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2022年03月05日

『国家革命運動』の謎

約9年間続いた第1次インドシナ戦争の結果、フランスは1954年にインドシナからの撤退を決定し、ベトナムの国土の北半分がホー・チ・ミン率いるベトナム労働党の支配下に堕ちます。
その後も労働党は引き続き暴力革命によるベトナム全土の共産主義化を目指し、1960年に南ベトナム領内でテロ組織TDTGPMNVN(南ベトナム解放民族戦線、以下「解放民族戦線」)を組織しました。
ただし、かつてホー・チ・ミンがベトミンを「純粋にベトナム独立を目指す同盟」と偽って様々な民族主義勢力を取り込んだ(そして最終的に労働党=共産主義以外の幹部を大粛清した)のと同様に、解放民族戦線もまた、共産主義革命という労働党の目的は巧みに隠され、「腐敗した南ベトナム政府の打倒と祖国統一」という広く受け入れられ易い宣伝文句によって南ベトナム領内の様々な勢力を取り込んだ組織でした。
なので解放民族戦線では、末端のゲリラ兵士はもちろん、兵を率いる中級幹部ですら、自分たちの闘争が共産主義革命を目指すものであるという自覚は薄かったかも知れません。
彼らが戦う動機はただただ、南ベトナムの絶望的な貧富・権力の格差社会からの「解放」でした。(結果的に彼らは戦争に勝利した事で、共産党政権によるさらに劣悪な権威主義・格差社会を固定化してしまう訳ですが)

このように解放民族戦線に参加したのは共産主義系勢力だけではない(むしろ純共産思想系は少数派だった)事は広く知られていますが、それにしても中には「なぜこいつらがベトコンに加わってるの?」と不思議に思う勢力もあります。それが『PTCMQG(国家革命運動)』です。

国家革命運動(Phong Trào Cách Mạng Quốc Gia)の旗

▲共産軍の旗を鹵獲した米海兵隊。国家革命運動(上)と解放民族戦線(下)

上の写真にように国家革命運動の旗がベトコン/解放民族戦線の物として写されている写真が複数存在しています。(特に1968年マウタン=テト攻勢時)
しかし国家革命運動という組織の来歴を考えてみると、それはとても不自然な事なのです。

何故なら国家革命運動は元々、反政府どころかゴ・ディン・ジェム政権を支援するために活動する完全なる反共主義政治組織で、むしろ積極的に労働党・解放民族戦線の打倒を掲げていたからです。
国家革命運動はゴ・ディン・ジェム総統率いるカンラオ党(人格主義労働者革命党)傘下の3つの下部組織の一つとして1955年に創設された公然の政治運動を通じて大衆にジェム政権支持を促す組織でした。その組織は都市部から地方の農村まで広くネットワークが設置され、8年間に渡ってジェム政権を支えました。

国家革命運動の集会[1958年] 壁の文字は「祖国第一 ゴ総統万歳」の意

▲国家革命運動アンスェン省支部。建物にはジェム総統の肖像が掲げられている。


しかし1963年11月に勃発した軍事クーデターでジェム総統が暗殺され政権が崩壊すると、ジェムの配下にあった国家革命運動は解散を余儀なくされました。
こうして国家革命運動の活動は正式に終わったはずなのですが、その後も(少なくとも4年後の1968年には)この国家革命運動を旗を掲げる武装勢力が活動していたのです。しかもあろう事か、宿敵であるはずの解放民族戦線の傘下で。

反共を掲げる政治組織がなぜ共産主義(少なくともサイゴン政府はそう見做している)の解放民族戦線に加わったのか、その理由を説明する資料はまだ発見できていません。知り合いの研究者も、さすがにこれには首を傾げています。
仮説として挙がっているものでは、「国家革命運動のメンバーは1963年クーデター以降、ジェム政権期の体制排除を進める軍事政権から迫害されており、それに反発して彼らは反政府志向を強めたため、政府打倒を掲げる解放民族戦線に勧誘された、あるいは自主的に加わったのではないか」という説がありました。
確かに説明としてはそれが一番分かりやすいのですが、さすがに国家革命運動と解放民族戦線では主義主張が180度違うので、すんなり受け入れられるものではありません。


ちなみに解放民族戦線の傘下には、国家革命運動と似たようなデザインの旗を持つ『LMCLLDTDCHBVN(ベトナム民族・民主・平和勢力連盟)』という組織もありました。こちらは最初から解放民族戦線が創設した地下組織です。


▲ベトナム民族・民主・平和勢力連盟(Liên minh các Lực lượng Dân tộc, Dân chủ và Hòa bình Việt Nam)

