赴く事はない、とも規定した。これは、アメリカ人が軍法統一規定(The Uniform Code of Military Justice)に抵触する恐れのある活動に関与する可能性を避ける為であった。
 私自身はエイブラムスや彼の参謀がこれらの制限を設定した時、その理由については関知していなかったが、これだけは言える。タイニン省での任期中、私はアメリカ人・PRU隊員のどちらも軍規に反する作戦行動を行った例は一度として見た事がないし、聞いたこともなかった。

▲タイニン省PRUでは正式な隊伍を組む事は稀であった。これは米陸軍第25歩兵師団との合同作戦中に勇敢な行為のあった4名のPRU隊員が米軍からブロンズスター勲章を授与される際の写真である。撮影: 筆者
 
 この新たな方針はタイニン省の兵士たちから士気と実効性を奪い去った。PRUは危険な作戦にも同行して米軍支援部隊、特に救急ヘリコプターや砲兵部隊との無線交信を担うアメリカ人に大きく依存していた。アメリカ人による手引きが失われたことで、PRUはC戦区(War Zone C)やカンボジア国境のアンタィン・カイメー地域などのタイニン市北部及び西部競合地域への出撃を躊躇するようになっていった。もし緊急事態に直面した場合でも、アメリカ人が一緒でなければ米軍ヘリによる救護避難、火力支援、そして緊急脱出が受けられない事を彼等は知っていたからである。
 タイニン省PRUにとって、その問題は小さくはなかった。チームは北ベトナム軍の第5、第7、第9師団が展開する地域内で活動していた。軽武装のPRUは、もし北ベトナム軍やベトコン主力部隊との戦闘に遭遇した場合、速やかに米軍による火力支援を受ける必要があったのである。

 1969年11月以降、タイニン省PRU隊員たちが進んで競合地域に出撃するようになるまでには数ヶ月の長い訓練を要した。私のPRUへの忠義とリーダーシップというものへの理解に立脚し、私はMACVが課した制限に対し度々疑問を感じていたことを認めざるをえない。私は正式に方針の見直しを上申したが、その要請は却下された。


PRUチームがVCI壊滅に成功した理由とは?

 私の体験が必ずしも他のPRUアドバイザーや部隊に当てはまる訳ではないと思うが、少なくとも私の任期中、タイニン省PRUは成功を収めた部隊だった。1969年9月から1970年6月までにタイニン省PRUは31名のVCIを討伐、64名を逮捕した。一方、PRU隊員の損害は戦死2名、負傷2名のみであった。
 テト攻勢後の数ヶ月間でVCI上級幹部の大半がタイニン省PRUによって討伐または逮捕されたか、隣国のカンボジアに逃亡した事が1968年12月初旬の時点で明らかになっていた。私が1970年6月にベトナムを離れる頃には、ベトコンはあらゆる面で政治的脅威としての存在感を失っていた。
 PRUの活動が高い成果を挙げていた事実は、1975年に共産軍が南ベトナムを敗北させた際にも証明された(※4)。タイニン省を占領した北ベトナム軍司令官は、すぐさまこの地に200名の民間政治幹部を派遣するよう北ベトナム政府に要請した。彼の報告によると、戦後タイニン省の統治に携わるはずだったベトコン幹部は、この時点でたった6人しか残っていなかったという。
 タイニン省PRUが成功を収めた主な理由、それは彼等が省内、住民、そして敵側の事情に精通した集団だったからであった。また彼等には規律、強力なリーダーシップ、そしてベトコンを壊滅させるという個人的かつ激しい動機が備わっていた。彼等は敵に付け入る隙を与えない正確で非常に効率的な諜報システムを持っており、それらは家族との強い絆と宗教、そして住民との信頼関係に支えられたものであった。
 アメリカ人司令官およびアドバイザーが果たした役割は重要なものであった。しかしどの省でも、1年以上勤務した者はほとんど居なかった。私(そして同輩のPRUアドバイザーたち)もPRUに貢献するため、そういった信頼関係を築きたいと思っていたが、結局、それは私(そして我々)には成し得ない事であった。アメリカ人が南ベトナムを去った後も長らく、タイニン省PRUはVCIの根絶に従事し続けた。この作戦のコンセプトはアメリカ側の発案であったが、その実行と応用は完全にベトナム側によるものだった。

 1975年4月のサイゴン陥落以降、タイニン省PRU隊員たちの人生は一転して悲惨なものとなった。彼等は捜索に遭い逮捕もしくは殺害された。多くの者が再教育収容所に投獄され、長期間拷問と強制労働を強いられた。その内一部の者は収容所を脱出し、アメリカ政府から住居と就職先が与えられアメリカに定住した。
 しかしほとんどの者は処刑されたか、収容所の劣悪な環境の中で死亡した。ただしごく一部の者は決して降伏せず、彼等PRUの生き残りは"黄龍(Yellow Dragons)"と呼ばれる"残存"部隊を組織し、ベトナム共産党と南部のシンパに対する戦いを続けた。その活動は1990年代に入ってもタイニン省の共産政権当局によって報告されていた。

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※4. 私がベトナムを去った後のタイニン省におけるVCIの状況に関しては、1985年にアメリカに亡命した2名の元タイニン省PRU隊員たちから聞き取った情報である。

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教訓

 タイニン省での経験を踏まえて、私はある部隊がPRU同様に組織、装備、訓練されている場合、他の地域や時代でもPRUのような成功を再現できるかを時折考える。武装勢力を特定・逮捕するため地域社会の人間で構成された特別警察は、我々が信じる民主主義の原則に沿った上で成功するだろうか?私は、PRUに備わっていた以下の条件が満たされさえすればそれは可能だと信じている。

 特定の政府関係者や政治指導者だけでなく、国民に対し責任を負う、プロフェッショナルそして市民としての倫理観が部隊に浸透している事。
 高い水準のプロフェッショナリズムに装備・訓練されている事。
 給料が十分に(そして定期的に)支払われる事、そして具体的な成果には報酬を与える事──これは腐敗や敵の浸透を防ぐ重要な要素である。
 部隊はその者らが属するコミュニティーの者だけで構成し、小規模でも強固な絆のチームを編成する事(ベトナム戦争中、南ベトナムの人口1700万人強の内、PRU隊員だった者は4,500名足らずであった。それはPRU隊員のほとんどが生まれも育ちもその省という地元住民に限定されていたからである)。 これによって彼等は的確に司法と政治の監視下に置かれ、有効な法的権限を持つ者の命令無しに、認められていない手段の作戦を行う事が出来ない。
 部隊は別の場所に移動している間、対象の個人を識別するという目的を超えて捕虜を尋問・監禁する権限を持たない事。PRU型部隊は他の警察部隊、特に犯罪捜査および逮捕に関わる者とは明確に区別される事。
 隊員とその家族を報復の可能性から保護し、個人名が報道関係者や部外者に漏れないようにする事。
 最高水準の専門的かつ論理的なリーダーシップが提供される事。
 南ベトナムのDIOCCsのような省庁間の調整機構を通じて、目標に関する完全な情報を得られるようにする事。
 もしアメリカ人アドバイザーがそれらの部隊に配置される場合、その者は事前に言語・文化・情報管理・小規模部隊戦術、幕僚計画について専門的な訓練を受ける必要がある。

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以上のフィンレイソン大佐の論文も踏まえて、フェニックスとPRUに対する僕の認識をまとめると、以下になります。

・フェニックス・プログラムとは米国CIAが主導したベトナム政府による一連のベトコン政治基盤(VCI)破壊工作
フェニックス・プログラムの実行は米国CIA・米軍MACVの下部組織であるCORDSが担った。
・CIA、ベトナム国家警察などの情報報機関が収集したVCIに関する情報はCORDSによって調査・整理される。
CORDSが入念な捜査によって目標を特定すると、各省のPRUや国家警察野戦警察隊米海軍SEAL、米陸軍特殊部隊に逮捕命令が下る。
・PRUは省政府(地方軍小区)の保有する対ゲリラ部隊であり、CIAから派遣された米軍人アドバイザーによって指揮された。
PRU隊員やその家族はその地域の住民であるため、地元のVCIについては政府や米国の情報機関よりも正確な情報を得られた
・逮捕されたVCI容疑者は省政府の取り調べセンター(PIC)に連行され、特別警察によって取り調べを受ける。
・PRUの任務は容疑者の逮捕であり、尋問を行う権限は無い。
・PRUは競合地域内に潜伏するゲリラの逮捕を行っていたため、ゲリラ側が抵抗した場合は戦闘の末殺害する事があった。
一般市民は概してPRUに協力的であり、市民からの情報提供によって国内のベトコン組織はほぼ完全に壊滅した。

 これらはベトナム共産党を支持する者や、その宣伝を信じた人々が書いた本を鵜呑みにしている多くのミリタリーマニアの認識とは真逆ではないでしょうか。"CIAの秘密殺戮部隊"・・・。マニアにとっては夢のあるお話なんでしょうが、それにはかなりの誇張、捏造が含まれていると考えます。あるのはただ、年間2,000人もの人々を虐殺しているベトコンというテロ組織を、あくまで司法に則った形で追い詰め、郷里と家族、信仰を守ろうとした父や夫たちの姿でした。

  


2017年06月05日

QC/軍警隊

※2017年6月6日訂正・追記

もう3年も前の記事ですが、ヘルメットと腕章の訂正・補足です。
ベトナム共和国軍の"Quân Cảnh"について、当時分からなかった事が分かってきたので、新たに記事にします。

その前に、僕は今まで慣例通りQuân Cảnhを"憲兵"と日本語訳してきましたが、ちょっと表記を改めようと思います。
実はベトナム共和国には1950年代に、フランス国家憲兵隊(Gendarmerie nationale)に倣った軍事警察組織"ベトナム国家憲兵隊(Hiến Binh Quốc Gia)"が存在しており、その"Hiến Binh(HB)"の漢字表記は"憲兵"でした。一方、国家憲兵隊の下部組織として1955年に発足し、1961年に共和国軍内の独立した兵科に昇格した"Quân Cảnh(QC)"の漢字表記は"軍警"です。
国家憲兵隊が一般人も対象とした犯罪捜査を行う司法機関だったのに対し、QCはあくまで軍内部の秩序維持を第一義とした組織であり、その性格は全く異なるものでした。
従って国家憲兵QCを混同するのはよろしくないため、今後はQCを"軍警"と表記していこうと思います。
(ただし軍警隊には1966年に犯罪捜査を行う軍警司法中隊が発足し、過去の国家憲兵としての役割も復活させます)


以下、現在手元にある情報をまとめた軍警科(Binh chủng Quân cảnh)部隊の一覧です。


出典:
Gia Đình Mũ Đỏ Việt Nam "Huy hiệu Binh Chủng Quân Cảnh"
その他ベテランの証言より


当時の軍警隊の写真からはXIやXIVなどのヘルメットマーキングが見てとれるので、少なくとも軍警大隊は第14大隊まで存在しているだろうと予測はしていましたが、それらが具体的にどこを所管している部隊なのかは長年さっぱり分からないままでした。それがようやく分かってホッとしています。

▲フーコック島の共産軍捕虜収容所(Trại giam TBCS / Phú Quốc)を運営する第14軍警大隊


ちなみに現在の社会主義ベトナムでは、これらの捕虜収容所では軍警によって日々残虐な拷問が行われていたと宣伝され、歴史資料館にはご丁寧に実寸ジオラマまで展示されていますが・・・



世界中のメディアが特ダネ求めてスキャンダルを嗅ぎまわり、赤十字国際委員会も常駐してジュネーヴ条約履行を監視している中で、どうやってそんな事が行えたんですかねぇ?


むしろ西側諸国で反戦(と言う名の反米・親共)運動が盛り上がる中で、ベトナム共和国政府は捕虜に対しこれでもかと医療、教育、職業訓練、クリエーションなどの手厚い待遇を施し、それを国際社会に示して自らの正当性をアピールするのと同時に、共産軍兵士の戦意を削ぐ心理戦術として活用していました。



 


写真: flicker "Trại tù binh Phú Quốc 1973", By: manhhai 

もちろん、これらの写真だけでは捕虜虐待が無かった証拠にはなりませんが、少なくとも共和国軍政治戦総局が1963年より実施している『チューホイ(Chiêu Hồi)計画』では、実際にこれら厚遇を受けた多数の捕虜が政府側に転向し、ラジオ放送や伝単などを通じてベトコン側に投降を呼びかけた事で、1971年の時点で累計17万人以上のベトコン兵士が脱走・投降してサイゴン政府側に寝返っています。
参照: Psywarrior, "THE CHIEU HOI PROGRAM OF VIETNAM", by SGM Herbert A. Friedman (Ret.)

戦わずして敵兵力を十数個師団分削る事が出来る訳ですから、こんなにコストパフォーマンスの高い戦術は他にはなく、ベトナム共和国政府・軍はこの政策を本気で行っていた事は確かだと考えます。
  


2017年06月01日

つるつるヘルメット

 『ベトナム軍のM1系ヘルメット その1』で少し書きましたが、ベトナム共和国軍では米国製M1ヘルメットに加えて、ベトナム国産のM1ヘルメットも1960年代半ば以降大量に使用されていました。このベトナム国産ヘルメットはオリジナルのM1と異なり、反射防止の砂吹付塗装が省略され、表面がツルツルなのが大きな特徴でした。
 また塗装も米軍のようなオリーブドラブではなく、「青みがかった緑」のような色を多く見ます。例えるなら、昔の黒板の色とでも言いましょうか。
 またレンジャー科・空挺科・空挺コマンドなどのエリート部隊や、歩兵科の一部ではこの国産ヘルメットに迷彩塗装を施したものも使われていました。その迷彩パターンは部隊によって様々ですが、当時の写真からは、迷彩を描きこんだ上に塗装面を保護するためのクリアーコーティングが施され、ツルツル感が一層増している物が多く見られます。ただし一部では明らかにクリアーが吹かれていないものも見ますし、また前線ではヘルメットは大抵泥や土埃をかぶって汚れているので、表面がどういう仕上げなのか写真からでは判断できない例も多々あります。


 ベトナム軍装やるからにはこの国産ヘルメットは喉から手が出るほど欲しいアイテムなのですが、あれだけ大量に使われていたこのヘルメットの実物は、不思議な事にほとんど市場に流通していません。みんな戦後に回収されて、溶かして鍋だか鍬だかにリサイクルされちゃったのかな。

 ちなみに、欧米や日本で『実物ARVNヘルメット』として売られているヘルメットはほぼ全て米国製M1であり、しかも揃いもそろって「売れそうな」60年代のレンジャー科の黒豹マーキングが描かれているので、ほとんどは戦後に業者が作ったフェイクだろうなと思っています。徽章やベトナムジッポーにも言える事ですが、真贋を見極める上で「ベトナムの倉庫で見つかった」という触れ込みはほとんど意味を持ちません。だってベトナム人は外国のマニアが高い値段で買ってくれるのを知っているから、実物を装ったフェイク品を作りまくってるもん。マニアと言ってもピンキリだから、ベトナムで見つかった=本物と信じて大金払う人が沢山いるんです。僕も昔は、今見るととんでもない低品質のニセモノに高い金出してました。まぁ、マニアの世界は自己責任なので、自分の眼力が足らなかったと反省するしかないです。

 話を本題に戻して、この国産ヘルメットの実物はたぶん今後もそうそう手に入らないので、コスプレ用に自分で作る事にしました。幸い形状は米軍のM1と全く同じっぽいので、Amazonで買った激安レプリカM1を素材に出来ます。

開封して即、ペイントリムーバー(塗料はがし)をハケで塗布。

数十分で塗装面はデロデロ。あとはワカメみたいに柔らかくなった塗装面をスクレーパーやスポンジタワシで落としていきます。

綺麗になりました。このレプリカ、米軍用としては値段なりにショボいですが、つるつるヘルメットの素材としては申し分ないです。

さて、ここから塗装を施していきます。まず、金属面にそのまま塗装すると塗料の食いつきが悪くて剝がれてしまうので、メタルプライマー(金属用下地塗料)を塗布します。今回は塗料も一緒に模型屋に買いに行ったので、プラモ経験者にはお馴染みGSIクレオスのMr.メタルプライマー改 スプレータイプを使いました。

次に塗料を調色します。今回は1回目という事で、まず基本の「青緑」塗装を再現する事にしました。とは言え実物が手元に無く、ネットでも実物コレクションを載せているページは見つからなかったので、色は当時のカラー写真を見ながら推測で作るしかありませんでした。

ヘルメットは野外のリエナクトメントで実用するものなので、塗装が簡単には剥がれないよう、被膜が強いラッカー系のMr.カラーを使いました。色は、今後も調色する際に分かりやすいよう、シンプルにのブラック、ブルー、グリーンの三色を使ってみました。

写真を見ながら調色していった結果、結局比率はブラック、ブルー、グリーンそろぞれ1:1:1くらいが丁度良くなりました(※下に追記あり)。ただし色に関しては光の具合でいくらでも違って見えてしまうので、今後も検証が必要だと思っています。これをエアブラシで吹くので、うすめ液を1:2で入れて希釈します。

約9年ぶりにエアブラシを使用。実はこのエアブラシとコンプレッサーは、元々は僕が買ったものですが、僕がプラモを作らなくなったので友人に煙草1カートンと引き換えに譲った物です。しかし今回ヘルメットを塗装するにあたって調色した塗料を広い面積に塗る必要があったため、急遽友人に「あのエアブラシまだある?」と連絡を取って借りてきました。なんでも友人も、家が新築だし、まだ小さい子供が二人もいるわで、とてもプラモを作る余裕は無く、このエアブラシもほとんど使っていなかったそうです。でも家に行ったら、まだ作っていないガンプラの箱は何個も積んでありました。奥さんに捨てられないよう気を付けてね~(笑)

いざ塗装開始。エアブラシで何度も重ね塗りしていく。思った以上にヘルメットって塗る面積が広くて、ブラシのサイズを最大にしても全然塗り進まない。その上塗料をえらい消費します。結局塗料は計50ml、うすめ液は100mlくらい必要でした。スケールモデルの感覚でやっちゃダメですね。

色付けが終わったら、つるつる感を出すためにMr.スーパークリアー 光沢を塗布。そして最後に、コンパウンドとして金属磨き用のピカール液をウエスに付けて磨いていきます。この磨き作業をする為に、被膜の弱い水性ではなく、強度の高いラッカー系の塗料・クリアーを使いました。おそらく実物も水性ではなく、ラッカー系で塗装されていたと思います。

これでようやく完成。つるつる感は出せたと思います。

再度比較。色に関しては光源の違いや塗装面の変色、汚れ具合、写真の変色も加味しなくてはならないので、まだ僕自身、明確な答えは出せていません。ゼロ戦の塗装色ですらいまだに論争が続いているくらいですから、色の再現というのはやりだしたら切りがない世界なのですよね。
幸いヘルメットというのは汚れていて当たり前の物なので、野外で使う時はまず、泥まみれにして色をうやむやにしちゃいましょう(笑)

<追記>

あと4個作ります。


※2017年7月10日追記


その後何度か色の調整を繰り返した結果、ブルー5, ネイビーブルー4, グリーン1, ブラック1くらいの比率(全てMr.カラー)が今のところベターかなと思ってます。
  


2017年05月21日

5月の撮影会

埼玉県某所で二日間に渡ってプチ撮影会をしてきました~
写真は全てスマホで撮った物をPCのPhotoshopで加工したものです。
古写真風加工についてはこちらの記事をご覧ください。

1日目 ベトナム陸軍歩兵 (1960年代前半~中盤)





以下、当時の動画


ベトナム陸軍第7歩兵師団 "アプバクの戦い" (1963年1月 ディントゥオン省アプバク)


アメリカ陸軍によるベトナム共和国軍への支援活動 (1963年)

世界的にベトナム戦争ヒストリカルというと、大抵ハリウッド映画の真似をするために1960年代末の設定にされしまいますが、僕にはその年代に拘る理由が無いので、1946年から1975年までのベトナム政府軍をリエナクトメントの対象としています。(まだ50年代以前はあまり揃ってないけど)
映画の真似をしたいと思う事自体は否定しませんが、この趣味はあくまでフィクション作品ではなく現実の歴史を題材とするものですので、もっと広い視野で歴史再現に取り組む人が増えてくれたら良いなと思っています。



2日目 ベトナム国家警察野戦警察隊(1960年代末)



同じく当時の動画


テト攻勢"チョロン市街戦" (1968年2月 ジアディン省サイゴン)


チャイマット野戦警察訓練キャンプ (1970年2月 トゥエンドゥック省ダラット)


  


2017年05月01日

グレイタイガーの4月30日

※2017年5月3日加筆・修正

過去の記事

 昨日、このブログを始めて4回目の4月30日『サイゴン陥落』の日を迎えました。ベトナム本土では今年も相変わらず、ベトナム共産党(当時労働党)が800万人もの人命を犠牲にして強行した『解放』と『統一』の偉業が喧伝され、祝賀ムードが演出されています。
 一方、終戦後共産政権による弾圧と暴政から逃れ国外に脱出したベトナム難民とその子孫ら約300万人の在外ベトナム人たちは、この『国恨の日(Ngày Quốc Hận)と呼び、ベトナム全土がベトナム共産党というテロ組織の支配下に墜ちた悲劇の日として記憶されています。

 昨年12月、私は友人の紹介で、米国カリフォルニア州在住の元ベトナム難民、ファム・チャウ・タイ(Phạm Châu Tài)という人物にお会いしてきました。タイ氏グレイタイガー(Hổ Xám)』の異名で知られる元ベトナム陸軍特殊部隊少佐で、ベトナム戦争中MACV-SOGプロジェクト・デルタ、第81空挺コマンド群に所属し、常に最前線で共産軍と戦い続けた歴史の生き証人の一人です。今回はタイ氏が経験した4月30日の物語をお伝えします。

