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2023年12月30日

ベトナム共和国とカトリック(概説)

※2023年12月31日更新

1860年代から1954年まで1世紀近くフランスの統治下にあったベトナムは、アジアの中でも特にキリスト教(主にカトリック)の割合が多い国です。
ベトナムとカトリックの関係については、掘ろうと思えばいくらでも深く掘れる分野ではありますが、僕もまだそんなに詳しくは分かってないので、今回は概説だけ書きたいと思います。


第一次インドシナ戦争

第二次大戦における日本の敗北と同時にベトナムの政権を握ったホー・チ・ミンらベトミンは、共産主義・民族主義的イデオロギーからカトリックを敵視し、カトリック信徒に対するテロ攻撃を開始します。
その後すぐにフランスがインドシナの再占領に成功し、カトリックはフランスによって保護されますが、ベトミンによるテロは続き、フランス連合側ではベトナム人カトリック信徒による民兵組織『キリスト防衛機動隊 (UMDC)』等が組織され、カトリック勢力はフランスと団結してベトミンと対峙しました。(過去記事第一次インドシナ戦争期のベトナム陸軍 その3:その他の戦闘部隊』参照)
しかし1954年、ジュネーヴ協定によってフランスが撤退し、北ベトナムにホー・チ・ミン政権(ベトナム民主共和国)が成立すると、北ベトナム領に住むカトリック信徒は生命の危機に晒されます。そしてホー・チ・ミン政権による弾圧から逃れるため、30万人以上のベトナム国民(内8割がカトリック信徒とされる)が北ベトナムを脱出して南ベトナム(ベトナム国)に退避しました。

米仏軍による輸送作戦Operation Passage to Freedomにより北ベトナム領を脱出するカトリック難民[1954年]


第一共和国期

一方、1955年に無血クーデターによって南ベトナム(ベトナム国改めベトナム共和国)の実権を握ったゴ・ディン・ジェム総統は熱心なカトリック信徒であり、カトリックはむしろ政府によって優遇される事になります。
1964年の時点で、ベトナム共和国人口1450万人の内、カトリック信徒の割合は約10%に過ぎませんでしたが、ジェム政権(第一共和国期)下では政府・軍高官の大半、そして全国の省長官の2/3をカトリック信徒が占めるなど、ベトナム共和国の政治権力はカトリック勢力が握る事となりました。
また歴史的にベトナム人は中国人を快く思っていませんでしたが、それでもジェム総統は中国共産党に弾圧された中国人カトリック難民のベトナム共和国への移住を受け入れ、土地を与えたばかりか、中国人難民が国内で武装・民兵組織化する事も許可しました。(過去記事グエン・ラック・ホア神父』参照)

▲第一共和国期を率いたゴ家の兄弟3名。左からゴ・ディン・ニュー(カンラオ党=事実上の秘密警察指導者)、ゴ・ディン・トゥック(カトリック教会フエ大司教)、ゴ・ディン・ジェム(ベトナム共和国総統)

しかし、こうした極端なカトリック優遇政策が国内に深刻な宗教対立をもたらします。
ベトコンとの内戦を抱えながら、内政でも混迷が続いた事で、ついにはジェムのスポンサーだった米国CIAもジェムを見限る結果となりました。そして新たにCIAの支援を取り付けたズオン・バン・ミン将軍ら軍部の反ジェム派は1963年11月にクーデターで政権を奪取し、ジェム総統と弟のニューは革命軍によって暗殺され、ジェム政権関係者も軒並み粛清されます。
しかしそれでも、カトリック信徒には仏領時代から続く良家・エリート層が多く、ジェム政権を倒した軍内部にもカトリック信徒が多かったため、カトリックそのものが排斥される事はなく、以後カトリック勢力とベトナム共和国政府は共存していくこととなります。


ベトナム共和国軍の従軍司祭

上記のようにベトナム共和国の人口の10%はカトリック信徒だったため、当然ベトナム共和国軍に所属する将兵の中にもカトリック信徒が一定数存在しており、特に軍の高官やエリート部隊ではカトリックの割合が非常に高かったそうです。なのでベトナム共和国軍には欧米の軍隊のようにカトリックの従軍司祭およびカトリック司祭局(政治戦総局所属)が存在しており、これは他のアジア諸国には無いベトナム共和国軍の特徴と言えます。

▲前線で礼拝するベトナム共和国軍のカトリック信徒[1970年カンボジア領内]



左胸に十字架の職種章を佩用する従軍司祭(陸軍大尉)。キャロット(略帽)にも十字架を付けていますが、陸軍ではキャロット用いられないので、カトリック司祭局独自の軍装かも知れません。

▲キャソック(司祭平服)を着た従軍司祭。恐らく上の写真と同一人物。ベレー章は他に使用例のないデザインなので、これもカトリック司祭局独自の物かも知れません。

▲陸軍第1歩兵師団所属の従軍司祭/陸軍大尉(右の人物)。[1971年ラオス領内]
前線部隊に同行する従軍司祭は、カトリック司祭局ではなく師団パッチを佩用していた模様。

▲政治戦総局カトリック司祭局の部隊章

政治戦総局カトリック司祭局局長ポール・レ・チュン・ティン神父(陸軍大佐)
ティン神父は元ブンタウ聖ヨセフ神学校の校長であり、ベトナム共和国軍カトリック司祭局の最後の局長として終戦を迎える。終戦後、ティン神父は共産政権に逮捕され、再教育キャンプに10年間投獄された後、1985年にアメリカに移住。1994年にその地で死去する。


なお、政治戦総局にはプロテスタント司祭局や仏教司祭局も存在していましたが、ベトナムにおけるプロテスタントの信徒数は非常に少なく、しかもその信徒の大半は中部高原に住むデガ(少数民族)なので、プロテスタント司祭局の活動に関する情報はほとんど見た事がありません。仏教司祭局に所属する従軍僧については、現在資料集め中ですので、ある程度揃ったら記事にしたいと思います。


カトリック民兵(人民自衛団?)

こちらはカトリック民兵とされる組織です。人民自衛団は本来、都市村落毎に編成される政府指揮下の自警団ですが、これはそのカトリック教区版と言ったところでしょうか。映像を見つけただけで、詳しい事はまだ分かりません。


ボーイスカウト


ベトナム共和国時代のボーイスカウト/ガールスカウトは、公にはカトリック教会所属の組織ではありませんでしたが、教会・修道院との繋がりが深く、事実上のカトリック関連組織と言って良いと思います。(ただし非カトリックでも入団できる)
戦時中、ボーイスカウトは軍の補助組織として後方支援任務の一部を担いましたが、公には民間の慈善団体であり、またカトリック教会直営という訳でもなかったため、戦後の共産主義政権下でも(共産党への忠誠を第一義とする条件で)解体をまのがれ、今日でも存続しています。
  


2022年03月12日

第一次インドシナ戦争期のベトナム陸軍 その3:その他の戦闘部隊

※2022年4月9日更新
※2022年5月10日更新

前記事

その3は、その1・2では紹介しきれなかったその他の戦闘部隊についてです。


砲兵大隊 (Tiểu đoàn Pháo Binh)

第5砲兵大隊のM2A1榴弾砲砲隊 [1952年12月ナサン]

ベトナム陸軍砲兵部隊の発足は1951年後半であり、当初の名称は『独立砲隊(Pháo Ðội Biệt Lập』、CEFEOでの呼称は『独立射撃砲隊(Batterie de tir autonome)』であった。独立砲隊は各2個の砲隊から成り、各軍管区に配置された。
しかし独立砲隊はCEFEOにとって二線級部隊であり、その装備はフランス軍で使われなくなったイギリス製のQF25ポンド砲や旧日本軍の九五式野砲などの旧式火砲が主であった。
独立砲隊が運用した火砲は次の通り。
・QF25ポンド砲(イギリス製): 122門
・九五式野砲(日本製):29門
・M3 105mm榴弾砲(アメリカ製): 11門
・QF 3.7インチ山岳榴弾砲(イギリス製):7門
・138mmカノン砲(フランス製):4門
・モデル1905 75mmカノン砲(ブルガリア製):2門

その後、1952年から1953年にかけて独立砲隊は『砲兵大隊(Tiểu đoàn Pháo Binh)』、CEFEO呼称『ベトナム砲兵群(GAVN: Groupe d'artillerie Vietnamiens)』へと再編され、その装備もフランス軍と同水準に更新された。
各砲兵大隊はアメリカ製のM2A1 105mm榴弾砲12門を装備する3個砲隊で構成され、各軍管区本部の直接指揮下に置かれた。

