2022年09月12日
海の民兵
※2022年9月15日更新
設定は、ベトナム戦争期にベトナム海軍が保有した準軍事組織『海船部隊(Lực Lượng Hải Thuyền)』の水夫です。
海船部隊とは、漁船等に偽装して物資を密輸する共産軍輸送船を取り締まるために、ベトナム海軍が設立した準軍事沿岸警備部隊です。実は僕が海軍関係のコスプレするのはこれが初めて。
海船部隊の人員は主に、その地域について知識豊富な地元の漁師・船員で構成され、それを海軍将校が指揮する、海の民兵と呼べる組織でした。



海船部隊の船員は正式な海軍軍人ではない為、その軍装はとてもラフな物で、軍服らしいものはベレーだけで、他は陸上の民兵組織と同様に民間の黒いアオババ(襟無しシャツ)とクアンザイ(長ズボン)が半ば制服として着用されていました。

海船部隊の使用する艦艇も主に武装を施した漁船であり、1960年代初頭までは帆船を使用していたため、その部隊章・ベレー章には帆船のデザインが採用されています。
そのため海船部隊は米海軍から『Junk Force(帆船部隊)』と呼ばれていましたが、後に艦艇は帆船からより近代的なエンジン付きの小型警備艇へと更新されます。

▲1960年代初頭以前の海船部隊の帆船

▲更新後の海船部隊警備艇

▲海船部隊の部隊章・ベレー章
海船部隊の船員は正式な海軍軍人ではない為、その軍装はとてもラフな物で、軍服らしいものはベレーだけで、他は陸上の民兵組織と同様に民間の黒いアオババ(襟無しシャツ)とクアンザイ(長ズボン)が半ば制服として着用されていました。

▲黒アオババを着用して任務に当たる海船部隊の船員と米海軍アドバイザー
2022年04月10日
海賊島の石碑
※2022年4月10日更新
今回の旅の中では、サイゴンから遠く離れて、ベトナム本土南部最西端の街ハーティンとフーコック島の中間にある小さな島、その名も『ハイタック島=海賊島』にも行きました。
リゾート地として有名なフーコック島ではなく、わざわざこんな辺鄙な島に行ったのには当然理由があります。
それがこちらの記念碑。ベトナム共和国時代の1958年にベトナム海軍によって設置された、ハイタック島を含むハイタック群島(現ハーティン群島)の領有を記念する石碑です。
石碑には当時のまま、ベトナム共和国(Việt Nam Cộng Hòa)の国名、そして旧ベトナム海軍の紋章が残されており、今日のベトナムでは大変貴重な史跡です。
このハイタック/ハーティン群島は長年、タイランド湾を荒らしまわる海賊の本拠地となっており、そこから海賊群島という名前が付けられたほどの無法地帯でした。
19世紀末にインドシナがフランス領になってからも海賊は一掃されず、資源も住民も無いこの群島は数十年に渡って植民地政府からも放置されていました。
その後、1939年に当時のインドシナ総督ジョセフ・ジュール・ブレビエによってタイランド湾の各諸島の(インドシナ連邦内での)行政区画を定めた『ブレビエ線(ligne Brévié)』が設定され、これが現在のベトナム・カンボジア国境の基礎となります。
このブレビエ線によって、ハイタック群島はついにコーチシナ(後のベトナム)の領域と定められました。

▲ベトナム・カンボジア国境。タイランド湾内の国境はブレビエ線に依る。
しかしその後、第一次インドシナ戦争の結果フランスがインドシナから撤退し、ベトナム、ラオス、カンボジアの3国が名実ともに独立を果たすと、旧宗主国フランスが一方的に設定したブレビエ線の正当性は失われます。
これによりハイタック群島を含むタイランド湾内の島々は、その領有を巡ってベトナム・カンボジア両国の係争地となりました。
そして1958年、ベトナム・カンボジア両国はそれぞれタイランド湾に軍を派遣し、各群島の実効支配を開始します。
しかし両国とも軍事衝突は避けたことから、支配地域はそれまでのブレビエ線とほぼ同一となり、そのまま両国の国境が確定しました。
この際、ハイタック群島がベトナムの領土として確定した事を記念したのが、今回訪問した記念碑になります。
なお、1975年のベトナム戦争終結以降、ハノイの共産党政権は旧ベトナム共和国が築いた歴史・文化・財産を徹底的に破壊しましたが、国境という権益だけはそのまま継承したため、ハイタック群島の領有を示すこの記念碑は今日まで破壊を免れてきたようです。
領土と言えば、ベトナム戦争中、中国に依存しきったハノイ政府は一度たりともホンサ諸島(西沙諸島)の領有権を主張しなかった一方、ベトナム共和国政府は中国海軍との海戦・地上戦を行ってでもホンサ諸島を自国の領土として守ろうとしました。(過去記事『ホンサ海戦から44年』参照)
しかしハノイ政府は、そんな過去は無かった事にして、すでに中国が占領済みのホンサ諸島の領有をいまさら主張していますね。まぁこれは本気で中国に対抗しているのではなく、国内向けのリップサービスというのが見え見えですが。
2021年10月22日
謎のM16A1 w/ XM148
先日、海外の友人が、ベトナムにおける不可思議なM16ライフルの写真を見せてくれました。
写真その1

