カテゴリ
News! (58)
銃器 (27)
映画 (13)
音楽 (10)
言論 (22)
人物 (23)
式典 (2)
BB/歩兵 (15)
ND/空挺 (15)
KB/騎兵 (7)
PB/砲兵 (3)
TT/通信 (1)
QV/輸送 (2)
HQ/海軍 (4)
KQ/空軍 (2)
FULRO (9)
デガ (15)
モン族 (11)
ヌン族 (6)
本土軍 (2)
GCMA (2)
SDECE (3)
1914-1918 (1)
1918-1939 (4)
1939-1945 (8)
1945-1954 (23)
1954-1975 (186)
1975-1989 (5)

2017年06月24日

フェニックス・プログラムとPRU


長年、様々な憶測をもって語られてきた『フェニックス・プログラム』と『PRU』ですが、近年米国では情報公開法に基づく情報開示請求によってベトナム戦争当時CIAが作成した内部文書が機密指定解除されて公開されており、またそれら一次史料を基に学術的な研究を行った論文が多数CIAの公式サイトに掲載されています。

米国CIA 情報研究センター(Center for the Study of Intelligence)

今回は、それらの中から、かつて実際にPRUを指揮した元アメリカ海兵隊将校が自身の体験も交えて記した以下の論文の抜粋をご紹介します。

The Tay Ninh Provincial Reconnaissance Unit and Its Role in the Phoenix Program, 1969-70, Colonel Andrew R. Finlayson, USMC (Ret.), Last Updated: Jun 26, 2008 07:13 AM

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

※用語の表記について

[フェニックス・プログラム]
ベトナム語: Chương trình Phụng Hoàn (漢字: 章程鳳凰)
英語: Phoenix Program
ベトナム語の『Phụng Hoàn』を日本語訳すると『鳳凰』、『Phoenix』は『不死鳥』となるがこの記事では便宜的にフェニックス』を用いる

[PRU]
ベトナム語: Đại Đội Trinh sát biệt lập (ĐĐ/TS/BL) またはĐại Đội Trinh sát ĐPQ (ĐĐ/TS/ĐPQ)
英語: Provincial Reconnaissance Unit (PRU)
PRUはベトナム共和国軍地方軍のパトロール部隊であり、本来のベトナム語名から邦訳すれば『地方軍(独立)偵察中隊』となる。
中隊は省(地方軍小区)単位で編成されたため、『省の偵察隊』と言う意味で英語名のPRUは名付けられた。
PRUの日本語訳としては『地方偵察隊』が用いられる事が多いが、Provincialは『地方』ではなく『省』と訳すべきと思われる
この記事は英語文献からの翻訳の為、便宜的に英語表記のPRUを用いる。

[省]
国の地方行政区画である省(Tỉnh)にはそれぞれ地方軍の管轄区画である小区(Tiểu khu)が割り振られており、タイニン省(Tỉnh Tây Ninh)は地方軍の編成上、第3戦術地区/軍管区の『タイニン小区(Tiểu khu Tây Ninh)』となる。
つまりタイニン省PRUのベトナム語の正式名は『タイニン小区地方軍偵察中隊』となる。
なお、この記事では原文が省(Province)で統一されている事から、小区ではなく全て省と表記する。

[ベトコン]
ベトナム語: Việt Cộng(VC)
英語: Vietnamese communist / Viet Cong (VC)
ベトナム人が使う『Việt Cộng』と、アメリカや日本など外国で使われる『Viet Cong(ベトコン)』という言葉は、その意味する所が異なる。
ベトナムにおけるViệt Cộngは『越共』、つまり共産主義ベトナム人全般を指し、1930年代のインドシナ共産党に始まり北ベトナムのベトナム労働党政権、現在のベトナム共産党政権に至るまでベトナムに存在した全ての共産主義系組織を指す。
それに対して外国人が用いるベトコンは、ベトナム共和国領内に1960年から1976年まで存在した反政府ゲリラ組織南ベトナム解放民族戦線(MTDTGPMN)』のみを指す場合が多い。
普段このブログではベトコンをベトナム語の意味(共産主義組織全般)で用いているが、この記事では原文に倣い解放民族戦線という意味でベトコンという単語を用いる。

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------


タイニン省PRUとフェニックス・プログラムにおけるその役割、
1969-1970年

アメリカ合衆国海兵隊 アンドリュー・R・フィンレイソン退役大佐
(タイガ訳)

 フェニックス・プログラムはアメリカおよび南ベトナム政府がベトナム戦争中に行った政策の中でも最も誤解され、また物議を呼んだプログラムである。簡潔に述べると、これは南ベトナムにおけるベトナム労働党の政治基盤(以下、ベトコンインフラまたはVCI)を攻撃、破壊する事を目的とする一連のプログラムであった。(※1)
 当時フェニックスは機密事項であり、報道関係者が得られた情報の多くは誇張、捏造、または事実誤認であったため、このプログラムは大いに誤解された。そして米国やその他の国々の反戦運動家や批判的な学者は、このプログラム一般市民を対象とした違法で残忍な殺戮計画であるかのように吹聴したため、論争を巻き起こす事となった。
 残念ながら、これまでフェニックスについて客観的な分析が行われた事はほとんどなく、ベトナム戦争を研究する者の多くがこのプログラムを疑惑と誤解をもって見ていた。

 以下に、南ベトナムのタイニン省で行われた一連のフェニックスの一部始終の概要を示す。これらは限られた年代と地域における一例であるが、そこからは1968年のテト攻勢後の数年間でフェニックスが効果を発揮する事が出来た重要な要因の一つが見て取れる。それは全国で実施されたフェニックスの実行部隊たる省偵察隊(PRU)』に関する事柄である。


------------------------------------------------------------------------------------------------------------------



------------------------------------------------------------------------------------------------------------------


フェニックスの構造
 フェニックスは1960年代にCIAが南ベトナムで実施した平定および農村警備プログラムの一つである。もし南ベトナム政府とアメリカが農民たちに対し、彼等を真剣にベトコンから守る意志があると説得できれば、農民自身に自衛の為の訓練を施す事で、米軍が直接介入せずとも南ベトナムの広大な農村地帯を敵から防衛する事が出来る。これが平定達成の為の条件であった。

 1967年までに、米軍ベトナム軍事援助司令部(MACV)は軍民全ての平定プログラムを『民事作戦および革新的開発支援(CORDS)』という一つの組織に統合する事に成功する。
 CORDSにはCIAとMACVが深く関与しており、サイゴン政府と共同で運営されていた。CORDSの指揮は当初、元CIA局員のロバート・H・コマーが執っていたが、CORDSが最も活発に活動し成果を挙げたのは1968年にコマーの後任として赴任したウィリアム・コルビーの時代であった。
 コルビーは1959年から1962年にかけてCIAサイゴン支部長を務め、その後はCIA極東地域部長の地位にあった人物であった。コルビーはアメリカが南部の村々を支配する共産主義系勢力を排除し、地方のベトコンインフラ(VCI)を根絶しなければならないと確信していた。そのためCORDSは村落防衛・民事活動プログラム─後に土地改良、インフラ建設、経済発展を含むに取り組み、VCIの根絶に相当の労力を費やした。

 CORDSのもう一つの要素がフェニックス・プログラムであった。(※2) フェニックスは表向きはサイゴン政府によって運営されていたが、実際に資金を提供しその活動を管理していたのはCIAであった。フェニックスは南ベトナムの100以上の省および地区でVCIに関する情報を収集し、野戦警察および準軍事組織によるベトコン掃討の基礎となる情報を提供するためにCIAが構築した情報作戦委員会(Intelligence operation committees)』というネットワークを基礎に構築された。

