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2017年05月01日

グレイタイガーの4月30日

※2017年5月3日加筆・修正

過去の記事

 昨日、このブログを始めて4回目の4月30日『サイゴン陥落』の日を迎えました。ベトナム本土では今年も相変わらず、ベトナム共産党(当時労働党)が800万人もの人命を犠牲にして強行した『解放』と『統一』の偉業が喧伝され、祝賀ムードが演出されています。
 一方、終戦後共産政権による弾圧と暴政から逃れ国外に脱出したベトナム難民とその子孫ら約300万人の在外ベトナム人たちは、この『国恨の日(Ngày Quốc Hận)と呼び、ベトナム全土がベトナム共産党というテロ組織の支配下に墜ちた悲劇の日として記憶されています。

 昨年12月、私は友人の紹介で、米国カリフォルニア州在住の元ベトナム難民、ファム・チャウ・タイ(Phạm Châu Tài)という人物にお会いしてきました。タイ氏グレイタイガー(Hổ Xám)』の異名で知られる元ベトナム陸軍特殊部隊少佐で、ベトナム戦争中MACV-SOGプロジェクト・デルタ、第81空挺コマンド群に所属し、常に最前線で共産軍と戦い続けた歴史の生き証人の一人です。今回はタイ氏が経験した4月30日の物語をお伝えします。

▲タイ少佐(左手前)、ホア少尉(左手奥)、ハウ監督(右手前)、私(右手奥) [2016年12月カリフォルニア州ウェストミンスター]

▲タイ氏が所属したNKT雷虎第1強襲戦闘団(MACV-SOG CCN) FOB2 チーム『オハイオ』 [1966-1967年頃 コントゥム]

▲LLĐBプロジェクト・デルタ時代のタイ大尉(当時 写真右から2番目) [1960年代末]

▲タイ大尉(当時)が指揮した第81空挺コマンド群第3強襲中隊 [1972年 アンロクの戦い]
戦車砲の防盾上に立つ人物がタイ大尉

 幾多もの激戦を渡り歩き、特に1972年の『アンロクの戦い』において、迫りくる共産軍機甲部隊に対し歩兵による対戦車戦闘を指揮して見事な勝利を掴んだタイ大尉は、同年少佐に昇進し、『グレイタイガー(灰虎)』の勇名は国中に知れ渡るところとなった。
 それから3年後の1975年、アメリカからの支援を失ったベトナム共和国軍は、依然中ソによる支援を受けながら南侵を続ける北ベトナム軍の勢いを止める事が出来ず、戦況は悪化の一途をだどっていた。3月には南ベトナム中部(第2軍管区)の失陥を許し、補給路が分断された事で北部の第1軍管区も孤立。さらに4月には、サイゴン防衛の要衝であるロンカン省スンロクが北ベトナム軍4個師団に包囲される。この『スンロクの戦い』において、レ・ミン・ダオ准将麾下の共和国軍第18歩兵師団および第81空挺コマンド群は4倍の兵力の敵に対し猛烈な反撃を行い北ベトナムの進攻を12日間遅らせる事に成功したものの、最終的に共和国軍は首都防衛の戦力を温存するためスンロクを放棄し、ビエンホア街道からサイゴンに撤退した。

▲1975年3月から4月にかけての北ベトナム軍の南侵 (クリックで拡大)
South Vietnam - The final days 1975, U.S.Army

 この逼迫した状況の中で、タイ少佐が指揮する第81空挺コマンド群第3戦術本部(Bộ Chỉ Huy Chiến Thuật Số 3)は4月26日、参謀総本部を含むタンソンニュット空港・空軍基地周囲の守備を命じらる。
 一方、ベトコン側のスパイとしてベトナム共和国空軍に潜入しており、4月8日にF-5戦闘機で総統府を爆撃したグエン・タン・チュンは、北ベトナムへの逃亡後すぐさま南侵部隊に合流しており、4月28日には北ベトナム軍によって占領されたファンラン基地からA-37攻撃機で再びサイゴンへ向けて飛び立ち、タンソンニット空港への爆撃を実行した。この時タイ少佐は、守備対象である空港が自軍の攻撃機によって爆撃されるのを地上から見ている事しか出来なかったた。
 同28日、1965年以来10年間に渡ってベトナム共和国軍参謀総長を務めていたカオ・バン・ビエン大将は、敗戦すれば家族もろとも共産軍から拷問を受けて処刑されると考え、正式な辞任を経ずに家族を連れて密かにサイゴンから脱出してしまった。また辞任したグエン・バン・チュー前総統に代わって4月21日に総統に就任したチャン・バン・フォンも、就任から1週間後のこの日、ベトコン側に停戦交渉を拒否されたため総統を辞任した。

▲ベトナム共和国軍参謀総本部庁舎 [ジアディン省タンビン区]

 翌4月29日、敵が目前まで迫る中、ビエン大将の失踪を受けて参謀総本部(BTTM)はビン・ロック中将を新たな参謀総長に選任した。そして同日午後、タイ少佐はサイゴン守備部隊指揮官の一人として、新体制となった参謀総本部での戦況会議に招集される。参謀総本部はタンソンニットから目と鼻の先であり、タイ少佐が完全武装した4名の護衛と共に会議室に入ると、彼は英雄が到着したとしてビン・ロック中将ら幹部に紹介された。この時、会議室内の雰囲気は非常に緊迫しており、数十人居る参謀将官・佐官たちの内、椅子に座っている者はほとんどいなかったと言う。
 参謀総長への挨拶を済ませると、タイ少佐はグエン・フー・コ(Nguyễn Hữu Có)中将ら幹部の将官らと今後の対応を協議した。この中でタイ少佐は、もはや敗戦は避けられない情勢である事を理解し、将軍たちにこう語った。

「我が隊は、明日の朝まではここ参謀総本部を守り抜くつもりです。明日の朝が限度です。もう答えは出ています」 

タイ少佐は顔をあげて将軍たちの顔を見渡した。これに対し、将は自信を持った口調で皆に向けて答えた。

「私はこの部屋にいる将官や士官たちに誓う。今夜、ここ参謀総本部にはアリ一匹、ハエ一匹通しはしない。当然ベトコンもだ。」

▲グエン・フー・コ中将
 グエン・フー・コ中将かつて軍事政権で国防長官を務めていたが、1967年に政権内部の政争に敗れ軍から追放されていた。しかし1975年になり戦況が悪化すると、停戦交渉の前提としてチュー政権関係者の排除を求めるベトコン側の要求に応じ、ベトナム政府は1975年4月28日にズオン・バン・ミン大将を総統に、グエン・フー・コ中将を軍部の顧問として政府に復帰させた。しかしそれでもベトコン側は交渉のテーブルに付く事はなかった。

 それからコ中将はタイ少佐に、何か手伝える事はあるかと尋ね、タイ少佐は以下の提案をした。

「私の隊の一部を閉鎖された陸軍工廠に撤退させて頂けませんか。あそこに立て籠れば戦力を補えます。」

しかしそれにはタイ少佐が受け持つ約1000名の部隊からその1/4の人員を裂く必要があり、首都防衛最後の拠点である参謀総本部の守備が薄くなる事を意味していた。コ中将はこの提案を受け、すぐに結論を出すため電話で緊急の会議を招集した。そこで参謀たちは守備兵力を裂くことに不安を滲ませたものの、タイ少佐の案は了承され、部隊は陸軍工廠への移動を開始した。しかし夜になると命令は変更され、陸軍工廠守備隊は再びタイ少佐の元へ引き返す事となる。

 4月29日の夜になると、タンソンニット周辺で多数の銃声が鳴り響いた。空挺コマンド部隊は複数の地点に分かれて散発的な銃撃戦を続けたが、その都度敵は少なからぬ損害を出し退却していった。この時点でタイ少佐の部隊の損害は軽微であり、兵士たちは高い士気を維持していたという。
 散発的な戦闘の後、一旦敵の攻撃が収まると、長い静かな夜が訪れた。兵士たちは狭い指揮所の中で身を寄せ合い、眠れぬ夜を過ごした。しかし部隊長のタイ少佐は、命令を出す必要がある時だけ起き上がり、それ以外の時間は横になって寝ていた。それは、この参謀総本部を守る戦いがこの一晩で終わるとは考えていなかったからであった。必要であれば、タイ少佐は南ベトナムを救う手立てが見つかるまで何日でもこの場所で戦い続けるつもりであった。

 そして運命の4月30日が始まった。夜明けと共に北ベトナム軍の機甲部隊は多方面からサイゴン市内への突入を開始した。タイ少佐は、ついに最後の時がやってきたと部下のホアン・クイ・フォンに伝え、兵士たちに無線で指示を送った。
 タイ少佐は、敵は必ず戦車を先頭にし、それに続いて歩兵部隊が前進する事を知っており、それを阻止するにまず先頭の戦車を足止めする必要があった。そのためタイ少佐は、敵が通行するであろうクアンチュン訓練センター付近で攻撃を行う事に決めた。クアンチュン訓練センターはタンソンニュットの北に位置し、その周囲は戦車を待ち伏せ攻撃するのに適した地形であった。また訓練センターには、対戦車戦闘の教育を受けた新兵たちが今も多数立てこもっていた。タイ少佐は彼ら新兵に無線で指示を送り、2両の戦車を撃破することに成功した。しかし他の戦車は歩兵を乗せたトラックを従えてサイゴン市街へと前進を続けた。
 そして敵部隊が参謀総本部まで約2kmのバイヒェン交差点に到達すると、待ち構えていた第81空挺コマンド群第3戦術本部本隊と接触した。空挺コマンドは周囲の建物に身を潜め、交差点に差し掛かった敵戦車を頭上からM72対戦車ロケットで攻撃した。同時刻、敵戦車はタンソンニット空港のフィーロン門およびランチャカ(ピニョー・ド・ベーヌ廟)付近にも進軍し、空挺コマンドはそこでも対戦車戦闘を行い、複数の敵戦車を撃破した。
 しかし後続の戦車が次々と押し寄せ敵が反撃に転じると、空挺コマンドは参謀総本部まで撤退するよう命じられた。

▲タンソンニュット周辺およびサイゴン市街の位置関係 [1971年版サイゴン・ジアディン省地図より]

ランチャカ前で空挺コマンドに撃破された北ベトナム軍のT-54/55戦車 [1975年4月30日ジアディン省タンビン区]

