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2018年09月01日

SESSIION限定配信開始します

※2019年11月29日更新
これまで複数の方々にご支援いただいておりましたが、時間と気力の問題から、定期的に限定配信記事を書くという約束を守る事が出来なくなったため、SESSIIONでの支援募集は中止いたしました。誠に申し訳ございません。


 『一番槍BLOG』を始めてから5年が経ち、改めてアクセス解析を見てみると、検索で来る人よりもブックマークから定期的に読みに来られる読者の方が圧倒的に多い事に驚かされました。しかし私の記事は取材や調査にかかる時間が長く、頻繁には更新できないので、熱心に足を運んでくださる読者の方々には申し訳ない気持ちを感じていました。 
 そこでこの度、SESSIIONにて私の執筆活動を応援して下さるパトロン様を募る事を思い立ちました。ご支援を頂いた方には、SESSIION内の非公開アクティビティにて、普段ブログには書いていない最新情報や執筆中の内容などを随時配信させて頂きます。
 頂いたご支援は取材における交通費等の経費に充てさせていただきます。またチャリティー枠では毎月一定額を積み立て、まとまった額になった時点でベトナムの障がい者支援事業に寄付いたします。 集まった金額と寄付先はその都度ご報告させて頂きます。


プレッジの種類

【最新情報アクティビティ 500 円/月】
最新の研究・取材内容や執筆中の記事、筆者の近況、ちょっとした思い付きなど、普段ブログには書いていない事をSESSION内の非公開アクティビティにてSNSのように配信させて頂きます。更新は随時とし、最低でも週2回は投稿します。

【チャリティーアクティビティ  1,000 円/月】
通常の最新情報アクティビティに加え、本プレッジ購入者限定で、下書き中の記事や翻訳した資料など、特別なアクティビティを閲覧できます。(限定公開アクティビティの投稿は不定期です) 
チャリティーとして、戦争で身体障害を負った元兵士やそのご家族の生活支援のために、頂いた金額の中から毎月500円ずつを積み立て、ある程度まとまった額になった時点で日本財団も公式協力しているベトナム障害者支援機構(VNAH)またはベトナム共和国軍傷痍軍人寡婦互助会が行っている障がい者支援事業に募金させて頂きます。 



ご利用の流れ

1. SESSIIONに登録


メールアドレスまたはSNSのアカウントで簡単に登録できます。
パトロンからのプレッジ購入以外に利用料は一切かかりません。

2. プレッジ代金のお支払い方法を選択

・クレジットカードはVISA・MasterCardがご利用いただけます。
・チャージ(コンビニ支払い):アカウント内にコンビニで入金することをチャージと呼び、チャージしたアカウント内残高からプレッジ購入をすることができます。


3. クリエイターページでプレッジを購入

こちら()のページ内にある「パトロンになる」または「支援する」ボタンからプレッジを選択して購入する=パトロンになることができます。
※「チャリティーアクティビティ」 には「最新情報アクティビティ」の内容が含まれておりますので、二重で購入しないようご注意ください。
※購入したプレッジの解約はいつでも可能です。(月の途中で退会した場合でも1ヶ月分の料金が発生します。(当月分は日割り計算になりません)。


4. プレッジ購入が完了すると、各自のパトロンページもしくは私のクリエーターページ上で、プレッジに応じたアクティビティが閲覧できるようになります。

その他、詳しい利用方法についてはSESSIION FAQページをご確認ください。


最後に

私にとっても有料配信は初めての事で、当面は手探り状態なので、なにかとご迷惑をおかけするかも知れませんが、ご支援いただいた分、より一層記事の質に磨きをかける事でお返しできたらと思っています。今後ともよろしくお願いします。
  


Posted by 森泉大河 at 16:36Comments(0)News!

2018年08月30日

サマーキャンプ

日本在住ベトナム人協会サマーキャンプ2018

 先日、日本在住ベトナム人協会主催のサマーキャンプに参加してきました。今年のキャンプにはテレサ・チャン・キウ・ゴック氏とナンシー・ハン・ヴィ・グエン氏が特別ゲストとして参加し、日本に住む大勢の若いベトナム人たちと議論会をおこないました。一番槍の姉妹ブログ[ベトナムウゥッチ]に、その討論の要約を日本語で記してあります。私はこのお二方とお話しする事が出来てとても光栄です。彼女たちが持つ祖国ベトナムと国民への愛情、思いやりは、必ずや善良な人々の心に届くものと信じています。

またキャンプではリクリエーションとして、口にくわえたスプーン同士でビー玉を渡してリレーし、かつ水鉄砲で紙の的を破くという、けっこう難易度の高い競争をしました。


実は私はナンシーさんと同じチームだったので、ずっとナンシーさんにビー玉を渡す役でした。まさかあんな有名人とこんなに顔面近付けて遊ぶことになるとはね。けっこう本気で照れちゃいました(笑) 下の写真のピンク色の服着ているのがナンシーさんで、黒いのが私。

 

バーベキューでは日本各地に住んでいる、初めてお会いする方々ともお話しする事ができて良かったです。


キャンプファイヤーでは皆で輪になって踊りました。


この時私は酒が入っていたので、ボビナム(ベトナム格闘技)やってる友達に酔拳で戦いを挑み、何度も投げ飛ばされたので服が泥だらけになりました。また来年も参加したいと思います。



ニュース:ヴェト・ルォン少将、在日米陸軍司令官に就任

 当ブログでは旧ベトナム共和国出身のベトナム系アメリカ軍人ヴェト・ルォン(ベトナム名 ルゥン・スァン・ヴェト)少将が2014年に、アメリカ陸軍第1騎兵師団副師団長に就任した事をお伝えしましたが、この度ルォン少将は在日米陸軍(USARJ)司令官に任命され、2018年8月28日に神奈川県のキャンプ座間米陸軍基地にて司令官交代式が執り行われました。ベトナム系初の米軍将官であるがルォン少将が、北朝鮮とも近い≪実戦的な≫在日米軍の陸軍司令官に任命されたニュースは、世界のベトナム移民系メディアで大きく取り上げられています。


動画: U.S. Army in Japan / Facebook


過去記事にも載せていますが、改めてルォン少将の経歴を記します。

ヴェト・ルォン氏は1965年、ベトナム共和国ビエンホア生まれ。
彼の父はベトナム共和国海兵隊(TQLC)第6海兵大隊『聖鳥』大隊本部所属のルン・スァン・デュウン少佐で、1972年の"クアンチの戦い"ではベトナム戦争で最大の対戦車戦闘を指揮し、多大な戦果を挙げた人物でした。

ン・スァン・デュウン ベトナム海兵隊少佐

デュウン少佐と子供達(左端がヴェト・ルォン)

しかし1975年、敗戦に伴いルン一家はサイゴンからの脱出を余儀なくされ、政治難民としてアメリカに移住します。この時、ヴェト・ルォンは9歳でした。
カリフォルニア州マウンテンビューで成長したルォン氏は、父の影響で軍人を志し、勉学に勤しみます。
そして南カリフォルニア大学(USC)で生物学の学士号を取得後、同大学院で軍事科学の修士号を取得。1987年、アメリカ陸軍歩兵中尉に任官しました。

【ルォン少将の軍歴】

第8歩兵連隊第1大隊/小銃小隊長・対戦車小隊長・副中隊長・大隊管理将校 〔コロラド州フォート・カーソン〕
第82空挺師団第325空挺歩兵連隊第2大隊/大隊S-3(作戦参謀)補佐・A中隊長 〔ノースカロライナ州フォート・ブラッグ〕
Theater Quick即応部隊/指揮官 〔ハイチ〕
JATC(統合即応訓練センター)/総監部員 〔ルイジアナ州フォート・ポーク〕
陸軍指揮幕僚大学/参謀教育受講 〔カンザス州レブンワース〕
SETAF (南欧タスクフォース)/SETAF G-3(作戦参謀)主任参謀 〔イタリア ヴェニツィア〕
第173空挺旅団第508空挺歩兵連隊第1大隊/副大隊長 〔コソボおよびボスニア・ヘルツェゴビナ〕
JTF North (北部統合タスクフォース)/計画参謀・国土安全保障省訓練開発部門主任 〔テキサス州フォート・ブリス〕
第82空挺師団第3旅団戦闘団第505空挺歩兵連隊第2大隊/大隊長 〔イラク〕
第101空挺師団第3旅団戦闘団第187歩兵連隊/連隊長 〔アフガニスタン〕
スタンフォード大学/国家安全保障研究員 〔カリフォルニア州スタンフォード〕
統合参謀本部J5(戦略計画・政策)パキスタン・アフガニスタン調整部/副部長 〔ワシントンDC〕
第1騎兵師団/副師団長 〔テキサス州フォート・フッド〕
在日米陸軍/司令官(現職) 〔日本キャンプ座間〕
  


2018年07月21日

軍装ガイド進捗

服以外の小物も出来る限りイラストにしております。



正直、風呂敷広げ過ぎたかも知れない・・・
つい「1946年からやる(=植民地軍も含める)」と口走ってしまったせいで、ベルティエ小銃なんて19世紀の骨董品を一から調べる羽目になっております。(これがまたバリエーションが多いんだ・・・)

こんなにこだわっても、タイトルが『ベトナム軍』である限りろくに売れないのは分かってます。
もしこれが『フランス外人部隊』とか『ナム戦アメリカ軍』だったら、この本の3分の1の内容で3倍は売れるでしょう。
でも、それは出来ません。


そもそも愛がなければ、こんな七面倒くさい事やってないですしね。
まだ個人装備の方には手を付けてないので、まだまだがんばるゾーイ!!