アドバイサーと思しき米兵がXM148グレネードランチャー付きのM16A1ライフルを持っていますが、なんとハンドガードがXM148専用の物ではなく、通常のM16A1のままです。
なお撮影された場所・年代等は不明ですが、ボートを運転しているベトナム兵の左胸に付いているパッチは情報学校のものです。
写真その2

上の写真と続けて撮影されたと思われるこの写真では、XM148に加えてE4Aらしきサイレンサーまで装着されています。こちらもハンドガードは通常タイプで、スリングベルトも同じように付いているので、もしかしたら銃自体が同じ個体かも知れません。
なので撮影場所は第4軍管区(旧・第4戦術区)内のどこかという事になります。
この銃をイラストにすると、こんな感じ。

ベトナム軍(しかも二線級の地方軍)でサイレンサーが見られる事自体驚きですが、こちらは物さえあれば取り付けられるのでひとまず置いておくとして、とにかくハンドガードが謎過ぎます。こんな取り付け方は他に見た事がありません。
XM148を取り付けるために、わざわざハンドガードの下面を大きくくり貫いて穴を開けたとしか思えません。
たまたまグレネードランチャー本体だけ手元にあって、専用ハンドガードが無かったから、無理くり付けちゃったのでしょうか・・・。
なおベトナム軍では、XM148やM203といったアンダーバレルグレネードランチャー自体が一般部隊にはほとんど出回っておらず、その支給先は特殊部隊、特にNKT傘下のコマンド部隊に限られていました。
NKTはベトナム軍の特殊工作機関であるものの、1960年代を通じて米軍SOGによる特殊工作の実行部隊として活動しており、アンダーバレルグレネードランチャーを含む最近の火器・装備をSOGから直接支給されていました。
また下の写真のように、1970年代にはベトナム海軍LĐNN(フロッグマン部隊)でもまとまった数のXM148付きM16A1が見られますが、LĐNNは創立当初よりSOG指揮下のNKTシーコマンド部隊を構成していたため、このXM148もSOGがシーコマンドに対して支給した物を引き継いでいるのではないかと思われます。
(1973年の休戦に伴い潜入工作部隊であるシーコマンドは解散となったため、海軍シーコマンド中隊はそのままの装備で原隊であるLĐNNに復帰した)

国軍記念日のパレードにおけるLĐNN隊員(1973年6月19日サイゴン)
Posted by 森泉大河 at
14:57
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│【ベトナム共和国軍】│【アメリカ】│銃器│1954-1975│NKT/技術局│SOG/特殊作戦│被服・装備│LĐNN/フロッグマン│HQ/海軍│ĐPQ-NQ/地方軍・義勇軍
2018年01月21日
ホンサ海戦から44年
1974年1月19日にホンサ諸島(Quần đảo Hoàng Sa, 中国名:西沙諸島)を巡ってベトナム共和国軍と中国軍が衝突した『ホンサ海戦(西沙諸島の戦い)』における犠牲者を追悼する式典が、今年も米国在住のベトナム共和国海軍軍人協会によって執り行われました。
(映像: SBTNOfficial)
この戦いでベトナム共和国軍は撃沈1隻、戦死者75名*という損害を出し、ホンサ諸島からの撤退を余儀なくされます。同年、ベトナム共和国軍はホンサ諸島の奪還を計画し、多数の戦闘機・攻撃機が出撃準備を完了する状態にまで至りましたが、決行直前にアメリカ政府から作戦中止の要請を受け、結局奪還作戦が実行される事はありませんでした。そしてそれ以来、ホンサ諸島は44年間に渡って中国軍の占領下にあります。
*戦死者数については資料によって数名の誤差あり

