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2024年08月18日

昼休みのみタハーンプラーン

お盆休み中、会社の先輩に誘われてサバイバルゲームに参加してきました。
インドアサバゲなら去年参加しましたが、屋外フィールドで純粋なサバゲに参加するのは十数年ぶりです。

このように今回はリエナクトではなく普通のサバゲなのですが、軍装コスプレが趣味の僕としては何か着て写真を撮りたいので、今回は滅多に着る機会の無いタイ王国タハーンプラーン(1980年代前半)のコスプレをしました。
偶然、フィールドのyaNexさんには東南アジアっぽい竹製の小屋が立ち並ぶ立派な村があったので、タイ・ラオス国境地帯の村落っぽい雰囲気で、衣装とマッチしていて良い写真が撮れました。
(ただ一点、グローブを持参し忘れたのは心残り・・・face07)




なお肝心のサバゲでは、気温が暑過ぎて装備なんか付けていられなかったので、Tシャツ一枚になって戦いました。
また僕の持っているライフルはコスプレ専用の小道具であり、バッテリーを持っていないので、当日はレンタルのAR-15系電動ガンを使いました。

タハーンプラーン装備をしていたのは昼休みのみで、ほとんど一日中この姿でした。

僕はサバゲが得意ではないので、1日やって敵を打ち取った数は1名のみでしたが、久しぶりに良いレクリエーションになりました。
  


Posted by 森泉大河 at 09:38Comments(0)1975-1989【タイ】

2023年07月02日

怪しいタイ土産

先日一緒にサバゲーをやったタイの友人に、日本まで運んできてもらった品物です。

その1:タイの土方バラクラバ


別のタイの友人がタハーンプラーン装備用にコレクションしていたものを譲ってもらうことが出来ました。
このバラクラバは民生品であり、タイではよく、建設工事作業員がかぶっているそうです。
友人が「その辺の工事現場からかっぱらってきてあげようか?」と言ってきましたが、汗臭そうなので新品にしてくれとお願いしておきました。

タハーンプラーンでの使用例(1980年代)



その2:ラタン製ライオットシールド(籐盾)


ベトナム戦争期のベトナム軍・警察では、ライオット任務用に、昔ながらの籐(ラタン)製の盾が使われていました。
これを再現すべく、友人の伝手でタイのラタン家具職人に、盾の制作を依頼しており、この度ついに手元に届きました。


コレクター所有の実物を参考に、構造もほぼ完全に再現しています。


▲ベトナム国家警察野戦警察隊の使用例(1974年)
軍ではOD単色塗装も見られますが、どうせなら派手派手にしたいので、これから警察仕様の国旗柄に塗装していきます。

ちなみに友人はタイを発つ際、この盾を空港に持参し、普通に手荷物として預けたそうです。



さすがに空港の係員に「なんですかこれ?」と訊かれたみたいですが、「装飾品です」とだけ答えたら、スルーしてもらえたそうです(笑)
  


2023年06月25日

ダクラク省の争乱とデガ運動の旗

※2023年6月26日

 ベトナム公安省および複数のメディアは、去る2023年6月11日早朝、ダクラク省クークイン地区エアティウとエアクトゥルの2つの都市の人民委員会本部が武装集団によって襲撃され、警察官や人民委員など合わせての9名のベトナム人が死亡、3名が負傷したと発表しました。
 治安当局は当初からこの襲撃を、中部高原に住む少数民族デガの武装組織による反政府テロと断定し、その後6月23日までに84名のデガの容疑者を逮捕、多数の武器弾薬に加え、FULRO(フルロ)の旗を押収したと発表しています。

▲今回の襲撃を行ったとされるデガの武装組織 (写真:Thời báo.de)
掲げている旗は現在の各地のデガ系団体で用いられているデガ諸民族の統一旗。ベトナム共産党政府はこの旗を『FULRO旗』と見做していると思われる。

公安省の実行部隊に逮捕されたデガ武装組織のメンバー (写真:Báo Công An Nhân Dân)


 中部高原では2001年と2004年にもデガによる大規模な反政府デモが発生しました。その際デモ隊は、ベトナム人が中部高原から退去する事を求め、これが受け入れられない場合「デガは郷土を守る為、ベトナム政府に対し戦争を開始する」と宣言していましたが、あれから19年の時を経て、ついに武力闘争が現実のものとなってしまいました。
 死人が出ている話ですし、今後ベトナム政府は一般市民を含むデガ全体への大規模な報復、締め付けを開始するでしょうから、引き続き情勢を注視していきたいと思います。


 なおデガを含む中部高原少数民族の独立運動組織は幾度も瓦解と再建を繰り返しており、常にFULROという組織が存在していた訳ではありません。現在ベトナムでFULROと言う場合、それらは一般的に、中部高原少数民族がベトナム人政府からの自治・独立を目指して、1945年から現在に至るまで80年近く続けている一連の抵抗運動の総称、いわゆる『デガ運動』、『FULRO運動』、あるいは『FULRO闘争』全体の事を指します。
 その中で、20世紀後半にデガ運動を牽引した各組織の概要と旗は以下の通りです。


PMSI (南インドシナ・モンタニャール国) 1946~1955年
第一次インドシナ戦争開戦直後、フランス人兵士の人員不足が深刻化していたフランス軍は、デガを含むベトナム領内の少数民族をフランス連合軍の兵力として活用するとともに政治的にフランスの勢力下に置くため、1946年、中部高原のデガに対し『PMSI (南インドシナ・モンタニャール国)』という広大な自治区を設定し、ベトナム人政府から独立させた。この自治区は1950年に『皇朝疆土』と名前を変えつつ、フランスの後ろ盾をもって1955年まで存在した。
この時期、デガはフランス軍の指揮下で第4ベトナム師団を構成した。
(過去記事参照)


BAJARAKA(バジャラカ)運動 1958~1964年
ラーデ族のイーバム・エニュオルを指導者とする、デガ諸民族からなる初の統一的な政治運動組織。BAJARAKAの名は運動の中心となったバナール族、ジャライ族、ラーデ族、コホー族の頭文字から。
南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権に対し自治権を要求する運動を1958年に展開する。しかし、まもなくイーバムら幹部は政府によって逮捕され、イーバムは以後6年間投獄される。
しかし1961年、イーバムの腹心であるネイ・ルェット(ジャライ族)が釈放され、ルェットはその後アメリカ大使館USOM代表ジョン・アルバートソンの下でデガ語通訳として働き、アメリカ大使館とのコネクションを形成する。また同年、米軍がCIDG計画を開始すると、BAJARAKAの構成員の多くがCIDG兵士として米軍の指揮下に入る。


