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2016年08月20日

ジャラジャラ系

少し前ですが、何年も前から欲しかったM1ガランドの無可動をゲットしました。う~ん!カッコいい!

 無可動と言っても、実銃ベースではありません。マルシンのガスガンがベースの無可動エアソフトガン。つまり、ただの壊れたオモチャです(笑)
 僕は戦争ごっこの時もほとんど発砲しないので、弾が出る出ないは気になりません。ただ安価で外観がリアルな模造品があれば十分なので、デニックス製のモデルガンでも買おうかなと考えていた矢先にこの格安ジャンク品と出会えたので迷わず購入。良い買い物ができました。

 しかしライフルが手に入ったとなると、今度は銃に付随するアイテムも必要になってきます。特にベトナム戦争時代のM1というと欲しくなるのが、あの特徴的なアーモ&クリップ。それも出来るだけ沢山。
 M1ライフルを使った国は数多くありますが、弾薬クリップをサスペンダーやベルトに挟んでジャラジャラ下げている事が多いのはベトナム共和国軍ならではだと思います。(もしかしたら僕が知らないだけで他の国でもやってるかもしれないけど)

▲赤十字社による学童への牛乳配給を警備するベトナム共和国軍の国民行動隊員[1967年ベトナム]
※国民行動隊=民事心理戦(国内を対象とした宣伝・政治工作)を行う特殊作戦部隊。たぶん政治戦総局(TCCTCT)の下部組織。
余談ですが、そもそも特殊作戦とは通常の戦闘行動以外の作戦を指すので、銃を持って戦う戦闘部隊よりも、こういった市民への生活支援を行う部隊の方がよっぽど『特殊部隊』と呼ぶにふさわしいと考えます。実際、ベトナム時代の米軍特殊部隊の活動も、人道支援を通じた民事心理戦抜きには語れません。


 本題。これは単に弾薬を多く携帯したいという理由と共に、アメリカ政府による軍事援助として1960年代初頭からM1ライフルと共に供与されていたM1923カートリッジベルトの在庫が60年代後半に枯渇し、銃は現役で使われているのに専用の弾帯が手に入らなくなってしまった事が原因ではないかと推測しています。
 もちろんカートリッジベルトが枯渇した後もアムニションバンダリアで携帯している例はありますが、それよりもクリップを裸で吊るす方式の方がはるかに人気だったようです。(なんか見た目がカッコいいからという理由だった気がしますが)

 という訳で、せっかくM1が手に入ったからには弾薬ジャラジャラを真似しない訳にはいかないので、さっそく.30-06のダミーカートリッジを2クリップ分(16発)買いました。だけど、2個ではジャラジャラには程遠い。最低でももう2個くらい欲しい。でもダミーカートリッジって結構高い。お財布に厳しいよ・・・。
 と思っていたところ、ちょうどタイミングよく米軍のM2ボールと同じ150grのFMJ弾頭がお安く手に入ったので、元々家にあった.30-06の使用済みケースにこれを装着してダミーカートリッジを自作する事にしました。



 手持ちのケースは僕が小学生の時に叔父さんからもらった物なので、だいぶブラスの色がくすんでいました。なのでまず、弾頭を装着する前にケースを紙やすりで磨きます。マスキングテープで電動ドライバーに装着しひたすら回転。
 本当は紙やすりの後に布とピカールでポリッシュするところまでやればピカピカになるんだけど、ピカールが手元に無かったし、数が多いので途中で面倒くさくなってしまい、とりあえず黒ずみを落とす程度までしかやっていません。



 そしていよいよ弾頭装着作業に突入。しかし、ケースに弾頭を取り付けるには弾頭を既定の位置に挿した状態でケースごとかしめる必要があるのですが、うちにハンドロード用の工具など無いので、弾頭をどう取り付けるかがボトルネックでした。薬莢だけに。
 初めは頑張って木型を作ろうとか考えていたのですが、ある日こんな考えが頭に浮かびました。「こんなのグルーで接着しちゃえば良くね!?」
 フッ・・・。水は低きに流れるもの。私もまた、楽な道を選択します。そもそも実包をリローディングしている訳ではないので、弾頭なんてただ付いてさえいればいいんだもん。という訳で、弾頭はダイソーで買ったグルーガンで接着する事にしました。
 ただしこの場合、弾頭がケースの奥に行き過ぎないよう気をつけなけばなりません。とは言え内部を全てグルーで満たすのは時間かかるので、手っ取り早く5cmに切ったグルーのスティックを詰め物にして、その上に溶かしたグルーを流し込みます。そしてその上に弾頭を手作業で押し込みます。発砲済みのケースなので弾頭をかしめる部分は若干広がっているものの、そこまでスカスカではないので、多分これでポロッと弾頭が抜け落ちる事は無いはず。
 

