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2017年08月01日

B-53とワン・ゼロ・スクール

先日、MACV-SOGの"ワン・ゼロ・スクール"を運営していたのはグリーンベレーのB-53分遣隊だったのか?というご質問を頂いたので、こちらで僕の認識を述べさせていただきます。

結論から言いますと、そう考えて差し支えないと思います。
まず、1964年の創設から1972年の活動終了まで、MACV-SOG全体としての役割は基本的に、ベトナム共和国軍の特殊作戦機関であるNKT(英略称STD)への支援業務であったため、作戦計画や組織の運営はSOGの各部署が担っていましたが、SOG所属のアメリカ兵のほとんどは司令部で勤務しており、前線に出撃する事はありませんでした。
ただしSOG Ground Studies Group (SOG-35)が1965年に開始したOP-35(作戦計画35)による偵察作戦だけは、NKT連絡部コマンド雷虎(英名: SCU)で構成されたチームのリーダー(One-Zero)をアメリカ兵が務める米越合同のC&C部隊によって実施されました。このOP-35/C&C部隊には、作戦開始当初から5th SFG B-53分遣隊のメンバーが参加しており、その後もB-53がC&Cの中心的な役割を担ったようです。
また同時に、NKT雷虎隊員へのSOG偵察訓練も、1965年以降B-53によってキャンプ・カムドク(Camp Kham Duc)で行われていました。後にサイゴン東部ロンタンに雷虎を含むNKTの各コマンド部隊への訓練を行うNKT訓練センター"クェッタン/イェンディ"(米軍名称: キャンプ・ロンタン)が創設されると、イェンディ/ロンタンはSOGの訓練・教育部門であるSOG-38が所管・管理していきますが、その訓練センターでインストラクターを担ったのもB-53でした。
その後、プロジェクト・オメガやシグマ、マイクフォースの一部がC&C部隊に統合され作戦の規模が一気に増大すると、元からいた各Bチーム隊員だけではC&C部隊を指揮するアメリカ兵が足りなくなったため、B-53はカムドクにおいて、新たにC&C部隊に補充されたグリーンベレー隊員向けに、チームリーダーとしての技術を教育する偵察訓練コース"One-Zero Reconnaissance Training Program"を開始します。これがワン・ゼロ・スクールと呼ばれる訓練になります。
このように当初OP-35/C&C部隊の主体だったB-53は、作戦の規模拡大に伴い、SOG-38の指揮下でその技術をNKT・C&C所属者たちに教育するインストラクター部隊へと変貌していったと考えられます。
なお、ワン・ゼロ・スクールは当初カムドクで行われていましたが、1968年のテト攻勢によってキャンプ周辺が戦闘地域と化し訓練が続行不可能となったため、1968年後半以降はロンタンのNKT訓練センターイェンディに統合され、キャンプ・カムドクは放棄されました。

▲MACV-SOG組織図に見るSOG-38とB-53の関係 ※クリックでチャート全体を表示
画像: NKTベテラン Pham Hoa氏のブログStrategic Technical Directorateより(http://historynkt.blogspot.jp)


イェンディNKT訓練センター(キャンプ・ロンタン)で教官を務めるB-53隊員と、訓練を受講するNKTコマンド隊員たち

▲同訓練センターでワンゼロ・スクール(ワンゼロ偵察訓練プログラム)を受講するCCC所属のグリーンベレー隊員たち


▲こちらのSOGベテランのサイト(http://www.macvsog.cc/sog_training.htm)には、ワンゼロ訓練プログラムにおける偵察訓練作戦中に、実際に敵に遭遇してしまい戦死した3名のアメリカ兵の名前と所属が掲載されていますが、B-53所属者はインストラクター、CCC所属者は生徒と記載されています。

まとめると、(1973年の米軍撤退完了まで)B-53分遣隊はSOG-38が所管するNKT訓練センターにおいて、訓練全般のインストラクターを担っており、その中にワン・ゼロ・スクールも含まれていた、と考えられます。

なお参考までに、空挺レンジャー(Airborne Ranger)という言葉は、広義にはNKTを含めた特殊部隊全体を指す場合もありますが、狭義の部隊名としては、プロジェクト・デルタの中核を成したベトナム陸軍特殊部隊(LLDB)第91/81空挺コマンド大隊のみを指します。
その場合、訓練はB-53が担当するロンタンのNKT訓練センターではなく、B-51が担当するニャチャンのドン・バ・ティンLLDB訓練センターで実施されていました。

以上が、現在の僕の認識です。今後新たな資料によって間違いが見つかるかもしれないので、その際は記事を訂正しますのでお許しください。
もう一点質問を頂いているB-57/プロジェクト・ガンマについては、また後日記事にさせて頂きます。もう少々お待ちください。
  


2017年01月09日

ベトナム空挺の降下作戦1955-1975

 先日ジャンクションシティー作戦について記事を書きましたが、ジャンクションシティー作戦と言えばベトナム戦争中アメリカ軍が行った唯一のエアボーン作戦として有名ですよね。一方、第1次インドシナ戦争中に40回以上のエアボーン作戦に参加していたベトナム空挺部隊(フランス植民地軍時代含む)は、ベトナム戦争においても度々エアボーン作戦を実施していました。以下は1955年から1975年までにベトナム共和国軍が行ったエアボーン作戦の概要です。


ベトナム共和国軍空挺部隊のエアボーン作戦

空挺部隊が降下した地点
黒が陸軍空挺部隊(Binh Chủng Nhẩy Dù)
青がマイクフォース(Lực lượng xung kích cơ động)