▲フェニックス・プログラムを非難するポスターに描かれたウィリアム・コルビー。CIA史料写真。年代不明

 基本的に、この委員会の活動は、VCI活動者と目される人物のリストを作成する事であった。一度VCIメンバー個人の名前、階級、居場所が判明すれば、CIAの準軍事部隊、南ベトナムの警察または軍隊がその人物を拘束し、共産主義組織の内部構造と活動に関する情報を得るために取り調べた。
 このリストはベトナム国家警察、米海軍SEAL、米陸軍特殊部隊群、そしてタイニン省を含む各省PRUなどのフェニックス実行部隊に使用された。そしてこれらの部隊は村落に出向き、指定された人物を特定し、その"中和(Neutralize)"を試みた。リストに記載された人物は取り調べのために逮捕・拘束され、抵抗した場合は殺害された。当初CIAはベトナム側の協力の下、省または地区政府レベルで取り調べを行っていた。その後、このプログラムがサイゴン政府に移譲されると、CIAは情報収集活動のみを担当した。最終的に、CIAと米軍軍人合わせて約600名のアメリカ人がVCI容疑者の取り調べに直接関与した。

 PRUはフェニックスにおいて恐らく最も物議の的となった要素である。彼は元々1964年に南ベトナム政府とCIAによって創設された準軍事特殊部隊であり、当初彼は対テロ部隊と認知されていた。PRUには最終的に4,000名以上の兵士が所属し、南ベトナム領内の44の省の全てで活動していた。PRUは1969年11月まで米軍将校および上級下士官によって指揮されており、それ以降はCIAのアドバイザーに引き継がれた。
 米国のベトナムへの関与に批判的な人々は、PRUは殺戮部隊に他ならず、戦争全期間を通じたVCI死者数の内、南ベトナム軍・警察および米軍との戦闘による戦死者以外のほとんど、すなわち全体の14%がフェニックス・プログラムの期間中にPRUによって殺害されたと主張している。

 1972年のCORDSの報告によると、1968年のテト攻勢以来、フェニックスは5,000名以上のVCIの活動・軍事行動を阻止し、そして2万名を超えるとみられるVCIがフェニックスの成果によって─ベトコン組織から脱走した。またMACVは、フェニックスおよびテト攻勢に対する米軍の反撃は、他の農村保安や民兵プログラムとも相まって、投降、拘束または殺害によって8万名を上回るVCIを無力化したと主張している。
 ただしこれらは多く見積もった場合の数字であり、実際にはその数は各々の統計の信頼性に左右される。しかしながら、ほとんどの─ベトコン側を含む─資料に共通している点は、フェニックス(1971年終了)およびその他の平定プログラムはVCI組織を地下深くに追いやり、実質的な活動が不可能になるほど弱体化させたという事である。フェニックスおよび同盟軍の活動はVCIに深刻な打撃を与え、1972年のイースター攻勢や1975年の時点でも、VCIおよびベトコンゲリラ部隊の活動は見られなかった。


------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

※2. 1967年末、南ベトナム首相は政府が行う対VCI活動の全てを一つのプログラムに統合し、それを特別な力を持つ神話上の鳥"鳳凰(Phụng Hoàn)"と名付けた。コマーはそれをアメリカ人顧問に分かり易いよう、欧米で鳳凰に相当する"不死鳥(Phoenix)"と名付けた。

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

(中略)
※訳者注: ベトナム戦争中アメリカ海兵隊将校としてフォースリーコン、後に歩兵中隊長を務めていた筆者は1969年にPRUでの勤務を希望し、CIAの面接を受けて採用され、1969年9月にPRU指揮官としてタイニン省に赴任する。

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 タイニンに到着すると、私は省政府担当官(PIOC)─実際には省政府付きのCIA上級局員で、日々我々の活動を監督している─が率いるアメリカ人チームと合流した。私はチームのメンバーから、我々は二人の"ボス"の下で働くことになる事を教えられた。一人はアメリカ側のPIOC、一人はタイニン省における作戦権限の全てを司る南ベトナム側のタイニン省長官である。翌日、私は省長官と面会した。彼は英語の堪能なベトナム軍の中佐であり、有能で自信に満ち、尊敬されるリーダーである事が分かった。私にとって彼は理想的なリーダーであり、南ベトナムの省政府関係者によく見られるような堕落した部分が一切ない人物に見えた。


タイニン省PRUの隊員たちとは?

 タイニン到着の二日目、私は比較的カジュアルな会合、私が指揮・助言する事になる92名のタイニン省PRUメンバーたちの多くと初顔合わせをした。彼は皆勇敢で経験豊富な兵士で、一部にはかつてカオダイ軍(ベトミンと戦った民兵)や南ベトナム軍空挺師団、米軍特殊部隊に指揮された不正規民間防衛隊(CIDG)に所属した経験がある者も居た。またPRU隊員のほとんどはカオダイ教徒であり、一部にローマ・カトリック教徒、そしてクメール族が2・3人所属していた。彼皆ベトコンに対し深い憎しみを持っている人々であった。その主な理由は、や彼の家族がベトコンによる残虐行為の被害者だったからでである。彼にとって宗教と家族は人生で最も大切なものだった。

 タイニンPRUは18人編成のチームが5チームで構成(各チームは3個の分隊で構成)され、4チームがタイニン省の4つの地区それぞれに、1チームが省都タイニン市に配置された。タイニンPRU本部はタイニン市チームと合同で設置され、司令官と作戦将校の2名が指揮を執った。またタイニン市チームの指揮官はタイニンPRUの副指令も兼務した。
 PRUの武装はM16ライフル、M60マシンガン、45口径自動拳銃、M79グレネードランチャーであったが、各々の隊員はそれらに加えて個人的に入手した様々な武器を持っていた。さらに部隊にはPRC-25無線機、7x50双眼鏡、医療キット、トヨタ製四輪駆動トラック、ホンダ製のオートバイが装備されていた。隊員たちは地区本部の駐屯地では私服を着ており、前線ではタイガーストライプもしくはブラックパジャマを着ていた。また部隊付きの米軍アドバイザーも同様の装備・武装であった。

▲タイニン省PRUとフェニックス・プログラムにおけるその役割、1969-1970年 より

 私がPRUの作戦能力についてまず初めに感じた事は、各チームはほとんどの状況でうまく機能しているものの、火力支援に関する部分が欠けているという事であった。つまり、各チームは火力支援の下で効果的に行動する事が出来ず、また支援兵器(一般的には砲撃)に対して射撃要求や調整を行う事が十分に出来ていなかった。そのため部隊は敵と偶然遭遇した場合や、敵側がこちらと戦う用意をしている場合にはうまく機能しなかった。
 これは彼が受けていた非体系的かつ不安定な訓練にある程度原因があった。PRU隊員たちのほとんどはPRUに来るまで精強な戦闘部隊で何年も生き残ってきた経験豊富な元軍人であったが、一方で一部は初歩的な野戦訓練しか受けていないか、もしくは非戦闘部隊で勤務していた者たちであった。PRUの訓練は国レベルでは南シナ海沿岸にあるブンタウ近郊のキャンプで行われたが、地方レベルでは活動の順延が許される状況の時のみ米軍司令官とアドバイサーが訓練を施していた。その結果、訓練の頻度や部隊の能力はまちまちになっていた。

 一方、PRUの強みはタイニン省の住民や地理に関して深く完全な知識を持っている事である。この知識こそが訓練の欠点を補い、地方のVCIに対する作戦を成功に導いた核心であった。この地域に根差した知識は対VCI情報網を発展させ、体系的な作戦の計画に大いに貢献した。またPRU隊員は擬装、潜伏、そして夜間行動に精通していた事から、結果として彼は決定的な戦果を得るために待ち伏せ攻撃に特化する傾向があった。


