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2023年03月11日

タハーンプラーン計画その2


上着に続いて、タハーンプラーン用のネッカチーフを作りました。材料費300円。


まだ一式は揃ってないけど、前回作った上着と合わせて自撮り。



僕が再現しようとしているのは1980年代のタハーンプラーンPCCS513(第513計画管理調整部隊)でして、その513部隊では隊員のほとんどがこの黒服と黒/赤のネッカチーフを着用しています。

PCCS513

一方、同じタハーンプラーンでも、第514部隊では、隊員は陸軍と同じタイ国産リーフ迷彩服を着ており、またネッカチーフは無しか、もしくは緑単色を着用している写真をよく見ます。

PCCS514

という事は、黒/赤ネッカチーフは513部隊の制服/識別色という事なのかな・・・。
まだ調べが足りないので結論は出さないでおきます。

  


Posted by 森泉大河 at 23:56Comments(0)自作グッズ1975-1989【タイ】

2023年03月05日

王妃陛下の毒蛇

推奨BGM:クイーンズコブラ行進曲



先日の記事『作成中の服』の中で紹介した、ベトナム派遣タイ陸軍義勇連隊クイーンズコブラ仕様の戦闘服が完成しました。.

服はセスラー製米軍TCU(1stパターン)をそのまま使っています。

そもそもクイーンズコブラを始めようと思ったのは、2018年にタイのリエナクター仲間と軍装撮影会をした際、クイーンズコブラの部隊パッチをプレゼントされたのがきっかけなので、あれから5年かけて、ようやく形になりました。

▲2018年、バンコクのナショナル・メモリアルにて

クイーンズコブラ連隊はベトナム派遣FWMF(自由世界軍)の一員として臨時に編成されたタスクフォースであり、またFWMFの盟主であるアメリカ軍(第9歩兵師団)の作戦指揮下に組み込まれたため、その徽章類は通常(国内)のタイ軍とは大きく異なります。
以下は今回の為にタイで購入したり、友達からもらったり、オーダーメイドしたクイーンズコブラ連隊仕様の徽章類です。

1. 帽章:タイ陸軍
2. 兵科章:歩兵科
3. 部隊章第21歩兵連隊*1
4. 国籍タブタイ王国
5. 部隊章アメリカ陸軍第9歩兵師団
6. 部隊章クイーンズコブラ連隊
7. 近衛徽章: シリキット王妃栄誉章*2
8. 軍種章:タイ王国陸軍
9. 名札:パヤック(友人に命名してもらいました)

※1:クイーンズコブラはタスクフォースであるため、原隊(この場合は第21歩兵連隊)部隊章も佩用される。
※2:第21歩兵連隊は近衛部隊(王妃近衛)であるため、シリキット王妃栄誉章を佩用する。ちなみにクイーンズコブラの「クイーン」もシリキット王妃(現・王太后)陛下を意味している。



また、タイ軍では布製徽章類はジグザグ縫いで縫い付けられる事が多い(全てではない)ので、そこも再現しています。

これは上手く縫えた部分であって、他の部分では僕の技量不足で縫い目が汚くなっちゃったのもありますface07

ともあれ、これで被服・装備はほとんど揃いました。
あと足りないのは・・・プラクルアン(仏像・高僧像のお守り)。


現時点で友人からお土産としてもらった分の3個持ってますが、プラクルアンは「タイ軍のボディーアーマー」と揶揄されるくらいジャラジャラ首に下げられているタイ兵のソウルアイテムなので、少なくともこの倍は欲しいです。

  


Posted by 森泉大河 at 13:48Comments(0)1954-1975【タイ】

2023年03月01日

80年代タハーンプラーン計画

※2023年3月15日更新

前回の記事で3着作成中と書きましたが、さらにもう一着、作成が進みました。

素材はアルファ社の米軍ユーティリティ裁断の黒い服。


これのポケットを四角く改造して、2015年にタイの友達にもらったパッチを縫い付け。


1980年代のタイ王国タハーンプラーン部隊(陸軍の傘下にある準軍事国境防衛組織)という設定です。

ベレーは現在タイ売っているPX品の陸軍/警察ベレーを使用。



現状で全体の7割くらいは揃いました。


ライフルは中国製の56-1式(プレス加工タイプ)が主だったようですが、当面はAKS-47で代用するつもりです。

僕はこの20年くらい、「1946-1975年のインドシナ諸国」と範囲を決めて軍装を集めてきましたが、今回この枠を初めて超えて、80年代のタイ軍装に挑戦しています。
僕にとってはかなり新しいチャレンジなので、久しぶりにウキウキしています。
早く一式そろえてタイの友人たちに写真を送ってやりたいです!
  


Posted by 森泉大河 at 23:59Comments(0)1975-1989【タイ】

2023年02月15日

作成中の服

こう寒いと外で撮影会をする気にならないので、冬は物品収集に専念してます。
その中で、まだ一式は揃っていませんが、完成する目途が立った軍装を予告的に公開。

①ベトナム陸軍第1空挺大隊 副大隊長ド・カオ・チ中尉 夏季勤務服(1951-1954年)

▲左から2番目がド・カオ・チ


僕の一番好きなベトナム軍人であるド・カオ・チ大将の中尉・第1空挺大隊時代の夏季勤務服を作成中。
上着は米軍半袖チノで代用。第1空挺大隊の徽章・ベレー章は過去記事ステホ10の時に揃えてあるので、あとは階級章を自作すればすぐにできそうです。


②ベトナム陸軍特殊部隊(1963-1964年)



発足当初の特殊部隊(LLĐB)の軍装です。
LLĐBはジエム総統直属の特務機関として仏教徒危機で学生とかお坊さんをボコボコに殴ってたら、ミン将軍のクーデターでLLĐB司令タン大佐はジエム総統もろとも暗殺発足から1年経たずしてLLĐB本部は解体。翌年には新体制下で再スタートできたけど、ベレー・徽章類はその時変更となったので、この黒ベレーはとても短命に終わったスタイルです。(過去記事『LLĐBのベレー』参照)
服は民生ハンティングウェアですが、60年初頭の特殊部隊は同型の米国製ハンティングウェアが多数使われていたので、無改造で使うものありだと思っています。


③ベトナム派遣タイ陸軍義勇連隊クイーンズコブラ(1967-1968年)




タイの刺繍屋にオーダーしていた徽章一式がようやく完成したと知らせが来ました。ここまでの道のりは長かったんですよ。
バンコクにベトナム戦争時代に実際にこれらの徽章を作っていた刺繍屋があるので、そこに頼もうと思っていたら、店主が高齢で、コロナが怖くて店を閉めてしまったそうなんです。なので店を探すところからやり直し。
幸いタイの友人がバンコクではない他の街に古い刺繍屋を見つけてくれたので、そこに頼むことが出来ました。到着が待ち遠しい!

