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2023年11月11日

フランスでお会いしたベテラン達

※2023年11月12日更新


右:チャン・ドゥック・トゥン陸軍中

トゥン中佐は陸軍空挺師団所属の軍医で、長らく第3空挺大隊の主任軍医を務め、最終的に空挺師団衛生大隊長を務めておられました。
トゥン中佐は後述するカオ准尉のご親戚(トゥン中佐はユー家の養子。ユー・コック・ルォン大佐、ドン中将の義兄弟)であり、家も近いので、慰霊祭の日はカオ准尉の車で自宅から送り迎えしました。
私は民間人なので軍隊式の敬礼はしないつもりだったのですが、別れ際に、トゥン中佐が私たちに敬礼をされたので、この時ばかりは心を込めて答礼させて頂きました。
(写真は衛生大隊長時代。1975年)










左:チャン・ディン・ヴィ陸軍大佐/フランス陸軍大佐

ヴィ大佐は第1次インドシナ戦争期に、フランス植民地軍麾下のベトナム人コマンド部隊であるコマンドス・ノーヴィトナムの中でも最も勇名を馳せたコマンド24"黒虎"の副隊長(当時曹長)として有名です。
その後1952年にフランス軍からベトナム軍へと移籍し、ベトナム戦争中は陸軍大佐として第41歩兵連隊長、ビンディン省長官(=地方軍ビンディン小区司令)等を歴任しました。
ヴィ大佐の軍歴はこれに留まらず、1975年の敗戦によりベトナムを脱出した後、1976年に特例的にフランス外人部隊に少佐として採用され、第1外人連隊連隊長に就任します。
(通常、元将校であっても、外人部隊に入隊する際は兵卒として採用されます。かつてフランス軍下士官であったとは言え、外国人がいきなり将校、しかも連隊長になるのは異例中の異例の人事です)
その後ヴィ氏は12年間フランス軍で勤務し、フランス軍でも大佐となり、1988年に退役しました。
ヴィ大佐の軍歴の長さと軍功の多さは、数多のベトナム軍人、そしてフランス軍人の中でも抜きんでており、恐らく最も多数の勲章を受章したフランス軍人と言われています。
そんな生ける伝説的な人物と直接お会いできた事は、この旅最大の感動でした。
(写真はコマンド24副隊長時代。1951年ナムディン省)





右から:
チャン・ドゥック・トゥン陸軍中佐
ホアン・コー・ラン陸軍大佐
グエン・バン・トン陸軍一等兵


ホアン・コー・ラン陸軍大佐

ラン大佐は在仏ベトナム空挺協会の代表として、毎年ノジャンシュルマルヌ墓地での慰霊祭を主催しておられる人物です。
ラン大佐はハノイ出身で、ハノイのベトナム陸軍衛生学校に在学していましたが、1954年にジュネーヴ協定によって北ベトナムがベトミン政権に明け渡されたため、衛生学校が南ベトナム領内に移転し、それに伴ってラン大佐も南ベトナムに移住しました。そこで訓練の一環として空挺部隊(当時は空挺群)による落下傘降下訓練を受講し、1957年に衛生学校を卒業すると軍医として空挺群に志願します。
当時空挺群に軍医はたった3名しかおらず、その後も空挺部隊、ひいてはベトナム軍全体が慢性的な軍医不足に悩まされていたため、部隊がひとたび戦場に出ると、一般の空挺部隊将兵がシフトを終えて基地に帰還する一方、ラン大佐を始めとする軍医は何か月も前線に留まり続けたそうです。そうした困難な任務に臨み続け、ラン大佐は最終的に空挺師団軍医長を務めておられました。
ラン大佐は昼食を食べながら私に、「私は20年近く空挺部隊にいた。それはあまりに長かったし、あまりに人の死を見過ぎたよ」と語ってくださりました。
(写真は空挺師団軍医時代)






ユー・コック・ルォン空軍大佐

ルォン大佐は長らく、総参謀部直属の特殊工作機関NKT内の航空支援部司令として、米軍MACV-SOGが企画した全ての特殊作戦の航空部門を統括していた方です。
私が持参した、NKTベテランの証言をまとめた書籍"Cuộc Chiến Bí Mật(秘密戦争)"をお見せすると、熱心に読んでおられました。
またルォン大佐はベトナム空軍が創設されて間もない1953年にフランスに派遣され、フランス空軍による飛行訓練を受けた、ベトナム空軍の最初期のパイロットの一人でもあります。
戦時中は同じくパイロットであったグエン・カオ・キ空軍中将(副総統)と近しい関係だったそうですが、戦後のキ中将の言動には他のベテランそして多くの元ベトナム共和国国民と同様にうんざりしており、キ中将の話題を振ったら「奴は話し過ぎなんだよ・・・」と嫌悪感を露にしていました。
ちなみにルォン大佐の弟さんは、陸軍空挺師団師団長として有名なユー・コック・ドン陸軍中将で、先述のトゥン中佐も義兄弟です。
(写真はNKT航空支援部司令時代)











"ルイ"タン・ロック・カオ(ベトナム名カオ・タン・ロック)フランス海兵隊准尉

今回、私がフランスでご自宅にホームステイさせて頂いたのが、ルイおじさんことカオ准尉です。
カオ准尉はベトナム共和国サイゴン出身ですが、ベトナム戦争中はまだ子供だったため、ベトナム軍に従軍した事はありません。彼は1980年に国連の難民脱出プログラムによってフランスに移住し、その後フランス海兵隊将校となりました。
しかし母方のおじがベトナム陸軍空挺師団師団長として有名なユー・コック・ドン陸軍中将(ユー・コック・ルォン空軍大佐の弟)であった縁から、現在では在仏ベトナム空挺協会の若手リーダーを務めていらっしゃいます。
(カオ准尉の現役時代の所属は海兵歩兵連隊であり空挺部隊ではありませんでしたが、落下傘降下資格は持っているそうです)