情報源

 CORDS関連のシステムの導入により、タイニン省PRUは理論的には幅広い有用な情報源を持つ事ができ、地方の諜報員レポートから国家レベルの情報機関まで全ての情報を地区情報作戦調整センター(DIOCCs)を介して得られ、米軍の地区アドバイザーはその地区のPRUの作戦優位性を確保できるはずであった。なお、省レベルでも整合をとるため同様の組織構造が存在したが、省におけるアメリカ人PRUアドバイザーの役割はあくまで、地区付きの軍事顧問という地位に充てられていた。
 しかし実際には当事国の事情により、地区レベルでも一部の指揮権はアメリカ側だけでなくPRU側と共同という事になっていた。ベトナム国家警察、ベトナム特別警察、そして地区指揮官との間にはいささかの管轄争いがあり、それが現場におけるPRUの優位性を妨げる事もあった。
 同様の問題はアメリカ側にも存在しており、米軍司令官や民間のアドバイザーは歩み寄りを拒んでベトナム側と情報を共有する事に消極的であった。情けない事に、アメリカの民間アドバイザーはサイゴンのアメリカ大使館から特にそうするよう指示を受けた場合であってもPRU側と情報を共有する事を渋っており、さらに彼の多くは仕事の成果を横取りされないよう、他の米国機関との情報共有にすら消極的であった。
 理屈の上では、DIOCCのシステムは作戦運用の向上や実行時に大いに役立つはずであった。しかしながら、個人の非協力的な姿勢と官僚的な組織対立のために、タイニン省では概してこの仕組みは正しく機能していなかった。

 一様に不正確だった情報源が、米軍情報部隊によって組織された諜報員からのレポートだった。私がPRUアドバイザーを務めていた10か月間、PRUが米軍から受け取ったレポートの中で価値のある情報と判断されたものは一つもなかった。米軍は諜報員に対し歩合制で報酬を支払っていた為、価値のないレポートの乱造を引き起こしていた。
 同様にベトナム国家警察からの諜報員レポートも役に立たず、場合によっては危険なほど不正確だった。国家レベルでもたらされる情報は正確だったものの、それらはしばしばVCIには関連性のない情報だった。彼等は省内からVCIを根絶する上で、PRUの活動にさほど重きを置いていなかった。

 PRUにとってある程度重要で価値のある情報は、ベトナム特別警察が省政府取り調べセンター(PIC)で容疑者への尋問によって聞き出したものであった。PICに収容されている容疑者の多くがVCIのメンバーと活動について正確でタイムリーな情報をもたらしてくれた。これはそう頻繁にある事ではないが、そういった情報がPRUと共有されれば通常大きな成果に結び付いた。
 そして特に重要だったのは、チューホイ・プログラム(Chieu Hoi Program)によって南ベトナム政府側に転向した多数の元ベトコン達だった。彼等"Hoi Chanhs (転向者)"は南ベトナム政府に降伏後PICで取り調べを受け選抜された者たちであり、彼等はしばしば高烈度競合地域におけるVIC容疑者逮捕のためPRUチームを先導する任務に志願した。転向者たちは通常、他の容疑者よりもはるかに信頼度が高く、彼等がかつてベトコンゲリラや北ベトナム兵(NVA)であったのにも関わらず、彼等はVCI目標に関する有用な情報をもたらしてくれた。

 また分析に時間を要し利用も簡単ではなかったものの、しばしば生産的だったもう一つの情報源が、1963年から64年にかけて不服調査(Census Grievance)チームが蓄積した膨大なデータの数々であった。このチームは国勢調査の際に住民との面談を行い、その思想の傾向を密かに調査した。そして各世帯の南ベトナム政府への忠誠度を色で表した地図を省・地区・村落単位で作製した。緑の世帯は政府に従順であり、黄色は中立、赤はベトコンに同調的である事を示していた。
 さらにこの地図に記載された各世帯の家族構成の名簿には、VCIメンバーないし共産主義に同調する者の名が含まれている事がよくあった。そのためこれらのデータはタイニン市内にあるCIAの施設に保管され、米国の運用指導アドバイザーによって定期的に見直しが行われていた。ほとんどの場合、その名簿からは容疑者にたどり着けないか、既に死亡している、または共産主義シンパとして逮捕されていたように、その情報は古く活用困難だった。しかしその一方で、いくつかの例において、この不服調査マップによる情報の成果としてVCI中堅の重要人物を逮捕ないし討伐出来た事は特筆に値する。もしこの地図がデジタル化され、データベースに簡単にアクセスできたならば、情報収集にかかる時間は大幅に短縮され、より多くの作戦を優位に進められたはずである。

 しかし、これらよりはるかに多くPRUの情報源として用いられたのは、PRU独自の諜報システムであった。先に記したように、他の情報機関はVCI目標に関する情報を共有する事に消極的であったため、タイニン省PRUは自前の情報源を開拓する事を余儀なくされた。タイニン省PRUの隊員は、全員ではないにしてもほとんどの者はこのタイニン省で生まれ育ち、この省の住民として働き生活している者たちであった。彼等は皆地域社会の一員であり、また彼らの家族・親戚はタイニン省の至る所で、あらゆる職業に関与していた。PRUはこうした親類からの情報提供を通じて、村落レベルでVCIの活動を調査し、VCIに関する正確な情報を上手く収集する広域情報システムを構築するに至った。
 多くの場合、PRUに捕らえられたVCI幹部は、PRU隊員たちにとって個人的に、むしろ子供のころからよく知っている人であり、彼等はVCI容疑者の家族と私生活についても詳細を把握していた。そのため、時にはPRU隊員は自ら諜報員としてVCI内部に潜入する事にすら成功していた。
 彼等のVCIに関する非常に正確で深い知識は、幾度も作戦の優位性と、複数のVCI重要人物の討伐につながった。私がタイニン省PRUの米国側アドバイザーであった期間中、PRUによって逮捕ないし討伐されたVCI容疑者のおよそ2/3が、PRUが構築した生活の中での諜報活動システムによって特定された人物であった。


運用上の関係

 PRUプログラムはアメリカのCORDS、そしてベトナム内務省の管理下にある全国規模の組織であるものの、実際には各省の"実力部隊"であった。PRUに下される逮捕命令や作戦命令にサインする事が出来る指揮権限者は省長官ただ一人であり、彼がPRUの運用方針と権限の全てを握っていた。
 そのため私はタイニン省付きの米国側PRUアドバイザーとして、ベトナム軍・アメリカ軍双方の調整をしながら作戦の計画を練っていたが、それは私には耐えがたい事であった。タイニン省PRUがVCI目標に対して何らかの作戦を行う際には、私は毎回タイニン省長官に書面で作戦遂行の許可を要請し、長官の承認とサインを得なければならなかったのである。
 とは言え長官と彼の側近、米国側アドバイザーは毎日のように顔を合わせていたので、この件がPRUの作戦遂行を実際に妨げる事はなかった。省の下位の地区レベルでは、ベトナム側の地区司令官は米国PRUアドバイザーと省長官の承認を経ずにその地域のPRUを作戦に投入す事は出来なかった。しかしそれでも、地区情報作戦調整センター(DIOCC)は運用要請を迅速に処理できるよう組織されていた為、私の在任中、地区レベルでのPRUの作戦承認に遅れは見られなかった。


