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2017年08月17日

連休

しらこばと水上公園


数年前、『月曜から夜ふかし』でいじられて、大人げなく取材拒否しちゃった埼玉県民お約束の県営プールです。
この日、越谷市の気温は38℃。う~ん、プール来てよかった♪


在日ベトナム人協会サマーキャンプ2017


7月に在日ベトナム人の皆さんがお台場で行ったフォルモサ公害問題に抗議するハンガーストライキにご一緒させて頂いた際、他の参加者の方から、8月に毎年恒例のサマーキャンプがあるので来ませんか?とお誘い頂たので僕も友人(日本生まれのベトナム人)と二人で1泊2日のキャンプに参加してきました。
詳細は私の別ブログ『ベトナムウォッチ』にあります。


ターミネーター2 3D


映画好きな弟が帰省していたため、二人で有楽町のTOHOシネマズ 日劇に観に行ってきました。
7歳と時に親父と映画館で観て以来、僕の人生最高の映画であり続けているT2。僕の中の『カッコいい』の基準は全てターミネーターで出来ています。つい5年前くらいまでは、ジョン・コナーの写真を美容室に持って行って、「この髪型にして下さい!」と注文していました。もうさすがにオッサン化したので今は出来ないけど、逆に今度は親父の方=T1のカイル・リース(マイケル・ビーン)をやってみようかしら。
内容は、これまで100回は観ているので目をつぶっていても分かりますが、やはり劇場の大画面で見るのは迫力が違いますね。元々3D向けに作られた映画ではないので、正直3Dになったという実感は感じられませんでしたが、遠近感と言うか臨場感は確かにあります。
映画の後はファミレスに入り、スマホでグラインドハウスを見ながら楽しい映画談義。


向かいの席のグループも映画の話をしていたので、多分僕らと同じくターミネーターを観た帰りなんでしょう。
でも、なんで向こうには女子が2人もいるんだよ。楽しそうにスターウォーズの話しやがって。
こっちはヒゲ眼鏡デブの弟と二人でヴァイラスとか鉄甲無敵マリアについて話してんだよ。なにこの格差!




筑波海軍航空隊記念館

プロジェクト茨城様との打ち合わせのため初めて訪問しましたが、偶然にもこの日は8月15日という事で、館内の展示を感慨深く見学させて頂きました。2階の窓から、雨の降る練兵場を見ながら泣いているお婆さんを見た時は、ここがかつて日本国民300万人を死に至らしめた戦争の証跡である事を強く実感させられました。
よく聞く言葉ですが、僕は「あの犠牲があったから今の私たちがいる」などという嘘は大嫌いです。20歳そこそこの若者が大量死する事が、どうして世の中にとってプラスに作用するのでしょう。もし彼らが生きていれば、そのせいで日本は滅びたとでも言うのでしょうか。
彼等の遺書を読んでいると、皆さん僕よりずっと若いのに、大変立派な事を書かれています。そう書くように『教育』されたからです。人間の醜さを知らない子供に壮言大語ばかりを教え、霞が関がでっち上げた虚構を信じ、善意で命を挿し出す人間に仕立てる教育を。
僕は一人の人間として、あの時代、あの体制を心から憎んでいます。その気持ちは軍事マニアとしてあの時代の事を様々な面から知るにつれ、より一層強くなっています。



つくば植物園


航空隊記念館のあとは僕の希望で、つくば実験植物園で開催されている水草展を見学。
植物園内では、友達の息子(5歳)に、「サボテンに挿されると体がサボテンになるから気を付けろ。ここに展示されているのは全身サボテンになってしまった人間たちだよ」と教えました。
また、かき氷を食べながら、「かき氷のブルーハワイを食べると、ブルーマンになる。」「防ぐにはイチゴ(赤)とメロン(緑)を食べて体の中を中和するしかない。ただし、間違ってイチゴ(赤)とレモン(黄色)を食べると、色が混ざって黒人になる」と着色料の過剰摂取に警鐘を鳴らす食育を施しました。
ついに、その子は半ベソ状態になってしまい、僕はお父さんに「マジでやめて」と怒られました。子供チョー可愛い!

ブルーハワイを食べ過ぎた人たち

  


2017年08月07日

第11回ありがとうコンサートとハン・ニョン中佐

米国時間8月6日、今年もカリフォルニア州サンノゼにて『Đại Nhạc Hội Cám Ơn Anh(ありがとうコンサート)』が開催されました。『ありがとうコンサート』は毎年夏にベトナム系アメリカ市民がカリフォルニア州サンノゼとガーデングローブ市の持ち回りで開催しているチャリティーコンサートで、コンサートで得られた寄付・収益は、現在もベトナムに住む元ベトナム共和国軍傷痍軍人・寡婦・遺族への生活支援にあてられます。


Người Việt Daily News: Đại Nhạc Hội ‘Cám Ơn Anh’ ở San Jose, hàng ngàn người tham dự

コンサートの様子はカリフォルニアのベトナム移民系テレビ局SBTNのYoutube公式チャンネルにて、全世界に生中継されました。


SBTNOfficial: LIVE: ĐẠI NHẠC HỘI CÁM ƠN ANH KỲ 11

当ブログも毎年このコンサートを応援しており、今年も滞りなく運んだとの事で、遠く離れた日本からもお祝い申し上げます。
2年前の第9回には、私自身も主催団体のベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会(Hội HO Cứu Trợ Thương Phế Binh và Quả Phụ Việt Nam Cộng Hòa)からプレスとして招待され、現地で取材を行ってきました。
その時の写真の一部はこちらの記事に掲載してあります。また、過去の開催内容についてはこちらの記事にまとめてあります。


しかし残念ながら、今年の『ありがとうコンサート』には、このコンサートを長年支え続けたある女性の出席は叶いませんでした。
彼女の名はグエン・ティ・ハン・ニョン(Nguyễn Thị Hạnh Nhơn)空軍中佐戦後、ベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会会長として長年戦争で身体障害を負った将兵や、戦死者の遺族への支援活動に尽力されてきた元ベトナム共和国空軍の女性将校です。
ハン・ニョン中佐はこの『ありがとうコンサート』の主催者の一人として、ご高齢の身を押して自ら先頭に立って会を率いてこられましたが、第11回コンサートが3か月後に迫った2017年4月18日、カリフォルニア州ファウンテンバレーの病院で息を引き取られました。享年91歳でした。

ベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会会長
グエン・ティ・ハン・ニョン空軍中佐(1927-2017)

 グエン・ティ・ハン・ニョンは仏領インドシナ時代の1927年、ベトナム中部のフエに生まれます。1941年にガールスカウトに入団したハン・ニョン氏は第一次インドシナ戦争中の1950年に、ガールスカウトの指導者として、ベトナム国軍第2軍管区の地方保安部隊『越兵隊(Việt binh đoàn)』に財務スタッフとして参加。後に正式にベトナム国軍の婦人隊員となります。
 終戦後の1957年、ハン・ニョン氏はフエのグエン・チ・フォン軍病院で勤務しますが、そこで多くの傷病兵や未亡人、孤児達を目の当たりにしたことが、後の彼女の人生を決定付けました。
 ベトナム戦争が悪化の一途を辿る1965年、ベトナム共和国軍は男性兵士の不足を補うため、軍の後方支援業務を担う女性軍人(Nữ Quân Nhân)制度を正式に発足し、ハン・ニョン氏は婦人隊の創設および女性軍人学校で教鞭を執った最初の女性将校となります。
 その後、ハン・ニョン氏は1967年にベトナム共和国軍総参謀部勤務となり、1969年には空軍少佐に、1972年には中佐に昇進します。ハン・ニョン中佐その後、1975年までタンソンニュット基地の空軍司令部婦人分団長を務めると共に、1950年以来25年間に渡って軍で勤務するとともに女性軍人の活躍を主導した功績を称えられ、ベトナム共和国最高位の"保国勲章5級(Đệ Ngũ Đẳng Bảo Quốc Huân Chương)"を授章します。

▲中佐に昇進し、総参謀部チャン・タイン・フォン少将によって階級章を交換されるハン・ニョン氏(1972年ジアディン省)

 しかし1975年の敗戦によりベトナム共産党政権に逮捕されたハン・ニョン中佐は、その後4年以上も強制収容所に投獄された後、1990年に家族と共にアメリカに亡命します。以後、ハン・ニョン中佐はカリフォルニア州オレンジ郡でベトナム"政治犯"互助会に参加し、共産党政権に"政治犯"として弾圧される人々への支援活動を開始します。そして1996年にベトナム共和国傷痍軍人・寡婦互助会を発足し、以後21年間に渡って同会の会長を務めてこられました。また2006年からは、カリフォルニアのベトナム系音楽企業アジア・エンターテイメント、テレビ局のSBTNと共同で『ありがとうコンサート』を開催し、2017年で11回目の開催となります。ハン・ニョン中佐がこれまでの活動で集めた寄付金は100万米ドルを超えており、現在もベトナム戦争の傷跡に苦しむ元軍人や戦死者の遺族に届けられました。
 このように、今日では大々的に開催されているテャリティーコンサートですが、一方で、私が2年前にコンサートを取材した際には、ベトナム国内で行われる慈善活動はベトナム共産党政府の厳重な管理下にあり、実際には送られた寄付金の半分は支援には使われず、汚職役人や共産党幹部の懐に入れられてしまっているという嘆きもコンサート参加者から聞かれました。そのため当初は、こういった支援活動は共産党政府を間接的に支援する事になるのではと、在米ベトナム人コミュニティの中でも反対の声が多かったそうです。しかしそれでもハン・ニョン中佐らは、今も祖国で苦しむ同胞たちに少しでも支援が送れるのならと、活動を続けてこられました。
 私は、守るべき国家を失ってもなおハン・ニョン中佐が示し続けた同胞への奉仕と人間愛の精神は、これからも在米ベトナム人(ベトナム系アメリカ人)コミュニティの中で生き続けるものと確信しています。

[出典] 
Vietbao.com: Cựu Trung Tá Không Quân VNCH Nguyễn Thị Hạnh Nhơn Qua Đời Sinh Năm 1927 Qua Đời Ngày 18 Tháng 4 Năm 2017, Đại Thọ 91
VOA: Vĩnh biệt bà Nguyễn Thị Hạnh Nhơn  


2017年07月08日

新ブログスタート

これまで当ブログでは、現在ベトナムの国内外で行われている民主化運動や、それに対するベトナム共産党政権による凄惨な弾圧について度々お伝えしてきましたが、この度、そういった戦後および現代ベトナムの社会問題に関するブログを新たに立ち上げました。

やはりどんなに真剣にそういった問題を扱っていても、他の記事で『戦争ごっこ』などという常識を欠ていると見られかねない遊びをしているようでは、ちょっと説得力に欠けるよなと前々から思っていました。

そこで、ちょうど先日、お台場で行われた在日ベトナム人によるベトナム共産党政権への抗議デモを取材し、そこで知り合った皆さんに必ずブログに書きますと約束したので、この際新しくブログを作る事にしました。これまでこの一番槍ブログに載せてきた記事も掲載してあります。

ベトナムウォッチ ※ブログ名を変更しました。


今後戦後および現代ベトナム関連の話題はこちらのブログに書いていきますが、記事をアップしたら一番槍の方にもリンクを貼ってお知らせします。

興味のある方は是非ご覧いただき、テレビでは報じられない、ベトナム国民の生の声に少しでも耳を傾けて頂けたら幸いです。
  


2017年06月15日

映画 Trên Bốn Vùng Chiến Thuật ── 四つの戦術地区で ──

前回の記事に「おまけ」として書きましたが、改めて記事にします。

ベトナム出身で米国在住のセミプロ映像作家の友人が監督し、僕も制作に関わった新作ドキュメンタリー映画『Trên Bốn Vùng Chiến Thuật (四つの戦術地区で)』が6月18日(僕の誕生日!)に米国のベトナム移民系テレビ局SBTNで放映され、翌6月19日『国軍の日(Ngày Quân Lực)』にDVDでリリースされます!
この『四つの戦術地区で』は、元共和国軍人やご遺族へのインタビュー、現在の戦跡、当時の記録映像と再現VTRなどで、若い世代の目線からベトナム共和国軍とベトナム戦争の歴史を紐解いていくドキュメンタリー映画です。

画像: SBTN chuẩn bị trình chiếu và ra mắt DVD bộ phim tài liệu “Trên Bốn Vùng Chiến Thuật”


新たにDVDのCMが公開されました。



僕もまだ完成版は見てないのですが、監督本人から、本編にはタイガもけっこう登場しているよ、と教えてもらいました。
たぶんここら辺の映像が使われていると思います。

サイゴン 独立宮殿(旧総統府)

ビエンホア国軍墓地


米国ジョージア州およびケンタッキー州 ドラマ・再現VTR撮影



去年4月、彼がHồi Ức』製作しSBTNで放映された事を記事にした時、僕はこう書いていました。

「彼とはそう遠くないうちに会う事になる気がしています。情熱さえあれば、地球なんて案外狭いものさ。」

しかし、まさかその3か月後に二人でベトナムを旅し、12月にはアメリカで一緒に映画を撮る事になるとは予想だにしていませんでした。
しかも彼は、彼と出会う前に僕が日本で友達になった別の在日ベトナム人とドンタップ省の中学校で同級生だったという奇跡まで発生しました。
地球狭いとは言ったけど、狭すぎるだろ!(笑)
  


2017年05月27日

デガの声

【関連記事】


 少し前ですが、何の気なく他人のFacebookを見て回っていたら、僕のFULROコスプレ写真をプロフィール画像にしている人に出くわしました。その人の名前がラーデ族っぽかったので、試しに「その写真、僕です。僕は個人的にデガ*の歴史を勉強している日本人です」と話しかけてみたら、やはりその人、イールル・ブオニャ(Y-Lhul Buonya)はデガ(ラーデ族)で、現ベトナム政府による弾圧から逃れ難民としてアメリカに移住した方(現・アメリカ国籍)でした。
 日本人がデガに興味があるというのがよほど珍しかったようで、イールル氏は快く、僕にデガの間で語り継がれているベトナム戦争時代の話や第二次大戦中の日本軍とデガの関係など、いろいろな事を教えてくれました。
 また、イールル氏はアメリカ移住前からデガ運動(デガ民族自決運動)に参加しており、現在も米国でデガ難民への支援活動をされている方でした。僕は2000年代に、中部高原**でデガによる大規模なデモが2回発生しているところまでは把握していましたが、イールル氏はまさにそのデモに参加したためにベトナム政府に追われ難民となったのだそうです。

