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2018年07月12日

鉄砲撃ちの動画

もう1年半以上経っちゃいましたが、2016年12月にアメリカで銃をいろいろ撃たせてもらった時の動画をまだいくつか載せていなかった事に気付いたので、突然ですがまとめて公開。


「え、これで44マグナム?」ってくらい、ド素人の僕でも全然平気で撃てちゃいました。
デザートイーグルって、本来リボルバーで撃ったらすごいストレス感じるであろう強力な弾を、こうやって気持ちよく撃って遊ぶためのピストルなんですね。




撃った弾数と、装填不良で地面に捨てた新品の弾の数が同じくらい。装填不良って事は、弾頭の形が合わなかったのかな?




バレットのマガジンは地味に入れづらい事が判明。弾を一杯まで入れると奥に入らないし、マガジンのロックもけっこう奥にあるので、結局銃を立てないとちゃんと入りませんでした。
これが戦場だったら大変ですね。何か上手く入れるコツがあるのだろうか・・・



友達がカッコ良く編集してくれた動画。撃つたびにお尻の肉がプルプルします。



うはは、Youtubeっぽい(笑)
この人たちにとって5.56mm弾はBB弾と同じ感覚らしい。
ちなみにこのLMT製AR-15は、ちゃんとした手続きを経てフルートに改造されたものです。


以下、過去に公開しているけど、再度掲載。


ガンマニアのTさんの自宅の庭で的撃ち。射手は主にFPSで腕を磨いたフォン君。



銃本体の値段に加えて手続きの手数料とかで所有までに数十万円はかかるであろう軍用(フルオート仕様)のM4A1が、ボルトとチャンバーが同時に変形する深刻なジャムによりお陀仏になる貴重な瞬間。
なにも僕が撃ってる時に起こらなくても…。僕のせいではないとは言え、借り物だから気まずくなったよ。



これも友達が編集してくれたやつ。音はケータイのカメラではまともに録音できないので、あとからSE加えてます。


実はこの射撃会に招待してくれたTさんとはその後喧嘩分かれしてしまったので、今後アメリカに行っても、こういう機会はもう無いと思います。
アメリカの白人ガンマニアのほとんどはトランプ大好き黒人嫌いの右派なのは承知してたけど、それとは関係無い話でもいちいち人種の話を持ち出してくるんだよね・・・。(でも自分の彼女はアジア系だから自分はレイシストではないと思っている)
直接顔を合わせて話している分には良い人なんだけど、ネット経由だと、やはりお互いの嫌な部分が見えて来てしまいました。
僕が日本国内でSNSをやらないのは、こういう経験を嫌というほどしてきたからだったりします。
  


2018年06月08日

ベトナム空軍神風部隊~トートン~浮世絵

 ベトナム空軍では、他の西側諸国と同様に、航空機の機首にノーズアートが描かれている例がいくつかありましたが、中でも特によく知られているのが、グエン・カオ・キ中将(後の副総統)の直接指揮下にあった第83特殊作戦航空団『※神風部隊(Biệt Đoàn Thần Phong)』のものだと思います。この神風部隊では少なくとも以下の二種類の特徴的なノーズアートがA-1スカイレイダー攻撃機の機首右側面に描かれていました。



※日本の神風特攻隊とは関係ありません。
※なお、この神風部隊は特殊作戦を専門とする『空の特殊部隊』であったからか、本来国籍マークが入るはずの機体胴体側面には部隊のシンボルマークがペインいる点が他の部隊の機体ペイントとは大きく異なります。

 この二つの漢字のような梵字のようなよく分からない図形の正体については、僕自身長年把握できておらず、たぶんチュノム(ベトナム語表記にローマ字=クォックグーが採用される以前に使われていた漢字を基にした表語文字)の一種なのかな、くらいに考えていました。ところがある日、さるベトナム空軍研究家にこのノーズアートについて話を振ったところ、即座に正解を教えて頂く事が出来ました。
 なんでもこの図形はチュノムや特定の言語の文字ではなく、ベトナムの伝統的なカードゲーム『トートン(Tổ tôm)』に描かれた、漢字を基にした記号なのだそうです。
 トートンは中国発祥のカードゲーム(紙牌)である『ハンフー(看虎)』から派生したもので、麻雀やトランプのようにいくつかのスート(柄)と数字の組み合わせでデッキが構成されていました。
 スートと数字は文字(漢字)と漢数字を組み合わせた記号で表されており、スートの文字が漢字の部首の偏のように左側に、漢数字が旁(つくり)のように右側に配置され、その記号自体が一つの漢字のようにデザインされていました。(チュノムも同様に二つの漢字を組み合わせて一つの文字としていましたが、トートンに用いられたのはチュノムではなく、単なる記号です。)
 左側のスートは、現在のトートンでは専ら文(Văn)、索(Sách)、萬(Vạn)の3つが用いられていますが、過去には升(Xừng)や[※1]湯(Thang)といった文字も使われていたようです。このうち索と萬は、もっと後の時代に考案された麻雀(索子と萬子)に受け継がれていますね。 [※2]右側の数字は1~10まであり、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と漢数字で表記されています。(十は謎の異字体が使われていますが) 

[2018年6月13日訂正]
※1 Thang (湯)は現在でも使われていました。
※2 右側に入る数字は正しくは1~9であり、一、二、三、四、五、六、七、八、九と漢数字で表記されています。下のカード一覧の一番右側にある3枚はそれぞれのスートの十ではなく、それぞれÔng Cụ (萬の行)、Chi Chi (文の行)、Thang Thang (策の行)という役を作るのに使う特殊なカードであり、これに各スートの一(萬の一、策の一、文の一)を含めたカード6種のカードが『Yêu』と呼ばれ、麻雀で言うドラのような役割を持っているそうです。

▲現在出回っている一般的なトートンのカード

そしてこの中で、神風部隊にノーズアートとして描かれたのは、升の九(Cửu Xừng)』と索の九(Cửu Sách)になります。


※なおRobert C Mikesh著『Flying Dragons: The South Vietnamese Air Force』には、神風部隊では上記の二つに加えて『萬の九』、『文の九』もマーキングされていたと記述されているそうですが、当時の写真を探してもその実例を確認する事はできませんでした。

 実はこれらを調べる過程で、頭を悩ませたのが、Cửu Xừng』についてでした。先述したように、現在のトートンで用いられているスートは文・索・萬の三つであり、インターネットで調べても、このカードに関する情報はなかなか見つかりませんでした。しかもかなり文字を崩したデザインなので、元の漢字が何だったかも全く分かりませんでした。
 さらに僕を混乱させたのが、この漢字のクォックグー表記は『Sừng』だというベトナム人からの情報でした。結果から言うと、これは間違いであり、ほぼ同じ発音をする『Xừng』の書き間違いでした。僕はさっそくSừngの漢字・チュノム表記を調べましたが、その表記は漢字では『角』、チュノムでは『䈊』、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162049参照)』、、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162050参照)』であり、カードに描かれた文字とは似ても似つきません。
 その後、別の人から『Xừng』と書かれている資料をもらい、その表記を調べると、漢字にはXừngに対応する文字はありませんでしたが、チュノムにはありました。それが『表示不可(hyouhttps://jigen.net/kanji/133567参照)』です。これも一見、カードに描かれた文字とはだいぶ違うように見えますが、上で述べたようにチュノムは、中国の漢字では表す事の出来ないベトナム語の発音を表記するために、別々の漢字を組み合わせて一つの文字としているので、このチュノムの構成要素は、『称』と『升』という二つの漢字になります。(出典: Chu Nom.org https://www.chunom.org/pages/209BF/#209BF)
 そして、この中の『升』が、かなり崩されてはいるものの、問題のカードの文字と一致しているように見えます。これでようやく点と点が繋がりました。なお、漢越辞書によると、『升』という漢字を単にクォックグー表記した場合は『Xừng』ではなく『Thăng』になるようですが、日本人なら知っているように、漢字というものはその時代や地域によって様々な読み方をされる物であり、この場合も升という漢字がXừngと読まれていたのではないかと推測しています。この推測に則り、この記事ではCửu Xừng』を『升の九』と書いています。(もし違っていたらごめんなさい)

 ところで、お気付きかも知れませんが、これらのトートンのカードに描かれている人間のイラストは、19世紀の日本人の姿だったりします。その由来はWikipediaによると、フランス植民地時代にマルセイユの玩具メーカー カモワン社(Camoin)が、自社がベトナム向けに生産していたトートンに、日本から輸入された木版画・浮世絵に描かれた日本の庶民の姿をプリントしたのが始まりだそうです。そしてそのカモワン社製トートンがベトナムで広く流通したことで、それらのイラストはトートンの絵柄として定着し、100年以上経った現在でも変わらずに使われ続けているそうです。
 では、なぜカモワン社はベトナム人向けのカードゲームに日本の木版画のイラストを採用したのかと言いますと、具体的には説明されていません。しかしおそらくは、当時フランスでは日本から輸入された木版画・浮世絵などの『エキゾチック』な芸術作品が人気を博し、ジャポニスム(Japonisme)』と呼ばれる流行が発生したため、デザイン業界でも浮世絵に描かれた『オリエント』なモチーフを取り入れられた事がその一因であろうと推察できます。また、当時ほとんどの西洋人はベトナムも日本も中国も一括りにアジア、オリエントと見做しており、それぞれの文化の違いなど気にしなかったため、両国の文化は混同され、ベトナム向けのカードゲームに浮世絵のイラストが採用されたのだろうと僕は思っています。

 余談ですが、『オリエンタリズム(Orientalisme)』という言葉に代表される、このような当時のフランス人(およびほとんどの西洋人)が持っていた『想像上の』アジアへの憧憬、そして偏見は、つい半世紀前まで続いていた欧米諸国によるアジアへの植民地支配、帝国主義と深く結びついた概念でもありました。
 ただし、異国の文化についての誤解は、なにも西洋人に限った話ではなく、日本人もヨーロッパ諸国それぞれの国の文化の違いを正しく理解している者は少ないでしょうし、もっと言えば日本の周りの国ですら、いまだにあまりよく分かっていません。過去には、自国中心の偏見に満ちたアジア観を基に周辺国への領土拡大と統治を行い、大変な反発と遺恨を生じさせた事実は日本人なら誰もが知っておくべき事柄です。また現在でも、例えば日本のテレビ番組ではしばしば海外で日本の文化がいかに誤解されているかを取り上げていますが、では日本にある外国料理は?日本人が話す外来語やカタカナ英語は本来の意味で使われているのか?と思い返してみれば、他人の事は言えないですよね。
 さらに言えば、マスメディアやインターネットでは、タイと台湾は当然のように(反日の対義語として)『親日国』として語られますが、では実際、所謂『反日国』や、それ以外の国々とどれほど違うかと言いますと、実はそんなに変わらないと僕は思っています。第二次大戦において日本と戦ったアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア・フランスはもちろん、日本軍の恫喝によって軍政下に置かれたタイや、長く中国国民党政権が続いた台湾でも、大戦中の日本軍を好意的に見ている人はほとんど居ないです。一方、戦後日本が育んだ食事や音楽などの文化、工業・医療製品については、世界の大半の国々、そして日本で反日』と呼ばれる中国や韓国でも大人気であり、特に中国の小金持ちはこぞって日本に観光に訪れ、帰国後日本に行ったと自慢する事が一種のステータスとなっている感すらあります。
 数年前、あるニュース番組で、中国で発行されている『知日』という情報誌が紹介されていました。その雑誌を編集している僕と同じ世代、1980年代生まれの中国人編集者たちはインタビューの中で、「私たちはこの雑誌で、読者に日本を好きになってもらおうとは思ってはいません。ただ、彼らを好くにせよ嫌うにせよ、まずは相手の本当の姿を知る事が、我々自身にとっても大切な事なのです」という趣旨の言葉を語っていました。その通りだと思います。日本に訪れる中国人観光客が皆こういった意識を持っているとは思っていませんが、少なくとも中国国内にはこういう理知的な人々が居り、彼らの雑誌が人気を博してる事実は、両国の未来にとって歓迎すべきことだと思います。
 なお、知日は日本でも買えるようですが、ちょっと良い値段しますし、どうせ中国語読めないのでまだ呼んだ事は無いです。もし日本語訳版を作ってくれたら、是非読んでみたいですね。