アメリカが関与する役割の変化による影響

 私のPRUにおける立場が変わる時がやってきた。1969年9月にPRUの"指揮官"として配置された私は、同年11月以降"アドバイザー"という肩書に変わった。それまでPRUの"指揮官"には米軍の将校や上級下士官が割り当てられていたが、この仕組みは11月以降変更された。それは米国国内でフェニックス・プログラムが残虐な作戦であると認識されてしまった事、そしてその残虐だという主張がこの戦争への支持を打ち消してしまう事をMACV司令官クレイトン・エイブラムス将軍が懸念した為であった。
 11月、エイブラムス将軍はPRUに配置されたアメリカ兵の肩書を"指揮官"から"アドバイザー"に変更する命令を下した。彼はまた、アメリカ人はPRUチームに同行して現場に赴く事はない、とも規定した。これは、アメリカ人が軍法統一規定(The Uniform Code of Military Justice)に抵触する恐れのある活動に関与する可能性を避ける為であった。
 私自身はエイブラムスや彼の参謀がこれらの制限を設定した時、その理由については関知していなかったが、これだけは言える。タイニン省での任期中、私はアメリカ人・PRU隊員のどちらも軍規に反する作戦行動を行った例は一度として見た事がないし、聞いたこともなかった。

▲タイニン省PRUでは正式な隊伍を組む事は稀であった。これは米陸軍第25歩兵師団との合同作戦中に勇敢な行為のあった4名のPRU隊員が米軍からブロンズスター勲章を授与される際の写真である。撮影: 筆者
 
 この新たな方針はタイニン省の兵士たちから士気と実効性を奪い去った。PRUは危険な作戦にも同行して米軍支援部隊、特に救急ヘリコプターや砲兵部隊との無線交信を担うアメリカ人に大きく依存していた。アメリカ人による手引きが失われたことで、PRUはC戦区(War Zone C)やカンボジア国境のアンタィン・カイメー地域などのタイニン市北部及び西部競合地域への出撃を躊躇するようになっていった。もし緊急事態に直面した場合でも、アメリカ人が一緒でなければ米軍ヘリによる救護避難、火力支援、そして緊急脱出が受けられない事を彼等は知っていたからである。
 タイニン省PRUにとって、その問題は小さくはなかった。チームは北ベトナム軍の第5、第7、第9師団が展開する地域内で活動していた。軽武装のPRUは、もし北ベトナム軍やベトコン主力部隊との戦闘に遭遇した場合、速やかに米軍による火力支援を受ける必要があったのである。

 1969年11月以降、タイニン省PRU隊員たちが進んで競合地域に出撃するようになるまでには数ヶ月の長い訓練を要した。私のPRUへの忠義とリーダーシップというものへの理解に立脚し、私はMACVが課した制限に対し度々疑問を感じていたことを認めざるをえない。私は正式に方針の見直しを上申したが、その要請は却下された。


PRUチームがVCI壊滅に成功した理由とは?

 私の体験が必ずしも他のPRUアドバイザーや部隊に当てはまる訳ではないと思うが、少なくとも私の任期中、タイニン省PRUは成功を収めた部隊だった。1969年9月から1970年6月までにタイニン省PRUは31名のVCIを討伐、64名を逮捕した。一方、PRU隊員の損害は戦死2名、負傷2名のみであった。
 テト攻勢後の数ヶ月間でVCI上級幹部の大半がタイニン省PRUによって討伐または逮捕されたか、隣国のカンボジアに逃亡した事が1968年12月初旬の時点で明らかになっていた。私が1970年6月にベトナムを離れる頃には、ベトコンはあらゆる面で政治的脅威としての存在感を失っていた。
 PRUの活動が高い成果を挙げていた事実は、1975年に共産軍が南ベトナムを敗北させた際にも証明された(※4)。タイニン省を占領した北ベトナム軍司令官は、すぐさまこの地に200名の民間政治幹部を派遣するよう北ベトナム政府に要請した。彼の報告によると、戦後タイニン省の統治に携わるはずだったベトコン幹部は、この時点でたった6人しか残っていなかったという。
 タイニン省PRUが成功を収めた主な理由、それは彼等が省内、住民、そして敵側の事情に精通した集団だったからであった。また彼等には規律、強力なリーダーシップ、そしてベトコンを壊滅させるという個人的かつ激しい動機が備わっていた。彼等は敵に付け入る隙を与えない正確で非常に効率的な諜報システムを持っており、それらは家族との強い絆と宗教、そして住民との信頼関係に支えられたものであった。
 アメリカ人司令官およびアドバイザーが果たした役割は重要なものであった。しかしどの省でも、1年以上勤務した者はほとんど居なかった。私(そして同輩のPRUアドバイザーたち)もPRUに貢献するため、そういった信頼関係を築きたいと思っていたが、結局、それは私(そして我々)には成し得ない事であった。アメリカ人が南ベトナムを去った後も長らく、タイニン省PRUはVCIの根絶に従事し続けた。この作戦のコンセプトはアメリカ側の発案であったが、その実行と応用は完全にベトナム側によるものだった。

 1975年4月のサイゴン陥落以降、タイニン省PRU隊員たちの人生は一転して悲惨なものとなった。彼等は捜索に遭い逮捕もしくは殺害された。多くの者が再教育収容所に投獄され、長期間拷問と強制労働を強いられた。その内一部の者は収容所を脱出し、アメリカ政府から住居と就職先が与えられアメリカに定住した。
 しかしほとんどの者は処刑されたか、収容所の劣悪な環境の中で死亡した。ただしごく一部の者は決して降伏せず、彼等PRUの生き残りは"黄龍(Yellow Dragons)"と呼ばれる"残存"部隊を組織し、ベトナム共産党と南部のシンパに対する戦いを続けた。その活動は1990年代に入ってもタイニン省の共産政権当局によって報告されていた。

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

※4. 私がベトナムを去った後のタイニン省におけるVCIの状況に関しては、1985年にアメリカに亡命した2名の元タイニン省PRU隊員たちから聞き取った情報である。

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

教訓

 タイニン省での経験を踏まえて、私はある部隊がPRU同様に組織、装備、訓練されている場合、他の地域や時代でもPRUのような成功を再現できるかを時折考える。武装勢力を特定・逮捕するため地域社会の人間で構成された特別警察は、我々が信じる民主主義の原則に沿った上で成功するだろうか?私は、PRUに備わっていた以下の条件が満たされさえすればそれは可能だと信じている。

 特定の政府関係者や政治指導者だけでなく、国民に対し責任を負う、プロフェッショナルそして市民としての倫理観が部隊に浸透している事。
 高い水準のプロフェッショナリズムに装備・訓練されている事。
 給料が十分に(そして定期的に)支払われる事、そして具体的な成果には報酬を与える事──これは腐敗や敵の浸透を防ぐ重要な要素である。
 部隊はその者らが属するコミュニティーの者だけで構成し、小規模でも強固な絆のチームを編成する事(ベトナム戦争中、南ベトナムの人口1700万人強の内、PRU隊員だった者は4,500名足らずであった。それはPRU隊員のほとんどが生まれも育ちもその省という地元住民に限定されていたからである)。 これによって彼等は的確に司法と政治の監視下に置かれ、有効な法的権限を持つ者の命令無しに、認められていない手段の作戦を行う事が出来ない。
 部隊は別の場所に移動している間、対象の個人を識別するという目的を超えて捕虜を尋問・監禁する権限を持たない事。PRU型部隊は他の警察部隊、特に犯罪捜査および逮捕に関わる者とは明確に区別される事。
 隊員とその家族を報復の可能性から保護し、個人名が報道関係者や部外者に漏れないようにする事。
 最高水準の専門的かつ論理的なリーダーシップが提供される事。
 南ベトナムのDIOCCsのような省庁間の調整機構を通じて、目標に関する完全な情報を得られるようにする事。
 もしアメリカ人アドバイザーがそれらの部隊に配置される場合、その者は事前に言語・文化・情報管理・小規模部隊戦術、幕僚計画について専門的な訓練を受ける必要がある。