▲タイ少佐(左手前)、ホア少尉(左手奥)、ハウ監督(右手前)、私(右手奥) [2016年12月カリフォルニア州ウェストミンスター]

▲タイ氏が所属したNKT雷虎第1強襲戦闘団(MACV-SOG CCN) FOB2 チーム『オハイオ』 [1966-1967年頃 コントゥム]

▲LLĐBプロジェクト・デルタ時代のタイ大尉(当時 写真右から2番目) [1960年代末]

▲タイ大尉(当時)が指揮した第81空挺コマンド群第3強襲中隊 [1972年 アンロクの戦い]
戦車砲の防盾上に立つ人物がタイ大尉

 幾多もの激戦を渡り歩き、特に1972年の『アンロクの戦い』において、迫りくる共産軍機甲部隊に対し歩兵による対戦車戦闘を指揮して見事な勝利を掴んだタイ大尉は、同年少佐に昇進し、『グレイタイガー(灰虎)』の勇名は国中に知れ渡るところとなった。
 それから3年後の1975年、アメリカからの支援を失ったベトナム共和国軍は、依然中ソによる支援を受けながら南侵を続ける北ベトナム軍の勢いを止める事が出来ず、戦況は悪化の一途をだどっていた。3月には南ベトナム中部(第2軍管区)の失陥を許し、補給路が分断された事で北部の第1軍管区も孤立。さらに4月には、サイゴン防衛の要衝であるロンカン省スンロクが北ベトナム軍4個師団に包囲される。この『スンロクの戦い』において、レ・ミン・ダオ准将麾下の共和国軍第18歩兵師団および第81空挺コマンド群は4倍の兵力の敵に対し猛烈な反撃を行い北ベトナムの進攻を12日間遅らせる事に成功したものの、最終的に共和国軍は首都防衛の戦力を温存するためスンロクを放棄し、ビエンホア街道からサイゴンに撤退した。

▲1975年3月から4月にかけての北ベトナム軍の南侵 (クリックで拡大)
South Vietnam - The final days 1975, U.S.Army

 この逼迫した状況の中で、タイ少佐が指揮する第81空挺コマンド群第3戦術本部(Bộ Chỉ Huy Chiến Thuật Số 3)は4月26日、参謀総本部を含むタンソンニュット空港・空軍基地周囲の守備を命じらる。
 一方、ベトコン側のスパイとしてベトナム共和国空軍に潜入しており、4月8日にF-5戦闘機で総統府を爆撃したグエン・タン・チュンは、北ベトナムへの逃亡後すぐさま南侵部隊に合流しており、4月28日には北ベトナム軍によって占領されたファンラン基地からA-37攻撃機で再びサイゴンへ向けて飛び立ち、タンソンニット空港への爆撃を実行した。この時タイ少佐は、守備対象である空港が自軍の攻撃機によって爆撃されるのを地上から見ている事しか出来なかったた。
 同28日、1965年以来10年間に渡ってベトナム共和国軍参謀総長を務めていたカオ・バン・ビエン大将は、敗戦すれば家族もろとも共産軍から拷問を受けて処刑されると考え、正式な辞任を経ずに家族を連れて密かにサイゴンから脱出してしまった。また辞任したグエン・バン・チュー前総統に代わって4月21日に総統に就任したチャン・バン・フォンも、就任から1週間後のこの日、ベトコン側に停戦交渉を拒否されたため総統を辞任した。

▲ベトナム共和国軍参謀総本部庁舎 [ジアディン省タンビン区]

 翌4月29日、敵が目前まで迫る中、ビエン大将の失踪を受けて参謀総本部(BTTM)はビン・ロック中将を新たな参謀総長に選任した。そして同日午後、タイ少佐はサイゴン守備部隊指揮官の一人として、新体制となった参謀総本部での戦況会議に招集される。参謀総本部はタンソンニットから目と鼻の先であり、タイ少佐が完全武装した4名の護衛と共に会議室に入ると、彼は英雄が到着したとしてビン・ロック中将ら幹部に紹介された。この時、会議室内の雰囲気は非常に緊迫しており、数十人居る参謀将官・佐官たちの内、椅子に座っている者はほとんどいなかったと言う。
 参謀総長への挨拶を済ませると、タイ少佐はグエン・フー・コ(Nguyễn Hữu Có)中将ら幹部の将官らと今後の対応を協議した。この中でタイ少佐は、もはや敗戦は避けられない情勢である事を理解し、将軍たちにこう語った。

「我が隊は、明日の朝まではここ参謀総本部を守り抜くつもりです。明日の朝が限度です。もう答えは出ています」 

タイ少佐は顔をあげて将軍たちの顔を見渡した。これに対し、将は自信を持った口調で皆に向けて答えた。

「私はこの部屋にいる将官や士官たちに誓う。今夜、ここ参謀総本部にはアリ一匹、ハエ一匹通しはしない。当然ベトコンもだ。」

▲グエン・フー・コ中将
 グエン・フー・コ中将かつて軍事政権で国防長官を務めていたが、1967年に政権内部の政争に敗れ軍から追放されていた。しかし1975年になり戦況が悪化すると、停戦交渉の前提としてチュー政権関係者の排除を求めるベトコン側の要求に応じ、ベトナム政府は1975年4月28日にズオン・バン・ミン大将を総統に、グエン・フー・コ中将を軍部の顧問として政府に復帰させた。しかしそれでもベトコン側は交渉のテーブルに付く事はなかった。

 それからコ中将はタイ少佐に、何か手伝える事はあるかと尋ね、タイ少佐は以下の提案をした。

「私の隊の一部を閉鎖された陸軍工廠に撤退させて頂けませんか。あそこに立て籠れば戦力を補えます。」

しかしそれにはタイ少佐が受け持つ約1000名の部隊からその1/4の人員を裂く必要があり、首都防衛最後の拠点である参謀総本部の守備が薄くなる事を意味していた。コ中将はこの提案を受け、すぐに結論を出すため電話で緊急の会議を招集した。そこで参謀たちは守備兵力を裂くことに不安を滲ませたものの、タイ少佐の案は了承され、部隊は陸軍工廠への移動を開始した。しかし夜になると命令は変更され、陸軍工廠守備隊は再びタイ少佐の元へ引き返す事となる。

 4月29日の夜になると、タンソンニット周辺で多数の銃声が鳴り響いた。空挺コマンド部隊は複数の地点に分かれて散発的な銃撃戦を続けたが、その都度敵は少なからぬ損害を出し退却していった。この時点でタイ少佐の部隊の損害は軽微であり、兵士たちは高い士気を維持していたという。
 散発的な戦闘の後、一旦敵の攻撃が収まると、長い静かな夜が訪れた。兵士たちは狭い指揮所の中で身を寄せ合い、眠れぬ夜を過ごした。しかし部隊長のタイ少佐は、命令を出す必要がある時だけ起き上がり、それ以外の時間は横になって寝ていた。それは、この参謀総本部を守る戦いがこの一晩で終わるとは考えていなかったからであった。必要であれば、タイ少佐は南ベトナムを救う手立てが見つかるまで何日でもこの場所で戦い続けるつもりであった。

 そして運命の4月30日が始まった。夜明けと共に北ベトナム軍の機甲部隊は多方面からサイゴン市内への突入を開始した。タイ少佐は、ついに最後の時がやってきたと部下のホアン・クイ・フォンに伝え、兵士たちに無線で指示を送った。
 タイ少佐は、敵は必ず戦車を先頭にし、それに続いて歩兵部隊が前進する事を知っており、それを阻止するにまず先頭の戦車を足止めする必要があった。そのためタイ少佐は、敵が通行するであろうクアンチュン訓練センター付近で攻撃を行う事に決めた。クアンチュン訓練センターはタンソンニュットの北に位置し、その周囲は戦車を待ち伏せ攻撃するのに適した地形であった。また訓練センターには、対戦車戦闘の教育を受けた新兵たちが今も多数立てこもっていた。タイ少佐は彼ら新兵に無線で指示を送り、2両の戦車を撃破することに成功した。しかし他の戦車は歩兵を乗せたトラックを従えてサイゴン市街へと前進を続けた。
 そして敵部隊が参謀総本部まで約2kmのバイヒェン交差点に到達すると、待ち構えていた第81空挺コマンド群第3戦術本部本隊と接触した。空挺コマンドは周囲の建物に身を潜め、交差点に差し掛かった敵戦車を頭上からM72対戦車ロケットで攻撃した。同時刻、敵戦車はタンソンニット空港のフィーロン門およびランチャカ(ピニョー・ド・ベーヌ廟)付近にも進軍し、空挺コマンドはそこでも対戦車戦闘を行い、複数の敵戦車を撃破した。
 しかし後続の戦車が次々と押し寄せ敵が反撃に転じると、空挺コマンドは参謀総本部まで撤退するよう命じられた。

▲タンソンニュット周辺およびサイゴン市街の位置関係 [1971年版サイゴン・ジアディン省地図より]

ランチャカ前で空挺コマンドに撃破された北ベトナム軍のT-54/55戦車 [1975年4月30日ジアディン省タンビン区]

 参謀総本部正門前まで退却したタイ少佐らは午前9時30分に、参謀総本部第3室(作戦参謀部)の参謀から無線を受け、停戦を命じられた。しかしタイ少佐はこれを拒否し、その参謀に、自分は参謀総長からの直接命令以外受け入れない。空挺コマンドは今も参謀総本部を守って戦っているのだと回答した。
 それから30分後の午前10時、ズオン・バン・ミン大将(総統)は無線通信を通じて、全軍将兵に戦闘を停止し武器を捨てるよう命じた。これを聞いたタイ少佐は参謀総本部前の防御陣地離れ、独立宮殿(総統府)に居る新参謀総長グエン・ヒュー・ハン准将に個人的に電話をかけ、軍の最高司令官であるズオン・バン・ミン将軍と直接話したいと伝えた。そして電話口で15分待った後、ついにミンが応答した。

「こちらはズオン・バン・ミン大将だ」

大将閣下、私は空挺コマンドのファム・チャウ・タイ少佐です。我々は最終的決定が下るまで、ここ参謀総本部を防衛せよと命令を受けています。1時間前、我々は停戦するよう無線を受け、そして先ほども将軍が無線で停戦を呼びかけているのを聞きました。我々としては、その停戦について、もう一度詳しくお聞きしたいです。」

ミン将軍はしばらく言葉を発するのを躊躇った後、タイ少佐に語った。

「・・・もうなす術はない。君も投降する準備をしてほしい。」

大将閣下、それでは無条件降伏ではないですか!」

重苦しい沈黙の後、タイ少佐は口を開いた。

「閣下、我々はここを死守せよと命令を受けました。事実我々は朝から敵の攻撃を退けており、すでにこの付近だけで敵戦車を6両撃破しました。しかも我が方はほぼ無傷です。閣下、我々は降伏などできません。我々はいったい何年軍の為に尽くしてきたとお思いですか・・・」

「従いたまえ」

「閣下、もし閣下が降伏なされば、今も参謀総本部で戦っている2000名の将兵の身は安全であるという保証はどこにあるのですか」

沈黙の後、ミン将軍は最後にタイ少佐に一言だけ述べ、電話を切った。

「敵の戦車が市街に突入しようとしている。従ってくれ」

▲ベトナム共和国最後の総統ズオン・バン・ミン大将 [1975年4月30日 独立宮殿]

 電話を切られたタイ少佐は、やむなく自分の防御陣地に戻る事にした。そして正門に続く基地内の長い道路を歩いている途中で、ある高級将校と出くわし、独立宮殿で何が起こっているかを知らされた。彼が最後に聞いたズオン・バン・ミン大将からの通信は、独立宮殿に敵戦車が突入したという言葉だったという。
 それを聞いたタイ少佐は、すぐさま部隊を率いて独立宮殿に乗り込んでミン将軍を救出し、そして軍と兵士の安全を確保した上での停戦となるようミン将軍を今一度説得しようと考えた。タイ少佐は防御陣地に戻ると、自分の部隊を見渡した。空挺コマンドの兵士たちはいまだ銃を手にし、眼前に迫る敵軍から目をそらしていなかった。

▲タイ少佐が最後の防御陣地とした参謀総本部正門 [ジアディン省タンビン区]

 その時、無線機から再びズオン・バン・ミン大将発の命令が聞こえてきた。そしてその命令は停戦ではなく、速やかな投降、つまり無条件降伏を命じるものであった。この瞬間、1946年以来30年間近くにおよんだベトナム政府と共産主義勢力との戦いは、共産側の勝利に終わった。北ベトナム軍は参謀総本部を包囲するため次々と押し寄せてきたが、銃声は止んでおり、辺りは不気味な静けさに包まれていた。

 15分後、参謀総本部周辺の住民たちが通りに出てきて、兵士たちに語り掛けてきた。

「兄さんたち、もう戦わなくていいんだよ。平和になったんだ。家に帰ろう」

そして人々は家から急いでTシャツなどの私服を持ってきて空挺コマンド隊員たちに与えた。

「軍服を着てちゃダメだ。これに着替えな」

サイゴン市民は政府軍降伏の知らせを聞くと、兵士たちを共産軍による報復から守るため、街の至る所で早く私服に着替えて逃げるよう促していた。

▲軍服を脱ぎ捨てる第81空挺コマンド群兵士 [1975年4月30日ジアディン省タンビン区]


 兵士たちが投降の準備を進める中、タイ少佐は最後にもう一度自分の部隊を集めた。そして彼は部下への命令としてではなく、共に幾多の苦難を乗り越えてきた兄弟たちへの言葉として、兵士たちに訴えた。

「我々は空挺コマンドである。降伏などしない。戦いを投げ出し、怯え隠れてはならない。どうか降伏しないで欲しい。空挺コマンドは決して降伏しない!」

 兵士たちも皆、同じ気持であった。しかし最高司令官から下った命令は明白であり、またこれ以上の抵抗は誰の目にも無意味であった。最終的にタイ少佐は参謀総本部正門前で、部下たちと共に共産軍による武装解除に応じた。こうしてファム・チャウ・タイの戦争は終わった。

空挺コマンド "グレイタイガー" ファム・チャウ・タイ少佐

出典:
Hoàng Khởi Phong
30-4-1975: Trận Chiến Cuối của Hổ Xám Phạm Châu Tài- Liên Đoàn 81- Biệt Cách Nhảy Dù

Vương Hồng Anh
30.4.75: Nhảy Dù, Biệt Cách Dù Kịch Chiến Với CQ Trước Giờ G


 投降後、戦犯として共産軍に逮捕されたタイは強制収容所での長く過酷な生活を経験した後アメリカに亡命し、現在はカリフォルニア州ウェストミンスター市のベトナム移民街リトル・サイゴンで穏やかな生活を送っておられます。
 氏は普段、メディアからの取材は全て断っているそうですが、今回は「戦後ベトナム生まれの若者たちに自分たち祖父の時代を知ってほしい」という熱意を持った若き映像作家からの依頼により、インタビューが実現しました。その為インタビューは全てベトナム語で進められたので、はその場では内容をあまり理解出来ませんでしたが、友人が「今のベトナムの若者に何を伝えたいですか?」と問いかけた時のタイ氏の表情を私は決して忘れません。
 友人の問いかけに、氏は目にうっすら涙を浮かべ、言葉を詰まらせたままおよそ3分間ほど沈黙が続きました。その間、氏の脳裏には恐らく、当時死んでいった若者たちの事、自分たちが共産軍を倒せなかった為に祖国を恐怖が支配する独裁国家にしてしまった事、そしてその中でホー・チ・ミンと共産党の偉業だけを教育され育っていく戦後のベトナム人たちのへの複雑な思いが駆け巡っていただろう思います。長い沈黙の後、タイ氏は友人に自らの思いを打ち明けました。その内容はインタビューの英語翻訳版の完成を待たなければなりませんが、その言葉を語るタイ氏の目を見ているうちに、少なくともそれは、この41年間、氏の心に重くのしかかり、口を閉ざしていた想いの片鱗であった事は理解できました。この貴重なインタビューを日本で公開できる日を心待ちにしています。

  


2017年04月18日

ベトナム軍のM1系ヘルメット その1

 ベトナム共和国軍では、1948年の国軍創設から1975年のベトナム戦争終結まで、30年近くに渡って様々なモデルの米軍M1系ヘルメットが使用されていました。今回は、それらベトナム軍で使用されたヘルメットについてご紹介します。


M1ヘルメット (大戦モデル)/アメリカ製
使用期間: 1948年~


 第1次インドシナ戦争中、ベトナム軍で最も普及していたヘルメットがアメリカ製のM1ヘルメットでした。これは第2次大戦集結後、再建が始まったフランス軍への軍事支援としてアメリカが供与したもので、第1次インドシナ戦争期のフランス連合軍で最も多用されたヘルメットでした。またM1ヘルメットには各種空挺部隊仕様(後述)が存在しましたが、それらは十分な数が揃わなかったため、空挺部隊でも通常型(一般兵科用)のM1ヘルメットが使用されていました。
 なお、ここで言うM1ヘルメットとは第二次大戦中の1940年代前半に生産されたモデルになります。大戦モデルと言っても色々ありますが、写真から判別できるのは、大戦中一般的だったJフック型チンストラップが付いたM1という事ぐらいであり、また米軍の中古がまとめて供与されたものなので、細かい仕様はごちゃ混ぜだったと思われます。


M1Cヘルメット (布製チンストラップモデル)/アメリカ製
使用期間: 1951年~


 M1Cヘルメットはアメリカ軍が1943年に採用したM1ヘルメットの空挺部隊仕様で、M1のライナーに空挺降下時の安定性を高めるAストラップを追加し、またシェル側のチンストラップにスナップボタンを備えライナーと固定できるデザインとなっていました。第1次インドシナ戦争中、ベトナム国軍を含むフランス連合軍の空挺部隊では、M1と同じくアメリカから供与されたこのM1Cヘルメットが多用されていました。なお当時のM1Cは、革製チンカップに代わって大戦末期に採用された布製チンストラップのタイプが一般的でした。


M1ヘルメット EO改修型アメリカ製・フランス軍改造
使用期間: 1952年~


 フランス連合軍の空挺部隊にはアメリカ製のM1Cヘルメットが支給されていたものの、その数には限りがあり、空挺部隊の規模拡大と共にヘルメットが不足していきました。そこでフランス軍は1952年に、在庫に余裕のある一般兵科用M1ヘルメットのライナーにM1Cのような空挺降下時の安定性を高めるAストラップを取り付ける改造を行い極東(EO)=インドシナ派遣部隊への支給を開始します。この改造されたM1は"M1ヘルメットEO改修型(Casque M-1 modifié Extrême-Orient)"と呼ばれ、M1Cのような爪付きバックルではなく、左右2個ずつ備えたDリングで布製のウェビングチンストラップを締め上げる方式のAストラップを備えていました。


Mle 51 TTA OTANヘルメット/フランス製
使用期間: 1952年~


 Mle 51 TTA OTANヘルメット(Casque troupes toutes armes modèle 51 OTAN)はM1ヘルメットを基にフランス軍が1951年に制式採用した一般兵科用ヘルメットです。第2次大戦による荒廃と戦後の東西冷戦による緊張状態を迎えた西欧諸国は、軍の再建をアメリカからの軍事支援に頼っており、ヘルメットもアメリカ製のM1ヘルメットが北大西洋条約機構軍の標準装備となっていました。この中でフランスは装備の国産化を図り、北大西洋条約機構(仏語略称:OTAN)の標準ヘルメットであるM1を国産化した物がMle 51 TTA、通称OTANヘルメットでした。 このOTANヘルメットはM1ヘルメットとほぼ同じ構造でしたが、シェルの前側のバイザー部分がM1より短く、逆に後ろ側がM1より大きく突き出ているのが特徴でした。OTANヘルメットはフランスからベトナム軍に供与された期間が短かったため数は少ないものの、1960年代まで使用例が見られます。

なお、フランス軍は1953年に、OTANヘルメットにM1Cと同様のAストラップを追加した空挺部隊向けの"Mle 51 TAPヘルメット"を採用しましたが、インドシナ派遣部隊もしくはベトナム国軍での使用例については未確認です。


M1ヘルメット (戦後モデル)/アメリカ製
使用期間: 1950年代末?~


 フランスがベトナムから撤退した後、ベトナム共和国軍はアメリカから直接軍事支援を受けるようになり、個人装備も急速にアメリカ式に切り替わっていきます。M1ヘルメットも大戦期の旧モデルから、当時のアメリカ軍の現用(いわゆる戦後モデル)へと更新されていきます。さらに1960年代に入るとベトナム軍のヘルメットの大半はこの戦後モデルに置き換わり、以後1975年まで長きに渡って使用されました。なお空挺部隊においても、空挺用ヘルメットの不足から、一般兵科用M1は引き続き使用されました。
 戦後モデル(1950年代から1960年代前半)のM1ヘルメットは、大戦期のJフック型に代わり、既定の圧力でバックルが外れるように設計されたT1型チンストラップが装備されているのが大きな特徴でした。(T1ストラップは1944年に採用されたものの、実際に普及するのは1950年代になってからでした。) また、ライナーの革製チンストラップは標準装備でしたが、前線ではシェルの内側に隠されたり、外されている場合も多々ありました。