 参謀総本部正門前まで退却したタイ少佐らは午前9時30分に、参謀総本部第3室(作戦参謀部)の参謀から無線を受け、停戦を命じられた。しかしタイ少佐はこれを拒否し、その参謀に、自分は参謀総長からの直接命令以外受け入れない。空挺コマンドは今も参謀総本部を守って戦っているのだと回答した。
 それから30分後の午前10時、ズオン・バン・ミン大将(総統)は無線通信を通じて、全軍将兵に戦闘を停止し武器を捨てるよう命じた。これを聞いたタイ少佐は参謀総本部前の防御陣地離れ、独立宮殿(総統府)に居る新参謀総長グエン・ヒュー・ハン准将に個人的に電話をかけ、軍の最高司令官であるズオン・バン・ミン将軍と直接話したいと伝えた。そして電話口で15分待った後、ついにミンが応答した。

「こちらはズオン・バン・ミン大将だ」

大将閣下、私は空挺コマンドのファム・チャウ・タイ少佐です。我々は最終的決定が下るまで、ここ参謀総本部を防衛せよと命令を受けています。1時間前、我々は停戦するよう無線を受け、そして先ほども将軍が無線で停戦を呼びかけているのを聞きました。我々としては、その停戦について、もう一度詳しくお聞きしたいです。」

ミン将軍はしばらく言葉を発するのを躊躇った後、タイ少佐に語った。

「・・・もうなす術はない。君も投降する準備をしてほしい。」

大将閣下、それでは無条件降伏ではないですか!」

重苦しい沈黙の後、タイ少佐は口を開いた。

「閣下、我々はここを死守せよと命令を受けました。事実我々は朝から敵の攻撃を退けており、すでにこの付近だけで敵戦車を6両撃破しました。しかも我が方はほぼ無傷です。閣下、我々は降伏などできません。我々はいったい何年軍の為に尽くしてきたとお思いですか・・・」

「従いたまえ」

「閣下、もし閣下が降伏なされば、今も参謀総本部で戦っている2000名の将兵の身は安全であるという保証はどこにあるのですか」

沈黙の後、ミン将軍は最後にタイ少佐に一言だけ述べ、電話を切った。

「敵の戦車が市街に突入しようとしている。従ってくれ」

▲ベトナム共和国最後の総統ズオン・バン・ミン大将 [1975年4月30日 独立宮殿]

 電話を切られたタイ少佐は、やむなく自分の防御陣地に戻る事にした。そして正門に続く基地内の長い道路を歩いている途中で、ある高級将校と出くわし、独立宮殿で何が起こっているかを知らされた。彼が最後に聞いたズオン・バン・ミン大将からの通信は、独立宮殿に敵戦車が突入したという言葉だったという。
 それを聞いたタイ少佐は、すぐさま部隊を率いて独立宮殿に乗り込んでミン将軍を救出し、そして軍と兵士の安全を確保した上での停戦となるようミン将軍を今一度説得しようと考えた。タイ少佐は防御陣地に戻ると、自分の部隊を見渡した。空挺コマンドの兵士たちはいまだ銃を手にし、眼前に迫る敵軍から目をそらしていなかった。

▲タイ少佐が最後の防御陣地とした参謀総本部正門 [ジアディン省タンビン区]

 その時、無線機から再びズオン・バン・ミン大将発の命令が聞こえてきた。そしてその命令は停戦ではなく、速やかな投降、つまり無条件降伏を命じるものであった。この瞬間、1946年以来30年間近くにおよんだベトナム政府と共産主義勢力との戦いは、共産側の勝利に終わった。北ベトナム軍は参謀総本部を包囲するため次々と押し寄せてきたが、銃声は止んでおり、辺りは不気味な静けさに包まれていた。

 15分後、参謀総本部周辺の住民たちが通りに出てきて、兵士たちに語り掛けてきた。

「兄さんたち、もう戦わなくていいんだよ。平和になったんだ。家に帰ろう」

そして人々は家から急いでTシャツなどの私服を持ってきて空挺コマンド隊員たちに与えた。

「軍服を着てちゃダメだ。これに着替えな」

サイゴン市民は政府軍降伏の知らせを聞くと、兵士たちを共産軍による報復から守るため、街の至る所で早く私服に着替えて逃げるよう促していた。

▲軍服を脱ぎ捨てる第81空挺コマンド群兵士 [1975年4月30日ジアディン省タンビン区]


 兵士たちが投降の準備を進める中、タイ少佐は最後にもう一度自分の部隊を集めた。そして彼は部下への命令としてではなく、共に幾多の苦難を乗り越えてきた兄弟たちへの言葉として、兵士たちに訴えた。

「我々は空挺コマンドである。降伏などしない。戦いを投げ出し、怯え隠れてはならない。どうか降伏しないで欲しい。空挺コマンドは決して降伏しない!」

 兵士たちも皆、同じ気持であった。しかし最高司令官から下った命令は明白であり、またこれ以上の抵抗は誰の目にも無意味であった。最終的にタイ少佐は参謀総本部正門前で、部下たちと共に共産軍による武装解除に応じた。こうしてファム・チャウ・タイの戦争は終わった。

空挺コマンド "グレイタイガー" ファム・チャウ・タイ少佐

出典:
Hoàng Khởi Phong
30-4-1975: Trận Chiến Cuối của Hổ Xám Phạm Châu Tài- Liên Đoàn 81- Biệt Cách Nhảy Dù

Vương Hồng Anh
30.4.75: Nhảy Dù, Biệt Cách Dù Kịch Chiến Với CQ Trước Giờ G


 投降後、戦犯として共産軍に逮捕されたタイは強制収容所での長く過酷な生活を経験した後アメリカに亡命し、現在はカリフォルニア州ウェストミンスター市のベトナム移民街リトル・サイゴンで穏やかな生活を送っておられます。
 氏は普段、メディアからの取材は全て断っているそうですが、今回は「戦後ベトナム生まれの若者たちに自分たち祖父の時代を知ってほしい」という熱意を持った若き映像作家からの依頼により、インタビューが実現しました。その為インタビューは全てベトナム語で進められたので、はその場では内容をあまり理解出来ませんでしたが、友人が「今のベトナムの若者に何を伝えたいですか?」と問いかけた時のタイ氏の表情を私は決して忘れません。
 友人の問いかけに、氏は目にうっすら涙を浮かべ、言葉を詰まらせたままおよそ3分間ほど沈黙が続きました。その間、氏の脳裏には恐らく、当時死んでいった若者たちの事、自分たちが共産軍を倒せなかった為に祖国を恐怖が支配する独裁国家にしてしまった事、そしてその中でホー・チ・ミンと共産党の偉業だけを教育され育っていく戦後のベトナム人たちのへの複雑な思いが駆け巡っていただろう思います。長い沈黙の後、タイ氏は友人に自らの思いを打ち明けました。その内容はインタビューの英語翻訳版の完成を待たなければなりませんが、その言葉を語るタイ氏の目を見ているうちに、少なくともそれは、この41年間、氏の心に重くのしかかり、口を閉ざしていた想いの片鱗であった事は理解できました。この貴重なインタビューを日本で公開できる日を心待ちにしています。

  


2017年04月12日

ベトナム海軍LĐNN/SEAL

先日のベトベトで「LĐNNを盛り上げよう!」というお話を頂いたのですが、僕自身まだちゃんと分かっていない部分も多かったので、勉強がてらLĐNNとSEALの歴史について概要をまとめてみました。超カッコいい部隊なので興味を持ってくれる人が増えたらいいなぁ。

※2017年4月14日追記

第1期LĐNNとシーコマンド

 1960年、ベトナム海軍は水中破壊チームの創設を計画し、その後海軍の分遣隊が台湾でアメリカ海軍によるUDT訓練を受講した。1961年7月、海軍は『フロッグマン部隊(Liên Đội Người Nhái, 以下LĐNN)』を創設し、台湾での訓練を終えた海軍士官1名、水兵7名がLĐNNの幹部となった。さらに国内で選抜された48名の海軍将兵が集結し、海難救助、水中障害物除去、桟橋の防御、水陸特殊作戦を任務とする第1期LĐNNが始動した。

▲創設当時のベトナム海軍フロッグマン部隊((LĐNN)部隊章

▲第1期LĐNN隊員の訓練[1962年5月 ベトナム]

 LĐNN創設から間もなく、ジエム総統直属の特殊工作機関『総統府連絡局(Sở Liên lạc Phủ Tổng thống)』の傘下にも、水陸作戦部隊『シーコマンド=特海隊(Biệt Hải)』が組織された。シーコマンドの任務は北ベトナムその他国外における越境特殊工作であり、海軍だけでなく陸軍・海兵隊の水陸戦チームも統括する統合任務部隊であった。
 1962年2月より南ベトナムに展開を開始したアメリカ海軍SEAL(Sea Air Land)訓練チームは、翌3月より最初のシーコマンド幹部育成のための6か月間の訓練コースを開始し、空挺降下、偵察、ゲリラ戦についての教育が行われた。そして10月までに62名のシーコマンド隊員がSEAL訓練コースを修了した。
 なお1963年11月の軍事クーデターでジエム政権が崩壊すると、総統府連絡局は解体され、シーコマンドは新たに設立されたベトナム共和国軍参謀総本部直属の特殊作戦機関『開拓部(Sở Khai thác, 後のNKT)沿岸警備部(SPVDH)』の指揮下に移管される。
 1964年1月、士官1名と41名の隊員から成るLĐNNチームが、海岸からの侵入を試みる共産勢力に対抗する特殊作戦を開始。『シードッグ作戦(Operation Sea Dog)』において、フィリピンのイロイロ島(パナイ島)で共産軍の物資を輸送するジャンク船6隻を爆破した。
 1964年2月には、北ベトナムへの圧力を目的としたMACV-SOG主導の秘密作戦OP-34Aが開始された。これに伴い、第1期LĐNNは国外の目標への攻撃に参加するため、海軍の指揮下を離れSKT沿岸警備のシーコマンド部隊に編入された。(OP-34Aおよびシーコマンドについては過去記事『NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[2]』参照)

 
▲シーコマンド部隊章(左)、海軍LĐNNシーコマンド中隊(右)

▲SKTシーコマンド編入後、初代LĐNN隊長ラム・ニュット・ニン海軍大尉(写真②)はシーコマンド総隊長に任命された。
[1964年 ダナンSPVDH本部]