ホームステイしていた5日間、カオ准尉からはフランスや旧フランス植民地におけるベトナム人コミュニティに関する興味深い話を毎日聞くことが出来ました。
例えばカオ准尉が現役時代に偶然出会った外人部隊のベトナム人曹長。彼はコテコテの北部ベトナム語を話しつつも同時にフランス語も完ぺきに話していたので、カオ准尉不思議に思い、彼に話しかけたそうです。すると彼は仏領ニューカレドニア生まれ、元ベトナム人民軍少佐、そしてフランス外人部隊曹長という異色すぎる経歴の持ち主だったそうです。大変数奇な人生を送られた方なので、この人についてもまたあらためて記事にできればと思います。
  


2022年04月07日

ティンロン7の墓碑

サイゴンでは、市内の墓地にあるティンロン7』の墓碑にもお参りしました。
ベトナム共和国軍空軍第5空軍師団第53航空団第821飛行隊所属のAC-119Kガンシップ、コールサイン『ティンロン7』の7名の乗員は、1975年4月のサイゴン防衛戦を戦い、ベトナム戦争における空軍最後の戦死者として記憶されています。


<ティンロン7最期の戦い>

1975年4月の時点で、タンソンニュット基地所属のティンロン7はベトナム空軍に残された2機のAC-119ガンシップのうちの1機であり、ティンロン7は首都サイゴンに最後の猛攻をかける共産軍に対抗し、4月28日から全力で出撃を繰り返していた。
ティンロン7は武装として20mmバルカン砲2門、7.62mmミニガン4門を備え、タンソンニュット基地の眼前に迫る敵地上部隊を上空から砲撃し続け、弾薬・燃料が尽きれば基地に戻り、補給次第再び出撃していた。

▲TINH-LONG RỰC-SÁNG(2013)より

▲AC-119Kスティンガーの武装

サイゴン陥落前日の4月29日午前5時、ティンロン7は最後の出撃へと飛び立った。その後約2時間に及ぶ戦闘の末、弾薬が尽きたティンロン7は補給のため基地に引き返した。
午前7時ごろ、タンソンニュット基地上空に差し掛かったところで、共産軍はティンロン7に対し複数のSA-7地対空ミサイルを同時に発射した。タンソンニュット基地の地上勤務員は、その光景を真下から目撃しており、ティンロン7の機体の周りで4つの爆発が目撃された。
そしてこのうち一基のミサイルがティンロン7の左エンジンに命中しており、その数秒後にエンジンが炎上。ティンロン7はそのまま飛行を続けたが、間もなく左主翼がエンジンごと脱落し、機体は制御を失った。

▲TINH-LONG RỰC-SÁNG(2013)より

▲地上から撮影された墜落するティンロン7

ティンロン7の8名の乗員は脱出を試み、機関砲手のグエン・バン・チン一等上士だけは機外に脱出してパラシュートを開く事が出来たが、機長のチャン・バン・タイン中尉以下7名の乗員は機体と運命を共にした。ティンロン7はそのままタンソンニュットの飛行場敷地内に墜落し、炎上。機内に生存者はなかった。
唯一パラシュート脱出したグエン・バン・チンは重傷を負ったものの、地上で陸軍空挺師団の兵士に救助され、生還を果たした。
それからおよそ24時間後、総統府に共産軍が突入し、ベトナム共和国政府は降伏を宣言。15年間続いたベトナム戦争が終結した。


ティンロン7の最期については、唯一の生存者であるグエン・バン・チンが共著したこちらの文書に詳しく記載されています。

時は流れて撃墜から35年後の2010年、タンソンニュットの敷地内で、ティンロン7の乗員7名の遺骨が発見されました。
その知らせを受けたベトナム国内外の元空軍関係者と乗員の遺族は資金を出し合い、サイゴン市内の墓地にティンロン7の墓標が建設されました。
共産党政府当局の摘発・妨害を避けるため、墓標の発注は匿名で行われたといいます。





今回僕は仲間と共にお墓の清掃と焼香、撮影を行ってきましたが、運悪く墓地の管理人が居合わせてしまい、管理人が警察に通報する恐れがあったので長居はできませんでした。
もちろん金を渡して黙っててとお願いしましたが、金を受け取った上でさらに通報する人間も多いので安心はできません。焼香を終えたら、そそくさと退散しました。

お墓という事で当局も大目に見ている部分があるのでしょうが、現在のベトナム国内に旧ベトナム空軍の紋章が残っているという事自体、とても貴重な事です。この墓標がいつまでも保全されることを願って止みません。
  


2022年01月09日

コルト45ガンベルト

今日、オーストラリアのベトナム共和国軍専門レプリカメーカーフォクフン(Phuoc Hung)に注文していた品物が届きました。




その中の一つが、コルト45(M1911ピストル)用ウェスタン・ガンベルト。
このガンベルトはこれまで複数のメーカーからレプリカが販売されていましたが、その度に(優先度は低めのアイテムなため)買い逃していたので、今回ようやく入手することが出来ました。




やっぱ弾がむき出しで挿してあるとカッチョえぇ~!