M1Cヘルメット (戦後モデル)/アメリカ製
使用期間: 1950年代末?~


 M1と同様に、空挺部隊向けのM1Cヘルメットも順次戦後モデルに切り替わっていきました。M1C戦後モデルは、M1と同様シェル側にはT1型チンストラップ(スナップボタン付き)が装備されており、またライナー側のウェブチンストラップも金属ハトメ付きの新型になっています(※2017年4月19日訂正: 形状は大戦末期の物と同じでした)。なお、M1Cのライナーは一般兵科用M1のシェルと互換性がある為、戦後モデルもしくは後述する国産M1のシェルにM1C(空挺用)ライナーが取り付けられている事もあります。


国産M1ヘルメット/ベトナム製
使用期間: 1960年代中盤?~


 1960年代半ばになると米国製M1(戦後モデル)をコピーしたベトナム国産のヘルメットの生産が始まり、以後終戦まで米国製と共に広く使われていきます。国産M1ヘルメットの特徴は、米国製M1のような反射防止の砂吹付塗装がなされておらず表面がツルツルであった事でした。この砂吹付の省略は、同じくM1を国産化していた台湾軍やタイ王国軍でも行われました。塗装色は米軍のようなオリーブドラブではなく、青みがかった緑色と言った感じの色をよく見ます。またライナーの革製チンストラップは不要と見なされ、最初から備えていなかったと思われます。


◆M1 / M1Cヘルメット (1965年モデル)/アメリカ製について
 アメリカ軍は1941年以来ほぼ同じ構造だったM1およびM1Cヘルメットの大掛かりなマイナーチェンジを1965年に行い、ベトナム派遣アメリカ軍部隊が使用するヘルメットは順次この新型(1965年モデル*)に切り替わっていきました。この1965年モデルのM1/M1Cは、戦後モデルと同様にベトナム共和国軍に供与された可能性は十分あるものの、ライナーの内装が写っていない限り当時の写真からではそのM1が戦後モデルなのか1965年モデルなのかを判断するのは難しいため、僕はまだ1965年モデルのM1がベトナム軍でも使用されていたという確証は得られていません。
マニアの間では1965年モデルのM1およびM1Cに"M2"という通称がつけられていますが、M2とは本来、1942年に開発された最初期の空挺仕様M1ヘルメット(M1Cより前のモデル)の名称です。1965年モデルをM2と呼ぶのはかなり間違ってるので止めた方がいいと思います。



おまけ

ツルツルヘルメット計画、進行中

   


2017年04月12日

ベトナム海軍LĐNN/SEAL

先日のベトベトで「LĐNNを盛り上げよう!」というお話を頂いたのですが、僕自身まだちゃんと分かっていない部分も多かったので、勉強がてらLĐNNとSEALの歴史について概要をまとめてみました。超カッコいい部隊なので興味を持ってくれる人が増えたらいいなぁ。

※2017年4月14日追記

第1期LĐNNとシーコマンド

 1960年、ベトナム海軍は水中破壊チームの創設を計画し、その後海軍の分遣隊が台湾でアメリカ海軍によるUDT訓練を受講した。1961年7月、海軍は『フロッグマン部隊(Liên Đội Người Nhái, 以下LĐNN)』を創設し、台湾での訓練を終えた海軍士官1名、水兵7名がLĐNNの幹部となった。さらに国内で選抜された48名の海軍将兵が集結し、海難救助、水中障害物除去、桟橋の防御、水陸特殊作戦を任務とする第1期LĐNNが始動した。

▲創設当時のベトナム海軍フロッグマン部隊((LĐNN)部隊章

▲第1期LĐNN隊員の訓練[1962年5月 ベトナム]

 LĐNN創設から間もなく、ジエム総統直属の特殊工作機関『総統府連絡局(Sở Liên lạc Phủ Tổng thống)』の傘下にも、水陸作戦部隊『シーコマンド=特海隊(Biệt Hải)』が組織された。シーコマンドの任務は北ベトナムその他国外における越境特殊工作であり、海軍だけでなく陸軍・海兵隊の水陸戦チームも統括する統合任務部隊であった。
 1962年2月より南ベトナムに展開を開始したアメリカ海軍SEAL(Sea Air Land)訓練チームは、翌3月より最初のシーコマンド幹部育成のための6か月間の訓練コースを開始し、空挺降下、偵察、ゲリラ戦についての教育が行われた。そして10月までに62名のシーコマンド隊員がSEAL訓練コースを修了した。
 なお1963年11月の軍事クーデターでジエム政権が崩壊すると、総統府連絡局は解体され、シーコマンドは新たに設立されたベトナム共和国軍参謀総本部直属の特殊作戦機関『開拓部(Sở Khai thác, 後のNKT)沿岸警備部(SPVDH)』の指揮下に移管される。
 1964年1月、士官1名と41名の隊員から成るLĐNNチームが、海岸からの侵入を試みる共産勢力に対抗する特殊作戦を開始。『シードッグ作戦(Operation Sea Dog)』において、フィリピンのイロイロ島(パナイ島)で共産軍の物資を輸送するジャンク船6隻を爆破した。
 1964年2月には、北ベトナムへの圧力を目的としたMACV-SOG主導の秘密作戦OP-34Aが開始された。これに伴い、第1期LĐNNは国外の目標への攻撃に参加するため、海軍の指揮下を離れSKT沿岸警備のシーコマンド部隊に編入された。(OP-34Aおよびシーコマンドについては過去記事『NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[2]』参照)

 
▲シーコマンド部隊章(左)、海軍LĐNNシーコマンド中隊(右)

▲SKTシーコマンド編入後、初代LĐNN隊長ラム・ニュット・ニン海軍大尉(写真②)はシーコマンド総隊長に任命された。
[1964年 ダナンSPVDH本部]


第2期LĐNN

 OP-34Aによって第1期LĐNN隊員のほとんどがシーコマンドに移動したことで、海軍にはフロッグマンが存在しなくなった。この穴を埋めるため、1964年7月には第2期LĐNN隊員の訓練に60名の訓練生が選抜され、9月からニャチャンにおいて訓練が開始された。この第2期LĐNN訓練コースは、『地獄の週』を含む16週間にわたって行われた。地獄の週では海上漕艇185km、長距離走120km、ボート担ぎ走33km、遠泳16kmという過酷な体力訓練が行われた。また訓練期間中、訓練生たちはニャチャンやビンズオン省において、実際に沈没した船や航空機を海中からの引き上げる作業を経験した。そして1965年1月に33名が訓練を修了し、彼ら第2期LĐNNはベトナム海軍作戦本部副部長の直接指揮下に置かれブンタウに駐屯した。
 1965年には、LĐNNは南ベトナム領内における全ての水陸特殊作戦の権限を与えられ、北ベトナムに対する水陸作戦はSKT沿岸警備部(SPVDH)の管轄となった。

▲第2期LĐNN訓練の修了式[1965年1月 ニャチャン海軍訓練センター]


第3期LĐNNとアメリカ海軍SEAL

 1960年代中盤までに、アメリカ海軍SEALチーム1および2は、越境工作部隊シーコマンドの訓練に加えて、南ベトナム領内における定期的な戦闘任務への参加を始めていた。彼らは強襲、水陸偵察、ベトコン組織破壊工作の専門家であり、国内での水陸作戦を統括するLĐNNはSEALとの協力関係を深めていった。間もなくSEALチームが南ベトナム領内で行う通常戦術作戦にはベトナム海軍LĐNN隊員も参加する事となり、LĐNNではSEAL派遣要員の選抜が開始された。1966年11月には少人数のLĐNN幹部がフィリピンのスービック湾に派遣され、アメリカ海軍にってより高度なSEAL訓練を施された。
 1967年にはSEAL派遣要員を育成する第3期LĐNN訓練が開始され、400名を超える志願者がブンタウで訓練に参加した。この第3期LĐNN訓練は、それまでUDT訓練が主だったLĐNN訓練コースとは異なり、空挺降下作戦を含む本格的なSEAL訓練が初めて大規模に実施された回であった。1年後、訓練コースを卒業した訓練生は400名中わずか27名と、脱落率94%の過酷な訓練であった。この第3期LĐNN訓練を終えた27名の隊員は、LĐNN初の本格的なSEALチーム『海撃隊(Hải Kích)』として組織化された。海撃隊の作戦範囲は主に南ベトナム国内であったが、カンボジア領内へ潜入する場合もあり、またパラシュート降下による越境作戦も存在した
 これ以降、LĐNN海撃隊はアメリカ海軍のSEALチームに人員を供給し、緊密な協力関係の下で作戦を遂行していく事となる。SEALにおけるベトナム人の役割は単なる通訳だけでなく、一般市民と敵兵を見分けて危険を察知するというベトナムで生まれ育った者にしかできない文化面での知識を持っている事も彼らがSEALに必要とされた大きな理由であった。またフェニックス計画などで情報を聞き出すためベトコン容疑者を逮捕する作戦では、SEALのアメリカ兵が対象を無理に拘束しようとすると必死に抵抗され、やむを得ず射殺してしまい任務失敗となるケースもあったが、同じベトナム人であれば言葉で脅す事でそれを防ぐ事が出来た。

LĐNN海撃隊(Hải Kích)=ベトナム海軍SEALチーム部隊章
画像: Dealing Time "Lieutenant Mike Slattery" 

アメリカ海軍SEALチーム1ヴィクター小隊所属のベトナム海軍LĐNN海撃隊員[1960年代末 ロンフー?]

▲SEALチーム2 第9小隊所属のLĐNN海撃隊員[1969年ベトナム]

▲カムラン移転後のLĐNN訓練キャンプ [1970年カムラン]
第3期LĐNN訓練が終了した直後の1968年2月、共産軍はテト攻勢を開始しブンタウでの訓練が困難となったことから、ほとんどのLĐNN部隊はカムラン湾に移動し、第4期以降のLĐNN訓練はカムランで実施された。

▲ベトナム海軍LĐNNの部隊章 [Military Advisor 2016年9月号より]
1. LĐNN 1stデザイン
2. LĐNN 2ndデザイン
3. 港湾警備チーム (Phòng thủ hải cảng) 1stデザイン
4. 港湾警備チーム (Phòng thủ hải cảng) 2ndデザイン
5. 爆発物処理 / EODチーム (Tháo gỡ)
6. 水中爆破 / UDTチーム (Thủy công)
7. 海撃/ SEALチーム (Hải Kích)
8. 爆発物処理 / EODチーム (Tháo gỡ)
9. サルベージ船隊 (Giang-Đoàn Trục Vớt)
10. バリエーション
※翼のデザインはSEAL訓練が始まった1967年以降に制定されたものと思われる。

SEALチーム2 第9小隊
フェニックス計画の際は、LĐNN隊員に加えて現地のPRU(地方軍独立偵察中隊)隊員がSEALチームに加わる事もあった。


SEAL戦闘通訳員 グエン・ホアン・ミン


 SEAL小隊に所属したベトナム人の中には、LĐNN隊員以外の者も居た。特にSEAL隊員たちから尊敬を集めたのがグエン・ホアン・ミンであった。ミンは1959年から1964年までベトナム海軍で勤務した後、1966年にアメリカ海軍河川哨戒艇部隊に通訳としてスカウトされた。その後ミンは1971年まで5年間、ミトー基地のSEALチーム2 第7小隊および第10小隊戦闘通訳者として勤務した。
 ミンは通訳、ポイントマン、時には潜入諜報員としてSEALの作戦に貢献した。またミンの妻も危険を顧みずメコンデルタ地域におけるSEALの作戦に協力し、ミン夫妻はベトナム戦争時代のSEAL最大のベトナム人功労者としてSEAL隊員たちに記憶されている。


▲ミンが所属したSEALチーム2 第10小隊 [1960年代末~1971年頃 ミトー]
上段左から5番目の弾薬ベストを着た人物がミン。ほかのベトナム人はLĐNN隊員

 1975年の敗戦後、ミンは共産軍に拘束され強制収容所に28か月間投獄された。ミン夫妻はその後45年間に渡って米農家や靴磨きをしながら貧しい生活を送る事となる。
 時は流れて2002年、海軍を退役した元SEAL隊員のジョン・ドノバンは、一冊の本の中に、かつての戦友であるグエン・ホアン・ミンの名前を見つけ、ミンがまだ生きている事を知った。ドノバンはダラスのベトナム難民関係者に連絡を取り、6年後の2008年にミンを探すためベトナムのミトーを訪れた。そして数か月後、ドノバンとミンは40年ぶりの再会を果たした。
 ミン一家の苦境を知ったドノバンは、かつてのSEALの戦友たちに連絡を取り、ミン一家のアメリカ移住を支援する基金を立ち上げた。その後、ミンへの募金は1万5000ドル以上集まったが、アメリカ国務省はミンの移民申請を却下した。その為基金は、ベトナムに住むミンの子や孫の家を補修し、生活環境の改善に当てらてた。2013年、ミンはSEALアソシエーションの招待を受けて初めてアメリカを訪れ、SEALミュージアムでかつての戦友たちと再会を果たした。

ミンのSEALへの貢献と、戦友たちとの再会を伝えるSEALチーム2アソシエーション制作のドキュメンタリー"The Why of Minh"


ベトナミゼーション

 1971年、アメリカ軍のベトナム撤退に伴うベトナム共和国政府の権限移行(ベトナミゼーション)の影響は海軍LĐNNにも及んでいた。それまでアメリカ海軍SEALが担っていた作戦のほとんどがベトナム海軍LĐNNの管轄に移行され、作戦規模は大幅に拡大した。これに伴い、ベトナム海軍フロッグマン部隊(Liên Đội Người Nhái)は、『フロッグマン群(Liên Đoàn Người Nhái*) 』へと発展・拡大した。拡大したLĐNNは海撃隊(SEALチーム)、水中爆破チーム、爆発物処理チーム、支援舟艇チームから成り、司令部は引き続きサイゴンに置かれた。略称は変わらずLĐNN
 1971年の時点で、LĐNN海撃隊は12~18名単位の分遣隊に分かれ、ホーアン、ダナン北部、フエ、ティンアンの前進基地に駐屯し、南ベトナム国内でのベトコン組織破壊または強襲作戦に従事していた。
 1972年のイースター攻勢において、南ベトナム最北端の城塞都市クアンチが北ベトナム軍によって占領されると、LĐNN海撃隊はクアンチ奪還作戦部隊の一部としてフエに移動した。その後、壮絶な戦闘の末にクアンチが奪還されると、海撃隊の一部はベトコン組織破壊作戦に復帰しクアンガイに移動した。


バット21ブラボー救出

 イースター攻勢の最中の1972年4月2日、アメリカ空軍のEB-66電子戦機2機が北ベトナム軍の対空ミサイルによって撃墜され、クアンチ省北部に墜落した。EB-66のナビゲーター アイセル・ハンブルトン中佐(コールサイン"バット21ブラボー")は救難無線によって生存が確認されたが、墜落地点は前線から4km北側の敵支配地域であり、そこには南侵した約3万人の北ベトナム軍が展開していた。ハンブルトン中佐は対空ミサイル対抗戦術の専門家であったことから、ミサイル技術の情報が敵側に渡るのを防ぐため、その日のうちに航空機による救難捜索(SAR)が開始された。
 しかし北ベトナム軍の対空ミサイル網は非常に強力であり、SAR機に多数の被害が発生した。在ベトナム米軍司令クレイトン・エイブラムス将軍は、いかなる犠牲を払おうともミサイル技術漏洩を防ぐつもりであったが、捜索開始から5日経ってもハンブルトン中佐は発見されず、最終的に16機のSAR機が撃墜され、14名が戦死または行方不明となる結果に終わった。また誤爆を防ぐため周辺空域での空爆が禁止されたため、クアンチで戦うベトナム共和国軍部隊への航空支援が滞り、地上戦でも多数の損害が出ていた。
 そこでMACV-SOG統合救難センター(JPRC)は地上からの救出作戦を立案し、アメリカ海軍SEALのトーマス・ノリス海軍中尉がその任に当たった。ノリス中尉はこの時点でベトナムに残っていた12名のSEAL隊員の一人であり、ノリスは救出作戦のメンバーとしてNKT沿岸警備部シーコマンド部隊から5名の海軍LĐNN隊員を指名した。そしてその中の一人、グエン・バン・キェット海軍伍長と二人で漁師に変装し、漁船に偽装したサンパンで川を遡って敵支配地域に潜入し、ハンブルトン中佐および捜索中に撃墜されたOV-10のパイロット マーク・クラーク大尉の捜索を行った。その結果、二人はハンブルトン中佐・クラーク大尉の両名を発見し、敵の追撃をなんとか振り切り脱出する事に成功した。この危険極まる救出劇はベトナムにおけるSEAL最後の作戦として称えられ、ノリス中尉はアメリカ軍最高位の名誉勲章(Medal of Honor)を、キェット伍長は名誉勲章に次ぐアメリカ海軍最高位の海軍十字章(Navy Cross)を受章した。

シーコマンド/LĐNNグエン・バン・キェット伍長(左)とアメリカ海軍SEALトーマス・ノリス中尉(右) [1972年]

 1972年後半、戦闘任務の終了後もLĐNNへのアドバイザー任務を継続していたアメリカ海軍SEALが、ついにベトナムから完全に撤退した。LĐNNはSEALアドバイザーが管理していたカムランのSEAL訓練施設を引き継ぎ、LĐNN / SEAL訓練を継続したが、SEAL訓練は非常に脱落率の高い過酷なものであったため、海撃隊は常に人員不足に悩まされていた。この時点でLĐNN海撃隊の人員は200名強であったが、1971年にアメリカ本土でSEAL訓練を受けたLĐNN士官候補生21名のうち、訓練を修了して海撃隊に入隊できた者は10名しかいなかった。さらに正規軍である北ベトナム軍の南侵が激化し、戦況は悪化の一途を辿っていたことから、LĐNNは戦力を確保するため隊員の訓練期間を半分に短縮し、特に空挺降下訓練については1/5にまで削減された。
 1973年にパリ協定が結ばれベトナム戦争が停戦すると、全国に展開していたLĐNN海撃隊は作戦を終了しサイゴンの海軍本部に戻った。また対外工作機関であるNKTの沿岸警備局は解散され、シーコマンド所属のLĐNN隊員たちは原隊に復帰した。しかし停戦から間もなく、北ベトナム軍はパリ協定を無視して南進を再開し、ベトナムは再び戦火に見舞われた。


ホンサ諸島の戦い

 時を同じく、1950年代から続いていた南シナ海のホンサ諸島(西沙諸島)の領有権をめぐるベトナムと中国の対立が激化し、ベトナム共和国政府はホンサ諸島の領有を主張するため、島を占領すべく民兵の守備隊を1973年12月末に派遣した。中国政府はこれに対抗して海軍の陸戦部隊を島に上陸させた。ベトナム海軍は中国軍を撃退するため、1974年1月17日にLĐNN海撃隊をフーラム島(永興島)の西岸に潜入させたが、すでに中国海軍地上部隊は島から撤退しており、海撃隊は難なく島を占領した。
 しかし上陸から二日後の1月19日、中国海軍は突如フーラム島に砲撃を加えると共に陸戦隊を上陸させ、海撃隊との地上戦に発展した。この戦いでLĐNN海撃隊には3名の死者が発生し、島から撤退した。さらに周辺の海域で行われた海軍艦艇同士の海戦では、双方の艦艇が撃沈され、ベトナム側には50名を超える死者が出た。(※Ken Conboy氏はこの戦いでのLĐNN隊員の死者は2名で、残りは捕虜になったとしているが、元LĐNNのキェット伍長は、この時捕虜になった者はいなかったと指摘している)



サイゴン陥落

 1975年4月末までに、LĐNN海撃隊は激しい戦闘の末に人員が50名まで減少していた。4月末に共産軍が首都サイゴンに迫ると、LĐNNの残存兵力は首都防衛のためサイゴン南西のロンアン省に派遣された。この時点でLĐNNにはSEAL訓練を受講中の訓練生が200名居たが、彼らはサイゴンのLĐNN本部に温存された。
 首都陥落が差し迫った4月29日の夕方、LĐNN隊員の家族らは海軍の手引きで小型のUDTボートに分乗し、サイゴンから脱出した。その数時間後、隊員の家族らは国際水域でアメリカ海軍第7艦隊に救助された。


[参考資料]
Military Advisor: Frog-men of the repblic of Vietnam, by Clement kelley 
  


2017年04月04日

ボディアーマー

M1952Aボディアーマー再生

去年ベトナムに行った際に、中のアラミド繊維が抜かれペラペラのカバーのみの状態になったM1952Aボディアーマーを買ってきました。(もしかしたら防弾性能のあるボディアーマーはベトナムの法律では『武器』扱いになり違法だから中身が抜かれたのかも)
このカバーは中身がないだけで、ほぼデッド状態の良品だったので、どうにかしてこの中に詰め物を入れて外観を再生させようと思っていました。
問題は何を詰めるかという事で、一番リアルなのは本来入っていたはずのアラミド繊維を戻す事ですが、今時のトラウマプレートと違ってこの時代のボディアーマーは中身を交換する事は考えられていないので、アラミド繊維単品はまず手に入りません。
次に思い浮かぶのは、ヒューストン社などのミリタリー系アパレル企業が作っているボディアーマー風ベストのように、ダウンや綿を詰めるという手段ですが、実はこれには難がありまして、本来均等な厚みのアラミド繊維が入っているはずなのに、綿などの形状が定まっていないものを入れるとどうしても中で偏りカバーにたるみが出来てしまいますし、それを防ぐためにカバー一杯にパンパンに詰めると、今度は厚くなり過ぎて形が不格好になってしまう事が予想されました。市販のボディアーマー風ベストも、実物よりだいぶ分厚くなってるので一目で代用品だと分かりますものね。なので中に入れる素材としては、実物とほぼ同じ厚みで、かつ中で偏らない適度な硬さがあるものを選ぶ必要がありました。
ただし厚みに関しては、正常な状態のM1952Aを持っていないので実際の厚みは分かりませんでした。しかし、その後継である3/4カラーボディアーマー(RVNAF)(※後述)は手元にあるので、それとほとんど同じだろうと予想して選ぶことにしました。3/4カラーのアーマー各部をノギスで測ったところ、カバーを含めた厚みは概ね9mmだったので、中のアラミド繊維は約8mmと考える事にします。思っていたより薄いですね。
当初、素材としてはお風呂マットやウレタンフォームを候補として考えていましたが、ホームセンターに行って商品を見てみると、どれも思ったよりぶ厚くて、厚さ8mmの品はなかなかありません。何か良いのは無いかと探していると、ありましたよ丁度いいのが。

