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2017年01月09日

ベトナム空挺の降下作戦1955-1975

 先日ジャンクションシティー作戦について記事を書きましたが、ジャンクションシティー作戦と言えばベトナム戦争中アメリカ軍が行った唯一のエアボーン作戦として有名ですよね。一方、第1次インドシナ戦争中に40回以上のエアボーン作戦に参加していたベトナム空挺部隊(フランス植民地軍時代含む)は、ベトナム戦争においても度々エアボーン作戦を実施していました。以下は1955年から1975年までにベトナム共和国軍が行ったエアボーン作戦の概要です。


ベトナム共和国軍空挺部隊のエアボーン作戦

空挺部隊が降下した地点
黒が陸軍空挺部隊(Binh Chủng Nhẩy Dù)
青がマイクフォース(Lực lượng xung kích cơ động)

 ヘリコプターの性能向上によってヘリボーンによる迅速な展開・強襲が可能になったことから、第1次インドシナ戦争期と比べるとエアボーン作戦の回数はかなり少なくなりましたが、それでも大規模な戦闘降下作戦は少なくとも13回は実施されたようです。
 なお、マイクフォースは特殊部隊の指揮下にありましたが、マイクフォース自体は小人数で偵察や破壊工作を行うコマンド部隊ではなく、中隊規模以上の戦力でエアボーンまたはヘリボーンによる強襲を行大規模な空中機動部隊でした。

日付: 1955年9月23日・24日
降下部隊: 空挺群
目的: ビンスェン派の掃討
領域: ベトナム共和国ジアディン省ズンサック

日付: 1962年3月5日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 守備隊の支援
領域: ベトナム共和国タイニン省ボートゥック

日付: 1962年7月14日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 待ち伏せ攻撃の支援
領域: ベトナム共和国ジアディン省サイゴン北部

日付: 1963年1月2日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 第7歩兵師団の支援(アプバクの戦い)
領域: ベトナム共和国ディントゥオン省アプバク

日付: 1965年8月3日
降下部隊: 空挺旅団
目的: ドゥッコー特殊部隊キャンプ奪還の支援
領域: ベトナム共和国プレイク省ドゥッコー

日付: 1965年11月
降下部隊: 空挺旅団
目的: 解放戦線部隊への強襲
領域: ベトナム共和国ビンディン省アンケー

日付: 1966年3月3日
降下部隊: 空挺師団
目的: 敵部隊への強襲
領域: ベトナム共和国フーイェン省ソンコウ

日付: 1966年12月27日
降下部隊: 空挺師団
目的: 解放戦線支配地域中心部の強襲
領域: ベトナム共和国チュンティエン省

日付: 1967年4月2日
降下部隊: 特殊部隊第5MSFC(第5マイクフォース), 第1MSF大隊, 第2・第3中隊
作戦: ハーヴェスト・ムーン作戦
兵員: 356名
領域: ベトナム共和国クアンドゥック省
降下地点: Bu Prang CIDG訓練キャンプ
航空機: C-130輸送機
降下方法: 昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ

日付: 1967年5月13日午前6時
降下部隊: 特殊部隊第5MSFC(第5マイクフォース), 第1MSF大隊, 第3・第4・第5中隊および4.2インチ迫撃砲小隊
作戦: ブラックジャック作戦
兵員: 486名
領域: ベトナム共和国チャウドゥック省バイニュー
降下地点:バイニュー付近の水田
降下方法:  昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ, 高度200mより水田上に降下

日付: 1967年10月5日
降下部隊: 特殊部隊第2MSFC(第2軍団マイクフォース)第2MSF大隊, 第24中隊・第25中隊
作戦: ブルーマックス作戦
兵員: 250名
領域: ベトナム共和国クアンドゥック省
降下地点: Bu Prang CIDG訓練キャンプ
降下方法:  昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ

日付: 1968年11月17日
降下部隊: 空挺師団
目的: 特殊部隊による掃討作戦の支援
領域: ベトナム共和国チャウドゥック省バイニュー

日付: 1972年5月4日
降下部隊: 空挺師団
目的: 進軍ルート(チューパオ・パス)の確保
領域: ベトナム共和国コントゥム省チューパオ


ベトナム共和国軍特殊部隊の越境エアボーン潜入作戦

▲NKTのコマンド部隊がエアボーンによって潜入した地点
北ベトナム領だけで少なくとも30カ所に上る。(南カリフォルニアNKTアソシエーション資料より)

  特殊部隊が敵地に潜入するために行う小人数のエアボーン降下は、空挺部隊が行ったものよりもはるかに多くの回数が実施されました。また潜入のための降下作戦は、低高度を飛行する輸送機から順に飛び出す通常のスタティックラインジャンプだけでなく、潜入作戦という都合上、より隠密性を高めるためにHALO(高高度降下低高度開傘)を、しかも夜間に行っていた点が通常の空挺部隊とは大きく異なっていました。
 ベトナム共和国軍特殊部隊による北ベトナムへの越境潜入は、1961年に開始されたパラソル・スイッチバック作戦に始まります。作戦はアメリカ軍MAAGベトナムおよびCIAによって指揮され、ゴ・ディン・ジェム総統直属の特殊作戦機関『地理開拓局(後のLLĐB)』がその実行に当たりました。この作戦はコマンド隊員が北ベトナムまたはラオス領内にエアボーン降下で潜入した後、民間人に成りすまして敵支配地域内に長期間潜伏し、諜報および破壊活動を行うという大規模なスパイ工作でした。そのため潜入要員は南ベトナムから来た者だと悟られないよう北部出身のベトナム人はたはヌン族の兵士が選抜されました。
 ゴ・ディン・ジェム政権崩壊後の1964年、ベトナム共和国軍特殊部隊LLĐBの対外工作部門(第45室)はLLĐBから分離され、新たに参謀総本部直属の特殊作戦機関SKT(後のNKT)として再編されます。そしてそのSKT/NKTが行う対外作戦の立案・指揮をアメリカ軍MACV-SOGおよびCIAが担っていきます。以後、MACV-SOGが計画しNKTが実行した越境作戦は大きく分けて2系統ありました。

OP-34 / OP-36 ※1967年12月にOP-34からOP-36に改称
敵性地域内での直接的なサボタージュ工作。米軍SOG-36およびSOG-37が担当。作戦は任務によってさらに三段階に分類される。
・OP-34A / OP-36A: NKT沿岸警備局およびNKT第68群が実行。パラソル・スイッチバック作戦に続く長期または短期潜入・諜報・破壊工作。
・OP-34B / OP-36B: NKT第11群が実行。STRATA(短期監視・目標捕捉)チームによる機動的なロードウォッチ任務
・OP-34C / オペレーション・フォーレ: 心理作戦

OP-35
敵性地域への偵察、破壊活動。NKT連絡部『雷虎』と米軍SOG-35合同のC&C部隊が実行。



※以下は特殊部隊が実施した越境エアボーン潜入作戦の一部ですが、元が秘密作戦だけあって具体的な回数や細かい日付は把握できていないものが多いです。今後資料を見つけ次第加筆修正していきます。

日付:1961年から1964年にかけて複数回
降下部隊: 総統連絡部 地理開拓局北方部 第77群
作戦: パラソル・スイッチバック作戦
領域: 北ベトナム, ラオス
航空機: C-46輸送機

日付:1964年から1967年にかけて複数回
降下部隊: SKT第68群
作戦: OP-34A
領域: 北ベトナム, ラオス

日付:1968年から1973年にかけて複数回
降下部隊NKT第68群
作戦: OP-36A / エルデストサン作戦
目的: 敵の弾薬集積地に潜入し、敵の使う銃弾に爆発物を仕込んだ物を紛れ込ます事で、敵兵に自軍兵器への不信感を抱かせ戦意を削ぐ
領域: 北ベトナム, ラオス, カンボジア
航空機: C-130またはMC-130輸送機
降下方法: 夜間HALO

日付: 1970年11月
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, CCN,  チーム・フロリダ
作戦: OP-35
兵員: 9名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法: 高度6400mより夜間HALO

日付: 1971年2月
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, CCN,  チーム・アラスカ
作戦: OP-35
兵員: 9名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法: 高度6400mより夜間HALO

日付: 1971年4月15日
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, 第1強襲戦闘団, チーム・ワンゼロ
作戦: OP-35
兵員: 4名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法:  高度6400mより夜間HALO

日付:1970年から1971年にかけて13回
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, C&C部隊
作戦: OP-35
領域: 北ベトナム, ラオス, カンボジア
降下方法: スタティックラインジャンプ



おまけ

▲一昨年カリフォルニアでお世話になったレ・ホアン少尉の、
STRATA時代(当時19歳)の写真。

なんか面白い銃持ってますね。


(再現図)

発想としてはシンプルだけど、意外なほど今まで見た事ないパターンだったので目からウロコです。
  


2016年11月15日

ベトナム共和国軍特殊部隊キャンプ



手持ちの資料を全てまとめた特殊部隊キャンプのリストを作成中。
まだまだ?マークが多いです。悔しい。いつか全ての空欄を埋めてやる・・・。

     