  


2022年10月24日

3年弱ぶりの再会

コロナ前、タイや日本でよく一緒に遊んでいたタイの友人と、2年8か月ぶりに東京で再会しました。
久しぶりの再会を祝してアメリカ軍特殊レスキュー部隊式の握手を交わします。


どうやらお互い、デスクワークで腕が鈍ったようです。

彼と初めて出会ったのは2015年。
バンコクのタイ空軍博物館で軍装コスプレ撮影会した際に知り合いました。

しかし2020年2月に彼が来日し一緒に上野で遊んだ直後、コロナが世界的に流行してしまい、それ以来お互い国外に行き来できなくなってしまいました。
あれから3年弱が経ち、ようやく世の中が落ち着いてきたので、今回彼は奥さんと久しぶりの日本旅行に訪れた次第です。

当日はお台場で集合して、世にも珍しい首なしガンダム:ユニコーンガンダム・デストロイドモードの前で記念撮影。
ダイバーシティー内のガンダムベースや、うんこミュージアムで遊びました。

また、彼が日本に来る前、僕に「お土産何が欲しい?」と聞いてきたので、タイのお守り『プラクルアン』が欲しいとお願いしたら、3つも買ってきてくれました。


家に帰って自撮りした写真。半裸で身に着けると南国感が高まります。



今後数を増やして、いずれこうなる予定。

▲ラオス派遣タイ軍とされる写真
第2次インドシナ戦争期はタイ国内でプラクルアンが一番流行っていた時期だそうです。


今回僕は仕事の都合でこの一日しか遊べませんでしたが、彼は来年、別のタイの友達も誘ってまた日本に来ると言っていたので、その時はちゃんと休みを取って何日か一緒に日本を周れたらと思います。
  


Posted by 森泉大河 at 21:03Comments(0)【タイ】旅行・海外

2020年08月06日

タイ製ARVNラックサック

僕の持ち物ではないのですが、タイに住むベトナム共和国軍リエナクターの友人が、彼のコレクションの中から興味深い写真を送ってくれたのでご紹介します。



ARVNラックサック

今回はタイ製ARVNラックサックの話なのですが、その前に、こんなブログをやっていながら未だにオリジナルのARVNラックサックについて書いた事がなかったので、軽くおさらいしておきます。
ARVNラックサックとはその名の通り、ベトナム戦争期のベトナム共和国軍で用いられた代表的な背嚢です。
このARVNラックサックは、アメリカ陸軍の装備開発機関ナティック研究所が1960年代前半に、同盟軍であるベトナム共和国軍の戦力増強を目的として開発した軍事支援物資の一つであり、1964年末よりベトナム軍への本格的な支給が始まり、以後1975年の終戦まで10年間に渡って歩兵の基本装備として大量に用いられました。
なお『ARVNラックサック』は単なる通称ではなく、この背嚢を開発・生産したアメリカ軍での正式名称も『Rucksack, ARVN』であり、またアメリカ政府の予算で生産された為、8465-782-3133というFSN(連邦備品番号)も付与されています。

▲納品時に付くARVNラックサックの製品タグ

なお、過去記事『ARVNとは?』で書いたように、当時ARVNとはベトナム共和国軍全体ではなく、陸軍のみを指す言葉でした。
したがって海兵隊や地方軍も陸軍同様ARVNラックサックを支給されていたものの、これらの組織は陸軍には属しておらず、ARVN(陸軍)ラックサックという名称は支給対象を正確に反映したものではありません。
ちなみに1970年には、アメリカはARVNラックサックと同じくベトナム軍向け援助装備として、米軍3/4カラー・M69ボディーアーマーのサイズをベトナム人の体格に合わせて全体的に縮小したボディーアーマーを生産・供与しますが、その名称はARVNではなく、ベトナム共和国軍全体を意味するRVNAFを取り入れ、3/4カラー・ボディアーマー(RVNAF)』となっています。



タイ製ARVNラックサック

ここからが本題のタイ王国製ARVNラックサックについてです。
第2次大戦後、東西冷戦を背景にタイ軍はアメリカによる軍事支援によって増強され、タイはアメリカを盟主とする反共軍事同盟SEATO(東南アジア条約機構)およびFWMAO(自由世界軍事支援機構)の主要構成国となっていました。
ベトナム戦争にアメリカが本格参戦すると、タイもこれに同調して1967年から1972年までベトナムへの大規模派兵を行い、最終的な派兵兵力はオーストラリアを上回り、アメリカ・韓国に次ぐ第3位のベトナム駐留外国軍となりました。
こうした立ち位置から、当然タイ軍の装備は他の親米諸国と同様に、そのほとんどをアメリカからの供与品およびその国内生産品が占めており、その中には米軍がベトナム軍支援のために開発したARVNラックサックも含まれていました。
ただしタイで生産されたARVNラックサックの中には、ベトナムに供与された物とは明らかに異なる仕様の物が存在していたようです。
以下、友人が所有するアメリカ製(左)・タイ製(右)ARVNラックサックの比較です。

ポケット側に違いはほとんど見られません。

 
大きな違いは背中側にあります。
まず、オリジナルには無い、X型フレームのクロス部分を覆う布が追加されています。このフレームは四隅をストラップで締め上げる事でフレームを弓上に反らせ、背嚢本体が背中に当たることを防ぐ(腰と両サイドの縦ストラップだけが身体に触れる)ための物なので、正しい使い方をすればこのような保護布を付ける必要は無いはずなのですが・・・タイでは不評だったのでしょうか?
また背嚢そのものの寸法もおよそ1.5インチ(3.8cm)ほど縦長に延長されているそうです。


タイ製ARVNラックサック派生型

ベトナム戦争期に導入されたARVNラックサックはタイ軍でもなかなか好評だったようで、戦後も様々な派生型が生産されました。
しかし、上記のベトナム期モデルではフレームを覆う布が追加されたように、X型フレーム自体は嫌われたらしく、戦後の派生型には最初からフレームが備わっていません。

①タイ国境警備警察ラックサック

全体の構造はオリジナルのARVNラックサックとほぼ同じですが、X型フレームは廃止され、背中側の構造がシンプルになっています。
 

②タイ軍予備役将校訓練軍団学生ラックサック

素材がコットンに代わってナイロン製となっています。こちらもフレームは備わっていませんが、上の国境警備警察の物とは違って、フレームを覆うカバーのドットボタンや縦に縫い付けられたテープはオリジナルのARVNラックサックの面影を残しています。

学生ラックサックの現用モデル。
タイ人には悪いですが、これをバンコクの軍装品店で見た時は、「いつまで使ってるんだよ!」と吹き出してしまいました。(笑)
もちろんデジタル迷彩になる前のウッドランドっぽい迷彩の物も売っています。
米軍ナティックが最初にARVNラックサックを開発してから今年で56年。
それほどナティックの設計が素晴らしかったと言えなくもないだろうけど、実のところは、何十年もこの形の背嚢を使ってきたので、単に「予備士官候補生といえばこの形!」と形式化しているだけのような気がしなくも無いです。
いつもタイで遊んでくれる友人達も、ミリタリー好き+兵役が嫌という理由で、学生時代に予備役将校の訓練を受けており、みんなこの背嚢のお世話になったそうです。(予備役将校になると兵役抽選が免除になる)
普通のタイ人にとっては何の変哲もない背嚢ですが、ナム戦好きの友人たちの間では、「うちの国いまだにARVNラックサックなんですけど」とネタにされていました。
  


2020年02月22日

タイ土産?

今日仕事から帰ったら、家にタイからのエアメールが届いていました。

ん?何も聞いてないぞ。

差出人は、いつも日本やタイで遊んでくれている、タイの軍装趣味の友人でした。

封筒を開けてみると、中には何のメッセージも無く、ただタイ語のネームテープと徽章が入っていました。


ああ、そう言えば先月彼が仕事で日本に出張で来た時、二人で上野のアメ横で飲んで、その後銭湯に入ってきたんです。


その時確か、彼が「ごめん、お土産忘れちゃった。後で送るよ」と言っていたような気がします。
たぶんこの徽章類は、その事だと思います。
そんな、気にしないでいいのに。ありがたや。

すぐに彼にお礼のメッセージを送り、ついでに「ネームテープには何て書いてあるの?」と聞いたら、
この文字は『タイガ・モリイズミ』のタイ語表記であり、僕のためにわざわざネームテープを刺繍屋で作ってくれたそうです!
うわー、嬉しい!

