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2024年02月11日

甲辰年元旦節

新年明けましておめでとうございます!
今年もいつものベトナム寺に元旦節の初詣に行ってきました。





お寺で偶然、知り合いの元ベトナム共和国軍将校(陸軍中尉)Tさんと再会。


Tさんと初めて会ったのは今から約10年前の2014年で、その時の感想は過去記事『生き証人』に記したとおりです。
僕にとっては初めて生で会話したベトナム軍ベテランであり、またその時に地雷を踏んで義足になった足を見せてもらい、自分の歴史・軍事趣味は、今現在生きている人間の人生の記録でもあるのだと強烈に印象付けられました。

また、会場ではTさんのご友人方ともお話しさせて頂きました。皆さん40数年前に難民として来日し、そのまま定住された方々です。(戦争中は学生だったので、元軍人ではない)
日本におけるインドシナ難民の受け入れと支援体制は、『無いよりはマシ』程度のもので、同じく難民として欧米に移住したベトナム人コミュニティと比べると、日本のベトナム難民はだいぶ苦労したと皆さん仰っていました。
そんな中、Tさんは自身が身体障害を負いながらも、年下の仲間の相談に乗り、仕事の世話をするなどし、周囲からの尊敬を集めていたといいます。

この10年で僕は、日本・ベトナム・アメリカ・フランスに住む大勢のベテランおよび難民の方々とお会いしてきましたが、初めて出会ったベテランがこの方で本当に良かったと思います。
  


2023年08月05日

断念したTシャツ

※2023年8月17日更新

ずいぶん前の事ですが、『チューホイ計画(Chương Trình Chiêu Hồi )』において使用されたTシャツのレプリカを作ろうと試みた事があります。

チューホイ計画の詳細については下記の引用元サイトでかなり細かく解説されていますが、簡潔に述べると、この計画はベトナム戦争中、ベトナム共和国政府の宣伝・チューホイ省が主導した共産軍(解放民族戦線および労働党・人民軍)兵士に投降・転向を促す心理作戦です。
この計画は1963年から1971年にかけて実施され、最終的に約10~17万人共産軍兵士が自主的にベトナム共和国政府に投降するという空前の大成功を収めました。
このチューホイ計画に加えて、政府軍による軍事的な掃討作戦、そしてフェニックス計画によるピンポイントでの幹部逮捕・殺害により、南ベトナム領内の解放民族戦線は1970年頃までにほぼ完全に壊滅します。
(これを受けて北ベトナムの労働党政権は解放民族戦線による革命を断念し、代わりに人民軍による直接的な南ベトナム侵攻を強化します。)

チューホイ計画では敵兵に投降・転向を促すため様々な伝単・アイテムが用いられましたが、その中の一つに、こういったTシャツも存在したそうです。

Psywarrior

このTシャツ欲しい+レプリカとして売りたいと思った僕は、さっそくプリント用の画像データを作成しました。
しかし、いざデータが完成し、Tシャツ屋で見積もりを取ってみると、意外と値段が高くなる事がわかりました。
作るなら当時と同じ製法であるシルクスクリーン印刷が良かったのですが、その製法だと版を計4つ(前3色+後1色)使うので、版代がえらい金額になっちゃいます。
これが外注ではなく自分で自家製の版を作ってプリントすれば費用はだいぶ安く済むんですが・・・、別にTシャツ作りが趣味って訳ではないので、そこまで労力をかけようとは思わないのです。
そこで、妥協してインクジェット印刷も考えましたが、それでも前後2か所は安くありません。
販売価格はインクジェットでも一着6000円くらいになりそうだと分かり、それでは高すぎて売れる見込みが無いので、販売は諦めました。

でも、せっかく画像データを作ったので、レプリカではなく、単なる記念品として前面のみプリントしたものを自分用に1着だけ作りました。
(僕はちゃんとしたレプリカと呼べる物以外は売りたくないので、前面のみプリントのものは販売しません。)

今でも普段着として着用しています。でもインクジェットで作ったから、案の定すぐ色落ちしちゃいました。
  


Posted by 森泉大河 at 13:39Comments(0)1954-1975自作グッズ【ベトナム史】

2023年04月30日

サイゴン陥落から48年

48年前の今日、ベトナム共産党は約30年に及ぶ共産主義革命戦争の末にサイゴンを陥落させ、ベトナム全土を支配下に置きました。
以後、ベトナム共産党は旧ベトナム共和国政府に属した軍人・公務員を数年から十数年投獄しただけでなく、「解放」したはずの南部の市民を山岳地帯に強制移住させて農地開拓に充てる、その上経済政策の失敗により農業国のくせに全国的な飢餓を発生させるなど、暴政の限りを尽くしてきました。
20世紀後半最悪の戦争であるベトナム戦争の最中には難民がほとんど発生しなかったのにも関わらず、ベトナム共産党によるベトナム統一が成された途端、数十万人の国民が難民として海外に脱出した事実が、ベトナム共産党による統治の全てを物語っています。

さて、私は過去2回、このベトナム共産党からベトナム国民を守るため戦い、そして命を落とした旧ベトナム国・ベトナム共和国政府の軍人・公務員の墓地であるビエンホア国軍墓地 (Nghĩa Trang Quân Đội Biên Hòa)を参拝してきました。
1回目は2016年で、その時は墓地の周囲を私服警官が囲んでいたので、人目に付かない霊廟のみ参拝しました。→『ビエンホア国軍墓地』
2回目は2022年で、ベトナムで2週間ほど動画撮影ロケをした際に、ついに前回入れなかった墓地の内部に入ることが出来ました。通常、この墓地は戦死者の遺族しか入る事ができず、入り口の守衛所で全員身分証を提示する必要があります。無論、外国人などもっての外。
しかし、そこは良くも悪くもベトナム。警備員に金を渡して、私を含む撮影班は中に入る事ができらました。それでも私が外国人だとバレると危ないので、事前に私は一切言葉を話さないよう、仲間から厳命されました。こういう時、自分の顔が東南アジア風で良かったと思います(笑)
墓地の中にいる間は、警備員のおっちゃんがずっとスクーターで私達の後を付いて回り、常時監視されていました。


中に入り、まず墓地のシンボルである義勇塔に花を供えて焼香。
この義勇塔は戦後破壊され、高さが元の1/2程度になっています。


その後、友人たちと手分けして、できるだけ多くの墓石に線香をお供えしました。
手持ちの線香に限りがあるので、一つの墓石につき一本しか供えられませんでしたが、それでも100個くらいの墓石に焼香できたと思います。



しかし、この墓石への焼香は辛いものがあります。と言うのも、戦後、共産主義者は義勇塔だけでなく、個人の墓石まで破壊していたからです。
ベトナムでは墓石に故人の顔写真を刻印する習慣があり、この軍人墓地にも多くの顔写真付きの墓石があります。しかしそれらの多くは、共産主義者によって顔の部分が無残に破壊されていました。これを見た遺族がどんな気持ちになった事か・・・。
死者にまでこんな仕打ちを平然と行う国家。それがホー・チ・ミンが1000万人の人命を犠牲にして作った現在のベトナム社会主義共和国です。



  


2023年01月29日

フランス連合期の民族自治区

 第一次インドシナ戦争が開戦して間もない1946年、フランスはベトナム領内の少数民族から支持を得るために、二つの広大な民族自治区を設定しました。それが『北インドシナ・モンタニャール国』と『南インドシナ・モンタニャール国』です。この二つの自治区は1950年に『皇朝疆土』と名前を変えつつ、フランスの後ろ盾をもって1954年及び1955年まで存在していました。
以下は、それらフランスが設定した民族自治区の概要です。

 


【1946-1948】

1946年5月、アンナンのタイグエン(中部高原)地方に南インドシナ・モンタニャール国が発足。
同年12月、トンキン北部山岳地帯に北インドシナ・モンタニャール国およびこれを構成する5つの自治区が発足。
両自治区は形式的にはベトナム臨時中央政府に属しているが、実際にはフランスの間接統治下にある。

フランス統治
  │
  ├─ベトナム臨時中央政府(トンキン・アンナン連合)
  │   │
  │   ├─①一般行政区
  │   │
  │   ├─②北インドシナ・モンタニャール国
  │   │   
  │      タイ国(タイ自治区)
  │   │   
  │      ├ヌン自治区(ハイニン自治区)
  │   │   
  │      ├ムオン自治区
  │   │   
  │      ├トー自治区
  │   │   
  │      メオ自治区 
  │   │   
  │   └─③南インドシナ ・モンタニャール国
     
  └─①コーチシナ自治共和国


【1948-1950】

1948年、ベトナム臨時中央政府とコーチシナ自治共和国が合併し、ベトナム国政府が発足。
南北のインドシナ・モンタニャール国は引き続きフランスの間接統治下にある。

ベトナム国
  │
  ├─①一般行政区
  │  
  ├─②北インドシナ・モンタニャール国
     │  
  │   5自治区
  │
  └─③南インドシナ ・モンタニャール国


一般行政区
主にキン族(ベトナム人)が住む地域。

②北インドシナ・モンタニャール国(Pays Montagnard du Nord-Indochinois)
トンキン北部山岳地帯に設定された自治区。主にタイ系民族の住む地域。
民族ごとにタイ国(タイ族)、ヌン自治区(ヌン族)、ムオン自治区(ムオン族)、トー自治区(トー族)、メオ自治区(モン族)から成る。 

③南インドシナ ・モンタニャール国(Pays Montagnard du Sud-Indochinois)
アンナンのタイグエン(中部高原)地方設定された自治区。主にデガ諸民族(マレー・ポリネシア語族およびモン・クメール語族)の住む地域。


【1950-1954】

1950年、南北のモンタニャール国が正式にベトナム国の領域に編入され、『皇朝疆土』へと改名される。
これはベトナム国政府ではなくベトナム皇帝(バオダイ帝)の直轄領であり、皇帝が少数民族に下賜する形で、それまでの民族自治区を継承した。
ベトナム国の一部ではあるものの、政府の施政からは独立しているため、事実上フランスによる間接統治のままである。

ベトナム国
  │
  ├─①一般行政区
  │  
  ├─②皇朝疆土(北部)
     │  
  │   5自治区
  
  └─③皇朝疆土(タイグエン)


一般行政区
ベトナム国政府の施政下にある領域。主にキン族(ベトナム人)が住む地域。

皇朝疆土(北部)(Hoàng triều Cương thổ)
皇帝直轄領。北インドシナ・モンタニャール国を継承したタイ系諸民族の自治区。
北インドシナ・モンタニャール国を構成した5つの自治区も存続している。

皇朝疆土(タイグエン)(Hoàng triều Cương thổ)
皇帝直轄領南インドシナ・モンタニャール国を継承したデガ諸民族の自治区。


 ちなみに、かの『ディエンビエンフーの戦い』が行われたディエンビエンフーは、北部の皇朝疆土(旧北インドシナ・モンタニャール国)タイ国領内に位置し、住民のほとんどが黒タイ族で構成されている地域でした。また要塞にはフランス植民地軍に所属するタイ族歩兵部隊2個大隊(第2および第3タイ大隊)が駐屯していました。


▲フランス連合軍ディエンビエンフー駐屯部隊と、周辺に住むタイ族住民 [1954年]

ディエンビエンフーに駐屯するフランス植民地軍タイ大隊兵士 [1953年]


ジュネーブ協定後

 1954年7月のジュネーブ協定によって第一次インドシナ戦争は終結しましたが、それと同時にベトナムの北緯17度線以北はホー・チ・ミンが支配する北ベトナム領となり、その中に取り残された北部の皇朝疆土はすぐさま解体されました
 その後、北ベトナムではあらためてタイ系民族自治区が設定されましたが、それに関連する資料はベトナム共産党が公表している物しか無いので、その実態については分かりかねます。ただ、一般国民(キン族)すらまともに人権の無い共産主義政権の下で、フランスに協力していた少数民族がどう扱われたかは想像に難くないでしょう。

 一方、南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権もタイグエンの皇朝疆土を1955年に廃止し、デガによる自治は終わりを迎えます。
 その後デガは南インドシナ・モンタニャール国の復活を求めて1958年の『バジャラカ運動』、1964年の『フルロの反乱』などを行いますが、これらの抵抗は政府軍に鎮圧されます。
 しかし同時期、デガを含む南ベトナム領内の少数民族を反共戦力として活用するCIDG計画の存在によって、アメリカが南ベトナム政府と少数民族との間を仲裁した事から、南ベトナム政府は少数民族側に譲歩せざるを得なくなり、1960年代末にはタイグエン(旧南インドシナ・モンタニャール国)においてデガによる事実上の自治が再開されます。
 しかしこれも、1975年にサイゴンが陥落しベトナム全土がベトナム共産党の支配下に堕ちるとあえなく終了し、その後は共産政権によるデガへの壮絶な報復・弾圧が行われます。

※詳細については以下の関連記事参照
  


2023年01月15日

銀英伝2周目

※2023年1月25日更新

銀河英雄伝説の劇場版がリマスター上映されると聞いたので、さっそく観てきました。


内容はすでに知っているのですが、あらためて映画館の大画面で見ると良いものです。
しかも喜んでいいのやらどうやら、私が観た上映時間に、観客は一人。
まさかのシアター丸ごと貸し切りで見ることが出来ました。贅沢な時間でした。

