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2022年12月22日

チャン・ドン・フォンの墓

 もう何年も前の事ですが、東京の雑司ヶ谷霊園にあるチャン・ドン・フォン(Trần Đông Phong)の墓にお参りしました。

チャン・ドン・フォンの墓

 チャン・ドン・フォンは、ベトナム民族主義指導者ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu)が1905年(明治38年)に始めた『東遊運動(Phong trào Đông Du)』によって来日したベトナム人留学生の一人です。
 東遊運動とは、将来有望なベトナムの若者を、明治維新を成し遂げ当時アジア唯一の近代国家となっていた日本に留学させ、近代的な教育を受けさせることで、将来的にフランスの植民地支配下にあるベトナムの解放を目指す運動の事です。 留学とは言っても、当時ベトナム人はフランス植民地政府の許可無しに出国することはできなかったので、東遊運動に参加した学生らはフランスの目を掻い潜って密出国し、また日本では清国人と身分を偽って生活していました。
 この中で、チャン・ドン・フォンは最初に来日した9人の学生の一人であり、実家が裕福であったことから、東遊運動を資金面で支える役割を担っていました。 ファン・ボイ・チャウの片腕として来日し共に東遊運動を牽引した阮朝の皇族クオン・デ(Cường Để)は、フォンを弟のように可愛がったといいます。
 しかし1908年(明治41年)になると、フォンの実家からの送金が途絶えます。実際にはフランス側が東遊運動を阻止するためフォンの実家からの手紙や送金を押収していたのですが、それを知らないフォンは父に見捨てられたと誤解し、また東遊運動の資金が途絶えた事で仲間に迷惑をかけた事を恥じ、フォンは1908年5月2日に、小石川の東峯寺境内にて首を吊って自殺します。
 さらにその前年の1907年には日本とフランスの間で日仏協約が締結されており、1908年になるとフランスは日本政府に対し、日本国内のベトナム人留学生の国外追放を要請します。日本政府はフランスとの関係を優先してこの要請に従い、翌1909年初旬には、全ての留学生がベトナムに強制送還されたことで、約3年間続いた東遊運動は瓦解しました。
 ファン・ボイ・チャウは、犬養毅など東遊運動を支援した日本人支援者には感謝を示す一方、事実上フランスと共に東遊運動を弾圧した日本に失望し、二度と日本を頼る事はありませんでした。
 一方、クオン・デはその後ファン・ボイ・チャウとは別行動をとり、カンボジア、シャムを経てドイツ等を漂泊しましたが、何ら成果を上げられぬまま1915年(大正4年)には犬養毅を頼って再び日本に戻り、以後犬養の庇護の下、東京生活します。この時期(1920年頃)、クオン・デ1908年に亡くなったチャン・ドン・フォンの墓を雑司ヶ谷霊園に建立しました。
 しかしその後20年近く、クオン・デは目立った活動を行う事なく月日が流れます。クオン・デはベトナム光複会(Việt Nam Quang Phục Hội)の代表であり、ベトナムで成功した日本人実業家 松下光廣の協力も得ていたものの、フランスと日本の官憲は常にクオン・デの動向を厳重に監視しており、またクオン・デ自身の行動力の低さもあり、ベトナム光複会が具体的な行動を起こすまでには至りませんでした。そしてその間、ベトナム国内で勢力を拡大したのが、ホー・チ・ミンが創設したインドシナ共産党(後のベトナム労働党/共産党)でした。
 1945年(昭和20年)3月、日本軍が仏印処理によって仏領インドシナを解体しベトナム帝国を擁立すると、ベトナム国内のベトナム復国同盟会(ベトナム光複会の後継組織)やカオダイ教徒クオン・デが君主としてベトナムに帰国する事を望みましたが、日本軍はフランス同様バオダイ(保大帝)を傀儡として皇帝に据えたため、ついにクオン・デが政治の表舞台に上る機会はありませんでした。
 そして1951年(昭和26年)、ベトナムへの帰国も叶わぬまま、クオン・デは東京都内の病院で息を引き取ります。この時期ベトナムでは第一次インドシナ戦争が激化し、ベトナム人同士が血みどろの抗争を繰り広げている最中でした。
 クオン・デの遺言により、彼の遺骨は三等分に分けられ、一つは故郷ベトナムのフエ、一つはタイニンのカオダイ教本部、そして残る一つは弟分であるチャン・ドン・フォンの墓に収められました。なのでチャン・ドン・フォンの墓は、同時に日本にある唯一のクオン・デの墓でもあります。

 このチャン・ドン・フォン/クオン・デのお墓は現在、日本人の有志の方々によって清掃されており、僕がお参りした際、偶然その方々(高齢のご夫婦)がいらっしゃったので、少しお話させて頂きました。
 またベトナム人の間でもこのお墓は知られた存在であり、特に私が日本在住ベトナム人協会を通じて知り合った日本に住んでいるベトナム人の若者は、皆で集まってお参りしていました。彼らは恐怖政治と拝金主義しか能の無いベトナム共産党政権を否定し、ベトナム国民に自由と人権を取り戻す事を願う、真に愛国的なベトナム人です。まさにここ日本で祖国の解放を願う彼らの姿は、約100年前の東遊運動の留学生と重なります。


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この記事へのコメント
本日2023年1月9日午前、陳東風のお墓に行ってきました。雑司ヶ谷霊園管理事務所によると、名義継承人が死亡したのか墓地代滞納が続いていて、このままでは2〜5年のうちに「撤去」という事態もありうるそうです。お墓の前に親類縁者を捜す整理札が建てられていました。ご存知かもしれませんがお知らせします。何とか保存できないものでしょうか。
Posted by 今出川一郎 at 2023年01月09日 22:43
>今出川一郎さん
そんな事になっているとは知りませんでした。お知らせいただきありがとうございます。さっそく心当たりの方々にあたってみます。
ファン・ボイ・チャウが静岡に建てた浅羽佐喜太郎の紀念碑は自治体によって保全・情報発信されているようなので、このお墓も同様に保全され、日本人の知るところとなって欲しいです。
その背景にある東遊運動とクオン・デ候と日本の関係が、日本人にとって決して耳触りの良い話ばかりではないにせよ、その歴史・史跡は保存されなければならないと考えます。
Posted by 森泉大河森泉大河 at 2023年01月12日 20:27
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