 ヘリコプターの性能向上によってヘリボーンによる迅速な展開・強襲が可能になったことから、第1次インドシナ戦争期と比べるとエアボーン作戦の回数はかなり少なくなりましたが、それでも大規模な戦闘降下作戦は少なくとも13回は実施されたようです。
 なお、マイクフォースは特殊部隊の指揮下にありましたが、マイクフォース自体は小人数で偵察や破壊工作を行うコマンド部隊ではなく、中隊規模以上の戦力でエアボーンまたはヘリボーンによる強襲を行大規模な空中機動部隊でした。

日付: 1955年9月23日・24日
降下部隊: 空挺群
目的: ビンスェン派の掃討
領域: ベトナム共和国ジアディン省ズンサック

日付: 1962年3月5日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 守備隊の支援
領域: ベトナム共和国タイニン省ボートゥック

日付: 1962年7月14日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 待ち伏せ攻撃の支援
領域: ベトナム共和国ジアディン省サイゴン北部

日付: 1963年1月2日
降下部隊: 空挺旅団
目的: 第7歩兵師団の支援(アプバクの戦い)
領域: ベトナム共和国ディントゥオン省アプバク

日付: 1965年8月3日
降下部隊: 空挺旅団
目的: ドゥッコー特殊部隊キャンプ奪還の支援
領域: ベトナム共和国プレイク省ドゥッコー

日付: 1965年11月
降下部隊: 空挺旅団
目的: 解放戦線部隊への強襲
領域: ベトナム共和国ビンディン省アンケー

日付: 1966年3月3日
降下部隊: 空挺師団
目的: 敵部隊への強襲
領域: ベトナム共和国フーイェン省ソンコウ

日付: 1966年12月27日
降下部隊: 空挺師団
目的: 解放戦線支配地域中心部の強襲
領域: ベトナム共和国チュンティエン省

日付: 1967年4月2日
降下部隊: 特殊部隊第5MSFC(第5マイクフォース), 第1MSF大隊, 第2・第3中隊
作戦: ハーヴェスト・ムーン作戦
兵員: 356名
領域: ベトナム共和国クアンドゥック省
降下地点: Bu Prang CIDG訓練キャンプ
航空機: C-130輸送機
降下方法: 昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ

日付: 1967年5月13日午前6時
降下部隊: 特殊部隊第5MSFC(第5マイクフォース), 第1MSF大隊, 第3・第4・第5中隊および4.2インチ迫撃砲小隊
作戦: ブラックジャック作戦
兵員: 486名
領域: ベトナム共和国チャウドゥック省バイニュー
降下地点:バイニュー付近の水田
降下方法:  昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ, 高度200mより水田上に降下

日付: 1967年10月5日
降下部隊: 特殊部隊第2MSFC(第2軍団マイクフォース)第2MSF大隊, 第24中隊・第25中隊
作戦: ブルーマックス作戦
兵員: 250名
領域: ベトナム共和国クアンドゥック省
降下地点: Bu Prang CIDG訓練キャンプ
降下方法:  昼間低高度戦術人員一斉スタティックラインジャンプ

日付: 1968年11月17日
降下部隊: 空挺師団
目的: 特殊部隊による掃討作戦の支援
領域: ベトナム共和国チャウドゥック省バイニュー

日付: 1972年5月4日
降下部隊: 空挺師団
目的: 進軍ルート(チューパオ・パス)の確保
領域: ベトナム共和国コントゥム省チューパオ


ベトナム共和国軍特殊部隊の越境エアボーン潜入作戦

▲NKTのコマンド部隊がエアボーンによって潜入した地点
北ベトナム領だけで少なくとも30カ所に上る。(南カリフォルニアNKTアソシエーション資料より)

  特殊部隊が敵地に潜入するために行う小人数のエアボーン降下は、空挺部隊が行ったものよりもはるかに多くの回数が実施されました。また潜入のための降下作戦は、低高度を飛行する輸送機から順に飛び出す通常のスタティックラインジャンプだけでなく、潜入作戦という都合上、より隠密性を高めるためにHALO(高高度降下低高度開傘)を、しかも夜間に行っていた点が通常の空挺部隊とは大きく異なっていました。
 ベトナム共和国軍特殊部隊による北ベトナムへの越境潜入は、1961年に開始されたパラソル・スイッチバック作戦に始まります。作戦はアメリカ軍MAAGベトナムおよびCIAによって指揮され、ゴ・ディン・ジェム総統直属の特殊作戦機関『地理開拓局(後のLLĐB)』がその実行に当たりました。この作戦はコマンド隊員が北ベトナムまたはラオス領内にエアボーン降下で潜入した後、民間人に成りすまして敵支配地域内に長期間潜伏し、諜報および破壊活動を行うという大規模なスパイ工作でした。そのため潜入要員は南ベトナムから来た者だと悟られないよう北部出身のベトナム人はたはヌン族の兵士が選抜されました。
 ゴ・ディン・ジェム政権崩壊後の1964年、ベトナム共和国軍特殊部隊LLĐBの対外工作部門(第45室)はLLĐBから分離され、新たに総参謀部直属の特殊作戦機関SKT(後のNKT)として再編されます。そしてそのSKT/NKTが行う対外作戦の立案・指揮をアメリカ軍MACV-SOGおよびCIAが担っていきます。以後、MACV-SOGが計画しNKTが実行した越境作戦は大きく分けて2系統ありました。

OP-34 / OP-36 ※1967年12月にOP-34からOP-36に改称
敵性地域内での直接的なサボタージュ工作。米軍SOG-36およびSOG-37が担当。作戦は任務によってさらに三段階に分類される。
・OP-34A / OP-36A: NKT沿岸警備局およびNKT第68群が実行。パラソル・スイッチバック作戦に続く長期または短期潜入・諜報・破壊工作。
・OP-34B / OP-36B: NKT第11群が実行。STRATA(短期監視・目標捕捉)チームによる機動的なロードウォッチ任務
・OP-34C / オペレーション・フォーレ: 心理作戦

