2014年03月04日
NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[4]
※2016年11月7日更新
※2022年10月22日更新
※2023年11月12日更新
1970年以降、NKTは連絡部(雷虎)と作戦部(黒龍)の二つのコマンド部隊を主力とし、ベトナム・ラオス・カンボジア国境三角地帯の南側を連絡部が、北側を作戦部がその管轄した。彼らは通常の偵察・情報収集に加えて、通信傍受、捕虜捕獲、道路爆破、そして航空・砲兵射撃への直接目標指示などの訓練を受けていた。1971年2月、NKTはベトナミゼーションに従い大規模な再編成が行われた。 拡大したNKTは本部、訓練センター、3個の支援部隊、そして6個の戦闘部隊からなる。()内は本部所在地
NKT本部(サイゴン・総参謀部内)
作戦情報部(NKT本部内)
需品管理部(NKT本部内)
心理戦部(NKT本部内)
連絡部(サイゴン)
作戦部(ニャチャン/ダナン)
航空支援部(ニャチャン)
沿岸警備部(ダナン)
クェッタン/イェンテー訓練センター(ロンタン)
SKT/NKT専任のアドバイザー機関であるMACV-SOGは、NKTの各部署に対応したアドバイザーチームを派遣した。ベトナム戦争を通じて、ペンタゴン・CIAが立案した対外特殊作戦の実行部隊は南ベトナム軍NKTであり、SOGの役割は常にNKTに寄り添って、それら特殊作戦を支援・指導する事にあった。
SOG司令:NKT司令
SOG副指令 / SOG-30:NKT副司令
SOG-20:NKT作戦情報部 情報室
SOG-34※:NKT作戦情報部 作戦・訓練室
SOG-60:NKT作戦情報部 通信室
SOG-40:NKT需品管理部 需品室
SOG-90:NKT需品管理部 会計室
SOG-33 / SOG-39:NKT心理戦部
SOG-31 / SOG-37 NAD:NKT沿岸警備部
SOG-32 / SOG-75:NKT航空支援部
SOG-36※ SMAG / SMSAD:NKT第11、第68グループ(1970年以降は作戦部)
SOG-38※ TCAD:NKTクェッタン/イェンテー訓練センター
SOG-35 LSAD:NKT連絡部
※1964年以来、NKTの越境潜入部隊および訓練センターへのアドバイザー任務はSOG-34が行っていたが、1967年12月以降はそれぞれSOG-36・SOG-38に改称され、SOG-34は作戦情報室のみを担当する。
▲Draft MACSOG Documentation Study (U) STRATEGIC TECHNICAL DIRECTORATE(STD), 41頁 (アメリカ国防総省MORI DocID:570361, 1970年7月10日)
僕は、戦後SOGを扱った書籍のほとんどが「ものすごい戦闘部隊だったと書いたほうが本が売れる」、「アメリカ軍が主役の話を書かないと本が売れない」等の理由で、NKTの存在、そしてSOGという組織の本質を意図的に歪曲していると感じています。ペンタゴンが作成した当時の内部文書(※)には、SOGの主な任務は常にNKTへの支援だった事が明示されています。
※現在機密指定解除されてペンタゴンの公式サイトで公開されています。 過去記事参照
航空支援部(Sở Không Yễm)
航空支援部は本部をニャチャンに置き、ユー・コック・ルォン大佐指揮の下、南ベトナム空軍司令部との連絡役を務めた。空軍による航空支援は、NKTの作戦部隊である連絡部と作戦部の偵察チームに対して行われ、特に特殊作戦専門の南ベトナム空軍第219ヘリ飛行隊"龍馬(Long Mã)"が専属で活動した。 第219飛行隊は、"キングビー飛行隊"と呼ばれたようにH-34ヘリコプター(シコルスキーS-58)が配備されていたが、1972年からはUH-1イロコイに更新された。
また、作戦に応じ増援として以下の航空隊が南ベトナム空軍から派遣された。
第215ヘリ飛行隊
第229ヘリ飛行隊
第235ヘリ飛行隊
第110観測飛行隊
第114観測飛行隊
第118観測飛行隊
輸送飛行隊(C-47輸送機。1972年にC-123輸送機2機、C-130輸送機1機が追加)
航空支援部へのアドバイザー任務はSOG航空作戦部門(SOG-32)に所属するチーム"SOG-75"が担当し、アメリカ空軍の1st SOS(第1特殊作戦飛行隊)のC123輸送機がSOG-75専属機としてNKTを支援した。さらに要請に応じ、以下の飛行隊がSOG-75の指揮下に置かれた。
第15特殊作戦飛行隊(C-130輸送機)
第90特殊作戦飛行隊(C-130輸送機)
第20特殊作戦飛行隊(UH-1ヘリ)
アメリカ海軍 EC-121電子戦機
心理戦部(Sở Tâm Lý Chiến)
