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2024年02月11日

甲辰年元旦節

新年明けましておめでとうございます!
今年もいつものベトナム寺に元旦節の初詣に行ってきました。





お寺で偶然、知り合いの元ベトナム共和国軍将校(陸軍中尉)Tさんと再会。


Tさんと初めて会ったのは今から約10年前の2014年で、その時の感想は過去記事『生き証人』に記したとおりです。
僕にとっては初めて生で会話したベトナム軍ベテランであり、またその時に地雷を踏んで義足になった足を見せてもらい、自分の歴史・軍事趣味は、今現在生きている人間の人生の記録でもあるのだと強烈に印象付けられました。

また、会場ではTさんのご友人方ともお話しさせて頂きました。皆さん40数年前に難民として来日し、そのまま定住された方々です。(戦争中は学生だったので、元軍人ではない)
日本におけるインドシナ難民の受け入れと支援体制は、『無いよりはマシ』程度のもので、同じく難民として欧米に移住したベトナム人コミュニティと比べると、日本のベトナム難民はだいぶ苦労したと皆さん仰っていました。
そんな中、Tさんは自身が身体障害を負いながらも、年下の仲間の相談に乗り、仕事の世話をするなどし、周囲からの尊敬を集めていたといいます。

この10年で僕は、日本・ベトナム・アメリカ・フランスに住む大勢のベテランおよび難民の方々とお会いしてきましたが、初めて出会ったベテランがこの方で本当に良かったと思います。
  


2023年11月11日

フランスでお会いしたベテラン達

※2023年11月12日更新


右:チャン・ドゥック・トゥン陸軍中

トゥン中佐は陸軍空挺師団所属の軍医で、長らく第3空挺大隊の主任軍医を務め、最終的に空挺師団衛生大隊長を務めておられました。
トゥン中佐は後述するカオ准尉のご親戚(トゥン中佐はユー家の養子。ユー・コック・ルォン大佐、ドン中将の義兄弟)であり、家も近いので、慰霊祭の日はカオ准尉の車で自宅から送り迎えしました。
私は民間人なので軍隊式の敬礼はしないつもりだったのですが、別れ際に、トゥン中佐が私たちに敬礼をされたので、この時ばかりは心を込めて答礼させて頂きました。
(写真は衛生大隊長時代。1975年)










左:チャン・ディン・ヴィ陸軍大佐/フランス陸軍大佐

ヴィ大佐は第1次インドシナ戦争期に、フランス植民地軍麾下のベトナム人コマンド部隊であるコマンドス・ノーヴィトナムの中でも最も勇名を馳せたコマンド24"黒虎"の副隊長(当時曹長)として有名です。
その後1952年にフランス軍からベトナム軍へと移籍し、ベトナム戦争中は陸軍大佐として第41歩兵連隊長、ビンディン省長官(=地方軍ビンディン小区司令)等を歴任しました。
ヴィ大佐の軍歴はこれに留まらず、1975年の敗戦によりベトナムを脱出した後、1976年に特例的にフランス外人部隊に少佐として採用され、第1外人連隊連隊長に就任します。
(通常、元将校であっても、外人部隊に入隊する際は兵卒として採用されます。かつてフランス軍下士官であったとは言え、外国人がいきなり将校、しかも連隊長になるのは異例中の異例の人事です)
その後ヴィ氏は12年間フランス軍で勤務し、フランス軍でも大佐となり、1988年に退役しました。
ヴィ大佐の軍歴の長さと軍功の多さは、数多のベトナム軍人、そしてフランス軍人の中でも抜きんでており、恐らく最も多数の勲章を受章したフランス軍人と言われています。
そんな生ける伝説的な人物と直接お会いできた事は、この旅最大の感動でした。
(写真はコマンド24副隊長時代。1951年ナムディン省)





右から:
チャン・ドゥック・トゥン陸軍中佐
ホアン・コー・ラン陸軍大佐
グエン・バン・トン陸軍一等兵


ホアン・コー・ラン陸軍大佐

ラン大佐は在仏ベトナム空挺協会の代表として、毎年ノジャンシュルマルヌ墓地での慰霊祭を主催しておられる人物です。
ラン大佐はハノイ出身で、ハノイのベトナム陸軍衛生学校に在学していましたが、1954年にジュネーヴ協定によって北ベトナムがベトミン政権に明け渡されたため、衛生学校が南ベトナム領内に移転し、それに伴ってラン大佐も南ベトナムに移住しました。そこで訓練の一環として空挺部隊(当時は空挺群)による落下傘降下訓練を受講し、1957年に衛生学校を卒業すると軍医として空挺群に志願します。
当時空挺群に軍医はたった3名しかおらず、その後も空挺部隊、ひいてはベトナム軍全体が慢性的な軍医不足に悩まされていたため、部隊がひとたび戦場に出ると、一般の空挺部隊将兵がシフトを終えて基地に帰還する一方、ラン大佐を始めとする軍医は何か月も前線に留まり続けたそうです。そうした困難な任務に臨み続け、ラン大佐は最終的に空挺師団軍医長を務めておられました。
ラン大佐は昼食を食べながら私に、「私は20年近く空挺部隊にいた。それはあまりに長かったし、あまりに人の死を見過ぎたよ」と語ってくださりました。
(写真は空挺師団軍医時代)






ユー・コック・ルォン空軍大佐

ルォン大佐は長らく、総参謀部直属の特殊工作機関NKT内の航空支援部司令として、米軍MACV-SOGが企画した全ての特殊作戦の航空部門を統括していた方です。
私が持参した、NKTベテランの証言をまとめた書籍"Cuộc Chiến Bí Mật(秘密戦争)"をお見せすると、熱心に読んでおられました。
またルォン大佐はベトナム空軍が創設されて間もない1953年にフランスに派遣され、フランス空軍による飛行訓練を受けた、ベトナム空軍の最初期のパイロットの一人でもあります。
戦時中は同じくパイロットであったグエン・カオ・キ空軍中将(副総統)と近しい関係だったそうですが、戦後のキ中将の言動には他のベテランそして多くの元ベトナム共和国国民と同様にうんざりしており、キ中将の話題を振ったら「奴は話し過ぎなんだよ・・・」と嫌悪感を露にしていました。
ちなみにルォン大佐の弟さんは、陸軍空挺師団師団長として有名なユー・コック・ドン陸軍中将で、先述のトゥン中佐も義兄弟です。
(写真はNKT航空支援部司令時代)











"ルイ"タン・ロック・カオ(ベトナム名カオ・タン・ロック)フランス海兵隊准尉

今回、私がフランスでご自宅にホームステイさせて頂いたのが、ルイおじさんことカオ准尉です。
カオ准尉はベトナム共和国サイゴン出身ですが、ベトナム戦争中はまだ子供だったため、ベトナム軍に従軍した事はありません。彼は1980年に国連の難民脱出プログラムによってフランスに移住し、その後フランス海兵隊将校となりました。
しかし母方のおじがベトナム陸軍空挺師団師団長として有名なユー・コック・ドン陸軍中将(ユー・コック・ルォン空軍大佐の弟)であった縁から、現在では在仏ベトナム空挺協会の若手リーダーを務めていらっしゃいます。
(カオ准尉の現役時代の所属は海兵歩兵連隊であり空挺部隊ではありませんでしたが、落下傘降下資格は持っているそうです)

ホームステイしていた5日間、カオ准尉からはフランスや旧フランス植民地におけるベトナム人コミュニティに関する興味深い話を毎日聞くことが出来ました。
例えばカオ准尉が現役時代に偶然出会った外人部隊のベトナム人曹長。彼はコテコテの北部ベトナム語を話しつつも同時にフランス語も完ぺきに話していたので、カオ准尉不思議に思い、彼に話しかけたそうです。すると彼は仏領ニューカレドニア生まれ、元ベトナム人民軍少佐、そしてフランス外人部隊曹長という異色すぎる経歴の持ち主だったそうです。大変数奇な人生を送られた方なので、この人についてもまたあらためて記事にできればと思います。
  