こちらで販売中

今日は我ながら、いろんな方向に話が飛んでいくブログでした。
  


2018年04月24日

続・4月の出来事

 2018年4月、オーストラリアのベトナム人権活動家テレサ・チャン・キウ・ゴック弁護士が初来日し、東京・姫路・大阪の三都市で講演会を行いました。そしてその内の一つ、東京のニコラ・バレ修道院で開催された講演会を取材してきました。テレサ先生が語られた祖国ベトナム、そしてそこに住む人々への愛情は、必ずや日本に住むベトナムの若者たちの心にも響いた事でしょう。

 またこの講演会の翌日から3日間に渡ってテレサ先生ご一行の日本観光ガイドという大役を務めさせていただきました。その間、講演会を主催された修道会様のご厚意で、テレサ先生たちが泊まっている東京都内のカトリック教会の宿泊施設に私も泊めさせていただきました。私はベトナム人でもカトリックでもないのに、神父様をはじめ修道会の皆様には大変温かく迎えて頂き、感謝の念に堪えません。

 さらにこの数日後、市の美術館にホーチミンを称える展示を設置した岡山県美作市に各国のベトナム人団体代表団が抗議した際も、姫路に滞在していたテレサ先生らも駆け付け、美作市役所で一緒に抗議活動を行いました。

 そして先週は在日ベトナム人共同体様主催の『Lễ Giỗ Tổ Hùng Vương (雄王命日の祭礼)』祝賀交流会にお邪魔してきました。Hùng Vương(ホン・ヴウン/雄王)とは、紀元前2897年から紀元前257年にかけての約2600年間に渡って現在のベトナム北部に存在したとされるベトナム最古の(伝説上の)王朝『文郎(ヴァンラン)国』を治めた歴代の国王の称号であり、その初代雄王はベトナムを建国した最初の王として神格化されています。そしてその初代雄王の命日である黄歴3月10日はベトナムの建国を記念する日として、ベトナム民族の重要な祝日とされています。(その為Lễ Giỗ Tổの日本語訳として「ベトナム建国記念日」が当てられている)
 式に様子については、また後日記事にしますが、今回は特に、現代ベトナム研究の第一人者で、私もその著書で勉強させて頂いている大東文化大学の中野亜里教授のお話を初めて生で拝聴し、握手までしていただけたのが一番うれしかったです。
 ちなみに僕はこの日は元々仕事で行けないはずだったので、関係者には前もって不参加と伝えていたけど、当日急に仕事が早く終わったので、急いで会場に直行。いないはずの人間がいきなりやって来たのでみんな驚いてました。ゲストでも何でもないけど、サプライズ登場成功(笑)



式の中で友人たちと一緒に歌ったチュック・ホー(Trúc Hồ)の名曲『Bên Em Đang Có Ta』



僕はまだベトナム語が十分に読めないので、自分でカタカナふった歌詞を持参して合唱に参加しました。

  


2018年04月12日

4月前半まとめ

今月に入ってから立て続けに色々な事があってブログ執筆が追いつかない状況なので、手短に書きます。


美作市ホーチミン像問題

 昨年11月に岡山県美作市が同市の作東文化芸術センターに『ホーチミン空間』なる展示スペースを設けた事で、世界中のベトナム難民団体から非難が殺到している事をお伝えしてきましたが、ついに日本在住ベトナム人協会および在ドイツ、在カナダのベトナム難民団体代表者で構成された代表団が4月6日、美作市を訪れました。
 代表団は現地で抗議活動を行うと共に、市役所で市長の萩原氏と面談し、展示の撤去を求める請願書を8,000名超えの署名と共に正式に提出しました。
 また、私も支援者の一人としてこの代表団に同行し、抗議および市長との面談に同席させて頂きました。詳細は私の別ブログ ベトナムウォッチに掲載してありますので、是非ご一読ください。

ベトナムウォッチ: 美作市ホーチミン像に世界のベトナム難民団体が抗議



テレサ先生ご一行の日本ツアー

 お花見のあと、オーストラリアから来日したテレサ・チャン・キウ・ゴック先生の講演会に参加しました。講演については後日ベトナムウォッチの方で記事にまとめる予定です。→記事アップしました。ベトナムウォッチテレサ・チャン弁護士来日』
 その講演が終わった後、日本のベトナム人コミュニティ有志がテレサ先生らを歓迎する打ち上げを居酒屋で開いたので、僕も付いていきました。するとその席で、テレサ先生から直接、日本を観光したいのでもし時間があるなら案内してくれないかとオファーを頂いてしまいました。こんな有名人に誘われたら断れる訳がありません。喜んで!
 という事で、テレサ先生とその旦那様、オーストラリアおよびドイツ在住のテレサ先生の支援者の計4名に二日間同行し、富士山周辺および日光にご案内差し上げました。

忍野八海にて。美しいお方です。

得意げに案内していたところ、忍野八海の駐車場で、あろうことか車のバッテリーあがりを起こしてしまいました(泣)
ロードサービスが来るまで1時間待ちぼうけ。ごめんなさい・・・

 オーストラリアでテレサ先生の活動を支援しているテレーズさんから、ベトナム国旗柄のマフラーを頂きました。実はテレーズさんは48年前の1970年に、ベトナム共和国政府職員として市ヶ谷の防衛庁に研修に来たいたのだそうです。その時お花見で見た桜満開の風景は今でも鮮明に覚えているそうで、今回48年ぶりに再び日本で桜を楽しめたことを大変喜んでおられました。
 ちなみに、この写真をFacebookに載せたところ、以前から知り合いだったベトナム系オーストラリア人のおじさんが、「ええー!知ってる?その人私のママだよ!」と、親子で僕と知り合っていた事が判明しました。世界は狭いですね・・・(笑)



座間でホームパーティー

 美作市から帰った翌日、神奈川県のキャンプ座間に住んでる知り合いの家でホームパーティーがあるというので、またホイホイ付いて行っちゃいました。パーティーに付くと、既に座間に住んでいるベトナム系アメリカ軍人とそのご家族が3家族来ていて、子供たちとジュマンジを見ていました。

奥様方の手作りベトナム料理、男衆の焼いたバーベキュー、コストコの春巻きをお腹いっぱい頂きました。

 なお、この家のご主人とはこれまでベトナム人協会のイベントで何度かお話ししただけで、アメリカ陸軍に所属しているベトナム系アメリカ人という事しか知らなかったのですが、今回お仕事について聞いてみたらビックリ。なんと中佐さんでした。えー!そんなに偉かったの~!?顔がかなり若い感じの人なので、僕より少し年上くらいだと思ってら、本当は40半ばでした。
 なんでも以前は第1歩兵師団、第1騎兵師団所属の通信科将校としてしアフガニスタンに出征し、歩兵および機甲部隊の通信を担当していたそうです。でも軍でやりたい仕事はやり尽くしたので、日本駐留が終わったら早期退役して民間に再就職すると言っていました。
 とは言え、やっぱり陸軍が好きなんでしょうね。子供たちが外に遊びに行くと、リビングのテレビで、アフガニスタンやイラクで活動する米軍の映像を流し、みんなに見せようとしていました。でもみんな喋くってて見やしないので、ミリタリーマニアの僕だけが反応。でもその人の本業の通信の話は僕が聞いてもチンプンカンプンなので、M4カービンとかM240マシンガンとか、そういう分かり易い武器の話だけ聞かせてもらいました。
 そして気をよくした彼は、頼んでもいないのに何故かファイーベース・グロリア(邦題「地獄の軍団スクワッド」)のDVDを上映。図らずも、米軍基地の中でアメリカ人とベトナム人が殺し合う映像を見ながらベトナム系アメリカ軍人と酒を交わすというシュールな体験をする事となりました。



  


2018年04月05日

お花見

 現在、ベトナム出身オーストラリア在住著名な弁護士・人権活動家テレサ・チャン・キウ・ゴック(Teresa Trần Kiều Ngọc)先生が初来日し、東京・姫路・大阪の三都市を周って日本在住ベトナム人コミュニティに向けた講演会が開催されています。
 その東京講演に合わせ、いつも懇意にして頂いている関東在住のベトナム人グループから、講演が始まる夕方まで日中お花見をするけど一緒にどうかとお誘い頂いたので、僕も参加させて頂きました。


僕の家に大きなブルーシートがあったので、当日は朝から、幹事と僕の二名で場所取り。11時過ぎるまでビルの陰で日光が当たらず寒かったです。


昼頃になってようやく皆さん集まり、お花見を楽しみました。お花見という事で、普段コミュニティ活動には参加されないお子さんや年配のご家族も一緒です。


各自持ち寄った手作りベトナム料理とかお菓子を食べながら宴会。初めて会う人もいるので順番に自己紹介して盛り上がる。僕と初めて会う人はほぼ100%、僕の事を日本生まれのベトナム人だと勘違いするので、ベトナムとは全く無縁の出自と知り、皆さん驚かれます。


夕方から講演会があるので、お酒はほどほどに(?)


そして16時ごろまでお花見を楽しんだのち、講演会参加者は会場のニコラ・バレ修道院に移動。講演会については後日詳しく記事にします。
  


2018年03月22日

タイでもらったパッチ

先日のバンコクでの撮影会の際、タイの友人たちが記念にと、タイ軍関係のパッチをいろいろプレゼントしてくれたので紹介します。



タイ王国義勇連隊"クイーンズコブラ" (FWMFタイ陸軍部隊 1967~1968年)

ベトナム戦争期、ベトナムに展開した自由世界連合軍(FWMF)の中で、韓国軍・オーストラリア軍に次いで3番目(※2018年3月22日訂正: オーストラリア軍より多かったので正しくは2番目)の規模の地上戦闘部隊を擁していたのがタイ陸軍でした。このベトナム派遣タイ陸軍部隊、通称"クイーンズコブラ連隊"は1967年にベトナムに到着し、以後アメリカ陸軍第9歩兵師団の指揮下で作戦を遂行していきます。
このパッチはリプロですが、友人曰く、当時同パッチを製造していた徽章屋が当時と同じ素材・製法で制作した高品質な複製品だそうです。なのでよほどのタイ軍コレクターでないと、真贋の見分けはつかないくらいよく出来ているそうです。


タイ王国陸軍義勇軍"ブラックパンサー師団" (FWMFタイ陸軍部隊 1968~1972年)
クイーンズコブラ連隊の派遣から間もなく、タイ政府はベトナムへの戦闘部隊の増派を決定し、1968年1月に兵力約11,000名から成るタイ王国陸軍義勇軍(RTAVF)"ブラックパンサー師団"が編成されます。FWMFに加わったブラックパンサー師団は以後、ビエンホア省等においてサーチ&デストロイ作戦や、ベトナム市民への人道支援活動に従事していきます。なお派遣の翌年の1969年にアメリカがベトナムからの撤退を表明した事で、FWMFの各国軍も順次撤退を開始し、タイ軍ブラックパンサー師団は1972年に撤退完了、解散しました。※タイを含む同盟国の活動概要については、アメリカ陸軍省編のAllied Participation in Vietnam(1985)に詳しく乗ってますので、ご参照ください。
なお上のクイーンズコブラと異なり、こちらのパッチは一目で近年作られたリプロと分かる機械刺繍製です。


