2016年08月18日
ベトナム戦跡めぐりダイジェスト
お盆休み中、ブログ書く時間は沢山ありました。
ところが去年から調子の悪かった自室のエアコンがついに本格的にイカれてしまい、冷えないどころか逆に熱風が噴き出るようになってしまいました。ダメだこりゃ。
もう暑くて部屋に居られないので、必然的にパソコンをやる機会が減っています。この記事書いてる今現在も汗ダラダラ。
なので、先月のベトナム紀行について書きたいことは山ほどありますが、詳しい記事は涼しくなったらにします。
とりあえず忘れる前に、戦史めぐりとして周った場所をダイジェストで。
トゥックズップ丘陵(Đồi Tức Dụp)

現在は革命戦争の戦跡として歴史公園になっています。射撃場があったので念願のM16A1をフルオートで撃ってきました。
▲チャウドック省(現・アンザン省)トゥックズップ丘陵/コートー山で戦うベトナム陸軍第9歩兵師団兵士 [1970年11月]
クチ・トンネル (Địa đạo Củ Chi)

ベトナム観光のド定番、クチにも行きました。
射撃場でライフル撃ってたら、友人が「ちゃんとメンテしてあるかな?」とか言って、勝手にAK (中国製56式小銃輸出型)を分解してて笑えました。(注・良い子はマネしないでね)
ちなみにここは外国人観光客に人気のスポットだけあって、弾の値段はトゥックズップの4倍。ボッてるなぁ。もったいないのでフルオートでは撃ちませんでした。

あと、銃を選ぶ際、M16ライフルがAR-15と書いてあるのはまだ分かるけど、M1919A4機関銃がM30という名前になってるのはどうかと思う。"Cal.30"をモデル名と勘違いしたんだろうけど。
国道1号線ビエンホア街道 (Quốc Lộ 1)
▲政府軍と共にビエンホア街道で戦う民兵たち [1975年4月末]
4月21日のスンロク陥落以降、共産軍は国道1号線からのサイゴン突入を試みます。ビエンホア街道では周辺に住む住人たちも銃を取り、民兵として敵のサイゴン突入を阻止すべく戦いました。
友人曰く、戦後サイゴンでは多数の市民が山岳地帯に強制移住させられ、現在でも街全体で政府による思想統制が厳しいが、一方でビエンホア街道周辺の集落では強制移住は行われなかったため、現在でもハノイ政府を嫌っている住民が多いとの事。確かに、サイゴンでは街中にあふれていた金星紅旗と共産党旗が、街道沿いの家々にはほとんど掲げられていませんでした。
新港橋 (Cầu Tân Cảng)

▲国道1号線でスンロク~ビエンホア~サイゴンと移動し、1975年4月の足跡を辿りました。
なお、この橋のある位置は1975年以前と同じですが、現在のサイゴン橋は90年代に建て直されたものです。
▲サイゴンに通じる国道1号線最後の橋、新港橋(ニューポートブリッジ)を守る空挺師団第12空挺大隊 [1975年4月28日]
総参謀部 (Bộ Tổng Tham Mưu)

現在は人民軍第7軍管区司令部となっています。(現地で写真撮ってないので、画像はGoogleストリートビューより)

▲ベトナム共和国軍総参謀部正門 [1975年以前]
独立宮殿 (Dinh Độc Lập)

外からの写真はネットでいくらでも見る事ができますが、内部をじっくり見る事が出来たのは貴重な体験でした。
しかし、もし仮にベトナム共和国が現在まで存在していたら、こうして一般人が内部に入る事など出来なかった訳で、少々皮肉に感じました。

バチュク祠墓 (Nhà Mồ Ba Chúc)


ベトナム戦争終結後の1978年、かねてよりベトナムと領土・民族問題で対立してきたカンボジア(ポル・ポト政権)がベトナムに軍事侵攻した際、国境から3kmほどの位置にあったバチュク村のベトナム人住民3000人以上がカンボジア兵に殺害されるバチュク村虐殺事件が発生しました。ここは、その時の犠牲者の遺骨を安置・供養する祠墓です。
このバチュク村の事件はベトナム国民に、カンボジアへの非常に強い敵愾心を抱かせ、現在でも祠墓の隣にはカンボジア兵がいかに残虐な行為に及んだかを展示した資料館が併設されています。一緒に参拝した私の友人も、ベトナム人としてポル・ポト派への憎しみを露わにしていました。
確かに、こうして大量の遺骨を前にすると言葉に詰まるものがあります。しかし私はベトナム人ではないので、外国人として、一歩引いた目線で見る必要があると感じました。
カンボジア軍の侵攻後、ベトナム人民軍は報復としてカンボジア領に侵攻し、カンボジア・ベトナム戦争に発展。ベトナム軍はプノンペンを占領し、カンボジアに殺戮の嵐をもたらしたポル・ポト政権を崩壊させますが、ベトナムが擁立した新政権(ヘン・サムリン政権)を拒絶するカンボジアの反ベトナム三派は新政府とカンボジア駐留ベトナム軍を攻撃し、カンボジアは再び長い内戦の時代を迎えます。
一見ベトナムは正当防衛を行ったかのように見えますが、中越戦争に至った中国との緊張を背景に、カンボジア・ベトナム戦争終結後もベトナム人民軍がカンボジアに駐留し、カンボジアに干渉し続けたが為にカンボジア内戦が長期化した事は周知のとおりです。その間のカンボジア国民の犠牲者数は、バチュク村の比ではありません。この事件は結果的に、カンボジアに干渉する口実を欲していたベトナム共産党政府にとって願ってもない宣伝材料となり、だからこそ今こうして立派なモニュメントが建設されている訳です。
一方で、現政府にとって不都合な事件、例えば1954年にホー・チ・ミン政権が自国領内の地主階級を1万人以上処刑した大粛清や、10年以上続いたベトコンによる一般市民へのテロ・虐殺などについては、犠牲者を追悼するどころか、全て無かった事にされています。この国では、歴史は政府の都合で決まるのです。
それを踏まえた上で、私は同じ人間として、不幸にも命を奪われた無辜の人々をただひたすら追悼しました。と言うか、それ以上の事はしてはいけないと思っています。これはベトナムに限らず、こういう惨たらしい事件をここぞとばかりに宣伝に使い、新たな惨劇を欲するあらゆる勢力への、私にできる精一杯の抵抗です。
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