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2013年12月01日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[3]

※2016年11月7日更新
※2022年10月22日更新


 1963年11月のクーデター後、ジェム総統とその側近タン大佐の私有機関であった"総統府連絡部"は解体され、その機能は総参謀部(BTTM)に移された。同じくタン大佐が創設した陸軍特殊部隊(LLDB)もBTTMの管理下に置かれ、以後LLDBは対外工作任務から外されアメリカ軍特殊部隊と共に国境および村落の準軍事防衛戦力=CIDG計画の運営に当たった。対外工作については、BTTMの下に新たに連絡部(Sở Liên Lạc/リエゾン・サービス)が設置され、連絡部のコマンド部隊がラオス、カンボジア領内への越境偵察を行う事となった。
開拓部(SKT / SES)

 1964年初頭、BTTMは旧総統府連絡部が行っていた北ベトナムへの長期間の潜入工作を引き継ぐため、新たにBTTM直属の特殊作戦機関開拓部(Sở Khai thác / Special Exploitation Service)を設置し、初代司令官にはチャン・バン・ホー大佐が就任した。
 SKTはサイゴンのBTTM本部に併設された司令部、ゴ・テー・リン大佐が新たに設立したダナンの沿岸警備部(Sở Phòng vệ Duyên hải) 、空挺教育を行うロンタンのクエッタン訓練センター(TTHL/Quyết Thắng)、および南ベトナム空軍の航空支援部(Sở Không yểm)から構成されていた。

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[3]
▲チャン・バン・ホー大佐
SKT司令(1964~1968年)

開拓(1964年)の編成
・本部(サイゴン)
・沿岸警備(ダナン)
・航空支援(ニャチャン)
・クェッタン(必勝)訓練センター(ロンタン)

 SKTと米軍SOG空挺作戦部門(SOG-34/ABN OPS)の共同作戦として1964年に始まった34アルファ作戦(OP-34A)は一定の成果を挙げていたが、1964年後半には北ベトナム軍はホーチミン・トレイルを介して南ベトナムへの浸透を強めていた。これに対抗するため、それまでBTTM直属の独立した機関としてSOGと共同でC&C(コマンド&コントロール)部隊を編成していた連絡部(Sở Liên Lạc/リエゾン・サービス)は、1965年1月にSKTに編入された。
 また1965年からは沿岸警備部(SPVDH)指揮官ゴ・テー・リン大佐がSKT副指令となり、1970年までSOGと共にインドシナ半島における全ての特殊作戦の実務を担った。

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[3]
▲ゴ・テー・リン大佐
SKT沿岸警備(SPVDH)司令(1964~1965年)
SKT/NKT副司令(1965~1970年)


技術部(SKT / STS)

 開拓部(SKT)は規模の拡大に伴い、1966年に技術部(Sở Kỹ Thuật / Strategic Technical Service)へと改称された。(越語略は変わらずSKT)
 また、不正規戦における対ゲリラ戦術としてSKT内に心理戦部(Sở Tâm Lý Chiến)が設置され、政治戦総局(TCCTCT)の心理戦局(CTLC)およびSOG心理作戦部門(SOG-33/PSYOPS)と共同で各種の心理作戦を行った。チューホイ計画(Bộ Chiêu Hồi)は、敵支配地域に投降を促すビラを散布したり、スピーカー放送による呼びかけを行い、多数の北ベトナム兵やベトコンから投降・転向者を引き抜くことに成功した。さらに"母なるベトナム"、"聖剣愛国戦線(OP-39作戦)"、"南部の声"、"クメールの声"、"インドシナ民族戦線"といった秘密ラジオ放送を敵側に送信し続けた。この中には単に敵の戦意を削ぐだけでなく、もともとベトナム人を嫌っているカンボジアの共産ゲリラ"クメール・ルージュ"に対し、カンボジア領を往来する北ベトナム・ベトコンとの対立を煽り、共産主義勢力内での内紛を意図する放送もあった。

技術(1966年)の編成
・本部(サイゴン)
・連絡(サイゴン) 
・航空支援(ニャチャン)
・沿岸警備(ダナン) 
・心理戦(サイゴン)
・クェッタン訓練センター(ロンタン)

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[3]
▲SKT司令チャン・バン・ホー大佐と、MACV-SOG司令ジョン・シングラウブ大佐(1966年)

