2015年09月08日
準備も大詰め
今週末開催される『第2回かめナベ会』 にて使う予定の、生活展示エリアに建てる看板を仕上げました。
【制作の流れ】
ホームセンターで買ってきた1500mmの合板(黒に塗装済み)に、ダイソーのアクリル塗料で筆塗り。
看板の建て方は杉材の杭から鉄筋まで色々検討したのですが、当日地面に杭を打つ作業はけっこう大変だし持ち運びも大変なので、結局A型バリケードを使うことにしました。
バリケードを塗装して、合板にフックつけて完成。偶然にもバリケードの幅が1500mmピッタリ!
フックで吊ってるだけなので、板は外して、バリケードは折りたたんで運搬できます。これなら違う部隊をやる時も使えて経済的^ ^
あと各種CIDG階級章も制作。実物の詳細な画像は見たこと無いので、50年代のフランス軍階級章を参考に作りました。
ただし作っておいてなんですが、実はこのCIDG階級章は、具体的にどれがどの階級を示す物なのかはまだ確認が取れていません。
上は関連性があると思われるベトナム共和国・フランス・クメール(カンボジア)各国陸軍の階級章ですが、CIDG階級章と配色パターンが同じなのは二種(一等兵と一等伍長)のみで、他は使われていないパターンなんです。
僕が確認しているCIDG独自の階級章は4種類だけなので、以前載せたこの資料に照らし合わせると、おそらく1962年~1968年まで使われたものに該当すると考えています。
1968年以降は階級制度がベトナム共和国軍とほぼ同一になっているので、ベトナミゼーションの影響でCIDGが正式にLLDBの子部隊となった事で、階級や給料制度もベトナム共和国軍に統合されたのではないでしょうか。
しかし、まだこれ以上の情報をつかめていないので、引き続き調べていきたいと思います。
2015年08月26日
CIDG階級章
引き続き来月のナム戦イベントに向けて
前回の記事でチラッと書きましたが、CIDG部隊(民事戦闘団 / Lực Lượng Dân Sự Chiến Đấu)では当時、ベトナム共和国軍とは異なるCIDG独自の階級制度および階級章が使われていました。CIDGはベトナム共和国軍LLDB(特殊部隊)に所属する大規模な戦闘部隊ですが、『民事』の名の通り、彼らは正規のベトナム共和国軍とは異なる民兵という扱いでした。ただしCIDGと同様にベトコンからの村落防衛を目的とした民兵組織は他にも内務省民衛隊(1965年に陸軍部隊に昇格、義勇軍に改称)、人民自衛団(NDTV)、農村開拓団(XDNT)などがありましたが、CIDGが他の民兵と最も異なる点は、彼らがサイゴン政府の管理下にない少数民族および宗教軍閥のベトナム人で構成されていたことでした。その為CIDGの指揮は1961年から1968年までベトナム共和国軍ではなく、外国軍である米軍グリーンベレーおよび豪軍AATTVが担っており、CIDG兵士への給料もCIDG計画を主導するCIAの予算から出されていました。こうした経緯から、CIDGでは独自の階級制度が制定されたようです。
しかし、これらCIDG階級章の存在は欧米のマニアの間でもほとんど知られておらず、詳しい情報がまったく入ってきません。インターネットが発達した昨今ではCIDG階級章が使われている当時の写真なんていくらでも見つける事が出来ますが、どこの国でも所詮『ナム戦マニア』が興味あるのはアメリカ兵のみなので、CIDGに関する事柄は見事にスルーされていますね。
▲CIDGの階級制度について (Mobile Strike Forces in Vietnam 1966-70, Gordon Rottman 37頁)
僕が知る限り、書籍で紹介された唯一の例
そんなCIDG階級章ですから、実物もリプロも入手できる見込みはありません。
なので、自分で作る事にしました。
ただし、当時の写真しか資料と呼べるものが無いので、細部は想像でやるしかありませんでした。
試作第一号(自分用)完成。
それっぽくは成ったかな。
もしかしたら世界初のリプロかも?
