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2022年07月21日

ViLT6級合格

6月に受験した実用ベトナム語技能検定試験(ViLT)の結果が、今日届きました。
6級・準6級ともに合格です!!!

やった~!!!


実用ベトナム語技能検定試験には1級から準6級まであり、今回合格した6級のレベルはこんな感じ。



前記事でも書いたように、6級は僕にとってまだ難しい問題も多く、半分くらいしか解けた気がしなかったのですが、届いた得点結果を見てみると、意外にも筆記問題は7割取れてました。
リスニングはもっと自信なかったのですが、こちらもなんとか合格ラインの6割を超えてくれてました。(運もあると思います。)



僕はもともと、趣味を通じてほんの少しだけベトナム語の知識があったとは言え、実際にはごく基本的な単語も文法も知らない状態でした。
そんな状態からオンラインレッスンに申し込んで本格的に勉強を始めたのは今年の4月からですから、試験までの勉強期間は2か月ほどしかありませんでした。
またレッスンを始めた当初はそもそもこの試験の存在すら知らなかったので、勉強もこの試験を目標としていた訳ではなく、単に腕試し程度の気持ちで受験したのですが、意外にも一発で受かってしまいました。
これもひとえに、丁寧にレッスンをつけて下さった先生方のお陰であり、感謝でいっぱいです。

Xin cảm ơn các thầy cô nhiều ạ 


  


2022年06月19日

ベトナム語技能検定試験を受けてきました

以前こちらの記事で、今年の4月から本格的にベトナム語の勉強を始めたと書きましたが、そのレッスンの中で先生から実用ベトナム語技能検定試験を受けてはどうかとお話がありました。
当初は、ただベトナム人の友達と会話できるようになりたいという気持ちだけでレッスンを受け始めましたが、せっかく勉強しているのだから試しに受けてみようという気持ちになり、さっそく試験申し込みと過去問集を購入。
そして今日、6級と準6級を受験してきました。

 


試験を終えた感想としては、準6級はほとんど余裕をもって回答できたので問題無さそう。と言うか、のべ90回もレッスンを受けててこれに落ちてたら恥ずかしくて先生たちに顔向けできません。
問題は6級。6級から急に問題が難しくなるので、過去問やってる段階で、合否は半々な感じがしてました。特にリスニングと長文読解はまだ僕には難しく、結局半分くらいは運任せで適当な回答をマークしました。
ただし合否基準はリスニング・筆記それぞれ65%なので、運が良ければ合格点に達しているかもしれません。
結果発表は7月下旬だそうですので、結果が出たら報告します。

ちなみに僕が使っている教材はこちら。


オンラインレッスンで使っている教材

試験対策

実のところ、ベトナム語技能検定の6級の段階では、文法は簡単なものしか出でこないので、文法の面では『ベトナム語レッスン初級1』だけでカバーできてしまう気がします。
ただしベトナム語技能検定に出題範囲というものが存在せず、テキストの中から出題される訳ではないのが、この試験の難しいところ。
特に単語に関しては、手持ちのテキストには出てきていないものも試験に出題されるので、突然現れる新しい言葉にいちいち思考停止してしまいます。。。

写真にある『ベトナム語が面白いほど身につく本』は、僕が本格的なベトナム語学習を始める前に買った本で、内容的には初歩中の初歩ですが、要点がまとまっいて分かりやすい便利な本です。
オンラインレッスンを始めた後も、自分でベトナム語の文章を書く時などは、テキストよりもこちらの方が使い勝手が良かったりします。

あと昔、話のネタとして買ったのがこちらの『男と女のベトナム語会話術


ナンパに始まりエロトークや卑猥な単語集も収録されてるので、ベトナム人男性に見せると毎回爆笑を取れる優秀なネタ本です。
ただし当のベトナム人が言うには、「こんな言い方しないよ」という変な例文がけっこう多いそうです。
また例文には日本人向け(=ベトナム人ネーチャンをナンパするため)にカタカナが振ってありますが、実際にはベトナム語をカタカナ読みしても99%通じないので、例え全ての例文を暗記しても、その発音が正しくなければ一つも言葉として機能しません。
また相手の言葉を聞き取り理解できなければ、会話も成り立ちません。
結局は地道に、ベトナム語の発音とリスニング、語彙という基本的な会話能力を身に着けるしかなさそうです。


  


2022年05月20日

最近やってること

なんだか最近、興味がミリタリー趣味から離れていて、この2か月くらい新たな買い物や調べ物はしていません。

そのかわり本腰入れてベトナム語を勉強する事にしたので、ほぼ毎日オンラインレッスンを受講しています。


レッスンのあとは、1時間くらいかけて習った内容や新しい単語をノートにまとめています。
こんなにまじめに勉強したのは中学校以来です。
(中学の時、僕はテストで学年2位、かつ生徒会長という人生の絶頂期でした)

その中学時代に英語をまじめに勉強したおかげで、大人になってからも英語に関しては独学でどうにか話せるレベルになれたので、英語学習のためにお金を使ったことはありませんでした。

しかしベトナム語に関しては英語のように基礎を学んだ経験が無いため、6年くらい前にテキストを買って独学で学ぼうと試みたものの、すぐに挫折してしまいました。
また、僕が今まで付き合いがあったベトナム人は皆、日本語か英語を話せたので、ベトナム語を使わずともコミュニケーションが取れました。それもベトナム語学習をサボってきた要因の一つです。

しかし3月のベトナムロケで出会い、一緒にベトナム各地を回った仲間たちはベトナム語しか話せなかったため、英語を話せるベトナム人の監督にその都度通訳してもらわないと全くコミュニケーションが取れない状態でした。
みんなベトナム語で楽しそうにおしゃべりしてるのに、僕だけずっと黙っているしかなく、とても寂しかったです。
また、店でコーヒーやタバコ一つ買うにも毎回監督に通訳してもらう必要があり、これについては十年以上ベトナムを趣味としてきた人間として、なんと情けない事だろうと自分を恥じました。
(僕の感覚では、ベトナムの店員の9割は簡単な英単語も全く通じない)

こうして僕はこの旅で本当に悔しい思いをしたので、日本に帰ったら速攻で外国語学校にベトナム語のレッスンを申し込んだ次第です。
なのであの旅は僕にとって一言で「楽しかった」と言えるものではなかったのですが、こうしてベトナム語学習に奮起するきっかけになったので、結果的には僕にとって大きな意味のある旅になったと感じています。


またベトナム語以外では、家でずっとYoutubeでゆっくり解説系動画を観ています。
僕は昨今のインターネット文化が苦手なので、ツイッター等のSNSはおろか、人が何かやったり話してる動画もなんだか鼻について不快なので全く観ないのですが、ゆっくり等の合成音声系だけは人間の声ではないので不快に感じることなく受け入れられました。

僕が好きな合成音声系チャンネルはこちら
へんな生き物や面白い動物について解説

SF系アニメ・映画の紹介や解説

世界史にまつわる事件・人物を解説

神聖ローマ帝国やモンゴル帝国の歴史

科学に関する疑問など

ガンダムの解説・考察


最近は、夜こういう動画を観ながら寝落ちしてしまい、朝まで動画が自動再生で流れっぱなしという事も少なくありません。
部屋の電気を消して布団に入ると眠れないのに、動画観てると自然に眠くなるのは困ったものです。
  


2022年04月25日

BGIと飲料ボトル

※2022年8月5日更新

今年3月のベトナム訪問の話に戻りますが、今回の旅は動画撮影ロケがメインだったので、個人的にミリタリー物を買いに行く時間はなかったです。
しかし現地で友人に紹介してもらった歴史アイテム収集家の人から、知り合った記念にと、ベトナム共和国時代のBGI社製飲料ボトルを3本プレゼントして頂いちゃいました。


BGIの歴史

『BGI (Brasseries et Glacières d’Indochine:インドシナ醸造・冷蔵)』は、1975年までベトナム共和国国内でトップシェアを誇る大手飲料メーカーとして君臨した企業です。
BGI社の始まりは、インドシナ諸国がフランスに征服されてから間もない1875年にフランス人のヴィキトール・ラルー(Victor Larue)がサイゴンで創業した醸造所であり、この醸造所がベトナムで最初のビール工場とされています。
そしてラルー1927年に同地でBGI社を設立し、以後ビールや清涼飲料、氷、アイスクリームなどを主力商品としてインドシナで事業を拡大していきました。
BGIの製品として特に有名なのがビールのバーバー(33)とラルー(Larue)で、この二つのブランドは戦争や事業再編を経た現在でも製造・販売されている人気商品です。
BGIは知らなくとも33 / 333ビールは知っているという人はかなり多いのではないでしょうか。
ちなみに発売年で言うと、ラルーはBGI創業前の1909年、バーバーは第2次大戦後の1949年に発売されています。

歴史を見ても分かるようにBGI社はフランス資本でありながらベトナムに根付いた企業であり、BGI社は第一次インドシナ戦争を経て1955年にベトナム共和国がフランス連合を脱退した後も、1975年まで現地で営業を続けました。
1975年以前のベトナム共和国時代を生きた人々にとって、BGI製のビールや清涼飲料はごく身近な生活の一部であったそうです。

▲BGIサイゴン営業所





ベトナム統一後

しかし1975年、北ベトナム軍の侵攻にサイゴンが陥落し、ベトナム全土が共産主義化されると、旧ベトナム共和国内の全ての企業・資本は共産主義に則り解体、国有化されます。
BGIも例外ではなく、ベトナム国内のBGIの会社組織は完全に解体され、その製造施設は1977年に創設された国営の『サイゴン・ビール工場(Nhà máy Bia Sài Gòn)』へと引き継がれました。

時は流れて1985年、サイゴン・ビール工場は、かつてのBGIの主力ブランドである33ビールの国内外での人気を背景に、この33ブランドを継承するビールとして『333』を発売します。
さらにドイモイ政策以降、サイゴン・ビール工場は事業を拡大し、現在はサベコ(SABECO:サイゴン・アルコール・ビール・飲料総合会社)という社名で、引き続き333ビールを含む各種飲料を製造販売しています。

※ちなみにベトナムのビールというと日本では333が有名ですが、実は今のベトナムでは落ち目。少なくとも僕が行った事のある飲食店で333が置いてあるのを見た記憶はありません。

またハイネケン・グループが1991年にベトナムに進出し、ハイネケン・ベトナム社が創立されると、同社は1995年に、BGI創業者ヴィキトール・ラルーの名を冠し、かつて33と双璧をなした人気ブランド『ビアー・ラルー(Biere Larue)』を復活させました。
(1975年から1995年の間に何らかの形でラルーのブランドが存続していたか否かはまだ確認できていません。)

一方、BGIは元々フランス資本の企業のため、ベトナム戦争終結後もベトナム以外での事業は存続しました。
ベトナムを含むインドシナ諸国の営業所を全て失ったため、社名は1975年に『Brasseries et glacières internationales (国際醸造・冷蔵)』へと変更されましたが、略称は変わらずBGIであり、現在ではアフリカ大陸で大きなシェアを持つ大手飲料メーカーの地位を保っています。
またドイモイ政策以降、BGIはベトナムにも再進出しており、数十年の時を経て再びベトナムの地で『BGI Beer』などのビールを製造販売しています。



ベトナム共和国時代のBGI飲料ボトル

①ビアー・ラルー(Biere Larue)

サイゴン・ビール工場の展示を信じるなら、このボトルは遅くとも1965年には登場していたそうです。(参考サイト:NGƯỜI ĐÔ THỊ ONLINE)
またこのように瓶に直接プリントされたもの以外にも、紙製ラベルのものも存在しました。


▲1975年以前のラルーの広告看板


②コン・コップ(Con Cọp)
コン・コップ(虎)はアルコールではなく、清涼飲料(ソフトドリンク)です。
実物を飲む術が無いので、どんな味だったか気になります。


