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2017年07月30日

続・マイクフォースのパッチについて

過去記事『マイクフォースのパッチについて』の後、いろいろ新たな発見があったので、内容を改訂したものをここに掲載します。


各パッチの使用例

【黒い鳥】

I Corps MSFのみで確認

I Corps MSF (1st MSFC 第113MSF中隊)



【ドラゴン】

II Corps MSFで確認
IV Corps MSFでも使用という情報あり

▲II Corps MSF (2nd MSFC)

IV Corps MSFでの使用例については写真では確認できなかったものの、
元グリーンベレー隊員のRichard Hayse氏より、
「ドラゴンの部隊章は最初IV Corrps MSFで採用され、
後にII Corrpsに受け継がれた」
と指摘を頂きました。



【ジョリーロジャー】

II, III, IV Corps MSFの三部隊で確認

 
▲II Corps MSF (USSF B-20分遣隊)

▲III Corps MSF (3th / 36th MSFC )

 
▲IV Corps MSF (4th / 40th MSFC エアボート中隊)



柳葉刀と稲妻】

IIIV Corps MSFおよび5th MSFの三部隊で確認

▲II Corps MSF (2nd / 20th MSFC 第4MSF大隊)

▲IV Corps MSF (4th / 40th MSFC エアボート中隊)

▲5th MSF (5th MSFC)
※5th MSFではベレー章としての使用のみ確認



【柳葉刀・稲妻・石弓】

5th MSFのみで確認

▲5th MSF (5th MSFC)


以上の使用例を踏まえた上で、全国で組織されたMSF(マイクフォース)の組織およびパッチの使われ方を図にまとめると以下になります。

▲クリックで拡大


このように、長年マニアの間で信じられてきた、各部隊章は「C-1~C-5/第1~第5マイクフォースに対応している」という説は誤りであったことが分かります。
通常、一つのデザインの部隊章は一つまたはその直系の部隊でのみ使用されるものですが、なぜマイクフォースでだけこのように複雑な使われ方をされていたのでしょうか?
その理由について、個々の事例については当事者に確認するまで断言はできませんが、一般論として、『部隊の異動』が大きく関係していると僕は考えています。
そもそもマイクフォースは最初から予定されて全国で一斉に編成された部隊ではありませんでした。1961年以降、CIDG計画によって全国に数十の特殊部隊キャンプが建設され、それぞれのキャンプに、後にキャンプストライクフォース(CSF)と呼ばれるCIDG歩兵部隊が編成されます。このCSFは国境地帯の防衛、パトロールを主任務とする守備部隊であり、移動手段は主に徒歩もしくはトラックしかありませんでした。
その後、CSFの一部にヘリボーンやエアボーンといった専門技能を教育し、攻撃任務に適した機動部隊として1964年に第2戦術地区に誕生したのが"イーグルフライト小隊"です。このコンセプトはMACVに高く評価され、以後全国に順次MSF(マイクフォース)が編成されていきます。
そして当時、各CSF、MSFはアドバイザーである米軍グリーンベレーおよび豪軍AATTV分遣隊の指揮下(※)にあり、部隊の編成や部隊章は彼等アドバイザーが決めていました。またこの時期、これら分遣隊は一般部隊と比べてはるかに人数が少ないため、彼等は一つのキャンプを構築し部隊を訓練し終えると、また次のキャンプに異動して同じように部隊を組織するとう作業を繰り返していました。また、編成されたMSF部隊自体も、配置換えで移動する事が度々ありました。
この際、異動する先は同じ省や戦術地区内とは限らず、要請に応じて別の戦術地区に移動する事もよくあります。そしておそらく彼等は、先に制定したMSFの部隊章を、異動した先でも使っていたのではないかと私は推測しています。つまり、これら部隊章は第1~第5MSFという分類で制定したものではなく、彼等を指導したアドバイザー分遣隊や、他の地域から異動してきたMSF部隊によって、MSF大隊・中隊毎にもたらされた考えれば、いくつもの部隊章が複数の軍管区にまたがって使われていた事にも説明がつくかと思います。

※形式的な指揮権は当初からベトナム共和国軍LLDBにあったものの、ベトナマイゼーションが開始される1968年までは、作戦計画や予算の面では、CIDG部隊の運営はほとんど米豪軍に依存している状態でした。


また繰り返しになりますが、そもそもマイクフォースをC-1~C-5と呼ぶ事自体が間違いだと考えます。C-1~C-5の"C"は"Corps (軍団)"の略ではなく、米軍グリーンベレーおよびベトナム軍LLDBの"Cチーム"を意味していました。実際にはCチームの下位にあるBチームのうちマイクフォースを担当しているのは各Cチームにつき1チーム(つまり全国で5チーム)のみで、他の数十のBチームはCSFや訓練センターなどの、マイクフォース以外の部隊を担当していました。

関連記事



おまけ: MSFCの名称について

上の図のように、第1~第4軍団MFSおよび第5MSFにはそれぞれ1つのMSFC(連隊規模のMSF司令部)が設置されており、米豪越特殊部隊の指揮下で作戦を遂行していました。しかしそのMSFCの名称については、以前から不思議に思っていた事がありました。
と言うのも、各MSFCはベトナマイゼーションの開始に伴い1968年5月に改編され、それぞれグリーンベレー分遣隊の部隊番号を受け継いだ部隊番号に改称された事がMobile Strike Forces in Vietnam 1966-70など複数の資料に記載されています。
しかし、どうもこの改称については米軍内でも徹底されていなかった、もしくは改称された事すら認識されていなかったように見受けられます。

例えばマイクフォース最精鋭部隊として知られる第5MSF(ニャチャン・マイクフォース)の"5th MSFC"は、"55th MSFC"に改称されました。

このように、司令部の看板は確実に55th MSFCに変更されています。

しかしその一方で、現場のアメリカ兵が書いたFSBの看板には、改称から2年以上たった1970年以降も"5th MSFC"と記載されています。

また、現在のアメリカ陸軍の公式サイトや、退役軍人協会の公式サイトにも、"55th"ではなく"5th MSFC"と記載されています。
同様に1st~4th MSFCもそれぞれ16th, 20th, 36th, 40th MSFCに改称されているのですが、多くの資料に改称前の部隊名のまま記載されています。
恐らくこれは、MSFCが改称された後も全体の部隊名としては1st~5th MSFが使用され続けた事から当時から"MSF"と"MSFC"が混同されており、改称後のMSFCの名称が使われる機会が少なかった為に生じた誤解ではないかと思っています。  


2017年01月09日

ベトナム空挺の降下作戦1955-1975

 先日ジャンクションシティー作戦について記事を書きましたが、ジャンクションシティー作戦と言えばベトナム戦争中アメリカ軍が行った唯一のエアボーン作戦として有名ですよね。一方、第1次インドシナ戦争中に40回以上のエアボーン作戦に参加していたベトナム空挺部隊(フランス植民地軍時代含む)は、ベトナム戦争においても度々エアボーン作戦を実施していました。以下は1955年から1975年までにベトナム共和国軍が行ったエアボーン作戦の概要です。


ベトナム共和国軍空挺部隊のエアボーン作戦

空挺部隊が降下した地点
黒が陸軍空挺部隊(Binh Chủng Nhẩy Dù)
青がマイクフォース(Lực lượng xung kích cơ động)

 ヘリコプターの性能向上によってヘリボーンによる迅速な展開・強襲が可能になったことから、第1次インドシナ戦争期と比べるとエアボーン作戦の回数はかなり少なくなりましたが、それでも大規模な戦闘降下作戦は少なくとも13回は実施されたようです。
 なお、マイクフォースは特殊部隊の指揮下にありましたが、マイクフォース自体は小人数で偵察や破壊工作を行うコマンド部隊ではなく、中隊規模以上の戦力でエアボーンまたはヘリボーンによる強襲を行大規模な空中機動部隊でした。

日付: 1955年9月23日・24日
降下部隊: 空挺群
目的: ビンスェン派の掃討
領域: ベトナム共和国ジアディン省ズンサック

日付: 1962年3月5日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 守備隊の支援
領域: ベトナム共和国タイニン省ボートゥック

日付: 1962年7月14日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 待ち伏せ攻撃の支援
領域: ベトナム共和国ジアディン省サイゴン北部

日付: 1963年1月2日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 第7歩兵師団の支援(アプバクの戦い)
領域: ベトナム共和国ディントゥオン省アプバク

日付: 1965年8月3日
降下部隊: 空挺旅団
目的: ドゥッコー特殊部隊キャンプ奪還の支援
領域: ベトナム共和国プレイク省ドゥッコー

日付: 1965年11月
降下部隊: 空挺旅団
目的: 解放戦線部隊への強襲
領域: ベトナム共和国ビンディン省アンケー

日付: 1966年3月3日
降下部隊: 空挺師団
目的: 敵部隊への強襲
領域: ベトナム共和国フーイェン省ソンコウ

日付: 1966年12月27日
降下部隊: 空挺師団
目的: 解放戦線支配地域中心部の強襲
領域: ベトナム共和国チュンティエン省

日付: 1967年4月2日
降下部隊: 特殊部隊第5MSFC(第5マイクフォース), 第1MSF大隊, 第2・第3中隊
作戦: ハーヴェスト・ムーン作戦
兵員: 356名
領域: ベトナム共和国クアンドゥック省
降下地点: Bu Prang CIDG訓練キャンプ
航空機: C-130輸送機
降下方法: 昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ