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------


以上のフィンレイソン大佐の論文も踏まえて、フェニックスとPRUに対する僕の認識をまとめると、以下になります。

・フェニックス・プログラムとは米国CIAが主導したベトナム政府による一連のベトコン政治基盤(VCI)破壊工作
フェニックス・プログラムの実行は米国CIA・米軍MACVの下部組織であるCORDSが担った。
・CIA、ベトナム国家警察などの情報報機関が収集したVCIに関する情報はCORDSによって調査・整理される。
CORDSが入念な捜査によって目標を特定すると、各省のPRUや国家警察野戦警察隊米海軍SEAL、米陸軍特殊部隊に逮捕命令が下る。
・PRUは省政府(地方軍小区)の保有する対ゲリラ部隊であり、CIAから派遣された米軍人アドバイザーによって指揮された。
PRU隊員やその家族はその地域の住民であるため、地元のVCIについては政府や米国の情報機関よりも正確な情報を得られた
・逮捕されたVCI容疑者は省政府の取り調べセンター(PIC)に連行され、特別警察によって取り調べを受ける。
・PRUの任務は容疑者の逮捕であり、尋問を行う権限は無い。
・PRUは競合地域内に潜伏するゲリラの逮捕を行っていたため、ゲリラ側が抵抗した場合は戦闘の末殺害する事があった。
一般市民は概してPRUに協力的であり、市民からの情報提供によって国内のベトコン組織はほぼ完全に壊滅した。

 これらはベトナム共産党を支持する者や、その宣伝を信じた人々が書いた本を鵜呑みにしている多くのミリタリーマニアの認識とは真逆ではないでしょうか。"CIAの秘密殺戮部隊"・・・。マニアにとっては夢のあるお話なんでしょうが、それにはかなりの誇張、捏造が含まれていると考えます。あるのはただ、年間2,000人もの人々を虐殺しているベトコンというテロ組織を、あくまで司法に則った形で追い詰め、郷里と家族、信仰を守ろうとした父や夫たちの姿でした。

  


2016年11月05日

続・地方軍の構成

前記事も併せてお読みください。

今回はベトナム空挺アソシエーション『GĐMĐVN=ベトナム赤帽家族』に掲載されていた地方軍の指揮系統、各軍管区を構成する小区についてのまとめを邦訳しました。
出典: Gia Đình Mũ Đỏ Việt Nam: Trang Huy Hiệu Địa Phương Quân & Nghĩa Quân QLVNCH (by. Hiệp Nguyễn)


指揮系統

地方軍・義勇軍中央司令部 (Bộ Chỉ huy Trung ương ĐPQ-NQ)
サイゴンのベトナム共和国軍参謀本部内に設置された地方軍の最高司令部

戦術地区/軍管区 (Vùng Chiến Thuật / Quân Khu): 
ベトナム共和国軍の管区。全国4つ管区に分かれ、それぞれに軍団本部および地方軍管区司令部が併設されている。1970年に戦術地区から軍管区に改称される

小区 (Tiểu khu)
省毎に設置される地方軍司令部。全国44省にそれぞれ小区本部が設置された

特区 (Đặc khu): 
小区の下に特別に設置される地方軍地区。全国に計5個の特区本部が設置された。特区はいくつかの支区を束ねるが、全ての支区が特区に含まれる訳ではない

支区 (Chi khu): 
小区の下に設置される都市(Thành phố)毎の地方軍地区。全国に242個支区本部が設置された


部隊編成

ĐPQ群 (Liên Đoàn ĐPQ): 
小区の下に設置される地方軍部隊。最終的に全国で50個のĐPQ群が編成された。それぞれのĐPQ群は4~8個のĐPQ大隊で構成される

ĐPQ大隊 (Tiểu Đoàn ĐPQ):
小区の下に設置される地方軍部隊。ĐPQ部隊は当初、中隊(Đại Đội ĐPQ)として編成されていたが、地方軍の規模拡大に伴い1972年にĐPQ大隊に改変、最終的に全国で353個ĐPQ大隊が編成された。ĐPQ大隊は5個の中隊で構成され、本部中隊が80名、4個の作戦中隊はそれぞれ123名が定員とされた。ただし実際にはĐPQ大隊の規模は平均して400名ほどであった

独立ĐPQ中隊 (Đại Đội ĐPQ Biệt lập): 
ĐPQ大隊に属さない小区本部直属の地方軍中隊

偵察ĐPQ中隊 (Đại Đội Trinh sát ĐPQ): 
ĐPQ大隊に属さない小区本部直属の独立地方軍パトロール中隊。小区=省に所属していることから別名"省偵察隊(Đơn Vị Thám Sát Tỉnh)"とも呼ばれ、これを英訳したものがProvisional Reconnaissance Unit (PRU)という呼称である

NQ小隊(Trung Đội Nghĩa Quân): 
村長の指揮下に置かれる地方軍の最小単位。独立ĐPQ中隊・NQ小隊は合わせて数千個小隊が編成された

地方砲兵 (Pháo binh diện địa):
全国で計176個の砲兵小隊が編成された。地方砲兵は105mm榴弾砲を計352門装備し、その規模は砲兵大隊20個分に相当した

 
第1戦術地区/軍管区
5個小区本部・38個支区本部・1個特区本部(クァンダ特区)
7個ĐPQ群・53個ĐPQ大隊・その他独立ĐPQ中隊/NQ小隊多数
兵力約75,000名

1. クアンチ小区
計3支区・7個ĐPQ大隊/後に第913ĐPQ群を編成

2. トィアティエン小区(フエ市)
計10支区・12個ĐPQ大隊/後に第914ĐPQ群を編成

3. クアンナム小区
計9支区・14個ĐPQ大隊/後に第911ĐPQ群・第915ĐPQ群を編成

4. クアンティン小区
計6支区・8個ĐPQ大隊/後に第916ĐPQ群を編成

5. クアンガイ小区
計10支区・12個ĐPQ大隊/後に第912ĐPQ群・第917ĐPQ群を編成

6. ダナン市


第2戦術地区/軍管区
12個小区本部・60個支区本部・1個特区本部(カムラン特区)
81個ĐPQ大隊・その他独立ĐPQ中隊/NQ小隊多数

1. ビンディン小区(クイニョン市)
計11支区・18個ĐPQ大隊・12個独立ĐPQ中隊・620個NQ小隊/
後にトゥドゥック歩兵学校71年4期生により以下の2個ĐPQ群を編成
第921ĐPQ群(第215ĐPQ大隊・第216ĐPQ大隊・第215ĐPQ大隊・第234ĐPQ大隊)
第927ĐPQ群(第209ĐPQ大隊・第217ĐPQ大隊・第218ĐPQ大隊・第234ĐPQ大隊)
3個独立ĐPQ大隊(第201ĐPQ大隊・第207ĐPQ大隊・第263ĐPQ大隊)
1個独立偵察中隊(第108偵察ĐPQ中隊)

2. フーイェン小区
計6支区・7個ĐPQ大隊/後に第924ĐPQ群を編成

3. カンホア(ニャチャン市およびカムラン市)小区
計6支区

4. ニントゥアン小区
計5支区・3個ĐPQ大隊
第129ĐPQ中隊 - チャンビンニア村
第215ĐPQ大隊 - タンホー
第273ĐPQ大隊
第280ĐPQ大隊 - タンソイ
第373ĐPQ大隊 - タンロン・ソンファ