第2期LĐNN

 OP-34Aによって第1期LĐNN隊員のほとんどがシーコマンドに移動したことで、海軍にはフロッグマンが存在しなくなった。この穴を埋めるため、1964年7月には第2期LĐNN隊員の訓練に60名の訓練生が選抜され、9月からニャチャンにおいて訓練が開始された。この第2期LĐNN訓練コースは、『地獄の週』を含む16週間にわたって行われた。地獄の週では海上漕艇185km、長距離走120km、ボート担ぎ走33km、遠泳16kmという過酷な体力訓練が行われた。また訓練期間中、訓練生たちはニャチャンやビンズオン省において、実際に沈没した船や航空機を海中からの引き上げる作業を経験した。そして1965年1月に33名が訓練を修了し、彼ら第2期LĐNNはベトナム海軍作戦本部副部長の直接指揮下に置かれブンタウに駐屯した。
 1965年には、LĐNNは南ベトナム領内における全ての水陸特殊作戦の権限を与えられ、北ベトナムに対する水陸作戦はSKT沿岸警備部(SPVDH)の管轄となった。

▲第2期LĐNN訓練の修了式[1965年1月 ニャチャン海軍訓練センター]


第3期LĐNNとアメリカ海軍SEAL

 1960年代中盤までに、アメリカ海軍SEALチーム1および2は、越境工作部隊シーコマンドの訓練に加えて、南ベトナム領内における定期的な戦闘任務への参加を始めていた。彼らは強襲、水陸偵察、ベトコン組織破壊工作の専門家であり、国内での水陸作戦を統括するLĐNNはSEALとの協力関係を深めていった。間もなくSEALチームが南ベトナム領内で行う通常戦術作戦にはベトナム海軍LĐNN隊員も参加する事となり、LĐNNではSEAL派遣要員の選抜が開始された。1966年11月には少人数のLĐNN幹部がフィリピンのスービック湾に派遣され、アメリカ海軍にってより高度なSEAL訓練を施された。
 1967年にはSEAL派遣要員を育成する第3期LĐNN訓練が開始され、400名を超える志願者がブンタウで訓練に参加した。この第3期LĐNN訓練は、それまでUDT訓練が主だったLĐNN訓練コースとは異なり、空挺降下作戦を含む本格的なSEAL訓練が初めて大規模に実施された回であった。1年後、訓練コースを卒業した訓練生は400名中わずか27名と、脱落率94%の過酷な訓練であった。この第3期LĐNN訓練を終えた27名の隊員は、LĐNN初の本格的なSEALチーム『海撃隊(Hải Kích)』として組織化された。海撃隊の作戦範囲は主に南ベトナム国内であったが、カンボジア領内へ潜入する場合もあり、またパラシュート降下による越境作戦も存在した
 これ以降、LĐNN海撃隊はアメリカ海軍のSEALチームに人員を供給し、緊密な協力関係の下で作戦を遂行していく事となる。SEALにおけるベトナム人の役割は単なる通訳だけでなく、一般市民と敵兵を見分けて危険を察知するというベトナムで生まれ育った者にしかできない文化面での知識を持っている事も彼らがSEALに必要とされた大きな理由であった。またフェニックス計画などで情報を聞き出すためベトコン容疑者を逮捕する作戦では、SEALのアメリカ兵が対象を無理に拘束しようとすると必死に抵抗され、やむを得ず射殺してしまい任務失敗となるケースもあったが、同じベトナム人であれば言葉で脅す事でそれを防ぐ事が出来た。

LĐNN海撃隊(Hải Kích)=ベトナム海軍SEALチーム部隊章
画像: Dealing Time "Lieutenant Mike Slattery" 

アメリカ海軍SEALチーム1ヴィクター小隊所属のベトナム海軍LĐNN海撃隊員[1960年代末 ロンフー?]

▲SEALチーム2 第9小隊所属のLĐNN海撃隊員[1969年ベトナム]

▲カムラン移転後のLĐNN訓練キャンプ [1970年カムラン]
第3期LĐNN訓練が終了した直後の1968年2月、共産軍はテト攻勢を開始しブンタウでの訓練が困難となったことから、ほとんどのLĐNN部隊はカムラン湾に移動し、第4期以降のLĐNN訓練はカムランで実施された。

▲ベトナム海軍LĐNNの部隊章 [Military Advisor 2016年9月号より]
1. LĐNN 1stデザイン
2. LĐNN 2ndデザイン
3. 港湾警備チーム (Phòng thủ hải cảng) 1stデザイン
4. 港湾警備チーム (Phòng thủ hải cảng) 2ndデザイン
5. 爆発物処理 / EODチーム (Tháo gỡ)
6. 水中爆破 / UDTチーム (Thủy công)
7. 海撃/ SEALチーム (Hải Kích)
8. 爆発物処理 / EODチーム (Tháo gỡ)
9. サルベージ船隊 (Giang-Đoàn Trục Vớt)
10. バリエーション
※翼のデザインはSEAL訓練が始まった1967年以降に制定されたものと思われる。

SEALチーム2 第9小隊
フェニックス計画の際は、LĐNN隊員に加えて現地のPRU(地方軍独立偵察中隊)隊員がSEALチームに加わる事もあった。


SEAL戦闘通訳員 グエン・ホアン・ミン


 SEAL小隊に所属したベトナム人の中には、LĐNN隊員以外の者も居た。特にSEAL隊員たちから尊敬を集めたのがグエン・ホアン・ミンであった。ミンは1959年から1964年までベトナム海軍で勤務した後、1966年にアメリカ海軍河川哨戒艇部隊に通訳としてスカウトされた。その後ミンは1971年まで5年間、ミトー基地のSEALチーム2 第7小隊および第10小隊戦闘通訳者として勤務した。
 ミンは通訳、ポイントマン、時には潜入諜報員としてSEALの作戦に貢献した。またミンの妻も危険を顧みずメコンデルタ地域におけるSEALの作戦に協力し、ミン夫妻はベトナム戦争時代のSEAL最大のベトナム人功労者としてSEAL隊員たちに記憶されている。


▲ミンが所属したSEALチーム2 第10小隊 [1960年代末~1971年頃 ミトー]
上段左から5番目の弾薬ベストを着た人物がミン。ほかのベトナム人はLĐNN隊員

 1975年の敗戦後、ミンは共産軍に拘束され強制収容所に28か月間投獄された。ミン夫妻はその後45年間に渡って米農家や靴磨きをしながら貧しい生活を送る事となる。
 時は流れて2002年、海軍を退役した元SEAL隊員のジョン・ドノバンは、一冊の本の中に、かつての戦友であるグエン・ホアン・ミンの名前を見つけ、ミンがまだ生きている事を知った。ドノバンはダラスのベトナム難民関係者に連絡を取り、6年後の2008年にミンを探すためベトナムのミトーを訪れた。そして数か月後、ドノバンとミンは40年ぶりの再会を果たした。
 ミン一家の苦境を知ったドノバンは、かつてのSEALの戦友たちに連絡を取り、ミン一家のアメリカ移住を支援する基金を立ち上げた。その後、ミンへの募金は1万5000ドル以上集まったが、アメリカ国務省はミンの移民申請を却下した。その為基金は、ベトナムに住むミンの子や孫の家を補修し、生活環境の改善に当てらてた。2013年、ミンはSEALアソシエーションの招待を受けて初めてアメリカを訪れ、SEALミュージアムでかつての戦友たちと再会を果たした。

ミンのSEALへの貢献と、戦友たちとの再会を伝えるSEALチーム2アソシエーション制作のドキュメンタリー"The Why of Minh"


ベトナミゼーション

 1971年、アメリカ軍のベトナム撤退に伴うベトナム共和国政府の権限移行(ベトナミゼーション)の影響は海軍LĐNNにも及んでいた。それまでアメリカ海軍SEALが担っていた作戦のほとんどがベトナム海軍LĐNNの管轄に移行され、作戦規模は大幅に拡大した。これに伴い、ベトナム海軍フロッグマン部隊(Liên Đội Người Nhái)は、『フロッグマン群(Liên Đoàn Người Nhái*) 』へと発展・拡大した。拡大したLĐNNは海撃隊(SEALチーム)、水中爆破チーム、爆発物処理チーム、支援舟艇チームから成り、司令部は引き続きサイゴンに置かれた。略称は変わらずLĐNN
 1971年の時点で、LĐNN海撃隊は12~18名単位の分遣隊に分かれ、ホーアン、ダナン北部、フエ、ティンアンの前進基地に駐屯し、南ベトナム国内でのベトコン組織破壊または強襲作戦に従事していた。
 1972年のイースター攻勢において、南ベトナム最北端の城塞都市クアンチが北ベトナム軍によって占領されると、LĐNN海撃隊はクアンチ奪還作戦部隊の一部としてフエに移動した。その後、壮絶な戦闘の末にクアンチが奪還されると、海撃隊の一部はベトコン組織破壊作戦に復帰しクアンガイに移動した。


バット21ブラボー救出

 イースター攻勢の最中の1972年4月2日、アメリカ空軍のEB-66電子戦機2機が北ベトナム軍の対空ミサイルによって撃墜され、クアンチ省北部に墜落した。EB-66のナビゲーター アイセル・ハンブルトン中佐(コールサイン"バット21ブラボー")は救難無線によって生存が確認されたが、墜落地点は前線から4km北側の敵支配地域であり、そこには南侵した約3万人の北ベトナム軍が展開していた。ハンブルトン中佐は対空ミサイル対抗戦術の専門家であったことから、ミサイル技術の情報が敵側に渡るのを防ぐため、その日のうちに航空機による救難捜索(SAR)が開始された。
 しかし北ベトナム軍の対空ミサイル網は非常に強力であり、SAR機に多数の被害が発生した。在ベトナム米軍司令クレイトン・エイブラムス将軍は、いかなる犠牲を払おうともミサイル技術漏洩を防ぐつもりであったが、捜索開始から5日経ってもハンブルトン中佐は発見されず、最終的に16機のSAR機が撃墜され、14名が戦死または行方不明となる結果に終わった。また誤爆を防ぐため周辺空域での空爆が禁止されたため、クアンチで戦うベトナム共和国軍部隊への航空支援が滞り、地上戦でも多数の損害が出ていた。
 そこでMACV-SOG統合救難センター(JPRC)は地上からの救出作戦を立案し、アメリカ海軍SEALのトーマス・ノリス海軍中尉がその任に当たった。ノリス中尉はこの時点でベトナムに残っていた12名のSEAL隊員の一人であり、ノリスは救出作戦のメンバーとしてNKT沿岸警備部シーコマンド部隊から5名の海軍LĐNN隊員を指名した。そしてその中の一人、グエン・バン・キェット海軍伍長と二人で漁師に変装し、漁船に偽装したサンパンで川を遡って敵支配地域に潜入し、ハンブルトン中佐および捜索中に撃墜されたOV-10のパイロット マーク・クラーク大尉の捜索を行った。その結果、二人はハンブルトン中佐・クラーク大尉の両名を発見し、敵の追撃をなんとか振り切り脱出する事に成功した。この危険極まる救出劇はベトナムにおけるSEAL最後の作戦として称えられ、ノリス中尉はアメリカ軍最高位の名誉勲章(Medal of Honor)を、キェット伍長は名誉勲章に次ぐアメリカ海軍最高位の海軍十字章(Navy Cross)を受章した。