 1967年、SKTおよびSOGは北緯17~20度のラオス・ベトナム国境地帯におけるSTRATA(短期監視・目標捕捉)偵察計画"OP-34B"を実行するため、第11グループ(Liên Đoàn 11 )を編成した。第11グループはダナンに本部を置く空挺偵察部隊であり、一チーム12人編成のSTRATAチームが9チームで構成されていた。STRATAチームはその名の通り、少人数で敵勢力下に空挺降下して短期間のロードウォッチ任務を行う機動力の高い部隊であった。STRATAチームの運用指揮はSOG空挺作戦部門(ABN OPS/SOG-34)が担い、非常に高い成果を挙げた。1967年12月、SOG空挺作戦部門(SOG-34/ABN OPS)はSOG工作部門(SOG-36/AGENT OPS)へと改称され、北ベトナムへの長期潜入を行うOP-34AはOP-36Aへ、STRATAは"OP-36B"へと改められた。
 STRATAチームは敵交通路およびホーチミン・トレイルの偵察、通信傍受、敵施設の偵察、空爆目標の捕捉の訓練を受けており、1968年以降は北ベトナム軍がそれまでと侵攻ルートを変えてきた事から、目標捜索を行うSTRATAの出動は急増した。

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[3]
▲北ベトナム軍に偽装して北に潜入する第11グループSTRATAチーム111(1967年)


技術局(NKT / STD)

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[3]

 さらにSKTは1967年11月、SOGとの共同作戦により適した組織体制となるべく更に組織を拡大し、技術局(Nha Kỹ Thuật / Strategic Technical Directorate)へと改称された。NKT司令はBTTM参謀長カオ・バン・ビエン大将の直接指揮下にあり、BTTMは国家安全保障会議の投票を経ず、グエン・バン・テュー総統の一存でNKT指揮官にドアン・バン・ニュー大佐を任命した。

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[3]
▲カオ・バン・ビエン大将
BTTM参謀長(1965~1975年)

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[3]
▲ドアン・バン・ニュー大佐
NKT司令(1968~1975年)

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[3]
▲MACV-SOG本部における勲章授与式
MACV-SOG司令ジョン・サドラー大佐(左端)と、NKT司令ドアン・バン・ニュー大佐(右端)

 1968年、OP-34Aから発展した敵地への潜入工作作戦OP-36Aの実行機関として、NKT内に新たに第68グループ(Liên Đoàn 68)が編成された。第68グループは本部をサイゴン、分遣隊をコントゥム基地に持ち、ヘリコプターからの空挺降下や、海上から沿岸へ上陸するなどして北ベトナム・カンボジア・ラオスへの長期潜入作戦を行う。彼らの主な任務は総参謀部の戦略基盤となる敵情の把握であり、国境を越えて南側へ侵攻する北ベトナム軍を捜索・監視し続けた。
 第68グループは共産軍を装って敵支配地域に長期間潜入する二つの潜入チーム"アースエンジェル"および"パイクヒル"から成る。アースエンジェルは1969年初頭に編成され、北ベトナム軍に変装して敵地へ潜入、偵察や破壊工作を行う。また、抜き打ちで味方部隊を襲撃して対処能力を評定するOPFOR(仮想敵)任務も行った。
 パイクヒルは南ベトナム領内に住むクメール族(KKK)で構成され、カンボジアの共産ゲリラ"クメール・ルージュ"を装って潜入した。当初、作戦地域はカンボジアが主であったが、後にラオスへまで拡大し、空挺降下後2ヶ月間に渡り敵の往来状況を報告したり、B-52による爆撃の観測・効果判定を行った。 
 
NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[3]
▲第68グループ チーム"アースエンジェル"(1971年)

技術局(1968年)の編成
・本部(サイゴン)
・連絡(サイゴン) 
・第11グループ(ダナン)
・第68グループ(サイゴン)
・航空支援(ニャチャン)
・沿岸警備(ダナン) 
・心理戦(サイゴン)
・クェッタン訓練センター(ロンタン)


連絡部(SLL / Liaison Service)

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[3] 
▲連絡"コマンド雷虎"