NKT心理戦部は、政治戦総局(TCCTCT)およびSOGと共同で各種の心理作戦を行った。チューホイ計画(Bộ Chiêu Hồi)は、敵支配地域に投降を促すビラを散布したり、スピーカー放送による呼びかけを行い、多数の北ベトナム兵やベトコンから投降・転向者を引き抜くことに成功した。
心理戦部へのアドバイザー任務はSOG心理作戦部門(SOG-33)所属のチーム"SOG-39"および"SOG-70"が担当した。SOG-39は1965年から1968年にかけて、北ベトナム領内へ秘密ラジオ放送作戦、OP-39"聖剣愛国戦線(Mặt trận Gươm Thiêng Ái quốc)"を指揮した。OP-39は北ベトナム国民や軍に対し、ベトナム労働党や中国共産党が人民を搾取、弾圧していると訴えかけ、敵の戦意を削ぎ、また北ベトナムの政情を不安定化させる事を目的とした。しかしこれを指揮したSOG-39やCIAエージェントにベトナムの文化を深く理解しているものは少なく、期待された成果を挙げることなくOP-39は1968年に終了した。
しかし同様の秘密ラジオ放送はOP-39の他にも多数企画され、"母なるベトナム"、"南部の声"、"クメールの声"、"インドシナ民族戦線"といったプロパガンダ放送を敵側に送信し続けた。この中には単に敵の戦意を削ぐだけでなく、もともとベトナム人を嫌っているカンボジアの共産ゲリラ"クメール・ルージュ"に対し、カンボジア領を往来する北ベトナム・ベトコンとの対立を煽り、共産主義勢力内での内紛を意図する放送もあった。
▲"聖剣愛国戦線"のシンボルマーク
イェンテー訓練センター(Trung tâm Huấn luyện Yên Thế)
NKTのコマンド訓練センターはサイゴン東部ロンタンに設置され、"クェッタン(必勝)"訓練センターと名付けられた。
1973年、『キャンプ・イェンテー』へと改称された。イェンテーはベトナム北部(当時北ベトナム領)の地名で、1000年以上に渡り中国への抵抗活動が行われた、ベトナム民族にとって大変意義深い土地である。
1967年12月以降、訓練センターへのアドバイザー任務はSOG教育部門(SOG-38)の"訓練センター顧問分遣隊(Training Center Advisory Detachment / TCAD)が担当した。また、空挺降下の指導は南ベトナム陸軍空挺師団によりタンソンニュットの"キャンプ・アップドン"で行われた。
▲クェッタン/イェンテー訓練センター
連絡部(Sở Liên Lạc)
連絡部の詳細は前記事を参照
連絡部(Sở Liên Lạc / Liaison Service)へのアドバイザー任務はSOG空挺作戦部門(SOG-35)が担当した。他のSOG部隊とは異なり、SOG-35は連絡部と共同で北部(CCN)・中部(CCC)・南部(CCS)の三司令部から成るC&C(Command and Control)部隊を編成した。そして連絡部コマンド雷虎(米側呼称:Special Commando Unit)隊員で構成された(※)偵察チーム(RT)のリーダーを、アメリカ人であるSOG-35隊員が務めた。MACV-SOGは基本的にNKTへのアドバイザー機関であり、他のSOG部隊アドバイザーが前線に出ることはほとんど無い。南ベトナム軍の特殊部隊に所属し、越境作戦にまで参加するSOG-35は、SOG内でも極めて特殊な部署であった。
※多くの書籍で、連絡部の南ベトナム軍人の多くが『ヤード』と誤った紹介をされています。CCCやCCSのRTにはデガ(モンタニヤード)等のCIDGも多数所属していましたが、南ベトナム軍特殊部隊は1964年以降(ヌン族は建国以来ずっと)有能なCIDG兵士を正式な軍人として登用しており、彼らの身分も南ベトナム軍NKT連絡部であったと思われます。
※2019年1月25日訂正
雷虎は元々キン族を主とした部隊でしたが、その後CIDGが多数編入されたため、CCNでも割合的にはデガのチームが多くなりました。『雷虎SCUの構成民族』参照
第1強襲戦闘団(Chiến Đoàn 1 Xung Kích) / 北部司令部(Sở chỉ huy Bắc / CCN), ダナン
SOG-35:C&C / CCN / 第1タスクフォース顧問隊(Task Force 1 Advisory Element)
第2強襲戦闘団(CD 2 XK) / 中部司令部(Sở chỉ huy Trung / CCC), コントゥム
SOG-35:FOB2 / CCC / 第2タスクフォース顧問隊(TF 2 AE)
第3強襲戦闘団(CD 3 XK) / 南部司令部(Sở chỉ huy Nam / CCS), バンメトート