ユーザー(USER) アルミロールマットL U-P851

キャンプなどで地面に寝る時に寝袋の下に敷く保温・緩衝用アルミロールマット、通称銀マットです。偶然にも厚さ8mmの品が並んでいました。これなら適度な硬さもあり、型崩れしなさそうなので中に入れるのにピッタリだと思いました。
さっそく買って帰って作業開始。やる事は単純で、ボディアーマーのカバーを広げて縁の形を取り、そこから縫い代分の10mm内側を切り出します。これをカバーの中に入れて、カバー開口部をミシンで縫い直せば完成。

※銀マットはもともと十分な大きさだったのに、寸法を測り間違って余計な部分を切ってしまいた。しかたなくガムテープでつなげ直しています。

こうして復活したM1952Aボディアーマー。本当に銀マットは丁度良い硬さで、思っていた以上に見栄えが良いです。

M1952Aのタグ



3/4カラーボディアーマー(RVNAF)

ついでに、今回アラミド繊維の厚みの参考にした3/4カラー・ボディアーマー(RVNAF)をご紹介。

名前の通り、このボディアーマーはRepublic of Vietnam Armed Forces=ベトナム共和国軍*に供与するために生産されたもので、タグが違うだけで物は米軍のM69ボディアーマー**と全く同一です。

アメリカ製ですが、ベトナム共和国軍での使用を前提としているため、最初からベトナム語の取説タグが付いています。なおアメリカ政府におけるFSN(連邦備品番号)は、米軍M69は8470-122-1299ですが、ベトナム軍仕様は8470-144-5798となっています。

* RVNAF
戦後誤解されていますが、当時のベトナム共和国軍の正式な英語表記はRepublic of Vietnam Armed Forces(RVNAF)であり、Army of Republic of Vietnam(ARVN)はベトナム陸軍のみを指しました。過去記事『ARVNとは?』参照

** M69ボディアーマー
3/4カラーおよびM69ボディアーマーの名称についてはマニア間でかなり誤解されています。
まず、マニア間でM69と呼ばれている物(ジッパー閉じ)は米軍でいうM69ではありません本来の名称は"3/4カラー"ボディアーマーであり、1969年制定でもありません。M69とはこの3/4カラーの後継モデルの名称なのですが、なぜかマニア間では3/4カラーそのものを指してM69と呼ばれています。
さらにこの誤った認識の上で、本来のM69(ベルクロ閉じ)は、「M69(実際は3/4カラー)の1970年仕様」だと誤解され、"M69/70"という謎の分類化がされています。タグに本来の名称書いてあるのに、なんでわざわざ関係ない名前付けるかね。
なお、RVNAF仕様は(真の)M69と全く同じ仕様ですが、タグに記載された名称はM69ではなく、なぜか3/4カラー(RVNAF)となっています。


おまけ: T61-5 3/4カラーボディアーマー

T61-5ボディアーマーがベトナム海軍でも使われていたの図。

 
T61-5はアメリカ海軍で開発されていたチタン・ナイロン混合ボディアーマーです。
フランスの米軍コレクターグループUSMC-COLLECTORSのページLES GILETS PARE-ECLATS DE L'US NAVYによると、1964年11月に海軍での採用が決定されたものの、1965年12月になっても生産前の試験が継続しており、生産されたものについてはベトナムに派遣されたアメリカ海軍の河川哨戒艇部隊で使用されたそうです。しかしこのT61-5は体温がこもりやすく、熱帯地域での着用は厳しいもので、結局大量生産には至らず消えて行ったようです。
上のベトナム海軍の写真は、アメリカ海軍が装備品をベトナム側に供与した際、その中にT61-5も混ざっていたためにそのまま使われていたのであろうと推測します。

  


2017年03月27日

ブラッドケーキ/ブラッシュ迷彩

 先日ベトナム海兵隊のタイガーストライプ迷彩について書きましたが、タイガーストライプと同じく1960年代初頭から使用され始め、ベトナム共和国軍を代表する迷彩服としてタイガーストライプと双璧を成していたのが『ブラッドケーキ』または『ブラッシュ』と呼ばれる迷彩服でした。(これらの呼び名はマニア間での通称であり、当時のベトナム軍における呼び名ではありません。) 今回はこのブラッドケーキ迷彩服について、当時の写真を交えながらご紹介します。



ブラッドケーキ迷彩の起源

 愛好家・コレクターの間では、ベトナム軍ブラッドケーキ迷彩の源流は第2次大戦中に開発されたイギリス陸軍の迷彩ウィンドプルーフスモックにあると考えられています。

Smock, Windproof, Camouflaged: British Army© IWM (UNI 4081)

 このウィンドプルーフスモックは第2次大戦中、ギリス軍の指導の下組織された自由フランス軍SASにデニソンスモック等の英軍装備と供与されており、さらに大戦後は米英軍の支援の下再建中のフランス陸軍(本土軍・植民地軍・外人部隊)の空挺部隊に大々的に供与され、スモックだけでなく同じ生地で作られたジャケットやパンツも生産されました。
 時を同じく、1946年に第1次インドシナ戦争が勃発すると、このウィンドプルーフ系迷彩服はインドシナ派遣部隊(CEFEO)の各空挺部隊にも支給されます。さらに1948年からは植民地軍のインドシナ人空挺中隊(CIP)に、1951年からはフランス連合の枠内で独立したベトナム、ラオス、カンボジア各国の空挺部隊でも使用されるようになります。



ウィンドプルーフ迷彩スモック、パンツを着用したCEFEO第6空挺植民地大隊CIPのベトナム人兵士[1952年11月1日]


国産化

 こうしてウィンドプルーフ系迷彩服はベトナム共和国軍へと受け継がれていった訳ですが、ジュネーブ協定後の1950年代後半になるとウィンドプルーフ迷彩の使用例は急激に減少します。なぜならフランス連合軍はベトナムから撤退する際、これから部隊に支給するはずだった新品の空挺部隊用リザード系迷彩服(TAP47系、TTA47系)を大量に南ベトナムに置いて帰ったため、ベトナム軍空挺部隊の使用する迷彩服はそれら新品のリザード系だけで十分となり、古いウィンドプルーフ系を着る必要がなくなってしまったからです。
 しかし、当然ながらフランス軍が残していったリザード系迷彩服の数にも限りがあり、訓練や戦闘で消耗されればいずれ迷彩服が不足する事は明白でした。その為ベトナム軍は空挺部隊向け新型国産迷彩服の開発を進めていきます。こうして生まれたのが、ウィンドプルーフ迷彩を基に開発されたブラッドケーキ迷彩服でした。
 このブラッドケーキ迷彩服の裁断は、海兵隊タイガーストライプや、その発展型であるベトナム軍共通の作戦服とは異なる独特のものでした。この服は空挺部隊向けの作戦服である為、空挺降下時に着用する事を念頭に設計されています。海兵隊式と違い、降下時に風圧で空気が服の中に入ってバタついたり、装備・ベルト類が引っかからないよう、前合わせやポケットのフラップが隠しボタンになっているのが大きな特徴でした。また、迷彩パターンだけでなく、ウィンドプルーフスモック本来の防風性も受け継ぎ、風を通しにくい生地が使われていました。なお、パンツは概ね海兵/一般と同じく米軍ユーティリティ式の貼り付けポケットで、カーゴポケット有り・無しが存在していました。

 しかし残念ながら、僕はまだブラッドケーキ迷彩服がいつごろ開発されたのか、詳しい情報はつかめていません。僕が写真で着用を確認している最も古い時期は、1962年になります。もっと古くからあるよ!という情報をお持ちの方、是非ご連絡下さい!
 
ブラッドケーキ迷彩服を着用し降下訓練に臨む空挺旅団兵士[1962年]

 またブラッドケーキ迷彩服は1960年代初頭から60年代末まで10年近く使用された服であるため、いくつかバリエーションが存在します。以下は、僕が写真で確認しているもののまとめになります。

2ポケット
おそらく最初に生産されたブラッドケーキ迷彩服の裁断。大きめの胸ポケットと隠しボタンの前合わせが特徴。ポケットのマチ、TTA47のような肩当て補強、エポレットはそれぞれ有り・無し両方が見受けられます。

[1963-1964年?]


ライセンス企業Alamyではこの写真の撮影年を1973年と記載していますが、僕の見立てでは1964~1966年頃だと思います。


◆小2ポケット
大ポケットの簡略型と考えられており、海兵/一般部隊向け裁断のようにポケットが小さくなっています。またエポレット無しタイプもちらほら見受けられます。※2017年4月1日訂正

ム政権への軍事クーデターに参加した空挺旅団兵士[1963年11月サイゴン ザーロン宮殿]


◆隠しジッパーポケット改造
胸ポケットの内側にさらにTAP47系降下服のような隠しジッパーポケットを追加した改造モデル。大ポケット、小ポケット共にこの改造が行われた模様です。

同じくAlamyでは1973年撮影としていますが、個人装備からして1964~1966年頃だと思います。

僕が持っている香港製のリプロは、このタイプを再現したものです。新品だとコントラストが高すぎて別物みたいですね。リアルにするには全体がグレーっぽくなるまで退色させる必要がありますが、失敗すると取り返しのつかないリスキーな作業になるので、まだ踏み出す勇気が出ません。


◆TCU(1stパターン)裁断
その名の通りアメリカ軍のTCU(熱帯戦闘服)を模した裁断です。空挺部隊ではなく、主に特殊部隊(LLĐB)で着用されていました。どちらも空挺作戦を行うエリート部隊でしたが、フランス軍によって創設された空挺部隊とは異なり、LLĐBは1950年代末からアメリカ軍特殊部隊によって育成された組織であるため、米軍グリーンベレーに倣って緑色のベレーを採用するなど、米軍からの影響をより色濃く受けていたようです。

CIDGキャンプ訪れたベン・ハレル米陸軍中将の激励を受けるベトナム軍LLĐB隊員[1964年11月]


1960年代後半

 1960年代後半になると、ベトナム陸軍のエリート部隊全体で米国の民間ハンター向け迷彩パターンをコピーした『シビリアンリーフ』迷彩が作戦服に採用され、空挺師団ではブラッドケーキからシビリアンリーフへの切り替えが始まります。さらに1967年には、米軍の新型TCU迷彩『ERDL』パターンが、海兵隊を含むベトナム軍エリート部隊共通の迷彩服として採用されます。その後も1969年からは国産の新型迷彩『レンジャー/エアボーン』パターンの配備が進められ、ベトナム軍の迷彩服は一気に様変わりしていきます。
 とは言え、数万人の兵士の迷彩服を一度に更新する事は不可能であり、徐々に切り替えが進められたため、前線部隊でのブラッドケーキ迷彩の着用例は1968年頃まで見受けられます。また自費でブラッドケーキ迷彩服をテーラーメイドした将校たちは、新型迷彩が採用された後も手持ちの迷彩服を着続けたので、あまり前線に出る事のない司令部や後方勤務者は1970年頃になってもブラッドケーキ迷彩服を着ている事がありました。

空挺師団第5空挺大隊の中尉[1967年]

テト攻勢の最中の空挺師団兵士 [1968年サイゴン]
この時期、空挺師団ではERDL迷彩が一般的となっており、一部ではレンジャー/エアボーン迷彩の支給も始まっていました。


高級将校の仕立服

高級将校は自費で迷彩服をテーラーで仕立てるため、服の裁断はある程度個人の好みで作られます。そのため、高級将校の着ている迷彩服の裁断は、一般兵に支給されていたものとは異なる可能性がある事に留意する必要があります。

2ポケット
高級将校であっても多くの場合、(仕立服だとは思いますが)一般的な2ポケット型のブラッドケーキを着ています。ただし官給品とは違い、殆どの場合でエポレットや肩当は省略される事なく備わっています。

カオ・バン・ビエン少将(当時) (写真左) [1965年10月]


ゴ・クアン・チュウン少佐(当時)(写真中央)と空挺師団付き米陸軍アドバイサー ウェスト大尉(写真左) [1964年8月]


◆TCU(1stパターン)裁断

 
ド・カオ・チ中将[1960年代中盤]
チ中将の出身部隊である空挺師団ではTCU型ブラッドケーキはほとんど見られませんが、当時チ中将は軍団司令なので米軍式の服も作ったようです。


2ポケット/前合わせボタン露出

トン・タット・ディン中将[1963年11月]
胸ポケットは隠しボタンのままですが、前合わせだけボタンが露出しています。隠しボタンは降下服としての実用性を目的とするものなので、それが取り払われたこの服は、実際に空挺降下をする事はない高級将校専用の服と言えそうです。


小2ポケット/胸ポケットボタン露出

 
グエン・チャン・チ少将[1965年ダナン]
上の中将の服とは逆に、胸ポケットだけボタンが露出しているタイプ。また、仕立服でありながらエポレットを備えていないのも珍しいです。


※2017年4月1日追記
◆大2ポケット前合わせ・胸ポケットボタン露出

グエン・カーン中将(当時)(写真左) [1964年サイゴン]
前合わせと胸ポケット両方のボタンが露出し、エポレット無しという、海兵/一般部隊向けとほぼ同じ裁断になっています。


※2017年3月29日追記
◆大4ポケット/胸ポケットボタン露出

グエン・バン・チュー中将(写真左) [1966年]
(TCU型を除いて)珍しい4つポケットのタイプです。ウエスト周りには降下時の空気の侵入を防ぐドローコードが見受けられます。チュー中将の出身部隊は空挺ではありませんが、降下資格は持っていますし、当時空挺科幹部の独壇場だった軍事政権の中で新たな政権を発足させたチューですから、空挺科に舐められないよう、服で箔をつけるという目的があったのかも知れません。
  


2017年03月25日

ボタンとっかえ

ここ3ヶ月間、仕事で週に3・4日は家に帰れない状況が続いているので、さすがにお疲れモードになってます。
なので休日は家から出ず、チクチク軍服をいじる事で疲れを癒しています。


前にも書きましたが、ベトナムに行った時に良い作戦服用ボタンを仕入れてきたので、手持ちのレプリカ軍服のボタンをそのベトナム製ボタンに交換する作業を進めています。


外したボタンは今後何かに使えるかもしれないので、全部保管しています。




◆東京ファントム(日本)製 2ポケット型ERDL迷彩 (半袖改造) 空挺師団仕様



◆東京ファントム(日本)製 2ポケットERDL迷彩 海兵旅団仕様



パンツァーファウスト(香港)製 2ポケット空挺型 ブラッドケーキ迷彩



実物レンジャー・エアボーン迷彩生地を使用した2ポケット型のリプロ 空挺師団仕様
こちらは上記のベトナム製ボタンではなく、当時の実物ボタン(たぶん)に交換しています。



(メーカー失念、日本製) 2ポケット型 クラウド・ナショナルポリス迷彩 第222野戦警察群仕様
軍と同じ緑ボタンでも良かったのですが、黒ボタンの方が警察っぽさが出るかなと思い、形の似たもので代用しています。またポケットの位置、形状も大幅に変更しました。過去記事警察迷彩服の続き』参照

 


あとは、朝起きたらハワイのウクレレガールズ Honoka & Azita (ホノカ&アジータ)の動画を見て、出来るだけ現実から目をそらすようにしています。いいなぁ、ハワイ。南国。常夏。まぢパラダイス。

  


2017年03月18日

トレーニング

 先週末、SAITAMA101さんが開催しているリエナクトメント・トレーニング会、略してリナトレに2日間参加させていただきました。リナトレはアメリカ陸軍第101空挺師団が行う演習という設定ですので、僕ら3名のベトナム兵ベトナム陸軍空挺師団からの研修生という体でお邪魔しました。SAITAMA101さんも僕らもベトナム戦争のリエナクトを目指していますが、今回は、昼間はともかく夜はコップに入ったコーラが凍るくらい寒かったので、ここはきっとベトナムではなく米国本土の演習場です。

<当日行った内容>

・ミディアムテント、CPテント設営



・基本教練 - 静止間の動作(気を付け、休め、整列休め、敬礼、右向け右、回れ右、駆け足からの停止)
・基本教練-分隊行動(集合、整頓、番号、行進、駆け足)
・戦闘訓練 - ほふく前進(第一~第四ほふく、尺取り虫)



・演習 - パトロール、負傷者発生、ダストオフ(緊急脱出)


▲ダストオフに使用したCPのM151A2トラックと衛生隊のM718A2救急トラック
衛生隊は現場に到着すると負傷者を担架に乗せ現場でトリアージ、救急トラックに載せ、後方に搬送します。
パトロール隊の出発から後方搬送までを全て通してやるので、実際にやってみると(戦闘中の搬出という体なので)現場では混乱が生じ、重傷者と軽症者を取り違えてしまったりと、すんなり行くものではありませんでした。この混乱もまたリアリティがありますね。

こうして訓練は無事終了しました。本当に沢山の事を学べた二日間でした。
終了後、米軍側より今後もベトナム軍の参加を歓迎すると仰っていただけたので、またの機会を楽しみにしています。
また教練の内容はマニュアル化して、今後のイベントで実践していきたいと考えていますface02



後日談


後日、リナトレの時に撮ったこの写真をFacebookに載せたら、ベトナムとアメリカ人から、「こんな腹の出た軍人いねーよwww」と馬鹿にされてイラッときた。きぃぃぃ!ムカつくーー!そのあとすぐにホア少尉らNKTベテランの方々が僕をかばう書き込みしたら、そいつらは黙っちゃったけど。
でも確かに、自分でも太り過ぎたと思う。会う人みんなに「太ったねぇ・・・」と言われる。そして何より、軍服のズボンがどんどん履けなくなっていく・・・。という訳で、本気でダイエットする事にしました。逃げ道作ってるといつになってもやらないので、期限を区切って、今年の年末までに成果を出すことを宣言します。

今から12、3年前。毎日登山、水泳、片道8kmの自転車通学してた頃。
-18kgか・・・長い道のりだ・・・。
  


2017年02月26日

続・タイガーストライプの始まり

過去記事『タイガーストライプの始まり』の補足・訂正です。

※2017年3月1日加筆訂正

 まず、ベトナム海兵隊迷彩『Da Cọp(虎皮)』、通称タイガーストライプの原型となったのは、フランス軍の空挺部隊用迷彩(通称リザード迷彩)と言われてきましたが、それを裏付ける分かりやすい写真がM-51Parkaに関する2,3の事柄様のこちらの記事『サイゴン1955 あるいはタイガーストライプの始まり?』で紹介されています。
 一口にリザード迷彩と言っても様々なパターンがありまして、中でもタイガーストライプの原型となったのは、第一次インドシナ戦争末期に登場した、マニア間呼称で言うところのC1パターンと考えられています。フランスはフランス連合各国の空挺部隊に、このC1リザードパターン迷彩で作られたTAP47/52降下服TTA47系戦闘服を供与しており、それらの迷彩服はインドシナ諸国がフランス連合から独立した後も、1960年代まで各国の空挺部隊に使用されていきます。
※TAPとかTTAとかややこしいですが、TAPはTroupes AéroPortées(空挺部隊)、TTAはTreillis Toutes Armes(全兵科)を意味しており、同じ"Modèle 47"でも服の形が全然違います。

▲"C1パターン"TTA47/52型チュニックおよびTTA47/53型パンツ
画像引用: Vonstuck Camouflage

また、この時代のリザード系迷彩はパターンだけでなく色のバラつきも大きく、同じC1パターンであっても、全体が緑っぽく、茶色の部分がかなり黒っぽい、まるで別物のような柄があったようです。これらはあくまでフランス製のリザード迷彩なのですが、ぱっと見タイガーにしか見えません。

C1パターン亜種のTTA47/50または53型パンツ。
資料提供: デスボランティア様

 ベトナム海兵隊の新型迷彩は、当時ベトナム陸軍空挺部隊が使用していたフランス軍C1パターンをベースに、こういった亜種の影響も受けながら開発されたのではないかと推察されます。その為、現在タイガーストライプと呼ばれている迷彩の最初のモデル(通称VMX)は、ベースとなったC1と同じく、フランス軍TTA47系戦闘服の裁断で作られました。

VMXパターンTTA47戦闘服

▲フランス軍C1パターンとベトナム海兵隊VMSパターンの比較

 僕は今まで知らなかったのですが、タイガーストライプ研究のバイブルTIGER PATTERNSによると、1957年8月には既に最初のVMXパターンTTA47戦闘服が完成していたとしており、実際に1957年製造を示すベトナム国防省のスタンプの写真が掲載されています。なので『タイガーストライプの始まり』と言った場合、それは1957年まで遡れたんですね。やっぱり値段高い本は、高いなりに良い情報が載ってるんだなぁ。
 しかし1957年に開発とは言え、その時点ではタイガーストライプはまだ試作段階の迷彩であり、その服が海兵隊に制式採用され、大量発注・生産・納入されて実際に現場での着用が始まるまでには、やはり年月がかかりました。僕が他の研究者の方に意見を求めたところでも、実際にタイガーストライプの着用が確認できる最も古い時期の写真は概ね1960年頃のようです。