【おまけ】

アイドルに興味無かった僕が唯一好きになった台湾のアイドルグループ 伊梓帆(イー・ツー・ファン)を宣伝。


伊梓帆はもともと台湾プロ野球のチアリーダーからアイドルとして独立した3人組で、グループ名の由来は各メンバーの名前/ニックネームから。

末っ子:陳奕如陳伊(チェンイー)または伊伊(イーイー)
隊長:董梓甯/梓梓(ツーツー)またはChloe(クロエ)
副隊長:楊曉帆/小帆(シャオファン)またはFan(ファン)

僕は特に小帆ちゃんが好きです。
僕は4年前から彼女たちのFacebookをチェックしており、その間2回も台湾に行く機会があったのですが、向こうは芸能人なのでそうそうお目にかかれるものではないですね。ライブの日にちも合いませんでしたし。
逆に伊梓帆は時々日本にも来てるようなのですが、いつも写真集やVTR撮影で来るだけで、ライブやファンとの交流会はありません。
おそらく日本にファンがいるって事自体認識してないかも・・・。ここにいるぞー!!!
もともとチアだけあって今まではイベントでのダンス活動が中心だったけど、今年4月にはついに1stシングル『Boy,Why Boy』をリリースした事だし、いつかK-POPみたいに日本進出する日を待ってるよー


  


2018年04月24日

続・4月の出来事

 2018年4月、オーストラリアのベトナム人権活動家テレサ・チャン・キウ・ゴック弁護士が初来日し、東京・姫路・大阪の三都市で講演会を行いました。そしてその内の一つ、東京のニコラ・バレ修道院で開催された講演会を取材してきました。テレサ先生が語られた祖国ベトナム、そしてそこに住む人々への愛情は、必ずや日本に住むベトナムの若者たちの心にも響いた事でしょう。

 またこの講演会の翌日から3日間に渡ってテレサ先生ご一行の日本観光ガイドという大役を務めさせていただきました。その間、講演会を主催された修道会様のご厚意で、テレサ先生たちが泊まっている東京都内のカトリック教会の宿泊施設に私も泊めさせていただきました。私はベトナム人でもカトリックでもないのに、神父様をはじめ修道会の皆様には大変温かく迎えて頂き、感謝の念に堪えません。

 さらにこの数日後、市の美術館にホーチミンを称える展示を設置した岡山県美作市に各国のベトナム人団体代表団が抗議した際も、姫路に滞在していたテレサ先生らも駆け付け、美作市役所で一緒に抗議活動を行いました。

 そして先週は在日ベトナム人共同体様主催の『Lễ Giỗ Tổ Hùng Vương (雄王命日の祭礼)』祝賀交流会にお邪魔してきました。Hùng Vương(ホン・ヴウン/雄王)とは、紀元前2897年から紀元前257年にかけての約2600年間に渡って現在のベトナム北部に存在したとされるベトナム最古の(伝説上の)王朝『文郎(ヴァンラン)国』を治めた歴代の国王の称号であり、その初代雄王はベトナムを建国した最初の王として神格化されています。そしてその初代雄王の命日である黄歴3月10日はベトナムの建国を記念する日として、ベトナム民族の重要な祝日とされています。(その為Lễ Giỗ Tổの日本語訳として「ベトナム建国記念日」が当てられている)
 式に様子については、また後日記事にしますが、今回は特に、現代ベトナム研究の第一人者で、私もその著書で勉強させて頂いている大東文化大学の中野亜里教授のお話を初めて生で拝聴し、握手までしていただけたのが一番うれしかったです。
 ちなみに僕はこの日は元々仕事で行けないはずだったので、関係者には前もって不参加と伝えていたけど、当日急に仕事が早く終わったので、急いで会場に直行。いないはずの人間がいきなりやって来たのでみんな驚いてました。ゲストでも何でもないけど、サプライズ登場成功(笑)



式の中で友人たちと一緒に歌ったチュック・ホー(Trúc Hồ)の名曲『Bên Em Đang Có Ta』



僕はまだベトナム語が十分に読めないので、自分でカタカナふった歌詞を持参して合唱に参加しました。

  


2018年04月12日

4月前半まとめ

今月に入ってから立て続けに色々な事があってブログ執筆が追いつかない状況なので、手短に書きます。


美作市ホーチミン像問題

 昨年11月に岡山県美作市が同市の作東文化芸術センターに『ホーチミン空間』なる展示スペースを設けた事で、世界中のベトナム難民団体から非難が殺到している事をお伝えしてきましたが、ついに日本在住ベトナム人協会および在ドイツ、在カナダのベトナム難民団体代表者で構成された代表団が4月6日、美作市を訪れました。
 代表団は現地で抗議活動を行うと共に、市役所で市長の萩原氏と面談し、展示の撤去を求める請願書を8,000名超えの署名と共に正式に提出しました。
 また、私も支援者の一人としてこの代表団に同行し、抗議および市長との面談に同席させて頂きました。詳細は私の別ブログ ベトナムウォッチに掲載してありますので、是非ご一読ください。

ベトナムウォッチ: 美作市ホーチミン像に世界のベトナム難民団体が抗議



テレサ先生ご一行の日本ツアー

 お花見のあと、オーストラリアから来日したテレサ・チャン・キウ・ゴック先生の講演会に参加しました。講演については後日ベトナムウォッチの方で記事にまとめる予定です。→記事アップしました。ベトナムウォッチテレサ・チャン弁護士来日』
 その講演が終わった後、日本のベトナム人コミュニティ有志がテレサ先生らを歓迎する打ち上げを居酒屋で開いたので、僕も付いていきました。するとその席で、テレサ先生から直接、日本を観光したいのでもし時間があるなら案内してくれないかとオファーを頂いてしまいました。こんな有名人に誘われたら断れる訳がありません。喜んで!
 という事で、テレサ先生とその旦那様、オーストラリアおよびドイツ在住のテレサ先生の支援者の計4名に二日間同行し、富士山周辺および日光にご案内差し上げました。

忍野八海にて。美しいお方です。

得意げに案内していたところ、忍野八海の駐車場で、あろうことか車のバッテリーあがりを起こしてしまいました(泣)
ロードサービスが来るまで1時間待ちぼうけ。ごめんなさい・・・

 オーストラリアでテレサ先生の活動を支援しているテレーズさんから、ベトナム国旗柄のマフラーを頂きました。実はテレーズさんは48年前の1970年に、ベトナム共和国政府職員として市ヶ谷の防衛庁に研修に来たいたのだそうです。その時お花見で見た桜満開の風景は今でも鮮明に覚えているそうで、今回48年ぶりに再び日本で桜を楽しめたことを大変喜んでおられました。
 ちなみに、この写真をFacebookに載せたところ、以前から知り合いだったベトナム系オーストラリア人のおじさんが、「ええー!知ってる?その人私のママだよ!」と、親子で僕と知り合っていた事が判明しました。世界は狭いですね・・・(笑)



座間でホームパーティー

 美作市から帰った翌日、神奈川県のキャンプ座間に住んでる知り合いの家でホームパーティーがあるというので、またホイホイ付いて行っちゃいました。パーティーに付くと、既に座間に住んでいるベトナム系アメリカ軍人とそのご家族が3家族来ていて、子供たちとジュマンジを見ていました。

奥様方の手作りベトナム料理、男衆の焼いたバーベキュー、コストコの春巻きをお腹いっぱい頂きました。

 なお、この家のご主人とはこれまでベトナム人協会のイベントで何度かお話ししただけで、アメリカ陸軍に所属しているベトナム系アメリカ人という事しか知らなかったのですが、今回お仕事について聞いてみたらビックリ。なんと中佐さんでした。えー!そんなに偉かったの~!?顔がかなり若い感じの人なので、僕より少し年上くらいだと思ってら、本当は40半ばでした。
 なんでも以前は第1歩兵師団、第1騎兵師団所属の通信科将校としてしアフガニスタンに出征し、歩兵および機甲部隊の通信を担当していたそうです。でも軍でやりたい仕事はやり尽くしたので、日本駐留が終わったら早期退役して民間に再就職すると言っていました。
 とは言え、やっぱり陸軍が好きなんでしょうね。子供たちが外に遊びに行くと、リビングのテレビで、アフガニスタンやイラクで活動する米軍の映像を流し、みんなに見せようとしていました。でもみんな喋くってて見やしないので、ミリタリーマニアの僕だけが反応。でもその人の本業の通信の話は僕が聞いてもチンプンカンプンなので、M4カービンとかM240マシンガンとか、そういう分かり易い武器の話だけ聞かせてもらいました。
 そして気をよくした彼は、頼んでもいないのに何故かファイーベース・グロリア(邦題「地獄の軍団スクワッド」)のDVDを上映。図らずも、米軍基地の中でアメリカ人とベトナム人が殺し合う映像を見ながらベトナム系アメリカ軍人と酒を交わすというシュールな体験をする事となりました。



  


2018年03月16日

マウタン1968(テト攻勢)から50年

マウタン1968犠牲者追悼式典

 今から50年前の1968年2月、ベトナムで最も神聖な祝日である元旦節(テト)を狙ったベトコン(ベトナム共産軍)による同時多発テロ<マウタン1968>、通称『テト攻勢』が発生し、ベトナム戦争始まって以来最大の犠牲者を出す大惨事となりました。
 このマウタン1968から50年目の節目を迎え、日本在住ベトナム人協会は2018年2月11日、神奈川県藤沢市の寺院においてマウタン1968の犠牲者を追悼する法要・式典を執り行いました。式にはかつてのベトナム難民を始め、現在日本に住んでいるベトナム人研修生や一般労働者、在日米軍のベトナム系アメリカ軍人らも参列しました。