しかし元祖コルト45のシングルアクションアーミーなら、カートリッジを一発ずつシリンダーに装填するので、このようにカートリッジを直接ベルトに挿して携帯する事に実用性があったでしょうが、M1911の場合はまずカートリッジをマガジンに入れる必要があるので、ベルトに挿している弾は完全に飾りですね。

なお上で「優先度は低め」と書いたように、このガンベルトは軍の正式な装備品ではなく、民間で販売されている物を将兵が個人的に購入したオシャレアイテムでした。

このような皮革製品屋や露店で売られていたようです。戦時中なので軍・警察向けのホルスターやナイフシースがたくさん売られています。

こうした民間製ホルスター/ガンベルトの中でも、特にウェスタンスタイルのガンベルトはM1911用および各種リボルバー用ともに、空軍での使用例が多く見られるタイプになります。
これはおそらく、陸軍や海兵隊では拳銃を携帯するのは限られた高級将校のみだったのに対し、空軍では航空機搭乗員全体が不時着時の自衛用として拳銃を携帯する事が多かった事、またカートリッジによる光の反射や泥汚れに気を使う必要が無かったためと思われます。

▲空軍H-34ヘリコプターのクルー。リボルバー用ウェスタン・ガンベルトを着用している。


▲式典に臨む空軍の高級将校たち。4人中3人がウェスタン・ガンベルトを着用している。
  


2020年06月28日

ベトナム空軍K-2Bフライトスーツ

ヒューストン製K-2Bフライトスーツ風カバーオール2着にベトナム空軍のレプリカパッチを縫い付け完了。まだ完成とはいきませんが、とりあえず形にはなりました。

第23戦術航空団第518飛行隊 A-1攻撃機パイロット


第23戦術航空団第522飛行隊 F-5戦闘機パイロット


二つとも同じ第23戦術航空団(ビエンホア基地)所属部隊です。
この航空団を選んだ理由は、彼らがベトナム空軍の中でも精鋭揃いの部隊であったこともありますが、どちらかと言うと単に、航空機の胴体に描かれるチェッカー模様の航空団マーキングがカッコ良くて好きだからだったりします。



フライトスーツの色について

1960年代以降、ベトナム空軍では主に米空軍が開発したK-2Bタイプのフライトスーツが使用されましたが、オリジナルの米国製K-2Bの生地色がオレンジとセージグリーンの2色なのに対し、ベトナム空軍では以下の種類の使用が確認できます。

ベトナム空軍で使用された各色K-2B。左からセージグリーン(グレー系・オリーブ系あり)、ERDL(グリーンリーフ)迷彩、ブラック、オレンジ
写真:
Khoá 7/68 KQ

つまり迷彩とブラックは明らかに米国製ではなく、少なくともこの2種はベトナム国産と考えられます。
このうち迷彩の方は個人購入の非正規品(テーラー製)と思われますが、一方でブラックはベトナム空軍の公式なフライトスーツ色であった事が当時の被服規定から確認できます。

『Huấn Lệnh Điều Hành Căn Bản (ベトナム共和国軍総参謀部編 基本執務指令1969年版)』より


また同資料によると、ユーティリティキャップ(Mũ Lưới trai)も、空軍では航空機搭乗員に限らず野球帽型のブラックと規定されていました



この黒いフライトスーツ・キャップの発祥については、派手好きで知られる当時の空軍司令官(後の副総統)グエン・カオ・キ少将が導入したものという説を聞いた事がありますが、まだ確かな情報はつかめていません。

黒いK-2Bを着て視察を行うグエン・カオ・キ少将と妻のドン・ティェット・マイ・レ夫人
  


2020年05月13日

仮置き

注文していたレプリカ徽章類が到着しました。
しかしまだそろっていないインシグニアがあったり、被服自体を改造しなけばならない物もあるため完成はまだ先になりますが、とりあえず今持っているインシグニアを仮置きして、やる気を盛り上げていきます。

ベトナム空軍第23戦術航空団第518駆逐飛行隊 A-1攻撃機パイロット
フライトスーツは現行のヒューストン製K-2B風カバーオールを使用。この服は値段が安いのは良いのですが、ジッパーがプラスチック製な事と、特に下半身の作りに難があるので、これから行う服の改修が大変そうです。


ラオス王国陸軍第2軍管区第21機動群(モン族空挺コマンド)兵卒 勤務服
最低限の徽章は揃ったので、このまま着てしまっても大丈夫なのですが、あとは階級章であったり名札であったり、小物を自作していく事になると思います。


フランス陸軍外人部隊CIPLE(外人部隊空挺インドシナ中隊)兵卒 ベレー帽
第1次インドシナ戦争中、フランス外人部隊の二つの空挺大隊内に編成されたCIP(ベトナム人中隊)専用のベレー帽のレプリカです。
安かったので買いましたが、サイズ表記58cmなのに、実際に被ってみる60cmくらいあってブカブカ。毎度のことだけど、作る方もいい加減だけど、売る方もいい加減だよなぁ。それにサイズ調整のリボンも付いていないので、これから自分で改造してカッコ良くします。



おまけ

去年、大型台風が来たとき、職場に泊まり込みで災害に備える事となったので、防災服と言い張ってオレンジ色のK-2Bを着て台風襲来に備えました。実際やった事と言えば、強風と停電、さらには地震に怯えながらテレビ見てただけですけどね。幸い自分の周りでは、本当に災害対応に出向くような事態は発生せず、僕はただの変人で終わったので良かったです。
  


