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2013年10月26日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[2]


 1963年、度重なるベトコンのテロ活動、そして反体制派の仏教徒や学生による暴動、それに対する凄惨な弾圧などでゴ・ディン・ジェム総統は民心はおろか軍部からの支持も完全に失っていた。1963年11月、ジェム政権に業を煮やした南ベトナム軍幹部と米国CIAはクーデターを実行し、8年間続いたジェムの独裁政権は崩壊した。このクーデターで、1957年以来ベトナムにおける特殊作戦の全権を握っていた総統府連絡・LLDB司令官レ・クアン・タン大佐は総統もろとも処刑された。
 クーデターの後、新たに樹立された軍事政権は、統合参謀本部(BTTM)を無視した総統権限の象徴である総統府連絡およびLLDB本部をすぐさま解体した。特に対北工作を専門とする地理開拓・北方コマンドはLLDBから完全に分離され、1964年に統合参謀本部参謀長の直接指揮下の新組織"開拓部(Sở Khai thác / SKT)"へと再編された。SKT初代司令官にはチャン・バン・ホー大佐が就任し、以後はSKTがベトナム戦争における特殊作戦の中枢を担う事となる。
 前・北方コマンド司令で、総統府連絡ナンバー2の地位にいたゴ・ディ・リン大佐はクーデターによる粛清をまのがれ、SKTに残留した。SKT発足から間もなく、リン大佐はSKT内にシーコマンド(Biệt Hải)部隊、および新設されたシーパトロール(Hải Tuần)部隊を統括するSKTの海洋・沿岸作戦部門、沿岸警備部(Sở Phòng vệ Duyên hải / SPVDH)を発足さ、自ら指揮を執った

▲チャン・バン・ホー大佐
SKT司令(1964~1968年)


MACV-SOG創設


 南ベトナム軍にSKTという新たな特殊作戦機関が設立されると、特殊作戦を指導していたアメリカ軍もそれに対応して1964年1月に在ベトナムアメリカ軍を統括するMACV(ベトナム軍事援助司令部)内に、CIAおよびSKTによる諜報・心理戦・特殊工作を統括・支援する為のアドバイザー機関SOG(研究観測グループ)編成した。SOGはアメリカ陸軍特殊部隊(グリーンベレー)を中心に、アメリカ陸海空軍・海兵隊から諜報・心理戦などの専門家が集結した統合不正規戦タスクフォースであり、CIA秘密作戦の実行部隊である南ベトナム軍SKTを教育・運用指揮するアドバイザー任務を担った。SOGは"MACV-SOG"と呼ばれたように形式上はMACV内の組織であったが、実際にはMACVの指揮系統から独立しており、ペンタゴンの直接指揮下にあった。


34アルファ作戦

 SOG編成から間もない1964年初頭、CIA主導による秘密作戦"34アルファ作戦(OPLAN 34A)"が開始された。この計画は北ベトナムへの航空偵察およびサボタージュが目的であり、その運用指揮をSOGが担った。

▲ロバート・マクナイト大佐(右)
SOG 34A作戦司令(1964年)
SOG対北工作司令(1964~1968年)

 SOGが最初に投入したのは南ベトナム軍SKT(旧・北方コマンド)の部隊4チーム(ベル、レムス、トゥールビヨン、イージー)、合計30名だった。この4チームは北ベトナム領内に空挺降下し、敵の背後で撹乱工作を行った。しかし、1961年以来北ベトナムに投入されたコマンドのうち既に300名近くがスパイと見破られて拘束されており、1964年の時点で北ベトナムはラジオ放送を通じて捕虜の存在を公表していたため、これ以上の内陸部への潜入は厳しいものがあった。
 そこでSOGは、南ベトナム軍の水中作戦部隊をトンキン湾から潜入させて、北ベトナムの沿岸地域で破壊工作を行う作戦に切り替えた。こうして1964年2月、SKT沿岸警備部(SPVDH)"シーコマンド"および海軍LDNN(UDT/SEAL部隊)の合同チームがトンキン湾に投入された。チームの破壊目標は北ベトナム ロン岬のレーダー施設、クアンケ沖の哨戒艇、そして中国スワトゥに係留中の北ベトナム船籍のフェリーであり、アメリカ海軍の高速哨戒艇部隊が彼らの輸送と支援砲撃を担った。しかし北ベトナム軍の警戒は想定よりも厳しく、それらは失敗に終わった。その後、北ベトナム領内の北緯18度線上を走る幹線道路1号線、および橋の爆破作戦が2回立案されたが、いずれも警戒が厳しく中止となった。思うように成果が挙げらない中、3月にはLDNNの隊員のほとんどが一旦ダナンに帰還したが、シーコマンド部隊は現地に留まった。
 北欧諸国で唯一NATOに加盟しておりアメリカと深い関係にあったノルウェーは、1964年春にノルウェー製の"ナスティ"高速哨戒艇をCIAに提供し、SPVDHに新設されたシーパトロール部隊が使用した。5月、シーパトロール部隊が成熟訓練を終え、米海軍哨戒艇部隊に代わって34A作戦に投入された。時を同じく、LDNNも前線に復帰し再びシーコマンドとの合同チームが編成された。そして5月27日、シーコマンド・LDNN合同チームは北ベトナムの帆船を拿捕し、ついに今作戦で初の成功を収めた。これ以降、6月から7月にかけて作戦のペースは倍増した。

