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2014年05月05日

地方軍

※2016年11月5日更新


 地方軍(Địa Phương Quân / ĐPQ)とはベトナム共和国陸軍の地方部隊で、必要に応じて戦地に投入される精鋭の歩兵師団とは異なり、地方軍は比較的小規模な編成で部隊ごとに担当地域(行政区画)の防衛を担う守備部隊でした。その為歩兵師団のように専属の機甲部隊や砲兵部隊は持っておらず、後方部隊の一つという位置づけでした。しかし基地や橋、道路など敵に狙われやすい交通網・重要施設を護り、何より対ゲリラ戦に必要不可欠な地域住民との協力関係を維持していた地方軍は、"縁の下の力持ち"として10年以上ベトコンとの戦いを支え続けました。ベトコンがいかに地方軍の存在に悩まされていたかは、ベトコンが撒いた伝単(宣伝ビラ)に表れています。
“Ngàn hai bắt được thì tha.Chín trăm bắt được đem ra chặt đầu.”
(月給1200ドンの一般兵は捕虜にする。月給900ドンのお前ら(地方軍)はもれなく斬首する。)

地方部隊の始まり

 地方軍の始まりは1955年に設立された『保安隊(Bảo an đoàn)』であった。保安隊はフランス連合時代(1949~1954年)に存在した3つの地方保安部隊、ベトナム北部を管轄する『保政隊(Bảo chính đoàn)』、南部の『義勇隊(Nghĩa dũng đoàn)』、中部の『越兵隊(Việt binh đoàn)』の組織をフランスから引継いで統合したもので、さらに1954年のベトミン政権(北ベトナム)成立によって始まった宗教弾圧から逃れ南ベトナムに移住したキリスト教徒の一部も加わった。保安隊は1955年から1964年まで軍ではなくベトナム共和国内務省 保安民衛局(Nha Bảo an Dân vệ)が所管しており、地方単位での治安・警備活動を任務とした。また保安民衛局はこの他に民兵組織『民衛隊(Dân vệ đoàn)』も所管していた。

保安民衛局の部隊(1963年フバイ空港)


地方軍創設

 1964年5月、保安隊は内務省から国防省へ移管され、名称を『地方軍(Địa Phương Quân)』へ改めた。部隊構成も中隊(約100人)単位に再編成され、各DPQ中隊は小区(都市および近郊)または統括支区を担当した。更に1年後には民衛隊も国防省に移管されて『義勇軍(Nghĩa quân)』へと改称され、NQ中隊は支区またはコミューン(都市・集落)を担当した。これ以降、地方軍は民兵ではなく正式な陸軍部隊とされ、内務省保安民衛局は国防省『地方軍・義勇軍本部(Bộ Tư lệnh Địa phương quânn-Nghĩa quân)』へと改編。後に統合参謀本部直属の『地方軍・義勇軍中央司令部(Bộ Chỉ huy Trung ương Địa phương quân-Nghĩa quân)』へと発展した。
 地方軍が他の陸軍部隊と最も異なる点は、人員がその地域を地元とする兵士で構成されており、地域に根ざした街ぐるみでの防諜・警備活動を目的とした点であった。また駐屯地には兵士の家族が住むキャンプ『家兵寮(Trại Gia Binh)』が併設されており、兵士は作戦が終わるとその足で家族の待つ家に帰る事が出来た。これはベトコンによるテロから兵士の家族を守り生活を保障する福利厚生であると同時に、住民を政府の管理下に置くことでベトコンに浸透する隙を与えないという、戦略村計画やCIDG計画と同じ対ゲリラ戦略であった。
 また、地方軍の指揮官には他の主力部隊に匹敵する優れた指揮能力が要求されたため、中隊長や中隊参謀は訓練として空挺師団やBDQ(レンジャー)、TQLC(海兵隊)などのエリート部隊に出向して共産軍との戦いの実戦経験を積んだ。そのため小規模なNQ小隊であっても主力部隊と同様に戦闘をこなす事ができた。