シーコマンド/LĐNNグエン・バン・キェット伍長(左)とアメリカ海軍SEALトーマス・ノリス中尉(右) [1972年]

 1972年後半、戦闘任務の終了後もLĐNNへのアドバイザー任務を継続していたアメリカ海軍SEALが、ついにベトナムから完全に撤退した。LĐNNはSEALアドバイザーが管理していたカムランのSEAL訓練施設を引き継ぎ、LĐNN / SEAL訓練を継続したが、SEAL訓練は非常に脱落率の高い過酷なものであったため、海撃隊は常に人員不足に悩まされていた。この時点でLĐNN海撃隊の人員は200名強であったが、1971年にアメリカ本土でSEAL訓練を受けたLĐNN士官候補生21名のうち、訓練を修了して海撃隊に入隊できた者は10名しかいなかった。さらに正規軍である北ベトナム軍の南侵が激化し、戦況は悪化の一途を辿っていたことから、LĐNNは戦力を確保するため隊員の訓練期間を半分に短縮し、特に空挺降下訓練については1/5にまで削減された。
 1973年にパリ協定が結ばれベトナム戦争が停戦すると、全国に展開していたLĐNN海撃隊は作戦を終了しサイゴンの海軍本部に戻った。また対外工作機関であるNKTの沿岸警備局は解散され、シーコマンド所属のLĐNN隊員たちは原隊に復帰した。しかし停戦から間もなく、北ベトナム軍はパリ協定を無視して南進を再開し、ベトナムは再び戦火に見舞われた。


ホンサ諸島の戦い

 時を同じく、1950年代から続いていた南シナ海のホンサ諸島(西沙諸島)の領有権をめぐるベトナムと中国の対立が激化し、ベトナム共和国政府はホンサ諸島の領有を主張するため、島を占領すべく民兵の守備隊を1973年12月末に派遣した。中国政府はこれに対抗して海軍の陸戦部隊を島に上陸させた。ベトナム海軍は中国軍を撃退するため、1974年1月17日にLĐNN海撃隊をフーラム島(永興島)の西岸に潜入させたが、すでに中国海軍地上部隊は島から撤退しており、海撃隊は難なく島を占領した。
 しかし上陸から二日後の1月19日、中国海軍は突如フーラム島に砲撃を加えると共に陸戦隊を上陸させ、海撃隊との地上戦に発展した。この戦いでLĐNN海撃隊には3名の死者が発生し、島から撤退した。さらに周辺の海域で行われた海軍艦艇同士の海戦では、双方の艦艇が撃沈され、ベトナム側には50名を超える死者が出た。(※Ken Conboy氏はこの戦いでのLĐNN隊員の死者は2名で、残りは捕虜になったとしているが、元LĐNNのキェット伍長は、この時捕虜になった者はいなかったと指摘している)



サイゴン陥落

 1975年4月末までに、LĐNN海撃隊は激しい戦闘の末に人員が50名まで減少していた。4月末に共産軍が首都サイゴンに迫ると、LĐNNの残存兵力は首都防衛のためサイゴン南西のロンアン省に派遣された。この時点でLĐNNにはSEAL訓練を受講中の訓練生が200名居たが、彼らはサイゴンのLĐNN本部に温存された。
 首都陥落が差し迫った4月29日の夕方、LĐNN隊員の家族らは海軍の手引きで小型のUDTボートに分乗し、サイゴンから脱出した。その数時間後、隊員の家族らは国際水域でアメリカ海軍第7艦隊に救助された。


[参考資料]
Military Advisor: Frog-men of the repblic of Vietnam, by Clement kelley 
  


2017年01月09日

ベトナム空挺の降下作戦1955-1975

 先日ジャンクションシティー作戦について記事を書きましたが、ジャンクションシティー作戦と言えばベトナム戦争中アメリカ軍が行った唯一のエアボーン作戦として有名ですよね。一方、第1次インドシナ戦争中に40回以上のエアボーン作戦に参加していたベトナム空挺部隊(フランス植民地軍時代含む)は、ベトナム戦争においても度々エアボーン作戦を実施していました。以下は1955年から1975年までにベトナム共和国軍が行ったエアボーン作戦の概要です。


ベトナム共和国軍空挺部隊のエアボーン作戦

空挺部隊が降下した地点
黒が陸軍空挺部隊(Binh Chủng Nhẩy Dù)
青がマイクフォース(Lực lượng xung kích cơ động)

 ヘリコプターの性能向上によってヘリボーンによる迅速な展開・強襲が可能になったことから、第1次インドシナ戦争期と比べるとエアボーン作戦の回数はかなり少なくなりましたが、それでも大規模な戦闘降下作戦は少なくとも13回は実施されたようです。
 なお、マイクフォースは特殊部隊の指揮下にありましたが、マイクフォース自体は小人数で偵察や破壊工作を行うコマンド部隊ではなく、中隊規模以上の戦力でエアボーンまたはヘリボーンによる強襲を行大規模な空中機動部隊でした。

日付: 1955年9月23日・24日
降下部隊: 空挺群
目的: ビンスェン派の掃討
領域: ベトナム共和国ジアディン省ズンサック

日付: 1962年3月5日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 守備隊の支援
領域: ベトナム共和国タイニン省ボートゥック

日付: 1962年7月14日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 待ち伏せ攻撃の支援
領域: ベトナム共和国ジアディン省サイゴン北部

日付: 1963年1月2日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 第7歩兵師団の支援(アプバクの戦い)
領域: ベトナム共和国ディントゥオン省アプバク

日付: 1965年8月3日
降下部隊: 空挺旅団
目的: ドゥッコー特殊部隊キャンプ奪還の支援
領域: ベトナム共和国プレイク省ドゥッコー

日付: 1965年11月
降下部隊: 空挺旅団
目的: 解放戦線部隊への強襲
領域: ベトナム共和国ビンディン省アンケー

日付: 1966年3月3日
降下部隊: 空挺師団
目的: 敵部隊への強襲
領域: ベトナム共和国フーイェン省ソンコウ

日付: 1966年12月27日
降下部隊: 空挺師団
目的: 解放戦線支配地域中心部の強襲
領域: ベトナム共和国チュンティエン省

日付: 1967年4月2日
降下部隊: 特殊部隊第5MSFC(第5マイクフォース), 第1MSF大隊, 第2・第3中隊
作戦: ハーヴェスト・ムーン作戦
兵員: 356名
領域: ベトナム共和国クアンドゥック省
降下地点: Bu Prang CIDG訓練キャンプ
航空機: C-130輸送機
降下方法: 昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ

日付: 1967年5月13日午前6時
降下部隊: 特殊部隊第5MSFC(第5マイクフォース), 第1MSF大隊, 第3・第4・第5中隊および4.2インチ迫撃砲小隊
作戦: ブラックジャック作戦
兵員: 486名
領域: ベトナム共和国チャウドゥック省バイニュー
降下地点:バイニュー付近の水田
降下方法:  昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ, 高度200mより水田上に降下

日付: 1967年10月5日
降下部隊: 特殊部隊第2MSFC(第2軍団マイクフォース)第2MSF大隊, 第24中隊・第25中隊
作戦: ブルーマックス作戦
兵員: 250名
領域: ベトナム共和国クアンドゥック省
降下地点: Bu Prang CIDG訓練キャンプ
降下方法:  昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ

日付: 1968年11月17日
降下部隊: 空挺師団
目的: 特殊部隊による掃討作戦の支援
領域: ベトナム共和国チャウドゥック省バイニュー

日付: 1972年5月4日
降下部隊: 空挺師団
目的: 進軍ルート(チューパオ・パス)の確保
領域: ベトナム共和国コントゥム省チューパオ


ベトナム共和国軍特殊部隊の越境エアボーン潜入作戦

▲NKTのコマンド部隊がエアボーンによって潜入した地点
北ベトナム領だけで少なくとも30カ所に上る。(南カリフォルニアNKTアソシエーション資料より)

  特殊部隊が敵地に潜入するために行う小人数のエアボーン降下は、空挺部隊が行ったものよりもはるかに多くの回数が実施されました。また潜入のための降下作戦は、低高度を飛行する輸送機から順に飛び出す通常のスタティックラインジャンプだけでなく、潜入作戦という都合上、より隠密性を高めるためにHALO(高高度降下低高度開傘)を、しかも夜間に行っていた点が通常の空挺部隊とは大きく異なっていました。
 ベトナム共和国軍特殊部隊による北ベトナムへの越境潜入は、1961年に開始されたパラソル・スイッチバック作戦に始まります。作戦はアメリカ軍MAAGベトナムおよびCIAによって指揮され、ゴ・ディン・ジェム総統直属の特殊作戦機関『地理開拓局(後のLLĐB)』がその実行に当たりました。この作戦はコマンド隊員が北ベトナムまたはラオス領内にエアボーン降下で潜入した後、民間人に成りすまして敵支配地域内に長期間潜伏し、諜報および破壊活動を行うという大規模なスパイ工作でした。そのため潜入要員は南ベトナムから来た者だと悟られないよう北部出身のベトナム人はたはヌン族の兵士が選抜されました。
 ゴ・ディン・ジェム政権崩壊後の1964年、ベトナム共和国軍特殊部隊LLĐBの対外工作部門(第45室)はLLĐBから分離され、新たに参謀総本部直属の特殊作戦機関SKT(後のNKT)として再編されます。そしてそのSKT/NKTが行う対外作戦の立案・指揮をアメリカ軍MACV-SOGおよびCIAが担っていきます。以後、MACV-SOGが計画しNKTが実行した越境作戦は大きく分けて2系統ありました。

OP-34 / OP-36 ※1967年12月にOP-34からOP-36に改称
敵性地域内での直接的なサボタージュ工作。米軍SOG-36およびSOG-37が担当。作戦は任務によってさらに三段階に分類される。
・OP-34A / OP-36A: NKT沿岸警備局およびNKT第68群が実行。パラソル・スイッチバック作戦に続く長期または短期潜入・諜報・破壊工作。
・OP-34B / OP-36B: NKT第11群が実行。STRATA(短期監視・目標捕捉)チームによる機動的なロードウォッチ任務
・OP-34C / オペレーション・フォーレ: 心理作戦