2018年12月18日

空軍付き軍警隊

※2023年12月15日更新

 ベトナム共和国軍の軍警隊(Quân Cảnh, 通訳「憲兵」)は米陸軍のMilitary Policeや自衛隊の警務隊とは異なり、総参謀部直属の軍警隊本部が陸海空軍海兵隊の全軍を管轄としており、その隷下の各軍警大隊や中隊が各軍管区や部隊に配置されていました。
 その中で、空軍に配置されていた軍警隊としては第203軍警中隊(ĐĐ203QC)が知られており、退役軍人協会の公式サイトにもそのように記載されています。
Quân Chủng Không Quân QLVNCH: ĐĐ203QC
(ベトナム共和国軍空軍: 第203軍警中隊)

 しかし当時の写真を調べていくと、空軍付き軍警隊が使っているヘルメットの側面の番号には、ĐĐ203QCを示す203だけでなく、233や105など複数のパターンが見られる事が分かってきました。特に105については、これまで知られていた情報では、ĐĐ105QCは陸軍第5歩兵師団に配置されているはずであり、なぜ空軍に105という番号が見られるのかも謎でした。


▲203の例 空軍司令部(タンソンニュット基地)にて


▲233と思しき例 タンソンニュット基地にて

 
▲105の例 タンソンニュット基地にて

ただし、先の退役軍人協会サイトには、部隊名は203としか記載されていなかったものの、以下のような但し書きも添えられていました。
Trong thời chiến, KLVNCH có sáu (6) Sư đoàn Không quân, mỗi SĐKQ-KLVNCH có 1 Đại Đội QC trực thuộc.
(戦時中、ベトナム空軍は6個の空軍師団を有しており、各空軍師団に一つずつ軍警中隊が配置された。)

これについて他の研究者の方々にも意見を伺ったのですが、なにぶん資料不足で明確な答えは出せずにいました。
ところが先日、日本に住んでいる僕の知り合いの元ベトナム共和国軍人のおじさん、ディェップ一等中士(Trung Sĩ Nhất Diệp)が、まさにその空軍付き軍警だった事を知りました。ディェップさんが軍警だったのは以前から知っていましたが、まさか空軍付きというレアな所属だったとは思いもよりませんでした。
せっかくなので詳しくお話を聞かせて頂いたところ、いままでほとんど謎だった空軍軍警の全体像が明らかになってきました。その結果をまとめたのが下の票になります。


今まで知られていなかった重要なポイントとしては、空軍付き軍警隊には三つの時期があったという点です。

第1期:1960年代初頭から1965~1967年頃*
ĐĐ203QCが発足し、空軍唯一の軍警中隊として空軍全体を担当した。

第2期:1965~1967年頃*から1970/1971年
各空軍基地に新たに組織された軍警中隊が配置され、ĐĐ203QCは解散した。新しい軍警中隊はそれぞれの基地に本部を置く戦術航空団(Không Đoàn Chiến Thuật)の番号を由来とする中隊番号が与えられた。
ダナン - KĐ 41 CT - ĐĐ 241 QC
ニャチャンおよびプレイク** - KĐ 62 CT - ĐĐ 262 QC
ビエンホア - KĐ 23 CT - ĐĐ 223 QC
タンソンニュット - KĐ 33 CT - ĐĐ 233 QC
カントー - KĐ 74 CT - ĐĐ 274 QC

*ディェップ氏は、この最初の改編が行われた時期については自分が入隊する前だったため詳しくは知らないが、遅くとも1968年のマウタン(テト攻勢)が始まった時点では改編は完了していたため、恐らく1965~1967年頃だったろうと述べている。

第3期:1970/1971年から1975年
ベトナム空軍が1970年から1971年にかけて、戦術航空団を統括する空軍師団(Sư Đoàn Không Quân)を発足させたことに伴い、各基地の軍警中隊は、それぞれの基地に本部を置く空軍師団の番号を由来とする中隊番号に改称される。
ダナン - SĐ 1 KQ - ĐĐ 101 QC
ニャチャン - SĐ 2 KQ - ĐĐ 102 QC
ビエンホア - SĐ 3 KQ - ĐĐ 103 QC
カントー - SĐ 4 KQ - ĐĐ 104 QC
タンソンニュット - SĐ 5 KQ - ĐĐ 105 QC
ただしSĐ 6 KQ本部が置かれたプレイク基地だけは、ĐĐ 262 QC**からの改編が遅れており、1975年中にĐĐ 106 QCへの改編が予定されていたが、その前に敗戦を迎えた為、最後までĐĐ 262 QCのままであった。
また1970年代初頭には、アメリカ軍の撤退に伴い、複数の基地がアメリカ軍からベトナム側に返還された。その中で、チャノック基地についてはカントー基地からすぐ近くに位置していたため、カントーのĐĐ 104 QCがチャノックも併せて担当した。一方、ファンラン基地は他の基地から離れていたため、空軍師団には無い番号であるが、ファンラン担当として新たにĐĐ 107 QCが発足した。

**他の研究者との討論の中で、プレイク基地には第72戦術航空団本部が置かれており、プレイクの軍警は262ではなく272だったのではないかと指摘いただきましたが、今回証言を頂いたディェップ氏ははっきり「第262軍警中隊がニャチャンとプレイクの両方を担当していた」と述べており、現状ではそれを覆すほどのエビデンスは確認できていません。

また70年代に米軍から引き渡されたビントゥイ、ソクチャン、フーカット、トゥイホアおよびカムラン基地の軍警隊については特に情報はありませんでした。

なお証言者であるディェップ一等中士の軍歴は以下になります。
1969年、兵卒としてベトナム空軍に入隊。ニャチャン基地の空軍訓練センターで基礎教育を修了。
軍警隊に進み、ンタウの軍警学校を修了。
1970年、タンソンニュット基地の第233軍警中隊に配属。
第233軍警中隊が第105軍警中隊に改称。同部隊で勤務。
1972年、ファンラン基地の第107軍警中隊に転属。1975年まで同部隊で勤務。

▲第105軍警中隊時代のディェップ氏 (1970-1972年頃)
Mr. Diep when he belonged to ĐĐ 105 QC (1970-1972)


The other day, Sergeant First Class Diep Ngo told me again and he gave me a lot of infors this time. As far as his memory, the following table lists the QC units attached to VNAF.
QC units in VNAF had three periods.