 色分けは、黄色がCIDG計画の中核でありながら、なぜか戦後のマニアからガン無視され続けるCSF (Camp Strike Force: キャンプ駐屯のストライクフォース)。ベトナムに派遣されたグリーンベレー隊員のほとんどはこのCSF付きアドバイザーだったのにね。
 青がCSFから発展した空中機動部隊MSF (Mobile Strike Force: 機動的なストライクフォース)。みんな大好き"MIKE Force (マイクフォース)"の事。実はCSFに比べて規模はかなり小さい。なお"C-1"~"C-5"という名称は5thSFGのCチーム(A~E中隊)の事なので、マイクフォースの部隊名として用いるのは不適当。
 橙色がLLĐB C5やNKT所属の偵察・コマンド部隊。多くはCIDG計画とは別に、ベトナム共和国軍の特殊部隊として創設された部隊なので、隊員はもともとLLĐBのキン族(ベトナム人)およびヌン族が主だった。(1960年代中盤、サイゴン政府とデガ・チャム族・クメール族などのFULRO系少数民族は内戦状態だった。) その後、60年代後半に米軍の仲裁で政府とFULROが部分的に和解し、さらにMSFの規模拡大によって空挺降下や偵察などの技能を持ったCIDG / DSCĐ兵士が増えると、米軍の意向で偵察・コマンド部隊にもFULRO系少数民族が加わる事となった。

 また一口に『キャンプ』と言ってもその種類は様々で、ベトナム戦争中にベトナム共和国軍およびその同盟軍が建設した防御拠点は以下に分類される。
・メインベースまたはベースキャンプ
・戦闘基地、前進作戦基地(FOB)、恒久着陸ゾーン
・射撃支援基地(FSB)
・特殊部隊キャンプまたはCIDGキャンプ
・フランス軍式要塞化陣地
・射撃支援パトロール基地(FSPB)、パトロール基地または前進射撃支援基地(FFSB)
・着陸ゾーン(LZ)
・戦略村
・夜間防御施設(NDP)

これらの内、今回表にまとめたキャンプは特殊部隊のメインベースおよびFOB、特殊部隊キャンプ、CIDGキャンプであり、それぞれの定義は概ね以下の通り。

メインベースまたはベースキャンプ
大規模な恒久施設からなる要塞化されたエリアのことで、飛行場を併設している。特殊部隊ではサイゴンのLLĐB/NKT本部、ニャチャンの5thSFG本部、およびLLĐBのC司令部(USSF Cチーム)が置かれた基地などがこれに当たる。

前進作戦基地(FOB)
メインベースを小型化したものだが恒久的な要塞化された防御陣地が付属しており、少なくとも滑走路が付属している。特殊部隊ではNKT連絡部コマンド"雷虎"のFOB 1~FOB 6や、MSFにおいて複数のFOBが建設された。

特殊部隊キャンプおよびCIDGキャンプ
FOBよりも小型であるが、恒久施設が存在する。通常、ヘリコプター用の着陸ゾーンはあるが固定翼機用の滑走路は無い。ベトナム、アメリカ軍の特殊部隊分遣隊Aチームが常駐し、その指揮下で1個大隊規模のCIDG / DSCĐ部隊が駐屯している。その周辺には兵士の家族用の住居も併設されている。

出典: 要塞戦記: ヴェトナム戦争アメリカ軍ファイヤーベース PART.1, 秋田郁夫, wardroom, 2011年



おまけ: 越米特殊部隊司令部スタッフ


LLĐB本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀本部内, 1968年8月)
5thSFGA司令ハロルド・アーロン大佐(左手前)とLLĐB司令ドァン・バン・クアン少将(右手前)


SKT本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀本部内, 1966年)
SKT司令チャン・バン・ホー大佐(中央左)と、MACV-SOG司令ジョン・シングラウブ大佐(中央右)


NKT本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀総本部内, 1970-1972年)
MACV-SOG司令ジョン・サドラー大佐(左端)と、NKT司令ドアン・バン・ニュー大佐(右端)
  


2016年07月20日

CIDG部隊指揮官ハ・キ・ラム大尉の経歴

前記事『CIDG計画の組織』の補足です。

 元ベトナム共和国陸軍大尉ハ・キ・ラム(Hà Kỳ Lam)氏のブログに、自身の経歴と当時の写真が掲載されていたので、その一部をご紹介します。ラム氏の軍歴は、1960年代~70年代にかけてCIDG(越語DSCĐ)部隊を指揮したLLĐB将校の典型であり、当時のLLĐBとCIDGの関係を示す良い例だと思います。

【本文・画像引用】
ハ・キ・ラム氏ブログ http://hakylam.com/?page_id=46

1960年 クアンナム省ホイアンで短期間教員を務める

▲教員時代のラム氏(1960年)

トゥドゥック予備士官学校13期卒業、陸軍少尉に任官
1963年 第22歩兵師団(コントゥン省ダクロタ)第40歩兵連隊第2大隊内の小隊長に着任
その後特殊部隊(LLĐB)へ異動。LLĐB将校として1964年から1970年まで国境LLĐBキャンプ(Căn cứ Biên phòng Lực Lượng Đặc Biệt)CIDGキャンプ・ストライク・フォースを指揮する。
※()内はキャンプ付き=CIDG計画担当グリーンベレー分遣隊

1964年 クアンナム省カムドク国境LLĐBキャンプ中隊長 (USSF A-105) 
1965年 クアンチ省ケサン国境LLĐBキャンプ中隊長(MACV-SOG FOB3)
1966年 トゥアティエン省アシャウ国境LLĐBキャンプ副指揮官
1966年 コントゥン省ダクサン国境LLĐBキャンプ指揮官(USSF A-245)
1967-1968年 プレイク省プレイメ国境LLĐBキャンプ指揮官(USSF A-255)
1968年 コントゥン省バンヘット国境LLĐBキャンプ指揮官
1968-1969年 コントゥン省ポレイクレン国境LLĐBキャンプ指揮官(USSF A-241)

LLĐB転科後(1964年)

ケサン国境LLĐBキャンプにて(1965年)

▲1968年当時のラム大尉

後に妻となるグエン・ティ・ニョンとサイゴンにて(1969年1月)

▲グリーンベレーマガジンに紹介されるラム大尉(1969年)
※この画像はグリーンベレーマガジンからの引用として英国の新聞に掲載されたものだが、キャプションに誤って1968年と記載されている

▲ポレイクレン国境LLĐBキャンプにて(1969年)

1970年、米軍グリーンベレーのベトナム撤退に伴いCIDG計画は終了し、国境LLĐBキャンプCIDG部隊はレンジャー科(BĐQ)に移管され、国境レンジャー(BÐQ Biên Phòng)へと改称される。
ラム大尉はBĐQに転科し、プレイク省の第81国境レンジャー大隊(旧・ドゥッコ国境LLĐBキャンプ)大隊長として引き続きCIDG部隊を指揮する。

▲作戦行動中のラム大尉(1970年11月)

▲大隊長として第81国境レンジャー大隊を閲兵するラム大尉(1971年)

1971-1974年 第3軍管区BĐQ司令部勤務
1974-1975年 アメリカ陸軍歩兵学校にて研修。IOAC-7/74(歩兵将校上級課程1974年7期)修了
1975年4月上旬 ベトナムに帰国

▲米国ジョージア州フォート・ベニング陸軍歩兵学校にて(1974年12月)

終戦後、共産政権に逮捕され収容所に6年間投獄される
1975-1976年 ビエンホア収容所(1年)
1976-1979年 ハノイ北西部ソンラ収容所(3年)
1979-1980年 ニェティン省タンキ収容所(2年)
1981年1月 釈放
1981年5月 家族を連れて47名の難民と共にボートでベトナムから脱出
3日後、公海上でフランスの貨物船に救助されシンガポールへ入港
1981年10月 UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の第三国定住プログラムによってアメリカに定住

 
現在米国ニュージャージー州で暮らすラム氏(2012年)



<参考動画>
ドン・バ・シンLLĐB訓練センターにおけるCIDG隊員への教練 (1970年6月)





  


2016年06月04日

CIDG計画の組織

関連記事: CIDGの人々

 ベトナム戦争時代、米軍グリーンベレーがベトナム共和国領内に住む少数民族や少数宗教軍閥に軍事教練を施し戦力として活用した『CIDG計画』の存在についてはマニアの間では割と知られた話だと思います。しかし、その運営実態については日本はおろか米国でも長年(たぶん意図的に)誤解を招く書かれ方をされていると感じています。
 その最たる例が、ベトナム共和国軍の特殊部隊であるマイクフォースやコマンド雷虎が、当たり前のようにアメリカ軍特殊部隊として書かれてしまっているという点で、これは大変な誤解です。確かにベトナム共和国軍特殊部隊の組織・ノウハウが発展途上であった1960年代においては、CIDG(越語: DSCĐ)部隊の指揮・運用の大部分を米軍グリーンベレーやMACV-SOGが担っていました。しかし彼らはあくまでベトナム共和国軍部隊運用支援を目的としたアドバイザー(軍事顧問)部隊であり、組織としてはCIDG兵士が所属する部隊は全てベトナム共和国軍の所管でした。つまり端的に言うと、マイクフォース(CIDG)にアメリカ人は一人も居らず、MACV-SOG(アドバイザー)にモンタニヤードは一人も居なかったのです。
 まぁ普通に考えても、アメリカ人がベトナムの少数民族兵になる事はないし、逆にアメリカ合衆国市民でない者がアメリカ軍人にはなれませんよね。これは単に、その部隊をどの国のものと捉えるかという言葉の定義の問題かも知れませんが、そこをはっきりさせない限り永遠に誤解し続ける事になります。
 という訳で今回はCIDG計画の組織について、僕なりにまとめました。


