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2013年09月07日

CIDGの人々

ベトナム戦争中、アメリカCIAが主導して南ベトナム領内に住む少数民族に軍事教練を施し、反共戦力として活用する
CIDG (Civilian Irregular Defense Group/民間不正規戦グループ) 計画を実行したことは、けっこう有名だと思います。
ただ、具体的にどういう人々がCIDGに参加していたか、そしてその計画がどういう終わり方をしたかについては意外と語られていないので、
簡単にまとめてみました。

デガ/モンタニヤード(Degar / Montagnard)
ベトナム中部高原(タイグエン)地方に住むオーストロネシア語族およびモン・クメール語族系の諸民族の総称。
大きく分けて20以上の部族があるが、CIDG計画ではジャライ族、ラーデ族、バナール族、コホー族、セダン族、カトゥ族、ブル族などが有名。
文化的には高原地帯での農耕、アミニズム(精霊信仰)、フランス領時代に広まったキリスト教信仰などが共通している。
中部高原地方はベトナム人(キン族)の入植が進んでおらず、1975年まで人口の大半がデガであった。


チャム族(Cham)
かつて1500年間に渡ってベトナム南部を支配したチャンパ王国の末裔。
人種的にはオーストロネシア語族なのでモンタニヤードと紹介されることもあるが、本来は海上貿易で栄えた海洋民族。
チャンパがベトナムに滅ぼされると大多数のチャム族はカンボジアに避難したが、一部はベトナム中南部沿岸に取り残され少数民族となった。
古代からインド文明に強く影響を受け、サンスクリット文字やヒンドゥー教文化を継承している。なお、チャンパ滅亡後に多数派となった
カンボジア領内のチャム族はイスラム教徒が多い。


クメール族(Khmers Kampuchea-Krom )
かつてクメール王朝がメコンデルタを支配した時代に定住したクメール(カンボジア)人。通称『KKK』
メコンデルタがベトナムの支配下となったことで少数民族となった。1960年代には一部が山賊化していた。


ヌン族(Nung)
中国から南下してきたタイ系民族。平地に住み、ヌン漢字(ヌンノム)を使うので米国人からは「チャイニーズ」と呼ばれた。
代々傭兵を稼業としており、多数のヌン族が南ベトナム軍に属していたが、ジェム政権下で反サイゴンの機運が高まる。


ホアハオ教徒(Hoa Hao)
少数民族ではなく、新興宗であるホアハオ教を信仰するベトナム人。
強大な組織力と激しい反共主義で、かつてフランス軍に所属したが、戦後は南ベトナム政府の支配を拒み地方軍閥化していた。


ベトナム人/キン族(Kinh)
ベトナムの主要民族。CIDGには戦略村計画(Strategic Hamlet Program)の対象となった、南ベトナム政府の管理下にある
農村部の民兵や反共主義者、および共産軍からの転向者がいた。


現在の各民族に関しては、世界民族博覧会様のページが大変参考になると思います。

 以上、主だったところでこれらの勢力がCIDG計画に参加しました。ほとんどが南ベトナム政府が嫌いなマイノリティの人々です。そのような人々は南ベトナム政府の打倒を目指す北ベトナムにとって好都合であり、彼らを共産主義に引き込もうと1950年代末から様々な工作が始まり、1960年にNLF(南ベトナム解放民族戦線/ベトコン)が結成されると、数千人の少数民族がベトコン勢力に加わりました。
 これに危機感を覚えたアメリカは、彼らを共産軍から引き離し、逆に南ベトナム・アメリカ軍の指揮下に引き入れて彼ら自身に共産勢力を掃討させる懐柔・軍事教育計画を立案します。これが1961年に始まったCIDG計画です。ベトコンは「革命の暁には民族自治区を約束する」等の甘い言葉で彼らを誘惑する一方で、元来の人種差別意識から少数民族に対し重税や弾圧、虐殺行為を繰り返していたため、すでに共産軍に対する憎悪はサイゴン政府に対するもの以上に高まっていました。また、一部の民族はつい7年前まで、自治権を与えられる替わりにフランス軍の一員としてインドシナ戦争を戦っていた経験があり、アメリカもフランスと同様にベトコン、サイゴン双方からの解放と相応の給料を約束したため、抑圧されていた多くのマイノリティがこぞってCIDG計画に参加しました。こうしてCIDGは数万人規模に拡大し、強力な戦力へと成長していきます。
 また、CIDG計画はその名の通り、南ベトナム国内の民間人(市民権は無いに等しかったが)を訓練しているという体であったため、当初から米軍グリーンベレー南ベトナム軍LLDB(特殊部隊)によって共同で運営されていました。元来ベトナム人は少数民族に対し少なからぬ差別意識を持っていましたが、LLDB隊員たちはCIDG計画を遂行する為には従来の民族対立を解消し、少なくとも共産軍の脅威が過ぎるまでは友軍として結束する事が不可欠だと気付きました。そしてグリーンベレー隊員と共に、それまで野蛮人と蔑んでいた少数民族の村に入って彼らと生活を共にし、彼らの民族衣装をまとい、医療・生活支援などの懐柔策を積極的に行っていきます。これは軍事的な目的があったとは言え、二千年近く続いてきた周辺民族との対立の中で、初めてベトナム人側が歩み寄った瞬間と言えるでしょう。