第1軍管区:第1砲兵大隊
第2軍管区:第2砲兵大隊
第3軍管区:第3砲兵大隊
第4軍管区:第4砲兵大隊
未確認  :第5砲兵大隊

なお、各砲兵大隊の大隊長は長らくフランス軍のフランス人将校が務めており、ベトナム人将校が大隊長に就いたのは終戦後の1954年10月であった。


軽大隊(Tiểu đoàn khinh quân)

▲第4軍管区第808軽大隊の将校 [年代不詳]

CEFEOでの呼称は『軽大隊(Bataillon léger)』。
軽大隊(軽中隊含む)の前身はフランス軍の指揮下にあるベトナム人民兵部隊『支援軍(forces supplétives)』内のコマンド中隊であった。支援軍を構成する計595個の中隊のうち91個がコマンド中隊であり、このうち54個中隊が1953年に民兵から正式なベトナム国軍部隊へと昇格し、軽大隊へと改称された。
軽大隊は当初、総兵力10万人規模に拡大する事が計画されていたが、最終的には約4万人に留まった。一個大隊の定数は当初625、後に737に拡大されたが、実際には常に人員が不足しており、「500人大隊 (Bataillon de 500)」と揶揄された。
軽大隊の任務は、ベトナム国軍を含むフランス連合軍の正規部隊がある地域のベトミン主力部隊を軍事的に制圧した後、その地域内の各都市・村落内に潜伏するベトミンゲリラ部隊を掃討・駆逐する事であった。正規戦においてフランス連合軍はベトミン軍を各地で撃退したが、それでもベトナム領内に存在する約七千の村落のうち約五千が依然ゲリラの支配下にあった。軽大隊はこうしたゲリラを掃討することで、実効性のある占領統治を目指した。
一方、ベトミン側はそうした中央の支配力が及ばない地方村落を拠点に活動していたため、軽大隊による村落掃討は死活問題となった。そのためベトミン軍は軽大隊への迎撃にも主力部隊を投入せざるを得なくなり、ベトミン軍の戦力は二分された。結果的に軽大隊は目的通り占領地域内のゲリラや小規模部隊の掃討に成果を上げたが、その一方で部隊そのものが小規模だった事から、ベトミン軍主力部隊による急襲を受け壊滅する事もあった。


ビンスエン部隊(Bộ đội Bình Xuyên)

▲ビンスエン部隊将兵 [1952年チャンソン基地]

CEFEOでの呼称はビンスエン部隊(Troupes Bình Xuyên)』
ビンスエン団はフランス領時代、コーチシナ(ベトナム南部)を中心に違法なアヘン生産・密輸を行った犯罪組織であり、植民地政府やフランスマフィアと共同で『フレンチ・コネクション』と呼ばれる欧米への一大麻薬流通ルートを形成し、その元締めを担った。これによりビンスエン団はインドシナで強大な力を有し、「20世紀最大の犯罪組織」と言われるほどに成長する。
その組織力と地域への影響力は単なる暴力団の枠に留まらず、これに目を付けたフランスはビンスエン団の一部を治安維持部隊ビンスエン部隊』として登用していた。
1945年に日本が第二次大戦に敗北しベトミンが政権を握ると、当初ビンスエン団はベトミン政府と同盟を結んだが、それは一時的なものに終わり、1948年には反対にフランスが擁立したベトナム国政府側に付いた。これに伴い、ビンスエン部隊はベトナム国衛兵隊/国軍麾下の部隊となった。
ビンスエン部隊は1948年の時点では約200名の小規模な組織に過ぎなかったが、戦争末期の1954年には2,500名にまで規模を拡大し、ビンスエン部隊司令官レ・バン・ビエン(Lê Văn Viễn)はベトナム国軍の陸軍少将の位を得た。

なお、第一次インドシナ戦争終結後の1955年4月、フランスの撤退に乗じてビエン少将はベトナム国の政権を簒奪すべくビンスエン部隊およびビンスエン団構成員を動員してサイゴンで武装蜂起を起こす。
これに対しゴ・ディン・ジェム首相は政府軍の精鋭部隊を出動させて反撃を行い、『サイゴンの戦い』と呼ばれる市街戦へと突入するが、程なくして政府軍がビンスエン部隊を壊滅させ、クーデターは鎮圧された。また反乱の首謀者であるビエン少将はフランスへと亡命した。


ヌン大隊(Tiểu đoàn Nùng)

▲ヌン族指導者ヴォン・アー・サン大佐(右から3番目)とヌン族兵士

中国南部からベトナム北部に住む少数民族ヌン族で構成され歩兵部隊の総称
1951年にフランス植民地軍内『第1ヌン大隊(1er Bataillon Nùng)』が発足したが、同大隊は1952年末にベトナム国軍に編入され『第57歩兵大隊』(第5ベトナム師団隷下)へと改名される。以後、ベトナム国軍内にヌン族で構成された歩兵大隊(ヌン大隊)が複数編成される。

第1次インドシナ戦争終結後、ジュネーブ協定によりベトナム国の国土の北半分がベトミンに割譲されると、ヌン大隊の兵士を含む北ベトナム在住のヌン族約5万人が南ベトナムに避難し、ベトナム陸軍には新たに各ヌン大隊を統合した第6軽師団、通称『ヌン師団』が創設された。
第二次大戦中の自由フランス軍時代からヌン族将兵を率いてきたヴォン・アー・サン(Vòng A Sáng)大佐は第1ヌン大隊、第57歩兵大隊長、第6軽師団長のほか、1947年にフランスが設定した『ヌン自治区』の指導者を歴任し、1967年からはベトナム共和国の国会議員を務めた。


ムオン大隊(Tiểu đoàn Muơng)

▲第2ムオン大隊の兵士

ベトナム北部の山岳地帯に住む少数民族ムオン族で構成された歩兵部隊の総称。
フランス植民地軍は1950年3月に『ムオン大隊(Bataillon Muong)』を編成し、この大隊は1951年に『第1ムオン大隊(1er bataillon Muong)』へと改称される。また同年4月には『第2ムオン大隊(2è bataillon Muơng)』が編成される。
第2ムオン大隊は1952年12月にギサ村での掃討作戦に投入され、1個大隊に相当するベトミン部隊を全滅させる。しかしこの戦闘により第2ムオン大隊も後方での再編成を余儀なくされ、この際、同大隊はベトナム国軍に編入され、『第73歩兵大隊』(第7ベトナム師団隷下)へと改名された。


キリスト防衛機動隊 (Unités mobiles de défense de la chrétienté)

▲キリスト防衛機動隊の将兵

ベトミンによるキリスト教徒へのテロに対抗するためベンチェ省で結成された部隊。
仏越混血のフランス軍将校ジョン・ルホア(Jean Leroy)大佐の主導により、ベンチェ省のアンホア島で1947年に結成された民兵部隊『カトリック旅団』を基に、その後複数の民兵部隊を統合して『キリスト防衛機動隊 (UMDC)』が誕生した。部隊の基礎となったカトリック旅団がたった60名の部隊だったのに対し、UMDCの兵力は最終的に5,840名にまで拡大した。
1949年にルホア大佐がUMDCとベンチェ省の完全な指揮権を得ると、それから1年でUMDCはベンチェ省からベトミンを一掃する事に成功した。
その後UMDCはフランス軍麾下の部隊としては1952年に活動を停止し、指揮官のルホア大佐はアルジェリアの部隊へと異動となった。またUMDCの人員は翌1953年にベトナム国軍に編入される。(歩兵大隊または軽大隊へと改編か?)
なお、UMDCは元々キリスト教徒による村落自衛部隊をコンセプトとしていたが、ベンチェやヴィンロン周辺の様々な民兵部隊を統合した結果、最終的には人員の大多数を仏教徒などの非キリスト教徒が占めたとする文献もある。


終戦後にベトナム国軍に編入:カオダイ部隊(Quân đội Cao Đài)

▲カオダイ部隊兵士 [1950年タイニン]

20世紀初頭にタイニン省で勃興した新興宗教であるカオダイ教の信徒で構成された歩兵部隊。
1947年、フランス軍はかつて第2次大戦末期に日本軍によって動員、武装化されたカオダイ教徒による民兵組織を復活させ、新たに『カオダイ部隊(Troupes Caodaïstes)』としてフランス連合軍の一部とした。タイニン省で組織されたカオダイ部隊はフランス植民地軍の指揮下でベトナム南部におけるベトミンとの戦いに投入される。宗教による強い結束を持つカオダイ部隊は各地で大きな戦果を挙げ、その活躍が続いた事から、カオダイ教団自体もベトナム国内でカトリックと双璧を成す一大勢力へと成長していく。

