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2021年08月23日

ペルーPR動画

さる7月28日、在日ペルー大使館が主催する「ペルー独立200周年/ペルー・日本外交関係樹立148周年」記念イベントが渋谷ハチ公前で開催されました。

僕は、縁あってこのイベントの様子やペルー料理など、ペルーの魅力を日本の方々に紹介するPR動画に出演させていただきました。

見ての通り素人演技丸出しでお恥ずかしいですが、よろしければご覧ください。



[撮影裏話]

実は台本を渡されたのは撮影の前日で、しかも全部スペイン語で書いてありました。

僕はスペイン語はちんぷんかんぷんなので、急いで台本をスキャン、OCRにかけて、さらにそれをGoogle翻訳につっこむ事で、どうにか内容を把握できました。

なのでストーリーは台本に沿ったものですが、日本語の台詞は実質自分で考えたようなものです。



しかしあらためて画面越しに見ると、太ったな俺・・・。

思い返せば3年前、ダイエットに成功した私は自慢げに半裸写真をアップしておりましたが・・・

その後見事にリバウンドしまして、いまや前回のダイエット開始前をも上回り、自己最高体重を更新中です。

ついに健康診断で脂肪肝と言われちゃったし。

はあ・・・でも、もう前回のように気合入れてダイエットする気力は無いな。

このガイガンみたいな腹も、年齢相応のような気がしてきたし。


まてよ。ガイガンもメカゴジラも、ずんぐりむっくり体形だけど超カッコいいじゃん。

これからは自分の事をガイガンと思う事にしよう。
  


Posted by 森泉大河 at 21:19Comments(2)2010年代・現在その他旅行・海外

2019年07月09日

主にタイ、一部ベトナムな週末。

タイの軍装マニア友達がまた来日したので、2日間一緒に遊んできました。
なんか彼とは、最近は半年に一回くらい会ってる気がする。

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1日目 横浜

お昼に合流して新横浜ラーメン博物館でお昼ご飯

ラーメンを食べ終わり外に出ると、友人がTVの街頭インタビューに捕まる。
外国人に漢字を書いてもらう企画のやつ。

加えて、TV局のお姉さんが彼にいろいろ質問する。
「なぜ日本に来ましたか?」、「どのラーメンが好きですか?」
そして最後の質問「日本のどこに興味がありますか?」

彼は慎重に言葉を選びながら
「う~ん... 歴史とか...」と口を濁して終了。
お姉さんは、期待していた観光客っぽい答えを得られなかったので、少し残念そうにインタビューを終えました。

インタビューの後、僕は彼に言ってやりました。
「正直に『大日本帝国陸軍です!』と言っちゃえばよかったのに(笑)」
彼 「いや、やばいっしょ~(笑)」

普通のガイジンの振りをするのも大変ですね。
気を取り直して、みんなで『抜刀隊』を歌いながら次の目的地に移動。
※僕は今は日本軍マニアではありませんが、一応、中高生の頃はそっちもかじっていたので、多少わかります。


キリンビール横浜工場を見学。見学の最後にビールを三杯まで無料で味わう事が出来ます。
見学無料、ついでにビールにおつまみまで無料と来て、みんな「なんでそんなに太っ腹なの!?」と本気で驚いていました。
「これタイにあったら、タイ人毎日来て大行列だよ」って言ってます(笑)


神奈川県庁や赤レンガ倉庫周辺を散策。
みんなレトロな街並みを見て、案の定、『檄!帝国華撃団』をで歌いながら歩く。
ほんとサクラ大戦好きね~

みんな、みなとみらいの事は知らないようだったので、
「ああ~!わかった!」と一発で理解してもらえました。


夜は中華街で夕食。
2,000円で食べ放題の店でたらふく食う。
調子乗って注文しすぎ、苦しくてちょっとテンション下がるくらい食べ過ぎてしまいました。


2日目 東京

有楽町でショッピングと食事して、日比谷公園に移動。


途中、某所で上半身だけコスプレ撮影会が始まってしまった。
こんな所でやるなんて聞いてなかったよ(汗)
さすがに鉄砲持つわけにはいかないので、陸軍報道部と言う設定だって。
とは言え場所が場所だけに、大急ぎで撮って撤収させました。
隣の〇の内署が建て替え工事中だったのは本当にラッキー。


日比谷公園を散策し終えたところで、僕は前々から別のグループのフットサルに行く約束があったので、ここで皆とお別れ。
今回は1日半と短い時間しか一緒に遊べなかったけど、まぁ、どうせそのうち、日本かタイでまた会う事になるでしょう。


新宿に移動して、月一で開催されている、日本在住ベトナム人のフットサル交流会に参加。今回は20名近く集まりました。
僕のスポーツマンっぷりをアピールしたいところだけど、残念ながら煙草で肺をやられているので、まともに体が動く時間は3分が限界。
もう、すぐに足がもつれて転びそうになるので、日本在住歴40年超えの長老にバトンタッチして、僕は2/3くらいピッチの外で休んでました。
でも暇そうにしてたら、僕の一歳年下で同じくメタボに危機感を抱き始めた友人から、一緒に腹筋やろうと言われたので、ピッチの外で腹筋してました。
久しぶりの運動だったので、翌日は足だけでなく腹まで、仕事やる気にならないくらい、重度の筋肉痛になってしまいました。


フットサルのあとは大塚のベトナム料理屋で飲み会。
今回初めて会った人たちとも友達になりました。
みんな、「タイガーさん早くベトナム人の彼女つくってよ!」と言ってくるので、
「うるせー!がんばってるけど毎回フラれるんだよ!」と答えてたら、
次第に店員の女性の方も混ざって、僕のためにベトナム人女性の口説き方講座が始まりました。
ただし、その講義をしている男たちも全員独り身。ああ、悲しい。
  


2019年05月07日

令和元年ゴールデンウィークの思い出

ゴールデンウィークは10連休とまでは行きませんでしたが、土日含めて計6日休みが取れたので、色々な事ができました。


1. 国祖記念祝賀会の打ち上げ

 
 先日執り行われた日本在住ベトナム人協会主催ベトナム国祖記念祝賀会の打ち上げ反省会が都内のベトナム料理店で開催され、僕もお呼ばれしたのでお邪魔してきました。ベトナム戦争を経験した難民世代から、留学生・技能実習生として来日した若者まで、幅広い年代がこうして集まり語り合える場は、とても大切なものだと思います。


2. 日本在住ベトナム人協会会長宅訪問

 打ち上げの翌日、日本在住ベトナム人協会会長カン氏の自宅にお邪魔して、生春巻きを食べながらいろいろお話を聞いてきました。
 1968年のテト攻勢の際、フエを占領したベトコン(解放民族戦線)は約5,000名のフエ市民を地中に生き埋めにして虐殺しましたが、当時大学生だったカン氏はボランティアとしてその虐殺事件の犠牲者の遺体掘り起こし作業に従事し、ベトコンが行う『抗米戦争』の正体を目の当たりにします。その翌年、カン氏は政府軍(ベトナム共和国軍)に士官候補生として志願入隊し、陸軍中尉として1975年まで軍務に就きました。終戦時は、スァンロクから撤退してきたレ・ミン・ダオ少将麾下の混成部隊とビエンホアで合流し、その指揮下に入りましたが、反攻は叶わずその地で無条件降伏の知らせを受けたそうです。終戦と同時にカン氏は共産主義政権に逮捕され、6年間も収容所に投獄され強制労働を課せられた後、難民として国外に脱出して最終的に日本に定住されました。
 またカン氏の友人のハイはベトナム戦争当時はまだ子供でしたが、その頃経験した出来事を語って下さいました。ハイは当時ファンティエットに住んでいました。ベトナム戦争中、ベトコンゲリラはしばしばファンティエット市役所を狙ってB-40(RPG-2)無反動砲を発射するテロ攻撃を行っていましたが、B-40は命中精度が悪いため、発射された砲弾のほとんどは市役所を外れて付近の民家に落下していました。ハイ自宅はファンティエット市役所の横にあったために、計2発が自宅に着弾し、壁に大穴を開けたそうですが、幸い家族に怪我人は出なかったそうです。しかし、そうではない人もいました。ハイには近所に住む2歳年上の仲の良い友達がいました。1968年2月のテト攻勢最初の夜、彼は親戚のおばさんの家に泊まりに行っていました。そして翌朝自宅に帰ってみると、ベトコンが発射した砲弾は彼の自宅に命中しており、家の中には爆発により変わり果てた姿となった彼の両親と妹の三人の遺体が四散していました。一晩で家族全員を失った彼は親戚の家に引き取られ、ハイ氏と会う機会は無くなりました。しかしその数年後、14歳になったハイ氏がたまたまファンティエット市内の政府軍の基地の前を歩いていると、基地の中から「お~い、ハイ!」と聞き覚えのある声がします。見るとフェンスの向こうには仲の良かったあのお兄さんが軍服姿で立っていました。16歳になっていた彼はベトコンに殺された家族の仇を取るため、年齢を詐称して政府軍に志願していたのです。ハイ氏と彼は嬉しくてフェンス越しに再開を喜び合いましたが、彼には仕事があるのでいつまでも話してはいられませんでした。彼は「じゃあな、ハイ!」と手を振ってハイ氏に別れを告げましたが、その後戦場に赴いた彼が帰還する事は無く、このフェンス越しの会話が二人の今生の別れとなったそうです。