タブの方は、左がタイ陸軍歩兵科兵科章、右が第6歩兵師団だそうです。

もともとベトナム共和国軍を専門としている僕は、、ちょっとした浮気気分で、ラオス内戦中、米国CIAと共にラオス王国軍(実質的には右派モン族軍閥)を支援・指揮していたタイ国境警備警察PARU(空挺支援隊)と、
1980年代のタハーンプラーン(国境地帯の防衛、共産主義勢力掃討のために組織された準軍事民兵組織)のコスプレをしてみようと思い、徽章類をちょっとずつ買っていました。
しかしそれらに加えて、タイの友人と遊ぶ度に何かしら徽章類をプレゼントされるので、服に取り付けられるのを待っているタイ軍関係の徽章がどんどん増えていっています。


なんかもう、お土産って言うよりは、「あげたんだから使ってね」という無言の圧力すら感じます。
ベトナムの方も改造・縫い付け待ちの服がたまっていますが、タイの方も、そろそろちゃんと服を作らねばなりませんね。
  


Posted by 森泉大河 at 23:21Comments(0)1954-19751975-1989【タイ】

2019年07月09日

主にタイ、一部ベトナムな週末。

タイの軍装マニア友達がまた来日したので、2日間一緒に遊んできました。
なんか彼とは、最近は半年に一回くらい会ってる気がする。

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1日目 横浜

お昼に合流して新横浜ラーメン博物館でお昼ご飯

ラーメンを食べ終わり外に出ると、友人がTVの街頭インタビューに捕まる。
外国人に漢字を書いてもらう企画のやつ。

加えて、TV局のお姉さんが彼にいろいろ質問する。
「なぜ日本に来ましたか?」、「どのラーメンが好きですか?」
そして最後の質問「日本のどこに興味がありますか?」

彼は慎重に言葉を選びながら
「う~ん... 歴史とか...」と口を濁して終了。
お姉さんは、期待していた観光客っぽい答えを得られなかったので、少し残念そうにインタビューを終えました。

インタビューの後、僕は彼に言ってやりました。
「正直に『大日本帝国陸軍です!』と言っちゃえばよかったのに(笑)」
彼 「いや、やばいっしょ~(笑)」

普通のガイジンの振りをするのも大変ですね。
気を取り直して、みんなで『抜刀隊』を歌いながら次の目的地に移動。
※僕は今は日本軍マニアではありませんが、一応、中高生の頃はそっちもかじっていたので、多少わかります。


キリンビール横浜工場を見学。見学の最後にビールを三杯まで無料で味わう事が出来ます。
見学無料、ついでにビールにおつまみまで無料と来て、みんな「なんでそんなに太っ腹なの!?」と本気で驚いていました。
「これタイにあったら、タイ人毎日来て大行列だよ」って言ってます(笑)


神奈川県庁や赤レンガ倉庫周辺を散策。
みんなレトロな街並みを見て、案の定、『檄!帝国華撃団』をで歌いながら歩く。
ほんとサクラ大戦好きね~

みんな、みなとみらいの事は知らないようだったので、
「ああ~!わかった!」と一発で理解してもらえました。


夜は中華街で夕食。
2,000円で食べ放題の店でたらふく食う。
調子乗って注文しすぎ、苦しくてちょっとテンション下がるくらい食べ過ぎてしまいました。


2日目 東京

有楽町でショッピングと食事して、日比谷公園に移動。


途中、某所で上半身だけコスプレ撮影会が始まってしまった。
こんな所でやるなんて聞いてなかったよ(汗)
さすがに鉄砲持つわけにはいかないので、陸軍報道部と言う設定だって。
とは言え場所が場所だけに、大急ぎで撮って撤収させました。
隣の〇の内署が建て替え工事中だったのは本当にラッキー。


日比谷公園を散策し終えたところで、僕は前々から別のグループのフットサルに行く約束があったので、ここで皆とお別れ。
今回は1日半と短い時間しか一緒に遊べなかったけど、まぁ、どうせそのうち、日本かタイでまた会う事になるでしょう。


新宿に移動して、月一で開催されている、日本在住ベトナム人のフットサル交流会に参加。今回は20名近く集まりました。
僕のスポーツマンっぷりをアピールしたいところだけど、残念ながら煙草で肺をやられているので、まともに体が動く時間は3分が限界。
もう、すぐに足がもつれて転びそうになるので、日本在住歴40年超えの長老にバトンタッチして、僕は2/3くらいピッチの外で休んでました。
でも暇そうにしてたら、僕の一歳年下で同じくメタボに危機感を抱き始めた友人から、一緒に腹筋やろうと言われたので、ピッチの外で腹筋してました。
久しぶりの運動だったので、翌日は足だけでなく腹まで、仕事やる気にならないくらい、重度の筋肉痛になってしまいました。


フットサルのあとは大塚のベトナム料理屋で飲み会。
今回初めて会った人たちとも友達になりました。
みんな、「タイガーさん早くベトナム人の彼女つくってよ!」と言ってくるので、
「うるせー!がんばってるけど毎回フラれるんだよ!」と答えてたら、
次第に店員の女性の方も混ざって、僕のためにベトナム人女性の口説き方講座が始まりました。
ただし、その講義をしている男たちも全員独り身。ああ、悲しい。
  


2018年10月15日

タイの友達に同行二日目:埼玉


二日目は埼玉県与野市で開催された大正時代祭りに参加しました。
のお祭りでは大正時代の人々の衣装の再現やコスプレパレードが行わており、軍人コスプレも有りなので、個人の軍装愛好家も当時の帝国陸海軍の軍装を再現してパレード参加しています。
これを聞きつけたタイのみんなは、なんとこの日の為に1910年代末のシャム王国(後にタイ王国に改名)の軍装をタイから持参してパレードに参加しました。

シャム陸軍第一次世界大戦欧州遠征部隊および戦後の軍装
日本でこの時代のシャム軍がお目にかかれるなんて後にも先にも今回だけではないでしょうか。

実は彼らは三人とも好きな分野が違いまして、一人は第二次大戦期の日本陸海軍およびイギリス軍、一人は第二次大戦期のタイ軍および日本陸軍、残る一人はベトナム戦争期のタイ軍および米軍だったりします。でも今回はせっかくタイ人としてパレードに参加するという事で三人とも友人から借りた衣装を持参してシャム軍で合せてました。

できれば僕もこの時代のフランス植民地軍アンナン狙撃兵(ベトナム兵)の軍装でパレードに出てみたかったけど、まだ全然揃ってないので、今回は普通にビールと焼き鳥を食べらながら、沿道で彼らのパレードを撮影していました。

あの三人は顔があまりタイ人っぽくないので、日本人の僕が一番タイ人っぽいと言われました。この日は特に服装がトロピカルだったし。


日本ではないっぽい謎の軍服を着た外国人3人組に他の参加者の方々も興味津々。何度も記念撮影を頼まれていました。


当の彼らはと言いますと、日本の文化・カルチャーをよくご存じなので、袴姿の女学生たちを目にすると嬉しそうに「ハーシーレー コウソクノー!」とサクラ大戦の檄帝を口ずさみご満悦な様子でした。それ大正じゃなくて太正!(笑)


太正桜に浪漫の嵐!