第1次インドシナ戦争終結後の1955年2月13日、フランス軍の撤退に伴い、カオダイ部隊は正式にベトナム国軍に編入され、カオダイ部隊司令官チン・ミン・テー准将は国軍の将官の地位を得た。しかしその3か月後の5月3日、チン・ミン・テー准将は自動車で移動中、何者かに狙撃され死亡する。この暗殺事件は未解決のままだが、カオダイ教徒と対立したフランス人や、カオダイ勢力の拡大を恐れるゴ・ディン・ジェム首相らベトナム国政府高官が関与した可能性が指摘されている。
その後、1955年10月にクーデターで政権を獲得したゴ・ディン・ジェムは、自身が信仰するカトリックを政治の中心に据え、同時に他の宗教勢力を排除する政策を開始した。特にフランス軍によって武装化されていたカオダイ教やホアハオ教は反政府武装勢力として危険視され、政府軍(ベトナム共和国軍)による掃討・武装解除が開始された。政府軍はカオダイ教の聖地タイニン省にも進攻し、圧倒的な戦力でカオダイ部隊を武装解除し、その組織を解体した。
これによってカオダイ部隊兵士たちの多くは、ジェム政権に恭順して政府軍に編入されるか、或いは政府と戦うためそれまで敵だったベトミン・ゲリラ側に転向したが、それ以外のおよそ5千~6千名のカオダイ兵士はどちらにも付かず、政府への抵抗勢力として国内に潜伏する道を選ぶ。これに対してジェム政権は、1956年から58年にかけて約3,400名のカオダイ教徒を逮捕・投獄するなどして、カオダイ部隊の残党狩りを続けていった。
  


2016年12月04日

グエン・ラック・ホア神父

※2022年7月15日更新


神父オーガスティヌ・グエン・ラック・ホア
Augustine Nguyễn Lạc Hóa

 グエン・ラック・ホア神父の出自に関しては、いくつかの説が存在する。まず出生名は、『チェン・イーチョン(陳 頤政?)』という説(台湾外務省)と、『ユン・ロクファ(雲 樂華)』という説の二つが存在する。(この記事ではチェン・イーチョンとして書く)
 また出身地と誕生日についても二つの説があり、一つは1908年8月18日に、トンキン湾に面した清国広東省雷州半島の村生まれたというもの。もう一つは1908年8月28日に仏領インドシナ・トンキン ハイニン省(現ベトナム・クアンニン省)のモンカイ生まれ、両親はサイゴンに住んでいたという説である。ただし後者は現ベトナム政府が公表しているもので、これはホア神父が中国からベトナム北部に移住(不法入国)した際に、ベトナム当局に対し自分はベトナム出身だと身分を偽って申請した際の内容である可能性もあると思われる。
 いずれにせよ、ホア神父は中国広東省の漢族の家系に生まれ、キリスト教徒(カトリック)として育ち、洗礼名は『オーガスティヌ (Augustine)』であった。


日中戦争と国共内戦

 "オーガスティヌ" ・チェン・イーチョン英領マラヤのペナンで神学を学んだ後、1935年に英領香港でカトリック教会の司祭に任命された。しかしチェン神父の生まれ故郷中国(中華民国)は当時、国民党政府と中国共産党との間で(第一次)国共内戦の只中にあった。中国に戻ったチェン神父は国民党政府傘下のキリスト教武装集団の指導者の一人として、キリスト教を敵視する共産党の討伐に加わった。
 しかし1937年、日本が中国への侵攻を激化させると、対日戦に集中するため国民党政府は一転して共産党との連携(第二次国共合作)を開始した。チェン神父は再度戦争に動員され、聖職を離れて蒋介石率いる国民革命軍(現・台湾軍)の中尉を務め、広東省と広西省の境にある十万大山山脈において、圧倒的な戦力で押し寄せる日本軍に対しゲリラ戦を挑んだ。
 1945年8月、日本が連合国に降伏し8年間続いた日中戦争が終結した。その頃には、チェン国民革命軍の少佐(少校)へと昇進していた。しかし日本という共通の敵を失った国民党と共産党は再び内戦(第二次国共内戦)へと逆戻りした。この戦いの中でチェンは中佐(中校)へと昇進したが、国民党は次第に劣勢に追い込まれていった一方、チェンは軍を離れる機会を得たため、神父として本来の宗教活動を再開した。


中国キリスト教難民の漂泊

 しかし1949年、毛沢東率いる中国共産党が内戦に勝利し、中華人民共和国の成立が宣言された。その直後、毛沢東政権はヴァチカンのカトリック教会の影響力を排除するため、国内のカトリック信徒への宗教弾圧を開始した。この中でチェン神父は『反動』の烙印を押され、三日間の逃亡の末、当局に逮捕、投獄された。
 投獄から1年と4日後、チェン神父は収容所からの脱獄に成功した。その後チェン神父はパリの友人を介し、中国共産党の毛沢東に宛てて10通ほど手紙を送ったという。その内の一通は以下のような内容であったと伝わっている。
「毛先生、私は貴方に感謝ています。貴方は寛大にも、私に自由とは何かを教えてくました。今や私は、永遠に貴方の敵となりました。私は毎日、一人でも多くの人々に、貴方の敵になるよう説得を続けています。貴方と、貴方の邪悪な思想がこの世から消え去る日が来るまで」
 まもなくチェン神父は、中国共産党政府による弾圧から逃れるため、1951年に約200名の中国人キリスト教徒と共に船で中国を脱出し、ベトナム国北部(トンキン地方)ハイニン省へと移住した。当時ベトナム国はフランス連合の一部であった事からキリスト教が迫害される恐れは無く、彼らカトリック難民にとって安全な場所と思われていた。チェン神父はこの地でグエン・ラック・ホア(Nguyễn Lạc Hóa ※"Lạc Hóa"は"樂華"のコックグー表記)へと改名してベトナムに帰化し、中国人キリスト教徒のベトナムへの脱出を支援する活動を開始した。その後の6か月間で、チェン・イーチョン改めグエン・ラック・ホア神父は450世帯、2174名のカトリック信徒を中国からベトナムに入国させる事に成功した。
 しかしこの時期、ベトナム北部では毛沢東の支援を受けたホー・チ・ミンのゲリラ組織ベトミンが活動を活発化させていた。ベトミンはフランスの保護を受けるカトリックを『反民族的』と見做し、同じベトナム人であってもテロの対象としていた。さらに、ベトナム北部は古代から中国からの侵攻に脅かされてきた歴史があるため、ベトミンから中国人を守ろうというベトナム人は居なかった。こうしてベトナムでも再び共産主義者による迫害にさらされたホア神父は、やむを得ず2100名の中国人信徒と共にベトナムを離れ、隣国のクメール王国(カンボジア)に集団移住することを余儀なくされた。

 以後7年間、ホア神父率いる難民グループはベトナム・フォクロン省との国境に面したクメール王国クラチエ州Snuol郡に村を建設して避難生活を送った。しかしこの時期、クメールのシハヌーク政権は中国・ソ連・北ベトナム、特に毛沢東と密接な関係となり、共産主義に傾倒した『政治的中立』政策を開始した。難民たちは、クメールでも共産政権によって中国や北ベトナムのような宗教弾圧が始まる事を恐れ、ホア神父は三度移住を模索し始めた。
 そこでホア神父は友人のバーナード・ヨー(Bernard Yoh)の協力を得てベトナム共和国(南ベトナム)総統ゴ・ディン・ジェムと接触した。ヨーは上海出身の中国人で、イエズス会の学校で教育を受けたカトリック信徒であった。ヨーは日中戦争において故郷上海を占領した日本軍と戦うため抗日地下組織に参加し、後にアメリカOSSと中国国民党が合同で設立した諜報機関『SACO (中美特种技术合作所)』の一員として、抗日ゲリラ部隊のリーダーを務めた。大戦後は1947年にアメリカに移住し、1950年代後半からはアメリカ政府職員(CIA)としてベトナムに派遣され、ジェム総統直属の政治顧問を務めていた。
 ジェム総統は熱心なカトリック信徒であり、また強烈な反共思想を思っていた。さらに1954年のベトナム分断以降、南ベトナムにはホー・チ・ミン政権による弾圧から逃れるためカトリック信徒を含む100万人の北ベトナム難民が避難していた。ジェム総統はそうした難民とカトリック勢力に強く支持された人物であり、アメリカ政府と強いパイプを持つバーナード・ヨーの仲介もあった事から、ジェム総統は1958年にホア神父の中国人カトリック難民グループの受け入れを決定した。
 受け入れに際し、ジェム総統は移住先として南ベトナム領内の三ヵ所の候補地を提示した。ホア神父はこの中から、700平方キロメートルにおよぶ手付かずの広大な土地と、肥沃な土壌、水源を持ち、稲作に最も適していたベトナム最南端のアンスェン省(現・カマウ省)カイヌォック(Cái Nước)地区を選択した。(画像: ホア神父率いる中国キリスト教難民の避難先の変遷)