『デガ(Dega / Degar)』とはラーデ語で『森の人』を意味し、ジャライ族、ラーデ族、バナール族、ムノン族などのインドシナ半島中部高原に住む山岳民族の総称であり、同時に彼らの自称でもあります。またデガはかつてフランス領時代にフランス人から『(南インドシナ)モンタニャール』と、ベトナム戦争時代にはアメリカ軍から『ヤード』とも呼ばれていました。

19世紀はじめに順城鎮(チャンパ王国パーンドゥランガ王朝)が大南国(阮朝ベトナム)に併合されて以来、中部高原はベトナムの領土とされていますが、その後インドシナ諸国がフランスに征服されると、中部高原は大南国から切り離されてインドシナ植民地政府の直接管理下におかれ、1946年にはフランスによってデガの自治領『南インドシナ・モンタニャール国』まで設定されました。また1960年代にはFULROによる自治が行われるなど、中部高原は長らくベトナム人の支配が及ばない土地でした。つまり中部高原にベトナム人が大量移住し実質的にベトナム人国家の支配下となったのはここ40年余りの事で、現在でもデガ民族主義はベトナム人による中部高原の支配に抵抗しています。


▲2004年4月10日の中部高原デモ(タイグエン暴動)
ベトナム政府側はこの暴動を、国外の反動勢力に扇動された一部の過激派による破壊活動だと報道し、そもそも中部高原に民族問題は存在しないとしています。

 この70年間、ベトナム共産党はベトナム民族解放を標榜して幾多の戦争を行ってきた一方で、自国領内ではナチスのごとき人種迫害政策で、デガを始めとする少数民族に対し激しい弾圧と民族浄化を繰り返してきました。この人道上の犯罪に対し、人権意識が高くデガ難民も受け入れているアメリカやオーストラリアなどは早い段階からベトナム政府を非難する声明を発しています。
 イールル氏はに、マスコミ関係の知り合いはいないかと尋ねました。日本は人権が保障された先進国なので、是非日本のメディアにもデガと中部高原の実情を報じて欲しいとの事でした。しかし僕は彼に、非常に恥ずべき事実を伝えなければなりませんでした。残念ながら日本人は他国の人権問題にほとんど関心が無いので、恐らく国民の99.99%はベトナム政府によるデガへの迫害を知らず、また興味も抱かないでしょう。加えて、本来ならこういった問題を扱うべきメディアや人権団体もベトナム国内の問題には無関心であり、また中には『ベトナム共産党はアメリカを倒した善い人たちなのだから悪い事なんてするはずがない』と、いまだに現実から目を逸らし空想に浸っている層もまだまだ居るので、今後も日本国内でこの問題が取り上げられる事はほとんど絶望的です。
 イールル氏はこれを聞いて驚いていましたが、少しでも日本の人々にデガの置かれた境遇を知ってほしいと、僕宛てにご自身の半生を綴って下さりました。こんな零細ブログに書く事しか出来ないのが非常に悔しいですが、イールル氏に約束した通り、日本語訳したものをここに掲載します。

▲ラーデ族の民族衣装を着たイールル・ブオニャ氏 (2014年アメリカ)
手にしているのは米国ノースカロライナ州で設立されたモンタニヤード・デガ協会(Montagnard Dega Association)の旗


『私の半生』

 私の名はイールル・ブオニャ、1981年12月24日、デガ中高原生まれのデガです。私は9人家族で、非常に貧しい環境の中、教育を受けずに育ちました。私たち家族の食事は、母が調理してくれた米と野菜、果物のみでした。実際私たちにはお金がなく、食べるものにさえ余裕はありませんでした。この時期、私たちの国は危険地帯と化しており、生活のすべてに不安を抱えていました。誰かが食料を奪いに襲ってくることを恐れて、我が家の食料はあえて外に置いていました。私たち家族は中高原の田舎に住んでいました。私はそこで兄弟姉妹たちと遊んだ日々を覚えています。私の好きな遊びは釣り、狩り、そして牛を眺めている事でした。

 しかし1990年、私たちの暮らしは突如完全に破壊されました。ベトナム政府が北部のベトナム国民に対し、デガ中高原への入植を勧める政策を開始したのです。このベトナム人の大量流入の結果、中部高原の人口は急激に増大し、森林や農園は破壊され、野生動物は死に絶え、私たちの土地は奪われました。そして彼らは私たちデガを追い出し、生活が困難な岩だらけの土地に追いやりました。私の故郷の村にはベトナム人向けの家屋や商店、コンクリート舗装の道路が作られ、その土地はベトナム人たちに与えられました。

 1992年、私はベトナムの小学校に入学しましたが、私にとって学校に通うのは容易な事ではありませんでした。なぜなら教師たちは私たちデガの言葉ではなく、ベトナム語で授業を行っていたためです。しかしそれでも私は困難を克服し、小学校、中学校、高校に行く事が出来ました。ただし十分な学費が無かったので、私を含む兄弟たちは大学へ進学する事はできませんでした。入植してきたベトナム人たちと一緒に暮らすのは楽ではありませんでしたが、さらに困難だったのは、土地が農地へと開拓され尽くした事で、住む場所さえ見つけるのが難しくなっていた事でした。加えて私はキリスト教徒だったので、さらに問題を抱えていました。実際、ベトナム政府はデガ・キリスト教徒に対しある種の憎悪を抱いていました。なぜなら私たちは(政府ではなく)神を信じており、またベトナム戦争中、私たちはまるで愛する家族のようにアメリカ軍に対し献身的に協力していたからです。

 このような苦境の中で、中部高原では大規模なデモが2回発生しました。一つは2001年1月2日から3日にかけて。もう一つは2004年4月10日です。このデモはバンメトートとプレイクを中心に中部高原5省に住む私たちデガが、ベトナム政府に対し行ったものです。この二つのデモの目的は以下の4つでした。
一つ目が、デガ中部高原に自主政府を樹立する事。
二つ目が、すべてのベトナム人が中部高原から退去する事。
三つ目が、これらが認められない場合、我々デガは郷土を守る為ベトナム政府に対し戦争を開始する。
そして四つ目が私たちの最も強い要求で、ベトナム人は北緯17度線以南の中部高原から退去し、入植開始前の状態に戻す事でした。

 このデモに対し、ベトナム警察は非武装のデモ参加者を警棒や催涙ガスで攻撃し、多数の負傷者が発生しました。そしてデモ参加者の多くはカンボジア領内の国連難民キャンプに逃げ込まざるを得ませんでした。また一部ではデモ参加者の妻までもがベトナム警察に逮捕され、懲役3年から17年の刑を言い渡されたり、暴行、拷問を受け、また幾名かは消息不明となりました。私の場合は、17名の人々と共にジャングルの奥地に逃げ込み、食料、寝床、衣類も無いまま2か月間身を潜めていました。その間、私たちは一日の大半を、神が我々にこの状況から抜け出す突破口を見つける手助けをして下さいますよう祈る事に費やしました。するとジャングルでの生活の最後の週、国連難民高等弁務官が私たちを発見し、カンボジアの難民キャンプに連れ出してくれたのです。この時私は、自分がこの先どうなるのか想像もできませんでした。

 その後、私は6か月間難民キャンプで暮らした後、アメリカに移住する為の面接を受ける事が出来ました。そして私は面接に合格し、カンボジアを発って2004年にアメリカ ノースカロライナ州シャーロットに移り住む事が出来ました。一人アメリカに渡った私には家族も、服も、お金もありませんでしたが、信仰と思想の自由だけは保証されました。また移住に際し、カトリック難民協会がESLクラス(英語習得プログラム)や、フードスタンプ(低所得者向け食料支援プログラム)への登録、アパート契約を手助けしてくれました。その6か月後、私はロス社(大手生活用品店)に就職する事が出来ました。それ以来、私はロス社で在庫管理と品質保証担当者として11年間働いています。またアメリカに渡った5年後、同協会は再び、私が合衆国市民になる手助けをしてくれました。現在、私はGED(日本の高卒認定に相当)を取得するためコミュニティ・カレッジで勉強しています。私はアメリカ合衆国が私の人生を救い、自由を与え、成功した人生を送る機会を与えてくれた事を心から感謝しています。アメリカに神のご加護を。

 加えて、私は今でも祖国の為に戦い続けています。私たちの声は、ベトナム人の暴力には負けません。私たちデガはアメリカ政府による援助を受けています。いつの日か、アメリカ政府の援助がベトナム政府打倒の後押しとなり、私たちデガ難民が故郷に帰れる日が来ることを願ってやみません。

イールル・ブオニャ
2017年5月11日



(原文)

....... THE STORY OF MY LIFE.......

My name Y-Lhul Buonya I was born on December 24, 1981 in the Central Highland of Dega. I am a  (Dega). I was raised in very poor environment, with no education, and with a numerous family of nine members. Our family’s meals consisted of only rice vegetables and fruits which my mom cooked for us. Our family did not have a lot of wealth for a fact that is why we only ate what we could afford no more. During this period my country was unsafe place and there was need to worry a lot about everything of life time. We lived in the country side of Central Highland.  I remember playing with my brothers and sisters and leaving our stuff outside with fear considering anyone could take it any time they want. My favorite hobbies were fishing, hunting, and looking over the cattle.

All of the sudden in the year 1990 everything was completely destroy because, the government of Vietnam was persuading more Vietnamese from the Northerners to go live in the Central Highlands of Dega. As a result of this relocation of Vietnamese people population started to grow more ever see in the Central Highlands. With the Vietnamese arrival also came destruction of the forest, plantations, killing of animal life, and ownership of land. They push our Dega people's out of their good land and sent them into the rocky area where it was difficult to live. In my village there were building a Vietnamese house and store and concrete roads. They gave for Vietnamese to live there. 

In 1992 I started to go to Vietnamese school then. For me it was difficult to start school because the teacher was teaching me Vietnamese language which was not my original language. Overcoming all odds I was able to go to elementary, middle, and high school. I wasn’t able to go to college because there was not enough income for all my brothers, sisters, and I to continued school. It was hard to live with Vietnamese people but was harder to find a place to live because there no more land to farming. I myself was a Christian and was having even more trouble. For a fact the government of Vietnam had  type of hatred against the Christian (Dega) because we love our god, also we, devoted like a loving family with the USA army during the Vietnam War.

Two demonstrations were held one on January 2-3, 2001 and the other on April 10, 2004. The demonstrations were held between the government of Vietnam and our people, the Dega. We were 5 provinces in the Central Highlands, centered on Buon Ama Thuot and Pleiku.These two demonstrations were held because of four main reasons: our people were asking to have our own government in the Central Highland of Dega, second was all the Vietnamese men women children get out from the Central Highlands, the third was Dega will go to war with Vietnamese in our own homeland , and the fourth was our strongly desire all The Vietnamese people to withdraw from Central Highlands a different part of Vietnam from 17th parallel.

The Vietnamese police attacked the unarmed Dega demonstrators with police batons and tear gas. Many Dega were injured. Many of us fled to Cambodia and were in the United Nations’ refugee camp. Several wives as well the demonstrators were put in prison 3 to 17 years, some were beaten, torture and others disappeared. On my part, I with seventeen other people escaped to the jungle. We stayed in the jungle for about two months without food, shelter, and clothes. Much of our time was spent praying to god to help us find a way out. The very last week in the jungle the United Nations High Commissioner Refugee team found us and took us to a refugee camp in Cambodia.  At that time I had no idea what was going to happen next.

I was in the refugee camp for about 6 months. On the last month of being there I was able to get an interview to come to the United States. I passed the interview and I fled out of Cambodia and came to Charlotte, North Carolina on 18, 2004. I had no family members, no clothes, and no money. I just came with my faith and thought having freedom. When I got here the Catholic Refugee association helped me register for ESL classes, apply for food stamps, and to rent an apartment. After six months I was able to find a job at the Ross Company. Since then I have being working with the Ross Company for about eleven years as an Inventory Control and Quality Assurance Clerk. Also after five years of being in the USA the same association helped me to become a US citizen. Now I have had the opportunity to go to school and get my GED in a community college. I am very thankful to the United States for bringing me here, saving my life, giving me freedom, and giving me the opportunity to be asuccessful person. God bless America. 

In addition, Now I am continue to fight for my country our voice is stronger than the Vietnamese bombs. We the Dega accepted the United States Government Sponsorship and Support. With the American government help we will defeat the Vietnamese government, I hope soon We will go back to our motherland.