3. 台湾ロケット花火祭り仲間、新宿で再結集

 台湾の台南市で毎年開催されているロケット花火祭り『鹽水蜂炮』で、台湾日本合同チーム『鹽水周倉將軍護駕炮兵團』のリーダーを務める電冰箱ことサイモン・リンさんが来日したので、日本人メンバーが集合して新宿で飲み会しました。僕が鹽水蜂炮に参加したのは2016年2018年の2回だけですが、サイモンさんはちょいちょい日本に遊びに来ているので、来るたびに一緒に観光したり飲み会やってます。(日本での思い出:2016年(1)2016年(2)2017年)
 またこの日は日本に住んでいるサイモンさんの友人で、元台湾軍少佐のTさんも来て下さりました。日本に来てからいろいろ大変な目に会ってるそうで、一等国ぶっていても中身はスカスカな日本社会の暗部ばかり見せてしまい、日本人として恥ずかしい限りです。つもる話が多くて終電を逃してしまったため、この日はそのままTさんの自宅に泊まらせていただきました。(後半はずっと台湾・日本の風俗店の話ばかりだったのは内緒)


4. 公園でNERF合戦

YDAメンバーおよびその家族と公園でNERF(ナーフ)で遊びました。これ子供より大人が本気になる玩具ですわ。大人の経済力で凄い数の弾丸とマガジンを用意して、一日中遊んできました。


5. ブラック・クランズマンとピクサーのひみつ展


 地元の友達・僕の弟と一緒に日比谷で映画『ブラック・クランズマン』を見て、その後六本木ヒルズで開催されている『ピクサーのひみつ展』を見てきました。
 ブラック・クランズマンは予告編では痛快刑事ものとして宣伝され、事実本編もテンポの良い映画でしたが、ガチの人種差別主義がテーマなだけに、良い映画ではあるけど笑うに笑えない内容でした。レイシストが「あの業界は〇〇人に牛耳られてる」とか「主国民の私たちが虐げられている」とかいって被害者ぶるのは、日本の在特会やネトウヨどもとまったく同じ精神構造だね。またそれを批判する側(この映画の監督含む)も、情けないことにすぐ単純な反権力・反体制に走って、結局は右と左の口汚い罵り合いに終始するあたりも日本と一緒。だからイデオロギーに興味のない大半の人は、そういう面倒くさい事には関わりたくないと思ってしまう。レイシストが非難されるのは当然だが、批判できる立場にいる事に酔って批判の仕方をはき違えると、それはもう問題解決のための道筋からかけ離れた、単に自分が「正しい」側に居る事を確認するための自慰的活動になってしまう。そんな事をラストの逆さ吊り星条旗を見て思いました。
 ピクサー展の方は、最先端のCG技術を子供にも分かりやすく解説しており、展示そのものにもすごい金がかかってて、さすが世界一の会社だと思いました。また一緒に行った弟はアニメ制作会社でCGディレクターやってますから、最高の解説者に恵まれました


6. BĐQ将校のお孫さんの家でBBQ&軍装家族写真

 日本に住んでいるベトナム人の友人の家で開催されたバーベキューパーティーにお邪魔してきました。彼のお祖父さんはベトナム共和国陸軍レンジャー部隊(BĐQ)将校でしたが、1975年のスァンロクの戦いで捕虜となり、そのまま収容所で帰らぬ人となりました。彼はお祖父さんをいたく尊敬しており、また彼は初めての子供を授かったことから、祖父の写真のように軍服を着て家族写真を撮りたいのだけど協力してもらえないかと打診を受けました。なので僕たちも一肌脱いで彼のためにBĐQ(風)の軍服を用意して一緒に記念撮影を行いました。すごく喜んで頂けましたし、僕たちとしても共和国軍人のご遺族のお手伝いが出来てとしても光栄です。
  


2019年04月13日

YDA JAPAN映像作品「第二次アプバクの戦い 1965」

※2019年11月27日訂正

昨年、YDA JAPANとして二回に渡って動画撮影会を行いました。

そしてこちらが、編集作業を終えたYDA JAPAN映像作品第一弾『第二次アプバクの戦い 1965』になります。
(本当は昨年末には完成していたのですが、ブログに載せるのをすっかり忘れておりました。)



一応僕が主催者ですが、正直、ここまで良い出来になるとは思っていませんでした。
撮影会に集まってくれた友人たちには本当に感謝しています。
中でも特に、撮影・編集に尽力して下さった963中隊の皆さんの熱意と技術には感服するばかりです。


【作品解説】

 1965年の「第二次アプバクの戦い」におけるベトナム陸軍第7歩兵師団第11連隊を米軍映像記録部隊が撮影・編集した宣伝映画を想定しています。
 なぜ有名な1963年の「(第一次)アプバクの戦い」ではなく、わざわざ無名な1965年の方をやっているかといいますと、実は私たちも元々はその1963年の戦いを再現するつもりで資料集めを始めました。しかしアプバクの戦いは戦史上有名な割には、米軍の本格参戦前なので外国メディアによる取材例が少なく、それに伴い作戦中の写真も少ないので資料集めは難航しました。そんな中見つけたのがこちらの映像資料です。



 写真資料が少ない中、この映像はアプバクの戦いを記録したこれ以上ない資料だと思い、我々はこの映像をモチーフに作品を撮る事に決めました。そして映像に移っている第7歩兵師団のスカーフなども製作し、6月に撮影を行いました。音声もこの映像の物をそのまま流用しています。
 ところがこの1回目の撮影会の後、フランスに住む研究者から「この映像には第一次アプバクの戦いには投入されていないはずのUH-1D型やM113APCの機銃防盾が写っている。これ1963年じゃなくて1965年の第二次アプバクの戦いの方だと思うよ」と指摘を頂きました。この映像をYoutubeにアップした人物は、1963年の方の第一次アプバクの戦いと勘違いしてタイトル・キャプションを書いたようです。そして僕もそれを鵜呑みにしてしまったと。うわぁ~、やっちまった~!
 もう一から撮り直しは出来ないため、2回目の撮影会からは設定を急遽1965年に変更しました。これが今回、第二次アプバクの戦いがテーマとなった経緯です。
 まぁ当初の目標とは異なるけど、見方を変えれば、、第一次アプバクの戦いは政府軍がゲリラ相手に敗退した不名誉な戦いとして記憶されている一方、第二次では政府軍が普通に勝ったのでニュースにならなかっただけで、僕らとしては別に第二次を拒む理由はありません。


【YDA】

 ちなみに僕らのグループ名『YDA JAPAN』ですが、これはYDAの日本支部という意味で、本家YDAはアメリカにあります。YDA (Young Daragon Asociation)とは僕の友人で米国在住の映像作家ハウ・ルック氏が主宰する、主に在米ベトナム人で構成されたベトナム戦争専門映像制作グループです。元々ハウを中心とする大学生のアマチュアグループでしたが、現在ではベトナム共和国軍伝統保存会(本部カリフォルニア)公認の下、カリフォルニア州のベトナム語放送テレビ局SBTNと共同で連続ドラマや長編ドキュメンタリーを制作するに至っています。

【本家YDAの作品】

全米大学映画祭(Campus MovieFest)出品作品

短編ドラマ集としてSBTNで全12話放送。この作品から衣装協力でYDA作品制作に参加。

初の長編ドキュメンタリー映画。SBTNで放映。ベトナム国内でのロケには僕も出演しています。

過去作品いくつかを編集したミュージックビデオ。発砲シーンはCG半分、実弾半分。僕も少し写ってます。

全米大学映画祭 審査員賞受賞作品。
撮影当日、「タイガはベトナム語話せないから台詞の無いベトコン役やってよ」と言われ、端役だと思ってOKしたんですが、撮ってみたらナイフ一本で政府軍のエリート部隊兵士二名を殺害する最強ベトコンソルジャー役でした。
撮影場所は監督の彼女(現奥さん)の家の裏にある雑木林なので、この時は実弾は使いませんでした。


 そして僕もYDAの一員という事になっているので、日本で撮影会を行うにあたり、勝手にYDA JAPANを名乗っちゃいました。(※ハウ監督には事後承諾済み(笑))
 日本に住む我々では、言葉や人種まで再現することは出来ませんが、それ以外の部分は愛と工夫で補う事ができると思っています。日本のリエナクターとして、これからも良い意味で本家と張り合って行きたいです。
  