OP-35
敵性地域への偵察、破壊活動。NKT連絡部『雷虎』と米軍SOG-35合同のC&C部隊が実行。



※以下は特殊部隊が実施した越境エアボーン潜入作戦の一部ですが、元が秘密作戦だけあって具体的な回数や細かい日付は把握できていないものが多いです。今後資料を見つけ次第加筆修正していきます。

日付:1961年から1964年にかけて複数回
降下部隊: 総統連絡部 地理開拓局北方部 第77群
作戦: パラソル・スイッチバック作戦
領域: 北ベトナム, ラオス
航空機: C-46輸送機

日付:1964年から1967年にかけて複数回
降下部隊: SKT第68群
作戦: OP-34A
領域: 北ベトナム, ラオス

日付:1968年から1973年にかけて複数回
降下部隊NKT第68群
作戦: OP-36A / エルデストサン作戦
目的: 敵の弾薬集積地に潜入し、敵の使う銃弾に爆発物を仕込んだ物を紛れ込ます事で、敵兵に自軍兵器への不信感を抱かせ戦意を削ぐ
領域: 北ベトナム, ラオス, カンボジア
航空機: C-130またはMC-130輸送機
降下方法: 夜間HALO

日付: 1970年11月
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, CCN,  チーム・フロリダ
作戦: OP-35
兵員: 9名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法: 高度6400mより夜間HALO

日付: 1971年2月
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, CCN,  チーム・アラスカ
作戦: OP-35
兵員: 9名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法: 高度6400mより夜間HALO

日付: 1971年4月15日
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, 第1強襲戦闘団, チーム・ワンゼロ
作戦: OP-35
兵員: 4名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法:  高度6400mより夜間HALO

日付:1970年から1971年にかけて13回
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, C&C部隊
作戦: OP-35
領域: 北ベトナム, ラオス, カンボジア
降下方法: スタティックラインジャンプ



おまけ

▲一昨年カリフォルニアでお世話になったレ・ホアン少尉の、
STRATA時代(当時19歳)の写真。

なんか面白い銃持ってますね。


(再現図)

発想としてはシンプルだけど、意外なほど今まで見た事ないパターンだったので目からウロコです。
  


2016年11月15日

ベトナム共和国軍特殊部隊キャンプ



手持ちの資料を全てまとめた特殊部隊キャンプのリストを作成中。
まだまだ?マークが多いです。悔しい。いつか全ての空欄を埋めてやる・・・。

     

 色分けは、黄色がCIDG計画の中核でありながら、なぜか戦後のマニアからガン無視され続けるCSF (Camp Strike Force: キャンプ駐屯のストライクフォース)。ベトナムに派遣されたグリーンベレー隊員のほとんどはこのCSF付きアドバイザーだったのにね。
 青がCSFから発展した空中機動部隊MSF (Mobile Strike Force: 機動的なストライクフォース)。みんな大好き"MIKE Force (マイクフォース)"の事。実はCSFに比べて規模はかなり小さい。なお"C-1"~"C-5"という名称は5thSFGのCチーム(A~E中隊)の事なので、マイクフォースの部隊名として用いるのは不適当。
 橙色がLLĐB C5やNKT所属の偵察・コマンド部隊。多くはCIDG計画とは別に、ベトナム共和国軍の特殊部隊として創設された部隊なので、隊員はもともとLLĐBのキン族(ベトナム人)およびヌン族が主だった。(1960年代中盤、サイゴン政府とデガ・チャム族・クメール族などのFULRO系少数民族は内戦状態だった。) その後、60年代後半に米軍の仲裁で政府とFULROが部分的に和解し、さらにMSFの規模拡大によって空挺降下や偵察などの技能を持ったCIDG / DSCĐ兵士が増えると、米軍の意向で偵察・コマンド部隊にもFULRO系少数民族が加わる事となった。

 また一口に『キャンプ』と言ってもその種類は様々で、ベトナム戦争中にベトナム共和国軍およびその同盟軍が建設した防御拠点は以下に分類される。
・メインベースまたはベースキャンプ
・戦闘基地、前進作戦基地(FOB)、恒久着陸ゾーン
・射撃支援基地(FSB)
・特殊部隊キャンプまたはCIDGキャンプ
・フランス軍式要塞化陣地
・射撃支援パトロール基地(FSPB)、パトロール基地または前進射撃支援基地(FFSB)
・着陸ゾーン(LZ)
・戦略村
・夜間防御施設(NDP)

これらの内、今回表にまとめたキャンプは特殊部隊のメインベースおよびFOB、特殊部隊キャンプ、CIDGキャンプであり、それぞれの定義は概ね以下の通り。

メインベースまたはベースキャンプ
大規模な恒久施設からなる要塞化されたエリアのことで、飛行場を併設している。特殊部隊ではサイゴンのLLĐB/NKT本部、ニャチャンの5thSFG本部、およびLLĐBのC司令部(USSF Cチーム)が置かれた基地などがこれに当たる。

前進作戦基地(FOB)
メインベースを小型化したものだが恒久的な要塞化された防御陣地が付属しており、少なくとも滑走路が付属している。特殊部隊ではNKT連絡部コマンド"雷虎"のFOB 1~FOB 6や、MSFにおいて複数のFOBが建設された。

特殊部隊キャンプおよびCIDGキャンプ
FOBよりも小型であるが、恒久施設が存在する。通常、ヘリコプター用の着陸ゾーンはあるが固定翼機用の滑走路は無い。ベトナム、アメリカ軍の特殊部隊分遣隊Aチームが常駐し、その指揮下で1個大隊規模のCIDG / DSCĐ部隊が駐屯している。その周辺には兵士の家族用の住居も併設されている。

出典: 要塞戦記: ヴェトナム戦争アメリカ軍ファイヤーベース PART.1, 秋田郁夫, wardroom, 2011年



おまけ: 越米特殊部隊司令部スタッフ


LLĐB本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀本部内, 1968年8月)
5thSFGA司令ハロルド・アーロン大佐(左手前)とLLĐB司令ドァン・バン・クアン少将(右手前)


SKT本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀本部内, 1966年)
SKT司令チャン・バン・ホー大佐(中央左)と、MACV-SOG司令ジョン・シングラウブ大佐(中央右)


NKT本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀総本部内, 1970-1972年)
MACV-SOG司令ジョン・サドラー大佐(左端)と、NKT司令ドアン・バン・ニュー大佐(右端)
  


2016年10月15日

NKT雷虎について

NKTおじさんの戦友で元雷虎隊員のダニエルおじさんから聞いた話をご紹介します。

ダニエル・フォーこと、フォー・ズン氏。米国で開催されたNKTベテランの集会にて。
ベトナム戦争時代、ズン氏はベトナム共和国軍の特殊作戦機関"NKT(技術局)"内のコマンド部隊"雷虎(Lôi Hổ)"に所属していました。


ズン氏が1960年代末に所属していたNKT連絡部"雷虎" CCNの偵察チーム(RT)ダコタ。1968年9月18日
上段右から2番目がズン氏。バンダナを巻いた2名の白人がチームを指揮するアメリカ軍SOG-35 CCNの隊員。

NKTと雷虎の歴史についてはこちらも参照


タイガ:
雷虎の隊員はLLĐBからNKTに編入されたのですか?また他の部隊から移ってきた人も居ましたか?

フォー・ズン:
雷虎がSOGの指揮下にあった1966年から1970年頃にかけては、LLĐB出身もいるし、空挺師団出身も確か居たよ。
その後、1970年末にLLĐBが解散すると、プロジェクト・デルタのチームがNKTに編入されたんだ。
(その為NKT内に連絡部に加えて作戦部"黒龍"が編成されNKTは規模を拡大した)
またSCU(Special Commando Unit)として知られるSOG指揮下のヌン族、モンタニヤード、クメール族、ベトナム人で構成された民族別チームも、1970年から1971年にかけてベトナミゼーションの一環として雷虎に再統合されたよ。
ただし全てのSCUが雷虎に移った訳ではなく、一部は故郷に帰って陸軍一般部隊に加わったようだ。
共にSOGチームとして戦ってきた勇敢な男たち(SCU)が加わったことで、雷虎チームはより精強になったよ。
しかしSOGから特殊作戦の全権を引き継いだNKTは、これまで以上に危険な任務に挑む事になったんだ。

この写真を見てくれ。左の男は雷虎に編入されたSCU隊員で、ユニフォームに雷虎の部隊章とAIRBORNEタブを着けている。
多分彼はCCCかCCS所属のジャライ族とかのモンタニヤードか、クメール族だ。
第3軍団のQuảng LợiかLộc Ninhでの写真だったと思う。

タイガ:
SOGは日本のミリタリーファンの間でも有名ですが、残念ながら実際にチームを構成していた雷虎やSCU、そしてNKTの存在についてはまだまだ知られていません。
ちなみに、あなたの写真(上のRTダコタの写真)を私のブログに載せていいですか?

フォー・ズン
私のチームの写真は、すでに誰かに右側の文字の部分を切り取られてインターネットで転載されているようだね。
フェイスブックでこの写真をプロフィール画像にしているベトナム人の若者を見るよ。ハハハ
でも私は気にしていないよ。些細な事さ。
しかし、(インターネットで)この写真がSEALとして紹介されているのを見付けた時は困ったよ。
似たようなものに見えるかもしれないけど、違うんだよ。
SEALは顔を緑に塗るし、ライフジャケットと1・2日間の作戦用のデイパックしか身に付けない。
SOGは顔を黒に塗り、ロープを携帯し、5日間の作戦用にバックパックを背負うんだよ。

私たちを指導したMACV-SOG(SOG-35)の隊員たちは軍服の左胸ポケットに雷虎の部隊章を付けていたよ。
奥のNKT連絡部所属者はSOGとの調整役だった。

その後、1970年から1973年にかけてベトナミゼーションが進行し、SOGがベトナムから撤退する過程で、雷虎CCNは第1強襲戦闘団(Chiến Đoàn 1 Xung Kích)へと改編された。CCC、CCSも同様に第2、第3強襲戦闘団として再編されたよ。
同時に、SOG-35もSMAG (Special Mission Advisory Group)へと改称され、引き続きNKT連絡部と共に作戦の指揮を執っていたよ。

タイガ:
"雷虎"は、連絡部本部勤務者も含むのですか?それとも前線のコマンド部隊のみを指すのですか?

フォー・ズン
雷虎の公式な組織名が連絡部(Sở Liên Lạc)だよ。しかし敬意をこめて、いまだに雷虎の名で呼ばれているのさ。
ちなみにこれはNKT訓練センターのSOGアドバイザーチームが写っている写真だよ。

タイガ:
この服のレプリカ持ってますわ。

フォー・ズン
私はこれと似た服を着ていたけど、袖と脚にコンパスやタバコを入れる小さいポケットが付いていたよ。
CISOや沖縄メイドと呼ばれるやつさ。

タイガ:
これですか?