Y-Lhul Buonya
May 11, 2017



<関連資料>

◆デガ諸民族の居住地域

現在のベトナム領南部の大部分は18世紀までチャンパ王国やクメール王国(カンボジア)の領土であり、先住民であるデガやチャム族は中国南部から南下を続けるベトナム人(キン族)と千年以上に渡って争いを続けてきました。デガとベトナムの民族問題に関しては、新江利彦著『ベトナムの少数民族定住政策史』に非常に詳細に記されています。日本語で書かれた資料としては最良の本だと思います。高い本ですが、国会図書館等に行けば無料で閲覧できます。


米国で設立されたデガ難民互助・支援団体





◆デガ運動の指導者

故イーバム・エニュオル(Y- Bhăm Êñuôl)氏/ラーデ族
チャンパ高原臨時政府大統領・FULRO / 南インドシナ・モンタニャール国解放戦線最高司令官
1958年のBAJARAKA運動以来デガ/FULRO運動を指導し続けたイーバム・エニュオルは、1975年にカンボジア共産党によって処刑されましたが、そのカリスマ性は神格化され、現在でも全てのデガ運動の父として崇められています。


1960年代のFULRO運動最盛期を牽引したイーバム・エニュオル、パウル・ヌル、ネイ・ルエットの三指導者
1960年代末、それまで敵対してきたFULROとベトナム共和国政府(サイゴン政府)は、北ベトナムのベトナム労働党政権を共通の敵として、一転して民族融和に動き出し、イーバムの腹心であるパウル・ヌルおよびネイ・ルエットは少数民族発展省長官としてグエン・バン・チュー政権の閣僚となります。これは千年以上続いてきた民族対立の歴史の中で画期的な和解でしたが、1975年に北ベトナムが戦争に勝利した事で、これら和平への努力は完全に瓦解されました。



コック・クソール(Kok Ksor)氏ジャライ族
デガ財団代表・元FULRO幹部



 ロン・ネイ(Rong Nay)氏/ジャライ族
モンタニヤード連合代表・現代ベトナム先住民族会議副議長・元FULRO副指令



ポー・ダルマ(Po Dharma)博士/チャム族
チャンパ史研究家・元FULRO/クメール国軍大尉
ポー・ダルマ氏らチャム族は正確にはデガではありませんが、チャンパ王国を興したチャム族は古代からデガと親密な関係にあり、現在も共に中部高原解放運動を行っています。
  


2017年03月05日

ベテランの軍装

 ベトナム共和国軍は1975年4月30日の敗戦によって解体されましたが、当の共和国軍人たちにとって、彼らが最後に受け取った正式な命令は、4月30日午前10時30分にズオン・バン・ミン総統から下された『戦闘停止』までと認識されています。
 なぜなら午前12時にミン総統が全面降伏とベトナム共和国政府・軍・警察の即時解散をラジオ放送を通じて命じた時点で、ミン総統は既に共産軍に拘束されており、この降伏声明は共産軍側が用意した原稿を無理やり読まされたもので正式な命令ではないと考えられているからです。総統府(独立宮殿)が占領されミン総統が拘束された時点で、ミン総統は憲法が定める政府を代表する職権を遂行できない状態にあり、その状態で発せられた命令に効力は無いと軍人たちに受け取らています。
 そのためベトナム共和国軍は1975年に離散はしたものの、解散はしておらず、彼ら軍人も事実上復員しただけで、正式な退役はしていません。なのでこの状態を表す日本語としては残党』が当てはまると思いますが、残党はあまり聞こえの良い言葉ではないですし、実際には軍事的な活動もしていないので、僕は彼らのこと事を復員軍人もしくはベテラン*と呼ぶことにしています。(Veteranは日本では退役軍人と訳されますが、必ずしも退役している必要はなく、言わば『古参兵』を意味する言葉です。)
 従って彼らベテランは終戦から40年以上たった現在もベトナム共和国と共和国軍に『所属』しており、その軍服のデザインは彼らの歴史と誇りを語り継ぐ『現役』の制服として、今もベテランの方々に式典や会合などで着用されています。


作戦服

 当時ベトナム共和国軍将兵の大半は日ごろから作戦服(Quân phục Tác chiến)を勤務服として着用していたため、ベテランの方々も作戦服を着て式典に参加される事が多いです。しかし彼らは軍装マニアではないので、高価な実物やレプリカを購入する人はごく一部であり、殆どの人は住んでいる街の洋服屋やサープラスショップで購入した代用軍服を着用しています。その為、服の形状や迷彩柄はバラバラな事が多いです。世の中にはマニア向けの高価なレプリカ軍服がたくさんありますが、ベテランたちが着ている服は一セットの30ドルほどの中古BDUに過ぎません。しかし彼らが軍人としてそれを着た瞬間、その服はまぎれもない『本物』の共和国軍軍服になるのですから、どんな気合入ったコスプレもこれには敵いませんね。


<オリーブグリーンBDUおよびユーティリティユニフォーム、その他で代用>

▲陸軍歩兵科(Bộ Binh)


陸軍装甲騎兵科(Thiết Giáp Kỵ Binh)


▲憲兵隊(Quân Cảnh)


技術局連絡部"雷虎"偵察チーム(Biệt kích Lôi Hổ / Sở Liên Lạc / Nha Kỹ Thuật)、通称MACV-SOGの作戦時の個人装備


地方軍(Địa Phương Quân)


地方軍独立偵察中隊(Đại Đội Trinh sát biệt lập / Địa Phương Quân)、英語名PRU


<ウッドランドBDUで代用>

▲陸軍レンジャー科(Biệt Động Quân)


▲陸軍特殊部隊科(Lực Lượng Đặc Biệt)/空挺コマンド部隊(Biệt Cách Nhẩy Dù)


<仏軍その他のリザード系迷彩服で代用>

陸軍空挺科(Nhẩy Dù)


アパレル各社のタイガーストライプ系迷彩服で代用>

海兵隊(Thủy Quân Lục Chiến)


技術局連絡部"雷虎"部隊(Biệt kích Lôi Hổ / Sở Liên Lạc / Nha Kỹ Thuật)


技術局作戦部"黒龍"部隊(Biệt kích Hắc Long / Sở Công Tác Nha Kỹ Thuật)


<6カラーデザート迷彩BDUで代用>

▲国家警察野戦警察隊(Cảnh Sát Dã Chiến)/武装支援隊(Yểm Trợ Võ Trang)


<米軍パイロットスーツはまたは民間のカバーオールで代用>

▲空軍パイロット(Phi công Không quân)


黒色のアオババ>

技術局沿岸警備部"特海"部隊(Lực Lượng Biệt Hải / Sở Phòng Vệ Duyên Hải / Nha Kỹ Thuật)
黒色のアオババ(Áo bà ba)は外国人から『ブラックパジャマ』と呼ばれベトナム共産ゲリラの代名詞とされていますが、当時のベトナムでは極ありふれた作業着であり、政府軍でも特に海軍や水上部隊が作業着として好んで使用しました。※ただし当時はパッチはほとんど付けていません。


農村開拓団(Xây Dựng Nông Thôn)
黒色のアオババやシャツはベトナム国民の多数を占める農業労働者を象徴する服として、全国で数百万人が所属した人民自衛団(NDTV)や農村開拓団(XDNT)などの民兵・自警団組織では制服としても使われていました。同時にベトコンも政府軍と同様に、貧しい農家の味方である事をアピールすため同じ服をゲリラだけでなく常設戦闘部隊の戦闘服に採用していました。


正装

 元士官候補生や将校は当然ながら全員職業軍人であり、終戦後も共和国軍への強い帰属意識を維持しておられます。そのため式典の際には作戦服だけでなく、勤務服以上の正装を着用することがままあります。これら正装は、アメリカ軍の制服などで代用できるものは代用されるものの、デザイン的に大きく異なる物に関しては、ベテラン向けのリプロ業者が製作したものが使用されています。中でも元PRU将校のフン少尉は全米で最大のベテラン向けリプロ業者であり、少尉の店に行けば共和国軍の殆どの部隊の制服が手に入るところまでラインナップを充実させておられます。なお、これらベテラン向けリプロは我々マニア向けではないので、当時の物を細部まで再現する事は目的としていません。なので、サイズや材質は当時の物とは一目見て分かるほど別物です。しかし本物の軍人たちが使用する為の物である以上、これらも先述の代用品と同様に、レプリカではなく現在製の本物と言っていいと僕は思っています。

▲カリフォルニアのフン少尉のお店にて。2015年に初めて訪問し、2016年12月にもお会いしてきました。


▲陸軍士官 外出服(Quân phục Dạo phó)


海軍士官 冬季外出服(Quân phục Dạo phó Mùa đông)


海軍士官、士官候補生、下士官・水兵 夏季勤務服(Quân phục Làm việc Mùa hè)、外出服(Quân phục Dạo phó Mùa hè)




国家警察 勤務服、夏季外出服、作戦服


女性軍人(Nữ Quân nhân)外出服


幼年学校生徒(Thiếu Sinh Quân)準礼服、大礼服


空軍士官候補生およびベトナム国立武備学校士官候補生 大礼服(Quân phục Đại Lễ)
青が空軍士官候補生、赤がベトナム国立武備学校(Trường Võ Bị Quốc Gia Việt Nam)の大礼服です。


ベトナム国立武備学校(Trường Võ Bị Quốc Gia Việt Nam)士官候補生 夏季準礼服(Quân phục Tiểu Lễ Mùa hè)
なんと服だけでなく縮小版のダラットの校門まで作って再現います。


▲空軍士官候補生 夏季外出服


トゥドゥック武科学校群・歩兵学校(Liên Trường Võ Khoa & Trường Bộ Binh Thủ Đức)予備士官候補生 大礼服
白が武科学校群時代(1960年代前半)、カーキが歩兵学校時代(1960年代後半以降)の大礼服です。



ゥドゥック歩兵学校(Trường Bộ Binh Thủ Đức)予備士官候補生 夏季準礼服


ドンジェ軍校(Quân trường Đồng Đế)予備士官候補生 夏季準礼服


▲国家警察アカデミー(Học Viện Cảnh Sát Quốc Gia)士官候補生 外出服、勤務服



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 話は変わって、ちょっと小言を。今月のコンバットマガジン(2017年4月号)に載っていた菊月俊之氏のベトナム戦争特集の中の、『南ベトナム軍』の部分には正直がっかりしました。氏が米軍軍装に大変お詳しい事は私も承知していますし、専門外の南ベトナム軍について知らない事があるのは決して恥ずかしい事ではありませんが、興味も無いのに知ったかぶりして明らかな間違いや決めつけを書かれていたのはとても残念に感じました。
 私は基本的に、他人が個人ブログやサイトで間違った事を書いていても無視しています。しかしコンバットマガジンが何冊売れているのかは知りませんが、全国で売っているのだから少なくともウチみたいな一日200~500ビューくらいの個人のブログなんかよりはるかに多くの読者が居るはずです。またライターさんは素人ではなく、仕事としてお金をもらって記事を書いている訳ですから、今回は厳しめに苦言を呈します。

 加えて、コンバットマガジンはなぜかベトナム戦争終結41周年目の去年に終戦40周年記念特集号(2016年5月号)を出してましたが、その時も、ミリタリー雑誌のベトナム戦争(特にベトナム共和国)に対する認識は所詮こんなものか、という残念な感想しか抱けませんでした。(なのでこの号はむしろ菊月氏の米軍個人装備ガイドブックだけを目当てに買いました)
 商業誌は読者が読みたがってる記事を書かなきゃ商売にならないから、私みたいに好き勝手には書けないというのは分かります。しかしそうだとしても、日本国内には難民として来日しこの国に定住した約1万人の旧ベトナム共和国出身者と、日本で生まれたその家族たちが生活しています。また世界に目を広げれば、旧ベトナム共和国を祖国と仰ぐベトナム難民・移民の数は約300万人に上ります。彼ら反共派のベトナム人は1960年代から半世紀以上に渡って、大手メディアや自称『平和活動家』たちの歪んだ『正義感』の犠牲となってきました。ベトナム戦争を自身の思想を肯定するための道具にしようとする人々は、ベトコンが掲げる『民族解放』という言葉の気持ち良さに溺れ、反戦』という言葉をアメリカをバッシングする為だけに使い、一方でベトナム国民への恐怖政治と大量虐殺を繰り返すホー・チ・ミン政権とベトコンによる『解放戦争』を称賛し続けてきました。さらにその上、彼らはこの気持ち良い『正義』に相反するベトナム共和国政府と反共派ベトナム人を敵視し、終戦から40年以上経った今でも誹謗中傷の的としています。私はこのような一方的な正義感で立場の弱い人々を傷つけ、あまつさえ『良い事』をしたつもりになっている人々に強い憤りと軽蔑の念を抱いています。
 もちろん、コンバットマガジンがそのような政治思想に基づいた主張を行ったとは思っていません。記事に書かれていたのは、ベトナム戦争当時から日本国内で出回っていたごく一般的な論評であり、特別な事は何もありませんでした。しかし、その一般的な論評こそが、当時流行した反米運動、そしてその流れに迎合したメディアによって流布されたものであり、半世紀にわたって300万人の在外ベトナム人、そして数えきれない数のベトナム国民を落胆させてきたのです。
 ミリタリー、そして歴史を論ずるという事は、すなわち人間の命と人生を論ずる事に他なりません。戦争とは人間同士の憎悪と暴力の塊であり、たった40年くらいで遺恨が消えるようなものではありません。当事者はもちろん、第三者がいかに『公平』に語ろうとしても、それは必ずどちらか一方に利し、もう一方に不利と受け取られてしまいます。なのでもちろん、私が主張している事は、それと相反する立場の人々にとっては大変偏った暴論であると見做されているでしょう。しかし同時に、反対の立場の人々がどんなに自信満々に『正しい』と思う事を言ったところで、それによって傷つく人々が確実にいる事を忘れないで頂きたいです。私は、たまたまその弱い立場の人々と縁があったので、日本国内では声を上げにくい彼らに変わって、矢面に立って言うべきことを言わせてもらいます。




  


2017年01月21日

ベトナム人とドナルド・トランプ



 昨日、ついにドナルド・トランプが第45代アメリカ合衆国大統領に就任してしまいました。私が付き合いのあるベトナム人およびベトナム系アメリカ人のほとんどは熱烈なトランプ支持者なので、選挙の時からず~と、Facebookを開けば毎日トランプへの賛辞にあふれていて、人間の心の弱さというものを嫌というほど見せつけられました。

 彼らがそこまでトランプを支持する主たる動機、それは中国への憎悪です。
 本土ベトナム人にとって、ベトナムは第2次インドシナ戦争終結後、常に中国からの圧力に晒されており、もともと中国へのコンプレックスが強いベトナム人の反中感情は近年の中国の南シナ海への進出によってより強まっています(ベトナム共産党は中国からの莫大な援助によって戦争に勝利したのだから戦後中国がその投資を回収しようとするのはある意味当然ですが)。またベトナム共産党政府は国民のガス抜きのため領土問題で中国との対立を装っているものの、実際にはベトナム経済の中国依存は強まるばかりであり、ベトナム政府が中国の言いなりである事はベトナム国民も理解しています。だからこそ彼らは、自国の政府ではなくアメリカのトランプに、中国弱体化の期待を抱いているのだと私は見ています。
 またベトナム(難民)系アメリカ人にとって、彼らの祖国ベトナム共和国はベトコンを介した中国の侵略によって滅ぼされており、1954年の南北分断よりも遥か彼方に分断された彼ら難民の恨みと悲しみが消え去る事は永遠にないでしょう。さらに現在は、第二の故郷アメリカの経済が下火になる一方で、中国が国際社会におけるプレゼンスを増しており、彼らの中国への憎悪と劣等感は頂点に達していました。そこにドナルド・トランプ出現したことで、彼らは既存の日和見主義政治家とは違う強固な(=他人の意見に耳を貸さない)政治姿勢のトランプならこの状況を変えられるかも知れないという期待を抱いてしまいました。またベトナム系コミュニティの中心にいる元ベトナム共和国軍人たちはトランプの支持基盤の一つであるアメリカ軍退役軍人協会と強い結びつきもあり、ベトナム系市民の中でもトランプ支持が拡大してしまいました。この流れはアメリカ以外に住むベトナム難民系コミュニティでも同じような傾向があるように見えます。