タイ陸軍帽章(フィールドキャップ用)
ベトナム戦争期から変わらず使われているタイ陸軍の帽章。現代製だけど、リプロと言うよりPX品。


タイ王国空軍 F-16戦闘機搭乗員
実物らしいです。裏はベルクロ


タイ王国空軍 第5航空団
第5航空団は輸送および観測を主任務とする割と地味な航空団みたいですが、調べてみると、実は過去に日本と因縁のある部隊だという事が分かりました。
太平洋戦争開戦前夜の1941年12月7日午後11時、日本政府はタイ王国政府に対し、タイ領内における日本軍の進駐・無制限通行権を要求します。日本軍の目的はマレーおよびビルマに駐屯するイギリス軍の撃退であり、その道程にあるタイ王国は問答無用で日本への服従を強いられました。これは事実上の最後通牒であり、タイ政府は日本の要求を受け入れて独立国としての尊厳を失うか、要求を拒否して日本との戦争に突入するか選択を迫られました。しかし日本軍の戦力は圧倒的であり、タイ側は対抗手段が無い事を認めざるを得ず、武力による恫喝に屈して日本の要求に渋々同意します。
そしてその数時間後の12月8日未明、真珠湾攻撃とほぼ同時刻に日本軍がタイ領内への侵攻を開始します。しかしこれに対し、戦いもせず外国の侵略に屈する事を良しとしない一部のタイ軍部隊は、中央の命令を無視して独断で日本軍の迎撃を開始します。
タイ中部のプラチュワップキーリーカン県では、タイ空軍第5航空師団(現・第5航空団)が中心となって、上陸した日本軍に対する大規模な反攻が開始されました。戦闘は翌9日まで続き、正午には第5航空師団のプラワー・チュンサーイ中佐が、備蓄燃料が日本軍の手に渡る事を防ぐため、自軍の燃料集積所を爆撃するに至ります。
しかし同日、タイ政府は改めて日本との休戦協定を締結すると共に、現場部隊に対し休戦命令の徹底を行い、33時間におよぶタイ軍の抵抗は終わりを迎えました。尊厳よりも国家の存続を優先する苦渋の決断によって降伏したタイ軍でしたが、このプラチュワップキーリーカンの戦いでは、タイ側の戦死者は42名、一方当初圧倒的優勢と思われていた日本側の戦死者は115名以上とされており、短期間ながらタイ軍の意地と愛国心を示した英雄的な戦いとして現地には記念碑が建立されています。そして現在、その戦いを主導した第5航空師団の後継である第5航空団の部隊章には、その栄光を称えプラチュワップキーリーカンの戦い記念碑の、軍旗を掲げる航空兵の像がデザインされています。

プラチュワップキーリーカンの戦い記念碑 (画像:  กรุงเทพธุรกิจ มีเดีย จำกัด)


彼らの内何人かは、今年中に日本に遊びに来るみたいだから、その時はたっぷりおもてなししてあげよ~っと!face02
  


2018年03月16日

マウタン1968(テト攻勢)から50年

マウタン1968犠牲者追悼式典

 今から50年前の1968年2月、ベトナムで最も神聖な祝日である元旦節(テト)を狙ったベトコン(ベトナム共産軍)による同時多発テロ<マウタン1968>、通称『テト攻勢』が発生し、ベトナム戦争始まって以来最大の犠牲者を出す大惨事となりました。
 このマウタン1968から50年目の節目を迎え、日本在住ベトナム人協会は2018年2月11日、神奈川県藤沢市の寺院においてマウタン1968の犠牲者を追悼する法要・式典を執り行いました。式にはかつてのベトナム難民を始め、現在日本に住んでいるベトナム人研修生や一般労働者、在日米軍のベトナム系アメリカ軍人らも参列しました。



映像: Hiệp Hội Người Việt tại Nhật

フエ虐殺事件目撃者の声

 また法要後の懇談会では、共産軍によって行われたあの惨たらしい事件を風化させないよう、当時その場でマウタン1968を体験した方々が、戦後生まれの若い世代に自身の体験を語りかけました。お世話になってる知人が、今回も話の内容を同時通訳してくださったので、その一部をご紹介します。


映像: Hiệp Hội Người Việt tại Nhật



ブウ氏

 ブウ氏は当時、フエ在住の13歳の少年であり、共産軍による26日間のフエ占領を体験しました。
 ブウ氏によると、フエでマウタンの戦闘が始まったのはテト二日目の夜であり、最初は誰もが銃声を爆竹の音だと思い、戦闘が始まったとは思いもしなかったそうです。
 しかし朝になると街は共産軍に占領されており、通りには共産軍の兵士たちが堂々と歩いていました。戦争とは無縁の生活を送っていたブウ氏はこの時初めて実際に共産軍の姿を見ましたが、当時は子供だったため特に恐怖は感じなかったそうです。
 しかしその日、フエ市内で拘留されていた共産ゲリラ容疑者が釈放されると状況は一変します。共産軍が住民の家々に押し入り、軍人、警察、政府関係者を次々と逮捕し始めました。ブウ氏の兄2名も軍人でしたが、その年はたまたま二人とも帰省していなかったため、父がその場で尋問されただけで済んだそうです。しかし父の友人であり恩師の神父は連行され、二度と帰ることはありませんでした。
 占領下の生活の中で、ブウ氏は自宅周辺では夜しか戦闘の音が聞こえず、なぜ夜だけなのか不思議に思っていたそうです。
 その後、共産軍は逮捕者リストを作り、再度ブウ氏の自宅に押し入ってきました。そして兄たちがフエには居ないことが分かると、共産軍はブウ氏の自宅を完全に破壊しました。翌朝、ブウ氏は瓦礫の中から家族の写真を探そうとしましたが、軍服姿の兄の写真が共産軍に見つかると危険なため、父に止められたそうです。
 まもなくフエ市街と対岸を結ぶチュンティエン橋が共産軍によって爆破され、大人たちは共産軍が撤退を始めたと言いいました。この時すでに、逮捕された数千人のうち約900名が市内で殺害されていた事が後に判明します。人々は銃ではなく、鉈などで頭を割られて殺されていました。そして残る4000名の逮捕者は撤退する共産軍によって郊外に連行されました。
 共産軍が去ったのを見計らい、ブウ氏らフエ市民はすぐさま政府軍のいる方向に避難しました。しばらくすると前からアメリカ軍の黒人兵士が走ってきて、市民たちに「逃げろ!」と叫びました。市民たちはこれでようやく共産軍の恐怖から解放されました。
 一方、共産軍に連行された4000名の人々は行方知れずでしたが、間もなく郊外で全員虐殺された事が判明します。生存者は一人もおらず、遺体が遺棄された場所の捜索に一年間かかりました。結果22箇所の地中から遺体が見つかりましたが、遺体の多くは白骨化しており、遺族は残された衣服などから家族の亡骸を探し続けたそうです。
 それ以来、家族が集うベトナム民族にとって最も幸福な祝日であるはずのテトは、フエでは虐殺の日、家族の命日として記憶されており、当時を知る家庭では今でもテトは祝われず、帰省もしないとの事です。
 ベトナムの歴史上、血塗られた虐殺事件は幾度もありましたが、それらは全て、中国やフランスなど、外国によって行われたものでした。しかしベトコン、ホーチミンは同じベトナム人に対してそれを行ったのです。


カイン氏

 カイン氏は当時サイゴンの大学に通う学生で、社会奉仕団体でボランティア活動をしていたため、フエ奪還から一週間後、復興支援の為フエに赴きました。そこでカイン氏らが任されたのは、共産軍によって虐殺された人々の遺体捜索・回収でした。
 カイン氏によると、人々は地面から比較的浅い深さに、座ったような姿勢ですし詰め状態で埋められていました。外傷のある遺体は少なく、ほとんどが生き埋めにされて殺害されていました。地中から掘り出された遺体は腐乱しており、ある時は野犬が遺体から足をちぎり取っていったため、カイン氏が犬を追いかけて足を取り返すといった事もありました。
 二週間の捜索で数百の遺体を掘り出した後、カイン氏はサイゴンに戻りましたが、その後半年間は肉を食べられなくなりました。この経験でカイン氏は共産軍の残虐性を目の当たりにし、人生観が一変します。そして共産軍と戦うため、翌69年に政府軍に志願入隊しました。





戦後世代の声


ザカット氏

 ザカット氏はフエ出身で、両親祖父母がフエ占領を経験しました。戦後、フエ虐殺は共産党政府によって闇に葬られましたが、当時フエにいた者なら全員、共産軍によって何が行われたかを知っています。私は戦後生まれですが、家族から当時の話を聞いていました。


ウエン氏

 ウエン氏も両親祖父母がフエ占領の恐怖を経験しました。しかし多くの一般市民は戦後、共産党政府による弾圧を恐れてそれを口にする事は出来ませんでした。ウエン氏の両親も、娘に戦中の事を詳しくは話しておらず、戦後生まれのウエン氏は、学校で教わった共産軍の英雄的な物語を信じきっていました。ウエン氏が自国の真の歴史、家族の思いに気付く事が出来たのは、成長してインターネットで国外の情報に触れる事が出来るようになってからの事でした。



また懇談会では私も意見を求められたので、僭越ながらほぼ唯一の日本人参加者の視点から私の考えを述べさせていただきました。

映像: Hiệp Hội Người Việt tại Nhật



 1946年以来、数限りないテロで大量のベトナム人の命を奪い、今現在もベトナムを恐怖と暴力で支配しているベトナム共産党政権は依然として、このマウタンを解放戦争の英雄的な戦果として喧伝しています。
 欧米や日本はもちろん、世界中のほとんどの国々が民主主義を重んじている今日において、普通、非民主的な独裁政権のプロパガンダが真実として受け入れられる事はほとんどありません。例えば中国や北朝鮮政府による主張や宣伝を鵜呑みにする人はほとんど居ないでしょう。
 しかし非常に残念な事に、ベトナムに関してだけは、特定の思想によって都合良く作り出されたプロパガンダが多くの人々の思考を停止させる事に成功しており、ベトナム共産党(現ベトナム社会主義共和国政府)というテロ組織の主張や宣伝が無批判に受け入れられてしまっています。
 私はこの記事を読んでいる方に今一度、ベトナムという国に対する認識の再考をお願いしたく思います。これは単なる『外国の歴史』の問題ではありません。この記事にあるのは今現在日本に住んでいる隣人の声です。そしてその声に耳を傾けるか事が、日本を「どんな残虐な独裁政権でも都合よく解釈して好意的に見る恥知らずな国」から、「正義と人道を旨とする矜持ある国」へと挽回する唯一のチャンスです。大げさに聞こえるかもしれませんが、本来こんなのは50年前にやっておくべきだった事であり、私の世代はもう目をそらす事なく、この50年分の誤り・怠慢と向き合っていく必要があると考えています。
  


2018年03月14日

鹽水蜂炮に再挑戦

順番が前後しますが、タイに行く前に4日ほど台湾に行ってきました。
僕が台湾に行くのは2年ぶり2度目で、今回は前回行く事の出来なかった北投温泉、九份老街、十分老街など日本でもおなじみの観光地を堪能してきましたが、やっぱり最大の目的は『鹽水蜂炮』
2年前に参加した時は重度の胃炎に苛まれており、ほんのちょっとしか参加できなかったのが心残りだったので、再挑戦してきました。

3月2日、台北から新營駅まで台鉄の特急、そこからタクシーで鹽水に移動してSさん(通称 電冰箱)率いる台湾・日本合同チーム『鹽水周倉將軍護駕炮兵團』と合流。


我ら一番神輿、鹽水周倉將軍護駕炮兵團!!

我らがリーダー電冰箱氏一番神輿を引く権利を得たので、我々も祭りの先頭で一番神輿を引いて練り歩くという栄誉を授かりました。
なお、このチームは2年前の時点では日本人メンバーは僕と豊〇氏の2名だけでしたが、回を重ねるごとに人数が増えていき、ついに今年は日本人が計7名と、台湾人メンバーよりも多くなってしまいました。
台湾人ですらめったに手に出来ない無いチャンスを我々外国人が頂いちゃっていいのかな(笑)


そして日も傾き、午後7時、いざ出陣。

放てぇぇぇ!!!