ビンフン村

 ホア神父と200世帯の難民はサイゴン政府の支援を受けて、1958年から1959年にかけてカマウの南西に位置するカイヌォック地区への移住を進めた。しかしそこは三カ所の候補地の中で最も危険と目されていた場所であった。なぜなら1954年のジュネーヴ協定調印以降も南ベトナム領内のベトミン・ベトコン勢力(後の解放民族戦線)は活動を継続しており、中でもカマウはゲリラの活動拠点として大量の武器弾薬が集積されていた為である。さらに夕方になると、ジャングルから蚊の大群が黒い雲のように発生した。土地は開墾が進んでおらず、どこにも作物の無い原野であった。難民たちは自ら煮えたぎる釜の中に飛び込んで行ったかのように思われたが、ホア神父は人々に訴えかけた。「私は滅びるためではなく、生き残るために皆さんをこの地に導いたのです。ここは肥沃な土地です。あなたたちは各自3ヘクタールもの自分の水田を持てるのです。我々の努力次第で、収穫は無限大です。私はこの場所を平らに均し、家々を建てて発展させる事を決意し、ビンフン (平興 / Bình Hưng)と名付けます」。

 こうして彼らは3ヶ月間昼夜問わず働き、住居と村落をゲリラから守るための堀と土塁を建設した。ホア神父は国民革命軍将校として日中戦争・国共内戦を戦ってきた経験から、村を防御に適した四角形にデザインし、要塞として機能するよう設計していた。また湿地帯で冠水しやすい土地のため、住人が村内を往来しやすいよう村の中央に水路の交差点と橋を構築した。村は湿地帯にある為、水路で物資を運搬する事が出来た。(写真: 上空から見たビンフン村。集落の周囲を四角い堀で囲み、防御陣地としてしている。)
 人々は小さいながらも各々の家を建て、ようやくビンフン村での生活が始まった。また難民たちには、政府からベトナム国民としての市民権が与えられた。そして過酷な労働は実を結び、数か月後には水田から大量の米が収穫された。その後、ビンフン村の水田は、1回の収穫毎に村で消費する米の3年分を生み出すまでに成長した。
 また度重なる共産主義者からの迫害により中国、北ベトナム、カンボジアと三度も移住を迫られた難民たちは、このビンフン村を最後の砦として自分たちの力で守る事を決意し、ホア神父は住民による民兵制を開始した。民兵は5名単位の班に分かれ、それぞれの班が村落の警戒にあたった。

 一方、ベトコン側は当初カマウへの中国人難民移住を無視していた。しかしビンフン村が完成し、村に黄色と赤のベトナム国旗(ベトコンにとっては反動傀儡政府の旗)が掲揚されると共に大量の作物が収穫されている事を知ると、ベトコンは嫌がらせの為の小規模な宣伝部隊をビンフン村に送り始めた。この時、ビンフン村の民兵が持っている武器は手榴弾6個と、ナイフや木製の槍しかなかった。しかし彼らの一部は国民革命軍兵士として長年日本軍と戦ってきた元兵士であった為、このような質素な武器による戦闘術を心得ており、ゲリラを撃退する事に成功していた。さらにホア神父と村人たちは周辺のベトナム人集落と協力関係を築き、情報交換しあう事でベトコンゲリラの襲撃に備えた。
 この小規模な戦闘の後、ジェム政権は1959年12月に、すでに軍では廃止されていた旧式のフランス製ライフル12丁ゲリラへの対抗策としてビンフン村の民兵に提供した。1960年になると、ビンフン村はしばしばベトコンによる襲撃や狙撃に晒されたが、ビンフン村民兵はそのたびに捕虜を捕え、彼らに村を取り囲む堀・土塁を増築工事させる事で村の防御力は高まっていった。1960年6月、サイゴン政府はフランス製ライフル90丁以上、短機関銃2丁、拳銃12丁をビンフン村に提供し、後にライフル50丁、機関銃2丁、短機関銃7丁を提供し、さらにその後、1955年にビンスエン団から押収したフランス製のルベル小銃(M1886)50丁と、アメリカ製のスプリングフィールド小銃(M1903)120丁も追加した。しかし銃の数に対し弾薬が不足していた為、ビンフン村ではバーナード・ヨーやホア神父が猟銃用に使っていた古い弾丸組み立て機を使い、自家製のライフル弾を製造した。

 1960年11月19日、サイゴン政府はビンフン村民兵部隊を、政府が統制する民兵組織人民自衛団(Nhân Dân Tự Vệ)』正式に編入し、部隊名を人民自衛第1001団(Nhóm NDTV 1001)』として、ベトナム共和国軍(Quân đội VNCH)の指揮下に組み込んだ。隊員は18歳から45歳の住民で構成され、訓練は特殊部隊が担当した。その内容は基礎教練、武器の取り扱い、心理戦、情報評価、通信、応急処置などで、短期間で集中的な訓練が施された。
 1960年12月には、ベトコン工作員が単身ビンフン村に潜入し、村に掲げられていたベトナム国旗をベトコンの旗に置き換えようと試みたが、この工作員は間もなく発見、射殺された。この報復として、ベトコンは昼夜関係なくビンフン村への襲撃を開始し、週に2回は大小の戦闘に発展した。その後6回ほど大規模な戦闘が行われたが、ベトコン側はビンフン村側に対し8:1の割合で死傷者を出していた。ベトコンとの戦闘を経験し、ホア神父はただ襲撃されるのを待つ事を止め、自ら積極的にベトコンゲリラを捜索・掃討すべく、ビンフン村民兵に周辺のパトロールを毎日行うよう命じた。
 そんな中、1960年末にホア神父は村の資金調達のため護衛と共にサイゴンに出張した。するとそれを見計らい、1961年1月3日に約400名のベトコン部隊がビンフン村を襲撃した。村はライフルや短機関銃の集中砲火を受け、村人たちは皆地面に伏せて逃げ惑った。そしてベトコンは村に戻ったホア神父ら80~90名の民兵部隊を2方向から待ち伏せしたが、勝ち急いだベトコンは民兵による反撃を受け、20~30mの距離で発砲し合う接近戦となった。戦闘はその後三日間続き、ベトコン側は計800名のゲリラを戦闘に投入したが、最終的に172名の死亡者を出し、ビンフン村から撤退した。一方、ビンフン村側の死者は16名であった。

 この戦いの直後、アメリカ空軍のエドワード・ランズデール(Edward Lansdale)准将はビンフン村を訪れ、村人の戦闘能力を高く評価するレポートを本国に提出した。ランスデール准将は1953年にアメリカ軍MAAGインドシナの一員としてベトナムに派遣されて以来、長期に渡ってベトナムでの政治工作に従事していたCIAエージェントでもあり、当時はジェム総統の顧問駐在武官という立場にあった。(写真: ラスデール准将とゴ・ディン・ジェム総統, HistoryNet.comより)
 この報告を受けたジョン・F・ケネディ大統領(アメリカでは少数派のカトリック信徒)はビンフン村に強い関心を持ち、アメリカ軍による東南アジア自由世界(=親米・反共勢力)への軍事支援計画『プロジェクト・アージル(Project AGILE)』の対象にビンフン村も加えるよう指示した。ジェム総統は、村の防御力をより完全なものに強化するため、アメリカ軍から提供された武器・弾薬・医療・食品などの軍事支援物資をビンフン村に与える事を許可した。プロジェクト・アージルはケネディ大統領の指示によりアメリカ国防総省ARPA(高等研究計画局)が1961年に開始した、東南アジアにおける共産主義勢力の排除を目的とした限定的非対称戦争計画であり、ベトナムの他、ラオスやタイの政府軍、カンボジアの反共・反政府組織『自由クメール抵抗軍』に対しても軍事支援が行われた。
 またホア神父とバーナード・ヨーは慈善団体やサイゴン政府当局に対し、警備活動、医療、教育、小麦粉や食用油などの食料品など、難民への生活支援を求める活動を絶え間なく行っていた。その結果、ビンフン村には中国人難民に加え、北ベトナム出身のベトナム人カトリック難民もホア神父の下で暮らすためビンフン村に集まり、村の人口は開村から2年で4倍に増加した。