※地方軍・義勇軍はまとめて"DPQ"と称される事が多いため、本記事でもそれに倣って"地方軍"と書いています。個別に部隊を指す場合はDPQ、NQの略称を使っています。
※英語訳ではDPQはRF(Regional Forces)、NQはPF(Popular Forces)と表記されます。


規模の拡大

 1968年から1972年にかけてDPQの規模は次第に拡大していき、全国で895個あったDPQ中隊は1823個中隊に、人員は13万2千人から30万1千人に膨れ上がった。1972年末、DPQ中隊は規模拡大に伴いDPQ大隊へと改編された。DPQ大隊は4つの戦闘中隊と指揮中隊の計5中隊で構成され、各中隊は小銃小隊3個と機関銃小隊1個の計4小隊(一小隊は10~30人)で構成された。また、DPQ内の偵察中隊は小区司令部3室(作戦室)の直接指揮下に置かれた。ただし軍の規定上中隊の定数は108人だが、実際に出撃する1個中隊の人数は約50人ほどであった。最終的に、各小区に駐屯する地方軍はグループ規模(連隊以上、旅団未満)に上り、第IV軍管区だけでDPQとNQ合わせて約20万人、全国では約55万人が地方軍に所属していた。これは軍全体の半数近くに及ぶ規模であった。
 ただし砲兵など専門的な技能を持つ将校は配置されなかったため、作戦の際はその都度砲兵基地から砲兵士官に出向してもらい、無線で支援砲撃を要請してもらう必要があった。また航空支援を要請する際も、直接FAC(前線航空管制)機に指示することが出来ず、地方軍小区司令部を介して通信する必要があった。さらに移動手段は徒歩のみで、トラックやヘリなどの機械化も歩兵師団と比べると遅れていた。このように地方軍は規模は大きく増大したものの、それに人材・装備が追いついておらず、南ベトナム国内のマスコミはこの状況を"幽霊部隊"や"観賞用軍隊"、"のろまな亀"と酷評した。加えて地方軍は他の陸軍部隊に比べて給料が低いため十分に家族を養う事ができず、特にNQ部隊の兵士は給料以外にアメリカ政府からの食糧支援を受けていた。以下は当時の生活苦を風刺した文句。
“Dân Vệ Đoàn vì dân trừ bạo. Hai bao gạo một thùng dầu’’
(義勇軍(NQ)は人々を護ります!米二袋と油一缶のために。)
※当時のアメリカ政府による食糧支援は米一袋10kg、食用油一缶4ℓ
 しかし、ベトナム戦争において地方軍の果たした役割は決して小さくは無かった。地方軍の制度が広がる以前は、特に地方の農民は都会から来た強権的な政府軍の態度に反感を持ちベトコンに協力しがちであった。だが地方軍はその地域で生まれ育った人間で構成されているため、身内として地域住民にも受け入れられた。実際にはベトコン側に付いていた農民の多くはベトコンによるテロ・報復を恐れて協力を強要されていただけであり、地方軍によって治安が行き届いたことで人々はベトコンから"解放"された。これによりベトコンは政府軍だけでなく、それまで支配下にあった民衆に対しても警戒せざるを得なくなった。ベトコンは常時行われているDPQ偵察中隊によるパトロールによって活動を制限された上に、迂闊に住民に接触すればすぐさま政府軍に通報され、圧倒的な戦力で掃討される事となった。こうして地方軍の存在は目論み通りベトコンのゲリラ戦法に対し大きな抑止力となった。