コン・コップのボトルは2本もらい、それぞれデザインが異なっています。


瓶だけなら簡単に手に入るけど、蓋つきはけっこうレアかも。

1975年以前のコン・コップの広告

ドリンク屋台で売られるコン・コップ [1967年ニャチャン]


今回はビールの話が多かったですが、僕自身はお酒がとても弱いので、ほとんど飲みません。
付き合いで仕方なく1杯程度なら飲むこともありますが、基本的には飲みたくありません。
今回の旅でも、仲間のうち、僕以外=ベトナム人は毎晩、午前3時・4時まで飲んでいたので正直困りました。
これは日本でも同じだけど、酒が飲めないというだけで仲間外れ感をすごく感じます。
ますますアルコールが大嫌いになりました。
  


2022年01月02日

陽暦節2022

明けましておめでとうございます。
また今年も元日に、いつものベトナム寺に陽暦節の初詣に行ってきました。



お寺でふるまわれる精進ブン(米粉麺)には、お好みで唐辛子の調味料を入れることができるのですが、この調味料が異様に辛いです。なんか辛み成分が濃縮されている感じで、見た目の数倍辛いです。
僕はいつも控えめに入れているつもりなのに、それでも辛くなりすぎます。今回もつい入れ過ぎてしまいました。
なのでこの日は気温5℃で風も強く、器を持っている手は凍えているものの、額だけは汗をかきながら食べることとなりました。



年末に作った物の続き

友人に着用してもらうため、MACVハンガーバッジに続き、ベトナム軍の上級降下章(Bằng Nhảy Dù Cao Cấp)も製作しました。
降下章については過去記事戦技系技能章』参照

まず手持ちの降下章(基礎)レプリカをおゆまるで型取る。



型にプラリペアを流し込むと同時に、太さ1.2mmのステンレス針金を足として埋め込む。
また今回は上級降下章なので、上級を示すヤシ葉のデバイスをエポキシパテで自作。



ヤシ葉をくっつけて塗装したら完成!



あまり出来の良くないレプリカからの複製なので見苦しい点はありますが、コスプレ用の間に合わせとしては見れるレベルかなと。

  


2020年10月02日

庚子中秋

今日は中秋なので、久しぶりにお月様の写真を撮りました。


ベランダの 物干しの先に 十五夜の
名月 鈴虫 ヤブ蚊の音


こんな感じで今年の中秋節は一人寂しく過ごしておりますが、
去年、一昨年は楽しくお祝いできたので、ちょっと振り返ってみます。

2018年

日本在住ベトナム人協会の中秋節祭のお手伝い(主に荷物運び)


2019年


夕食後、僕の生徒の技能実習生たちを、誰かが問題を起こして全員怒られるような深刻な雰囲気を出しながら食堂に集め、
「うっそー!チュントゥー(中秋)パーティーだよ~ん!!」とサプライズ開催。
インドネシア人の子には馴染みが無い文化だけど、何であれパーティーは楽しいので、一緒にカラオケで盛り上がりました。

あれから1年。次々入れ替わる生徒たち全員とつながりを維持するのは無理だけど、一部はFacebook経由で近況を聞いています。
ある人は「当たり」な会社に入って時々観光しながら貯金して、楽しく過ごせてたり。
ある人はブラックな建築現場で日本人上司に日々罵声を浴びせられ日本が嫌いになりつつも、一方で日本人女性をナンパして恋人になってたり。

そういうのを見てきて、僕も考え方が少し変わってきました。
以前は「困っている人の力になりたい」というシンプルな動機で色々首を突っ込んでいましたが、
その結果、自分ごときが他人の人生をどうこうするなど不可能であり、
「救ってやる」なんて考えはとんだ思い上がりだった事に気付かされました。

まぁそれでも、国際貧困ビジネスで暴利を貪る国内外の悪党ども、
特に自国民を売って儲けた金でカリフォルニアの不動産投資に勤しむハノイのウジ虫どもを許す気は無いので、
外国人技能実習制度の暗部については、聞かれたらいくらでもペラペラ喋りますよ~。
  


2020年01月03日

2020年陽暦節

新年あけましておめでとうございます。
今年も例年通り、日付が変わると同時に地元の氏神様をお参りし、お昼にいつものベトナム寺にも初詣に行ってきました。



2020年陽暦節 / Google Photos


お寺の公式チャンネル




東アジア・東南アジア全域で広く親しまれており、ベトナム語では「ムアサップ(Múa Sạp)」と呼ばれる、
リズムに合わせて竹の間をケンケンパする遊びを僕も友人とやってきました。
僕はこの遊び、たぶん保育園時代にやって以来です。
今年のテト(元旦節)は1月25日と早いから、あと3週間もすれば、またお正月が来るんですよね。

僕がこのお寺に初詣に来るようになって今年で8年目ですが、年々参拝者も増え、飾りも豪華になっていきますね。
でもこれは、手放しで喜べることではありません。
つい10年前まで、日本に住んでいるベトナム人のほとんどは、インドシナ難民として来日した1万人足らずでした。
ところが近年、日本政府は「人手不足だから(=日本人の給料上げる気はないだけ)」と、なりふりかまわず技能実習生という名目の出稼ぎ労働者を年間8万人呼び込み、留学生がバイト漬けになる事を最初から見込んで労働力確保のために留学ビザを発給しまくり、ついに在日ベトナム人の数は35万人を超えました。
日本という国は、もうベトナム人無しにはやっていけない国なっています。日本政府が、そうしてしまいました。
でもはたして日本社会は、ベトナムの事をどのくらい分かっているんでしょうかね。
僕は、たまにはベトナムの明るい面も見ておきたいので度々このお寺に参拝しておりますが、そうでもしないとマジで関わるのが嫌になるくらいベトナムには暗い面が沢山あります。
本当にベトナムを理解するのであれば、「ベトナムの人々は貧しくても心は豊か」などと言う日本人特有のアホな幻想を捨てて、60年以上続くベトナム共産党独裁政権の下で庶民から政府レベルまでモラル・道徳が荒廃した現在のベトナムの実態にもっと目を向けるべきだと考えます。
その辺は僕の別ブログベトナムウォッチ』で記事にしていますので、是非ご高覧下さい。



そして三が日最終日、こちらの初詣にも。

ラーメン二郎越谷店 ラーメン小「ニンニク、アブラ」で今年の二郎お食い初め。


  


2019年07月09日

主にタイ、一部ベトナムな週末。

タイの軍装マニア友達がまた来日したので、2日間一緒に遊んできました。
なんか彼とは、最近は半年に一回くらい会ってる気がする。

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1日目 横浜

お昼に合流して新横浜ラーメン博物館でお昼ご飯

ラーメンを食べ終わり外に出ると、友人がTVの街頭インタビューに捕まる。
外国人に漢字を書いてもらう企画のやつ。

加えて、TV局のお姉さんが彼にいろいろ質問する。
「なぜ日本に来ましたか?」、「どのラーメンが好きですか?」
そして最後の質問「日本のどこに興味がありますか?」

彼は慎重に言葉を選びながら
「う~ん... 歴史とか...」と口を濁して終了。
お姉さんは、期待していた観光客っぽい答えを得られなかったので、少し残念そうにインタビューを終えました。

インタビューの後、僕は彼に言ってやりました。
「正直に『大日本帝国陸軍です!』と言っちゃえばよかったのに(笑)」
彼 「いや、やばいっしょ~(笑)」

普通のガイジンの振りをするのも大変ですね。
気を取り直して、みんなで『抜刀隊』を歌いながら次の目的地に移動。
※僕は今は日本軍マニアではありませんが、一応、中高生の頃はそっちもかじっていたので、多少わかります。


キリンビール横浜工場を見学。見学の最後にビールを三杯まで無料で味わう事が出来ます。
見学無料、ついでにビールにおつまみまで無料と来て、みんな「なんでそんなに太っ腹なの!?」と本気で驚いていました。
「これタイにあったら、タイ人毎日来て大行列だよ」って言ってます(笑)


神奈川県庁や赤レンガ倉庫周辺を散策。
みんなレトロな街並みを見て、案の定、『檄!帝国華撃団』をで歌いながら歩く。
ほんとサクラ大戦好きね~

みんな、みなとみらいの事は知らないようだったので、
「ああ~!わかった!」と一発で理解してもらえました。


夜は中華街で夕食。
2,000円で食べ放題の店でたらふく食う。
調子乗って注文しすぎ、苦しくてちょっとテンション下がるくらい食べ過ぎてしまいました。


2日目 東京

有楽町でショッピングと食事して、日比谷公園に移動。


途中、某所で上半身だけコスプレ撮影会が始まってしまった。
こんな所でやるなんて聞いてなかったよ(汗)
さすがに鉄砲持つわけにはいかないので、陸軍報道部と言う設定だって。
とは言え場所が場所だけに、大急ぎで撮って撤収させました。
隣の〇の内署が建て替え工事中だったのは本当にラッキー。


日比谷公園を散策し終えたところで、僕は前々から別のグループのフットサルに行く約束があったので、ここで皆とお別れ。
今回は1日半と短い時間しか一緒に遊べなかったけど、まぁ、どうせそのうち、日本かタイでまた会う事になるでしょう。


新宿に移動して、月一で開催されている、日本在住ベトナム人のフットサル交流会に参加。今回は20名近く集まりました。
僕のスポーツマンっぷりをアピールしたいところだけど、残念ながら煙草で肺をやられているので、まともに体が動く時間は3分が限界。
もう、すぐに足がもつれて転びそうになるので、日本在住歴40年超えの長老にバトンタッチして、僕は2/3くらいピッチの外で休んでました。
でも暇そうにしてたら、僕の一歳年下で同じくメタボに危機感を抱き始めた友人から、一緒に腹筋やろうと言われたので、ピッチの外で腹筋してました。
久しぶりの運動だったので、翌日は足だけでなく腹まで、仕事やる気にならないくらい、重度の筋肉痛になってしまいました。


フットサルのあとは大塚のベトナム料理屋で飲み会。
今回初めて会った人たちとも友達になりました。
みんな、「タイガーさん早くベトナム人の彼女つくってよ!」と言ってくるので、
「うるせー!がんばってるけど毎回フラれるんだよ!」と答えてたら、
次第に店員の女性の方も混ざって、僕のためにベトナム人女性の口説き方講座が始まりました。
ただし、その講義をしている男たちも全員独り身。ああ、悲しい。
  


2019年01月14日

年明けの近況

だいぶ時間が開いてしまいましたが、あらためまして、皆さまあけましておめでとうございます。
年末年始はなにかと忙しくて、例の軍装ガイド「ベトナム共和国軍軍装史」は可能な限り進めるようにしていましたが、他の趣味関係は何もしないまま元日から二週間も経ってしまいました。


ベトナム軍装史

ベトナム軍装史については、去年、「なんとか年内に完成させる」と宣言しましたが、結局完成には至りませんでした。待っていただいている方には本当に申し訳ありません。
言い訳になりますが、この本ではインドシナに復帰したフランス植民地内にベトナム人部隊が再組織された1945年から、共産軍がサイゴンを占領してベトナム共和国政府が滅亡する1975年までの30年分の携帯火器・個人装備を網羅する事を目標にしています。
また扱う部隊の範囲も陸軍正規部隊だけでなく、フランス軍内のベトナム人コマンドからMACV-SOG指揮下のNKTコマンドも含めているので、イラスト化すべき物品があまりに多すぎて、そもそも年内完成という見通しが甘すぎました。
(特殊部隊の装備は別の号にしようと何度も考えましたが、SOGがNKTに支給したSTABOやV40グレネードなどいかにも特殊部隊っぽい装備の多くが、実は1970年代に入るとベトナム陸軍の一般部隊でも使われるようになっており、確実に「特殊部隊限定」と言えるような装備などほとんど無い事が分かってきました。そのため一冊にまとめざるを得ないのです)
以下、現状でほぼ仕上がってるページをすこしチラ見せいたします。