2019年01月14日

年明けの近況

だいぶ時間が開いてしまいましたが、あらためまして、皆さまあけましておめでとうございます。
年末年始はなにかと忙しくて、例の軍装ガイド「ベトナム共和国軍軍装史」は可能な限り進めるようにしていましたが、他の趣味関係は何もしないまま元日から二週間も経ってしまいました。


ベトナム軍装史

ベトナム軍装史については、去年、「なんとか年内に完成させる」と宣言しましたが、結局完成には至りませんでした。待っていただいている方には本当に申し訳ありません。
言い訳になりますが、この本ではインドシナに復帰したフランス植民地内にベトナム人部隊が再組織された1945年から、共産軍がサイゴンを占領してベトナム共和国政府が滅亡する1975年までの30年分の携帯火器・個人装備を網羅する事を目標にしています。
また扱う部隊の範囲も陸軍正規部隊だけでなく、フランス軍内のベトナム人コマンドからMACV-SOG指揮下のNKTコマンドも含めているので、イラスト化すべき物品があまりに多すぎて、そもそも年内完成という見通しが甘すぎました。
(特殊部隊の装備は別の号にしようと何度も考えましたが、SOGがNKTに支給したSTABOやV40グレネードなどいかにも特殊部隊っぽい装備の多くが、実は1970年代に入るとベトナム陸軍の一般部隊でも使われるようになっており、確実に「特殊部隊限定」と言えるような装備などほとんど無い事が分かってきました。そのため一冊にまとめざるを得ないのです)
以下、現状でほぼ仕上がってるページをすこしチラ見せいたします。

  
あれもこれもとアイテムを書き足しているうちに現状でページ数が39ページにまで増えてしまいましたが、どうせ発表するからには自分自信満足のいくものを作りたいので、ページ数はまだ増える見込みです。


神風航空団パッチ

先日、サイゴンに住んでいる知人から、仲間内でレプリカパッチを作ったから一枚あげると連絡があり、今日そのパッチが届きました。

ベトナム空軍第83特殊作戦航空団『神風(Thần Phong)』です。

神風部隊と言えば空軍司令時代のグエン・カオ・キ少将(後の副総統)が直接指揮し、時にはキ将軍自ら愛機のA-1スカイレイダー攻撃機を駆って出撃した事でも知られる、ベトナム空軍で最も目立っていた航空団ですね。
同航空団所属のスカイレイダーに描かれているノーズアートについては過去記事参照。


ベトナム寺で念仏フルコース

昨年11月に亡くなった恩人の四十九日法要の翌日、ご遺族と一緒にベトナム寺で定例の念仏会に参加してきました。
僕は実家の菩提寺ですら、墓参りに行くだけで本堂に入って拝んだ事の無い不束者ですが、誘われるとなんでもホイホイ付いていっちゃう性格なので、今回ベトナム寺で法衣着てベトナム語のお経を読むことで念仏デビューと相成りました。

何時間読んだか分からないNam Mô Bổn Sư Thích Ca Mâu Ni Phật (南無本師釈迦牟尼仏)

念仏会は9:00~19:00まで、途中休憩をはさみつつ10時間続きました。何時間もお経を読み続けるというのはなかなか体力を使うもので、初めて参加する身としては、けっこう過酷です。
この念仏会は毎週日曜に開催されており、信徒全員が毎週来ている訳ではありませんが、それでも会で知り合った若い女の子ですら、月に一回は来ていると言っていました。
自分は今まで仏教徒のつもりで生きてきましたが、お寺に来てる他のベトナム人信徒と比べると、墓参りと葬式でしかお寺と接点が無い僕なんか、仏教徒と名乗るのが恥ずかしいレベルですわ。
しっかし、このお寺で出される精進料理は全部美味しいです。年配の人が多かったので、余ったおこわを僕が全部平らげましたが、そのせいで午後が眠くてたまりませんでした。
  


2018年11月14日

週末紀行

先週末、2月に都内で遊んだタイの友人たちがまた旅行にやってきたので、今回も2日間アテンドしてきました。

一日目、彼女たちは大阪からバスで東京にやってきたので、中野ブロードウェイで集合したのは夜9時過ぎ。
もうほとんどの店は閉まっていましたが、幸運にもたまたま開いていた店で、彼女たちが探していたディズニーのフィギュア等をお買い物できました。なんでもこの子たちは香港でも同じものを探してきたそうですが、日本の方が格段に安いのだそうです。


買い物のあとはそのまま中野の海戦居酒屋で遅い夕食。メニューが日本語のみ、しかも写真無しだったので、どう英語で説明しようかと思っていたところ、偶然にも店員がタイ人だったので、料理の説明は完全にお任せする事が出来ました。


二日目は築地場外市場を観光。奮発して3000円の海鮮丼を食べてきました。

築地を訪れた際、築地本願寺にもお参りしました。このお寺は17世紀に建立されましたが、元々の建物は1923年の関東大震災で焼失してしまい、現在の建物は古代インド寺院建築を基に1934年に建てなおされたものだそうです。
外観が独特なので、以前から車で前を通るたびにこのお寺が気になっていました。なので今回初めてお参りする事が出来て良かったです。ちなみに中は意外と普通の日本のお寺でした。



築地の次は渋谷の靴屋でお買い物。女の買い物は長いと相場が決まってますが、今回は女子同士でも「いつまでやってるの!?」と不満の声が上がるほどでした。

渋谷の後は原宿に行って、回転寿司式スイーツ食べ放題の店で糖分を過剰摂取。もう夕方だったのでこれが夕食となりました。
僕は甘党なので最初は平然と食べていましたが、あまりに甘さが連続して脳ミソの中まで砂糖で一杯になった気分に陥りました。なんとか気合で9皿食べましたが、一緒に回っていた日本人の友人は3皿でギブアップしてました。


このあとは英国風パブHUBに移動。さっきまで糖分地獄にいたので、身体が塩分を欲していたのでしょうね。おつまみのベーコンやらアンチョビキャベツがやたら美味く感じました。
僕は次の日早起きしなければならなかったので夜9時に解散しましたが、このあと彼女たちはさらに、女子だけでクラブに遊びに行ったそうです。元気だね~。
こんな感じで今回のアテンドは終了。次は日本かタイかはわかりませんが、また近いうちに遊ぶと思います。


翌日は久々に日本人の友達と長野に日帰り旅行。
前日まで東京は最高気温20超えと暖かかったので、つい薄着で来てしまいましたが、長野に着いてみると最高気温10℃未満。マジで寒くて風邪ひきそうだったので、朝早くから開いているワークマンで暖かロンTを買って着ました。
それから今回の旅行の目的、戸隠神社に向かいました。この神社は戸隠山麓にある五つの社で構成されており、一日かけて全ての社を周ってきました。

 



その後は湯治で有名な加賀井温泉で湯につかってきました。

加賀井温泉に来るのは二度目です。前回は昼間だったので、今回初めて夜、月を見ながら湯に浸かりましたが、なかなか良いものでした。


以上、いつになく密度の濃い週末でした。
  


Posted by 森泉大河 at 08:22Comments(0)旅行・海外

2018年10月15日

タイの友達に同行二日目:埼玉


二日目は埼玉県与野市で開催された大正時代祭りに参加しました。
のお祭りでは大正時代の人々の衣装の再現やコスプレパレードが行わており、軍人コスプレも有りなので、個人の軍装愛好家も当時の帝国陸海軍の軍装を再現してパレード参加しています。
これを聞きつけたタイのみんなは、なんとこの日の為に1910年代末のシャム王国(後にタイ王国に改名)の軍装をタイから持参してパレードに参加しました。

シャム陸軍第一次世界大戦欧州遠征部隊および戦後の軍装
日本でこの時代のシャム軍がお目にかかれるなんて後にも先にも今回だけではないでしょうか。

実は彼らは三人とも好きな分野が違いまして、一人は第二次大戦期の日本陸海軍およびイギリス軍、一人は第二次大戦期のタイ軍および日本陸軍、残る一人はベトナム戦争期のタイ軍および米軍だったりします。でも今回はせっかくタイ人としてパレードに参加するという事で三人とも友人から借りた衣装を持参してシャム軍で合せてました。

できれば僕もこの時代のフランス植民地軍アンナン狙撃兵(ベトナム兵)の軍装でパレードに出てみたかったけど、まだ全然揃ってないので、今回は普通にビールと焼き鳥を食べらながら、沿道で彼らのパレードを撮影していました。

あの三人は顔があまりタイ人っぽくないので、日本人の僕が一番タイ人っぽいと言われました。この日は特に服装がトロピカルだったし。


日本ではないっぽい謎の軍服を着た外国人3人組に他の参加者の方々も興味津々。何度も記念撮影を頼まれていました。


当の彼らはと言いますと、日本の文化・カルチャーをよくご存じなので、袴姿の女学生たちを目にすると嬉しそうに「ハーシーレー コウソクノー!」とサクラ大戦の檄帝を口ずさみご満悦な様子でした。それ大正じゃなくて太正!(笑)


太正桜に浪漫の嵐!