パレードを終え大正時代祭りを後にした一行が次に向かったのが『小江戸』として知られる川越市。


ここでは普通に観光し、川越いものアイスクリームや饅頭、お団子をみんなで食べました。東京なんてバンコクと大して変わらないので、川越でいかにも日本っぽい風景を見てもらう事が出来て良かったです。
僕は川越に来るのは3回目でしたが、昼間しか来た事がなかったので、日が落ちると街灯とライトアップでとても幻想的な街並みになる事を初めて知りました。


夜になると、彼らのホテルがある東京の御徒町に戻り、中田商店を物色。
その後、昨晩満席で入る事の出来なかった磯丸水産に、今度はアメ横で再挑戦。無事席が空いていたので、みんなで夕食を取りました。蟹味噌甲羅焼が美味しかったです。

彼らは翌日以降も日本を観光するそうですが、僕が同行できるのはこの日が最後だったので、「次はバンコクで会おう!」とお別れを言って解散となりました。
なんか僕にとってタイはあまり異国という気がしない場所なので、お別れは言いましたが、どうせまたそのうち会います。気が向いたらふらっと行くかもね。
  


Posted by 森泉大河 at 00:44Comments(0)1918-1939【タイ】【日本】旅行・海外

2018年10月12日

タイの友達に同行一日目:東京

前回に引き続きタイの友達との日本紀行です。
なお、今回遊んだのは2月に東京案内した友人とは別のグループです。あっちは一般人。
今回は趣味を通じて知り合った濃い~リエナクター・軍装マニアのグループの方々です。
なので一日目の目的地は東京九段の靖国神社遊就館と昭和館という、およそ観光客とは思えない見学ルートです。


僕は遊就館に行くと毎回、割と本気で気持ちが陰るので、あえて冗談交じりに艦これとかストライクウィッチーズの話しをしながら明るく振舞っていました。
またタイ人は(自国が日本の半占領下だったので当然)日本人が考えるよりもはるかにクールに大戦期の日本について理解していますし一人はバンコクの博物館の学芸員ってのもあり、お互い歴史愛好家として率直に感想を言い合いました。
僕が「ここは公的な博物館ではなく、民間の宗教団体の施設だから、彼らの望む歴史観にそぐわない=日本に都合の悪い話は展示しないよ」って言ったら、彼らも「うん、知ってる」って感じでした。

見学を終え、そのまま遊就館の食堂で海軍カレーを食べようとしましたが、やたら混んでたので断念して神社の外のインドカレー屋で昼食。どっちみちカレーなのね(笑)

次に昭和館で、戦中・戦後の庶民の生活などを見学しました。
学芸員の彼は職業としてタイの大衆文化の歴史を研究している上に、大の日本陸海軍および日本文化マニアなので、この時代の日本の大衆文化についてもかなり造詣が深く、日本人の僕も知らなかった事を色々教えてくれました。これ、外国マニアあるあるですわ。

ちなみに偶然、館内に居た別の見学者のグループが、サイゴンにある戦争証跡博物館の館長一行でした。一行を案内している日本人のおっちゃんが、昭和館で戦争体験を語り伝えるおじいちゃん達に得意げに話しているのを横で聞いていました。
なんでもそのおじさんは、学生時代の反戦運動以来、アメリカによるベトナムへの戦争犯罪を世に知らしめる活動に尽力されているそうです。だからベトナム共産党直営の博物館とも深~い付き合いなのだそうです。
へぇ~。そういう人には是非僕のブログ、特にこの記事を読んで欲しいな~と思いましたが、50年も空想の世界に浸っている人が今更何読んでも理解するのは多分無理でしょうね・・・。


その後は普通に渋谷と新宿でショッピングなどして遊んできました。
夜ご飯は、海鮮居酒屋の磯丸水産に行こうとしたけど、土曜の夜という事もあり、新宿西口側にある三店舗まわったけど全部満席で断られました。
仕方ないので、最終的に「すた丼」で食べました。わざわざ日本まで旅行に来てすた丼?!とは思ったけど、まぁ翌日も遊びに行くので、今夜は安く済ませましょう。普通に美味しいし。



偶然通りかかった新宿駅のルミネが「ジョジョの奇妙な冒険」とコラボしていたので、ジョジョ好きな彼らは喜んで記念撮影開始。
僕も一緒にポーズしたけど、実はジョジョをちゃんと読んだ事ないんだよね・・・。知ってるふりして適当にやりました。ごめん。
  


2018年10月08日

タイからのお土産

バンコクでのコスプレ撮影会など、いつもタイで世話になってる友達4人が日本に遊びに来たので、彼らの旅に二日間同行してきました。
友人の内一人は以前日本に留学しており、東京の地理に(僕よりも)詳しく、日本語も話せるので、僕は案内役ではなく、ただくっついていっただけです(笑)
いろいろ行ったので、何回かに分けて記事にしていきます。

まずは初日にもらったお土産。
タイ陸軍レンジャー学校Tシャツと、タイ軍自由市民防衛章(第二級第二種)


自由市民防衛章はタイ国内の共産ゲリラとの戦いで功績を挙げた人物を表彰する勲章です。

他にもタイの国章ガルーダのブローチと、タイの若者で流行っているというアロハシャツ風のトロピカルな柄のTシャツをもらいました。
あとついでに、彼らが成田に着いた際に、免税店でタバコも買ってきてもらいました。日本じゃまた煙草が増税され、僕の吸ってる銘柄はついに1カートン5000円に達したので、たまったもんじゃありません。免税店だと1カートン当たり2000円も安い事になるので、「何か買って行こうか?」と聞かれた際、まっ先にお願いしておきました。まぁ、煙草はどんなに値段上がっても止めませんけどね。こうなりゃ意地です。

タイと言えば、今僕は1980年代のタハーンプラーン(タイ陸軍レンジャー対ゲリラ・国共防衛部隊)の軍装を揃えようとしていますが、完成度はまだ50%も行っていません。
※英語圏ではタハーンプラーンを「レンジャー」と意訳している例が多く見られますが、実際にはタイ陸軍レンジャー部隊は別に存在しているので、ケネス・コンボイ先生より、「タハーンプラーンとレンジャーは全然別物だから混同しないで」とご指摘いただきました。


▲この写真で着てる黒シャツは家にあったただの私服

やはり僕の関心のメインは第2次インドシナ戦争なので、現段階でベトナム、ラオス、カンボジア軍を並行して集めている以上、タイ軍は予算の都合上後回しになっています。
とは言え、どうせイベントで着る予定も無い本当に個人的なコスプレなので、ゆっくり集めていきます。
  


2018年03月22日

タイでもらったパッチ

先日のバンコクでの撮影会の際、タイの友人たちが記念にと、タイ軍関係のパッチをいろいろプレゼントしてくれたので紹介します。



タイ王国義勇連隊"クイーンズコブラ" (FWMFタイ陸軍部隊 1967~1968年)

ベトナム戦争期、ベトナムに展開した自由世界連合軍(FWMF)の中で、韓国軍・オーストラリア軍に次いで3番目(※2018年3月22日訂正: オーストラリア軍より多かったので正しくは2番目)の規模の地上戦闘部隊を擁していたのがタイ陸軍でした。このベトナム派遣タイ陸軍部隊、通称"クイーンズコブラ連隊"は1967年にベトナムに到着し、以後アメリカ陸軍第9歩兵師団の指揮下で作戦を遂行していきます。
このパッチはリプロですが、友人曰く、当時同パッチを製造していた徽章屋が当時と同じ素材・製法で制作した高品質な複製品だそうです。なのでよほどのタイ軍コレクターでないと、真贋の見分けはつかないくらいよく出来ているそうです。