 
▲34A作戦に投入されたSPVDHシーパトロール部隊の"ナスティ"哨戒艇(1964年)

 6月30日には、合同チーム"アイル(Ile)"が貯水ポンプ施設のある北ベトナムの海岸に上陸。攻撃を行った結果、2名のLDNN隊員が戦死したが、22名の北ベトナム兵を殺害し、ポンプ施設の破壊に成功した。また同日、シーパトロール部隊がナスティ級高速哨戒艇によって北ベトナム軍のビーコン施設を攻撃した。この6月30日の攻撃は北ベトナム海軍の海上警備体制を一気に増大させ、後にトンキン湾上で北ベトナムとアメリカ海軍が衝突に至る要因ともなった。

▲シーコマンド部隊(1964年ダナン)
この写真は海兵隊(TQLC)からシーコマンドに編入されたチーム。右奥にいるのはSOG-37/海軍SEALのアドバイザー

 8月にはノルウェー軍情報部が直接34A作戦への参加を開始した。ノルウェー軍の情報将校アルフ・マルテンス・マイヤー大尉は3名のノルウェー人船員を工作員として雇い、CIAが潜入訓練を施した。その後ノルウェー人工作員の乗った"スイフト"高速哨戒艇は南ベトナム軍シーパトロールと共にトンキン湾に潜入し、夜間に偵察、サボタージュ、拉致などの秘密任務を実行した。

▲アルフ・マルテンス・マイヤー大尉(右)
ノルウェー軍情報将校


トンキン湾事件

 アメリカ海軍は1962年半ばより、南北ベトナムの沿岸にて掃海艇(MSO)による電子偵察作戦を実施しており、度々北ベトナム軍艦艇と遭遇しては緊張状態が発生していた。しかし掃海艇の武装は微々たるもので、また北ベトナム側もアメリカの介入を危惧して互いに攻撃を行うことは無かった。しかし1964年1月に駆逐艦による通信傍受"DESOTOパトロール"が開始されると、北ベトナム海軍も対抗してモニター艦や魚雷フリゲートを繰り出してアメリカの駆逐艦を監視した。さらに34A作戦によるサボタージュ工作で、アメリカと北ベトナムの緊張は一気に高まっていった。
 8月1日深夜、34A作戦で投入された南ベトナム軍のコマンド部隊が北ベトナム領内で攻撃を行った。そして翌8月2日の朝、事件が発生した。潜入部隊の通信を支援するためトンキン湾の沖合いに派遣されていたアメリカ海軍駆逐艦マドックスが、3隻の北ベトナム海軍P-4魚雷艇に攻撃を受け被弾した。マドックスはすぐさま魚雷艇に反撃を行い、さらに空母タイコンデロガより発進した4機のF-8戦闘機も支援に加わり、3隻のうち1を撃沈、2に損害を与えた。マドックスの損害は軽微で、南ベトナム領海まで退避した。北ベトナム側はこの戦闘について、「マドックスを南ベトナム軍の艦艇と間違えて攻撃した。(アメリカ艦艇を攻撃する意図は無かった)」と主張した。
 さらに8月4日、二日前に攻撃を受けたマドックスは、アメリカ海軍の威信を示すため駆逐艦ターナー・ジョイと共に再びトンキン湾に派遣され、北ベトナム沿岸から18kmという至近距離に接近した。同日夕刻以降、アメリカ側はレーダーで「北ベトナム艦艇が攻撃体制を取っている事を探知したとし、レーダー照準による対艦射撃を実施した。2時間に及ぶ砲撃の末、アメリカ側は2隻の北ベトナム軍魚雷艇を撃沈したとしている。ジョンソン大統領はこれを「アメリカ艦艇だと分かった上で一方的に攻撃してきた」と非難し、米国議会は8月7日にトンキン湾決議を採択。アメリカによるベトナム戦争への本格的な軍事介入が決定された。世に言うトンキン湾事件である。
 なお、8月2日の戦闘については北ベトナム側も「目標誤認による先制攻撃」を認めているが、4日の事件は、後に戦闘そのものがアメリカ側の捏造である事が判明している。