映像: Hiệp Hội Người Việt tại Nhật

フエ虐殺事件目撃者の声

 また法要後の懇談会では、共産軍によって行われたあの惨たらしい事件を風化させないよう、当時その場でマウタン1968を体験した方々が、戦後生まれの若い世代に自身の体験を語りかけました。お世話になってる知人が、今回も話の内容を同時通訳してくださったので、その一部をご紹介します。


映像: Hiệp Hội Người Việt tại Nhật



ブウ氏

 ブウ氏は当時、フエ在住の13歳の少年であり、共産軍による26日間のフエ占領を体験しました。
 ブウ氏によると、フエでマウタンの戦闘が始まったのはテト二日目の夜であり、最初は誰もが銃声を爆竹の音だと思い、戦闘が始まったとは思いもしなかったそうです。
 しかし朝になると街は共産軍に占領されており、通りには共産軍の兵士たちが堂々と歩いていました。戦争とは無縁の生活を送っていたブウ氏はこの時初めて実際に共産軍の姿を見ましたが、当時は子供だったため特に恐怖は感じなかったそうです。
 しかしその日、フエ市内で拘留されていた共産ゲリラ容疑者が釈放されると状況は一変します。共産軍が住民の家々に押し入り、軍人、警察、政府関係者を次々と逮捕し始めました。ブウ氏の兄2名も軍人でしたが、その年はたまたま二人とも帰省していなかったため、父がその場で尋問されただけで済んだそうです。しかし父の友人であり恩師の神父は連行され、二度と帰ることはありませんでした。
 占領下の生活の中で、ブウ氏は自宅周辺では夜しか戦闘の音が聞こえず、なぜ夜だけなのか不思議に思っていたそうです。
 その後、共産軍は逮捕者リストを作り、再度ブウ氏の自宅に押し入ってきました。そして兄たちがフエには居ないことが分かると、共産軍はブウ氏の自宅を完全に破壊しました。翌朝、ブウ氏は瓦礫の中から家族の写真を探そうとしましたが、軍服姿の兄の写真が共産軍に見つかると危険なため、父に止められたそうです。
 まもなくフエ市街と対岸を結ぶチュンティエン橋が共産軍によって爆破され、大人たちは共産軍が撤退を始めたと言いいました。この時すでに、逮捕された数千人のうち約900名が市内で殺害されていた事が後に判明します。人々は銃ではなく、鉈などで頭を割られて殺されていました。そして残る4000名の逮捕者は撤退する共産軍によって郊外に連行されました。
 共産軍が去ったのを見計らい、ブウ氏らフエ市民はすぐさま政府軍のいる方向に避難しました。しばらくすると前からアメリカ軍の黒人兵士が走ってきて、市民たちに「逃げろ!」と叫びました。市民たちはこれでようやく共産軍の恐怖から解放されました。
 一方、共産軍に連行された4000名の人々は行方知れずでしたが、間もなく郊外で全員虐殺された事が判明します。生存者は一人もおらず、遺体が遺棄された場所の捜索に一年間かかりました。結果22箇所の地中から遺体が見つかりましたが、遺体の多くは白骨化しており、遺族は残された衣服などから家族の亡骸を探し続けたそうです。
 それ以来、家族が集うベトナム民族にとって最も幸福な祝日であるはずのテトは、フエでは虐殺の日、家族の命日として記憶されており、当時を知る家庭では今でもテトは祝われず、帰省もしないとの事です。
 ベトナムの歴史上、血塗られた虐殺事件は幾度もありましたが、それらは全て、中国やフランスなど、外国によって行われたものでした。しかしベトコン、ホーチミンは同じベトナム人に対してそれを行ったのです。


カイン氏

 カイン氏は当時サイゴンの大学に通う学生で、社会奉仕団体でボランティア活動をしていたため、フエ奪還から一週間後、復興支援の為フエに赴きました。そこでカイン氏らが任されたのは、共産軍によって虐殺された人々の遺体捜索・回収でした。
 カイン氏によると、人々は地面から比較的浅い深さに、座ったような姿勢ですし詰め状態で埋められていました。外傷のある遺体は少なく、ほとんどが生き埋めにされて殺害されていました。地中から掘り出された遺体は腐乱しており、ある時は野犬が遺体から足をちぎり取っていったため、カイン氏が犬を追いかけて足を取り返すといった事もありました。
 二週間の捜索で数百の遺体を掘り出した後、カイン氏はサイゴンに戻りましたが、その後半年間は肉を食べられなくなりました。この経験でカイン氏は共産軍の残虐性を目の当たりにし、人生観が一変します。そして共産軍と戦うため、翌69年に政府軍に志願入隊しました。





戦後世代の声


ザカット氏

 ザカット氏はフエ出身で、両親祖父母がフエ占領を経験しました。戦後、フエ虐殺は共産党政府によって闇に葬られましたが、当時フエにいた者なら全員、共産軍によって何が行われたかを知っています。私は戦後生まれですが、家族から当時の話を聞いていました。


ウエン氏

 ウエン氏も両親祖父母がフエ占領の恐怖を経験しました。しかし多くの一般市民は戦後、共産党政府による弾圧を恐れてそれを口にする事は出来ませんでした。ウエン氏の両親も、娘に戦中の事を詳しくは話しておらず、戦後生まれのウエン氏は、学校で教わった共産軍の英雄的な物語を信じきっていました。ウエン氏が自国の真の歴史、家族の思いに気付く事が出来たのは、成長してインターネットで国外の情報に触れる事が出来るようになってからの事でした。



また懇談会では私も意見を求められたので、僭越ながらほぼ唯一の日本人参加者の視点から私の考えを述べさせていただきました。

映像: Hiệp Hội Người Việt tại Nhật



 1946年以来、数限りないテロで大量のベトナム人の命を奪い、今現在もベトナムを恐怖と暴力で支配しているベトナム共産党政権は依然として、このマウタンを解放戦争の英雄的な戦果として喧伝しています。
 欧米や日本はもちろん、世界中のほとんどの国々が民主主義を重んじている今日において、普通、非民主的な独裁政権のプロパガンダが真実として受け入れられる事はほとんどありません。例えば中国や北朝鮮政府による主張や宣伝を鵜呑みにする人はほとんど居ないでしょう。
 しかし非常に残念な事に、ベトナムに関してだけは、特定の思想によって都合良く作り出されたプロパガンダが多くの人々の思考を停止させる事に成功しており、ベトナム共産党(現ベトナム社会主義共和国政府)というテロ組織の主張や宣伝が無批判に受け入れられてしまっています。
 私はこの記事を読んでいる方に今一度、ベトナムという国に対する認識の再考をお願いしたく思います。これは単なる『外国の歴史』の問題ではありません。この記事にあるのは今現在日本に住んでいる隣人の声です。そしてその声に耳を傾けるか事が、日本を「どんな残虐な独裁政権でも都合よく解釈して好意的に見る恥知らずな国」から、「正義と人道を旨とする矜持ある国」へと挽回する唯一のチャンスです。大げさに聞こえるかもしれませんが、本来こんなのは50年前にやっておくべきだった事であり、私の世代はもう目をそらす事なく、この50年分の誤り・怠慢と向き合っていく必要があると考えています。
  


2018年02月10日

【祝】WAR全米大学映画祭 審査員賞受賞!

過去のハウ・ルック監督作品いついては過去記事参照

2016年12月、僕は米国ジョージア州にて、アマチュア映画監督の友人が製作しているショートフィルムの撮影に参加してきました。あれから1年強、その時撮った作品がようやく完成し、この度、全米大学映画祭(Campus Movie Fest)に出品されました。
そしてその結果・・・

審査員賞(Jury Award)を受賞しました!!やったーーーーー!!!

※動画を再生出来ない場合は他のブラウザに変えてお試し下さい。



こちらが審査員賞受賞作品「WAR」 監督 ハウ・ルック



なんとなく分かると思いますが、あるベトナム人兄弟が生き別れとなり、それぞれ別々にベトナム政府軍と共産ゲリラ兵士となり、その二人が不幸にも戦場で再会し、お互いを兄弟と知らずに殺し合ってしまうという大変悲しいストーリーです。
実はこの話には元ネタがありまして、それらを全て撮れれば、なぜ兄が首にドッグタグではなく紙を三角形に折った物を下げているのか等が分かってもらえたのですが、ショートフィルムなので時間的な制限からストーリーは大幅にカットせざるを得ず、そこは描ききれませんでした。
とは言え、撮影や編集の技術が認められ、この度賞を頂けたのですから、出演者としては素直に嬉しいです。

しかし観客も審査員も、弟役を演じているのは当日ゲリラ役やってよと言われて気軽に引き受けた日本人だなんて思いもよらないだろうな。我ながら熱の入った演技をしたものだ(笑)


世にも珍しいゲリラ役のわたくし





なお我々はアマチュアなのでプロップ買うお金が無いため、銃やナイフは全部本物です。
M16はコルトAR-15モデルSP-1、56式自動歩槍はノリンコMAK-90で代用。
空砲なんて一般人には手に入らないので、発砲シーンは全部実弾。(この作品では実弾を使ったシーンは使われていません)
銃剣で腹を刺すシーンは、「ゆっくりやれ」、「ベルトに当てろ」と言われましても、なかなか怖い物です。
あと、この作品には使われていませんが、拳銃で自殺するシーンも撮りました。
いくら弾が入っていない事を何度も確認したとは言え、やっぱり実銃を頭に当てて引き金を引くのはかなり気持ち悪いものです。
しかもテイク5くらい撮り直したし・・・。
監督曰く今年の5月ごろまでには、それらの映像も使った作品をDVDでリリースするらしいので、完成を楽しみに待っています。

