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2014年02月27日

装甲騎兵

最近ネットで友達になったベトナム人のお父さんが昔、南ベトナム陸軍の騎兵中尉だったそうなので、急に装甲騎兵(機甲科)に興味が沸いて調べてみました。
軍服ネタも書きたいけど、まずは装甲騎兵の歴史と組織についてまとめました。


※編成単位の日本語表記について
装甲騎兵部隊の編成単位は、騎兵の伝統を引き継いでいるため、他の兵科とは異なる用語が使われています。
"Thiết đoàn"は直訳すると"装甲団"となりますが、より下位の単位をどう表現するかの問題もあるので、実際の規模(標準的な機甲部隊における大隊程度)に倣って"騎兵大隊"という意訳を使っています。
また"Thiết đoàn"の英語表記は資料によって"Cavalry Regiment(騎兵連隊)"だったり"Squadron(戦隊)"だったりバラバラなので、英語は無視して考えています。
同様にThiết đoànの下位にあるChi Đoàn、Chi Độiもそれぞれ中隊、小隊と訳しています。


装甲騎兵の歴史

 ベトナム共和国装甲騎兵部隊(Binh chủng Thiết giáp Việt Nam Cộng hòa)の歴史は、他の兵科と同様にインドシナに駐屯したフランス軍植民地部隊に始まる。ベトナムを含むフランス領インドシナには20世紀初頭からフランス軍の植民地機甲部隊が駐屯しており、その中には現地で採用されたベトナム人兵士も多数所属していた。
 第1次インドシナ戦争中の1949年にベトナム国がフランス連合の一部として(形式的に)独立すると、それまでベトナム人が所属していたフランス軍植民地部隊の一部はベトナム国軍(Quân đội Quốc gia Việt Nam)へと再編成された。ベトナム国軍にはフランス軍の装備を引き継いで機甲部隊も設置され、フランス連合軍としてベトミンとの戦いに投入された。

  
▲第1次インドシナ戦争におけるフランス連合(ベトナム国軍)第3ベトナム偵察戦 隊(1952年)

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2018年8月28日追記

ベトナム軍機甲部隊の発展 (1951-1954)について
L'Armée française dans la guerre d'Indochine (1946-1954) Adaptation ou inadaptation (Interventions) (French Edition)2000より

ベトナム国軍による創設

部隊 地域 前身 所属
1951 1er ERVN 南ベトナム GVNS 第1ベトナム師団
1951 3e ERVN 北ベトナム FAVN 第3ベトナム師団
1953 2e ERVN 中央ベトナム 訓練センター 第2ベトナム師団
1954 8e ERVN 高原 ? ?
1954 10e ERVN 中央ベトナム ? ?
1954 11e ERVN 南ベトナム ? ?


CEFEO機甲連隊からベトナム国軍に移動した部隊

部隊 地域 前身 所属
1951 4e ERVN 高原 第5胸甲騎兵第5戦隊 第4ベトナム師団
1952 5e ERVN 北ベトナム RICM第5戦隊 第5ベトナム師団
1952 6e ERVN 南ベトナム 第5胸甲騎兵第2戦隊 第6ベトナム師団
1953 7e ERVN 北ベトナム 第1猟兵第4戦隊 第7ベトナム師団
1954 護衛戦隊群 (河川および鉄道) 南ベトナム 第4竜騎兵のクメール族


休戦時の状況

地域 CEFFEO ベトナム国軍
北ベトナム 第3竜騎兵 機甲連隊(3e, 5e, 7e ERVN)
南ベトナム 第1竜騎兵 護衛連隊(1er, 6e, 11e ERVN)
中央ベトナム 2e, 10e ERVN
高原 4e ERVN


[略語]

ERVN ベトナム偵察戦隊, Escadron de reconnaissance vietnamien
FAVN    ベトナム国軍, Forces armées vietnamiennes
FTVN 北ベトナム方面軍, Forces terrestres du Nord-Viêt-nam
GVNS 南ベトナム衛兵隊, Garde du Việt-nam Sud