そして劇場版を見て気分が盛り上がったので、プライムビデオで本編の再視聴を開始。
ただでさえ話数が多くて長いのに、本編観るのは数年ぶりだったので、また新鮮な気持ちで観れています。

この作品はあくまでフィクションであり、エンタメ作品。
でも作品内で扱われる、民主主義の在り方に関する問題については現実に通じるものも多く、それがこの作品の魅力の一つと言えるでしょう。

一方、現実世界において、が一時は同志として寝食を共にして活動したベトナム民主化運動グループや、元ベトナム共和国軍人の中に、ヤン・ウェンリーのように民主主義の精神を理解し、心から尊ぶ人はほとんど居ませんでした。
詳しくは書きませんが、は活動の中で色々失望して(逆に向こうはに失望したはず)、現在のベトナム民主化運動からは完全に手を引きました。
これは言い訳にすぎませんが、例えば三国志の研究者が現在の中華人民共和国の民主化運動に役に立つことは無いでしょう。
私は半世紀前に滅び去った国の歴史を愛好する、単なる変わり者の外国人であり、そんな人間はそもそも必要とされていないと思い知りました。
ただし、そんな器の小さな私から見ても、「そんなんじゃ永遠に無理だろ・・・」と思うような状態だっと述べておきます。

思えばベトナムにおいて民主主義が(形だけでも)政体として存在したのは1967年~1975年の約8年間(ベトナム共和国における第二共和国期)のみ。それも壮絶な内戦(ベトナム戦争)の最中。
北ベトナムに至っては、歴史上今まで一度も民主主義を享受した事がありません。
1975年以降難民としてアメリカや日本に渡った人々は、一応民主国家に住むことになりましたが、そこでその恩恵は受けこそすれ、その根本にある精神まで吸収する事は叶わなかったようです。
そもそもアメリカ人や日本人ですら、たまたま生まれた時から民主主義が制度としてそこにあっただけで、自ら勝ち取った世代はもう居ないので、その精神的な部分については忘れられている、あるいは大きく誤解されており、民主主義そのものをずいぶん粗末に扱っているのですから、これをベトナム人だけの問題と思ってはいけませんが。

国家の基本理念をフィクション作品を通じて語る事が愚かなのか、あるいはフィクション作品の中にしかまともな例が無いこの理念そのものが有名無実なお題目なのか。
できれば前者であって欲しい。
  


2022年12月22日

チャン・ドン・フォンの墓

 もう何年も前の事ですが、東京の雑司ヶ谷霊園にあるチャン・ドン・フォン(Trần Đông Phong)の墓にお参りしました。


 チャン・ドン・フォンは、ベトナム民族主義指導者ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu)が1905年(明治38年)に始めた『東遊運動(Phong trào Đông Du)』によって来日したベトナム人留学生の一人です。
 東遊運動とは、将来有望なベトナムの若者を、明治維新を成し遂げ当時アジア唯一の近代国家となっていた日本に留学させ、近代的な教育を受けさせることで、将来的にフランスの植民地支配下にあるベトナムの解放を目指す運動の事です。 留学とは言っても、当時ベトナム人はフランス植民地政府の許可無しに出国することはできなかったので、東遊運動に参加した学生らはフランスの目を掻い潜って密出国し、また日本では清国人と身分を偽って生活していました。
 この中で、チャン・ドン・フォンは最初に来日した9人の学生の一人であり、実家が裕福であったことから、東遊運動を資金面で支える役割を担っていました。 ファン・ボイ・チャウの片腕として来日し共に東遊運動を牽引した阮朝の皇族クオン・デ(Cường Để)は、フォンを弟のように可愛がったといいます。
 しかし1908年(明治41年)になると、フォンの実家からの送金が途絶えます。実際にはフランス側が東遊運動を阻止するためフォンの実家からの手紙や送金を押収していたのですが、それを知らないフォンは父に見捨てられたと誤解し、また東遊運動の資金が途絶えた事で仲間に迷惑をかけた事を恥じ、フォンは1908年5月2日に、小石川の東峯寺境内にて首を吊って自殺します。
 さらにその前年の1907年には日本とフランスの間で日仏協約が締結されており、1908年になるとフランスは日本政府に対し、日本国内のベトナム人留学生の国外追放を要請します。日本政府はフランスとの関係を優先してこの要請に従い、翌1909年初旬には、全ての留学生がベトナムに強制送還されたことで、約3年間続いた東遊運動は瓦解しました。
 ファン・ボイ・チャウは、犬養毅など東遊運動を支援した日本人支援者には感謝を示す一方、事実上フランスと共に東遊運動を弾圧した日本に失望し、二度と日本を頼る事はありませんでした。
 一方、クオン・デはその後ファン・ボイ・チャウとは別行動をとり、カンボジア、シャムを経てドイツ等を漂泊しましたが、何ら成果を上げられぬまま1915年(大正4年)には犬養毅を頼って再び日本に戻り、以後犬養の庇護の下、東京生活します。この時期(1920年頃)、クオン・デ1908年に亡くなったチャン・ドン・フォンの墓を雑司ヶ谷霊園に建立しました。
 しかしその後20年近く、クオン・デは目立った活動を行う事なく月日が流れます。クオン・デはベトナム光複会(Việt Nam Quang Phục Hội)の代表であり、ベトナムで成功した日本人実業家 松下光廣の協力も得ていたものの、フランスと日本の官憲は常にクオン・デの動向を厳重に監視しており、またクオン・デ自身の行動力の低さもあり、ベトナム光複会が具体的な行動を起こすまでには至りませんでした。そしてその間、ベトナム国内で勢力を拡大したのが、ホー・チ・ミンが創設したインドシナ共産党(後のベトナム労働党/共産党)でした。
 1945年(昭和20年)3月、日本軍が仏印処理によって仏領インドシナを解体しベトナム帝国を擁立すると、ベトナム国内のベトナム復国同盟会(ベトナム光複会の後継組織)やカオダイ教徒クオン・デが君主としてベトナムに帰国する事を望みましたが、日本軍はフランス同様バオダイ(保大帝)を傀儡として皇帝に据えたため、ついにクオン・デが政治の表舞台に上る機会はありませんでした。
 そして1951年(昭和26年)、ベトナムへの帰国も叶わぬまま、クオン・デは東京都内の病院で息を引き取ります。この時期ベトナムでは第一次インドシナ戦争が激化し、ベトナム人同士が血みどろの抗争を繰り広げている最中でした。
 クオン・デの遺言により、彼の遺骨は三等分に分けられ、一つは故郷ベトナムのフエ、一つはタイニンのカオダイ教本部、そして残る一つは弟分であるチャン・ドン・フォンの墓に収められました。なのでチャン・ドン・フォンの墓は、同時に日本にある唯一のクオン・デの墓でもあります。

 このチャン・ドン・フォン/クオン・デのお墓は現在、日本人の有志の方々によって清掃されており、僕がお参りした際、偶然その方々(高齢のご夫婦)がいらっしゃったので、少しお話させて頂きました。
 またベトナム人の間でもこのお墓は知られた存在であり、特に私が日本在住ベトナム人協会を通じて知り合った日本に住んでいるベトナム人の若者は、皆で集まってお参りしていました。彼らは恐怖政治と拝金主義しか能の無いベトナム共産党政権を否定し、ベトナム国民に自由と人権を取り戻す事を願う、真に愛国的なベトナム人です。まさにここ日本で祖国の解放を願う彼らの姿は、約100年前の東遊運動の留学生と重なります。


関連記事
  


Posted by 森泉大河 at 19:57Comments(2)人物19世紀-1914【ベトナム史】阮朝

2022年11月12日

【改訂版】在越ヌン族の戦史

※2022年11月15日更新


過去に何度かベトナム在住ヌン族の戦史について記事にしてきましたが、内容にいくつか誤りがあったので、あらためて記事にしました。


中世~近代

 ヌン族(儂族)は元々、中国南部に住むタイ系(現代中国ではチワン族と分類)の少数民族であり、客家語(中国語の方言)を主要言語とした。
 またヌン族の一部は16世紀ごろから戦乱続きの中国を逃れて南下し、現在のベトナム北東部の山岳地帯にも広まった。ベトナムに移住したヌン族は、同じタイ系民族でベトナム北西部山岳地帯に住んでいるモン族らと連携し、山岳地帯の支配を目論むベトナム人(キン族)と戦ったが、最終的にキン族に敗れて大南国(阮朝ベトナム)の支配下に降った。


仏領インドシナ期(1860年代-1945)

 1860年代、フランスによるインドシナの植民地化が進む中で、フランス人は中央タイ系山岳民族のヌン族(北東部)、モン族・トー族・ムオン族(北西部)を総称して『北インドシナ・モンタニャール』と呼んだ。(※同じくベトナム中部高原に住むデガ諸部族は南インドシナ・モンタニャールと呼ばれたが、単に山岳地帯に住んでいるからモンタニャールと呼ばれただけで、その文化・構成民族は北部のタイ系とは全く異なる)
 1885年の天津条約によってフランス領インドシナの領域が確定すると、ヌン族の住む地域は正式に清国領・フランス領に分断された。しかし国境のある山岳地帯は両政府の支配が行き届いては居らず、ヌン族は依然として中国・ベトナムにまたがって生活していた。
 またヌン族は元々は山岳地帯に住んでいたが、20世紀前半までにその生活範囲をトンキン湾沿岸にも広げており、中国・ベトナム間での海洋貿易を行うようになっていた。また貿易の拡大に伴い中国との密貿易を行うヌン族の犯罪組織も巨大化し、ヌン族はフランス人から『中国の海賊』と呼ばれ警戒された。

 インドシナの植民地化が完了した後も、ベトナム人には強いナショナリズムが残っており、インドシナ植民地政府は常にベトナム人の反乱を警戒しなければならなかった。一方、それまで国家を持たずベトナム人から抑圧される側だった少数民族は、フランスに協力する事で政府による保護と一定の自治を得ることが出来た事から、フランスとの結びつきを強めた。少数民族のエリート層はフランス軍の士官学校で教育を受け、同民族で構成された植民地軍部隊の指揮権を与えられた。こうした中で、ベトナム北東部のハイニン省ではヌン族の部隊が結成されるとともに、フランス軍所属のヌン族将校が誕生した。

 第二次世界大戦末期の1945年3月、インドシナ駐留日本軍が『明号作戦』を発動し、フランス植民地政府およびフランス軍への攻撃を開始した。これに対し、フランス植民地軍に所属するヌン族将校ヴォン・アーシャン大尉はヌン族部隊を率いて日本軍と交戦するが、部隊は敗退し、他のフランス軍部隊と共に中国領内の十万大山山脈に潜伏する。

▲晩年のヴォン・アー・シャン(黃亞生 / Vòng A Sáng)
 1902年ハイニン省生まれのヌン族。1914年にフランス軍ヌイデオ幼年学校に入学し、フランス本土のフレジュス士官学校を経て1935年に植民地軍少尉に任官。後に第1ヌン大隊長、第57歩兵大隊長、第6歩兵師団長、ヌン自治区指導者を歴任し、1967年からはベトナム共和国の国会議員としてヌン族及び北ベトナム出身者への支援に尽力した。1975年、サイゴン陥落により家族と共にベトナムから輸送船で脱出するが、5月2日に海上で死去。


第一次インドシナ戦争期(1945-1954)

 1945年8月、日本が連合国に降伏すると、ホー・チ・ミン率いるベトミンは9月2日にベトナム民主共和国の成立を宣言する。ベトミン政権はベトナム民族主義の名の下に、それまでフランスに協力的だった少数民族への迫害を開始した。また同時に、中国軍(国民革命軍)が国境を越えてベトナムに侵入し、モンカイを含むハイニン省の複数の都市が中国軍に占領された。
 ベトナム・中国国境に位置するハイニン省モンカイは、ヌン族の経済を支える海洋貿易の拠点であり、多くのヌン族が生活していた。ヴォン・アーシャン大尉率いるヌン族部隊は、インドシナの再占領を目指すフランス政府の後押しを受けてモンカイ奪還を目指し、中国広西省防城から船でトンキン湾を渡り、コートー島に上陸、その地をモンカイ奪還作戦の拠点とした。
 その後、フランス軍にはベトミンと戦うため数百人のヌン族の若者が新たに加わり、1946年1月にトンキン沿岸隊大隊(Bataillon des forces cotieres du Tonkin。後の第72歩兵大隊)が発足した。これらヌン族部隊はヴォン・アーシャン大尉の指揮下でベトミン軍と交戦し、1946年8月までにモンカイからベトミンおよび中国軍を駆逐する事に成功、ハイニン省はフランス軍(ヌン族部隊)の勢力下に復帰した。このモンカイ奪還はヌン族にとって輝かしい勝利であり、1945年にヴォン・アーシャン大尉が部隊を率いて中国から帰還した際に使用した帆船『忠孝』は、 後にヌン自治区およびフランス軍ヌン族部隊のシンボルとなる。

▲中国・ベトナム国境付近の地図

 第二次大戦後、フランスは少数民族をフランスの勢力下に留めるため、各民族に自治区を与えていった。その中でヌン族には1947年にヌン自治区(ハイニン自治区とも)が与えられ、その政治指導者にヴォン・アーシャンが選任された。その3年後の1950年にヌン自治区はベトナム国に『皇朝疆土(Hoàng triều Cương thổ)』として編入されるが、皇朝疆土はベトナム国国長(=阮朝皇帝)バオ・ダイが少数民族に下賜した土地という意味で、実質的な自治領として1954年まで機能した。