 そして完成したのがこちら。奥の二つが自家製。手前の二つが業者が丁寧に製作した使用済みケース再使用ダミーカートリッジ。磨きをサボった分ブラスの輝きは遠く及ばないけど、まぁイベントの時に個人装備にぶら下げておく分には目立たないでしょう。

 実はもう一つインチキやってます。8発入りのクリップに詰める.30-06のケースが2個足りなかったので、外径がほとんど同じ.45ACPのケースを突っ込んで誤魔化しちゃってます。どうせサスペンダーとかに挿せば後ろ側なんて見えないし。
 こうして数々のインチキもとい創意工夫によって、ジャラジャラ系に一歩近付くことが出来たのでした。イェイ!
  


2016年08月18日

ベトナム戦跡めぐりダイジェスト

お盆休み中、ブログ書く時間は沢山ありました。
ところが去年から調子の悪かった自室のエアコンがついに本格的にイカれてしまい、冷えないどころか逆に熱風が噴き出るようになってしまいました。ダメだこりゃ。
もう暑くて部屋に居られないので、必然的にパソコンをやる機会が減っています。この記事書いてる今現在も汗ダラダラ。
なので、先月のベトナム紀行について書きたいことは山ほどありますが、詳しい記事は涼しくなったらにします。
とりあえず忘れる前に、戦史めぐりとして周った場所をダイジェストで。

トゥックズップ丘陵(Đồi Tức Dụp)

現在は革命戦争の戦跡として歴史公園になっています。射撃場があったので念願のM16A1をフルオートで撃ってきました。

チャウドック省(現・アンザン省)トゥックズップ丘陵/コートー山戦うベトナム陸軍第9歩兵師団兵士 [1970年11月]



クチ・トンネル (Địa đạo Củ Chi)

ベトナム観光のド定番、クチにも行きました。
射撃場でライフル撃ってたら、友人が「ちゃんとメンテしてあるかな?」とか言って、勝手にAK (中国製56式小銃輸出型)を分解してて笑えました。(注・良い子はマネしないでね)
ちなみにここは外国人観光客に人気のスポットだけあって、弾の値段はトゥックズップの4倍。ボッてるなぁ。もったいないのでフルオートでは撃ちませんでした。

あと、銃を選ぶ際、M16ライフルがAR-15と書いてあるのはまだ分かるけど、M1919A4機関銃がM30という名前になってるのはどうかと思う。"Cal.30"をモデル名と勘違いしたんだろうけど。



国道1号線ビエンホア街道 (Quốc Lộ 1)

▲政府軍と共にビエンホア街道で戦う民兵たち [1975年4月末]
4月21日のスンロク陥落以降、共産軍は国道1号線からのサイゴン突入を試みます。ビエンホア街道では周辺に住む住人たちも銃を取り、民兵として敵のサイゴン突入を阻止すべく戦いました。
友人曰く、戦後サイゴンでは多数の市民が山岳地帯に強制移住させられ、現在でも街全体で政府による思想統制が厳しいが、一方でビエンホア街道周辺の集落では強制移住は行われなかったため、現在でもハノイ政府を嫌っている住民が多いとの事。確かに、サイゴンでは街中にあふれていた金星紅旗と共産党旗が、街道沿いの家々にはほとんど掲げられていませんでした。


新港橋 (Cầu Tân Cảng)

国道1号線でスンロク~ビエンホア~サイゴンと移動し、1975年4月の足跡を辿りました。
なお、この橋のある位置は1975年以前と同じですが、現在のサイゴン橋は90年代に建て直されたものです。


▲サイゴンに通じる国道1号線最後の橋、新港橋(ニューポートブリッジ)を守る空挺師団第12空挺大隊 [1975年4月28日]



統合参謀本部 (Bộ Tổng Tham Mưu)

現在は人民軍第7軍管区司令部となっています。(現地で写真撮ってないので、画像はGoogleストリートビューより)
 
▲ベトナム共和国軍統合参謀本部正門 [1975年以前]



独立宮殿 (Dinh Độc Lập)

外からの写真はネットでいくらでも見る事ができますが、内部をじっくり見る事が出来たのは貴重な体験でした。
しかし、もし仮にベトナム共和国が現在まで存在していたら、こうして一般人が内部に入る事など出来なかった訳で、少々皮肉に感じました。

 
▲2階の庭園でフランスメディアのインタビューに答えるグエン・バン・チュー総統 (https://youtu.be/2kQZxgjCPjg?t=3m40s)


バチュク祠墓 (Nhà Mồ Ba Chúc)