追記終わり
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 1954年にジュネーヴ協定によってフランス軍がベトナムから徹底すると、ベトナム国(南ベトナム)軍はフランス軍機甲部隊の戦力を引き継いで、1955年4月1日に装甲騎兵(Thiết giáp Kỵ binh)部隊を発足させた。同年10月に首相ゴ・ディン・ジェムが国民投票でバオ・ダイ帝を追放し"ベトナム共和国"を宣言すると、フランスはベトナムにおける影響力を失った。ジェム政権下ではフランスに代わってアメリカによる軍事支援と軍事顧問(MAAG)による南ベトナム軍への指導が始まり、これ以降、装甲騎兵部隊もアメリカ陸軍によって指導・強化されていく。
 装甲騎兵は第1から第4までの4つの装甲連隊(Trung đoàn Thiết giáp)※で編成され、4つの戦術地区(Vùng Chiến Thuật)に各1個連隊が展開。各連隊を3個の騎兵中隊で構成した。
連隊(Trung đoàn)という呼称だが、実際の規模は標準的な機甲部隊の編成で言う大隊程度。

〔装甲連隊の配置〕(1955~1963年)
第1装甲連隊 / 第3戦術地区
第2装甲連隊 / 第4戦術地区
第3装甲連隊 / 第2戦術地区
第4装甲連隊 / 第1戦術地区

〔装甲連隊の編成〕(1955~1963年)
M24戦車中隊×1
装甲車中隊×2

 1962年初頭、アメリカ軍は新型装甲兵員輸送車M113A1を南ベトナム軍に供与し、実戦テストを行った。M113が配備されたのは、湿地の多いメコンデルタで国道4号を防衛する第7および第21自動車化中隊(歩兵科の機械化部隊で、それぞれ第7、第21歩兵師団所属)で、この二つの中隊にはそれぞれ15輌のM113が配備され、機動性・渡河性がテストされた。中でも第7自動車化中隊は"アプバクの戦い(Trận đánh Ấp Bắc)"として知られるディントゥオン県での戦闘に参加し、実戦でM113が活躍した最初の戦場となった。この二中隊の活躍により、M113はベトナム南西部の湿地帯でも非常に有効である事が実証され、1962年の終わりまでにさらに6個のM113中隊が新設された。
 1963年には、各装甲連隊は4個の騎兵中隊で構成されるように成る。同年、装甲連隊は騎兵大隊へと改称され、、それまで独立した指揮系統だった装甲騎兵部隊は、作戦中は大隊ごとに各歩兵連隊の指揮下に置かれる事となった。

〔装甲連隊・騎兵大隊の編成〕(1963年)
M24戦車中隊×1
装甲車中隊×1
M113装甲車中隊×2(歩兵科から装甲騎兵科へ移管)

〔騎兵大隊の配置〕(1963年)
第1騎兵大隊 / 第3戦術地区
第2騎兵大隊 / 第4戦術地区
第3騎兵大隊 / 第2戦術地区
第4騎兵大隊 / 第1戦術地区

 1963年末、装甲騎兵部隊には総参謀部の予備兵力として第5、第6騎兵大隊が新設された。さらに1966年には新たに4つの騎兵大隊が編成される。 1968年のテト攻勢において、装甲騎兵部隊は以下の各都市で共産軍の制圧に大きな貢献をした。

第1騎兵大隊 / ファンティエット、第3戦術地区
第2騎兵大隊 / チャービン、ヴィンロン
第3騎兵大隊 / プレイク
第4騎兵大隊 / チューライ、フエ
第5騎兵大隊 / サイゴン、第3戦術地区
第6騎兵大隊 / ミトー
第7騎兵大隊 / ドンハ、フエ
第8騎兵大隊 / バンメトート
第10騎兵大隊 / サイゴン、第3戦術地区

  
▲テト攻勢後の反撃戦に臨む装甲騎兵部隊(1968年)
テト攻勢は政治的・心理的な面では南ベトナム・アメリカ政府に大きな衝撃を与えたが、軍事面では政府側の猛烈な反撃により、装備の貧弱なベトコンは壊滅的な損害を被った。