2023年06月25日

ダクラク省の争乱とデガ運動の旗

※2023年6月26日

 ベトナム公安省および複数のメディアは、去る2023年6月11日早朝、ダクラク省クークイン地区エアティウとエアクトゥルの2つの都市の人民委員会本部が武装集団によって襲撃され、警察官や人民委員など合わせての9名のベトナム人が死亡、3名が負傷したと発表しました。
 治安当局は当初からこの襲撃を、中部高原に住む少数民族デガの武装組織による反政府テロと断定し、その後6月23日までに84名のデガの容疑者を逮捕、多数の武器弾薬に加え、FULRO(フルロ)の旗を押収したと発表しています。

▲今回の襲撃を行ったとされるデガの武装組織 (写真:Thời báo.de)
掲げている旗は現在の各地のデガ系団体で用いられているデガ諸民族の統一旗。ベトナム共産党政府はこの旗を『FULRO旗』と見做していると思われる。

公安省の実行部隊に逮捕されたデガ武装組織のメンバー (写真:Báo Công An Nhân Dân)


 中部高原では2001年と2004年にもデガによる大規模な反政府デモが発生しました。その際デモ隊は、ベトナム人が中部高原から退去する事を求め、これが受け入れられない場合「デガは郷土を守る為、ベトナム政府に対し戦争を開始する」と宣言していましたが、あれから19年の時を経て、ついに武力闘争が現実のものとなってしまいました。
 死人が出ている話ですし、今後ベトナム政府は一般市民を含むデガ全体への大規模な報復、締め付けを開始するでしょうから、引き続き情勢を注視していきたいと思います。


 なおデガを含む中部高原少数民族の独立運動組織は幾度も瓦解と再建を繰り返しており、常にFULROという組織が存在していた訳ではありません。現在ベトナムでFULROと言う場合、それらは一般的に、中部高原少数民族がベトナム人政府からの自治・独立を目指して、1945年から現在に至るまで80年近く続けている一連の抵抗運動の総称、いわゆる『デガ運動』、『FULRO運動』、あるいは『FULRO闘争』全体の事を指します。
 その中で、20世紀後半にデガ運動を牽引した各組織の概要と旗は以下の通りです。


PMSI (南インドシナ・モンタニャール国) 1946~1955年
第一次インドシナ戦争開戦直後、フランス人兵士の人員不足が深刻化していたフランス軍は、デガを含むベトナム領内の少数民族をフランス連合軍の兵力として活用するとともに政治的にフランスの勢力下に置くため、1946年、中部高原のデガに対し『PMSI (南インドシナ・モンタニャール国)』という広大な自治区を設定し、ベトナム人政府から独立させた。この自治区は1950年に『皇朝疆土』と名前を変えつつ、フランスの後ろ盾をもって1955年まで存在した。
この時期、デガはフランス軍の指揮下で第4ベトナム師団を構成した。
(過去記事参照)


BAJARAKA(バジャラカ)運動 1958~1964年
ラーデ族のイーバム・エニュオルを指導者とする、デガ諸民族からなる初の統一的な政治運動組織。BAJARAKAの名は運動の中心となったバナール族、ジャライ族、ラーデ族、コホー族の頭文字から。
南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権に対し自治権を要求する運動を1958年に展開する。しかし、まもなくイーバムら幹部は政府によって逮捕され、イーバムは以後6年間投獄される。
しかし1961年、イーバムの腹心であるネイ・ルェット(ジャライ族)が釈放され、ルェットはその後アメリカ大使館USOM代表ジョン・アルバートソンの下でデガ語通訳として働き、アメリカ大使館とのコネクションを形成する。また同年、米軍がCIDG計画を開始すると、BAJARAKAの構成員の多くがCIDG兵士として米軍の指揮下に入る。


FLHP (中部高原解放戦線) 1964~1968年
1964年にイーバム・エニュオルが釈放されると、デガ指導部(旧BAJARAKA)は再びイーバムを指導者とし、FLHP (中部高原解放戦線)を結成、同時に他の少数民族との連合組織であるFULROに参加する。
以後、兵力・政治力共にこのFLHPがFULROの中心勢力となる。


FULRO(被抑圧民族闘争統一戦線) 第1期 1964~1968
 
クメール王国軍のレ・コセム大佐(チャム族)の呼びかけによって1964年に結成された、デガ(FLHP)、チャム族(FLC)、クメール族(FLKK)の3派連合組織。総司令官にはFLHPのイーバム・エニュオルが就任した。
米軍のCIDG計画により武器と資金源(米軍からの給与)を得た事で、1964年に南ベトナム政府に対する大規模な反乱を実行する。(米軍は反乱を予期していなかった。そもそもFULROは、南ベトナム政府へのサボタージュを目的としてレ・コセム大佐がシハヌークおよびロン・ノル将軍に提案、許可を得た破壊工作であった)
この反乱に対し南ベトナム政府はFULROの徹底的な掃討、CIDGの解体を行おうとしたが、CIDGを兵力として活用したい米国の圧力に南ベトナム政府は屈し、FULRO幹部が司令部をカンボジア領内に移動しただけで、CIDGは引き続きFULROの公然組織として存続した。その後も米軍はCIDGを重用するとともに、南ベトナム政府に対し少数民族との和解を求めたため、1960年代末には南ベトナム政府が譲歩し、中部高原におけるFULRO・デガによる自治容認、民族融和政策を行った事で政府と少数民族の関係は改善する。
しかしFULROのスポンサーであるクメール王国(シハヌーク政権)の目的はデガの自治などではなかったため、クメール側の真意に気付いたイーバム・エニュオルおよびFLHPは1968年、クメールの統制下から離反し、FULROは事実上解散する。
なお、レ・コセム大佐の配下にあったFLC(チャム族)系およびFLKK(クメール族)は、その後正式にクメール国軍にFULRO大隊として編入される。


FLPMSI (南インドシナ・モンタニャール国解放戦線) 1968~1975
FULROから脱退したイーバム・エニュオルおよびFLHP系勢力が1968年に結成。
しかしクメール政府はFLHPの離反を許さず、イーバムはクメール王国軍情報部に拉致され、以後プノンペン市内に7年間軟禁される。
その間、南ベトナム政府の民族開発省長官となったネイ・ルェットは、カンボジアで軟禁状態にあるイーバムと連絡を取り合い、アメリカ大使館に援助を求め続けたが、結局アメリカ政府がFLPMSIを支援することはなかった。