海燕(ハイイェン)

 1961年6月、ホア神父はビンフン村民兵の部隊名を第1001から、『ハイイェン(海燕 / Hải Yến)』に変更する事をジェム総統に提案し、合意を得た。ハイイェンの名は白黒二色の海燕がカトリック司祭のキャソック(司祭平服)を連想させる事、田畑の害虫を食べ農民を助ける鳥である事、さらに渡り鳥である海燕は毎年生まれ故郷の中国に帰ってくる事から、いつか故郷へ帰還する希望をこめて選ばれた。この時点で、『人民自衛団部隊ハイイェン(Lực lượng NDTV Hải Yến)』には340名の民兵が所属し、さらに80名が新兵として訓練中であった。またハイイェンはボーイスカウト式の『三指の敬礼』で互いに敬礼を行った。(画像: ハイイェンの部隊章。隊員は軍服の左袖にこの徽章を佩用する)
 1959年以降、ジェム総統は180名のビンフン村民兵に与える賃金を捻出するため一部民間の資金を使用していたが、1961年には300名の民兵に対し、階級に関わらず一人一律12米ドルの月給が国費から支払われるようになった。さらに40余名分の供与はホア神父が自費で捻出した。しかしこれらを合わせてもビンフン村を維持するための資金は十分とは言えず、兵士は訓練に参加しただけでは賃金が発生せず、食事が提供されるのみであった。さらにホア神父とバーナード・ヨー村人が着用する衣類など集め、その生活支えるために個人的な借金を重ねていたが、その額は1961年半ばまでに合わせて10万米ドルに達していた。
 しかし正式に国軍の指揮下に入った後も、ホア神父は軍の将校としての地位と賃金を受け取る事は固辞し、ビンフン村の指導者として無償で数多くの軍事作戦に志願し、その指揮官を務めた。ホア神父は聖職者である自分が軍事作戦を指揮するに事について、所属するカトリック教区の司教に相談したことがあった。その時司教はそれを許可しなかったが、ビンフン村の住人にとってホア神父のリーダーシップと軍事経験は村が生き残る為の唯一の希望であった事から、ホア神父は司教の言葉を無視し、自ら戦場に赴いた。(写真: 軍服姿でハイイェンのパトロール部隊に同行するホア神父.1962年。狩猟が趣味のホア神父はしばしば、パトロールの際にアメリカ軍アドバイザーから入手した16ゲージ散弾銃で家畜を襲う鷹を獲り楽しんだ。)

 その後、政府からビンフン村にまとまった財政支援が行われると、ホア神父は村を守るための傭兵を募りに南ベトナム中を周った。彼はそこで、ビンフン村での生活は安い給料の割に戦闘は激しく、生命の危険がある事を警告したが、それでも242名のデガ(山地民/モンタニヤード)と、ヌン族1個中隊=132名がハイイェンに志願した。
 デガの多くはカトリック信徒であり、その上デガは長年ベトナム人から迫害を受けていたため、非ベトナム人カトリック組織であるハイイェンに進んで参加した。またヌン族グループはホア神父やビンフン村の人々と同様に、かつて蒋介石の国民革命軍に所属し、その後毛沢東、ホー・チ・ミンによる弾圧から逃れ南ベトナムに流れ着いた中国出身の難民たちであった。
 彼ら元国民革命軍のヌン族兵士は、国共内戦に敗れると他の国民党勢力と共にベトナム北部に移住し、その地でフランス植民地軍に参加して第1次インドシナ戦争を戦った。しかしフランスが撤退し北ベトナムがホー・チ・ミン政権に支配されると、5万人のヌン族が南ベトナムに避難した。そこでもヌン族はゴ・ディン・ジェム政権の下でベトナム共和国軍に参加し、『ヌン師団(第16軽師団・第3野戦師団)を構成していた。しかし1959年にヌン師団師団長ファム・バン・ドン少将がジェム総統との確執から更迭されると、これに反発した多数のヌン師団将兵が政府軍から脱走し、以後元ヌン師団兵士たちはアメリカ軍MAAGおよびベトナム共和国軍特殊部隊などに傭兵・基地警備要員として雇われていた。こうして彼ら傭兵の指導者たちはビンフン村に鉄兜(軍事力)をもたらし、ホア神父は彼らに祭服(信仰)をもたらす事で、ゲリラに対抗しうる強力な戦力を整えていった。

 ホア神父の方針は、ただ攻撃されるのを待つだけでは戦いに勝つことはできず、自ら打って出て敵を撃破する事ではじめて勝利を掴め得るというものであった。ハイイェン部隊は毎日、毎晩、どんな天候でもパトロールに出撃し、そして必ずベトコンの待ち伏せを発見する事が出来た。それはビンフン村が周囲のベトナム人農村と協力関係を築き、この地域で活動するゲリラやスパイに関する情報が周辺住民から逐次提供されたからであった。同時にハイイェン側も商人に偽装した工作員をベトコンと接触させ、敵側の情報を収集する情報網を作り上げた。
 ホア神父は常々、ゲリラを撃退する最善の方法は、敵がまだ一カ所にまとまっている段階でこちらから攻撃を仕掛ける事であり、こうすれば敵は統制を失い、簡単に叩く事が出来ると力説した。その言葉の通り、ホア神父が指揮するハイイェン部隊は次々と戦いに勝利し、ビンフン村の周囲からベトコンを一掃出来た事を彼自身誇りとしていた。過去2年間で、ベトコン側はハイイェンとの戦いで約500名の死者を出したが、ハイイェン側の死者はわずか27名であり、さらにその大部分は、戦闘ではなく対人地雷やブービートラップによるものであった。このようにハイイェン兵士の戦闘能力は非常に高く、政府軍のアンスェン省長官からの要請により、しばしばハイイェン部隊の一部を他地域への増援として貸し出すほどであった。
 ある日、ホア神父はこの地域のゲリラが成果を出せなかったことから、ベトコン上層部は他の地域から兵力を移動させているという知らせを聞いたが、彼はこれをハイイェンが確実にベトコンに損害を与えている証拠と捉え喜んだという。以前にもホア神父は別の地域から派遣されたベトコン部隊と戦っ事があったので、もし新たな敵が現れたとしても、ハイイェンはいつも通り敵を血祭りにあげるか、捕虜にするだろうと確信していた。(写真: ベトコンに勝利し解放戦線の旗を鹵獲したハイイェン兵士)

 共産主義者を憎むハイイェンの兵士たちは、一たび戦闘となると猛烈な敵意をもってベトコンを攻撃したが、一方で捕虜の扱いには慎重であった。ハイイェンはそれまでの三年間で200名以上のベトコン兵士を捕虜にしており、その中には多数のベトコン幹部と工作員も含まれていた。
 捕虜たちは窓のない長屋に収監されており、特に頑固で反抗的な約40名のベトコン兵士が独房に監禁されていた。しかし他の108名の捕虜たちは、夜寝る時間以外は長屋から出る事が出来た。彼らには一日5~6時間の労役が課せられていたが、日曜日は休日として労役からも解放された。捕虜には一日三食の食事が与えられ、さらに少ないながらも労役に対する賃金が支給され、その金でタバコなどの嗜好品を買うことができた。村人たちは捕虜に対し友好的な態度を取り、しばしば衣類や食料品を差し入れした。また捕虜を収容する長屋にはベッド、毛布、蚊帳まで用意されており、これには一般のゲリラ兵士だけでなくベトコン中核幹部まで、その人道的な扱いに感動を覚えたたという。またベトコンはしばしば農村の女性や子供までもをゲリラ兵士として戦闘に動員したが、ハイイェンはこうした捕虜は長屋に収容せず、また子供の場合はその親を村に呼び寄せ、他の住民と同じくビンフン村の中で生活する事を許した。(写真: 捕虜としてビンフン村内で生活するベトコンの女性・子供たち)
 加えて、村では捕虜たちに対し一日2時間、自由と民主主義、そして共産主義の実態について学ぶ教室が開催された。捕虜となったゲリラ兵士のほとんどは、民主主義も共産主義もよく知らず、ただベトコンが語る『解放』という抽象的な希望にすがっただけの貧しい農夫たちであった。そしてホア神父は捕虜たちがこの講義の意味を十分理解したと感じると、彼らを解放し各自の村に帰した。
 この厚遇を体験した捕虜たちは、こうしたホア神父の寛大で誠実な人柄に瞬く間に魅せられたという。ある日、捕虜を見張っていた年配の看守が、勤務中に酒を飲み、へべれけに酔っぱらってしまった事があった。しかし捕虜たちが逃亡する事はなかった。それどころか捕虜たちは、看守がライフルを置き忘れないよう、本人に代わって持ち運んであげたという。
 捕虜の一部には、ホア神父の理想と人柄に感化され、ベトコンを離れハイイェン部隊に加わる事を願い出る者さえいた。またベトコンはしばしばスパイ活動と破壊工作のために、若くて美しい女性をビンフン村に潜入させていたが、彼女たちの中にもビンフン村の実情を目の当たりにして考えを改め、自分はスパイだったと名乗り出て、ハイイェンへの協力を申し出る者がいた。ホア神父はこうした申し出を寛大に受け入れ、元ベトコン兵士たちがビンフン村内の小さな集落に住むことを許可した。ホア神父が目指す自由で寛容な世界は、残忍なテロで暴力革命を進めるベトコンの扇動よりも、貧しいゲリラ兵士たちの心を打つものであった。