 この活動は、南ベトナム軍全体にある根強い差別意識やFULROの反乱などで幾多の困難を経験しますが、グリーンベレーとLLDBは地道な努力を続けていきました。そして1960年代後半、CIDGとの関係を重視するアメリカ軍の要請によって南ベトナム政府が融和政策へと転換し、優秀なCIDG兵士を正式なLLDB隊員へ登用するなどした事で関係は徐々に回復し、CIDGとLLDBは概ね友好的な関係を維持しました。またこの時期には、アメリカとの強いパイプを持つFULRO系の国会議員や軍人の活動により南ベトナム政府は公式に少数民族への差別撤廃に乗り出し、フエ市には少数民族向けの全寮制大学が設立され、中部高原地方はFULROによる自治権が認められました。さらに1968年のテト攻勢では、多くの政府軍部隊がテト休暇中だったため急遽CIDG部隊マイクフォースがサイゴン制圧に派遣されましたが、その際サイゴンの人々は神聖なテトを汚したベトコンに怒りをあらわにする一方、それまで差別の対象だったCIDG兵士に茶や花を贈って感謝したと記録されています。このようにCIDG計画の成功によって、副次的に少数民族に対する差別も徐々にですが薄れつつありました。

▼LLDBに登用されたCIDG兵士(右)

▼デガの民族衣装を着て融和をアピールする南ベトナム軍第2軍団司令官ヴィン・ロック少将

 しかし1970年、アメリカ軍のベトナム撤退=ベトナミゼーション政策によってCIDG計画は突如終了します。フランス・アメリカという二つの大国に付き従い、命を懸けて戦うことで自由を得ようとしたマイノリティたちでしたが、またしてもその夢は打ち砕かれ、歴史の波に翻弄されることとなります。1961年以来共に戦ってきたグリーンベレー隊員は断腸の思いで彼らに別れを告げ、アメリカ軍は撤退する部隊から可能な限りの武器・装備を集め、CIDGに引き渡しました。そしてCIDGは新たに南ベトナム陸軍BDQ(レンジャー部隊)の所管とされ、キャンプ単位で国境レンジャー(BÐQ Biên Phòng)大隊として再編成されました。しかしLLDBはまだしも、南ベトナム軍上層部はいまだに少数民族に対する差別意識を捨て切れておらず、ベトナム人の指揮下に入る事を拒み軍を抜けていく兵士が続出しました。またクメール族は、民族の故郷であるカンボジアにおいて政府軍と共産ゲリラ『クメール・ルージュ』との間に内戦が勃発した事から、政府軍側を支援すべく武器を持ってカンボジア領内へ戦いに行く者もいました。
 その一方で、この時期北ベトナム軍の侵攻がますます激しくなっていた事から、特にデガの住む中部高原が陥落すれば、共産軍によって女性や子供にまで復讐と殺戮が及ぶ事も目に見えていました。その為国境レンジャーの多くは、これまでのようにベトナム人からの自由を求めるのではなく、自分たちの家族・郷土を守るため否応無しに南ベトナム軍による指揮を受け入れ、カンボジアやラオスなどこれまでよりさらに厳しい戦場で戦い続けました。