フォー・ズン:
そう!まさにその服を着ていた。
また、作戦時は時々、スプレーで迷彩を描く代わりに、この服を黒く染めたものを着ていたよ

▲作戦中のズン氏(右)

▲同じくズン氏。1970年以前、クアンチ省DMZ/ニッケル・スチールOA付近にて
黒染めのCISOファティーグを着て、顔をまっ黒に塗っている。

日本・沖縄のCISOから送られてくるMACV-SOG向けの装備は、まず最初にダナンのCCNに届くんだよ。
だからCCNは他のC&C部隊の装備を真似する必要はなかった。
我々CCNはC&C兄弟のお兄さんだったんだ。へへへ

これはダナン市ノンヌックにあったCCN FOB4の偵察チームの写真だけど、この中共式AKマガジンポーチをよく見てくれ。一つのポケットにマガジンが2本入るよう厚くなっていて、スナップボタンで留めれるようになっているんだよ。
あと、チームリーダーだけは新品のXM177を持ってるけど、あとのメンバーはみんな収縮式バットストックをM16の固定式に変えてある。
これらの装備は全部日本・沖縄のCISOから送られてきた物さ。

当時、一部の人はCCNの"North"を"North Vietnam"の事だと思い、我々が北ベトナム領内に駐屯していると勘違いしたんだ。
実際は南ベトナムの北部、DMZの南側およびラオス中部国境の辺りだよ。"ニッケル・スチール・オペレーション・エリア (Nickel steel OA)"ってやつさ。
なので我々CCNのチームは1971年に開始されたラオス侵攻作戦"ラムソン719"に先駆けて、1970年12月から1971年1月までラオス領内に先行して潜入していたよ。
CCCはベトナム、ラオス、カンボジア三角国境あたりだね。

これは君の写真だね?


タイガ:
はい、そうです。本物の雷虎隊員に見られるのは恥ずかしいですが。へへ

フォー・ズン:
私があの部隊を愛しているように、君もあの部隊を愛してるという事さ。
恥ずかしがる事はないよ。

私が知っている範囲で君に言える事は以上だよ。はっきりとした答えを探すには時間と手間がかかるよ。
その人が経験した活動や条件によって見解は異なるからね。ハハ
何が言いたいかというと、私は一介の兵士に過ぎないという事さ。私はただ訓練された事をやっていただけだよ。
ただ一つ言えるのは、私たちの活動は、君たちの活動(リエナクト)よりもずっと陰惨だったという事さ。
タイガ:
ありがとうございます。大変勉強になりました。


【あとがき】
以前ちょっと書きましたが、このダニエルおじさんの妹さんが東京都内でベトナム料理レストランを経営しているので、以前食べに行ってご挨拶させていただきました。
その妹さんが先日、誕生日を迎えたので、彼女のフェイスブックには日本で知り合った友人やお客さんたち(主に中年の主婦)から沢山のおめでとうコメントが寄せられていましたが、その中に混じってダニエルおじさんやNKTおじさん等NKTベテランたちのコメントが並んでいました。
日本の主婦と、20世紀を代表する特殊部隊の兵士たちが同じ場所で話している光景はなかなかシュールで、つい笑ってしまいました。
しかし少し見方を変えると、彼ら特殊部隊員もまた家族を思いやるごく普通の人間であり、戦争さえなければ人を殺すという経験をする事も、故郷を捨ててアメリカに亡命する事もなかったはずです。
私はマニアとして彼ら軍人に対しカッコいいという憧れを抱いてしまいますが、同時に人間としては、人生から取り返しのつかない大きなものを失ってしまった人たちなのだと、時々思い起こされます。
  


2016年06月04日

CIDG計画の組織

関連記事: CIDGの人々

 ベトナム戦争時代、米軍グリーンベレーがベトナム共和国領内に住む少数民族や少数宗教軍閥に軍事教練を施し戦力として活用した『CIDG計画』の存在についてはマニアの間では割と知られた話だと思います。しかし、その運営実態については日本はおろか米国でも長年(たぶん意図的に)誤解を招く書かれ方をされていると感じています。
 その最たる例が、ベトナム共和国軍の特殊部隊であるマイクフォースやコマンド雷虎が、当たり前のようにアメリカ軍特殊部隊として書かれてしまっているという点で、これは大変な誤解です。確かにベトナム共和国軍特殊部隊の組織・ノウハウが発展途上であった1960年代においては、CIDG(越語: DSCĐ)部隊の指揮・運用の大部分を米軍グリーンベレーやMACV-SOGが担っていました。しかし彼らはあくまでベトナム共和国軍部隊運用支援を目的としたアドバイザー(軍事顧問)部隊であり、組織としてはCIDG兵士が所属する部隊は全てベトナム共和国軍の所管でした。つまり端的に言うと、マイクフォース(CIDG)にアメリカ人は一人も居らず、MACV-SOG(アドバイザー)にモンタニヤードは一人も居なかったのです。
 まぁ普通に考えても、アメリカ人がベトナムの少数民族兵になる事はないし、逆にアメリカ合衆国市民でない者がアメリカ軍人にはなれませんよね。これは単に、その部隊をどの国のものと捉えるかという言葉の定義の問題かも知れませんが、そこをはっきりさせない限り永遠に誤解し続ける事になります。
 という訳で今回はCIDG計画の組織について、僕なりにまとめました。


CIDG計画の基本構造

 そもそもCIDG計画はベトナム共和国の民間人に軍事教練を施し村落を武装化する(=不正規民間防衛隊)が目的であったため、1961年の計画開始当初から米軍グリーンベレー(第7および第1特殊部隊群)はベトナム共和国軍特殊部隊(地理開拓部。後のLLĐB)を支援する形でベトナム側と共同で運営に当たりました。
 最初に編成されたCIDG部隊はCSF (Camp Strike Force)で、1970年の計画終了までCIDG兵士の大半が所属する大規模な組織でした。このCSFはラオス・カンボジア国境を中心に全国に80カ所以上設置された特殊部隊キャンプに駐屯する歩兵部隊であり、ラオス・カンボジア領内のホーチミントレイル経由で侵入する共産軍を監視・撃退する事が主な任務でした。また同時に、兵士の家族を含む国境周辺の村落の住民をまるごとキャンプ内に移住させる事で戦略村(Strategic Hamlet)を構成し、住民と共産勢力との接触を避け、共産勢力の拡大阻止と住民の保護が図られました。


 その後、アメリカ・オーストラリア軍がベトナム戦争への介入を本格化させると、LLĐBは1965年にCIDG計画担当部隊の編制をグリーンベレーの編成に合わせてA, B, Cチームという三段階に改編し、米・豪軍との連携強化を推し進めます。


 また1966年には従来のCSFにエアボーン・ヘリボーン作戦能力を付加した空中機動部隊MSF (Mobile Strike Force / マイクフォース)の編成が始まり、CIDG部隊の役割は大きく拡大していきました。CIDG計画の中核を成すCSFはあくまで国境地帯の防衛を目的とした守備部隊でしたが、新設されたMSFは逆に常に攻撃任務に投入される強襲部隊であり、ベトナム共和国軍だけでなく米軍をはじめとする同盟軍の一般部隊が行う作戦へも増援として派遣されました。


 なお、資料によってはCIDG部隊を指して"C-〇"や"A-〇〇〇"という呼称が使われる事がよくありますが、実はこれらはそのCIDG部隊を担当する米・豪軍の軍事顧問チーム名であり、本来的にはCIDG部隊を指す呼称ではありません。CIDG部隊は米軍内の組織ではなくあくまでベトナム共和国軍の一部門であり、それぞれの部隊は独自の部隊名・番号を持っています。またLLĐBはグリーンベレー同様A, B, Cチーム編成となりましたが、そのチーム番号はグリーンベレーと異なる独自の編成となっています。現在私が確認している各LLĐB分遣隊は以下になります。

【CIDG部隊と担当LLĐB・グリーンベレーチームの例
Chi Linh CSF (LLĐB A-162, USSF A-333)
Tây Ninh CSF (LLĐB B-15, USSF B-32)
Đức Hòa CSF (LLĐB 第375中隊, USSF A-325)
第1軍団MSF, Da Nang (LLĐB B-21, USSF B-16)
第3軍団MSF, Long Hai (LLĐB B-36, USSF B-36)
第4軍団MSF, Can Tho (LLĐB B-19, USSF B-40)
第5MSF, Nha Trang (LLĐB B-22, USSF B-55)
第1MSF大隊, 第5MSFC (LLĐB 第522中隊, A-503 USSF)
これらはほんの一例ですが、LLĐBのチーム名に関する資料は少なく、まだこれだけしか把握できていません。またLLĐB側はAチーム(分遣隊)ではなく中隊がCIDGキャンプに駐屯する場合もあります。

【CSFの例】
看板中央がキャンプ地、つまりCSF大隊の部隊名を示しており、この部隊の名前は"Chi Linh" CSFとなります。次に看板左右の文字が、この部隊を担当するアドバイザー部隊の名称で、米/豪軍側が"A-333 / Co.A 5th SFGA (第5特殊部隊群A中隊=C-3)"。またA-333の上層はB-33 / C-3 / 5th SFGAという構成です。ベトナム軍側は"A-162 / BCH C3 LLĐB (特殊部隊C3司令部)"となります。

【MSFの例】
MSFはCSFと指揮系統が異なり、部隊名はキャンプ地名ではなく、"第1MSF大隊 / 第5MSFC (MSF司令部)"になります。米/豪軍チームはCSFと同様に"A-503"、上層は B-55 / C-5 / 5th SFGAという構成ですが、ベトナム軍側は"第522中隊"、上層はB-22 / BCH C5 LLĐBとなっています。

【第36MSFC(=第3軍団MSF)の例】
▲理由は不明ですが、なぜか第3軍団MSFだけはグリーンベレーとLLĐBのチーム番号が同じです。



偵察部隊におけるCIDG兵

 上記のCIDGキャンプに駐屯する部隊(CSFおよびMSF)とは別に、米越軍特殊部隊が共同運営する偵察部隊に在籍するCIDG兵士も存在しました。偵察部隊には大きく分けて二つの系統があり、一つが"ギリシャ文字系プロジェクト(オメガ・デルタ・シグマ・ガンマ作戦)"で、グリーンベレーC-5およびLLĐB C5司令部が合同指揮する国境パトロール部隊として主にベトナム領内のホーチミントレイル捜索の任に当たりました。もう一つがSOG-35およびNKT(技術局)連絡部が合同指揮するOP-35(C&C部隊)で、越境作戦のみを担当し、国境を越えてラオス、カンボジア領内への潜入偵察作戦を実行しました。
 ただし、これら偵察部隊には戦闘能力だけなく高い知識と技術が求められる事から、人員の大多数は高度な訓練を修了した正規のベトナム人特殊部隊員でした。一方、元々民間人である(しかも政府の人種隔離政策によって初等教育すら十分に受けられていない)CIDGが受けている軍事教練は、米・越軍一般兵の水準よりも低い簡易な歩兵戦闘訓練のみである為、偵察部隊に配属されるCIDG兵はMSFで経験を積み、その中から選抜され特に優秀な者に限られていました