1968年末、装甲騎兵部隊にはさらに7つの騎兵大隊が新設された。

第11騎兵大隊 / ドンハ
第12騎兵大隊 / カントー
第14騎兵大隊 / コントゥム
第15騎兵大隊 / ビエンホア
第16騎兵大隊 / ロンスェン
第17騎兵大隊 / ホイアン
第18騎兵大隊 / ビエンホア

 1969年以降、装甲騎兵部隊は戦況に応じた柔軟な戦術をとるため、従来の騎兵大隊のように歩兵師団に付随せず、軍団(戦術地区)直属の予備兵力として必要に応じて派遣される騎兵旅団を順次編成していった。1970年初頭、2個騎兵大隊とBDQ、地方軍で構成された第1騎兵旅団は第1戦術地区沿岸部の掃討に投入され、この戦いは2ヶ月間続いた。
 同年4月にカンボジア進攻作戦が始まると、3つのタスクフォースで構成された第3騎兵旅団は"トアンタン41(Toàn Thắng 41)作戦"を開始し、"天使の翼"地域への攻撃を行った。3個騎兵大隊と3個BDQ大隊で構成された第4騎兵旅団も同じく"象の足"地域への攻撃を行った。さらに第3騎兵旅団は4月29日に"オウムのくちばし"と呼ばれるカンボジア・スヴァイリエン州で新たに"トアンタン42作戦"を開始した。5月2日には第4騎兵旅団も、第2, 6, 9, 12, 26騎兵大隊の5大隊、計250両のM113を従えてオウムのくちばしに進攻した。その後、両騎兵旅団は北ベトナム軍第9師団に脅威にさらされていたコンポンチャムに増援として移動し、中でも第5, 15, 18騎兵大隊は敵に深刻な損害を与える事に成功した。

▲カンボジア(クメール共和国)領内に進攻した装甲騎兵部隊と第41BDQ大隊(1970年)

 1971年、第19騎兵大隊がプレイクで編成される。同年、第11, 17騎兵大隊で構成された第1騎兵旅団がホーチミンルートを遮断するためのラオス進攻作戦"ラムソン719"に投入される。このラムソン719において、第1騎兵旅団所属のM41A3軽戦車は、1輌の損失もなく北ベトナム軍のT-54戦車6輌、PT-76水陸両用軽戦車16輌を撃破する大戦果を挙げている。しかし一方で、ラオスの山岳地帯は道が険しく装甲部隊が前進するのが非常に困難であり、主戦域に到着する前に先に投入された歩兵部隊が壊滅したため作戦は中止された。さらに撤退途中にも幾度も待ち伏せ攻撃と退路の寸断を受け、国境にたどり着くまでに多くの車両が落伍した。この第1騎兵旅団の撤退を援護するため急遽空挺師団が派遣され、歩兵が退路を確保しながら後退した。さらに進行ルートを確保すべく工兵隊のブルドーザーがヘリで空輸され、森を切り開き川を埋め立てて道を開拓しながら進む事で、部隊はなんとかラオスから帰還する事ができた。

 
▲ラムソン719作戦における第1騎兵旅団(1971年)
この作戦は南ベトナム軍にとって局所的な勝利はあったが、全体としてはそれまで圧倒してきた共産軍に対し初の大敗退を喫した。

 1972年以降、南ベトナム軍装甲騎兵部隊には、撤退するアメリカ軍から引き渡されたM48A3戦車が新たに配備された。M48戦車の運用は、それまでの機械化歩兵歩兵主体の騎兵大隊ではなく、新たに編成された戦車主体の戦車大隊に集約され、騎兵旅団直属の独立騎兵大隊として活躍した。
 1972年春、南ベトナムに侵攻していた北ベトナム軍は、イースター攻勢と呼ばれる一大攻勢を南ベトナム全土で開始した。これにより南北国境にほど近い城砦都市クアンチは陥落し、北ベトナム軍はここを拠点に更なる侵攻を始めんとしていた。これに対し南ベトナム軍は同年夏より第1軍団および機動部隊のほぼ全ての戦力をクアンチに投入し、奪われた要塞の奪還を目指した(クアンチの戦い)。同時にアメリカ空軍もイースター攻勢に対抗して一大空爆作戦"ラインバッカー作戦"を決行し、以後3ヶ月に渡る壮絶な戦闘の末、南ベトナム軍は多大な犠牲を払いながらもクアンチの奪還に成功した。