一見、国家革命運動の旗と似ているのですが、中心の星は赤ではなく黄色(金星)であり、中央の背景は黄色ではなく水色(白の場合あり)なので、上の米兵の写真の旗とは明らかに異なります。
  


2021年11月26日

南ベトナムにおける「解放戦争」の欺瞞性(1965)

 先日、今から56年前の1965年にベトナム共和国政府が発行した『南ベトナムにおける「解放戦争」の欺瞞性』という資料を入手しました。内容は電子化本家さんに依頼して全ページスキャンし、私が運営するこちらのウェブサイトで公開しています


 この本はベトナム共和国政府が自国の1965年版防衛白書を、日本の人々向けに抜粋・翻訳したもので、内容の概要は以下の通りです。
 今回の白書は、ハノイ政権がその平和宜伝とはまったく裏腹に、破壊的・侵略的行動を強化しようとしていることを暴露することを目的としたものである。
 この白書に収録された証拠書類は、いわゆる"南ベトナム解放戦線"がハノイ共産政権に完全に依存していることを示す新たな証拠を提供しているばかりでなく、共産諸国、とくに北京政権が、南ベトナムに対する侵略にかかりあっていることをも立証している。
(「まえがき」より抜粋)

・いわゆる"南ベトナム解放戦線"の正体
・いわゆる"南ベトナム解放戦争"に対する北ベトナム共産政権の補給と維推の実情
・ベトナム共和国政府がとった防衛措置
・共産主義者の歴然たる侵略の事例
 1) 破壊工作員が非武装地帯を越えて潜入している―ポ・パン・ルオンの事例
  2) 共産国製武器・弾薬の南ペトナムヘの密輸クア・ベトの事例
 3) 共産国製武器・弾薬の南ベトナムヘの大最輸送
(「目次」より抜粋)


 この本は、日本のとある図書館の蔵書だったものが除籍・放出されたもので、中には懐かしの貸し出しカードも入っていました。しかし貸し出しの記録は一つも無し。
 ハノイ政権が語る『抗米と解放』のドラマに多くの人々が陶酔している日本では、ハノイ政権に批判的な情報はほとんど「親米ポチの陳腐なプロパガンダ」と鼻で笑われるので、もしかしたら、この半世紀間ほとんど誰にも読まれなかったかも知れません。

 とは言え、僕はベトナム共和国やアメリカ政府などハノイに敵対する側による発表の方が真実だと主張している訳でもありません。この本も含め、それはそれで実際都合のいい部分だけをまとめたプロパガンダです。
 
 (余談ですが、僕は長年日本国内外のベトナム難民コミュニティや民主派ベトナム人と関わってきましたが、彼らも気に入らない相手には例え身内であっても「あいつはベトコンだ」とレッテル張りをして排除しようとする下らない光景を何度となく見てきました。ベトナム難民コミュニティはこの40年間、そういった身内での赤狩りを繰り返してきたので、多くの穏健派は自分たちのコミュニティそのものに失望し政治への関心を失いました。)

 そもそもの話ですが、この世にある全ての情報が人間の言語で書かれている以上、その全てが人間によって多かれ少なかれ意図的に編纂・公表された『プロパガンダ』であり、人間の意図が介在しない『真実』など、そもそもこの世に存在しないと考えています。 政府発表や民間のメディアはもちろん、個人だって他人に何か伝えたい時は、相手にどう伝えたいかを考えた上で言葉を選んで語るでしょう。

 したがって私に出来る事は『真実』の主張ではなく、あくまで歴史愛好家として『そういったプロパガンダがあった事実』を収集・保存する程度だろうというのがここ数年の私のスタンスです。

 まぁその部分がどう変わろうとも、結局、私がホー・チ・ミンとベトナム共産党に対して中指立て続ける事に変わりはありませんが。
  


2019年10月13日

CIDG計画とFULRO(フルロ)

※2019年10月15日更新

 最近、CIDGごっこを計画する中でフルロ(FULRO)の話が話題に上がった(と言うか僕が話したくて仕方なかった)ので、CIDGとフルロの関係を分かりやすく図にしてみました。

▲CIDGとフルロの大まかな関係を示した図(クリックでPDF開きます)