FLHP (中部高原解放戦線) 1964~1968年
1964年にイーバム・エニュオルが釈放されると、デガ指導部(旧BAJARAKA)は再びイーバムを指導者とし、FLHP (中部高原解放戦線)を結成、同時に他の少数民族との連合組織であるFULROに参加する。
以後、兵力・政治力共にこのFLHPがFULROの中心勢力となる。


FULRO(被抑圧民族闘争統一戦線) 第1期 1964~1968
 
クメール王国軍のレ・コセム大佐(チャム族)の呼びかけによって1964年に結成された、デガ(FLHP)、チャム族(FLC)、クメール族(FLKK)の3派連合組織。総司令官にはFLHPのイーバム・エニュオルが就任した。
米軍のCIDG計画により武器と資金源(米軍からの給与)を得た事で、1964年に南ベトナム政府に対する大規模な反乱を実行する。(米軍は反乱を予期していなかった。そもそもFULROは、南ベトナム政府へのサボタージュを目的としてレ・コセム大佐がシハヌークおよびロン・ノル将軍に提案、許可を得た破壊工作であった)
この反乱に対し南ベトナム政府はFULROの徹底的な掃討、CIDGの解体を行おうとしたが、CIDGを兵力として活用したい米国の圧力に南ベトナム政府は屈し、FULRO幹部が司令部をカンボジア領内に移動しただけで、CIDGは引き続きFULROの公然組織として存続した。その後も米軍はCIDGを重用するとともに、南ベトナム政府に対し少数民族との和解を求めたため、1960年代末には南ベトナム政府が譲歩し、中部高原におけるFULRO・デガによる自治容認、民族融和政策を行った事で政府と少数民族の関係は改善する。
しかしFULROのスポンサーであるクメール王国(シハヌーク政権)の目的はデガの自治などではなかったため、クメール側の真意に気付いたイーバム・エニュオルおよびFLHPは1968年、クメールの統制下から離反し、FULROは事実上解散する。
なお、レ・コセム大佐の配下にあったFLC(チャム族)系およびFLKK(クメール族)は、その後正式にクメール国軍にFULRO大隊として編入される。


FLPMSI (南インドシナ・モンタニャール国解放戦線) 1968~1975
FULROから脱退したイーバム・エニュオルおよびFLHP系勢力が1968年に結成。
しかしクメール政府はFLHPの離反を許さず、イーバムはクメール王国軍情報部に拉致され、以後プノンペン市内に7年間軟禁される。
その間、南ベトナム政府の民族開発省長官となったネイ・ルェットは、カンボジアで軟禁状態にあるイーバムと連絡を取り合い、アメリカ大使館に援助を求め続けたが、結局アメリカ政府がFLPMSIを支援することはなかった。


FULRO(被抑圧民族闘争統一戦線) 第2期 1976~1992
1975年にクメール共和国、ベトナム共和国政府が相次いで共産主義勢力に打倒され、デガ指導者イーバム・エニュオルはプノンペン市内でクメール・ルージュによって処刑される。ベトナムではベトナム共産党政権によるデガへの民族浄化が開始された事で数万人のデガが難民となり、多数の死者を出しながらカンボジア領へ避難した。しかし避難先のカンボジアでもポル・ポト政権による少数民族への虐殺が行われており、難民たちはベトナム・カンボジア双方による迫害から逃れるため、人里離れたモンドルキリ州のジャングルの奥地に潜伏するしかなかった。
このモンドルキリ州での避難生活の中で、デガ(旧FLPMSI)を中心とする少数民族たちは新たに加わった難民と結束し、再び2万人規模のFULROを再結成する。
これに目をつけたアメリカCIAは、またしても彼らを共産主義に対する戦力として利用するためFULROに近付き、支援を約束した。これを受けて、かつてCIDG計画でアメリカ軍と共に戦った彼らはCIAを信用し、アメリカによる支援を信じて再びベトナム政府へのゲリラ戦を開始する。
しかし、結局CIAが彼らに対し支援を行うことはなく、一度ならず二度もアメリカに見捨てられた彼らに対し、ベトナム軍は徹底的な掃討を行う。さらにベトナム軍のカンボジア侵攻、FULROの内部分裂によって組織は壊滅状態に陥り、最終的にはベトナム・カンボジア軍による追撃から逃れるためジャングルの奥地に逃げ込み、そこで政権を追われたポル・ポト派と共に山賊のような状態で潜伏する事となる。
その後、ベトナム軍のカンボジア撤退によってカンボジア和平が成立し、1992年にUNTAC(国際連合カンボジア暫定統治機構)による武装勢力の武装解除が始まると、抗戦に疲れ果てたFULROは国連による難民認定と国外脱出を条件にUNTACに対し降伏。この知らせに、かつての戦友である米軍グリーンベレーが応え、グリーンベレーの本部があるノースカロライナ州フォート・ブラッグ基地周辺に約400人のFULRO(元CIDG)兵士とその家族が移住した。


▲FLHP旗とデガ指導者イーバム・エニュオル

▲FULRO旗(第1期)を米兵に見せるFULRO / CIDG兵士 (ベトナム共和国,1964年)

▲FLPMSI旗を持つ構成員と米兵 (ベトナム共和国クアンドゥック省, 1969年9月)

▲FULRO旗(第2期)を掲げる構成員 (カンボジア・モンドルキリ州, 1992年)


関連記事  


2023年06月06日

56-1式っぽくしたい その3

※2023年6月9日更新

前記事『56-1式っぽくしたい その2』で製作した56式風フロントサイトを塗装しました。

ビフォー



アフター



当初は横着して下地の塗料を落とさず、上からミッチャクロンマルチを塗って、その上にキャロムショットのメタルブルーコートで塗ったのですが・・・
メタルブルーコートが下地を溶かし、剥離剤を塗布した状態になってしまい大失敗。
しかたないのでワイヤーブラシで元の塗装を剥がそうとしましたが、全部は取り切れなかったので、メタルブルーコートは諦めてファイン・スプレーブラッセンで塗装しました。
残る改造箇所であるレシーバーは下地塗装が無いので、あらためてメタルブルーコートで塗りたいと思います。

※その後気が変わり、フロントサイトと同じくマットブラックに塗る事にしました。

つづく



おまけ

装備に何十万もかけるより、布団を綺麗に畳めるようになった方がよっぽど軍人らしく見えるという教えを与えてくれる動画。



  


Posted by 森泉大河 at 23:25Comments(0)銃器自作グッズ1975-1989【タイ】【中国】

2023年06月03日

56-1式っぽくしたい その2

前記事『56-1式(後期型)っぽくしたい』で作った部品が届いたので、マルイのAKS-47を改造していきます。
まずはフロントサイトから。

フロントサイト両サイドのガードをノコギリで切り飛ばす。



3Dプリンターで作った56式風フロントサイトガードとマズルを瞬間接着剤で取り付け。
また不要な穴をパテで埋める。



パテが硬化しないと次に進めないので、今日はここまで。



おまけ

地元にハラール屋台村八潮スタンという、パキスタンおよび各国ハラール料理フードコートがオープンしたので、友人と食べに行ってきました。

タンドリーチキン盛り合わせ



日替わりカレー(肉団子)と、マトンビリヤニ(炊き込みごはん)



おいしゅうございました!