▲ヌン自治区(ハイニン自治区)旗

 1951年3月、CEFEO(極東フランス遠征軍団)内にはヴォン・アーシャンを指揮官とする『第1ヌン大隊(1er Bataillon Nùng / Bataillon des becs d’ombrelles)』が新たに設立された。この第1ヌン大隊は翌1952年7月1日、ベトナム国軍に編入され、『第57歩兵大隊』(第5ベトナム師団隷下)へと改名される。
 同様に1953年3月1日には、ヌン族で構成されたフランス外人部隊第5外人歩兵連隊第4大隊がベトナム国軍に編入され『第75歩兵大隊』へと改名された。以後、ベトナム国軍内にヌン族で構成された歩兵大隊(ヌン大隊)が複数編成される。

▲ヌン族部隊を閲兵するヴォン・アーシャン(中央)とフランス人軍将校

▲CEFEO/ベトナム国軍所属のヌン族部隊章の例

 しかし1954年、ジュネーブ協定により第一次インドシナ戦争が終結すると、ベトナム国の国土の北半分がベトミン側に明け渡される事が決定する。これによりヌン自治区は消滅し、十数万人のヌン族がホー・チ・ミン政権による報復を恐れて中国やラオスに避難した。この中でヴォン・アー・シャン大佐は、ヌン大隊の将兵およびその家族数千人を率いて南ベトナムに避難した。一方、北ベトナムに残留したヌン族の多くは迫害を恐れてホー・チ・ミン政権に恭順した。

▲北ベトナム領から脱出するヌン族難民(1954年)

※以下で「ヌン族」と呼ぶのは、1954年に南ベトナムに移住したヌン族グループです。

ベトナム共和国軍ヌン師団(1955-1958)

 1955年、ベトナム陸軍は南ベトナムに退避した各ヌン大隊を統合し、ヴォン・アーシャン大佐を師団長とする第6歩兵師団(通称『ヌン師団』)を創設しその後第6歩兵師団は第6野戦師団、次いで第3野戦師団へと改名される。
 しかし1956年、ベトナムにおけるフランスの影響力排除を目指すベトナム共和国総統ゴ・ディン・ジェムは、ヴォン・アーシャン大佐をフランス・シンパと見做し、軍から追放する。以後、ヴォン・アーシャンが軍に復帰する事は無く、民間人として政治活動に専念した。

▲第3野戦師団部隊章

 同年10月、ヴォン・アーシャン大佐の後任としてファム・バン・ドン大佐が第3野戦師団師団長に就任する。ドン大佐の第3野戦師団への異動はジェム総統との確執から来る左遷であったが、それでもドン大佐は第3野戦師団のヌン族兵士の心をつかみ、ヌン族はドン大佐に強い忠誠心を抱いた。
 しかし、これにジェム総統は危機感を覚え、ドン大佐の権勢を削ぐため、1958年3月にドンを師団長から解任する。英雄ヴォン・アーシャンに続いてファム・バン・ドンまでもが更迭された事で、ヌン族将兵はジェム政権に強く反発し、その結果大量のヌン族兵士が政府軍から離脱した。
 その後、軍を抜けたヌン族兵士はドン大佐の私兵兼傭兵へと転身し、その一部は中国キリスト教難民がカマウで組織した武装組織ハイイェンに参加した。

▲ファム・バン・ドン(Phạm Văn Đồng)
 ファム・バン・ドン少将自身はキン族(ベトナム人)だが、妻はヌン族であり、ヴォン・アーシャン同様第2次大戦中からヌン族将兵を率いてきた事から兵の信頼を集め、ヴォン・アーシャンに続くヌン族の軍事指導者となった。ジェム政権崩壊後は第7歩兵師団長、サイゴン軍政長官兼首都独立区司令を務めるが、1965年のクーデターにより失脚し、軍の第一線から退く。しかしその後も自宅をヌン傭兵組織の司令部兼駐屯地とし、その兵力をベトナム共和国軍やアメリカ軍の特殊部隊に貸し出す事で、強い政治的影響力を維持した。また1969年には国会議員に転身し、1974年までグエン・バン・テュー政権で復員省長官を務めた。


グリーンベレーとの傭兵契約(1961-1970)

 アメリカ軍特殊部隊グリーンベレーは1961年からベトナム共和国領内にてCIDG計画を開始し、各地に特殊部隊キャンプを建設した。当初これら特殊部隊キャンプの守備は、それぞれのキャンプを構成するCIDG隊員や現地採用のベトナム人警備員が担っていたが、中には士気の低い者や敵側に内通している者も少なくなく、共産軍の攻撃によってキャンプは度々陥落の危機に陥っていた。
 一方、アメリカ軍から『Chinese Nung』と呼ばれたファム・バン・ドン将軍麾下のヌン族傭兵は、その戦闘経験と忠誠心で高い評価を得ており、各地の特殊部隊キャンプには次第に、現地のCIDGとは別にヌン警備隊(Nung Security Forces)やヌン強襲隊(Nung Strike Force)が設置された。そして1964年には、ベトナムにおけるグリーンベレーの総本部であるニャチャンの第5特殊部隊群本部の守備もヌン警備隊が担うまでに拡大した。
 CIDG兵のほとんどはもともと軍隊経験の無い素人であった為、グリーンベレーが一から訓練を施さなければならなかったが、ヌン族兵はつい最近まで正規のベトナム陸軍軍人であった者が多かった為、傭兵として申し分ない能力を持っていた。その為グリーンベレーにおけるヌン族傭兵の需要は高まり続け、ヌン族はマイクフォース、プロジェクト・デルタ、NKTコマンド雷虎などのグリーンベレー/MACV-SOG指揮下のコマンド部隊に大々的に雇用され、1960年代を通じて大きな活躍をした。
  なお、全てのヌン族兵士が傭兵であったわけではなく、一定数はベトナム共和国軍に所属する正規の軍人であった。(過去に紹介した元NKT/第81空挺コマンド群のダニエルおじさんもヌン族ですが、士官学校を卒業した正式な陸軍将校です。)

▲ナムドン特殊部隊キャンプ ヌン強襲隊(ヌン第1野戦大隊)[1964年]

▲第5マイクフォース(第5特殊部隊群本部ヌン警備隊から発展)

▲プロジェクト・デルタBDA(爆撃効果判定)小隊


NKT雷虎CCN偵察チーム・クライト






アメリカ軍撤退後(1970-)

 1968年以降、ベトナマイゼーションに伴いアメリカ軍はベトナムからの撤退を進め、1970年代初頭にはヌン族が参加していたグリーンベレー関連組織のほとんどは活動を終了した。
 またこの時期、共産軍の主力は南ベトナム領内のゲリラ(解放民族戦線)から、南進したベトナム人民軍へ移り変わり、その戦力は大幅に増大していた。戦争の敗北はすなわちベトナム全土の共産化を意味しており、ヌン族にとってもベトナム共和国の存続は死活問題となっていた。そしてヌン族は自ら正式なベトナム共和国軍部隊へと復帰し、1975年まで共産軍への抗戦を続けた。
 しかし最終的に戦争は共産軍の勝利に終わり、ヌン族は1954年以来2度目の離散を余儀なくされた。以後、ヌン族による組織的な武装闘争は行われていない。


▲1975年以降ベトナムから脱出した在米ヌン族将兵の戦友会 [1994年]


(参考サイト)
  


2022年09月04日

ベトコンとは

※2022年9月5日更新

去る9月2日は、現在のベトナム社会主義共和国において元旦節(テト)と並ぶ重要な祝日とされる『国慶日(Ngày Quốc khánh)』でした。
これは1945年8月、日本が太平洋戦争に敗戦した事を機に、ホーチミン率いるベトミンが日本の傀儡政権であるベトナム帝国政府を転覆させ、9月2日にベトナム民主共和国の成立を宣言した事を記念する日で、いわゆる独立記念日に当たるものです。
(ただし、この宣言の直後にフランスがインドシナの再統治に乗り出し、翌1946年にはベトミンは政権を失うので、実際にベトナム民主共和国が安定的に成立したのは1954年のジュネーブ協定による南北分断後です。)


とまぁ、僕には珍しくベトコンの祝日について書いたわけですが、実際フランスによる植民地支配がベトナムに独立運動とセットで共産主義をもたらし、さらに太平洋戦争中の日本軍進駐がアメリカOSSによるベトミンへの軍事支援をもたらした事で、ベトミンは数ある独立運動組織の中で最大勢力へと成長で出来た訳ですから、このホーチミンによる独立宣言は歴史的必然だったと感じています。
しかし当時ハノイでこの演説を聴いて歓喜に沸いた人々も、まさかこれが今後70年以上続く共産主義政権による恐怖政治と絶え間ない戦争の入り口だったとは思いもしなかったでしょうね。

ところで以前このブログで、日本や欧米で用いられている「ベトコン(Viet Cong)」という言葉は、ベトナム語における「Việt Cộng」とは意味する範囲が大きく異なり、当ブログでは本来のベトナム語の意味で使っている述べました。
そのベトナム語の意味を分かりやすくまとめた画像見つけたのでご紹介します。


Việt Cộngが意味する範囲

まず、Việt Cộngは漢字表記すると「越共」、つまり広義にはベトナムの共産主義者全般への蔑称なのですが、より具体的には、以下の組織およびその構成員・シンパを指します。



・インドシナ共産党/ベトナム労働党/ベトナム共産党
ホーチミンが創設した共産主義政党。中ソの支援を受けてテロ・戦争により支配地域を拡大し、1954年に北ベトナムを掌握、1975年以降はベトナム全土を支配下に置き現在に至る。

・ベトミン(ベトナム独立同盟会)
日本・フランスの支配に対抗する独立闘争組織。1954年に北ベトナムを掌握したが、ホーチミンにより共産主義以外の勢力は粛清されベトミンは解散する。

・ベトナム民主共和国/ベトナム社会主義共和国
ベトミンが1945年に独立宣言し、実際には1954年に北ベトナムを領土として成立。ベトナム労働党独裁政権。1976年に南ベトナム共和国を併合し、国名を『ベトナム社会主義共和国』に変更。

・南ベトナム解放民族戦線
ベトナム労働党の支援を受けた南ベトナムの反政府武装組織。政府軍の掃討により1970年代初頭までにほぼ壊滅するが、南進したベトナム人民軍は越境侵攻の事実を否定するため、元から南ベトナムにいる解放民族戦線の部隊を装った。

・ベトナム民族・民主・平和勢力連盟
南ベトナム解放民族戦線の下部組織で、南ベトナムにおいて合法的な政治運動を装い民衆への宣伝工作を行う。

・ベトナム武装人民部隊
ベトナム民主共和国・ベトナム社会主義共和国が保有する武装組織の総称。ベトナム人民軍、人民公安、人民自衛軍団から成る。

・南ベトナム共和国
1975年にベトナム共和国政府が解体された後、南ベトナム解放民族戦線(南ベトナム臨時革命政府)によって樹立された新政府。しかし南ベトナム解放民族戦線はベトナム労働党により粛清され、南ベトナム共和国は成立からわずか1年後の1976年にベトナム民主共和国に併合され消滅する。
※ネットを見ているとベトナム共和国と南ベトナム共和国を混同している例を時々見ますが、上記のように全く別の政体です。


日本や欧米におけるベトコン(Viet Cong)

上記のように、本来ベトナム語では、1940年代のベトミンから現在のベトナム社会主義共和国政府まで全て「Việt Cộng」なのですが、一方で日本や欧米における「ベトコン(Viet Cong)」という言葉は、ベトナム戦争期の南ベトナム解放民族戦線のみを指して用いられています。
これは、ベトコンという言葉が外国人に知られるようになったきっかけが、南ベトナム解放民族戦線のテロ活動と、それに対抗するベトナム共和国政府・同盟国軍による掃討作戦(=1960年代のベトナム戦争)に関する報道だったからだと思われます。
ちなみに、ベトナム国外に住むベトナム人の場合、英語や日本語など現地の言葉で喋っている時でも、ベトコンという単語についてだけはベトナム語の意味で言ったりするのでややこしいです。


おまけ

以前僕がこの画像作ってFacebookに投稿したら、ベトナム人によってあちこちに転載されて、転載された先でバズってました。

  


2022年05月16日

ベテラン訪問

※2023年8月30日更新


3月のベトナムロケで取材させて頂いた元ベトナム共和国軍将校のお二方との記念写真です。

元陸軍装甲騎兵将校


氏は友人の祖父の異母兄弟で、6年前のベトナム初訪問の際にもお話を伺いました。
1968年のマウタン(テト攻勢)以降、M113装甲兵員輸送車部隊の指揮官として終戦まで戦ったお方です。
マウタン1968ではサイゴン川の対岸に終結した共産軍に対し、車載のM2重機関銃を撃ちまくって撤退させたと思い出を語ってくださりました。

僕が日本の友人と共同で製作したベトナム共和国軍コンバットレーション、『Cơm sấy(乾燥米)』の自家製リプロをお披露目。
「そうそう、これ食ってた」と懐かしんでいただけました。