 
 ベトナム戦争終結後の1978年、かねてよりベトナムと領土・民族問題で対立してきたカンボジア(ポル・ポト政権)がベトナムに軍事侵攻した際、国境から3kmほどの位置にあったバチュク村のベトナム人住民3000人以上がカンボジア兵に殺害されるバチュク村虐殺事件が発生しました。ここは、その時の犠牲者の遺骨を安置・供養する祠墓です。
 このバチュク村の事件はベトナム国民に、カンボジアへの非常に強い敵愾心を抱かせ、現在でも祠墓の隣にはカンボジア兵がいかに残虐な行為に及んだかを展示した資料館が併設されています。一緒に参拝した私の友人も、ベトナム人としてポル・ポト派への憎しみを露わにしていました。
 確かに、こうして大量の遺骨を前にすると言葉に詰まるものがあります。しかし私はベトナム人ではないので、外国人として、一歩引いた目線で見る必要があると感じました。
 カンボジア軍の侵攻後、ベトナム人民軍は報復としてカンボジア領に侵攻し、カンボジア・ベトナム戦争に発展。ベトナム軍はプノンペンを占領し、カンボジアに殺戮の嵐をもたらしたポル・ポト政権を崩壊させますが、ベトナムが擁立した新政権(ヘン・サムリン政権)を拒絶するカンボジアの反ベトナム三派は新政府とカンボジア駐留ベトナム軍を攻撃し、カンボジアは再び長い内戦の時代を迎えます。
 一見ベトナムは正当防衛を行ったかのように見えますが、中越戦争に至った中国との緊張を背景に、カンボジア・ベトナム戦争終結後もベトナム人民軍がカンボジアに駐留し、カンボジアに干渉し続けたが為にカンボジア内戦が長期化した事は周知のとおりです。その間のカンボジア国民の犠牲者数は、バチュク村の比ではありません。この事件は結果的に、カンボジアに干渉する口実を欲していたベトナム共産党政府にとって願ってもない宣伝材料となり、だからこそ今こうして立派なモニュメントが建設されている訳です。
 一方で、現政府にとって不都合な事件、例えば1954年にホー・チ・ミン政権が自国領内の地主階級を1万人以上処刑した大粛清や、10年以上続いたベトコンによる一般市民へのテロ・虐殺などについては、犠牲者を追悼するどころか、全て無かった事にされています。この国では、歴史は政府の都合で決まるのです。
 それを踏まえた上で、私は同じ人間として、不幸にも命を奪われた無辜の人々をただひたすら追悼しました。と言うか、それ以上の事はしてはいけないと思っています。これはベトナムに限らず、こういう惨たらしい事件をここぞとばかりに宣伝に使い、新たな惨劇を欲するあらゆる勢力への、私にできる精一杯の抵抗です。

 
  


2016年08月13日

スンロクの戦跡

 ビエンホア国軍墓地を参拝した同じ日に、我々はサイゴンから東に約80kmのスンロクに残る戦争遺跡にも足を運びました。ドンナイ省(旧・ロンカン省)ロンカンに位置するティー山(Núi Thị)の山頂に佇むこの遺構は元々、仏領時代にフランス人によって別荘もしくはホテルとして建てられたレンガ造りの洋館でした。その後、この建物は1975年4月9日から21日にかけて発生した『スンロクの戦い (Trận Xuân Lộc)』において、この戦いを指揮したベトナム陸軍のレ・ミン・ダオ少将(当時准将)によって前線指揮所として使用されました。

 1975年4月初旬、ベトナム共和国軍第1・第2軍管区を突破した共産軍は、最終目標であるサイゴンを目指し最後の大攻勢を開始しました。国道1号線はスンロクから先はサイゴンまで一本道ビエンホア街道で繋がっており、スンロクの陥落は即ち共産軍によるサイゴンへの直接侵攻を意味していました。そのため、共和国軍は敵の首都進撃をなんとしても阻止すべく、第18歩兵師団の麾下に第82国境レンジャー大隊、第81空挺コマンド群および地方軍大隊の残存兵力を加えたスンロク守備隊を編成し、第18歩兵師団長レ・ミン・ダオ准将がその指揮を執りました。
 この時、共和国軍側の兵力が約1個師団であるのに対し、共産軍側は4倍の4個師団でスンロクを包囲しており、共産軍は早々にスンロクを攻略するものと目されていました。しかし実際に戦闘が開始されると、共産軍は予想を遥かに上回る猛烈な抵抗にあい、幾度となく進撃を阻止されます。そして、この小さな街を巡る12日間の戦闘が、30年に渡る戦争の雌雄を決した最後の決戦として永くベトナム国民の心に記憶される事となります。

※注
現在の地図ではこの地域はドンナイ省ロンカンであり、スンロク地区はロンカンの東側に位置する別の地域を指していますが、1975年以前はこの地域もロンカン省スンロク地区に含まれていた模様です。また、当ブログではこれまでXuân Lộcを"スァンロク"とカタカナ表記してきましたが、ベトナム語での発音は"スンロク"に近い事が分かったので、今後はこのように表記していきます。