CIDG計画の基本構造

 そもそもCIDG計画はベトナム共和国の民間人に軍事教練を施し村落を武装化する(=不正規民間防衛隊)が目的であったため、1961年の計画開始当初から米軍グリーンベレー(第7および第1特殊部隊群)はベトナム共和国軍特殊部隊(地理開拓部。後のLLĐB)を支援する形でベトナム側と共同で運営に当たりました。
 最初に編成されたCIDG部隊はCSF (Camp Strike Force)で、1970年の計画終了までCIDG兵士の大半が所属する大規模な組織でした。このCSFはラオス・カンボジア国境を中心に全国に80カ所以上設置された特殊部隊キャンプに駐屯する歩兵部隊であり、ラオス・カンボジア領内のホーチミントレイル経由で侵入する共産軍を監視・撃退する事が主な任務でした。また同時に、兵士の家族を含む国境周辺の村落の住民をまるごとキャンプ内に移住させる事で戦略村(Strategic Hamlet)を構成し、住民と共産勢力との接触を避け、共産勢力の拡大阻止と住民の保護が図られました。


 その後、アメリカ・オーストラリア軍がベトナム戦争への介入を本格化させると、LLĐBは1965年にCIDG計画担当部隊の編制をグリーンベレーの編成に合わせてA, B, Cチームという三段階に改編し、米・豪軍との連携強化を推し進めます。


 また1966年には従来のCSFにエアボーン・ヘリボーン作戦能力を付加した空中機動部隊MSF (Mobile Strike Force / マイクフォース)の編成が始まり、CIDG部隊の役割は大きく拡大していきました。CIDG計画の中核を成すCSFはあくまで国境地帯の防衛を目的とした守備部隊でしたが、新設されたMSFは逆に常に攻撃任務に投入される強襲部隊であり、ベトナム共和国軍だけでなく米軍をはじめとする同盟軍の一般部隊が行う作戦へも増援として派遣されました。


 なお、資料によってはCIDG部隊を指して"C-〇"や"A-〇〇〇"という呼称が使われる事がよくありますが、実はこれらはそのCIDG部隊を担当する米・豪軍の軍事顧問チーム名であり、本来的にはCIDG部隊を指す呼称ではありません。CIDG部隊は米軍内の組織ではなくあくまでベトナム共和国軍の一部門であり、それぞれの部隊は独自の部隊名・番号を持っています。またLLĐBはグリーンベレー同様A, B, Cチーム編成となりましたが、そのチーム番号はグリーンベレーと異なる独自の編成となっています。現在私が確認している各LLĐB分遣隊は以下になります。

【CIDG部隊と担当LLĐB・グリーンベレーチームの例
Chi Linh CSF (LLĐB A-162, USSF A-333)
Tây Ninh CSF (LLĐB B-15, USSF B-32)
Đức Hòa CSF (LLĐB 第375中隊, USSF A-325)
第1軍団MSF, Da Nang (LLĐB B-21, USSF B-16)
第3軍団MSF, Long Hai (LLĐB B-36, USSF B-36)
第4軍団MSF, Can Tho (LLĐB B-19, USSF B-40)
第5MSF, Nha Trang (LLĐB B-22, USSF B-55)
第1MSF大隊, 第5MSFC (LLĐB 第522中隊, A-503 USSF)
これらはほんの一例ですが、LLĐBのチーム名に関する資料は少なく、まだこれだけしか把握できていません。またLLĐB側はAチーム(分遣隊)ではなく中隊がCIDGキャンプに駐屯する場合もあります。

【CSFの例】
看板中央がキャンプ地、つまりCSF大隊の部隊名を示しており、この部隊の名前は"Chi Linh" CSFとなります。次に看板左右の文字が、この部隊を担当するアドバイザー部隊の名称で、米/豪軍側が"A-333 / Co.A 5th SFGA (第5特殊部隊群A中隊=C-3)"。またA-333の上層はB-33 / C-3 / 5th SFGAという構成です。ベトナム軍側は"A-162 / BCH C3 LLĐB (特殊部隊C3司令部)"となります。

【MSFの例】
MSFはCSFと指揮系統が異なり、部隊名はキャンプ地名ではなく、"第1MSF大隊 / 第5MSFC (MSF司令部)"になります。米/豪軍チームはCSFと同様に"A-503"、上層は B-55 / C-5 / 5th SFGAという構成ですが、ベトナム軍側は"第522中隊"、上層はB-22 / BCH C5 LLĐBとなっています。

【第36MSFC(=第3軍団MSF)の例】
▲理由は不明ですが、なぜか第3軍団MSFだけはグリーンベレーとLLĐBのチーム番号が同じです。



偵察部隊におけるCIDG兵

 上記のCIDGキャンプに駐屯する部隊(CSFおよびMSF)とは別に、米越軍特殊部隊が共同運営する偵察部隊に在籍するCIDG兵士も存在しました。偵察部隊には大きく分けて二つの系統があり、一つが"ギリシャ文字系プロジェクト(オメガ・デルタ・シグマ・ガンマ作戦)"で、グリーンベレーC-5およびLLĐB C5司令部が合同指揮する国境パトロール部隊として主にベトナム領内のホーチミントレイル捜索の任に当たりました。もう一つがSOG-35およびNKT(技術局)連絡部が合同指揮するOP-35(C&C部隊)で、越境作戦のみを担当し、国境を越えてラオス、カンボジア領内への潜入偵察作戦を実行しました。
 ただし、これら偵察部隊には戦闘能力だけなく高い知識と技術が求められる事から、人員の大多数は高度な訓練を修了した正規のベトナム人特殊部隊員でした。一方、元々民間人である(しかも政府の人種隔離政策によって初等教育すら十分に受けられていない)CIDGが受けている軍事教練は、米・越軍一般兵の水準よりも低い簡易な歩兵戦闘訓練のみである為、偵察部隊に配属されるCIDG兵はMSFで経験を積み、その中から選抜され特に優秀な者に限られていました


なおOP-35は各C&C司令部(CCN, CCC, CCS)によって編成が大きく異なります。


 各ギリシャ文字系プロジェクト内には通常の偵察小隊に加えて"ロードランナー"チームが編成されました。ロードランナーは敵である共産軍の装備を身にまとって敵支配地域に潜入し情報収集を行うという危険な任務を遂行する部隊で、ベトナム人(LLĐB)のチームに加えて、CIDG兵で構成されたチームも存在しました。またC&Cでもベトナム人(コマンド雷虎)のチームと、CIDG兵で構成された偵察チームが混在していました。
 ただし、NKTもLLĐBもCIDGも同じベトナム共和国軍部隊である事から、アメリカ軍が作成した公式資料ではベトナム人と少数民族を区別せずまとめて"Vietnamese"と記している場合が多いため、どのチームがどの人種だったかははっきりしない部分が多いです。


CIDG計画終了後

 アメリカ軍のベトナム撤退に伴うベトナム共和国軍への業務移行、いわゆる『ベトナミゼーション政策』が始まると、米軍グリーンベレーが主導してきたCIDG計画は1970年に終了し、全てのCIDG兵士は他のベトナム共和国軍部隊に編入される事となりました。
 CIDGで最も人数が多いCSFは陸軍のレンジャー部隊(BĐQ)に編入され、1970年後半から1971年の始めにかけてキャンプ毎に国境レンジャー大隊(BÐQ Biên Phòng)として再編されました。国境レンジャーはその後、1970年のカンボジア進攻(トゥアンタン42作戦)や翌年のラオス進攻(ラムソン719作戦)などにおいて強襲部隊として最前線に投入され、ベトナム人司令官の指揮下で大きな戦果を残すともに、多大な損害を受け消耗していく事となります。



 一方、MSFやギリシャ文字系プロジェクトに所属していたCIDG兵はベトナム人特殊部隊員と比較しても遜色ないほどの高い戦闘能力を有していたことから、国境レンジャーとして消耗されることなく、長年共に戦ってきたLLĐB隊員たちと共にNKTに新設された作戦部(Sở Công Tác)に編入され、"コマンド黒龍"の一部として再編されました。




おまけ: 今年のアホカリの目標


上着なんて何でもいいから、とにかく褌をポチりましょう。


  


2016年01月13日

グリーンベレー"ベトナム"フラッシュ復活

アメリカ合衆国陸軍特殊作戦部隊"グリーンベレー"は、第5空挺特殊部隊群(5thSFG(A))のベレーフラッシュのデザインを更新し、その切り替えセレモニーを2016年3月26日にケンタッキー州フォートキャンベル基地で行う事を発表しました。
新たに制定されるベレーフラッシュは、1964年から1985年にかけて5thSFG(A)が使用してたデザインに回帰したもので、ベトナム派遣時代に制定された旧ベトナム共和国の国旗をあしらったデザインとなっています。
このベトナム国旗デザインの復活は、5thSFG(A)がベトナム戦争において多大な役割を担った事、また大規模な戦闘任務に従事した最初の米軍特殊部隊である事を称えるものとの事です。