5. ビントゥアン小区
計8支区・8個ĐPQ大隊/後に第925ĐPQ群を編成
第202ĐPQ大隊
第249ĐPQ大隊
第275ĐPQ大隊

6. フーボン小区
計3支区・4個ĐPQ大隊・10個独立ĐPQ中隊・30個NQ小隊

7. トゥエンドゥック小区(ダラット市)
計3支区

8. ラムドン小区
計2支区

9. コントゥン小区
計5支区

10. プレイク小区
計3支区・9個ĐPQ大隊・2個独立ĐPQ中隊

11. ダクラク小区(バンメトート市)
計5支区・6個ĐPQ大隊/後に第918ĐPQ群・第924ĐPQ群を編成
第924ĐPQ群(第612ĐPQ中隊・第204ĐPQ大隊・第2224ĐPQ大隊・第233ĐPQ大隊)

12. クァンドゥック小区
計3支区・4個ĐPQ大隊


第3戦術地区/軍管区
11個小区本部・53個支区本部・2個特区本部(ズンサット特区・ブンタウ特区)
75個ĐPQ大隊・その他独立ĐPQ中隊/NQ小隊多数

1. ビントゥイ小区
計3支区・4個ĐPQ大隊・9個独立ĐPQ中隊
3個ĐPQ群(各3個中隊)が1972年初頭ĐPQ大隊に改編
1975年1月にフォクロン小区が陥落するとフォクロンの第341ĐPQ大隊はビントゥイ小区で再編成される。※第341ĐPQ大隊の人員はもともと第1軍管区クアンチ省出身で、1972年の"クアンチの戦い"の際に難民として南部に避難した人々
第344ĐPQ大隊 - ホァイドゥック地区(ボーダット)
第369ĐPQ大隊 - 国号1号線・第5基地(ロンカン)、第15基地(ビントゥアン)
第370ĐPQ大隊 -  ビントゥイおよびビントゥイ小区本部
第341ĐPQ大隊
第512偵察ĐPQ中隊
第513偵察ĐPQ中隊
その他8個独立ĐPQ中隊
タンリン支区: 第700独立ĐPQ中隊、第710独立ĐPQ中隊、第720独立ĐPQ中隊、第878独立ĐPQ中隊
ハムタン支区: 第514独立ĐPQ中隊、他1個独立ĐPQ中隊

2. フゥックトゥイ小区(ブンタウ市)
計5支区・6個ĐPQ大隊

3. ジアディン小区(首都サイゴンおよびコンソン島)
計8支区・9個ĐPQ大隊
クアンスェン支区、カンゾウ支区が属するズンサット特区に3個ĐPQ大隊・4個独立ĐPQ中隊

4.ロンカン小区
計3支区・4個ĐPQ大隊・3個独立ĐPQ中隊

5. ビエンホア小区
計6支区・13個ĐPQ大隊(6675名)・12個独立ĐPQ中隊・133個NQ小隊(2979名)

6. ロンアン小区
計7支区・12個ĐPQ大隊・5個独立ĐPQ中隊・192個NQ小隊

7. ビンズゥン小区
計6支区・8個ĐPQ大隊/後に第935ĐPQ群を編成

8. ハウニア小区
計4支区・5個ĐPQ大隊

9. フックロン小区
計4支区・4個ĐPQ大隊・48個NQ小隊

10. ビンロン小区
計2支区・2個ĐPQ大隊

11. イニン小区
計5支区・8個ĐPQ大隊


第4戦術地区/軍管区
16個小区本部・92個支区本部・1個特区本部(フーコック特区)
17個ĐPQ群・144個ĐPQ大隊・125個独立ĐPQ中隊・NQ小隊1000個以上
兵力約115,000名

1. ゴーコン小区
計4支区

2. キェンホア小区
計9支区・14個ĐPQ大隊(第401ĐPQ大隊・他)

3. ヴィンビンン小区
計7支区

4. バースェン小区
計5支区/後に第953ĐPQ群を編成
ロンフー支区: 第486ĐPQ大隊

5. バクリュウ小区
計4支区・ĐPQ / NQ兵士13000名

6. アンスェン小区
計6支区・7個ĐPQ大隊
第412ĐPQ大隊"Cá Hóa Long"
第446ĐPQ大隊"Thần Hổ 446"
第490ĐPQ大隊"Mãnh Hổ"
第491ĐPQ大隊"Mãnh Sư"
第492ĐPQ大隊"Thần Điểu"
第536ĐPQ大隊"Hắc Báo"
第537ĐPQ大隊"Bạch Phụng"

7. ディントゥン小区(ミトー市)
計8支区

8. ビンロン小区
計7支区・11個ĐPQ大隊/後に3個ĐPQ群を編成

9. フォンズィン小区(カントー市)
計6支区

10. シュンティエン小区
計6支区

11. サデク小区
計4支

12. アンザン小区
計4支区・6個ĐPQ大隊・5個独立ĐPQ中隊/後に第954ĐPQ群を編成

13. キェントゥン小区
計4支

14. キェンフォン小区
計5支

15. チョウドック小区
計5支

16. キェンザン小区(ザックザー市)
計7支


以上がGĐMĐVNに掲載されていた地方軍の構成です。支区・ĐPQ大隊の数を把握できたのは嬉しいですが、それぞれの小区内の構成についてはまだまだ不明な部分が多く、その全貌はつかめていません。NQ小隊は多すぎるにしても、せめてĐPQ大隊くらいは全てリスト化したいので、引き続き情報収集を行っていきます。


おまけ: 軍籍番号 (Số Quân)について

最近、長年謎だったベトナム共和国軍軍人が入隊時に取得する軍籍・軍人番号の規則性について進展がありました。
僕はこれまで軍籍番号の先頭桁は入隊年だと認識していたため過去記事ベトナム共和国軍のドッグタグでもそのように書いてしまいましたが、それにしては不自然な番号がある事も薄々感じていました。
また他の人の意見では、先頭桁は兵役地区番号ではないかという説も耳にしました。数字に一桁代が見られない(数十以上)なのは、フランス連合時代にベトナム北部から順に地区番号がふられたため、ジュネーヴ協定後は南部の(数字の大きい)番号しか残らなかったためだと考えられるそうです。しかしこれも、不自然な番号や文字が用いられる場合があり、根拠が不足していました。
その後、元共和国軍人の方から「先頭二桁は生まれた年に20を足した数だ」と教えてもらいました。しかしこれも、軍人身分証をいくつも確認していくとそれに当てはまらないパターン、つまり先頭2桁が身分証に記載されている生年下二桁+20にならないパターンも多くある事が分かり暗礁に乗り上げました。


ところが先日、別のベテランの人から決定的な情報を教えて頂く事が出来ました。
正規兵(陸海空軍)は生年下二桁+20 例)1951年生まれ=71
・非正規兵(ĐPQ-NQ)は生年下二桁そのまま 例)1951年生まれ=51
なるほど~!確かに言われてみれば、上記以外の軍人身分証を確認してみても、+20になっていないのはĐPQやNQ所属者(階級の横にĐPQもしくはNQと書いてある)だけでした。ただしNQだけは、生年が入る場合と"NQ"という文字が入る場合の2パターンがあるようです。
また正規兵の番号には、単に生年下二桁+20の場合と、生年下二桁+20に"A"というアルファベットが追加される場合があります。今確認できている限りでは、Aが付くのは海軍軍人のみとなっています。しかしなぜ海軍のみAが付くのか、なぜ空軍や海兵隊には何もつかないのかは全く分かりません。今後も調べて行こうと思います。