OP-35
敵性地域への偵察、破壊活動。NKT連絡部『雷虎』と米軍SOG-35合同のC&C部隊が実行。



※以下は特殊部隊が実施した越境エアボーン潜入作戦の一部ですが、元が秘密作戦だけあって具体的な回数や細かい日付は把握できていないものが多いです。今後資料を見つけ次第加筆修正していきます。

日付:1961年から1964年にかけて複数回
降下部隊: 総統連絡部 地理開拓局北方部 第77群
作戦: パラソル・スイッチバック作戦
領域: 北ベトナム, ラオス
航空機: C-46輸送機

日付:1964年から1967年にかけて複数回
降下部隊: SKT第68群
作戦: OP-34A
領域: 北ベトナム, ラオス

日付:1968年から1973年にかけて複数回
降下部隊NKT第68群
作戦: OP-36A / エルデストサン作戦
目的: 敵の弾薬集積地に潜入し、敵の使う銃弾に爆発物を仕込んだ物を紛れ込ます事で、敵兵に自軍兵器への不信感を抱かせ戦意を削ぐ
領域: 北ベトナム, ラオス, カンボジア
航空機: C-130またはMC-130輸送機
降下方法: 夜間HALO

日付: 1970年11月
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, CCN,  チーム・フロリダ
作戦: OP-35
兵員: 9名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法: 高度6400mより夜間HALO

日付: 1971年2月
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, CCN,  チーム・アラスカ
作戦: OP-35
兵員: 9名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法: 高度6400mより夜間HALO

日付: 1971年4月15日
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, 第1強襲戦闘団, チーム・ワンゼロ
作戦: OP-35
兵員: 4名
領域: 北ベトナム(ベトナム民主共和国)
降下方法:  高度6400mより夜間HALO

日付:1970年から1971年にかけて13回
降下部隊NKT連絡部『雷虎』, C&C部隊
作戦: OP-35
領域: 北ベトナム, ラオス, カンボジア
降下方法: スタティックラインジャンプ



おまけ

▲一昨年カリフォルニアでお世話になったレ・ホアン少尉の、
STRATA時代(当時19歳)の写真。

なんか面白い銃持ってますね。


(再現図)

発想としてはシンプルだけど、意外なほど今まで見た事ないパターンだったので目からウロコです。
  


2016年11月15日

ベトナム共和国軍特殊部隊キャンプ



手持ちの資料を全てまとめた特殊部隊キャンプのリストを作成中。
まだまだ?マークが多いです。悔しい。いつか全ての空欄を埋めてやる・・・。

     

 色分けは、黄色がCIDG計画の中核でありながら、なぜか戦後のマニアからガン無視され続けるCSF (Camp Strike Force: キャンプ駐屯のストライクフォース)。ベトナムに派遣されたグリーンベレー隊員のほとんどはこのCSF付きアドバイザーだったのにね。
 青がCSFから発展した空中機動部隊MSF (Mobile Strike Force: 機動的なストライクフォース)。みんな大好き"MIKE Force (マイクフォース)"の事。実はCSFに比べて規模はかなり小さい。なお"C-1"~"C-5"という名称は5thSFGのCチーム(A~E中隊)の事なので、マイクフォースの部隊名として用いるのは不適当。
 橙色がLLĐB C5やNKT所属の偵察・コマンド部隊。多くはCIDG計画とは別に、ベトナム共和国軍の特殊部隊として創設された部隊なので、隊員はもともとLLĐBのキン族(ベトナム人)およびヌン族が主だった。(1960年代中盤、サイゴン政府とデガ・チャム族・クメール族などのFULRO系少数民族は内戦状態だった。) その後、60年代後半に米軍の仲裁で政府とFULROが部分的に和解し、さらにMSFの規模拡大によって空挺降下や偵察などの技能を持ったCIDG / DSCĐ兵士が増えると、米軍の意向で偵察・コマンド部隊にもFULRO系少数民族が加わる事となった。

 また一口に『キャンプ』と言ってもその種類は様々で、ベトナム戦争中にベトナム共和国軍およびその同盟軍が建設した防御拠点は以下に分類される。
・メインベースまたはベースキャンプ
・戦闘基地、前進作戦基地(FOB)、恒久着陸ゾーン
・射撃支援基地(FSB)
・特殊部隊キャンプまたはCIDGキャンプ
・フランス軍式要塞化陣地
・射撃支援パトロール基地(FSPB)、パトロール基地または前進射撃支援基地(FFSB)
・着陸ゾーン(LZ)
・戦略村
・夜間防御施設(NDP)

これらの内、今回表にまとめたキャンプは特殊部隊のメインベースおよびFOB、特殊部隊キャンプ、CIDGキャンプであり、それぞれの定義は概ね以下の通り。

メインベースまたはベースキャンプ
大規模な恒久施設からなる要塞化されたエリアのことで、飛行場を併設している。特殊部隊ではサイゴンのLLĐB/NKT本部、ニャチャンの5thSFG本部、およびLLĐBのC司令部(USSF Cチーム)が置かれた基地などがこれに当たる。

前進作戦基地(FOB)
メインベースを小型化したものだが恒久的な要塞化された防御陣地が付属しており、少なくとも滑走路が付属している。特殊部隊ではNKT連絡部コマンド"雷虎"のFOB 1~FOB 6や、MSFにおいて複数のFOBが建設された。

特殊部隊キャンプおよびCIDGキャンプ
FOBよりも小型であるが、恒久施設が存在する。通常、ヘリコプター用の着陸ゾーンはあるが固定翼機用の滑走路は無い。ベトナム、アメリカ軍の特殊部隊分遣隊Aチームが常駐し、その指揮下で1個大隊規模のCIDG / DSCĐ部隊が駐屯している。その周辺には兵士の家族用の住居も併設されている。