Posted by 森泉大河 at
22:26
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2015年08月24日
マイクフォースのパッチについて
前記事に引き続き、来月のナム戦イベントに向けてマイクフォース熱が急上昇しております。
『第2回かめナベ会』
日時:2015年9月12日~9月13日
ただし、マイクフォース(MSF)の軍装については長年腑に落ちない部分を引きずっていました。
何が気に入らないかと言うと、これ↓
米軍5th SFGAベテランで組織されたMike Force Associationが、ノースカロライナ州フェイエットビルに建設したマイクフォース記念碑の一部です。
まぎれもなく元マイクフォース付きSF隊員本人たちによって作られたものであり、詳細な情報の少ないCIDG系資料としては第一級の信頼度だと思っていました。(過去形)
またパッチと部隊の組み合わせについては、国内外のディーラー・コレクターもここに記されたパターンと同じ認識を持っており、現在もなお定説となっています。
しか~し!当時の写真をよく調べると、実はこの定説に当てはまらないパターンが大量にあることが分かります。
日本の軍装マニアが崇拝する『洋書』も、僕の知る限りこの謎に明確な答えを出している本はありません。
これは当時パッチ以上に多用されたCIDG用階級章についても同じ事が言えます。
CIDGを愛する者として、もはやこの問題は無視できないので、この際一から調べなおす事にしました。
そんで、部隊名が判明しているマイクフォースの画像を可能な限り集めて分析しました。
その結果、実際にマイクフォースで用いられたパッチの組み合わせは、以下の図のようになる事が分かりました。
※2017年7月30日
内容を改定した記事を新たに投稿しました。
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これは変り種ですが、II CTZ MSFでは、イーグルフライト小隊のみ別のパッチを使っています。
イークルフライトは2nd MSFC編成前の1965-1967年に存在した、マイクフォースの元祖にあたる最初の空中機動CIDG部隊です。
1967年までにII CTZ MSF 第21~23MSF中隊の三中隊がイーグルフライト小隊で構成されていました。
▲II CTZ MSF イーグルフライト小隊
以上がマイクフォースのパッチとして広く知られている5種ですが、実はこの後に新たなパッチが制定されます。
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1968年に米軍の撤退開始・ベトナム共和国軍への権限委譲を進める『ベトナミゼーション政策』が開始されると、マイクフォースも改編の対象となりました。
それまでマイクフォースやMGFといった各CIDG部隊は形式的にはベトナム軍LLDBの部隊でありながら実際の運用は米軍5th SFGAが担っていましたが、ベトナミゼーションによってCIDGの指揮権が段階的にLLDBに移譲されていきました。
そして1968年10月16日、LLDBの子部隊であることを意識した『虎にパラシュート』のデザインのパッチが、新たにマイクフォース全部隊共通のパッチとして制定とされました。
▲II CTZ MSF (20th MSFC 第4MSF大隊)
従来のCTZ・MSFC部隊章は廃止されず、MSF全体を示す部隊章として併用された
▲IV CTZ MSF (40th MSFC)
▲II CTZ MSF (20th MSFC 第4MSF大隊)付きのLLDB一等中士(一等軍曹)
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ベトナミゼーションはその後さらに進み、米軍5th SFGAがベトナムから撤退したことでCIDG計画は終了します。
まもなく5th SFGAと合同でCIDG計画にあたっていたLLDBも解隊され、第81空挺コマンド群およびNKT作戦局コマンド『黒龍』として再編されました。
これによってマイクフォースを含む全CIDG部隊の指揮はLLDBからBDQ(レンジャー)へと移管され、1970年に国境レンジャー(BDQ-BP)として再編成されます。
そしてBDQの一部隊となったことでCIDG独自の徽章は廃止され、二度と復活することはありませんでした。
▲1970年以降のBDQ-BP部隊
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現状で僕が把握できているのはここまでです。
マイクフォースの写真は探せば沢山出てきますが、上記のようにII・III・IV CTZ MSFは同じパッチが使われていたので、キャプションにどの部隊か明記されていないと資料として使えないので困っちゃいます。
逆に言うと、一つのパッチで複数の部隊を演じられるんだからコスプレ的にはお得ですね。
けれど、こんなに書いておいて難ですが、個人のコスプレではなく集団で行うリエナクトメント的に考えると、一番良いのは服に『何もつけない』だと思ってます。
それはマイクフォースに限らず、米軍の陸軍・海兵隊歩兵部隊も一緒。だって当時はパッチ付けてない人の方が多いんですもん。
しかも、それなら「〇年〇月の〇〇の戦いを再現」と言われても、服を変えずに参加できますし。もちろん、設定が変わる毎に上着を新調するのも良いと思います。レプリカのTCUなんて5000円以下で買えますし。
そもそもリエナクトメントって本来、時間と場所を指定してタイムスリップ体験を行うもののはずなんですけどね。
そういう意味ではナム戦ヒストリカルイベントは日本でも海外でも、チームごとの設定の統一や分隊行動の再現を目指している所はあれど、全体(主催・参加者の総意)としてはまだコスプレ見せ合い会の域を出ていないんですよね。
いつかやりたいな、ちゃんとタイムスリップできるイベント。
Posted by 森泉大河 at
21:03
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2014年04月18日
素晴らしきYoutube動画
※2024年4月13日更新
最近Youtubeに上がってるベトナム戦争期の記録映像がマジで素晴らしい!