  
あれもこれもとアイテムを書き足しているうちに現状でページ数が39ページにまで増えてしまいましたが、どうせ発表するからには自分自信満足のいくものを作りたいので、ページ数はまだ増える見込みです。


神風航空団パッチ

先日、サイゴンに住んでいる知人から、仲間内でレプリカパッチを作ったから一枚あげると連絡があり、今日そのパッチが届きました。

ベトナム空軍第83特殊作戦航空団『神風(Thần Phong)』です。

神風部隊と言えば空軍司令時代のグエン・カオ・キ少将(後の副総統)が直接指揮し、時にはキ将軍自ら愛機のA-1スカイレイダー攻撃機を駆って出撃した事でも知られる、ベトナム空軍で最も目立っていた航空団ですね。
同航空団所属のスカイレイダーに描かれているノーズアートについては過去記事参照。


ベトナム寺で念仏フルコース

昨年11月に亡くなった恩人の四十九日法要の翌日、ご遺族と一緒にベトナム寺で定例の念仏会に参加してきました。
僕は実家の菩提寺ですら、墓参りに行くだけで本堂に入って拝んだ事の無い不束者ですが、誘われるとなんでもホイホイ付いていっちゃう性格なので、今回ベトナム寺で法衣着てベトナム語のお経を読むことで念仏デビューと相成りました。

何時間読んだか分からないNam Mô Bổn Sư Thích Ca Mâu Ni Phật (南無本師釈迦牟尼仏)

念仏会は9:00~19:00まで、途中休憩をはさみつつ10時間続きました。何時間もお経を読み続けるというのはなかなか体力を使うもので、初めて参加する身としては、けっこう過酷です。
この念仏会は毎週日曜に開催されており、信徒全員が毎週来ている訳ではありませんが、それでも会で知り合った若い女の子ですら、月に一回は来ていると言っていました。
自分は今まで仏教徒のつもりで生きてきましたが、お寺に来てる他のベトナム人信徒と比べると、墓参りと葬式でしかお寺と接点が無い僕なんか、仏教徒と名乗るのが恥ずかしいレベルですわ。
しっかし、このお寺で出される精進料理は全部美味しいです。年配の人が多かったので、余ったおこわを僕が全部平らげましたが、そのせいで午後が眠くてたまりませんでした。
  


2018年11月01日

アオヤイドール

数年前、たまたま立ち寄ったリサイクルショップでベトナム土産らしきアオザイ(南部発音ではアオヤイ)姿の女性の人形を見つけました。僕は本来こういうグッズは集めていないのですが、この時はつい買ってしまいました。だって値段がたったの50円だったので。

お土産品にしては、なにげにノンラー(笠)の構造が凝ってて面白いのですが、見ての通りお顔がいまいち。センスが古臭い。
なので、どうせタダ同然で手に入れた物なので、頭だけ1/6ドールのものに付け替える事にしました。
こうして1/6ドールの女性ヘッドをネットや秋葉原で探してみたのですが、気に入ったものはどれも最低でも4000円以上しました。
「本体が50円なのに頭に4000円出すのか・・・。なんか悔しいな」と思ってしまい、そういった出来の良いヘッドを買う気にはなれず、結局それから数年間放置していました。

ところが先日、実家を掃除していた際に、昔僕の弟がゲーセンのUFOキャッチャーで取ってきたアニメキャラのフィギュアが見つかり、その頭部の大きさがあのアオザイドールとほぼ同じくらいだったので、これを使っちゃうことにしました。
フィギュアの頭部をバラシてみると、顔の部分は案外小さかったので、頭部そのものを付け替えるのではなく、ドール側の頭部から顔面部分を切り取り、顔だけ付け替える事にしました。こうする事で元からあった化繊の黒髪もそのまま生かせます。
人形とは言え頭部から顔面を剥ぎ取る作業はなかなかグロいものがあるので、作業途中の写真は飛ばします。作業と言っても空洞になった頭部にエポキシパテを詰めてフィギュアの顔面を埋め込んだだけですし。

こうして完成したのがこちら。

うん、だいぶ見れるようになりましたね。完成度を上げるのであれば、いかにも安っぽい手の部分を直すとか色々加工すべき点はありますが、もとからそんなに手間をかける気は無かったので、これで終わりにします。


そう言えば2年前に初めてベトナムを訪れた時は、サイゴンでアイヤイねーちゃん拝むのを楽しみにしてたんです。
こんな感じのを期待して。



でも実際行ってみたら、タンソンニュット出た瞬間からず~とこんなのばっか。


ちょうど夏休みの時期だったので学生すらアオヤイ着ていません。
結局10日間の滞在期間中、アオヤイを目撃したのは空港内のベトナム航空のスタッフだけでした。かぁ~!夢がないね。
言うなれば、外国人が京都観光に行って、芸妓も舞妓も見れずに旅が終わるようなもの。


ちなみにベトナムの民族衣装としてよく知られているアオザイ(アオヤイ)ですが、ベトナム人の中には現代のアオザイは西洋のデザインを取り入れ1930年代にデザインし直されたものであり「ベトナムの民族衣装」ではないと考える向きもあります。
一方そうした声に対しアオザイ研究者からは、1930年代に登場したデザインは現代のアオザイとはかけ離れた西洋風ドレスであり、そうした前衛的なデザインはとうに廃れており、現代のアオザイはむしろ伝統的な姿に回帰しているとする指摘もあるなど、ベトナム人自身の中でも認識は分かれているようです。
ベトナムの民族衣装の歴史について書き出すと長くなるので、これについてはまた改めて記事にしたいと思います。
  


Posted by 森泉大河 at 18:47Comments(0)【ベトナムの文化】

2018年08月30日

サマーキャンプ

日本在住ベトナム人協会サマーキャンプ2018

 先日、日本在住ベトナム人協会主催のサマーキャンプに参加してきました。今年のキャンプにはテレサ・チャン・キウ・ゴック氏とナンシー・ハン・ヴィ・グエン氏が特別ゲストとして参加し、日本に住む大勢の若いベトナム人たちと議論会をおこないました。一番槍の姉妹ブログ[ベトナムウゥッチ]に、その討論の要約を日本語で記してあります。私はこのお二方とお話しする事が出来てとても光栄です。彼女たちが持つ祖国ベトナムと国民への愛情、思いやりは、必ずや善良な人々の心に届くものと信じています。

またキャンプではリクリエーションとして、口にくわえたスプーン同士でビー玉を渡してリレーし、かつ水鉄砲で紙の的を破くという、けっこう難易度の高い競争をしました。


実は私はナンシーさんと同じチームだったので、ずっとナンシーさんにビー玉を渡す役でした。まさかあんな有名人とこんなに顔面近付けて遊ぶことになるとはね。けっこう本気で照れちゃいました(笑) 下の写真のピンク色の服着ているのがナンシーさんで、黒いのが私。

 

バーベキューでは日本各地に住んでいる、初めてお会いする方々ともお話しする事ができて良かったです。


キャンプファイヤーでは皆で輪になって踊りました。


この時私は酒が入っていたので、ボビナム(ベトナム格闘技)やってる友達に酔拳で戦いを挑み、何度も投げ飛ばされたので服が泥だらけになりました。また来年も参加したいと思います。



ニュース:ヴェト・ルォン少将、在日米陸軍司令官に就任

 当ブログでは旧ベトナム共和国出身のベトナム系アメリカ軍人ヴェト・ルォン(ベトナム名 ルゥン・スァン・ヴェト)少将が2014年に、アメリカ陸軍第1騎兵師団副師団長に就任した事をお伝えしましたが、この度ルォン少将は在日米陸軍(USARJ)司令官に任命され、2018年8月28日に神奈川県のキャンプ座間米陸軍基地にて司令官交代式が執り行われました。ベトナム系初の米軍将官であるがルォン少将が、北朝鮮とも近い≪実戦的な≫在日米軍の陸軍司令官に任命されたニュースは、世界のベトナム移民系メディアで大きく取り上げられています。


動画: U.S. Army in Japan / Facebook


過去記事にも載せていますが、改めてルォン少将の経歴を記します。

ヴェト・ルォン氏は1965年、ベトナム共和国ビエンホア生まれ。
彼の父はベトナム共和国海兵隊(TQLC)第6海兵大隊『聖鳥』大隊本部所属のルン・スァン・デュウン少佐で、1972年の"クアンチの戦い"ではベトナム戦争で最大の対戦車戦闘を指揮し、多大な戦果を挙げた人物でした。

ン・スァン・デュウン ベトナム海兵隊少佐

デュウン少佐と子供達(左端がヴェト・ルォン)

しかし1975年、敗戦に伴いルン一家はサイゴンからの脱出を余儀なくされ、政治難民としてアメリカに移住します。この時、ヴェト・ルォンは9歳でした。
カリフォルニア州マウンテンビューで成長したルォン氏は、父の影響で軍人を志し、勉学に勤しみます。
そして南カリフォルニア大学(USC)で生物学の学士号を取得後、同大学院で軍事科学の修士号を取得。1987年、アメリカ陸軍歩兵中尉に任官しました。

【ルォン少将の軍歴】

第8歩兵連隊第1大隊/小銃小隊長・対戦車小隊長・副中隊長・大隊管理将校 〔コロラド州フォート・カーソン〕
第82空挺師団第325空挺歩兵連隊第2大隊/大隊S-3(作戦参謀)補佐・A中隊長 〔ノースカロライナ州フォート・ブラッグ〕
Theater Quick即応部隊/指揮官 〔ハイチ〕
JATC(統合即応訓練センター)/総監部員 〔ルイジアナ州フォート・ポーク〕
陸軍指揮幕僚大学/参謀教育受講 〔カンザス州レブンワース〕
SETAF (南欧タスクフォース)/SETAF G-3(作戦参謀)主任参謀 〔イタリア ヴェニツィア〕
第173空挺旅団第508空挺歩兵連隊第1大隊/副大隊長 〔コソボおよびボスニア・ヘルツェゴビナ〕
JTF North (北部統合タスクフォース)/計画参謀・国土安全保障省訓練開発部門主任 〔テキサス州フォート・ブリス〕
第82空挺師団第3旅団戦闘団第505空挺歩兵連隊第2大隊/大隊長 〔イラク〕
第101空挺師団第3旅団戦闘団第187歩兵連隊/連隊長 〔アフガニスタン〕
スタンフォード大学/国家安全保障研究員 〔カリフォルニア州スタンフォード〕
統合参謀本部J5(戦略計画・政策)パキスタン・アフガニスタン調整部/副部長 〔ワシントンDC〕
第1騎兵師団/副師団長 〔テキサス州フォート・フッド〕
在日米陸軍/司令官(現職) 〔日本キャンプ座間〕
  


2018年08月28日

ベトナム語とフォネティックコード

 今回はベトナム共和国軍のフォネティックコードについてまとめましたが、ベトナム語の文字・単語は日本語はもちろん英語とも大きく異なる独特の仕組みで成り立っているので、フォネティックコードに触れる前にまず、ベトナム語の仕組みについて簡単に説明します。


ベトナム語の文字

 まず19世紀末以降、ベトナム語を表記する文字としてはクォックグー(ローマ字)が使われています。なので日常的にローマ字を使う我々日本人にとってベトナム語のアルファベット自体は見慣れた物なのですが、ベトナム語で使われるアルファベットは英語と同じではありません。英語比べた場合、ベトナム語のアルファベットには次のような違いがあります。
・F、J、W、Zは使用しない。
・英語では使用されないĂ、Â、Đ、Ê、Ô、Ơ、Ưというアルファベットがある。これらはアルファベット声調記号を追加したものではなく、独立した一つのアルファベットである。
つまり英語のアルファベットはA~Zの26個ですが、ベトナム語の場合は以下の29個のアルファベットで構成されています。
 