元陸軍特殊部隊/レンジャー部隊将校


この方はかつて特殊部隊(LLÐB)隊員として、米豪軍と共にCIDG部隊を指揮したベテランです。
1970年にCIDG計画が終了し、各国境特殊部隊キャンプのCIDG部隊が陸軍レンジャー部隊(BÐQ)に編入、国境レンジャー大隊(BÐQ Biên Phòng)として再編されると、氏もレンジャー部隊に転属し、引き続きCIDG隊員で構成された国境レンジャー大隊を指揮しました。



氏の腕に残るLLÐBの精神的シンボル=棺桶の入れ墨。
棺桶は「もう自分用の棺桶は用意してある」=「死ぬ覚悟はできている」という決意を意味しているそうです。

なお肝心のインタビューはベトナム語で行われたので、僕は内容をあまり理解できていません。
ただ、撮影を終えたあと監督がインタビューの謝礼にと、二人に現金を渡したのですが、そのお金がドンではなく米ドル札だったのは印象深かったです。
別に米ドルを有難がっている訳ではなく、(米ドルが一番両替し易いというのはあれど)本質的にはどこの国の紙幣でも別に構わないのです。
ただ少なくとも、ホーチミンの肖像が入った金など渡したくないし受け取りたくないというのが、インタビューする側、される側共通の心情でした。
  


2022年04月28日

カフェー・キムソン

前回『BGIと飲料ボトル』で1975年以前のラルーとコンコップの瓶を紹介しましたが、これらをプレゼントしてくださったのが、チャーヴィン省チャーヴィン市内にある喫茶店キムソン(Kim Sơn)のマスターです。
このお店はマスターが趣味で収集したベトナム(特に南部)のアンティークアイテムが店内所狭しと大量に展示されている、ベトナム近現代史好きにとってはたまらないお店です。




お店に展示してある品々



全部解説してるとキリが無いので、僕の趣味的に気になった物をいくつか紹介します。

①ベトナム共和国軍陸軍工廠製栓抜き(1969年製)
かつてサイゴン市内に存在した陸軍工廠(Lục quân công xưởng)が製作した栓抜きです。こんなものが存在したんですね~



②USAID供与ラジオ
ベトナム戦争期、USAID(アメリカ国際開発庁)によってベトナムに供与された民生品のラジオです。ラジオ自体は普通の市販品ですが、正面左下にUSAID供与を示すシール(星条旗と握手のイラスト)が残っています。



③ベトナム共和国切手収集ファイル(1971年)
ベトナム国内の切手コレクターが収集したファイルです。切手は全てベトナム共和国時代の物であり、またファイルには元の持ち主が記したと思われる1971年の日付がありました。これは友人がキムソンのマスターから購入しました。

 


④M72対戦車ロケット
お店の一角にはミリタリー物もいくつか飾ってあり、店先には使用済みのM72ロケットが乱雑に立てかけてありました。武器系は買ったところで飛行機で持って帰れないので、いじくりまわして遊んでました。




歴史アイテムに囲まれて、歴史好きの仲間と語らいながらアイスコーヒー飲むの幸せ~

惜しむらくは、このお店が僕の家から4,500kmも離れた場所にあること。近所にあったら毎日通っちゃいますよ。
  


2022年04月10日

海賊島の石碑

※2022年4月10日更新
※2023年8月30日更新


今回の旅の中では、サイゴンから遠く離れて、ベトナム本土南部最西端の街ハーティンとフーコック島の中間にある小さな島、その名も『ハイタック島=海賊島』にも行きました。


リゾート地として有名なフーコック島ではなく、わざわざこんな辺鄙な島に行ったのには当然理由があります。
それがこちらの記念碑。ベトナム共和国時代の1958年にベトナム海軍によって設置された、ハイタック島を含むハイタック群島(現ハーティン群島)の領有を記念する石碑です。
石碑には当時のまま、ベトナム共和国(Việt Nam Cộng Hòa)の国名、そして旧ベトナム海軍の紋章が残されており、今日のベトナムでは大変貴重な史跡です。



このハイタック/ハーティン群島は長年、タイランド湾を荒らしまわる海賊の本拠地となっており、そこから海賊群島という名前が付けられたほどの無法地帯でした。
19世紀末にインドシナがフランス領になってからも海賊は一掃されず、資源も住民も無いこの群島は数十年に渡って植民地政府からも放置されていました。
その後、1939年に当時のインドシナ総督ジョセフ・ジュール・ブレビエによってタイランド湾の各諸島の(インドシナ連邦内での)行政区画を定めた『ブレビエ線(ligne Brévié)』が設定され、これが現在のベトナム・カンボジア国境の基礎となります。
このブレビエ線によって、ハイタック群島はついにコーチシナ(後のベトナム)の領域と定められました。

しかしその後、第一次インドシナ戦争の結果フランスがインドシナから撤退し、ベトナム、ラオス、カンボジアの3国が名実ともに独立を果たすと、旧宗主国フランスが一方的に設定したブレビエ線の正当性は失われます。
これによりハイタック群島を含むタイランド湾内の島々は、その領有を巡ってベトナム・カンボジア両国の係争地となりました。
そして1958年、ベトナム・カンボジア両国はそれぞれタイランド湾に軍を派遣し、各群島の実効支配を開始します。
しかし両国とも軍事衝突は避けたことから、支配地域はそれまでのブレビエ線とほぼ同一となり、そのまま両国の国境が確定しました。

▲ベトナム・カンボジア国境。タイランド湾内の国境はブレビエ線に依る。

この際、ハイタック群島がベトナムの領土として確定した事を記念したのが、今回訪問した記念碑になります。
なお、1975年のベトナム戦争終結以降、ハノイの共産党政権は旧ベトナム共和国が築いた歴史・文化・財産を徹底的に破壊しましたが、国境という権益だけはそのまま継承したため、ハイタック群島の領有を示すこの記念碑は今日まで破壊を免れてきたようです。

領土と言えば、ベトナム戦争中、中国に依存しきったハノイ政府は一度たりともホンサ諸島(西沙諸島)の領有権を主張しなかった一方、ベトナム共和国政府は中国海軍との海戦・地上戦を行ってでもホンサ諸島を自国の領土として守ろうとしました。(過去記事『ホンサ海戦から44年』参照)
しかしハノイ政府は、そんな過去は無かった事にして、すでに中国が占領済みのホンサ諸島の領有をいまさら主張していますね。まぁこれは本気で中国に対抗しているのではなく、国内向けのリップサービスというのが見え見えですが。
  


2022年04月06日

サイゴンの残光

※2022年4月15日更新


前回に続き、今回足を運んだサイゴン市内に残る史跡の紹介です。

ベンニャーゾン(龍の家埠頭)

サイゴン川沿いにあるベンニャーゾン(Bến Nhà Rồng)は、仏領インドシナ期の1864年に完成した、フランスの海運会社『Messageries maritimes』の本社跡です。


インドシナ銀行サイゴン支店/ベトナム国立銀行

ベンニャーゾンのすぐ近くにあるのが、かつてのインドシナ銀行サイゴン支店です。
インドシナ銀行自体は19世紀末からこの場所にありましたが、現在の建物は1930年代後半に完成したものです。
第一インドシナ戦争終結に伴い、この建物はフランスからベトナム共和国政府に引き継がれ、ベトナム国立銀行本店となりました。

ベトナム共和国時代の50ドンや500ドン札には、このベトナム国立銀行ビルが描かれています。


この埠頭周辺はサイゴン川と南シナ海を結ぶコーチシナの玄関口であり、今も残る仏領時代の遺構を見ると、この場所がかつてフランスが莫大な投資を行い作り上げたインドシナ植民地経済の中心地だった事を思い起こさせます。
これらの場所と直接の関係はないですが、20世紀前半のベトナムの歴史や雰囲気は、映画『インドシナ』を連想させるものでした。




アンズンヴン(安陽王)像

アンズンヴン(An Dương Vương)は紀元前3世紀、古代ベトナム北部を統一し甌雒(オーラック)国を建国した英雄で、この記念碑はベトナム共和国時代の1966年に建設されたものです。
実はアンズンヴンはもともとベトナム人ではなく、始皇帝率いる秦に滅ぼされた古蜀の王子で、秦から逃れ南下した末に、現在のベトナム北部で挙兵し諸国を統一、甌雒を建国したそうです。


ベトナム共和国軍総参謀部

15年に及ぶベトナム戦争を戦い抜いたベトナム共和国軍の総司令部跡。
正門は過去記事『グレイタイガーの4月30日』で紹介したファム・チャウ・タイ少佐が最後の防御陣地とした場所でもあります。
戦後はベトナム人民軍に接収され、人民軍第7軍管区司令部となっていますが、正門は現在でもほぼ当時のまま残っています。
なお軍の施設なので車の中からこっそり撮影したため画質悪いです。


水上レストラン ミーカイン跡地


チャンフンダオ像のすぐ近くにあるバックダン埠頭には、今も昔も水上レストランがあります。
ベトナム共和国時代、この場所にあったレストラン『ミーカイン(My Canh)』は、1965年6月25日、解放民族戦線による夕食時を狙った爆弾テロに合い、死者31-32名、重軽傷者42名を出す大惨事の現場となりました。

ミーカン爆破事件を伝える米国のニュースフィルム

このテロ事件が国際世論に与えた影響は大きく、米国以外の西側諸国も共産主義拡大の危険性に目を向け、ベトナムへの派兵や軍事・経済支援を強化するきっかけとなりました。
  


2022年04月05日

サイゴンのチャンフンダオ像と香炉

※この記事では僕の好みで、街の名前を『サイゴン』、行政当局の名前を『ホーチミン市』と記しています。


ベトナム入国初日は、タンソニュット空港に到着して、その足でサイゴン市内に残る史跡を巡りました。
まず最初に行ったのがチャンフンダオ像(Tượng Đức Thánh Trần Hưng Đạo)


左が1975年以前、右が現在

チャンフンダオは13~14世紀の大越(のちのベトナム)の武将で、中国(元)による侵攻を2度に渡って撃退したとされる、ベトナムの民族的英雄・軍神です。
このチャンフンダオ像はベトナム共和国時代の1967年に、サイゴン川のほとりのバックダン埠頭に建立され、以後半世紀に渡ってサイゴンの名所として親しまれてきました。

なお、これは全くの偶然なのですが、僕がこの場所を訪れた2022年3月17日、このチャンフンダオ像がニュースになりました。
実はバックダン埠頭/メーリン公園およびチャンフンダオ像は老朽化の為、約3年前の2019年から改修工事が行われており、チャンフンダオ像の前に置かれた香炉もその間サイゴン市内の寺院に移設されていました。
しかしその香炉が撤去された2019年2月17日というのがちょうど、中越戦争(1979)開戦から40周年の記念日であり、こんな日に抗中の英雄像から香炉を撤去するというホーチミン市当局の無神経さに、当時国民から批判が噴出しました。

それから3年後、改修は無事終了し、2022年3月16日の夜間に、問題の香炉がチャンフンダオ像前に返還。そして僕がサイゴンに到着したのとほぼ同時刻の3月17日朝には、多くの人々が香炉の返還を喜び焼香に訪れたとニュースになりました。


問題の香炉。左がオリジナル。右が返還されたもの

ただし、もともと金のためならどんな汚い事でも平気でやる共産党政府とホーチミン市当局ですので、ネット上ではすでに、「返還された香炉は本当にオリジナルなのか?」「資金目当てに裏で売却され、レプリカが置かれたのでは?」と疑念の声が上がっているようです。
真偽のほどは僕には確かめようもないですが、そんな疑惑も上がって当然と思えるくらい、ベトナムの役人は信用ならないという点には僕も同意します。
  


2022年04月01日

ベトナムロケから帰国

実は3月中盤から約2週間ベトナムに行っており、本日、日本に帰国しました。
(エイプリルフールじゃないですよ。笑)

前回のベトナム訪問同様、安全のため日本に帰国するまでは一切の情報を伏せていました。

【2016年のベトナム訪問】
ビエンホア国軍墓地
https://ichiban.militaryblog.jp/e789059.html
スンロクの戦跡
https://ichiban.militaryblog.jp/e789541.html
ベトナム戦跡めぐりダイジェスト
https://ichiban.militaryblog.jp/e790372.html


今回はアメリカ在住の友人がプロデュースする、南のベトナム人から見たベトナム戦争をテーマとする映像作品制作が主たる目的であり、僕もそのロケに同行して一部出演してきました。

内容は主にベトナム各地の史跡訪問やベテランへのインタビューですが、一部当時の軍装を再現して、戦時中の再現ビデオ、つまりリエナクト撮影も行いました。

現在の社会主義ベトナムでは、例えアマチュアであってもベトナム共和国時代をテーマとする取材は危険ですし、まして軍装を着て撮影なんて完全アウトなので、警察の目の届かない私有地や田舎の田んぼで撮影しました。






まさにベトナムその地なので、本当にこれ以上ないロケーション。
かつて埼玉の普通の高校生がナム戦コスプレサバゲを始めてから18年。運命に導かれてついにここまで来てしまいました。なかなか感慨深いです。