出典: 要塞戦記: ヴェトナム戦争アメリカ軍ファイヤーベース PART.1, 秋田郁夫, wardroom, 2011年



おまけ: 越米特殊部隊司令部スタッフ


LLĐB本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀本部内, 1968年8月)
5thSFGA司令ハロルド・アーロン大佐(左手前)とLLĐB司令ドァン・バン・クアン少将(右手前)


SKT本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀本部内, 1966年)
SKT司令チャン・バン・ホー大佐(中央左)と、MACV-SOG司令ジョン・シングラウブ大佐(中央右)


NKT本部(サイゴン, ベトナム共和国軍総参謀部内, 1970-1972年)
MACV-SOG司令ジョン・サドラー大佐(左端)と、NKT司令ドアン・バン・ニュー大佐(右端)
  


2016年10月15日

NKT雷虎について

NKTおじさんの戦友で元雷虎隊員のダニエルおじさんから聞いた話をご紹介します。

ダニエル・フォーこと、フォー・コック・ユン氏。米国で開催されたNKTベテランの集会にて。
ベトナム戦争時代、ユン氏はベトナム共和国軍の特殊作戦機関"NKT(技術局)"内のコマンド部隊"雷虎(Lôi Hổ)"に所属していました。


ユンが1960年代末に所属していたNKT連絡部"雷虎" CCNの偵察チーム(RT)ダコタ。1968年9月18日
上段右から2番目がユン氏。バンダナを巻いた2名の白人がチームを指揮するアメリカ軍SOG-35 CCNの隊員。

NKTと雷虎の歴史についてはこちらも参照


タイガ:
雷虎の隊員はLLĐBからNKTに編入されたのですか?また他の部隊から移ってきた人も居ましたか?

フォー・コック・ユン
雷虎がSOGの指揮下にあった1966年から1970年頃にかけては、LLĐB出身もいるし、空挺師団出身も確か居たよ。
その後、1970年末にLLĐBが解散すると、プロジェクト・デルタのチームがNKTに編入されたんだ。
(筆者注: その為NKT内に連絡部に加えて作戦部"黒龍"が編成されNKTは規模を拡大した)
また雷虎の中でもSCU(Special Commando Unit)として知られる、ヌン族、モンタニヤード、クメール族、ベトナム人で構成されたSOG指揮下の民族別チームも、1970年から1971年にかけてベトナミゼーションの一環として雷虎に再統合されたよ。
ただし全てのSCUが移った訳ではなく、一部は故郷に帰って陸軍一般部隊に加わったようだ。
共にSOGチームとして戦ってきた勇敢な男たち(SCU)が加わったことで、雷虎チームはより精強になったよ。
しかしSOGから特殊作戦の全権を引き継いだNKTは、これまで以上に危険な任務に挑む事になったんだ。

この写真を見てくれ。左の男は雷虎に編入されたSCU隊員で、ユニフォームに雷虎の部隊章とAIRBORNEタブを着けている。
多分彼はCCCかCCS所属のジャライ族とかのモンタニヤードか、クメール族だ。
第3軍団のQuảng LợiかLộc Ninhでの写真だったと思う。

タイガ:
SOGは日本のミリタリーファンの間でも有名ですが、残念ながら実際にチームを構成していた雷虎やSCU、そしてNKTの存在についてはまだまだ知られていません。
ちなみに、あなたの写真(上のRTダコタの写真)を私のブログに載せていいですか?

フォー・コック・ユン
私のチームの写真は、すでに誰かに右側の文字の部分を切り取られてインターネットで転載されているようだね。
フェイスブックでこの写真をプロフィール画像にしているベトナム人の若者を見るよ。ハハハ
でも私は気にしていないよ。些細な事さ。
しかし、(インターネットで)この写真がSEALとして紹介されているのを見付けた時は困ったよ。
似たようなものに見えるかもしれないけど、違うんだよ。
SEALは顔を緑に塗るし、ライフジャケットと1・2日間の作戦用のデイパックしか身に付けない。
SOGは顔を黒に塗り、ロープを携帯し、5日間の作戦用にバックパックを背負うんだよ。

私たちを指導したMACV-SOG(SOG-35)の隊員たちは軍服の左胸ポケットに雷虎の部隊章を付けていたよ。
奥のNKT連絡部所属者はSOGとの調整役だった。

その後、1970年から1973年にかけてベトナミゼーションが進行し、SOGがベトナムから撤退する過程で、雷虎CCNは第1強襲戦闘団(Chiến Đoàn 1 Xung Kích)へと改編された。CCC、CCSも同様に第2、第3強襲戦闘団として再編されたよ。
同時に、SOG-35もSMAG (Special Mission Advisory Group)へと改称され、引き続きNKT連絡部と共に作戦の指揮を執っていたよ。

タイガ:
"雷虎"は、連絡部本部勤務者も含むのですか?それとも前線のコマンド部隊のみを指すのですか?

フォー・コック・ユン
雷虎の公式な組織名が連絡部(Sở Liên Lạc)だよ。しかし敬意をこめて、いまだに雷虎の名で呼ばれているのさ。
ちなみにこれはNKT訓練センターのSOGアドバイザーチームが写っている写真だよ。

タイガ:
この服のレプリカ持ってますわ。

フォー・コック・ユン
私はこれと似た服を着ていたけど、袖と脚にコンパスやタバコを入れる小さいポケットが付いていたよ。
CISOや沖縄メイドと呼ばれるやつさ。

タイガ:
これですか?