アメリカ陸軍の公式記録によると、当時の5thSFG(A)司令官ジョン・H・スピアーズ大佐は1964年10月、グループのベレーフラッシュを斜めの黄色と赤のストライプに変更する事を認めるよう陸軍省に請願した。
このストライプは、戦争初期にベトナムに派遣されていた第1空挺特殊部隊群(1st SFG(A))および第7空挺特殊部隊群(7thSFG(A))が使用していたもので、第5特殊部隊群(5thSFG(A))はこのデザインを引き継いで第5グループの黒のベレーフラッシュに追加した。
またベトナム共和国国旗を表すこのストライプは、ベトナム共和国およびモンタニヤードに対し、彼らを心から支援するというグリーンベレーの姿勢をアピールするのにうってつけであり、ベレーフラッシュは1964年12月に正式に承認された。

スピアーズ大佐が陸軍省に提出した要望書 (1964年10月14日)

[1月16日追記]

▲ベトナム駐留1stSFG(A)および7thSFG(A)のベレーフラッシュ(1964年以前)

第1グループ(本部 沖縄)および第7グループ(本部 フォートブラッグ)は、1961年から1964年にかけて暫定的にベトナムに派遣されていたため、双方のベレーフラッシュ色、つまり第1の黄色、第7の赤を組み合わせたベトナム国旗柄のフラッシュが暫定ベトナム派遣特殊部隊のフラッシュとして考案、着用された。
その後1964年にベトナム共和国ニャチャンに第5グループが設置され第1、第7グループを統合すると、第5グループのフラッシュ色である黒に第1、第7を示すベトナム国旗柄が追加された。



以下、現5thSFG(A)司令官 ケビン・リーヒ大佐のコメント
「私は、我々第5グループの歴史が認められ、公式にベトナム時代のベレーフラッシュが復活した事をお伝えでき、大変誇りに思います。
これはベトナムにおいて、20個の議会名誉勲章と3つのオーストラリア・ビクトリア十字勲章を受章した第5グループ隊員たちの燦然と輝く勇気と名誉の証であります。
ストライプ(ベトナム国旗の事)の復活は、第5グループの歴史を物語ると共に、ベトナムで帰らぬ人となった800名を含む、全ての隊員たちの名誉を称えるものです。
またストライプの復活は、他の歴史を無視するものではありません。むしろこれは、ベトナム時代と、その後の湾岸戦争、ソマリア、アフガニスタン、イラク、そして今も続くISILとの戦いに挑む我が第5グループの歴史を結びつける物なのです。」

リーヒ大佐による公式発表


  


2015年12月13日

空挺コマンド

 英語圏のベトナム戦争関連書籍によく見られる誤解なのですが、プロジェクト・デルタを実行していたベトナム共和国軍の『Airborne Ranger (Biệt Cách Dù)』は、『Rnger (Biệt Động Quân)』とは全く別の部隊です。それらの書籍ではAirborne RangerはRangerの一部門としてプロジェクト・デルタに参加していたように書かれますが、実際には特殊部隊(LLĐB)の一部門であり、部隊の成り立ちを見れば、この二つは最初から別々の組織だという事が分かります
 なのに何故こんなに混同されてしまったかと言うと、それは単純に"Ranger"という訳語のせいです。戦争当時、アメリカ軍はベトナム共和国軍と合同で作戦を遂行するにあたり、べトナム側の軍事用語を英訳して使っていました。そしてその中で、似通った意味を持つ"Biệt Cách"と"Biệt Động Quân"という二つの言葉は、それぞれ同じ"Ranger"と英訳されてしまいました。アメリカ軍自身は当事者であるため、当然それが別の組織である事を認識していましたが、戦後のマニアはベトナム語資料を読むことを避け、英語でしか情報を得ようとしなかったため、この二つの"Ranger"を同じ組織だと誤解してしまったようです。
 僕的には、ベトナム共和国軍はフランス連合軍を前身としている組織である事から、Biệt Cáchはフランス語の"Commando"と訳した方が組織の伝統的にもしっくり来るし、またレンジャー部隊(BĐQ)との混同を避けるためにも、Biệt Cách Dùは"空挺コマンド"と日本語表記する事にしています。(ただしBĐQ同じくコマンドと言えるので、あくまで別部隊である事を明確にするための便宜的な使い分けに過ぎません。)

 とまぁ、誤解を解いてもらった上で、空挺コマンド部隊の略史をご紹介します。


コマンド部隊創設

※詳細は過去記事『NKT・SOG 対外特殊作戦(1)』参照

1956年、ゴ・ディン・ジエム総統(大統領)が特殊部隊の創設を指示。
1956年末、特殊作戦を統括する『総統府連絡局(Sở Liên lạc Phủ Tổng thống)』が、CIAの支援の下に設立。
1957年初頭、ブンタウで空挺降下・諜報活動の訓練が開始。その後、ニャチャンにおいて米軍MAAGのグリーンベレー第77特殊部隊群・機動訓練チーム(Mobile Training Team)によるコマンド訓練コース開始。
1957年11月、ニャチャンにおいてベトナム共和国軍初の特殊部隊、『第1観測隊(Liên đội Quan sát Số 1)』編成。
1958年、部隊は『第1観測群(Liên Đoàn Quan sát Số 1)』へ発展。同年、総統府連絡局内にコマンド部隊を統括する『地理開拓局(Sở Khai thác Địa hình)』を設置。
1961年、第1観測群は第77群 (Liên Đoàn 77)へ改称。同年、新たなコマンド部隊『第31群 (Liên Đoàn 31)』編成。
CIA・MAAGの指揮による北ベトナム・ラオス潜入工作『パラソル/スイッチバック作戦』(地理開拓局 北方部が担当)、ならびにCIDG計画(地理開拓局 南方部担当)が開始。
1963年2月、新たなコマンド部隊『第31群 (Liên Đoàn 31)編成。(2015年12月13日訂正・追記)
1963年3月15日、第77および第31群を総統府連絡局より分離、地理開拓局は『特殊部隊(Lực Lượng Đặc Biệt, LLĐB)』として再編される。
1963年11月1日、軍事クーデターによってジエム政権が崩壊。総統府連絡局LLĐB本部は一旦解体され、統合参謀本部の直接指揮下に置かれる。
その後、国外作戦を行うLLĐB司令部第45室(北方部)はLLĐBより分離され、統合参謀本部直属のSKT(後のNKT)に編入される。
国内作戦を担当する第55室(南方部)は引き続き米軍グリーンベレー第5特殊部隊群と合同でCIDG計画や心理戦、国境地帯の偵察作戦を実施。

▲地理開拓局 第77群本部(1961年 フートー)

  
▲第1観測群、第77、第31群 部隊章  

 
▲LLĐB部隊章 1963年(左) 、1964年以降(右)


プロジェクト・デルタ

1964年、グリーンベレー/LLĐBの合同作戦『プロジェクト・デルタ (Hành quân Delta)』が開始。
1964年9月、LLĐB第77群は『第301群』へ、第31群は『第3群』へ改称。
1964年11月、LLĐBはコマンド隊員を統合した『第91空挺コマンド大隊 (Tiểu Đoàn 91 Biệt Cách Dù)』を編成。

▲第91/81空挺コマンド大隊 部隊章
※2016年12月23日追記
第91空挺コマンド大隊の部隊章は第1歩兵師団強襲中隊"Hac Bao"とデザインが酷似していて紛らわしかったため、参謀総本部は1968年の第81空挺コマンド大隊への改編と同時に部隊章を廃止し、以後1970年まで部隊章が存在しなかった。(LD81BCNDベテランの証言より)

1965年、連携強化の為、グリーンベレーとの共同任務に当たるLLĐB部隊はグリーンベレーの編成に合わせて全国4つの戦略区に司令部(Cチーム)、その下にBチーム、Aチームを編成する。
(第91空挺コマンド大隊およびコマンド雷虎(MACV-SOG指揮下)はこの編成に含まれない)
1965年6月、第91空挺コマンド大隊がB-52プロジェクト・デルタに編入。偵察チームが発見した目標を強襲するデルタの主力部隊となる。

▲プロジェクト・デルタに編入された第91空挺コマンド大隊
(写真左: 1965~1966年頃、写真右: 1967年 ニャチャン)

▲プロジェクト・デルタの編成(1965年~1970年)

1968年1月30日、テト攻勢において第91空挺コマンド大隊はニャチャンの防衛に当たり、共産軍の撃退に成功。

▲ニャチャン市街の共産軍を掃討する第91空挺コマンド大隊(1968年2月テト攻勢 ニャチャン)

1968年5月、第91空挺コマンド大隊の三個中隊およびデルタ偵察チーム6部隊が統合され、『第81空挺コマンド大隊(Tiểu Đoàn 81 Biệt Cách Dù)』に改称。


1968年6月、共産軍掃討のためサイゴン北部に展開。1週間の戦闘の後、敵をサイゴンから撤退させることに成功。

プロジェクト・デルタ記念碑 (アメリカ陸軍フォートブラッグ基地)