 以上が、彼らがなぜトランプを支持するのかについての私なりの理解ですが、私はこのような憎悪と劣等感に突き動かされた政治選択に強い懸念を抱いています。すでに大統領選の時点で、ベトナム系市民はアメリカ社会全体と同様に、トランプ支持と反トランプで大きく分断されていました。選挙とは常に人々の意見が対立するもので、それ自体は悪い事ではないのですが、今回の選挙がこれまでと違う所は、選挙の後もその対立感情が強まる一方だという事です。
 あるトランプ支持派の元ベトナム共和国軍人は大統領選の直後、トランプへの反対を述べたベトナム系の若者に対し、「お前らは負け犬だ」、「アメリカから出ていけ」などの罵詈雑言を浴びせていました。またある時は、オバマ大統領を(明らかに黒人であるという理由で)ゴリラに見立てて、「猿は檻(刑務所)に入れ」という内容の書き込みがベトナム人の間で大量にシェアされていました。また私と懇意にして下さっている元共和国軍人の方も、反トランプデモについて度々嫌悪感を露わにしています。「ほら見ろ、あいつらは暴動を起こした。反対派はアメリカの敵だ」と。
 私はそれを見ていて、「そんな考え方してるからあんたらの国は潰れたんだよ」と思ってしまいました。今まであえて書いてきませんでしたが、正直、戦後の元共和国軍人たちの多くは、敗戦の原因を全て中国や共産主義者のせいにして、自国の政府が行った暴政や弾圧が国内のベトコンを拡大させた事実については無視し続けています。彼らには家族や国を失い、言葉の通じぬ異国に逃げざるを得なかったという非常に辛い過去がありますし、私自身も現在まで続くベトコンによる国民へのテロリズムを憎んでいるので共和国軍人への敬意を持ってこのブログを書いてきましたが、あの時代のあの政府が最善の選択をしていたとは到底思えません。残念ながら彼らの味わった悲しみと絶望感は、彼から過去の自分たちの過ちを反省するという判断力を奪ってしまったように思えます。

 本題に戻りますが、このような自分と異なる意見に対し、それを愚かな事だと決めつけ、話を聞かず、排除しようとする安直な思考は、人権や文化の多様性を奪う、民主主義に最も逆行する行為だと私は断言します。曲がりなりにも民主主義・自由主義という理念を牽引していたアメリカ合衆国が、感情論に流されて自らその理想に背を向ける事は、アメリカ国民ひいては世界の未来に暗い影を落とす行為ではないかと思いっています。レッド・チャイナが憎いからと言って、ホワイト・チャイナになったのでは意味が無いのです。
 なので私は、友人全員を敵に回す覚悟で、あえてトランプ本人およびその支持者の一部は民主主義への理解が欠けており、危険な排外主義であると批判しました。また昨晩はトランプの大統領就任式の生中継を見ながらベトナム人たちがお祭りをしている最中、私は彼らに向けて、オバマ大統領が最後のホワイトハウス記者会見で報道陣に対して述べた言葉を投稿しました。



"But I have enjoyed working with all of you. That does not, of course, mean that I’ve enjoyed every story that you have filed, but that’s the point of this relationship. You’re not supposed to be (inaudible) fans, you’re supposed to be skeptics, you’re supposed to ask me tough questions. You’re not supposed to be complimentary, but you’re supposed to cast a critical eye on folks who hold enormous power and make sure that we are accountable to the people who sent us here, and you have done that."

「私は皆さんと一緒に楽しみながら仕事をしてきました。もちろん、あなた方が書いたすべての話を楽しめた訳ではありませんが。しかしそれこそがこの関係に大切な事なのです。あなた方は私のファンではないし、私を懐疑的に見ており、厳しい質問を投げかけるでしょう。あなた方は私を称賛しないでしょう。しかしあなた方は巨大な権力を持つ者に批判的な目を向け、我々をここホワイトハウスに送ってくれた国民に対し責任がある事を認識させてくれました。」

"And so my hope is is that you will continue with the same tenacity that you showed us, to do the hard work of getting to the bottom of stories and getting them right and to push those of us in power to be the best version of ourselves and to push this country to be the best version of itself.
I have no doubt that you will do so, I’m looking forward to being an active consumer of your work, rather than always the subject of it. I want to thank you all for your extraordinary service to our democracy."

「そして私の望みは、今後もあなた方が私に見せたように粘り強くある事です。徹底的に取材し、正義を求め、権力の座にある者、そしてこの国を最善の状態にすべく仕事に打ち込む事です。私はあなた方がそうすると信じて疑いませんし、今後もそのニュースの題材よりも、あなた方がその仕事の積極的な担い手であることを楽しみにしています。私は皆さんの民主主義への特段の貢献に感謝したいです。」

"if you find yourself isolated because the process breaks down or if you’re only hearing from people who agree with you on everything or if you haven’t created a process that is fact-checking and probing and asking hard questions about policies or promises that you’ve made, that’s when you start making mistakes."

「物事がうまくいかずに孤立した時や、自分に同意する人たちからしか話を聞こうとしない時、事実確認をせずに物事を進め自身の政策や公約に対し手厳しい追及を受ける時、それは間違いを犯す時なのです。」

The New York Times
Obama’s Last News Conference: Full Transcript and Video (JAN. 18, 2017)

 投稿してすぐに、予想通りオバマは詐欺師、容共、イスラムシンパなど批判的な書き込みが相次ぎました。もうタダでベトナム人の家に泊めてもらえないかもね。でもこのくらいで縁を切るような度量が狭い人間とは最初から付き合う気はないので、別に良いのです。それにFacebookで友達になったベトナム人500人のうち、5人はイイネ!してくれたし(笑)、ベトナム系アメリカ人の中にもオバマ大統領を擁護する声は存在しました。しかしトランプ支持派と反対派で口論になり始めたので、私としては以下の考えを述べて締めくくりました。

"Thank you all for give me your opinions. I don't know actually his domestic politics because I'm not in America, and the news from foreign lands have been reported in fragments in Japan. I just know American society has big and deep problems still now so it is natural that people find fault with Obama. Of course excepting a violence even there is any reason, I believe that the act of criticizing makes the wholesome Democracy."

「みんな意見をくれてありがとう。僕はアメリカに住んでるわけではないし、外国のニュースは日本には断片的にしか入ってこないから、実際のところ僕はオバマ政権の内政に関してはよく知らないんだ。ただアメリカ社会はいまだに大きく深刻な問題を抱えている事は知っている。だからオバマ政権の問題点が指摘されることは当然の事だと思うよ。もちろんいかなる理由があろうとも暴力に走る事を除いてだけど、『批判する事』こそが健全な民主主義を作るのだと信じているよ。」


当てつけも含んでいるけど、僕の意図が伝わってくれていればいいなぁ。
  


2016年12月03日

リュックのおまけ

先日知人が某所でオリジナルの『インディジネス・ラックサック』を入手しました。
これ自体かなりの掘り出し物だったのですが、さらにそのポケットの中から、面白いものが出てきました。


くしゃくしゃに丸まったB5サイズほどの紙2枚と、小さめの紙1枚です。あ!なんか出てきた~!と、思わぬおまけにみんなウキウキ。だけどそれはなかなかの古い紙で所々虫に食われており、無理に広げるとそのままボロボロと崩れそうなので、慎重を期して広げていきます。
するとその紙には、なにやらベトナム語が印刷されていました。おおー!これはもしかしたら、ベトナム戦争当時NKTやLLĐBなどのベトナム共和国軍特殊部隊員が使った当時の書類がそのまま入ってたんじゃないか!?と、一気に興奮しました。
でも誰もベトナム語が読めないので、それが何の書類なのかその場では分からず。なので僕がこれを借り受け、内容を調べる事になりました。
その後、一応自分でもGoogle翻訳を使って翻訳してみましたが、ベトナム人に読んでもらう方が確実なので、スキャンした画像を知り合いに見てもらったところ、以下の内容だという事が分かりました。

まず大きい紙の方は、何かの『返品請求書』だそうです。内容は記載されておらず、真ん中の表は注文商品、商品の説明、重量・サイズ、材質、数量、単価、合計金額がを記入する欄だそうです。また、このフォーマットの作成日は1983年3月24日と印刷されていました。

次に赤い印刷の紙は、手巻き煙草の巻紙のパッケージだそうです。こちらに印字されている日付は1988年9月12日となっていました。

両方とも1980年代の物なので、期待していたようにベトナム戦争時代の物ではありませんでしたが、これはこれで、このリュックが戦後も使われていた事の証拠と言えます。
1975年に戦争に勝利したハノイ政権は戦後、旧ベトナム共和国軍の装備品を接収し、戦闘機からブーツに至るまでベトナム人民軍の装備に加えてその後のカンボジアや中国との戦争に使用していきました。
なので1960年代初頭にアメリカ軍がCIDG向けの装備として設計したこのインディジネス・ラックサックも、戦後のベトナム人民軍で長らく使用されたそうです。
今回見つけたリュックが人民軍で使用された物かどうかはこれらの書類からだけでは判然としませんが、少なくとも80年代までベトナム国内で誰かに使われていた事は確かであり、このリュックが見てきたであろうベトナムの苦難の歴史につい思いを馳せます。

ちなみに、旧ベトナム共和国軍の装備品の一部は今でも人民軍で現役で使用されており、僕が今年ベトナムに行った時も、人民軍の基地近くの街道を米国製のM35トラックが何台も走っていました。またM113やXM706(V-100)装甲兵員輸送車もまだまだ現役であり、さらに近年、長年倉庫に眠っていたXM16E1/M16A1ライフルをカービン風に改修した『M18小銃 (Súng M18)』が新たに人民軍の特殊部隊に採用されるなど、いかに大量のアメリカ製装備が戦後も残っていたかを物語っていますね。

▲現在のベトナム人民軍陸軍の憲兵
車輌はともかく、M1ヘルメットやM69ボディーアーマーまで現役ってのには驚かされます。
決して物が無い訳ではないので、こうまでして使い続ける理由は多分、
単純に『見た目がカッコいいから』なんだろうなぁ。
  


2016年11月09日

ベトナム系市民から見たアメリカ大統領選

候補者がアレなのでいつになく注目されているアメリカ大統領選。
もう間もなく結果が出ますが、その結果を見る前に、アメリカ在住の友人たち(主にベトナム系アメリカ市民)の大統領選に関する言動をここ数か月間見てきたので、僕から見た彼らの考えをまとめてみます。

ベトナム系はトランプ派?ヒラリー派?】

在米ベトナム系コミュニティとして統一した意向は形成されておらず、アメリカ社会全体と同様に大きく割れています。


【トランプ派の人々】

かなり多く見受けられます。人数的には多数派かも。
現在アメリカに住む200万人のベトナム系市民の多くは、1975年以降ベトナム共産党政権から逃れて海外に脱出した難民とその家族であり、現在でも旧ベトナム共和国(南ベトナム)の軍・政府関係者がコミュニティの中心的存在となっています。
彼らにとってヒラリーのようなベトナム反戦運動を行っていたリベラルは、アメリカ軍をベトナムから撤退させ、共産主義陣営によるベトナム侵略を加速させた人々、つまり自分たちの祖国を蹂躙した勢力の一部と見なされており、非常に嫌われています。
ベトナムに従軍したアメリカ軍人の間でも、戦後も一部のリベラルによって軍人への誹謗中傷が続いたため、退役軍人アソシエーション(※日本では考えられないくらい強い政治力を持っている)では民主党などのリベラルを嫌う人が多く、保守的な共和党が強い支持を得ています。
また銃規制の面からも民主党を拒否する声を多く聞きます。オバマ政権から始まった銃規制強化は今後ヒラリーによってさらに強化されると予想されますが、規制への反対は国内の銃器・弾薬産業のみならず、普通のアメリカ市民の間でも広まっています。これはもちろんNRAら業界団体が規制を回避するため、高い犯罪発生率の中で市民の自衛手段だけが奪われるのでは、という不安を煽った結果ですが、それだけアメリカ市民にとって銃は身近な、そして切実な問題のようです。現にアメリカでは規制前の駆け込み需要によって銃器の売り上げがアメリカ史上最高を記録しており、僕の友人も規制の対象になりそうなAR-15用30連マガジンや5.56mmNATO弾を大量に買い貯めしていました。
まとめると僕の周りのトランプ支持派は、トランプ本人を支持しているというよりは、ヒラリーと民主党への反対を動機としている人が多いように見受けられます。
またトランプによる不法移民やイスラム教徒への誹謗中傷も、自分たちは正当な移民なので関係なく、むしろ社会が安全になるのなら多少の無茶も構わないといった感じでした。これは現在のアメリカ社会が抱える不安感を如実に表しているでしょう。


【ヒラリー派の人々】

ベトナム系でも若い世代の間ではヒラリー支持、と言うか反トランプ派が多く居ます。
理由は言わずもがな、あれほど下品で浅はかな人間をアメリカ合衆国大統領にするのはアメリカの恥であり、そもそもトランプは大統領候補として不適格だという見方です。彼のデマゴーグとしか言いようのない扇動的な言動は既にアメリア国内に大きな分裂をもたらしており、その上万が一大統領になろうものなら、アメリカの外交・内政は大混乱に陥る事が必至であるとしています。
また保守層から史上最悪と非難される民主党オバマ政権ですが、実際はこれまでになく失業率が低下しており、経済も一時期よりは回復。多くの犠牲者を出したアフガニスタン、イラク戦争からの撤退を実現するなど、(ヒラリー、トランプが嫌われ過ぎているので)オバマ大統領に対する前向きな評価は任期満了が近付くにつれて高まっています。ヒラリーも基本的にはオバマ政権の方針を引き継ぐと見られており、このまま経済を安定させる事に期待する人々は民主党政権の存続を望んでいます。
銃規制に関しても、これだけ銃犯罪や無差別テロ、子供による暴発事故が頻発している中で、誰でも弾薬を無制限に買え、犯罪歴さえなければ何丁でも銃を所有できる状況は、とても自衛のための必要最小限の武装とは言えず、規制反対は銃器産業と政治家の既得権益の保護でしかないという声も根強くあります。
まとめると、ヒラリー支持者は、まずトランプの人間性を大いに疑問視しており、トランプが大統領になった場合のアメリカの混乱と破滅を恐れている訳です。トランプ同様、ヒラリー本人も嫌われている事には変わりないですが、少なくともトランプよりはマシ、というのが穏健なアメリカ市民の見方のようです。



さて、この記事を書いている時点(日本時間11/9 13:00)での出口調査ではトランプ優勢。
マジかー。悪い冗談が現実になっちまうかも。

※追記
日本時間11/9 18:00現在、トランプ当選確実。あ~あ。

He Will Make America America Again.