パレードを終え大正時代祭りを後にした一行が次に向かったのが『小江戸』として知られる川越市。


ここでは普通に観光し、川越いものアイスクリームや饅頭、お団子をみんなで食べました。東京なんてバンコクと大して変わらないので、川越でいかにも日本っぽい風景を見てもらう事が出来て良かったです。
僕は川越に来るのは3回目でしたが、昼間しか来た事がなかったので、日が落ちると街灯とライトアップでとても幻想的な街並みになる事を初めて知りました。


夜になると、彼らのホテルがある東京の御徒町に戻り、中田商店を物色。
その後、昨晩満席で入る事の出来なかった磯丸水産に、今度はアメ横で再挑戦。無事席が空いていたので、みんなで夕食を取りました。蟹味噌甲羅焼が美味しかったです。

彼らは翌日以降も日本を観光するそうですが、僕が同行できるのはこの日が最後だったので、「次はバンコクで会おう!」とお別れを言って解散となりました。
なんか僕にとってタイはあまり異国という気がしない場所なので、お別れは言いましたが、どうせまたそのうち会います。気が向いたらふらっと行くかもね。
  


Posted by 森泉大河 at 00:44Comments(0)1918-1939【タイ】【日本】旅行・海外

2018年10月12日

タイの友達に同行一日目:東京

前回に引き続きタイの友達との日本紀行です。
なお、今回遊んだのは2月に東京案内した友人とは別のグループです。あっちは一般人。
今回は趣味を通じて知り合った濃い~リエナクター・軍装マニアのグループの方々です。
なので一日目の目的地は東京九段の靖国神社遊就館と昭和館という、およそ観光客とは思えない見学ルートです。


僕は遊就館に行くと毎回、割と本気で気持ちが陰るので、あえて冗談交じりに艦これとかストライクウィッチーズの話しをしながら明るく振舞っていました。
またタイ人は(自国が日本の半占領下だったので当然)日本人が考えるよりもはるかにクールに大戦期の日本について理解していますし一人はバンコクの博物館の学芸員ってのもあり、お互い歴史愛好家として率直に感想を言い合いました。
僕が「ここは公的な博物館ではなく、民間の宗教団体の施設だから、彼らの望む歴史観にそぐわない=日本に都合の悪い話は展示しないよ」って言ったら、彼らも「うん、知ってる」って感じでした。

見学を終え、そのまま遊就館の食堂で海軍カレーを食べようとしましたが、やたら混んでたので断念して神社の外のインドカレー屋で昼食。どっちみちカレーなのね(笑)

次に昭和館で、戦中・戦後の庶民の生活などを見学しました。
学芸員の彼は職業としてタイの大衆文化の歴史を研究している上に、大の日本陸海軍および日本文化マニアなので、この時代の日本の大衆文化についてもかなり造詣が深く、日本人の僕も知らなかった事を色々教えてくれました。これ、外国マニアあるあるですわ。

ちなみに偶然、館内に居た別の見学者のグループが、サイゴンにある戦争証跡博物館の館長一行でした。一行を案内している日本人のおっちゃんが、昭和館で戦争体験を語り伝えるおじいちゃん達に得意げに話しているのを横で聞いていました。
なんでもそのおじさんは、学生時代の反戦運動以来、アメリカによるベトナムへの戦争犯罪を世に知らしめる活動に尽力されているそうです。だからベトナム共産党直営の博物館とも深~い付き合いなのだそうです。
へぇ~。そういう人には是非僕のブログ、特にこの記事を読んで欲しいな~と思いましたが、50年も空想の世界に浸っている人が今更何読んでも理解するのは多分無理でしょうね・・・。


その後は普通に渋谷と新宿でショッピングなどして遊んできました。
夜ご飯は、海鮮居酒屋の磯丸水産に行こうとしたけど、土曜の夜という事もあり、新宿西口側にある三店舗まわったけど全部満席で断られました。
仕方ないので、最終的に「すた丼」で食べました。わざわざ日本まで旅行に来てすた丼?!とは思ったけど、まぁ翌日も遊びに行くので、今夜は安く済ませましょう。普通に美味しいし。



偶然通りかかった新宿駅のルミネが「ジョジョの奇妙な冒険」とコラボしていたので、ジョジョ好きな彼らは喜んで記念撮影開始。
僕も一緒にポーズしたけど、実はジョジョをちゃんと読んだ事ないんだよね・・・。知ってるふりして適当にやりました。ごめん。
  


2018年10月08日

タイからのお土産

バンコクでのコスプレ撮影会など、いつもタイで世話になってる友達4人が日本に遊びに来たので、彼らの旅に二日間同行してきました。
友人の内一人は以前日本に留学しており、東京の地理に(僕よりも)詳しく、日本語も話せるので、僕は案内役ではなく、ただくっついていっただけです(笑)
いろいろ行ったので、何回かに分けて記事にしていきます。

まずは初日にもらったお土産。
タイ陸軍レンジャー学校Tシャツと、タイ軍自由市民防衛章(第二級第二種)


自由市民防衛章はタイ国内の共産ゲリラとの戦いで功績を挙げた人物を表彰する勲章です。

他にもタイの国章ガルーダのブローチと、タイの若者で流行っているというアロハシャツ風のトロピカルな柄のTシャツをもらいました。
あとついでに、彼らが成田に着いた際に、免税店でタバコも買ってきてもらいました。日本じゃまた煙草が増税され、僕の吸ってる銘柄はついに1カートン5000円に達したので、たまったもんじゃありません。免税店だと1カートン当たり2000円も安い事になるので、「何か買って行こうか?」と聞かれた際、まっ先にお願いしておきました。まぁ、煙草はどんなに値段上がっても止めませんけどね。こうなりゃ意地です。

タイと言えば、今僕は1980年代のタハーンプラーン(タイ陸軍レンジャー対ゲリラ・国共防衛部隊)の軍装を揃えようとしていますが、完成度はまだ50%も行っていません。
※英語圏ではタハーンプラーンを「レンジャー」と意訳している例が多く見られますが、実際にはタイ陸軍レンジャー部隊は別に存在しているので、ケネス・コンボイ先生より、「タハーンプラーンとレンジャーは全然別物だから混同しないで」とご指摘いただきました。


▲この写真で着てる黒シャツは家にあったただの私服

やはり僕の関心のメインは第2次インドシナ戦争なので、現段階でベトナム、ラオス、カンボジア軍を並行して集めている以上、タイ軍は予算の都合上後回しになっています。
とは言え、どうせイベントで着る予定も無い本当に個人的なコスプレなので、ゆっくり集めていきます。
  


2018年08月30日

サマーキャンプ

日本在住ベトナム人協会サマーキャンプ2018

 先日、日本在住ベトナム人協会主催のサマーキャンプに参加してきました。今年のキャンプにはテレサ・チャン・キウ・ゴック氏とナンシー・ハン・ヴィ・グエン氏が特別ゲストとして参加し、日本に住む大勢の若いベトナム人たちと議論会をおこないました。一番槍の姉妹ブログ[ベトナムウゥッチ]に、その討論の要約を日本語で記してあります。私はこのお二方とお話しする事が出来てとても光栄です。彼女たちが持つ祖国ベトナムと国民への愛情、思いやりは、必ずや善良な人々の心に届くものと信じています。

またキャンプではリクリエーションとして、口にくわえたスプーン同士でビー玉を渡してリレーし、かつ水鉄砲で紙の的を破くという、けっこう難易度の高い競争をしました。


実は私はナンシーさんと同じチームだったので、ずっとナンシーさんにビー玉を渡す役でした。まさかあんな有名人とこんなに顔面近付けて遊ぶことになるとはね。けっこう本気で照れちゃいました(笑) 下の写真のピンク色の服着ているのがナンシーさんで、黒いのが私。

 

バーベキューでは日本各地に住んでいる、初めてお会いする方々ともお話しする事ができて良かったです。


キャンプファイヤーでは皆で輪になって踊りました。


この時私は酒が入っていたので、ボビナム(ベトナム格闘技)やってる友達に酔拳で戦いを挑み、何度も投げ飛ばされたので服が泥だらけになりました。また来年も参加したいと思います。