タイ王国陸軍義勇軍"ブラックパンサー師団" (FWMFタイ陸軍部隊 1968~1972年)
クイーンズコブラ連隊の派遣から間もなく、タイ政府はベトナムへの戦闘部隊の増派を決定し、1968年1月に兵力約11,000名から成るタイ王国陸軍義勇軍(RTAVF)"ブラックパンサー師団"が編成されます。FWMFに加わったブラックパンサー師団は以後、ビエンホア省等においてサーチ&デストロイ作戦や、ベトナム市民への人道支援活動に従事していきます。なお派遣の翌年の1969年にアメリカがベトナムからの撤退を表明した事で、FWMFの各国軍も順次撤退を開始し、タイ軍ブラックパンサー師団は1972年に撤退完了、解散しました。※タイを含む同盟国の活動概要については、アメリカ陸軍省編のAllied Participation in Vietnam(1985)に詳しく乗ってますので、ご参照ください。
なお上のクイーンズコブラと異なり、こちらのパッチは一目で近年作られたリプロと分かる機械刺繍製です。


タイ陸軍帽章(フィールドキャップ用)
ベトナム戦争期から変わらず使われているタイ陸軍の帽章。現代製だけど、リプロと言うよりPX品。


タイ王国空軍 F-16戦闘機搭乗員
実物らしいです。裏はベルクロ


タイ王国空軍 第5航空団
第5航空団は輸送および観測を主任務とする割と地味な航空団みたいですが、調べてみると、実は過去に日本と因縁のある部隊だという事が分かりました。
太平洋戦争開戦前夜の1941年12月7日午後11時、日本政府はタイ王国政府に対し、タイ領内における日本軍の進駐・無制限通行権を要求します。日本軍の目的はマレーおよびビルマに駐屯するイギリス軍の撃退であり、その道程にあるタイ王国は問答無用で日本への服従を強いられました。これは事実上の最後通牒であり、タイ政府は日本の要求を受け入れて独立国としての尊厳を失うか、要求を拒否して日本との戦争に突入するか選択を迫られました。しかし日本軍の戦力は圧倒的であり、タイ側は対抗手段が無い事を認めざるを得ず、武力による恫喝に屈して日本の要求に渋々同意します。
そしてその数時間後の12月8日未明、真珠湾攻撃とほぼ同時刻に日本軍がタイ領内への侵攻を開始します。しかしこれに対し、戦いもせず外国の侵略に屈する事を良しとしない一部のタイ軍部隊は、中央の命令を無視して独断で日本軍の迎撃を開始します。
タイ中部のプラチュワップキーリーカン県では、タイ空軍第5航空師団(現・第5航空団)が中心となって、上陸した日本軍に対する大規模な反攻が開始されました。戦闘は翌9日まで続き、正午には第5航空師団のプラワー・チュンサーイ中佐が、備蓄燃料が日本軍の手に渡る事を防ぐため、自軍の燃料集積所を爆撃するに至ります。
しかし同日、タイ政府は改めて日本との休戦協定を締結すると共に、現場部隊に対し休戦命令の徹底を行い、33時間におよぶタイ軍の抵抗は終わりを迎えました。尊厳よりも国家の存続を優先する苦渋の決断によって降伏したタイ軍でしたが、このプラチュワップキーリーカンの戦いでは、タイ側の戦死者は42名、一方当初圧倒的優勢と思われていた日本側の戦死者は115名以上とされており、短期間ながらタイ軍の意地と愛国心を示した英雄的な戦いとして現地には記念碑が建立されています。そして現在、その戦いを主導した第5航空師団の後継である第5航空団の部隊章には、その栄光を称えプラチュワップキーリーカンの戦い記念碑の、軍旗を掲げる航空兵の像がデザインされています。

プラチュワップキーリーカンの戦い記念碑 (画像:  กรุงเทพธุรกิจ มีเดีย จำกัด)


彼らの内何人かは、今年中に日本に遊びに来るみたいだから、その時はたっぷりおもてなししてあげよ~っと!face02
  


2018年02月08日

タイ友in東京

3年前に東京で出会い、その後チェンマイで僕を案内してくれたタイの友人たちが、今回初来日する友人たちを連れて再び日本に観光に来てくれたので、また一緒に遊んできました。


【2015年1月 日本】
オ モ テ ナ シ

【2015年5月 タイ】


タイのみんなは先に飛騨高山を観光しており、東京に移動したのち僕が合流。

浅草 浅草寺
女子たちは着物をレンタルして写真を撮り合いまくってました。見てるこちらも楽しいです。


新宿のクラブ
実は僕、クラブというものに来るのは今回が初めて。
何をしたらいいかよく分からないので、とりあえずマサイ族ジャンプをしていました。
なぜか僕が店員の人に「Are you from Thailand?」と聞かれたので、「Yes, Yes」と答えておきました。


上野のブリティッシュパブ
タイの女の子酒強すぎ。かなり飲んでるのに顔色一つ変えやしない。
僕は普段お酒をほとんど飲まないのに、今回は連日飲みまくったので体力の限界が来てます。
もう家に帰るのが億劫になったので、この後みんなが泊まってるホテルに付いて行って(残念ながら男の方と)一緒のベッドに寝かせてもらいました。

その他行った場所
浅草: 寿司屋
新宿: ショッピング(超長い)、ラーメン一蘭
代々木公園: フリーマーケット
原宿: ショッピング(超長い)、ブリティッシュパブ
渋谷: ショッピング(超長い)、すき焼き
上野: ショッピング(超長い)、アメ横

今回はとにかく女子の買い物が長くてくたびれました。靴なんかタイでも売ってるだろ・・・
なので女子たちがショッピングしている間、男たちは昼間からバーで飲んでたので、なんか記憶がいまいち曖昧です。
ともあれ、それなりに楽しんでもらえたようで良かったです。
今回初めて会った人とも仲良くなれたので、またしばらくしたら僕がチェンマイに遊びに行くね!
  


Posted by 森泉大河 at 01:07Comments(0)【タイ】旅行・海外

2015年10月04日

タイで買った物

※2023年3月15日更新

載せるの忘れてたのでリストアップしておきます。

・民生ダック迷彩ベースボールキャップ(ビンテージ生地リメイク)
民生インビジブルリーフ迷彩ベトナム軍パンツ(新古品)
・タイ陸軍ベレー(新品)
タイ タハーン・プラーン SSI兼ベレー章(新品)
・タイ軍アーモバンダリア(60~70年代)
・タイ警察ベレー(新品)
・タイ警察空挺資格章3級(新品)
タイ軍/警察 黒色ベースボールキャップ(新品)
・民生レンザティックコンパス(新品)

タイの友達から記念にもらった物

タイリーフ迷彩アーモベスト(70~80年代)
タイ タハーン・プラーン513部隊 SSI(新品)
タイ タハーン・プラーン "勝利者"タブ(新品)

 見ての通り、タイ軍メインで買ってきました。ナム戦関係での収穫は、程度の良い民生インビジブルリーフのパンツと、タイ軍・警察向け黒キャップくらい。キャップはベトナム共和国軍コスプレに使うため何年も前から代用品を探していましたが、今回ようやくタイで見つけることが出来たました。なにげに今回一番のレアアイテムなので3個ばかし買ってきました。
 あとは大した物見つけることは出来ませんでした。十数年前に豊〇先生が仕入れしていた場所も周りましたが、やはりベトナム戦争時代の物はほぼ全滅ですね。どこ行っても韓国軍の90年代放出品ばかりです。ナム物は、有ったとしても普通のTCUとか、半袖短パンに改造されたERDLとか。また連中も知恵付けてるので、聞いてもいないのに「これベトナム物だよ」と売り込んできます。しかもeBay価格で(笑) 日本で買うよりは多少安いかも知れませんが、別に珍しい物は無かったし、ゴミとして二束三文で売られていた時代を知ってるので買う気にはなれませんでした。
 しかし幸いにも、丁度ラオス内戦や80年代のタイ軍に興味を持ったところだったので、タイ軍関係はそれなりに集まりました。ビンテージではありませんが、コスプレ用なのでこれで十分です。