日付: 1967年5月13日午前6時
降下部隊: 特殊部隊第5MSFC(第5マイクフォース), 第1MSF大隊, 第3・第4・第5中隊および4.2インチ迫撃砲小隊
作戦: ブラックジャック作戦
兵員: 486名
領域: ベトナム共和国チャウドゥック省バイニュー
降下地点:バイニュー付近の水田
降下方法:  昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ, 高度200mより水田上に降下

日付: 1967年10月5日
降下部隊: 特殊部隊第2MSFC(第2軍団マイクフォース)第2MSF大隊, 第24中隊・第25中隊
作戦: ブルーマックス作戦
兵員: 250名
領域: ベトナム共和国クアンドゥック省
降下地点: Bu Prang CIDG訓練キャンプ
降下方法:  昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ

日付: 1968年11月17日
降下部隊: 空挺師団
目的: 特殊部隊による掃討作戦の支援
領域: ベトナム共和国チャウドゥック省バイニュー

日付: 1972年5月4日
降下部隊: 空挺師団
目的: 進軍ルート(チューパオ・パス)の確保
領域: ベトナム共和国コントゥム省チューパオ


ベトナム共和国軍特殊部隊の越境エアボーン潜入作戦

▲NKTのコマンド部隊がエアボーンによって潜入した地点
北ベトナム領だけで少なくとも30カ所に上る。(南カリフォルニアNKTアソシエーション資料より)

  特殊部隊が敵地に潜入するために行う小人数のエアボーン降下は、空挺部隊が行ったものよりもはるかに多くの回数が実施されました。また潜入のための降下作戦は、低高度を飛行する輸送機から順に飛び出す通常のスタティックラインジャンプだけでなく、潜入作戦という都合上、より隠密性を高めるためにHALO(高高度降下低高度開傘)を、しかも夜間に行っていた点が通常の空挺部隊とは大きく異なっていました。
 ベトナム共和国軍特殊部隊による北ベトナムへの越境潜入は、1961年に開始されたパラソル・スイッチバック作戦に始まります。作戦はアメリカ軍MAAGベトナムおよびCIAによって指揮され、ゴ・ディン・ジェム総統直属の特殊作戦機関『地理開拓局(後のLLĐB)』がその実行に当たりました。この作戦はコマンド隊員が北ベトナムまたはラオス領内にエアボーン降下で潜入した後、民間人に成りすまして敵支配地域内に長期間潜伏し、諜報および破壊活動を行うという大規模なスパイ工作でした。そのため潜入要員は南ベトナムから来た者だと悟られないよう北部出身のベトナム人はたはヌン族の兵士が選抜されました。
 ゴ・ディン・ジェム政権崩壊後の1964年、ベトナム共和国軍特殊部隊LLĐBの対外工作部門(第45室)はLLĐBから分離され、新たに総参謀部直属の特殊作戦機関SKT(後のNKT)として再編されます。そしてそのSKT/NKTが行う対外作戦の立案・指揮をアメリカ軍MACV-SOGおよびCIAが担っていきます。以後、MACV-SOGが計画しNKTが実行した越境作戦は大きく分けて2系統ありました。

OP-34 / OP-36 ※1967年12月にOP-34からOP-36に改称
敵性地域内での直接的なサボタージュ工作。米軍SOG-36およびSOG-37が担当。作戦は任務によってさらに三段階に分類される。
・OP-34A / OP-36A: NKT沿岸警備局およびNKT第68群が実行。パラソル・スイッチバック作戦に続く長期または短期潜入・諜報・破壊工作。
・OP-34B / OP-36B: NKT第11群が実行。STRATA(短期監視・目標捕捉)チームによる機動的なロードウォッチ任務
・OP-34C / オペレーション・フォーレ: 心理作戦

OP-35
敵性地域への偵察、破壊活動。NKT連絡部『雷虎』と米軍SOG-35合同のC&C部隊が実行。



※以下は特殊部隊が実施した越境エアボーン潜入作戦の一部ですが、元が秘密作戦だけあって具体的な回数や細かい日付は把握できていないものが多いです。今後資料を見つけ次第加筆修正していきます。

日付:1961年から1964年にかけて複数回
降下部隊: 総統連絡部 地理開拓局北方部 第77群
作戦: パラソル・スイッチバック作戦
領域: 北ベトナム, ラオス
航空機: C-46輸送機

日付:1964年から1967年にかけて複数回
降下部隊: SKT第68群
作戦: OP-34A
領域: 北ベトナム, ラオス

日付:1968年から1973年にかけて複数回
降下部隊NKT第68群
作戦: OP-36A / エルデストサン作戦
目的: 敵の弾薬集積地に潜入し、敵の使う銃弾に爆発物を仕込んだ物を紛れ込ます事で、敵兵に自軍兵器への不信感を抱かせ戦意を削ぐ
領域: 北ベトナム, ラオス, カンボジア
航空機: C-130またはMC-130輸送機
降下方法: 夜間HALO

日付: 1970年11月
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, CCN,  チーム・フロリダ
作戦: OP-35
兵員: 9名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法: 高度6400mより夜間HALO

日付: 1971年2月
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, CCN,  チーム・アラスカ
作戦: OP-35
兵員: 9名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法: 高度6400mより夜間HALO

日付: 1971年4月15日
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, 第1強襲戦闘団, チーム・ワンゼロ
作戦: OP-35
兵員: 4名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法:  高度6400mより夜間HALO

日付:1970年から1971年にかけて13回
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, C&C部隊
作戦: OP-35
領域: 北ベトナム, ラオス, カンボジア
降下方法: スタティックラインジャンプ



おまけ

▲一昨年カリフォルニアでお世話になったレ・ホアン少尉の、
STRATA時代(当時19歳)の写真。

なんか面白い銃持ってますね。


(再現図)

発想としてはシンプルだけど、意外なほど今まで見た事ないパターンだったので目からウロコです。
  


2016年11月24日

撮影会

先月末から今月にかけて撮った写真です。


マイクフォース撮影会

参加者実質2名(笑) だからお互いに撮り合ったため、ピンの写真しかないです。
ロケーションは最高なので、またここでやりたいです。



マイクフォースではないけど、Pan American Airwaysさんと二人で、米軍のスナイパー(スポッター)ごっこもしました。
パッチさえ写ってなければ、ただのタイガー着た米兵さ!もしくは研修で米軍スナイパーチームのスポッターやってるベトナム兵。

ライフルはPan American Airwaysさんの並々ならぬこだわりで作らてた見事な米軍仕様のウィンチェスター・モデル70。
スポッティングスコープは実物のM49オブザベーションテレスコープです。50年前の品とは思えないほどのクリアな視界にびっくりしました。



前線司令部撮影会

こちらは総勢9名の大所帯(南べ的には)で撮影ができました。
市街戦で焼けた廃墟に設置された指揮所を想定しています。


 



楽しかった\(^_^)/


土浦秘宝館

何度行っても飽きない茨城の武器学校。
特にWW2~冷戦時代の車輛や銃器が好きな人にはお宝の山です。
今回は習志野から第一空挺団の人たちが来ていて、落下傘装着体験をやっていました。
なので『今回は』ちゃんと許可を得たコスプレです!

鉄帽は無かったのでライナー被ってます。
でも落下傘は中身の詰まった本物。
「引きたい。この綱引いて開傘したい。」と心の中で呟いていましたが、
ここを出禁にされるのは困るので、ぐっと我慢しました。

そういえば僕も高校生くらいまでは、自衛隊入るって息巻いてたなぁ。
ワンダーフォーゲル部に入ったのも、自衛隊に入るために体力付けるためだったし。
資料請求の手紙を出したら、地連の人が家に来ちゃって、両親と四者面談みたいになっちゃったし。
でも僕が自衛隊って騒いでたのは単にミリタリー趣味の延長で憧れてただけで、
真面目に仕事として考えた時に自分には務まりそうもないなと気付いてしまったので、結局志願する事はありませんでした。
よく考えたら趣味の面でも、特に自衛隊マニアって訳ではないし。
今思えば、勢いで入隊しないで良かったと思います。その後サラリーマンになった僕は、常に上司に楯突いて、
気に食わない指示は全て無視する問題児だったので、そもそも公務員が務まりません。
軍隊マニアのくせして一番軍隊に向かない性格なんです。
当然これではシャバでもうまく行かない事の方が多いので何度も打ちのめされたけど、
同時にこの性格のおかげで色々面白い体験ができたので、反省はあるけど後悔はしてないです。



おまけ: 久しぶりにお気に入りの歌

機械/妖精帝國
  


2016年11月15日

ベトナム共和国軍特殊部隊キャンプ



手持ちの資料を全てまとめた特殊部隊キャンプのリストを作成中。
まだまだ?マークが多いです。悔しい。いつか全ての空欄を埋めてやる・・・。

     

 色分けは、黄色がCIDG計画の中核でありながら、なぜか戦後のマニアからガン無視され続けるCSF (Camp Strike Force: キャンプ駐屯のストライクフォース)。ベトナムに派遣されたグリーンベレー隊員のほとんどはこのCSF付きアドバイザーだったのにね。
 青がCSFから発展した空中機動部隊MSF (Mobile Strike Force: 機動的なストライクフォース)。みんな大好き"MIKE Force (マイクフォース)"の事。実はCSFに比べて規模はかなり小さい。なお"C-1"~"C-5"という名称は5thSFGのCチーム(A~E中隊)の事なので、マイクフォースの部隊名として用いるのは不適当。
 橙色がLLĐB C5やNKT所属の偵察・コマンド部隊。多くはCIDG計画とは別に、ベトナム共和国軍の特殊部隊として創設された部隊なので、隊員はもともとLLĐBのキン族(ベトナム人)およびヌン族が主だった。(1960年代中盤、サイゴン政府とデガ・チャム族・クメール族などのFULRO系少数民族は内戦状態だった。) その後、60年代後半に米軍の仲裁で政府とFULROが部分的に和解し、さらにMSFの規模拡大によって空挺降下や偵察などの技能を持ったCIDG / DSCĐ兵士が増えると、米軍の意向で偵察・コマンド部隊にもFULRO系少数民族が加わる事となった。