  


2018年01月28日

SOGの組織構造

※2022年10月23日更新

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【お知らせ】

 このブログでも岡山県美作市が市営博物館に設置した『ホーチミン空間』なる展示に世界中のベトナム人から批判が集まっている事をお伝えしましたが、今月に入り、日本在住ベトナム人協会も、ホーチミン空間の撤去を求め美作市長および市議会議員へ送付する請願書へのウェブ署名運動を開始しました。

Change.org: 美作市作東芸術文化博物館のホー・チ・ミン像撤去に関する請願書

 私の別ブログ ベトナムウォッチに、日本在住ベトナム人協会会長グェン・フォン・カィン氏による日本語版請願文を掲載してありますので是非ご一読いただき、ご賛同いただけるようでしたらウェブ署名へのご協力をお願いいたします。



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【以下、記事本文】


 当ブログでは度々、米軍SOGが支援するベトナム共和国軍の特殊作戦機関 NKT(技術局, 英略称STD)について紹介にしてきましたが、SOGそのものについてはまだちゃんと解説していなかったので、今回は戦争当時SOG本部がペンタゴンの統合参謀本部に向けて作成した報告書"Draft MACSOG Documentation Study (U) (1970年7月10日)"に掲載されている組織図で、SOGの組織構造についてざっとまとめてみます。



※SOGの意味と邦訳について
 SOG (Studies and Observation Group)という組織名は、実は"Special Operations Group (特殊作戦群)"のカバーネームであるという噂が、現在のマニアはもちろん、当時SOGに所属していた兵士たちにも実しやかに信じられています。現在Studies and Observation Groupの日本語訳としては"研究・観測グループ"という訳が定着しており、多くのマニアが「『アメリカ軍最強特殊部隊』の名称に"研究"や"観測"という不相応な言葉が使われているのは、実態を隠すためのカバーネームだろう」と考えているようです。しかし私はこれに異を唱えたいと思います。
 まずStudyの意味は一般的には"研究"や"勉強"ですが、ジーニアス英和辞典によるとStudyはもともと"努力する"を原義としており、"専門とする"というような意味もあるようです。さらに複数形のStudiesの場合には研究対象の題目を表す時に用いられる事もあるそうで、例えば"cultual studies"で"教養学科"となるそうです。これは軍隊風に意訳すれば、"専門分野=技術"と捉える事ができ、SOGのようなアメリカ陸海空軍海兵隊・CIA・NSAなどから集結した各分野における特殊作戦の専門家集団の名称としては自然だと思います。また実際、SOGと一体で作戦を遂行するベトナム軍側の特殊作戦機関は"技術局(Nha Kỹ Thuật)"という名称です。その為この記事では、意味が分かり易いよう"Studies"を"研究"ではなく"技術"と訳しています。
 次に"Observation (観測)"ですが、これは科学の分野での観測だけでなく、"オブザーバー(観測者)"という言葉に表されるように、"意見する"も意味します。これもSOGの主任務であるベトナム軍特殊部隊への支援・助言と合致します。
 以上の点から、"Studies and Observation"は実態を隠すための無意味なカバーネームではなく、SOGの任務をありのままに表記した、非常に実態に即した名称だと私は考えています。
 
MACVと列記する場合の表記について
 SOGはアメリカ軍ベトナム軍事援助司令部(MACV, MAC-V))直属の機関であったことから、MACV-SOGあるいはMACSOGとも表記されます。民間の書籍ではMACV-SOGが一般的ですが、今回引用している報告書など、当時の米軍の公式文書ではMACVのVは省略されて"MACSOG"が使用されている場合が多いです。

作戦計画について
 SOG参謀および作戦部門の各部署は、ペンタゴンおよびCIAが策定した"作戦計画(Operation Plan)"に合わせて編成されていました。例えば作戦計画30(Operation Plan 30)の担当はSOG-30となります。なお、Operation Planの略称としてはOP, OPLAN, Opsなどが使われますが、意味はどれも同じです。




【SOGの全体像】

▲SOG組織図(1965年1月)

▲SOG組織図(1968年12月)

▲SOG組織図(1969年6月)

▲SOGとベトナム軍NKT(STD)各部署の対応関係



【SOG本部】

SOG-00 司令室 (Office of the Chief)

SOG-01 次席司令 (Deputy)
SOG-02 副司令 (Executive Officer)
SOG-03 特別補佐官(Special Assistant)
SOG-04 総監 (Inspector General)
SOG-05 本部支援隊 (Headquarters Support)


SOG-10 人事・管理部 (Personnel and Administration Division)


SOG-20 情報部 (Intelligence Division)



SOG-40 兵站部 (Logistics Division)



SOG-50 計画部 (Plans Division)


SOG-60 通信部 (Communications Division)



SOG-90 監査部 (Comptroller Division)



【SOG参謀部門】

SOG-30 / OP-30 作戦・訓練技術部
(Operations and Training Studies Division)


SOG-31 / OP-31 海上技術課 (Maritime Studies Branch)
SOG-32 / OP-32 航空技術 (Air Studies Branch)
SOG-33 / OP-33 心理戦技術 (Psyops Studies Branch)
SOG-34 / OP-34 地上技術 (Ground Studies Branch)
状況分析班 (Status and Analysis Section)




【SOG作戦部門】

SOG-35 / OP-35 地上技術グループ (Ground Studies Group)


OP-35はベトナム軍NKT連絡部(コマンド雷虎)で構成されたC&C部隊(SCU)による国境地帯への越境偵察作戦。
規模はSOG作戦部門の中で最大。また本部での指揮だけでなくSCU偵察チームの現場指揮もSOG-35隊員が担った。

▲SOG-35隊員
主に陸軍第5特殊部隊群隊員で構成

▲NKTコマンド雷虎(SCU)とSOG-35隊員(右)
雷虎は元々正規のベトナム軍人のみで構成されていたが、後にOP-35の規模拡大に伴い、CIDG兵士で構成されたプロジェクト・シグマやガンマのチームもSCUに編入された。


SOG-36 / OP-36 空挺技術グループ (Airborne Studies Group)


OP-36はNKT第11群および第68群による空挺降下潜入工作作戦。主に敵軍または民間人に変装して敵性地域に潜入し、情報収集および破壊工作を行う。
1961年にCIAの指揮の下開始されたパラソル・スイッチバック作戦を起源とし、1964年にOP-34AとしてSOG所管の作戦となる。後に作戦の実行はOP-36として独立した作戦となる。
SOG-36隊員は本部での指揮・運用のみで出撃はしない。

▲NKT第11群STRATAチーム(チーム111)

▲NKT第68群アースエンジェルチームとSOG-36隊員(左)


SOG-37 / OP-37 海上技術グループ (Maritime Studies Group)

OP-37はNKT沿岸警備部による海上からの越境工作作戦。1964年にOP-34Aとして開始され、後に作戦の実行はOP-37として独立した作戦となる。
SOG-37は当初はNAD(海軍顧問団)として編成され、主に本部での指揮・運用を担ったが、一部でSOG-37所属のSEALおよび特殊ボート隊員がNKT沿岸警備部部隊と共に出撃する事もあった。

▲SOG-37隊員
主に海軍および海兵隊員で構成

▲NKT沿岸警備局シーコマンド(特海部隊)とSOG-37のSEAL隊員

NKT沿岸警備局シーパトロール(海探部隊)のナスティ高速哨戒艇


SOG-38 / OP-38 教導技術グループ (Training Studies Group)


OP-38はNKTの各コマンド部隊への訓練計画サイゴン東部ロンタンに設置されたNKT訓練センター"クェッタン / イェンテー"を運営する。またOP-35の規模が拡大すると、C&C部隊のチームリーダー(1-0)を育成するため、SOG-35所属のアメリカ兵に訓練を施す『ワンゼロ偵察訓練プログラム(通称ワンゼロスクール)』も実施した。
SOG-38は主に陸軍第5特殊部隊群B-53分遣隊で構成され、NKT訓練センターのインストラクターを務めた。

▲SOG-38のインストラクターとNKTコマンド訓練生

SOG-38によるワンゼロ偵察訓練コースを受講するSOG-35隊員



SOG-39 / OP-39 心理戦技術グループ (Psyops Studies Group)


OP-39はNKT心理戦部による北ベトナム・ラオス・カンボジアへの心理戦工作。
宣伝ラジオ放送はOP-70でも行われたが、OP-39は偽情報による攪乱を行う、心理戦の中でも『ブラック』と規定される作戦を行った。
例えばベトナム人とカンボジア人の歴史的な対立感情を煽る事で、ベトナム共産軍とクメールルージュ間での対立を画策するなど、より攻撃的な心理作戦を担った。


SOG-70 / OP-70 ラジオ技術グループ (Radio Studies Group)


OP-70は当初はSOG-40として編成された、NKT心理戦部によるラジオ放送心理戦工作。
偽情報を流すOP-39と異なり、OP-70では『ホワイト』ないし『グレー』と規定される、概ね事実に基づいた情報を放送した。


SOG-75 航空技術グループ (Air Studies Group)

SOG-75はNKT航空支援部およびアメリカ軍飛行隊の運用調整を行う。
以下の飛行隊が常時SOG-75の調整の下、NKTによる作戦の支援にあたった。

SOG第1飛行隊(1st Flight Squadron): C-123輸送機
アメリカ空軍 第15特殊作戦飛行隊: C-130輸送機
アメリカ空軍 第90特殊作戦飛行隊: C-130輸送機
アメリカ空軍 第20特殊作戦飛行隊: UH-1Fヘリコプター
ベトナム空軍 第219ヘリコプター飛行隊: H-34ヘリコプター
アメリカ海軍: EC-121電子戦機