 この中のA、Ă、Â、E、Ê、I、O、Ô、Ơ、U、Ư、Y12個が母音です。これらの母音にはさらに、それぞれ第1声から第6声までの6つの声調があり、声調記号(第1声は声調記号無し)と組み合わされて以下の表ように表記されます。なお子音に声調は無く、声調記号も付きません。
 この声調は外国人がベトナム語を学習する上で一番ネックとなる部分で、私自身もまだまだ使いこなせていませんが、声調というシステム自体は日本語にも英語にも存在しています。例えば日本語の「はし」は、声調の違いによって「橋」と「箸」の二つに分かれます。しかし日本語の場合は声調が多くても2~3個であり、なおかつ漢字を使う事によって一目で意味の違いが分かるため、声調記号は使われていません。一方ベトナム語の場合は声調が6個もあり、漢字も廃止してしまったため、声調記号を付加する事によって同綴異義語になる事を防いでいます。


 以上がベトナム語で用いられる文字となります。続いて単語の構成ですが、これは基本的には日本語と似たような作りで、頭子音+母音+末子音となっています。大きな違いとしては母音に上記の声調記号が付く事ですが、これは一見複雑に見えて、実は非常に理にかなったシステムだったりします。
 同じくローマ字を使う英語の場合、英語には声調記号が無いので、発音の異なる同綴異義語は、単に文字を見ただけではその発音・意味を見分ける事は出来ません。例えば「desert」という単語は声調の違いによって「見捨てる」と「砂漠」という意味に分かれますが、声調記号が無いので前後の文脈からその意味を推測するしかありません。言うなれば日本語を漢字を使わずひらがなのみで書いているような状態です。
 一方ベトナム語は一部に同音異義語があるものの、声調記号があるため、例え知らない単語であっても文字を見ればその発音が完全に理解できます。元々クォックグーは、フランス人宣教師たちがベトナム語を研究し、自分たちの文字(ローマ字)をベトナム語の発音に当てはめる事によって考案されたものなので、実は外国人にとっても非常に分かり易い文字なのです。
 一方、クォックグー採用以前にベトナム語の表記に使用されていた漢字やチュノムは、高い水準の教育を施されたエリート層しか理解できず、庶民の識字率が上がらない原因になっていました。そこに登場したクォックグーは、フランスによるベトナム植民地化によって強制的に使用が広まった面がある一方で、同時に庶民の識字率向上に大きく貢献し、20世紀中盤にはベトナム人自身が漢字を捨てクォックグーをベトナム語の正式な文字として受け入れるようになりました。 

ベトナム語の単語の作り。私のベトナム語学習ノートから


ベトナム共和国軍のフォネティックコード

 ここからが本題。フォネティックコード(通話表)とは、主に無線交信の際に聞き間違いを防ぐため、各文字に設定された読み方の規則の事です。無線に関わりがない人でも、A:アルファー、B:ブラボーといった英語を基準にした欧文通話表/NATOフォネティックコードは聞き覚えがあると思います。実際、現在では多くの国が欧文通話表/NATOフォネティックコードを採用しており、国際的な無線通信の基本通話表となっています。しかし国際的なやり取りを目的としないドメスティックな通信の場合は、国ごと、言語ごとに様々なフォネティックコードが存在しており、現在でも用いられています。
 1975年まで存在したベトナム共和国軍も独自のフォネティックコードを運用しており、その一部はオスプレイのArmy of the Republic of Vietnam 1955–75, Gordon L. Rottmanにも掲載されていましたが、この本を含め、英語で書かれた文献のほとんどはベトナム語独自のアルファベット(Ă、Â、Đ、Ê、Ô、Ơ、Ư)や声調記号を省略して英語のアルファベットで書いてしまっているので、その発音を読み取ることは出来ませんでした。
 ところが先日、ベトナム共和国軍研究家のCharlie Brown氏がベトナム語で書かれたフォネティックコードに関する詳細な情報を公開した事で、ついにその発音を把握する事が出来ました。またベトナム軍のフォネティックコードは、NATOのように単にアルファベットにコードを付加するだけでなく、ベトナム語ならではの工夫が施されていた事も初めて知りました。以下がそのまとめになります。

[1971年までのフォネティックコード]

A (アー) Anh Dũng (アンズン / アンユン)
B (ベー) Bắc Bình (バックビン)
C (セー) Cải Cách (カイカック)
D (ゼー) Duy Tân (ズイタン / ユイタン)
Đ (デー) Đống Đa (ドンダ)
E (エー) E Dè (エーゼー / エーイェー)
F Foxtrot (フォックストロット)
G (ジェー) Gay Go (ゲイゴー)
H (ハーッ) Hồng Hà (ホンハー)
I (イー) Im Lặng (イムラン)
J Juliett (ジュリエット)
K (カー) Kinh Kỳ (キンキー)
L (エンロー) Lê Lai (レーライ)
M (エンモー) Mạnh Mẽ (マインメェ)
N (エンノー) Non Nước (ノンヌック)
O (オー) Oanh Liệt (オンリェット)
P (ペー) Phú Quốc (フークック)
Q (クー) Quang Trung (クアンチュウン)
R (エール) Rạch Giá (ゼックザー)
S (エシー) Sơn Tây (ソンタイ)
T (テー) Tư Tưởng (トゥートゥウン)
U (ウー) Ủng Hộ (ウンホオ)
V (ウェー) Vẻ Vang (ヴェヴァン)
W Whiskey (ウィスキー)
X (イシー) Xung Phong (スンフォン)
Y (イグレック) Yên Bái (インバイ)
Z Zulu (ズールー)

0 (ホン)
1 (モッ)
2 (ハーイ)
3 (バー)
4 (ボン)
5 (ナム)
6 (サウ)
7 (バイ)
8 (ターム)
9 (チン)

※括弧内のカタカナは便宜的にふったもので、実際のベトナム語の発音を日本語の50音で正確に表記する事はできない。
F, J, W, Zはベトナム語では使われないためベトナム語読みは存在しないが、軍ではNATOフォネティックアルファベットが充てられている。
Dは北部の発音では日本語の「ザ行」に近い音だが、南部の発音では「ヤ行」の発音をする。

 上記が1971年まで長年に渡って使用された基本的なフォネティックコードとなります。アルファベットは英語/NATOフォネティックコードと同じA~Zを基本としており、本来ベトナム語では使用されないF, J, W, Zも、NATOフォネティックコードを当てはめてる事で使用されています。一方、ベトナム語独自のアルファベット(Ă、Â、Đ、Ê、Ô、Ơ、Ư)はほとんどが省略されており、Đのみが採用されています。また声調記号は存在しませんでした。
 とことが、似たような単語が多く、正確に発音しないと会話にならないベトナム語の特性上、やはりベ無線通信にはベトナム語独自のアルファベットと声調記号が必要だったようで、これらは1971年初頭に新たに制定され、既存のフォネティックコードに追加される事となります。
 ただし、新たに追加されたアルファベット(Ă、Â、Ê、Ô、Ơ、Ư)は、これまでのアルファベットのように頭文字が同じ単語を新たに設定するのではなく、複数個の既存のアルファベットを組み合わす事で表現する方式となりました。これは、Ă、Â、Ê、Ô、Ơ、Ưが全て母音であるため、その母音を頭文字とする単語が少ない、また存在しなかったためだと思われます
 また5つの声調記号にはL、S、X、R、Vという既存のアルファベットが新たに割り当てられ、単語の最後に追加されます。L、S、X、R、Vは通常のベトナム語では末子音に使用されない文字であり、一目でそれが声調記号を示すものだと分かるようになっています。

[1971年に追加されたコード]

ベトナム語 アルファベット フォネティック・アルファベット における表記
Ă (アー) AW
 (アー) AA
Ê (エー) EE
Ô (オー) OO
Ơ (オー) OW
Ư (ウー) UW
ƯƠ (ウオ) UOW
声調
第2声 (フエン) L
第3声 (サック) S
第4声 (ホイ) X
第5声 (ンガー) R
第6声 (ナン) V

これによって、少々複雑ではあるものの、ベトナム語の単語のスペルを声調記号まで正確に伝達できるようになりました。以下、それぞれの単語をフォネティックコードに変換した例になります。
TUẤN TUAANS (トゥートゥウン・ウンホオ・アンユン・アンユン・ノンヌック・ソンタイ)
THỌ THOV (トゥートゥウン・ホンハー・オンリェット・ヴェヴァン)
PHƯỚC PHUOWCS (フークック・ホンハー・ウンホオ・オンリェット・ウィスキー・カイカック・ソンタイ)
PHƯỢNG PHUOWNGV (フークック・ホンハー・ウンホオ・オンリェット・ウィスキー・ノンヌック・ゲイゴー・ヴェヴァン)
BẮC BAWCS (バックビン・アンユン・ウィスキー・カイカックソンタイ)
VĨNH VINHR (ヴェヴァン・イムラン・ノンヌック・ホンハー・ゼックザー)

 一見、非常に複雑でまどろっこしい方式に見えますが、当時はこれ以外にスペルを音声で正確に伝達できる手段はなかったようです。ベトナムは単語だけでなく地名にも似たような名前が多いですから、作戦を円滑に進める共に友軍や民間人への誤射・誤爆を防ぐ上でも、単語を正確に伝達する事は軍にとって非常に重要な課題だったと思われます。

  


2018年08月19日

あるベトナム残留日本人と家族の漂泊

※2019年11月28日加筆訂正


 1945年(昭和20年)8月、日本政府は連合国のポツダム宣言を受託し、第二次世界大戦・大東亜戦争は日本の敗北によって終結しました。この時点で中国・満州・朝鮮・台湾そして東南アジア各地には日本陸海軍の軍人・軍属が約330万人、日本人民間人が約330万人、合わせて約660万人が進駐・居住していました。そして終戦後、日本政府・陸海軍にとって目下最大の課題は、この660万人という途方もない数の在外軍人・邦人を無事本土に帰国させる事となりました。この外地からの引き揚げはまるで民族大移動の様相を呈しており、現地では急激な治安の悪化、略奪、飢餓、家族の生き別れなどが大量に発生し、それは戦時中以上に壮絶なものだったたと伝え聞きます。
 その一方で、終戦に伴う帰国命令を受けた後も、ごく一部の日本軍将兵や民間人は日本への帰国を拒否して各地に留まり、個人的な意思で現地の紛争に参加していた事は割と知られた話だと思います。私がベトナム人協会への取材でいつもお世話になっている(宴会で僕が酔っぱらう度に家に泊めさせていただいている)サイゴン出身の女性Aさんは、この時ベトナムに残ってベトミン軍に参加した元日本陸軍兵士M氏の娘さんであり、M氏とAさんらご家族の辿った過去を詳しく伺う事が出来ました。ただし、Aさんが生まれたのはM氏が第一次インドシナ戦争終結後に南ベトナムに移住した後なので、Aさん自身はベトミン軍時代の父を直接は知りませんでした。ところがその後、関係資料を調べていたらベトミン軍時代のM氏の足跡が多少判明したので、Aさんから許可を頂いたうえでここに概要を記します。
 なおM氏は既に他界されていますが、娘さんやご親戚は現在も日本で生活されているので、個人名は控えさせていただきます。また、この記事はAさんの証言および、ある大学教授が日本に帰国した多数の元ベトナム残留者に聞き取りを行った報告書を出典としておりますが、M氏を始め、多数の人物の実名が載っておりますので、ここでの公表は差し控えさせていただきます。出典を確認されたい方はコメントにて、メールアドレスと共にその旨をお知らせください。個別にご連絡させて頂きます。