スンロクの戦いにおける部隊の配置(1975年4月)と、ティー山の位置

ティー山の麓から見た指揮所跡。この建物は戦闘での破壊は免れたものの、現在ではその存在を忘れられ、地元民が展望台として訪れる程度の廃墟となっています。

車で山道登り、建物内へ。特に立ち入り禁止等にはなっていません。

内部は完全にもぬけの殻であり、当時をうかがわせる物は何も残っていません。

スンロク一帯はゴムノキ林の広がる平野であり、所々低い山(または丘)が点在する地形なので、建物の二階からは辺りを一望できます。また当時は、ここから見える全ての山の山頂に砲兵隊のファイヤーベース(火力基地)が設置され、地域一帯を隙間なく榴弾砲の射程内に収める事で防御力を高めていました。

父の戦った戦場に思いをはせる友人。彼のお父さんはかつて、この地で戦った第18歩兵師団の兵士でした。
戦闘では足にAKの銃弾を4発食らう重傷を負いながらもなんとか一命を取りとめ、現在もベトナム国内でご健在です。

山の周囲のゴムノキ林は41年前と全く変わらぬ姿を保っています。
我々はスンロクの戦いの最中、レ・ミン・ダオ少将が欧米メディアの取材に対しその決意を語った、まさにその場所(山の西側の山道入り口)に立ち、絶望的な状況の中で決死の抵抗を行ったベトナム共和国軍将兵たちを追悼しました。


ナレーション:
In anxious Saigon, the name Xuan Loc become synonymous with hope and heroism. General Le Minh Dao defied the communists.
(サイゴンの危機に際し、スンロクの名は希望と英雄的行為の代名詞となっている。レ・ミンン・ダオ将軍は共産軍に立ち向かっている。)

ダオ少将:
I will hold Long Khánh, I will knock them down here, even if they bring here two divisions or three divisions.
(私はロンカンを守り抜く。例え敵が2個師団、3個師団で押し寄せようが、私はここで敵を打ち倒す!)

レポーター:
Brigadier General Le Minh Dao told the assembled newsmen that he had beaten back 6 major attacks in 5 days..... I don't care how many divisions the other side sends me, he told us. I will knock them down.
(レ・ミン・ダオ准将は集まった報道陣に対し、この5日間で6つの主要な攻撃を撃退したと語った。彼は、敵が何個師団で攻めて来ようがかまわないと語る。私はそれを打ち倒す、と。)

ダオ少将:
I think the enemy, they think they can swallow down very easy. But now I can say with you, they hit to the rock. They hit to the rock. And we broken their heads already.
(敵はいとも簡単にここを攻略できると考えていた事でしょう。しかし今、私はあなた方に断言できます。敵は躓いた。躓いたのです。そして我々はすでに、彼らの先鋒を撃破しました。)

レポーター:
What is the morale of your men here?
(あなたの部隊の士気はどうですか?)

ダオ少将:
I can say with you they fight for 5 days already, and now today they still launch the attack, and push the enemies away, and you gone. With face of my soldiers always smiling and with good shape, good condition.
(断言します。敵はすでに5日間戦っており、今日、今現在もまだ攻撃を継続しているが、あなた方が見てきたように、我々は敵を撃退しています。兵たちの表情は常に明るく、良い状態です。士気は高いです。)

レポーター:
Is this battle crucial do you think to the future of Saigon?
(この戦いはサイゴンの未来にとって非常に重要なものだと認識されていますか?)

ダオ少将:
First.... if we can hold here, I think we can give good confidence for the people of Saigon. So we will try to do very hard, we will try our best to ...keep it.
This is the first wave of attack. Enemy can use more regiment. More fresh regiment to launch some next attack, again. But no problem! No problem!
(まず・・・、我々がここを守りきれば、サイゴン市民を安心させる事が出来ると思います。そのために我々は奮励努力し、防衛に最善を尽くします。
これは攻撃の第一波に過ぎません。敵はまだ連隊を持っています。次の攻撃にはさらに新たな連隊を投入してくるでしょう。けれど問題ありません。大丈夫です。)



 スンロクにおける第18歩兵師団の敢闘ぶりはまさに伝説的なものであり、指揮官ダオ少将は後に『スンロクの英雄』と称されます。しかし一方で、戦闘による犠牲者は確実に増え続けました。そして戦闘開始から12日目の1975年4月21日、サイゴンの統合参謀本部は首都防衛のための兵力を温存すべくスンロクの放棄を決定。守備隊の残存兵力はビエンホア空軍基地への撤退を命じられます。こうして、歴史に残る激戦、スンロクの戦いはその幕を閉じました。