また上記以外にも必要に応じてベトナム空軍・アメリカ空軍の飛行隊を運用した。

▲SOG-75第1飛行隊

▲NKT航空支援部/ベトナム空軍第219飛行隊"龍馬”/キングビー飛行隊とSOG-75隊員


SOG-80 / OP-80 救難技術グループ (Recovery Studies Group)


OP-80はにNKT作戦部隊を支援する特殊作戦レスキュー計画。
人員はSOG-80 "統合捜索救難センター(Joint Personnel Recovery Center)"のアメリカ兵で構成され、行方不明となったNKTおよびSOGのコマンド隊員の捜索・救難を担った。
1973年にアメリカ軍がベトナムから撤退した後も、JPRCは"統合遭難者解決センター(Joint Casualty Resolution Center)"と改称してベトナムに残留し、NSA(国家安全保障局)およびDIA(国防情報局)の指揮下でアメリカ軍捕虜・行方不明者の捜索にあたった。
1975年にサイゴンが陥落すると、JCRC本部はハワイ ハーバーズポイントのNSA秘密施設972に移転。その後インドシナ地域を担当するJCRCは他の捜索機関と統合されていき、現在はハワイ州ヒッカム空軍基地に本部を置くJPAC(統合捕虜・不明者対策コマンド)となっている。




おまけ: ベトナム軍装ガイド制作進行中


 以前、アニメ風女性キャラクターが軍服を着ているイラストでベトナム軍装ガイドを制作している事をブログに載せてきましたが、その後気が変わり、男性の絵に描き直す事にしたので、時間がかかってしまいました。イラストさえ出来てしまえば、解説なんていつもブログで書いているのと大差ないので、完成まで大してかからないはずです。多分。
 残念ながら、これまで日本のベトナム戦争ヒストリカルにおいて、<フィクションではなく現実の>ベトナム共和国軍への理解度は非常に低いものだったと言わざるを得ない為、今後少しでも正しい情報が普及する事を祈って、イベントで最も需要があると思われる1968~1969年頃の軍装については無料公開しようと考えています。
 なお有料版では、仏領インドシナ成立後、初めてベトナムに国軍が創設された1948年から、サイゴン政府が消滅する1975年までの約30年分の各部隊の軍装を紹介する事が最終的な目標です。なのでこの軍装ガイドのタイトルは『南ベトナム』ではなく、『ベトナム』軍装ガイドなのです。
  


2018年01月21日

ホンサ海戦から44年

 1974年1月19日にホンサ諸島(Quần đảo Hoàng Sa, 中国名:西沙諸島)を巡ってベトナム共和国軍と中国軍が衝突した『ホンサ海戦(西沙諸島の戦い)』における犠牲者を追悼する式典が、今年も米国在住のベトナム共和国海軍軍人協会によって執り行われました。

(映像: SBTNOfficial)

 この戦いでベトナム共和国軍は撃沈1隻、戦死者75名*という損害を出し、ホンサ諸島からの撤退を余儀なくされます。同年、ベトナム共和国軍はホンサ諸島の奪還を計画し、多数の戦闘機・攻撃機が出撃準備を完了する状態にまで至りましたが、決行直前にアメリカ政府から作戦中止の要請を受け、結局奪還作戦が実行される事はありませんでした。そしてそれ以来、ホンサ諸島は44年間に渡って中国軍の占領下にあります。
*戦死者数については資料によって数名の誤差あり

▲中国海軍艦艇のロケット砲で撃沈されたベトナム海軍掃海艇HQ-10 ニャッタオ

 なお、当時北ベトナムを支配していたベトナム労働党政権は大戦後から一貫して中国共産党の指導下にあり、中国による支援に全面的に依存しながら南侵(ベトナム戦争)を続けていた為、ベトナム民主共和国として中国に対しホンサ諸島の領有を主張する事はありませんでした。ホンサ海戦により諸島全域が占領された後も、ホンサ諸島について言及する事は避けており、ホー・チ・ミンおよびベトナム労働党は事実上、ホンサ諸島を中国に売り渡していたと言えます。
 一方、ベトナム労働党の下部組織である南部のゲリラ組織 南ベトナム解放民族戦線は、南部人による独立した組織という建前もあったため、中国軍によるホンサ諸島占領を非難したそうですが、彼らの闘争もまた中国による軍事支援に依存しきっており、いずれの共産主義勢力も事実上の宗主国である中国に抗う事はできませんでした。

 ベトナムの歴史は「中国への抵抗の歴史」と言われるように、元来ベトナム人にとって中国に国土を奪われる事は最大の屈辱であり、ホンサ海戦は今日でも多くのベトナム人にとって忘れがたい悲劇として記憶されています。その為、ベトナム共産党への服従とベトナム共和国政府への憎悪教育が60年以上続いている今日の社会主義ベトナムにおいても、このホンサ海戦で犠牲となったベトナム共和国軍人に対しては、多くの人々がイデオロギーの違いを超えてベトナム民族の英雄として追悼の対象としています。

中国に立ち向かったベトナム共和国軍、そしてベトナム民族の歴史を象徴する歌 『Đáp Lời Sông Núi (山河に応えて)』


歌詞はこちらにあるので、Google翻訳か何かで雰囲気を感じて下さい。

おまけ: 土曜日の作業

金曜日は疲れてたので、夕方帰宅したあと布団に横になったら、そのまま翌日の朝まで約12時間寝てしまいました。
なので土曜日は朝8時からじっくり趣味の作業に没頭。

◆友人依頼分の自家製プリントパッチ作成
・ベトナム国家警察野戦警察隊
・第222野戦警察群
・第611野戦警察中隊
・陸軍第1歩兵師団(サブデュード)


◆徽章縫い付け

来月着る服


多分5月ごろ着る服。気が早いけど、テンション上がって作っちゃいました。


いつ着るか分からない服。まだパッチが全て揃ってないので、続きはおいおい。

  


2018年01月06日

美作市のホーチミン像問題

※2018年7月3日更新

筆者の別ブログ ベトナムウォッチと重複している記事を、ベトナムウォッチの方に一本化しました。

ベトナムウォッチ 『美作市のホーチミン像問題』



またこの記事の後、美作市役所に対する抗議運動が実施されました。

ベトナムウォッチ 『美作市ホーチミン像に世界のベトナム難民団体が抗議』
  


2018年01月01日

2017年の思い出

明けましておめでとうございます。
今年も年明けから平常運転でいきます。

もう年が明けてしまいましたが、毎年年末に書いていたその年のまとめを書いていきます。

2015年 http://ichiban.militaryblog.jp/e724040.html


2017年1月

また今年も元日に、ベトナム寺に初詣。


アメリカに住んでる友達がベトナムに帰省する途中、羽田で乗り継ぎするけど待ち時間が半日ある言うので、
車で迎えに行って浅草を案内。美味しい刺身を食べてきました。


2月

友達と茨城県の袋田の滝と大洗に遊びに行く


3月

SAITAMA101さんが開催しているリエナクトメント・トレーニング会に、ベトナム陸軍として3名でお邪魔させて頂きました。
http://ichiban.militaryblog.jp/e839668.html


4月

ベトベトマニアVol.3 -Operation JUNCTION CITY -に、ベトナム海兵隊として参加。
泥んこまみれも良い思い出です。


5月

台湾のSさんが再来日。渋谷で飲み会しました。
http://ichiban.militaryblog.jp/e851188.html


河原で二日間に渡って撮影会
http://ichiban.militaryblog.jp/e853461.html


6月

地元の友達と茨城県の常陸出雲大社、笠間稲荷にお参り


7月

2017年にベトナム中部で発生したベトナム史上最悪の環境汚染『フォルモサ事件』に抗議する
日本在住ベトナム人の人権運動グループによるハンガーストライキを取材に行ったら、
いつの間にか参加者の一人になってました。
https://watching-vn.blogspot.jp/2017/07/blog-post_18.html


アホカリ2017に参加。
形だけの『黙祷』の空虚さが浮き彫りとなりましたね。
実は今回、私の友人でベテランのお孫さんがアホカリに参加する予定だったのですが、
直前で都合が悪くなり彼の参加は叶いませんでした。
しかし、彼にあの寸劇を見せずに済んで良かったと思います。
私の友人たちは皆真っ当に自分の趣味と向き合っているため、
あの寸劇へは誰一人参加しませんでしたが、
あれは日本のミリタリーマニア全体で考えねばならない重大な事件だったと考えます。
今回私は尊敬する先輩から、対応は自分にまかせるよう諭されたので、
この件に関しては発言を控えましたが、次は許しません。


8月

在日ベトナム人協会のサマーキャンプにお誘い頂いたので二日間お邪魔してきました。
友達がたくさんできました。
https://watching-vn.blogspot.jp/2017/08/1.html


9月

デモやキャンプで知り合った友人たちとカラオケ&飲み会。
国際人権運動のキーホルダーを頂きました。
http://ichiban.militaryblog.jp/e881806.html


今までで一番大規模な撮影会を実施。長年の夢が叶いました!!
士官候補生 夏季準礼服あわせ http://ichiban.militaryblog.jp/e878558.html
空挺旅団 1963年サイゴン 
http://ichiban.militaryblog.jp/e879529.html


10月

都内で開催されたファム・ミン・ホアン教授の講演会を取材。
これが現在ベトナムで行われているテロル政治の一部始終です。
https://watching-vn.blogspot.jp/2017/10/blog-post_29.html