おまけ 80年代タハーン・プラーン513部隊のカッチョイイ画像

 

そそられます
  


2015年09月26日

タイの思い出 チェンマイ編その3

チェンマイ滞在3日目

僕、ナット、オットの3人で、チェンマイ郊外の山の上にあるメオ族(モン族)の村に行く。
※『メオ(Meo, 苗)』という呼称は異民族がつけたもので、当人達は長年自分達の自称である『モン(Hmong)』を使うよう求めている。

山の方に行くバスはなんか不便らしいので、チェンマイ市街でソンテウのおっちゃんと交渉し、本来乗り合いタクシーであるソンテウをチャーターして送り迎えしてもらえる事になった。
そして峠道をけっこうな標高までず~と登って行く。


僕の目的地はモンの村だけど、その手前に「チェンマイに来たら絶対見なきゃ」という有名なお寺ドイ・ステープがあるらしいので、そこで途中下車。
さすがに有名なお寺だけあって、平日でも参拝者が多いです。



タイのお寺はどこでもそうですが、お寺が単に豪華なだけでなく、そこに参拝する人々がちゃんと信心を持ってお釈迦様を敬っているところが素晴らしいですし、とても羨ましく思います。
一方、我が国にも観光客が集まる寺社は沢山ありますが、そこが何のためにある施設なのかをちゃんと理解して参拝している人は、はたしてどれくらい居るんでしょうね。
自身の欲の為に仏に合掌し、宗教法人の税制優遇を妬んで親の葬式の時ですら僧侶の陰口を言い、仏教世界有数の歴史有る寺院を『遺跡』、『パワースポット』、『観光施設』にしてしまったのは、我々日本人自身ですよ。


境内を見学してたら突如豪雨に見舞われる。
雨だけならまだしも、標高が高いので雷の音がメチャ近いのが怖い。



30分くらい雨宿りしたら雨止んだので、来た階段を下って帰っていると、モン族の民族衣装来た女の子たちと遭遇。

詳しくは過去記事『山ガール』参照


そしてドイ・ステープを後にし、ソンテウでさらに山を登っていくと、ついに念願のモン村に到着です。


初めに断わっておかなければならないのですが、ここはモン村という名前の、少数民族文化を紹介するために整備された観光施設です。
確かにモン族の集落もあり皆さんそこで生活しているのですが、若い人は民族衣装なんて着ないですし、チェンマイが近いために働き口もあるので、普通のタイ人と何ら変わらない生活をしています。
と言うか、タイ王国は民族に関らずタイ国籍を持つ人を全員タイ人とみなす他民族国家なので、彼らもまた列記としたタイ人なんですよね。

年配者の女性はまだ民族衣装を着ている人がいますが、男性や若者は街に働きに行ってるので村では見かけませんでした。


あとこの村、ややこしいのですが、言語学上の分類で言うミャオ・ヤオ語系の『モン(Hmong)』だけでなく、モン・クメール語系の『モン(Mon)』の人たちも住んでるそうです。

しかし今でこそタイ国民の一部となったモン族ですが、つい数十年前までは、モン族は山奥で民族服を着て作物を自給自足し、ケシ栽培で生計を立てる昔ながらの生活をしていたそうです
『昔ながらの生活』というと聞こえは良いですが、実際にはそれらは多数派民族から迫害を受け山間部に逃げ込まざるを得ず、経済的に外界と孤立して服も食料も自給自足せざるを得ず、生活費を稼ぐためのケシ栽培は周辺の犯罪組織や軍閥、ゲリラの資金源として利用するだけ利用されて、最後には使い捨てられるという、モン族の苦難の歴史そのものでした。
タイ政府はこうしたモン族の状況が国境地帯の不安定化に繋がることを恐れ、対策を講じます。それは周辺諸国のようにモン族を追放するのではなく、むしろ積極的に王国に迎え入れて経済・教育支援を行い、国王自ら出向いてモン族を説得し、ケシ畑をコーヒー農園に変える事でした。
この政策は大成功し、多くのモン族が反社会・反体制勢力とのつながりを絶ち、経済的な苦境からも抜け出すことが出来ました。古代から大国による迫害を受け続け、20世紀に入ってもなおベトナム共産党、ラオス共産党による大量虐殺に晒されるモン族にとって、タイ王国は有史以来初めて自分達を受け入れてくれた国家と言えます。
(ただしラオスから難民としてタイに押し寄せるモン族は後を絶たず、タイ側も受け入れには限界があるため、モン族難民をラオスに強制送還するなど決して全てが解決した訳ではない)

 
▲自らモン族集落に赴いて王国政府の庇護の下に入るよう促すタイ国王ラーマ9世陛下

▲集落にタイ陸軍が駐屯する事で、モン族は犯罪組織との縁を切りケシ栽培を止めることができた


こうした経緯から、このモン族村の段々畑も、かつてはケシ畑だったところが今ではとても綺麗な庭園になっています。

所々綺麗なケシの花が咲いてるんだけど、あれは大丈夫な種類なのか?(笑)

観光客向けにモン族の民族衣装(祭礼用の正装)をレンタルしてたので、迷わず着用。

女性用の服は土産物屋でも売ってますが、男性用はなかなか見ないので貴重な体験ができました。
店のおばちゃんに「この服、売るとしたらいくら?」と訊いたら、日本円で5万円ほどの金額を言われたので、そもそも売る気は無いようです。

そのまま園内をお散歩します。


弩(クロスボウ)で射的して遊ぶ


的の瓜を撃つ。小動物なら余裕で撃ち取れる威力でした。
ただし照準器が無いので実用性は皆無。武器や狩猟用ではなく、子供の玩具です。まぁ射的屋だしね。

また、ここにはモン族をはじめとするタイ各地の山岳民族の文化を展示している資料館があります。
それぞれの民族衣装や農具などに加えて、大昔から彼らが使っている手作りのマスケット銃など、面白いものが沢山見れました。


解説は基本タイ語のみなので詳細はよく分からなかったんですが、途中で欧米のツアー客を連れたタイ人係員が英語で展示物を説明してたので、勝手に彼について回って解説を聞くことができました(笑)


ここには沢山の土産屋があるので、僕は日本でもモン族のコスプレをするために色々買っていこうと思ってたんですが、なかなかこれといった物が見つかりませんでした。
やはり有るのは観光客向けの刺繍の入ったバッグとか、女性向けのアクセサリーとかばかりで、本当の民族衣装的なものは無いんです。そりゃそうだよね、商売でやってるんだから、売れそうな物しか置かないよね。
唯一、男女問わずモン族が使う太い金属製ネックリングを見つけたので買うことが出来ました。ただしこれもお土産用のレプリカです。
本物は銀製なので売ってたとしてもとても高価なんですが、僕が買ったのはアルミ板をプレスしただけの安物。でもコスプレに使いたいだけなので、これで十分です。

▲この丸いネックリング。左の人がしているのはスピリット・ロック(魂の鍵)というネックレスで、これも一般的なもの。
(写真は第一次インドシナ戦争期のフランス植民地軍GCMA(混成空挺コマンドクループ)所属のモン族兵)