 ビンフン村を訪れた外国人記者たちは、かつて19世紀の小銃で武装した340名の雑多な民兵に過ぎなかったハイイェンが、わずか1年間でM1ライフルやM1カービンを装備し、カーキ色の制服で統一され、非常に統制のとれた、まるで政府軍のような500名の精強な兵士たちに成長したこと驚きを禁じ得なかった。しかし当時村に対するベトコンの攻撃は頻発しており、ハイイェンの民兵たちだけでビンフン村および周辺の集落を守り切る事は、記者たちから見ても容易ではないように思われたという。それでもホア神父は常に自信を持った態度で人々に接しており、村人はホア神父を親しみと尊敬をこめて『おじいちゃん(爺爺)』と呼んでいた。またハイイェンの守備部隊は毎日死と隣り合わせの危険な任務を送りながらも、他の誰からも信仰を妨げられることのないビンフンでの生活に心は晴れ晴れとしており、村人たちは皆ここでの生活に満足しているように見えたという。そのような村落は、カトリックが優遇されていた当時の南ベトナムにおいても、ビンフン村ただ一つであった。
 欧米メディアはビンフン村を、『死を恐れず敵の中心で戦いに挑むキリスト教難民の村』『不屈の村(A village that refuses to die)』として取り上げ、驚きと共感を持って報じた。その姿は、東南アジア諸国への軍事支援を強化するケネディ政権の『成果』の一つとしてアメリカ国民にも好意的に受け入れられ、1961年にはケネディ一家が毎年夏の休暇を過ごすマサチューセッツ州の避暑地ハイアニスポート村や、同州のニューベリーポート市がビンフン村と姉妹都市を宣言した。またニューヨーク市は友好の証として、同市のシティーキー(都市間の信頼関係を示す鍵を模したオブジェ)と、ビンフン村のペナントを互いに交換した。そしてこの年のクリスマスには、西側世界の各国からクリスマスカードやプレゼントがビンフン村に届けられた。こうして村には訪問者やジャーナリストを載せたヘリコプターが定期的に行き来するようになり、ホア神父は56名のハイイェン兵士を選抜し、重要な来賓を迎えるための儀仗部隊を編成した。(写真: ビンフン村における米国ニューベリーポート市との姉妹都市記念式典, 1961年)
 1962年にビンフン村を取材した米国のニュースレポーター スタン・アトキンソン(Stan Atkinson)特にホア神父の人柄に心酔し、ビンフン村に住み着いて村人と共に生活しながら現地の状況をリポートした。後にスタンは体調を崩しビンフン村を離れざるを得なくなったが、その際ホア神父に、何か村に送って欲しい物はあるかと尋ねた。スタンはホア神父が医薬品や武器弾薬を求めると思っていたが、ホア神父の答えは、ディズニーランドのTシャツ1500枚と、コカ・コーラの看板をいくつか、というものであった。それはビンフン村がアメリカからの支援を受けている事をベトコン側に誇示し、心理的に優位に立つための戦術であった。スタンはその後、実際にそれらの品をビンフン村に送り、村人たちはディズニーランドのTシャツを『制服』として日々着用した。またコカ・コーラの看板は敵に見えるよう村の外側に設置され、コークの在庫状況が掲示されるとともに、ベトコンを抜けてビンフン村で共に暮らそうというメッセージが書かれていた。
 また当時、ハイイェンでは作戦時にしばしば、男性兵士の後に続いて女性看護兵も共に出撃していた。彼らお互いを『兄弟』または『姉妹』と呼び、皆強い仲間意識と敢闘精神で結ばれていた。彼女たちビンフン村の女性は、妻であり、母であり、同時に前線の戦闘員でもあった。ビンフン村には約300名の女性兵士が居り、男性兵士が村の外に出撃ししている間は、女性たちが村の防御を担当した。彼女たちは男性兵士と同様に18歳から45歳までの志願者で構成されており、2か月間の軍事教練において武器の使用について必要な訓練を受けているため、重い機関銃でも十分に操作できた。その姿はこの村の境遇とも相まり、イスラエル軍の女性兵士を彷彿とさせたという。ある記者が、なぜこの村の人々は皆あのような苦痛と命の危険を伴う任務に志願したがるのかと質問したところ、ホア神父はこのように答えた。「人は皆、何かをするために生まれたのです。」 (写真: ハイイェンの女性看護兵たちと台湾のテレビ特派員スー・ユーチェン-左から三番目)


アメリカのテレビ局が作成したビンフン村のドキュメンタリー番組『不屈の村(A village that refuses to die)』 (1962)
[主な内容]
00:15 ハイイェンに捕縛されたベトコン捕虜
03:45 ビンフン村の土塁と防御陣地
07:30 労役として湿地から泥のブロックを切り出し土塁を強化する捕虜
09:02 ビンフン村の病院
10:03 ハイイェンによるビンフン村周辺のパトロール
10:50 ビンフン村の学校
11:35 ボートで遠方へのパトロールに向かうハイイェン
13:10 ベトコンの宣伝看板を発見し警戒を強めるハイイェン
14:56 カオダイ教徒の村の捜索
19:40 ビンフン村に収容されたベトコン捕虜
20:32 鹵獲されたベトコンの武器、伝単、
21:36 ベトコンに戦う事を強要されていた少年タイ
22:31 政府軍のC-47輸送機によってパラシュートで投下される村の生活物資
27:25 ビンフン村のパン屋
28:05 ホア神父とカトリック住民の朝の礼拝
29:50 胃の病で死亡したハイイェン兵士の葬儀


ハイイェン独立区

 ホア神父の名は『戦う神父』として知れ渡り、カマウで知らぬ者はいないほどの名士となっていた。ジェム政権は、ビンフン村が行っていた集落を一カ所に集合させる事で農民をゲリラから隔離し、住民自身を自衛戦力化する手法はベトコンへの対抗策として非常に効果的であるとして政府の政策に取り入れ後に『戦略村(Ấp Chiến lược)』計画として全国の農村を、ビンフン村を模した自衛村落化へと変えていく政策を推し進めた。(ただしこの手法は、ビンフン村が最初から要塞として設計され住民が狭い範囲に住んでいたからこそ成功したのであり、元々広大な田園地帯に家々が点在するベトナムの農村では、むしろ住民は強制移住させられる事を嫌って政府への反発を強める結果となってしまった。戦略村計画は長年サイゴンの政府中枢で数々の要職を務めたベトナム共和国軍の"アベール"ファム・ゴク・タオ(Albert Phạm Ngọc Thảo)大佐の主導で進められた政策であったが、実際にはタオ大佐は政府に潜入していたベトコン側のスパイであり、初めからこの計画を失敗させて農村地帯における政府の支配力を低下させるを目的としていた)