FULRO(被抑圧民族闘争統一戦線) 第2期 1976~1992
1975年にクメール共和国、ベトナム共和国政府が相次いで共産主義勢力に打倒され、デガ指導者イーバム・エニュオルはプノンペン市内でクメール・ルージュによって処刑される。ベトナムではベトナム共産党政権によるデガへの民族浄化が開始された事で数万人のデガが難民となり、多数の死者を出しながらカンボジア領へ避難した。しかし避難先のカンボジアでもポル・ポト政権による少数民族への虐殺が行われており、難民たちはベトナム・カンボジア双方による迫害から逃れるため、人里離れたモンドルキリ州のジャングルの奥地に潜伏するしかなかった。
このモンドルキリ州での避難生活の中で、デガ(旧FLPMSI)を中心とする少数民族たちは新たに加わった難民と結束し、再び2万人規模のFULROを再結成する。
これに目をつけたアメリカCIAは、またしても彼らを共産主義に対する戦力として利用するためFULROに近付き、支援を約束した。これを受けて、かつてCIDG計画でアメリカ軍と共に戦った彼らはCIAを信用し、アメリカによる支援を信じて再びベトナム政府へのゲリラ戦を開始する。
しかし、結局CIAが彼らに対し支援を行うことはなく、一度ならず二度もアメリカに見捨てられた彼らに対し、ベトナム軍は徹底的な掃討を行う。さらにベトナム軍のカンボジア侵攻、FULROの内部分裂によって組織は壊滅状態に陥り、最終的にはベトナム・カンボジア軍による追撃から逃れるためジャングルの奥地に逃げ込み、そこで政権を追われたポル・ポト派と共に山賊のような状態で潜伏する事となる。
その後、ベトナム軍のカンボジア撤退によってカンボジア和平が成立し、1992年にUNTAC(国際連合カンボジア暫定統治機構)による武装勢力の武装解除が始まると、抗戦に疲れ果てたFULROは国連による難民認定と国外脱出を条件にUNTACに対し降伏。この知らせに、かつての戦友である米軍グリーンベレーが応え、グリーンベレーの本部があるノースカロライナ州フォート・ブラッグ基地周辺に約400人のFULRO(元CIDG)兵士とその家族が移住した。


▲FLHP旗とデガ指導者イーバム・エニュオル

▲FULRO旗(第1期)を米兵に見せるFULRO / CIDG兵士 (ベトナム共和国,1964年)

▲FLPMSI旗を持つ構成員と米兵 (ベトナム共和国クアンドゥック省, 1969年9月)

▲FULRO旗(第2期)を掲げる構成員 (カンボジア・モンドルキリ州, 1992年)


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2023年04月30日

サイゴン陥落から48年

48年前の今日、ベトナム共産党は約30年に及ぶ共産主義革命戦争の末にサイゴンを陥落させ、ベトナム全土を支配下に置きました。
以後、ベトナム共産党は旧ベトナム共和国政府に属した軍人・公務員を数年から十数年投獄しただけでなく、「解放」したはずの南部の市民を山岳地帯に強制移住させて農地開拓に充てる、その上経済政策の失敗により農業国のくせに全国的な飢餓を発生させるなど、暴政の限りを尽くしてきました。
20世紀後半最悪の戦争であるベトナム戦争の最中には難民がほとんど発生しなかったのにも関わらず、ベトナム共産党によるベトナム統一が成された途端、数十万人の国民が難民として海外に脱出した事実が、ベトナム共産党による統治の全てを物語っています。

さて、私は過去2回、このベトナム共産党からベトナム国民を守るため戦い、そして命を落とした旧ベトナム国・ベトナム共和国政府の軍人・公務員の墓地であるビエンホア国軍墓地 (Nghĩa Trang Quân Đội Biên Hòa)を参拝してきました。
1回目は2016年で、その時は墓地の周囲を私服警官が囲んでいたので、人目に付かない霊廟のみ参拝しました。→『ビエンホア国軍墓地』
2回目は2022年で、ベトナムで2週間ほど動画撮影ロケをした際に、ついに前回入れなかった墓地の内部に入ることが出来ました。通常、この墓地は戦死者の遺族しか入る事ができず、入り口の守衛所で全員身分証を提示する必要があります。無論、外国人などもっての外。
しかし、そこは良くも悪くもベトナム。警備員に金を渡して、私を含む撮影班は中に入る事ができらました。それでも私が外国人だとバレると危ないので、事前に私は一切言葉を話さないよう、仲間から厳命されました。こういう時、自分の顔が東南アジア風で良かったと思います(笑)
墓地の中にいる間は、警備員のおっちゃんがずっとスクーターで私達の後を付いて回り、常時監視されていました。


中に入り、まず墓地のシンボルである義勇塔に花を供えて焼香。
この義勇塔は戦後破壊され、高さが元の1/2程度になっています。


その後、友人たちと手分けして、できるだけ多くの墓石に線香をお供えしました。
手持ちの線香に限りがあるので、一つの墓石につき一本しか供えられませんでしたが、それでも100個くらいの墓石に焼香できたと思います。



しかし、この墓石への焼香は辛いものがあります。と言うのも、戦後、共産主義者は義勇塔だけでなく、個人の墓石まで破壊していたからです。
ベトナムでは墓石に故人の顔写真を刻印する習慣があり、この軍人墓地にも多くの顔写真付きの墓石があります。しかしそれらの多くは、共産主義者によって顔の部分が無残に破壊されていました。これを見た遺族がどんな気持ちになった事か・・・。
死者にまでこんな仕打ちを平然と行う国家。それがホー・チ・ミンが1000万人の人命を犠牲にして作った現在のベトナム社会主義共和国です。



  


2023年01月15日

銀英伝2周目

※2023年1月25日更新

銀河英雄伝説の劇場版がリマスター上映されると聞いたので、さっそく観てきました。


内容はすでに知っているのですが、あらためて映画館の大画面で見ると良いものです。
しかも喜んでいいのやらどうやら、私が観た上映時間に、観客は一人。
まさかのシアター丸ごと貸し切りで見ることが出来ました。贅沢な時間でした。

そして劇場版を見て気分が盛り上がったので、プライムビデオで本編の再視聴を開始。
ただでさえ話数が多くて長いのに、本編観るのは数年ぶりだったので、また新鮮な気持ちで観れています。

この作品はあくまでフィクションであり、エンタメ作品。
でも作品内で扱われる、民主主義の在り方に関する問題については現実に通じるものも多く、それがこの作品の魅力の一つと言えるでしょう。

一方、現実世界において、が一時は同志として寝食を共にして活動したベトナム民主化運動グループや、元ベトナム共和国軍人の中に、ヤン・ウェンリーのように民主主義の精神を理解し、心から尊ぶ人はほとんど居ませんでした。
詳しくは書きませんが、は活動の中で色々失望して(逆に向こうはに失望したはず)、現在のベトナム民主化運動からは完全に手を引きました。
これは言い訳にすぎませんが、例えば三国志の研究者が現在の中華人民共和国の民主化運動に役に立つことは無いでしょう。
私は半世紀前に滅び去った国の歴史を愛好する、単なる変わり者の外国人であり、そんな人間はそもそも必要とされていないと思い知りました。
ただし、そんな器の小さな私から見ても、「そんなんじゃ永遠に無理だろ・・・」と思うような状態だっと述べておきます。

思えばベトナムにおいて民主主義が(形だけでも)政体として存在したのは1967年~1975年の約8年間(ベトナム共和国における第二共和国期)のみ。それも壮絶な内戦(ベトナム戦争)の最中。
北ベトナムに至っては、歴史上今まで一度も民主主義を享受した事がありません。
1975年以降難民としてアメリカや日本に渡った人々は、一応民主国家に住むことになりましたが、そこでその恩恵は受けこそすれ、その根本にある精神まで吸収する事は叶わなかったようです。
そもそもアメリカ人や日本人ですら、たまたま生まれた時から民主主義が制度としてそこにあっただけで、自ら勝ち取った世代はもう居ないので、その精神的な部分については忘れられている、あるいは大きく誤解されており、民主主義そのものをずいぶん粗末に扱っているのですから、これをベトナム人だけの問題と思ってはいけませんが。

国家の基本理念をフィクション作品を通じて語る事が愚かなのか、あるいはフィクション作品の中にしかまともな例が無いこの理念そのものが有名無実なお題目なのか。
できれば前者であって欲しい。
  


2023年01月02日

陽暦節2023

新年あけましたね!(喪中なのでこの表現)
喪中ですと神社に初詣する事はできませんが、仏教寺院ならOKだそうなので、今年もグレゴリオ暦の新年(陽暦節)を祝うベトナム寺の初詣に行ってきました。
もう10年くらい前から初詣は毎年このお寺なので、ここにお参りしないと新年が始まった気持ちがしないのです。