ニュース:ヴェト・ルォン少将、在日米陸軍司令官に就任

 当ブログでは旧ベトナム共和国出身のベトナム系アメリカ軍人ヴェト・ルォン(ベトナム名 ルゥン・スァン・ヴェト)少将が2014年に、アメリカ陸軍第1騎兵師団副師団長に就任した事をお伝えしましたが、この度ルォン少将は在日米陸軍(USARJ)司令官に任命され、2018年8月28日に神奈川県のキャンプ座間米陸軍基地にて司令官交代式が執り行われました。ベトナム系初の米軍将官であるがルォン少将が、北朝鮮とも近い≪実戦的な≫在日米軍の陸軍司令官に任命されたニュースは、世界のベトナム移民系メディアで大きく取り上げられています。


動画: U.S. Army in Japan / Facebook


過去記事にも載せていますが、改めてルォン少将の経歴を記します。

ヴェト・ルォン氏は1965年、ベトナム共和国ビエンホア生まれ。
彼の父はベトナム共和国海兵隊(TQLC)第6海兵大隊『聖鳥』大隊本部所属のルン・スァン・デュウン少佐で、1972年の"クアンチの戦い"ではベトナム戦争で最大の対戦車戦闘を指揮し、多大な戦果を挙げた人物でした。

ン・スァン・デュウン ベトナム海兵隊少佐

デュウン少佐と子供達(左端がヴェト・ルォン)

しかし1975年、敗戦に伴いルン一家はサイゴンからの脱出を余儀なくされ、政治難民としてアメリカに移住します。この時、ヴェト・ルォンは9歳でした。
カリフォルニア州マウンテンビューで成長したルォン氏は、父の影響で軍人を志し、勉学に勤しみます。
そして南カリフォルニア大学(USC)で生物学の学士号を取得後、同大学院で軍事科学の修士号を取得。1987年、アメリカ陸軍歩兵中尉に任官しました。

【ルォン少将の軍歴】

第8歩兵連隊第1大隊/小銃小隊長・対戦車小隊長・副中隊長・大隊管理将校 〔コロラド州フォート・カーソン〕
第82空挺師団第325空挺歩兵連隊第2大隊/大隊S-3(作戦参謀)補佐・A中隊長 〔ノースカロライナ州フォート・ブラッグ〕
Theater Quick即応部隊/指揮官 〔ハイチ〕
JATC(統合即応訓練センター)/総監部員 〔ルイジアナ州フォート・ポーク〕
陸軍指揮幕僚大学/参謀教育受講 〔カンザス州レブンワース〕
SETAF (南欧タスクフォース)/SETAF G-3(作戦参謀)主任参謀 〔イタリア ヴェニツィア〕
第173空挺旅団第508空挺歩兵連隊第1大隊/副大隊長 〔コソボおよびボスニア・ヘルツェゴビナ〕
JTF North (北部統合タスクフォース)/計画参謀・国土安全保障省訓練開発部門主任 〔テキサス州フォート・ブリス〕
第82空挺師団第3旅団戦闘団第505空挺歩兵連隊第2大隊/大隊長 〔イラク〕
第101空挺師団第3旅団戦闘団第187歩兵連隊/連隊長 〔アフガニスタン〕
スタンフォード大学/国家安全保障研究員 〔カリフォルニア州スタンフォード〕
統合参謀本部J5(戦略計画・政策)パキスタン・アフガニスタン調整部/副部長 〔ワシントンDC〕
第1騎兵師団/副師団長 〔テキサス州フォート・フッド〕
在日米陸軍/司令官(現職) 〔日本キャンプ座間〕
  


2018年07月12日

鉄砲撃ちの動画

もう1年半以上経っちゃいましたが、2016年12月にアメリカで銃をいろいろ撃たせてもらった時の動画をまだいくつか載せていなかった事に気付いたので、突然ですがまとめて公開。


「え、これで44マグナム?」ってくらい、ド素人の僕でも全然平気で撃てちゃいました。
デザートイーグルって、本来リボルバーで撃ったらすごいストレス感じるであろう強力な弾を、こうやって気持ちよく撃って遊ぶためのピストルなんですね。




撃った弾数と、装填不良で地面に捨てた新品の弾の数が同じくらい。装填不良って事は、弾頭の形が合わなかったのかな?




バレットのマガジンは地味に入れづらい事が判明。弾を一杯まで入れると奥に入らないし、マガジンのロックもけっこう奥にあるので、結局銃を立てないとちゃんと入りませんでした。
これが戦場だったら大変ですね。何か上手く入れるコツがあるのだろうか・・・



友達がカッコ良く編集してくれた動画。撃つたびにお尻の肉がプルプルします。



うはは、Youtubeっぽい(笑)
この人たちにとって5.56mm弾はBB弾と同じ感覚らしい。
ちなみにこのLMT製AR-15は、ちゃんとした手続きを経てフルートに改造されたものです。


以下、過去に公開しているけど、再度掲載。


ガンマニアのTさんの自宅の庭で的撃ち。射手は主にFPSで腕を磨いたフォン君。



銃本体の値段に加えて手続きの手数料とかで所有までに数十万円はかかるであろう軍用(フルオート仕様)のM4A1が、ボルトとチャンバーが同時に変形する深刻なジャムによりお陀仏になる貴重な瞬間。
なにも僕が撃ってる時に起こらなくても…。僕のせいではないとは言え、借り物だから気まずくなったよ。



これも友達が編集してくれたやつ。音はケータイのカメラではまともに録音できないので、あとからSE加えてます。


実はこの射撃会に招待してくれたTさんとはその後喧嘩分かれしてしまったので、今後アメリカに行っても、こういう機会はもう無いと思います。
アメリカの白人ガンマニアのほとんどはトランプ大好き黒人嫌いの右派なのは承知してたけど、それとは関係無い話でもいちいち人種の話を持ち出してくるんだよね・・・。(でも自分の彼女はアジア系だから自分はレイシストではないと思っている)
直接顔を合わせて話している分には良い人なんだけど、ネット経由だと、やはりお互いの嫌な部分が見えて来てしまいました。
僕が日本国内でSNSをやらないのは、こういう経験を嫌というほどしてきたからだったりします。


  


2018年04月12日

4月前半まとめ

今月に入ってから立て続けに色々な事があってブログ執筆が追いつかない状況なので、手短に書きます。


美作市ホーチミン像問題

 昨年11月に岡山県美作市が同市の作東文化芸術センターに『ホーチミン空間』なる展示スペースを設けた事で、世界中のベトナム難民団体から非難が殺到している事をお伝えしてきましたが、ついに日本在住ベトナム人協会および在ドイツ、在カナダのベトナム難民団体代表者で構成された代表団が4月6日、美作市を訪れました。
 代表団は現地で抗議活動を行うと共に、市役所で市長の萩原氏と面談し、展示の撤去を求める請願書を8,000名超えの署名と共に正式に提出しました。
 また、私も支援者の一人としてこの代表団に同行し、抗議および市長との面談に同席させて頂きました。詳細は私の別ブログ ベトナムウォッチに掲載してありますので、是非ご一読ください。

ベトナムウォッチ: 美作市ホーチミン像に世界のベトナム難民団体が抗議



テレサ先生ご一行の日本ツアー

 お花見のあと、オーストラリアから来日したテレサ・チャン・キウ・ゴック先生の講演会に参加しました。講演については後日ベトナムウォッチの方で記事にまとめる予定です。→記事アップしました。ベトナムウォッチテレサ・チャン弁護士来日』
 その講演が終わった後、日本のベトナム人コミュニティ有志がテレサ先生らを歓迎する打ち上げを居酒屋で開いたので、僕も付いていきました。するとその席で、テレサ先生から直接、日本を観光したいのでもし時間があるなら案内してくれないかとオファーを頂いてしまいました。こんな有名人に誘われたら断れる訳がありません。喜んで!
 という事で、テレサ先生とその旦那様、オーストラリアおよびドイツ在住のテレサ先生の支援者の計4名に二日間同行し、富士山周辺および日光にご案内差し上げました。

忍野八海にて。美しいお方です。

得意げに案内していたところ、忍野八海の駐車場で、あろうことか車のバッテリーあがりを起こしてしまいました(泣)
ロードサービスが来るまで1時間待ちぼうけ。ごめんなさい・・・

 オーストラリアでテレサ先生の活動を支援しているテレーズさんから、ベトナム国旗柄のマフラーを頂きました。実はテレーズさんは48年前の1970年に、ベトナム共和国政府職員として市ヶ谷の防衛庁に研修に来たいたのだそうです。その時お花見で見た桜満開の風景は今でも鮮明に覚えているそうで、今回48年ぶりに再び日本で桜を楽しめたことを大変喜んでおられました。
 ちなみに、この写真をFacebookに載せたところ、以前から知り合いだったベトナム系オーストラリア人のおじさんが、「ええー!知ってる?その人私のママだよ!」と、親子で僕と知り合っていた事が判明しました。世界は狭いですね・・・(笑)