フォー・コック・ユン
そう!まさにその服を着ていた。
また、作戦時は時々、スプレーで迷彩を描く代わりに、この服を黒く染めたものを着ていたよ

▲作戦中のユン氏(右)

▲同じくユン氏。1970年以前、クアンチ省DMZ/ニッケル・スチールOA付近にて
黒染めのCISOファティーグを着て、顔をまっ黒に塗っている。

日本・沖縄のCISOから送られてくるMACV-SOG向けの装備は、まず最初にダナンのCCNに届くんだよ。
だからCCNは他のC&C部隊の装備を真似する必要はなかった。
我々CCNはC&C兄弟のお兄さんだったんだ。へへへ

これはダナン市ノンヌックにあったCCN FOB4の偵察チームの写真だけど、この中共式AKマガジンポーチをよく見てくれ。一つのポケットにマガジンが2本入るよう厚くなっていて、スナップボタンで留めれるようになっているんだよ。
あと、チームリーダーだけは新品のXM177を持ってるけど、あとのメンバーはみんな収縮式バットストックをM16の固定式に変えてある。
これらの装備は全部日本・沖縄のCISOから送られてきた物さ。

当時、一部の人はCCNの"North"を"North Vietnam"の事だと思い、我々が北ベトナム領内に駐屯していると勘違いしたんだ。
実際は南ベトナムの北部、DMZの南側およびラオス中部国境の辺りだよ。"ニッケル・スチール・オペレーション・エリア (Nickel steel OA)"ってやつさ。
なので我々CCNのチームは1971年に開始されたラオス侵攻作戦"ラムソン719"に先駆けて、1970年12月から1971年1月までラオス領内に先行して潜入していたよ。
CCCはベトナム、ラオス、カンボジア三角国境あたりだね。

これは君の写真だね?


タイガ:
はい、そうです。本物の雷虎隊員に見られるのは恥ずかしいですが。へへ

フォー・コック・ユン
私があの部隊を愛しているように、君もあの部隊を愛してるという事さ。
恥ずかしがる事はないよ。

私が知っている範囲で君に言える事は以上だよ。はっきりとした答えを探すには時間と手間がかかるよ。
その人が経験した活動や条件によって見解は異なるからね。ハハ
何が言いたいかというと、私は一介の兵士に過ぎないという事さ。私はただ訓練された事をやっていただけだよ。
ただ一つ言えるのは、私たちの活動は、君たちの活動(リエナクト)よりもずっと陰惨だったという事さ。
タイガ:
ありがとうございます。大変勉強になりました。


【あとがき】
以前ちょっと書きましたが、このダニエルおじさんの妹さんが東京都内でベトナム料理レストランを経営しているので、以前食べに行ってご挨拶させていただきました。
その妹さんが先日、誕生日を迎えたので、彼女のフェイスブックには日本で知り合った友人やお客さんたち(主に中年の主婦)から沢山のおめでとうコメントが寄せられていましたが、その中に混じってダニエルおじさんやNKTおじさん等NKTベテランたちのコメントが並んでいました。
日本の主婦と、20世紀を代表する特殊部隊の兵士たちが同じ場所で話している光景はなかなかシュールで、つい笑ってしまいました。
しかし少し見方を変えると、彼ら特殊部隊員もまた家族を思いやるごく普通の人間であり、戦争さえなければ人を殺すという経験をする事も、故郷を捨ててアメリカに亡命する事もなかったはずです。
私はマニアとして彼ら軍人に対しカッコいいという憧れを抱いてしまいますが、同時に人間としては、人生から取り返しのつかない大きなものを失ってしまった人たちなのだと、時々思い起こされます。
  


2016年06月04日

CIDG計画の組織

関連記事: CIDGの人々

 ベトナム戦争時代、米軍グリーンベレーがベトナム共和国領内に住む少数民族や少数宗教軍閥に軍事教練を施し戦力として活用した『CIDG計画』の存在についてはマニアの間では割と知られた話だと思います。しかし、その運営実態については日本はおろか米国でも長年(たぶん意図的に)誤解を招く書かれ方をされていると感じています。
 その最たる例が、ベトナム共和国軍の特殊部隊であるマイクフォースやコマンド雷虎が、当たり前のようにアメリカ軍特殊部隊として書かれてしまっているという点で、これは大変な誤解です。確かにベトナム共和国軍特殊部隊の組織・ノウハウが発展途上であった1960年代においては、CIDG(越語: DSCĐ)部隊の指揮・運用の大部分を米軍グリーンベレーやMACV-SOGが担っていました。しかし彼らはあくまでベトナム共和国軍部隊運用支援を目的としたアドバイザー(軍事顧問)部隊であり、組織としてはCIDG兵士が所属する部隊は全てベトナム共和国軍の所管でした。つまり端的に言うと、マイクフォース(CIDG)にアメリカ人は一人も居らず、MACV-SOG(アドバイザー)にモンタニヤードは一人も居なかったのです。
 まぁ普通に考えても、アメリカ人がベトナムの少数民族兵になる事はないし、逆にアメリカ合衆国市民でない者がアメリカ軍人にはなれませんよね。これは単に、その部隊をどの国のものと捉えるかという言葉の定義の問題かも知れませんが、そこをはっきりさせない限り永遠に誤解し続ける事になります。
 という訳で今回はCIDG計画の組織について、僕なりにまとめました。