 1963年11月のクーデターの後、総統府連絡部は解体され、新たにラオス・カンボジア領内への越境偵察作戦を行う連絡部(Sở Liên Lạc/リエゾン・サービス)がBTTMに設置された。司令官にはホー・テュー大佐が任命された。連絡部は偵察・目標破壊・空爆目標捕捉に特化したコマンド部隊"雷虎(Lôi Hổ)"の編成訓練をサイゴン東部ロンタンに位置するクェッタン訓練センターにおいて行い、1964年4月より本格的な活動を開始した。
 連絡部は第1~第3戦闘団(Chiến Đoàn)のコマンド雷虎で構成され、米軍SOG空挺作戦部門(SOG-35/ABN OPS)と共同でC&C(コマンド&コントロール)を構成した。以後、連絡部はSOGの支援の下規模を拡大し、1965年1月にSKTに編入された。最終的に連絡部は司令部と6個の雷虎タスクフォースFOBから成り、そのうち司令部と3基地はサイゴンに配置された。
 C&Cのコマンド雷虎は第1タスクフォースがダナン(CCN)、第2タスクフォースがコントゥム(CCC)、第3タスクフォースがバンメトート(CCS)に駐屯し、それぞれの複数の前進作戦基地(FOB)、十数個の偵察チーム(RT・スパイクチーム)、基地警備中隊、そして南ベトナム陸軍分遣隊および民間防衛隊司令部を有していた。各C&Cは1500~3000名以上の雷虎隊員その他ベトナム人と、それを運用指揮する160~570名のSOG(ほとんどが陸軍5thSFG)隊員で構成されていた。このようにC&Cは南ベトナム軍連絡部を中心とした組織であったが、作戦・資金・運用ノウハウの面ではSOGに依存する部分が大きかった。
 

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▲SOGおよびC&C(CCN, CCC, CCS)の組織図

【FOB所在地の変遷】
FOB1
1965年~:フバイ(トゥアティエン省)、フエ(トゥアティエン省)
1966年~カムドク(クアンナム省)

FOB2
1965年~:コントゥム(コントゥム省)

FOB3
1965年~:バンメトート(ダルラク省)、コントゥム(コントゥム省)
1968年~:ケサン(クアンチ省)

FOB4
1965年~:ノンヌォック・ダナン(クアンナム省)

FOB5
1965年~:バンメトート(ダルラク省)
1968年~:トゥドゥック(サイゴン市)

FOB6
1965年~:ダラット(トゥエンダグ省)
1968年~:ホー·ゴック·タオ(サイゴン市)

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▲コマンド雷虎の軍服
C&C部隊では米軍から支給された野戦服を着ている場合が多いが、サイゴン駐屯部隊や米軍撤退以降は南ベトナム軍式の軍服を着ている

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▲C&Cを運営するSOG-35アドバイザー分遣隊

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▲C&CのRT(偵察チーム)
ミリタリー界隈ではこのRTを指してMACV-SOGという呼称が使われているが、実際のSOGは南ベトナム軍SKT/NKTが行う諜報・心理戦・教育などの特殊作戦全般へのアドバイザー機関であり、その中のSOG-35(ABN OPS)が支援する連絡コマンド雷虎の地方部隊がC&Cであり、さらにその中の各FOBに所属する偵察部隊がRTである。

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▲RTには明らかにCIDGと思われる少数民族が多数所属している
CIDGはもともとLLDBが所管する南ベトナム軍の部隊であり、64年以降は希望者は正規の軍人として登用されため、彼らの身分はSKT/NKT連絡だと思われる。





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この記事へのコメント
今回も文字との格闘お疲れ様でした。
南べの特殊は名前が難しく理解するのに一苦労です。

我々がRTをSOGと呼んじゃうのと同じ?かどうかわかりませんが
実際にRTを率いたアメリカ人が部族をどれくらい区別出来ていたのか気になるところです。
文献だとヤードとひとくくりにされがちなのでどの部族だったのかがイマイチわかりにくくて…(*_*)
Posted by KingbeeKingbee at 2013年12月01日 22:47
>Kingbeeさん
ベトナム語と英語(米軍呼称)では、同じ組織なのに名称の意味が必ずしも同じではないので混乱しますよね。
僕は一応、南べの組織名はベトナム語から直接日本語訳するようにしているので、一般的な英語名の訳とは違和感があるかもしれません。

初期のCIDG計画やマイクフォースを率いたSF隊員は、部族のしきたりや部族間のトラブルを理解する必要があったそうなのである程度区別していたと思うのですが、純粋に戦闘員として後から加わった隊員や、戦後のマニアだと、よく分かってなさそうですよね。
本来モンタニヤード(山岳民族)ではないヌン族やチャム族までヤードと呼ばれちゃいますし。
面白いのが、アメリカ軍の資料でもモンタニヤードはおろか、ベトナム人もCIDGも全部一緒くたに"ベトナム兵"と書かれてることがあるのですが、そう書かれるのは逆にCIDGが南ベトナム軍所属である故と言えるかも知れません。
Posted by タイガタイガ at 2013年12月02日 11:37
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