 また一口に『キャンプ』と言ってもその種類は様々で、ベトナム戦争中にベトナム共和国軍およびその同盟軍が建設した防御拠点は以下に分類される。
・メインベースまたはベースキャンプ
・戦闘基地、前進作戦基地(FOB)、恒久着陸ゾーン
・射撃支援基地(FSB)
・特殊部隊キャンプまたはCIDGキャンプ
・フランス軍式要塞化陣地
・射撃支援パトロール基地(FSPB)、パトロール基地または前進射撃支援基地(FFSB)
・着陸ゾーン(LZ)
・戦略村
・夜間防御施設(NDP)

これらの内、今回表にまとめたキャンプは特殊部隊のメインベースおよびFOB、特殊部隊キャンプ、CIDGキャンプであり、それぞれの定義は概ね以下の通り。

メインベースまたはベースキャンプ
大規模な恒久施設からなる要塞化されたエリアのことで、飛行場を併設している。特殊部隊ではサイゴンのLLĐB/NKT本部、ニャチャンの5thSFG本部、およびLLĐBのC司令部(USSF Cチーム)が置かれた基地などがこれに当たる。

前進作戦基地(FOB)
メインベースを小型化したものだが恒久的な要塞化された防御陣地が付属しており、少なくとも滑走路が付属している。特殊部隊ではNKT連絡部コマンド"雷虎"のFOB 1~FOB 6や、MSFにおいて複数のFOBが建設された。

特殊部隊キャンプおよびCIDGキャンプ
FOBよりも小型であるが、恒久施設が存在する。通常、ヘリコプター用の着陸ゾーンはあるが固定翼機用の滑走路は無い。ベトナム、アメリカ軍の特殊部隊分遣隊Aチームが常駐し、その指揮下で1個大隊規模のCIDG / DSCĐ部隊が駐屯している。その周辺には兵士の家族用の住居も併設されている。

出典: 要塞戦記: ヴェトナム戦争アメリカ軍ファイヤーベース PART.1, 秋田郁夫, wardroom, 2011年



おまけ: 越米特殊部隊司令部スタッフ


LLĐB本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀本部内, 1968年8月)
5thSFGA司令ハロルド・アーロン大佐(左手前)とLLĐB司令ドァン・バン・クアン少将(右手前)


SKT本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀本部内, 1966年)
SKT司令チャン・バン・ホー大佐(中央左)と、MACV-SOG司令ジョン・シングラウブ大佐(中央右)


NKT本部(サイゴン, ベトナム共和国軍総参謀部内, 1970-1972年)
MACV-SOG司令ジョン・サドラー大佐(左端)と、NKT司令ドアン・バン・ニュー大佐(右端)
  


2016年07月23日

ジャライ服Ver.2


 アホカリに向けて改良を進めていたジャライ族の民族衣装(風の服)がほぼ完成。前回作った時は手元に不鮮明な画像しか無かったのでほとんど想像でやるしかなかったけど、今回はある程度実物に近い雰囲気が出たかなと思います。やる気が出たらもうちょい作りこみます。
 ただし、その実物自体、バリエーションが多すぎて、何が正解かまだ把握できてないけど。ジャライ、ラーデなど民族毎にデザインが違うのはもちろん、同じジャライ族内でも部落および部落内でのその人の地位でデザインが違うみたいです。ベトナムの少数民族に関する本は沢山あるけど、残念ながらそこを細かく解説している本にはまだ出合ったことがないです。
 1975年以降、ベトナム共産党=現ベトナム政府によって繰り返されてきた少数民族への大量虐殺・民族浄化(ジェノサイド)によって少数民族の文化は一時期壊滅状態に陥っており、もしかしたら1975年以前の服のデザインに関する情報はほとんど失われているのかも知れません。現在ベトナムで流通している『少数民族の衣装』のほとんどは、それぞれの村で機織りする昔ながらの製法ではなく、お祭り用にアパレルメーカーが大量生産した物のようですし。



 ちなみに今回この服はアホカリ1日目に、一人でベトナム陸軍第2軍団DSCĐ (CIDG)のパレード装のコスプレする予定で作っていたのですが、偶然にもその日、第一次インドシナ戦争装備で集まる企画"INDOCHINUIT!"が開催されるそうです。

[INDOCHINUIT!詳細]
7月30日31日に本栖ハイランド(富士本栖リゾート)で開催される「アホカリプスVNリユニオン2016」に第一次インドシナ戦争装備で集まろう!と言う企みです、30日(土)の午後くらいを予定、集まるだけで特に企画は考えていないので、駄弁るも良し、撮影会も良し、情報交換も有り、流れで宴会も良し、というテキトー企画です、一応アホカリプス実行委員から開催の許可は貰ってあります、
部隊、年代問わずですが一応1947~1954年が妥当ではないかと、
参加費は「アホカリプスVNリユニオン2016」の参加費となります、
「INDOCHINUIT!」のみ参加という奇特な方は「見学参加」扱いとなります、

民族衣装なら時代関係ないから、そのままフランス連合時代のモンタニャール大隊のデガ兵士として混ざろうかと思います。

▲デガ兵士に勲章を授与するベトナム国国長バオダイとCEFEO司令ジャン・ド・ラトル・ド・タシニー将軍(バンメトート 1950年)
  


2016年07月20日

CIDG部隊指揮官ハ・キ・ラム大尉の経歴

前記事『CIDG計画の組織』の補足です。

 元ベトナム共和国陸軍大尉ハ・キ・ラム(Hà Kỳ Lam)氏のブログに、自身の経歴と当時の写真が掲載されていたので、その一部をご紹介します。ラム氏の軍歴は、1960年代~70年代にかけてCIDG(越語DSCĐ)部隊を指揮したLLĐB将校の典型であり、当時のLLĐBとCIDGの関係を示す良い例だと思います。

【本文・画像引用】
ハ・キ・ラム氏ブログ http://hakylam.com/?page_id=46

1960年 クアンナム省ホイアンで短期間教員を務める

▲教員時代のラム氏(1960年)

トゥドゥック予備士官学校13期卒業、陸軍少尉に任官
1963年 第22歩兵師団(コントゥン省ダクロタ)第40歩兵連隊第2大隊内の小隊長に着任
その後特殊部隊(LLĐB)へ異動。LLĐB将校として1964年から1970年まで国境LLĐBキャンプ(Căn cứ Biên phòng Lực Lượng Đặc Biệt)CIDGキャンプ・ストライク・フォースを指揮する。
※()内はキャンプ付き=CIDG計画担当グリーンベレー分遣隊

1964年 クアンナム省カムドク国境LLĐBキャンプ中隊長 (USSF A-105) 
1965年 クアンチ省ケサン国境LLĐBキャンプ中隊長(MACV-SOG FOB3)
1966年 トゥアティエン省アシャウ国境LLĐBキャンプ副指揮官
1966年 コントゥン省ダクサン国境LLĐBキャンプ指揮官(USSF A-245)
1967-1968年 プレイク省プレイメ国境LLĐBキャンプ指揮官(USSF A-255)
1968年 コントゥン省バンヘット国境LLĐBキャンプ指揮官
1968-1969年 コントゥン省ポレイクレン国境LLĐBキャンプ指揮官(USSF A-241)

LLĐB転科後(1964年)

ケサン国境LLĐBキャンプにて(1965年)

▲1968年当時のラム大尉

後に妻となるグエン・ティ・ニョンとサイゴンにて(1969年1月)

▲グリーンベレーマガジンに紹介されるラム大尉(1969年)
※この画像はグリーンベレーマガジンからの引用として英国の新聞に掲載されたものだが、キャプションに誤って1968年と記載されている

▲ポレイクレン国境LLĐBキャンプにて(1969年)

1970年、米軍グリーンベレーのベトナム撤退に伴いCIDG計画は終了し、国境LLĐBキャンプCIDG部隊はレンジャー科(BĐQ)に移管され、国境レンジャー(BÐQ Biên Phòng)へと改称される。
ラム大尉はBĐQに転科し、プレイク省の第81国境レンジャー大隊(旧・ドゥッコ国境LLĐBキャンプ)大隊長として引き続きCIDG部隊を指揮する。

▲作戦行動中のラム大尉(1970年11月)

▲大隊長として第81国境レンジャー大隊を閲兵するラム大尉(1971年)

1971-1974年 第3軍管区BĐQ司令部勤務
1974-1975年 アメリカ陸軍歩兵学校にて研修。IOAC-7/74(歩兵将校上級課程1974年7期)修了
1975年4月上旬 ベトナムに帰国

▲米国ジョージア州フォート・ベニング陸軍歩兵学校にて(1974年12月)