総合予備部隊

1970年6月、アメリカ軍の撤退開始に伴い、CIDG計画やプロジェクト・デルタ、その他グリーンベレーとLLĐBの合同作戦は終了。
1970年8月、LLĐBは活動を終了し解隊。ほとんどのLLĐB所属者がCIDG部隊をBĐQ(レンジャー)に統合した国境レンジャー大隊 (BĐQ-BP)』、もしくはNKTに新設された作戦局『コマンド黒龍』に編入される。
1970年12月、第81空挺コマンド大隊は、『第81空挺コマンド群 (Liên Đoàn81 Biệt Cách Nhẩy Dù)』として再編成され、総合予備部隊となる
(総合予備部隊: 軍団に属さず、必要に応じて全国に展開する統合参謀本部直属の即応予備部隊。空挺師団・海兵師団も同様に総合予備部隊所属)
編成当初の兵力は約900名で、1個本部中隊、1個偵察中隊、7個強襲中隊からなる。
さらにその後も規模を拡大し、司令部と指揮支援中隊、3個の戦術司令部を持つ。各司令部は4つの強襲中隊を持ち、各隊は200名の隊員からなる。最終的に第81空挺コマンド群の兵力は3000名に上った。

▲第81空挺コマンド群 部隊章

 
第81空挺コマンド群の将兵
LLĐBは解散したが、第81空挺コマンド群だけはLLĐBの部隊表彰を継承しており、ベレー、部隊章、保国勲章飾緒を引き継いでいる。

1972年のイースター攻勢において、第81空挺コマンド群は包囲されたアンロクで基地強化の任務を行っていた。 
1972年4月、空挺コマンドはアンロク市南端からヘリで飛び立ち、空挺コマンドによる防衛ラインの最前線を形成しながら北へ前進。 
1ヵ月後、壮絶な戦闘で大きな損害を被りつつも、空挺コマンドは包囲を打ち破る事に成功する。 この犠牲と活躍にアンロク市民は感謝し、後に市民により記念碑が建設された。 

   
第81空挺コマンド群第3および第4強襲中隊 (1972年4月 アンロクの戦い)

1974年末、共産軍は第3軍管区フォクロン省フォクビンを包囲。第81空挺コマンド群は増援としてフォクロン南部地域の防衛を命じられる。
1975年1月5日朝、1個中隊が街の東部にヘリで飛び立ち、午後の早い段階で250名以上の空挺コマンドがフォクロンに到着。
1975年1月6日、共産軍の猛烈な攻撃により、元から配置されていた守備隊は敗走。共産軍が街を制圧すると、空挺コマンドとの連絡は途絶える。 
翌日、空挺コマンドの残存兵は街の北部で発見される。 以後4日間の捜索で救助された生存者は、部隊の約50%に過ぎなかった。 

 
フォクロンに出撃する第81空挺コマンド群 (1975年1月5日)

1975年3月、国土の北半分を失い、サイゴン政府は軍の再編成を試みた。 混乱する第2軍団から到着した第81空挺コマンド群は、バンタウで再編成が行われた。 
1975年4月半ばまでに、第81空挺コマンド群は第18歩兵師団の作戦指揮下となりスンロクに配置されたが、その地で壊滅的な損害を受けて撤退する。 (スンロクの戦い)
残存兵力はサイゴン防衛のため撤退し、タイニン、ビエンホアで最後まで抵抗を行ったが、4月30日の敗戦を回避することは出来なかった...


<ベテラン公式サイト>
グリーンベレーB-52: B-52 Project Delta

   


2015年11月03日

キャンプ・ストライク・フォース撮影会

何年も前からやりたかった、『1963~64年ごろのCIDGジャライ族キャンプ・ストライク・フォース』コスプレ撮影会がついに実現しました。(二人しかいないけど)
スマホで撮った写真でも、加工すればそれっぽくなりますね。EAの社長もこの写真見て喜んでくれました。




EAのベオガム(ベトナム語の発音では「ベオギュン」っぽい)迷彩服は話題になりましたね。

しかし、本来この服とセットであるべき自衛隊型(通称CIDG型)キャップは、どうせ出ないんだろうなと諦めていました。
それがちゃんと発売してくれたので、EAさん見直しましたよ。ありがとう!
このキャップはベオギュン迷彩服の他、タイガーやベトナム共和国軍制式作戦服、ブラックパジャマにも合わせられるので超便利です!

1963年のベトナム共和国軍第2軍団CIDGキャンプ・ストライク・フォース

またベオギュン迷彩は1968年ごろになっても見られるので、意外と長く使われていたようです。
  


2015年08月30日

目指せヌン族

引き続き来月のナム戦イベントに向けて

『第2回かめナベ会』 
日時:2015年9月12日~9月13日


ベトナム戦争においてCIDGとしてベトナム共産軍との激戦に身を投じたヌン族ですが、それ以前から彼らは20世紀という激動の時代に翻弄され、様々な勢力に取り込まれる事で幾多の激戦を経験してきました。彼らヌン族兵士の来歴を簡単にまとめると以下の流れになります。

1925年-1949年 中華民国国民革命軍
1951年-1954年 フランス植民地軍コマンドス・ノルトベトナム
1955年-1959年 ベトナム共和国軍ヌン師団(第6軽師団/第3野戦師団)
1959年-1975年 海燕特区(在越中国国民党軍閥)
1961年-1970年 ベトナム共和国軍/アメリカ軍CIDG
1970年-1975年 ベトナム共和国軍国境レンジャー(BDQ-BP)


このようにヌン族兵は中国国民革命軍(国民党軍)出身者が多く、国共内戦に敗れてベトナムに集団移住してからも自らを中国人と自負していたそうです。
そのヌン族を演じるにあたり、そういった背景を少しでも行動や生活の再現に反映していくのはヒストリカルイベント、リエナクトメントの醍醐味だと思いますので、手前味噌ですが中国語の号令を使ってみようと思います。
普段ヌン族が話すのは広東語や客家語なので普通話(現中国・台湾の公用語)とは異なりますが、軍隊で使う号令はおそらく国民革命軍時代から引き継いでると思います。
なので本来なら1949年以前の国民革命軍の号令を調べるべきですが、ちょっと面倒臭いので、国民革命軍の直系である中華民国軍(台湾軍)式でやっちゃいます。
参考にしたのは、ネットで拾った台湾の『學生總隊基本教練操作手冊』、およびYoutubeにあった『陸軍歩兵学校教学影片』です。


個人の動きである『單兵基本教練』は各自自習してもらうとして、『班基本教練』の整齊・報數(整列・点呼)の号令を見ていきます。

全体集合: 全體注意、集合!(チェンティーチュイー、ジフー!)

気をつけ: 立正!(リージョン!)

右へ倣え: 向右看齐!(シャウユウカーン チ!)

直れ: 向前看!(シャンチェーン カン!)

休め: 稍息!(ショウ シー!)

番号: 報數!(バオシュウ!)
※自衛隊では「番号(予令)・始め(動令)」となるが、民国軍では「報數」のみ

一(イー)
二(アール)
三(サン)
四(スー)
五(ウー)
六(ルー)
七(チー)
八(パー)
九(ジョウ)
十(シー)

敬礼: 敬禮!(ジンリ!)

ここまでやれればいいや。当日みんなで練習しましょう。
それ以上はどうせ覚えられないので、日本語(自衛隊式)でやっちゃいます。
号令以外では、この辺も使えそうですね。

助けて: 救命呀!(ガウメンアー!)【広東語】
衛生兵: 軍醫(ジンイー)
先生: 醫生(イーサン)

中国っぽい日本語という事で、つい「~アル」と喋りたくなりますが、あれは協和語という満州国でのみ使われた言葉で、ヌン族とは関係ないのでやめときましょう。


あとベトナム戦争時代のヌン族マイクフォース部隊では、フランス国旗(トリコロール)柄のネッカチーフが使われていたので、今回もこの自作品を身に付けようと思います。


実はこのトリコロール柄はヌン族だけでなく、複数のCIDG部隊で、他の民族にも使われていました。
その理由は長年謎だったのですが、最近糸口が見えてきました。
フランス領インドシナ時代、フランスはベトナム北西部にタイ族の自治領『タイ国(Pays Taï)』を19世紀末から設置していましたが、1946年に第一次インドシナ戦争が始まると、フランスはより一層少数民族たちを味方に引き込みベトミン掃討の為の戦力(GCMAやコマンドス・ノルトベトナム)として活用するため、以下の少数民族自治区を設置していきました。

南インドシナ・モンタニャール国(Xứ Thượng Nam Đông Dương)1946年
北インドシナ・モンタニャール国(Xứ Thượng Bắc Đông Dương) 1947年
ヌン族自治区(Khu tự trị Nùng) 1947年
タイ自治区(Khu tự trị Thái) 1948年
ムオン自治区(Khu Tự trị Mường)
メオ(モン族)自治区(Khu Tự trị Mèo)
トー自治区(Khu Tự trị Thổ)

そしてその内いくつかの民族自治区の旗は、宗主国であるフランス国旗を改編もしくはそのまま流用したものだったのです。

▲タイ自治区(1947-48年)

南インドシナ・モンタニャール国 (1946-1950)