撮影で巡った場所などについては、おいおい記事にしていきます。
まずは、無事日本に帰ってこれた事の報告になります。

実は僕は出発前、日本での生活に未練なんか無いので最悪向こうでくたばっても構わない、くらいの気持ちで出国したのですが、いざ羽田に帰ってきて高速道路から満開の桜を見たら、なぜか急に感動しちゃったんです。
何だかんだ言って、僕の故郷はこの国だったようです。
あと、便所にトイレットペーパーが置いてあるってだけで十分素晴らしい事。  


2022年03月05日

『国家革命運動』の謎

約9年間続いた第1次インドシナ戦争の結果、フランスは1954年にインドシナからの撤退を決定し、ベトナムの国土の北半分がホー・チ・ミン率いるベトナム労働党の支配下に堕ちます。
その後も労働党は引き続き暴力革命によるベトナム全土の共産主義化を目指し、1960年に南ベトナム領内でテロ組織TDTGPMNVN(南ベトナム解放民族戦線、以下「解放民族戦線」)を組織しました。
ただし、かつてホー・チ・ミンがベトミンを「純粋にベトナム独立を目指す同盟」と偽って様々な民族主義勢力を取り込んだ(そして最終的に労働党=共産主義以外の幹部を大粛清した)のと同様に、解放民族戦線もまた、共産主義革命という労働党の目的は巧みに隠され、「腐敗した南ベトナム政府の打倒と祖国統一」という広く受け入れられ易い宣伝文句によって南ベトナム領内の様々な勢力を取り込んだ組織でした。
なので解放民族戦線では、末端のゲリラ兵士はもちろん、兵を率いる中級幹部ですら、自分たちの闘争が共産主義革命を目指すものであるという自覚は薄かったかも知れません。
彼らが戦う動機はただただ、南ベトナムの絶望的な貧富・権力の格差社会からの「解放」でした。(結果的に彼らは戦争に勝利した事で、共産党政権によるさらに劣悪な権威主義・格差社会を固定化してしまう訳ですが)

このように解放民族戦線に参加したのは共産主義系勢力だけではない(むしろ純共産思想系は少数派だった)事は広く知られていますが、それにしても中には「なぜこいつらがベトコンに加わってるの?」と不思議に思う勢力もあります。それが『PTCMQG(国家革命運動)』です。

国家革命運動(Phong Trào Cách Mạng Quốc Gia)の旗

▲共産軍の旗を鹵獲した米海兵隊。国家革命運動(上)と解放民族戦線(下)

上の写真にように国家革命運動の旗がベトコン/解放民族戦線の物として写されている写真が複数存在しています。(特に1968年マウタン=テト攻勢時)
しかし国家革命運動という組織の来歴を考えてみると、それはとても不自然な事なのです。

何故なら国家革命運動は元々、反政府どころかゴ・ディン・ジェム政権を支援するために活動する完全なる反共主義政治組織で、むしろ積極的に労働党・解放民族戦線の打倒を掲げていたからです。
国家革命運動はゴ・ディン・ジェム総統率いるカンラオ党(人格主義労働者革命党)傘下の3つの下部組織の一つとして1955年に創設された公然の政治運動を通じて大衆にジェム政権支持を促す組織でした。その組織は都市部から地方の農村まで広くネットワークが設置され、8年間に渡ってジェム政権を支えました。

国家革命運動の集会[1958年] 壁の文字は「祖国第一 ゴ総統万歳」の意

▲国家革命運動アンスェン省支部。建物にはジェム総統の肖像が掲げられている。


しかし1963年11月に勃発した軍事クーデターでジェム総統が暗殺され政権が崩壊すると、ジェムの配下にあった国家革命運動は解散を余儀なくされました。
こうして国家革命運動の活動は正式に終わったはずなのですが、その後も(少なくとも4年後の1968年には)この国家革命運動を旗を掲げる武装勢力が活動していたのです。しかもあろう事か、宿敵であるはずの解放民族戦線の傘下で。

反共を掲げる政治組織がなぜ共産主義(少なくともサイゴン政府はそう見做している)の解放民族戦線に加わったのか、その理由を説明する資料はまだ発見できていません。知り合いの研究者も、さすがにこれには首を傾げています。
仮説として挙がっているものでは、「国家革命運動のメンバーは1963年クーデター以降、ジェム政権期の体制排除を進める軍事政権から迫害されており、それに反発して彼らは反政府志向を強めたため、政府打倒を掲げる解放民族戦線に勧誘された、あるいは自主的に加わったのではないか」という説がありました。
確かに説明としてはそれが一番分かりやすいのですが、さすがに国家革命運動と解放民族戦線では主義主張が180度違うので、すんなり受け入れられるものではありません。


ちなみに解放民族戦線の傘下には、国家革命運動と似たようなデザインの旗を持つ『LMCLLDTDCHBVN(ベトナム民族・民主・平和勢力連盟)』という組織もありました。こちらは最初から解放民族戦線が創設した地下組織です。


▲ベトナム民族・民主・平和勢力連盟(Liên minh các Lực lượng Dân tộc, Dân chủ và Hòa bình Việt Nam)

一見、国家革命運動の旗と似ているのですが、中心の星は赤ではなく黄色(金星)であり、中央の背景は黄色ではなく水色(白の場合あり)なので、上の米兵の写真の旗とは明らかに異なります。
  


2021年11月26日

南ベトナムにおける「解放戦争」の欺瞞性(1965)

 先日、今から56年前の1965年にベトナム共和国政府が発行した『南ベトナムにおける「解放戦争」の欺瞞性』という資料を入手しました。内容は電子化本家さんに依頼して全ページスキャンし、私が運営するこちらのウェブサイトで公開しています


 この本はベトナム共和国政府が自国の1965年版防衛白書を、日本の人々向けに抜粋・翻訳したもので、内容の概要は以下の通りです。
 今回の白書は、ハノイ政権がその平和宜伝とはまったく裏腹に、破壊的・侵略的行動を強化しようとしていることを暴露することを目的としたものである。
 この白書に収録された証拠書類は、いわゆる"南ベトナム解放戦線"がハノイ共産政権に完全に依存していることを示す新たな証拠を提供しているばかりでなく、共産諸国、とくに北京政権が、南ベトナムに対する侵略にかかりあっていることをも立証している。
(「まえがき」より抜粋)

・いわゆる"南ベトナム解放戦線"の正体
・いわゆる"南ベトナム解放戦争"に対する北ベトナム共産政権の補給と維推の実情
・ベトナム共和国政府がとった防衛措置
・共産主義者の歴然たる侵略の事例
 1) 破壊工作員が非武装地帯を越えて潜入している―ポ・パン・ルオンの事例
  2) 共産国製武器・弾薬の南ペトナムヘの密輸クア・ベトの事例
 3) 共産国製武器・弾薬の南ベトナムヘの大最輸送
(「目次」より抜粋)


 この本は、日本のとある図書館の蔵書だったものが除籍・放出されたもので、中には懐かしの貸し出しカードも入っていました。しかし貸し出しの記録は一つも無し。
 ハノイ政権が語る『抗米と解放』のドラマに多くの人々が陶酔している日本では、ハノイ政権に批判的な情報はほとんど「親米ポチの陳腐なプロパガンダ」と鼻で笑われるので、もしかしたら、この半世紀間ほとんど誰にも読まれなかったかも知れません。

 とは言え、僕はベトナム共和国やアメリカ政府などハノイに敵対する側による発表の方が真実だと主張している訳でもありません。この本も含め、それはそれで実際都合のいい部分だけをまとめたプロパガンダです。
 
 (余談ですが、僕は長年日本国内外のベトナム難民コミュニティや民主派ベトナム人と関わってきましたが、彼らも気に入らない相手には例え身内であっても「あいつはベトコンだ」とレッテル張りをして排除しようとする下らない光景を何度となく見てきました。ベトナム難民コミュニティはこの40年間、そういった身内での赤狩りを繰り返してきたので、多くの穏健派は自分たちのコミュニティそのものに失望し政治への関心を失いました。)

 そもそもの話ですが、この世にある全ての情報が人間の言語で書かれている以上、その全てが人間によって多かれ少なかれ意図的に編纂・公表された『プロパガンダ』であり、人間の意図が介在しない『真実』など、そもそもこの世に存在しないと考えています。 政府発表や民間のメディアはもちろん、個人だって他人に何か伝えたい時は、相手にどう伝えたいかを考えた上で言葉を選んで語るでしょう。

 したがって私に出来る事は『真実』の主張ではなく、あくまで歴史愛好家として『そういったプロパガンダがあった事実』を収集・保存する程度だろうというのがここ数年の私のスタンスです。

 まぁその部分がどう変わろうとも、結局、私がホー・チ・ミンとベトナム共産党に対して中指立て続ける事に変わりはありませんが。
  


2020年05月01日

4月30日に際して



 正直、こんな零細ブログを何年書き続けようが、どうせ日本人の脳裏に刷り込まれたステレオタイプなベトナム史・ベトナム戦争観は今後も変わる事は無いだろうという諦めは年々募っております。しかしそれでも、当のベトナム人たちからは、私を応援する声を常に頂いておりますので、彼らに向けた言葉だけは絶やさないようにしています。


 2016年、私はベトナムの友人たちと共に旧ベトナム共和国ビエンホア軍人墓地を参拝し、在日本ベトナム共和国軍伝統保存会の代表として、戦争で亡くなったベトナム共和国の軍人・市民に追悼を捧げました。
 今日、私たちはベトナム戦争終結から45年を迎えます。そしてこの日、私は「平和」の意味について思いを馳せます。1975年にベトナム戦争は終結しました。しかし私の目には、1945年以来多くの善良なベトナムの人々が望んでいた平和は、いまだにベトナムには訪れていないと感じています。
 いつの日か、あの墓地に眠る霊たちが、真の平和の中で安らかに眠れる日が来ることを祈ります。

 Năm 2016, tôi đến thăm Nghĩa trang Quân đội Biên Hòa của Việt Nam Cộng Hòa cùng các bạn người Việt. Và tôi đã bày tỏ sự tưởng nhớ đến những người trực thăng và công dân của VNCH với tư cách là đại biểu của Hội Bảo Tồn Truyền Thống QLVNCH tại Nhật.
 Hôm nay chúng tôi đã đạt được 45 năm kể từ khi kết thúc Chiến tranh Việt Nam, và tôi nghĩ về "hòa bình" nghĩa là gì. Chiến tranh đã kết thúc. Tuy nhiên, trong mắt tôi, Việt Nam chưa có được một hòa bình mà nhiều người tốt đã mong muốn kể từ năm 1945.
 Tôi cầu nguyện các linh hồn ở nghĩa trang đó sẽ ngủ yên với hòa bình thật một ngày nào đó.

 In 2016, I visited the Bien Hoa Military Cemetery of the Republic of Vietnam with my Vietnamese friends. And I paid our tribute to the memory of the fallen heloes and citizens of the Republic Of Vietnam as the delegate of the RVN Armed Forces Preservation Association in Japan.
 Today we reached 45 years from the end of the Vietnam War, and I think about what "peace" means. The war is over. However, in my eyes, Vietnam don't get yet a peace what many good people have been wishing since 1945. 
 I pray that the spirits in that cemetery have rest in the true peace someday.


  


2019年11月24日

カオダイ軍の歴史[草稿]

※2019年11月28日加筆訂正


以前、『カオダイ教と日本[1]』という記事を書いた後、その続きを書き溜めていたのですが、資料集めがなかなか進まず、しばらく放置している状態でした。しかし大まかな流れは把握できているし、このまま眠らせておいてももったいないので、まだ草稿の状態ではありますが、まとめて公開いたします。


カオダイ教団と松下光廣

 カオダイ教はベトナムのタイニン省で1920年頃に誕生し、その後の20年間でコーチシナ(Nam Kỳ: サイゴンを中心とするベトナム南部)全域に急速に広がった。第二次大戦前までに信徒数は優に100万人を超えており、この新宗教の急速な勢力拡大に当時インドシナを支配していた仏領インドシナ植民地政府やフランス人は危機感を抱いた。またカオダイ教側もタイニン省にける宗教的自治を求めて次第に植民地政府と対立していった。
 またカオダイ教団はこの時期、ベトナムで起業した日本人実業家 松下光廣(1896-1982)との関係を深めていった。熊本県天草出身の松下は1912年、若干15歳の若さでベトナムに移住し、現地の日系企業で勤めた後、1922年に貿易会社『大南公司』をハノイで創業した。その後大南公司は現地のベトナム人・ベトナム華僑と良好な関係を築き、さらにイ、マレーシア、シンガポール、ビルマ等にも支店を持つ巨大商社へと成長していった
 また松下は成功した実業家であるのと同時に、長年に渡ってベトナムの独立運動を支援してきた人物でもあった。ベトナム民族主義運動の祖ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu, 1867-1940)と共にベトナム独立を志し、その活路を求めて日本に渡った阮朝の皇族クオン・デ(Cường Để, 1882-1950)は松下を盟友とし、松下はその財力を活かしてクオン・デが結成したベトナム復国同盟会(Việt Nam Phục quốc Đồng minh Hội)を資金面で支えていた。また松下は同じく抗仏運動を展開していたコーチシナの二大新宗教カオダイ教およびホアハオ教とも親しい関係を持っており、特にカオダイ教に対し非常に強い影響力を持っていた。
 そのため植民地政府は松下を危険視し、松下が日本に一時帰国していた1937年に欠席裁判によって『禁錮8年または国外追放』の有罪判決を下したため、松下はその後3年間ベトナムに戻る事が出来ず、東京やタイ王国を移動しながら大南公司の経営を続けた。