CIDG計画の基本構造

 そもそもCIDG計画はベトナム共和国の民間人に軍事教練を施し村落を武装化する(=不正規民間防衛隊)が目的であったため、1961年の計画開始当初から米軍グリーンベレー(第7および第1特殊部隊群)はベトナム共和国軍特殊部隊(地理開拓部。後のLLĐB)を支援する形でベトナム側と共同で運営に当たりました。
 最初に編成されたCIDG部隊はCSF (Camp Strike Force)で、1970年の計画終了までCIDG兵士の大半が所属する大規模な組織でした。このCSFはラオス・カンボジア国境を中心に全国に80カ所以上設置された特殊部隊キャンプに駐屯する歩兵部隊であり、ラオス・カンボジア領内のホーチミントレイル経由で侵入する共産軍を監視・撃退する事が主な任務でした。また同時に、兵士の家族を含む国境周辺の村落の住民をまるごとキャンプ内に移住させる事で戦略村(Strategic Hamlet)を構成し、住民と共産勢力との接触を避け、共産勢力の拡大阻止と住民の保護が図られました。


 その後、アメリカ・オーストラリア軍がベトナム戦争への介入を本格化させると、LLĐBは1965年にCIDG計画担当部隊の編制をグリーンベレーの編成に合わせてA, B, Cチームという三段階に改編し、米・豪軍との連携強化を推し進めます。


 また1966年には従来のCSFにエアボーン・ヘリボーン作戦能力を付加した空中機動部隊MSF (Mobile Strike Force / マイクフォース)の編成が始まり、CIDG部隊の役割は大きく拡大していきました。CIDG計画の中核を成すCSFはあくまで国境地帯の防衛を目的とした守備部隊でしたが、新設されたMSFは逆に常に攻撃任務に投入される強襲部隊であり、ベトナム共和国軍だけでなく米軍をはじめとする同盟軍の一般部隊が行う作戦へも増援として派遣されました。


 なお、資料によってはCIDG部隊を指して"C-〇"や"A-〇〇〇"という呼称が使われる事がよくありますが、実はこれらはそのCIDG部隊を担当する米・豪軍の軍事顧問チーム名であり、本来的にはCIDG部隊を指す呼称ではありません。CIDG部隊は米軍内の組織ではなくあくまでベトナム共和国軍の一部門であり、それぞれの部隊は独自の部隊名・番号を持っています。またLLĐBはグリーンベレー同様A, B, Cチーム編成となりましたが、そのチーム番号はグリーンベレーと異なる独自の編成となっています。現在私が確認している各LLĐB分遣隊は以下になります。

【CIDG部隊と担当LLĐB・グリーンベレーチームの例
Chi Linh CSF (LLĐB A-162, USSF A-333)
Tây Ninh CSF (LLĐB B-15, USSF B-32)
Đức Hòa CSF (LLĐB 第375中隊, USSF A-325)
第1軍団MSF, Da Nang (LLĐB B-21, USSF B-16)
第3軍団MSF, Long Hai (LLĐB B-36, USSF B-36)
第4軍団MSF, Can Tho (LLĐB B-19, USSF B-40)
第5MSF, Nha Trang (LLĐB B-22, USSF B-55)
第1MSF大隊, 第5MSFC (LLĐB 第522中隊, A-503 USSF)
これらはほんの一例ですが、LLĐBのチーム名に関する資料は少なく、まだこれだけしか把握できていません。またLLĐB側はAチーム(分遣隊)ではなく中隊がCIDGキャンプに駐屯する場合もあります。

【CSFの例】
看板中央がキャンプ地、つまりCSF大隊の部隊名を示しており、この部隊の名前は"Chi Linh" CSFとなります。次に看板左右の文字が、この部隊を担当するアドバイザー部隊の名称で、米/豪軍側が"A-333 / Co.A 5th SFGA (第5特殊部隊群A中隊=C-3)"。またA-333の上層はB-33 / C-3 / 5th SFGAという構成です。ベトナム軍側は"A-162 / BCH C3 LLĐB (特殊部隊C3司令部)"となります。

【MSFの例】
MSFはCSFと指揮系統が異なり、部隊名はキャンプ地名ではなく、"第1MSF大隊 / 第5MSFC (MSF司令部)"になります。米/豪軍チームはCSFと同様に"A-503"、上層は B-55 / C-5 / 5th SFGAという構成ですが、ベトナム軍側は"第522中隊"、上層はB-22 / BCH C5 LLĐBとなっています。

【第36MSFC(=第3軍団MSF)の例】
▲理由は不明ですが、なぜか第3軍団MSFだけはグリーンベレーとLLĐBのチーム番号が同じです。



偵察部隊におけるCIDG兵

 上記のCIDGキャンプに駐屯する部隊(CSFおよびMSF)とは別に、米越軍特殊部隊が共同運営する偵察部隊に在籍するCIDG兵士も存在しました。偵察部隊には大きく分けて二つの系統があり、一つが"ギリシャ文字系プロジェクト(オメガ・デルタ・シグマ・ガンマ作戦)"で、グリーンベレーC-5およびLLĐB C5司令部が合同指揮する国境パトロール部隊として主にベトナム領内のホーチミントレイル捜索の任に当たりました。もう一つがSOG-35およびNKT(技術局)連絡部が合同指揮するOP-35(C&C部隊)で、越境作戦のみを担当し、国境を越えてラオス、カンボジア領内への潜入偵察作戦を実行しました。
 ただし、これら偵察部隊には戦闘能力だけなく高い知識と技術が求められる事から、人員の大多数は高度な訓練を修了した正規のベトナム人特殊部隊員でした。一方、元々民間人である(しかも政府の人種隔離政策によって初等教育すら十分に受けられていない)CIDGが受けている軍事教練は、米・越軍一般兵の水準よりも低い簡易な歩兵戦闘訓練のみである為、偵察部隊に配属されるCIDG兵はMSFで経験を積み、その中から選抜され特に優秀な者に限られていました