1st period: From 1960s early to circa 1965-1967*.
ĐĐ 203 QC took charge of all VNAF units as the only of the QC Company attached to VNAF. 

2nd period:From circa 1965-1967* to circa 1970/1971.
ĐĐ 203 QC was dissolved, and new QC Companies were established at each Air bases. Those new QC Companies were named from the numbers of each Tactical Wings (Không Đoàn Chiến Thuật) of Air Force placing at those Air bases. 
Đà Nẵng - KĐ 41 CT - ĐĐ 241 QC
Nha Trang and Pleiku** - KĐ 62 CT - ĐĐ 262 QC
Biên Hòa - KĐ 23 CT - ĐĐ 223 QC
Tân Sơn Nhứt - KĐ 33 CT - ĐĐ 233 QC
Cần Thơ - KĐ 74 CT - ĐĐ 274 QC
*He don't know well when this first changing of unit designations done, but he can say it was already done by the Tet Offensive at the latest.
**KĐ 72 CT was in Pleiku, so 272 sounds more natural than 262 for Pleiku. But he surely told me that 262 used to take charge of both air bases, Nha Trang and Pleiku. If 262 in Pleiku was just a mistake of 272, he wouldn't say me "both". However, I don't have an evidence except his testimony. I wish we find some more evidence.

3rd period:From circa 1970/1971 to 1975.
VNAF established Air Divisions (Sư Đoàn Không Quân) in 1970 to 1971, and each QC Companies were renamed from the numbers of each Air Divisions.
Đà Nẵng - SĐ 1 KQ - ĐĐ 101 QC
Nha Trang - SĐ 2 KQ - ĐĐ 102 QC
Biên Hòa - SĐ 3 KQ - ĐĐ 103 QC
Cần Thơ - SĐ 4 KQ - ĐĐ 104 QC
Tân Sơn Nhứt - SĐ 5 KQ - ĐĐ 105 QC
*ĐĐ 262 QC (SĐ 6 KQ at Pleiku) was planned to change its unit designation to ĐĐ 106 QC in 1975, but the war was over before done it. 
Additionally, some air bases were returned from US to Vietnam in early 1970s.
Tra Noc AB was located close to Cần Thơ AB, so ĐĐ 104 QC took charge of Tra Noc too.
On other hand, there was no QC unit which could take charge of Phan Rang AB, so ĐĐ 107 QC was established as a new company.
His memory is limited, he didn't tell me about Bình Thủy, Soc Trang, Phu Cat, Tuy Hoa and Cam Ranh so far.

(Source) Mr. Diep Ngo, Sergeant First Class of QC, served in 1969-1975

  


2018年06月08日

ベトナム空軍神風部隊~トートン~浮世絵

 ベトナム空軍では、他の西側諸国と同様に、航空機の機首にノーズアートが描かれている例がいくつかありましたが、中でも特によく知られているのが、グエン・カオ・キ中将(後の副総統)の直接指揮下にあった第83特殊作戦航空団『※神風部隊(Biệt Đoàn Thần Phong)』のものだと思います。この神風部隊では少なくとも以下の二種類の特徴的なノーズアートがA-1スカイレイダー攻撃機の機首右側面に描かれていました。



※日本の神風特攻隊とは関係ありません。
※なお、この神風部隊は特殊作戦を専門とする『空の特殊部隊』であったからか、本来国籍マークが入るはずの機体胴体側面には部隊のシンボルマークがペインいる点が他の部隊の機体ペイントとは大きく異なります。

 この二つの漢字のような梵字のようなよく分からない図形の正体については、僕自身長年把握できておらず、たぶんチュノム(ベトナム語表記にローマ字=クォックグーが採用される以前に使われていた漢字を基にした表語文字)の一種なのかな、くらいに考えていました。ところがある日、さるベトナム空軍研究家にこのノーズアートについて話を振ったところ、即座に正解を教えて頂く事が出来ました。
 なんでもこの図形はチュノムや特定の言語の文字ではなく、ベトナムの伝統的なカードゲーム『トートン(Tổ tôm)』に描かれた、漢字を基にした記号なのだそうです。
 トートンは中国発祥のカードゲーム(紙牌)である『ハンフー(看虎)』から派生したもので、麻雀やトランプのようにいくつかのスート(柄)と数字の組み合わせでデッキが構成されていました。
 スートと数字は文字(漢字)と漢数字を組み合わせた記号で表されており、スートの文字が漢字の部首の偏のように左側に、漢数字が旁(つくり)のように右側に配置され、その記号自体が一つの漢字のようにデザインされていました。(チュノムも同様に二つの漢字を組み合わせて一つの文字としていましたが、トートンに用いられたのはチュノムではなく、単なる記号です。)
 左側のスートは、現在のトートンでは専ら文(Văn)、索(Sách)、萬(Vạn)の3つが用いられていますが、過去には升(Xừng)や[※1]湯(Thang)といった文字も使われていたようです。このうち索と萬は、もっと後の時代に考案された麻雀(索子と萬子)に受け継がれていますね。 [※2]右側の数字は1~10まであり、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と漢数字で表記されています。(十は謎の異字体が使われていますが) 