▲ヌン族自治区

植民地支配を受けていたベトナム人にとってフランスからの独立は長年の悲願でしたが、ベトナム人から人種差別を受け続ける少数民族にとって、フランスは差別からの解放者であり、民族の保護者でもありました。
しかし、1954年にフランスがインドシナからの撤退を開始すると状況は一変します。ジュネーヴ協定によって北ベトナムにホー・チ・ミン政権(ベトナム民主共和国)が誕生し、また南ベトナムでも1955年に反仏派のゴ・ディン・ジエム政権(ベトナム共和国)が成立したによって、少数民族自治区は全て消滅してしまいました。そして彼らは自治権を剥奪され、南北ともに多数派のベトナム人(キン族)からの迫害を受けていく事になります。その為、1960年代になってもFULROなどの少数民族勢力はかつての民族自治区の復活を求め続けていました。
こうした背景から、ベトナム戦争中に見られるトリコロール柄ネッカチーフは旧民族自治区旗を意味しており、その民族のシンボルマークとして使われていたのでは?と考えるようになりました。それならトリコロールを使う民族が複数ある事も説明がつきます。
しかし、まだ僕一人が唱えてるだけの仮説の段階なので、今後も調べていきたいです。

▲ネッカチーフに加え、左胸の所属テープもトリコロール柄になってる例(マイクフォース部隊)



【今日の作業】

服にパッチを付けるので、パッチの台布に使う生地を選定。
これまで服を改造する度に出た端切れを後生大事に取ってあるので、生地には事欠きません。
もちろん全部リプロですが、これも僕にとってはこの趣味をやってく上で大切な財産です。

このように、当時はシルク織りやシルクプリント製パッチは、別の布で台座を作って、それから服に縫い付けられました。
今回は高校生の頃に買った懐かしのタイガーストライププロダクツ製生地を台布に使用。見えないお洒落ってやつです。

とりあえず服はこんな感じでいいかと。
最初はマイクフォース部隊テープ、米軍降下章、エアボーンタブなど当時CIDG隊員がよく付けていた徽章を全部付けちゃおうかと思いましたが、なんかカラフル過ぎて恥ずかしくなりそうなので、今回の目玉である階級章が目立つよう、このくらいシンプルなスタイルに留めておきます。
  


2015年08月26日

CIDG階級章

引き続き来月のナム戦イベントに向けて

『第2回かめナベ会』 
日時:2015年9月12日~9月13日


 前回の記事でチラッと書きましたが、CIDG部隊(民事戦闘団 / Lực Lượng Dân Sự Chiến Đấu)では当時、ベトナム共和国軍とは異なるCIDG独自の階級制度および階級章が使われていました。CIDGはベトナム共和国軍LLDB(特殊部隊)に所属する大規模な戦闘部隊ですが、『民事』の名の通り、彼らは正規のベトナム共和国軍とは異なる民兵という扱いでした。ただしCIDGと同様にベトコンからの村落防衛を目的とした民兵組織は他にも内務省民衛隊(1965年に陸軍部隊に昇格、義勇軍に改称)、人民自衛団(NDTV)、農村開拓団(XDNT)などがありましたが、CIDGが他の民兵と最も異なる点は、彼らがサイゴン政府の管理下にない少数民族および宗教軍閥のベトナム人で構成されていたことでした。その為CIDGの指揮は1961年から1968年までベトナム共和国軍ではなく、外国軍である米軍グリーンベレーおよび豪軍AATTVが担っており、CIDG兵士への給料もCIDG計画を主導するCIAの予算から出されていました。こうした経緯から、CIDGでは独自の階級制度が制定されたようです。
 しかし、これらCIDG階級章の存在は欧米のマニアの間でもほとんど知られておらず、詳しい情報がまったく入ってきません。インターネットが発達した昨今ではCIDG階級章が使われている当時の写真なんていくらでも見つける事が出来ますが、どこの国でも所詮『ナム戦マニア』が興味あるのはアメリカ兵のみなので、CIDGに関する事柄は見事にスルーされていますね。


▲CIDGの階級制度について (Mobile Strike Forces in Vietnam 1966-70, Gordon Rottman 37頁)
僕が知る限り、書籍で紹介された唯一の例


そんなCIDG階級章ですから、実物もリプロも入手できる見込みはありません。
なので、自分で作る事にしました。
ただし、当時の写真しか資料と呼べるものが無いので、細部は想像でやるしかありませんでした。



試作第一号(自分用)完成。





それっぽくは成ったかな。

もしかしたら世界初のリプロかも?


  


2015年08月24日

マイクフォースのパッチについて

前記事に引き続き、来月のナム戦イベントに向けてマイクフォース熱が急上昇しております。

『第2回かめナベ会』 
日時:2015年9月12日~9月13日

ただし、マイクフォース(MSF)の軍装については長年腑に落ちない部分を引きずっていました。
何が気に入らないかと言うと、これ↓

米軍5th SFGAベテランで組織されたMike Force Associationが、ノースカロライナ州フェイエットビルに建設したマイクフォース記念碑の一部です。
まぎれもなく元マイクフォース付きSF隊員本人たちによって作られたものであり、詳細な情報の少ないCIDG系資料としては第一級の信頼度だと思っていました。(過去形)
またパッチと部隊の組み合わせについては、国内外のディーラー・コレクターもここに記されたパターンと同じ認識を持っており、現在もなお定説となっています。

しか~し!当時の写真をよく調べると、実はこの定説に当てはまらないパターンが大量にあることが分かります。
日本の軍装マニアが崇拝する『洋書』も、僕の知る限りこの謎に明確な答えを出している本はありません。
これは当時パッチ以上に多用されたCIDG用階級章についても同じ事が言えます。

CIDGを愛する者として、もはやこの問題は無視できないので、この際一から調べなおす事にしました。
そんで、部隊名が判明しているマイクフォースの画像を可能な限り集めて分析しました。
その結果、実際にマイクフォースで用いられたパッチの組み合わせは、以下の図のようになる事が分かりました。

MSFC (Mobile Strike Force Command)はベトナム共和国軍の各軍団(=戦略区/CTZ)に設置されたマイクフォースの司令部。ただし5th MSFCは即応展開部隊なので軍団付ではない。各MSFCはおおよそ連隊規模のMSF歩兵部隊を持ち、5th SFGAのBチームの指揮下にある。その下位の各MSF大隊および中隊はAチーム(ODA)の指揮下にある。
よくマイクフォースの部隊名は"C-3"等と書かれるため僕もこれまで誤解してたけど、"Cチーム"はMSF以外の部隊も含む(と言うかMSFは少数派)5thSFGA中隊の事なので、マイクフォースを指すな場合は"〇 CTZ MSF"もしくは"〇th MSFC"とした方が適当なようです

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まず、『黒い鳥』のパッチは、確かにI CTZ MSFで間違いないようです。

▲I CTZ MSF (1st MSFC 第113MSF中隊)

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次に『ドラゴン』も、確かにII CTZ MSFで使われています。

▲II CTZ MSF (2nd MSFC)

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が問題。
これまでIII CTZ MSF用と言われていた『ジョリーロジャー』は、II・III・IV CTZ MSFの三部隊で使われていた事が確認できました。
また、このパッチは各CTZ、MSFCではなく、MSF全体の部隊章だったとする本もあります。確かにそう考えると複数のCTZにまたがって、かつ他のパッチと併用されてる事にも納得がいくのですが、なぜかI CTZ MSFおよび5th MSFでの使用例は見つける事が出来ませんでした。
なので現段階では、「三部隊で使用が確認されている」という表現に留めておきます。

 
▲II CTZ MSF (2nd MSFC)

▲III CTZ MSF (第3ヌン大隊)
後の36th MSFC 第363MSF大隊

 
▲IV CTZ MSF (4th / 40th MSFC エアボート中隊)

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同じくIV CTZ MSF用とされてきた『ナイフに稲妻』も、IIおよびIV CTZ MSFの二部隊で使用されていました。
これはMSF全体で使われたって事はなさそうなので、なぜこうなったのかよく分かりません。でも実際に二部隊で大々的に使用されています。

▲II CTZ MSF (2nd / 20th MSFC 第4MSF大隊)

▲IV CTZ MSF (4th / 40th MSFC エアボート中隊)

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『ナイフ・稲妻・石弓』のパッチは、定説どおり5th MSFのみで使われています。

▲5th MSF (5th MSFC)

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これは変り種ですが、II CTZ MSFでは、イーグルフライト小隊のみ別のパッチを使っています。
イークルフライトは2nd MSFC編成前の1965-1967年に存在した、マイクフォースの元祖にあたる最初の空中機動CIDG部隊です。
1967年までにII CTZ MSF 第21~23MSF中隊の三中隊がイーグルフライト小隊で構成されていました。

▲II CTZ MSF イーグルフライト小隊


以上がマイクフォースのパッチとして広く知られている5種ですが、実はこの後に新たなパッチが制定されます。

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1968年に米軍の撤退開始・ベトナム共和国軍への権限委譲を進める『ベトナミゼーション政策』が開始されると、マイクフォースも改編の対象となりました。
それまでマイクフォースやMGFといった各CIDG部隊は形式的にはベトナム軍LLDBの部隊でありながら実際の運用は米軍5th SFGAが担っていましたが、ベトナミゼーションによってCIDGの指揮権段階的にLLDBに移譲されていきました。
そして1968年10月16日、LLDBの子部隊であることを意識した『虎にパラシュート』のデザインのパッチが、新たにマイクフォース全部隊共通のパッチとして制定とされました。

▲II CTZ MSF (20th MSFC 第4MSF大隊)
従来のCTZ・MSFC部隊章は廃止されず、MSF全体を示す部隊章として併用された

▲IV CTZ MSF (40th MSFC)