▼1970年以降の国境レンジャー大隊

 1975年4月、国境レンジャーの奮戦も空しく、ついにデガの郷土中部高原に北ベトナム軍による最大規模の猛攻が始まりました。しかし、そもそもあまりベトナム人の土地と見なされていなかったこの地方は、南ベトナム軍によって守られるどころか、戦力を温存するため早々に放棄されます。そして保護を求めるデガの一般住民に対し、南ベトナム総統グエン・バン・チューは「自分の身は自分で守れ」と語り、これを拒否。さらにアメリカ空軍の要請もあり、敵を足止めする為に高原全域を盲爆可能とする無制限爆撃エリアに指定します。これにより中部高原は完全に人の住めない危険地帯と化し、村落の7割以上が焼失。数万人のデガが難民としてカンボジア領への脱出を図り、その途中で女性や子供を含む数千人のデガが死亡したと言われています。一方で、北ベトナム軍は中部高原に侵攻する際にまたしても「革命後は民族自治区を約束する」と誘いをかけた為、一部のFULRO勢力がこれにすがって北ベトナム軍に協力し、中部高原の主要都市陥落が早まったとも言われています。
 1975年4月30日、ついにサイゴンが陥落し、15年間続いたベトナム戦争が終結します。しかしそれは、CIDGに参加した少数民族にとって、更なる悲劇の始まりでした・・・。ハノイ政府は、第1次インドシナ・ベトナム戦争と2回も外国に味方し、敵となった少数民族を許す気はありませんでした。当然、民族自治区などは与えられず、待っていたのはベトナム史上かつてない規模の弾圧と破壊。中国にルーツを持つヌン族だけは、見た目もベトナム人と近しくもともとあまり差別されていなかったため難を逃れますが、その他の民族は激しい迫害に晒されていきます。特に中部高原はハノイ政府によって『新経済区』に指定された事で強引な農地開拓が始まり、代々継承してきたデガの土地は国に全て没収され、さらに労働力としてサイゴンなどの都市部から強制的に移住させられた旧南ベトナム市民が大量に流入したことで、この地方にあったデガによる文化・経済・政治は完全に破壊されてしまいました。南ベトナム時代に一旦は薄れかけていたベトナム人による差別感情は共産主義の下で再燃し、少数民族は財産の所有、少数言語の使用・教育、祭事や集会、キリスト教信仰などのあらゆる文化が禁止され、以後現在に至るまでベトナム政府による弾圧が続いています。その間FULRO残党はもちろん、南ベトナム時代に台頭した少数民族系の政治家や軍人は全て逮捕され、収容所での激しい拷問で死亡した者も多くいました。
 これらの惨状から、さらに数万人規模の少数民族が難民となり、多数の死者を出しながらカンボジア領への避難を続けました。しかし当時のカンボジアではクメール・ルージュが内戦に勝利し、ポル・ポト率いる民主カンプチア政権が成立したことでカンボジア国内でも少数民族に対する激しい弾圧が始まっており、難民たちはベトナム・カンボジア双方による迫害から逃れるため、人里離れたモンドルキリ州のジャングルの奥地に潜伏するしかありませんでした。このモンドルキリ州での避難生活の中で、デガを中心とする旧FULRO勢力は新たに加わった難民たちと結束し、再び2万人規模のFULROゲリラを結成します。