▲"クアンチの戦い"に投入された第1騎兵旅団第20騎兵大隊のM48A3戦車(1972年)

 1973年にアメリカ軍が撤退して以降、南ベトナムでは戦況を案じる外国資本の撤退や深刻な経済不況が始まり、もともと不安定だった国家財政は困難に直面していた。防衛予算の欠乏は特に維持費の高額な装甲騎兵部隊に悪影響を及ぼし、次第に多くの中隊で整備や燃料調達などの運用支援が滞るようになり、兵器の稼働率は徐々に衰退していった。
 1974年3月末、カンボジア国境に囲まれたドゥックフェー基地の第83BDQ大隊が、カンボジア領内の北ベトナム軍第5師団に包囲された。ドゥックフェーはサイゴン北西の町で、ここが陥落すれば一気に首都に攻め込まれる危険が高まるため、第3軍団は敵第5師団を撃退すべく第3騎兵旅団および第33BDQグループ等を統合した"第3強襲団"を編成した。第3強襲団にはカンボジア領"オウムのくちばし"地域に進攻して敵を背後から攻撃する作戦が計画され、4月22日にまず陽動撹乱が開始された。そして4月28日夜より闇夜に紛れて本隊が前進し、29日午前3時よりカンボアジ領内で本格的な攻撃が開始された。攻撃の主力は第3強集団第315戦闘団で、次いでは第318戦闘団が第二波、第322戦闘団が予備として第315戦闘団に追従した。この作戦は、空爆も含めアメリカ軍による支援無しで行われたが攻撃は大成功し、5月1日には第83BDQ大隊の救出に成功した。これにより北ベトナム第5師団は同年11月まで国境からの撤退を余儀なくされたが、同時に南ベトナム軍にとっても、このような大攻勢はこの作戦が最後となった。


 1975年初頭に第2軍管区を陥落させた北ベトナム軍は、1975年4月9日には首都サイゴンにほど近いスンロクにまで進出していた。南ベトナム軍は首都防衛の最後の砦として、第18師団を中心とした守備部隊を配置してスンロクの防衛に当たった(スンロクの戦い)。4月12日には第3強襲団が到着し、北ベトナム軍の猛攻を幾度も撃退する事に成功した。しかし、北ベトナム軍はビエンホア空軍基地への砲撃を行い航空支援を阻止したため、南ベトナム軍の戦線は崩壊した。第18師団と第3強襲団の残存兵力はスンロクからの撤退を命じられ、4月21日にスンロクは陥落した。


▲戦後ベトナムで製作された映画『サイゴン解放』で描かれたスンロクの戦い
プロパガンダ映画ではあるが、車輌は全て実物で、部隊マーキングなど南ベトナム側の考証も非常に凝っていて素晴らしい再現度だと思う。

 スンロクから撤退した第3強襲団はメンテナンス・休養のため、4月25日にビエンホア基地に集結した。同日、サイゴン東部ロンタンの装甲学校が占領されたため、第3強襲団から第322戦闘団およびTQLC(海兵隊)大隊が派遣されロンタン奪還を目指した。第322戦闘団はこの日の深夜までに敵のT-54戦車12輌を撃破し、敵は一時的にロンタンからの撤退を余儀なくされた。この知らせにビエンホアの部隊は士気を取り戻した。
 4月29日には第18師団、第3強襲団に第2海兵旅団と第4空挺旅団が合流した。この時点で首都サイゴンは三方向から包囲され、もはや陥落は時間の問題となっていた。しかし第3強襲団司令チャン・クァン・コイ准将は、人口密集地のサイゴンが戦場になれば多数の市民が犠牲となるため、政府が公式に降伏宣言する翌日の午前8時まではビエンホアを死守すると電話で総統に約束した。そして29日深夜より始まった北ベトナム軍による最後の大攻勢の中、第315戦闘団は多数のT-54戦車を撃破し、敵を撤退させた。サイゴン政府最後の日の4月30日午前2時、第18師団の守るロンビンが突破されたため、第315戦闘団はロンビン奪還のためサイゴン北東に移動した。北ベトナム軍はロンビンを通過点にビエンホアを攻略すべく最大規模の戦力で進撃を進めたが、第315戦闘団は午前3時過ぎにこれを正面・側面から痛撃し、敵に深刻な損害を与えてビエンホア街道へ撤退させた。その後も朝までに散発的な戦闘は続いたが、コイ准将は約束通りビエンホアを死守し、サイゴン市内での大規模な戦闘は避けられたのであった。