11月

日本の政府系団体が開催する『日本定住難民のつどい』を観覧。
前半は、先進国の中で最も難民問題に冷淡な国—日本の偉い人たちが、自分たちの善行を自画自賛する中身の無い式典です。
後半は真っ当な文化交流イベントなので、東南アジア各地の伝統舞踊が生で見れて良かったです。
https://watching-vn.blogspot.jp/2017/11/38.html


2017年最後の撮影会。1971年のラオス戦役『ラムソン719作戦』を想定。
皆様1年間お付き合い頂きありがとうございました!
http://ichiban.militaryblog.jp/e892457.html


12月

現在ベトナムで『政治犯』として収監中の人々への支援を募るクリスマス・チャリティー・パーティーにお招きいただきました。
参加者の半分くらいは顔見知りなので、当日は普通に友達とのパーティーを楽しみました。
これは決してお金持ちの集まりではありません。僕を含むほとんどの人は、日本で働くごく普通の労働者です。
遠く離れた異国に住み、生活も楽ではありませんが、それでも祖国の未来を想い、やれる範囲の事をコツコツと続けておられます。
彼らのように良心と熱意を持った方々と出会えた事は、僕の人生にとっても大きなプラスだったと感じています。
https://watching-vn.blogspot.jp/2017/12/blog-post.html


大晦日はテレビゲームマニアの友達の家で年越しゲーム会。
Nintendo Switchで初めてロケットリーグをやってみたら、やたら面白くて午前2時くらいまでみんな夢中になってやってました。



2017年を振り返ってみると、その前の2年間で5回も海外に行ったのに対し、
2017年は一度も日本から出ませんでした。
(夏頃オーストラリアで開催されるベトナム人権問題の会議に誘われたけど、仕事があって行けなかった)

でもその分、日本国内で友達がたくさん増えて、とても素晴らしい年になりました。
2018年もこの調子でつっ走ります。おす。
  


Posted by 森泉大河 at 15:14Comments(0)News!

2017年12月24日

結果発表

メリークリスマス!!今夜はクリスマスイブという事で、男の半裸写真を見ながらお過ごしください。

今年の3月、さして親しくもない人たちから「そんな腹の出たARVNいねーよwww」と馬鹿にされてブチっと来た僕は、減量する事を決意し、「今年の年末までに成果を出す」と宣言しました。

減量開始前の2017年3月。確かに今見るとひどい。BMIは26と、完全に肥満に入ってました。
これでも20代半ばまでは、身体が細すぎてコンプレックスなくらい痩せてたのにね。

数年前から「ダイエットしなくちゃな~」とか言いながら、一方で「ヤバい、ズボン履けなくなった」とか自虐ネタに走って行動する事から逃げていた僕も、知ったかぶりの外人に小馬鹿にされた事でようやく『怒り』という動機を得て、人生初の減量を始める事となります。

【減量のために行った事】

・ダイエット(節食)
噂に聞く低糖質ダイエットとやらを始めてみました。夜は米や麺類など炭水化物を一切摂らないように心がけました。これが一番効果あったと思います。
食べる量は制限しなかったので、お米が無くてもおかずをたくさん食べる事で満腹になったので、特に苦痛はありませんでした。ただし米抜きカレーライスだけは辛かったです。
また夕食の際にサプリ替わりの減量用プロテインを飲む事で、お腹も膨れて食事量は自然と減らせました。


・ワークアウト(運動)
僕は走ったりジムでのトレーニングなど、汗をかく運動が大嫌いなので、初めからやる気はありませんでした。
なので週2回、近所のスイミングスクールで泳ぐ事にしました。水泳なら高校生までやってましたし、何より水の中なので汗だくになって気持ち悪くなることが無くて済みます。
いざ始めると、長年の運動不足から、最初は普通にクロールするのも辛かったですが、徐々に内容を濃くしていきました。初めてすぐに肩こりが治ったのはめっけもんでした。

以下、馴れてきたてからやってた基本メニュー
・アップ 50m×10
・キック(ビート板でバタ足) 50m(1分20秒サイクル)×5 
・プル(パドル+プルブイ50m(55秒サクル)×5
・キック 50m(1分20秒サクル)×5
・プル 50m(55秒サクル)×5
・スイム 125m+125m+100m+75m+75m
・ダウン 50m×10
計2500m

僕はキックが苦手で、最初は1分20秒サイクルが全然守れませんでしたが、今は最後まで1分15秒サイクルで回れるようになりました。また、ある程度体重が落ちてからは、泳ぐ距離を2000mにして、残りの時間を腹筋・腕立て・体幹トレーニングに充てています。
あと、意味あるか分かりませんが、通勤の際は駅のエスカレーターを一切使わず、常に階段で上ってます。


そして、約8か月間の減量で、このような結果になりました。

体重マイナス12kg。BMI 26→21



まじめに鍛えてる人に比べたらカスですが、単に痩身目的の減量としては、まぁ人様に見せても恥ずかしくない結果でしょう。
ここまで減らせたのなら、どうせなら昔みたいに腹筋割りたいという欲も出てきたので、来年もこの生活を継続したいと思います。


ちなみに僕に減量のきっかけを与えてくれた彼らは、単に"南ベトナム兵は痩せてる"という浅はかなイメージしか持っていなかったみたいだけど、単に食糧事情が悪くて痩せこけていた共産軍と違って、共和国の兵隊は十分な食事とトレーニングが施されていたから、細くても屈強な人が多いよ。


来年も目指せ越南男子!
  


Posted by 森泉大河 at 23:41Comments(2)【ベトナム共和国軍】1954-1975News!

2017年12月23日

リプロネームテープと軍人身分証明書

【お知らせ】

先日のチャリティーパーティーの詳細を私の別ブログに投稿いたしました。よろしければご覧ください。

ベトナムウォッチ 『良心の囚人に捧げるクリスマス・チャリティー』 

もし、これら現代ベトナムの社会問題について関心をお持ちの方が居られましたら、コメント欄にその旨と連絡先をご記入いただければ、こちらからご連絡さし上げます。(そのコメントは公開しません)

ちなみに、僕と面識のない方には誤解を与えているかも知れませんが、僕自身は自分の趣味とこの活動は別物と考えているので、ミリタリー趣味の場でこういった活動に誘う事はありませんので、どこかで会っても逃げないで下さい(笑)

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外注刺繍ネームテープ完成

友人たちから注文を募って刺繍屋さんに制作していただきました。



ありがたい事に刺繍屋さんは持ち込み無料なので、これまで服を改造する度に貯め込んできた各種リプロ軍服の端切れから生地を切り出し、それに刺繍していただきました。


工賃は枚数が多い方が割安になるので、僕は思い切って15枚注文。そんなに付ける服持ってないけど、今後欲しくなった時にこんなに安くは作れないので、この機会に一生分作っちゃいました。それに友人たちの注文分も加えて、計37枚作ってもらいました。
注文する際、お店側に分かり易いよう「サバゲーで使う軍服の名札です」と説明しましたが、刺繍する名前は日本でも欧米風でもない謎のローマ字の羅列なので、不思議がられたと思います(笑)


自家製軍人身分証明書

サイゴンに住んでる友達が僕の身分証を作ってくれました。


ただ実物画像をプリントアウトしたのではなく、印字は全て僕の指定した内容にし、写真も別でプリントしたものを貼り付けてくれています
ただし、階級は下士(Hạ sĩ =伍長)にしてって言ったのに、友人は「君は士官候補生のコスプレしたんだから、今後は将校ね」と言って勝手に少尉(Thiếu úy)にされました。いや、遊びとは言え、本物の将校さん達と付き合いのある身としては、僕みたいな外人が勝手に将校の階級名乗るのは宜しくないというか、今まで気を遣って避けてたんだよねぇ。
なお、裏面の誕生日や両親の名前は実名(漢字をクォックグー表記したもの)なので載せないでおきます。友人曰く、漢字を直にクォックグーに変換した名前は、実際にホア族(在越華人)で使われているそうなので、きっと君のご両親はチョロンのホア族だねと言われました(笑)

なおベトナム共和国軍の軍人身分証明書には少なくともテンプレート番号『QĐ-849』と『QĐ-849A』2種類のタイプが確認できまして、今回作ってもらったのはその中のQĐ-849になります。


シンプルなデザインのQĐ-849
表面左下に記載されているように、このテンプレートの制定は1966年8月のようです。
問題はいつまで使われていたのかという点ですが、それを説明する資料にはまだ出合えていないません。
ネットで実物画像を集めた限りでは、1972年発行まで確認できました。

偽造防止が施された改良型の『QĐ-849A
こちらはテンプレート制定年が印字されていませんが、同じくネットにある実物画像を観察した限りでは、1973年以降に発行されたものしか見つかりませんでした。
これは上記のQĐ-849が1972年まで確認できた事と辻褄があっており、軍人身分証のテンプレートは1972~1973年頃にQĐ-849Aへと切り替わったと考えていいかもしれません。

ところで、QĐ-849は1966年制定と書きましたが、当然、じゃあそれ以前の身分証は何だ?となりますよね。
実は、僕もよく分かりません。1972年以降なら、戦況の悪化から徴兵しまくったために証明書発行が間に合わず、軍人身分証に代わる簡易な『現役証明書(QĐ-750FおよびQĐ-750G/V)』も使われていたようですが、逆に1966年以前のものはなかなか見つかりません。
書類関係はネットで画像集めるだけで、本格的に研究した事はないので、もし情報をお持ちの方がいらっしゃれば、教えて頂けると幸いです。
  