今年は会社のベトナム人の同僚5人を初詣に誘ったので、その奥さんや子供たちも来て、計10人のグループになりました。
彼らは今回僕が誘うまでこのお寺の存在を知らず、来日してから今まで、こういったベトナム人コミュニティーに足を運んだ事が無かったのだそうです。
なので日本でこんな盛大にお祭りをやっている事に驚いていました。ベトナム本国では安全上の理由から禁止されてしまった爆竹も、日本ではまだ健在です。
遠い異国の地で働く同僚たちに、少しでも故郷の雰囲気を味わってもらえたなら嬉しいです。


  


2022年12月01日

NKTおじさんコンバットマガジンデビュー

友人から連絡を受けて知ったのですが、コンバットマガジンの2022年12月号および2023年1月号に、当ブログで度々紹介している「NKTおじさん」ことファム・バン・ホア(米国名ホア・ファム)氏のインタビュー記事が掲載されました!
しかも2023年1月号では雑誌の表紙まで飾っています。


よく知っている人なので、書店でこの表紙を見て、つい吹き出してしまいました。

ホア少尉についてはこちらの過去記事をお読みください。

僕がホア少尉とリアルで会ったのは2回。
1回目は黒塗りのメルセデスにサングラス、スーツ姿で僕を迎えに来て、家に連れて行ってくれました。
なんでも、アメリカに移住した当時、アジア人はよくチンピラにからまれたので、舐められないよう映画ゴッドファーザーで見たイタリアンマフィアの服装を真似して、懐にはピストル(不法所持)を忍ばせていたそうです。それ以来、そういうスタイルが好みなのだとか。

2回目は、友人とファム・チャウ・タイ少佐へのインタビューを行ったところ、サプライズでホア少尉も登場。タイ少佐はご高齢なので、ホア少尉が車で送り迎えして下さりました。



この時、ホア少尉からブー・ディン・ヒュー著『Lực Lượng Đặc Biệt(特殊部隊)』と『Cuộc Chiến Bí Mật (秘密戦争)』全4巻の計5冊をプレゼントして頂きました。


当時LLĐBやNKTに所属したベテランの証言をまとめた本です。
なんでも、この本は在米ベトナム人コミュニティー内のみの販売であり、どうせ一般のアメリカ人は読めないので、まだペンタゴンが機密指定解除していない情報も書いちゃった。てへっface03だそうです(笑)
  


2022年09月24日

西か東か

※2022年9月27日更新


先日の雨天撮影会で雨に当たったせいで、56式自動歩槍の金属パーツ全体に大量の白サビが発生してしまいました。
発生からあまり時間は経っていないので、錆は表面だけで内部には達していませんが、あまりに見た目が悪いのでスプレーブラッセン再塗装しました。




過去記事『ベトナム戦争期の56式/K-56』でも書きましたが、このトイガンはマルイのAK-47に56式フロントサイトキット(メーカー不明)を組んで初期型の56式を再現した物です。
ただし、キットに付属していたプラ製銃剣は折れてしまったので、代わりにリアルソード製56式(後期型)用の銃剣を加工して無理やり取り付けています。
僕はもともと、この56式をベトナム共和国軍の特殊部隊コスプレの為に持っており、特殊部隊では銃剣を外している事も多かったので、折れた銃剣はそのままにしていました。
しかしその後、FANK(クメール国軍)用にちゃんとした56式が必要になったので、銃剣を修復した次第です。

▲カンボジア内戦初期のクメール国軍兵士 [1970年]
こう見えてギリ西側陣営。(60年代まで東側寄りの第三世界だったけど、1970年のクーデター以後アメリカの同盟傘下に転向)


反対に、1959年に西側から東側に転向したキューバでは、革命から60年以上経った現在でも、革命前の旧キューバ軍(バティスタ政権)が装備していた米国製の火器や装備が今も一部で使われている模様。


まぁ、装備品に関しては、すべての装備を新型(東側式)に更新しきるほどのお金は無いから、以前から有る物(米国製)をそのまま使っているんだろうなと理解できます。

しかし帽子はどうなってるんだ??


キューバ革命軍陸軍の作業帽は、旧キューバ軍が使用していた米陸軍式のリッジウェイキャップ(M51フィールドキャップ亜種)をそのまま継承。カストロもいつも被っています。
さらに、その隣の米陸軍式ベースボールキャップ(ホットウェザーキャップ)に至っては、旧キューバ軍では使用されておらず、明らかに革命後に新規に導入しています。なんで?
(キューバ革命軍のベースボールキャップは側面がメッシュになっており、米軍そのままという訳ではありませんが)
僕は中南米の軍装に関しては門外漢なので、どなたか事情をご存じの方がおられましたらご一報ください。

また過去記事『ベトナム人民軍の南ベ復古?』で書いたように、現在のベトナムでも、アメリカ海軍・海兵隊(および旧ベトナム共和国軍)式の八角帽(エイトポイントカバー)がベトナム人民軍・人民自衛軍団(民兵)・民間警備会社等で広く使われています。
あの記事を書いてから8年経ちましたが、なぜ共産主義国家がかつての敵国である米軍式の帽子を新規に導入したのか、いまだに納得のいく答えは得られていません。
なんかベトナムもキューバも、単に「かっこいいから」という理由だったような気がしてなりません。
  


2022年08月17日

夏の思い出

今年のお盆休みは、ベトナムで5日間過ごしてきました。
ベトナムには今年の3月に映画撮影ロケで行ったばかりですが、今回は純粋にバカンスを楽しんできました。

タンソンニュットに着くと外は雨で、気温はなんと24℃。
日本より10℃も低い!ベトナムとは思えない涼しさでした。

寝床は今回もドンタップ省にある友人の実家。
親戚同士が隣同士で、一つの大家族として住んでいるので、夕方は親戚で集まりほぼ毎日宴会が開かれました。


生まれて初めてネズミを食べました。
味や触感は手羽先みたいなもので、普通に食べれる味です。
でもやっぱり見た目がキモいので、1匹食べて止めました。

家で飼ってるワンコがやたら僕に懐いてくれました。


そして今回も家族旅行に同行させてもらい、ベトナム南西部を巡ってきました。
まず、カンボジア国境沿いにある有名なお廟の主處聖母(Miếu Bà Chúa Xứ Núi Sam)をお参り。




そこからさらに西に移動して、ハーティエン市の海鮮市場で食材を購入。


そしてハーティエン市のムイナイ浜で海水浴。
海鮮市場で買ったエビやカニを、浜辺のレストランで調理してもらい食べました。




遠出したのはこのハーティエンのみで、あとはドンタップ省内をバイクで行ける範囲でちょっとコーヒーや食事に行った程度です。
あと日本への帰国に必要なPCR検査のために、ヴィンロン市内の病院まで2往復。(検査と陰性証明書受け取り)
最終日なんてやる事なくて、ずっと家の中のハンモックで寝ていました。

今回は、これまでの旅行と違ってミリタリー・歴史趣味に関する事は何もありませんでしたが、元々ベトナムに関係する事全てが趣味みたいなものなので、これはこれで得るものがあります。

休みが明けて今日からまた退屈な日常に戻った事で、あの5日間がいかに贅沢な時間だっかのか、今になってじわじわと感じています。
  


2022年06月27日

癒しの動物園

最近立て続けに動物園に行ってます。
僕は元々、犬や観賞魚は好きだったのですが、ペットにならない野生動物についてはそんなに興味はなく、動物園などは子供の頃に1・2回行ったことがある程度でした。
ところがこの1年くらい、Youtubeのへんないきものチャンネルさんをよく見るようになり、それからいろんな生物に興味が湧き、動物園に行くのが楽しみになりました。
動物園と言うと子供を連れていくレジャー施設というイメージがありますが、一方で動物園・水族館には野生動物を飼育研究する学術機関としての側面もあるので、大人になってある程度知識を持った上で展示を見ると、より楽しめると思います。