▲サイゴン防衛戦で第3強襲団を指揮したチャン・クァン・コイ騎兵准将
装甲騎兵の軍事顧問をしていた米陸軍レイモンド・R・バトリアル大佐は、コイ准将を自国のクレイトン・エイブラムス将軍に並ぶ、「ベトナムのパットン将軍」と評した。

 4月30日午前10時24分、ズオン・バン・ミン総統はラジオ放送を通じて全軍に戦闘停止を下令。そして正午ごろ、サイゴンの総統府が占領され、ベトナム共和国政府と共和国軍は正式に無条件降伏を受け入れた。ベトナム戦争の全期間を通じて、南ベトナム装甲騎兵部隊はその質と量で北ベトナム軍の機甲部隊を圧倒した。しかし資源・予算不足による車輌の稼働率低下は深刻であり、戦況を覆すまでには至らなかった。


装甲騎兵部隊の編成




▲M41軽戦車とM113装甲兵員輸送車による標準的な編成
動画の中盤以降は、兵士の徽章から装甲学校における演習風景だと思われます


騎兵大隊(Thiết đoàn Kỵ binh)
 1963年に装甲連隊より改称(装甲連隊時代も実際の規模は大隊程度だった)。最終的に21個の騎兵大隊が編成され、その内11個大隊は各歩兵師団隷下に1個大隊ずつ置かれる騎兵大隊であり、残りの10個大隊が騎兵旅団直属の独立騎兵大隊であった(その内3個大隊が戦車大隊)。

戦車大隊以外の騎兵大隊は通常、2個の装甲騎兵中隊、1個の戦車中隊、および大隊本部で構成された。

メコンデルタ地域に展開する6個の騎兵大隊(第2, 6, 9, 10, 12, 16騎兵大隊)では、湿地帯の多い戦車の運用に向かない地形であった事から戦車中隊を持たず、代わりに装甲騎兵中隊を3個に増やしている。
大隊本部は本部小隊の他、火力支援小隊、火炎放射小隊、装甲車小隊で構成される。中隊(Chi Đoàn)は装甲騎兵(装甲車)中隊と戦車中隊に分かれる。小隊(Chi Đội)は装甲騎兵部隊の最小編成単位で、以下の編成をとった。

〔大隊本部〕 計21輌
本部小隊:M577、M113、M578 計7輌
火力支援小隊:M106、M577 計5輌
火炎放射小隊:M132 2輌+付隊2隊
装甲車小隊:M706 6輌

〔装甲騎兵中隊〕 計22輌×2または3個中隊
本部小隊:M113 3輌
強襲小隊:M113、106mm無反動砲搭載M113 計6輌×3個小隊
迫撃砲小隊:M125、M113 計4輌

〔戦車中隊〕 計20輌
本部小隊:M41A3、M548 計5輌
戦車小隊:M41A3 5輌×3個小隊

また各小隊には車載機関銃とは別に、50口径M2重機関銃1丁および30口径機関銃(M1919A4もしくはM60)2丁が非装甲車両に車載装備された。

〔歩兵師団隷下の騎兵大隊〕
第1騎兵大隊 / 第5歩兵師団 (1955年第1装甲連隊として編成、1963年騎兵大隊へ改編)
第2騎兵大隊 / 第9歩兵師団 (1955年第2装甲連隊として編成、1963年騎兵大隊へ改編)
第4騎兵大隊 / 第2歩兵師団 (1955年第4装甲連隊として編成、1963年騎兵大隊へ改編)
第5騎兵大隊 / 第18歩兵師団 (1963年編成)
第6騎兵大隊 / 第7歩兵師団 (1963年編成)
第7騎兵大隊 / 第1歩兵師団 (1966年編成)
第8騎兵大隊 / 第23歩兵師団 (1966年編成)
第9騎兵大隊 / 第21歩兵師団 (1966年編成)
第10騎兵大隊 / 第25歩兵師団 (1966年編成)
第11騎兵大隊 / 第3歩兵師団 (1968年編成)
第14騎兵大隊 / 第22歩兵師団 (1968年編成)