 1962年2月には、サイゴン政府はビンフン村およびその周辺の村落を包括する戦術エリア『ハイイェン独立区(Biệt Khu Hải Yến)』を設定し、ハイイェン部隊は『ハイイェン独立区人民自衛団(NDTV Biệt Khu Hải Yến)』へと昇格し、ホア神父はハイイェン独立区長官に任命されたハイイェン独立区の範囲21の村落、人口25,000名、面積は約400平方キロメートルに及んだ。
 ホア神父が1959年にビンフン村を設立した時点では、後にハイイェン独立区となるこの地域の住民の90%はベトコン・シンパ、またはゲリラから協力を強要されている人々であった。しかしホア神父の民兵部隊が村から遠く離れた戦場まで進軍し、ベトコンを撃破してゆくのを見る度に、住民たちはビンフン村側に寝返っていった。(画像: ハイイェン独立区の部隊バッジ)

 一方、ビンフン村への軍事支援を開始したアメリカ軍はまず初めに、1961年9月にアメリカ海兵隊から7名の調査チームをビンフン村へ派遣した。彼らはそこで1ヶ月間、村の防衛に関する戦術上の問題などを洗い出した。その後、村には新たに3名のアメリカ軍アドバイザーが派遣され、村の飛行場の整備、防衛業務を補助するとともに、部隊を運用するにあたっての気象条件に関する調査を実施した。
 1962年3月には、アメリカ軍のトップである統合参謀本部議長ライマン・レムニッツァー(Lyman Lemnitzer)大将が直接ビンフン村を視察に訪れ、この地の戦況についてホア神父と会談した。さらに同年、アメリカ軍は『プロジェクト・アージル』の一環として、通常の軍事物資に加えて当時アメリカ軍でテスト中であった新型小銃アーマライトAR-15 (コルトAR-15 Model 01)をハイイェン部隊に10丁配備し、実地テストを行った。
 またアメリカ軍はハイイェンに陸軍特殊部隊のチーム(後の第5特殊部隊群A-411分遣隊)を派遣し、特殊作戦の専門家たちがハイイェン部隊を補佐した。(写真: ビンフン村を訪問するレムニッツァー大将と出迎えるホア神父, 1962年)

 こうしてハイイェンはベトナム政府とアメリカ軍双方から支援される唯一の非正規軍事組織となっていた。サイゴン政府はビンフン村を参謀部第4戦術地区司令部の直接指揮下に置き、ホア神父にその指揮の全権を与えた。この時点でハイイェンは152mm榴弾砲や迫撃砲、機関銃などで武装した戦闘部隊を10部隊保有し、それぞれがビンフン村の周囲に駐屯していた。各部隊には138人が所属し、3個の支隊で構成され、各支隊は3個の分隊で構成された。(写真: ビンフン村の中央に掲げられたジェム総統の肖像, 1962年)
 ホア神父は、今やハイイェンの兵力は1,000名にまで増強されたが、そのうち600名はかつて中国国民党勢力として日本や中共軍と戦った元中国軍人(漢族およびヌン族)だと語った。ビンフン村には中国からの亡命者の村として、ベトナム国旗に加えて、中華民国(台湾)の国旗 青天白日満地紅旗も掲げられていた。ビンフン村の中国人たちは、いつか世の中が平和になったら、故郷の中国に帰る事を夢見ていた。ハイイェンの隊歌には、ホア神父と共に中国、ベトナムで戦い続けた兵士たちの静かなる決意が込められている。
眠れ!自由の戦士たち!
君は自由の種をまく。
自由を愛する世界中の民のため、
君と同じく 嵐の中で
戦い、戦い、戦い続ける人々のため
勝利を
その目に映すまで。
(英語訳より和訳)
 この時点でハイイェンはビルマ北部に次ぐ規模の亡命国民党勢力であり、台湾の蒋介石政権ハイイェンへの軍事支援を行った。ホア神父は台湾を訪問し、蒋介石総統との会談においてこのように語った。「この14年間、私たちはさ迷い歩く孤児のような状態でした。しかし今、私たちは祖国(中華民国)からの暖かい支援と感心を頂いております。我々のベトコンとの戦いは、もはや我々だけの孤独なものではなくなったのです」

 1963年末には、ハイイェン部隊はハイイェン独立区の面積の約半分に当たる200平方キロメートルの地域からベトコンを掃討し、人口の60%をその管理下に置いた。カマウ半島は古くからベトコン勢力が強い地域であったのにも関わらず、ハイイェンはこの地域一帯のサイゴン政府軍で最も強力な部隊となっていた。しかし依然、二つの主要なベトコン拠点地域は約400名のゲリラによって防御されており、ハイイェン独立区の人口の40%はそのベトコン支配地域内に住んでいた。
 ベトコンを駆逐したことで、ハイイェンが掌握した地域の人口は一気に約18,000名に拡大したが、ホア神父はその内の約3,700名のカトリック信徒と、その他の宗教の住民を差別する事は無かった。ホア神父は人々に「この戦いにはカトリックも仏教も関係ありません。我々が自由のために戦う以上、我々自身も他者の自由を認めなければならないのです」と訴えた。折しも1963年にはジェム政権による極端なカトリック優遇・仏教排斥政策に反発した仏教徒・学生らによる暴動と、それに対抗する政府による凄惨な弾圧が南ベトナム全土に広がった『仏教徒危機』が発生していたが、ハイイェン独立区の中だけは宗教的な対立が発生しなかった。

 しかし問題は山積していた。人口の増加したビンフン村は防御陣地としては大きくなり過ぎ、本来の要塞としての機能を十分に発揮できなくなりつつあった。また逆に、ベトコンや中共に対し、反攻に転じるための反共産主義勢力の軍事的拠点となるには、この村は小さ過ぎた。
 一方でハイイェン独立区人々の絶え間ない努力によって経済的にも発展し、自衛戦力がますます増大した。ビンフン村の周囲には守衛所、鉄条網、人海戦術による突撃を阻止するための地雷原が設置され、運河は村の東西を繋ぎ、村の前の前哨路まで伸びた。当時村の人口は約2,000人であり、そのうちの90%が中国人であった。村には電気、水道、運動場や病院も備えられた。(写真: ハイイェン独立区を取り囲む鉄条網と正門)
 人口の増加に伴い、ホア神父は人々が住む家のモデルハウスを自ら設計して、その監督下で建物が建設された。ホア神父は、ビンフン村のある湿地帯にも、堅牢な建物が建てられることを証明したかった。なぜならビンフン村やハイイェン独立区は都市部から遠く離れた陸の孤島であるため、人口増加に対応できるほどの生活用品を運ぶ為には、飛行機による空輸に頼るしかなく、そのために最低でも短距離離着陸能力のあるC-123輸送機やC-46輸送機が使用できる滑走路を作る必要があったからであった。また村には就学年齢に達した300名の児童が居たが、当時村にはまだまともな学校が無かったため、子供たちへの教育は各家庭および移動教室で行われていた。ホア神父は、その子たちの為にも丈夫な学校を作ってあげる必要があった。(写真: 仮設の学校で学ぶビンフン村の子供たち)
 そしてホア神父の努力は実を結び、ハイイェン独立区内には1964年初めまでに、湿地から1m盛り土し地盤を強化した上に、長さ700mの滑走路を持つ飛行場が完成した。また耕作地はビンフン村から遠く離れたタンフンタイ(Tân Hưng Tây)まで開墾が進んみ、米の作付面積は一気に増大した。
 1964年8月には、ホア神父はフィリピン共和国マニラにて、『アジアのノーベル賞』とも呼ばれるマグサイサイ賞(Ramon Magsaysay Award)の社会奉仕賞を受賞した。マグサイサイ賞は初代フィリピン大統領ラモン・マグサイサイを記念し、社会貢献や民主主義社会の実現に貢献した人物に送られる賞で、ロックフェラー兄弟財団の援助によって運営されている。
 民族と宗教に寛大なホア神父とビンフン村の人々の理想は、村の開設以来守られ続けた。一つの村の自衛組織に1,100名以上もの兵士が進んで参加したのは、ひとえにグエン・ラック・ホアという自由を求めて戦う一人の修道司祭の存在があったからであった。ホア神父はビンフン村の記念碑に刻む碑文に、彼に付き従ってきた人々と、自分自身に向けた言葉として、中国南宋時代の人物 文天祥の詩を引用した。
人生自古誰無死 留取丹心照汗青
意解:人生は昔から死なない者はないのであって、どうせ死ぬならばまごころを留めて歴史の上を照らしたいものである。(宋の政治家 文天祥は1278年、五坡嶺(現・広東省海豊県の北)で元軍に捕えられた。元の将軍張弘範は、宋の最後の拠点厓山(現・広東省新会県の南海上にある島)を追撃するのに強制的に文天祥を帯同し、宋の総大将張世傑に降伏勧告の書簡を書くよう求めたが、文天祥は拒否してこの詩を作った。)
 しかしビンフン村でホア神父と共に過ごしたスタン・アトキンソンによると、当時ますます混迷を深め、堕落の一途を辿るサイゴンの政治情勢にホア神父は失望感を募らせ、ここベトナムでも人々が自由に生きるという夢は叶わないと予見していたという。
 ホア神父は誰から見ても公明正大な人物であったが、ハイイェンやビンフン村が拡大してゆくと、ベトコンだけでなくサイゴン政府側のベトナム人の中にも、中国人難民たちが力を付けている事を快く思わない者や、ビンフン村で収穫される莫大な米の利権を狙う者たちがいた。ホア神父はジェム政権と常に深い関係にあったが、同時に腹の底ではベトナム人たちを警戒していた。さらにビンフン村を支援していたゴ・ディン・ジェム総統とジョン・F・ケネディ大統領は、それぞれ1963年に暗殺され、ホア神父は二人の国家元首の後ろ盾を失った。
 そうした中で、軍事作戦ではハイイェンを倒せないと悟ったベトコンは、ホア神父を失脚させるための宣伝工作を行った。それは、ホア神父やハイイェンの兵士の多くは亡命という形でベトナムに入国してきた『中国人』であり、その中国人に軍の指揮権を与え武装勢力として活動させる事は国籍法に違反している、というものであった。歴史的に中国への反感が強いベトナムにおいて、政府が『中国人武装集団』を支援して強い権限を与えているという事実は、サイゴン政府の腐敗を糾弾する世論(もちろんベトコンによる世論誘導工作の結果でもあったが)の中で、政府による『不祥事』として問題視された。そしてベトコン側の目論見通り、政府は最終的にホア神父をベトナム国籍とは認めず、支援を完全に停止してしまった。
 そして1964年半ば、サイゴン政府は以前からホア神父と親交のあった政府軍所属のヌン族の少佐2名をハイイェン独立区に派遣した。政府はこのヌン族将校が新たなハイイェン独立区長官に就き、ホア神父は一般のカトリック司祭ならびに村の顧問という役職へと退くことを求めた。これに対しホア神父は、「私もこの(指導者としての)困難な責任から逃れたいと思っていたし、村の自衛部隊が存続できるならそれでいい。ただし、村の修道士を軍に動員するのはやめて欲しい」と述べ、政府の要求に従った。