1974年1月、西沙諸島をめぐる中国海軍との武力衝突"ホンサ海戦"において戦死したベトナム海軍軍人のリスト
(海軍艦隊司令部 1974年3月2日作成の文書より)


  


2016年08月28日

地方軍ベレー

実在した事は確かなんだけど、当時の写真を見る限りほとんど使われてなかったっぽい超不人気ベレーについて。

▲地方軍・義勇軍部隊章

▲地方軍ベレー章



以下、着用が確認できる数少ない写真。

内務省保安隊司令官・初代地方軍司令官ズン・ゴック・ラム少将 [1964年3月ベトナム]
この写真の時点では保安隊は内務省が管轄する民兵組織だったが、同年5月に組織が国防省に移管され『地方軍 (ĐPQ)』として再編される。

▲地方軍の軍楽隊 [1960年代ベトナム]
地方軍ベレーは基本青色ですが、この写真の指揮官は陸軍一般将兵と同じく黒色のベレーに地方軍のベレー章を付けているように見えます。

アメリカ軍MACV地方軍付きアドバイザー [1970年サイゴン]
カナダのドキュメンタリー番組『SAD SONG OF YELLOW SKIN』より

▲米国在住地方軍ベテラン [2015年アメリカ サンノゼ]
去年行ったカリフォルニアの傷痍軍人チャリティーコンサートに参加されていたベテランの方です。

 僕が確認している着用例は以上です。地方軍・義勇軍と言えば最終的に55万人もの兵力を有し、ベトナム共和国軍の総兵力の半数を占める巨大な組織であったのにも関わらず、不思議なことにこのベレー帽の着用例は数えるほどしか見受けられません。もちろん、僕も実物をこの目で見た事はありません。なぜこんなにも使われた数が少ないのでしょうか?
 僕は、その理由は単純に『人気が無かったから』だと思っています。まず、独自のベレー帽が制定されているエリート部隊(空挺やレンジャーなど)では、そのベレーを被る事は将兵にとってステータスであり、礼装時も制帽として着用されました。ただし、当時のベトナム共和国軍では多くの部隊でベレー帽は官給品ではなく自費購入品だったそうです。なのでエリート部隊以外の陸軍一般部隊にもベレー帽は制定されていましたが、こちらはあくまで略帽の一種であり、兵科毎の違いもなく、制帽の代わりにはなりませんでした。その為、そんな物をわざわざ自費で購入する兵士は少なく、せいぜい経済的に余裕のある士官・下士官がオシャレとして被る程度でした。
 一方、地方軍・義勇軍には陸軍一般部隊とは別の青いベレー帽が制定されていましたが、これはエリート部隊のようなステータスとは見做されませんでした。なぜなら地方軍・義勇軍は元々民兵組織であり、陸軍一般部隊よりも格下の補助部隊であるため、ベレーが何色であろうと決してエリートではなかったからです。従って、陸軍一般部隊よりもさらに給料の安い地方軍・義勇軍の兵士が、わざわざ格下部隊を示す地方軍ベレーを購入する事はほとんど無かった、というのが着用例が極端に少ない原因だと考えています。

 しかし、地方軍ベレーが不人気であり続けた一方で、実は地方軍将校の中には地方軍ベレー以外を購入して着用する者が数多くいました。彼らが着用したのが、オリーブ色または黒色の陸軍一般部隊将校ベレーです。むしろベレーを被っている地方軍将校のほとんどが一般部隊ベレーを着用していたので、僕も最近まで、地方軍も陸軍と同じベレーが制定されているのだと誤解していたほどです。

 
▲アメリカ海兵隊員にベトナム語の講習を行う義勇軍将校 [1960年代後半ダナン]
アメリカ海兵隊司令部戦闘撮影課製作『Combined Action Program』より

 地方軍と言えども、将校は正式な士官教育を修了した正真正銘の陸軍士官ですから、他の部隊から格下と見られたくなかったのでしょう。これは本来制定されているものとは別の被服を身に着けることになるので、正確には規定違反だったようですが、特に咎められることもなったようです。これについてはアメリカ在住の元地方軍PRUやNKTベテランの方々に僕が直接聞き取りを行い、「本当は違かったけど慣例として使ってたよ」と証言を頂いています。
 
 以上、戦後のマニアどころか、当時の兵隊からも見向きもされなかった残念なベレーについてでした。
  


2016年04月06日

先週末

土曜日
プチ生活体験&撮影会: ベトナム共和国軍地方軍, 中部高原のどこか, 1968年 
初の試みだったので全てが行き当たりばったりでしたが、課題の洗い出しもでき、次に繋がる経験が出来たと思います。
小雨が降ってて一日中寒かったけど、ラオス・カンボジア国境に接する高原地帯も気温が10℃くらいまで下がる事があるそうなので、これはこれでリアルな天候です。






日曜日
コスプレ: ベトナム軍装甲連隊兵士とフランス軍M24軽戦車,  ハノイ, 1954年
今年は第一次インドシナ戦争期で。
ディエン・ビエン・フー行きを志願し、ハノイを発つ直前という感じで。

  


2016年03月19日

地方軍・義勇軍の構成

4月に、恐らく世界初のベトナム共和国軍の地方軍(Địa Phương Quân)』をテーマとしたリエナクトメント・撮影会に参加させていただくので、今からお勉強して気分を盛り上げ中です。
地方軍、義勇軍、その他地方部隊については、元ベトナム共和国陸軍中将ニョ・クアン・チュウン氏が執筆、アメリカ陸軍戦史センターが編纂した第一級の資料『Indochina Monographs - Territorial Forces (1981)』がインターネット上で公開されていますので、今回はその中から、(英文を全部訳すのは面倒くさいので)組織図の部分を邦訳したものを作りました。

出典 Indochina Monographs - Territorial Forces (1981) (テキサス工科大学公式サイト内直リンク)

※2016年11月5日更新




こちらは別の資料から、ベトナム共和国軍の兵力の推移と内訳を示したものです。
地方軍は1964年の編成以降その兵力を急速に増やし、1971年には国軍全体の半数を占めるまでに至ったことが分かります。


写真:1960年代末~1970年代の地方軍兵士
    
  


2015年12月05日

12月ですね

関東地方のラーメン二郎全店喫食完了

二郎を食い始めてから約7年。正直関東全域周れるとは思ってなかったけど、最近仕事で神奈川方面に行くことが多くなったお陰で達成できちゃいました。(閉店・長期休業の店舗を除く)
ラストは、昨日行った桜台駅前店。そんなに遠くないので過去二回トライしているんだけど、店の前まで行って、定休日や臨時休業で開いてないことに気付くという情けない失敗を繰り返してしまった因縁のお店でした。
それが昨日で一区切り付いて、ほっとしています。ごちそうさまでした!