日本軍出奔とベトミン軍への参加

 Aさんの父M氏は第二次大戦中、日本陸軍第22師団第86歩兵連隊に所属する一兵卒であった。1945年8月、同連隊が中国広東省から南下し、ベトナム・ハティン省の省都ハティンに宿営している時に、M氏らは日本敗戦の知らせを受けた。この直後、同じ部隊の中から、日本軍を離れてベトミンに合流しようという声が上がり、M氏を含む10名が同意したという。そして終戦1ヶ月後の1945年9月のある晩、彼らは2ヶ月分の米と小銃弾2,000発を用意し、歩哨を「朝まで黙っていろ」と脅かして部隊から脱走した。

 ハティンの海岸に着いた彼らが満潮時刻を待って舟を出そうとしていたところ、日本兵脱走の知らせを受けたのか、ベトミン政府*が任命したハティン省知事レ・ズン(のちの国会議員)が通訳を連れて現れ、彼ら脱走日本兵に、ベトミン軍の軍事顧問役を依頼してきた。M氏らはその要請を受け入れ、ハティン省北部のドクトー県へ移動し、そこで現地の地主の屋敷に迎え入れられた。ドクトー県には同様に軍を抜けた元日本兵が30名ほどおり、その内M氏のいた村には25名が集まっていた。
 ドクトー県到着から間もなく、M氏らはベトミン軍側から、フランス軍のナペ基地を攻撃してほしいと要請を受けた。現地のベトミン軍兵士はまだ基本的な訓練さえ修了していないほとんど素人の集団であったため、この第1回のナペ攻撃(9月)は事実上、日本人12名だけで行われた。攻撃は夜間に行われ、彼らはフランス軍基地を一時占拠し、大量の武器弾薬と食糧を奪うことに成功したが、この戦闘でM氏を含む3名が負傷した。
 その後、ナペでは1946年初頭に日本人20名、ベトナム人300名の部隊による第2回夜襲が行われ、作戦は成功したが日本人兵士3名が戦死した。続いて行われた第3回の夜襲は失敗に終わり、さらに3名の日本人が戦死した。
 なお、第1回ナペ攻撃で負傷したM氏がいつ頃前線に復帰したかは分かっておらず、今確認できている資料では、M氏はその後「フエ以南で戦った」とあるのみである。

※1945年後半の時点では、インドシナに駐留していたフランス軍部隊はまだ微々たるものでフランスはベトナム全土を再統治できておらず、8月革命によって成立したハノイのベトミン政権がベトナム民主共和国を名乗っていた。しかしベトミン政権側の軍事力はさらに貧弱であったため、その後フランス軍が続々と到着するとフランスは支配地域を拡大。1946年中に全土がフランスの施政下に戻り、ベトミンは政権を追われゲリラ組織としてフランスへの武力闘争を続けた。


ハティン省ドクトー県の位置
(区画は当時と異なる可能性あり)


ホー・チ・ミン政権からの脱出

 その後、第一次インドシナ戦争が激化する中で、M氏はベトナム人女性と結婚し、娘(Aさんの姉)を授かった。その女性は、ベトミン協力者であり、M氏ら元日本兵の世話をしていたハティン省の地主の娘であった。その後1954年までにM氏はベトミンの軍務から離れ、ハティン省で一般人として生活していた。
 ところが1954年、第一次インドシナ戦争がベトミンの勝利に終わり、ハティン省を含む北緯17度線以北(北ベトナム)がホー・チ・ミン/ベトナム労働党の支配下になると、M氏の義父は、それまで命がけでベトミンに協力していたのにも拘らず、共産主義思想に基づき、ただ「地主である」という理由で粛清の対象とされた。義父は危険を察知し、M氏に娘と孫を連れて日本に逃げるよう促した。その直後、義父は人民裁判にかけられ、「反動分子」としてハティン市内を引き回された後、政治犯収容所に送られ、二度と帰ることはなかった。この地主階級の粛清「土地改良」を含む一連の共産主義革命によって、北ベトナム領内では1954年から1956年にかけて10万人以上の人々がホー・チ・ミン政権によって虐殺されたと言われている。

 日本帰国を決意したM氏は、妻に家を引き払うよう命じ、船を確保するため一人先行してハイフォンの港に向かった。しかしハイフォンに着くと、日本行きの船は既に出航した後だった。その後すぐに妻と娘たちもハイフォンに到着したが、すでに家は引き払った後であり、帰る場所は無かった。その時ちょうど、ホー・チ・ミン政権から逃れるため南ベトナムに脱出する難民を運ぶ船に空きがあったため、M氏一家は南ベトナムで出直す事に決め、サイゴンに移住した。

※ジュネーヴ協定により北ベトナムにホー・チ・ミンの共産主義政権が成立した事で、北ベトナム政府による迫害・虐殺から逃れるため、約100万人のベトナム国民が1954年から1956年にかけて北ベトナム領から南ベトナムに脱出した。共産主義者(ベトコン)に家族を殺され、故郷を奪われた人々の共産主義に対する憎しみは深く、後のベトナム戦争では、この時南に移住した北部人勢力が率先して北のホー・チ・ミン政権打倒を主張した。


フランス・アメリカ海軍によるベトナム国民の北ベトナム脱出・移送作戦『自由への道(Passage to Freedom)』

サイゴン郊外に設置された北ベトナム難民キャンプ [1954年]


サイゴンの日本人コミュニティ

 南ベトナムに移住したM氏一家はその後の20年間、サイゴンで比較的穏やかな生活を送った。1960年代に入ると南ベトナム国内の共産ゲリラ(解放民族戦線)によるテロ活動や北ベトナム軍の南侵によってベトナム戦争が激化したが、幸いにも一家は戦闘に巻き込まれる事なく終戦を迎えたという。Aさんはこのサイゴン移住後に生まれた末っ子だった。
 またサイゴンにはM氏と同様に、かつてベトミン軍に参加していた元日本軍人や、戦前からサイゴンに住んでいる日本人商人・技術者が少数ではあるが居住していた。彼ら南ベトナム在住日本人は互助会『寿会』を結成しており、M氏もこれに参加した。第一次インドシナ戦争終結後、アメリカの支援を得て経済発展を続けていた南ベトナムには西側諸国の企業が進出を始めており、日本も例にもれず南ベトナムにおいて事業を展開していた。寿会のメンバーは、こうした日系企業の現地社員・通訳・コンサルタントなどを務める者が多く、M氏も日系の製糖会社に勤務した。
 また寿会は、明治時代に単身ベトナムに渡り、以後半世紀以上に渡ってフランスや日本軍による妨害に遭いながらもベトナム民族解放と独立を援助し続けた日本人実業家 松下光廣(1896-1982)がサイゴンで経営する『大南公司』と深い関係を持っていた。南ベトナム政府と日本政府は松下の仲介で第二次大戦中の賠償に関する交渉を行い、日本政府は賠償金としてベトナム最大の水力発電所ダニム・ダム建設の費用を提供した。M氏は日系の建設会社に転身し、松下と共にこのダニム・ダム建設事業に従事した。これ以降、M氏と松下は家族ぐるみの付き合いとなっていった。
 幼いころのAさんにとって、当時のM氏はいつも厳しい父親であった一方で、寿会の日本人たちと日本の歌謡曲を聞きながら酒を飲んでいる時だけは、M氏は涙を流して日本を懐かしんでいたという。

1964年に完成したダニム・ダム(ダニム水力発電所) [写真:日本工営]


 

ベトナム共産党政権による追放

 1975年4月30日、北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴンを制圧し、ベトナム戦争は共産主義勢力の勝利に終わった。こうしてベトナム全土がハノイのベトナム共産党政権の支配下に堕ちると、旧南ベトナム国民は大変な困窮に見舞われた。M氏一家も例外ではなく、すでに戦争末期には日系企業が撤退していたため、M氏は別の仕事を探すしかなかった。松下も大南公司の資産の全てを政府に没収され、明治以来幾度もの苦難を経験しては復活を果たしてきた大南公司は完全に解体された。
 さらにベトナム共産党政府は1978年に、全ての外国人を国外追放する事を決定した。かつてベトミン軍の一員として命がけでフランス軍と戦ったM氏も、外国人であるという理由で国外追放となった。一時は日本への帰国を目指していたM氏だったが、ベトナムに住んで既に30年以上が経過しており、国外追放はそこで築いた友人・仕事・財産の全てを失う事を意味していた。また妻や娘たちは日本語がほとんど分からず、日本での生活に順応できるかも心配された。
 こうしてM氏一家は、他の日本人・外国人住民らと共に国外に船で移送され、M氏は難民として30年ぶりに日本に帰国した。帰国後一家はM氏の生まれ故郷の町に移り住み、M氏は会社員として平穏な余生を送った。来日した当時14歳だったAさんも苦学の末日本語を習得し、現在は日本国内でベトナム語通訳の仕事をしている。
 なお、M氏も松下も既に他界されているが、互いの親族同士の交流は現在も続いているという。




筆者の見解

 私はM氏を含むベトミン軍に参加した元日本兵たちの足跡が日本国内のメディアやインターネットで紹介されるのを目にする度に残念な気持ちになります。なぜならば、それらの紹介の仕方、あるいは紹介する目的は初めから、何らかの思想・主張を肯定するための道具として都合の良い部分だけ切り取られ、いいように利用しようとしているものばかりだからです。
 具体的には、ある時は日本が東南アジア侵攻の大義名分に掲げた『アジア解放』が偽りのない崇高な精神だった事の証拠として。またある時は、欧米の帝国主義に立ち向かいベトナム『解放』を後押ししたものとして。日本国内では右派・左派双方が長年、彼らの戦いを美談として祀り上げ利用してきました。また現在のベトナム共産党政権も、気前よくODAをくれる日本政府におべっかを使うため、この話を『日越友好』を標榜する材料の一つとして利用しています。
 しかし私は「日本軍は戦後もベトナム独立のためにフランスと戦いました。ベトナム人はその恩を忘れません。」というような日本国内で流布されている認識は、最初から美談として利用するために日本人にとって都合の良い、気持ちの良い部分だけを寄せ集めた虚像だと考えています。以下がその理由です。

・日本政府はアジア解放を謳う一方で、インドシナに関してはドイツ・フランスとの関係を優先しており、日本軍は1941年の北部仏印進駐以来4年間、フランスと合同でベトナムを支配する側にいた。ベトナム独立勢力に対しても、彼らを支援するどころか、妨害・取り締まりを行っていた。(ただし、下記の明号作戦に動員する目的で、親日的な独立勢力への接触は松下の大南公司を通じて進駐直後から水面下で始まっていた)

・1945年の明号作戦は、戦局の悪化から連合国側に寝返る可能性のあるインドシナ総督府・フランス軍を排除する事を目的とした日本の利益の為の軍事行動であり、ベトナム独立を目的としたものではない。

・ほとんどのベトナム国民は明号作戦の後に日本が擁立したベトナム帝国政府を日本の傀儡政権と見なしていた。なので日本敗戦後に行われたベトナム帝国政府の解体とベトナム民主共和国の独立宣言=8月革命を真のベトナム独立と見做し沸き立った。

・終戦後も日本陸軍の組織および軍法は正式に存続しており、個人の意思で隊を離れる事は脱走、また武器弾薬被服装備を持ち出す事は横領にあたる。したがってベトミンに参加した彼らは国家の命令に従った『日本兵』ではなく、あくまで個人の思想によって行動した『元日本兵のゲリラ』である。

・そもそも第一次インドシナ戦争は、残留日本人が1945年にベトミンに参加した当初においては、ベトミンの敵はインドシナの再植民地化を目指すフランス軍であり、『ベトナム独立戦争』と呼んで差し支えない状況であった。しかしフランス側が譲歩し1948年にベトナム国の独立を承認してから(つまり戦争中期以降)は、ベトナム国政府はベトミン政権を拒否する民衆から一定の支持を得ており、フランス連合軍の人員の7割が現地のインドシナ諸国の兵士(そして全体の5割がベトナム国軍)となるに至る。こうして第一次インドシナ戦争は当初のフランスからの独立戦争という単純な構図から、次第にフランス連合に残留して段階的な独立を目指す穏健派のベトナム人(ベトナム国政府)と、フランスの影響力およびベトナム国政府に好意的な人間を徹底排除し共産主義政権樹立を目指す過激派ベトナム人(ベトミン)というベトナム人同士の内戦へと変化していった。