  


2016年10月08日

普通のブログ

かなり久しぶりに漫画の『地獄先生ぬ~べ~』を1巻から読み直してます。
小学生の頃から大好きな漫画だったけど、こんなに泣ける話だったっけ。
一巻毎に最低1回は必ずウルウルしちゃう。歳取ると涙腺が緩くなるのかな。膀胱も緩くなったし。
続編の霊媒師いずな、地獄先生ぬ〜べ〜NEOはまだほとんど読んでなかったから、この機会に買って読もっと。

地獄先生ぬ〜べ〜NEO 1 (ジャンプコミックス)
岡野 剛
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売り上げランキング: 65,288




シン・ゴジラ2回目見に行ってきました。同じ映画を2回も見に行くのはこれが初めて。このゴジラを見る事ができてとても幸せです。
作品に関しては、この2か月間散々巷を席捲してきたものなので今更書くべき事も無いのですが、あえて一つだけ無いものねだりを言わせてもらえば・・・
やっぱり怪獣と戦う戦車は煙突マズルブレーキが付いてて欲しいなぁ。ついでに単色塗装に日章旗マーキングで。

庵野監督ならやるんじゃないかと、ちょっとだけ期待してた。

これからもずっと、"子供に見せられる"自衛隊と日本が続きますように。
クレヨンしんちゃん+怪獣大戦争マーチ https://youtu.be/k03lgPEuJLA?t=1h12m50s




8月末、台風のあとに巨大な虹が出現。家のベランダから撮りました。

虹が大き過ぎてフォーサーズ14-42mmのレンズ(35mm換算で28-84mm相当)では全然画角に収まらなかったので、3枚の写真をつなげてあります。空の色に切れ目があるのはそのせい。
加えて、目で見るのとは違って、写真ではコントラストをかなり上げないと虹がはっきり見えなかったので、空は実際にはもっと明るかったです。



こちらも8月に撮ったやつ。

仕事の合間にケータイで撮りました。ずっと田舎の方を周ってたので、夏っぽい良い風景が沢山見られました。
しかし移動は車だったとは言え、作業は外で行うので、連日の猛暑でやってられっか!って状態でした。
無理無理、1件終わるごとに車に戻ってエアコンMAXにして体力が回復するまで休憩。
汗の量が尋常じゃない。車のシートまで汗びっしょりだし。マジで車内が臭いのでファブリーズ常備してました。

仕事の最中、周囲に民家がなく近所付き合いもなさそうな場所にある一軒家に、認知症らしき老人が何するわけでもなく一人でボーっと座りこでいるという場面に何度も出くわしました。
服は汚れ、玄関から見える家の中はゴミだらけ。声をかけても、いまいち会話にならない・・・。
すごく心配になるけど、特に危険が迫っている訳ではないし、僕も仕事があるので次の場所に行かなくてはならない・・・
自治体がこの状況を把握し、様子を見に来ている事を祈るしかありませんでした。
誰もが憧れる美しい里山風景の影には、過疎と高齢化により社会から孤立してしまった独居老人たちが想像以上に多くいるという現実を思いがけず知ることとなりました。
自民党の議員先生たちが『一億総活躍』や『地方創成』という言葉を口にする時、その恩恵を受けるはずの『国民』に、こういった弱い立場の人々も含まれているのか、よくよく疑って見る必要があるでしょう。
  


2016年10月01日

おフランスのおベレー

珍しく手持ちの実物軍装を載せてみます。

うちにはフランス軍のベレーがいくつかあるのですが、実はこれらのベレーは立てる向きが同じだからベトナム共和国軍コスプレの代用品にしようと思って買っただけなので、フランス軍アイテムを集めているつもりはありませんでした。
でもよく考えたら、以前『フランス軍のベレー章など』で載せた実物ベレー章を持ってるんだから、それらをベレーと組み合わせれば本来のフランス軍の姿になるじゃん、という事に今頃気付きました。
ただし、僕は第1次インドシナ戦争期のフランス連合軍関係のアイテムは徐々に集め始めたところですが、今回紹介するベレーとベレー章は1960年代以降の物なので、僕の趣味の範囲からは外れているため、あまり詳しいことは分かりません。


アマランス(Amarante)

ベレーと言ったらやっぱりこの色。
1950年代以降は明るいアマランス色になっていますが、元々は第2次大戦中に組織された自由フランス軍SASがイギリス陸軍空挺部隊のマルーン色ベレーを取り入れたのがその起源と言われています。
ただし、写真のベレーは帽体が異様に小さくなった近年のスタイルなので、
60年代以前のフランス軍やベトナム共和国軍への代用には不向きです。

▲陸軍本土空挺部隊 (Troupes Aéroportées Métropolitaines)

▲陸軍海兵隊空挺部隊 (Parachutistes Troupes de marine)


ダークブルー (Bleu foncé)

ダークブルーはフランス陸軍の基本色で、各兵科で使われています。
写真のベレーは1964年納入のPX品らしいです。
この時代のフランス軍ベレーは、現在とは反対に帽体がとても大きく、ベレーが耳にかかるくらい左側に垂らして被るものでした。

▲陸軍歩兵(Infanterie)

▲陸軍工兵(Genie)

▲陸軍輜重兵(Train)

▲陸軍海兵隊 (Troupes de marine)

▲空軍空挺コマンド (Commando parachutiste de l'air)


リーン (Vert)

グリーン色のベレーも元々、第2次大戦中に自由フランス軍の外人部隊がイギリス陸軍第4コマンド旅団のグリーン色ベレーを取り入れたのがその発祥と言われています。
当初ベレーは外人空挺大隊でのみ使用されましたが、1959年からは空挺以外も含む外人部隊共通のベレーとなりました。
写真のベレーは1967年納入のPX品で、先記のダークブルーと同じく帽体が大きい時代の物です。

▲陸軍外人空挺部隊(Parachutistes Légion étrangère)


熱帯ベレー/ベージュ (Beige)

こちらは1950年代から60年代にかけて熱帯地域で使用されたコットン製のベレーです。
部隊、兵科ごとに色が違うウール製ベレーとは異なり、熱帯地域であれば部隊に関係なく着用でき、
ベレー章もそれぞれの部隊の物を取り付ける事が出来ました。

▲陸軍サハラ部隊(Troupe Saharienne)


ブラック (Noir)

ブラック色は陸軍装甲騎兵(機甲)や猟兵などで使われていますが、写真のベレーは通常とは逆の左立ち(イギリス式)になっています。
フランス海軍の陸上部隊ではイギリス海軍・海兵隊の影響から左立ちのベレーを使っていますが、このブラック色がどの部隊で使われるのかは分かりませんでした。
帽体は小さいので、比較的新しい時代の物っぽいです。



おまけ

2009年以降、Wikipediaフランス語版『Marcel Bigeard』のトップ画像に鎮座し続けた謎の落書き、もとい肖像画。

ミスター植民地空挺ビジャールおじさん(?)

顔が似ていないとかの問題以前に、英語・日本語など他言語版のページでは本人の写真が使われているのに、なぜ地元のフランス語版では写真ではなく、ウィキペディア編集者個人が描いた微妙なイラストがトップ画像であり続けたのか・・・。謎過ぎます。フランス国内では良くも悪くもかなりの有名人なはずなのに。
しかし、掲載から7年経った2016年7月、ついに(と言うか今頃)トップ画像が実写に変更され、この意味不明な状態は突然終わりを迎えます。(まだ下の方にこのイラスト残ってるけど。)

実はフランスのネット住民もあの状況を面白がって、あえて誰も直そうとしなかったんじゃないか?
そして先日ようやく、そんなネタがある事を知らない普通の人が、普通に実写に変えたのでは、と推測してます。
だからどうしたって話だけど。
  


2016年08月18日

ベトナム戦跡めぐりダイジェスト

お盆休み中、ブログ書く時間は沢山ありました。
ところが去年から調子の悪かった自室のエアコンがついに本格的にイカれてしまい、冷えないどころか逆に熱風が噴き出るようになってしまいました。ダメだこりゃ。
もう暑くて部屋に居られないので、必然的にパソコンをやる機会が減っています。この記事書いてる今現在も汗ダラダラ。
なので、先月のベトナム紀行について書きたいことは山ほどありますが、詳しい記事は涼しくなったらにします。
とりあえず忘れる前に、戦史めぐりとして周った場所をダイジェストで。

トゥックズップ丘陵(Đồi Tức Dụp)

現在は革命戦争の戦跡として歴史公園になっています。射撃場があったので念願のM16A1をフルオートで撃ってきました。

チャウドック省(現・アンザン省)トゥックズップ丘陵/コートー山戦うベトナム陸軍第9歩兵師団兵士 [1970年11月]



クチ・トンネル (Địa đạo Củ Chi)

ベトナム観光のド定番、クチにも行きました。
射撃場でライフル撃ってたら、友人が「ちゃんとメンテしてあるかな?」とか言って、勝手にAK (中国製56式小銃輸出型)を分解してて笑えました。(注・良い子はマネしないでね)
ちなみにここは外国人観光客に人気のスポットだけあって、弾の値段はトゥックズップの4倍。ボッてるなぁ。もったいないのでフルオートでは撃ちませんでした。

あと、銃を選ぶ際、M16ライフルがAR-15と書いてあるのはまだ分かるけど、M1919A4機関銃がM30という名前になってるのはどうかと思う。"Cal.30"をモデル名と勘違いしたんだろうけど。



国道1号線ビエンホア街道 (Quốc Lộ 1)

▲政府軍と共にビエンホア街道で戦う民兵たち [1975年4月末]
4月21日のスンロク陥落以降、共産軍は国道1号線からのサイゴン突入を試みます。ビエンホア街道では周辺に住む住人たちも銃を取り、民兵として敵のサイゴン突入を阻止すべく戦いました。
友人曰く、戦後サイゴンでは多数の市民が山岳地帯に強制移住させられ、現在でも街全体で政府による思想統制が厳しいが、一方でビエンホア街道周辺の集落では強制移住は行われなかったため、現在でもハノイ政府を嫌っている住民が多いとの事。確かに、サイゴンでは街中にあふれていた金星紅旗と共産党旗が、街道沿いの家々にはほとんど掲げられていませんでした。


新港橋 (Cầu Tân Cảng)

国道1号線でスンロク~ビエンホア~サイゴンと移動し、1975年4月の足跡を辿りました。
なお、この橋のある位置は1975年以前と同じですが、現在のサイゴン橋は90年代に建て直されたものです。


▲サイゴンに通じる国道1号線最後の橋、新港橋(ニューポートブリッジ)を守る空挺師団第12空挺大隊 [1975年4月28日]



総参謀部 (Bộ Tổng Tham Mưu)

現在は人民軍第7軍管区司令部となっています。(現地で写真撮ってないので、画像はGoogleストリートビューより)
 
▲ベトナム共和国軍総参謀部正門 [1975年以前]



独立宮殿 (Dinh Độc Lập)

外からの写真はネットでいくらでも見る事ができますが、内部をじっくり見る事が出来たのは貴重な体験でした。
しかし、もし仮にベトナム共和国が現在まで存在していたら、こうして一般人が内部に入る事など出来なかった訳で、少々皮肉に感じました。

 
▲2階の庭園でフランスメディアのインタビューに答えるグエン・バン・チュー総統 (https://youtu.be/2kQZxgjCPjg?t=3m40s)


バチュク祠墓 (Nhà Mồ Ba Chúc)

 
 ベトナム戦争終結後の1978年、かねてよりベトナムと領土・民族問題で対立してきたカンボジア(ポル・ポト政権)がベトナムに軍事侵攻した際、国境から3kmほどの位置にあったバチュク村のベトナム人住民3000人以上がカンボジア兵に殺害されるバチュク村虐殺事件が発生しました。ここは、その時の犠牲者の遺骨を安置・供養する祠墓です。
 このバチュク村の事件はベトナム国民に、カンボジアへの非常に強い敵愾心を抱かせ、現在でも祠墓の隣にはカンボジア兵がいかに残虐な行為に及んだかを展示した資料館が併設されています。一緒に参拝した私の友人も、ベトナム人としてポル・ポト派への憎しみを露わにしていました。
 確かに、こうして大量の遺骨を前にすると言葉に詰まるものがあります。しかし私はベトナム人ではないので、外国人として、一歩引いた目線で見る必要があると感じました。
 カンボジア軍の侵攻後、ベトナム人民軍は報復としてカンボジア領に侵攻し、カンボジア・ベトナム戦争に発展。ベトナム軍はプノンペンを占領し、カンボジアに殺戮の嵐をもたらしたポル・ポト政権を崩壊させますが、ベトナムが擁立した新政権(ヘン・サムリン政権)を拒絶するカンボジアの反ベトナム三派は新政府とカンボジア駐留ベトナム軍を攻撃し、カンボジアは再び長い内戦の時代を迎えます。
 一見ベトナムは正当防衛を行ったかのように見えますが、中越戦争に至った中国との緊張を背景に、カンボジア・ベトナム戦争終結後もベトナム人民軍がカンボジアに駐留し、カンボジアに干渉し続けたが為にカンボジア内戦が長期化した事は周知のとおりです。その間のカンボジア国民の犠牲者数は、バチュク村の比ではありません。この事件は結果的に、カンボジアに干渉する口実を欲していたベトナム共産党政府にとって願ってもない宣伝材料となり、だからこそ今こうして立派なモニュメントが建設されている訳です。
 一方で、現政府にとって不都合な事件、例えば1954年にホー・チ・ミン政権が自国領内の地主階級を1万人以上処刑した大粛清や、10年以上続いたベトコンによる一般市民へのテロ・虐殺などについては、犠牲者を追悼するどころか、全て無かった事にされています。この国では、歴史は政府の都合で決まるのです。
 それを踏まえた上で、私は同じ人間として、不幸にも命を奪われた無辜の人々をただひたすら追悼しました。と言うか、それ以上の事はしてはいけないと思っています。これはベトナムに限らず、こういう惨たらしい事件をここぞとばかりに宣伝に使い、新たな惨劇を欲するあらゆる勢力への、私にできる精一杯の抵抗です。