これを午前2時過ぎまで7時間以上、ひたすらやる。
街中に無数の発射台が隠されており、次から次へと想像を絶する量のロケット花火と爆竹を浴びせられる。
なんでもロケット花火だけで二日間で300万発消費するとか。ちょっと桁数がおかしいです。
この動画はある程度浴びた後に、休憩の為列から離れた時に撮った物です。中で動画撮る余裕なんてとてもありません。
(僕の友達は気合で最前列で撮ったけど、煙で何が映ってるか分かりませんでした)

一緒に一番神輿を引いて周った最強の台湾おばちゃんと。
地元の実行委員みたいですが、祭慣れしすぎちゃってて、頭は農作業用の日除け帽、服はTシャツに実行委員のチョッキ、日除けのアームカバーのみという、信じ難い軽装です。良い子も多少頭の悪い子も絶対真似しちゃダメ。
身体に爆竹巻き付けて黒焦げになる若者は何人も見たけど、年配の女性でこれですか・・・。鹽水育ち、恐るべし。
おばちゃんは僕らが日本人だと分かっているのに、ず~とハイテンションな台湾語で僕らに何かを話し続けてました。こっちが理解できるかどうかは関係ありません。彼女は話したいから話してるのです。

こんな感じでロケット花火は、痛みさえ我慢すれば楽しかったです。
しかしその後、前回僕が体験していなかった、とんでもない地獄の我慢大会が待っていました。
神輿を引いて細い路地に入ったところ、地面が全て爆竹で覆われているのです。
マジで地面が見えないくらい、足元が全て爆竹で、その上に立ったところで神輿は停止しました。
そして点火・・・


※この動画は祭りが終わった後に残った爆竹で遊んでる人たちを撮ったもので、本番ではこの何倍もの爆竹が使われました。

熱い!熱い!熱い!マジで靴が燃えたと思いました。
さらに大量の爆煙で息が出来ず、視界もゼロで、本気で恐怖を感じました。


終わってみると、靴は燃えてはいませんでしたが、火の粉対策で巻いていたガムテープは黒焦げとなり、スニーカー本体も結構溶けていました。
僕の友達は、ズボンがポリ混紡の作業服だったので、スボンの生地が溶けて足首を火傷していました。
火の粉対策はしていたけど、足元からこんなに熱が加えられるとは想定していなかったです。これ溶接用の装備が必要だわ。

この絨毯爆竹で心が折れたので、僕と友人一名は午後11時ごろ、夕飯を食べに神輿の列から離れました。
食事の後列に戻りましたが、もう爆竹ゾーンはNG。ロケットも後ろの方から見てました。

そして午前2時過ぎ、神輿の列が鹽水の街を周り終え、出発地点の武廟に戻ったところでメインの祭りは終了。

一番神輿のリーダーとして、TシャツにウッドランドBDU一枚のみという薄着で根性を示し、
7時間近く最前列でロケット・爆竹を浴び続けた電冰箱氏の背中。男の勲章です。

(この後青あざが広がってもっとひどい見た目になるんだよ)

僕は足に2・3カ所あざが出来ただけなので、まだまだ参加賞レベル。
ちなみに午前2時に武廟を中心とするメインの祭りは終わっても、鹽水各所ではまだまだ祭りは続いており、午前4時ごろまでロケット、爆竹、打ち上げ花火の爆音が街に鳴り響きます。
僕はその日の昼にタイ行きの飛行機に乗らなくてはならなかったので、祭りが終わるとそのまま車で新幹線の駅まで送ってもらい、始発で桃園空港に戻り、着替えもせずに飛行機に乗っちゃいました。
自分でも分かるくらい服が火薬臭い。完全に危険人物だよな~と思っていたら、案の定、香港で乗り換えした際に香港警察に呼び止められ、別室で取り調べを受けました。
でも調べられたのは荷物や旅の行程などで、火薬臭い事については何も聞かれませんでした。単に見た目が怪しかったから止められただけかもしれません。
こんな感じで今回の台湾旅は締めくくられたのでした。


お祭りの様子はこちらでも詳しくレポートされてます。
2018年の鹽水蜂炮に行ってきた完全レポート http://xn--1rwm9g63x6ov.com/2018-report/ 
  


2018年02月10日

【祝】WAR全米大学映画祭 審査員賞受賞!

過去のハウ・ルック監督作品いついては過去記事参照

2016年12月、僕は米国ジョージア州にて、アマチュア映画監督の友人が製作しているショートフィルムの撮影に参加してきました。あれから1年強、その時撮った作品がようやく完成し、この度、全米大学映画祭(Campus Movie Fest)に出品されました。
そしてその結果・・・

審査員賞(Jury Award)を受賞しました!!やったーーーーー!!!

※動画を再生出来ない場合は他のブラウザに変えてお試し下さい。



こちらが審査員賞受賞作品「WAR」 監督 ハウ・ルック



なんとなく分かると思いますが、あるベトナム人兄弟が生き別れとなり、それぞれ別々にベトナム政府軍と共産ゲリラ兵士となり、その二人が不幸にも戦場で再会し、お互いを兄弟と知らずに殺し合ってしまうという大変悲しいストーリーです。
実はこの話には元ネタがありまして、それらを全て撮れれば、なぜ兄が首にドッグタグではなく紙を三角形に折った物を下げているのか等が分かってもらえたのですが、ショートフィルムなので時間的な制限からストーリーは大幅にカットせざるを得ず、そこは描ききれませんでした。
とは言え、撮影や編集の技術が認められ、この度賞を頂けたのですから、出演者としては素直に嬉しいです。

しかし観客も審査員も、弟役を演じているのは当日ゲリラ役やってよと言われて気軽に引き受けた日本人だなんて思いもよらないだろうな。我ながら熱の入った演技をしたものだ(笑)


世にも珍しいゲリラ役のわたくし





なお我々はアマチュアなのでプロップ買うお金が無いため、銃やナイフは全部本物です。
M16はコルトAR-15モデルSP-1、56式自動歩槍はノリンコMAK-90で代用。
空砲なんて一般人には手に入らないので、発砲シーンは全部実弾。(この作品では実弾を使ったシーンは使われていません)
銃剣で腹を刺すシーンは、「ゆっくりやれ」、「ベルトに当てろ」と言われましても、なかなか怖い物です。
あと、この作品には使われていませんが、拳銃で自殺するシーンも撮りました。
いくら弾が入っていない事を何度も確認したとは言え、やっぱり実銃を頭に当てて引き金を引くのはかなり気持ち悪いものです。
しかもテイク5くらい撮り直したし・・・。
監督曰く今年の5月ごろまでには、それらの映像も使った作品をDVDでリリースするらしいので、完成を楽しみに待っています。

  


2018年01月21日

ホンサ海戦から44年

 1974年1月19日にホンサ諸島(Quần đảo Hoàng Sa, 中国名:西沙諸島)を巡ってベトナム共和国軍と中国軍が衝突した『ホンサ海戦(西沙諸島の戦い)』における犠牲者を追悼する式典が、今年も米国在住のベトナム共和国海軍軍人協会によって執り行われました。

(映像: SBTNOfficial)

 この戦いでベトナム共和国軍は撃沈1隻、戦死者75名*という損害を出し、ホンサ諸島からの撤退を余儀なくされます。同年、ベトナム共和国軍はホンサ諸島の奪還を計画し、多数の戦闘機・攻撃機が出撃準備を完了する状態にまで至りましたが、決行直前にアメリカ政府から作戦中止の要請を受け、結局奪還作戦が実行される事はありませんでした。そしてそれ以来、ホンサ諸島は44年間に渡って中国軍の占領下にあります。
*戦死者数については資料によって数名の誤差あり

▲中国海軍艦艇のロケット砲で撃沈されたベトナム海軍掃海艇HQ-10 ニャッタオ

 なお、当時北ベトナムを支配していたベトナム労働党政権は大戦後から一貫して中国共産党の指導下にあり、中国による支援に全面的に依存しながら南侵(ベトナム戦争)を続けていた為、ベトナム民主共和国として中国に対しホンサ諸島の領有を主張する事はありませんでした。ホンサ海戦により諸島全域が占領された後も、ホンサ諸島について言及する事は避けており、ホー・チ・ミンおよびベトナム労働党は事実上、ホンサ諸島を中国に売り渡していたと言えます。
 一方、ベトナム労働党の下部組織である南部のゲリラ組織 南ベトナム解放民族戦線は、南部人による独立した組織という建前もあったため、中国軍によるホンサ諸島占領を非難したそうですが、彼らの闘争もまた中国による軍事支援に依存しきっており、いずれの共産主義勢力も事実上の宗主国である中国に抗う事はできませんでした。

 ベトナムの歴史は「中国への抵抗の歴史」と言われるように、元来ベトナム人にとって中国に国土を奪われる事は最大の屈辱であり、ホンサ海戦は今日でも多くのベトナム人にとって忘れがたい悲劇として記憶されています。その為、ベトナム共産党への服従とベトナム共和国政府への憎悪教育が60年以上続いている今日の社会主義ベトナムにおいても、このホンサ海戦で犠牲となったベトナム共和国軍人に対しては、多くの人々がイデオロギーの違いを超えてベトナム民族の英雄として追悼の対象としています。

中国に立ち向かったベトナム共和国軍、そしてベトナム民族の歴史を象徴する歌 『Đáp Lời Sông Núi (山河に応えて)』


歌詞はこちらにあるので、Google翻訳か何かで雰囲気を感じて下さい。

おまけ: 土曜日の作業

金曜日は疲れてたので、夕方帰宅したあと布団に横になったら、そのまま翌日の朝まで約12時間寝てしまいました。
なので土曜日は朝8時からじっくり趣味の作業に没頭。

◆友人依頼分の自家製プリントパッチ作成
・ベトナム国家警察野戦警察隊
・第222野戦警察群
・第611野戦警察中隊
・陸軍第1歩兵師団(サブデュード)


◆徽章縫い付け

来月着る服


多分5月ごろ着る服。気が早いけど、テンション上がって作っちゃいました。


いつ着るか分からない服。まだパッチが全て揃ってないので、続きはおいおい。

  


2018年01月06日

美作市のホーチミン像問題

※2018年7月3日更新

筆者の別ブログ ベトナムウォッチと重複している記事を、ベトナムウォッチの方に一本化しました。

ベトナムウォッチ 『美作市のホーチミン像問題』



またこの記事の後、美作市役所に対する抗議運動が実施されました。

ベトナムウォッチ 『美作市ホーチミン像に世界のベトナム難民団体が抗議』
  


2018年01月04日

あけおめ

お正月という事で、今年は日本在住ベトナム人協会様の新年のつどいにお邪魔してきました。

関東各地のベトナム人コミュニティ―が集まり、様々な手作りベトナム正月料理を販売しています。



僕は友人のところでチェー(お汁粉)売りをお手伝い


開会式を行うベトナム国旗の祭壇の前で記念撮影
すごいお正月感のある絵になりましたface02

行く前から分かっていたけど、会場内でアオザイ着てる人間は僕一人。
生来の目立ちたがり屋なので、しょうがない。

詳しいレポートは私の別ブログ ベトナムウォッチの方に掲載する予定です。
少々お待ちください。



ここ十数年で、本土から日本に渡るベトナム人研修生・留学生の数は、
難民として来日した日本定住者の20倍を上回り、
ベトナム大使館=共産党政府は現在、彼ら在日ベトナム人の思想を管理・統制すべく、
日本国内のベトナム人コミュニティーの乗っ取りに勤しんでいます。

具体的には、大使館が資金を出してベトナム人団体・学生団体を創設し、
また日本各地にベトナム仏教寺院を建設して
そこを在日ベトナム人コミュニティーの場とする事で、
共産党政府の指揮下にある青年団や僧侶が、
そこに集まる人々を監視および教化するという仕組みです。