 なお今回は触れませんでしたが、少数民族の自治・独立運動は1958年のバジャラカ運動が最初という訳ではなく、1945年には最初のデガ諸部族の連携組織が発足しており、もっと昔には、現在のベトナムの領土の南半分以上はチャンパ王国やクメール王国が支配していた場所なので、彼らが「少数民族」と呼ばれる事になるはるか以前から、この争いはず~っと続いてきたわけです。
 また1975年以降も彼らの戦いは現在に至るまで続いています。このベトナム戦争の前と後の話は、まじめに書くとかなり長くなるので、またの機会に。



これまでのおさらい&よく見る誤解を訂正

・CIDG=デガ(モンタニヤード)ではない
 CIDG計画には多数のデガ諸部族が参加しましたが、チャム族やクメール族、ヌン族など、デガ以外の少数民族も多く参加しており、また一部ではカオダイ教徒など、反政府的なベトナム人も参加していました。

CIDGフルロではない
 フルロは長年ベトナム人から迫害を受けてきたデガ、チャム族、クメール族の三勢力の連合です。その目的はベトナム(この当時は南ベトナム)からの自治・独立です。彼らにとってこの戦いは積年の恨みが詰まった人種戦争であり、当初はベトナム人であれば南北に関係なく、一般市民すらも見境なく虐殺する過激な武装組織でした。なおそれまで大した反乱も越せなかった彼らがフルロを結成し、大規模な反乱を起こす事が出来たのは、米軍のCIDG計画の賜物でした。フルロ兵士はCIDG計画に参加する事で米軍によって訓練され、米軍から与えられた武器で武装し、米軍から支払われる給料がフルロの資金源となっていました。なのでCIDGフルロではありませんが、CIDG計画無くしてフルロの活動は無かったと言えます。
 一方、CIDGに参加していたヌン族は、中国国民党の影響下にある中華系の少数民族であるため、第一次インドシナ戦争では反共主義に基づいてベトミンと戦ったものの、ベトナム人との関係は悪いものではありませんでした。1954年に北ベトナムが失陥すると、約5万人のヌン族が南ベトナムに移住し、そのままサイゴン政府軍にヌン師団が創設されます。後に政争によってヌン師団長が解任された事でヌン族兵士はサイゴン政府に反旗を翻しますが、ジェム政権崩壊(1963年)後は再び良好な関係に戻ります。よってフルロに参加する事はありませんでした。

・フルロ=CIAの工作ではない
 インターネットを見ていると、一部のベトナム人の間ではフルロは「ジェム政権を崩壊させるためのアメリカCIAの工作だった」と語られていますが、それは完全に間違いです。まずフルロが結成されたのはジェム総統がクーデターで暗殺されてから10ヶ月も後の事です。また当時CIDGを指揮していたアメリカ人たちは、言葉の壁から、自分の部下たちが秘密裏に米軍による軍事支援を利用して反政府ゲリラ組織を結成している事に気付く事が出来ませんでした。そして実際に1964年にフルロの反乱が起こった際には、CIAですらこの反乱の背後関係を把握できておらず、ベトコンまたはフランスの支援・扇動によるサボタージュ説が唱えられていました。
 後に判明する事ですが、当時実際にフルロの組織化・反乱を支援してのは隣国カンボジアのシハヌーク政権でした。カンボジアとしては、クメール王朝時代にクメール領だった南ベトナムの領土を奪還する事を最終的な目標としており、その為に、ベトコンとの内戦を抱える南ベトナムを、内部からの反乱でさらに混乱に陥れる事を目論みました。そのためカンボジアは、CIDG計画によって南ベトナム領内の少数民族に武器・資金が流入した事を確認したうえで、少数民族に連携と反乱をけしかけたのでした。


ベトコンに参加したデガ勢力

 1954年以来、南ベトナム政府に対する少数民族たちの要求は、主に自治権・民族自治区の設置(特にデガは、1946年にフランスが設定した「南インドシナ・モンタニャール国」の復活・ベトナムからの独立)でしたが、、同時に政治イデオロギー的には、ほとんどの少数民族は第一次インドシナ戦争以来、反ベトミン・反共産主義・反北ベトナムで一致していました。
 しかし1958年のバジャラカ運動の失敗後、イーバムら運動の指導者を失ったデガの間では、今後の独立運動の方針について迷いが生じていました。そこに、北ベトナムの労働党が南ベトナム破壊工作として南ベトナム領内の旧ベトミン・共産主義・民族主義勢力の再組織化(後の「南ベトナム解放民族戦線」)を1960年に開始すると、デガ内部の一部勢力は、ベトコン(労働党・解放民族戦線)が語る「勝利の暁には民族自治区が約束される」という白々しい口車にすがってしまい、約1,000名のデガが「タイグエン自治運動」を結成して南ベトナム解放民族戦線の指揮下に入りました。
 しかしその兵力は微々たるもので、またベトコンははなっから少数民族に自治権を与えるつもりなど毛頭なかったので、この共産主義系デガ組織「タイグエン自治運動」がその後どうなったのかは、定かではありません。
 もしその後の15年間、ひたすらベトコンの指揮下でアメリカやサイゴン政府軍、そして同胞のデガ兵士たちと戦い続けたとしても、その勝利の後に待っているのはベトナム共産党政権によるデガ自身への民族浄化です。
 でも、もしかしたら、デガの同胞を大量に死に追いやっておきながら、自分だけはうまく共産党で出世して、戦後英雄気取りのデガも、もしかしたら居るかもしれませんね。
 だって現に、現在のベトナム社会主義共和国には、そういうベトナム人が腐るほど大量に居て、そんな連中が戦後40年以上、独裁政権下で私腹を肥やし、ベトナム国家・国民を食い物にしているんですもの。
  