 
  


2016年08月09日

ビエンホア国軍墓地

 顔なじみにはもう既に話しましたが、先月、10日間ほどベトナムを訪問してきました。
 ベトナムでは、友人(ベトナム系アメリカ人)の親戚の家にホームステイさせてもらっていたのですが、が帰国した後も彼は2週間ほどベトナムに残っていたので、彼がアメリカに帰国するまでは安全のため、我々がどこに行っていたのかインターネットには書かないという約束でした。
 その友人が先日、無事アメリカに帰国したので、これからたちが訪れた場所を紹介していきます。

 まず、実際に訪れて最も強い衝撃を受けたのが、ビエンホア国軍墓地 (Nghĩa Trang Quân Đội Biên Hòa)でした。
 ビエンホア国軍墓地とは、1961年に着工、1967年に完成したベトナム共和国の軍人(および司法・行政関係戦没者)墓地で、125ヘクタールの広大な敷地に最大30,000基の棺を埋葬できるベトナム最大の国立墓地でした。
 このビエンホア国軍墓地には、ピーク時の1968年(テト攻勢)、1972年(イースター攻勢)に合わせて10,000名もの殉職者が埋葬され、1975年の終戦までに計18,318基のお墓が建立されました。

▲1975年以前のビエンホア国軍墓地
墓地の正面にはビエンホア墓地のシンボルである銅像『追悼像(Thương tiếc)』、小高い丘の上には霊廟『死士殿(Tử Sĩ)』、墓地の中心には高さ43mのコンクリート塔『義勇塔(Nghĩa Dũng )』が建立された。





 ここを訪れて弔意を捧げる事は、今は無きベトナム共和国という国に少なからぬ縁を持った私にとって人生の夢でしたが、同時に非常に危険を伴う困難な目標でもありました。
 なぜならベトナム社会主義共和国は1954年以来、60年間以上に渡ってベトナム共産党による一党独裁体制な訳ですが、彼ら国内の求心力を維持し、自分たちの独裁体制を維持し続けるために掲げられる大義名分は、かつて『フランス・米帝とその傀儡から人民を解放した』という過去の功績しかありません。そしてその為にベトナム共産党は、自分たちが打倒したベトナム共和国という体制を徹底的に悪の権化と宣伝し、1975年以前の南ベトナムに存在したありとあらゆる価値観を、音楽や芸術に至るまで破壊しつくしてきました。そして現在でも、国民が政府を批判する事は許されず、ましてベトナム共和国という旧体制を好意的に見る事は弾圧の対象とされています。(法律に明文化されている訳ではないが、政府に不都合な事は何でもベトナム社会主義共和国刑法245条『公共秩序騒乱罪』で逮捕される)
 しかし一方で、今日ではインターネットの普及によってベトナム共産党による長年の悪政に対する批判が噴出しおり、政府は見せしめのために抗議運動の指導者を次々と逮捕するも、それによってさらに国民の怒りが炎上するという『アラブの春』の前段階に似た状態となっています。さらにその中には、独裁政権下で隠蔽されていたベトナム共和国時代の真実をネットによって知り公然と旧ベトナム共和国という体制を肯定する若者たちもかなり増えてきました。少なくとも私がFacebookで友達になっている400名のベトナム人はそういう人たち。また彼らは旧南ベトナム地域出身者に限らず、ハノイを中心とする北部にも反共産党・親ベトナム共和国派の若者が大勢います。こうした状況の中で今日では、ビエンホア墓地は旧政府時代の国立墓地というだけでなく、ベトナム共産党による支配を阻止するため、祖国ベトナムを守るために戦った英霊の眠る神聖な場所として、現代の反体制派ベトナム人にも再評価されるようになってきました。
 しかしこういった流れは独裁体制を維持したい現政府が最も危惧していた事であり、ベトナム警察はそうした反体制運動への取り締まりをより一層強化しつつあります。なので、パスポートを提示して入国せざるを得ない外国人の私が、警察の目を逃れてこの墓地に赴くことは非常に困難だと考えていました。


偶然にも私がビエンホアを訪れる二日前に、別のベトナムの若者たちが共和国軍を偲んだ軍服姿でビエンホアを参拝し、警察が出動したというニュースが流れました。

 しかし去る7月上旬のある日、ある米国在住の友人から突然「今ベトナムに居る。君も来るならビエンホアに案内する」と誘いを受けてしまいました。は正直、行くかどうかかなり迷いました。ただでさえベトナムは、気に食わない人間は外国人でも平気で不当逮捕(=罪状なしで拉致監禁)する国だし、ビエンホア墓地はその中でもかなり監視が厳しい所だろうし、がどういう人間かはインターネットを通じて監視されているだろうし・・・。
 でも今なら、向こうの事情に通じた友人たちがエスコートしてくれると言う。今行かなければ、次に行けるのは何年後になるか分からない。誘われてから丸一日じっくり考えた末、意を決してベトナム行きの航空券を買いました。

 そしてベトナム入国二日目に、私とベトナムの友人5名(うち2名は参拝後すぐ立ち去れるよう車で待機)でビエンホア国軍墓地に赴きました。車の中で友人たちに「ここは監視が厳しく普通のベトナム人ですら危ないが、外国人は特にマズいので、タイガは言葉を話すな」と指示を受けました。また携帯電話を持っているだけでも警察が飛んで来るので、スマホも全員車内に置いて行きました。なのではこの場所で写真を撮っていませんが、友人は腕時計型カメラ(秋葉原とかで売ってるやつ)を身に着け動画を撮りながら行ったので、後日彼が製作しているドキュメンタリー映画でその時の動画が使われるそうです。

 そしていよいよ車から出たわけですが、そこで衝撃的な事実を知りました。かつて125ヘクタールもある広大な墓地だった場所には、何事も無かったかのように平然と工場や住宅が立ち並んでいるのです。そこにあったはずの18,318人分のお墓は、とうの昔に取り壊され、更地にされていたのです。
※2016年8月17日訂正
後日判明した所によると、、義勇塔の周囲だけは、塔が半分ほどに取り壊されたもののまだ墓石が多数残っており、遺族によって整備・維持されているそうです。

 丘の上の霊廟だけはかろうじて破壊を待逃れていたため、我々は残された霊廟にお参りする事にしました。しかし車の中からも確認していましたが、霊廟の門のあたりには私服警官らしき男たちが張り込んでいたので、我々は地元民を装って門を素通りし、そのまま数百m歩いて丘の裏手にまわり、周囲に人が居ない事を確認してから霊廟裏手の階段に進みました。
 そこは、死者が眠るかつての荘厳な景色の面影など一切ない、ただの雑木林と化していました。最初は40年も放置されれば木も生えると思っていましたが、階段を登っているうちに、これらの樹木は人為的に植えられたものである事に気付きました。石段から直接、段毎に等間隔で木が生えています。これは明らかに、この施設が周辺住民の目に入らぬよう、霊廟を木々で覆い隠す目的で植えられたものでした。

(↓私は現場で写真を撮っていないので、以下の写真は他の人が違う言う日に撮影したものです)
 

 一度林の中に入ってしまえば、外で見張っている警官からは見えないので、霊廟の正面と内部で焼香させていただきました。それは、私がベトナム共和国軍に興味を抱いてから13年目にして迎えた、最も心の震える瞬間でした。
 戦死者約20万人、戦傷者100万人もの大きすぎる犠牲を払いながら、国際社会から無視され、越共テロル政府から国を売った悪魔と喧伝され、無知なミリタリーマニアから嘲笑の的にされ続けるベトナム共和国軍。彼らの霊が癒される時は果たして来るのでしょうか。私はただ、心の中で彼らの無念を偲ぶ事しかできませんでした。
 私は今回、こうして不可能だと思っていた夢を叶えました。しかし少しもハッピーな気持ちにはなれません。この夢のフィールドにあったのは、悲しみと怒りだけでした。動画を撮影している友人は、私に感想を尋ねました。しかし、答える言葉が見つかりません。この邪悪な行いに対する感想を、どう英語で表現したらいいのか私には分かりませんでした。
 一般に、戦争とは異なる立場の人間同士の衝突であり、一概にどちらが良い悪いと言いきれるものではないという事は承知しています。しかし、このように死者の眠る場所を冒とくし、あまつさえ全ての墓標を破壊し全て無かった事にしてしまうなどという行為は、どんな大義名分があろうと『悪行』以外の何者でもありません。
 私はかねてより、ホー・チ・ミンらベトナム共産党がいかにベトナムという国を不幸のどん底に叩き落したかという事を主張してきましたが、今回実際にこの目でその惨状の一部を目の当たりにし、改めて彼らが行った『解放』と『統一』の正体を再認識させられました。

 願わくば、この隠伏の木々が鎮守の森の役目を担い、来るべきベトナムの再出発の日まで、この地に眠る霊たちを守り続けん事を。
  


2016年06月13日

めぐりあい東京

先週末は友人たちと都内各所をめぐってきました。


土曜日

【ベトナムフェスティバル2016】

流暢な日本語を話すベトナム人三人組(笑)

お祭りは例年通り大盛況。暑かった~

昼飯は久しぶりのバインミー。去年カリフォルニア行った時は、一日二食はこれ食べてたなぁ。
朝リトルサイゴンでバインミー買って、ハリウッドのユニバーサルスタジオに持ち込んで中で食べたり。
なお夕飯は主に、アナハイムのスーパーで買ったカップラーメンという貧乏旅行っぷりでした。

デガ(タイグエン地方の山岳民族)の伝統楽器の奏者さん。でもこの人はデガではなくキン族っぽいです。

あと写真は載せないでおきますが、山岳民族の子供たちへの生活支援を呼びかけるブースに掲げられた逆さ吊りの金星紅旗にはドキッっとしました。このイベントは完全に越共政府系だし、しかもブースは運営本部の隣のテントです。なぜ誰も指摘しないんだ?
ブースに居た人たちがキン族なのか少数民族なのか見た目では分かりませんでしたが、あの旗を掲げる政府が少数民族に対し何をしてきたかを考えると、何らかの意図がある行動なのではと勘ぐってしまいます。ナチが自国のゲットーを紹介しているようなものなので。


【原宿 竹下通り・表参道】

実はメコンデルタ生まれのS君が仕事の都合で近々東京を離れるそうなので、せっかくなのでベトナムフェスティバルの会場である代々木公園から歩いて竹下通りと表参道を見学。
フッ、俺のような埼玉生まれアニソン育ちには、ベトナムより遠い異国に感じるぜ・・・


【江戸東京博物館】

原宿の後は僕のお勧め、両国の江戸東京博物館へ移動。
ここは街のミニチュアが見応えあるし、江戸~昭和の建物が1/1で再現されていたりで超面白いです!
模型で展示されていた御茶ノ水のニコライ堂はまだ同じ場所にあるよと言うと、S君がぜひ行ってみたいと言うので、翌日行くことにしました。

シクロ・・・ではなく明治時代の人力車に乗るT君。ズボンとハットが共和国軍だけど、ベトナム兵と言うよりは危ないお兄さんだ。


【日高屋】

夕飯は寿司にしようという話になり、スマホで検索するも、都内は回転寿司でもまぁまぁ高い店ばかり。一皿100円が見つからない。
仕方ないので、ラーメン・中華料理の日高屋に入る。うん、俺たちはこういう所が合ってるんだよ。安いし煙草も吸えるし最高だね。
ちなみにS君は日高屋のヘビーユーザーなので、ありがたく大盛り無料券を頂戴する。いろいろ喋くってこの日は解散。



日曜日

【東京国立博物館】

朝10時、S君と上野公園で集合。彼のたっての希望で東京国立博物館を見学する。
彼はなかなかの歴史趣味人なので、こういう場所が大好きなんです。

モンゴルのシャガイ占い(家畜のくるぶしの骨を投げてその向きの組み合わせで吉凶を見る)体験で大吉的なものを引いたS君。良い門出になったね!

5時間くらいかけてくじっくり見学してきました。彼は三国志の大ファンなので、古代中国の展示物の豊富さにも大満足してくれました。
一方、S君が言うには、ベトナムではフランス植民地時代に陶器などかなりの数の歴史遺産が海外に流出してしまった為、自国に残っている物はあまり多くないのだそうです。フランスは植民地支配を終えても、一度ぶん盗った美術品をその国に返すなんて事は絶対にしないので。
彼はいつの日かルーブル美術館にベトナムの遺産を見に行きたいと言っていました。いいね。お金ができたら一緒にフランス行こう。


【上野東照宮・花園稲荷神社】

博物館の後は、上野公園内の僕のお勧めスポットへ。
中学時代はよく埼玉から中田商店・松崎商店までチャリで通ってて、そのついでに上野公園にもよく来ていたので、ここは僕にとって都内で一番馴染みのある場所です。
(そういえば先日、テレ東の『モヤモヤさまぁ~ず』で松崎さんが取材されてましたね。テレビの前で大爆笑してしまいました)

まず、補修工事が終わった上野東照宮にお参り。拝観料ケチって中には入らず。

 
次に、鳥居が京都の伏見稲荷っぽい、花園稲荷神社へ。
京都のは常に観光客で一杯だけど、こっちは人が居ないし、穴稲荷様はなかなか雰囲気のある場所だから、僕はここが大好きです。


【ニコライ堂】

上野をあとにし、昨日江戸東京博物館でS君が興味を持った御茶ノ水のニコライ堂(東京復活大聖堂)へ。

こちらは明治時代に建立された日本ハリストス正教会(キリスト教ギリシャ正教会)の教会で、その歴史的価値から、信徒以外の人も聖堂を拝観させて頂くことが可能です。
S君の故郷ベトナムにはローマカトリックの教会は沢山ありますが、正教会はまずありませんし、日本にあったという事にも驚いてました。


【アメ横】

この後はS君の自転車を停めてある上野に戻り、アメ横で夕飯を食べる事に。
昨日に引き続き寿司屋を探すも、やはり全品一皿100円な激安店は見つからず。
でもここには安くて美味しい海鮮丼屋(以前タイのみんなを案内した店)があるので、今回もそこで夕飯を食べました。


【上野公園】

ご飯あとは、足が超疲れたので上野公園の彰義隊の墓の近くで座って駄弁る。もう当分会えなくなるので、暗くなるまでいろんな話をしました。
その中でS君に、僕の夢は何かと聞かれました。僕は「土地買って自分専用のFSB(ファイヤーサポートベース)作って、そこでBB弾を使わないベトナム戦争リエナクトやりたい」と答えました。だけどそれは遊びとしてやりたい事であって、真に心から求めるものという意味では、僕はすでに夢の入り口に立ち入っている気がします。
この10年、寝ても覚めてもベトナムの事ばかり考えてきた僕が、ベテランの方々に受け入れて頂き、こうしてベトナムの仲間と本当の友達になれたのだから、こんなに嬉しい事はありません。僕にとってこうした出会いは本当に運命めいたものに感じられます。なんかS君にも、他のベトナム人にも、「君の前世は共和国の兵士でしょ」って言われるし(笑)
その上で強いて望みを言えばそれは、いつの日か大手を振ってベトナムに行き、ビエンホアの共和国軍軍人墓地をお参りする事です。これが僕の本当の夢ですね。でも今はまだ出来ません。ナンシー・グエン(※)と同様、政治犯としてベトナム警察に拉致されかねないので。

ナンシー・グエン(Nancy Nguyễn)さん
アメリカの人権活動家。ベトナム系アメリカ人。2016年5月、昨今ベトナムで深刻化している海洋汚染への抗議デモ参加の為サイゴンを訪れた際、宿泊先のホテルで突如ベトナム警察に拘束・監禁される。その後、たまたまオバマ大統領の訪越が重なり、無事解放されたが、外国人すら逮捕状なしに拘束するベトナム共産党の恐怖政治ぶりを世界に示した事件でした。


S君も「タイガさんは危ないからベトナムに行かない方がいい」と言いますが、同時にこうも言ってくれます。。

「そのうち出来るよ。そんなに遠くないうちに。ちょっと待ってて」

頼もしい言葉です。僕は本当に良い友達を持てて幸せです。
短い間だったけど、本当に良い思い出になったよ。
新しい街に行っても元気でね!また会おう!
  