壮年期の松下光廣の肖像


日本軍インドシナ進駐

 1939年、オダイ教教皇ファム・コン・タク(Phạm Công Tắc, 1890-1959)は(おそらく松下から得た情報を基に)神からの啓示として、近く日本軍がベトナムに到来する事を予言し、カオダイ教団は来るべきフランスへの蜂起に備えてクオン・デのベトナム復国同盟会への支援を開始した
 同年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、インドシナを統治するフランスは1940年にドイツに敗北し、フランスの政権はドイツが擁立したヴィシー政府に取って代わられた。フランスが枢軸国陣営に組み入れられた事で、ドイツの同盟国日本は米英ソによる中国への軍事支援輸送路『援蒋ルート』の遮断および資源奪取のため、1940年に北部仏印に進駐。さらに翌年には南部にも展開を進めインドシナ全域を掌握した。教皇の予言通り日本が仏印進駐を開始した事で、カオダイ教徒は日本軍を好意的に迎えた。

カオダイ教教皇"護法"ファム・コン・タク

 後の1941年12月に日本が米英蘭との戦争に突入すると、緒戦相次いで勝利した日本軍は、連合国が支配していた東南アジア諸地域を次々と占領していった。『八紘一宇』を掲げる日本軍は、これら占領地で現地の独立運動指導者を取り込んで親日政権を擁立し、『西洋列強植民地支配からのアジア解放という戦争の大義名分を実行していった。ただしこれらの『解放』は、実際には列強が作り上げた植民地経済・資源の利権構造を日本が掌握し日本を中心とする経済ブロック『大東亜共栄圏』を構築るための戦略的政策であり、あくまで親日政権かつ日本の軍政下である事を前提とする事実上の保護国化であった。
 一方、ベトナムを含む仏領インドシナへの対応は他のアジア占領地とは異なった。日本軍は1940~1941年に行った一連の進駐によってインドシナ全域を掌握しており、日本が必要とする経済的・軍事的な利益が十分に確保できていた事から、日本政府はドイツ・フランスとの関係に配慮してインドシナ諸国の独立運動への支援は行わず、「治安維持」の名目で引き続きフランス植民地政府に統治を委ねた。以後4年間、インドシナは植民地政府と日本軍による二重支配を受ける事となり日本軍によってインドシナの支配が「公認」されたフランスのインドシナ総督ジャン・ドゥクー(Jean Decoux, 1884-1963)海軍大将は、独立勢力への締め付けをより一層強めた。

インドシナ総督ジャン・ドゥクーと日本陸軍の将校(1941年インドシナ)

 民衆の間では日本への失望と反感が高まり、戦前から抗仏闘争を行ってきたホー・チ・ミン率いるベトナム最大の民族主義組織ベトミン(ベトナム独立同盟会)は、日本を新たな侵略者と見做し、アメリカOSSなどによる軍事支援を受けながら日本軍へのゲリラ戦を展開していく。
 一方、ベトミンのような大規模な武装集団を持たないクオン・デのベトナム復国同盟会は、植民地政府による取り締まりから逃れるため地下に潜伏せざるを得なかった。また植民地政府は1941年7月にタイニン省のカオダイ教団本部にフランス軍部隊を突入させ、教皇ファム・コン・タクをはじめとする5名のカオダイ教指導者を逮捕した。そして彼らカオダイ教幹部は1941年8月20日に南シナ海のコンソン島に流刑され、さらにその後仏領マダガスカルに移送された。
 このような状況の中で、1940年の日本軍進駐によってベトナムに帰還を果たした松下は、彼ら非ベトミン系独立活動家への資金援助と連絡場所として、サイゴンの華人街チョロンに「レストラン ARISTO」を開業した。しかしこの活動はベトナムの独立運動を許さない日本政府の方針に反していたため、政府は松下がクオン・デを扇動して革命を起す事を危惧し、松下が日本に一時帰国すると彼の旅券を停止し、ベトナムに戻る事を禁じた。その後しばらくして、松下は日本軍に対し「現地の政治問題には関与しない」という誓約書を提出するとともに、松下の理解者である陸軍幹部の保証を得て、ようやくベトナムに帰還する事が出来た。


カオダイ教団と日本軍の接近

 日本軍の進駐後もインドシナ植民地政府はカオダイ教団を弾圧し、日本政府もカオダイ教団に近い大南公司の松下光廣の帰国を妨害するなどしていた。しかしそのような状況にあっても、カオダイ教団は日本との連携を模索した。植民地政府による弾圧に立ち向かう術の無いカオダイ教徒が宗教的な自由を得るためには、新たな支配者である日本軍による庇護を受ける他に道は無かった。また日本軍側も150万人の信徒を抱えるカオダイ教団の組織力に着目し、有事の際にカオダイ教徒を利用するため教団に接近した。
 この時カオダイ教団と日本軍の仲を取り持ったのが、双方とコネクションを持つ松下光廣と大南公司であった。東南アジア各地で多業種に渡ってビジネスを行っていた大南公司は、仏印進駐以降ベトナムに進出した日本の大手企業や日本軍とも大口契約を結び、終戦までに東南アジア各地に41の営業所、現地人従業員を含め約9,000人の社員を抱える大企業に成長していった。
 進駐後、日本軍はベトナム南部の軍事拠点化を進めていたが、当時サイゴン周辺のフランス軍飛行場には600m級の小型滑走路しかなかったため、大本営は長距離雷爆撃機を離発着させるのに必要な1500m級滑走路を持つ飛行場を陸軍3カ所、海軍3カ所の計6か所新たに建設する計画を立てた。大南公司はそのうちの海軍飛行場の建設を1941年9月に大本営から受注した。
 教皇ファム・コン・タクの追放後、カオダイ教団指導者の地位を継いだチャン・クァン・ヴィン (Trần Quang Vinh, 1897-1975)は日本軍との協力関係を築くため、松下の伝手でこの大南公司の日本海軍飛行場建設工事に、建設労働者として数百名のカオダイ教徒を派遣した。

カオダイ教団指導者チャン・クァン・ヴィン



カオダイ民兵創設と明号作戦

 その後、日本本土では長期化する戦争によって働き盛りの成人男性の労働人口が著しく不足していたため、今度は日本国内の建設工事にも多数のカオダイ教徒を労働者として送り込む事となる。これを好機と見た教団指導者チャン・クァン・ヴィンは信徒と共に日本に渡り、1943年に東京でカオダイ教徒による抗仏民兵組織=後のカオダイ軍を発足させた。しかし当初日本側はインドシナ植民地政府との摩擦を避けるため、カオダイ民兵についてその存在は黙認するものの、直接的な支援は行わなかった。
 しかしその後戦況が悪化すると、日本軍はインドシナ植民地政府およびインドシナ駐屯フランス軍が連合軍側に寝返る事を危惧し、武力で植民地政府を制圧・解体し、インドシナを日本の完全な支配下に置く『仏印処理』を計画した。そして1944年、日本軍はこの仏印処理に備えて、ベトナムの民族主義者や新宗教勢力を日本側の民兵として動員するため、彼らへの軍事支援を開始した。
 この中で最大の民兵組織が東京に拠点を置いていたカオダイ民兵であり、日本軍憲兵隊によって本格的な軍事教練を施される事となる。後にフランス連合/ベトナム国軍カオダイ部隊の指揮官となるチン・ミン・テー(Trình Minh Thế)も、この時日本で憲兵隊によって訓練を受けたカオダイ民兵の一人であった。

フランス連合時代のチン・ミン・テー

 第二次大戦末期の1945年3月、日本軍はついにインドシナ駐屯フランス軍の制圧およびインドシナ植民地政府の解体『明号作戦=仏印処理』を開始した。日本で訓練を受けていたカオダイ民兵も予定通りこの作戦に加わり、現地に住む数万人のカオダイ教徒を蜂起に参加させる事で、サイゴン北西部からメコンデルタにかけての広大な地域を掌握し、インドシナ植民地政府は完全に解体された。
 この時、日本軍に協力したカオダイ教徒を含む多くのベトナム人、そして大南公司の松下などは、長年東京に滞在しながらベトナム帰参の機会を待っていたクオン・デが指導者として帰国し、ベトナム独立を導く事を期待していた。しかし明号作戦を立案・実行した日本陸軍第38軍は、民族主義者の強い支持を受けるクオン・デよりも、それまで植民地政府の下でフランスの傀儡を演じてきた保大帝(バオダイ)の方が、ベトナムを日本の統制下に置く上で有用であることから、日本軍はバオダイを皇帝とするベトナム帝国(Đế quốc Việt Nam)政府を擁立した。また同時に日本軍はクオン・デへの支持を打ち消すべく、「クオン・デ候は日本で日本人と結婚して家族を持ったたため、ベトナムに帰国する意思はない」という偽情報をベトナム各地に流布する情報操作工作を行ったため、多くのベトナム国民がクオン・デに失望し、以後クオン・デがベトナムに帰国する機会は二度と無かった。この日本軍による偽情報はその後も訂正される機会が無いまま、70年以上たった現在でもベトナム国内で事実として語られている。(「『クォン・デの家族』に関する誤解」参照)
 
 一方、1944年後半から1945年前半にかけてトンキン(ベトナム北部)で発生した大規模な飢饉によって数十万から数百万人とも言われる大量の餓死者を出した事で、日本軍はベトナムの民衆から敵視されており、ベトミンはベトナム帝国を日本の傀儡政権と喧伝しながら、日本軍へのゲリラ戦を継続していく。
 また日本軍に加えカオダイ教徒までもが蜂起し、フランス人を支配下に置いたという事実は、それまでインドシナの支配者として君臨していたフランス人にとって耐えがたい屈辱であり、フランス人のカオダイ教徒に対する憎しみは、その後フランス政府が公式にカオダイ教徒と和解をしてもなお、インドシナ在住フランス人の間に根強く残る事となる。
 

日本敗戦と八月革命

 明号作戦から5か月後の1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して連合軍に降伏し、第二次世界大戦は終結する。ベトミンはこれを機にベトナム全土で一斉に蜂起し、日本軍の後ろ盾を失ったベトナム帝国政府を転覆させる事に成功した(ベトナム八月革命)。この時、フランス・日本という大国による支配が失われたことで、ベトナムの独立はついに達成されたかのように思われた。
 しかし政治の実権を握ったベトミンが行ったのは、同じベトナム人への粛清であった。地主・資産家・政治家・軍人・公務員・カトリック信徒など革命前に体制側に属していた人々は、フランスや日本による植民地支配に協力した売国奴と見做され、ベトミンによる無秩序なリンチ・処刑がベトナム各地で頻発した。
 また少数民族やカオダイ教、ホアハオ教といった少数派の新宗教も弾圧の対象となり、フランスからの解放を目指したカオダイ軍指導者チャン・クァン・ヴィンも日本軍に協力した容疑で1945年10月にベトミン政府の警察によって逮捕され、1946年1月に釈放されるまで拷問を受けたと伝えられている。


コーチシナ自治共和国

 一方、日本の降伏後、ビルマで日本軍と戦っていたイギリス軍、インド軍およびフランス軍(当初は英軍指揮下の自由フランス軍コマンド部隊)は、インドシナ駐屯日本軍の武装解除を行うべく、1945年9月以降続々とベトナムに到着した。インドシナ植民地政府の解体は日本軍によって不法に行われたものであるというのが連合国の一致した見解であり、さらにフランスおよびイギリスは共産主義のベトミン政権も認められないという立場を取った。
 すぐさまインドシナの再統治に乗り出したフランスはまず最初に、インドシナ経済の中心地であるコーチシナ(ベトナム南部)をベトミン政権から切り離すべく、イギリス、そして連合国の指揮下に下った在インドシナ日本軍と合同で、コーチシナにおけるベトミン勢力の掃討(マスターダム作戦)を行った。

合同でベトミン掃討に当たる英仏日軍

 そして1946年春、インドシナ問題の対応に当たったフランス政府高等弁務官兼インドシナ総督チェヒー・ダハジョンリューは、ベトミン政府の猛反発を無視してコーチシナ地方をベトミン政権から切り離し、フランスが直接管理する『コーチシナ自治共和国』として自治独立させる事を宣言した。
 この際、フランス側はコーチシナの自治について後に住民投票を行う事を約束し、その選挙工作を開始する。そしてフランス側はこの時初めて、カオダイ教徒の囲い込みを試みた。当時カオダイ教徒はコーチシナ共和国領内の有権者の約10%を占めていた事に加え、何よりカオダイ教徒はつい1年前に行われた日本軍の明号作戦の際に植民地政府に対し一斉蜂起したばかりであり、百数十万人の信徒を抱えるカオダイ教団が死を覚悟した宗教的信念の下に反乱を起こす事の恐怖はフランス人の脳裏に深く刻まれていた。
 フランス側はそれまで弾圧の対象としていたカオダイ教徒を懐柔するため、1946年5月に教皇ファム・コン・タクをマダガスカルから帰還させる事を決定した。しかし同時に、明号作戦の際に日本軍の指揮下でフランス軍を攻撃した当時のカオダイ教団指導者チャン・クァン・ヴィンは抗仏運動を無力化する為、フランスの官憲に逮捕された。
 日本軍からの支援を失ったカオダイ民兵にフランスの支配を覆す戦力は無く、チャン・クァン・ヴィンはフランスに恭順して教団の存続を計るか、最後まで抵抗して百万人の信徒を道連れに死を選ぶかという非常に厳しい選択を迫られた。そしてチャン・クァン・ヴィンは釈放後の1946年6月9日、カオダイ教団の集会でフランスへの抵抗を放棄をする事を宣言し、カオダイ民兵の武装解除に応じた。その後1946年8月に帰国した教皇ファム・コン・タクも、否応なしにフランスとの講和を受け入れた。
 一方、フランス側もカオダイ教徒に配慮し、ファム・コン・タクの顧問を務めていたレ・バン・ホアツを1946年11月26日にコーチシナ共和国大統領に任命した。しかしチャン・クァン・ヴィンは信徒たちを守るため降伏を決断したものの、フランスを信用した訳ではなく、フランスが擁立したコーチシナ新政権への不服を表明した。