  


Posted by 森泉大河 at 16:20Comments(0)銃器自作グッズ1975-1989【タイ】【中国】

2023年05月14日

56-1式(後期型)っぽくしたい

1980年代、タイ王国タハーンプラーンでは中国製の56-1式自動歩槍制式小銃として使われていました。56式/56-1式自動歩槍には前期型(切削レシーバー)と後期型(プレスレシーバー)が存在しており、タハーンプラーンで使われた56-1式は、が確認している限りでは全て後期型です。


そして現在リアルソード社から、この後期56-1式自動歩槍精巧に再現した電動ガンが販売されています。しかし、けっこういいお値段しますね。
僕は特段AKシリーズが好きという訳ではなく、単にタハーンプラーンが使っているから56-1式が必要になっただけなので、正直そんなにお金を出したくない。なので当初は、形の似ている東京マルイ製AKS47(ジャンクで購入)で代用するつもりでした。
しかし、いざ被服を手間暇かけて揃えてみると、銃だけ代用品で誤魔化す事に納得いかなくなってきてしまいました。とは言え、リアルソードは高い。
じゃあ、AKS47にどっかのメーカーのAKMSレシーバーを付たらいいじゃん、と思って調べてみたら、これはこれで安くない。しかも56-1式AKMSのレシーバーは一見似ているようで、よく見るとけっこう違う。
しかたないので、AKS47をベースに、56-1式(後期型)っぽく改造する部品を3Dプリンターで作る事にしました。

レシーバー側面の長方形のへこみを埋める板


フロントサイトのガード


マズル



データはできたので、これをDMM.makeで出力してもらいます。

つづく



おまけ:最近お気に入りの解説系音声合成Youtubeチャンネル

ゆっくりユプシロン

五回目は正直【ゆっくり解説】

歴史雑記ヒストリカ

鳥人間 中国史三昧

ゆっくりドラッグストア

僕は基本的に人間嫌いなので、人間が話している動画は一切見ません。
でも、ゆっくりや音声合成なら抵抗なく聞けるから不思議。
  


Posted by 森泉大河 at 18:25Comments(0)銃器自作グッズ1975-1989【タイ】【中国】

2023年05月07日

ゴールデンウイーク撮影会

ゴールデンウィーク終盤の今日は、少人数ながら撮影会を行ってきました。
今回は全体としてのテーマは設けず、服装は各自自由です。



僕は二つの衣装を持っていきましたが、両方ともタイ王国のものです。

その1:タイ王国義勇連隊クイーンズコブラ(ベトナム, 1967-1968年)

タイ兵が二人に増殖しました。
当時のクイーンズコブラで着用されていた戦闘服は大きく分けて4種類あり、いずれも米陸軍の物をそのまま使用、もしくは同型のタイ国産品と思われます。
・ユーティリティ・ユニフォーム四角フラップ
・ユーティリティ・ユニフォーム五角ポケット
・トロピカル・コンバット・ユニフォーム1stモデル(露出ボタン)
・トロピカル・コンバット・ユニフォーム2ndモデル(隠しボタン・エポレットあり)
なお、将校は自費で仕立てた服を着ているので、上記以外にもかなりバリエーションがあります。


その2:タイ王国タハーンプラーン第513計画管理調整部隊(タイ東北部, 1980年代前半)


ついに一式着て写真を撮る事ができました。長かった~!
いや実際は、長年この計画をほったらかしにしてきて、それを今年になって一気に被服を揃えたので、その気になればとっくの昔に揃っていたのかも知れませんが・・・。
[過去記事]

ちなみに今回の写真は、とりあえず人様に見せれる最低限は揃ったので撮りましたが、被服・装備については今後もブラッシュアップしていくつもりです。
手始めにAKS47で代用しているライフルをちゃんと56-1式にしなくては。


もうすでに、次に写真撮りたい服の候補が渋滞しているので、できるだけ早く次回の撮影会を開催したいと思います。お楽しみに。
(こんなの見て喜ぶ人間なんか居るのかよと思う一方、このブログは毎日200~300回くらい閲覧されてるみたいなので、案外定期的に読んでくださる方が居る模様。有難いような気恥しいようなface10)
  


Posted by 森泉大河 at 00:04Comments(0)1954-19751975-1989【タイ】

2023年04月22日

軍装の進捗

その1:ベトナム陸軍空挺部隊(1964~1968年頃)



前回紹介したĐLCH製インビジブルリーフ迷彩服の上衣(空挺型)にインシグニアを縫い付けしました。
部隊設定は空挺部隊にしましたが、服のカットが『空挺型』だから空挺部隊にした訳ではありません。
服のカット名は僕が勝手に名付けただけであり、また部隊によってカットが決まっていた訳でもありません。
なのでレンジャー部隊でも、インビジブル迷彩の上衣主に空挺型が使用されていました。


その2:ド・カオ・チ中尉の夏季勤務服(1951~1954年頃)


過去記事『作成中の服』で書いた、1950年代前半のド・カオ・チ大将(当時中尉)の夏季勤務服再現のために、ベトナム陸軍中尉の階級章(略式肩章)を自作しました。
当時の階級章は、ベトナム陸軍で最初に制定されたもの(1949~1955年)で、将校はフランス軍と同一のデザインでした。(過去記事『ベトナム陸軍の帽章・階級章』参照)


その3:タイ王国タハーンプラーン513部隊(1980年代前半)


すでに被服・装備類は最低限は揃っていますが、それに加えて、当時使用例の多い止血用ゴム管を56式弾帯のベルトに追加しました。



おまけ:ベトナム陸軍第3空挺大隊(1954年)

このカッコいい写真、昔から持っていたけど、よく見たら手持ちの物だけですぐに再現できる。
今度この軍装で写真撮ろっと。
  


2023年04月05日

タハーンプラーン計画その3

前記事

その後いろいろ物が集まり、80年代タハーンプラーン計画が大詰めを迎えました。

まずは先日来日したタイの友人にお願いしてタイで買ってきてもらったNanyangのスニーカー。


タハーンプラーンは国軍ではなく、タイ王国政府に所属する独立した準軍事組織なので、必ずしも国軍と同じ装備を使っているわけではありません。特にタハーンプラーンが発足して間もない1980年代は、予算が少なかったせいか、民生品が多く使われていました。
その中の一つが、タイの靴メーカーNanyangのスニーカーです。特にこの白一色のものは、タイでは一般的に『学生靴』と認識されているそうです。また同じものが日本ではセパタクロー用として売られているようですね。
靴はこれ以外にも、中国軍キャンバスブーツ(解放靴)やアディダスのスニーカー、サッカー用スパイクシューズの使用例も多々見られます。