終戦後、共産政権に逮捕され収容所に6年間投獄される
1975-1976年 ビエンホア収容所(1年)
1976-1979年 ハノイ北西部ソンラ収容所(3年)
1979-1980年 ニェティン省タンキ収容所(2年)
1981年1月 釈放
1981年5月 家族を連れて47名の難民と共にボートでベトナムから脱出
3日後、公海上でフランスの貨物船に救助されシンガポールへ入港
1981年10月 UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の第三国定住プログラムによってアメリカに定住

 
現在米国ニュージャージー州で暮らすラム氏(2012年)



<参考動画>
ドン・バ・シンLLĐB訓練センターにおけるCIDG隊員への教練 (1970年6月)





  


2016年06月04日

CIDG計画の組織

関連記事: CIDGの人々

 ベトナム戦争時代、米軍グリーンベレーがベトナム共和国領内に住む少数民族や少数宗教軍閥に軍事教練を施し戦力として活用した『CIDG計画』の存在についてはマニアの間では割と知られた話だと思います。しかし、その運営実態については日本はおろか米国でも長年(たぶん意図的に)誤解を招く書かれ方をされていると感じています。
 その最たる例が、ベトナム共和国軍の特殊部隊であるマイクフォースやコマンド雷虎が、当たり前のようにアメリカ軍特殊部隊として書かれてしまっているという点で、これは大変な誤解です。確かにベトナム共和国軍特殊部隊の組織・ノウハウが発展途上であった1960年代においては、CIDG(越語: DSCĐ)部隊の指揮・運用の大部分を米軍グリーンベレーやMACV-SOGが担っていました。しかし彼らはあくまでベトナム共和国軍部隊運用支援を目的としたアドバイザー(軍事顧問)部隊であり、組織としてはCIDG兵士が所属する部隊は全てベトナム共和国軍の所管でした。つまり端的に言うと、マイクフォース(CIDG)にアメリカ人は一人も居らず、MACV-SOG(アドバイザー)にモンタニヤードは一人も居なかったのです。
 まぁ普通に考えても、アメリカ人がベトナムの少数民族兵になる事はないし、逆にアメリカ合衆国市民でない者がアメリカ軍人にはなれませんよね。これは単に、その部隊をどの国のものと捉えるかという言葉の定義の問題かも知れませんが、そこをはっきりさせない限り永遠に誤解し続ける事になります。
 という訳で今回はCIDG計画の組織について、僕なりにまとめました。


CIDG計画の基本構造

 そもそもCIDG計画はベトナム共和国の民間人に軍事教練を施し村落を武装化する(=不正規民間防衛隊)が目的であったため、1961年の計画開始当初から米軍グリーンベレー(第7および第1特殊部隊群)はベトナム共和国軍特殊部隊(地理開拓部。後のLLĐB)を支援する形でベトナム側と共同で運営に当たりました。
 最初に編成されたCIDG部隊はCSF (Camp Strike Force)で、1970年の計画終了までCIDG兵士の大半が所属する大規模な組織でした。このCSFはラオス・カンボジア国境を中心に全国に80カ所以上設置された特殊部隊キャンプに駐屯する歩兵部隊であり、ラオス・カンボジア領内のホーチミントレイル経由で侵入する共産軍を監視・撃退する事が主な任務でした。また同時に、兵士の家族を含む国境周辺の村落の住民をまるごとキャンプ内に移住させる事で戦略村(Strategic Hamlet)を構成し、住民と共産勢力との接触を避け、共産勢力の拡大阻止と住民の保護が図られました。


 その後、アメリカ・オーストラリア軍がベトナム戦争への介入を本格化させると、LLĐBは1965年にCIDG計画担当部隊の編制をグリーンベレーの編成に合わせてA, B, Cチームという三段階に改編し、米・豪軍との連携強化を推し進めます。


 また1966年には従来のCSFにエアボーン・ヘリボーン作戦能力を付加した空中機動部隊MSF (Mobile Strike Force / マイクフォース)の編成が始まり、CIDG部隊の役割は大きく拡大していきました。CIDG計画の中核を成すCSFはあくまで国境地帯の防衛を目的とした守備部隊でしたが、新設されたMSFは逆に常に攻撃任務に投入される強襲部隊であり、ベトナム共和国軍だけでなく米軍をはじめとする同盟軍の一般部隊が行う作戦へも増援として派遣されました。


 なお、資料によってはCIDG部隊を指して"C-〇"や"A-〇〇〇"という呼称が使われる事がよくありますが、実はこれらはそのCIDG部隊を担当する米・豪軍の軍事顧問チーム名であり、本来的にはCIDG部隊を指す呼称ではありません。CIDG部隊は米軍内の組織ではなくあくまでベトナム共和国軍の一部門であり、それぞれの部隊は独自の部隊名・番号を持っています。またLLĐBはグリーンベレー同様A, B, Cチーム編成となりましたが、そのチーム番号はグリーンベレーと異なる独自の編成となっています。現在私が確認している各LLĐB分遣隊は以下になります。

【CIDG部隊と担当LLĐB・グリーンベレーチームの例
Chi Linh CSF (LLĐB A-162, USSF A-333)
Tây Ninh CSF (LLĐB B-15, USSF B-32)
Đức Hòa CSF (LLĐB 第375中隊, USSF A-325)
第1軍団MSF, Da Nang (LLĐB B-21, USSF B-16)
第3軍団MSF, Long Hai (LLĐB B-36, USSF B-36)
第4軍団MSF, Can Tho (LLĐB B-19, USSF B-40)
第5MSF, Nha Trang (LLĐB B-22, USSF B-55)
第1MSF大隊, 第5MSFC (LLĐB 第522中隊, A-503 USSF)
これらはほんの一例ですが、LLĐBのチーム名に関する資料は少なく、まだこれだけしか把握できていません。またLLĐB側はAチーム(分遣隊)ではなく中隊がCIDGキャンプに駐屯する場合もあります。

【CSFの例】
看板中央がキャンプ地、つまりCSF大隊の部隊名を示しており、この部隊の名前は"Chi Linh" CSFとなります。次に看板左右の文字が、この部隊を担当するアドバイザー部隊の名称で、米/豪軍側が"A-333 / Co.A 5th SFGA (第5特殊部隊群A中隊=C-3)"。またA-333の上層はB-33 / C-3 / 5th SFGAという構成です。ベトナム軍側は"A-162 / BCH C3 LLĐB (特殊部隊C3司令部)"となります。

【MSFの例】
MSFはCSFと指揮系統が異なり、部隊名はキャンプ地名ではなく、"第1MSF大隊 / 第5MSFC (MSF司令部)"になります。米/豪軍チームはCSFと同様に"A-503"、上層は B-55 / C-5 / 5th SFGAという構成ですが、ベトナム軍側は"第522中隊"、上層はB-22 / BCH C5 LLĐBとなっています。

【第36MSFC(=第3軍団MSF)の例】
▲理由は不明ですが、なぜか第3軍団MSFだけはグリーンベレーとLLĐBのチーム番号が同じです。



偵察部隊におけるCIDG兵

 上記のCIDGキャンプに駐屯する部隊(CSFおよびMSF)とは別に、米越軍特殊部隊が共同運営する偵察部隊に在籍するCIDG兵士も存在しました。偵察部隊には大きく分けて二つの系統があり、一つが"ギリシャ文字系プロジェクト(オメガ・デルタ・シグマ・ガンマ作戦)"で、グリーンベレーC-5およびLLĐB C5司令部が合同指揮する国境パトロール部隊として主にベトナム領内のホーチミントレイル捜索の任に当たりました。もう一つがSOG-35およびNKT(技術局)連絡部が合同指揮するOP-35(C&C部隊)で、越境作戦のみを担当し、国境を越えてラオス、カンボジア領内への潜入偵察作戦を実行しました。
 ただし、これら偵察部隊には戦闘能力だけなく高い知識と技術が求められる事から、人員の大多数は高度な訓練を修了した正規のベトナム人特殊部隊員でした。一方、元々民間人である(しかも政府の人種隔離政策によって初等教育すら十分に受けられていない)CIDGが受けている軍事教練は、米・越軍一般兵の水準よりも低い簡易な歩兵戦闘訓練のみである為、偵察部隊に配属されるCIDG兵はMSFで経験を積み、その中から選抜され特に優秀な者に限られていました


なおOP-35は各C&C司令部(CCN, CCC, CCS)によって編成が大きく異なります。


 各ギリシャ文字系プロジェクト内には通常の偵察小隊に加えて"ロードランナー"チームが編成されました。ロードランナーは敵である共産軍の装備を身にまとって敵支配地域に潜入し情報収集を行うという危険な任務を遂行する部隊で、ベトナム人(LLĐB)のチームに加えて、CIDG兵で構成されたチームも存在しました。またC&Cでもベトナム人(コマンド雷虎)のチームと、CIDG兵で構成された偵察チームが混在していました。
 ただし、NKTもLLĐBもCIDGも同じベトナム共和国軍部隊である事から、アメリカ軍が作成した公式資料ではベトナム人と少数民族を区別せずまとめて"Vietnamese"と記している場合が多いため、どのチームがどの人種だったかははっきりしない部分が多いです。