なおOP-35は各C&C司令部(CCN, CCC, CCS)によって編成が大きく異なります。


 各ギリシャ文字系プロジェクト内には通常の偵察小隊に加えて"ロードランナー"チームが編成されました。ロードランナーは敵である共産軍の装備を身にまとって敵支配地域に潜入し情報収集を行うという危険な任務を遂行する部隊で、ベトナム人(LLĐB)のチームに加えて、CIDG兵で構成されたチームも存在しました。またC&Cでもベトナム人(コマンド雷虎)のチームと、CIDG兵で構成された偵察チームが混在していました。
 ただし、NKTもLLĐBもCIDGも同じベトナム共和国軍部隊である事から、アメリカ軍が作成した公式資料ではベトナム人と少数民族を区別せずまとめて"Vietnamese"と記している場合が多いため、どのチームがどの人種だったかははっきりしない部分が多いです。


CIDG計画終了後

 アメリカ軍のベトナム撤退に伴うベトナム共和国軍への業務移行、いわゆる『ベトナミゼーション政策』が始まると、米軍グリーンベレーが主導してきたCIDG計画は1970年に終了し、全てのCIDG兵士は他のベトナム共和国軍部隊に編入される事となりました。
 CIDGで最も人数が多いCSFは陸軍のレンジャー部隊(BĐQ)に編入され、1970年後半から1971年の始めにかけてキャンプ毎に国境レンジャー大隊(BÐQ Biên Phòng)として再編されました。国境レンジャーはその後、1970年のカンボジア進攻(トゥアンタン42作戦)や翌年のラオス進攻(ラムソン719作戦)などにおいて強襲部隊として最前線に投入され、ベトナム人司令官の指揮下で大きな戦果を残すともに、多大な損害を受け消耗していく事となります。



 一方、MSFやギリシャ文字系プロジェクトに所属していたCIDG兵はベトナム人特殊部隊員と比較しても遜色ないほどの高い戦闘能力を有していたことから、国境レンジャーとして消耗されることなく、長年共に戦ってきたLLĐB隊員たちと共にNKTに新設された作戦部(Sở Công Tác)に編入され、"コマンド黒龍"の一部として再編されました。




おまけ: 今年のアホカリの目標


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2014年11月23日

ベトナム軍の食事とPIRレーション

リエクトメントの楽しさは、単なるコスプレ戦争ゴッコに留まらず、当時の兵士の生活を再現し、一時のタイムスリップを体験できる事にあると思います。そして、その気分を盛り上げるにあたり、結構重要なのが食事。既に日本でも、趣味人口の多いアメリカ軍・日本軍・ドイツ軍などでは、いくつかのイベントで当時のフィールドキッチン、戦闘糧食の再現が行われていますね。あの完成度には感服です。
もちろん僕らベトナム共和国軍愛好家も、ある程度食事をベトナムっぽくしようという試みは行ってきました。しかし、その根拠となる資料・証言は、英語で書かれた洋書にはなかなか載っておらず、ほとんど想像でメニューを考えるしかありませんでした。
そこで今回、せっかくネットを通じて元ベトナム共和国軍将兵の方々とお知り合いになったので、(聞きたい事は山ほどあるけどあまり質問責めしたくないので、程々に雑談しながら)当人たちに直接「当時何を食べていましたか?」と尋ねてみました。
以下、その回答です。(画像はイメージです)

・典型的なメニューは、調理済みのお米(乾燥米?)に、魚や肉の干物、あるいは単にお米にニョクマムをかけるだけだったよ。

・作戦時の戦闘糧食は、ハムの缶詰、ビニールパックされたポークとレバーペースト、乾燥米だった。

・米軍のCレーション(MCI)食べてた。


・基地の食堂では、ほとんどが魚や豚肉の煮物と野菜、それにスープとご飯というメニューだった。

いやいや大変貴重な証言を頂けました。
もちろん年代や部隊・職種によって食事内容は様々だったでしょうが、初めて具体的なメニューを知ることが出来て感激です!
と言うか、"ハムの缶詰、ビニールパックされたポークとレバーペースト、乾燥米"ってそれ、最初からパッケージとして生産されたレーションっぽいですよね。
ベトナム軍にレーションが存在していた・・・。考えてみれば当たり前の事ですが、今までそういう話を聞いたことが無かったので、俄然テンション上がりました。
こりゃあ再現するしかないですね・・・
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2014年09月14日

つぶやきまとめ

来年春は終戦40周年なので、75年4月設定で『スンロクの戦い』ごっこやりたいなぁ。無理だよなぁ…
いや、撮影会だけでもやりたい。マジで。
スンロクじゃなくても、サイゴン橋(新港橋)の候補は幾つかある。


サイゴン橋の高欄(手すり)は見覚えある形だったので日本の業者が作ったのかなと思ってたけど、
実際の施工業者はアメリカの軍需系ゼネコン"Johnson, Drake & Piper, Inc."でした。
でも、見た目似たような高欄は全国に無数に存在してる。今関東中の橋をストリートビューで確認して、候補地を捜索中。
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2014年03月04日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[4]

※2016年11月7日訂正・更新


 1970年以降、NKTは連絡部(雷虎)と作戦(黒龍)の二つのコマンド部隊を主力とし、ベトナム・ラオス・カンボジア国境三角地帯の南側を連絡部が、北側を作戦部がその管轄した。彼らは通常の偵察・情報収集に加えて、通信傍受、捕虜捕獲、道路爆破、そして航空・砲兵射撃への直接目標指示などの訓練を受けていた。1971年2月、NKTはベトナミゼーションに従い大規模な再編成が行われた。 拡大したNKTは本部、訓練センター、3個の支援部隊、そして6個の戦闘部隊からなる。()内は本部所在地

NKT本部(サイゴン・総参謀部内)
作戦情報(NKT本部内)
需品管理(NKT本部内)
心理戦(NKT本部内)
連絡(サイゴン)
作戦(ニャチャン/ダナン)
航空支援(ニャチャン)
沿岸警備(ダナン) 
クェッタン/イェンディ訓練センター(ロンタン)