その2 サッカー用ソックス


当時のタハーンプラーンで多く見られるのが、パンツの裾をサッカー用ソックスに入れるスタイルです。
これも民生品なので様々な色の物が用いられましたが、僕はコスプレするにあたり、単に色合いがカッコいいからという理由で紫色を着用する事にしました。
しかしこの紫色が曲者で、意外な事に、どんなに探しても当時と同じ白3本線の紫ソックスが見つかりません。もう海外のAmazonとかも探したのに全然売ってません。
諦めかけたその時、とある日本のスポーツ用品メーカーのサイトに、僕が探し求めていたデザインの紫色ソックスを発見!しかしそのサイトには、個人への直販は行っていないと書いてありました。でも諦めきれない僕は無理を承知でその会社に頼み込み、なんとか売ってもらうことに成功しました。
ご迷惑をかけてはいけないので会社名は控えさせていただきますが、感謝の念に堪えません!(先方も、なぜそこまで紫色にこだわるのか不思議だっただろうな)


その3 ファーストエイドドレッシング(包帯)


これはまだ確定ではないのですが、当時の写真にはファーストエイドドレッシングと思われるOD色のビニールに包まれた長方形の物体を、中国軍の56式弹匣袋の紐にテープで取り付けている例が多数見られます。
このドレッシング、売ってれば数百円で買える物なのに、なかなか在庫が見つかりませんでした。困って友人に相談したところ、友人から90年代の米軍の物を譲ってもらいました。ありがとう!

理想のスタイルにかなり近づいてきました。


ちなみに当時のタハーンプラーンは、中国に支援されたタイ共産党軍の討伐に投入されていましたが、一方で使用する火器・装備は56-1式自動歩槍(AKS)、56式機槍(RPD)、56式火箭筒(RPG-2)など、中国製の物が制式装備とされていました。なかなか矛盾していますよね。
(その後1990年代に入ると陸軍と同じM16A1やHK33の配備が進みます)
  


Posted by 森泉大河 at 21:09Comments(0)1975-1989【タイ】

2023年03月11日

タハーンプラーン計画その2


上着に続いて、タハーンプラーン用のネッカチーフを作りました。材料費300円。


まだ一式は揃ってないけど、前回作った上着と合わせて自撮り。



僕が再現しようとしているのは1980年代のタハーンプラーンPCCS513(第513計画管理調整部隊)でして、その513部隊では隊員のほとんどがこの黒服と黒/赤のネッカチーフを着用しています。

PCCS513

一方、同じタハーンプラーンでも、第514部隊では、隊員は陸軍と同じタイ国産リーフ迷彩服を着ており、またネッカチーフは無しか、もしくは緑単色を着用している写真をよく見ます。

PCCS514

という事は、黒/赤ネッカチーフは513部隊の制服/識別色という事なのかな・・・。
まだ調べが足りないので結論は出さないでおきます。

  


Posted by 森泉大河 at 23:56Comments(0)自作グッズ1975-1989【タイ】

2023年03月01日

80年代タハーンプラーン計画

※2023年3月15日更新

前回の記事で3着作成中と書きましたが、さらにもう一着、作成が進みました。

素材はアルファ社の米軍ユーティリティ裁断の黒い服。


これのポケットを四角く改造して、2015年にタイの友達にもらったパッチを縫い付け。


1980年代のタイ王国タハーンプラーン部隊(陸軍の傘下にある準軍事国境防衛組織)という設定です。

ベレーは現在タイ売っているPX品の陸軍/警察ベレーを使用。



現状で全体の7割くらいは揃いました。


ライフルは中国製の56-1式(プレス加工タイプ)が主だったようですが、当面はAKS-47で代用するつもりです。

僕はこの20年くらい、「1946-1975年のインドシナ諸国」と範囲を決めて軍装を集めてきましたが、今回この枠を初めて超えて、80年代のタイ軍装に挑戦しています。
僕にとってはかなり新しいチャレンジなので、久しぶりにウキウキしています。
早く一式そろえてタイの友人たちに写真を送ってやりたいです!
  


Posted by 森泉大河 at 23:59Comments(0)1975-1989【タイ】

2022年04月13日

夕陽之歌

※2022年4月14日更新

今回ベトナム紀行はいったんお休みして、最近マイブームの『夕陽之歌』について。

夕陽之歌は近藤真彦の『夕焼けの歌』香港の国民的スター アニタ・ムイ(梅艷芳)が広東語でカバーした曲で、映画『アゲイン/男たちの挽歌III(英雄本色III)』の主題歌でもあります。

(僕は映画の方でこの曲を知ったので原曲が近藤真彦のものだったと知ったのは実はつい最近の事でした笑)



先日この映画を見直していたら、無性に夕陽之歌をカラオケで歌いたい衝動に駆られてしまったのです。
英雄本色III自体についもいずれ記事にしなくてはと思っていますが、まずは大好きな主題歌を歌えるように練習しました。

しかし当然僕は広東語はできないので、歌詞に仮名が振ってあるサイトがないか、インターネットで探したのですが、ヒットしませんでした。
なので仕方なく自分で仮名を振る事に。
まず、歌をそのまま聞いただけでは発音があいまいで聞き取れない部分が多いので、歌詞を細かく区切って、こちらの広東語読み上げツールで文節ごとに発音を確認(カタカナ化)します。
その上で、実際にアニタさんが歌っている声を聴き、機械読み上げでは表現されない、歌う上での発音に近付くよう修正しました。
こうして自分用に作ったカタカナ歌詞が以下になります。


夕陽之歌
作詞:陳少琪    作曲:Kohji Makaino

――――――――――――――――――――前半――――――――――――――――――

ツェーユモハン   モノイズィ ヤセガッツァラン
斜陽無限       無奈只一息間燦爛

チョイワン ハーチサン  ツァホイテイ コンツォイファッフォワン
隨雲霞漸散        逝去的光彩不復還

チーチミンユー  ナンノイツェー ヤッサンテンピワン
遲遲年月     難耐這一生的變幻

ユファー ワンチョイサン チビーツェー  ツォソンテーグナー
如浮雲聚散         纏結這滄桑的倦顏

マンチェロウ ツァココイラトイガン
漫長路      驟覺光陰退減

フニャンチョティンツォン メチョイファン
歡欣總短暫未再返

ナコホトウォーモスン シーペンタン
哪個看透我夢想是平淡

ツァンユーシャティトー フンユファン
曾遇上幾多風雨翻

ピンツェモーカウ チョーモワン
編織我交錯夢幻

ツァンユーネイツァンサーン テイペイワン
曾遇你真心的臂彎

オウォーツァ コーワンナン
伴我走過患難

ファンコチョンサン フイータン
奔波中心灰意淡

ロサファンユーホーチー ツォイヤッファン
路上紛擾波折再一彎

ヤッティン スントホイーホイターイマーン
一天想到歸去但已晚

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(間奏)