 ホア神父が指揮官から退いた後も、ハイイェン独立区はアンスェン省の人民自衛団部隊として引き続き、政府軍の指揮下で作戦を継続した。そしてホア神父に代わってハイイェンの実質的なリーダーとなったのが、ホア神父の下で村の修道士をしていたニェップ(Niep)という男であった。ニェップは政府軍の中尉の階級を持っており、ハイイェンの中隊長を務めた。また過去にはCIAの秘密作戦に参加し北ベトナムに潜入した経験もあった。
 1960年代末、ハイイェンにはアメリカ軍特殊部隊A-411分遣隊に代わって、アンスェン省を担当するMACV(ベトナム軍事援助司令部)のアドバイザーチーム59(AT-59)およびチーム80(AT-80)が派遣され、ハイイェンへの補佐を引き継いだしかし当時アンスェン省の司令官だった政府軍のヌォック(Nuoc)少佐は横暴な男で、住民から勝手に『税金』を徴収して私腹を肥やし、さらに自分に従わない住民やアメリカ軍アドバイザーに発砲するなど、人々の生活を脅かし始めた。そこでハイイェンとアドバイザー達は結託してヌォック少佐を指揮官の座から引きずり下ろし、代わりに他のレンジャー大隊を指揮していた誠実なベトナム人大尉を指揮官に据えた。こうしたハイイェンとアメリカ軍アドバイザーとの絆はアメリカがベトナム戦争から撤退するまで続いた。(写真: MACV AT-59のヘンリー・デジネイス少佐とホア神父)


自由の終焉

 その後もハイイェン独立区はゲリラによる襲撃を退けていたが、ベトコンはその主力部隊を徐々に南ベトナム国内のゲリラ(解放民族戦線)から、国境を越えて南侵する北ベトナムの正規軍(ベトナム人民軍)へとシフトし、戦闘はそれまでの不正規(ゲリラ)戦から、南北の正規軍同士が激突する大規模なものへと変貌していったしかしアメリカをはじめとする西側同盟国はベトナム戦争から撤退した後、南ベトナムへの支援を大幅に削減していた。一方でベトコン側は引き続きソ連・中国から無尽蔵に軍事支援を受け続けており、パリ協定を無視した南ベトナムへの侵攻を続けた。そして戦争の大勢は、次第にベトコン側に傾いていった。
 ゲリラとの戦いでは無敗を誇ったハイイェン部隊と言えども、たった1,000人強の民兵が戦車や重砲で武装した数十万人規模の正規軍を相手に戦うことは不可能であった。そしてビンフン村の人々はベトコンによる報復を恐れ、ベトナムから脱出するため村を離れて散り散りになった。事ここに至り、ついにベトナムでも自由を得る機会は失われたとして、ホア神父は失意の中ベトナムを去った。
 その後ホア神父は国民党の伝手で台湾に渡り、首都台北のカトリック教区に司祭として勤めながらその地で晩年を過ごしたという。ただし台湾移住後もホア神父は反共運動の指導者としての発言を続けており、1972年9月には、日本の田中角栄首相が北京を訪れて中華人民共和国との国交正常化交渉を進めている事を痛烈に批判した。(その直後、日中国交正常化が宣言された事に反発し、台湾政府は日本との断交を宣言した)
 そして1975年4月30日、ついに北ベトナム軍はベトナム共和国の首都サイゴンを占領し、戦争はベトコン側の勝利に終わった。

 1989年、グエン・ラック・ホア台北市内において81歳で死去した。死と暴力が吹き荒れる動乱の中国・ベトナムにおいて、弾圧から人々の信仰を守る為の戦いに生涯を捧げた人生であった。
(写真: 天の軍団を率いサタンを打ち倒す聖ミカエルの像とホア神父. ビンフン村, 1964年)

 スタン・アトキンソンはホア神父について、ニュースレポーターとして世界中を周った中で、彼ほど優れた指導者には出合ったことが無く、人生でもっとも忘れ難い人物だと語る。そして自身が1999年にジャーナリストを引退するにあたり、最後に執筆した記事はホア神父と共に過ごした日々についてであった。
 また、ホア神父と二人三脚でビンフン村を創りあげたバーナード・ヨーは、1963年にアメリカに帰国しており、アラバマ州モントゴメリーのアメリカ空軍航空戦大学(Air War College)で対ゲリラ戦と心理戦の講師として教鞭を執っていた。1974年からは保守系メディア監視団体アキュラシーの幹部としてメリーランド州ロックヴィルに居住し、1995年に74歳で死去した。


共産ベトナムでの評価

 1976年の南ベトナム併合後、ベトナム共産党による独裁政権が40年間続いている現在のベトナム社会主義共和国において、ホア神父は今もなおベトコン政権によって、『ビンフン村の頭目として大量虐殺や強姦を指示し、被害者の腹を裂いて内臓を取り出し、その肝臓を食べた』、『ビンフン村は共産主義革命の拠点を破壊するためサイゴン政府によって作られた工作部隊だった』、『"肉屋"グエン・ラック・ホアは司祭の服をまとった残忍な殺人鬼であり、1,600人以上の人々を無残にも殺害した』(カマウ省政府公式サイト)喧伝されているそして現在、ビンフン村のあった場所には政府によって、ハイイェンに殺害された『民間人』を悼む記念碑が設置されている。またかつてビンフン村の人々が行き来した村の中央の橋は、『捕虜たちはこの橋を渡った先で拷問を受けて殺害された』として、『別れの橋(Cầu Vĩnh Biệt)』と名付けられている。(写真: ビンフン村の橋の当時と現在の様子)
 ただしこれはホア神父やハイイェンに限った話ではなく、1975年までにベトコン(ベトナム労働党・解放民族戦線など)と対立した、または非協力的だった者は全て、戦後『人民の敵』の烙印を押され、終戦から40年以上経った今現在も、ベトコン政権によってその『悪行』が学校教育やメディアを通じて国民に喧伝され続けている。


【参考文献・ウェブサイト】
The Sea Swallows, Henry Dagenais (2014)
MACVTeams.Org, MACV Team 80 – An Xuyen