▲II CTZ MSF (20th MSFC 第4MSF大隊)付きのLLDB一等中士(一等軍曹)

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ベトナミゼーションはその後さらに進み、米軍5th SFGAがベトナムから撤退したことでCIDG計画は終了します。
まもなく5th SFGAと合同でCIDG計画にあたっていたLLDBも解隊され、第81空挺コマンド群およびNKT作戦局コマンド『黒龍』として再編されました。
これによってマイクフォースを含む全CIDG部隊の指揮はLLDBからBDQ(レンジャー)へと移管され、1970年に国境レンジャー(BDQ-BP)として再編成されます。
そしてBDQの一部隊となったことでCIDG独自の徽章は廃止され、二度と復活することはありませんでした。

  
▲1970年以降のBDQ-BP部隊

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現状で僕が把握できているのはここまでです。
マイクフォースの写真は探せば沢山出てきますが、上記のようにII・III・IV CTZ MSFは同じパッチが使われていたので、キャプションにどの部隊か明記されていないと資料として使えないので困っちゃいます。
逆に言うと、一つのパッチで複数の部隊を演じられるんだからコスプレ的にはお得ですね。
けれど、こんなに書いておいて難ですが、個人のコスプレではなく集団で行うリエナクトメント的に考えると、一番良いのは服に『何もつけない』だと思ってます。
それはマイクフォースに限らず、米軍の陸軍・海兵隊歩兵部隊も一緒。だって当時はパッチ付けてない人の方が多いんですもん。
しかも、それなら「〇年〇月の〇〇の戦いを再現」と言われても、服を変えずに参加できますし。もちろん、設定が変わる毎に上着を新調するのも良いと思います。レプリカのTCUなんて5000円以下で買えますし。
そもそもリエナクトメントって本来、時間と場所を指定してタイムスリップ体験を行うもののはずなんですけどね。
そういう意味ではナム戦ヒストリカルイベントは日本でも海外でも、チームごとの設定の統一や分隊行動の再現を目指している所はあれど、全体(主催・参加者の総意)としてはまだコスプレ見せ合い会の域を出ていないんですよね。
いつかやりたいな、ちゃんとタイムスリップできるイベント。
  


2015年08月16日

儂族突撃隊

9月に群馬県でベトナム戦争ヒストリカルイベントが開催されます!

『第2回かめナベ会』 
日時:2015年9月12日~9月13日


僕らはこのイベントに、ベトナム共和国軍の『第3軍団機動強襲部隊(マイクフォース) ヌン族コマンド(儂族突撃隊)』役で参加するので、生活展示エリアに立てる部隊の看板を作成しました。

ホームセンターで買ってきた幅1.5mほどの板(黒に塗装済み)にアクリル塗料で筆塗り。
全部フリーハンドで書いた割には悪くないかな。
看板を立てる脚はこれから取り付けます。



【ヌン族について】

 マイクフォースを含む、ベトナム共和国軍特殊部隊(LLDB) およびアメリカ陸軍グリーンベレー(5thSFGA)が指揮する非正規部隊『民事戦闘団(Dân Sự Chiến Đấu / CIDG)』にはベトナムに住む多数の少数民族が参加していました。※過去記事『CIDGの人々』参照
中でも今回僕らが演じるのはヌン族(儂族)という中国南部チワン族系の民族の部隊です。

 ヌン族は代々傭兵を生業とする民族で、古くから歴代の中国王朝に兵士として仕えてきました。また近代に入ると大清帝国に反旗を翻し太平天国の乱や、孫文と共に辛亥革命にも参加します。
 その後も多くのヌン族が中国国民革命軍に所属し日中戦争で日本軍と戦いましたが、大戦後の国共内戦に敗れた為、国民革命軍所属のヌン族の多くがベトナム(仏領インドシナ)に避難しました。
 しかし当時の仏印は第1次インドシナ戦争の渦中にあり、フランスはヌン族に自治領(ヌン自治区)を与える見返りにフランス軍ヌン族コマンド部隊を編成します。中国共産党と戦っていたヌン族は共産主義を激しく憎んでおり、進んでベトミンとの戦いに挑んでいきました。
しかし1954年にフランスが撤退しホー・チ・ミン政権が成立すると、北ベトナム領に住む100万人のベトナム人および5万人のヌン自治区の住民が共産政権による弾圧を恐れて南ベトナム(当時ベトナム国)へと脱出します。
 南にたどり着いたヌン族はベトナム最南端のカマウ半島への移住を余儀なくされ、元々中国・ベトナム北部の山岳地帯に住んでいた彼らは、カマウ半島という(カマウ半島以外にも大勢移り住みました)見知らぬ土地で一から生活を再建せざるを得ませんでした。
※詳細は過去記事『ヌン族について その1』参照

 南ベトナムに移住後も、まだヌン族は仏軍時代の組織を引き継いでおり、男達は再び共産主義と戦うためベトナム共和国軍へと参加。元ヌン族コマンドで構成された第3野戦師団『ヌン師団』が編成されました。
 しかし第3野戦師団師団長ファム・バン・ドン大佐(ベトナム人だが妻がヌン族)がヌン族将兵から非常に強い支持を得ていた事に危機感を覚えたゴ・ディン・ジェム総統は突如ドン大佐を更迭します。そして、これに反発したヌン族将兵らは師団まるごとベトナム共和国軍から離脱しました。
 この後、元ヌン師団将兵はドン大佐および中国出身のカトリック神父グエン・ラック・ホアを指導者とし、カマウ半島において中国国民党の後継軍閥『海燕特区(ハイイェン)』を興します。ドン大佐は第2次大戦において仏軍植民地歩兵部隊指揮官として中国国民革命軍と共に中国国内で日本軍と戦った人物であり、またホア神父も中国人キリスト教徒による反共・抗日組織の指導者として中国国民党と深い繋がりのある人物でした。

ファム・バン・ドン大佐
後に少将に昇進、チュー政権においてベトナム共和国復員省長官を務める

グエン・ラック・ホア神父
出生名チェン・イーチェン。中国広東省出身の漢族だが、北ベトナム移住後にベトナムに帰化。



 1960年にベトナム共和国内に共産ゲリラ組織ベトコンが結成されベトナム戦争が始まると、アメリカ軍はベトナム共和国軍への軍事援助を行うと共に、少数民族を武装化することでベトコンの浸透を阻止するゲリラ掃討作戦『CIDG計画』をベトナム共和国軍特殊部隊と共同で開始します。一度はサイゴン政府に反発したものの、依然反共に燃える海燕特区のヌン族たちは、家族の住むカマウ半島を脅かすベトコンという新たな共産主義者と戦うため、このCIDG計画に参加します。19世紀末より100年以上戦いに明け暮れているヌン族は非常に高い戦闘能力と実戦経験を有しており、アメリカ軍は彼らヌン族の傭兵を基地警備やコマンド部隊に大々的に登用していきました。またアメリカはヌン族の存在を政治的に利用するため海燕特区へ秘密裏に武器の提供を行い、ヌン族軍閥を強化・親米化する事でサイゴン政府への圧力としていきました。

 
▲DSCD(CIDG)に参加したヌン族コマンド隊員たち
ヌン族は主に中国語(広東語)を使うためアメリカ軍から『チャイニーズ』と呼ばれた

▲マイクフォース編成にあたりヌン族コマンドに空挺降下教育を施すため米5thSFGAが設置したNung Jump School

 しかし1973年にアメリカはベトナム戦争から撤退。残されたヌン族らは南ベトナムの共産化をなんとしても阻止すべくベトナム共和国軍と共に最後まで戦いましたが、1975年にサイゴンが陥落しベトナム全土がベトナム共産党(当時労働党)の支配下に失陥します。中国、ベトナムと敗走を重ねたヌン族たちにもう逃げ場はなく、他の100万人のベトナム難民と同様、仲間と散り散りとなりながら着の身着のままでベトナムから脱出するしかありませんでした。こうして1975年、彼らの戦いの歴史に終止符が打たれたのでした。
 現在でも、彼らヌン族兵士の生き残りはアメリカや台湾で中国共産党・ベトナム共産党への抗議活動を続けています。

 
  


2014年11月23日

ベトナム軍の食事とPIRレーション

リエクトメントの楽しさは、単なるコスプレ戦争ゴッコに留まらず、当時の兵士の生活を再現し、一時のタイムスリップを体験できる事にあると思います。そして、その気分を盛り上げるにあたり、結構重要なのが食事。既に日本でも、趣味人口の多いアメリカ軍・日本軍・ドイツ軍などでは、いくつかのイベントで当時のフィールドキッチン、戦闘糧食の再現が行われていますね。あの完成度には感服です。
もちろん僕らベトナム共和国軍愛好家も、ある程度食事をベトナムっぽくしようという試みは行ってきました。しかし、その根拠となる資料・証言は、英語で書かれた洋書にはなかなか載っておらず、ほとんど想像でメニューを考えるしかありませんでした。
そこで今回、せっかくネットを通じて元ベトナム共和国軍将兵の方々とお知り合いになったので、(聞きたい事は山ほどあるけどあまり質問責めしたくないので、程々に雑談しながら)当人たちに直接「当時何を食べていましたか?」と尋ねてみました。
以下、その回答です。(画像はイメージです)

・典型的なメニューは、調理済みのお米(乾燥米?)に、魚や肉の干物、あるいは単にお米にニョクマムをかけるだけだったよ。

・作戦時の戦闘糧食は、ハムの缶詰、ビニールパックされたポークとレバーペースト、乾燥米だった。

・米軍のCレーション(MCI)食べてた。


・基地の食堂では、ほとんどが魚や豚肉の煮物と野菜、それにスープとご飯というメニューだった。

いやいや大変貴重な証言を頂けました。
もちろん年代や部隊・職種によって食事内容は様々だったでしょうが、初めて具体的なメニューを知ることが出来て感激です!
と言うか、"ハムの缶詰、ビニールパックされたポークとレバーペースト、乾燥米"ってそれ、最初からパッケージとして生産されたレーションっぽいですよね。
ベトナム軍にレーションが存在していた・・・。考えてみれば当たり前の事ですが、今までそういう話を聞いたことが無かったので、俄然テンション上がりました。
こりゃあ再現するしかないですね・・・
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2014年09月02日

いつもの独り言

新井エリーさんのファン感謝企画作品に応募しそびれた事を、僕は今でも後悔している。
もう新作が見れないと思うと残念でなりません。でも、音楽の世界でもきっと輝く人だと思います!応援してます!