▲VMXパターンTTA47戦闘服を着用したベトナム海兵隊員
※これらの服の袖についているパッチは1950年代後半の海兵隊のもので、1960年に制定された新型(現在は初期型と呼ばれている)海兵隊章より前のタイプです。しかしパッチが1960年に制定されたとしても、実際に行き渡るのはもっと後なので、写真からでは50年代末~60年代初頭としか言えない感じです。その為、タイガーが50年代に支給されていたと断定できる写真はまだ発見されていないようです。

 このように最初に部隊への支給が始まったタイガーストライプはTTA47型からでしたが、1960年代以降TTA47に代わってベトナム共和国軍の標準的な戦闘服となる貼り付け2ポケット裁断(通称ARVN型/M59)のタイプも、1958年製造スタンプが確認されているとデスボランティア様より情報を頂きました。なんと!貼り付け2ポケット裁断はこんな早い時期に存在していたんですね!(つまりM59という呼び方は無意味になりますね)

▲1958年製が確認されたベトナム海兵隊『貼り付け2ポケット型』
1960年代以降、この貼り付け2ポケット型は海兵隊のみならずベトナム共和国軍全体の標準作戦服となり、一般部隊向けのオリーブグリーン単色が陸海空軍で広く用いられます。さらにその後、エポレットを追加し各種迷彩生地で作られた迷彩服型や、主にオリーブグリーン単色で肩当を省略した簡略型もしくは肩当なしエポレット追加型が終戦まで全軍で広く用いられました。

※それまでフランス軍式の野戦服を使っていたベトナム軍が、アメリカ軍のユーティリティユニフォームに似たデザイン(特にパンツ)を採用した背景には、当時ゴ・ディン・ジエム政権がアメリカからの支援に依存を強めていった事と同時に、国内での生産が間に合わなかったため、これら迷彩服の生産の大部分を同じ親米国家の日本や韓国に委託していた事が影響していたのではないか、という考察をデスボランティア様からご指摘いただきました。

 しかし、当初タイガーストライプ迷彩服の生産は先に登場したTTA47型が優先されていたようで、手持ちの写真を見た限りでは、現場に支給されるタイガーがTTA47から2ポケットに切り替わるのは1961~62年頃のようです。

VMXもしくは1stパターンの2ポケット戦闘服を着用したベトナム海兵隊員[1962年]

 以上が、ベトナム共和国海兵隊がタイガーストライプを着用するまでの流れになります。それ以降は米軍がCIDGに支給するために海兵隊迷彩のコピー品をアジア各国で生産させたことで種類が多くなり過ぎて、ちょっと僕には付いていけません(汗)


おまけ

海兵隊つながりで、ちょっとレアな写真

 
▲『初期型』と呼ばれる海兵隊胸章が使われてる写真。
僕はこの胸章をこの写真でしか見た事ありません。なので本当に初期型なのか怪しいと思ってます。もしかしたら一般的な丸い胸章と同時期に存在したバリエーションなのかも。
ちなみにこの女性は髪型からして軍の婦人隊員ではなく、おそらく兵士の彼女が彼氏の軍服を着て写真館で撮ったものだと思います。

 
▲ジエム政権末期の1963年頃だけ使われていた海兵隊の帽章(ベレー章)
1963年11月1日のクーデターでジエム政権が崩壊すると、この1963年式帽章はすぐに廃止されて、改定前のタイプに戻ります。

▲海兵隊胸章を訳の分からない場所に付けてる人の図
たぶん、こうした理由は「カッコいいと思った」からなんだろうな・・・
  


2017年01月25日

パッチの縫い付け

ベトナム共和国軍をはじめ1960~1970年代のインドシナ諸国の軍隊では、部隊章などの軍服に付けるパッチは米軍のような刺繍よりも、『シルク織り(通称シルク)』や『シルクスクリーンプリント(通称プリント)』製が一般的でした。これらシルク織りやプリント製パッチは服への縫い付け方が独特なので、今回は僕がこの趣味を始めたころ軍装趣味の先輩に教えてもらった縫い付け方をご紹介します。

まずパッチの他に、裏地にする布を用意します。一部の実物では裏地を使わず直接縫い付けられている場合もありますが、裏地があった方が厚みが出てヨレにくくなるので、基本的には裏地をあてた方がリアルになると思います。


裏地は服に付けた後はほとんど見えなくなるですが、見えないおしゃれという事で、今回は布の織目が当時っぽいダイソーの綿100%ハンカチ(礼装用ハンカチーフ)を使いました。また白布以外では、裏地にするためにリサイクルショップで300円で買ったオリーブグリーン色のズボンなんかも布を切り取って使ったりしています。


ハンカチを適当な大きさに切って、パッチの図柄の面を内側にして裏地と重ねて、図柄の縁(あえて2・3mm余白をつける場合もある)をミシンで縫い付けていきます。


プリント製は裏に図柄が透けて見えるので縁が分かりやすいですが、シルク織りは裏からでは見え辛いので、その場合は白色の裏地を使って、図柄を透かして見るといいと思います。(この際パッチ、裏地どちらを上にして縫っても問題ありません)

 

縁を縫い終わったら、縫い目から3・4mmくらい残して余分な布を切り取ります。この際、角の部分だけは縫い目のギチギリまで切り落としておくと、後でめくり返したときに綺麗に角を出す事が出来ます。
また裏地側の中心に、内側をめくり返す為の切れ目を入れます。(パッチを切らないように注意)


切れ目から全体をめくり返して、パッチの図柄の面を外側に出します。パッチの角は千枚通しなど先の尖った物で押し出し、角を綺麗に出してやります。


さらに縁の縫い目全体をアイロンで綺麗に整えます。


これでパッチ単体は完成。


あとはこのパッチをミシンで服の袖に縫い付けて完成です。縫い付ける糸の色はパッチによって様々ですが、色合いなんか気にせず何でも白糸で縫い付けられているパターンもかなり多いので、僕も毎回白糸で縫っちゃってます。


なおパッチ(SSI)を縫い付ける位置は、パッチの上端が肩の縫い目から20mmのところと書類上規定されているようですが、実際には30mm以上離れている例もあるので、大体で大丈夫です。



パッチ付けたついでに、東京ファントム製2ポケットERDL迷彩服リプロのボタンを、去年ベトナム行った時に大量に買ってきた超リアルなボタンに交換。


このボタンはベトナム戦争後、ベトナム人民軍の軍服に使うために共和国軍ボタンの金型をそのまま使って生産されたものだそうで、リアルで当然なのです。よく比べてみると色が若干違うみたいですが、ある意味、戦後製の『本物』と言えるかもしれません。


4月のベトベトで着る服がもう出来上がってしまった。気合い入りまくりんぐ!!!

  


2017年01月14日

警察迷彩服の続き

リプロお直し

以前『警察迷彩お直し』で手を付け始めてからしばらく放置していたリプロのベトナム国家警察迷彩服がとりあえず形になりました。

<新品状態>



<改造後>


 ジャケットはポケットの形を縫い直して、ボタンを別の物に交換、さらに自作のパッチを付けています。今後、もしやる気が出たらエポレットを追加して、半袖に改造しちゃってもいいかなと思ってます。パンツは特に面白くないので写真撮ってませんが、カーゴポケットを外して、ケツポケットは2ボタンのままマチの無い貼り付け式に改造しました。
 胸の部隊章は第222野戦警察群(Biệt Đoàn 222 CSDC)です。この部隊は要請に応じて全国に展開する即応部隊だったので、ヒストリカルイベントの際、他部隊と一緒に写真に写った時に、「その部隊は当時全く別の地域に居たので一緒に写っているのはおかしい」という状態にならないで済むので便利だなと思った次第です。しかしこの部隊内の構成はまだ調べ切れていないので、右袖に中隊パッチは付けていません。
※野戦警察の組織については過去記事『野戦警察』参照

▲第222野戦警察群と思しきパッチを付けた人たちが袖に第601中隊のパッチを(なぜか左袖に)付けている写真があったけど、まだ確証は得られていないので今回は作ってません。


野戦警察における階級章

 野戦警察はベトナム国家警察内の戦闘部隊(日本の警察で例えると警備部・機動隊)ですので、当然ながら隊員のほとんどは警察官であり、国家警察の階級章を身に着けていました。

 
▲国家警察の肩章式(制服用)階級章。この他に略式のスリーブ式(両肩)、バッジ式・金属バッジ式(胸に着用)が用いられました。

 しかし当時の写真を見ていると、野戦警察の将校の中にはしばしば警察ではなく陸軍の階級章を付けている者もいる事に気付きます。僕はこれらの例について当初、野戦警察は陸軍と共同で任務に当たる事もある戦闘部隊である為、陸軍側に階級を示すために警察将校が勝手に身に着けているものだと思っていました。ところがその後、どうもそうとは限らない事を示唆する写真が出てきました。

 この写真の撮影時期は不明ですが、皆作戦服姿で胸に警察戦誉勲章(Cảnh Sát Chiến Dự Bội Tinh)を佩用していることから、野戦警察における勲章授与式の写真だと思われます。ここに写っている兵士のほとんどは胸に警察下士官のバッジ式階級章を付けているのですが、真ん中のアーミーグリーン作戦服を着た人だけは、襟に陸軍中尉の階級章(刺繍)を付けています。そして彼の頭には、陸軍(一般兵科)将校用のベレーが乗っています。
 つまり彼は、陸軍の階級章を付けた警察官ではなく、正規の陸軍将校である可能性が高いという事が分かります。しかし警察の勲章を佩用し、胸ポケット上に青い警察のネームテープを付けている事からも、所属部隊は明らかに野戦警察のようです。なぜ野戦警察に陸軍将校が所属しているのでしょうか?
 これについて文献での確認はまだ取れていませんが、ある程度推測する事は可能です。まずベトナム共和国国家警察は、少なくともゴ・ディン・ジェム政権に対するクーデターによって軍事政権が発足した1963年11月以降、ベトナム共和国軍参謀総本部の指揮下にありました。歴代の国家警察長官や警察幹部は軍の高官が兼任しており、国家警察は国内の治安を担当する軍の下部組織という状態でした。テト攻勢の際のテロリスト射殺で知られる国家警察長官グエン・ゴック・ロアン少将も、元々は空軍の戦闘機パイロットでした。
 そのため軍人が警察に出向する事は決して珍しい事ではなく、中でも特に軍と共同で戦闘任務に当たる野戦警察は、より軍と近しい関係にあったと思われます。したがって当時の野戦警察に見られる陸軍の階級章を付けた者たちの中には、軍から警察に出向している陸軍将校が多く含まれているはずと推測しています。



今後の製作物

 警察の階級章欲しいけどレプリカ売ってないし、自作するにも銀テープの織り目が独特だから材料が無いんだよね。どこかに良い代用品ないかなぁ~と探してたら、ありましたよ。我らがダイソーに。


100円で階級章10人分くらい作れる。うひひ
  


2017年01月09日

ベトナム空挺の降下作戦1955-1975

 先日ジャンクションシティー作戦について記事を書きましたが、ジャンクションシティー作戦と言えばベトナム戦争中アメリカ軍が行った唯一のエアボーン作戦として有名ですよね。一方、第1次インドシナ戦争中に40回以上のエアボーン作戦に参加していたベトナム空挺部隊(フランス植民地軍時代含む)は、ベトナム戦争においても度々エアボーン作戦を実施していました。以下は1955年から1975年までにベトナム共和国軍が行ったエアボーン作戦の概要です。


ベトナム共和国軍空挺部隊のエアボーン作戦

空挺部隊が降下した地点
黒が陸軍空挺部隊(Binh Chủng Nhẩy Dù)
青がマイクフォース(Lực lượng xung kích cơ động)

 ヘリコプターの性能向上によってヘリボーンによる迅速な展開・強襲が可能になったことから、第1次インドシナ戦争期と比べるとエアボーン作戦の回数はかなり少なくなりましたが、それでも大規模な戦闘降下作戦は少なくとも13回は実施されたようです。
 なお、マイクフォースは特殊部隊の指揮下にありましたが、マイクフォース自体は小人数で偵察や破壊工作を行うコマンド部隊ではなく、中隊規模以上の戦力でエアボーンまたはヘリボーンによる強襲を行大規模な空中機動部隊でした。

日付: 1955年9月23日・24日
降下部隊: 空挺群
目的: ビンスェン派の掃討
領域: ベトナム共和国ジアディン省ズンサック

日付: 1962年3月5日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 守備隊の支援
領域: ベトナム共和国タイニン省ボートゥック

日付: 1962年7月14日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 待ち伏せ攻撃の支援
領域: ベトナム共和国ジアディン省サイゴン北部

日付: 1963年1月2日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 第7歩兵師団の支援(アプバクの戦い)
領域: ベトナム共和国ディントゥオン省アプバク

日付: 1965年8月3日
降下部隊: 空挺旅団
目的: ドゥッコー特殊部隊キャンプ奪還の支援
領域: ベトナム共和国プレイク省ドゥッコー

日付: 1965年11月
降下部隊: 空挺旅団
目的: 解放戦線部隊への強襲
領域: ベトナム共和国ビンディン省アンケー

日付: 1966年3月3日
降下部隊: 空挺師団
目的: 敵部隊への強襲
領域: ベトナム共和国フーイェン省ソンコウ

日付: 1966年12月27日
降下部隊: 空挺師団
目的: 解放戦線支配地域中心部の強襲
領域: ベトナム共和国チュンティエン省

日付: 1967年4月2日
降下部隊: 特殊部隊第5MSFC(第5マイクフォース), 第1MSF大隊, 第2・第3中隊
作戦: ハーヴェスト・ムーン作戦
兵員: 356名
領域: ベトナム共和国クアンドゥック省
降下地点: Bu Prang CIDG訓練キャンプ
航空機: C-130輸送機
降下方法: 昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ

日付: 1967年5月13日午前6時
降下部隊: 特殊部隊第5MSFC(第5マイクフォース), 第1MSF大隊, 第3・第4・第5中隊および4.2インチ迫撃砲小隊
作戦: ブラックジャック作戦
兵員: 486名
領域: ベトナム共和国チャウドゥック省バイニュー
降下地点:バイニュー付近の水田
降下方法:  昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ, 高度200mより水田上に降下

日付: 1967年10月5日
降下部隊: 特殊部隊第2MSFC(第2軍団マイクフォース)第2MSF大隊, 第24中隊・第25中隊
作戦: ブルーマックス作戦
兵員: 250名
領域: ベトナム共和国クアンドゥック省
降下地点: Bu Prang CIDG訓練キャンプ
降下方法:  昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ

日付: 1968年11月17日
降下部隊: 空挺師団
目的: 特殊部隊による掃討作戦の支援
領域: ベトナム共和国チャウドゥック省バイニュー

日付: 1972年5月4日
降下部隊: 空挺師団
目的: 進軍ルート(チューパオ・パス)の確保
領域: ベトナム共和国コントゥム省チューパオ


ベトナム共和国軍特殊部隊の越境エアボーン潜入作戦

▲NKTのコマンド部隊がエアボーンによって潜入した地点
北ベトナム領だけで少なくとも30カ所に上る。(南カリフォルニアNKTアソシエーション資料より)

  特殊部隊が敵地に潜入するために行う小人数のエアボーン降下は、空挺部隊が行ったものよりもはるかに多くの回数が実施されました。また潜入のための降下作戦は、低高度を飛行する輸送機から順に飛び出す通常のスタティックラインジャンプだけでなく、潜入作戦という都合上、より隠密性を高めるためにHALO(高高度降下低高度開傘)を、しかも夜間に行っていた点が通常の空挺部隊とは大きく異なっていました。
 ベトナム共和国軍特殊部隊による北ベトナムへの越境潜入は、1961年に開始されたパラソル・スイッチバック作戦に始まります。作戦はアメリカ軍MAAGベトナムおよびCIAによって指揮され、ゴ・ディン・ジェム総統直属の特殊作戦機関『地理開拓局(後のLLĐB)』がその実行に当たりました。この作戦はコマンド隊員が北ベトナムまたはラオス領内にエアボーン降下で潜入した後、民間人に成りすまして敵支配地域内に長期間潜伏し、諜報および破壊活動を行うという大規模なスパイ工作でした。そのため潜入要員は南ベトナムから来た者だと悟られないよう北部出身のベトナム人はたはヌン族の兵士が選抜されました。
 ゴ・ディン・ジェム政権崩壊後の1964年、ベトナム共和国軍特殊部隊LLĐBの対外工作部門(第45室)はLLĐBから分離され、新たに参謀総本部直属の特殊作戦機関SKT(後のNKT)として再編されます。そしてそのSKT/NKTが行う対外作戦の立案・指揮をアメリカ軍MACV-SOGおよびCIAが担っていきます。以後、MACV-SOGが計画しNKTが実行した越境作戦は大きく分けて2系統ありました。

OP-34 / OP-36 ※1967年12月にOP-34からOP-36に改称
敵性地域内での直接的なサボタージュ工作。米軍SOG-36およびSOG-37が担当。作戦は任務によってさらに三段階に分類される。
・OP-34A / OP-36A: NKT沿岸警備局およびNKT第68群が実行。パラソル・スイッチバック作戦に続く長期または短期潜入・諜報・破壊工作。
・OP-34B / OP-36B: NKT第11群が実行。STRATA(短期監視・目標捕捉)チームによる機動的なロードウォッチ任務
・OP-34C / オペレーション・フォーレ: 心理作戦

OP-35
敵性地域への偵察、破壊活動。NKT連絡部『雷虎』と米軍SOG-35合同のC&C部隊が実行。



※以下は特殊部隊が実施した越境エアボーン潜入作戦の一部ですが、元が秘密作戦だけあって具体的な回数や細かい日付は把握できていないものが多いです。今後資料を見つけ次第加筆修正していきます。

日付:1961年から1964年にかけて複数回
降下部隊: 総統連絡部 地理開拓局北方部 第77群
作戦: パラソル・スイッチバック作戦
領域: 北ベトナム, ラオス
航空機: C-46輸送機

日付:1964年から1967年にかけて複数回
降下部隊: SKT第68群
作戦: OP-34A
領域: 北ベトナム, ラオス

日付:1968年から1973年にかけて複数回
降下部隊NKT第68群
作戦: OP-36A / エルデストサン作戦
目的: 敵の弾薬集積地に潜入し、敵の使う銃弾に爆発物を仕込んだ物を紛れ込ます事で、敵兵に自軍兵器への不信感を抱かせ戦意を削ぐ
領域: 北ベトナム, ラオス, カンボジア
航空機: C-130またはMC-130輸送機
降下方法: 夜間HALO

日付: 1970年11月
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, CCN,  チーム・フロリダ
作戦: OP-35
兵員: 9名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法: 高度6400mより夜間HALO

日付: 1971年2月
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, CCN,  チーム・アラスカ
作戦: OP-35
兵員: 9名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法: 高度6400mより夜間HALO

日付: 1971年4月15日
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, 第1強襲戦闘団, チーム・ワンゼロ
作戦: OP-35
兵員: 4名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法:  高度6400mより夜間HALO

日付:1970年から1971年にかけて13回
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, C&C部隊
作戦: OP-35
領域: 北ベトナム, ラオス, カンボジア
降下方法: スタティックラインジャンプ



おまけ

▲一昨年カリフォルニアでお世話になったレ・ホアン少尉の、
STRATA時代(当時19歳)の写真。

なんか面白い銃持ってますね。


(再現図)

発想としてはシンプルだけど、意外なほど今まで見た事ないパターンだったので目からウロコです。
  


2017年01月06日

ジャンクションシティー作戦におけるベトナム共和国軍部隊

新年あけましておめでとうございます。今年も年明けから平常運転で行きます。
来る4月8日・9日開催のベトベトマニアのテーマはズバリ、『ジャンクションシティー作戦』だそうです。
ベトベトマニアVol.3 -Operation JUNCTION CITY -
 ―エピローグ―
1967年2月、南ベトナム軍と米軍はタイニン省とサイゴン北西のカンボジア国境周辺の共産主義拠点を破壊する為に『ジャンクションシティー作戦』を発令、 第1歩兵部隊と第25歩兵部隊、 第 27歩兵連隊、第196軽歩兵旅団 、第173空挺旅団の空挺部隊、 第11装甲騎兵連隊の大型装甲部隊による大規模な戦闘を行うも全体的な成果を果たせなかった。カンボジア国境に隣接するベトベト地区には解放戦線第9師団が侵攻を開始し駐留する南ベトナム、米軍の混成師団は包囲される形となってしまった。弾薬、食糧は残り少なくこれを救出すべく第173空挺旅団が効果作戦を実施する。果たしてベトベト地区に残された混成師団の運命やいかに!
リエナクターを目指す以上、イベントが指定したシチュエーションに沿わない部隊を演じる訳にはいかないので、さっそくベトナム共和国軍部隊として堂々とジャンクションシティー作戦に参加する為の根拠集めを開始。以下はアメリカ陸軍指揮幕僚大学の戦史教本"Operation JUNCTION CITY, VIETNAM 1967" (1983)からの抜粋です。