残念ながら一国の政府が行う政策というのは強力なもので、
現在は資金的・人員的にも共産党系組織の方が日本国内で優勢です。
日本以外の先進国では、ベトナム政府による国民への弾圧は問題視されているため
共産党政府系組織が野放しにされる事はありませんが、
日本政府(自民党政権)はベトナムで金儲けさえ出来れば良いと思っているので、
あのような邪悪な独裁政権に非常に好意的であり、日本国内でも好きにさせています。
私はこのように恥知らずな我が国の政府を心から軽蔑しています。

しかしそんな中でも、政府による思想統制の異常性に気付き、
自由を求める若者が少なからずいます。
彼らは自分で学び、自分の意志で、あの黄色い
—かつてベトナムに自由と民主主義があった時代の
に下に集っています。

自国民を食い物にする邪悪な権力は必ずや滅びると信じて、
私は今年も、彼らのように人間としての正義を貫く人々を応援していきます。
  


2017年12月18日

X'masパーリー

先日、日本で活動するベトナム人権活動団体 青い海forベトナム様およびヒューマンライツウォッチ様共催のクリスマス・チャリティー・パーティーにご招待頂いたので参加してきました。パーティーの収益は現在ベトナムで『政治犯』として投獄されている多くの善良な人々の解放を働きかける活動の資金に充てられます。僕は会場に着くまで身内のこじんまりとした集まりを想像していたのですが、いざ会場に入ると、ヒューマンライツウォッチ日本代表の土井先生や、個人的に参加されたアメリカ陸軍・空軍軍人の方も居られびっくりました。会の詳細については後日私の別ブログ ベトナムウォッチに掲載いたします。

※2017年12月23日ベトナムウォッチに記事投稿しました。

という訳で、真面目な話はあちらでじっくり書くので、こちらのブログでは今時の若者らしくベト充アピール。

パーティー会場は国会議事堂を見下ろす平河町森タワーのスカイラウンジを貸し切り。
シャンメリー、じゃなかったスパークリングワインで乾杯。

三十路過ぎて初めてこういう華やかな感じの事しました。かつてはクリスマスイブにおはぎをデコレーションして独りクリスマス会してる写真を2ちゃんねるに投稿して寂しさを紛らわせていた男でも、生きてればこういう機会が巡って来るんですね。

嬉しい事に、食べ物は普通のオードブル以外にも、参加者の有志がその場で手作りしてくれたベトナム料理が盛り沢山!
バインミ―のパンはオーブンで焼き直して外カリカリ中モチモチ。

ちまき(バインチュン)とピリ辛牛肉炒め。ベトナムのおっ母さんの手作り料理超おいしいですface05
ただし、牛肉炒めはその場で鉄板で炒めましたが、換気扇がやたら弱くて、肉を火にかけた瞬間濃縮された香辛料の煙が周囲に立ちこめて催涙ガス状態となり、部屋中が咳き込むハプニングが発生しました。

宴もたけなわ。いつも通りギター演奏でカラオケが始まります。僕の経験上、ベトナム人が宴会でカラオケする率120%。


いや~、素晴らしい時間を過ごせました。いろいろ新しい出会いもあり、楽しい以上に勉強になった会でした。

閉会後は六本木での二次会に誘われたけど、僕は次の日仕事で5時半起きだったので、泣く泣く帰る事にしました。
みんな「え、行かないの!?」と引き留めてくるけど、俺だって行きたいんじゃー!
なんでよりにもよってパーティー翌日の日曜に仕事が入るんじゃー!!

てゆーか他の人も朝4時半起きなのに二次会行くとか凄いね。僕は最低6時間寝ないと朝起きれない体質だから無理。
いいな~。行きたかったな~。いいな~。
  


Posted by 森泉大河 at 21:58Comments(0)2010年代・現在News!料理・食文化

2017年10月29日

巷で見かけないベトナム料理

 去る10月22日に、東京都品川区で開催されたファム・ミン・ホアン(Phạm Minh Hoàng)氏の講演会にお邪魔させて頂きました。ホアン氏は元ホーチミン工科大学教授で、2010年に学生への講義の中で人権に関する内容を扱った事で警察に逮捕され、2017年6月にはベトナム共産党政府によって市民権を剥奪され、国外追放となった人物です。講演の内容については私の別ブログ ベトナムウォッチの方に記事を投稿しましたので、そちらをご覧ください。


告知だけじゃなんなので、こちらが当日会場で頂いたお昼ご飯です。

ベトナム料理の定番中の定番、バインミー(Bánh mì)、生春巻き(Gỏi cuốn)、チェー(Chè)の3点セット。美味しかったです。


ついでに、毎年元日(陽暦節)やテト(元旦節)に日本にあるベトナム仏教寺院でふるまわれている、普通のベトナムレストランには置いていない料理をご紹介。

ブン(Bún)ですが、お寺なので肉はもちろん鶏ガラスープも使われていません。全て野菜などの植物から作られてるので、精進ブンとでも言いましょうか。さっぱりですが野菜の出汁がしっかりした、とても美味しいスープです。お肉っぽい色の物体が見えますが、実はこれ肉に見立てたキノコらしいです。食感も油揚げや高野豆腐のような繊維質で噛み応えがあり、本当に肉のようです。そんなキノコ日本では聞いたことも無いので、わざわざベトナムから仕入れたんでしょうか。

同じく精進ブン・トマトバージョン。見た目が辛そうですが、上に載ってる唐辛子さえ入れなければ全く辛くありません。

ココナッツミルクのお汁粉(左)と、甘く味付けしたもち米(右)。僕みたいな甘党にはたまりませんな。

みたらし団子みたいなお餅。

即席チェーと言った感じの袋に入った液体デザート


最後に、こちらは日本でもベトナム本土でも見た事が無い、アメリカのベトナムレストランで食べた料理。

なんと生の牛肉を甘辛ソースでそのまま頂く料理です。厚切りユッケとでも言いましょうか。超美味いです。一人で二皿くらい食えます。生肉を食らう命知らずは世界で日本人と韓国人だけだと思ってましたが、ベトナム料理にもあったのか。しかしベトナム本土で生まれ育ったベトナム人に聞いても、そんな料理知らないと言うので、もしかしたらこれはベトナムの中でも限られた地方でのみ食べられている郷土料理か、もしくはアメリカに渡ったベトナム移民たちが韓国料理のユッケを取り入れて考案したものなのかも。まぁ、美味ければ何でも良いよね。
  


2017年08月17日

連休

しらこばと水上公園


数年前、『月曜から夜ふかし』でいじられて、大人げなく取材拒否しちゃった埼玉県民お約束の県営プールです。
この日、越谷市の気温は38℃。う~ん、プール来てよかった♪


在日ベトナム人協会サマーキャンプ2017


7月に在日ベトナム人の皆さんがお台場で行ったフォルモサ公害問題に抗議するハンガーストライキにご一緒させて頂いた際、他の参加者の方から、8月に毎年恒例のサマーキャンプがあるので来ませんか?とお誘い頂たので僕も友人(日本生まれのベトナム人)と二人で1泊2日のキャンプに参加してきました。
詳細は私の別ブログ『ベトナムウォッチ』にあります。


ターミネーター2 3D


映画好きな弟が帰省していたため、二人で有楽町のTOHOシネマズ 日劇に観に行ってきました。
7歳と時に親父と映画館で観て以来、僕の人生最高の映画であり続けているT2。僕の中の『カッコいい』の基準は全てターミネーターで出来ています。つい5年前くらいまでは、ジョン・コナーの写真を美容室に持って行って、「この髪型にして下さい!」と注文していました。もうさすがにオッサン化したので今は出来ないけど、逆に今度は親父の方=T1のカイル・リース(マイケル・ビーン)をやってみようかしら。
内容は、これまで100回は観ているので目をつぶっていても分かりますが、やはり劇場の大画面で見るのは迫力が違いますね。元々3D向けに作られた映画ではないので、正直3Dになったという実感は感じられませんでしたが、遠近感と言うか臨場感は確かにあります。
映画の後はファミレスに入り、スマホでグラインドハウスを見ながら楽しい映画談義。


向かいの席のグループも映画の話をしていたので、多分僕らと同じくターミネーターを観た帰りなんでしょう。
でも、なんで向こうには女子が2人もいるんだよ。楽しそうにスターウォーズの話しやがって。
こっちはヒゲ眼鏡デブの弟と二人でヴァイラスとか鉄甲無敵マリアについて話してんだよ。なにこの格差!




筑波海軍航空隊記念館

プロジェクト茨城様との打ち合わせのため初めて訪問しましたが、偶然にもこの日は8月15日という事で、館内の展示を感慨深く見学させて頂きました。2階の窓から、雨の降る練兵場を見ながら泣いているお婆さんを見た時は、ここがかつて日本国民300万人を死に至らしめた戦争の証跡である事を強く実感させられました。
よく聞く言葉ですが、僕は「あの犠牲があったから今の私たちがいる」などという嘘は大嫌いです。20歳そこそこの若者が大量死する事が、どうして世の中にとってプラスに作用するのでしょう。もし彼らが生きていれば、そのせいで日本は滅びたとでも言うのでしょうか。
彼等の遺書を読んでいると、皆さん僕よりずっと若いのに、大変立派な事を書かれています。そう書くように『教育』されたからです。人間の醜さを知らない子供に壮言大語ばかりを教え、霞が関がでっち上げた虚構を信じ、善意で命を挿し出す人間に仕立てる教育を。
僕は一人の人間として、あの時代、あの体制を心から憎んでいます。その気持ちは軍事マニアとしてあの時代の事を様々な面から知るにつれ、より一層強くなっています。



つくば植物園


航空隊記念館のあとは僕の希望で、つくば実験植物園で開催されている水草展を見学。
植物園内では、友達の息子(5歳)に、「サボテンに挿されると体がサボテンになるから気を付けろ。ここに展示されているのは全身サボテンになってしまった人間たちだよ」と教えました。
また、かき氷を食べながら、「かき氷のブルーハワイを食べると、ブルーマンになる。」「防ぐにはイチゴ(赤)とメロン(緑)を食べて体の中を中和するしかない。ただし、間違ってイチゴ(赤)とレモン(黄色)を食べると、色が混ざって黒人になる」と着色料の過剰摂取に警鐘を鳴らす食育を施しました。
ついに、その子は半ベソ状態になってしまい、僕はお父さんに「マジでやめて」と怒られました。子供チョー可愛い!