・残留日本人たちは、当初ベトミンが掲げていた純粋な民族解放という理想に共感しベトミンに参加していたが、ベトミンが中国共産党からの支援への依存度を増すにつれて組織全体が共産主義体制に変質し、同じベトミン内の戦友・支援者までもを反革命分子として粛清していくのを目の当たりにした事で違和感を増していった。しかし戦争遂行に深く関わり過ぎており、途中で組織を抜ける事は出来なかった。

・残留日本人の多くはベトナム独立の理想とベトナム人戦友たちへの愛情を変わらず持ち続けたが、同時に戦争中期から戦後の1950年代全般にかけてベトミン・ベトナム労働党が行った急激な国家改造・共産主義化(土地改良に始まる弾圧・大量虐殺)には批判的であり、複雑な心境を伺わせる証言を残している。

・フランスや日本軍による妨害に遭いながらも身の危険を顧みずベトナム民族の解放と独立を援助し続けた松下光廣は、ホー・チ・ミンとベトミンを民族解放の志士とは見ておらず、むしろベトミンの暴力革命を「共産分子のテロ」と強い言葉で非難している。


 まとめると、彼ら残留日本人の多くは、現地で独立を渇望するベトナムの民衆の想いを間近で感じ、同じ人間としての共感しており、こうした人情の上に敗戦のショックと敵の占領下の日本で生きる事への不安・抵抗が重なり、彼らは日本軍人としての身分を捨て、フランス軍との戦闘に身を投じました。
 しかし彼らが協力したベトミンは、そんな残留日本人たちの意志とは無関係に、その目標を『独立』から『共産主義革命』へと変えていきました。また敵であるフランス軍も、当初の再植民地化を目指す『白人帝国主義者』から、フランス連合の枠内での独立に甘んじようとも共産主義政権は阻止したい『フランス連合派ベトナム人』へと変わってしまいました。
 最終的に戦争はベトミン側の勝利に終わり、残留日本人たちは北ベトナムの独立に貢献した事になりましたが、それは同時にベトミンによる共産主義革命・大量虐殺などを許す事となり、残留日本人たちが目指していたベトナム民族の解放と平和とは程遠い結果を招いてしまったと私は見ています。
 多大な犠牲を払いながらこうした結果に終わり、彼らの心中は察するに余りあります。しかしだからこそ、「ベトナムは独立して人々は幸せに暮らしました、めでたしめでたし」で終わる訳にはいかないのです。私の意図は、彼ら残留日本人を共産主義革命の協力者として非難する事ではありませんし、まして「日本人がアジアを解放した」などと恥知らずな自慰行為に利用する事でもありません。
 人間の歴史、特に戦争に関する部分は、常に後世の人間によって何らかの意図をもって都合よく切り取られ、利用されがちですが、私はそれに抗いたいのです。この戦いに限らず、人間が理不尽に命を奪い奪われる最悪の惨事を、見たい部分だけ見て喜び、見たくない部分には目を背ける、そういった人間の生命・人生に対して不誠実な姿勢を私は軽蔑し、否定します。
  


2018年08月02日

下向きシェブロン階級章

 現在作成中のベトナム軍装ガイドに歴代の階級章一覧を載せようと思っており、その中には第1次インドシナ戦争中に発足したベトナム国軍(1952-1955)時代のものも含まれるのですが、その時代の陸軍の階級章は国軍の前身であるフランス植民地軍と同一というのが定説であり、僕も長年それを信じてきました。しかし、カラー写真の少ない時代のため、特に兵・下士官のシェブロン型階級章の配色が本当に植民地軍と同じ赤/黄色だったのか自分の目で確認した事がなかった(本家フランス陸軍の兵・下士官階級章は部隊ごとに色が違う)ので、先日、ある先輩研究者の方にその件について意見を伺いました。するとその中で、今まで考えもしなかったとんでもない事実が明らかとなりました。

きっかけとなったのはこちらの写真でした。

1955年のビンスエン団討伐時のベトナム国軍空挺群の写真との事です。
この時は階級章と組み合わせて用いられる菱章の中の部隊章について話していたのですが、
先方がふと、「階級章が逆さまっぽい?」と仰いました。
拡大するとこうなっています。


たしかに!
何が『逆さま』かと言いますと、本来フランス陸軍兵・下士官のシェブロン型階級章は、菱形章の上側に上向きに付くものなのです。これは植民地軍においても同じであり、また人種がウーホピアン(ヨーロッパ系フランス人)であろうが先住民(インドシナ諸民族)であろうが、植民地軍に所属していれば全員同じ階級章を用いました。

▲フランス植民地軍の階級章 (海外コレクター収蔵品)

しかし上の写真だけでは、たまたま上下逆さまに付けてしまっただけの可能性もあるので、半信半疑のまま他の写真の階級章をよく見てみると・・・、今まで何度も見てきたはずの写真の中に、逆さ(下向き)階級章が写っているではありませんか!!

元画像:ベトナム国軍カオダイ部隊によるティン・ミン・デ将軍の葬儀 [1955年サイゴン]


元画像:ベトナム国軍最初の大隊である第1ベトナム大隊 [1950年代初頭?]




またベトナム国軍の前身の一つである南ベトナム衛兵隊(1948-1952)の菱形章/階級章もシェブロンが下側に付いていた事が分かりました。

▲南ベトナム衛兵隊の階級章一体型金属製菱形章
左は第1連隊/一等軍曹、右は 空挺戦隊(Escadron Parachutiste)/伍長


こうなるとさらに南ベトナム衛兵隊の前身にあたるコーチシナ共和国衛兵隊(1946-1948)の時代はどうだっかも気になるので写真を探したところ、確認できた範囲ではフランス軍と同じ上向きシェブロンしか見られませんでした。


 ただし上の写真に写っているのは全員コーチシナ共和国衛兵隊所属のウーホピアン(フランス人)なので、ベトナム南部人(当時はコーチシナ人と分けて呼ばれた)の将兵も同じ階級章だったかは確認できていません。
 コーチシナ共和国も一応コーチシナ人(ベトナム南部人)の独立国という建前でしたが、後のベトナム国政府がベトナミゼーションに伴いフランスからかなり広範囲の統治権限を移譲され実質的にもベトナム人国家に近付いていったのとは異なり、コーチシナ共和国はベトナム南部に集中していた商業・農業の利権をフランスが確保するために建てた事実上の植民地政府だったので、その国軍たるコーチシナ共和国衛兵隊も、ベトナム人国家の軍隊と呼ぶには程遠い、フランス植民地軍の一部門に過ぎなかったのでしょう。(フランスがインドシナ再統治を開始した1945年からしばらくは植民地軍の人員はほとんどがフランス人だった)
 しかし逆に言えば、コーチシナ共和国衛兵隊の組織を引き継いで1948年に発足した南ベトナム衛兵隊の階級章がフランス軍式から独自のものへと変更されたという事実は、南ベトナム衛兵隊、そしてベトナム国政府のフランスに対する独立性が、部分的にであれ徐々に増していったことの表れなのかもしれません。
 後のベトナム共和国軍(1955-1975)にまで受け継がれる下向きシェブロン階級章の始まりは、こんなに早い時期だったのですね!


◆軍の名称とベトナム語・フランス語表記は以下のとおり

コーチシナ共和国衛兵隊: Vệ binh Cộng hòa Nam Kỳ : Garde Républicaine de Cochinchine (GRC)
南ベトナム衛兵隊 : Vệ binh Nam Việt : Garde du Viet-Nam Sud (GVNS)
ベトナム国軍 : Quân đội Quốc gia Việt Nam (QĐQGVN) : Forces Armées Vietnamiennes (FAVN)
ベトナム共和国軍(1955-1967) : Quân Đội Việt Nam Cộng Hòa (QĐVNCH)
ベトナム共和国軍(1967-1975) : Quân Lực Việt Nam Cộng Hòa (QLVNCH) 



◆おまけ:フランス人の勝手なネーミング

 ちなみにベトナム南部を"コーチシナ(Cochinchine)"と名付けたのはフランス人であり、ベトナム人的には当然「うちらはシナ(中国)じゃねぇ!」と思うので、ベトナム語ではコーチシナを意味する言葉は"Nam Kỳ (ナムキ)"となります。
 同様に"インドシナ(Indochine)"という言葉も、「インドでもシナでもねぇよ!」という事で、ベトナム語では"Đông Dương (ドンズゥン=東洋)"といいます。(おそらくĐông Dươngはフランス人がインドシナと言い出した後に意訳されたもの)
 なおインドシナに関しては、植民地関係のフランス人は"インドシナ人(Indochinoises)"略して"Indo (インド)"と書いている例を時々見かけます。もう略しすぎて意味変わってるじゃん。(2018年8月3日訂正:Indoという言葉は現在のインドという国家のある地域だけでなく、古くはインダス川以東の極東アジア全域を指す場合もあったそうです。なのでこの場合"Indo"はIndochineの略ではなく"極東"という意味で使われていると見た方が良さそうです)
 さらに、フランスは1860年代にベトナム(大南国)を征服すると、ベトナム人の意識からナショナリズムを奪って反乱を予防するため、ベトナムの領土を北部:トンキン(Tonkin)、中部:アンナン(Annan)、南部:コーチシナ(Cochinchine)の三地域に分割し、各地域に住むベトナム人をトンキン人、アンナン人、コーチシナ人という『別々の民族』として扱いました。しかしフランス人は勝手にこれらを別物と規定しておきながら、やっぱり"ベトナム(およびベトナム人)"という概念の言葉は別に必要だと後々になって気付きます。だって現実にベトナム人という集団は存在しており、フランス人自身その意識は持ってるのですから。そこでフランス人は(意図してなのか自然にそうなったのかは定かではありませんが)、皇帝の住むフエを中心としたベトナム中部(Trung Kỳ)を意味していたアンナンという言葉を、ベトナム全体を指す言葉としても使うようになります。したがってそれ以降、トンキン(北部)人もコーチシナ(南部)人も、ベトナム人は皆"アンナン人(Annamese)"と呼ばれるようになってしまいました。フランスがベトナムという国名の使用を公式に認めるのは、それからおよそ半世紀後のベトナム国建国からになります。

  


2018年06月08日

ベトナム空軍神風部隊~トートン~浮世絵

 ベトナム空軍では、他の西側諸国と同様に、航空機の機首にノーズアートが描かれている例がいくつかありましたが、中でも特によく知られているのが、グエン・カオ・キ中将(後の副総統)の直接指揮下にあった第83特殊作戦航空団『※神風部隊(Biệt Đoàn Thần Phong)』のものだと思います。この神風部隊では少なくとも以下の二種類の特徴的なノーズアートがA-1スカイレイダー攻撃機の機首右側面に描かれていました。



※日本の神風特攻隊とは関係ありません。
※なお、この神風部隊は特殊作戦を専門とする『空の特殊部隊』であったからか、本来国籍マークが入るはずの機体胴体側面には部隊のシンボルマークがペインいる点が他の部隊の機体ペイントとは大きく異なります。