SOG-35:CCS / 第3タスクフォース顧問隊(TF 3 AE) / 第3連絡部顧問分遣隊(LSAD 3)
作戦部(Sở Công Tác)
1970年中頃、ベトナミゼーション政策に伴ってCIDG計画が終了し、米陸軍第5特殊部隊群が規模を縮小すると、彼らと共に任務に当たっていた南ベトナム陸軍特殊部隊(LLDB)も縮小を余儀なくされ、その結果同年8月にLLDBは解散した。それまで"プロジェクト・デルタ"を実行していたLLDB第81空挺コマンド大隊(Tiểu đoàn 81 Biệt kích Dù)は新たに第81空挺コマンドグループ(LD81 BCND)へと再編されBTTM直属の機動打撃部隊となったが、それ以外のCIDG計画などに携わっていた多くのLLDB隊員はNKTへと編入される事となった。また1970年12月、"ベトナミゼーション"政策に従い全てのCIDG国境キャンプが南ベトナム軍の指揮下に入ると、多くのCIDGは南ベトナム軍国境レンジャー大隊として再編されたが、一部の優秀な兵士はNKTに編入された。彼らはマイクフォース時代から高い作戦能力を有しており、長い訓練期間は必要なく、数ヶ月で作戦部に溶け込む事ができた。
編入に伴い、NKTには新たに第71、72、75グループが編成され、それらはコマンド"黒龍(Hắc Long)"と呼ばれた。コマンド黒龍の部隊編成はアメリカ軍特殊部隊のアルファ作戦分遣隊(Aチーム)を模しており、北ベトナム・ラオスにおける不正規戦により適した組織体制がとられた。また、この三つのグループを統括する作戦部(Sở Công Tác / Special Mission Service)が新たに編成され、前NKT副本部長ゴ・テー・リン大佐が作戦部司令に就いた。当初、作戦部の本部はニャチャンに設置されたが、後にダナンのキャンプ"ソンチャ"に移動した。
間もなく、それまで独立した活動をしていたNKT越境潜入・偵察部門(Special Task Force)である第11グループ(STRATA)および第68グループも作戦部に編入された。各部隊の駐屯地は第11、71、72作戦グループがダナン、第75作戦グループがバンメトート、第68作戦グループはサイゴンであった。
1967年12月以降、NKT越境潜入・偵察部門(Special Task Force)である第11、第68グループへのアドバイザー任務はSOG工作部門(SOG-36)の"特殊作戦顧問団(Special Mission Advisory Group / SMAG)"が担当した。1970年にNKT作戦部が発足、第11・第68グループが編入されると、SMAGは引き続き作戦部を担当し、"作戦部顧問分遣隊Special Mission Service Advisory Detachment / SMSAD)"へと改称された。
SOGの撤退
1971年3月、ベトナミゼーション政策の本格化に伴い、アメリカ陸軍第5特殊部隊がベトナムから撤退した。NKT連絡部と共にC&Cを構成していたSOG-35のアドバイザーチームCCN・CCC・CCSはベトナムに残ったが、それぞれ第1~3タスクフォース顧問隊(TF 1~3 AE)へと改称され、規模を縮小した。C&CはSOG-35による指揮・運用に依存する部分が大きかったため、事実上C&Cという体制は消滅し、以後はNKT連絡部が主体となって作戦を行った。
1972年5月1日、ついに米軍MACV-SOGは活動を終了した。そしてSOGよりも大幅に規模を縮小した第158STD(NKT)支援隊(Strategic Technical Directorate Assistance Team 158 / STDAT-158)が、NKTアドバイザー任務の後継機関として発足した。TF 1~3 AEは"連絡部顧問分遣隊(Liaison Service Advisory Detachment / LSAD)"へと改編され、さらに規模を縮小した。1972年10月には、SOGに代わって作戦部がフエ~ラオス国境間の全作戦の権限を与えられた。
さらに1973年初頭、STDTA-158を含むほとんどのアメリカ軍が撤退した。これにより、燃料・整備などアメリカによる物資支援に依存する部分が大きかった空軍・NKT航空支援部の作戦機稼働率は著しく低下し、NKTは越境作戦の規模縮小を余儀なくされる。
▲STDAT-158(1972~1973年)司令部のメンバー
サイゴン防衛戦
1972年のイースター攻勢以降、NKTの部隊は従来の偵察・前線航空管制任務を行う傍ら、強襲・破壊を行うコマンド部隊としても大変大きな活躍をした。