ブルーハワイを食べ過ぎた人たち

  


2017年08月07日

第11回ありがとうコンサートとハン・ニョン中佐

米国時間8月6日、今年もカリフォルニア州サンノゼにて『Đại Nhạc Hội Cám Ơn Anh(ありがとうコンサート)』が開催されました。『ありがとうコンサート』は毎年夏にベトナム系アメリカ市民がカリフォルニア州サンノゼとガーデングローブ市の持ち回りで開催しているチャリティーコンサートで、コンサートで得られた寄付・収益は、現在もベトナムに住む元ベトナム共和国軍傷痍軍人・寡婦・遺族への生活支援にあてられます。


Người Việt Daily News: Đại Nhạc Hội ‘Cám Ơn Anh’ ở San Jose, hàng ngàn người tham dự

コンサートの様子はカリフォルニアのベトナム移民系テレビ局SBTNのYoutube公式チャンネルにて、全世界に生中継されました。


SBTNOfficial: LIVE: ĐẠI NHẠC HỘI CÁM ƠN ANH KỲ 11

当ブログも毎年このコンサートを応援しており、今年も滞りなく運んだとの事で、遠く離れた日本からもお祝い申し上げます。
2年前の第9回には、私自身も主催団体のベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会(Hội HO Cứu Trợ Thương Phế Binh và Quả Phụ Việt Nam Cộng Hòa)からプレスとして招待され、現地で取材を行ってきました。
その時の写真の一部はこちらの記事に掲載してあります。また、過去の開催内容についてはこちらの記事にまとめてあります。


しかし残念ながら、今年の『ありがとうコンサート』には、このコンサートを長年支え続けたある女性の出席は叶いませんでした。
彼女の名はグエン・ティ・ハン・ニョン(Nguyễn Thị Hạnh Nhơn)空軍中佐戦後、ベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会会長として長年戦争で身体障害を負った将兵や、戦死者の遺族への支援活動に尽力されてきた元ベトナム共和国空軍の女性将校です。
ハン・ニョン中佐はこの『ありがとうコンサート』の主催者の一人として、ご高齢の身を押して自ら先頭に立って会を率いてこられましたが、第11回コンサートが3か月後に迫った2017年4月18日、カリフォルニア州ファウンテンバレーの病院で息を引き取られました。享年91歳でした。

ベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会会長
グエン・ティ・ハン・ニョン空軍中佐(1927-2017)

 グエン・ティ・ハン・ニョンは仏領インドシナ時代の1927年、ベトナム中部のフエに生まれます。1941年にガールスカウトに入団したハン・ニョン氏は第一次インドシナ戦争中の1950年に、ガールスカウトの指導者として、ベトナム国軍第2軍管区の地方保安部隊『越兵隊(Việt binh đoàn)』に財務スタッフとして参加。後に正式にベトナム国軍の婦人隊員となります。
 終戦後の1957年、ハン・ニョン氏はフエのグエン・チ・フォン軍病院で勤務しますが、そこで多くの傷病兵や未亡人、孤児達を目の当たりにしたことが、後の彼女の人生を決定付けました。
 ベトナム戦争が悪化の一途を辿る1965年、ベトナム共和国軍は男性兵士の不足を補うため、軍の後方支援業務を担う女性軍人(Nữ Quân Nhân)制度を正式に発足し、ハン・ニョン氏は婦人隊の創設および女性軍人学校で教鞭を執った最初の女性将校となります。
 その後、ハン・ニョン氏は1967年にベトナム共和国軍総参謀部勤務となり、1969年には空軍少佐に、1972年には中佐に昇進します。ハン・ニョン中佐その後、1975年までタンソンニュット基地の空軍司令部婦人分団長を務めると共に、1950年以来25年間に渡って軍で勤務するとともに女性軍人の活躍を主導した功績を称えられ、ベトナム共和国最高位の"保国勲章5級(Đệ Ngũ Đẳng Bảo Quốc Huân Chương)"を授章します。

▲中佐に昇進し、総参謀部チャン・タイン・フォン少将によって階級章を交換されるハン・ニョン氏(1972年ジアディン省)

 しかし1975年の敗戦によりベトナム共産党政権に逮捕されたハン・ニョン中佐は、その後4年以上も強制収容所に投獄された後、1990年に家族と共にアメリカに亡命します。以後、ハン・ニョン中佐はカリフォルニア州オレンジ郡でベトナム"政治犯"互助会に参加し、共産党政権に"政治犯"として弾圧される人々への支援活動を開始します。そして1996年にベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会を発足し、以後21年間に渡って同会の会長を務めてこられました。また2006年からは、カリフォルニアのベトナム系音楽企業アジア・エンターテイメント、テレビ局のSBTNと共同で『ありがとうコンサート』を開催し、2017年で11回目の開催となります。ハン・ニョン中佐がこれまでの活動で集めた寄付金は100万米ドルを超えており、現在もベトナム戦争の傷跡に苦しむ元軍人や戦死者の遺族に届けられました。
 このように、今日では大々的に開催されているテャリティーコンサートですが、一方で、私が2年前にコンサートを取材した際には、ベトナム国内で行われる慈善活動はベトナム共産党政府の厳重な管理下にあり、実際には送られた寄付金の半分は支援には使われず、汚職役人や共産党幹部の懐に入れられてしまっているという嘆きもコンサート参加者から聞かれました。そのため当初は、こういった支援活動は共産党政府を間接的に支援する事になるのではと、在米ベトナム人コミュニティの中でも反対の声が多かったそうです。しかしそれでもハン・ニョン中佐らは、今も祖国で苦しむ同胞たちに少しでも支援が送れるのならと、活動を続けてこられました。
 私は、守るべき国家を失ってもなおハン・ニョン中佐が示し続けた同胞への奉仕と人間愛の精神は、これからも在米ベトナム人(ベトナム系アメリカ人)コミュニティの中で生き続けるものと確信しています。

[出典] 
Vietbao.com: Cựu Trung Tá Không Quân VNCH Nguyễn Thị Hạnh Nhơn Qua Đời Sinh Năm 1927 Qua Đời Ngày 18 Tháng 4 Năm 2017, Đại Thọ 91
VOA: Vĩnh biệt bà Nguyễn Thị Hạnh Nhơn  


2017年07月08日

新ブログスタート

これまで当ブログでは、現在ベトナムの国内外で行われている民主化運動や、それに対するベトナム共産党政権による凄惨な弾圧について度々お伝えしてきましたが、この度、そういった戦後および現代ベトナムの社会問題に関するブログを新たに立ち上げました。

やはりどんなに真剣にそういった問題を扱っていても、他の記事で『戦争ごっこ』などという常識を欠ていると見られかねない遊びをしているようでは、ちょっと説得力に欠けるよなと前々から思っていました。

そこで、ちょうど先日、お台場で行われた在日ベトナム人によるベトナム共産党政権への抗議デモを取材し、そこで知り合った皆さんに必ずブログに書きますと約束したので、この際新しくブログを作る事にしました。これまでこの一番槍ブログに載せてきた記事も掲載してあります。

ベトナムウォッチ ※ブログ名を変更しました。


今後戦後および現代ベトナム関連の話題はこちらのブログに書いていきますが、記事をアップしたら一番槍の方にもリンクを貼ってお知らせします。

興味のある方は是非ご覧いただき、テレビでは報じられない、ベトナム国民の生の声に少しでも耳を傾けて頂けたら幸いです。
  


2017年06月15日

映画 Trên Bốn Vùng Chiến Thuật ── 四つの戦術地区で ──

前回の記事に「おまけ」として書きましたが、改めて記事にします。

ベトナム出身で米国在住のセミプロ映像作家の友人が監督し、僕も制作に関わった新作ドキュメンタリー映画『Trên Bốn Vùng Chiến Thuật (四つの戦術地区で)』が6月18日(僕の誕生日!)に米国のベトナム移民系テレビ局SBTNで放映され、翌6月19日『国軍の日(Ngày Quân Lực)』にDVDでリリースされます!
この『四つの戦術地区で』は、元共和国軍人やご遺族へのインタビュー、現在の戦跡、当時の記録映像と再現VTRなどで、若い世代の目線からベトナム共和国軍とベトナム戦争の歴史を紐解いていくドキュメンタリー映画です。

画像: SBTN chuẩn bị trình chiếu và ra mắt DVD bộ phim tài liệu “Trên Bốn Vùng Chiến Thuật”


新たにDVDのCMが公開されました。



僕もまだ完成版は見てないのですが、監督本人から、本編にはタイガもけっこう登場しているよ、と教えてもらいました。
たぶんここら辺の映像が使われていると思います。

サイゴン 独立宮殿(旧総統府)

ビエンホア国軍墓地


米国ジョージア州およびケンタッキー州 ドラマ・再現VTR撮影



去年4月、彼がHồi Ức』製作しSBTNで放映された事を記事にした時、僕はこう書いていました。

「彼とはそう遠くないうちに会う事になる気がしています。情熱さえあれば、地球なんて案外狭いものさ。」

しかし、まさかその3か月後に二人でベトナムを旅し、12月にはアメリカで一緒に映画を撮る事になるとは予想だにしていませんでした。
しかも彼は、彼と出会う前に僕が日本で友達になった別の在日ベトナム人とドンタップ省の中学校で同級生だったという奇跡まで発生しました。
地球狭いとは言ったけど、狭すぎるだろ!(笑)
  


2017年05月27日

デガの声

【関連記事】


 少し前ですが、何の気なく他人のFacebookを見て回っていたら、僕のFULROコスプレ写真をプロフィール画像にしている人に出くわしました。その人の名前がラーデ族っぽかったので、試しに「その写真、僕です。僕は個人的にデガ*の歴史を勉強している日本人です」と話しかけてみたら、やはりその人、イールル・ブオニャ(Y-Lhul Buonya)はデガ(ラーデ族)で、現ベトナム政府による弾圧から逃れ難民としてアメリカに移住した方(現・アメリカ国籍)でした。
 日本人がデガに興味があるというのがよほど珍しかったようで、イールル氏は快く、僕にデガの間で語り継がれているベトナム戦争時代の話や第二次大戦中の日本軍とデガの関係など、いろいろな事を教えてくれました。
 また、イールル氏はアメリカ移住前からデガ運動(デガ民族自決運動)に参加しており、現在も米国でデガ難民への支援活動をされている方でした。僕は2000年代に、中部高原**でデガによる大規模なデモが2回発生しているところまでは把握していましたが、イールル氏はまさにそのデモに参加したためにベトナム政府に追われ難民となったのだそうです。

『デガ(Dega / Degar)』とはラーデ語で『森の人』を意味し、ジャライ族、ラーデ族、バナール族、ムノン族などのインドシナ半島中部高原に住む山岳民族の総称であり、同時に彼らの自称でもあります。またデガはかつてフランス領時代にフランス人から『(南インドシナ)モンタニャール』と、ベトナム戦争時代にはアメリカ軍から『ヤード』とも呼ばれていました。

19世紀はじめに順城鎮(チャンパ王国パーンドゥランガ王朝)が大南国(阮朝ベトナム)に併合されて以来、中部高原はベトナムの領土とされていますが、その後インドシナ諸国がフランスに征服されると、中部高原は大南国から切り離されてインドシナ植民地政府の直接管理下におかれ、1946年にはフランスによってデガの自治領『南インドシナ・モンタニャール国』まで設定されました。また1960年代にはFULROによる自治が行われるなど、中部高原は長らくベトナム人の支配が及ばない土地でした。つまり中部高原にベトナム人が大量移住し実質的にベトナム人国家の支配下となったのはここ40年余りの事で、現在でもデガ民族主義はベトナム人による中部高原の支配に抵抗しています。


▲2004年4月10日の中部高原デモ(タイグエン暴動)
ベトナム政府側はこの暴動を、国外の反動勢力に扇動された一部の過激派による破壊活動だと報道し、そもそも中部高原に民族問題は存在しないとしています。

 この70年間、ベトナム共産党はベトナム民族解放を標榜して幾多の戦争を行ってきた一方で、自国領内ではナチスのごとき人種迫害政策で、デガを始めとする少数民族に対し激しい弾圧と民族浄化を繰り返してきました。この人道上の犯罪に対し、人権意識が高くデガ難民も受け入れているアメリカやオーストラリアなどは早い段階からベトナム政府を非難する声明を発しています。
 イールル氏はに、マスコミ関係の知り合いはいないかと尋ねました。日本は人権が保障された先進国なので、是非日本のメディアにもデガと中部高原の実情を報じて欲しいとの事でした。しかし僕は彼に、非常に恥ずべき事実を伝えなければなりませんでした。残念ながら日本人は他国の人権問題にほとんど関心が無いので、恐らく国民の99.99%はベトナム政府によるデガへの迫害を知らず、また興味も抱かないでしょう。加えて、本来ならこういった問題を扱うべきメディアや人権団体もベトナム国内の問題には無関心であり、また中には『ベトナム共産党はアメリカを倒した善い人たちなのだから悪い事なんてするはずがない』と、いまだに現実から目を逸らし空想に浸っている層もまだまだ居るので、今後も日本国内でこの問題が取り上げられる事はほとんど絶望的です。
 イールル氏はこれを聞いて驚いていましたが、少しでも日本の人々にデガの置かれた境遇を知ってほしいと、僕宛てにご自身の半生を綴って下さりました。こんな零細ブログに書く事しか出来ないのが非常に悔しいですが、イールル氏に約束した通り、日本語訳したものをここに掲載します。