座間でホームパーティー

 美作市から帰った翌日、神奈川県のキャンプ座間に住んでる知り合いの家でホームパーティーがあるというので、またホイホイ付いて行っちゃいました。パーティーに付くと、既に座間に住んでいるベトナム系アメリカ軍人とそのご家族が3家族来ていて、子供たちとジュマンジを見ていました。

奥様方の手作りベトナム料理、男衆の焼いたバーベキュー、コストコの春巻きをお腹いっぱい頂きました。

 なお、この家のご主人とはこれまでベトナム人協会のイベントで何度かお話ししただけで、アメリカ陸軍に所属しているベトナム系アメリカ人という事しか知らなかったのですが、今回お仕事について聞いてみたらビックリ。なんと中佐さんでした。えー!そんなに偉かったの~!?顔がかなり若い感じの人なので、僕より少し年上くらいだと思ってら、本当は40半ばでした。
 なんでも以前は第1歩兵師団、第1騎兵師団所属の通信科将校としてしアフガニスタンに出征し、歩兵および機甲部隊の通信を担当していたそうです。でも軍でやりたい仕事はやり尽くしたので、日本駐留が終わったら早期退役して民間に再就職すると言っていました。
 とは言え、やっぱり陸軍が好きなんでしょうね。子供たちが外に遊びに行くと、リビングのテレビで、アフガニスタンやイラクで活動する米軍の映像を流し、みんなに見せようとしていました。でもみんな喋くってて見やしないので、ミリタリーマニアの僕だけが反応。でもその人の本業の通信の話は僕が聞いてもチンプンカンプンなので、M4カービンとかM240マシンガンとか、そういう分かり易い武器の話だけ聞かせてもらいました。
 そして気をよくした彼は、頼んでもいないのに何故かファイーベース・グロリア(邦題「地獄の軍団スクワッド」)のDVDを上映。図らずも、米軍基地の中でアメリカ人とベトナム人が殺し合う映像を見ながらベトナム系アメリカ軍人と酒を交わすというシュールな体験をする事となりました。



  


2018年04月05日

お花見

 現在、ベトナム出身オーストラリア在住著名な弁護士・人権活動家テレサ・チャン・キウ・ゴック(Teresa Trần Kiều Ngọc)先生が初来日し、東京・姫路・大阪の三都市を周って日本在住ベトナム人コミュニティに向けた講演会が開催されています。
 その東京講演に合わせ、いつも懇意にして頂いている関東在住のベトナム人グループから、講演が始まる夕方まで日中お花見をするけど一緒にどうかとお誘い頂いたので、僕も参加させて頂きました。


僕の家に大きなブルーシートがあったので、当日は朝から、幹事と僕の二名で場所取り。11時過ぎるまでビルの陰で日光が当たらず寒かったです。


昼頃になってようやく皆さん集まり、お花見を楽しみました。お花見という事で、普段コミュニティ活動には参加されないお子さんや年配のご家族も一緒です。


各自持ち寄った手作りベトナム料理とかお菓子を食べながら宴会。初めて会う人もいるので順番に自己紹介して盛り上がる。僕と初めて会う人はほぼ100%、僕の事を日本生まれのベトナム人だと勘違いするので、ベトナムとは全く無縁の出自と知り、皆さん驚かれます。


夕方から講演会があるので、お酒はほどほどに(?)


そして16時ごろまでお花見を楽しんだのち、講演会参加者は会場のニコラ・バレ修道院に移動。講演会については後日詳しく記事にします。
  


2018年03月22日

タイでもらったパッチ

先日のバンコクでの撮影会の際、タイの友人たちが記念にと、タイ軍関係のパッチをいろいろプレゼントしてくれたので紹介します。



タイ王国義勇連隊"クイーンズコブラ" (FWMFタイ陸軍部隊 1967~1968年)

ベトナム戦争期、ベトナムに展開した自由世界連合軍(FWMF)の中で、韓国軍・オーストラリア軍に次いで3番目(※2018年3月22日訂正: オーストラリア軍より多かったので正しくは2番目)の規模の地上戦闘部隊を擁していたのがタイ陸軍でした。このベトナム派遣タイ陸軍部隊、通称"クイーンズコブラ連隊"は1967年にベトナムに到着し、以後アメリカ陸軍第9歩兵師団の指揮下で作戦を遂行していきます。
このパッチはリプロですが、友人曰く、当時同パッチを製造していた徽章屋が当時と同じ素材・製法で制作した高品質な複製品だそうです。なのでよほどのタイ軍コレクターでないと、真贋の見分けはつかないくらいよく出来ているそうです。


タイ王国陸軍義勇軍"ブラックパンサー師団" (FWMFタイ陸軍部隊 1968~1972年)
クイーンズコブラ連隊の派遣から間もなく、タイ政府はベトナムへの戦闘部隊の増派を決定し、1968年1月に兵力約11,000名から成るタイ王国陸軍義勇軍(RTAVF)"ブラックパンサー師団"が編成されます。FWMFに加わったブラックパンサー師団は以後、ビエンホア省等においてサーチ&デストロイ作戦や、ベトナム市民への人道支援活動に従事していきます。なお派遣の翌年の1969年にアメリカがベトナムからの撤退を表明した事で、FWMFの各国軍も順次撤退を開始し、タイ軍ブラックパンサー師団は1972年に撤退完了、解散しました。※タイを含む同盟国の活動概要については、アメリカ陸軍省編のAllied Participation in Vietnam(1985)に詳しく乗ってますので、ご参照ください。
なお上のクイーンズコブラと異なり、こちらのパッチは一目で近年作られたリプロと分かる機械刺繍製です。


タイ陸軍帽章(フィールドキャップ用)
ベトナム戦争期から変わらず使われているタイ陸軍の帽章。現代製だけど、リプロと言うよりPX品。


タイ王国空軍 F-16戦闘機搭乗員
実物らしいです。裏はベルクロ


タイ王国空軍 第5航空団
第5航空団は輸送および観測を主任務とする割と地味な航空団みたいですが、調べてみると、実は過去に日本と因縁のある部隊だという事が分かりました。
太平洋戦争開戦前夜の1941年12月7日午後11時、日本政府はタイ王国政府に対し、タイ領内における日本軍の進駐・無制限通行権を要求します。日本軍の目的はマレーおよびビルマに駐屯するイギリス軍の撃退であり、その道程にあるタイ王国は問答無用で日本への服従を強いられました。これは事実上の最後通牒であり、タイ政府は日本の要求を受け入れて独立国としての尊厳を失うか、要求を拒否して日本との戦争に突入するか選択を迫られました。しかし日本軍の戦力は圧倒的であり、タイ側は対抗手段が無い事を認めざるを得ず、武力による恫喝に屈して日本の要求に渋々同意します。
そしてその数時間後の12月8日未明、真珠湾攻撃とほぼ同時刻に日本軍がタイ領内への侵攻を開始します。しかしこれに対し、戦いもせず外国の侵略に屈する事を良しとしない一部のタイ軍部隊は、中央の命令を無視して独断で日本軍の迎撃を開始します。
タイ中部のプラチュワップキーリーカン県では、タイ空軍第5航空師団(現・第5航空団)が中心となって、上陸した日本軍に対する大規模な反攻が開始されました。戦闘は翌9日まで続き、正午には第5航空師団のプラワー・チュンサーイ中佐が、備蓄燃料が日本軍の手に渡る事を防ぐため、自軍の燃料集積所を爆撃するに至ります。
しかし同日、タイ政府は改めて日本との休戦協定を締結すると共に、現場部隊に対し休戦命令の徹底を行い、33時間におよぶタイ軍の抵抗は終わりを迎えました。尊厳よりも国家の存続を優先する苦渋の決断によって降伏したタイ軍でしたが、このプラチュワップキーリーカンの戦いでは、タイ側の戦死者は42名、一方当初圧倒的優勢と思われていた日本側の戦死者は115名以上とされており、短期間ながらタイ軍の意地と愛国心を示した英雄的な戦いとして現地には記念碑が建立されています。そして現在、その戦いを主導した第5航空師団の後継である第5航空団の部隊章には、その栄光を称えプラチュワップキーリーカンの戦い記念碑の、軍旗を掲げる航空兵の像がデザインされています。

プラチュワップキーリーカンの戦い記念碑 (画像:  กรุงเทพธุรกิจ มีเดีย จำกัด)


彼らの内何人かは、今年中に日本に遊びに来るみたいだから、その時はたっぷりおもてなししてあげよ~っと!face02
  


2018年03月14日

鹽水蜂炮に再挑戦

順番が前後しますが、タイに行く前に4日ほど台湾に行ってきました。
僕が台湾に行くのは2年ぶり2度目で、今回は前回行く事の出来なかった北投温泉、九份老街、十分老街など日本でもおなじみの観光地を堪能してきましたが、やっぱり最大の目的は『鹽水蜂炮』
2年前に参加した時は重度の胃炎に苛まれており、ほんのちょっとしか参加できなかったのが心残りだったので、再挑戦してきました。

3月2日、台北から新營駅まで台鉄の特急、そこからタクシーで鹽水に移動してSさん(通称 電冰箱)率いる台湾・日本合同チーム『鹽水周倉將軍護駕炮兵團』と合流。


我ら一番神輿、鹽水周倉將軍護駕炮兵團!!