沿岸警備部(SPVDH)

▲ゴ・ディ・リン大佐
総統府連絡(地理開拓)北方コマンド司令(1959~1963年)
SKT沿岸警備(SPVDH)司令(1964~1965年)
SKT/NKT副司令(1965~1970年)
NKT作戦司令(1970~1972年)
NKTイェンディ訓練センター司令(1972~1975年)

 1964年にゴ・ディ・リン大佐がSKTに創設した沿岸警備(SPVDH)はダナンに本部を置き、シーコマンド部隊およびシーパトロール部隊を傘下に持つSKT(後のNKT)の海洋特殊作戦部隊であった。SPVDHの作戦は、ほとんどが一晩程度で終わる短期間のものだったが、高い成功率を誇った。 
 SPVDHの訓練はアメリカ海軍SEAL、アメリカ海兵隊、および南ベトナム軍特殊部隊によってダナンで行われた。加えて司令部にはMACV担当者、アメリカ海軍顧問団(Naval Advisory Detachment)、MACV-SOG分遣隊(SOG-37)が常駐し、作戦のアドバイス、支援を受けた。
 SPVDHは統合参謀本部に属する統合海洋戦タスクフォースであり、作戦権限も海軍司令部ではなくSKTが有した。またSPVDH司令官は1966年まで陸軍が、その後は海軍の参謀が指揮官を務めた。 船舶の乗員も全てSPVDHのスタッフであったが、シーコマンド部隊は南ベトナム陸海軍・海兵隊から選抜された優秀な水陸戦闘チームで構成されていた。

各チームの構成
ベガ:海軍LDNN
ロムルス:海兵隊
ニンバス:陸軍LLDB
さらに1960年代半ばには40名からなる民間工作部隊『キュムラス』を擁した。
 (※この他にチーム『マーキュリー』『キャンサー』も存在) 

シーコマンドは正式な編成に拘らず、要請に応じて様々な任務に派遣された。 しかし1973年の休戦の影響でSPVDHは解隊され、海軍シーコマンド派遣団はLDNNへ異動した。 


 
▲シーパトロール(Lực Lượng Hải Tuần)

   
  
▲シーコマンド(Biet Hai)

 
▲SOGシーコマンドアドバイザー(SOG-37 / 米海軍SEAL NAD(Naval Advisory Detachment))


次記事 NKT・SOG 対外特殊作戦(3)に続く





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この記事へのコメント
前回の記事も含めてとても勉強になりました。
複雑だった組織と時系列がようやく整理できそうです。

シーコマンドはドラム缶に機関銃隠したり、タイマー付きのロケットでレーダーサイトを攻撃したりなどと型に囚われない戦いをしていたとplaster氏の本で読みました。興味深い部隊だと思います。
Posted by Kingbee at 2013年10月26日 23:39
>Kingbeeさん
僕も自分で文章起すまで、ちゃんと把握できていませんでした。
あのトンキン湾事件が34Aの延長で発生していたなんて思いもよりませんでした。
SOGは新型兵器の実地試験もやらせられたそうなので、実験中の変な武器を使った話があって面白いですw
plaster氏の本はまだ読んでいないのですが、
他の60年代前半のCIA秘密作戦を扱った本も、2000年以降に一気に出版されてますよね。
いまごろになって機密指定が解除されたんですかね。
Posted by タイガタイガ at 2013年10月27日 16:36
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