[2018年6月13日訂正]
※1 Thang (湯)は現在でも使われていました。
※2 右側に入る数字は正しくは1~9であり、一、二、三、四、五、六、七、八、九と漢数字で表記されています。下のカード一覧の一番右側にある3枚はそれぞれのスートの十ではなく、それぞれÔng Cụ (萬の行)、Chi Chi (文の行)、Thang Thang (策の行)という役を作るのに使う特殊なカードであり、これに各スートの一(萬の一、策の一、文の一)を含めたカード6種のカードが『Yêu』と呼ばれ、麻雀で言うドラのような役割を持っているそうです。

▲現在出回っている一般的なトートンのカード

そしてこの中で、神風部隊にノーズアートとして描かれたのは、升の九(Cửu Xừng)』と索の九(Cửu Sách)になります。


※なおRobert C Mikesh著『Flying Dragons: The South Vietnamese Air Force』には、神風部隊では上記の二つに加えて『萬の九』、『文の九』もマーキングされていたと記述されているそうですが、当時の写真を探してもその実例を確認する事はできませんでした。

 実はこれらを調べる過程で、頭を悩ませたのが、Cửu Xừng』についてでした。先述したように、現在のトートンで用いられているスートは文・索・萬の三つであり、インターネットで調べても、このカードに関する情報はなかなか見つかりませんでした。しかもかなり文字を崩したデザインなので、元の漢字が何だったかも全く分かりませんでした。
 さらに僕を混乱させたのが、この漢字のクォックグー表記は『Sừng』だというベトナム人からの情報でした。結果から言うと、これは間違いであり、ほぼ同じ発音をする『Xừng』の書き間違いでした。僕はさっそくSừngの漢字・チュノム表記を調べましたが、その表記は漢字では『角』、チュノムでは『䈊』、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162049参照)』、、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162050参照)』であり、カードに描かれた文字とは似ても似つきません。
 その後、別の人から『Xừng』と書かれている資料をもらい、その表記を調べると、漢字にはXừngに対応する文字はありませんでしたが、チュノムにはありました。それが『表示不可(hyouhttps://jigen.net/kanji/133567参照)』です。これも一見、カードに描かれた文字とはだいぶ違うように見えますが、上で述べたようにチュノムは、中国の漢字では表す事の出来ないベトナム語の発音を表記するために、別々の漢字を組み合わせて一つの文字としているので、このチュノムの構成要素は、『称』と『升』という二つの漢字になります。(出典: Chu Nom.org https://www.chunom.org/pages/209BF/#209BF)
 そして、この中の『升』が、かなり崩されてはいるものの、問題のカードの文字と一致しているように見えます。これでようやく点と点が繋がりました。なお、漢越辞書によると、『升』という漢字を単にクォックグー表記した場合は『Xừng』ではなく『Thăng』になるようですが、日本人なら知っているように、漢字というものはその時代や地域によって様々な読み方をされる物であり、この場合も升という漢字がXừngと読まれていたのではないかと推測しています。この推測に則り、この記事ではCửu Xừng』を『升の九』と書いています。(もし違っていたらごめんなさい)

 ところで、お気付きかも知れませんが、これらのトートンのカードに描かれている人間のイラストは、19世紀の日本人の姿だったりします。その由来はWikipediaによると、フランス植民地時代にマルセイユの玩具メーカー カモワン社(Camoin)が、自社がベトナム向けに生産していたトートンに、日本から輸入された木版画・浮世絵に描かれた日本の庶民の姿をプリントしたのが始まりだそうです。そしてそのカモワン社製トートンがベトナムで広く流通したことで、それらのイラストはトートンの絵柄として定着し、100年以上経った現在でも変わらずに使われ続けているそうです。
 では、なぜカモワン社はベトナム人向けのカードゲームに日本の木版画のイラストを採用したのかと言いますと、具体的には説明されていません。しかしおそらくは、当時フランスでは日本から輸入された木版画・浮世絵などの『エキゾチック』な芸術作品が人気を博し、ジャポニスム(Japonisme)』と呼ばれる流行が発生したため、デザイン業界でも浮世絵に描かれた『オリエント』なモチーフを取り入れられた事がその一因であろうと推察できます。また、当時ほとんどの西洋人はベトナムも日本も中国も一括りにアジア、オリエントと見做しており、それぞれの文化の違いなど気にしなかったため、両国の文化は混同され、ベトナム向けのカードゲームに浮世絵のイラストが採用されたのだろうと僕は思っています。