▲ラーデ族の民族衣装を着たイールル・ブオニャ氏 (2014年アメリカ)
手にしているのは米国ノースカロライナ州で設立されたモンタニヤード・デガ協会(Montagnard Dega Association)の旗


『私の半生』

 私の名はイールル・ブオニャ、1981年12月24日、デガ中高原生まれのデガです。私は9人家族で、非常に貧しい環境の中、教育を受けずに育ちました。私たち家族の食事は、母が調理してくれた米と野菜、果物のみでした。実際私たちにはお金がなく、食べるものにさえ余裕はありませんでした。この時期、私たちの国は危険地帯と化しており、生活のすべてに不安を抱えていました。誰かが食料を奪いに襲ってくることを恐れて、我が家の食料はあえて外に置いていました。私たち家族は中高原の田舎に住んでいました。私はそこで兄弟姉妹たちと遊んだ日々を覚えています。私の好きな遊びは釣り、狩り、そして牛を眺めている事でした。

 しかし1990年、私たちの暮らしは突如完全に破壊されました。ベトナム政府が北部のベトナム国民に対し、デガ中高原への入植を勧める政策を開始したのです。このベトナム人の大量流入の結果、中部高原の人口は急激に増大し、森林や農園は破壊され、野生動物は死に絶え、私たちの土地は奪われました。そして彼らは私たちデガを追い出し、生活が困難な岩だらけの土地に追いやりました。私の故郷の村にはベトナム人向けの家屋や商店、コンクリート舗装の道路が作られ、その土地はベトナム人たちに与えられました。

 1992年、私はベトナムの小学校に入学しましたが、私にとって学校に通うのは容易な事ではありませんでした。なぜなら教師たちは私たちデガの言葉ではなく、ベトナム語で授業を行っていたためです。しかしそれでも私は困難を克服し、小学校、中学校、高校に行く事が出来ました。ただし十分な学費が無かったので、私を含む兄弟たちは大学へ進学する事はできませんでした。入植してきたベトナム人たちと一緒に暮らすのは楽ではありませんでしたが、さらに困難だったのは、土地が農地へと開拓され尽くした事で、住む場所さえ見つけるのが難しくなっていた事でした。加えて私はキリスト教徒だったので、さらに問題を抱えていました。実際、ベトナム政府はデガ・キリスト教徒に対しある種の憎悪を抱いていました。なぜなら私たちは(政府ではなく)神を信じており、またベトナム戦争中、私たちはまるで愛する家族のようにアメリカ軍に対し献身的に協力していたからです。

 このような苦境の中で、中部高原では大規模なデモが2回発生しました。一つは2001年1月2日から3日にかけて。もう一つは2004年4月10日です。このデモはバンメトートとプレイクを中心に中部高原5省に住む私たちデガが、ベトナム政府に対し行ったものです。この二つのデモの目的は以下の4つでした。
一つ目が、デガ中部高原に自主政府を樹立する事。
二つ目が、すべてのベトナム人が中部高原から退去する事。
三つ目が、これらが認められない場合、我々デガは郷土を守る為ベトナム政府に対し戦争を開始する。
そして四つ目が私たちの最も強い要求で、ベトナム人は北緯17度線以南の中部高原から退去し、入植開始前の状態に戻す事でした。

 このデモに対し、ベトナム警察は非武装のデモ参加者を警棒や催涙ガスで攻撃し、多数の負傷者が発生しました。そしてデモ参加者の多くはカンボジア領内の国連難民キャンプに逃げ込まざるを得ませんでした。また一部ではデモ参加者の妻までもがベトナム警察に逮捕され、懲役3年から17年の刑を言い渡されたり、暴行、拷問を受け、また幾名かは消息不明となりました。私の場合は、17名の人々と共にジャングルの奥地に逃げ込み、食料、寝床、衣類も無いまま2か月間身を潜めていました。その間、私たちは一日の大半を、神が我々にこの状況から抜け出す突破口を見つける手助けをして下さいますよう祈る事に費やしました。するとジャングルでの生活の最後の週、国連難民高等弁務官が私たちを発見し、カンボジアの難民キャンプに連れ出してくれたのです。この時私は、自分がこの先どうなるのか想像もできませんでした。

 その後、私は6か月間難民キャンプで暮らした後、アメリカに移住する為の面接を受ける事が出来ました。そして私は面接に合格し、カンボジアを発って2004年にアメリカ ノースカロライナ州シャーロットに移り住む事が出来ました。一人アメリカに渡った私には家族も、服も、お金もありませんでしたが、信仰と思想の自由だけは保証されました。また移住に際し、カトリック難民協会がESLクラス(英語習得プログラム)や、フードスタンプ(低所得者向け食料支援プログラム)への登録、アパート契約を手助けしてくれました。その6か月後、私はロス社(大手生活用品店)に就職する事が出来ました。それ以来、私はロス社で在庫管理と品質保証担当者として11年間働いています。またアメリカに渡った5年後、同協会は再び、私が合衆国市民になる手助けをしてくれました。現在、私はGED(日本の高卒認定に相当)を取得するためコミュニティ・カレッジで勉強しています。私はアメリカ合衆国が私の人生を救い、自由を与え、成功した人生を送る機会を与えてくれた事を心から感謝しています。アメリカに神のご加護を。

 加えて、私は今でも祖国の為に戦い続けています。私たちの声は、ベトナム人の暴力には負けません。私たちデガはアメリカ政府による援助を受けています。いつの日か、アメリカ政府の援助がベトナム政府打倒の後押しとなり、私たちデガ難民が故郷に帰れる日が来ることを願ってやみません。

イールル・ブオニャ
2017年5月11日



(原文)

....... THE STORY OF MY LIFE.......

My name Y-Lhul Buonya I was born on December 24, 1981 in the Central Highland of Dega. I am a  (Dega). I was raised in very poor environment, with no education, and with a numerous family of nine members. Our family’s meals consisted of only rice vegetables and fruits which my mom cooked for us. Our family did not have a lot of wealth for a fact that is why we only ate what we could afford no more. During this period my country was unsafe place and there was need to worry a lot about everything of life time. We lived in the country side of Central Highland.  I remember playing with my brothers and sisters and leaving our stuff outside with fear considering anyone could take it any time they want. My favorite hobbies were fishing, hunting, and looking over the cattle.

All of the sudden in the year 1990 everything was completely destroy because, the government of Vietnam was persuading more Vietnamese from the Northerners to go live in the Central Highlands of Dega. As a result of this relocation of Vietnamese people population started to grow more ever see in the Central Highlands. With the Vietnamese arrival also came destruction of the forest, plantations, killing of animal life, and ownership of land. They push our Dega people's out of their good land and sent them into the rocky area where it was difficult to live. In my village there were building a Vietnamese house and store and concrete roads. They gave for Vietnamese to live there. 

In 1992 I started to go to Vietnamese school then. For me it was difficult to start school because the teacher was teaching me Vietnamese language which was not my original language. Overcoming all odds I was able to go to elementary, middle, and high school. I wasn’t able to go to college because there was not enough income for all my brothers, sisters, and I to continued school. It was hard to live with Vietnamese people but was harder to find a place to live because there no more land to farming. I myself was a Christian and was having even more trouble. For a fact the government of Vietnam had  type of hatred against the Christian (Dega) because we love our god, also we, devoted like a loving family with the USA army during the Vietnam War.

Two demonstrations were held one on January 2-3, 2001 and the other on April 10, 2004. The demonstrations were held between the government of Vietnam and our people, the Dega. We were 5 provinces in the Central Highlands, centered on Buon Ama Thuot and Pleiku.These two demonstrations were held because of four main reasons: our people were asking to have our own government in the Central Highland of Dega, second was all the Vietnamese men women children get out from the Central Highlands, the third was Dega will go to war with Vietnamese in our own homeland , and the fourth was our strongly desire all The Vietnamese people to withdraw from Central Highlands a different part of Vietnam from 17th parallel.

The Vietnamese police attacked the unarmed Dega demonstrators with police batons and tear gas. Many Dega were injured. Many of us fled to Cambodia and were in the United Nations’ refugee camp. Several wives as well the demonstrators were put in prison 3 to 17 years, some were beaten, torture and others disappeared. On my part, I with seventeen other people escaped to the jungle. We stayed in the jungle for about two months without food, shelter, and clothes. Much of our time was spent praying to god to help us find a way out. The very last week in the jungle the United Nations High Commissioner Refugee team found us and took us to a refugee camp in Cambodia.  At that time I had no idea what was going to happen next.

I was in the refugee camp for about 6 months. On the last month of being there I was able to get an interview to come to the United States. I passed the interview and I fled out of Cambodia and came to Charlotte, North Carolina on 18, 2004. I had no family members, no clothes, and no money. I just came with my faith and thought having freedom. When I got here the Catholic Refugee association helped me register for ESL classes, apply for food stamps, and to rent an apartment. After six months I was able to find a job at the Ross Company. Since then I have being working with the Ross Company for about eleven years as an Inventory Control and Quality Assurance Clerk. Also after five years of being in the USA the same association helped me to become a US citizen. Now I have had the opportunity to go to school and get my GED in a community college. I am very thankful to the United States for bringing me here, saving my life, giving me freedom, and giving me the opportunity to be asuccessful person. God bless America. 

In addition, Now I am continue to fight for my country our voice is stronger than the Vietnamese bombs. We the Dega accepted the United States Government Sponsorship and Support. With the American government help we will defeat the Vietnamese government, I hope soon We will go back to our motherland.

Y-Lhul Buonya
May 11, 2017



<関連資料>

◆デガ諸民族の居住地域

現在のベトナム領南部の大部分は18世紀までチャンパ王国やクメール王国(カンボジア)の領土であり、先住民であるデガやチャム族は中国南部から南下を続けるベトナム人(キン族)と千年以上に渡って争いを続けてきました。デガとベトナムの民族問題に関しては、新江利彦著『ベトナムの少数民族定住政策史』に非常に詳細に記されています。日本語で書かれた資料としては最良の本だと思います。高い本ですが、国会図書館等に行けば無料で閲覧できます。


米国で設立されたデガ難民互助・支援団体





◆デガ運動の指導者

故イーバム・エニュオル(Y- Bhăm Êñuôl)氏/ラーデ族
チャンパ高原臨時政府大統領・FULRO / 南インドシナ・モンタニャール国解放戦線最高司令官
1958年のBAJARAKA運動以来デガ/FULRO運動を指導し続けたイーバム・エニュオルは、1975年にカンボジア共産党によって処刑されましたが、そのカリスマ性は神格化され、現在でも全てのデガ運動の父として崇められています。


1960年代のFULRO運動最盛期を牽引したイーバム・エニュオル、パウル・ヌル、ネイ・ルエットの三指導者
1960年代末、それまで敵対してきたFULROとベトナム共和国政府(サイゴン政府)は、北ベトナムのベトナム労働党政権を共通の敵として、一転して民族融和に動き出し、イーバムの腹心であるパウル・ヌルおよびネイ・ルエットは少数民族発展省長官としてグエン・バン・チュー政権の閣僚となります。これは千年以上続いてきた民族対立の歴史の中で画期的な和解でしたが、1975年に北ベトナムが戦争に勝利した事で、これら和平への努力は完全に瓦解されました。



コック・クソール(Kok Ksor)氏ジャライ族
デガ財団代表・元FULRO幹部



 ロン・ネイ(Rong Nay)氏/ジャライ族
モンタニヤード連合代表・現代ベトナム先住民族会議副議長・元FULRO副指令



ポー・ダルマ(Po Dharma)博士/チャム族
チャンパ史研究家・元FULRO/クメール国軍大尉
ポー・ダルマ氏らチャム族は正確にはデガではありませんが、チャンパ王国を興したチャム族は古代からデガと親密な関係にあり、現在も共に中部高原解放運動を行っています。
  