CIDG計画終了後

 アメリカ軍のベトナム撤退に伴うベトナム共和国軍への業務移行、いわゆる『ベトナミゼーション政策』が始まると、米軍グリーンベレーが主導してきたCIDG計画は1970年に終了し、全てのCIDG兵士は他のベトナム共和国軍部隊に編入される事となりました。
 CIDGで最も人数が多いCSFは陸軍のレンジャー部隊(BĐQ)に編入され、1970年後半から1971年の始めにかけてキャンプ毎に国境レンジャー大隊(BÐQ Biên Phòng)として再編されました。国境レンジャーはその後、1970年のカンボジア進攻(トゥアンタン42作戦)や翌年のラオス進攻(ラムソン719作戦)などにおいて強襲部隊として最前線に投入され、ベトナム人司令官の指揮下で大きな戦果を残すともに、多大な損害を受け消耗していく事となります。



 一方、MSFやギリシャ文字系プロジェクトに所属していたCIDG兵はベトナム人特殊部隊員と比較しても遜色ないほどの高い戦闘能力を有していたことから、国境レンジャーとして消耗されることなく、長年共に戦ってきたLLĐB隊員たちと共にNKTに新設された作戦部(Sở Công Tác)に編入され、"コマンド黒龍"の一部として再編されました。




おまけ: 今年のアホカリの目標


上着なんて何でもいいから、とにかく褌をポチりましょう。


  


2016年05月25日

デガとモン関係

デガ関係

盾が完成。第2軍団LLĐB/DSCĐ儀礼用。
市販の笊をベースにしたので本物とは大きさも構造もかなり違うんだけど、一発目なのでとりあえず金かけずに雰囲気さえ出ればと。
実物のデガの盾はこんな構造みたいです→http://www.tribalmania.com/VIETNAMESEMOISHIELD.htm


ずっと探してたデガのパイプをゲット。
でも、すごく欲しかった割には、実際こういう伝統的なパイプ使ってるのは村の年寄ばかりで、CIDG計画で現金収入のあるデガの兵隊はみんな普通に紙巻タバコ買って吸ってるので、戦争ごっこのイベントで使う機会は無いのだけれども。



モン関係

昨日リサイクルショップにジーパンを探しに行ったら、気付いたらマスケットを買っていました。一応、大昔のマルシン製。
これはデガやDSCĐ用ではなく、ラオス内戦時代のモン族やるのに買いました。モン族は大昔から、西洋から伝わったマスケットを自ら製造しており、猟銃として活用するとともに周辺の多数派民族による迫害から自衛を図ってきました。
ラオス内線が始まると、ラオス王国政府側に付いた右派(王党派)モン族の村落にはADC(村落自衛隊, Auto Defense d'Choc)が編成され、村の男たちはモン族を見境なく虐殺するラオス共産軍パテート・ラーオやベトミン・北ベトナム軍から家族を守るため武器を取りました。
しかし王国軍所属のモン族部隊がフランスやアメリカ製火器で強化される一方、ADCは民兵組織であるため武器の配備は正規軍に比べて遅れており、1960年代になってもADCの一部ではマスケットが使われ続けました。

▲ラオス内戦の停戦を監視する国連代表団の訪問に際し、マスケットやクロスボウを披露するモン族の村人(1959年)

 
▲モン族のマスケット各種。上二つがマッチロック(火縄)式、下がフリントロック(火打ち)式
去年行ったタイのモン族村に展示してありました。これらを参考に、それっぽく改造しようと思います。



すでにチェンマイ行った時に民族衣装はあらかたゲットしてあるので、ADC計画は着々と進行中です。
実際にはモン族の住んでいる範囲は中国・ベトナム・ラオス・タイとかなり広いので地域によって民族衣装も違ってくる(いわゆる花モンとか青モン等)けど、違いが大きいのは華やかな女性の衣装であって、男性の普段着・野良着はどこも似たような漢服系の黒いシャツなので、誤魔化しはきくかと。
ただ、旅行から丸一年が経過して、買ったとき店のモン族のおばちゃんに教えてもらった帯の巻き方を忘れてしまった・・・。
(モンの帯は、体の前側に帯の端と端を垂らし模様を作るように巻くので、ちょっと複雑な巻き方だった)


そう言えばタイのモン村で晴れ着レンタルした際、レンタル屋のおばちゃん(だったと思う)になんで服にコインみたいな飾りがジャラジャラ付いてるの?」って訊いたら、
「これは昔本当のお金で、モンは昔から戦争などで住処を追われてばかりだったから、逃げる時に家に財産を置き忘れないよう服に直接付けておいたんだ。それが今では民族衣装のデザインになってるんだよ。」と教えてくれました。
なるほど。本当に昔からそういう歴史を繰り返しているんですね・・・。


ちなみに別の日、バンコクで一緒に遊んだ日本陸軍マニアのOさんも、実はモン族(モン系タイ人)。
学生時代日本に留学していたので日本語はペラペラ。当時は中田商店通いに明け暮れていたそうです。それに色白なので、横に並ぶと僕より彼の方がよっぽど日本人っぽい(笑)
そんな彼も、モン族であるという理由でタイ国内の右翼から嫌がらせを受ける事が度々あるそうです。「奴らは私を人間以下の生き物と見なしているよ」
でも彼は、そんな下らない連中に負けるほどヤワではない。日本、中国への留学経験を持ち、今はロンドンに留学中。
普通の人生では味わえない、どデカい視野を持った男になる事でしょう。


日本では昨日、ヘイトスピーチ解消法が成立しましたね。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160524/k10010533051000.html
まだ罰則規定は無いけど、少なくともこれで愛国心を口実に日本の名誉に糞を塗るクズ共の行動を違法行為と認定できるようになったんだから、ようやく一歩前進といった感じでしょうか。
ミリタリー業界からも、そういう馬鹿が消え去る日が来ることを心から願っています。
  


2016年05月16日

アホカリに向けて

いろいろ作る物が有るので、そろそろ準備開始


その1

ホームセンターで買出し

庭に落ちてた木の枝切って取っ手を作る

ベースの色を塗る(ニッペの189円スプレー)



その2

棒のサイズが丁度良かったので、実家にあった雪かきスコップを黙って拝借。冬になるまで気付かれまい

プラ版代わりに、以前キャップを修理した時に余った帽子用ポリ芯から部材を切り出す


とりあえず今日はここまで



<おまけ>

人民自衛隊(たぶん)のデガ女性指揮官


軍事・準軍事組織に属するデガ部隊では式典の際に、デガの伝統的な刀剣である柳葉刀が儀礼刀として用いられます。また立ち位置的にも、この女性は何らかの部隊指揮官に見えます。
後ろの男達は第2軍団のエンブレムが描かれた盾を持っているので、明らかにベトナム共和国軍の民事戦闘団(DSCĐ / 英名:CIDG)部隊ですが、
女性のDSCĐ隊員というのは見た事も聞いた事もないので、この人はおそらく民兵組織である人民自衛隊(NDTV)の女性指揮官だと思います。
こちらの1965年国慶日(11月1日革命記念日)軍事パレードの映像にも、DSCĐに続いてNDTVの女性隊員が続いて行進しています。



巷では女子の間でエスニック系ファッションや料理が人気みたいだから、僕も女子ウケを狙ってエスニック系目指してます

  


2015年11月03日

キャンプ・ストライク・フォース撮影会

何年も前からやりたかった、『1963~64年ごろのCIDGジャライ族キャンプ・ストライク・フォース』コスプレ撮影会がついに実現しました。(二人しかいないけど)
スマホで撮った写真でも、加工すればそれっぽくなりますね。EAの社長もこの写真見て喜んでくれました。




EAのベオガム(ベトナム語の発音では「ベオギュン」っぽい)迷彩服は話題になりましたね。

しかし、本来この服とセットであるべき自衛隊型(通称CIDG型)キャップは、どうせ出ないんだろうなと諦めていました。
それがちゃんと発売してくれたので、EAさん見直しましたよ。ありがとう!
このキャップはベオギュン迷彩服の他、タイガーやベトナム共和国軍制式作戦服、ブラックパジャマにも合わせられるので超便利です!

1963年のベトナム共和国軍第2軍団CIDGキャンプ・ストライク・フォース

またベオギュン迷彩は1968年ごろになっても見られるので、意外と長く使われていたようです。
  


2015年10月27日

100均の腕輪

インドシナ半島中部高原に住むデガ諸民族には、Kong te(コンテ?コントゥ?発音不明)という真鍮製の腕輪を身に付ける習慣があります。
デガ(Degar: ラーデ語で”森の人”の意)は山岳地帯に住むオーストロネシア系およびモン・クメール系諸民族の総称であり、実際には数十の民族に分かれますが、このKong teはそれらの民族のほとんどに共通する文化です。
そのためベトナム共産党・カンボジア共産党による迫害を逃れてアメリカに渡ったデガ難民が、1987年にアメリカ合衆国ノースカロライナ州で組織したMontagnard Dega AssociationのシンボルにもKong teのデザイン(黄色い円環)が用いられています

※このサイトに載ってるFULRO旗のソースの一部は僕のブログの記事だって・・・。もっとマシな情報元探せよ(笑)

なのでベトナム戦争期、アメリカCIA主導の共産ゲリラ掃討作戦CIDG計画に参加したデガの戦士たちも、よくKong teを身に付けています。


またKong teは、CIDG計画でデガ部隊を訓練・指揮したアメリカ軍SFやベトナム共和国軍LLDB、オーストラリア軍SASR隊員などにもデガ達から友好の印としてプレゼントされ、外国人にも"Montagnard friendship bracelet"として知られています。


このKong teは、eBayなどで現代製のものがよく売られていますが、どうもお高いです。どうせ大量生産のお土産品なのに。
なので、コスプレ用にこの腕輪を安く手に入れたかったので前々から代用品を探していたのですが、先日100円ショップのダイソーで良いのを見つけました。


ただのステンレスのリングです。ホームセンターに行けば似たような品はいくらでもありますが、これはリングの径や太さが絶妙です。
ただ、このままではどう見てもただのステンレスなので少々お色直し。


真鍮っぽい色になるよう、ガスコンロで焼く。あまり焼き過ぎると真っ黒になるので程々に。
※火傷や火事に気をつけて! 