▲第25歩兵師団付き第10騎兵大隊と思われるM113部隊


騎兵旅団(Lữ đoàn Kỵ binh)
1969年から編成の始まった騎兵旅団は、歩兵師団に属さない"独立騎兵大隊"(戦車大隊含む)を2~3個有し、それを中心にBDQ(レンジャー)などの歩兵部隊とも連携し、必要に応じて軍団から予備部隊として派遣されるタスクフォースであった。騎兵旅団は軍団ごとに1個旅団、計4個旅団が編成され、それぞれ第1~4戦術地区(軍管区※1)を担当した。

第4騎兵旅団 / 第4軍管区 (1969年編成、当初は第4戦術地区第44特区※2所属)
第1騎兵旅団 / 第1軍管区 (1969年編成)
第3騎兵旅団 / 第3軍管区 (1970年編成)
第2騎兵旅団 / 第2軍管区 (1971年編成)

※1 戦術地区(Vùng Chiến Thuật)は1970年に軍管区(Quân Khu)へと改称
※2 特区(Biệt khu)は戦術地区/軍管区の下位に設置される戦術エリア

〔騎兵旅団隷下の独立騎兵大隊〕
第3騎兵大隊 / 第2騎兵旅団 (1955年第1装甲連隊として編成、1963年騎兵大隊へ改編、1971年騎兵旅団へ編入)
第12騎兵大隊 / 第4騎兵旅団 (1968年編成、1969年騎兵旅団へ編入)
第15騎兵大隊 / 第3騎兵旅団 (1968年編成、1970年騎兵旅団へ編入)
第16騎兵大隊 / 第4騎兵旅団 (1968年編成、1969年騎兵旅団へ編入)
第17騎兵大隊 / 第1騎兵旅団 (1968年編成、1969年騎兵旅団へ編入)
第18騎兵大隊 / 第3騎兵旅団 (1968年編成、1970年騎兵旅団へ編入)
第19騎兵大隊 / 第2騎兵旅団 (1971年編成)


戦車大隊(Thiết đoàn Chiến xa)
M48A3戦車を主力とする騎兵旅団隷下の独立騎兵大隊。1972年より第20, 21, 22騎兵大隊の3個大隊が順次編成された。基本的な部隊構成は騎兵大隊に準じるが、通常の騎兵大隊(独立騎兵大隊含む)は3個中隊のうち2個または全てが装甲騎兵(装甲車)中隊なのに対し、戦車大隊は44輌(2個中隊分)がM48A3戦車であり、完全に戦車を主力とした機甲大隊であった。

騎兵旅団隷下の独立騎兵・戦車大隊
第20騎兵大隊 / 第1騎兵旅団 (1972年編成)
第21騎兵大隊 / 第2騎兵旅団 (1972年編成?)
第22騎兵大隊 / 第3騎兵旅団 (1974年編成?)


第3強襲団(Lực lượng 3 Xung kích)

第3強襲団はサイゴン防衛のため1974年4月に編成された第3軍団の機械化タスクフォースで、第3騎兵旅団に所属する第15、18、22騎兵大隊および第33BDQ(レンジャー)グループを中心に編成された。各騎兵大隊には砲兵中隊およびBDQ大隊が追加され、連隊規模の戦闘団(Chiến đoàn)を編成した。

第15騎兵大隊→第315戦闘団
第18騎兵大隊→第318戦闘団
第22騎兵大隊→第322戦闘団


装甲車両

▲1973年の時点における装甲車輌の配備数 Vietnam Tracks: Armor in Battle 1945-75 - Simon Dunstonより
※この資料における"Regt."は大隊、"Sqn."は中隊を指す。

1955年に装甲連隊が発足した当初、装備されていた装甲車両はフランス軍から引き継いだ米国製車両が中心であった。

M24チャーフィー軽戦車

 
M8 75mm自走榴弾砲(もしかしたら砲兵の所管かも)