▲中国海軍艦艇のロケット砲で撃沈されたベトナム海軍掃海艇HQ-10 ニャッタオ
(画像: Công ty Cổ phần VCCorp: Số phận khác nhau của 4 chiến hạm VNCH tại Hoàng Sa tháng 1/1974)
なお、当時北ベトナムを支配していたベトナム労働党政権は大戦後から一貫して中国共産党の指導下にあり、中国による支援に全面的に依存しながら南侵(ベトナム戦争)を続けていた為、ベトナム民主共和国として中国に対しホンサ諸島の領有を主張する事はありませんでした。ホンサ海戦により諸島全域が占領された後も、ホンサ諸島について言及する事は避けており、ホー・チ・ミンおよびベトナム労働党は事実上、ホンサ諸島を中国に売り渡していたと言えます。
一方、ベトナム労働党の下部組織である南部のゲリラ組織 南ベトナム解放民族戦線は、南部人による独立した組織という建前もあったため、中国軍によるホンサ諸島占領を非難したそうですが、彼らの闘争もまた中国による軍事支援に依存しきっており、いずれの共産主義勢力も事実上の宗主国である中国に抗う事はできませんでした。
ベトナムの歴史は「中国への抵抗の歴史」と言われるように、元来ベトナム人にとって中国に国土を奪われる事は最大の屈辱であり、ホンサ海戦は今日でも多くのベトナム人にとって忘れがたい悲劇として記憶されています。その為、ベトナム共産党への服従とベトナム共和国政府への憎悪教育が60年以上続いている今日の社会主義ベトナムにおいても、このホンサ海戦で犠牲となったベトナム共和国軍人に対しては、多くの人々がイデオロギーの違いを超えてベトナム民族の英雄として追悼の対象としています。
中国に立ち向かったベトナム共和国軍、そしてベトナム民族の歴史を象徴する歌 『Đáp Lời Sông Núi (山河に応えて)』
歌詞はこちらにあるので、Google翻訳か何かで雰囲気を感じて下さい。
おまけ: 土曜日の作業
金曜日は疲れてたので、夕方帰宅したあと布団に横になったら、そのまま翌日の朝まで約12時間寝てしまいました。
なので土曜日は朝8時からじっくり趣味の作業に没頭。
◆友人依頼分の自家製プリントパッチ作成