我らがリーダー電冰箱氏一番神輿を引く権利を得たので、我々も祭りの先頭で一番神輿を引いて練り歩くという栄誉を授かりました。
なお、このチームは2年前の時点では日本人メンバーは僕と豊〇氏の2名だけでしたが、回を重ねるごとに人数が増えていき、ついに今年は日本人が計7名と、台湾人メンバーよりも多くなってしまいました。
台湾人ですらめったに手に出来ない無いチャンスを我々外国人が頂いちゃっていいのかな(笑)


そして日も傾き、午後7時、いざ出陣。

放てぇぇぇ!!!


これを午前2時過ぎまで7時間以上、ひたすらやる。
街中に無数の発射台が隠されており、次から次へと想像を絶する量のロケット花火と爆竹を浴びせられる。
なんでもロケット花火だけで二日間で300万発消費するとか。ちょっと桁数がおかしいです。
この動画はある程度浴びた後に、休憩の為列から離れた時に撮った物です。中で動画撮る余裕なんてとてもありません。
(僕の友達は気合で最前列で撮ったけど、煙で何が映ってるか分かりませんでした)

一緒に一番神輿を引いて周った最強の台湾おばちゃんと。
地元の実行委員みたいですが、祭慣れしすぎちゃってて、頭は農作業用の日除け帽、服はTシャツに実行委員のチョッキ、日除けのアームカバーのみという、信じ難い軽装です。良い子も多少頭の悪い子も絶対真似しちゃダメ。
身体に爆竹巻き付けて黒焦げになる若者は何人も見たけど、年配の女性でこれですか・・・。鹽水育ち、恐るべし。
おばちゃんは僕らが日本人だと分かっているのに、ず~とハイテンションな台湾語で僕らに何かを話し続けてました。こっちが理解できるかどうかは関係ありません。彼女は話したいから話してるのです。

こんな感じでロケット花火は、痛みさえ我慢すれば楽しかったです。
しかしその後、前回僕が体験していなかった、とんでもない地獄の我慢大会が待っていました。
神輿を引いて細い路地に入ったところ、地面が全て爆竹で覆われているのです。
マジで地面が見えないくらい、足元が全て爆竹で、その上に立ったところで神輿は停止しました。
そして点火・・・


※この動画は祭りが終わった後に残った爆竹で遊んでる人たちを撮ったもので、本番ではこの何倍もの爆竹が使われました。

熱い!熱い!熱い!マジで靴が燃えたと思いました。
さらに大量の爆煙で息が出来ず、視界もゼロで、本気で恐怖を感じました。


終わってみると、靴は燃えてはいませんでしたが、火の粉対策で巻いていたガムテープは黒焦げとなり、スニーカー本体も結構溶けていました。
僕の友達は、ズボンがポリ混紡の作業服だったので、スボンの生地が溶けて足首を火傷していました。
火の粉対策はしていたけど、足元からこんなに熱が加えられるとは想定していなかったです。これ溶接用の装備が必要だわ。

この絨毯爆竹で心が折れたので、僕と友人一名は午後11時ごろ、夕飯を食べに神輿の列から離れました。
食事の後列に戻りましたが、もう爆竹ゾーンはNG。ロケットも後ろの方から見てました。

そして午前2時過ぎ、神輿の列が鹽水の街を周り終え、出発地点の武廟に戻ったところでメインの祭りは終了。

一番神輿のリーダーとして、TシャツにウッドランドBDU一枚のみという薄着で根性を示し、
7時間近く最前列でロケット・爆竹を浴び続けた電冰箱氏の背中。男の勲章です。

(この後青あざが広がってもっとひどい見た目になるんだよ)

僕は足に2・3カ所あざが出来ただけなので、まだまだ参加賞レベル。
ちなみに午前2時に武廟を中心とするメインの祭りは終わっても、鹽水各所ではまだまだ祭りは続いており、午前4時ごろまでロケット、爆竹、打ち上げ花火の爆音が街に鳴り響きます。
僕はその日の昼にタイ行きの飛行機に乗らなくてはならなかったので、祭りが終わるとそのまま車で新幹線の駅まで送ってもらい、始発で桃園空港に戻り、着替えもせずに飛行機に乗っちゃいました。
自分でも分かるくらい服が火薬臭い。完全に危険人物だよな~と思っていたら、案の定、香港で乗り換えした際に香港警察に呼び止められ、別室で取り調べを受けました。
でも調べられたのは荷物や旅の行程などで、火薬臭い事については何も聞かれませんでした。単に見た目が怪しかったから止められただけかもしれません。
こんな感じで今回の台湾旅は締めくくられたのでした。


お祭りの様子はこちらでも詳しくレポートされてます。
2018年の鹽水蜂炮に行ってきた完全レポート http://xn--1rwm9g63x6ov.com/2018-report/ 
  


2018年03月09日

3年ぶりのバンコク撮影会

久しぶりに台湾とタイを旅してきました。
タイでは友人たちのご厚意で、再びバンコクで撮影会を行う事が出来ました!
この時が来るのを3年間待ってたぜ!

前回の撮影会はこちら『タイでコスプレ 撮影会編』


ベトナム空軍パイロット
(飛行服は友人からの借り物)


一緒に撮影会をやったタイ人の内2名がたまたまドンムアン空港で働いてる本職の航空整備士だったので、
飛行前にパイロットが行う簡易点検を一通り教えてもらいました。


間の悪い事にH-34やUH-1などヘリコプターが展示されている建物は改装工事中で入れず、
残念ながら今回はヘリはおあずけ。




ベトナム陸軍装甲騎兵


念願のM41ウォーカーブルドッグとM113APCで撮影成功!夢がまた一つ叶ったよ。
すでにM24軽戦車では撮ってるから、残すところはM48パットンだけだな。


今回一緒に遊んでくれたタイのリエナクターグループ
Pad1968 (ベトナム派遣タイ軍)
バンコク第十八歩兵師団 (日本帝国陸海軍)
の皆さま


撮影の後はみんなでチャトチャックマーケットに移動してミリタリー系の店を周り、
その後また移動して友人お勧めのタイ東北料理レストランで夕飯を食べました。


ご飯を食べながら日本とタイのリエナクトメントイベントについて話し合いましたが、
彼らもなかなかに意識高くて、うちらも負けてられないなと思いました。

みんな、ありがとー!!!
またそのうち会おうね!
  


2018年02月10日

【祝】WAR全米大学映画祭 審査員賞受賞!

過去のハウ・ルック監督作品いついては過去記事参照

2016年12月、僕は米国ジョージア州にて、アマチュア映画監督の友人が製作しているショートフィルムの撮影に参加してきました。あれから1年強、その時撮った作品がようやく完成し、この度、全米大学映画祭(Campus Movie Fest)に出品されました。
そしてその結果・・・

審査員賞(Jury Award)を受賞しました!!やったーーーーー!!!

※動画を再生出来ない場合は他のブラウザに変えてお試し下さい。



こちらが審査員賞受賞作品「WAR」 監督 ハウ・ルック



なんとなく分かると思いますが、あるベトナム人兄弟が生き別れとなり、それぞれ別々にベトナム政府軍と共産ゲリラ兵士となり、その二人が不幸にも戦場で再会し、お互いを兄弟と知らずに殺し合ってしまうという大変悲しいストーリーです。
実はこの話には元ネタがありまして、それらを全て撮れれば、なぜ兄が首にドッグタグではなく紙を三角形に折った物を下げているのか等が分かってもらえたのですが、ショートフィルムなので時間的な制限からストーリーは大幅にカットせざるを得ず、そこは描ききれませんでした。
とは言え、撮影や編集の技術が認められ、この度賞を頂けたのですから、出演者としては素直に嬉しいです。

しかし観客も審査員も、弟役を演じているのは当日ゲリラ役やってよと言われて気軽に引き受けた日本人だなんて思いもよらないだろうな。我ながら熱の入った演技をしたものだ(笑)


世にも珍しいゲリラ役のわたくし





なお我々はアマチュアなのでプロップ買うお金が無いため、銃やナイフは全部本物です。
M16はコルトAR-15モデルSP-1、56式自動歩槍はノリンコMAK-90で代用。
空砲なんて一般人には手に入らないので、発砲シーンは全部実弾。(この作品では実弾を使ったシーンは使われていません)
銃剣で腹を刺すシーンは、「ゆっくりやれ」、「ベルトに当てろ」と言われましても、なかなか怖い物です。
あと、この作品には使われていませんが、拳銃で自殺するシーンも撮りました。
いくら弾が入っていない事を何度も確認したとは言え、やっぱり実銃を頭に当てて引き金を引くのはかなり気持ち悪いものです。
しかもテイク5くらい撮り直したし・・・。
監督曰く今年の5月ごろまでには、それらの映像も使った作品をDVDでリリースするらしいので、完成を楽しみに待っています。