2016年04月30日

2016年の『30-4』

過去の記事

41年前の今日、1975年4月30日。
ベトナム共和国の首都サイゴンがベトナム人民軍の侵攻の前に陥落し、15年間続いたベトナム戦争が終結しました。
総犠牲者数700万人以上と言われるこの戦争は、ベトナム共産党(当時はベトナム労働党)のテーゼ通り南北ベトナムの統一という形で幕を閉じ、現在もなおベトナム政府によって『侵略者アメリカとその傀儡政権からベトナム人民を救った英雄的偉業』と喧伝されています。
しかし1975年以降、戦争に勝利たベトナム共産党によって強行された一連の『解放』によって100万人を超える難民が発生し、ベトナム民族に新たな分断をもたらす結果となった事実は、日本ではあまり知られていません。
実際には、日本には1975年から1980年代にかけてボートピープルと呼ばれるベトナム難民が多数入国しており、その内約1万人が日本に定住しています。
その一方で、戦争当時ベトナム反戦運動で勝手に盛り上がっていた日本社会は、彼らが何故戦争の最中ではなく、終戦後の『平和になったベトナム』から逃げ出さざるを得なかったのか理解に苦しみ、そしてあれだけ声援を送っていたベトナム人民に対し急に冷淡な目を向けるようになりました。
中には、「ベトナム難民などアメリカの傀儡として人民を苦しめてきた圧政者の家族なのだから苦しんで当然」と公言する元反戦運動家も居たといいます。
それは極端な例だとしても、日本における一般的なベトナム戦争に対する理解は、ほとんど当時のメディアによる(アメリカ批判に終始した)戦争報道で終わってしまっていると言えるでしょう。

私の友人のある在日ベトナム難民二世の青年は、私にこう言いました。

「日本でベトナム戦争と言うと、アメリカとベトナムの戦争だと思われてるんですよね。。。日本は親越なのになんでですかね?」

私「日本人はベトナムが大好きだよ。日本では右翼も左翼も、アメリカを非難するためにベトナム人の死を利用し、韓国を非難するためにベトナム人の死を利用し、中国を非難するためにベトナム人の苦難の歴史を利用しているんだもん。日本人は、そういう利用価値がある国を『親日』と呼んで大好きになるんだ。」

彼「ああ、なるほど・・・」

私「あ、もちろん右翼連中は第二次大戦中に日本軍の軍政下で百万人のベトナム人が餓死したなんて話は無かった事にしているから。むしろ日本兵はベトナム独立戦争に協力してやったんだから感謝しろって言ってるよ。そしてそれに同調しない外国人は『反日』だから人種差別の対象さ。君も気をつけないと、馬鹿どもに『反日外国人』として嫌がらせされるよ

彼「本当にあの人たちすごいですよね・・・(呆れ顔)」



私がベトナムという国の歴史に興味を持って十年ほどが過ぎましたが、こうして生でベトナム人と接する機会が増えた(ネットを含めると日本人よりベトナム人と話す機会の方が多いかも)ことに、不思議な縁を感じずには居られません。
先日は、『映画『記憶』:共和国兵士三世の視点で』で紹介したハウ・ルック君が、実は僕の友達の日本在住ベトナム人S君と、ベトナムの中学校で同級生だったことが発覚しました。僕もルックも、それを聞いてびっくら仰天。
なんでも子供の頃は家が近所で、よく一緒にTVゲームをして遊んでいたそうです。そんな二人が中学卒業後離れ離れとなり、それぞれアメリカと日本に渡って生活している中で、別々に日本に住む私と友達になり、その縁で10年ぶりに同級生と再開するという。なんという偶然。世界狭すぎだろ・・・。

↑ハウ・ルック監督作品『記憶』の予告編ロングバージョン公開されてます。



そして今日は、4月30日だからって理由ではありませんが、都内某所のベトナム料理レストランにお邪魔してきました。
ホア少尉の戦友で、元CCN RTダコタ所属のフォー・ズン氏から、「私の妹が日本でレストランやってるよ!」と連絡があったので、妹さんに連絡を取ってランチを食べに行ってきました。
まぁお店は普通の飲食店だし、妹さんは戦後生まれなので戦争の話なんてしませんでしたが、日本に来る前はアメリカに住んでいたためホア少尉とも親しく、共通の友人を介してこうして日本でお会いできた事をとても嬉しく思います。
また今日・明日はお店として熊本地震へのチャリティーを行っており、売り上げは全額熊本県へ寄付されると言う事で、普段ケチな僕も奮発して1500円のランチを頂きました。
僕は、2011年の東日本大震災の時も在日ベトナム人の皆さんが、自費で日本を応援する横断幕をつくり、ベトナム人コミュニティーの間で募金活動する様子を取材してきましたが、今回もまた暖かなお心遣いを頂き、日本人として感謝の念にたえません。


Cam ơn rât nhiêu!
  


2016年04月09日

映画『記憶』:共和国兵士三世の視点で

 以前『リエナクターの輪』で紹介した"My bro"ハウ・ルック君(25歳)の監督作品が、カリフォルニアのベトナム移民系テレビ局SBTN(Saigon Broadcasting Television Network)で放映される事が決定しました。SBTNの公式サイトに詳細が掲載されていますので、その全文を邦訳したものをここに記します。

引用: Saigon Broadcasting Television Network
http://www.sbtn.tv/vi/tin-cong-dong-hai-ngoai/sbtn-trinh-chieu-phim-hoi-uc-goc-nhin-nguoi-linh-cong-hoa-tu-he-thu-ba.html


映画『記憶』SBTNにて放映決定:共和国軍兵士三世の視点で

 今年の"暗黒の四月(サイゴン陥落)"を記念し、SBTNテレビは『記憶(Hồi Ức)』と題された全12話の短編映画を放映します。この作品はSBTNと若干25歳のアマチュア映画監督ハウ・ルック氏との共同制作作品です。この作品はおそらく、海外在住ベトナム人コミュニティにおいて、共和国軍兵士の孫の世代が彼らの祖父達を描いた初の映像作品であり、彼らが祖父たちの時代をどのように理解しているかも見所です。


画像: 映画『記憶』より

 ベトナム ドンタップ出身のハウ・ルック氏は今から10年前、15歳の時にベトナムを去り、アメリカ合衆国ジョージア州に移住しました。彼の祖父は元ベトナム共和国軍の空挺部隊兵士でした。ハウ・ルック氏は少年時代にベトナム本土で受けた"社会主義教育"を覚えており、教師たちは今だに、1975年以前の南ベトナムの政権関係者を"米帝の傀儡"、"猟犬"、"売国奴"と罵り、子供たちに旧政権への憎悪を繰り返し植え付けていたといいます。
 彼はある日、家で両親と祖父母が"私たちの国"について話しているのを聞きました。「ちくしょう、共産のやつらめ・・・」という声が聞こえてきました。ルック氏は子供ながらに好奇心に駆られ、独学で歴史を勉強するようになり、ついに教師の教える歴史は事実とは全く異なる捏造だという事に気付いてしまいました。そして再び授業中に教師が"米帝の傀儡"を非難したとき、ルック氏は席から立ち上がって反論しました。すると教師はルック氏を「クソ反動め!」と罵ったといいます。休み時間になり、ルック氏の周りには「なんであんな事を言ったの?」とクラスメイト達が集まったので、ルックは知っている事を説明したそうです。

 家族の過去、そして少年時代の好奇心から、ルック氏は次第にベトナム共和国軍人への憧れを強めていきました。さらにアメリカに移住した事で、ベトナム本土では"勝者(ベトナム共産党)"と"融和を拒んだ者(旧ベトナム共和国政府)"という歪んだ二元論によって隠蔽・捏造されているベトナム共和国時代の真実の情報が得られ、その情熱はさらに燃え上がっていきました。彼は共和国軍に関するアイテムに魅了され、彼の家は小さな軍事史博物館と化していきました。

 それから彼は、共和国軍人への敬意を何らかの形で示そうと考え、戦時中の自分の祖父を演じることにしました。映画への情熱と学習意欲を持つ彼は、理系大学で学んでいるもののあえてCGを用いない映画を目指しており、モンタージュ技法を得意としています。そして彼は共和国軍の兵士テーマとして短編映像を制作し、それを大学生アマチュア映画コンテストに出品すると、作品は見事入賞を果たしました。

▲全米学生映画祭(Campus MovieFest)に出品されたハウ・ルック氏の監督作品『Nightmare』

 この作品をきっかけにSBTNテレビは彼の存在を知り、我々は彼を奨励すると共に彼の情熱がさらに実を結ぶようサポートする事となりました。こうして生まれたのが『記憶』と題された12の短編映画です。

 ハウ・ルック氏は自身について、ワンマンバンドのようなアマチュア映画監督だと冗談めかして答えました。各フィルムは20分ほどの短編であり、作品のプロットは全て共和国軍兵士達の証言に基づいています。ストーリーはルック氏自身が元空挺部隊、海兵隊、レンジャー隊員などから聞き取った実話であり、また作品に使われている衣装、軍装品などはすべてルック氏個人のコレクションが使用されています。映画に出演する俳優はルック氏の情熱に賛同する若い仲間達であり、彼らもまた映画を作る中で自分自身のルーツを学び、探求する喜びを分かち合っていきました。

 一方でルック氏は、自分ひとりの情熱だけでは当時の歴史・政治の側面を詳細に調べきるには不十分だとも自覚しています。彼の映画は、正直だが思慮深い者、家庭的だが誇り高い者、温和だが祖国と同盟国の為に自分を犠牲にする覚悟がある者など、共和国軍兵士の人生の物語を再構成しようとするものです。その為、我々はこの記事を読まれている元共和国軍兵士からのお便りを心からお待ちしております。あなたの物語は、この熱意と誇りに満ちた若き映画製作者の作品に特別な魂を吹き込み、あなた自身の人生の価値を後世に残すものとなります。

 『記憶』は、海外で生まれ育った若い世代が、自分達の祖父・父親の世代が辿った物語を尊重する作品です。そこには軍隊時代の良き思い出と共に、祖国防衛を果たせなかった無念が綴られています。『記憶』のように、世代と世代との認識がつながっている限り、ベトナム共和国の歴史は決して忘れ去られる事のないものだと信じます。

 またルック氏は『記憶』を通じて、ベトナムに住んでいる若者に、我々の世代は何をすべきか、情熱をどこに向けるべきかを考えて欲しいと語っています。

 映画『記憶』は2016年4月15日よりSBTNにて放映を開始します。『記憶』は海外在住ベトナム人にとって今年の暗黒の四月を記念するものであり、また同時に全てのベトナム共和国軍兵士へ捧げる、意義のある作品であります。

ドアン・フン / SBTN


映画『記憶』予告編

【あとがき】
 ちなみに彼らが着ている衣装のうち何着かは、僕が日本で代理購入し発送したリプロ迷彩服。このような記念碑的な作品に、自分も衣装協力という形で関れた事を大変光栄に思います。でもルックから衣装を集めて欲しいと依頼された時には、既に品切れになっている商品が多くて、人数分揃えてあげられなかったのが少し心残り。今度、NKTコマンド雷虎(いわゆるMACV-SOGのRT)の作品撮るんだけど、よかったら君も出演してみない?ってお誘いが来たけど、さすがにアトランタは遠いな・・・。ただ今は無理でも、彼とはそう遠くないうちに会う事になる気がしています。情熱さえあれば、地球なんて案外狭いものさ。
  