全店制覇までは、残り5店舗。(休業中の立川店含む)
ここからは長い道のりになりそうです。
さすがにラーメンのみを目的に行ける距離ではないので、何かの用事でそっち方面に行く機会があれば多少無理してでも食べに行こうかな、といったところです。




新しい友達

先日Facebookで友達になった日本在住のベトナム人S君から、一度会って話しませんか?とメッセージが来たので会ってきました。
いろいろ脅迫を受けている身としては、正直本土から来たベトナム人に対しては警戒心を抱いてしまうので、人通りの多い池袋駅で待ち合わせ。相手が複数人いたらそのまま逃げるつもりでした。
しかし幸い、S君は一人で来てくれたし、テロリストでもなかったので良かったです(笑)
彼は(僕のコスプレ写真みて喜ぶくらいなので当然)現在のベトナム共産党政府に批判的な立場の若者ですが、民主派というよりは、純粋にベトナム共和国軍の戦史マニアって感じでした。
デニーズでお茶しながら色々話しましたが、僕がS君に「どこの出身?」と尋ねると、「メコンデルタの方の街。共和国軍の第7、第9、第21師団がいたあたり」と、細かい部隊の配置までスラスラでてきます。ワーオ!
さすがにベトナム語が読み放題なだけあって、僕なんかよりずぅ~と共和国軍の戦史や軍人の経歴に詳しいです。羨ましい。
また彼は日本で働くという夢を持ってサイゴンの大学で日本語を学び、大阪大学に留学し、現在は東京都内の会社に就職しているので、日本語ペラペラです。
なので、僕が共和国軍の事を勉強するためにベトナム語を頑張って訳してる事を知ると、「それなら私が日本語に訳しますよ!」と申し出てくれました。超ありがたいです。
さすがに翻訳したい文章を全て丸投げする気はありませんが、どうしても理解できない文については今後彼にお願いしようと思います。

ちなみにS君が一番好きな共和国軍人はニョ・クアン・チュウン (Ngô Quang Trưởng)中将。
政治に進出して大物になった将軍は多いけど、純粋に軍人としての指揮能力ではチュウン将軍がベトナム戦争の中で最高だよ!」といたく尊敬してました。
【チュウン中将の経歴】
空挺旅団副指令(1964-1966)
第1歩兵師団長(1966-1970)
第Ⅳ軍団司令(1970-1972)
第Ⅰ軍団司令(1972-1975)


その一方で、彼は軍装に関しては素人なので、その分野では僕が先輩です。
せっかく池袋にいるので、S君に「この近くに有名な軍服屋があるよ」と伝えると、是非行ってみたいと言うので、そのまま二人でサムズさんにお邪魔してきました。
まさか日本で旧ベトナム共和国の国旗が販売されているとは思いもよらなかったようで、各種サイズの国旗のどれを買おうか目を輝かせながら選んでいました。

あと意外だったんですが、僕が「さすがに共和国の旗は無いだろうけど、今はアメリカの国旗くらいならベトナムでも売ってるんじゃん?」と訊いたところ、「いや、売ってるの見たことない」とS君は言ってました。
社会主義ベトナムは、今でこそ中国と揉めているふり(※)をしているためアメリカと協調する姿勢をとっていますが、それでもかつての敵国であるアメリカの国旗は、まだ一般人が買えるものではないようです。
だってアメリカを悪の帝国主義者って事にしておかないと、ホー・チ・ミン政権以来60年間続いている『坑米』やら『解放』やらのプロパガンダが全部嘘だったとバレちゃうから。
※いくら領土問題で国民感情が悪化しようが、実際にはベトナム経済の中国依存は深まる一方。ベトナム共産党は、国民の不満を外国に向けさせ、政府の求心力を維持するというテンプレ通りのガス抜きをしているだけで、上辺だけ中国と『対立しているふり』をしているに過ぎないと考えます。党幹部が中国関係の莫大な既得権益を手放す訳が無いし。



地方部隊の史料


いい資料み~けっ!アメリカ陸軍戦史センター編纂の、ベトナム共和国軍地方部隊に関する資料(1981年)です。
地方軍(DPQ)、義勇軍(NQ)、人民自衛団(NDTV)、農村開拓団(XDNT)など地域ごとに組織された部隊の詳細な記録が盛り沢山。
これ一冊で洋書数万円分以上の価値があるとおもいます。(文字だけで、写真は無いけど)
それがなんと、アメリカのテキサス工科大学のサイトで公開されてました。
PDFは5つに分かれているので、以下ファイル直リンク
しかも執筆者は偶然にも、先に挙げたニョ・クアン・チュウン中将その人。アメリカに亡命した後、米軍の戦史編纂に参加したようです。
同様にNKT副指令だったニョ・ディ・リン大佐も、戦後アメリカ国防総省に非常勤翻訳者として務めていましたね。
戦史センターのように資料の分析・編纂・保管までを一連の任務と捉えるのなら、ベトナム戦争という20世紀後半最大の戦争の戦後処理は1980年代になっても継続していた、と言えるのかも知れません。



ド・カオ・チ将軍の音声付動画


S君のお気に入りがチュウン中将なら、僕のフェイバリットコマンダーはド・カオ・チ中将!
音声の無い動画なら確認していたのですが、ようやく肉声を聞く事ができました。
しかも撮影は1970年4月30日。まさに一連のカンプチア作戦『トアンタン42(Toàn Thắng 42)』が始まった日のインタビューです。
チ中将は第Ⅲ軍団司令としてこのカンプチア作戦を指揮し、ニクソンをして”ベトナム戦争で最も成功した軍事作戦”と言わしめる大戦果をあげました。
しかし翌1971年のラオス作戦『ラムソン719』(第Ⅰ軍団司令ホアン・スァン・ラム中将指揮)において、チ中将は戦場をヘリで上空から視察していたところを対空砲の餌食となり墜落、死亡します。(死後大将に昇進)
第一次インドシナ戦争では空挺将校としてグエン・カーン(後のベトナム共和国国長)の下で死線を潜り抜け、戦後は謀反の疑いでジエム総統一派に拘束された将軍達を助けるため、独立宮殿に「今から部隊を率いてお前らを殺しに行く」と電話して将軍達を解放させたりと、色々伝説を残している人なだけに、あまりにあっけない最期でした・・・
  


2014年05月16日

クリパス速報

いっこうにアップロードするフィルムの質と量に衰えを知らないYoutubeチャンネルCriticalPast(以下クリパス)。
ホントありがたいことにほぼ毎日新しいフィルムを十数本アップロードしているので、ボヤボヤしてると良い映像を見逃してしまいそう。だから毎日のチェックが欠かせません。
別に、あとから検索すれば良いんですが、あまりにしょっちゅう見ているので、アップされてから最初の再生が僕ということが多くなってきて、なんかクセになってきました。
恐らく撮影した米軍関係者と、クリパスの担当者以外はまだ誰も見た事の無い映像なので、それを世界で最初に見れるのが楽しくてたまらないのです。


海軍司令官チャン・バン・チョン副提督(海軍准将) 1969年11月20日

1966年から1974年まで南ベトナム海軍司令官を務めたチャン・バン・チョン副提督(当時)の動画!今流行の「提督」です!

  続きを読む


2014年05月05日

地方軍

※2016年11月5日更新


 地方軍(Địa Phương Quân / ĐPQ)とはベトナム共和国陸軍の地方部隊で、必要に応じて戦地に投入される精鋭の歩兵師団とは異なり、地方軍は比較的小規模な編成で部隊ごとに担当地域(行政区画)の防衛を担う守備部隊でした。その為歩兵師団のように専属の機甲部隊や砲兵部隊は持っておらず、後方部隊の一つという位置づけでした。しかし基地や橋、道路など敵に狙われやすい交通網・重要施設を護り、何より対ゲリラ戦に必要不可欠な地域住民との協力関係を維持していた地方軍は、"縁の下の力持ち"として10年以上ベトコンとの戦いを支え続けました。ベトコンがいかに地方軍の存在に悩まされていたかは、ベトコンが撒いた伝単(宣伝ビラ)に表れています。
“Ngàn hai bắt được thì tha.Chín trăm bắt được đem ra chặt đầu.”
(月給1200ドンの一般兵は捕虜にする。月給900ドンのお前ら(地方軍)はもれなく斬首する。)
  続きを読む