  


2018年02月08日

タイ友in東京

3年前に東京で出会い、その後チェンマイで僕を案内してくれたタイの友人たちが、今回初来日する友人たちを連れて再び日本に観光に来てくれたので、また一緒に遊んできました。


【2015年1月 日本】
オ モ テ ナ シ

【2015年5月 タイ】


タイのみんなは先に飛騨高山を観光しており、東京に移動したのち僕が合流。

浅草 浅草寺
女子たちは着物をレンタルして写真を撮り合いまくってました。見てるこちらも楽しいです。


新宿のクラブ
実は僕、クラブというものに来るのは今回が初めて。
何をしたらいいかよく分からないので、とりあえずマサイ族ジャンプをしていました。
なぜか僕が店員の人に「Are you from Thailand?」と聞かれたので、「Yes, Yes」と答えておきました。


上野のブリティッシュパブ
タイの女の子酒強すぎ。かなり飲んでるのに顔色一つ変えやしない。
僕は普段お酒をほとんど飲まないのに、今回は連日飲みまくったので体力の限界が来てます。
もう家に帰るのが億劫になったので、この後みんなが泊まってるホテルに付いて行って(残念ながら男の方と)一緒のベッドに寝かせてもらいました。

その他行った場所
浅草: 寿司屋
新宿: ショッピング(超長い)、ラーメン一蘭
代々木公園: フリーマーケット
原宿: ショッピング(超長い)、ブリティッシュパブ
渋谷: ショッピング(超長い)、すき焼き
上野: ショッピング(超長い)、アメ横

今回はとにかく女子の買い物が長くてくたびれました。靴なんかタイでも売ってるだろ・・・
なので女子たちがショッピングしている間、男たちは昼間からバーで飲んでたので、なんか記憶がいまいち曖昧です。
ともあれ、それなりに楽しんでもらえたようで良かったです。
今回初めて会った人とも仲良くなれたので、またしばらくしたら僕がチェンマイに遊びに行くね!
  


Posted by 森泉大河 at 01:07Comments(0)【タイ】旅行・海外

2018年01月04日

あけおめ

お正月という事で、今年は日本在住ベトナム人協会様の新年のつどいにお邪魔してきました。

関東各地のベトナム人コミュニティ―が集まり、様々な手作りベトナム正月料理を販売しています。



僕は友人のところでチェー(お汁粉)売りをお手伝い


開会式を行うベトナム国旗の祭壇の前で記念撮影
すごいお正月感のある絵になりましたface02

行く前から分かっていたけど、会場内でアオザイ着てる人間は僕一人。
生来の目立ちたがり屋なので、しょうがない。

詳しいレポートは私の別ブログ ベトナムウォッチの方に掲載する予定です。
少々お待ちください。



ここ十数年で、本土から日本に渡るベトナム人研修生・留学生の数は、
難民として来日した日本定住者の20倍を上回り、
ベトナム大使館=共産党政府は現在、彼ら在日ベトナム人の思想を管理・統制すべく、
日本国内のベトナム人コミュニティーの乗っ取りに勤しんでいます。

具体的には、大使館が資金を出してベトナム人団体・学生団体を創設し、
また日本各地にベトナム仏教寺院を建設して
そこを在日ベトナム人コミュニティーの場とする事で、
共産党政府の指揮下にある青年団や僧侶が、
そこに集まる人々を監視および教化するという仕組みです。

残念ながら一国の政府が行う政策というのは強力なもので、
現在は資金的・人員的にも共産党系組織の方が日本国内で優勢です。
日本以外の先進国では、ベトナム政府による国民への弾圧は問題視されているため
共産党政府系組織が野放しにされる事はありませんが、
日本政府(自民党政権)はベトナムで金儲けさえ出来れば良いと思っているので、
あのような邪悪な独裁政権に非常に好意的であり、日本国内でも好きにさせています。
私はこのように恥知らずな我が国の政府を心から軽蔑しています。

しかしそんな中でも、政府による思想統制の異常性に気付き、
自由を求める若者が少なからずいます。
彼らは自分で学び、自分の意志で、あの黄色い
—かつてベトナムに自由と民主主義があった時代の
に下に集っています。

自国民を食い物にする邪悪な権力は必ずや滅びると信じて、
私は今年も、彼らのように人間としての正義を貫く人々を応援していきます。
  


2017年08月17日

連休

しらこばと水上公園


数年前、『月曜から夜ふかし』でいじられて、大人げなく取材拒否しちゃった埼玉県民お約束の県営プールです。
この日、越谷市の気温は38℃。う~ん、プール来てよかった♪


在日ベトナム人協会サマーキャンプ2017


7月に在日ベトナム人の皆さんがお台場で行ったフォルモサ公害問題に抗議するハンガーストライキにご一緒させて頂いた際、他の参加者の方から、8月に毎年恒例のサマーキャンプがあるので来ませんか?とお誘い頂たので僕も友人(日本生まれのベトナム人)と二人で1泊2日のキャンプに参加してきました。
詳細は私の別ブログ『ベトナムウォッチ』にあります。


ターミネーター2 3D


映画好きな弟が帰省していたため、二人で有楽町のTOHOシネマズ 日劇に観に行ってきました。
7歳と時に親父と映画館で観て以来、僕の人生最高の映画であり続けているT2。僕の中の『カッコいい』の基準は全てターミネーターで出来ています。つい5年前くらいまでは、ジョン・コナーの写真を美容室に持って行って、「この髪型にして下さい!」と注文していました。もうさすがにオッサン化したので今は出来ないけど、逆に今度は親父の方=T1のカイル・リース(マイケル・ビーン)をやってみようかしら。
内容は、これまで100回は観ているので目をつぶっていても分かりますが、やはり劇場の大画面で見るのは迫力が違いますね。元々3D向けに作られた映画ではないので、正直3Dになったという実感は感じられませんでしたが、遠近感と言うか臨場感は確かにあります。
映画の後はファミレスに入り、スマホでグラインドハウスを見ながら楽しい映画談義。


向かいの席のグループも映画の話をしていたので、多分僕らと同じくターミネーターを観た帰りなんでしょう。
でも、なんで向こうには女子が2人もいるんだよ。楽しそうにスターウォーズの話しやがって。
こっちはヒゲ眼鏡デブの弟と二人でヴァイラスとか鉄甲無敵マリアについて話してんだよ。なにこの格差!




筑波海軍航空隊記念館

プロジェクト茨城様との打ち合わせのため初めて訪問しましたが、偶然にもこの日は8月15日という事で、館内の展示を感慨深く見学させて頂きました。2階の窓から、雨の降る練兵場を見ながら泣いているお婆さんを見た時は、ここがかつて日本国民300万人を死に至らしめた戦争の証跡である事を強く実感させられました。
よく聞く言葉ですが、僕は「あの犠牲があったから今の私たちがいる」などという嘘は大嫌いです。20歳そこそこの若者が大量死する事が、どうして世の中にとってプラスに作用するのでしょう。もし彼らが生きていれば、そのせいで日本は滅びたとでも言うのでしょうか。
彼等の遺書を読んでいると、皆さん僕よりずっと若いのに、大変立派な事を書かれています。そう書くように『教育』されたからです。人間の醜さを知らない子供に壮言大語ばかりを教え、霞が関がでっち上げた虚構を信じ、善意で命を挿し出す人間に仕立てる教育を。
僕は一人の人間として、あの時代、あの体制を心から憎んでいます。その気持ちは軍事マニアとしてあの時代の事を様々な面から知るにつれ、より一層強くなっています。



つくば植物園


航空隊記念館のあとは僕の希望で、つくば実験植物園で開催されている水草展を見学。
植物園内では、友達の息子(5歳)に、「サボテンに挿されると体がサボテンになるから気を付けろ。ここに展示されているのは全身サボテンになってしまった人間たちだよ」と教えました。
また、かき氷を食べながら、「かき氷のブルーハワイを食べると、ブルーマンになる。」「防ぐにはイチゴ(赤)とメロン(緑)を食べて体の中を中和するしかない。ただし、間違ってイチゴ(赤)とレモン(黄色)を食べると、色が混ざって黒人になる」と着色料の過剰摂取に警鐘を鳴らす食育を施しました。
ついに、その子は半ベソ状態になってしまい、僕はお父さんに「マジでやめて」と怒られました。子供チョー可愛い!

ブルーハワイを食べ過ぎた人たち