  
M8グレイハウンド装甲車

M3ハーフトラック

 
C15TA 装甲トラック(カナダ製。仏軍が英軍から購入)

1962年に米国よりM113A1装甲兵員輸送車の供与が開始されると、この新型装甲車は非常に高い評価を得て、以後終戦まで装甲騎兵部隊の中核を成す。また、M113はその車体を利用して多数のバリエーションが開発され、それまでバラバラであった各種車両の整備・運用を統一できた事から、南ベトナム軍装甲騎兵部隊は1973年の時点で1600輌以上のM113シリーズを保有した。その内930輌が基本形のM113A1装甲兵員輸送車(ACAV含む)で、残りの約700輌が各種自走砲・支援車両型であった。

M113A1 装甲兵員輸送車

M113 ACAV(重機関銃砲塔付きの装甲騎兵戦闘車)

M113A1 / M18A1 57mm無反動砲搭載車

M113A1 / M40 106mm無反動砲搭載車

M577A1 装甲指揮車

M106A1 107mm自走迫撃砲(※写真はアメリカ軍の車輌)

M125A1 81mm自走迫撃砲(※写真はアメリカ軍の車輌)

M132A1 装甲火炎放射車(※写真はアメリカ軍の車輌)

XM45E1 燃料補給車(※写真はアメリカ軍の車輌)

M548 装軌貨物輸送車(※写真はアメリカ軍の車輌)

XM806 装甲回収車(※写真はアメリカ軍の車輌)

1965年初頭には、米国より76.2mm砲を搭載したM41A3軽戦車の供与が開始された。以後M41はM24に代わって騎兵大隊の主力となり、1973年までに214輌を装備した。特にカンボジア、ラオス、1972年夏の反攻戦など大きな戦いでは機甲部隊同士の戦車戦が行われたが、高い練度を誇る装甲騎兵は、敵よりも性能で劣るM41軽戦車で敵のT-54戦車を多数撃破した。

M41A3ウォーカー・ブルドッグ軽戦車

1967年には、まだ米軍でテスト中だったXM706(V-100コマンドウ)装甲車をいち早く採用。1973年までに120輌を装備した。

XM706(V-100コマンドウ)装甲車

1972年以降、ベトナムから撤退するアメリカ軍よりM48A3パットン戦車の供与が開始された。これにあわせてM48戦車を主力とする騎兵旅団直轄の独立騎兵大隊"戦車大隊"が3個大隊編成され、1973年までに190輌が配備された。ただしM48A3戦車はM41A3軽戦車に比べて2倍以上の重量があるため、それに対応した大掛かりな整備施設や輸送トレーラー、架橋車輌が必要だった。そのため運用に制限が伴い、常に規定の台数が稼動しているわけではなかった。

M48A3パットン戦車

その他

M114 装甲偵察車

M88 戦車回収車(※写真はアメリカ軍の車輌)

M578 軽車両回収車(※写真はアメリカ軍の車輌)

M42A1ダスター自走対空砲(砲兵部隊所属だけど、騎兵隊員が砲兵隊に出向してるっぽい)

以下、装甲騎兵所属とは限らないけど装甲・武装化されてる改造ガントラック

大型6輪トラック(車輌形式特定できず)

M37トラック・ガントラック仕様

CJ3B-J4Cトラック(三菱J4C) ガントラック仕様
三菱ジープJ4はアメリカ陸軍調達局(APA)向けに1953年から日本で生産された車輌で、"Truck, Utility, 1/4 ton, 4x4 Model CJ3B-J4"の制式名で米軍に納入された。1958年以降は24V電装に改良されたJ4Cに生産が移行し、多くの三菱J4Cがアメリカによる装備支援として南ベトナム軍に供与された。

 なお、これら南ベトナム軍装甲騎兵部隊の車輌は、戦後ベトナム人民軍に接収され、その後のベトナム・カンボジア戦争や中越戦争で使用されている。さらにM706装甲車など一部の車輌はベトナム国産のパーツによる改修が行われ、現在も人民軍の装備として稼動状態にあると言う。



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