 この二つの漢字のような梵字のようなよく分からない図形の正体については、僕自身長年把握できておらず、たぶんチュノム(ベトナム語表記にローマ字=クォックグーが採用される以前に使われていた漢字を基にした表語文字)の一種なのかな、くらいに考えていました。ところがある日、さるベトナム空軍研究家にこのノーズアートについて話を振ったところ、即座に正解を教えて頂く事が出来ました。
 なんでもこの図形はチュノムや特定の言語の文字ではなく、ベトナムの伝統的なカードゲーム『トートン(Tổ tôm)』に描かれた、漢字を基にした記号なのだそうです。
 トートンは中国発祥のカードゲーム(紙牌)である『ハンフー(看虎)』から派生したもので、麻雀やトランプのようにいくつかのスート(柄)と数字の組み合わせでデッキが構成されていました。
 スートと数字は文字(漢字)と漢数字を組み合わせた記号で表されており、スートの文字が漢字の部首の偏のように左側に、漢数字が旁(つくり)のように右側に配置され、その記号自体が一つの漢字のようにデザインされていました。(チュノムも同様に二つの漢字を組み合わせて一つの文字としていましたが、トートンに用いられたのはチュノムではなく、単なる記号です。)
 左側のスートは、現在のトートンでは専ら文(Văn)、索(Sách)、萬(Vạn)の3つが用いられていますが、過去には升(Xừng)や[※1]湯(Thang)といった文字も使われていたようです。このうち索と萬は、もっと後の時代に考案された麻雀(索子と萬子)に受け継がれていますね。 [※2]右側の数字は1~10まであり、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と漢数字で表記されています。(十は謎の異字体が使われていますが) 

[2018年6月13日訂正]
※1 Thang (湯)は現在でも使われていました。
※2 右側に入る数字は正しくは1~9であり、一、二、三、四、五、六、七、八、九と漢数字で表記されています。下のカード一覧の一番右側にある3枚はそれぞれのスートの十ではなく、それぞれÔng Cụ (萬の行)、Chi Chi (文の行)、Thang Thang (策の行)という役を作るのに使う特殊なカードであり、これに各スートの一(萬の一、策の一、文の一)を含めたカード6種のカードが『Yêu』と呼ばれ、麻雀で言うドラのような役割を持っているそうです。

▲現在出回っている一般的なトートンのカード

そしてこの中で、神風部隊にノーズアートとして描かれたのは、升の九(Cửu Xừng)』と索の九(Cửu Sách)になります。


※なおRobert C Mikesh著『Flying Dragons: The South Vietnamese Air Force』には、神風部隊では上記の二つに加えて『萬の九』、『文の九』もマーキングされていたと記述されているそうですが、当時の写真を探してもその実例を確認する事はできませんでした。

 実はこれらを調べる過程で、頭を悩ませたのが、Cửu Xừng』についてでした。先述したように、現在のトートンで用いられているスートは文・索・萬の三つであり、インターネットで調べても、このカードに関する情報はなかなか見つかりませんでした。しかもかなり文字を崩したデザインなので、元の漢字が何だったかも全く分かりませんでした。
 さらに僕を混乱させたのが、この漢字のクォックグー表記は『Sừng』だというベトナム人からの情報でした。結果から言うと、これは間違いであり、ほぼ同じ発音をする『Xừng』の書き間違いでした。僕はさっそくSừngの漢字・チュノム表記を調べましたが、その表記は漢字では『角』、チュノムでは『䈊』、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162049参照)』、、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162050参照)』であり、カードに描かれた文字とは似ても似つきません。
 その後、別の人から『Xừng』と書かれている資料をもらい、その表記を調べると、漢字にはXừngに対応する文字はありませんでしたが、チュノムにはありました。それが『表示不可(hyouhttps://jigen.net/kanji/133567参照)』です。これも一見、カードに描かれた文字とはだいぶ違うように見えますが、上で述べたようにチュノムは、中国の漢字では表す事の出来ないベトナム語の発音を表記するために、別々の漢字を組み合わせて一つの文字としているので、このチュノムの構成要素は、『称』と『升』という二つの漢字になります。(出典: Chu Nom.org https://www.chunom.org/pages/209BF/#209BF)
 そして、この中の『升』が、かなり崩されてはいるものの、問題のカードの文字と一致しているように見えます。これでようやく点と点が繋がりました。なお、漢越辞書によると、『升』という漢字を単にクォックグー表記した場合は『Xừng』ではなく『Thăng』になるようですが、日本人なら知っているように、漢字というものはその時代や地域によって様々な読み方をされる物であり、この場合も升という漢字がXừngと読まれていたのではないかと推測しています。この推測に則り、この記事ではCửu Xừng』を『升の九』と書いています。(もし違っていたらごめんなさい)

 ところで、お気付きかも知れませんが、これらのトートンのカードに描かれている人間のイラストは、19世紀の日本人の姿だったりします。その由来はWikipediaによると、フランス植民地時代にマルセイユの玩具メーカー カモワン社(Camoin)が、自社がベトナム向けに生産していたトートンに、日本から輸入された木版画・浮世絵に描かれた日本の庶民の姿をプリントしたのが始まりだそうです。そしてそのカモワン社製トートンがベトナムで広く流通したことで、それらのイラストはトートンの絵柄として定着し、100年以上経った現在でも変わらずに使われ続けているそうです。
 では、なぜカモワン社はベトナム人向けのカードゲームに日本の木版画のイラストを採用したのかと言いますと、具体的には説明されていません。しかしおそらくは、当時フランスでは日本から輸入された木版画・浮世絵などの『エキゾチック』な芸術作品が人気を博し、ジャポニスム(Japonisme)』と呼ばれる流行が発生したため、デザイン業界でも浮世絵に描かれた『オリエント』なモチーフを取り入れられた事がその一因であろうと推察できます。また、当時ほとんどの西洋人はベトナムも日本も中国も一括りにアジア、オリエントと見做しており、それぞれの文化の違いなど気にしなかったため、両国の文化は混同され、ベトナム向けのカードゲームに浮世絵のイラストが採用されたのだろうと僕は思っています。

 余談ですが、『オリエンタリズム(Orientalisme)』という言葉に代表される、このような当時のフランス人(およびほとんどの西洋人)が持っていた『想像上の』アジアへの憧憬、そして偏見は、つい半世紀前まで続いていた欧米諸国によるアジアへの植民地支配、帝国主義と深く結びついた概念でもありました。
 ただし、異国の文化についての誤解は、なにも西洋人に限った話ではなく、日本人もヨーロッパ諸国それぞれの国の文化の違いを正しく理解している者は少ないでしょうし、もっと言えば日本の周りの国ですら、いまだにあまりよく分かっていません。過去には、自国中心の偏見に満ちたアジア観を基に周辺国への領土拡大と統治を行い、大変な反発と遺恨を生じさせた事実は日本人なら誰もが知っておくべき事柄です。また現在でも、例えば日本のテレビ番組ではしばしば海外で日本の文化がいかに誤解されているかを取り上げていますが、では日本にある外国料理は?日本人が話す外来語やカタカナ英語は本来の意味で使われているのか?と思い返してみれば、他人の事は言えないですよね。
 さらに言えば、マスメディアやインターネットでは、タイと台湾は当然のように(反日の対義語として)『親日国』として語られますが、では実際、所謂『反日国』や、それ以外の国々とどれほど違うかと言いますと、実はそんなに変わらないと僕は思っています。第二次大戦において日本と戦ったアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア・フランスはもちろん、日本軍の恫喝によって軍政下に置かれたタイや、長く中国国民党政権が続いた台湾でも、大戦中の日本軍を好意的に見ている人はほとんど居ないです。一方、戦後日本が育んだ食事や音楽などの文化、工業・医療製品については、世界の大半の国々、そして日本で反日』と呼ばれる中国や韓国でも大人気であり、特に中国の小金持ちはこぞって日本に観光に訪れ、帰国後日本に行ったと自慢する事が一種のステータスとなっている感すらあります。
 数年前、あるニュース番組で、中国で発行されている『知日』という情報誌が紹介されていました。その雑誌を編集している僕と同じ世代、1980年代生まれの中国人編集者たちはインタビューの中で、「私たちはこの雑誌で、読者に日本を好きになってもらおうとは思ってはいません。ただ、彼らを好くにせよ嫌うにせよ、まずは相手の本当の姿を知る事が、我々自身にとっても大切な事なのです」という趣旨の言葉を語っていました。その通りだと思います。日本に訪れる中国人観光客が皆こういった意識を持っているとは思っていませんが、少なくとも中国国内にはこういう理知的な人々が居り、彼らの雑誌が人気を博してる事実は、両国の未来にとって歓迎すべきことだと思います。
 なお、知日は日本でも買えるようですが、ちょっと良い値段しますし、どうせ中国語読めないのでまだ呼んだ事は無いです。もし日本語訳版を作ってくれたら、是非読んでみたいですね。

こちらで販売中

今日は我ながら、いろんな方向に話が飛んでいくブログでした。

  


2018年06月07日

ヒーノス歯磨き粉

 随分前の事ですが、DeMilitarized Zone氏のブログこちらの記事で、『ヒーノス(Hynos)』がまだ製造されている事を知り驚きました。ヒーノスとはベトナム国産の歯磨き粉ブランドで、ベトナム共和国時代の写真を見ていると、ヒーノストレードマークである白い歯を輝かせて笑う黒人おじさん看板をよく見かけます。


 そのヒーノスがまだ売っているなら僕としては是非とも欲しいし、日本のベトナム軍リエナクター仲間へのお土産にも良いだろうと思い、一昨年ベトナムに行った時にコンビニなどで探したのですが、残念ながらその時は見つける事はできませんでした。サイゴン在住の友人に訊いても、どこで売ってるかは分からないと言っていました。
 それからしばらくヒーノスの事は忘れていましたが、最近ふと思い出しFacebookで友人たちに「これどこで売ってるの?」と質問してみたら、いろいろ教えてもらう事が出来ました。
 まず彼らから得た情報としては、ヒーノスブランドは現在市販されておらず、ホテルのアメニティグッズとしてのみブランドが継続しているとの事でした。なるほど、どうりで街のコンビニでは見つからないはずだ。ただし、当然ベトナムの全てのホテルに備わっている訳ではないので、僕がサイゴンのホテルに泊まった時は残念ながら見かけませんでした。
 ありがたいことに、何人かは「このホテルに置いてあったよ」と、ヒーノスが置いてあったというホテルをいくつか教えてくれたので、どこのホテルに置いてあるかは分かったのですが、歯磨き粉をもらう為だけにわざわざその街に行く訳にはいかないですよね。おそらくサイゴンのホテルにも普通に置いてあるっぽいですが、部屋を予約する時に「ヒーノスの歯磨き粉置いてますか?」なんて聞くのは恥ずかしいなぁ(笑) 

 さらにインターネットを調べてみると、ヒーノスに関する詳細な情報が載っていました。

Báo điện tử Pháp Luật thành phố Hồ Chí Minh(ーチミン市司法局 ホーチミン市法律電子新聞)
Hynos - cứ ngỡ kem đánh răng ngoại

Người Lao Động (ホーチミン市労働者連盟電子新聞 労働者)
Thắp lại hào quang thương hiệu Việt: Từ P/S đến Hynos

 これによると、ヒーノスは元々1950年代にユダヤ系アメリカ人実業家が南ベトナムに工場を作り立ち上げたブランドでした。しかしその創業者は、国に残してきた妻が亡くなった事で傷心し、アメリカに帰国してしまいす。その後、ヒーノスの経営を受け継いだのが、創業者の下で働いていたベトナム人従業員のブン・ダオ・ギア(Vương Đạo Nghĩa)でした。商才に恵まれたギアは、その後10年間でヒーノスをベトナムを代表する有名ブランドに成長させます。
 当時、サイゴンを中心とするベトナム南部の都市部の消費者の指向は欧米的で、いかに広告を打つかがビジネスの鍵であったため、多くの企業が美男美女をイメージキャラクターとして広告に使用しました。しかしヒーノスはあえてありきたりな美男美女を避け、ストレートに歯磨き粉としての効能、歯を白く美しくするという点をアピールするために、あえて肌の色と白い歯のコントラストが印象的な黒人男性の顔をトレードマークに採用します。そして街の至る所に看板を設置し、ラジオCMでは子供向けの陽気なテーマソングを放送するなどして、大人から子供まで誰もが知っている有名ブランドの地位を確立していきました。以下はラジオ広告で放送されたヒーノスの歌です。
Chà chà chà, Hynos, chà chà chà.
Chà chà chà, hàm răng em trắng bóc.
Cha cha cha, cha cha cha.
Và ngàn nụ cười, nụ cười tươi như hoa.