(前半繰り返し)

(間奏)

啊・・・ 

ティンサンクータンテイウォーサンノタン
天生孤單的我心暗淡

ロサンフォンスンホーシウ ツォイヤッファン
路上風霜哭笑再一彎

ヤッティンスン スントホイーホイターイマーン
一天想 想到歸去但已晚

――――――――――――――――――――後半――――――――――――――――――

ツァンユーシャティトー フンユファン
曾遇上幾多風雨翻

ピンツェモーカウ チョーモワン
編織我交錯夢幻

ツァンユーネイツァンサーン テイペイワン
曾遇你真心的臂彎

オウォーツァ コーワンナン
伴我走過患難

ファンコチョンサン フイータン
奔波中心灰意淡

ロサファンユーホーチー ツォイヤッファン
路上紛擾波折再一彎

ヤッティンスン スントホイーホイターイマーン
一天想 想到歸去但已晚

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(後半繰り返し)

歌詞が出来たら、あとは原曲を聴きながら練習するだけ。
数日練習したら、ある程度歌えるようになったので、香港人の友人に見せるために動画を撮りました。


つたない発音ですが、日本人が香港の歌を歌っている事には喜んでもらえたので良かったです。

実は僕は以前から、香港映画の影響で何曲か広東語の曲を練習しており、すでに以下の3曲は歌えるようになりました。


考えてみると、歴史趣味ではベトナム一辺倒な僕だけど、映画や歌などのカルチャー面では香港が大好きみたいです。
だからその分、2019年の香港民主化デモの時は、北京の中共政府に立ち向かう若者たちを心から尊敬した一方、香港社会の仕組みそのものはまんまと中共に飲み込まれたという現実に、かなり暗い気持ちになりました。
かつてジャッキーが演じた香港警察が、いまや北京の犬・・・。
これはある面では、香港人の民心が低きに流れて中共側に傾いた結果でもあるので、単に香港全体を被害者と見るつもりはないのですが・・・。
中国しかり、ベトナムしかり、ロシアしかり。人の心の弱さにつけ込み、気持ちの良い情報を与えて大衆を蒙昧にし、利用するのが独裁政権だという事を改めて認識させられました。
  


Posted by 森泉大河 at 09:50Comments(2)2010年代・現在1975-1989【中国】音楽言論

2020年02月22日

タイ土産?

今日仕事から帰ったら、家にタイからのエアメールが届いていました。

ん?何も聞いてないぞ。

差出人は、いつも日本やタイで遊んでくれている、タイの軍装趣味の友人でした。

封筒を開けてみると、中には何のメッセージも無く、ただタイ語のネームテープと徽章が入っていました。


ああ、そう言えば先月彼が仕事で日本に出張で来た時、二人で上野のアメ横で飲んで、その後銭湯に入ってきたんです。


その時確か、彼が「ごめん、お土産忘れちゃった。後で送るよ」と言っていたような気がします。
たぶんこの徽章類は、その事だと思います。
そんな、気にしないでいいのに。ありがたや。

すぐに彼にお礼のメッセージを送り、ついでに「ネームテープには何て書いてあるの?」と聞いたら、
この文字は『タイガ・モリイズミ』のタイ語表記であり、僕のためにわざわざネームテープを刺繍屋で作ってくれたそうです!
うわー、嬉しい!

タブの方は、左がタイ陸軍歩兵科兵科章、右が第6歩兵師団だそうです。

もともとベトナム共和国軍を専門としている僕は、、ちょっとした浮気気分で、ラオス内戦中、米国CIAと共にラオス王国軍(実質的には右派モン族軍閥)を支援・指揮していたタイ国境警備警察PARU(空挺支援隊)と、
1980年代のタハーンプラーン(国境地帯の防衛、共産主義勢力掃討のために組織された準軍事民兵組織)のコスプレをしてみようと思い、徽章類をちょっとずつ買っていました。
しかしそれらに加えて、タイの友人と遊ぶ度に何かしら徽章類をプレゼントされるので、服に取り付けられるのを待っているタイ軍関係の徽章がどんどん増えていっています。


なんかもう、お土産って言うよりは、「あげたんだから使ってね」という無言の圧力すら感じます。
ベトナムの方も改造・縫い付け待ちの服がたまっていますが、タイの方も、そろそろちゃんと服を作らねばなりませんね。
  


Posted by 森泉大河 at 23:21Comments(0)1954-19751975-1989【タイ】

2018年10月08日

タイからのお土産

バンコクでのコスプレ撮影会など、いつもタイで世話になってる友達4人が日本に遊びに来たので、彼らの旅に二日間同行してきました。
友人の内一人は以前日本に留学しており、東京の地理に(僕よりも)詳しく、日本語も話せるので、僕は案内役ではなく、ただくっついていっただけです(笑)
いろいろ行ったので、何回かに分けて記事にしていきます。

まずは初日にもらったお土産。
タイ陸軍レンジャー学校Tシャツと、タイ軍自由市民防衛章(第二級第二種)


自由市民防衛章はタイ国内の共産ゲリラとの戦いで功績を挙げた人物を表彰する勲章です。

他にもタイの国章ガルーダのブローチと、タイの若者で流行っているというアロハシャツ風のトロピカルな柄のTシャツをもらいました。
あとついでに、彼らが成田に着いた際に、免税店でタバコも買ってきてもらいました。日本じゃまた煙草が増税され、僕の吸ってる銘柄はついに1カートン5000円に達したので、たまったもんじゃありません。免税店だと1カートン当たり2000円も安い事になるので、「何か買って行こうか?」と聞かれた際、まっ先にお願いしておきました。まぁ、煙草はどんなに値段上がっても止めませんけどね。こうなりゃ意地です。

タイと言えば、今僕は1980年代のタハーンプラーン(タイ陸軍レンジャー対ゲリラ・国共防衛部隊)の軍装を揃えようとしていますが、完成度はまだ50%も行っていません。
※英語圏ではタハーンプラーンを「レンジャー」と意訳している例が多く見られますが、実際にはタイ陸軍レンジャー部隊は別に存在しているので、ケネス・コンボイ先生より、「タハーンプラーンとレンジャーは全然別物だから混同しないで」とご指摘いただきました。