 同時期、フランス軍は1946年中にベトミン政権の首都ハノイにまで進駐し、ベトナムは事実上、再びフランスの支配下に戻った。こうして八月革命によってもたらされたつかの間の『独立』は終わりを迎えた。独立を待ち望んでいた多くのベトナム国民はこれに深く落胆したものの、同時に、ベトミンによって行われた一連国民への暴力は、『民族解放』を口実に血の粛清と共産主義化を強行するベトミン、そしてホー・チ・ミンという人物の正体を明るみにし、特にベトミンによる被害を被った都市部の人々の間に、ベトコン(ベトナム人共産主義者)に対する強い憎しみも生じさせる結果となった。こうしてベトナム民族の悲願であった『独立』は新たなイデオロギーの対立を生み、以後30年間に渡って繰り返されるベトナム人同士の憎しみと殺戮の連鎖へと繋がっていく事となる。
 なお日本軍は1940年の仏印進駐から終戦後のコーチシナ制圧まで終始、フランスと共にベトミンの制圧に当たってきたが、その一方で日本陸軍将兵の一部には、自国が行ってきた(「アジア解放」という建前に大きく矛盾する)政策に疑問を感じ、敵であるベトミン側に共感する者も居た。彼らは日本政府から正式な引き上げ命令を受けた後もそれを拒否して軍を離脱(脱走)し、軍事顧問として個人的にベトミンの闘争に加わった。ベトミンは彼ら元日本兵たちの指導を受けて1946年6月にクアンガイ陸軍中学を創設し、本人教官に訓練されたベトミン(ベトナム人民軍)将校たちが、後の第一次インドシナ戦争やベトナム戦争を戦っていく事となる。


フランス連合軍カオダイ部隊

 
 フランスの恫喝によってやむを得ず抗仏運動を停止したカオダイ教団であったが、1946年9月になると、今度はコーチシナに潜伏していたベトミン・ゲリラが、フランスに恭順したカオダイ教徒に対し激しいテロ攻撃を始めた。これを受けて教皇ファム・コン・タクはカオダイ教徒を守るため、むしろ積極的にフランスに協力する姿勢に転向する。
 同時期、インドシナに派遣されたフランス軍は深刻な人員不足に陥っていた。この中でフランス軍はその戦力を補うため、ベトミンからの迫害に晒されていたベトナム人や少数民族、宗教組織を武装化し、植民地軍に組み込んでいく。そして1947年、フランス軍はかつて日本軍によって武装化されたカオダイ民兵を復活させ、新たに『カオダイ部隊(Troupes Caodaïstes)』としてフランス連合軍の一部とした。タイニン省で組織されたカオダイ部隊はフランス植民地軍の指揮下でベトナム南部におけるベトミンとの戦いに投入される。宗教による強い結束を持つカオダイ部隊は各地で大きな戦果を挙げ、その活躍が続いた事から、カオダイ教団自体もベトナム国内でカトリックと双璧を成す一大勢力へと成長していく。

フランス軍幹部とカオダイ教団幹部(カオダイ教団本部にて)
教皇ファム・コン・タクの他、カオダイ部隊指揮官としてフランス連合軍の将官となったチャン・クァン・ヴィンの姿も見える

フランス連合カオダイ部隊兵士 1950年タイニン

カオダイ部隊の制服用肩章と部隊章



ジエム政権による粛清

 しかし1954年のディエン・ビエン・フー陥落を機にフランスは北緯17度線以北のベトナム領をベトミンが支配する事(ベトナム民主共和国=北ベトナムの成立)を認め、第一次インドシナ戦争は終結する。一方、カオダイ教徒が住む南ベトナムは引き続きバオダイを首班とするベトナム国政府が統治する事となった。しかしカオダイ教徒の苦難はそこで終わらなかった。
 1955年2月13日、フランス軍の撤退に伴い、カオダイ部隊は正式にベトナム国軍に編入され、カオダイ部隊司令官チン・ミン・テー准将は国軍の将官の地位を得た。しかしその3か月後の5月3日、チン・ミン・テー准将は自動車で移動中、何者かに狙撃され死亡する。この暗殺事件は未解決のままだが、カオダイ教徒と対立したフランス人や、カオダイ勢力の拡大を恐れるゴ・ディン・ジエム首相らベトナム国政府高官が関与した可能性が指摘されている。

ベトナム国軍カオダイ部隊部隊章

カオダイ部隊によるチン・ミン・テー将軍の葬儀


 その後、1955年10月に、当時ベトナム国首相だったゴ・ディン・ジエムはフランスに従属するバオダイを見限り、同時にアメリカを自分の新たなパトロンとして利用すべく、米国CIAの協力を得てバオダイを追放する無血クーデターを断行する。アメリカの後ろ盾を得て独裁的な権力を得たジエムは、自身が信仰するカトリックを政治の中心に据え、同時に他の全ての宗教勢力を排除する政策を開始した。
 特にフランス軍によって武装化されていたカオダイ教やホアハオ教、そしてビンスェン団は反政府武装勢力として危険視され、政府軍(ベトナム共和国軍)による掃討・武装解除が開始された。政府軍はカオダイ教の聖地タイニン省にも進攻し、圧倒的な戦力でカオダイ部隊を武装解除し、その組織を解体した。
 これによってカオダイ部隊兵士たちの多くは、ジエム政権に恭順して政府軍に編入されるか、或いは政府と戦うためそれまで敵だったベトミン・ゲリラ側に転向したが、それ以外のおよそ5千~6千名のカオダイ兵士はどちらにも付かず、政府への抵抗勢力として国内に潜伏する道を選ぶ。これに対してジエム政権は、1956年から58年にかけて約3400名のカオダイ教徒を逮捕・投獄するなどして、カオダイ部隊の残党狩りを続けていった。

 
アメリカの介入とサイゴン政府との和解

 こうしてカオダイ教徒はジエム政権からも弾圧の対象とされてしまったが、1961年に新たな転機が訪れる。それはアメリカ軍とCIAが開始した『CIDG計画』だった。ジエム政権・ベトコン双方から迫害を受けるカオダイ教徒は、同じく迫害を受ける少数民族たちと同様に、ジエムの政府に下ることなくアメリカの保護下で自治と自衛を図るべく、進んでアメリカ軍特殊部隊の指揮下に加わって行った。こうして、かつて日本軍、フランス軍によって支援されたカオダイ教武装組織は、新たにアメリカ軍によってCIDG(民事戦闘団)という形で復活を遂げる。
 さらに1963年11月には、CIAによる支援を受けた政府軍幹部によるクーデターでジエム政権が崩壊した事で、政府とカオダイ教の対立は和らぎ、政府と同じくベトコンとの戦いに臨むカオダイ教は、ある程度の市民権を得るに至る。さらに翌1964年には、かつてのカオダイ部隊司令官チャン・クァン・ヴィンがベトナム共和国軍の将校としての地位を得るなど、元カオダイ部隊将校が政府軍に再登用され、政府とカオダイ教団の和解はついに達成される。なお、ヴィン将軍は2年後の1966年に軍務を辞し、カオダイ教をアフリカに布教すべくコンゴ共和国に移住した。
 その後もCIDGや政府軍所属のカオダイ教徒軍人の躍進は続き、カオダイ教は再びベトナムにおける一大勢力の地位に返り咲くこととなる。さらに米国CIA主導のベトコン組織破壊工作『フェニックス・プログラム』が開始されると、タイニン省では主にカオダイ教徒兵で構成されたPRU(省探察隊)が組織され、1970年頃までに省内のベトコン組織をほぼ完全に壊滅させる事に成功した。(過去記事「フェニックス・プログラムとPRU」参照)

米軍による表彰を受けるタイニンPRU(タイニン省探察隊)隊員

タイニンPRU部隊章



サイゴン陥落後

 1975年4月30日にサイゴンが陥落し、30年間続いた共産主義革命戦争が終結すると、戦争に勝利したハノイ政権は、直ちにカオダイ教徒を含む膨大な人数のサイゴン政府関係者への粛清を開始した。
 かつてのカオダイ教指導者チャン・クァン・ヴィンはアフリカでのカオダイ教布教活動の後ベトナムに帰国していたが、1975年にサイゴンが陥落すると共産政権に逮捕され、以後消息は不明である。
 タイニンPRUはベトコン組織破壊への貢献度が高かった分、戦後隊員のほとんどが逮捕、処刑された。ただし若干の生存者は国外脱出したか、あるいはカンボジア国境地帯のジャングルに潜伏し、1990年代まで共産党政権へのゲリラ戦を継続したという。
 しかし全体としては、第二次大戦からベトナム戦争終結までの間にベトミン・ベトコン勢力と戦ったカオダイ軍幹部のほとんどは粛清され、教団としての武装闘争は1975年のサイゴン陥落を境に終焉を迎えた。その後40年間、カオダイ教団はハノイ政府の厳重な統制下に置かれており、1975年以前の武装闘争について語る事は教団内でもタブー視されている。現在、カオダイ教徒はベトナム国内だけでおよそ250万人もいるが、かつて教団が日本・フランス・アメリカの支援を受けて共産主義勢力(つまり現ベトナム政府)と戦った事について知っている者はほとんど居らず、難民として海外に脱出したごく一部のカオダイ教徒だけが、その歴史の語り部となっている。

 一方、第二次大戦前から戦中にかけてカオダイ教団と深く関わった松下光廣は、1945年の日本の敗戦・八月革命によってベトミン政権に全財産を没収されたが、その後サイゴンに大南公司を復活させ、ベトナム戦争終結後の1976年まで南ベトナムで事業を続けた。この間、松下はベトナム(南ベトナム)と日本政府間による戦後賠償交渉の仲介役となり、日本からの無償援助で建設されたダニム・ダム(水力発電所)建設プロジェクトを主導する傍ら、戦争孤児院を運営するなど、ベトナム国民への奉仕を続けた。また、サイゴンに住む日本人互助会『寿会』を主宰し、在ベトナム日本人への支援も行っていた。その中には、かつて日本軍を脱走してベトミンに参加しフランスと戦ったものの、ホー・チ・ミンによる内部粛清や国民へのテロ・虐殺を目の当たりにしてベトミンに失望し、南ベトナムに避難した元ベトミン軍顧問の日本人兵士も含まれる。(過去記事あるベトナム残留日本人と家族の漂泊参照)
 しかし1976年に南ベトナムが北ベトナムのベトナム共産党政権に併合されると、共産主義に則り南ベトナム国内のすべての企業が解体・国有化された。大南公司も例外ではなく、松下は再び共産主義政権に全財産を没収された。その後、ハノイ政府は1978年にすべての外国人の国外追放を決定し、松下は日本に強制送還された。ただしその後も松下は、1982年に亡くなる直前まで、何らかのルートでベトナムに再度入国していた事が判明している。
 松下戦前からクォン・デのベトナム復国同盟会への支援尽力し、フランスや日本、ベトミン、ベトコン勢力による妨害に遭いながらも、身の危険を顧みずベトナムの独立と発展を支援し続けた人物であった。と同時に、中国・ソ連の支援を受けながらベトナム国民へのテロ、恐怖政治を行うホー・チ・ミンら共産主義勢力の蛮行を現地で見てきた松下は、彼らをベトナム民族解放の志士とは見ておらず、むしろ「共産分子のテロ」と強い言葉で非難している。



[参考文献]