・ベトナム国家警察野戦警察隊
・第222野戦警察群
・第611野戦警察中隊
・陸軍第1歩兵師団(サブデュード)
◆徽章縫い付け

来月着る服

多分5月ごろ着る服。気が早いけど、テンション上がって作っちゃいました。

いつ着るか分からない服。まだパッチが全て揃ってないので、続きはおいおい。
2016年11月05日
続・地方軍の構成
※2022年7月15日更新
前記事も併せてお読みください。
地方軍・義勇軍の構成 http://ichiban.militaryblog.jp/e751764.html
今回はベトナム空挺アソシエーション『GĐMĐVN=ベトナム赤帽家族』に掲載されていた地方軍の指揮系統、各軍管区を構成する小区についてのまとめを邦訳しました。
出典: Gia Đình Mũ Đỏ Việt Nam: Trang Huy Hiệu Địa Phương Quân & Nghĩa Quân QLVNCH (by. Hiệp Nguyễn)
指揮系統
地方軍・義勇軍中央司令部 (Bộ Chỉ huy Trung ương ĐPQ-NQ)サイゴンのベトナム共和国軍総参謀部内に設置された地方軍の最高司令部
戦術地区/軍管区 (Vùng Chiến Thuật / Quân Khu):ベトナム共和国軍の管区。全国4つ管区に分かれ、それぞれに軍団本部および地方軍管区司令部が併設されている。1970年に戦術地区から軍管区に改称される
小区 (Tiểu khu):省毎に設置される地方軍司令部。全国44省にそれぞれ小区本部が設置された
特別区 (Đặc khu):小区の下に特別に設置される地方軍地区。全国に計5個の特別区本部が設置された。特別区はいくつかの支区を束ねるが、全ての支区が特別区に含まれる訳ではない
支区 (Chi khu):小区の下に設置される都市(Thành phố)毎の地方軍地区。全国に計242個の支区本部が設置された
部隊編成
ĐPQ群 (Liên Đoàn ĐPQ):小区の下に設置される地方軍部隊。最終的に全国で50個のĐPQ群が編成された。それぞれのĐPQ群は4~8個のĐPQ大隊で構成される
ĐPQ大隊 (Tiểu Đoàn ĐPQ):小区の下に設置される地方軍部隊。ĐPQ部隊は当初、中隊(Đại Đội ĐPQ)として編成されていたが、地方軍の規模拡大に伴い1972年にĐPQ大隊に改変、最終的に全国で353個のĐPQ大隊が編成された。各ĐPQ大隊は5個の中隊で構成され、本部中隊が80名、4個の作戦中隊はそれぞれ123名が定員とされた。ただし実際にはĐPQ大隊の規模は平均して400名ほどであった
独立ĐPQ中隊 (Đại Đội ĐPQ Biệt lập):ĐPQ大隊に属さない小区本部直属の地方軍中隊
偵察ĐPQ中隊 (Đại Đội Trinh sát ĐPQ):ĐPQ大隊に属さない小区本部直属の独立地方軍パトロール中隊。小区=省に所属していることから別名"省偵察隊(Đơn Vị Thám Sát Tỉnh)"とも呼ばれ、これを英訳したものがProvisional Reconnaissance Unit (PRU)という呼称である※2017年10月2日訂正正しくは米国CIAが組織した省探察隊(PRU)がフェニックス・プログラムの終了に伴い解散した後、1972年に地方軍内に偵察中隊として再編されたもの。
NQ小隊(Trung Đội Nghĩa Quân):村長の指揮下に置かれる地方軍の最小単位。独立ĐPQ中隊・NQ小隊は合わせて数千個小隊が編成された地方砲兵 (Pháo binh diện địa):
全国で計176個の砲兵小隊が編成された。地方砲兵は105mm榴弾砲を計352門装備し、その規模は砲兵大隊20個分に相当した
第1戦術地区/軍管区5個小区本部・38個支区本部・1個特別区本部(クァンダ特別区)7個ĐPQ群・53個ĐPQ大隊・その他独立ĐPQ中隊/NQ小隊多数兵力約75,000名
1. クアンチ小区
計3支区・7個ĐPQ大隊/後に第913ĐPQ群を編成
2. トィアティエン小区(フエ市)
計10支区・12個ĐPQ大隊/後に第914ĐPQ群を編成
3. クアンナム小区
計9支区・14個ĐPQ大隊/後に第911ĐPQ群・第915ĐPQ群を編成
4. クアンティン小区
計6支区・8個ĐPQ大隊/後に第916ĐPQ群を編成
5. クアンガイ小区
計10支区・12個ĐPQ大隊/後に第912ĐPQ群・第917ĐPQ群を編成
6. ダナン市
第2戦術地区/軍管区12個小区本部・60個支区本部・1個特別区本部(カムラン特別区)81個ĐPQ大隊・その他独立ĐPQ中隊/NQ小隊多数
1. ビンディン小区(クイニョン市)
計11支区・18個ĐPQ大隊・12個独立ĐPQ中隊・620個NQ小隊/
後にトゥドゥック歩兵学校71年4期生により以下の2個ĐPQ群を編成
第921ĐPQ群(第215ĐPQ大隊・第216ĐPQ大隊・第215ĐPQ大隊・第234ĐPQ大隊)
第927ĐPQ群(第209ĐPQ大隊・第217ĐPQ大隊・第218ĐPQ大隊・第234ĐPQ大隊)
3個独立ĐPQ大隊(第201ĐPQ大隊・第207ĐPQ大隊・第263ĐPQ大隊)
1個独立偵察中隊(第108偵察ĐPQ中隊)
2. フーイェン小区
計6支区・7個ĐPQ大隊/後に第924ĐPQ群を編成
3. カンホア(ニャチャン市およびカムラン市)小区
計6支区
4. ニントゥアン小区
計5支区・3個ĐPQ大隊
第129ĐPQ中隊 - チャンビンニア村
第215ĐPQ大隊 - タンホー
第273ĐPQ大隊
第280ĐPQ大隊 - タンソイ