チャチャチャ ヒーノス チャチャチャ
チャチャチャ みんなの歯を白くする
チャチャチャ チャチャチャ
だからみんながにっこり 花のようににっこり
(筆者による意訳)
 しかし1975年4月30日、ベトナム共産軍がサイゴンを占領しベトナム全土がベトナム共産党の支配下に堕ちると、共産主義に則り南ベトナムに存在したすべての企業が国有化され、政府の統制下に置かれます。ヒーノスも例外ではなく、1975年に国有化された後、かつてのライバル企業であるコルペルロン(Kolperlon)と合併し、歯磨き粉の生産はその子会社のフォンラン(Phong Lan)へと引き継がれました。
 さらに1980年には他の三社とも合併し、ホーチミン市産業局直轄の化学化粧品合弁会社(Xí nghiệp Liên hiệp Hóa Mỹ Phẩm)となりますが、ドイモイ政策開始後の1990年に同社は解体され、フォンラン歯磨き粉を含む傘下にあった企業はそれぞれホーチミン市産業局の下で独立した企業となります。
 翌1991年、フォンラン歯磨き粉はP/S化学会社(Công ty Hóa phẩm P/S)へと改称され、さらにその後、1997年には英・蘭の多国籍企業ユニリーバ(Unilever)がP/Sに出資し、以後P/Sはユニリーバ傘下の化学化粧品メーカーとして現在にいたります。
 現在でもP/Sはベトナムの歯磨き粉トップシェアを誇り、どこのコンビニやスーパーに行ってもP/Sの歯磨き粉が売られていますが、ヒーノスというブランド自体は既に多くのベトナム国民から忘れられており、ホテルのアメニティとして細々と存続しているだけのようです。(もしかしたら一部では市販されているかも知れませんが、少なくとも若い世代におけるヒーノスという商品名の認知度はかなり低いです)


おまけ:1970年代初頭のサイゴン市内のスーパーマーケット


この数年後、サイゴンは北ベトナム軍の侵攻を受けて陥落し、ベトナム共産党政権による南部の『解放』が開始されます。以後ベトナムはベトナム共産党の施政下で世界の最貧国の一つに転落し、ベトナム国民は歯磨き粉はおろか食料すら満足に得られず、数十万人の国民が難民として国外に脱出する事となります。その後ベトナムは自由市場を一部導入する事でなんとか経済を持ち直し、ベトナム共和国時代に存在したような近代的なスーパーマーケットもようやく復活しましたが、そこに至るまでには十数年の歳月と数えきれない国民の犠牲を要したのでした。

  


Posted by 森泉大河 at 02:57Comments(0)1954-1975【ベトナムの文化】民生

2018年04月24日

続・4月の出来事

 2018年4月、オーストラリアのベトナム人権活動家テレサ・チャン・キウ・ゴック弁護士が初来日し、東京・姫路・大阪の三都市で講演会を行いました。そしてその内の一つ、東京のニコラ・バレ修道院で開催された講演会を取材してきました。テレサ先生が語られた祖国ベトナム、そしてそこに住む人々への愛情は、必ずや日本に住むベトナムの若者たちの心にも響いた事でしょう。

 またこの講演会の翌日から3日間に渡ってテレサ先生ご一行の日本観光ガイドという大役を務めさせていただきました。その間、講演会を主催された修道会様のご厚意で、テレサ先生たちが泊まっている東京都内のカトリック教会の宿泊施設に私も泊めさせていただきました。私はベトナム人でもカトリックでもないのに、神父様をはじめ修道会の皆様には大変温かく迎えて頂き、感謝の念に堪えません。

 さらにこの数日後、市の美術館にホーチミンを称える展示を設置した岡山県美作市に各国のベトナム人団体代表団が抗議した際も、姫路に滞在していたテレサ先生らも駆け付け、美作市役所で一緒に抗議活動を行いました。

 そして先週は在日ベトナム人共同体様主催の『Lễ Giỗ Tổ Hùng Vương (雄王命日の祭礼)』祝賀交流会にお邪魔してきました。Hùng Vương(ホン・ヴウン/雄王)とは、紀元前2897年から紀元前257年にかけての約2600年間に渡って現在のベトナム北部に存在したとされるベトナム最古の(伝説上の)王朝『文郎(ヴァンラン)国』を治めた歴代の国王の称号であり、その初代雄王はベトナムを建国した最初の王として神格化されています。そしてその初代雄王の命日である黄歴3月10日はベトナムの建国を記念する日として、ベトナム民族の重要な祝日とされています。(その為Lễ Giỗ Tổの日本語訳として「ベトナム建国記念日」が当てられている)
 式に様子については、また後日記事にしますが、今回は特に、現代ベトナム研究の第一人者で、私もその著書で勉強させて頂いている大東文化大学の中野亜里教授のお話を初めて生で拝聴し、握手までしていただけたのが一番うれしかったです。
 ちなみに僕はこの日は元々仕事で行けないはずだったので、関係者には前もって不参加と伝えていたけど、当日急に仕事が早く終わったので、急いで会場に直行。いないはずの人間がいきなりやって来たのでみんな驚いてました。ゲストでも何でもないけど、サプライズ登場成功(笑)



式の中で友人たちと一緒に歌ったチュック・ホー(Trúc Hồ)の名曲『Bên Em Đang Có Ta』



僕はまだベトナム語が十分に読めないので、自分でカタカナふった歌詞を持参して合唱に参加しました。

  


2018年04月18日

カオダイ教と日本[1]

 カオダイ教(Đạo Cao Đài)とは現在ベトナム国内に約500万人の信徒を抱え、過去には日本との深い関わりもあったベトナム最大の新宗教です。今回はそのカオダイ教徒たちが辿った歴史をご紹介します。

※2019年11月28日更新

こちらに、あらためて加筆修正した記事を掲載してありますのでご覧ください。

  


2018年01月21日

ホンサ海戦から44年

 1974年1月19日にホンサ諸島(Quần đảo Hoàng Sa, 中国名:西沙諸島)を巡ってベトナム共和国軍と中国軍が衝突した『ホンサ海戦(西沙諸島の戦い)』における犠牲者を追悼する式典が、今年も米国在住のベトナム共和国海軍軍人協会によって執り行われました。

(映像: SBTNOfficial)

 この戦いでベトナム共和国軍は撃沈1隻、戦死者75名*という損害を出し、ホンサ諸島からの撤退を余儀なくされます。同年、ベトナム共和国軍はホンサ諸島の奪還を計画し、多数の戦闘機・攻撃機が出撃準備を完了する状態にまで至りましたが、決行直前にアメリカ政府から作戦中止の要請を受け、結局奪還作戦が実行される事はありませんでした。そしてそれ以来、ホンサ諸島は44年間に渡って中国軍の占領下にあります。
*戦死者数については資料によって数名の誤差あり

▲中国海軍艦艇のロケット砲で撃沈されたベトナム海軍掃海艇HQ-10 ニャッタオ

 なお、当時北ベトナムを支配していたベトナム労働党政権は大戦後から一貫して中国共産党の指導下にあり、中国による支援に全面的に依存しながら南侵(ベトナム戦争)を続けていた為、ベトナム民主共和国として中国に対しホンサ諸島の領有を主張する事はありませんでした。ホンサ海戦により諸島全域が占領された後も、ホンサ諸島について言及する事は避けており、ホー・チ・ミンおよびベトナム労働党は事実上、ホンサ諸島を中国に売り渡していたと言えます。
 一方、ベトナム労働党の下部組織である南部のゲリラ組織 南ベトナム解放民族戦線は、南部人による独立した組織という建前もあったため、中国軍によるホンサ諸島占領を非難したそうですが、彼らの闘争もまた中国による軍事支援に依存しきっており、いずれの共産主義勢力も事実上の宗主国である中国に抗う事はできませんでした。

 ベトナムの歴史は「中国への抵抗の歴史」と言われるように、元来ベトナム人にとって中国に国土を奪われる事は最大の屈辱であり、ホンサ海戦は今日でも多くのベトナム人にとって忘れがたい悲劇として記憶されています。その為、ベトナム共産党への服従とベトナム共和国政府への憎悪教育が60年以上続いている今日の社会主義ベトナムにおいても、このホンサ海戦で犠牲となったベトナム共和国軍人に対しては、多くの人々がイデオロギーの違いを超えてベトナム民族の英雄として追悼の対象としています。

中国に立ち向かったベトナム共和国軍、そしてベトナム民族の歴史を象徴する歌 『Đáp Lời Sông Núi (山河に応えて)』


歌詞はこちらにあるので、Google翻訳か何かで雰囲気を感じて下さい。

おまけ: 土曜日の作業

金曜日は疲れてたので、夕方帰宅したあと布団に横になったら、そのまま翌日の朝まで約12時間寝てしまいました。
なので土曜日は朝8時からじっくり趣味の作業に没頭。

◆友人依頼分の自家製プリントパッチ作成
・ベトナム国家警察野戦警察隊
・第222野戦警察群
・第611野戦警察中隊
・陸軍第1歩兵師団(サブデュード)


◆徽章縫い付け

来月着る服


多分5月ごろ着る服。気が早いけど、テンション上がって作っちゃいました。


いつ着るか分からない服。まだパッチが全て揃ってないので、続きはおいおい。

  


2018年01月04日

あけおめ

お正月という事で、今年は日本在住ベトナム人協会様の新年のつどいにお邪魔してきました。

関東各地のベトナム人コミュニティ―が集まり、様々な手作りベトナム正月料理を販売しています。



僕は友人のところでチェー(お汁粉)売りをお手伝い


開会式を行うベトナム国旗の祭壇の前で記念撮影
すごいお正月感のある絵になりましたface02

行く前から分かっていたけど、会場内でアオザイ着てる人間は僕一人。
生来の目立ちたがり屋なので、しょうがない。

詳しいレポートは私の別ブログ ベトナムウォッチの方に掲載する予定です。
少々お待ちください。



ここ十数年で、本土から日本に渡るベトナム人研修生・留学生の数は、
難民として来日した日本定住者の20倍を上回り、
ベトナム大使館=共産党政府は現在、彼ら在日ベトナム人の思想を管理・統制すべく、
日本国内のベトナム人コミュニティーの乗っ取りに勤しんでいます。

具体的には、大使館が資金を出してベトナム人団体・学生団体を創設し、
また日本各地にベトナム仏教寺院を建設して
そこを在日ベトナム人コミュニティーの場とする事で、
共産党政府の指揮下にある青年団や僧侶が、
そこに集まる人々を監視および教化するという仕組みです。

残念ながら一国の政府が行う政策というのは強力なもので、
現在は資金的・人員的にも共産党系組織の方が日本国内で優勢です。
日本以外の先進国では、ベトナム政府による国民への弾圧は問題視されているため
共産党政府系組織が野放しにされる事はありませんが、
日本政府(自民党政権)はベトナムで金儲けさえ出来れば良いと思っているので、
あのような邪悪な独裁政権に非常に好意的であり、日本国内でも好きにさせています。
私はこのように恥知らずな我が国の政府を心から軽蔑しています。

しかしそんな中でも、政府による思想統制の異常性に気付き、
自由を求める若者が少なからずいます。
彼らは自分で学び、自分の意志で、あの黄色い
—かつてベトナムに自由と民主主義があった時代の
に下に集っています。

自国民を食い物にする邪悪な権力は必ずや滅びると信じて、
私は今年も、彼らのように人間としての正義を貫く人々を応援していきます。