▼1970年代末から80年代のFULRO
 

 これに目をつけたアメリカCIAは、またしても彼らを共産主義に対する戦力として利用するためFULROに近付き、支援を約束しました。これを受けて、かつてCIDG計画でアメリカ軍と共に戦った彼らはCIAを信用し、アメリカによる支援を信じて再びベトナム政府へのゲリラ戦を開始します。しかし、結局CIAが彼らに対し支援を行うことはありませんでした。一度ならず二度もアメリカに見捨てられた彼らに対し、ベトナム軍は徹底的な掃討を行います。さらにベトナム軍のカンボジア侵攻、FULROの内部分裂によって組織は壊滅状態に陥り、最終的にはベトナム・カンボジア軍による追撃から逃れるためジャングルの奥地に逃げ込み、そこで政権を追われたポル・ポト派と共に山賊のような状態で潜伏していました。
 その後、ベトナム軍のカンボジア撤退によってカンボジア和平が成立し、1992年にUNTAC(国際連合カンボジア暫定統治機構)による武装勢力の武装解除が始まると、抗戦に疲れ果てたFULROは国連による難民認定と国外脱出を条件にUNTACに対し降伏します。この知らせにかつての戦友である米軍グリーンベレーが応え、グリーンベレーの本部があるノースカロライナ州フォート・ブラッグ基地周辺に約400人の元CIDG兵士とその家族が移住する事ができました。しかし、アメリカのベトナム撤退から実に20年以上が経過しており、この間に少数民族たちが失った物はあまりに大き過ぎました・・・。

▼UNTACに投降し、国連軍ヘリでプノンペンに脱出するFULROとその家族
  

 1986年以降、ベトナムではドイモイ(刷新)政策が開始されたことで農産物の輸出が伸び、長年コーヒー農園などで過酷な労働を強いられていた少数民族たちの地位もいくらか向上し、ようやく少数民族の自治・人種政策について検討が始まりました。この中で比較的デガ、特にジャライ族の人口が多かった(それでも1975年以前より激減したが)プレイク省・フーボン省は、新たにジャライ(ザライ)省として再編され、それまで10年以上禁止してきた少数民族の祭りや文化を一部認めることで、今日では少数民族の文化が残る観光地として宣伝されています。
 しかし実際には、それらはベトナム共産党の厳重な管理下にあり、政府によって作られた「観光資源として都合の良い文化」と言えるでしょう。事実、現在でも中部高原のいくつかの地方は、政府の許可無く外国人が立ち入る事を禁止されており、その実情がメディアに報じられる事は稀です。中部高原では2000年以降、FULRO系団体の扇動によって少数民族による暴動事件が度々発生し、その度に治安部隊による激しい弾圧が発生していると一部で報じられていますが、ベトナム政府は暴動の事実を否定しており、詳しい情報はなかなか伝わってきません。FULRO系団体は現在もベトナム政府による人権迫害を訴えて国連などに支援を求めていますが、国際社会の関心は薄く、問題解決の見通
しはまったく立っていません。


彼らの戦いは、まだ続いています・・・






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この記事へのコメント
読みやすくしかも詳しい記事をありがとうございます。
インドシナ戦争のまた一つの側面を知れてよかったです。教養が深まりました。
大国の干渉に振り回され、住みかを追われ、
迫害を受け続ける部族が気の毒でなりません。

あと、お気に入り登録ありがとうございました(^-^)
Posted by Kingbee at 2013年09月08日 17:33
>Kingbeeさん
僕もSOG好きなので勉強させて頂いてます^ ^

本当にインドシナの歴史は、冷戦から民族紛争までありとあらゆる要素が詰まっていて興味が尽きませんね。
冷戦期はこういう、民族対立に大国が介入し、うまく口車に乗せて血みどろの殺し合いをさせるなんて話は他にもいろいろありますね。
僕はベトナム人も少数民族もどちらも好きなので、知れば知るほど凄惨な歴史の連続で悲しくなります(泣
Posted by タイガタイガ at 2013年09月08日 20:26
CIDGもやってみたくなりました。小柄な自分はタイガー着て米兵やっても既にCIDGにしか見えませんが…w

勉強不足な自分はヤードと言う大きなくくりしか知らなかったので、勉強させて頂きました。  
Posted by OscarOscar at 2013年09月11日 07:28
>Oscarさん
僕もナム戦始めた当初は米軍LRRPのつもりでタイガー着てたんですが、周りからヤードとか南べと言われまくったせいで、自分でもその気になってしまいましたw
今では米兵役ではできないような遊びも出来るので、やって良かったと思っています。
Oscarさんも是非ぜひ!
Posted by タイガタイガ at 2013年09月12日 19:48
アホカリで初めて見たタイガさんは風貌から着こなしまでリアルで凄くカッコ良かったです!

見習いたいです!
Posted by OscarOscar at 2013年09月12日 20:54
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