なおOP-35は各C&C司令部(CCN, CCC, CCS)によって編成が大きく異なります。


 各ギリシャ文字系プロジェクト内には通常の偵察小隊に加えて"ロードランナー"チームが編成されました。ロードランナーは敵である共産軍の装備を身にまとって敵支配地域に潜入し情報収集を行うという危険な任務を遂行する部隊で、ベトナム人(LLĐB)のチームに加えて、CIDG兵で構成されたチームも存在しました。またC&Cでもベトナム人(コマンド雷虎)のチームと、CIDG兵で構成された偵察チームが混在していました。
 ただし、NKTもLLĐBもCIDGも同じベトナム共和国軍部隊である事から、アメリカ軍が作成した公式資料ではベトナム人と少数民族を区別せずまとめて"Vietnamese"と記している場合が多いため、どのチームがどの人種だったかははっきりしない部分が多いです。


CIDG計画終了後

 アメリカ軍のベトナム撤退に伴うベトナム共和国軍への業務移行、いわゆる『ベトナミゼーション政策』が始まると、米軍グリーンベレーが主導してきたCIDG計画は1970年に終了し、全てのCIDG兵士は他のベトナム共和国軍部隊に編入される事となりました。
 CIDGで最も人数が多いCSFは陸軍のレンジャー部隊(BĐQ)に編入され、1970年後半から1971年の始めにかけてキャンプ毎に国境レンジャー大隊(BÐQ Biên Phòng)として再編されました。国境レンジャーはその後、1970年のカンボジア進攻(トゥアンタン42作戦)や翌年のラオス進攻(ラムソン719作戦)などにおいて強襲部隊として最前線に投入され、ベトナム人司令官の指揮下で大きな戦果を残すともに、多大な損害を受け消耗していく事となります。



 一方、MSFやギリシャ文字系プロジェクトに所属していたCIDG兵はベトナム人特殊部隊員と比較しても遜色ないほどの高い戦闘能力を有していたことから、国境レンジャーとして消耗されることなく、長年共に戦ってきたLLĐB隊員たちと共にNKTに新設された作戦部(Sở Công Tác)に編入され、"コマンド黒龍"の一部として再編されました。




おまけ: 今年のアホカリの目標


上着なんて何でもいいから、とにかく褌をポチりましょう。


  


2015年11月04日

北米之旅二日目(その二) サンノゼ


サンフランシスコ観光を終えて、15時過ぎにホステル前で落ち合う約束をしていたレ・ホアン少尉と合流。車で一緒にサンノゼに向かう。

サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジを通る

実は今回のアメリカ行きに先立ち、NKTおじさんことファム・ホア少尉がNKTの戦友たちに声をかけ、北カリフォルニアで僕のお世話をして頂ける事になっていました。
レ・ホアン少尉はサンフランシスコ在住で、しかも奥様が日本語を話せるとの事で当初は一緒にサンフランシスコを案内して頂く予定でした。
残念ながら仕事の休み取れなかったので観光案内はなくなりましたが、それでもこの日は仕事場を抜けて、僕をサンノゼまで車で送り届けてくれたのです。ありがとうございます!

▲戦時中のレ・ホアン少尉(写真右側 1973年ケサン ラオス領内に出撃する際の写真)
元NKT作戦部第11グループ"STRATA(短期監視・目標捕捉)"所属

そして高速を2時間くらい走り、これからサンノゼで3日間お世話になるグエン・バン・フェップ少尉のお宅に到着。

グエン・バン・フェップ少尉(左)と、レ・ホアン少尉(右)
フェップ少尉は元NKT本部P3(作戦参謀室)所属で、ベトナム国家軍事アカデミー(VBQG)卒業生でもあります。
ホアン少尉は仕事があってすぐにサンフランシスコに戻らねばならなかったので、残念ながらここでお別れ。

 
ホアン少尉が帰った後、フェップ少尉宅に続々とNKTの戦友が集まりホームパーティーが開催されました。
左より トゥン・カーベイ氏(元NKT連絡"雷虎")、フェップ氏の奥様、チュン氏の奥様、チュン氏(元NKT作戦"黒龍"第75作戦グループ)、ヒュー氏(元NKT連絡"雷虎")

食事のあと、フェップ少尉が「今日は車でちょっと行った場所でもパーティーやってるよ」と言うので、そちらにもお邪魔させて頂きました。

北カリフォルニアCCS連絡会(元NKT連絡"雷虎"第3強襲戦闘団ベテラン)のホームパーティー。
分かり易く言うと、元MACV-SOG CCSの方々です。(※正確には米軍SOGはNKT付きのアドバイザー機関であり、C&C部隊はNKT雷虎(第1~3強襲戦闘団)で構成されていた)
普通は一般のアメリカ人すら立ち入れない内輪のパーティーに僕のような外国人が来てしまいどういう反応されるか心配でしたが、ホア少尉が事前に僕の活動を紹介するブログを立ち上げてくれていて、それをフェップ少尉がタブレットで皆さんに見せてくれたので、意外にもすんなり受け入れて頂けました。
そこにたまたま元NKT沿岸警備(※NKTの海上潜入作戦部門。SOG-37 / 米海軍SEALの作戦指揮下)の副指令(大佐)が居られたので、ご挨拶させて頂きました。
あとは、デロデロに酔っ払った元特殊部隊のじっちゃんに肩を組まれて、ずっと絡まれてました。僕に何かを熱く語ってくれたけど、呂律の回らないベトナム語まじりの英語なので何言ってるかさっぱり分かりませんでした。
おじいちゃん最後には仲間に両肩を抱えられて、迎えに来た家族の車に押し込まれてました。飲みすぎだよー
その後も(シラフの人間が少ないので)パーティー会場となったお宅の家族の方と一緒にテーブルの片付けとかを手伝ってたけど、帰り際に挨拶するまで、その方々はずっと僕のことを『日本から来た在日ベトナム人』だと思ってたみたいです(笑)

そして夜、フェップ邸に帰宅。

翌日のコンサートで身に付けるプレスカードを受領しました。
正式にプレス扱いされるなんて全然聞いてなかったので、ちょっと舞い上がりました。ちゃんとスーツ持ってきて良かった・・・。

この日は朝から船乗ったりベテランの皆さんと飯食ったり、いろんな体験をした一日でした。

  


2015年07月21日

帰国しました

サンフランシスコでジャンキーに絡まれたり、LAXでコンタクトの洗浄液没収されたり、飛行機の中で放屁が止まらなくなったりと色々ありましたが、無事日本に戻ってきました。

アメリカではホア少尉をはじめとする元ベトナム共和国軍人および関係者の皆さんには、お宅に泊めて頂いたりユニバーサルスタジオに連れて行ってもらったりと、何から何までお世話になりっぱなしでした。
私のような外国人をここまで暖かく迎えて頂けるなんて、本当に感謝してもしきれません。
今回アメリカで過ごした日々は、私にとって単なる趣味の延長を超えた、人生最高の旅となりました。
このご恩は一生忘れません。Cảm ơn nhiều!

お世話になった皆様

グエン・バン・フェップ少尉(左) 元NKT本部P3(作戦・訓練参謀室)
レ・ホアン少尉(右) 元NKT作戦第11グループ"STRATA(短期監視・目標捕捉)"
STRATA時代のホアン少尉(写真右側 1973年)


元NKTの皆様 左より
トゥン・カーベイ氏 元NKT連絡"雷虎"
タイガ
フェップ氏の奥様
チュン氏の奥様
チュン氏 元NKT作戦"黒龍"第75作戦グループ
ヒュー氏 元NKT連絡"雷虎"


元NKT沿岸警備副指令
および元NKT連絡"雷虎"第3戦闘強襲団北カリフォルニアCCS連絡会の皆様


トム・トラン氏 陸軍大佐(第21歩兵師団副師団長)のご子息


カン・ブイ氏 空軍大佐(ベトナム総統専用機の機長)のご子息


ウィリアム・ミミエイガ少佐 元アメリカ海兵隊第3海兵師団


ファム・ホア少尉 元NKT作戦"黒龍"チーム723


ヴゥ・フン少尉 元地方軍第4軍管区PRU



こうして見ると最終階級が少尉(Thiếu úy)の方が多いですが、これには訳があります。
まず、お世話になった方の多くが士官学校もしくはNKT配属時にホア少尉とほぼ同期(1972年前後)であり、だから今回ホア少尉の呼びかけで皆さんが僕をお世話して下さったという訳です。
また、本来将校は任官後も軍の様々な学校で教育を受けて昇進するそうなのですが、1970年代に士官学校を卒業したホア少尉ら若い将校は、戦況の悪化から常に前線で戦っていたため、新しい教育を受ける機会が無かったのだそうです。
さらに仮に教育を受けた者はすぐに大尉に昇進してしまうため、この年代の尉官は中尉が少なく、少尉のまま終戦を迎えた方が多かったのだそうです。なるほど~
  


2015年07月16日

ウェストミンスターにて

カリフォルニア州ウェストミンスターに位置する世界最大のベトナム移民街リトル・サイゴンにて、
ついに長年憧れていた僕のヒーロー、ファム・ホア少尉と、またホア少尉の親友のミミエイガ少佐ともお会いする事が出来ました。



左からご紹介します。

ウィリアム ”ビル” ミミエイガ氏
元アメリカ合衆国海兵隊少佐
悠々と葉巻をふかす姿は豪快で、それでいて優しさの溢れる、見事なまでにアメリカンヒーローを体現するお方でした。
(2015年10月25日訂正。詳細な紹介は『アンクル・ビル/モンスーン少佐』参照)