2017年03月05日

ベテランの軍装

 ベトナム共和国軍は1975年4月30日の敗戦によって解体されましたが、当の共和国軍人たちにとって、彼らが最後に受け取った正式な命令は、4月30日午前10時30分にズオン・バン・ミン総統から下された『戦闘停止』までと認識されています。
 なぜなら午前12時にミン総統が全面降伏とベトナム共和国政府・軍・警察の即時解散をラジオ放送を通じて命じた時点で、ミン総統は既に共産軍に拘束されており、この降伏声明は共産軍側が用意した原稿を無理やり読まされたもので正式な命令ではないと考えられているからです。総統府(独立宮殿)が占領されミン総統が拘束された時点で、ミン総統は憲法が定める政府を代表する職権を遂行できない状態にあり、その状態で発せられた命令に効力は無いと軍人たちに受け取らています。
 そのためベトナム共和国軍は1975年に離散はしたものの、解散はしておらず、彼ら軍人も事実上復員しただけで、正式な退役はしていません。なのでこの状態を表す日本語としては残党』が当てはまると思いますが、残党はあまり聞こえの良い言葉ではないですし、実際には軍事的な活動もしていないので、僕は彼らのこと事を復員軍人もしくはベテラン*と呼ぶことにしています。(Veteranは日本では退役軍人と訳されますが、必ずしも退役している必要はなく、言わば『古参兵』を意味する言葉です。)
 従って彼らベテランは終戦から40年以上たった現在もベトナム共和国と共和国軍に『所属』しており、その軍服のデザインは彼らの歴史と誇りを語り継ぐ『現役』の制服として、今もベテランの方々に式典や会合などで着用されています。


作戦服

 当時ベトナム共和国軍将兵の大半は日ごろから作戦服(Quân phục Tác chiến)を勤務服として着用していたため、ベテランの方々も作戦服を着て式典に参加される事が多いです。しかし彼らは軍装マニアではないので、高価な実物やレプリカを購入する人はごく一部であり、殆どの人は住んでいる街の洋服屋やサープラスショップで購入した代用軍服を着用しています。その為、服の形状や迷彩柄はバラバラな事が多いです。世の中にはマニア向けの高価なレプリカ軍服がたくさんありますが、ベテランたちが着ている服は一セットの30ドルほどの中古BDUに過ぎません。しかし彼らが軍人としてそれを着た瞬間、その服はまぎれもない『本物』の共和国軍軍服になるのですから、どんな気合入ったコスプレもこれには敵いませんね。


<オリーブグリーンBDUおよびユーティリティユニフォーム、その他で代用>

▲陸軍歩兵科(Bộ Binh)


陸軍装甲騎兵科(Thiết Giáp Kỵ Binh)


▲憲兵隊(Quân Cảnh)


技術局連絡部"雷虎"偵察チーム(Biệt kích Lôi Hổ / Sở Liên Lạc / Nha Kỹ Thuật)、通称MACV-SOGの作戦時の個人装備


地方軍(Địa Phương Quân)


地方軍独立偵察中隊(Đại Đội Trinh sát biệt lập / Địa Phương Quân)、英語名PRU


<ウッドランドBDUで代用>

▲陸軍レンジャー科(Biệt Động Quân)


▲陸軍特殊部隊科(Lực Lượng Đặc Biệt)/空挺コマンド部隊(Biệt Cách Nhẩy Dù)


<仏軍その他のリザード系迷彩服で代用>

陸軍空挺科(Nhẩy Dù)


アパレル各社のタイガーストライプ系迷彩服で代用>

海兵隊(Thủy Quân Lục Chiến)


技術局連絡部"雷虎"部隊(Biệt kích Lôi Hổ / Sở Liên Lạc / Nha Kỹ Thuật)


技術局作戦部"黒龍"部隊(Biệt kích Hắc Long / Sở Công Tác Nha Kỹ Thuật)


<6カラーデザート迷彩BDUで代用>

▲国家警察野戦警察隊(Cảnh Sát Dã Chiến)/武装支援隊(Yểm Trợ Võ Trang)


<米軍パイロットスーツはまたは民間のカバーオールで代用>

▲空軍パイロット(Phi công Không quân)


黒色のアオババ>

技術局沿岸警備部"特海"部隊(Lực Lượng Biệt Hải / Sở Phòng Vệ Duyên Hải / Nha Kỹ Thuật)
黒色のアオババ(Áo bà ba)は外国人から『ブラックパジャマ』と呼ばれベトナム共産ゲリラの代名詞とされていますが、当時のベトナムでは極ありふれた作業着であり、政府軍でも特に海軍や水上部隊が作業着として好んで使用しました。※ただし当時はパッチはほとんど付けていません。


農村開拓団(Xây Dựng Nông Thôn)
黒色のアオババやシャツはベトナム国民の多数を占める農業労働者を象徴する服として、全国で数百万人が所属した人民自衛団(NDTV)や農村開拓団(XDNT)などの民兵・自警団組織では制服としても使われていました。同時にベトコンも政府軍と同様に、貧しい農家の味方である事をアピールすため同じ服をゲリラだけでなく常設戦闘部隊の戦闘服に採用していました。


正装

 元士官候補生や将校は当然ながら全員職業軍人であり、終戦後も共和国軍への強い帰属意識を維持しておられます。そのため式典の際には作戦服だけでなく、勤務服以上の正装を着用することがままあります。これら正装は、アメリカ軍の制服などで代用できるものは代用されるものの、デザイン的に大きく異なる物に関しては、ベテラン向けのリプロ業者が製作したものが使用されています。中でも元PRU将校のフン少尉は全米で最大のベテラン向けリプロ業者であり、少尉の店に行けば共和国軍の殆どの部隊の制服が手に入るところまでラインナップを充実させておられます。なお、これらベテラン向けリプロは我々マニア向けではないので、当時の物を細部まで再現する事は目的としていません。なので、サイズや材質は当時の物とは一目見て分かるほど別物です。しかし本物の軍人たちが使用する為の物である以上、これらも先述の代用品と同様に、レプリカではなく現在製の本物と言っていいと僕は思っています。

▲カリフォルニアのフン少尉のお店にて。2015年に初めて訪問し、2016年12月にもお会いしてきました。


▲陸軍士官 外出服(Quân phục Dạo phó)


海軍士官 冬季外出服(Quân phục Dạo phó Mùa đông)


海軍士官、士官候補生、下士官・水兵 夏季勤務服(Quân phục Làm việc Mùa hè)、外出服(Quân phục Dạo phó Mùa hè)




国家警察 勤務服、夏季外出服、作戦服


女性軍人(Nữ Quân nhân)外出服


幼年学校生徒(Thiếu Sinh Quân)準礼服、大礼服


空軍士官候補生およびベトナム国立武備学校士官候補生 大礼服(Quân phục Đại Lễ)
青が空軍士官候補生、赤がベトナム国立武備学校(Trường Võ Bị Quốc Gia Việt Nam)の大礼服です。


ベトナム国立武備学校(Trường Võ Bị Quốc Gia Việt Nam)士官候補生 夏季準礼服(Quân phục Tiểu Lễ Mùa hè)
なんと服だけでなく縮小版のダラットの校門まで作って再現います。


▲空軍士官候補生 夏季外出服


トゥドゥック武科学校群・歩兵学校(Liên Trường Võ Khoa & Trường Bộ Binh Thủ Đức)予備士官候補生 大礼服
白が武科学校群時代(1960年代前半)、カーキが歩兵学校時代(1960年代後半以降)の大礼服です。



ゥドゥック歩兵学校(Trường Bộ Binh Thủ Đức)予備士官候補生 夏季準礼服


ドンジェ軍校(Quân trường Đồng Đế)予備士官候補生 夏季準礼服


▲国家警察アカデミー(Học Viện Cảnh Sát Quốc Gia)士官候補生 外出服、勤務服



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 話は変わって、ちょっと小言を。今月のコンバットマガジン(2017年4月号)に載っていた菊月俊之氏のベトナム戦争特集の中の、『南ベトナム軍』の部分には正直がっかりしました。氏が米軍軍装に大変お詳しい事は私も承知していますし、専門外の南ベトナム軍について知らない事があるのは決して恥ずかしい事ではありませんが、興味も無いのに知ったかぶりして明らかな間違いや決めつけを書かれていたのはとても残念に感じました。
 私は基本的に、他人が個人ブログやサイトで間違った事を書いていても無視しています。しかしコンバットマガジンが何冊売れているのかは知りませんが、全国で売っているのだから少なくともウチみたいな一日200~500ビューくらいの個人のブログなんかよりはるかに多くの読者が居るはずです。またライターさんは素人ではなく、仕事としてお金をもらって記事を書いている訳ですから、今回は厳しめに苦言を呈します。

 加えて、コンバットマガジンはなぜかベトナム戦争終結41周年目の去年に終戦40周年記念特集号(2016年5月号)を出してましたが、その時も、ミリタリー雑誌のベトナム戦争(特にベトナム共和国)に対する認識は所詮こんなものか、という残念な感想しか抱けませんでした。(なのでこの号はむしろ菊月氏の米軍個人装備ガイドブックだけを目当てに買いました)
 商業誌は読者が読みたがってる記事を書かなきゃ商売にならないから、私みたいに好き勝手には書けないというのは分かります。しかしそうだとしても、日本国内には難民として来日しこの国に定住した約1万人の旧ベトナム共和国出身者と、日本で生まれたその家族たちが生活しています。また世界に目を広げれば、旧ベトナム共和国を祖国と仰ぐベトナム難民・移民の数は約300万人に上ります。彼ら反共派のベトナム人は1960年代から半世紀以上に渡って、大手メディアや自称『平和活動家』たちの歪んだ『正義感』の犠牲となってきました。ベトナム戦争を自身の思想を肯定するための道具にしようとする人々は、ベトコンが掲げる『民族解放』という言葉の気持ち良さに溺れ、反戦』という言葉をアメリカをバッシングする為だけに使い、一方でベトナム国民への恐怖政治と大量虐殺を繰り返すホー・チ・ミン政権とベトコンによる『解放戦争』を称賛し続けてきました。さらにその上、彼らはこの気持ち良い『正義』に相反するベトナム共和国政府と反共派ベトナム人を敵視し、終戦から40年以上経った今でも誹謗中傷の的としています。私はこのような一方的な正義感で立場の弱い人々を傷つけ、あまつさえ『良い事』をしたつもりになっている人々に強い憤りと軽蔑の念を抱いています。
 もちろん、コンバットマガジンがそのような政治思想に基づいた主張を行ったとは思っていません。記事に書かれていたのは、ベトナム戦争当時から日本国内で出回っていたごく一般的な論評であり、特別な事は何もありませんでした。しかし、その一般的な論評こそが、当時流行した反米運動、そしてその流れに迎合したメディアによって流布されたものであり、半世紀にわたって300万人の在外ベトナム人、そして数えきれない数のベトナム国民を落胆させてきたのです。
 ミリタリー、そして歴史を論ずるという事は、すなわち人間の命と人生を論ずる事に他なりません。戦争とは人間同士の憎悪と暴力の塊であり、たった40年くらいで遺恨が消えるようなものではありません。当事者はもちろん、第三者がいかに『公平』に語ろうとしても、それは必ずどちらか一方に利し、もう一方に不利と受け取られてしまいます。なのでもちろん、私が主張している事は、それと相反する立場の人々にとっては大変偏った暴論であると見做されているでしょう。しかし同時に、反対の立場の人々がどんなに自信満々に『正しい』と思う事を言ったところで、それによって傷つく人々が確実にいる事を忘れないで頂きたいです。私は、たまたまその弱い立場の人々と縁があったので、日本国内では声を上げにくい彼らに変わって、矢面に立って言うべきことを言わせてもらいます。