2022年3月:サイゴン動植物園


3月のベトナムロケでサイゴン市内を周った際、ホーチミン市歴史博物館の撮影に行ったのですが、その博物館の隣にはサイゴン動植物園がありました。(と言うか動植物園の一角に博物館がある)
僕はどうしてもアジア最古の動物園として名高いサイゴン動植物園をこの目で見たかったので、僕一人だけロケから抜けて園内を散策してきました。
こちらは動植物園という名前の通り、植物園としてもとても美しい展示をしており、都会の喧噪を忘れてゆったりと動植物を楽しめる素晴らしい場所でした。
ちなみに数年前、ホーチミン市当局がこのサイゴン動植物園を閉鎖して大型駐車場に変えるという愚かな計画をしている事が報道されました。これにはベトナム国内で反対運動が起り、計画は中断されたようですが、この一件はベトナムがいかに中共式開発独裁・拝金主義に毒されているかを物語っています。(政府当局だけでなく一般市民の中にも、経済発展の為ならこんな古臭い動物園くらい潰しても構わないという声は少なからずあります。)
当日は、ロケが終わってみんな移動すると連絡が来たので園内には2時間しか居られませんでしたが、できれば一日かけてゆっくり見たかったです。



2022年5月:埼玉県こども動物自然公園



埼玉県東松山市にある県営の動物公園ですが、入場料の安さとは裏腹に、とてつもなく広大な敷地に多数の展示と遊具が設置されており、1日では周り切れない規模感でした。
自分の住んでいる県、しかも都心からそこまで遠くない距離にこんな大きな施設が存在していたとは驚きでした。
またカンガルーなどは、人が歩くルート上に半ば放し飼い状態になっており、こんなに近付いて大丈夫なのかと思うくらい近い距離でじっくり見ることが出来ました。
当日は見学途中で雨が降り出してしまい、園全体を周る事ができなかったので、いずれ再訪問したいと思います。



2022年6月:東武動物公園
https://www.tobuzoo.com/


東武動物公園は動物園に加え、遊園地やプールも併設された総合レジャー施設です。
この東武動物公園には子供の頃父親と行ったのですが、その時は園内のジェットコースターなどの乗り物の思い出がメインで、動物の事は覚えていませんでした。
なので動物の展示は今回初めて見るようなものであり、世界的に珍しいホワイトタイガー(白毛のベンガルトラ)の他、鳥類最強の攻撃力で有名なヒクイドリも初めて実物を見ることが出来ました。
なお今回ジェットコースターには乗りませんでしたが、VR体験アトラクションがあったので、それで遊んできました。



生きた動物というのは何回見ても飽きないので、このまま月一ペースで行くのもアリだなと思っています。
  


Posted by 森泉大河 at 12:54Comments(0)2010年代・現在旅行・海外

2022年05月16日

ベテラン訪問

※2023年8月30日更新


3月のベトナムロケで取材させて頂いた元ベトナム共和国軍将校のお二方との記念写真です。

元陸軍装甲騎兵将校


氏は友人の祖父の異母兄弟で、6年前のベトナム初訪問の際にもお話を伺いました。
1968年のマウタン(テト攻勢)以降、M113装甲兵員輸送車部隊の指揮官として終戦まで戦ったお方です。
マウタン1968ではサイゴン川の対岸に終結した共産軍に対し、車載のM2重機関銃を撃ちまくって撤退させたと思い出を語ってくださりました。

僕が日本の友人と共同で製作したベトナム共和国軍コンバットレーション、『Cơm sấy(乾燥米)』の自家製リプロをお披露目。
「そうそう、これ食ってた」と懐かしんでいただけました。



元陸軍特殊部隊/レンジャー部隊将校


この方はかつて特殊部隊(LLÐB)隊員として、米豪軍と共にCIDG部隊を指揮したベテランです。
1970年にCIDG計画が終了し、各国境特殊部隊キャンプのCIDG部隊が陸軍レンジャー部隊(BÐQ)に編入、国境レンジャー大隊(BÐQ Biên Phòng)として再編されると、氏もレンジャー部隊に転属し、引き続きCIDG隊員で構成された国境レンジャー大隊を指揮しました。



氏の腕に残るLLÐBの精神的シンボル=棺桶の入れ墨。
棺桶は「もう自分用の棺桶は用意してある」=「死ぬ覚悟はできている」という決意を意味しているそうです。

なお肝心のインタビューはベトナム語で行われたので、僕は内容をあまり理解できていません。
ただ、撮影を終えたあと監督がインタビューの謝礼にと、二人に現金を渡したのですが、そのお金がドンではなく米ドル札だったのは印象深かったです。
別に米ドルを有難がっている訳ではなく、(米ドルが一番両替し易いというのはあれど)本質的にはどこの国の紙幣でも別に構わないのです。
ただ少なくとも、ホーチミンの肖像が入った金など渡したくないし受け取りたくないというのが、インタビューする側、される側共通の心情でした。
  


2022年04月28日

カフェー・キムソン

前回『BGIと飲料ボトル』で1975年以前のラルーとコンコップの瓶を紹介しましたが、これらをプレゼントしてくださったのが、チャーヴィン省チャーヴィン市内にある喫茶店キムソン(Kim Sơn)のマスターです。
このお店はマスターが趣味で収集したベトナム(特に南部)のアンティークアイテムが店内所狭しと大量に展示されている、ベトナム近現代史好きにとってはたまらないお店です。




お店に展示してある品々



全部解説してるとキリが無いので、僕の趣味的に気になった物をいくつか紹介します。

①ベトナム共和国軍陸軍工廠製栓抜き(1969年製)
かつてサイゴン市内に存在した陸軍工廠(Lục quân công xưởng)が製作した栓抜きです。こんなものが存在したんですね~



②USAID供与ラジオ
ベトナム戦争期、USAID(アメリカ国際開発庁)によってベトナムに供与された民生品のラジオです。ラジオ自体は普通の市販品ですが、正面左下にUSAID供与を示すシール(星条旗と握手のイラスト)が残っています。



③ベトナム共和国切手収集ファイル(1971年)
ベトナム国内の切手コレクターが収集したファイルです。切手は全てベトナム共和国時代の物であり、またファイルには元の持ち主が記したと思われる1971年の日付がありました。これは友人がキムソンのマスターから購入しました。

 


④M72対戦車ロケット
お店の一角にはミリタリー物もいくつか飾ってあり、店先には使用済みのM72ロケットが乱雑に立てかけてありました。武器系は買ったところで飛行機で持って帰れないので、いじくりまわして遊んでました。




歴史アイテムに囲まれて、歴史好きの仲間と語らいながらアイスコーヒー飲むの幸せ~

惜しむらくは、このお店が僕の家から4,500kmも離れた場所にあること。近所にあったら毎日通っちゃいますよ。
  


2022年04月13日

夕陽之歌

※2022年4月14日更新

今回ベトナム紀行はいったんお休みして、最近マイブームの『夕陽之歌』について。

夕陽之歌は近藤真彦の『夕焼けの歌』香港の国民的スター アニタ・ムイ(梅艷芳)が広東語でカバーした曲で、映画『アゲイン/男たちの挽歌III(英雄本色III)』の主題歌でもあります。

(僕は映画の方でこの曲を知ったので原曲が近藤真彦のものだったと知ったのは実はつい最近の事でした笑)



先日この映画を見直していたら、無性に夕陽之歌をカラオケで歌いたい衝動に駆られてしまったのです。
英雄本色III自体についもいずれ記事にしなくてはと思っていますが、まずは大好きな主題歌を歌えるように練習しました。