トム・トラン氏
ウェストミンスターで僕を案内してくれているベトナム共和国出身のおじさん。
トム氏のお父様はベトナム共和国陸軍第21歩兵師団の副師団長でしたが、1975年に共産政権に逮捕され強制収容所に10年間も投獄されました。(それでも病気を患った為、他の高級将校より数年早く釈放されたそうです)
父が囚われ生活の糧を失ったトラン一家は1982年にベトナムから脱出。タイ、フィリピンを経由して1983年にアメリカに定住されました。
トム氏は14歳で終戦を迎えたため軍隊経験はありませんが、お父様を初めとするベトナム共和国軍人を大変尊敬されてます。
またトム氏の息子さんは現在、大学でアメリカ軍のROTC(予備役将校訓練課程)を受講中です。


タイガ・クン
日本からやって来た性欲の奴隷。
ユニバーサルスタジオハリウッドのジェットコースター(ハメナプトラ)で、走行中恐怖のあまり「オマンコやらせろー!」と絶叫し続けたが、周囲にそのような極東の少数言語を理解できる者は誰一人居なかった。


ファム・ホア氏
元ベトナム共和国陸軍特殊部隊少尉。
人呼んでリトル・サイゴンのゴッドファーザー。
サングラスして黒塗りのメルセデスから出てくる姿はベトナム・ヤクザにしか見えない。
実際ホア少尉がアメリカに来た当初は、周りのアメリカ人から舐められないよう、上から下まで映画で見たイタリアンマフィアの服装を完コピして、内緒でピストルまで携帯してたそうです(笑)
でも実はベトナム語の他にフランス語、英語、スペイン語を話せて、しかも本業は世界規模の某有名企業に勤めるエリートエンジニアだということが今回発覚しました。端的に言うと、Windowsが生まれる前からコンピュータ開発に携わっていた人。
アメリカに来てからの話が面白過ぎて、つい戦争中の話を聞くのを忘れてしまいました。
過去記事参照


またこの日は、トムさん、ホア少尉と共に元PRUのホン少尉が経営するベトナム共和国軍専門軍装店へもお邪魔しました。
元共和国軍人および在米二世、三世のベトナム共和国市民向けにリプロ軍装を作成・販売するお店です。
マジで動悸息切れするくらい素晴らしい、夢の中にいるような気分になるお店だったので、後日詳しいレポートを書きます。
  


2015年01月23日

ホア少尉の写真

過去記事『NKTおじさん』参照


当ブログではお馴染み、『NKTおじさん』ことファム・ホア(Phạm Hòa)少尉について。
これまでも何度か氏の来歴をご紹介しましたが、今回は氏のブログに掲載されている写真をいくつかご紹介します。
(つまり勝手に転載してる形だけど、あの人も僕の写真やイラストを転載してるので、まぁいいかな~と)
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2014年04月19日

2014年04月16日

作戦記録:1974年4月13日

前記事『ベトベトしてきました』の続き
『ベトベトしま戦か?第17戦』二日目に我が隊が行った偵察作戦に関する記録、作戦の概要です。



(秘)作戦記録

1974年4月13日, ダナン, 統合参謀本部NKT作戦 第72作戦グループ チーム72×
コールサイン:ジェミニ

経過概要

添付1: 航空写真, 移動ルート1 (作戦情報情報室)
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2014年04月15日

ベトベトしてきました

先週の土日、『ベトベトしま戦か?第17戦』に参加してきました。
まずは21世紀の日本人としての感想を(笑)
僕自身はデジカメを持って行かなかったので、写真は全て頂いたものです。

『NKTおじ様が見てる』と題して南ベトナム軍NKT作戦部"黒龍"での参加を提案させて頂いたところ、
予想をはるかに上回る合計17名もの方に集まって頂けました!
おそらくナム戦イベントでこれだけNKTが集合したのは世界初です。
きっとホア少尉(NKTおじさんも)大喜びです。皆さんありがとうございました!

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2014年04月05日

NKT黒龍 ユニフォーム

パッチ等の縫い付け完了。今回は手縫いで、胸ポケットも使えるようになってます。
これにてベトベトで使う(コスプレ用)個人装備は準備完了です!

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2014年04月04日

XM177E2とM203


先日マルイのXM177E2のマガジンをアルマイト処理風に塗装しましたが、その時押入れ漁ってたら、だいぶ前にジャンクとして買ったM203グレネードランチャーが出てきました。
当初はこのランチャーの中にバンバン鉄砲(駄菓子屋で売ってるキャップ火薬のリボルバー)を仕込もうとして買ったのですが、現物見て諦めました。
何故ってこれ、トイテック製のガスガンだから、スライドバレル(ランチャーのハンドガード)が動かないんですね・・・(よく分からないでヤフオクで買ってしまった)
僕は実銃や今時のガスランチャーみたいにスライドバレルをオープンして、キャップ火薬を埋め込んだ40mmケースもしくはバンバン鉄砲のシリンダーをローディングできるようにしたかったので、この計画には使えないものでした。

しかし、ちょうど今回ベトベトの準備をしている時にこのランチャーを発掘したため、やっぱりコマンド(XM177E2)に付けたい衝動が。
だって今回やる『黒龍』って70年代に活動しただけあって、やたらM203の支給率高いんですもん。多分撤退した米軍の分が全部回って来たんだと思います。
なので、(電動ガンすら可動させる気が薄いので)この際ハリボテでいいからカッコつけに銃に取り付けてみました。
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2014年03月31日

NKT黒龍に向けて XM177E2


『ベトベトしま戦か?第17戦』
http://vietviet.nomaki.jp/ 

日時 平成26年4月12~13日
作戦地域 ベトナム共和国サ・ワラ地区(千葉県香取市『エリア51』)

【参照】
一緒に黒龍を演じて下さる方募集中!→ベトベトまであと1ヶ月!
NKTおよび黒龍の歴史→NKT・SOG 対外特殊作戦(4)
 
南ベトナム軍NKT作戦『黒龍(Hắc Long)』として参加する準備。その2はライフル編です。

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2014年03月24日

NKT黒龍に向けて 装備編

来月の『ベトベトしま戦か?第17戦』に向け、そろそろ準備始めようと思います。

http://vietviet.nomaki.jp/ 

日時 平成26年4月12~13日
作戦地域 ベトナム共和国サ・ワラ地区(千葉県香取市『エリア51』)


先日書いたように、僕は南ベトナム軍の対北工作機関NKTの『黒龍(Hắc Long)』というコマンド部隊で出たいと思います。
 
【参照】
一緒に黒龍を演じて下さる方募集中!→ベトベトまであと1ヶ月!
NKTおよび黒龍の歴史→NKT・SOG 対外特殊作戦(4)

このNKTの活動は当時からトップシークレットで、なおかつ敗戦でベトナム共和国という国家自体が消滅してしまったため、現在でも認知度は低いままです。
でもまぁ、“MACV-SOGが支援・指導する特殊作戦の実行機関”と言えばイメージしやすいかも知れません。
一番わかりやすいのはNKT連絡のコマンド『雷虎(Lôi Hổ)』ですかね。
雷虎はMACV-SOG内のSOG-35(Ground Studies Group)という部署と共同でC&C(Command and Control / OP-35)部隊を構成し、戦後も数々の研究者が書籍で紹介してきました。
一般にイメージされるSOGとは大体この部隊の事ですね。

では今回やるNKT作戦『黒龍』はというと、これもSOG-36(Airborne Studies Group)が支援するコマンド部隊で、主にラオス方面への潜入偵察を行う部隊でした。
ただし黒龍が編成されたのは1970年と比較的遅く、そこ頃にはベトナミゼーション政策が始まって米軍はベトナムからの撤退を始めていました。
当然米軍部隊であるSOGも規模を縮小し、SOG-36は訓練および本部でのアドバイザー業務のみを行い、SOG-35 / C&Cのように前線に出ることはありませんでした。
その為、南ベトナム兵のみで構成された黒龍チームは戦後もアメリカで紹介される機会は少なく、その活躍とは裏腹にいまだ無名な存在となっています。
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2014年03月13日

ベトベトまであと1ヶ月!

さぁ、関東最大のナム戦イベント『ベトベトしま戦か?』開催まで、残すところあと1ヶ月となりました!

http://vietviet.nomaki.jp/ 

『ベトベトしま戦か?第17戦』
日時 平成26年4月12~13日
作戦地域 ベトナム共和国サ・ワラ地区(千葉県香取市『エリア51』)


前回のベトベト第16戦では、南ベ好き仲間でベトナム共和国国家警察の野戦警察(CSDC)部隊を演じました。
野戦警察は暴徒鎮圧や都市警備を行う、南ベトナム警察の機動隊のような組織です。

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2014年03月04日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[4]

※2016年11月7日訂正・更新


 1970年以降、NKTは連絡部(雷虎)と作戦(黒龍)の二つのコマンド部隊を主力とし、ベトナム・ラオス・カンボジア国境三角地帯の南側を連絡部が、北側を作戦部がその管轄した。彼らは通常の偵察・情報収集に加えて、通信傍受、捕虜捕獲、道路爆破、そして航空・砲兵射撃への直接目標指示などの訓練を受けていた。1971年2月、NKTはベトナミゼーションに従い大規模な再編成が行われた。 拡大したNKTは本部、訓練センター、3個の支援部隊、そして6個の戦闘部隊からなる。()内は本部所在地

NKT本部(サイゴン・統合参謀本部内)
作戦情報(NKT本部内)
需品管理(NKT本部内)
心理戦(NKT本部内)
連絡(サイゴン)
作戦(ニャチャン/ダナン)
航空支援(ニャチャン)
沿岸警備(ダナン) 
クェッタン/イェンディ訓練センター(ロンタン)

 
NKTの最終的な編成(1973年) 右は原文
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2014年02月04日

リトルサイゴン☆テトパレード

 お伝えしているように日本でもベトナム系住民によってテトの祭が開催されましたが、国外ベトナム人コミュニティの本場である米国カリフォルニア州ウェストミンスターのベトナム人街『リトルサイゴン』でも毎年、地域住民やアメリカ各地のベトナム系市民が集まり、盛大なパレードが行われています。ウェストミンスターはベトナム戦争後、共産政権による弾圧から逃れるため国外脱出した南ベトナム難民が多く移り住んだ街で、今日ではアメリカにおける南ベトナム系移民文化の中心地として賑わっています。そして今年もテトパレードが2月1日に開催されました。

開催日:2014年2月1日
主催:南カリフォルニア ベトナム系アメリカ市民連合会(The Vietnamese American Federation of Southern California)
イベント趣旨:「代々受け継がれてきた民族の伝統と価値観を共有し、ベトナム系アメリカ市民コミュニティの結束を示す」パレード実行委員長ニール・グエン

この様子は元南ベトナム軍NKTファン・ホア少尉(名付けてNKTおじさん)のチャンネルで公開されているのでご紹介します。

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