 ジャンクションシティー作戦(Operation JUNCTION CITY)はアメリカ陸軍およびベトナム陸軍によって、C戦区(War Zone C)として知られるサイゴン北西のタイニン省周辺のにおいて実施された三段階の軍事作戦であり、1967年2月から5月にかけてベトナム共産ゲリラ(解放民族戦線)および北ベトナム軍(ベトナム人民軍)との戦闘が行われた。またアメリカ空軍もこの作戦の支援に加わった。
 作戦は在ベトナム・アメリカ陸軍第2野戦軍が実施し、本部をロンビンに、戦術司令部をダウティエンに置いた。作戦の指揮は3月24日までがジョナサン・O・シーマン(Jonathan 0. Seaman)中将、残りの期間をブルース・パーマー(Bruce Palmer)中将が執った。作戦部隊はジョン・ヘイ(John Hay)少将指揮の第1歩兵師団およびジョン・ティルソンIII世(John Tillson III)少将指揮の第25歩兵師団で構成された。ジャンクションシティー作戦に当たって、第1歩兵師団および第25歩兵師団の指揮下には、他の師団からも複数の有機旅団(Organic brigade: 編成に捕らわれず有機的に展開する旅団)が加わり、合計で22個の機動大隊および14個の砲兵大隊、加えてベトナム共和国軍3個大隊を指揮下に持ち、兵力はおよそ25,000名に上った。 

在ベトナム・アメリカ陸軍 第2野戦軍
ジャンクションシティー作戦 - フェーズI 作戦部隊の編成

第1歩兵師団

第1歩兵師団第1旅団
・第2歩兵連隊第1大隊
・第26歩兵連隊第1大隊
・第28歩兵連隊第1大隊
・タスクフォース・ウォーレス (ベトナム陸軍第3軍団『ウォーレス』戦闘団)
 ├ 第35レンジャー大隊 
  第1騎兵大隊第3中隊

第1歩兵師団第3旅団
・第16歩兵連隊第1大隊
・第2歩兵連隊第2機械化大隊
・第4騎兵連隊第1大隊
・第28歩兵連隊第2大隊

第173空挺旅団
・第503歩兵連隊第1大隊
・第503歩兵連隊第4大隊

第9歩兵師団第1旅団
・第39歩兵連隊第4大隊
・第47歩兵連隊第2(機械化)大隊
・第5騎兵連隊第3大隊


第25歩兵師団

第25歩兵師団第2旅団
・第27歩兵連隊第1大隊
・第27歩兵連隊第2大隊
・第5歩兵連隊第1機械化大隊

第4歩兵師団第3旅団
・第12歩兵連隊第2大隊
・第22歩兵連隊第2機械化大隊
・第22歩兵連隊第3大隊
・第14歩兵連隊第2大隊

第196軽歩兵旅団
・第1歩兵連隊第2大隊
・第21歩兵連隊第3大隊
・第31歩兵連隊第4大隊

・第11装甲騎兵連隊第1大隊
・第11装甲騎兵連隊第3大隊
・第23歩兵連隊第4機械化大隊

タスクフォース・アルファ (ベトナム海兵旅団A戦闘団)
・第1海兵大隊『怪鳥』
・第5海兵大隊『黒龍』


対して共産軍側の主力は南部中央委員会(COSVN)司令部を含む解放戦線第9師団であり、兵力はおよそ7,000名であった。

南部中央委員会
・第70親衛連隊

解放戦線第9師団
・第271連隊
・第272連隊
・第273連隊

ベトナム人民軍 第325師団
・第101歩兵連隊


アメリカ陸軍第25歩兵師団とベトナム海兵隊TFアルファ

 ジャンクションシティー作戦に参加したベトナム共和国軍3個大隊のうち、2個の海兵大隊からなるベトナム海兵旅団A戦闘団(Chiến Đoàn A TQLC)は、アメリカ陸軍第25歩兵師団の作戦指揮下でタスクフォース・アルファ(Task Force Alpha)としてベトナム・カンボジア国境沿いのタイニン省チャンスップに展開した。TFアルファの指揮官はホアン・ティック・トゥン(Hoàng Tích Thông)少佐、主任参謀をチャン・チュン・アイ(Trần Trung Ái)大尉が務めた。この米越合同作戦に際し、アメリカ陸軍第25歩兵師団のティルソン少将TFアルファの戦力向上のため二つのベトナム海兵大隊に新型のXM16E1ライフルを供与し、従来のM1ガランドとの置き換えが進められた。
 サイゴンに駐屯していたベトナム海兵隊TFアルファはジャンクションシティー作戦二日目の1967年2月23日にC戦区『蹄鉄(horseshoe)』エリアに投入され、『蹄鉄』エリアの西側を担当するアメリカ第25歩兵師団と合流した。部隊はこの日、地域の保安任務と中隊レベルでのサーチ&デストロイ作戦を実施した。
 翌2月24日、『蹄鉄』エリア北西のTFアルファはカンボジア国境に近い作戦エリア『クーガー』(AO Cougar)にヘリボーン降下し、南に向けて進撃した。この時点で敵の抵抗は軽微であった。
 2月25日から28日にかけて第25歩兵師団第2旅団および第11装甲騎兵連隊は敵の抵抗を受けながらも『蹄鉄』エリアの掃討に成功した。
 以後、第25歩兵師団はサーチ&デストロイの対象地域を広範囲に拡大したが、敵の攻撃は激化した。3月1日から9日にかけて第1歩兵師団指揮下の部隊には多数の死傷者が発生し、第25歩兵師団指揮下の第11装甲騎兵連隊付き第23歩兵連隊第4機械化大隊にも41名の死傷者が出た。しかし第11装甲騎兵連隊は引き続きカンボジア国境に沿って敵部隊の掃討を続け、3月11日には敵部隊の一部を川の東岸に追い詰め、撃破する事に成功した。
 こうしてジャンクションシティー作戦フェーズIが一定の成果を上げた事で、第2野戦軍はフェーズIIに向けて主要部隊の配置換えを開始した。この中でTFアルファは3月11日にジャンクションシティー作戦への参加を終了してサイゴンへと帰還した。


※2017年1月7日追記

アメリカ陸軍第1歩兵師団とベトナム陸軍TFウォーレス

 一方、蹄鉄』エリアの北部を担当するアメリカ陸軍第1歩兵師団第1旅団内には、ジャンクションシティー作戦に伴いベトナム陸軍第35レンジャー大隊および第1騎兵大隊第3中隊からなるウォーレス戦闘団(Task Force Wallace)が設置され、同旅団はビンズォン省ミンタンで出撃に備え編成が進められた。
 2月22日、ジャンクションシティー作戦フェーズI発動と同時に第1歩兵師団第1旅団は蹄鉄』エリア北部に3個大隊規模のヘリボーン強襲を実施し、その地でサーチ&デストロイ任務を遂行した。
 翌23日、同旅団はシャワー施設まで完備した大隊規模の敵軍ベースキャンプを発見した。この時点で戦闘は軽微であり、遭遇する敵は分隊規模かそれ以下であった。
 3月1日以降、旅団は断続的な戦闘を経た後、カツム北東に南部中央委員会(COSVN)宣伝センターを発見した。これを叩くため3月6日には、第1歩兵師団麾下の第173空挺旅団がカツムの南東Bo Tucの南に位置するLZに3個大隊規模のエアボーン強襲を実施した。一方、第1歩兵師団第1旅団は3月4日、フェーズIIに備えてビンロン省クァンロイに移動した。


 1967年3月15日17時24分、司令部はジャンクションシティー作戦フェーズIの終了を宣言した。アメリカ軍が『蹄鉄』エリアの掃討に成功した事で共産軍側の損害は少なくとも戦死者835名に上り、アメリカ軍は捕虜15名、小火器および重火器264個、その他莫大な量の物資と機材を接収した。
 その後もジャンクションシティー作戦は継続され、3月18日にフェーズIIが開始された。さらに4月15日にはフェーズIIIが開始され、5月14日の作戦終了まで戦闘は続いた。
  


2016年12月24日

野戦警察

ついにEAからベトナム警察迷彩服のリプロが発表されましたね!
この時を何年待ちわびたことか。日本への入荷が待ちきれません!



という訳で今回は、ベトナム共和国国家警察野戦警察部隊について、ベテランズアソシエーションのホームページで見付けた情報をいくつかご紹介します。
引用: Gia Đình Mũ Đỏ Việt Nam, Bộ Huy Hiệu Cảnh Sát Quốc Gia VNCH, BKT sưu tầm

※2016年12月25日加筆・修正


野戦警察の概要

野戦警察(Cảnh Sát Dã Chiến, CSDC)ベトナム共和国国家警察(Cảnh Sát Quốc Gia, CSQG)が保有する武装部隊であり、1965年1月27日に設立された。野戦警察は地域の秩序および安全の維持を目的とし、共産ゲリラによる破壊活動阻止及び国内の暴動の鎮圧を遂行した。野戦警察には陸軍歩兵部隊と同等の訓練・装備が施され、最終的に全国で約16,500名の警察官が戦闘任務に当たった。
野戦警察の士官は国家警察アカデミー(Học Viện CSQG)を卒業した後、共和国軍のトゥドゥック歩兵学校において軍の士官課程も修了する必要があった。また野戦警察の士官・下士官はマレーシアやフィリピンの訓練センターに派遣され、暴徒鎮圧やジャングル戦の訓練を受講した。一般の隊員はブンタウで警察官基本課程を修了した後、ダラットの野戦警察訓練センター(TTHL CSDC Ðà Lạt)において軍事および野戦警察の専門知識を学んだ上で部隊配属となった。

▲野戦警察の部隊章


野戦警察中隊 (省)
国家警察は各省の国家警察本部野戦警察中隊(Đại Đội CSDC)を1個中隊配置し、省付きとしては全国で計44個中隊が駐屯した。また各中隊にはその省の人口に応じた数の小隊が編成された。
例として第1戦術地区最大のフエ―トゥアティエン省を管轄する第102野戦警察中隊は10-13個小隊、計500名の小銃兵で構成された。またトゥアティエン国家警察本部(BCH CSQG Thừa Thiên)の職員は野戦警察を含めて約5000名に上り、共和国軍の少佐が本部長を務めた。

戦術地区/軍管区野戦警察中隊
1Quảng Trị101
Thừa Thiên102
Quảng Nam103
Quảng Tín104
Quảng Ngãi106
2Kontum201
Bình Định202
Pleiku203
Phú Bổn204
Phú Yên205
Darlac (BMT)206
Khánh Hòa 207
Quảng Đức208
Tuyên Đức209
Ninh Thuận210
Lâm Đồng211
Bình Thuận212
3Phước Long301
Bình Long302
Bình Tuy303
Long Khánh304
Bình Dương305
Biên Hòa306
Phước Tuy307
Tây Ninh308
Hậu Nghĩa309
Long An310
Gia Định311
4Định Tường401
Kiến Tường402
Gò Công403
Kiến Hòa404
Kiến Phong405
Vĩnh Bình406
Vĩnh Long407
Sa Đéc408
Châu Đốc409
Phong Dinh410
An Giang411
Ba Xuyên412
Bạc Liêu413
Chương Thiện414
Kiên Giang415
An xuyên417


野戦警察中隊 (自治都市)
省付きの他に、以下の6つの自治都市には野戦警察中隊が各1個中隊駐屯する。

戦術地区/軍管区都市野戦警察中隊
1Đà Nẵng105
2Thị xã Cam Ranh?
3Thị xã Vũng Tàu?
Thị xã Long Bình?
Thủ đô Sài Gòn?
4Đảo Phú Quốc?


中央野戦警察群
野戦警察には地方を所管する野戦警察中隊の他に、サイゴンに駐屯する中央野戦警察群(Biệt Đoàn CSDC Trung ương)が二部隊存在した。
サイゴン市警察本部に駐屯する第5野戦警察群は、首都サイゴンおよびジアディン省の都市部を管轄し、11-14個の作戦中隊で構成された。
同じくサイゴン駐屯の第222野戦警察群は必要に応じて全国に派遣される国家警察本部直属の即応展開部隊であり、6個中隊で構成された。
なお各中央野戦警察群内の中隊は4個小隊で構成された。

戦術地区/軍管区 地域 中央野戦警察群
首都特区・3 首都サイゴンおよびジアディン省 5
- 全国 222

第5野戦警察群(左), 第222野戦警察群(右)部隊章


特別警察本部
米国CIAの主導によるベトコンインフラ破壊工作『プロジェクト・フェニックス(Project Phoenix)』が開始されると、ベトナム国家警察はフェニックス計画の実行を指揮する特別警察(Cảnh sát Đặc Biệt)本部を軍団本部に設置した。警察の指揮下にはフェニックス計画の実行に当たる野戦警察、地方軍パトロール中隊(PRU)、CIDGキャンプおよび各民兵組織が集結し、市民への宣伝工作からベトコン容疑者の誘拐・暗殺まで様々な特殊作戦を統括した。

▲国家警察第1軍団特警察 部隊章


国家警察本部部隊

駐屯地部隊名部隊番号
サイゴン国家警察本部600
ブンタウ国家警察アカデミー士官候補生隊605



今回は発見できたのは主に野戦警察に関する事柄であり、他の警察組織についてはまだ不明な点だらけです。
とは言え上の野戦警察中隊リストを見る限りでは、制服の右袖に付ける丸い部隊章の数字は省を示す番号と思われ、恐らく野戦警察もその他の警察組織も共通だという事が分かったのは大きな収穫でした。
ただし500番台はリストには記載されておらず、どういった部署なのかはまだ把握できていません。

▲うちにある506のパッチ
正体が分かったら改造した警察迷彩服リプロに付けようと思ってたのに、まだ微妙なまま。
  


2016年12月04日

グエン・ラック・ホア神父

神父オーガスティヌ・グエン・ラック・ホア
Augustine Nguyễn Lạc Hóa

 グエン・ラック・ホア神父の出自に関しては、いくつかの説が存在する。まず出生名は、『チェン・イーチョン(陳 頤政?)』という説(台湾外務省)と、『ユン・ロクファ(雲 樂華)』という説の二つが存在する。(この記事ではチェン・イーチョンとして書く)
 また出身地と誕生日についても二つの説があり、一つは1908年8月18日に、トンキン湾に面した清国広東省雷州半島の村生まれたというもの。もう一つは1908年8月28日に仏領インドシナ・トンキン ハイニン省(現ベトナム・クアンニン省)のモンカイ生まれ、両親はサイゴンに住んでいたという説である。ただし後者は現ベトナム政府が公表しているもので、これはホア神父が中国からベトナム北部に移住(不法入国)した際に、ベトナム当局に対し自分はベトナム出身だと身分を偽って申請した際の内容である可能性もあると思われる。
 いずれにせよ、ホア神父は中国広東省の漢族の家系に生まれ、キリスト教徒(カトリック)として育ち、洗礼名は『オーガスティヌ (Augustine)』であった。


日中戦争と国共内戦

 "オーガスティヌ" ・チェン・イーチョン英領マラヤのペナンで神学を学んだ後、1935年に英領香港でカトリック教会の司祭に任命された。しかしチェン神父の生まれ故郷中国(中華民国)は当時、国民党政府と中国共産党との間で(第一次)国共内戦の只中にあった。中国に戻ったチェン神父は国民党政府傘下のキリスト教武装集団の指導者の一人として、キリスト教を敵視する共産党の討伐に加わった。
 しかし1937年、日本が中国への侵攻を激化させると、対日戦に集中するため国民党政府は一転して共産党との連携(第二次国共合作)を開始した。チェン神父は再度戦争に動員され、聖職を離れて蒋介石率いる国民革命軍(現・台湾軍)の中尉を務め、広東省と広西省の境にある十万大山山脈において、圧倒的な戦力で押し寄せる日本軍に対しゲリラ戦を挑んだ。
 1945年8月、日本が連合国に降伏し8年間続いた日中戦争が終結した。その頃には、チェン国民革命軍の少佐(少校)へと昇進していた。しかし日本という共通の敵を失った国民党と共産党は再び内戦(第二次国共内戦)へと逆戻りした。この戦いの中でチェンは中佐(中校)へと昇進したが、国民党は次第に劣勢に追い込まれていった一方、チェンは軍を離れる機会を得たため、神父として本来の宗教活動を再開した。


中国キリスト教難民の漂泊

 しかし1949年、毛沢東率いる中国共産党が内戦に勝利し、中華人民共和国の成立が宣言された。その直後、毛沢東政権はヴァチカンのカトリック教会の影響力を排除するため、国内のカトリック信徒への宗教弾圧を開始した。この中でチェン神父は『反動』の烙印を押され、三日間の逃亡の末、当局に逮捕、投獄された。
 投獄から1年と4日後、チェン神父は収容所からの脱獄に成功した。その後チェン神父はパリの友人を介し、中国共産党の毛沢東に宛てて10通ほど手紙を送ったという。その内の一通は以下のような内容であったと伝わっている。
「毛先生、私は貴方に感謝ています。貴方は寛大にも、私に自由とは何かを教えてくました。今や私は、永遠に貴方の敵となりました。私は毎日、一人でも多くの人々に、貴方の敵になるよう説得を続けています。貴方と、貴方の邪悪な思想がこの世から消え去る日が来るまで」
 まもなくチェン神父は、中国共産党政府による弾圧から逃れるため、1951年に約200名の中国人キリスト教徒と共に船で中国を脱出し、ベトナム国北部(トンキン地方)ハイニン省へと移住した。当時ベトナム国はフランス連合の一部であった事からキリスト教が迫害される恐れは無く、彼らカトリック難民にとって安全な場所と思われていた。チェン神父はこの地でグエン・ラック・ホア(Nguyễn Lạc Hóa ※"Lạc Hóa"は"樂華"のコックグー表記)へと改名してベトナムに帰化し、中国人キリスト教徒のベトナムへの脱出を支援する活動を開始した。その後の6か月間で、チェン・イーチョン改めグエン・ラック・ホア神父は450世帯、2174名のカトリック信徒を中国からベトナムに入国させる事に成功した。
 しかしこの時期、ベトナム北部では毛沢東の支援を受けたホー・チ・ミンのゲリラ組織ベトミンが活動を活発化させていた。ベトミンはフランスの保護を受けるカトリックを『反民族的』と見做し、同じベトナム人であってもテロの対象としていた。さらに、ベトナム北部は古代から中国からの侵攻に脅かされてきた歴史があるため、ベトミンから中国人を守ろうというベトナム人は居なかった。こうしてベトナムでも再び共産主義者による迫害にさらされたホア神父は、やむを得ず2100名の中国人信徒と共にベトナムを離れ、隣国のクメール王国(カンボジア)に集団移住することを余儀なくされた。

 以後7年間、ホア神父率いる難民グループはベトナム・フォクロン省との国境に面したクメール王国クラチエ州Snuol郡に村を建設して避難生活を送った。しかしこの時期、クメールのシハヌーク政権は中国・ソ連・北ベトナム、特に毛沢東と密接な関係となり、共産主義に傾倒した『政治的中立』政策を開始した。難民たちは、クメールでも共産政権によって中国や北ベトナムのような宗教弾圧が始まる事を恐れ、ホア神父は三度移住を模索し始めた。
 そこでホア神父は友人のバーナード・ヨー(Bernard Yoh)の協力を得てベトナム共和国(南ベトナム)総統ゴ・ディン・ジェムと接触した。ヨーは上海出身の中国人で、イエズス会の学校で教育を受けたカトリック信徒であった。ヨーは日中戦争において故郷上海を占領した日本軍と戦うため抗日地下組織に参加し、後にアメリカOSSと中国国民党が合同で設立した諜報機関『SACO (中美特种技术合作所)』の一員として、抗日ゲリラ部隊のリーダーを務めた。大戦後は1947年にアメリカに移住し、1950年代後半からはアメリカ政府職員(CIA)としてベトナムに派遣され、ジェム総統直属の政治顧問を務めていた。
 ジェム総統は熱心なカトリック信徒であり、また強烈な反共思想を思っていた。さらに1954年のベトナム分断以降、南ベトナムにはホー・チ・ミン政権による弾圧から逃れるためカトリック信徒を含む100万人の北ベトナム難民が避難していた。ジェム総統はそうした難民とカトリック勢力に強く支持された人物であり、アメリカ政府と強いパイプを持つバーナード・ヨーの仲介もあった事から、ジェム総統は1958年にホア神父の中国人カトリック難民グループの受け入れを決定した。
 受け入れに際し、ジェム総統は移住先として南ベトナム領内の三ヵ所の候補地を提示した。ホア神父はこの中から、700平方キロメートルにおよぶ手付かずの広大な土地と、肥沃な土壌、水源を持ち、稲作に最も適していたベトナム最南端のアンスェン省(現・カマウ省)カイヌォック(Cái Nước)地区を選択した。(画像: ホア神父率いる中国キリスト教難民の避難先の変遷)


ビンフン村

 ホア神父と200世帯の難民はサイゴン政府の支援を受けて、1958年から1959年にかけてカマウの南西に位置するカイヌォック地区への移住を進めた。しかしそこは三カ所の候補地の中で最も危険と目されていた場所であった。なぜなら1954年のジュネーヴ協定調印以降も南ベトナム領内のベトミン・ベトコン勢力(後の解放民族戦線)は活動を継続しており、中でもカマウはゲリラの活動拠点として大量の武器弾薬が集積されていた為である。さらに夕方になると、ジャングルから蚊の大群が黒い雲のように発生した。土地は開墾が進んでおらず、どこにも作物の無い原野であった。難民たちは自ら煮えたぎる釜の中に飛び込んで行ったかのように思われたが、ホア神父は人々に訴えかけた。「私は滅びるためではなく、生き残るために皆さんをこの地に導いたのです。ここは肥沃な土地です。あなたたちは各自3ヘクタールもの自分の水田を持てるのです。我々の努力次第で、収穫は無限大です。私はこの場所を平らに均し、家々を建てて発展させる事を決意し、ビンフン (平興 / Bình Hưng)と名付けます」。