しかし当然僕は広東語はできないので、歌詞に仮名が振ってあるサイトがないか、インターネットで探したのですが、ヒットしませんでした。
なので仕方なく自分で仮名を振る事に。
まず、歌をそのまま聞いただけでは発音があいまいで聞き取れない部分が多いので、歌詞を細かく区切って、こちらの広東語読み上げツールで文節ごとに発音を確認(カタカナ化)します。
その上で、実際にアニタさんが歌っている声を聴き、機械読み上げでは表現されない、歌う上での発音に近付くよう修正しました。
こうして自分用に作ったカタカナ歌詞が以下になります。


夕陽之歌
作詞:陳少琪    作曲:Kohji Makaino

――――――――――――――――――――前半――――――――――――――――――

ツェーユモハン   モノイズィ ヤセガッツァラン
斜陽無限       無奈只一息間燦爛

チョイワン ハーチサン  ツァホイテイ コンツォイファッフォワン
隨雲霞漸散        逝去的光彩不復還

チーチミンユー  ナンノイツェー ヤッサンテンピワン
遲遲年月     難耐這一生的變幻

ユファー ワンチョイサン チビーツェー  ツォソンテーグナー
如浮雲聚散         纏結這滄桑的倦顏

マンチェロウ ツァココイラトイガン
漫長路      驟覺光陰退減

フニャンチョティンツォン メチョイファン
歡欣總短暫未再返

ナコホトウォーモスン シーペンタン
哪個看透我夢想是平淡

ツァンユーシャティトー フンユファン
曾遇上幾多風雨翻

ピンツェモーカウ チョーモワン
編織我交錯夢幻

ツァンユーネイツァンサーン テイペイワン
曾遇你真心的臂彎

オウォーツァ コーワンナン
伴我走過患難

ファンコチョンサン フイータン
奔波中心灰意淡

ロサファンユーホーチー ツォイヤッファン
路上紛擾波折再一彎

ヤッティン スントホイーホイターイマーン
一天想到歸去但已晚

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(間奏)


(前半繰り返し)

(間奏)

啊・・・ 

ティンサンクータンテイウォーサンノタン
天生孤單的我心暗淡

ロサンフォンスンホーシウ ツォイヤッファン
路上風霜哭笑再一彎

ヤッティンスン スントホイーホイターイマーン
一天想 想到歸去但已晚

――――――――――――――――――――後半――――――――――――――――――

ツァンユーシャティトー フンユファン
曾遇上幾多風雨翻

ピンツェモーカウ チョーモワン
編織我交錯夢幻

ツァンユーネイツァンサーン テイペイワン
曾遇你真心的臂彎

オウォーツァ コーワンナン
伴我走過患難

ファンコチョンサン フイータン
奔波中心灰意淡

ロサファンユーホーチー ツォイヤッファン
路上紛擾波折再一彎

ヤッティンスン スントホイーホイターイマーン
一天想 想到歸去但已晚

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(後半繰り返し)

歌詞が出来たら、あとは原曲を聴きながら練習するだけ。
数日練習したら、ある程度歌えるようになったので、香港人の友人に見せるために動画を撮りました。


つたない発音ですが、日本人が香港の歌を歌っている事には喜んでもらえたので良かったです。

実は僕は以前から、香港映画の影響で何曲か広東語の曲を練習しており、すでに以下の3曲は歌えるようになりました。


考えてみると、歴史趣味ではベトナム一辺倒な僕だけど、映画や歌などのカルチャー面では香港が大好きみたいです。
だからその分、2019年の香港民主化デモの時は、北京の中共政府に立ち向かう若者たちを心から尊敬した一方、香港社会の仕組みそのものはまんまと中共に飲み込まれたという現実に、かなり暗い気持ちになりました。
かつてジャッキーが演じた香港警察が、いまや北京の犬・・・。
これはある面では、香港人の民心が低きに流れて中共側に傾いた結果でもあるので、単に香港全体を被害者と見るつもりはないのですが・・・。
中国しかり、ベトナムしかり、ロシアしかり。人の心の弱さにつけ込み、気持ちの良い情報を与えて大衆を蒙昧にし、利用するのが独裁政権だという事を改めて認識させられました。
  


Posted by 森泉大河 at 09:50Comments(2)2010年代・現在1975-1989【中国】音楽言論

2022年04月07日

ティンロン7の墓碑

サイゴンでは、市内の墓地にあるティンロン7』の墓碑にもお参りしました。
ベトナム共和国軍空軍第5空軍師団第53航空団第821飛行隊所属のAC-119Kガンシップ、コールサイン『ティンロン7』の7名の乗員は、1975年4月のサイゴン防衛戦を戦い、ベトナム戦争における空軍最後の戦死者として記憶されています。


<ティンロン7最期の戦い>

1975年4月の時点で、タンソンニュット基地所属のティンロン7はベトナム空軍に残された2機のAC-119ガンシップのうちの1機であり、ティンロン7は首都サイゴンに最後の猛攻をかける共産軍に対抗し、4月28日から全力で出撃を繰り返していた。
ティンロン7は武装として20mmバルカン砲2門、7.62mmミニガン4門を備え、タンソンニュット基地の眼前に迫る敵地上部隊を上空から砲撃し続け、弾薬・燃料が尽きれば基地に戻り、補給次第再び出撃していた。

▲TINH-LONG RỰC-SÁNG(2013)より

▲AC-119Kスティンガーの武装

サイゴン陥落前日の4月29日午前5時、ティンロン7は最後の出撃へと飛び立った。その後約2時間に及ぶ戦闘の末、弾薬が尽きたティンロン7は補給のため基地に引き返した。
午前7時ごろ、タンソンニュット基地上空に差し掛かったところで、共産軍はティンロン7に対し複数のSA-7地対空ミサイルを同時に発射した。タンソンニュット基地の地上勤務員は、その光景を真下から目撃しており、ティンロン7の機体の周りで4つの爆発が目撃された。
そしてこのうち一基のミサイルがティンロン7の左エンジンに命中しており、その数秒後にエンジンが炎上。ティンロン7はそのまま飛行を続けたが、間もなく左主翼がエンジンごと脱落し、機体は制御を失った。

▲TINH-LONG RỰC-SÁNG(2013)より

▲地上から撮影された墜落するティンロン7

ティンロン7の8名の乗員は脱出を試み、機関砲手のグエン・バン・チン一等上士だけは機外に脱出してパラシュートを開く事が出来たが、機長のチャン・バン・タイン中尉以下7名の乗員は機体と運命を共にした。ティンロン7はそのままタンソンニュットの飛行場敷地内に墜落し、炎上。機内に生存者はなかった。
唯一パラシュート脱出したグエン・バン・チンは重傷を負ったものの、地上で陸軍空挺師団の兵士に救助され、生還を果たした。
それからおよそ24時間後、総統府に共産軍が突入し、ベトナム共和国政府は降伏を宣言。15年間続いたベトナム戦争が終結した。


ティンロン7の最期については、唯一の生存者であるグエン・バン・チンが共著したこちらの文書に詳しく記載されています。

時は流れて撃墜から35年後の2010年、タンソンニュットの敷地内で、ティンロン7の乗員7名の遺骨が発見されました。
その知らせを受けたベトナム国内外の元空軍関係者と乗員の遺族は資金を出し合い、サイゴン市内の墓地にティンロン7の墓標が建設されました。
共産党政府当局の摘発・妨害を避けるため、墓標の発注は匿名で行われたといいます。





今回僕は仲間と共にお墓の清掃と焼香、撮影を行ってきましたが、運悪く墓地の管理人が居合わせてしまい、管理人が警察に通報する恐れがあったので長居はできませんでした。
もちろん金を渡して黙っててとお願いしましたが、金を受け取った上でさらに通報する人間も多いので安心はできません。焼香を終えたら、そそくさと退散しました。