 余談ですが、『オリエンタリズム(Orientalisme)』という言葉に代表される、このような当時のフランス人(およびほとんどの西洋人)が持っていた『想像上の』アジアへの憧憬、そして偏見は、つい半世紀前まで続いていた欧米諸国によるアジアへの植民地支配、帝国主義と深く結びついた概念でもありました。
 ただし、異国の文化についての誤解は、なにも西洋人に限った話ではなく、日本人もヨーロッパ諸国それぞれの国の文化の違いを正しく理解している者は少ないでしょうし、もっと言えば日本の周りの国ですら、いまだにあまりよく分かっていません。過去には、自国中心の偏見に満ちたアジア観を基に周辺国への領土拡大と統治を行い、大変な反発と遺恨を生じさせた事実は日本人なら誰もが知っておくべき事柄です。また現在でも、例えば日本のテレビ番組ではしばしば海外で日本の文化がいかに誤解されているかを取り上げていますが、では日本にある外国料理は?日本人が話す外来語やカタカナ英語は本来の意味で使われているのか?と思い返してみれば、他人の事は言えないですよね。
 さらに言えば、マスメディアやインターネットでは、タイと台湾は当然のように(反日の対義語として)『親日国』として語られますが、では実際、所謂『反日国』や、それ以外の国々とどれほど違うかと言いますと、実はそんなに変わらないと僕は思っています。第二次大戦において日本と戦ったアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア・フランスはもちろん、日本軍の恫喝によって軍政下に置かれたタイや、長く中国国民党政権が続いた台湾でも、大戦中の日本軍を好意的に見ている人はほとんど居ないです。一方、戦後日本が育んだ食事や音楽などの文化、工業・医療製品については、世界の大半の国々、そして日本で反日』と呼ばれる中国や韓国でも大人気であり、特に中国の小金持ちはこぞって日本に観光に訪れ、帰国後日本に行ったと自慢する事が一種のステータスとなっている感すらあります。
 数年前、あるニュース番組で、中国で発行されている『知日』という情報誌が紹介されていました。その雑誌を編集している僕と同じ世代、1980年代生まれの中国人編集者たちはインタビューの中で、「私たちはこの雑誌で、読者に日本を好きになってもらおうとは思ってはいません。ただ、彼らを好くにせよ嫌うにせよ、まずは相手の本当の姿を知る事が、我々自身にとっても大切な事なのです」という趣旨の言葉を語っていました。その通りだと思います。日本に訪れる中国人観光客が皆こういった意識を持っているとは思っていませんが、少なくとも中国国内にはこういう理知的な人々が居り、彼らの雑誌が人気を博してる事実は、両国の未来にとって歓迎すべきことだと思います。
 なお、知日は日本でも買えるようですが、ちょっと良い値段しますし、どうせ中国語読めないのでまだ呼んだ事は無いです。もし日本語訳版を作ってくれたら、是非読んでみたいですね。

こちらで販売中

今日は我ながら、いろんな方向に話が飛んでいくブログでした。

  


2018年03月09日

3年ぶりのバンコク撮影会

久しぶりに台湾とタイを旅してきました。
タイでは友人たちのご厚意で、再びバンコクで撮影会を行う事が出来ました!
この時が来るのを3年間待ってたぜ!

前回の撮影会はこちら『タイでコスプレ 撮影会編』


ベトナム空軍パイロット
(飛行服は友人からの借り物)


一緒に撮影会をやったタイ人の内2名がたまたまドンムアン空港で働いてる本職の航空整備士だったので、
飛行前にパイロットが行う簡易点検を一通り教えてもらいました。


間の悪い事にH-34やUH-1などヘリコプターが展示されている建物は改装工事中で入れず、
残念ながら今回はヘリはおあずけ。




ベトナム陸軍装甲騎兵


念願のM41ウォーカーブルドッグとM113APCで撮影成功!夢がまた一つ叶ったよ。
すでにM24軽戦車では撮ってるから、残すところはM48パットンだけだな。


今回一緒に遊んでくれたタイのリエナクターグループ
Pad1968 (ベトナム派遣タイ軍)
バンコク第十八歩兵師団 (日本帝国陸海軍)
の皆さま


撮影の後はみんなでチャトチャックマーケットに移動してミリタリー系の店を周り、
その後また移動して友人お勧めのタイ東北料理レストランで夕飯を食べました。


ご飯を食べながら日本とタイのリエナクトメントイベントについて話し合いましたが、
彼らもなかなかに意識高くて、うちらも負けてられないなと思いました。

みんな、ありがとー!!!
またそのうち会おうね!
  


2015年11月27日

ベトナム語を読む


僕は高校の英語の授業以来まともに外国語を勉強したことがないのですが、この趣味やってると知りたいことが日本語ではなかなか見つからないので、仕方なく独学で外国語を翻訳してきました。
その中で、英語・ドイツ語はGoogle翻訳と辞書を使えば割と簡単に意味が理解できますが、ベトナム語はなかなか苦戦しました。
1975年以降世界各地に散らばったベトナム共和国軍アソシエーション系のサイトには、日本語はおろか英語の書籍にも書かれていない当事者による貴重な証言が無数にあります。
なのに、知りたい情報がそこに山ほどあると分かっていながら言葉の壁に阻まれて読むことが出来ないなんて僕には我慢なりません。
なので、いろいろ試行錯誤しながら自分なりの翻訳方法を編み出したので、僕がいつも使っている方法をご紹介します。
(あくまで文章の内容理解が目的なので、会話とかには役立ちません)

例文として、ホア少尉のブログの一つ、『NKTの歴史(Lịch Sử Nha Kỹ Thuật)』より、以下の文章を翻訳してみます。
"Sở Liên Lạc (Biệt Kích Lôi Hổ) gồm có một Bộ Chỉ Huy đồn trú tại Saigon và 3 Chiến đoàn đồn trú tại Saigon và 3 Chiến đoàn đồn trú tại các Khu vực khác nhau, thích hợp với khu vực mục tiêu hoạt động:
• Chiến đoàn I đồn trú tại Đà Nẵng
• Chiến đoàn II đồn trú tại Kontum
• Chiến đoàn II đồn trú tại Ban mê Thuột.
Song song với các chiến đoàn này, MACV-SOG cũng có những cơ sở hành quân riêng rẽ đồn trú chung cùng doanh trại với các chiến đoàn. Kế hoạch hành quân được phối hợp chặt chẽ giữa các Bộ chỉ huy Hoa Kỳ và Việt Nam liên hệ. Mỗi Chiến đoàn có nhiều Liên toán và mỗi Liên toán gồm có nhiều Toán. Các Toán này được tổ chức huấn luyện và hành quân theo Kỹ thuật của Lực Lượng Đặc biệt. Sự khác biệt là các Toán của Sở Liên lạc có nhiệm vụ hoạt động ngoài biên giới lãnh thổ và ngay trong lòng địch."
まず、ただGoogle翻訳につっ込んだだけだと、こんな感じ。