2019年04月01日

56式腹掛け

前々から欲しかった、中国軍の56式自動歩槍用のマガジンポーチ(弹匣袋)の古いモデルが手に入りました。
56式用マガジンポーチには複数のバリエーションがありますが、今回手に入れたのはベルト長を調整するバックルが金属製のものです。僕が知る限り、このモデルが56式用のチェストリグ型マガジンポーチとして中国人民解放軍で最初に制式化されたものなので、便宜的にこのモデルを『初期型』と呼称します。

ベトナム戦争期、軍事支援として56式自動歩槍と共に中国からベトナム共産軍(特に解放戦線)に対して大量に供与された56式用マガジンポーチは、ほとんどがこの初期型でした。

初期型マガジンポーチを着用する南ベトナム解放民族戦線の兵士


またベトナム共和国軍や米軍の特殊部隊も、潜入作戦の際に共産軍に変装するため、しばしば敵から鹵獲した56式用マガジンポーチを使用していましたが、その場合も当時の写真で見られるのは初期型ばかりです。

初期型マガジンポーチを始め共産軍の軍装を着用するベトナム共和国軍NKT第68群チーム『アースエンジェル』*
(※SOG-36の指揮下にあった、共産軍に偽装して潜入破壊工作を行う専門チーム)


しかしこの初期型は今まで、日本国内では滅多に出回らなかったため、僕は入手が容易な、バックルが革製となった改良(簡略化?)モデルを代用品としてコスプレに使っていました。(スタンプが滲んでいて製造年は不明)
以下、初期型(写真上)と手持ちの改良型(下)の比較です。




ようやくこの初期型ポーチが手に入った事で、心置きなく特殊部隊コスプレで身に着ける事が出来ます。
と言うか、まさか普通のサバゲー用品店がAmazonで売っていたとは・・・。もう品切れですが、これをレアものと分かって買った人って少ないかも。

ところで、これまで代用品として使ってきた改良型のポーチは、もうお役御免なのでしょうか?
そう思って、56式用ポーチについて検索してみたら、興味深い例がこちらのブログに掲載されていた。

人生楽しく行きましょう!! 56式小銃用チェストリグ

僕はベトナム戦争における56式用ポーチの使用例は初期型しか見た事がないので、改良型に移行したのは1970年代なのだろうと考えていました。
ところがどっこい!この形は1966年度製が存在しているのだそうです。今回僕が入手した初期型のスタンプは1965年度製でしたから、たった一年しか変わりません。
改良型が遅くとも1966/67年頃に存在していたのなら、それらがベトナム共産軍に渡っていた可能性は十分にあるはずです。
しかし不思議な事に、その使用例はいまだ見付けられていません。僕は共産軍の軍装を専門的に調べた事がないので、絶対に無かったとは言い切れませんし、むしろ年代的には使われていない方がおかしいくらいだと思います。
しかしその一方で、現に実際の使用例が全然見られないという事は、もし存在した場合でもごく少数だっただろうと言うしかありません。
また共産軍は1975年の終戦の時点でも初期型しか使っていない事から、仮に改良型が1960年代中盤に登場していたとしても、中国の全ての工場における生産が改良型に切り替わった訳ではなく、その後も初期型の生産が続き、ベトナムに供与された物のほとんどはその初期型だったのだろうと推察されます。

という訳で、ベトナム戦争における改良型ポーチの使用については、可能性は否定は出来ないけど、実例が確認できない以上肯定する事も出来ないので、今のところは代用品の域を出ないのではと考えます。
もし改良型の使用例をご存知の方は是非コメントでお知らせください!お願いいたします。