お墓という事で当局も大目に見ている部分があるのでしょうが、現在のベトナム国内に旧ベトナム空軍の紋章が残っているという事自体、とても貴重な事です。この墓標がいつまでも保全されることを願って止みません。
  


2022年04月06日

サイゴンの残光

※2022年4月15日更新


前回に続き、今回足を運んだサイゴン市内に残る史跡の紹介です。

ベンニャーゾン(龍の家埠頭)

サイゴン川沿いにあるベンニャーゾン(Bến Nhà Rồng)は、仏領インドシナ期の1864年に完成した、フランスの海運会社『Messageries maritimes』の本社跡です。


インドシナ銀行サイゴン支店/ベトナム国立銀行

ベンニャーゾンのすぐ近くにあるのが、かつてのインドシナ銀行サイゴン支店です。
インドシナ銀行自体は19世紀末からこの場所にありましたが、現在の建物は1930年代後半に完成したものです。
第一インドシナ戦争終結に伴い、この建物はフランスからベトナム共和国政府に引き継がれ、ベトナム国立銀行本店となりました。

ベトナム共和国時代の50ドンや500ドン札には、このベトナム国立銀行ビルが描かれています。


この埠頭周辺はサイゴン川と南シナ海を結ぶコーチシナの玄関口であり、今も残る仏領時代の遺構を見ると、この場所がかつてフランスが莫大な投資を行い作り上げたインドシナ植民地経済の中心地だった事を思い起こさせます。
これらの場所と直接の関係はないですが、20世紀前半のベトナムの歴史や雰囲気は、映画『インドシナ』を連想させるものでした。




アンズンヴン(安陽王)像

アンズンヴン(An Dương Vương)は紀元前3世紀、古代ベトナム北部を統一し甌雒(オーラック)国を建国した英雄で、この記念碑はベトナム共和国時代の1966年に建設されたものです。
実はアンズンヴンはもともとベトナム人ではなく、始皇帝率いる秦に滅ぼされた古蜀の王子で、秦から逃れ南下した末に、現在のベトナム北部で挙兵し諸国を統一、甌雒を建国したそうです。


ベトナム共和国軍総参謀部

15年に及ぶベトナム戦争を戦い抜いたベトナム共和国軍の総司令部跡。
正門は過去記事『グレイタイガーの4月30日』で紹介したファム・チャウ・タイ少佐が最後の防御陣地とした場所でもあります。
戦後はベトナム人民軍に接収され、人民軍第7軍管区司令部となっていますが、正門は現在でもほぼ当時のまま残っています。
なお軍の施設なので車の中からこっそり撮影したため画質悪いです。


水上レストラン ミーカイン跡地


チャンフンダオ像のすぐ近くにあるバックダン埠頭には、今も昔も水上レストランがあります。
ベトナム共和国時代、この場所にあったレストラン『ミーカイン(My Canh)』は、1965年6月25日、解放民族戦線による夕食時を狙った爆弾テロに合い、死者31-32名、重軽傷者42名を出す大惨事の現場となりました。

ミーカン爆破事件を伝える米国のニュースフィルム

このテロ事件が国際世論に与えた影響は大きく、米国以外の西側諸国も共産主義拡大の危険性に目を向け、ベトナムへの派兵や軍事・経済支援を強化するきっかけとなりました。
  


2022年04月05日

サイゴンのチャンフンダオ像と香炉

※この記事では僕の好みで、街の名前を『サイゴン』、行政当局の名前を『ホーチミン市』と記しています。


ベトナム入国初日は、タンソニュット空港に到着して、その足でサイゴン市内に残る史跡を巡りました。
まず最初に行ったのがチャンフンダオ像(Tượng Đức Thánh Trần Hưng Đạo)


左が1975年以前、右が現在

チャンフンダオは13~14世紀の大越(のちのベトナム)の武将で、中国(元)による侵攻を2度に渡って撃退したとされる、ベトナムの民族的英雄・軍神です。
このチャンフンダオ像はベトナム共和国時代の1967年に、サイゴン川のほとりのバックダン埠頭に建立され、以後半世紀に渡ってサイゴンの名所として親しまれてきました。

なお、これは全くの偶然なのですが、僕がこの場所を訪れた2022年3月17日、このチャンフンダオ像がニュースになりました。
実はバックダン埠頭/メーリン公園およびチャンフンダオ像は老朽化の為、約3年前の2019年から改修工事が行われており、チャンフンダオ像の前に置かれた香炉もその間サイゴン市内の寺院に移設されていました。
しかしその香炉が撤去された2019年2月17日というのがちょうど、中越戦争(1979)開戦から40周年の記念日であり、こんな日に抗中の英雄像から香炉を撤去するというホーチミン市当局の無神経さに、当時国民から批判が噴出しました。

それから3年後、改修は無事終了し、2022年3月16日の夜間に、問題の香炉がチャンフンダオ像前に返還。そして僕がサイゴンに到着したのとほぼ同時刻の3月17日朝には、多くの人々が香炉の返還を喜び焼香に訪れたとニュースになりました。


問題の香炉。左がオリジナル。右が返還されたもの

ただし、もともと金のためならどんな汚い事でも平気でやる共産党政府とホーチミン市当局ですので、ネット上ではすでに、「返還された香炉は本当にオリジナルなのか?」「資金目当てに裏で売却され、レプリカが置かれたのでは?」と疑念の声が上がっているようです。
真偽のほどは僕には確かめようもないですが、そんな疑惑も上がって当然と思えるくらい、ベトナムの役人は信用ならないという点には僕も同意します。
  


2022年04月01日

ベトナムロケから帰国

実は3月中盤から約2週間ベトナムに行っており、本日、日本に帰国しました。
(エイプリルフールじゃないですよ。笑)

前回のベトナム訪問同様、安全のため日本に帰国するまでは一切の情報を伏せていました。

【2016年のベトナム訪問】
ビエンホア国軍墓地
https://ichiban.militaryblog.jp/e789059.html
スンロクの戦跡
https://ichiban.militaryblog.jp/e789541.html
ベトナム戦跡めぐりダイジェスト
https://ichiban.militaryblog.jp/e790372.html


今回はアメリカ在住の友人がプロデュースする、南のベトナム人から見たベトナム戦争をテーマとする映像作品制作が主たる目的であり、僕もそのロケに同行して一部出演してきました。

内容は主にベトナム各地の史跡訪問やベテランへのインタビューですが、一部当時の軍装を再現して、戦時中の再現ビデオ、つまりリエナクト撮影も行いました。

現在の社会主義ベトナムでは、例えアマチュアであってもベトナム共和国時代をテーマとする取材は危険ですし、まして軍装を着て撮影なんて完全アウトなので、警察の目の届かない私有地や田舎の田んぼで撮影しました。






まさにベトナムその地なので、本当にこれ以上ないロケーション。
かつて埼玉の普通の高校生がナム戦コスプレサバゲを始めてから18年。運命に導かれてついにここまで来てしまいました。なかなか感慨深いです。


撮影で巡った場所などについては、おいおい記事にしていきます。
まずは、無事日本に帰ってこれた事の報告になります。

実は僕は出発前、日本での生活に未練なんか無いので最悪向こうでくたばっても構わない、くらいの気持ちで出国したのですが、いざ羽田に帰ってきて高速道路から満開の桜を見たら、なぜか急に感動しちゃったんです。
何だかんだ言って、僕の故郷はこの国だったようです。
あと、便所にトイレットペーパーが置いてあるってだけで十分素晴らしい事。  