第373ĐPQ大隊 - タンロン・ソンファ
5. ビントゥアン小区
計8支区・8個ĐPQ大隊/後に第925ĐPQ群を編成
第202ĐPQ大隊
第249ĐPQ大隊
第275ĐPQ大隊
6. フーボン小区
計3支区・4個ĐPQ大隊・10個独立ĐPQ中隊・30個NQ小隊
7. トゥエンドゥック小区(ダラット市)
計3支区
8. ラムドン小区計2支区
9. コントゥン小区
計5支区
10. プレイク小区
計3支区・9個ĐPQ大隊・2個独立ĐPQ中隊
11. ダクラク小区(バンメトート市)
計5支区・6個ĐPQ大隊/後に第918ĐPQ群・第924ĐPQ群を編成
第924ĐPQ群(第612ĐPQ中隊・第204ĐPQ大隊・第2224ĐPQ大隊・第233ĐPQ大隊)
12. クァンドゥック小区
計3支区・4個ĐPQ大隊
第3戦術地区/軍管区11個小区本部・53個支区本部・2個特別区本部(ズンサット特別区・ブンタウ特別区)75個ĐPQ大隊・その他独立ĐPQ中隊/NQ小隊多数
1. ビントゥイ小区
計3支区・4個ĐPQ大隊・9個独立ĐPQ中隊3個ĐPQ群(各3個中隊)が1972年初頭ĐPQ大隊に改編1975年1月にフォクロン小区が陥落するとフォクロンの第341ĐPQ大隊はビントゥイ小区で再編成される。※第341ĐPQ大隊の人員はもともと第1軍管区クアンチ省出身で、1972年の"クアンチの戦い"の際に難民として南部に避難した人々第344ĐPQ大隊 - ホァイドゥック地区(ボーダット)
第369ĐPQ大隊 - 国号1号線・第5基地(ロンカン)、第15基地(ビントゥアン)第370ĐPQ大隊 - ビントゥイおよびビントゥイ小区本部第341ĐPQ大隊第512偵察ĐPQ中隊第513偵察ĐPQ中隊その他8個独立ĐPQ中隊タンリン支区: 第700独立ĐPQ中隊、第710独立ĐPQ中隊、第720独立ĐPQ中隊、第878独立ĐPQ中隊ハムタン支区: 第514独立ĐPQ中隊、他1個独立ĐPQ中隊
2. フゥックトゥイ小区(ブンタウ市)計5支区・6個ĐPQ大隊
3. ジアディン小区(首都サイゴンおよびコンソン島)計8支区・9個ĐPQ大隊クアンスェン支区、カンゾウ支区が属するズンサット特別区に3個ĐPQ大隊・4個独立ĐPQ中隊
4.ロンカン小区計3支区・4個ĐPQ大隊・3個独立ĐPQ中隊
5. ビエンホア小区計6支区・13個ĐPQ大隊(6675名)・12個独立ĐPQ中隊・133個NQ小隊(2979名)
6. ロンアン小区計7支区・12個ĐPQ大隊・5個独立ĐPQ中隊・192個NQ小隊
7. ビンズゥン小区計6支区・8個ĐPQ大隊/後に第935ĐPQ群を編成
8. ハウニア小区計4支区・5個ĐPQ大隊
9. フックロン小区計4支区・4個ĐPQ大隊・48個NQ小隊
10. ビンロン小区計2支区・2個ĐPQ大隊
11. タイニン小区計5支区・8個ĐPQ大隊
第4戦術地区/軍管区16個小区本部・92個支区本部・1個特別区本部(フーコック特別区)17個ĐPQ群・144個ĐPQ大隊・125個独立ĐPQ中隊・NQ小隊1000個以上兵力約115,000名
1. ゴーコン小区計4支区
2. キェンホア小区計9支区・14個ĐPQ大隊(第401ĐPQ大隊・他)
3. ヴィンビンン小区計7支区
4. バースェン小区計5支区/後に第953ĐPQ群を編成ロンフー支区: 第486ĐPQ大隊
5. バクリュウ小区計4支区・ĐPQ / NQ兵士13000名
6. アンスェン小区計6支区・7個ĐPQ大隊第412ĐPQ大隊"Cá Hóa Long"第446ĐPQ大隊"Thần Hổ 446"第490ĐPQ大隊"Mãnh Hổ"第491ĐPQ大隊"Mãnh Sư"第492ĐPQ大隊"Thần Điểu"第536ĐPQ大隊"Hắc Báo"第537ĐPQ大隊"Bạch Phụng"
7. ディントゥン小区(ミトー市)計8支区
8. ビンロン小区計7支区・11個ĐPQ大隊/後に3個ĐPQ群を編成
9. フォンズィン小区(カントー市)計6支区
10. シュンティエン小区計6支区
11. サデク小区計4支区
12. アンザン小区
計4支区・6個ĐPQ大隊・5個独立ĐPQ中隊/後に第954ĐPQ群を編成
13. キェントゥン小区計4支区
14. キェンフォン小区計5支区
15. チョウドック小区計5支区
16. キェンザン小区(ザックザー市)計7支区
以上がGĐMĐVNに掲載されていた地方軍の構成です。支区・ĐPQ大隊の数を把握できたのは嬉しいですが、それぞれの小区内の構成についてはまだまだ不明な部分が多く、その全貌はつかめていません。NQ小隊は多すぎるにしても、せめてĐPQ大隊くらいは全てリスト化したいので、引き続き情報収集を行っていきます。
おまけ: 軍籍番号 (Số Quân)について
最近、長年謎だったベトナム共和国軍軍人が入隊時に取得する軍籍・軍人番号の規則性について進展がありました。
また他の人の意見では、先頭二桁は兵役地区番号ではないかという説も耳にしました。数字に一桁代が見られない(数十以上)なのは、フランス連合時代にベトナム北部から順に地区番号がふられたため、ジュネーヴ協定後は南部の(数字の大きい)番号しか残らなかったためだと考えられるそうです。しかしこれも、不自然な番号や文字が用いられる場合があり、根拠が不足していました。
その後、元共和国軍人の方から「先頭二桁は生まれた年に20を足した数だ」と教えてもらいました。しかしこれも、軍人身分証をいくつも確認していくとそれに当てはまらないパターン、つまり先頭2桁が身分証に記載されている生年下二桁+20にならないパターンも多くある事が分かり暗礁に乗り上げました。