 

いい具合に黄土色になりました。


じゃじゃーん!これでしめて300円なり。
どうせ本物も、ただの真鍮線を丸めただけの代物(多少彫金してあるのもあるけど)なので、代用品としてはこんなので十分かと。
ホームセンターで真鍮線買ってきて自分で曲げるよりだいぶ安くて楽チンです。
難点としては、端のつなぎ目が溶接されているのでサイズ調整できないこと。最初手持ちのノコで切ろうとしましたが、さすがにステンレスは無理。グラインダーが必要です。
コレクションの世界はまた別なんだろうけど、少なくともコスプレ(およびコスプレを要するリエナクトメント)に必要なのは、お金ではなく愛と工夫でしてよ!


愛を高める動画


その50年後。ジャライ族(元CIDG / FULRO戦士)の葬儀。同胞とグリーンベレーの戦友に見送られて・・・
(2012年, アメリカ ノースカロライナ州)

  


2015年09月08日

準備も大詰め

今週末開催される『第2回かめナベ会』 にて使う予定の、生活展示エリアに建てる看板を仕上げました。

【制作の流れ】

ホームセンターで買ってきた1500mmの合板(黒に塗装済み)に、ダイソーのアクリル塗料で筆塗り。

看板の建て方は杉材の杭から鉄筋まで色々検討したのですが、当日地面に杭を打つ作業はけっこう大変だし持ち運びも大変なので、結局A型バリケードを使うことにしました。

バリケードを塗装して、合板にフックつけて完成。偶然にもバリケードの幅が1500mmピッタリ!
フックで吊ってるだけなので、板は外して、バリケードは折りたたんで運搬できます。これなら違う部隊をやる時も使えて経済的^ ^


あと各種CIDG階級章も制作。実物の詳細な画像は見たこと無いので、50年代のフランス軍階級章を参考に作りました。
ただし作っておいてなんですが、実はこのCIDG階級章は、具体的にどれがどの階級を示す物なのかはまだ確認が取れていません。

上は関連性があると思われるベトナム共和国・フランス・クメール(カンボジア)各国陸軍の階級章ですが、CIDG階級章と配色パターンが同じなのは二種(一等兵と一等伍長)のみで、他は使われていないパターンなんです。

僕が確認しているCIDG独自の階級章は4種類だけなので、以前載せたこの資料に照らし合わせると、おそらく1962年~1968年まで使われたものに該当すると考えています。
1968年以降は階級制度がベトナム共和国軍とほぼ同一になっているので、ベトナミゼーションの影響でCIDGが正式にLLDBの子部隊となった事で、階級や給料制度もベトナム共和国軍に統合されたのではないでしょうか。
しかし、まだこれ以上の情報をつかめていないので、引き続き調べていきたいと思います。
  


2015年08月30日

目指せヌン族

引き続き来月のナム戦イベントに向けて

『第2回かめナベ会』 
日時:2015年9月12日~9月13日


ベトナム戦争においてCIDGとしてベトナム共産軍との激戦に身を投じたヌン族ですが、それ以前から彼らは20世紀という激動の時代に翻弄され、様々な勢力に取り込まれる事で幾多の激戦を経験してきました。彼らヌン族兵士の来歴を簡単にまとめると以下の流れになります。

1925年-1949年 中華民国国民革命軍
1951年-1954年 フランス植民地軍コマンドス・ノルトベトナム
1955年-1959年 ベトナム共和国軍ヌン師団(第6軽師団/第3野戦師団)
1959年-1975年 海燕特区(在越中国国民党軍閥)
1961年-1970年 ベトナム共和国軍/アメリカ軍CIDG
1970年-1975年 ベトナム共和国軍国境レンジャー(BDQ-BP)


このようにヌン族兵は中国国民革命軍(国民党軍)出身者が多く、国共内戦に敗れてベトナムに集団移住してからも自らを中国人と自負していたそうです。
そのヌン族を演じるにあたり、そういった背景を少しでも行動や生活の再現に反映していくのはヒストリカルイベント、リエナクトメントの醍醐味だと思いますので、手前味噌ですが中国語の号令を使ってみようと思います。
普段ヌン族が話すのは広東語や客家語なので普通話(現中国・台湾の公用語)とは異なりますが、軍隊で使う号令はおそらく国民革命軍時代から引き継いでると思います。
なので本来なら1949年以前の国民革命軍の号令を調べるべきですが、ちょっと面倒臭いので、国民革命軍の直系である中華民国軍(台湾軍)式でやっちゃいます。
参考にしたのは、ネットで拾った台湾の『學生總隊基本教練操作手冊』、およびYoutubeにあった『陸軍歩兵学校教学影片』です。


個人の動きである『單兵基本教練』は各自自習してもらうとして、『班基本教練』の整齊・報數(整列・点呼)の号令を見ていきます。

全体集合: 全體注意、集合!(チェンティーチュイー、ジフー!)

気をつけ: 立正!(リージョン!)

右へ倣え: 向右看齐!(シャウユウカーン チ!)

直れ: 向前看!(シャンチェーン カン!)

休め: 稍息!(ショウ シー!)

番号: 報數!(バオシュウ!)
※自衛隊では「番号(予令)・始め(動令)」となるが、民国軍では「報數」のみ

一(イー)
二(アール)
三(サン)
四(スー)
五(ウー)
六(ルー)
七(チー)
八(パー)
九(ジョウ)
十(シー)

敬礼: 敬禮!(ジンリ!)

ここまでやれればいいや。当日みんなで練習しましょう。
それ以上はどうせ覚えられないので、日本語(自衛隊式)でやっちゃいます。
号令以外では、この辺も使えそうですね。

助けて: 救命呀!(ガウメンアー!)【広東語】
衛生兵: 軍醫(ジンイー)
先生: 醫生(イーサン)

中国っぽい日本語という事で、つい「~アル」と喋りたくなりますが、あれは協和語という満州国でのみ使われた言葉で、ヌン族とは関係ないのでやめときましょう。


あとベトナム戦争時代のヌン族マイクフォース部隊では、フランス国旗(トリコロール)柄のネッカチーフが使われていたので、今回もこの自作品を身に付けようと思います。


実はこのトリコロール柄はヌン族だけでなく、複数のCIDG部隊で、他の民族にも使われていました。
その理由は長年謎だったのですが、最近糸口が見えてきました。
フランス領インドシナ時代、フランスはベトナム北西部にタイ族の自治領『タイ国(Pays Taï)』を19世紀末から設置していましたが、1946年に第一次インドシナ戦争が始まると、フランスはより一層少数民族たちを味方に引き込みベトミン掃討の為の戦力(GCMAやコマンドス・ノルトベトナム)として活用するため、以下の少数民族自治区を設置していきました。

南インドシナ・モンタニャール国(Xứ Thượng Nam Đông Dương)1946年
北インドシナ・モンタニャール国(Xứ Thượng Bắc Đông Dương) 1947年
ヌン族自治区(Khu tự trị Nùng) 1947年
タイ自治区(Khu tự trị Thái) 1948年
ムオン自治区(Khu Tự trị Mường)
メオ(モン族)自治区(Khu Tự trị Mèo)
トー自治区(Khu Tự trị Thổ)

そしてその内いくつかの民族自治区の旗は、宗主国であるフランス国旗を改編もしくはそのまま流用したものだったのです。

▲タイ自治区(1947-48年)

南インドシナ・モンタニャール国 (1946-1950)

▲ヌン族自治区

植民地支配を受けていたベトナム人にとってフランスからの独立は長年の悲願でしたが、ベトナム人から人種差別を受け続ける少数民族にとって、フランスは差別からの解放者であり、民族の保護者でもありました。
しかし、1954年にフランスがインドシナからの撤退を開始すると状況は一変します。ジュネーヴ協定によって北ベトナムにホー・チ・ミン政権(ベトナム民主共和国)が誕生し、また南ベトナムでも1955年に反仏派のゴ・ディン・ジエム政権(ベトナム共和国)が成立したによって、少数民族自治区は全て消滅してしまいました。そして彼らは自治権を剥奪され、南北ともに多数派のベトナム人(キン族)からの迫害を受けていく事になります。その為、1960年代になってもFULROなどの少数民族勢力はかつての民族自治区の復活を求め続けていました。
こうした背景から、ベトナム戦争中に見られるトリコロール柄ネッカチーフは旧民族自治区旗を意味しており、その民族のシンボルマークとして使われていたのでは?と考えるようになりました。それならトリコロールを使う民族が複数ある事も説明がつきます。
しかし、まだ僕一人が唱えてるだけの仮説の段階なので、今後も調べていきたいです。

▲ネッカチーフに加え、左胸の所属テープもトリコロール柄になってる例(マイクフォース部隊)



【今日の作業】

服にパッチを付けるので、パッチの台布に使う生地を選定。
これまで服を改造する度に出た端切れを後生大事に取ってあるので、生地には事欠きません。
もちろん全部リプロですが、これも僕にとってはこの趣味をやってく上で大切な財産です。