2017年12月18日

X'masパーリー

先日、日本で活動するベトナム人権活動団体 青い海forベトナム様およびヒューマンライツウォッチ様共催のクリスマス・チャリティー・パーティーにご招待頂いたので参加してきました。パーティーの収益は現在ベトナムで『政治犯』として投獄されている多くの善良な人々の解放を働きかける活動の資金に充てられます。僕は会場に着くまで身内のこじんまりとした集まりを想像していたのですが、いざ会場に入ると、ヒューマンライツウォッチ日本代表の土井先生や、個人的に参加されたアメリカ陸軍・空軍軍人の方も居られびっくりました。会の詳細については後日私の別ブログ ベトナムウォッチに掲載いたします。

※2017年12月23日ベトナムウォッチに記事投稿しました。

という訳で、真面目な話はあちらでじっくり書くので、こちらのブログでは今時の若者らしくベト充アピール。

パーティー会場は国会議事堂を見下ろす平河町森タワーのスカイラウンジを貸し切り。
シャンメリー、じゃなかったスパークリングワインで乾杯。

三十路過ぎて初めてこういう華やかな感じの事しました。かつてはクリスマスイブにおはぎをデコレーションして独りクリスマス会してる写真を2ちゃんねるに投稿して寂しさを紛らわせていた男でも、生きてればこういう機会が巡って来るんですね。

嬉しい事に、食べ物は普通のオードブル以外にも、参加者の有志がその場で手作りしてくれたベトナム料理が盛り沢山!
バインミ―のパンはオーブンで焼き直して外カリカリ中モチモチ。

ちまき(バインチュン)とピリ辛牛肉炒め。ベトナムのおっ母さんの手作り料理超おいしいですface05
ただし、牛肉炒めはその場で鉄板で炒めましたが、換気扇がやたら弱くて、肉を火にかけた瞬間濃縮された香辛料の煙が周囲に立ちこめて催涙ガス状態となり、部屋中が咳き込むハプニングが発生しました。

宴もたけなわ。いつも通りギター演奏でカラオケが始まります。僕の経験上、ベトナム人が宴会でカラオケする率120%。


いや~、素晴らしい時間を過ごせました。いろいろ新しい出会いもあり、楽しい以上に勉強になった会でした。

閉会後は六本木での二次会に誘われたけど、僕は次の日仕事で5時半起きだったので、泣く泣く帰る事にしました。
みんな「え、行かないの!?」と引き留めてくるけど、俺だって行きたいんじゃー!
なんでよりにもよってパーティー翌日の日曜に仕事が入るんじゃー!!

てゆーか他の人も朝4時半起きなのに二次会行くとか凄いね。僕は最低6時間寝ないと朝起きれない体質だから無理。
いいな~。行きたかったな~。いいな~。
  


Posted by 森泉大河 at 21:58Comments(0)2010年代・現在News!料理・食文化

2017年11月15日

11月近況

第38回 日本定住難民のつどい 

 11月12日(日)、新宿区新宿文化センターで開催された「日本定住難民のつどい」を観覧してきました。この催しは日本政府の委託で日本定住難民への支援を行うFWEAP(公益財団法人アジア福祉教育財団)が昭和57から毎年主催しているもので、今年で38回目を迎えます。詳しくは私の別ブログ ベトナムウォッチの方に記事を投稿しましたので、そちらをご覧ください。


 実は僕、以前このFWEAPの下で難民支援を行う団体の面接を受けた事があるのですが、その席で「これは国の仕事だからブログ等で自分の意見を書いてはいけない」と言われ、多分黙ってるのは無理だと思い、その場で辞退した思い出があります。
 まぁ僕自身は大したスキル持ってないので、もっと良い人材に仕事してもらった方が難民の方々にとっても良いでしょう。僕に出来るのは、この国では政府も知識人も右翼も左翼も利用価値無しとして無視し続ける、人間の生の声をブログで発表する事くらいですから。
 正直ミリタリー趣味なんてただの遊びだからいつ止めてもいいと思ってるけど、こっちは人間としてやらなければならない仕事だから、ずっとやって行くんだと思います。自分をやめる事はできないし。



あと2店

行ってきましたよ仙台二郎。
仙台出張来たー!と思ったら、行先はその50km北の大崎市。
でも、これを逃すともうしばらくチャンスは無いので、仕事終わったあと高速バスに乗って仙台まで行ってきました。


良いお姿です。


おいしゅうございました。

これで残すところは札幌と京都の二店舗のみとなりました。
志ある所に機あり。
いずれ遠からぬうちに。



無敵海兵隊

友人が買った服だけど、あまりにそそられるので転載。
韓国海兵隊ベテラン服。このセンス、すっごい見覚えあるわー。


韓国でも漢字はオラオラ系なイメージなのね。
集めてる範囲の物ではないけど、これは欲しくなっちゃう。



KUNG FURY見てたらジーパン欲しくなってきた。

  


Posted by 森泉大河 at 01:03Comments(0)News!ラーメン

2017年10月29日

巷で見かけないベトナム料理

 去る10月22日に、東京都品川区で開催されたファム・ミン・ホアン(Phạm Minh Hoàng)氏の講演会にお邪魔させて頂きました。ホアン氏は元ホーチミン工科大学教授で、2010年に学生への講義の中で人権に関する内容を扱った事で警察に逮捕され、2017年6月にはベトナム共産党政府によって市民権を剥奪され、国外追放となった人物です。講演の内容については私の別ブログ ベトナムウォッチの方に記事を投稿しましたので、そちらをご覧ください。


告知だけじゃなんなので、こちらが当日会場で頂いたお昼ご飯です。

ベトナム料理の定番中の定番、バインミー(Bánh mì)、生春巻き(Gỏi cuốn)、チェー(Chè)の3点セット。美味しかったです。


ついでに、毎年元日(陽暦節)やテト(元旦節)に日本にあるベトナム仏教寺院でふるまわれている、普通のベトナムレストランには置いていない料理をご紹介。

ブン(Bún)ですが、お寺なので肉はもちろん鶏ガラスープも使われていません。全て野菜などの植物から作られてるので、精進ブンとでも言いましょうか。さっぱりですが野菜の出汁がしっかりした、とても美味しいスープです。お肉っぽい色の物体が見えますが、実はこれ肉に見立てたキノコらしいです。食感も油揚げや高野豆腐のような繊維質で噛み応えがあり、本当に肉のようです。そんなキノコ日本では聞いたことも無いので、わざわざベトナムから仕入れたんでしょうか。

同じく精進ブン・トマトバージョン。見た目が辛そうですが、上に載ってる唐辛子さえ入れなければ全く辛くありません。

ココナッツミルクのお汁粉(左)と、甘く味付けしたもち米(右)。僕みたいな甘党にはたまりませんな。

みたらし団子みたいなお餅。

即席チェーと言った感じの袋に入った液体デザート


最後に、こちらは日本でもベトナム本土でも見た事が無い、アメリカのベトナムレストランで食べた料理。

なんと生の牛肉を甘辛ソースでそのまま頂く料理です。厚切りユッケとでも言いましょうか。超美味いです。一人で二皿くらい食えます。生肉を食らう命知らずは世界で日本人と韓国人だけだと思ってましたが、ベトナム料理にもあったのか。しかしベトナム本土で生まれ育ったベトナム人に聞いても、そんな料理知らないと言うので、もしかしたらこれはベトナムの中でも限られた地方でのみ食べられている郷土料理か、もしくはアメリカに渡ったベトナム移民たちが韓国料理のユッケを取り入れて考案したものなのかも。まぁ、美味ければ何でも良いよね。
  


2017年08月07日

第11回ありがとうコンサートとハン・ニョン中佐

米国時間8月6日、今年もカリフォルニア州サンノゼにて『Đại Nhạc Hội Cám Ơn Anh(ありがとうコンサート)』が開催されました。『ありがとうコンサート』は毎年夏にベトナム系アメリカ市民がカリフォルニア州サンノゼとガーデングローブ市の持ち回りで開催しているチャリティーコンサートで、コンサートで得られた寄付・収益は、現在もベトナムに住む元ベトナム共和国軍傷痍軍人・寡婦・遺族への生活支援にあてられます。


Người Việt Daily News: Đại Nhạc Hội ‘Cám Ơn Anh’ ở San Jose, hàng ngàn người tham dự

コンサートの様子はカリフォルニアのベトナム移民系テレビ局SBTNのYoutube公式チャンネルにて、全世界に生中継されました。


SBTNOfficial: LIVE: ĐẠI NHẠC HỘI CÁM ƠN ANH KỲ 11

当ブログも毎年このコンサートを応援しており、今年も滞りなく運んだとの事で、遠く離れた日本からもお祝い申し上げます。
2年前の第9回には、私自身も主催団体のベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会(Hội HO Cứu Trợ Thương Phế Binh và Quả Phụ Việt Nam Cộng Hòa)からプレスとして招待され、現地で取材を行ってきました。
その時の写真の一部はこちらの記事に掲載してあります。また、過去の開催内容についてはこちらの記事にまとめてあります。


しかし残念ながら、今年の『ありがとうコンサート』には、このコンサートを長年支え続けたある女性の出席は叶いませんでした。
彼女の名はグエン・ティ・ハン・ニョン(Nguyễn Thị Hạnh Nhơn)空軍中佐戦後、ベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会会長として長年戦争で身体障害を負った将兵や、戦死者の遺族への支援活動に尽力されてきた元ベトナム共和国空軍の女性将校です。
ハン・ニョン中佐はこの『ありがとうコンサート』の主催者の一人として、ご高齢の身を押して自ら先頭に立って会を率いてこられましたが、第11回コンサートが3か月後に迫った2017年4月18日、カリフォルニア州ファウンテンバレーの病院で息を引き取られました。享年91歳でした。

ベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会会長
グエン・ティ・ハン・ニョン空軍中佐(1927-2017)

 グエン・ティ・ハン・ニョンは仏領インドシナ時代の1927年、ベトナム中部のフエに生まれます。1941年にガールスカウトに入団したハン・ニョン氏は第一次インドシナ戦争中の1950年に、ガールスカウトの指導者として、ベトナム国軍第2軍管区の地方保安部隊『越兵隊(Việt binh đoàn)』に財務スタッフとして参加。後に正式にベトナム国軍の婦人隊員となります。
 終戦後の1957年、ハン・ニョン氏はフエのグエン・チ・フォン軍病院で勤務しますが、そこで多くの傷病兵や未亡人、孤児達を目の当たりにしたことが、後の彼女の人生を決定付けました。
 ベトナム戦争が悪化の一途を辿る1965年、ベトナム共和国軍は男性兵士の不足を補うため、軍の後方支援業務を担う女性軍人(Nữ Quân Nhân)制度を正式に発足し、ハン・ニョン氏は婦人隊の創設および女性軍人学校で教鞭を執った最初の女性将校となります。
 その後、ハン・ニョン氏は1967年にベトナム共和国軍総参謀部勤務となり、1969年には空軍少佐に、1972年には中佐に昇進します。ハン・ニョン中佐その後、1975年までタンソンニュット基地の空軍司令部婦人分団長を務めると共に、1950年以来25年間に渡って軍で勤務するとともに女性軍人の活躍を主導した功績を称えられ、ベトナム共和国最高位の"保国勲章5級(Đệ Ngũ Đẳng Bảo Quốc Huân Chương)"を授章します。

▲中佐に昇進し、総参謀部チャン・タイン・フォン少将によって階級章を交換されるハン・ニョン氏(1972年ジアディン省)

 しかし1975年の敗戦によりベトナム共産党政権に逮捕されたハン・ニョン中佐は、その後4年以上も強制収容所に投獄された後、1990年に家族と共にアメリカに亡命します。以後、ハン・ニョン中佐はカリフォルニア州オレンジ郡でベトナム"政治犯"互助会に参加し、共産党政権に"政治犯"として弾圧される人々への支援活動を開始します。そして1996年にベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会を発足し、以後21年間に渡って同会の会長を務めてこられました。また2006年からは、カリフォルニアのベトナム系音楽企業アジア・エンターテイメント、テレビ局のSBTNと共同で『ありがとうコンサート』を開催し、2017年で11回目の開催となります。ハン・ニョン中佐がこれまでの活動で集めた寄付金は100万米ドルを超えており、現在もベトナム戦争の傷跡に苦しむ元軍人や戦死者の遺族に届けられました。
 このように、今日では大々的に開催されているテャリティーコンサートですが、一方で、私が2年前にコンサートを取材した際には、ベトナム国内で行われる慈善活動はベトナム共産党政府の厳重な管理下にあり、実際には送られた寄付金の半分は支援には使われず、汚職役人や共産党幹部の懐に入れられてしまっているという嘆きもコンサート参加者から聞かれました。そのため当初は、こういった支援活動は共産党政府を間接的に支援する事になるのではと、在米ベトナム人コミュニティの中でも反対の声が多かったそうです。しかしそれでもハン・ニョン中佐らは、今も祖国で苦しむ同胞たちに少しでも支援が送れるのならと、活動を続けてこられました。
 私は、守るべき国家を失ってもなおハン・ニョン中佐が示し続けた同胞への奉仕と人間愛の精神は、これからも在米ベトナム人(ベトナム系アメリカ人)コミュニティの中で生き続けるものと確信しています。

[出典] 
Vietbao.com: Cựu Trung Tá Không Quân VNCH Nguyễn Thị Hạnh Nhơn Qua Đời Sinh Năm 1927 Qua Đời Ngày 18 Tháng 4 Năm 2017, Đại Thọ 91
VOA: Vĩnh biệt bà Nguyễn Thị Hạnh Nhơn  


2017年07月22日

EAリーフをレビュー



先日お伝えしたEast Asia Supplyの新商品、ベトナム共和国軍ERDLグリーンリーフ迷彩作戦服がCLASSIFIEDさんより発売となりました!

CLASSIFIEDさん商品ページ


先日アホカリに参加された方には現物をお見せしましたが、仕上がりは期待以上です!
生地はポプリン生地のERDLグリーンリーフ迷彩を再現しています。裁断はベトナム軍の迷彩服として最もオーソドックスなスタイルの、肩当・エポレット付き2ポケットジャケット、膝当て付き4ポケットパンツです。



ボタンはどのメーカーも再現を妥協しがちな部分ですが、今回のEAリーフのボタンは当時のベトナム製ボタン(厚手タイプ)の雰囲気を比較的再現できていると思います。


このくらいアップで見ると違いが分かりますが、着用してしてしまえば、ほとんど違和感は感じられません。
こだわりたい方は、完成度の高いCLASSIFIEDさんオリジナルのベトナム軍ボタンレプリカが発売されてるので、そちらに交換すればさらにリアリティが増すのでお勧めです。


雰囲気だしにTTSXQT(国防省軍需部装備生産センター)スタンプも再現されています。
この辺は着てしまえば分からないので、おまけみたいなものですね。


なお実際の服のサイズはスタンプされているベトナム軍被服サイズ表記通りではなく、現在一般的なUS-SからXLとなっているので、現代の私たちにはむしろ着やすい裁断となっています。


全体的に、コスプレやリエナクトで実用するには十分な再現度を誇るリプロであり、これを作ってくれたEAは流石だなと思います。
これが完売してしまえば、次にこのレベルのレプリカが入手できるのは何年後になるか分かりません。
ベトナム戦争コスプレに興味がある方は、迷わず最低一着は持っておくべき服だと思います!
さらに、この服さえあれば、1967年以降のベトナム共和国軍地上戦闘部隊の再現がほとんど何でも出来ちゃいます。

BĐQ (レンジャー大隊)

ND (空挺師団)

TQLC (海兵隊)


ĐĐTS (師団付き偵察中隊)

LĐNN (海軍フロッグマン/SEAL部隊)

LLĐB (特殊部隊)

NKT (技術局)MACV-SOG


またこれらの部隊を指導していたアメリカ軍、オーストラリア軍のアドバイザーたちも同じベトナム軍リーフ迷彩服を着用していました。
このようにリーフは何着持っていても困らない服なので、手に入るうちにご注文される事を強くお勧めします!


  


2017年07月08日

新ブログスタート

これまで当ブログでは、現在ベトナムの国内外で行われている民主化運動や、それに対するベトナム共産党政権による凄惨な弾圧について度々お伝えしてきましたが、この度、そういった戦後および現代ベトナムの社会問題に関するブログを新たに立ち上げました。

やはりどんなに真剣にそういった問題を扱っていても、他の記事で『戦争ごっこ』などという常識を欠ていると見られかねない遊びをしているようでは、ちょっと説得力に欠けるよなと前々から思っていました。

そこで、ちょうど先日、お台場で行われた在日ベトナム人によるベトナム共産党政権への抗議デモを取材し、そこで知り合った皆さんに必ずブログに書きますと約束したので、この際新しくブログを作る事にしました。これまでこの一番槍ブログに載せてきた記事も掲載してあります。

ベトナムウォッチ ※ブログ名を変更しました。


今後戦後および現代ベトナム関連の話題はこちらのブログに書いていきますが、記事をアップしたら一番槍の方にもリンクを貼ってお知らせします。

興味のある方は是非ご覧いただき、テレビでは報じられない、ベトナム国民の生の声に少しでも耳を傾けて頂けたら幸いです。
  


2017年06月15日

映画 Trên Bốn Vùng Chiến Thuật ── 四つの戦術地区で ──

前回の記事に「おまけ」として書きましたが、改めて記事にします。

ベトナム出身で米国在住のセミプロ映像作家の友人が監督し、僕も制作に関わった新作ドキュメンタリー映画『Trên Bốn Vùng Chiến Thuật (四つの戦術地区で)』が6月18日(僕の誕生日!)に米国のベトナム移民系テレビ局SBTNで放映され、翌6月19日『国軍の日(Ngày Quân Lực)』にDVDでリリースされます!
この『四つの戦術地区で』は、元共和国軍人やご遺族へのインタビュー、現在の戦跡、当時の記録映像と再現VTRなどで、若い世代の目線からベトナム共和国軍とベトナム戦争の歴史を紐解いていくドキュメンタリー映画です。

画像: SBTN chuẩn bị trình chiếu và ra mắt DVD bộ phim tài liệu “Trên Bốn Vùng Chiến Thuật”


新たにDVDのCMが公開されました。



僕もまだ完成版は見てないのですが、監督本人から、本編にはタイガもけっこう登場しているよ、と教えてもらいました。
たぶんここら辺の映像が使われていると思います。

サイゴン 独立宮殿(旧総統府)

ビエンホア国軍墓地


米国ジョージア州およびケンタッキー州 ドラマ・再現VTR撮影



去年4月、彼がHồi Ức』製作しSBTNで放映された事を記事にした時、僕はこう書いていました。

「彼とはそう遠くないうちに会う事になる気がしています。情熱さえあれば、地球なんて案外狭いものさ。」

しかし、まさかその3か月後に二人でベトナムを旅し、12月にはアメリカで一緒に映画を撮る事になるとは予想だにしていませんでした。
しかも彼は、彼と出会う前に僕が日本で友達になった別の在日ベトナム人とドンタップ省の中学校で同級生だったという奇跡まで発生しました。
地球狭いとは言ったけど、狭すぎるだろ!(笑)