 こうして彼らは3ヶ月間昼夜問わず働き、住居と村落をゲリラから守るための堀と土塁を建設した。ホア神父は国民革命軍将校として日中戦争・国共内戦を戦ってきた経験から、村を防御に適した四角形にデザインし、要塞として機能するよう設計していた。また湿地帯で冠水しやすい土地のため、住人が村内を往来しやすいよう村の中央に水路の交差点と橋を構築した。村は湿地帯にある為、水路で物資を運搬する事が出来た。(写真: 上空から見たビンフン村。集落の周囲を四角い堀で囲み、防御陣地としてしている。)
 人々は小さいながらも各々の家を建て、ようやくビンフン村での生活が始まった。また難民たちには、政府からベトナム国民としての市民権が与えられた。そして過酷な労働は実を結び、数か月後には水田から大量の米が収穫された。その後、ビンフン村の水田は、1回の収穫毎に村で消費する米の3年分を生み出すまでに成長した。
 また度重なる共産主義者からの迫害により中国、北ベトナム、カンボジアと三度も移住を迫られた難民たちは、このビンフン村を最後の砦として自分たちの力で守る事を決意し、ホア神父は住民による民兵制を開始した。民兵は5名単位の班に分かれ、それぞれの班が村落の警戒にあたった。

 一方、ベトコン側は当初カマウへの中国人難民移住を無視していた。しかしビンフン村が完成し、村に黄色と赤のベトナム国旗(ベトコンにとっては反動傀儡政府の旗)が掲揚されると共に大量の作物が収穫されている事を知ると、ベトコンは嫌がらせの為の小規模な宣伝部隊をビンフン村に送り始めた。この時、ビンフン村の民兵が持っている武器は手榴弾6個と、ナイフや木製の槍しかなかった。しかし彼らの一部は国民革命軍兵士として長年日本軍と戦ってきた元兵士であった為、このような質素な武器による戦闘術を心得ており、ゲリラを撃退する事に成功していた。さらにホア神父と村人たちは周辺のベトナム人集落と協力関係を築き、情報交換しあう事でベトコンゲリラの襲撃に備えた。
 この小規模な戦闘の後、ジェム政権は1959年12月に、すでに軍では廃止されていた旧式のフランス製ライフル12丁ゲリラへの対抗策としてビンフン村の民兵に提供した。1960年になると、ビンフン村はしばしばベトコンによる襲撃や狙撃に晒されたが、ビンフン村民兵はそのたびに捕虜を捕え、彼らに村を取り囲む堀・土塁を増築工事させる事で村の防御力は高まっていった。1960年6月、サイゴン政府はフランス製ライフル90丁以上、短機関銃2丁、拳銃12丁をビンフン村に提供し、後にライフル50丁、機関銃2丁、短機関銃7丁を提供し、さらにその後、1955年にビンスエン団から押収したフランス製のルベル小銃(M1886)50丁と、アメリカ製のスプリングフィールド小銃(M1903)120丁も追加した。しかし銃の数に対し弾薬が不足していた為、ビンフン村ではバーナード・ヨーやホア神父が猟銃用に使っていた古い弾丸組み立て機を使い、自家製のライフル弾を製造した。

 1960年11月19日、サイゴン政府はビンフン村民兵部隊を、政府が統制する民兵組織人民自衛団(Nhân Dân Tự Vệ)』正式に編入し、部隊名を人民自衛第1001団(Nhóm NDTV 1001)』として、ベトナム共和国軍(Quân đội VNCH)の指揮下に組み込んだ。隊員は18歳から45歳の住民で構成され、訓練は特殊部隊が担当した。その内容は基礎教練、武器の取り扱い、心理戦、情報評価、通信、応急処置などで、短期間で集中的な訓練が施された。
 1960年12月には、ベトコン工作員が単身ビンフン村に潜入し、村に掲げられていたベトナム国旗をベトコンの旗に置き換えようと試みたが、この工作員は間もなく発見、射殺された。この報復として、ベトコンは昼夜関係なくビンフン村への襲撃を開始し、週に2回は大小の戦闘に発展した。その後6回ほど大規模な戦闘が行われたが、ベトコン側はビンフン村側に対し8:1の割合で死傷者を出していた。ベトコンとの戦闘を経験し、ホア神父はただ襲撃されるのを待つ事を止め、自ら積極的にベトコンゲリラを捜索・掃討すべく、ビンフン村民兵に周辺のパトロールを毎日行うよう命じた。
 そんな中、1960年末にホア神父は村の資金調達のため護衛と共にサイゴンに出張した。するとそれを見計らい、1961年1月3日に約400名のベトコン部隊がビンフン村を襲撃した。村はライフルや短機関銃の集中砲火を受け、村人たちは皆地面に伏せて逃げ惑った。そしてベトコンは村に戻ったホア神父ら80~90名の民兵部隊を2方向から待ち伏せしたが、勝ち急いだベトコンは民兵による反撃を受け、20~30mの距離で発砲し合う接近戦となった。戦闘はその後三日間続き、ベトコン側は計800名のゲリラを戦闘に投入したが、最終的に172名の死亡者を出し、ビンフン村から撤退した。一方、ビンフン村側の死者は16名であった。

 この戦いの直後、アメリカ空軍のエドワード・ランズデール(Edward Lansdale)准将はビンフン村を訪れ、村人の戦闘能力を高く評価するレポートを本国に提出した。ランスデール准将は1953年にアメリカ軍MAAGインドシナの一員としてベトナムに派遣されて以来、長期に渡ってベトナムでの政治工作に従事していたCIAエージェントでもあり、当時はジェム総統の顧問駐在武官という立場にあった。(写真: ラスデール准将とゴ・ディン・ジェム総統, HistoryNet.comより)
 この報告を受けたジョン・F・ケネディ大統領(アメリカでは少数派のカトリック信徒)はビンフン村に強い関心を持ち、アメリカ軍による東南アジア自由世界(=親米・反共勢力)への軍事支援計画『プロジェクト・アジョル(Project AGILE)』の対象にビンフン村も加えるよう指示した。ジェム総統は、村の防御力をより完全なものに強化するため、アメリカ軍から提供された武器・弾薬・医療・食品などの軍事支援物資をビンフン村に与える事を許可した。プロジェクト・アジョルはケネディ大統領の指示によりアメリカ国防総省ARPA(高等研究計画局)が1961年に開始した、東南アジアにおける共産主義勢力の排除を目的とした限定的非対称戦争計画であり、ベトナムの他、ラオスやタイの政府軍、カンボジアの反共・反政府組織『自由クメール抵抗軍』に対しても軍事支援が行われた。
 またホア神父とバーナード・ヨーは慈善団体やサイゴン政府当局に対し、警備活動、医療、教育、小麦粉や食用油などの食料品など、難民への生活支援を求める活動を絶え間なく行っていた。その結果、ビンフン村には中国人難民に加え、北ベトナム出身のベトナム人カトリック難民もホア神父の下で暮らすためビンフン村に集まり、村の人口は開村から2年で4倍に増加した。


海燕(ハイイェン)

 1961年6月、ホア神父はビンフン村民兵の部隊名を第1001から、『ハイイェン(海燕 / Hải Yến)』に変更する事をジェム総統に提案し、合意を得た。ハイイェンの名は白黒二色の海燕がカトリック司祭のキャソック(司祭平服)を連想させる事、田畑の害虫を食べ農民を助ける鳥である事、さらに渡り鳥である海燕は毎年生まれ故郷の中国に帰ってくる事から、いつか故郷へ帰還する希望をこめて選ばれた。この時点で、『人民自衛団部隊ハイイェン(Lực lượng NDTV Hải Yến)』には340名の民兵が所属し、さらに80名が新兵として訓練中であった。またハイイェンはボーイスカウト式の『三指の敬礼』で互いに敬礼を行った。(画像: ハイイェンの部隊章。隊員は軍服の左袖にこの徽章を佩用する)
 1959年以降、ジェム総統は180名のビンフン村民兵に与える賃金を捻出するため一部民間の資金を使用していたが、1961年には300名の民兵に対し、階級に関わらず一人一律12米ドルの月給が国費から支払われるようになった。さらに40余名分の供与はホア神父が自費で捻出した。しかしこれらを合わせてもビンフン村を維持するための資金は十分とは言えず、兵士は訓練に参加しただけでは賃金が発生せず、食事が提供されるのみであった。さらにホア神父とバーナード・ヨー村人が着用する衣類など集め、その生活支えるために個人的な借金を重ねていたが、その額は1961年半ばまでに合わせて10万米ドルに達していた。
 しかし正式に国軍の指揮下に入った後も、ホア神父は軍の将校としての地位と賃金を受け取る事は固辞し、ビンフン村の指導者として無償で数多くの軍事作戦に志願し、その指揮官を務めた。ホア神父は聖職者である自分が軍事作戦を指揮するに事について、所属するカトリック教区の司教に相談したことがあった。その時司教はそれを許可しなかったが、ビンフン村の住人にとってホア神父のリーダーシップと軍事経験は村が生き残る為の唯一の希望であった事から、ホア神父は司教の言葉を無視し、自ら戦場に赴いた。(写真: 軍服姿でハイイェンのパトロール部隊に同行するホア神父.1962年。狩猟が趣味のホア神父はしばしば、パトロールの際にアメリカ軍アドバイザーから入手した16ゲージ散弾銃で家畜を襲う鷹を獲り楽しんだ。)

 その後、政府からビンフン村にまとまった財政支援が行われると、ホア神父は村を守るための傭兵を募りに南ベトナム中を周った。彼はそこで、ビンフン村での生活は安い給料の割に戦闘は激しく、生命の危険がある事を警告したが、それでも242名のデガ(山地民/モンタニヤード)と、ヌン族1個中隊=132名がハイイェンに志願した。
 デガの多くはカトリック信徒であり、その上デガは長年ベトナム人から迫害を受けていたため、非ベトナム人カトリック組織であるハイイェンに進んで参加した。またヌン族グループはホア神父やビンフン村の人々と同様に、かつて蒋介石の国民革命軍に所属し、その後毛沢東、ホー・チ・ミンによる弾圧から逃れ南ベトナムに流れ着いた中国出身の難民たちであった。
 彼ら元国民革命軍のヌン族兵士は、国共内戦に敗れると他の国民党勢力と共にベトナム北部に移住し、その地でフランス植民地軍に参加して第1次インドシナ戦争を戦った。しかしフランスが撤退し北ベトナムがホー・チ・ミン政権に支配されると、5万人のヌン族が南ベトナムに避難した。そこでもヌン族はゴ・ディン・ジェム政権の下でベトナム共和国軍に参加し、『ヌン師団(第16軽師団・第3野戦師団)を構成していた。しかし1959年にヌン師団師団長ファム・バン・ドン少将がジェム総統との確執から更迭されると、これに反発した多数のヌン師団将兵が政府軍から脱走し、以後元ヌン師団兵士たちはアメリカ軍MAAGおよびベトナム共和国軍特殊部隊などに傭兵・基地警備要員として雇われていた。こうして彼ら傭兵の指導者たちはビンフン村に鉄兜(軍事力)をもたらし、ホア神父は彼らに祭服(信仰)をもたらす事で、ゲリラに対抗しうる強力な戦力を整えていった。

 ホア神父の方針は、ただ攻撃されるのを待つだけでは戦いに勝つことはできず、自ら打って出て敵を撃破する事ではじめて勝利を掴め得るというものであった。ハイイェン部隊は毎日、毎晩、どんな天候でもパトロールに出撃し、そして必ずベトコンの待ち伏せを発見する事が出来た。それはビンフン村が周囲のベトナム人農村と協力関係を築き、この地域で活動するゲリラやスパイに関する情報が周辺住民から逐次提供されたからであった。同時にハイイェン側も商人に偽装した工作員をベトコンと接触させ、敵側の情報を収集する情報網を作り上げた。
 ホア神父は常々、ゲリラを撃退する最善の方法は、敵がまだ一カ所にまとまっている段階でこちらから攻撃を仕掛ける事であり、こうすれば敵は統制を失い、簡単に叩く事が出来ると力説した。その言葉の通り、ホア神父が指揮するハイイェン部隊は次々と戦いに勝利し、ビンフン村の周囲からベトコンを一掃出来た事を彼自身誇りとしていた。過去2年間で、ベトコン側はハイイェンとの戦いで約500名の死者を出したが、ハイイェン側の死者はわずか27名であり、さらにその大部分は、戦闘ではなく対人地雷やブービートラップによるものであった。このようにハイイェン兵士の戦闘能力は非常に高く、政府軍のアンスェン省長官からの要請により、しばしばハイイェン部隊の一部を他地域への増援として貸し出すほどであった。
 ある日、ホア神父はこの地域のゲリラが成果を出せなかったことから、ベトコン上層部は他の地域から兵力を移動させているという知らせを聞いたが、彼はこれをハイイェンが確実にベトコンに損害を与えている証拠と捉え喜んだという。以前にもホア神父は別の地域から派遣されたベトコン部隊と戦っ事があったので、もし新たな敵が現れたとしても、ハイイェンはいつも通り敵を血祭りにあげるか、捕虜にするだろうと確信していた。(写真: ベトコンに勝利し解放戦線の旗を鹵獲したハイイェン兵士)

 共産主義者を憎むハイイェンの兵士たちは、一たび戦闘となると猛烈な敵意をもってベトコンを攻撃したが、一方で捕虜の扱いには慎重であった。ハイイェンはそれまでの三年間で200名以上のベトコン兵士を捕虜にしており、その中には多数のベトコン幹部と工作員も含まれていた。
 捕虜たちは窓のない長屋に収監されており、特に頑固で反抗的な約40名のベトコン兵士が独房に監禁されていた。しかし他の108名の捕虜たちは、夜寝る時間以外は長屋から出る事が出来た。彼らには一日5~6時間の労役が課せられていたが、日曜日は休日として労役からも解放された。捕虜には一日三食の食事が与えられ、さらに少ないながらも労役に対する賃金が支給され、その金でタバコなどの嗜好品を買うことができた。村人たちは捕虜に対し友好的な態度を取り、しばしば衣類や食料品を差し入れした。また捕虜を収容する長屋にはベッド、毛布、蚊帳まで用意されており、これには一般のゲリラ兵士だけでなくベトコン中核幹部まで、その人道的な扱いに感動を覚えたたという。またベトコンはしばしば農村の女性や子供までもをゲリラ兵士として戦闘に動員したが、ハイイェンはこうした捕虜は長屋に収容せず、また子供の場合はその親を村に呼び寄せ、他の住民と同じくビンフン村の中で生活する事を許した。(写真: 捕虜としてビンフン村内で生活するベトコンの女性・子供たち)
 加えて、村では捕虜たちに対し一日2時間、自由と民主主義、そして共産主義の実態について学ぶ教室が開催された。捕虜となったゲリラ兵士のほとんどは、民主主義も共産主義もよく知らず、ただベトコンが語る『解放』という抽象的な希望にすがっただけの貧しい農夫たちであった。そしてホア神父は捕虜たちがこの講義の意味を十分理解したと感じると、彼らを解放し各自の村に帰した。
 この厚遇を体験した捕虜たちは、こうしたホア神父の寛大で誠実な人柄に瞬く間に魅せられたという。ある日、捕虜を見張っていた年配の看守が、勤務中に酒を飲み、へべれけに酔っぱらってしまった事があった。しかし捕虜たちが逃亡する事はなかった。それどころか捕虜たちは、看守がライフルを置き忘れないよう、本人に代わって持ち運んであげたという。
 捕虜の一部には、ホア神父の理想と人柄に感化され、ベトコンを離れハイイェン部隊に加わる事を願い出る者さえいた。またベトコンはしばしばスパイ活動と破壊工作のために、若くて美しい女性をビンフン村に潜入させていたが、彼女たちの中にもビンフン村の実情を目の当たりにして考えを改め、自分はスパイだったと名乗り出て、ハイイェンへの協力を申し出る者がいた。ホア神父はこうした申し出を寛大に受け入れ、元ベトコン兵士たちがビンフン村内の小さな集落に住むことを許可した。ホア神父が目指す自由で寛容な世界は、残忍なテロで暴力革命を進めるベトコンの扇動よりも、貧しいゲリラ兵士たちの心を打つものであった。

 ビンフン村を訪れた外国人記者たちは、かつて19世紀の小銃で武装した340名の雑多な民兵に過ぎなかったハイイェンが、わずか1年間でM1ライフルやM1カービンを装備し、カーキ色の制服で統一され、非常に統制のとれた、まるで政府軍のような500名の精強な兵士たちに成長したこと驚きを禁じ得なかった。しかし当時村に対するベトコンの攻撃は頻発しており、ハイイェンの民兵たちだけでビンフン村および周辺の集落を守り切る事は、記者たちから見ても容易ではないように思われたという。それでもホア神父は常に自信を持った態度で人々に接しており、村人はホア神父を親しみと尊敬をこめて『おじいちゃん(爺爺)』と呼んでいた。またハイイェンの守備部隊は毎日死と隣り合わせの危険な任務を送りながらも、他の誰からも信仰を妨げられることのないビンフンでの生活に心は晴れ晴れとしており、村人たちは皆ここでの生活に満足しているように見えたという。そのような村落は、カトリックが優遇されていた当時の南ベトナムにおいても、ビンフン村ただ一つであった。
 欧米メディアはビンフン村を、『死を恐れず敵の中心で戦いに挑むキリスト教難民の村』『不屈の村(A village that refuses to die)』として取り上げ、驚きと共感を持って報じた。その姿は、東南アジア諸国への軍事支援を強化するケネディ政権の『成果』の一つとしてアメリカ国民にも好意的に受け入れられ、1961年にはケネディ一家が毎年夏の休暇を過ごすマサチューセッツ州の避暑地ハイアニスポート村や、同州のニューベリーポート市がビンフン村と姉妹都市を宣言した。またニューヨーク市は友好の証として、同市のシティーキー(都市間の信頼関係を示す鍵を模したオブジェ)と、ビンフン村のペナントを互いに交換した。そしてこの年のクリスマスには、西側世界の各国からクリスマスカードやプレゼントがビンフン村に届けられた。こうして村には訪問者やジャーナリストを載せたヘリコプターが定期的に行き来するようになり、ホア神父は56名のハイイェン兵士を選抜し、重要な来賓を迎えるための儀仗部隊を編成した。(写真: ビンフン村における米国ニューベリーポート市との姉妹都市記念式典, 1961年)
 1962年にビンフン村を取材した米国のニュースレポーター スタン・アトキンソン(Stan Atkinson)特にホア神父の人柄に心酔し、ビンフン村に住み着いて村人と共に生活しながら現地の状況をリポートした。後にスタンは体調を崩しビンフン村を離れざるを得なくなったが、その際ホア神父に、何か村に送って欲しい物はあるかと尋ねた。スタンはホア神父が医薬品や武器弾薬を求めると思っていたが、ホア神父の答えは、ディズニーランドのTシャツ1500枚と、コカ・コーラの看板をいくつか、というものであった。それはビンフン村がアメリカからの支援を受けている事をベトコン側に誇示し、心理的に優位に立つための戦術であった。スタンはその後、実際にそれらの品をビンフン村に送り、村人たちはディズニーランドのTシャツを『制服』として日々着用した。またコカ・コーラの看板は敵に見えるよう村の外側に設置され、コークの在庫状況が掲示されるとともに、ベトコンを抜けてビンフン村で共に暮らそうというメッセージが書かれていた。
 また当時、ハイイェンでは作戦時にしばしば、男性兵士の後に続いて女性看護兵も共に出撃していた。彼らお互いを『兄弟』または『姉妹』と呼び、皆強い仲間意識と敢闘精神で結ばれていた。彼女たちビンフン村の女性は、妻であり、母であり、同時に前線の戦闘員でもあった。ビンフン村には約300名の女性兵士が居り、男性兵士が村の外に出撃ししている間は、女性たちが村の防御を担当した。彼女たちは男性兵士と同様に18歳から45歳までの志願者で構成されており、2か月間の軍事教練において武器の使用について必要な訓練を受けているため、重い機関銃でも十分に操作できた。その姿はこの村の境遇とも相まり、イスラエル軍の女性兵士を彷彿とさせたという。ある記者が、なぜこの村の人々は皆あのような苦痛と命の危険を伴う任務に志願したがるのかと質問したところ、ホア神父はこのように答えた。「人は皆、何かをするために生まれたのです。」 (写真: ハイイェンの女性看護兵たちと台湾のテレビ特派員スー・ユーチェン-左から三番目)


アメリカのテレビ局が作成したビンフン村のドキュメンタリー番組『不屈の村(A village that refuses to die)』 (1962)
[主な内容]
00:15 ハイイェンに捕縛されたベトコン捕虜
03:45 ビンフン村の土塁と防御陣地
07:30 労役として湿地から泥のブロックを切り出し土塁を強化する捕虜
09:02 ビンフン村の病院
10:03 ハイイェンによるビンフン村周辺のパトロール
10:50 ビンフン村の学校
11:35 ボートで遠方へのパトロールに向かうハイイェン
13:10 ベトコンの宣伝看板を発見し警戒を強めるハイイェン
14:56 カオダイ教徒の村の捜索
19:40 ビンフン村に収容されたベトコン捕虜
20:32 鹵獲されたベトコンの武器、伝単、
21:36 ベトコンに戦う事を強要されていた少年タイ
22:31 政府軍のC-47輸送機によってパラシュートで投下される村の生活物資
27:25 ビンフン村のパン屋
28:05 ホア神父とカトリック住民の朝の礼拝
29:50 胃の病で死亡したハイイェン兵士の葬儀