平田豊弘 (2011) 「松下光廣と大南公司」, 『周縁の文化交渉学シリーズ4 『磁器流通と西海地域』』 p.115-122, 関西大学文化交渉学教育研究拠点, <https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/5888/1/12_hirata.pdf>2018年4月15日アクセス
Andrew R. Finlayson (2008) 「The Tay Ninh Provincial Reconnaissance Unit and Its Role in the Phoenix Program, 1969-70」, 『A Retrospective on Counterinsurgency Operations』, Central Intelligence Agency<https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/csi-studies/studies/vol51no2/a-retrospective-on-counterinsurgency-operations.html>2018年4月15日アクセス
Arnaud Brotons・Yannick Bruneton・Nathalie Kouamé(dir.) (2011) 『Etat, religion et répression en Asie: Chine, Corée, Japon, Vietnam- (XIII-XXI siècles)』 KARTHALA
Chizuru Namba (2012) 『Français et Japonais en Indochine (1940-1945): Colonisation, propagande et rivalité culturelle』 KARTHALA
Dr Sergei Blagov 「Armée De Caodai」, 『Caodaisme』<http://caodaisu.tn.free.fr/cultue/0,,703,00.html>2018年4月15日アクセス
Shawn McHale 「Cochinchina – a failed revolution?」, 『End of Empire - 100 days in 1945』, <http://www.endofempire.asia/0825-cochinchina-a-failed-revolution-3/>2018年4月15日アクセス
松下光廣翁の足跡を辿る会 (2012) 「記念講演会開催のご報告墓参」<http://matsushitamitsuhiro.kataranna.com/e3246.html>2018年4月15日アクセス
Institut Pierre Renouvin1 (2015) 「La collaboration franco-caodaïste au début de la guerre d’Indochine (1945-1948) : un « pacte avec le Diable » ?」, 『Bulletin de l'Institut Pierre Renouvin1』 2015/1 (N° 41) Université Paris 1, <https://www.cairn.info/revue-bulletin-de-l-institut-pierre-renouvin1-2015-1-page-75.htm>2018年4月15日アクセス
Mémoires d'Indochine (2013) 「HỒI KÝ TRẦN QUANG VINH – MÉMOIRES DE TRAN QUANG VINH [1946]」, <https://indomemoires.hypotheses.org/8301>2018年4月15日アクセス
ORDRE DE LA LIBÉRATION 「GEORGES THIERRY D'ARGENLIEU」, <http://www.ordredelaliberation.fr/fr/les-compagnons/946/georges-thierry-d-argenlieu>2018年4月15日アクセス
The Tay Ninh Provincial Reconnaissance Unit and Its Role in the Phoenix Program, 1969-70, Colonel Andrew R. Finlayson, USMC (Ret.), <https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/csi-studies/studies/vol51no2/a-retrospective-on-counterinsurgency-operations.html>2017年06月24日アクセス
  


2019年09月13日

ルオン少将と特科隊旗

去る9月5日、自衛隊と在日米軍の共同訓練(年次演習) 『Orient Shield 2019』が開始され、熊本県の健軍駐屯地にて訓練開始式が執り行われました。開始式には陸自西部方面総監の本松陸将と在日米陸軍(USARJ)司令官のルオン少将が出席しました。

ルオン少将(左)と本松陸将(右)
[Photo: US Army]

この演習は毎年行われているのですが、今回の開会式の映像は、ネット上のベトナム人の間でちょっとした話題になりました。

[Photo: US Army]


もう想像はつくと思いますが、ベトナム人の間では、
「なぜ日本軍がベトナム国旗(1948-1975)を掲げているんだ!?」
ルオン将軍ベトナム共和国出身だから、きっと日本人はルオン将軍に敬意を示しているんだ!」
などなど、憶測が飛び交っています。

実際には、自衛隊がもう存在しない国家の国旗を掲げるはずもなく、これは陸自の特科群の隊旗であり、黄色地に赤い3本線のデザインが、たまたまベトナム国旗と酷似していただけです。

ちなみに上の図(右側)の『ベトナム国旗に共和国軍のシンボル(1967年以降)である鷲の紋章が描かれた図柄』は1975年まで、軍に関係する様々な場で用いられましたが、実際のベトナム共和国軍の正式な軍旗は、国旗柄ではなく、黄色単色に四隅のオリーブが描かれたこちらのものでした。(四隅のオリーブのデザインはフランス軍旗から継承されている)

ベトナム共和国軍旗 [Huấn Lệnh Điều Hành Căn Bản (1969)より]


これ以前にも、この陸自特科群の隊旗については度々ベトナム人から質問を受けていたので、この機会にベトナム人に向けて、Facebook上でこの旗の正体について説明をしました。辞書を使いながらの拙いベトナム語ですが、なんとか意味は伝わったと思います。

Tôi thường được bạn bè người Việt hỏi về lá cờ vàng này ở Nhật.
Đây chỉ là một cờ đội của Lực lượng Phòng vệ Mặt đất Nhật (Lục quân Nhật). Màu vàng có nghĩa là "Pháo binh" và ba đường ngang là "Liên đoàn". Và thiết kế (Sakura) đặt ở trung tâm của lá cờ là biểu tượng của Lục quân Nhật.
Trong trường hợp này, cờ này người lính Nhật có nghĩa "Liên đoàn Pháo binh". Vì vậy, Lục quân Nhật có cờ đội đủ thứ màu sắc và đường kẻ. Ví dụ: một cờ hai đường ngang trắng trên nền đỏ là một Tiểu đoàn Bộ binh.
Tuy nhiên, tôi cảm cờ này đã được trình bày cho Tướng Lương Xuân Việt sinh ở VNCH lá một ngẫu nhiên thú vị.

[日本語訳]
私は度々ベトナム人の友人から、日本のこの黄色い旗について質問を受けます。
これは陸上自衛隊の隊旗の一つです。黄色は特科(砲兵)を意味し、赤い三本線は群(または指揮官が一佐)の部隊を示します。そして旗の中心の紋章(サクラ)は陸上自衛隊のシンボルです。
なのでこの場合、写真の日本人兵士が持っている旗は特科群の隊旗です。陸上自衛隊にはこれ以外にも、様々な色や線の本数の隊旗があります。例えば赤地に白二本線は普通科(歩兵)大隊です。
しかし、この(ベトナム共和国国旗によく似た)旗が、ベトナム共和国出身のルオン少将の前で掲げられた事は、非常に興味深い偶然だと私は感じています。



ちなみに以前、僕の友達の在日ベトナム人たちは、キャンプ座間の中にあるルオン少将の家(戸建て米軍住宅)でのパーティーにお呼ばれして、遊びに行ってました。
僕も何かの間違いで呼ばれたりしないかなぁ。中佐までは遊びに行ったことがあるけど、さすがに将官は無理か(笑)


※2019年9月15日 誤字訂正
  


2019年05月07日

令和元年ゴールデンウィークの思い出

ゴールデンウィークは10連休とまでは行きませんでしたが、土日含めて計6日休みが取れたので、色々な事ができました。


1. 国祖記念祝賀会の打ち上げ

 
 先日執り行われた日本在住ベトナム人協会主催ベトナム国祖記念祝賀会の打ち上げ反省会が都内のベトナム料理店で開催され、僕もお呼ばれしたのでお邪魔してきました。ベトナム戦争を経験した難民世代から、留学生・技能実習生として来日した若者まで、幅広い年代がこうして集まり語り合える場は、とても大切なものだと思います。


2. 日本在住ベトナム人協会会長宅訪問

 打ち上げの翌日、日本在住ベトナム人協会会長カン氏の自宅にお邪魔して、生春巻きを食べながらいろいろお話を聞いてきました。
 1968年のテト攻勢の際、フエを占領したベトコン(解放民族戦線)は約5,000名のフエ市民を地中に生き埋めにして虐殺しましたが、当時大学生だったカン氏はボランティアとしてその虐殺事件の犠牲者の遺体掘り起こし作業に従事し、ベトコンが行う『抗米戦争』の正体を目の当たりにします。その翌年、カン氏は政府軍(ベトナム共和国軍)に士官候補生として志願入隊し、陸軍中尉として1975年まで軍務に就きました。終戦時は、スァンロクから撤退してきたレ・ミン・ダオ少将麾下の混成部隊とビエンホアで合流し、その指揮下に入りましたが、反攻は叶わずその地で無条件降伏の知らせを受けたそうです。終戦と同時にカン氏は共産主義政権に逮捕され、6年間も収容所に投獄され強制労働を課せられた後、難民として国外に脱出して最終的に日本に定住されました。
 またカン氏の友人のハイはベトナム戦争当時はまだ子供でしたが、その頃経験した出来事を語って下さいました。ハイは当時ファンティエットに住んでいました。ベトナム戦争中、ベトコンゲリラはしばしばファンティエット市役所を狙ってB-40(RPG-2)無反動砲を発射するテロ攻撃を行っていましたが、B-40は命中精度が悪いため、発射された砲弾のほとんどは市役所を外れて付近の民家に落下していました。ハイ自宅はファンティエット市役所の横にあったために、計2発が自宅に着弾し、壁に大穴を開けたそうですが、幸い家族に怪我人は出なかったそうです。しかし、そうではない人もいました。ハイには近所に住む2歳年上の仲の良い友達がいました。1968年2月のテト攻勢最初の夜、彼は親戚のおばさんの家に泊まりに行っていました。そして翌朝自宅に帰ってみると、ベトコンが発射した砲弾は彼の自宅に命中しており、家の中には爆発により変わり果てた姿となった彼の両親と妹の三人の遺体が四散していました。一晩で家族全員を失った彼は親戚の家に引き取られ、ハイ氏と会う機会は無くなりました。しかしその数年後、14歳になったハイ氏がたまたまファンティエット市内の政府軍の基地の前を歩いていると、基地の中から「お~い、ハイ!」と聞き覚えのある声がします。見るとフェンスの向こうには仲の良かったあのお兄さんが軍服姿で立っていました。16歳になっていた彼はベトコンに殺された家族の仇を取るため、年齢を詐称して政府軍に志願していたのです。ハイ氏と彼は嬉しくてフェンス越しに再開を喜び合いましたが、彼には仕事があるのでいつまでも話してはいられませんでした。彼は「じゃあな、ハイ!」と手を振ってハイ氏に別れを告げましたが、その後戦場に赴いた彼が帰還する事は無く、このフェンス越しの会話が二人の今生の別れとなったそうです。


3. 台湾ロケット花火祭り仲間、新宿で再結集

 台湾の台南市で毎年開催されているロケット花火祭り『鹽水蜂炮』で、台湾日本合同チーム『鹽水周倉將軍護駕炮兵團』のリーダーを務める電冰箱ことサイモン・リンさんが来日したので、日本人メンバーが集合して新宿で飲み会しました。僕が鹽水蜂炮に参加したのは2016年2018年の2回だけですが、サイモンさんはちょいちょい日本に遊びに来ているので、来るたびに一緒に観光したり飲み会やってます。(日本での思い出:2016年(1)2016年(2)2017年)
 またこの日は日本に住んでいるサイモンさんの友人で、元台湾軍少佐のTさんも来て下さりました。日本に来てからいろいろ大変な目に会ってるそうで、一等国ぶっていても中身はスカスカな日本社会の暗部ばかり見せてしまい、日本人として恥ずかしい限りです。つもる話が多くて終電を逃してしまったため、この日はそのままTさんの自宅に泊まらせていただきました。(後半はずっと台湾・日本の風俗店の話ばかりだったのは内緒)


4. 公園でNERF合戦

YDAメンバーおよびその家族と公園でNERF(ナーフ)で遊びました。これ子供より大人が本気になる玩具ですわ。大人の経済力で凄い数の弾丸とマガジンを用意して、一日中遊んできました。


5. ブラック・クランズマンとピクサーのひみつ展


 地元の友達・僕の弟と一緒に日比谷で映画『ブラック・クランズマン』を見て、その後六本木ヒルズで開催されている『ピクサーのひみつ展』を見てきました。
 ブラック・クランズマンは予告編では痛快刑事ものとして宣伝され、事実本編もテンポの良い映画でしたが、ガチの人種差別主義がテーマなだけに、良い映画ではあるけど笑うに笑えない内容でした。レイシストが「あの業界は〇〇人に牛耳られてる」とか「主国民の私たちが虐げられている」とかいって被害者ぶるのは、日本の在特会やネトウヨどもとまったく同じ精神構造だね。またそれを批判する側(この映画の監督含む)も、情けないことにすぐ単純な反権力・反体制に走って、結局は右と左の口汚い罵り合いに終始するあたりも日本と一緒。だからイデオロギーに興味のない大半の人は、そういう面倒くさい事には関わりたくないと思ってしまう。レイシストが非難されるのは当然だが、批判できる立場にいる事に酔って批判の仕方をはき違えると、それはもう問題解決のための道筋からかけ離れた、単に自分が「正しい」側に居る事を確認するための自慰的活動になってしまう。そんな事をラストの逆さ吊り星条旗を見て思いました。
 ピクサー展の方は、最先端のCG技術を子供にも分かりやすく解説しており、展示そのものにもすごい金がかかってて、さすが世界一の会社だと思いました。また一緒に行った弟はアニメ制作会社でCGディレクターやってますから、最高の解説者に恵まれました


6. BĐQ将校のお孫さんの家でBBQ&軍装家族写真

 日本に住んでいるベトナム人の友人の家で開催されたバーベキューパーティーにお邪魔してきました。彼のお祖父さんはベトナム共和国陸軍レンジャー部隊(BĐQ)将校でしたが、1975年のスァンロクの戦いで捕虜となり、そのまま収容所で帰らぬ人となりました。彼はお祖父さんをいたく尊敬しており、また彼は初めての子供を授かったことから、祖父の写真のように軍服を着て家族写真を撮りたいのだけど協力してもらえないかと打診を受けました。なので僕たちも一肌脱いで彼のためにBĐQ(風)の軍服を用意して一緒に記念撮影を行いました。すごく喜んで頂けましたし、僕たちとしても共和国軍人のご遺族のお手伝いが出来てとしても光栄です。