予備兵力化と苦難

 1972年以降、共産軍の脅威はイースター攻勢を皮切りに北ベトナム正規軍による直接的な軍事侵攻に移っていった。地方軍はゲリラの浸透を阻止する警備部隊であるため歩兵師団のような総合的な戦闘能力は持っておらず、敵の大規模な攻撃に対処できる能力は無かった。地方軍は地域ごとに大隊もしくは中隊という編成で固定されており、歩兵師団や他の主力部隊のように連隊や旅団規模で各種兵科を交えた有機的な作戦を行う事ができなかった。しかし同時に、国内のベトコンも依然存在していた事から地域単位での編成を変えることも出来ず、人材・予算の面でもそれを改善する余裕は南ベトナム軍には無かった。にも拘らず、不足する戦力の足しとして地方軍は歩兵師団の予備兵力とされ、北ベトナム軍との戦闘に動員された。
 そして北ベトナム軍の攻勢が一層激しくなる中で、南ベトナムは国土の多くを敵に奪われ、地方軍は守るべき故郷を失っていった。担当地域が陥落し、他の地域に撤退する事を強いられた地方軍将兵は1974年末から1975年初頭にかけて歩兵師団などに順次編入され、事実上予備兵力は完全に使い果たされてしまった。しかしそれでも戦争が終わることは無く、1975年4月30日の終戦までに更に多くの血が流されていった。

  
   
地方軍の兵士
後方部隊と言われるが、個人装備に関しては歩兵師団と変わりなく、M16A1などの新型小銃も順次配備された。

  
地方軍付きのアメリカ軍・オーストラリア軍軍事顧問

 
地域住民との連携が不可欠な地方軍では、政治戦総局(TCCTCT)が所管するボーイスカウトや婦人部隊と連携して市民との交流会がしばしば開催された。


地方軍の訓練の様子(Youtubeより)

「まさか」と言うか、「やはり」と言うか・・・。わんさか出てきましたよYoutubeに!すっばらすぃ~!鼻血ブーです!
『CriticalPast』さんマジありがとうございます。たぶん日本に5人くらいは居るであろう全国の地方軍マニアが今、泣いて喜んでいます!

ヴァンキエップ訓練センター 1970年2月10日


ヴァンキエップ訓練センター 1970年2月13日

 
訓練生全員がパステルリーフおよびブラウンリーフ迷彩のカバー付けてますよ。他のエリート部隊より支給率高いじゃん。どういうこと?

なにげヴァンキエップ訓練センターの職員の映像もスゲー貴重。

模擬戦闘訓練(展示) 1970年5月10日

模擬戦闘訓練(展示) 1970年5月11日

模擬戦闘訓練(展示) 1970年5月12日

DPQおよびNQのサブドュードパッチを確認。ありがたやありがたや。




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この記事へのコメント
地方軍は、規模だけは拡大しても、人材や機材が追いついていかないで終焉を迎えるって、まさに現代の大企業病のような感じですね。

ヘルメットカバー謎ですがカッコイイなぁ。
Posted by OscarOscar at 2014年05月05日 23:33
>Oscarさん
南ベトナムの苦しい財政状況では、そのシワ寄せはどうしても人材育成とか設備投資に出ちゃうんですね。
ベトコン相手ならばそれでも十分役目を果たせたようですが、元々畑違いの正規戦に動員されて消耗されたのは、何とも気の毒です。

ブラウンリーフのメットカバーが急に欲しくなってきました。
Posted by タイガタイガ at 2014年05月06日 00:32
地方軍の事を調べていたので、かなりタイムリーな記事ですwww

リーフのヘルメットカバーはこの頃にはもお使っていたのですね。

画像の中に、タイガーストライプのベストを着た兵士がいるのが凄く気になりますwwww
Posted by cross at 2014年05月06日 20:36
>crossさん
それは嬉しいです!僕も地方軍を本気で調べたのはこれが初めてなので、すごいタイミングですねw
リーフ系のカバーが広まるのは72~75年くらいで、しかもエリート部隊限定だと思っていたので、本当に驚いています。
タイガーのベストはカッコイイですよね。よく見るとマガジン入れる袋の部分は迷彩ではなく別の布のようです。
確実に官給品ではないので、安月給の地方軍が自費購入(テーラーメイド)品を使ってるのはなかなか珍しい画だと思います。
Posted by タイガタイガ at 2014年05月07日 03:29
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