ところが先日、別のベテランの人から決定的な情報を教えて頂く事が出来ました。
・正規兵(陸海空軍)は生年下二桁+20 例)1951年生まれ=71
・非正規兵(ĐPQ-NQ)は生年下二桁そのまま 例)1951年生まれ=51
なるほど~!確かに言われてみれば、上記以外の軍人身分証を確認してみても、+20になっていないのはĐPQやNQ所属者(階級の横にĐPQもしくはNQと書いてある)だけでした。ただしNQだけは、生年が入る場合と"NQ"という文字が入る場合の2パターンがあるようです。
また正規兵の番号には、単に生年下二桁+20の場合と、生年下二桁+20に"A"というアルファベットが追加される場合があります。今確認できている限りでは、Aが付くのは海軍軍人のみとなっています。しかしなぜ海軍のみAが付くのか、なぜ空軍や海兵隊には何もつかないのかは全く分かりません。今後も調べて行こうと思います。

1974年1月、西沙諸島をめぐる中国海軍との武力衝突"ホンサ海戦"において戦死したベトナム海軍軍人のリスト
(海軍艦隊司令部 1974年3月2日作成の文書より)
2016年01月17日
ボタン比較
柄にもなく、真面目に手持ちのベトナム共和国軍作戦服(戦闘服)の実物ボタンと、各社のレプリカのボタンを比較してみました。