▲この写真で着てる黒シャツは家にあったただの私服

やはり僕の関心のメインは第2次インドシナ戦争なので、現段階でベトナム、ラオス、カンボジア軍を並行して集めている以上、タイ軍は予算の都合上後回しになっています。
とは言え、どうせイベントで着る予定も無い本当に個人的なコスプレなので、ゆっくり集めていきます。
  


2018年08月19日

あるベトナム残留日本人と家族の漂泊

※2019年11月28日加筆訂正


 1945年(昭和20年)8月、日本政府は連合国のポツダム宣言を受託し、第二次世界大戦・大東亜戦争は日本の敗北によって終結しました。この時点で中国・満州・朝鮮・台湾そして東南アジア各地には日本陸海軍の軍人・軍属が約330万人、日本人民間人が約330万人、合わせて約660万人が進駐・居住していました。そして終戦後、日本政府・陸海軍にとって目下最大の課題は、この660万人という途方もない数の在外軍人・邦人を無事本土に帰国させる事となりました。この外地からの引き揚げはまるで民族大移動の様相を呈しており、現地では急激な治安の悪化、略奪、飢餓、家族の生き別れなどが大量に発生し、それは戦時中以上に壮絶なものだったたと伝え聞きます。
 その一方で、終戦に伴う帰国命令を受けた後も、ごく一部の日本軍将兵や民間人は日本への帰国を拒否して各地に留まり、個人的な意思で現地の紛争に参加していた事は割と知られた話だと思います。私がベトナム人協会への取材でいつもお世話になっている(宴会で僕が酔っぱらう度に家に泊めさせていただいている)サイゴン出身の女性Aさんは、この時ベトナムに残ってベトミン軍に参加した元日本陸軍兵士M氏の娘さんであり、M氏とAさんらご家族の辿った過去を詳しく伺う事が出来ました。ただし、Aさんが生まれたのはM氏が第一次インドシナ戦争終結後に南ベトナムに移住した後なので、Aさん自身はベトミン軍時代の父を直接は知りませんでした。ところがその後、関係資料を調べていたらベトミン軍時代のM氏の足跡が多少判明したので、Aさんから許可を頂いたうえでここに概要を記します。
 なおM氏は既に他界されていますが、娘さんやご親戚は現在も日本で生活されているので、個人名は控えさせていただきます。また、この記事はAさんの証言および、ある大学教授が日本に帰国した多数の元ベトナム残留者に聞き取りを行った報告書を出典としておりますが、M氏を始め、多数の人物の実名が載っておりますので、ここでの公表は差し控えさせていただきます。出典を確認されたい方はコメントにて、メールアドレスと共にその旨をお知らせください。個別にご連絡させて頂きます。


日本軍出奔とベトミン軍への参加

 Aさんの父M氏は第二次大戦中、日本陸軍第22師団第86歩兵連隊に所属する一兵卒であった。1945年8月、同連隊が中国広東省から南下し、ベトナム・ハティン省の省都ハティンに宿営している時に、M氏らは日本敗戦の知らせを受けた。この直後、同じ部隊の中から、日本軍を離れてベトミンに合流しようという声が上がり、M氏を含む10名が同意したという。そして終戦1ヶ月後の1945年9月のある晩、彼らは2ヶ月分の米と小銃弾2,000発を用意し、歩哨を「朝まで黙っていろ」と脅かして部隊から脱走した。

 ハティンの海岸に着いた彼らが満潮時刻を待って舟を出そうとしていたところ、日本兵脱走の知らせを受けたのか、ベトミン政府*が任命したハティン省知事レ・ズン(のちの国会議員)が通訳を連れて現れ、彼ら脱走日本兵に、ベトミン軍の軍事顧問役を依頼してきた。M氏らはその要請を受け入れ、ハティン省北部のドクトー県へ移動し、そこで現地の地主の屋敷に迎え入れられた。ドクトー県には同様に軍を抜けた元日本兵が30名ほどおり、その内M氏のいた村には25名が集まっていた。
 ドクトー県到着から間もなく、M氏らはベトミン軍側から、フランス軍のナペ基地を攻撃してほしいと要請を受けた。現地のベトミン軍兵士はまだ基本的な訓練さえ修了していないほとんど素人の集団であったため、この第1回のナペ攻撃(9月)は事実上、日本人12名だけで行われた。攻撃は夜間に行われ、彼らはフランス軍基地を一時占拠し、大量の武器弾薬と食糧を奪うことに成功したが、この戦闘でM氏を含む3名が負傷した。
 その後、ナペでは1946年初頭に日本人20名、ベトナム人300名の部隊による第2回夜襲が行われ、作戦は成功したが日本人兵士3名が戦死した。続いて行われた第3回の夜襲は失敗に終わり、さらに3名の日本人が戦死した。
 なお、第1回ナペ攻撃で負傷したM氏がいつ頃前線に復帰したかは分かっておらず、今確認できている資料では、M氏はその後「フエ以南で戦った」とあるのみである。

※1945年後半の時点では、インドシナに駐留していたフランス軍部隊はまだ微々たるものでフランスはベトナム全土を再統治できておらず、8月革命によって成立したハノイのベトミン政権がベトナム民主共和国を名乗っていた。しかしベトミン政権側の軍事力はさらに貧弱であったため、その後フランス軍が続々と到着するとフランスは支配地域を拡大。1946年中に全土がフランスの施政下に戻り、ベトミンは政権を追われゲリラ組織としてフランスへの武力闘争を続けた。


ハティン省ドクトー県の位置
(区画は当時と異なる可能性あり)


ホー・チ・ミン政権からの脱出

 その後、第一次インドシナ戦争が激化する中で、M氏はベトナム人女性と結婚し、娘(Aさんの姉)を授かった。その女性は、ベトミン協力者であり、M氏ら元日本兵の世話をしていたハティン省の地主の娘であった。その後1954年までにM氏はベトミンの軍務から離れ、ハティン省で一般人として生活していた。
 ところが1954年、第一次インドシナ戦争がベトミンの勝利に終わり、ハティン省を含む北緯17度線以北(北ベトナム)がホー・チ・ミン/ベトナム労働党の支配下になると、M氏の義父は、それまで命がけでベトミンに協力していたのにも拘らず、共産主義思想に基づき、ただ「地主である」という理由で粛清の対象とされた。義父は危険を察知し、M氏に娘と孫を連れて日本に逃げるよう促した。その直後、義父は人民裁判にかけられ、「反動分子」としてハティン市内を引き回された後、政治犯収容所に送られ、二度と帰ることはなかった。この地主階級の粛清「土地改良」を含む一連の共産主義革命によって、北ベトナム領内では1954年から1956年にかけて10万人以上の人々がホー・チ・ミン政権によって虐殺されたと言われている。