今まで何千枚も当時の写真を見てきたのに、初めて見るような映像が次から次へと出てきます。
また写真では分からない、兵士の動きや雰囲気も動画ならビンビン伝わってきますねぇ。サイコーです。
今回はその中から、つい見入ってしまった興味深い動画をいくつかご紹介します。
PRU(1968年8月31日)
南ベトナム領内で村落探索をしているアメリカ陸軍第1歩兵師団第18歩兵連隊第2大隊を記録した映像ですが、なんと南ベトナム軍(正確には省政府が所管する準警察部隊)のPRU(Đơn Vị Thám Sát Tỉnh, 省探察隊)が同行し、通訳や捜索の指導をしていました。PRUの動画なんて初めて見ましたよ。
確かに米軍の一般歩兵部隊は対ゲリラ戦に関しては素人なので、グリーンベレーに一から特殊作戦を叩き込まれたPRUが、オブザーバー兼通訳として歩兵部隊を指導するのは理にかなっていますね。
なお、PRUやプロジェクト・フェニックスは『CIAが雇った殺戮部隊』などイメージ先行の誇張した内容で語られがちですが、実際の活動は1961年以来ベトナムで幾度となく行われてきた典型的な対ゲリラ作戦の一つに過ぎないと僕は考えています。
なので、PRUは秘密傭兵部隊などではなく、れっきとした政府軍の地方部隊の一つです。逆に言えば、プロジェクト・フェニックスと同等の掃討作戦が十数年間もの長きに渡って繰り返されたのがベトナムという戦場でした。
この部隊の目的はCIDG部隊とまったく同様(※)で、ベトコンの活動が疑われる地域に政府軍部隊が村落単位で駐屯し、その地域の防衛・防諜を担うと同時に、医療支援等の民事心理戦を行って住民をサイゴン政府側に抱き込む事を目的としていました。
こうする事によって、住民に対しベトコンへの関与があれば容赦なく攻撃するという脅しになると同時に、住民自身にサイゴン政府への帰属・自衛意識を芽生えさせてベトコンを密告させる等、敵に浸透する隙を与えない体制作りが作戦の肝と言えます。
これはまさしく、CIA・グリーンベレーが指導する対ゲリラ作戦の典型であり、ベトナム以外でも韓国や中南米、ラオス、タイでも成果を挙げた効果的な戦術でした。
※そもそものCIDG計画はこのように国境地帯の村落の防衛のみを目的としており、マイクフォース等の大規模な戦闘部隊への発展は後になって考案されたものでした。
LLDB訓練センター (1970年6月23日)
テコンドー道場
当時南ベトナムは韓国と強い同盟関係にあり、軍の徒手格闘訓練にも韓国から伝わったテコンドーを取り入れていました。
胸に太極旗をつけた黒帯のインストラクターは韓国人のようですが、韓国軍アドバイザーなのか民間のテコンドー指導者なのかは未確認です。
特筆すべきはLLDB隊員の道着で、左胸にLLDB部隊章、右胸に青地のネームテープが縫い付けられています。超カッコイイ!