このように、当時はシルク織りやシルクプリント製パッチは、別の布で台座を作って、それから服に縫い付けられました。
今回は高校生の頃に買った懐かしのタイガーストライププロダクツ製生地を台布に使用。見えないお洒落ってやつです。

とりあえず服はこんな感じでいいかと。
最初はマイクフォース部隊テープ、米軍降下章、エアボーンタブなど当時CIDG隊員がよく付けていた徽章を全部付けちゃおうかと思いましたが、なんかカラフル過ぎて恥ずかしくなりそうなので、今回の目玉である階級章が目立つよう、このくらいシンプルなスタイルに留めておきます。
  


2015年08月26日

CIDG階級章

引き続き来月のナム戦イベントに向けて

『第2回かめナベ会』 
日時:2015年9月12日~9月13日


 前回の記事でチラッと書きましたが、CIDG部隊(民事戦闘団 / Lực Lượng Dân Sự Chiến Đấu)では当時、ベトナム共和国軍とは異なるCIDG独自の階級制度および階級章が使われていました。CIDGはベトナム共和国軍LLDB(特殊部隊)に所属する大規模な戦闘部隊ですが、『民事』の名の通り、彼らは正規のベトナム共和国軍とは異なる民兵という扱いでした。ただしCIDGと同様にベトコンからの村落防衛を目的とした民兵組織は他にも内務省民衛隊(1965年に陸軍部隊に昇格、義勇軍に改称)、人民自衛団(NDTV)、農村開拓団(XDNT)などがありましたが、CIDGが他の民兵と最も異なる点は、彼らがサイゴン政府の管理下にない少数民族および宗教軍閥のベトナム人で構成されていたことでした。その為CIDGの指揮は1961年から1968年までベトナム共和国軍ではなく、外国軍である米軍グリーンベレーおよび豪軍AATTVが担っており、CIDG兵士への給料もCIDG計画を主導するCIAの予算から出されていました。こうした経緯から、CIDGでは独自の階級制度が制定されたようです。
 しかし、これらCIDG階級章の存在は欧米のマニアの間でもほとんど知られておらず、詳しい情報がまったく入ってきません。インターネットが発達した昨今ではCIDG階級章が使われている当時の写真なんていくらでも見つける事が出来ますが、どこの国でも所詮『ナム戦マニア』が興味あるのはアメリカ兵のみなので、CIDGに関する事柄は見事にスルーされていますね。


▲CIDGの階級制度について (Mobile Strike Forces in Vietnam 1966-70, Gordon Rottman 37頁)
僕が知る限り、書籍で紹介された唯一の例


そんなCIDG階級章ですから、実物もリプロも入手できる見込みはありません。
なので、自分で作る事にしました。
ただし、当時の写真しか資料と呼べるものが無いので、細部は想像でやるしかありませんでした。



試作第一号(自分用)完成。





それっぽくは成ったかな。

もしかしたら世界初のリプロかも?


  


2015年08月24日

マイクフォースのパッチについて

前記事に引き続き、来月のナム戦イベントに向けてマイクフォース熱が急上昇しております。

『第2回かめナベ会』 
日時:2015年9月12日~9月13日

ただし、マイクフォース(MSF)の軍装については長年腑に落ちない部分を引きずっていました。
何が気に入らないかと言うと、これ↓

米軍5th SFGAベテランで組織されたMike Force Associationが、ノースカロライナ州フェイエットビルに建設したマイクフォース記念碑の一部です。
まぎれもなく元マイクフォース付きSF隊員本人たちによって作られたものであり、詳細な情報の少ないCIDG系資料としては第一級の信頼度だと思っていました。(過去形)
またパッチと部隊の組み合わせについては、国内外のディーラー・コレクターもここに記されたパターンと同じ認識を持っており、現在もなお定説となっています。

しか~し!当時の写真をよく調べると、実はこの定説に当てはまらないパターンが大量にあることが分かります。
日本の軍装マニアが崇拝する『洋書』も、僕の知る限りこの謎に明確な答えを出している本はありません。
これは当時パッチ以上に多用されたCIDG用階級章についても同じ事が言えます。

CIDGを愛する者として、もはやこの問題は無視できないので、この際一から調べなおす事にしました。
そんで、部隊名が判明しているマイクフォースの画像を可能な限り集めて分析しました。
その結果、実際にマイクフォースで用いられたパッチの組み合わせは、以下の図のようになる事が分かりました。

※2017年7月30日
内容を改定した記事を新たに投稿しました。

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これは変り種ですが、II CTZ MSFでは、イーグルフライト小隊のみ別のパッチを使っています。
イークルフライトは2nd MSFC編成前の1965-1967年に存在した、マイクフォースの元祖にあたる最初の空中機動CIDG部隊です。
1967年までにII CTZ MSF 第21~23MSF中隊の三中隊がイーグルフライト小隊で構成されていました。

▲II CTZ MSF イーグルフライト小隊


以上がマイクフォースのパッチとして広く知られている5種ですが、実はこの後に新たなパッチが制定されます。

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1968年に米軍の撤退開始・ベトナム共和国軍への権限委譲を進める『ベトナミゼーション政策』が開始されると、マイクフォースも改編の対象となりました。
それまでマイクフォースやMGFといった各CIDG部隊は形式的にはベトナム軍LLDBの部隊でありながら実際の運用は米軍5th SFGAが担っていましたが、ベトナミゼーションによってCIDGの指揮権段階的にLLDBに移譲されていきました。
そして1968年10月16日、LLDBの子部隊であることを意識した『虎にパラシュート』のデザインのパッチが、新たにマイクフォース全部隊共通のパッチとして制定とされました。

▲II CTZ MSF (20th MSFC 第4MSF大隊)
従来のCTZ・MSFC部隊章は廃止されず、MSF全体を示す部隊章として併用された

▲IV CTZ MSF (40th MSFC)

▲II CTZ MSF (20th MSFC 第4MSF大隊)付きのLLDB一等中士(一等軍曹)

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ベトナミゼーションはその後さらに進み、米軍5th SFGAがベトナムから撤退したことでCIDG計画は終了します。
まもなく5th SFGAと合同でCIDG計画にあたっていたLLDBも解隊され、第81空挺コマンド群およびNKT作戦局コマンド『黒龍』として再編されました。
これによってマイクフォースを含む全CIDG部隊の指揮はLLDBからBDQ(レンジャー)へと移管され、1970年に国境レンジャー(BDQ-BP)として再編成されます。
そしてBDQの一部隊となったことでCIDG独自の徽章は廃止され、二度と復活することはありませんでした。

  
▲1970年以降のBDQ-BP部隊

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現状で僕が把握できているのはここまでです。
マイクフォースの写真は探せば沢山出てきますが、上記のようにII・III・IV CTZ MSFは同じパッチが使われていたので、キャプションにどの部隊か明記されていないと資料として使えないので困っちゃいます。
逆に言うと、一つのパッチで複数の部隊を演じられるんだからコスプレ的にはお得ですね。
けれど、こんなに書いておいて難ですが、個人のコスプレではなく集団で行うリエナクトメント的に考えると、一番良いのは服に『何もつけない』だと思ってます。
それはマイクフォースに限らず、米軍の陸軍・海兵隊歩兵部隊も一緒。だって当時はパッチ付けてない人の方が多いんですもん。
しかも、それなら「〇年〇月の〇〇の戦いを再現」と言われても、服を変えずに参加できますし。もちろん、設定が変わる毎に上着を新調するのも良いと思います。レプリカのTCUなんて5000円以下で買えますし。
そもそもリエナクトメントって本来、時間と場所を指定してタイムスリップ体験を行うもののはずなんですけどね。
そういう意味ではナム戦ヒストリカルイベントは日本でも海外でも、チームごとの設定の統一や分隊行動の再現を目指している所はあれど、全体(主催・参加者の総意)としてはまだコスプレ見せ合い会の域を出ていないんですよね。
いつかやりたいな、ちゃんとタイムスリップできるイベント。
  


2015年08月16日

儂族突撃隊

9月に群馬県でベトナム戦争ヒストリカルイベントが開催されます!

『第2回かめナベ会』 
日時:2015年9月12日~9月13日


僕らはこのイベントに、ベトナム共和国軍の『第3軍団機動強襲部隊(マイクフォース) ヌン族コマンド(儂族突撃隊)』役で参加するので、生活展示エリアに立てる部隊の看板を作成しました。

ホームセンターで買ってきた幅1.5mほどの板(黒に塗装済み)にアクリル塗料で筆塗り。
全部フリーハンドで書いた割には悪くないかな。
看板を立てる脚はこれから取り付けます。



【ヌン族について】

 マイクフォースを含む、ベトナム共和国軍特殊部隊(LLDB) およびアメリカ陸軍グリーンベレー(5thSFGA)が指揮する非正規部隊『民事戦闘団(Dân Sự Chiến Đấu / CIDG)』にはベトナムに住む多数の少数民族が参加していました。※過去記事『CIDGの人々』参照
中でも今回僕らが演じるのはヌン族(儂族)という中国南部チワン族系の民族の部隊です。