ベトナム語→日本語への翻訳精度が低いため、ただコピー貼り付けしただけでは全然意味が分かりません。
これでもまだマシな方です。

では作業スタート。

①文の中から句読点や単語、接続詞(特にvàなど)を見つけ、改行していく 


Google翻訳の場合リアルタイムで右に翻訳を表示してくれるので、なんとなく意味が分かるような文になるまで、細かく分割していきます。
この際、あまり細かく分けすぎると逆に意味不明になるので、単語を切らないよう、文節を意識しながら改行していきます。
ベトナム語は名詞の頭文字が大文字になるので、慣れれば文節はわりと分かり易いです。
(この作業は英語の時にも使える方法です。)


②不自然な単語を正しい訳語に直す

単語に関しては、特に軍事用語はGoogle翻訳では正しく翻訳されない事が多いです。
なので、自作したベトナム軍事用語対応表と、以前ベトナム人にプレゼントしてもらったベトナム共和国軍公式軍事用語辞典(越・仏・英語。1962年総参謀部作成)で調べます。
(※自作の方は過去記事で公開していますので、よろしければどうぞ。http://ichiban.militaryblog.jp/e498889.html)
実はよく使われる軍事用語はある程度頭に入っているので、上の改行作業は、すでに文脈を推理しながら行っています。

例) Sở Liên Lạc →連絡局 Bộ Chỉ Huy→司令部 hành quân→作戦 Toán→チーム


③英語訳を見る


実は、Google翻訳はベトナム語をダイレクトに日本語翻訳するのではなく、一度英語にしてからさらに日本語化という手順が行われているようです。(時々カタカナ英語が出てくるのはそのせい)
なので日本語訳の精度は低いですが、逆に言うとベトナム語→英語はそんなに悪い精度ではないので、英語を読む(あるいは邦訳する)と、意味がすんなり分かる事があります。


④分からない言葉は漢字にする

辞書やネット検索でも分からない単語は、漢字にすると日本人にとって理解し易いです。
ベトナム語は今でこそコックグー(ラテン文字)表記ですが、元々は我々日本人と同じ漢字文化の国なので、ほとんどの名詞が漢字で表記できます。
それを助けてくれる素晴らしいサイトがこちら→漢越辭典摘引 Hán Việt Từ Điển Trích Dẫnとこちら漢字ー漢越オンライン辞書2001

例) Lôi Hổ→雷虎 liên hệ→連携


⑤文を組み立てて日本語にする

以上の手順を経て把握した内容をまとめて日本語の文章にします。
今回の例文は、(多少意訳も含めて)以下のように翻訳できました。
"連絡局(コマンド雷虎)はサイゴンの司令部、サイゴン駐屯の3個戦闘団および各地に展開する3個戦闘団で構成されており、その作戦展開地域は以下となる。
・第1戦闘団 ダナン駐屯(CCN)
・第2戦闘団 コントゥム駐屯(CCC)
・第3戦闘団 バンメトート駐屯(CCS)
これら雷虎戦闘団と共に、MACV-SOGの運用施設も各駐屯地に併設されており、作戦計画はアメリカ軍・ベトナム軍合同指令部で綿密に調整された。各戦闘団は複数の作戦グループ(FOB)を有しており、さらにその中には多数の作戦チーム(RT)が所属していた。各隊はLLDB(特殊部隊)技術局による訓練・作戦計画の下に組織されたが、連絡局が国外、LLDBが国内での作戦を担う点で異なっていた。"
大抵の文章はこのやり方で翻訳できますが、それでもベトナム語に多く使われる地名の略語とかは候補が多すぎて調べようがないので、直接ベトナム人の友人に尋ねちゃってます。

[最近教えてもらった事]
過去記事『ヘルメットと腕章』で載せた、よく分からないヘルメットの文字がそれぞれ何の略なのか意見を頂きました。

こちらの"BT"は、キャプションにファンティエット市と書いてある事から、同市を省都としているビントゥアン(Bình Thuận)省を意味しているはず、との事です。
なるほど。多分それで当たってますね。緑色のラインの意味はまだいまいち分からないですが・・・。
(警察のTC(警ら隊)は軍の憲兵(QC)と赤白が逆になる=中心に赤、上下に白となるので、このBTは警察ではないと思いますが)
※2015年11月29日訂正 TCにもQCと同じ配色が確認できたので、「警察ではない」という断定は誤りでした。

"PV"は割とすぐ分かりました。『防備(Phòng Vệ)』の略で、素直に空軍基地の警備隊でした。

逆に、過去記事で単なる警備要員と紹介した保安隊(AN=An Ninh)は、実は敵スパイに対する防諜・情報保全などを担う部署っぽいです。
憲兵隊はあくまで軍の規律維持を目的とした警察組織(Quân Cảnh=軍警)ですが、保安隊は政治戦総局の指揮下で国内の共産シンパの摘発を独自に行う、軍の諜報機関のようです。
ただし、まだ詳しい情報は得られていないので、引き続き調べたいと思います。

  


2015年04月08日

某所にて

これらの車輌は私のお庭に置いてある私物であり、国有財産をベトナム軍コスプレの為の大道具に使ったなどという事実は一切ありません。ありません。

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