ハイイェン特区

 ホア神父の名は『戦う神父』として知れ渡り、カマウで知らぬ者はいないほどの名士となっていた。ジェム政権は、ビンフン村が行っていた集落を一カ所に集合させる事で農民をゲリラから隔離し、住民自身を自衛戦力化する手法はベトコンへの対抗策として非常に効果的であるとして政府の政策に取り入れ後に『戦略村(Ấp Chiến lược)』計画として全国の農村を、ビンフン村を模した自衛村落化へと変えていく政策を推し進めた。(ただしこの手法は、ビンフン村が最初から要塞として設計され住民が狭い範囲に住んでいたからこそ成功したのであり、元々広大な田園地帯に家々が点在するベトナムの農村では、むしろ住民は強制移住させられる事を嫌って政府への反発を強める結果となってしまった。戦略村計画は長年サイゴンの政府中枢で数々の要職を務めたベトナム共和国軍の"アベール"ファム・ゴク・タオ(Albert Phạm Ngọc Thảo)大佐の主導で進められた政策であったが、実際にはタオ大佐は政府に潜入していたベトコン側のスパイであり、初めからこの計画を失敗させて農村地帯における政府の支配力を低下させるを目的としていた)

 1962年2月には、サイゴン政府はビンフン村およびその周辺の村落を包括する戦術エリア『ハイイェン特区(Biệt Khu Hải Yến)』を設定し、ハイイェン部隊は『ハイイェン特区人民自衛団(NDTV Biệt Khu Hải Yến)』へと昇格し、ホア神父はハイイェン特区長官に任命されたハイイェン特区の範囲21の村落、人口25,000名、面積は約400平方キロメートルに及んだ。
 ホア神父が1959年にビンフン村を設立した時点では、後にハイイェン特区となるこの地域の住民の90%はベトコン・シンパ、またはゲリラから協力を強要されている人々であった。しかしホア神父の民兵部隊が村から遠く離れた戦場まで進軍し、ベトコンを撃破してゆくのを見る度に、住民たちはビンフン村側に寝返っていった。(画像: ハイイェン特区の部隊バッジ)

 一方、ビンフン村への軍事支援を開始したアメリカ軍はまず初めに、1961年9月にアメリカ海兵隊から7名の調査チームをビンフン村へ派遣した。彼らはそこで1ヶ月間、村の防衛に関する戦術上の問題などを洗い出した。その後、村には新たに3名のアメリカ軍アドバイザーが派遣され、村の飛行場の整備、防衛業務を補助するとともに、部隊を運用するにあたっての気象条件に関する調査を実施した。
 1962年3月には、アメリカ軍のトップである統合参謀本部議長ライマン・レムニッツァー(Lyman Lemnitzer)大将が直接ビンフン村を視察に訪れ、この地の戦況についてホア神父と会談した。さらに同年、アメリカ軍は『プロジェクト・アジョル』の一環として、通常の軍事物資に加えて当時アメリカ軍でテスト中であった新型小銃アーマライトAR-15 (コルトAR-15 Model 01)をハイイェン部隊に10丁配備し、実地テストを行った。
 またアメリカ軍はハイイェンに陸軍特殊部隊のチーム(後の第5特殊部隊群A-411分遣隊)を派遣し、特殊作戦の専門家たちがハイイェン部隊を補佐した。(写真: ビンフン村を訪問するレムニッツァー大将と出迎えるホア神父, 1962年)

 こうしてハイイェンはベトナム政府とアメリカ軍双方から支援される唯一の非正規軍事組織となっていた。サイゴン政府はビンフン村を参謀本部第4戦術地区司令部の直接指揮下に置き、ホア神父にその指揮の全権を与えた。この時点でハイイェンは152mm榴弾砲や迫撃砲、機関銃などで武装した戦闘部隊を10部隊保有し、それぞれがビンフン村の周囲に駐屯していた。各部隊には138人が所属し、3個の支隊で構成され、各支隊は3個の分隊で構成された。(写真: ビンフン村の中央に掲げられたジェム総統の肖像, 1962年)
 ホア神父は、今やハイイェンの兵力は1,000名にまで増強されたが、そのうち600名はかつて中国国民党勢力として日本や中共軍と戦った元中国軍人(漢族およびヌン族)だと語った。ビンフン村には中国からの亡命者の村として、ベトナム国旗に加えて、中華民国(台湾)の国旗 青天白日満地紅旗も掲げられていた。ビンフン村の中国人たちは、いつか世の中が平和になったら、故郷の中国に帰る事を夢見ていた。ハイイェンの隊歌には、ホア神父と共に中国、ベトナムで戦い続けた兵士たちの静かなる決意が込められている。
眠れ!自由の戦士たち!
君は自由の種をまく。
自由を愛する世界中の民のため、
君と同じく 嵐の中で
戦い、戦い、戦い続ける人々のため
勝利を
その目に映すまで。
(英語訳より和訳)
 この時点でハイイェンはビルマ北部に次ぐ規模の亡命国民党勢力であり、台湾の蒋介石政権ハイイェンへの軍事支援を行った。ホア神父は台湾を訪問し、蒋介石総統との会談においてこのように語った。「この14年間、私たちはさ迷い歩く孤児のような状態でした。しかし今、私たちは祖国(中華民国)からの暖かい支援と感心を頂いております。我々のベトコンとの戦いは、もはや我々だけの孤独なものではなくなったのです」

 1963年末には、ハイイェン部隊はハイイェン特区の面積の約半分に当たる200平方キロメートルの地域からベトコンを掃討し、人口の60%をその管理下に置いた。カマウ半島は古くからベトコン勢力が強い地域であったのにも関わらず、ハイイェンはこの地域一帯のサイゴン政府軍で最も強力な部隊となっていた。しかし依然、二つの主要なベトコン拠点地域は約400名のゲリラによって防御されており、ハイイェン特区の人口の40%はそのベトコン支配地域内に住んでいた。
 ベトコンを駆逐したことで、ハイイェンが掌握した地域の人口は一気に約18,000名に拡大したが、ホア神父はその内の約3,700名のカトリック信徒と、その他の宗教の住民を差別する事は無かった。ホア神父は人々に「この戦いにはカトリックも仏教も関係ありません。我々が自由のために戦う以上、我々自身も他者の自由を認めなければならないのです」と訴えた。折しも1963年にはジェム政権による極端なカトリック優遇・仏教排斥政策に反発した仏教徒・学生らによる暴動と、それに対抗する政府による凄惨な弾圧が南ベトナム全土に広がった『仏教徒危機』が発生していたが、ハイイェン特区の中だけは宗教的な対立が発生しなかった。

 しかし問題は山積していた。人口の増加したビンフン村は防御陣地としては大きくなり過ぎ、本来の要塞としての機能を十分に発揮できなくなりつつあった。また逆に、ベトコンや中共に対し、反攻に転じるための反共産主義勢力の軍事的拠点となるには、この村は小さ過ぎた。
 一方でハイイェン特区人々の絶え間ない努力によって経済的にも発展し、自衛戦力がますます増大した。ビンフン村の周囲には守衛所、鉄条網、人海戦術による突撃を阻止するための地雷原が設置され、運河は村の東西を繋ぎ、村の前の前哨路まで伸びた。当時村の人口は約2,000人であり、そのうちの90%が中国人であった。村には電気、水道、運動場や病院も備えられた。(写真: ハイイェン特区を取り囲む鉄条網と正門)
 人口の増加に伴い、ホア神父は人々が住む家のモデルハウスを自ら設計して、その監督下で建物が建設された。ホア神父は、ビンフン村のある湿地帯にも、堅牢な建物が建てられることを証明したかった。なぜならビンフン村やハイイェン特区は都市部から遠く離れた陸の孤島であるため、人口増加に対応できるほどの生活用品を運ぶ為には、飛行機による空輸に頼るしかなく、そのために最低でも短距離離着陸能力のあるC-123輸送機やC-46輸送機が使用できる滑走路を作る必要があったからであった。また村には就学年齢に達した300名の児童が居たが、当時村にはまだまともな学校が無かったため、子供たちへの教育は各家庭および移動教室で行われていた。ホア神父は、その子たちの為にも丈夫な学校を作ってあげる必要があった。(写真: 仮設の学校で学ぶビンフン村の子供たち)
 そしてホア神父の努力は実を結び、ハイイェン特区内には1964年初めまでに、湿地から1m盛り土し地盤を強化した上に、長さ700mの滑走路を持つ飛行場が完成した。また耕作地はビンフン村から遠く離れたタンフンタイ(Tân Hưng Tây)まで開墾が進んみ、米の作付面積は一気に増大した。
 1964年8月には、ホア神父はフィリピン共和国マニラにて、『アジアのノーベル賞』とも呼ばれるマグサイサイ賞(Ramon Magsaysay Award)の社会奉仕賞を受賞した。マグサイサイ賞は初代フィリピン大統領ラモン・マグサイサイを記念し、社会貢献や民主主義社会の実現に貢献した人物に送られる賞で、ロックフェラー兄弟財団の援助によって運営されている。
 民族と宗教に寛大なホア神父とビンフン村の人々の理想は、村の開設以来守られ続けた。一つの村の自衛組織に1,100名以上もの兵士が進んで参加したのは、ひとえにグエン・ラック・ホアという自由を求めて戦う一人の修道司祭の存在があったからであった。ホア神父はビンフン村の記念碑に刻む碑文に、彼に付き従ってきた人々と、自分自身に向けた言葉として、中国南宋時代の人物 文天祥の詩を引用した。
人生自古誰無死 留取丹心照汗青
意解:人生は昔から死なない者はないのであって、どうせ死ぬならばまごころを留めて歴史の上を照らしたいものである。(宋の政治家 文天祥は1278年、五坡嶺(現・広東省海豊県の北)で元軍に捕えられた。元の将軍張弘範は、宋の最後の拠点厓山(現・広東省新会県の南海上にある島)を追撃するのに強制的に文天祥を帯同し、宋の総大将張世傑に降伏勧告の書簡を書くよう求めたが、文天祥は拒否してこの詩を作った。)
 しかしビンフン村でホア神父と共に過ごしたスタン・アトキンソンによると、当時ますます混迷を深め、堕落の一途を辿るサイゴンの政治情勢にホア神父は失望感を募らせ、ここベトナムでも人々が自由に生きるという夢は叶わないと予見していたという。
 ホア神父は誰から見ても公明正大な人物であったが、ハイイェンやビンフン村が拡大してゆくと、ベトコンだけでなくサイゴン政府側のベトナム人の中にも、中国人難民たちが力を付けている事を快く思わない者や、ビンフン村で収穫される莫大な米の利権を狙う者たちがいた。ホア神父はジェム政権と常に深い関係にあったが、同時に腹の底ではベトナム人たちを警戒していた。さらにビンフン村を支援していたゴ・ディン・ジェム総統とジョン・F・ケネディ大統領は、それぞれ1963年に暗殺され、ホア神父は二人の国家元首の後ろ盾を失った。
 そうした中で、軍事作戦ではハイイェンを倒せないと悟ったベトコンは、ホア神父を失脚させるための宣伝工作を行った。それは、ホア神父やハイイェンの兵士の多くは亡命という形でベトナムに入国してきた『中国人』であり、その中国人に軍の指揮権を与え武装勢力として活動させる事は国籍法に違反している、というものであった。歴史的に中国への反感が強いベトナムにおいて、政府が『中国人武装集団』を支援して強い権限を与えているという事実は、サイゴン政府の腐敗を糾弾する世論(もちろんベトコンによる世論誘導工作の結果でもあったが)の中で、政府による『不祥事』として問題視された。そしてベトコン側の目論見通り、政府は最終的にホア神父をベトナム国籍とは認めず、支援を完全に停止してしまった。
 そして1964年半ば、サイゴン政府は以前からホア神父と親交のあった政府軍所属のヌン族の少佐2名をハイイェン特区に派遣した。政府はこのヌン族将校が新たなハイイェン特区長官に就き、ホア神父は一般のカトリック司祭ならびに村の顧問という役職へと退くことを求めた。これに対しホア神父は、「私もこの(指導者としての)困難な責任から逃れたいと思っていたし、村の自衛部隊が存続できるならそれでいい。ただし、村の修道士を軍に動員するのはやめて欲しい」と述べ、政府の要求に従った。

 ホア神父が指揮官から退いた後も、ハイイェン特区はアンスェン省の人民自衛団部隊として引き続き、政府軍の指揮下で作戦を継続した。そしてホア神父に代わってハイイェンの実質的なリーダーとなったのが、ホア神父の下で村の修道士をしていたニェップ(Niep)という男であった。ニェップは政府軍の中尉の階級を持っており、ハイイェンの中隊長を務めた。また過去にはCIAの秘密作戦に参加し北ベトナムに潜入した経験もあった。
 1960年代末、ハイイェンにはアメリカ軍特殊部隊A-411分遣隊に代わって、アンスェン省を担当するMACV(ベトナム軍事援助司令部)のアドバイザーチーム59(AT-59)およびチーム80(AT-80)が派遣され、ハイイェンへの補佐を引き継いだしかし当時アンスェン省の司令官だった政府軍のヌォック(Nuoc)少佐は横暴な男で、住民から勝手に『税金』を徴収して私腹を肥やし、さらに自分に従わない住民やアメリカ軍アドバイザーに発砲するなど、人々の生活を脅かし始めた。そこでハイイェンとアドバイザー達は結託してヌォック少佐を指揮官の座から引きずり下ろし、代わりに他のレンジャー大隊を指揮していた誠実なベトナム人大尉を指揮官に据えた。こうしたハイイェンとアメリカ軍アドバイザーとの絆はアメリカがベトナム戦争から撤退するまで続いた。(写真: MACV AT-59のヘンリー・デジネイス少佐とホア神父)


自由の終焉

 その後もハイイェン特区はゲリラによる襲撃を退けていたが、ベトコンはその主力部隊を徐々に南ベトナム国内のゲリラ(解放民族戦線)から、国境を越えて南侵する北ベトナムの正規軍(ベトナム人民軍)へとシフトし、戦闘はそれまでの不正規(ゲリラ)戦から、南北の正規軍同士が激突する大規模なものへと変貌していったしかしアメリカをはじめとする西側同盟国はベトナム戦争から撤退した後、南ベトナムへの支援を大幅に削減していた。一方でベトコン側は引き続きソ連・中国から無尽蔵に軍事支援を受け続けており、パリ協定を無視した南ベトナムへの侵攻を続けた。そして戦争の大勢は、次第にベトコン側に傾いていった。
 ゲリラとの戦いでは無敗を誇ったハイイェン部隊と言えども、たった1,000人強の民兵が戦車や重砲で武装した数十万人規模の正規軍を相手に戦うことは不可能であった。そしてビンフン村の人々はベトコンによる報復を恐れ、ベトナムから脱出するため村を離れて散り散りになった。事ここに至り、ついにベトナムでも自由を得る機会は失われたとして、ホア神父は失意の中ベトナムを去った。
 その後ホア神父は国民党の伝手で台湾に渡り、首都台北のカトリック教区に司祭として勤めながらその地で晩年を過ごしたという。ただし台湾移住後もホア神父は反共運動の指導者としての発言を続けており、1972年9月には、日本の田中角栄首相が北京を訪れて中華人民共和国との国交正常化交渉を進めている事を痛烈に批判した。(その直後、日中国交正常化が宣言された事に反発し、台湾政府は日本との断交を宣言した)
 そして1975年4月30日、ついに北ベトナム軍はベトナム共和国の首都サイゴンを占領し、戦争はベトコン側の勝利に終わった。

 1989年、グエン・ラック・ホア台北市内において81歳で死去した。死と暴力が吹き荒れる動乱の中国・ベトナムにおいて、弾圧から人々の信仰を守る為の戦いに生涯を捧げた人生であった。
(写真: 天の軍団を率いサタンを打ち倒す聖ミカエルの像とホア神父. ビンフン村, 1964年)

 スタン・アトキンソンはホア神父について、ニュースレポーターとして世界中を周った中で、彼ほど優れた指導者には出合ったことが無く、人生でもっとも忘れ難い人物だと語る。そして自身が1999年にジャーナリストを引退するにあたり、最後に執筆した記事はホア神父と共に過ごした日々についてであった。
 また、ホア神父と二人三脚でビンフン村を創りあげたバーナード・ヨーは、1963年にアメリカに帰国しており、アラバマ州モントゴメリーのアメリカ空軍航空戦大学(Air War College)で対ゲリラ戦と心理戦の講師として教鞭を執っていた。1974年からは保守系メディア監視団体アキュラシーの幹部としてメリーランド州ロックヴィルに居住し、1995年に74歳で死去した。


共産ベトナムでの評価

 1976年の南ベトナム併合後、ベトナム共産党による独裁政権が40年間続いている現在のベトナム社会主義共和国において、ホア神父は今もなおベトコン政権によって、『ビンフン村の頭目として大量虐殺や強姦を指示し、被害者の腹を裂いて内臓を取り出し、その肝臓を食べた』、『ビンフン村は共産主義革命の拠点を破壊するためサイゴン政府によって作られた工作部隊だった』、『"肉屋"グエン・ラック・ホアは司祭の服をまとった残忍な殺人鬼であり、1,600人以上の人々を無残にも殺害した』(カマウ省政府公式サイト)喧伝されているそして現在、ビンフン村のあった場所には政府によって、ハイイェンに殺害された『民間人』を悼む記念碑が設置されている。またかつてビンフン村の人々が行き来した村の中央の橋は、『捕虜たちはこの橋を渡った先で拷問を受けて殺害された』として、『別れの橋(Cầu Vĩnh Biệt)』と名付けられている。(写真: ビンフン村の橋の当時と現在の様子)
 ただしこれはホア神父やハイイェンに限った話ではなく、1975年までにベトコン(ベトナム労働党・解放民族戦線など)と対立した、または非協力的だった者は全て、戦後『人民の敵』の烙印を押され、終戦から40年以上経った今現在も、ベトコン政権によってその『悪行』が学校教育やメディアを通じて国民に喧伝され続けている。


【参考文献・ウェブサイト】
The Sea Swallows, Henry Dagenais (2014)
MACVTeams.Org, MACV Team 80 – An Xuyen
  


2016年12月03日

リュックのおまけ

先日知人が某所でオリジナルの『インディジネス・ラックサック』を入手しました。
これ自体かなりの掘り出し物だったのですが、さらにそのポケットの中から、面白いものが出てきました。


くしゃくしゃに丸まったB5サイズほどの紙2枚と、小さめの紙1枚です。あ!なんか出てきた~!と、思わぬおまけにみんなウキウキ。だけどそれはなかなかの古い紙で所々虫に食われており、無理に広げるとそのままボロボロと崩れそうなので、慎重を期して広げていきます。
するとその紙には、なにやらベトナム語が印刷されていました。おおー!これはもしかしたら、ベトナム戦争当時NKTやLLĐBなどのベトナム共和国軍特殊部隊員が使った当時の書類がそのまま入ってたんじゃないか!?と、一気に興奮しました。
でも誰もベトナム語が読めないので、それが何の書類なのかその場では分からず。なので僕がこれを借り受け、内容を調べる事になりました。
その後、一応自分でもGoogle翻訳を使って翻訳してみましたが、ベトナム人に読んでもらう方が確実なので、スキャンした画像を知り合いに見てもらったところ、以下の内容だという事が分かりました。

まず大きい紙の方は、何かの『返品請求書』だそうです。内容は記載されておらず、真ん中の表は注文商品、商品の説明、重量・サイズ、材質、数量、単価、合計金額がを記入する欄だそうです。また、このフォーマットの作成日は1983年3月24日と印刷されていました。

次に赤い印刷の紙は、手巻き煙草の巻紙のパッケージだそうです。こちらに印字されている日付は1988年9月12日となっていました。

両方とも1980年代の物なので、期待していたようにベトナム戦争時代の物ではありませんでしたが、これはこれで、このリュックが戦後も使われていた事の証拠と言えます。
1975年に戦争に勝利したハノイ政権は戦後、旧ベトナム共和国軍の装備品を接収し、戦闘機からブーツに至るまでベトナム人民軍の装備に加えてその後のカンボジアや中国との戦争に使用していきました。
なので1960年代初頭にアメリカ軍がCIDG向けの装備として設計したこのインディジネス・ラックサックも、戦後のベトナム人民軍で長らく使用されたそうです。
今回見つけたリュックが人民軍で使用された物かどうかはこれらの書類からだけでは判然としませんが、少なくとも80年代までベトナム国内で誰かに使われていた事は確かであり、このリュックが見てきたであろうベトナムの苦難の歴史につい思いを馳せます。

ちなみに、旧ベトナム共和国軍の装備品の一部は今でも人民軍で現役で使用されており、僕が今年ベトナムに行った時も、人民軍の基地近くの街道を米国製のM35トラックが何台も走っていました。またM113やXM706(V-100)装甲兵員輸送車もまだまだ現役であり、さらに近年、長年倉庫に眠っていたXM16E1/M16A1ライフルをカービン風に改修した『M18小銃 (Súng M18)』が新たに人民軍の特殊部隊に採用されるなど、いかに大量のアメリカ製装備が戦後も残っていたかを物語っていますね。

▲現在のベトナム人民軍陸軍の憲兵
車輌はともかく、M1ヘルメットやM69ボディーアーマーまで現役ってのには驚かされます。
決して物が無い訳ではないので、こうまでして使い続ける理由は多分、
単純に『見た目がカッコいいから』なんだろうなぁ。