※出来るだけ目で見た色味に近付くよう調整しましたが、それでも照明やモニター等の環境によって色は違って見えます。
※ボタンを外してまで正確に測る気はなかったので、厚みはなるべく厚そうな部分にノギスをつっこんで測った数値です。
今のところ、過去にチャーリーさんが制作した2ポケット緑色(肩当付き)作戦服に付いていたボタンが一番出来が良いと思います。
こうして並べてみると若干黄緑色が強い気もしますが、単体で見れば区別つかないレベル。なので僕はこのボタンを実物作戦服の補修用に使っています。
ただしチャーリー製作戦服はだいぶ昔に販売終了してますし、ボタン単体では出回ってないので入手困難です。
なので僕は長らく、色形の似たボタンということでMASHさんの米軍OG-107作業服用ボタンをメインの代用品として使ってきました。
しかしこのOG-107ボタンはパッと見違和感はありませんが、やはりよく見ると色味はベトナム軍のグリーン色と言うよりはOD色ですし、形も中心部が膨らんでいるので、その部分は妥協するしかありませんでした。
ところが一昨年、ついにクラッシファイドさんより2ポケット作戦服のレプリカが発売され、そのボタンも単体で買えるようになりました!→RVN 南ベトナム軍 ユニフォーム用 OD ボタン 20個セット レプリカ新品【DM便可】
現在唯一入手可能なベトナム軍ボタンのレプリカであり、補修や改造に大変重宝しています。ありがたや、ありがたや
しっかし、こうして見るとベトナム軍作戦服のレプリカって意外と多くのメーカーが作ってるんですね。
上記の他にもアメリカやフランス、香港、台湾などのメーカーからも発売されていましたし。
よくよく考えると、レプリカ軍服の豊富さで言えばベトナム軍は、軍装趣味の王道であるアメリカとナチス・ドイツの次くらいに恵まれているのかも。
まして同じインドシナ諸国でも、ラオスやカンボジアの軍服が商品化される見込みは皆無だし。
ラオス王国軍は出たら必ず買うんだけどなぁ。
おまけ (またいつもように、ただYoutube動画を貼るだけ)
▲ベトナム共和国海軍の訓練・教育とその指導に当たる米海軍軍事顧問 (1962年9月2日)
第一共和国(ジェム政権)期の海軍の動画はかなり珍しいと思います。
▲第25歩兵師団の戦闘 (ハウギア省, 1972年11月13日)
▲ベトコンによる国立報道センター爆弾テロ事件 (サイゴン, 1970年2月10日)
▲FSBダクトの砲兵とレンジャー部隊 (コントゥム省ダクト・トゥカイン, 1970年4月14日)
▲クアンチの戦い (クアンチ省クアンチ, 1972年8月7日)
▲カンボジア領内で作戦中のレンジャー部隊 (クメール共和国Krek, 1971年11月27日)
▲パトロール中の装甲騎兵部隊 (タイニン省, 1973年1月21日)
M48戦車を装備していることから、歩兵師団付きの騎兵大隊ではなく、軍団付き騎兵旅団の騎兵大隊(独立戦車大隊)のようです。
2014年05月16日
クリパス速報
いっこうにアップロードするフィルムの質と量に衰えを知らないYoutubeチャンネルCriticalPast(以下クリパス)。
ホントありがたいことにほぼ毎日新しいフィルムを十数本アップロードしているので、ボヤボヤしてると良い映像を見逃してしまいそう。だから毎日のチェックが欠かせません。
別に、あとから検索すれば良いんですが、あまりにしょっちゅう見ているので、アップされてから最初の再生が僕ということが多くなってきて、なんかクセになってきました。
恐らく撮影した米軍関係者と、クリパスの担当者以外はまだ誰も見た事の無い映像なので、それを世界で最初に見れるのが楽しくてたまらないのです。
海軍司令官チャン・バン・チョン副提督(海軍准将) 1969年11月20日
1966年から1974年まで南ベトナム海軍司令官を務めたチャン・バン・チョン副提督(当時)の動画!今流行の「提督」です!
Posted by 森泉大河 at
15:23
│Comments(4)
│【ベトナム共和国軍】│【インドシナ少数民族】│1954-1975│人物│DSCĐ/CIDG計画│HQ/海軍│ĐPQ-NQ/地方軍・義勇軍│デガ
2014年04月25日
またYoutubeから
空飛ぶ首相 グエン・カオ・キ(1965年)
「お!このB-57、米軍じゃなくて南ベ空軍機だ!」と思ったら、中から出てきたのはグエン・カオ・キww
この人ジェット爆撃機まで操縦してたのかw
南ベトナム空軍司令官であったキ少将はこの年の2月、グエン・バン・チューら軍の若手将軍グループと共にクーデターを実行します。(1965年クーデター)
当時南ベトナムは国家評議会議長ファン・カク・スーを首班とする文民政府がようやく復活したばかりでしたが、実際には先の権力者グエン・カーン大将が政治を牛耳っており、カーン大将の排除はアメリカの意向でもありました。
そしてクーデターの結果、カーン大将およびその一派は失脚。6月にはグエン・バン・チュー中将が国家元首である国家評議会議長へ、グエン・カオ・キ少将が首相へと就任したのでした。(1967年からはチューは総統、キは副総統となる)