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2014年03月04日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[4]

※2016年11月7日訂正・更新


 1970年以降、NKTは連絡部(雷虎)と作戦(黒龍)の二つのコマンド部隊を主力とし、ベトナム・ラオス・カンボジア国境三角地帯の南側を連絡部が、北側を作戦部がその管轄した。彼らは通常の偵察・情報収集に加えて、通信傍受、捕虜捕獲、道路爆破、そして航空・砲兵射撃への直接目標指示などの訓練を受けていた。1971年2月、NKTはベトナミゼーションに従い大規模な再編成が行われた。 拡大したNKTは本部、訓練センター、3個の支援部隊、そして6個の戦闘部隊からなる。()内は本部所在地

NKT本部(サイゴン・統合参謀本部内)
作戦情報(NKT本部内)
需品管理(NKT本部内)
心理戦(NKT本部内)
連絡(サイゴン)
作戦(ニャチャン/ダナン)
航空支援(ニャチャン)
沿岸警備(ダナン) 
クェッタン/イェンディ訓練センター(ロンタン)

 
NKTの最終的な編成(1973年) 右は原文
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2014年02月02日

テト年賀イラストまとめ

今年も、某県にある在日ベトナム仏教寺院で行われたテト(旧正月)のお祭に参加してきました!
(本当のテトは1月31日でしたが、平日なので日本の会社に勤めるベトナム人は仕事なため、お祭は日曜に開催されました。)
ベトナムの正月料理(お寺なので精進料理)やデザートを振舞って頂き、念願だった獅子舞も見れて最高でした!

しかし、先日このお祭をレポートすると書きましたが、ごめんなさい。やっぱやめておきます。
ベトナムの皆さんの文化や親切さを多くの日本人に知って欲しいという気持ちは強いのですが、僕のブログはミリタリー色が強すぎるので、そんな偏った日本人(彼らにしてみれば外国人)が神聖な寺に興味本位で来ていると思われると、今後の交流に差し障るので詳細は差し控えたいと思います。
僕の『趣味・遊び』の対象であるベトナム戦争は、彼らにとっては親や肉親の命を奪い、同族同士で殺し合い、国土を焦土と化した悲しすぎる歴史なので・・・。

代わりと言っちゃなんですが、前の記事のようにここ数年テト年賀イラストを描いてるので、今まで描いてきたものをご紹介します。
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2014年01月20日

あなたはなに族?

以前『CIDGの人々』の記事で紹介したように、CIDGにはデガ(タイグエン地方に住むモンタニヤード)以外にも多数の少数民族やキン族(ベトナム人)が所属していました。また、デガも大きく分けてオーストロネシア(マラヤ・ポリネシア)系とモン・クメール系の二派が居り、合わせて20以上の部族が存在していました。
この中で、ぱっと顔を見て明らかにキン族と違う人種だなと分るのは、ジャライ族・ラーデ族等のオーストロネシア系のデガと、同じくオーストロネシア系ですがベトナム中南部の沿岸地域に住んでいるチャム族くらいですかね。
一方、モン・クメール系のデガやクメール族はけっこう色黒ですが、キン族にも色黒で顔が濃い人も居るので、顔だけでは判断できません。
ヌン族に至っては比較的色白の人も多いし、顔もキン族と似通ってるので全く区別つきません。(そのお陰で人種迫害が比較的少なかった)
なので、当時の写真を見ても、撮影者が「○○族」とはっきり書いてない限り、見た目だけでどの人種か判断するのはけっこう難しいのです。

▲マイクフォースのヌン族兵士 キン族と見分けるの無理です
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2013年12月01日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[3]

※2016年11月7日訂正・更新


 1963年11月のクーデター後、ジェム総統とその側近タン大佐の私有機関であった"総統府連絡部"は解体され、その機能は統合参謀本部(BTTM)に移された。同じくタン大佐が創設した
陸軍特殊部隊(LLDB)もBTTMの管理下に置かれ、以後LLDBは対外工作任務から外されアメリカ軍特殊部隊と共に国境および村落の準軍事防衛戦力=CIDG計画の運営に当たった。対外工作については、BTTMの下に新たに連絡部(Sở Liên Lạc/リエゾン・サービス)が設置され、連絡のコマンド部隊がラオス、カンボジア領内への越境偵察を行う事となった。  続きを読む


2013年10月26日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[2]


 1963年、度重なるベトコンのテロ活動、そして反体制派の仏教徒や学生による暴動、それに対する凄惨な弾圧などでゴ・ディン・ジェム総統は民心はおろか軍部からの支持も完全に失っていた。1963年11月、ジェム政権に業を煮やした南ベトナム軍幹部と米国CIAはクーデターを実行し、8年間続いたジェムの独裁政権は崩壊した。このクーデターで、1957年以来ベトナムにおける特殊作戦の全権を握っていた総統府連絡・LLDB司令官レ・クアン・タン大佐は総統もろとも処刑された。
 クーデターの後、新たに樹立された軍事政権は、統合参謀本部(BTTM)を無視した総統権限の象徴である総統府連絡およびLLDB本部をすぐさま解体した。特に対北工作を専門とする地理開拓・北方コマンドはLLDBから完全に分離され、1964年に統合参謀本部参謀長の直接指揮下の新組織"開拓部(Sở Khai thác / SKT)"へと再編された。SKT初代司令官にはチャン・バン・ホー大佐が就任し、以後はSKTがベトナム戦争における特殊作戦の中枢を担う事となる。
 前・北方コマンド司令で、総統府連絡ナンバー2の地位にいたゴ・ディ・リン大佐はクーデターによる粛清をまのがれ、SKTに残留した。SKT発足から間もなく、リン大佐はSKT内にシーコマンド(Biệt Hải)部隊、および新設されたシーパトロール(Hải Tuần)部隊を統括するSKTの海洋・沿岸作戦部門、沿岸警備部(Sở Phòng vệ Duyên hải / SPVDH)を発足さ、自ら指揮を執った
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2013年10月18日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[1]

特殊作戦のはじまり(1956~1963年)

 1956年2月、ベトナム共和国総統ゴ・ディン・ジェムは、かつてフランス軍の特殊部隊である第11強襲空挺大隊が設立し、ジュネーブ協定後はニャチャンに移転していたGCMA(混成空挺コマンドグループ)のコマンド学校を、編成が待たれる南ベトナム軍特殊部隊の訓練センターとして再建するよう命じた。これを受けて米軍MAAG(軍事支援顧問グループ)の支援の下、最大100名に体力練成・コマンド訓練を施せる大規模な訓練センターが建設された。このニャチャン訓練センターは南ベトナム軍統合参謀本部・研究教育局(Nha Tổng Nghiên Huấn)の管理下に置かれた。
 1956年末、ジェム総統は米国CIAの要請により研究教育局を解隊し、新たに南ベトナムの情報戦・防諜戦略を担う情報機関"社会政治研究局(SEPES)"を設立した。SEPESはチャン・キム・トュエンを局長とし、フエの他、国外のビエンチャン、プノンペン、バンコク、クアラルンプール、シンガポールにも支局を有した。また、その人員の採用、コマンド訓練を行う"総統府連絡部(Sở Liên lạc Phủ Tổng thống)"も設立され、CIAより資金・作戦の支援を受けて活動を開始した。総統府連絡は、統合参謀本部の指揮系統に属さないジェム総統直属の機関であり、研究教育局司令・副指令だったレ・クアン・タン中佐とチャン・カク・キン大尉(当時)は新たに総統府連絡司令・副指令に任命された。タン中佐は南ベトナム軍空挺将校であり、同時にジェム総統の熱烈な支持者であった。また同のメンバーの多くは、北ベトナム領内での活動を考慮してベトナム北部出身者が選ばれた。

▲レ・クアン・タン大佐
研究教育局司令(~1956年)
総統府連絡司令(1956~1963年)
LLDB初代司令(1962~1963年)
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2013年09月11日

カウボーイ

僕には、この趣味をする上で最も影響を受け、バイブルと崇めている本があります。その名も、
ジム・モリス著「グリーン・ベレー -私はベトナム戦争を戦った-」(原題:WAR STORY)

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