2021年08月23日

ペルーPR動画

さる7月28日、在日ペルー大使館が主催する「ペルー独立200周年/ペルー・日本外交関係樹立148周年」記念イベントが渋谷ハチ公前で開催されました。

僕は、縁あってこのイベントの様子やペルー料理など、ペルーの魅力を日本の方々に紹介するPR動画に出演させていただきました。

見ての通り素人演技丸出しでお恥ずかしいですが、よろしければご覧ください。



[撮影裏話]

実は台本を渡されたのは撮影の前日で、しかも全部スペイン語で書いてありました。

僕はスペイン語はちんぷんかんぷんなので、急いで台本をスキャン、OCRにかけて、さらにそれをGoogle翻訳につっこむ事で、どうにか内容を把握できました。

なのでストーリーは台本に沿ったものですが、日本語の台詞は実質自分で考えたようなものです。



しかしあらためて画面越しに見ると、太ったな俺・・・。

思い返せば3年前、ダイエットに成功した私は自慢げに半裸写真をアップしておりましたが・・・

その後見事にリバウンドしまして、いまや前回のダイエット開始前をも上回り、自己最高体重を更新中です。

ついに健康診断で脂肪肝と言われちゃったし。

はあ・・・でも、もう前回のように気合入れてダイエットする気力は無いな。

このガイガンみたいな腹も、年齢相応のような気がしてきたし。


まてよ。ガイガンもメカゴジラも、ずんぐりむっくり体形だけど超カッコいいじゃん。

これからは自分の事をガイガンと思う事にしよう。
  


Posted by 森泉大河 at 21:19Comments(2)2010年代・現在その他旅行・海外

2021年05月15日

ダオ少将のサイン復元

2016年4月、アメリカ在住の映像作家の友人が、彼が作成しているドキュメンタリー作品の一環として、1975年の『スンロクの戦い』で共和国軍最後の英雄として勇名を馳せた元ベトナム陸軍少将レ・ミン・ダオ氏にインタビューを行いました。
友人はその際、ダオ少将に僕の事を話し、そしてありがたい事に、戦時中のダオ少将(撮影当時は准将)の写真の裏に、本人から僕(あだ名Tiger)宛てに直筆サインを書いてもらいました。

▲友人から「サイン書いてもらったから今度送るよ」というメールと共に来たサインの写真

しかしその後、友人はあろう事か、このサイン入り写真を、僕に送る前に紛失しやがりました。
僕から頼んだ訳ではなけど、もったいなぁ~face07

ところがその年の12月、僕もアメリカに赴き、その友人と一緒にカリフォルニア在住の元ベトナム共和国軍軍人の方々にインタビューする機会を得ました。そしてその際、なんとダオ少将にもお会いできることになったのです。
がしかし、実際には、約束を取り付ける際の手違い(ダオ少将側が日程を勘違いしていてカナダへの家族旅行とダブルブッキングしていた)でインタビューはキャンセルになったので、残念ながら直接お会いする事は叶いませんでした。

そして昨年2020年3月、ダオ少将は永眠。
インタビューが叶わなかったのはしょうがないけど、せめて本人に書いてもらったサインくらいは欲しかったので、上の友人から送られてきた画像からサイン部分を抽出し、このような形に復元しました。



直筆ではありませんが、大切に残しておきたいと思います。


【再掲】
スンロクの戦いにおけるダオ少将(当時准将)


ナレーション:
In anxious Saigon, the name Xuan Loc become synonymous with hope and heroism. General Le Minh Dao defied the communists.
(サイゴンの危機に際し、スンロクの名は希望と英雄的行為の代名詞となっている。レ・ミンン・ダオ将軍は共産軍に立ち向かっている。)

ダオ少将:
I will hold Long Khánh, I will knock them down here, even if they bring here two divisions or three divisions.
(私はロンカンを守り抜く。例え敵が2個師団、3個師団で押し寄せようが、私はここで敵を打ち倒す!)

レポーター:
Brigadier General Le Minh Dao told the assembled newsmen that he had beaten back 6 major attacks in 5 days..... I don't care how many divisions the other side sends me, he told us. I will knock them down.
(レ・ミン・ダオ准将は集まった報道陣に対し、この5日間で6つの主要な攻撃を撃退したと語った。彼は、敵が何個師団で攻めて来ようがかまわないと語る。私はそれを打ち倒す、と。)

ダオ少将:
I think the enemy, they think they can swallow down very easy. But now I can say with you, they hit to the rock. They hit to the rock. And we broken their heads already.
(敵はいとも簡単にここを攻略できると考えていた事でしょう。しかし今、私はあなた方に断言できます。敵は躓いた。躓いたのです。そして我々はすでに、彼らの先鋒を撃破しました。)

レポーター:
What is the morale of your men here?
(あなたの部隊の士気はどうですか?)

ダオ少将:
I can say with you they fight for 5 days already, and now today they still launch the attack, and push the enemies away, and you gone. With face of my soldiers always smiling and with good shape, good condition.
(断言します。敵はすでに5日間戦っており、今日、今現在もまだ攻撃を継続しているが、あなた方が見てきたように、我々は敵を撃退しています。兵たちの表情は常に明るく、良い状態です。士気は高いです。)

レポーター:
Is this battle crucial do you think to the future of Saigon?
(この戦いはサイゴンの未来にとって非常に重要なものだと認識されていますか?)

ダオ少将:
First.... if we can hold here, I think we can give good confidence for the people of Saigon. So we will try to do very hard, we will try our best to ...keep it.
This is the first wave of attack. Enemy can use more regiment. More fresh regiment to launch some next attack, again. But no problem! No problem!
(まず・・・、我々がここを守りきれば、サイゴン市民を安心させる事が出来ると思います。そのために我々は奮励努力し、防衛に最善を尽くします。
これは攻撃の第一波に過ぎません。敵はまだ連隊を持っています。次の攻撃にはさらに新たな連隊を投入してくるでしょう。けれど問題ありません。大丈夫です。)

  


2020年10月02日

庚子中秋

今日は中秋なので、久しぶりにお月様の写真を撮りました。


ベランダの 物干しの先に 十五夜の
名月 鈴虫 ヤブ蚊の音


こんな感じで今年の中秋節は一人寂しく過ごしておりますが、
去年、一昨年は楽しくお祝いできたので、ちょっと振り返ってみます。

2018年

日本在住ベトナム人協会の中秋節祭のお手伝い(主に荷物運び)


2019年


夕食後、僕の生徒の技能実習生たちを、誰かが問題を起こして全員怒られるような深刻な雰囲気を出しながら食堂に集め、
「うっそー!チュントゥー(中秋)パーティーだよ~ん!!」とサプライズ開催。
インドネシア人の子には馴染みが無い文化だけど、何であれパーティーは楽しいので、一緒にカラオケで盛り上がりました。

あれから1年。次々入れ替わる生徒たち全員とつながりを維持するのは無理だけど、一部はFacebook経由で近況を聞いています。
ある人は「当たり」な会社に入って時々観光しながら貯金して、楽しく過ごせてたり。
ある人はブラックな建築現場で日本人上司に日々罵声を浴びせられ日本が嫌いになりつつも、一方で日本人女性をナンパして恋人になってたり。

そういうのを見てきて、僕も考え方が少し変わってきました。
以前は「困っている人の力になりたい」というシンプルな動機で色々首を突っ込んでいましたが、
その結果、自分ごときが他人の人生をどうこうするなど不可能であり、
「救ってやる」なんて考えはとんだ思い上がりだった事に気付かされました。

まぁそれでも、国際貧困ビジネスで暴利を貪る国内外の悪党ども、
特に自国民を売って儲けた金でカリフォルニアの不動産投資に勤しむハノイのウジ虫どもを許す気は無いので、
外国人技能実習制度の暗部については、聞かれたらいくらでもペラペラ喋りますよ~。