つづく 
  


Posted by 森泉大河 at 21:40Comments(0)【タイ】旅行・海外

2015年09月25日

タイの思い出 チェンマイ編その2

チェンマイ滞在二日目。

遅く起きて、昼にみんなで集まって若者に人気のお洒落レストランでランチ。

 

このチキンカツと揚げた葉っぱのやつ、超美味い。タイで一番美味かった料理はこれでした。(名前忘れたけど)
夜も他の店で同じ物食べちゃいました。


バンコクで世話になった人には悪いけど、やっぱ飯も自然も雰囲気も、全部チェンマイの方が好き。
なぜ定年後の海外移住先にチェンマイを選ぶ日本人が多いのかよく分かります。ここは良い所だ・・・


そのあと僕と数名はタイ式マッサージのお店に行ってきました。店の看板には漢字で『泰式按摩』と書いてあります。わかりやすい。
タイってもともと中華文化が濃い国なのでどこに行っても漢字を見ますが、中でもバンコクやチェンマイといった大都市では、お店の看板もだいたいタイ語・英語・中国語の三つが併記されていますね。
タイ語・英語は勉強しなきゃ分からないけど、中国語は漢字なのでなんとなく日本人にも分かって便利ですね。

タイ式マッサージは初めてだったんですが、感想は痛いが半分、気持ちいいが半分って感じでした。
痛かったら「もっとソフトに」と言えたのですが、どうせならプロに思う存分やってもらった方が効果有るだろうと思って、超痛いのを頑張って我慢しました。
なお、痛いのは太ももの筋肉を肘でグリグリやられる系だけで、他の全身の関節を指一本まで伸ばされたり、全身使ってコブラツイスト決められたり等は気持ちよかったです。

マッサージ屋の近くにゴジラがいた。ジャパニーズレストランの置物みたいです。


マッサージのあとは、カフェで駄弁りタイム。

 

この間、近くに古着屋があったのでミリタリー物でも無いかと見に行きました。
まぁあったのは日本でもよく見るハンター用ダックとか、米軍TCUとかぐらい。別に欲しいものは無いや。
ただ、明らかにCISOリュックと同じ生地・裁断で作られたリュックが壁にぶら下がってました。
よく見ると樹脂製バックル留めになってて細部がかなり異なるので、ベトナム戦争時代のものではなく戦後の民生品だと思いますが、ちょっと珍しいなと思いました。
あと、カッコイイ革ジャンが沢山売ってました。外の気温は38℃です。誰が買うんだ・・・(ミャンマーやラオス国境に面する山岳地帯では夜はけっこう気温が下がるらしいけど)


そして日が暮れ始めた頃に、チェンマイ名物サンデイマーケット(日曜市)に移動。
ここでまとめて家族や友達へのお土産を買いました。同じ品でも、やはりここの方が明らかにバンコクより値段安いです。

 

マーケットの道沿いにあるお寺にもお参り

 

地元の子供達が頭を丸めて体験出家していました。
敬虔な仏教国であるタイでは、ほとんどの男性がこうして子供のうちにお寺で仏門を学ぶのだそうです。
なおタイでは僧侶は男性のみが成れるものであって、女性信徒が出家しても尼僧という地位ではないそうです。

しかしタイは夜もクソ暑い。気温だけじゃなく湿度もすごい。
この蒸し暑さ、バルベルデに居た頃を思い出すぜ・・・と思ってら、醜い顔の宇宙人に襲われた。

宇宙人よ、君は既にマスクを取った状態だが、もう一つのマスクも出来るだけ早く外すことをお勧めする(熱中症的な意味で)


夕飯はスポーツバーのデカい版みたいな、野外の大型スクリーンでサッカーとか音楽ライブみながら飯食べるレストランで。


酔っ払った

 

後は寝るだけ


巨根オットのベッドに雑魚寝


なんか撮られてたらしい
  


Posted by 森泉大河 at 19:52Comments(0)【タイ】旅行・海外

2015年09月23日

タイの思い出 チェンマイ編その1

ランパンで一泊した後、チェンマイに到着!レストランでチェンマイ組と合流しました。
僕は事前に「チェンマイで象に乗りたい!モン族の村行きたい!」と言っておいたので、僕の為にそれらに案内してくれるそうです。

まず初めは象さん!
チェンマイはそれなりに大きな街ですが、ちょっと走って山の中に入ると、こんな大自然に突入します。


そして、カレン族がやってる象園で人生初のエレファント・ライディング
本当はベトナム中部高原のデガの民族衣装を着て乗りたかったのですが、まわりの皆が困惑しそうなので仕方なく私服で行きました。


動物なので、若干臭いのはしょうがない。二頭の象をロープでつないでジャングルの中を優雅にお散歩。
と思ったら、象の頭に座ってた象使いの兄ちゃんが、「写真撮ってあげるよ」と言って象から降りてしまった。
そのまま黙々と歩き続ける象さん。いや、このまま止まらなくなったら超怖いんですけど。



ひとしきり象乗りを楽しんだ後は、カレン族伝統の竹製イカダで川下り。
川の上流までピックアップトラックで運んでもらう。

(峠道を物凄いスピードで走られて、荷台から落ちそうで怖かった)


二つのイカダにビールやお菓子を積んで楽しい川下りの始まり始まり~!


と思ったら、所々けっこうな激流。
水深は浅かったけど、その分イカダから落ちると川底の岩に身体を強打しまくる。
よく見ると、他の観光客はみんなライフジャケット着て船頭もつけて乗ってるのに、なぜかうちらはノープラン。
最終的に全員どこかしら出血してたし。僕も足の親指の爪が割れました。超痛い。
みんな『マイペンライ(大丈夫・問題ない)』って言ってたけど、決してマイペンライではないね。

イカダにはナットの愛犬ミーちゃん(生後3ヶ月)も乗ってたけど、イカダが岩にぶつかってひっくり返った瞬間、ミーちゃんはピョーンと吹っ飛ばされて、そのまま川にドボンと落ちていきました。
「うわ、ヤベー!」「ミーちゃんを助けろー!」と皆で泳いで助けに行ったら、ミーちゃんは必死に犬掻きで泳いでいて、事なきを得ました。超うける

とんだ災難だったミーちゃん

川下りの最中、ふと「豊〇氏と出会うまで全くタイに接点のなかった俺が、まさか一年後にはタイの山奥でイカダ漕いでるとはね」と思いました。
人生何があるかわかりませんね。

そんな感じでゴール地点まで2時間ほどジャングル・クルーズを楽しんできました。痛かったけど超楽しかったです。
でも次やる時は安全靴とヘルメットが欲しいです。


夜はチェンマイ市街に戻り、ジャパニーズレストラン『ネオ・スキ・シャブ』にて、しゃぶしゃぶのような物を食べました。

 


その晩、バンコク組は、チェンマイに住んでいる人の家に2グループに分かれて泊めてもらいました。

つづく
  


Posted by 森泉大河 at 16:25Comments(0)【タイ】旅行・海外

2015年09月23日

タイの思い出 バンコク編

以前、タイにホームステイした時に空軍博物館でコスプレ撮影会した話は書きましたが、今回は趣味とは関係ない普通の旅行の話です。

今年の1月、僕は日本に観光に来たタイ人グループに三日間同行して、ボランティアで通訳と観光案内をしてきました。過去記事参照
その時「次は僕がタイに行くよ!」と言ったので、約束通りタイで一緒に遊んできました。まさか向こうも、たった4ヵ月後に会う事になるとは思ってなかっただろうけど(笑)