 
NKTの最終的な編成(1973年) 右は原文
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2013年12月14日

ペンタゴン機密文書

特定秘密保護法の成立などで国民の"知る権利"に注目が集まっている昨今。
その議論の中で、アメリカの情報公開制度はよく引き合いに出されますね。
実際アメリカの省庁って公式サイトでかなり大規模に情報公開してるので、アメリカ市民でも何でもない僕も、ありがたく利用させてもらっていますw

特にお世話になってるのが、アメリカ国防総省のOSD/JS(国防長官・統合幕僚事務局)に設置されているFOIA/RSC(情報公開法請求サービスセンター)です。


ここ、凄いです。
かつて"最高機密(TOP SECRET)"に指定されていたアメリカ軍の極秘資料が次々に機密指定解除されて、ウィキリークスに対抗してるのかってくらいバンバン公開されていますw
正直、ここまで堂々と公開しているとは思わなかったw
まじインターネットすげ~!IT革命バンザーイ!

という訳で、今回はペンタゴンから公開されている"元"極秘資料の中から、MACV-SOGに関する一連の内部文書のリンク先をまとめました。
文書は全てPDF化されており、無料でダウンロードできます!ワンダホー!

これ以上無い第一級の史料ですので、この分野の研究が一層進む事を願います。
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2013年12月01日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[3]

※2016年11月7日訂正・更新


 1963年11月のクーデター後、ジェム総統とその側近タン大佐の私有機関であった"総統府連絡部"は解体され、その機能は総参謀部(BTTM)に移された。同じくタン大佐が創設した
陸軍特殊部隊(LLDB)もBTTMの管理下に置かれ、以後LLDBは対外工作任務から外されアメリカ軍特殊部隊と共に国境および村落の準軍事防衛戦力=CIDG計画の運営に当たった。対外工作については、BTTMの下に新たに連絡部(Sở Liên Lạc/リエゾン・サービス)が設置され、連絡のコマンド部隊がラオス、カンボジア領内への越境偵察を行う事となった。  続きを読む


2013年10月26日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[2]


 1963年、度重なるベトコンのテロ活動、そして反体制派の仏教徒や学生による暴動、それに対する凄惨な弾圧などでゴ・ディン・ジェム総統は民心はおろか軍部からの支持も完全に失っていた。1963年11月、ジェム政権に業を煮やした南ベトナム軍幹部と米国CIAはクーデターを実行し、8年間続いたジェムの独裁政権は崩壊した。このクーデターで、1957年以来ベトナムにおける特殊作戦の全権を握っていた総統府連絡・LLDB司令官レ・クアン・タン大佐は総統もろとも処刑された。
 クーデターの後、新たに樹立された軍事政権は、総参謀部(BTTM)を無視した総統権限の象徴である総統府連絡およびLLDB本部をすぐさま解体した。特に対北工作を専門とする地理開拓・北方コマンドはLLDBから完全に分離され、1964年に総参謀部参謀長の直接指揮下の新組織"開拓部(Sở Khai thác / SKT)"へと再編された。SKT初代司令官にはチャン・バン・ホー大佐が就任し、以後はSKTがベトナム戦争における特殊作戦の中枢を担う事となる。
 前・北方コマンド司令で、総統府連絡ナンバー2の地位にいたゴ・ディ・リン大佐はクーデターによる粛清をまのがれ、SKTに残留した。SKT発足から間もなく、リン大佐はSKT内にシーコマンド(Biệt Hải)部隊、および新設されたシーパトロール(Hải Tuần)部隊を統括するSKTの海洋・沿岸作戦部門、沿岸警備部(Sở Phòng vệ Duyên hải / SPVDH)を発足さ、自ら指揮を執った
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2013年10月18日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[1]

特殊作戦のはじまり(1956~1963年)

 1956年2月、ベトナム共和国総統ゴ・ディン・ジェムは、かつてフランス軍の特殊部隊である第11強襲空挺大隊が設立し、ジュネーブ協定後はニャチャンに移転していたGCMA(混成空挺コマンドグループ)のコマンド学校を、編成が待たれる南ベトナム軍特殊部隊の訓練センターとして再建するよう命じた。これを受けて米軍MAAG(軍事支援顧問グループ)の支援の下、最大100名に体力練成・コマンド訓練を施せる大規模な訓練センターが建設された。このニャチャン訓練センターはベトナム共和国軍総参謀部・研究教育局(Nha Tổng Nghiên Huấn)の管理下に置かれた。
 1956年末、ジェム総統は米国CIAの要請により研究教育局を解隊し、新たに南ベトナムの情報戦・防諜戦略を担う情報機関"社会政治研究局(SEPES)"を設立した。SEPESはチャン・キム・トュエンを局長とし、フエの他、国外のビエンチャン、プノンペン、バンコク、クアラルンプール、シンガポールにも支局を有した。また、その人員の採用、コマンド訓練を行う"総統府連絡部(Sở Liên lạc Phủ Tổng thống)"も設立され、CIAより資金・作戦の支援を受けて活動を開始した。総統府連絡は、総参謀部の指揮系統に属さないジェム総統直属の機関であり、研究教育局司令・副指令だったレ・クアン・タン中佐とチャン・カク・キン大尉(当時)は新たに総統府連絡司令・副指令に任命された。タン中佐は南ベトナム軍空挺将校であり、同時にジェム総統の熱烈な支持者であった。また同のメンバーの多くは、北ベトナム領内での活動を考慮してベトナム北部出身者が選ばれた。

▲レ・クアン・タン大佐
研究教育局司令(~1956年)
総統府連絡司令(1956~1963年)
LLDB初代司令(1962~1963年)
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