CIDGへの訓練
上のテコンドー道場と同じくLLDB訓練センターで撮影されたCIDG部隊の訓練の様子。
背中側につけたアーモポーチが重さで揺れないよう、ポーチのベルトをサスペンダーに引っ掛けていますね。
また、帽子の内側が、ブリムの端の部分までレスキューパネル代わりのオレンジ色の生地になってて珍しいと思います。
CIDGへの徒手格闘訓練
LLDBによるCIDGへの訓練風景。LLDBとCIDGの関係がよく分かる動画だと思います。
CIDGは初めからLLDB所管の部隊であり、グリーンベレーはあくまでLLDB付きのアドバイザーという体でCIDGを指揮していました。
トゥドゥック歩兵学校(1971年10月)
トゥドゥック歩兵学校(Trường Bộ Binh Thủ Đức)における野戦訓練の様子。
校名は歩兵学校ですが、実際には陸軍の予備士官学校です。詳しくは過去記事『陸軍予備士官候補生(SVSQTB)』参照
ドンデー下士官学校(1971年10月)
ドンデー下士官学校(Trường Hạ Sĩ Quan Đồng Đế)における訓練の様子。
助教のヘルメットのマーキング、側面は見えるけど正面の図柄が未確認なので気になります。
婦人兵学校(1966年)
婦人兵学校(Trường Nữ Quân nhân)で教鞭をとるアメリカ陸軍WACアドバイザーを取材した映像です。
ベトナム人の女性教官が婦人兵学校のパッチをつけているのに注目!実際にこのパッチが使われてるの初めて見ました。
婦人兵学校の部隊章
この他にも、非常に良い映像がまだまだ山ほどありました。
今後もぼちぼち載せてみようかと思います。
Posted by 森泉大河 at
19:16
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2013年10月18日
NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[1]
※2022年10月22日更新
特殊作戦のはじまり(1956~1963年)
1956年2月、ベトナム共和国総統ゴ・ディン・ジェムは、かつてフランス軍の特殊部隊である第11強襲空挺大隊が設立し、ジュネーブ協定後はニャチャンに移転していたGCMA(混成空挺コマンドグループ)のコマンド学校を、編成が待たれる南ベトナム軍特殊部隊の訓練センターとして再建するよう命じた。これを受けて米軍MAAG(軍事支援顧問グループ)の支援の下、最大100名に体力練成・コマンド訓練を施せる大規模な訓練センターが建設された。このニャチャン訓練センターはベトナム共和国軍総参謀部・研究教育局(Nha Tổng Nghiên Huấn)の管理下に置かれた。
1956年末、ジェム総統は米国CIAの要請により研究教育局を解隊し、新たに南ベトナムの情報戦・防諜戦略を担う情報機関"社会政治研究局(SEPES)"を設立した。SEPESはチャン・キム・トュエンを局長とし、フエの他、国外のビエンチャン、プノンペン、バンコク、クアラルンプール、シンガポールにも支局を有した。また、その人員の採用、コマンド訓練を行う"総統府連絡部(Sở Liên lạc Phủ Tổng thống)"も設立され、CIAより資金・作戦の支援を受けて活動を開始した。総統府連絡部は、総参謀部の指揮系統に属さないジェム総統直属の機関であり、研究教育局司令・副指令だったレ・クアン・タン中佐とチャン・カク・キン大尉(当時)は新たに総統府連絡部司令・副指令に任命された。タン中佐は南ベトナム軍空挺将校であり、同時にジェム総統の熱烈な支持者であった。また同部のメンバーの多くは、北ベトナム領内での活動を考慮してベトナム北部出身者が選ばれた。
Posted by 森泉大河 at
02:10
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2013年09月07日
CIDGの人々
※2022年6月28日更新
ベトナム戦争中、アメリカCIAが主導して南ベトナム領内に住む少数民族に軍事教練を施し、反共戦力として活用する
CIDG (Civilian Irregular Defense Group/民間不正規戦グループ) 計画を実行したことは、けっこう有名だと思います。
ただ、具体的にどういう人々がCIDGに参加していたか、そしてその計画がどういう終わり方をしたかについては意外と語られていないので、
簡単にまとめてみました。
Posted by 森泉大河 at
18:31
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