彼らは遊び仲間の友人グループで、首都バンコクに住んでる組と、北部のチェンマイに住んでる組とで一緒に日本に来ていました。
僕はバンコクで生活していたので、まずバンコク組と合流。再開を祝し、すごく雰囲気の良い湖畔(本当は農業用貯水池だけど)のレストランで夕食。



二日後、ナットさん(上の写真中央)と二人だけで合流。
僕は日本を案内した時、自称"夜のバンコクのエキスパート"のナットさんにタイのお店の話を聞いて「超行きたい!」と言いまくってたので、今回は僕の為にバンコクのお風呂屋さんを案内してくれるというのです。コップンカッ!
(ナットさんは彼女持ちなので、彼の部下の運転手と一緒に僕が終わるまでラウンジで待っていてくれました)

うへへ、楽しかった。

そして、その足でナットさんの彼女フォンさんと合流してレストランで夕食。それまで僕らがどこに行ってたかは内緒(笑)


前々から食べてみたかった、カオ・パット・アメリカン(アメリカ炒飯)を食べる。
この料理はベトナム戦争期にタイに駐留する米兵向けに考案されたもので、アメリカのタイレストランでは定番メニューだそうです。過去記事参照
なので米軍駐留が終わって久しい現在のタイではあまり見かけないのですが、この店はアメリカンテイストを売りにしているレストランだったので、運よく食べることが出来ました。



三日後、いよいよバンコクから600km北にあるチェンマイへ向けて出発です。
なんとバンコクに住むナットや、パタヤのペーター達も仕事のスケジュールを調整して一緒にチェンマイに行けることになりました。
バンコクで昼飯食った後、ペーターの車でいざ出発。ブイーーン!


タイには日本で言う高速道路的なものはバンコク市内にしか無い(多分)ので、制限速度が有るのか無いのかよく分からない一般の幹線道路をひたすらかっ飛ばす。
長い道中、彼らにタイ語をいろいろ教えてもらいました。例えばガウニュー(巨根)、プンサウ(オカマ野郎)、ウォータモニタ(クソ野郎)などなど。

しかし、昼過ぎに出たんじゃさすがに9時間走ってもチェンマイにはたどり着かなかったので、この日はチェンマイの手前にあるランパンという街に一泊することに。
ランパンに付いたのは夜遅くだったけど、デザートの屋台がギリギリ営業してたので糖分補給。


実は、ペーターの彼女(現在は妻)のエイムちゃんはここランパンに住んでるので、エイムちゃんの家に皆で泊めさせてもらいました。

チェンマイ編に続く
  


Posted by 森泉大河 at 14:33Comments(0)【タイ】旅行・海外

2015年09月01日

雑記



この歌カッコイイ!!


今出回ってる中国製の仏軍風キャンバスブーツってもう、くるぶし保護のゴムがコンバースみたいに脚の外側にあるやつしかないの?
今回注文した店によると、商品画面に載ってた(内側にゴムが付く)のは旧モデルで、すでにメーカーがこの形にモデルチェンジしてしまったらしい。マジか
返品に応じてもらえたから良かったけど、もしかしたら旧モデルはとっくに在庫が枯渇しているのかも。
無いなら定番のパラディウム買うしかないけど、あれも結局フランス軍のとは似て非なるものだしなぁ。
もしかしたら、この中国製キャンバスブーツシリーズの2バックルブーツ仕様を買って、上の部分をぶった切るのも有りかなと思い始めている。


こちらはCLASSIFIED (クラッシファイド)さんで販売中の、別メーカー(ドイツ製でしたっけ?)の丈長仕様を改造したもの。
イベントの用意するついでに、また少しお色直ししました。
最初はアイレットを全てアルミ製に打ち替えるつもりだったんですが、なんか億劫になったので、タミヤカラーで塗っちゃいました。
ちょっとは雰囲気良くなったかな。



つい2ヶ月前訪れたばかりのプラ・プロム(エラワン廟)。
日本なんかよりずっと文化・人種・宗教に寛容で慈愛あるタイという国を象徴する、平和で美しい場所でした。

写真:Daily Mail Online
それが、こんな姿にされるとはね・・・。
さすがに寛容なタイ人だって、王都のど真ん中でこんな事されたら、「危機感」やら「自衛」やら、もっともらしい言葉の誘惑に苛まれてしまうよ。
それでも今のところ特定の宗教に対して表立った対応をしていないタイ政府の判断は賢明だと思う。(と言うか下手にムスリムを敵に回すと本当に内戦になる)
何を理由にしようが、人間の抱く『怒り』なんて、結局は利己的なものに過ぎない。
それなのに人はそれを容易く『正義感』なるものにすり替えてしまう。
そして、この浅はかな自己暗示が産むものは、結局こんなものなんだよ。



ネトウヨという無知な子供(および子供並の知能の成人)が罹る病気の方々は、やたらベトナム派遣韓国軍に執着があるみたいですが、
少なくとも僕の友人のライダイハン(韓国軍人を父に持つ韓国・ベトナムハーフ)は皆、ベトナム防衛の為に命がけで戦った韓国軍人をいたく尊敬されていますよ。
ネットなんて所詮、ベトナム共産党のプロパガンダが外国のレイシストに利用され、無条件で垂れ流されるような、便所の落書き以下の場所なんですから、読む価値のある文章なんて本当に限られてますよ。
糞を眺める趣味は無いので、僕はGoogleの検索結果に日本語を表示させないように設定しています。



友達に誘われて、大井競馬場で人生初の競馬を体験。
僕はギャンブルやらないので、大井競馬場で開催されていたタイ&ビールフェスティバル目当てで付いてきました。
ただしビールはあまり好きじゃないので、本当にただタイ料理を食いに来ただけ。

タイに住んでた時幾度となく食べたパッタイ(ケチャップ味米粉焼きそば)と、お店オリジナルのトムヤムクーン味カオパット(炒飯)
こういう日本の出店で買うと合計1000円(ビール入れて1600円)になるのは仕方ないんだけど、タイの屋台の値段知ってると、なんか馬鹿らしくなる。向こうじゃ300円で腹いっぱい食えたのに・・・
なお戯れに計1000円ほど馬券を買ってみました。一本も当たりはしなかったけど、3頭中2頭は当たってて、何度も惜しいところまでいってました。
もう一回やれば僕でも当たりそうな気がします。なるほど、こうやって人は身を滅ぼすのか。


ギザギザハートだった頃はだれかれ構わず突っかかってたけど、さすがに僕も大人になったので、今は噛み付く相手は自分より目上の人だけにしている。
  


2015年06月24日

タイでコスプレ 撮影会編

【コスプレ撮影会に至った経緯】

ベトナム共和国軍マニアのタイ人に、今度タイに行くよと言ったら、一緒にコスプレしようと誘われる
タイで合流。彼の友達も集まって、計4名でドンムアン空港内にある空軍ミュージアムに行く
ミュージアム内の食堂で、持ち寄った軍服を広げてあれこれ駄弁りながら昼飯を食う
展示を一通り見学し終えると、友人達は「ここでコスプレするから、将校の人と交渉してくる」と言って空軍の事務所内へ
僕も事務所に通されて、彼らが交渉している間、来客用のソファーで待つ
司令官(将校のおばちゃん)からOKが出て、正式な許可証をもらう
空軍の下士官さん3名が僕らの案内(および監視役w)に任命され、撮影会開始

想定:ビエンホア空軍基地の守備にあたる第3軍団BDQ部隊 1969年

南に亡命した北ベトナム軍のMiG-21戦闘機
(近年ベトナム人民空軍から本ミュージアムに寄贈された機体)


過去記事に載せた写真はこちら
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