 日本帰国を決意したM氏は、妻に家を引き払うよう命じ、船を確保するため一人先行してハイフォンの港に向かった。しかしハイフォンに着くと、日本行きの船は既に出航した後だった。その後すぐに妻と娘たちもハイフォンに到着したが、すでに家は引き払った後であり、帰る場所は無かった。その時ちょうど、ホー・チ・ミン政権から逃れるため南ベトナムに脱出する難民を運ぶ船に空きがあったため、M氏一家は南ベトナムで出直す事に決め、サイゴンに移住した。

※ジュネーヴ協定により北ベトナムにホー・チ・ミンの共産主義政権が成立した事で、北ベトナム政府による迫害・虐殺から逃れるため、約100万人のベトナム国民が1954年から1956年にかけて北ベトナム領から南ベトナムに脱出した。共産主義者(ベトコン)に家族を殺され、故郷を奪われた人々の共産主義に対する憎しみは深く、後のベトナム戦争では、この時南に移住した北部人勢力が率先して北のホー・チ・ミン政権打倒を主張した。


フランス・アメリカ海軍によるベトナム国民の北ベトナム脱出・移送作戦『自由への道(Passage to Freedom)』

サイゴン郊外に設置された北ベトナム難民キャンプ [1954年]


サイゴンの日本人コミュニティ

 南ベトナムに移住したM氏一家はその後の20年間、サイゴンで比較的穏やかな生活を送った。1960年代に入ると南ベトナム国内の共産ゲリラ(解放民族戦線)によるテロ活動や北ベトナム軍の南侵によってベトナム戦争が激化したが、幸いにも一家は戦闘に巻き込まれる事なく終戦を迎えたという。Aさんはこのサイゴン移住後に生まれた末っ子だった。
 またサイゴンにはM氏と同様に、かつてベトミン軍に参加していた元日本軍人や、戦前からサイゴンに住んでいる日本人商人・技術者が少数ではあるが居住していた。彼ら南ベトナム在住日本人は互助会『寿会』を結成しており、M氏もこれに参加した。第一次インドシナ戦争終結後、アメリカの支援を得て経済発展を続けていた南ベトナムには西側諸国の企業が進出を始めており、日本も例にもれず南ベトナムにおいて事業を展開していた。寿会のメンバーは、こうした日系企業の現地社員・通訳・コンサルタントなどを務める者が多く、M氏も日系の製糖会社に勤務した。
 また寿会は、明治時代に単身ベトナムに渡り、以後半世紀以上に渡ってフランスや日本軍による妨害に遭いながらもベトナム民族解放と独立を援助し続けた日本人実業家 松下光廣(1896-1982)がサイゴンで経営する『大南公司』と深い関係を持っていた。南ベトナム政府と日本政府は松下の仲介で第二次大戦中の賠償に関する交渉を行い、日本政府は賠償金としてベトナム最大の水力発電所ダニム・ダム建設の費用を提供した。M氏は日系の建設会社に転身し、松下と共にこのダニム・ダム建設事業に従事した。これ以降、M氏と松下は家族ぐるみの付き合いとなっていった。
 幼いころのAさんにとって、当時のM氏はいつも厳しい父親であった一方で、寿会の日本人たちと日本の歌謡曲を聞きながら酒を飲んでいる時だけは、M氏は涙を流して日本を懐かしんでいたという。

1964年に完成したダニム・ダム(ダニム水力発電所) [写真:日本工営]


 

ベトナム共産党政権による追放

 1975年4月30日、北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴンを制圧し、ベトナム戦争は共産主義勢力の勝利に終わった。こうしてベトナム全土がハノイのベトナム共産党政権の支配下に堕ちると、旧南ベトナム国民は大変な困窮に見舞われた。M氏一家も例外ではなく、すでに戦争末期には日系企業が撤退していたため、M氏は別の仕事を探すしかなかった。松下も大南公司の資産の全てを政府に没収され、明治以来幾度もの苦難を経験しては復活を果たしてきた大南公司は完全に解体された。
 さらにベトナム共産党政府は1978年に、全ての外国人を国外追放する事を決定した。かつてベトミン軍の一員として命がけでフランス軍と戦ったM氏も、外国人であるという理由で国外追放となった。一時は日本への帰国を目指していたM氏だったが、ベトナムに住んで既に30年以上が経過しており、国外追放はそこで築いた友人・仕事・財産の全てを失う事を意味していた。また妻や娘たちは日本語がほとんど分からず、日本での生活に順応できるかも心配された。
 こうしてM氏一家は、他の日本人・外国人住民らと共に国外に船で移送され、M氏は難民として30年ぶりに日本に帰国した。帰国後一家はM氏の生まれ故郷の町に移り住み、M氏は会社員として平穏な余生を送った。来日した当時14歳だったAさんも苦学の末日本語を習得し、現在は日本国内でベトナム語通訳の仕事をしている。
 なお、M氏も松下も既に他界されているが、互いの親族同士の交流は現在も続いているという。




筆者の見解

 私はM氏を含むベトミン軍に参加した元日本兵たちの足跡が日本国内のメディアやインターネットで紹介されるのを目にする度に残念な気持ちになります。なぜならば、それらの紹介の仕方、あるいは紹介する目的は初めから、何らかの思想・主張を肯定するための道具として都合の良い部分だけ切り取られ、いいように利用しようとしているものばかりだからです。
 具体的には、ある時は日本が東南アジア侵攻の大義名分に掲げた『アジア解放』が偽りのない崇高な精神だった事の証拠として。またある時は、欧米の帝国主義に立ち向かいベトナム『解放』を後押ししたものとして。日本国内では右派・左派双方が長年、彼らの戦いを美談として祀り上げ利用してきました。また現在のベトナム共産党政権も、気前よくODAをくれる日本政府におべっかを使うため、この話を『日越友好』を標榜する材料の一つとして利用しています。
 しかし私は「日本軍は戦後もベトナム独立のためにフランスと戦いました。ベトナム人はその恩を忘れません。」というような日本国内で流布されている認識は、最初から美談として利用するために日本人にとって都合の良い、気持ちの良い部分だけを寄せ集めた虚像だと考えています。以下がその理由です。

・日本政府はアジア解放を謳う一方で、インドシナに関してはドイツ・フランスとの関係を優先しており、日本軍は1941年の北部仏印進駐以来4年間、フランスと合同でベトナムを支配する側にいた。ベトナム独立勢力に対しても、彼らを支援するどころか、妨害・取り締まりを行っていた。(ただし、下記の明号作戦に動員する目的で、親日的な独立勢力への接触は松下の大南公司を通じて進駐直後から水面下で始まっていた)