2016年03月12日

台北 忠烈祠と国軍歴史文物館

台湾という国は、第二次世界大戦の終結以来、外交・内政ともに微妙な状態が続いています。
日清戦争後、清国の領土であった台湾は1895年に日本に割譲されますが、1945年に日本が連合国に降伏すると台湾は日本から切り離され、大陸を支配する中華民国に編入されます。
しかし中国国民党が国共内戦に敗れると、台湾という小さな島だけが中華民国に残された唯一の領土となり、現在に至ります。
そのため、国際社会は国民党に代わって中国大陸を支配した中国共産党による中華人民共和国を正当な中国政府として外交関係を持っており、日本を含む多くの国々は中華民国(台湾)を国家として公には承認していません。
また台湾の人口の多数を占める本省人(中華民国編入以前から代々台湾に住んでいた人々)にとって、中華民国は同じ中華民族ながら1945年まで外国であり、それが宗主国日本の敗戦によって突然国民党に支配された形でした。
さらにその後、本省人の反乱を恐れる国民党政権によって本省人への大規模な虐殺、白色テロなどが続いたため、中華民国国民である台湾人の中でも、中華民国・国民党への評価は大きく分かれています。
現在の台湾はこうした様々な苦難を乗り越えて経済発展を遂げ、国民党が掲げていた大陸奪還の目標も放棄したため対中関係に差し迫った危機は無く、また内政面でも国民党独裁が終わり民主化が完了しているため、かつて大陸に存在した中華民国とは全く別の体制になっています。
しかしそれでも、国家のアイデンティティーとしては、あくまで孫文を国父と仰ぐ中華民国を継承しており、その姿勢が急激に変わる事は無いでしょう。
それを踏まえたうえで、今回は先日台湾を旅行した際に訪れた台北の忠烈祠と国軍歴史文物館から、台湾に残る"大陸"中華民国の部分を見てきます。

忠烈祠とは1969年に台北北部に建立された、中華民国の殉死者を祀る社です。
この忠烈祠に祀られている御魂は1911年の辛亥革命から北伐、日中戦争、国共内戦、台北遷都後の大陸反攻と、孫文が建国した中華民国・中国国民党系の勢力の殉死者であり、動乱の20世紀中国の歴史を物語る場所でもあります。

ここでは1時間おきに儀仗兵による栄誉礼・交代式が行われており、訓練された見事なドリル&セレモニーを見物する事が出来るため、国内外の観光客が集まる人気スポットにもなっています。
儀仗中華民国各軍の持ち回りで、この日は海軍の儀仗隊が担当していました。

お次は台北市内の国軍歴史文物館へ。見学は無料です。

 
入り口には1924年に孫文が記した黄埔軍官学校校訓の碑文が。おお~!
ここでは中華民国軍の歴史が時代毎に展示されており、忠烈祠に祀られる戦士たちが辿った、近代中国(大陸)の歴史を学ぶ事が出来ます。

▲蔣中正(蔣介石)に黄埔軍官学校校長就任を命じる孫文直筆の大元帥令(1924年)

蔣介石が使用した国民革命軍総司令旗

蔣介石の軍服

 
▲日中戦争で鹵獲された日本軍の日章旗

▲同じく日本兵の所持品

中華民国(台湾)軍は中国国民党軍/国民革命軍直系の組織であるため、当然日中戦争の歴史も大々的に展示され、南京大虐殺の展示もあります。
日本人がどんなに台湾を親日と呼ぼうが、右翼が歴史修正・捏造で自己弁護を図ろうとも、少なくとも台湾軍自身は、かつて8年間に及ぶ日本による侵略戦争から中国を守りぬいて勝利した事を今でも誇りとしています。




おまけ
この国軍歴史文物館には、辛亥革命から現在までに使用された歴代の兵器の展示もあり、特に銃器は、ここでしか目にする事の出来ない珍しい物がた~くさんあって、軍事博物館としても超面白かったです!

▲まさかの珍銃キャリコ!!

▲ウジグラムは実在した!!!

▲中華民国空軍ライ・ミンタン(賴名湯)一級上将が、ベトナム共和国軍ドン・バン・キュエン(Đồng Văn Khuyên)中将から贈呈されたブローニング・ハイパワー
台湾は中国を刺激することえを恐れて公にはベトナム戦争に参戦していないけど、ベトナム国民党と中国国民党は孫文の時代から姉妹政党であり、また元国民革命軍のヌン族がカマウ半島に興した反共軍閥"海燕特区"は、ほとんど台湾軍の出先機関。ベトナム在住華僑の往来も盛んで、反共で一致するベトナム共和国と台湾は当時とても深い関係にありました。
  


2016年03月05日

コルトAR-15/M16の分類と刻印

銃器ファンの間では、AR-15という銃は別名M16と呼ばれ、AR-15が民間モデル、M16が軍用モデルと見なされる事が多いようです。
しかし、この認識は部分的には合っていますが、、それだけでは説明として不十分です。
今回は、AR-15およびM16という名称はそれぞれどのように使われていたかを、銃のコーションプレートたるロアレシーバーの刻印で確認してみます。
(画像はもちろん海外フォーラムからの転載。でも米国のマニアだって僕の作った図解を勝手に転載してるんだから、情報共有って事で許してちょんまげ)

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アーマライトAR-15
アーマライトの製品名。アーマライト製およびコルトによるライセンス生産=Model 601のみ。
米軍での採用を目指して開発され、民間には販売されていない。
▲アーマライトAR-15(画像左)、アーマライトAR-15 コルトモデル / Model 601(画像右)


コルトAR-15シリーズ
正式にアーマライトAR-15の製造権を取得した後のコルトの製品名。1963年採用のModel 602から、1970年代までの製品全て。
コルトAR-15 Model 602(画像左)、コルトAR-15 Model 603 / U.S.M16A1ライフル(画像右)

また軍用モデルが改名(下記参照)された後も、民間モデルは引き続き"コルトAR-15"シリーズとして販売される。
コルトAR-15 Model SP1 / R6000(画像左)、コルトAR-15A3 タクティカルカービン / AR6721 (画像右)

民間モデルのコルトAR-15シリーズは、軍用モデルの発展に合わせて以下のモデルチェンジが行われている。
コルトAR-15シリーズ: コルトAR-15 Model SP1以降の第2・第3世代モデル。コルトM16A1シリーズに倣ってコルトAR-15A1シリーズと呼ばれる事もあるが、製品名ではない。
コルトAR-15A2シリーズ: コルトM16A2シリーズに準拠する第4世代モデル。
コルトAR-15A3シリーズ: コルトM16A3シリーズに準拠する第5世代モデル。


コルトM16シリーズ
1970年代後半(?)以降のコルト製軍用モデルの製品名。
従来は軍用・民間共に"コルトAR-15"という製品名だったが、1970年代後半に入るとコルトは、知名度の高まった米軍制式名のM16という型番を逆輸入し、自社の軍用モデル製品名を"コルトM16"シリーズへと変更する。
(言い換えれば、それ以前のコルト製軍用モデルは全て"コルトAR-15"であって、1970年代まで"コルトM16"という製品は存在しなかった。)
また米軍では20インチバレルのライフル仕様のみがU.S.M16ライフルであるが、コルトM16シリーズはライフルに限らず、カービンやSMG仕様も"M16A2カービン"等の名称で販売された。

コルトAR-15 Model 604系のフォアードアシスト非搭載モデル→コルトM16シリーズ
コルトAR-15 Model 603系のフォアードアシスト搭載モデルコルトM16A1シリーズ
U.S.M16A2ライフル以降の第4世代モデル→コルトM16A2シリーズ
U.S.M4カービン以降の第5世代モデル→コルトM16A3シリーズ

これに伴い、米軍納入・輸出向け共に全ての軍用モデルでコルトAR-15刻印が廃止された。
▲AR-15刻印無しのU.S.M16A1ライフル(画像左)、コルトM16A1シリーズ※カービン仕様も同じ刻印(画像右)

また米軍制式採用になっていないコルトM16シリーズも、一部の製品は部隊単位の予算で購入される場合があったため、メーカーの製品名がそのまま米軍での正式な取り扱い名称(制式名ではない)になっている。
RIFLE M16A2 HEAVY BARREL (NSN 1005-LL-MC9-0369 2050)
CARBINE 5.56MM M16A2 MOD 727 (NSN 1005-LL-MC9-2194 2094)
CARBINE 5.56MM M16A2 MOD 733 (NSN 1005-LL-MC9-2195 2094)
RIFLE 5.56MM M16A2 MATCH (NSN 1005-LL-MC9-2745 2050)


U.S.Rifle 5.56mm M16シリーズ
米軍制式名。現在までにM16、XM16E1, M16A1, M16A2, M16A3, M16A4の6つが採用された。
それぞれのモデルで複数の仕様や製造メーカーが存在したり、生産時期による設計変更あり。
▲歴代のU.S.M16シリーズ

軍正式名はメーカーの製品名と無関係であるため、"コルトAR-15"が使われた時代であっても、製造メーカーがコルト以外の場合は商標上の問題から、AR-15の刻印は無い。
▲H&R製U.S.M16A1ライフル(画像左)、GMハイドラマティックディヴィジョン製U.S.M16A1ライフル(画像右)

この他U.S.M16シリーズには以下の試作モデルが含まれる。
M16A1E1: M16PIP(性能向上計画)
M16A1E2M16PIP(性能向上計画)最終段階, 後のM16A2
M16A2E1: M16A2フラットトップ・アッパーレシーバー搭載検討
M16A2E2: ACR(先進戦闘ライフル)計画コルト案"コルトACR"
M16A2E3: 海軍向けフルオート化検討, 後のM16A3
M16A2E4: M16A2フラットトップ・アッパーレシーバー搭載検討, 後のM16A4


まとめ
AR-15とは、
・アーマライトの製品名 (アーマライトAR-15およびアーマライトAR-15コルトモデル Model 601のみ)
・米軍での取り扱い名称 (アーマライトAR-15コルトモデル Model 601およびコルトAR-15 Model 602のみ)
・コルト軍用モデルの製品名 (コルトAR-15 Model 602~1970年代まで)
・コルト民間モデルの製品名 (コルトAR-15 Model SP1以降全て)
・各社のAR-15系銃器の総称

M16とは、
コルトAR-15 Model 604の米軍制式名 (U.S. Rifle 5.56mm M16)
・AR-15系ライフルの米軍制式名 (U.S. Rifle 5.56mm M16, XM16E1, M16A1, M16A2, M16A3, M16A4)
コルト軍用モデルの製品名 (1970年代以降)


おまけ
ちなみに、米軍制式名とコルトの製品名は全く関係ないと書きましたが、そのせいで特にややこしい事になってるのがM16A3です。
M16A3という名称には二つの意味があり、一つはU.S.M16A2のフルオート版として知られる、1990年代に米海軍によって開発された"U.S.M16A3ライフル"で、コルトM16A2シリーズに属していました。
そしてもう一つが、1994年に制式化されたM4カービンに始まる、軍用フラットトップレシーバー仕様の"コルトM16A3"シリーズを指します。
さらにその後、コルトM16A3シリーズのU.S.M16A4の配備が進んだ事で、米海軍は2008年に、U.S.M16A4のフルオート版に再び"U.S.M16A3ライフル"の制式名を付けてしまいました。(NSNは前モデルと別)
その為、1990年代には"コルトM16A2"シリーズだったU.S.M16A3が、現在では"コルトM16A3"シリーズになっています。
書いてて自分でも混乱します。どうせなら新型はU.S.M16A5とかにしてよ。紛らわしい。

コルトM16A2シリーズのU.S.M16A3ライフル (NSN 1005-01-367-5112) 

コルトM16A3シリーズのU.S.M16A3ライフル (NSN 1005-01-357-5112)
  


2016年02月08日

元旦節2016

皆様、新年あけましておめでとうございます!

今年は元旦節(Tết Nguyên Đán)を祝い、正装で初詣に行って参りました。 (正確には、陽暦2月6日なので年明け前ですが。)

 


お寺に誰も居なかったら、敷地の外で黙ってゲリラ撮影しちゃうつもりでしたが、翌日の元旦節のお祭の準備で、寺の関係者が数名居られたので、ちゃんと許可を得て撮影しました。
突然日本人(彼らにとっては外国人)の男がアオザイ持参で現れ、「ベトナムが大好きなんです!この服着て写真撮っていいですか?」と言い出したので、困惑と言うか、変な奴も居るもんだなって空気になってました。
日本人が滅多に羽織袴を着ないのと同じで、今日日ベトナム人ですら(成人男性は)アオザイ着る機会なんてほぼ無いからね(笑)

ちなみに、このアオザイは去年カリフォルニアのベトナミーズショッピングモール"Phước Lộc Thọ"で買ってきたやつ。日本じゃ男性用のアオザイ、特に頭に被るカンドンがなかなか売ってないんですよね。
(女性のアオザイも、正装の時はカンドンを被ります。ノンラー(笠)は日よけの為の日用品であり、正確には民族衣装ではありません。)

Phước Lộc Thọはこんな感じでした。

 


 

このモールには、南カリフォルニアで僕をお世話してくださったトム・トラン氏と一緒に行きました。
僕がそこで「アオザイ欲しい」と言うと、トムが衣装屋さん(民族衣装やら社交ダンスのドレスやらを扱ってる店)のおばちゃんに、日本からこういう若者が来てくれているんだよ、と説明してくれたお陰で、メチャメチャ値引きしてもらうことが出来ました。
ありがとうございます。お陰さまで、アオザイ着てベトナム寺で元旦節を祝うという長年の夢がついに叶いましたface02
  


2016年01月26日

ベトナムで大雪...

東アジア全域を襲っているこの異常な寒波は、日本でもニュースになっていますが、
一昨日にはハノイに住んでる友達からこんな写真が送られてきました。

2016年1月24日ハノイ市内


さらにハノイより200kmほど南に位置するゲアン省もこんな状態。

 


最低気温-4℃って、ウチより寒いじゃん。。。

ベトナムでは過去にも、2013年に中国国境に面するライカオ省サパで雪が降り、その地域の農業に深刻なダメージを与えたそうですが、今回のはそれを大きく上回る異常気象ですね。
『ベトナム北部に降り続ける「異常な降雪」での被害が拡大』 地球の記録 http://119110.seesaa.net/article/383540111.html
『Sa Pa snowfall damages farms』 Viet Nam News http://vietnamnews.vn/society/249033/sa-pa-snowfall-damages-farms.html

一方、ベトナム国内では、積雪を珍しがって見物に来る人が大勢いるそうで、当局は交通事故等を警戒し、降雪地域での『観光目的』での移動を4週間禁止にしたそうです。
『Những lưu ý khi du lịch vùng băng tuyết』 VTC News http://vtc.vn/nhung-luu-y-khi-du-lich-vung-bang-tuyet.594.592310.htm

普段温暖な台湾では、家庭に暖房器具が無いために、この寒さで高齢者を中心に80名以上が低体温症で亡くなられたそうです。
当然、台湾よりもはるか南に位置するベトナムの一般家庭に暖房なんてまず無いでしょう。まだそういったニュースは伝わってきていませんが、心配です。


以下、私事
実は僕、日本の寒さから逃れるために来月台湾旅行に行く予定だったんですが、寒いのかなぁ・・・