1973年9月、連絡部の"雷虎"偵察チーム2部隊がコンツム省西部の"Plei Djereng"へヘリで進入し、北ベトナム軍が西部高地へ侵攻するための重要なルートの守備隊を撃破した。 しかしその後敵の反攻に会い、その地の防衛は失敗した。 その年の終わり、連絡部の第1~第3強襲戦闘団は、第1~第3連絡グループへと再編成された。
1975年3月、北ベトナム軍は中央高地にまでにその勢力を拡大しており、第2軍団の半数が戦略部隊として西からサイゴンを目指し急速に侵攻を続けていた。 連絡部の第2・第3グループはその大部隊を排除する防衛任務を与えられたが、間もなく一転して退却を命じられた。急な撤退の中で第2グループの二つの偵察チームがカンボジア領内に取り残されてしまい、彼らは海岸沿いをベトナムまで徒歩で帰ってくるしかなかった。 一方、作戦部はサイゴンで再編成が行われた。
同3月、中央高地が敵の手に落ちた事で南ベトナム軍第1軍団はサイゴンへの退路を絶たれ、パニックに陥った。その混乱の中で連絡部第1グループは、数万人の第1軍団兵士を船でサイゴンまで脱出させる一大海上輸送作戦を実行した。その間、作戦部は船舶により3月30日にバンタウに移動した。
国土の北半分を失い、サイゴン政府は軍の再編成を試みた。連絡部は首都サイゴンに配置され、第1・第3グループはビエンホアの増援へ、第2グループは燃料備蓄基地の守備に当たった。
1975年4月6日、作戦部の"黒龍"偵察チームはファンランの北東および北西地域で、街に集結する北ベトナム軍2個師団を発見した。これを叩くため補充された100名の黒龍隊員が増援として空輸されたが、ファンランの空港は敵により占領されており、奪還は敵わなかった。
同日、40名の"雷虎"隊員からなる第2強襲戦闘団のチームは北ベトナム軍の指揮所を攻撃するためタイニンへ進攻したが、途中で阻止され、たった2名しか生還しなかった。
1975年4月末の時点で、首都サイゴンは敵に三方向から包囲され、陥落は時間の問題となっていた。政府軍側は依然、最後の一兵まで戦うと意気込む者も多かったが、一方で特殊部隊は他の一般部隊と事情が異なった。招集兵で構成される一般部隊は、多くの場合敵の捕虜となっても殺されることはない。しかし北ベトナム領内に何度も潜入していた特殊部隊員は、犯罪者としてジュネーブ条約を無視した扱いを受ける事となる。またその家族までもが裁判無しでの処刑や拷問の対象となり得た。
4月27日、NKT指揮官ドアン・バン・ニュー大佐は他の政府高官と共に飛行機でサイゴンを脱出した。翌28日には500名の作戦部隊員とNKT本部要員、およびその家族が、運搬船で公海上へ脱出した。 しかし連絡部は脱出せず、4月30日のサイゴン政府降伏まで戦い続けた。
1975年4月30日、ベトナム共和国政府の降伏と同時に、アジア最大の特殊作戦機関としてベトナム戦争の影で暗躍したNKTは、その歴史に幕を閉じた。
戦後
懸念されたとおり、サイゴンからの脱出を拒否した連絡部隊員の多くが終戦後、戦犯として十年以上収容所に投獄された。またその家族も、ベトナム共産党から非常に厳しい扱いを受けた。彼らの中には、その長い刑期を終えて釈放された後もベトナム国内で『売国奴』として扱われたため、家族と共にベトナムから脱出し、ボートピープルとなった者も多く居た。
一方、降伏前に脱出した数百人のNKT構成員らは、海上でアメリカの軍艦に救助され、アメリカ本土のキャンプ・ペンドルトン海兵隊基地に設置された大型難民キャンプに収容された。彼らの多くはまだ十代から二十台の若者であり、アメリカでの生活にも比較的早く適応していった。彼らはここでアメリカ市民権を取得し、第二の人生を歩みだしたのだった。
![NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[4]](http://img01.militaryblog.jp/usr/i/c/h/ichiban/263681021FfdbBy_ph-s.jpg)
▲キャンプ・ペンドルトンで生活するNKT作戦部"黒龍"第72作戦グループ チーム723の元メンバー達(1975年)
文字通り命がけで祖国に奉仕した彼らNKTの結束は、終戦から40年近く経った現在もいまだ途絶えることなく続いています。ファム・ホア少尉を中心とする南カリフォルニアNKT(Nha Kỹ Thuật Nam California)は、現在もアメリカ各地に散った戦友たちとの交流イベントを頻繁に開催し、失われた祖国の歴史と名誉を、アメリカで生まれた2世、3世の南ベトナム移民たちに語り継いでいます。
一応、大まかな流れはこれにて一段落。次からは各部隊の細かい情報を載せていこうと思います。
Posted by 森泉大河 at 22:45│Comments(0)
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