 ヌン族は代々傭兵を生業とする民族で、古くから歴代の中国王朝に兵士として仕えてきました。また近代に入ると大清帝国に反旗を翻し太平天国の乱や、孫文と共に辛亥革命にも参加します。
 その後も多くのヌン族が中国国民革命軍に所属し日中戦争で日本軍と戦いましたが、大戦後の国共内戦に敗れた為、国民革命軍所属のヌン族の多くがベトナム(仏領インドシナ)に避難しました。
 しかし当時の仏印は第1次インドシナ戦争の渦中にあり、フランスはヌン族に自治領(ヌン自治区)を与える見返りにフランス軍ヌン族コマンド部隊を編成します。中国共産党と戦っていたヌン族は共産主義を激しく憎んでおり、進んでベトミンとの戦いに挑んでいきました。
しかし1954年にフランスが撤退しホー・チ・ミン政権が成立すると、北ベトナム領に住む100万人のベトナム人および5万人のヌン自治区の住民が共産政権による弾圧を恐れて南ベトナム(当時ベトナム国)へと脱出します。
 南にたどり着いたヌン族はベトナム最南端のカマウ半島への移住を余儀なくされ、元々中国・ベトナム北部の山岳地帯に住んでいた彼らは、カマウ半島という(カマウ半島以外にも大勢移り住みました)見知らぬ土地で一から生活を再建せざるを得ませんでした。
※詳細は過去記事『ヌン族について その1』参照

 南ベトナムに移住後も、まだヌン族は仏軍時代の組織を引き継いでおり、男達は再び共産主義と戦うためベトナム共和国軍へと参加。元ヌン族コマンドで構成された第3野戦師団『ヌン師団』が編成されました。
 しかし第3野戦師団師団長ファム・バン・ドン大佐(ベトナム人だが妻がヌン族)がヌン族将兵から非常に強い支持を得ていた事に危機感を覚えたゴ・ディン・ジェム総統は突如ドン大佐を更迭します。そして、これに反発したヌン族将兵らは師団まるごとベトナム共和国軍から離脱しました。
 この後、元ヌン師団将兵はドン大佐および中国出身のカトリック神父グエン・ラック・ホアを指導者とし、カマウ半島において中国国民党の後継軍閥『海燕特区(ハイイェン)』を興します。ドン大佐は第2次大戦において仏軍植民地歩兵部隊指揮官として中国国民革命軍と共に中国国内で日本軍と戦った人物であり、またホア神父も中国人キリスト教徒による反共・抗日組織の指導者として中国国民党と深い繋がりのある人物でした。

ファム・バン・ドン大佐
後に少将に昇進、チュー政権においてベトナム共和国復員省長官を務める

グエン・ラック・ホア神父
出生名チェン・イーチェン。中国広東省出身の漢族だが、北ベトナム移住後にベトナムに帰化。



 1960年にベトナム共和国内に共産ゲリラ組織ベトコンが結成されベトナム戦争が始まると、アメリカ軍はベトナム共和国軍への軍事援助を行うと共に、少数民族を武装化することでベトコンの浸透を阻止するゲリラ掃討作戦『CIDG計画』をベトナム共和国軍特殊部隊と共同で開始します。一度はサイゴン政府に反発したものの、依然反共に燃える海燕特区のヌン族たちは、家族の住むカマウ半島を脅かすベトコンという新たな共産主義者と戦うため、このCIDG計画に参加します。19世紀末より100年以上戦いに明け暮れているヌン族は非常に高い戦闘能力と実戦経験を有しており、アメリカ軍は彼らヌン族の傭兵を基地警備やコマンド部隊に大々的に登用していきました。またアメリカはヌン族の存在を政治的に利用するため海燕特区へ秘密裏に武器の提供を行い、ヌン族軍閥を強化・親米化する事でサイゴン政府への圧力としていきました。

 
▲DSCD(CIDG)に参加したヌン族コマンド隊員たち
ヌン族は主に中国語(広東語)を使うためアメリカ軍から『チャイニーズ』と呼ばれた

▲マイクフォース編成にあたりヌン族コマンドに空挺降下教育を施すため米5thSFGAが設置したNung Jump School

 しかし1973年にアメリカはベトナム戦争から撤退。残されたヌン族らは南ベトナムの共産化をなんとしても阻止すべくベトナム共和国軍と共に最後まで戦いましたが、1975年にサイゴンが陥落しベトナム全土がベトナム共産党(当時労働党)の支配下に失陥します。中国、ベトナムと敗走を重ねたヌン族たちにもう逃げ場はなく、他の100万人のベトナム難民と同様、仲間と散り散りとなりながら着の身着のままでベトナムから脱出するしかありませんでした。こうして1975年、彼らの戦いの歴史に終止符が打たれたのでした。
 現在でも、彼らヌン族兵士の生き残りはアメリカや台湾で中国共産党・ベトナム共産党への抗議活動を続けています。

 
  


2015年03月30日

インドシナ半島の諸民族と歴代勢力

僕がベトナム戦争コスプレを集め始めた当初は米軍LRRPのつもりで装備を集めてましたが、周りから「どう見てもヤードor南ベ」と言われまくったせいで、だんだん興味がベトナム人や少数民族の方に移っていきました。
また今思えば、歴史趣味の観点から見ても、20世紀後半最大の戦争であるベトナム戦争は(当然の事ながら)インドシナ半島の人々を中心に発生しており、彼らを知ることはあの戦争を学ぶ上で避けては通れない道でした。
(つまり僕の中では、第2次大戦を学ぶ上でナチス・ドイツを調べるってくらいオーソドックスな事をしているつもり。)

そんな中、最近ベトナムの少数民族に興味があるという声を(極少数w)頂くので、自分用に作った表を公開してみます。
この表は少数民族に限らず、マジョリティーも含めたインドシナ半島に住む民族と歴代の勢力のまとめです。(ただしミャンマーやマレーシアを含めると書ききれないので、インドシナ戦争に関った人々限定)
こうしてまとめてみると、あの地域の歴史の奥深さを感じるのと同時に、何年経っても争い絶えない怨恨の根深さも垣間見れました・・・
付け焼刃な知識なもので、もしかしたら間違ってる部分もあるかも。

(↑クリックで拡大)
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2015年03月06日

最近買ったもの

いつまでもペニス云々がブログのトップにあると僕の上品なイメージに傷が付くので、久しぶりにミリタリーウェアについて。

M65フィールドジャケット
今までM65持ってなかったので買いました。1500円也
かなりボロボロの状態の物を古着屋が補修したもので、継ぎ接ぎだらけのフランケン。直したって大した値段じゃ売れないのに、よくここまで補修したなと思う。
コレクション用にもファッション用にも使えないゴミみたいな服だけど、僕ははなっからベトナム軍風の魔改造するつもりで探してたので、これで十分。
(※基本的にはベトナム軍も米軍から供与されたM65をそのまま使っています。また米軍はベトナム=熱帯というイメージに捕らわれ防寒服の支給が十分ではなかった為、フィールドジャケットに関しては米軍よりもベトナム軍での使用をよく見ます)
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2015年02月13日

日本政府のベトナム支援

注目すべき点が大量にある動画。
1968年、プレイク省を視察するグエン・バン・チュー総統御一行
(グエン・バン・チュー総統、グエン・カオ・キ副総統、第2軍団司令ビン・ロック中将(背が高い人)、そして在ベトナム日本大使)

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2015年02月04日

ヌン族について その1

 ベトナム戦争に関った勢力の中には、参戦国の正規軍や共産ゲリラには属さない、少数民族による独立した武装集団がいくつかありました。
 代表的なものが、デガ(南インドシナ・モンタニャール)・チャム族・クメール族の同盟であるFULRO(被抑圧民族闘争統一戦線)で、彼らはアメリカのCIDG計画に参加して共産軍と戦う一方で、同時に自治政府(チャンパ高地臨時政府)を樹立しベトナム共和国政府からの自治権獲得を目指しました。
 そしてもう一つ、歴史的には無名でありながらベトナム戦争において大きな役割を担ったのがヌンでした。今回はヌン族の歴史と、彼らに纏わる人物についてご紹介します。


【ヌン族の来歴】
 ヌン族(Nùng, 儂族)はもともと中国雲南省周辺に住むチワン族(中央タイ系)の一派で、男性は傭兵になる者が多く、歴代の中国の王朝に兵士として仕えてきた為、漢語(広東語や客家語)や漢字(ヌンノム)など中華文化を色濃く受け継いでいた。
 ヌン族は16世紀ごろから戦乱続きの中国を逃れて南下し、現在のベトナム北東部山岳地帯にも広まった。ベトナム北東部に移住したヌン族は、同じ中央タイ系民族でベトナム北西部山岳地帯に住んでいるモン族らと連携し、山岳地帯の支配を目論むベトナム人(キン族)と戦ったが、最終的にキン族に敗れて大南国(阮朝ベトナム)に降った。一方、中国国内のヌン族は、1851年に『太平天国の乱』(1851~1864)に参加し、清国政府に反乱を起した。
 フランスによるインドシナの植民地化が進む中で、フランス人は中央タイ系山岳民族のヌン族(北東部)、モン族・トー族・ムオン族(北西部)を総称して『北インドシナ・モンタニャール』と呼んだ。1885年の天津条約によってフランス領インドシナの領域が確定すると、ヌン族の住む地域は正式に清国領・ベトナム領に分断された。しかし国境のある山岳地帯は両政府の支配が行き届いては居らず、ヌン族は依然として中国・ベトナムにまたがって生活していた。20世紀初頭には清国の革命家 孫文が中国南部(広西省。現在の広西チワン族自治区)およびベトナム北東部で多くのヌン族傭兵を雇い、清国政府および中国にも勢力を広げようとするフランス軍に対し攻撃を行った。また第二次世界大戦では、ヌン族は中国国民革命軍やベトミン(ベトナム独立同盟会)に参加して日本軍と戦った。
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