・1945年の明号作戦は、戦局の悪化から連合国側に寝返る可能性のあるインドシナ総督府・フランス軍を排除する事を目的とした日本の利益の為の軍事行動であり、ベトナム独立を目的としたものではない。

・ほとんどのベトナム国民は明号作戦の後に日本が擁立したベトナム帝国政府を日本の傀儡政権と見なしていた。なので日本敗戦後に行われたベトナム帝国政府の解体とベトナム民主共和国の独立宣言=8月革命を真のベトナム独立と見做し沸き立った。

・終戦後も日本陸軍の組織および軍法は正式に存続しており、個人の意思で隊を離れる事は脱走、また武器弾薬被服装備を持ち出す事は横領にあたる。したがってベトミンに参加した彼らは国家の命令に従った『日本兵』ではなく、あくまで個人の思想によって行動した『元日本兵のゲリラ』である。

・そもそも第一次インドシナ戦争は、残留日本人が1945年にベトミンに参加した当初においては、ベトミンの敵はインドシナの再植民地化を目指すフランス軍であり、『ベトナム独立戦争』と呼んで差し支えない状況であった。しかしフランス側が譲歩し1948年にベトナム国の独立を承認してから(つまり戦争中期以降)は、ベトナム国政府はベトミン政権を拒否する民衆から一定の支持を得ており、フランス連合軍の人員の7割が現地のインドシナ諸国の兵士(そして全体の5割がベトナム国軍)となるに至る。こうして第一次インドシナ戦争は当初のフランスからの独立戦争という単純な構図から、次第にフランス連合に残留して段階的な独立を目指す穏健派のベトナム人(ベトナム国政府)と、フランスの影響力およびベトナム国政府に好意的な人間を徹底排除し共産主義政権樹立を目指す過激派ベトナム人(ベトミン)というベトナム人同士の内戦へと変化していった。

・残留日本人たちは、当初ベトミンが掲げていた純粋な民族解放という理想に共感しベトミンに参加していたが、ベトミンが中国共産党からの支援への依存度を増すにつれて組織全体が共産主義体制に変質し、同じベトミン内の戦友・支援者までもを反革命分子として粛清していくのを目の当たりにした事で違和感を増していった。しかし戦争遂行に深く関わり過ぎており、途中で組織を抜ける事は出来なかった。

・残留日本人の多くはベトナム独立の理想とベトナム人戦友たちへの愛情を変わらず持ち続けたが、同時に戦争中期から戦後の1950年代全般にかけてベトミン・ベトナム労働党が行った急激な国家改造・共産主義化(土地改良に始まる弾圧・大量虐殺)には批判的であり、複雑な心境を伺わせる証言を残している。

・フランスや日本軍による妨害に遭いながらも身の危険を顧みずベトナム民族の解放と独立を援助し続けた松下光廣は、ホー・チ・ミンとベトミンを民族解放の志士とは見ておらず、むしろベトミンの暴力革命を「共産分子のテロ」と強い言葉で非難している。


 まとめると、彼ら残留日本人の多くは、現地で独立を渇望するベトナムの民衆の想いを間近で感じ、同じ人間としての共感しており、こうした人情の上に敗戦のショックと敵の占領下の日本で生きる事への不安・抵抗が重なり、彼らは日本軍人としての身分を捨て、フランス軍との戦闘に身を投じました。
 しかし彼らが協力したベトミンは、そんな残留日本人たちの意志とは無関係に、その目標を『独立』から『共産主義革命』へと変えていきました。また敵であるフランス軍も、当初の再植民地化を目指す『白人帝国主義者』から、フランス連合の枠内での独立に甘んじようとも共産主義政権は阻止したい『フランス連合派ベトナム人』へと変わってしまいました。
 最終的に戦争はベトミン側の勝利に終わり、残留日本人たちは北ベトナムの独立に貢献した事になりましたが、それは同時にベトミンによる共産主義革命・大量虐殺などを許す事となり、残留日本人たちが目指していたベトナム民族の解放と平和とは程遠い結果を招いてしまったと私は見ています。
 多大な犠牲を払いながらこうした結果に終わり、彼らの心中は察するに余りあります。しかしだからこそ、「ベトナムは独立して人々は幸せに暮らしました、めでたしめでたし」で終わる訳にはいかないのです。私の意図は、彼ら残留日本人を共産主義革命の協力者として非難する事ではありませんし、まして「日本人がアジアを解放した」などと恥知らずな自慰行為に利用する事でもありません。
 人間の歴史、特に戦争に関する部分は、常に後世の人間によって何らかの意図をもって都合よく切り取られ、利用されがちですが、私はそれに抗いたいのです。この戦いに限らず、人間が理不尽に命を奪い奪われる最悪の惨事を、見たい部分だけ見て喜び、見たくない部分には目を背ける、そういった人間の生命・人生に対して不誠実な姿勢を私は軽蔑し、否定します。
  


2016年08月18日

ベトナム戦跡めぐりダイジェスト

お盆休み中、ブログ書く時間は沢山ありました。
ところが去年から調子の悪かった自室のエアコンがついに本格的にイカれてしまい、冷えないどころか逆に熱風が噴き出るようになってしまいました。ダメだこりゃ。
もう暑くて部屋に居られないので、必然的にパソコンをやる機会が減っています。この記事書いてる今現在も汗ダラダラ。
なので、先月のベトナム紀行について書きたいことは山ほどありますが、詳しい記事は涼しくなったらにします。
とりあえず忘れる前に、戦史めぐりとして周った場所をダイジェストで。

トゥックズップ丘陵(Đồi Tức Dụp)

現在は革命戦争の戦跡として歴史公園になっています。射撃場があったので念願のM16A1をフルオートで撃ってきました。

チャウドック省(現・アンザン省)トゥックズップ丘陵/コートー山戦うベトナム陸軍第9歩兵師団兵士 [1970年11月]



クチ・トンネル (Địa đạo Củ Chi)

ベトナム観光のド定番、クチにも行きました。
射撃場でライフル撃ってたら、友人が「ちゃんとメンテしてあるかな?」とか言って、勝手にAK (中国製56式小銃輸出型)を分解してて笑えました。(注・良い子はマネしないでね)
ちなみにここは外国人観光客に人気のスポットだけあって、弾の値段はトゥックズップの4倍。ボッてるなぁ。もったいないのでフルオートでは撃ちませんでした。

あと、銃を選ぶ際、M16ライフルがAR-15と書いてあるのはまだ分かるけど、M1919A4機関銃がM30という名前になってるのはどうかと思う。"Cal.30"をモデル名と勘違いしたんだろうけど。



国道1号線ビエンホア街道 (Quốc Lộ 1)

▲政府軍と共にビエンホア街道で戦う民兵たち [1975年4月末]
4月21日のスンロク陥落以降、共産軍は国道1号線からのサイゴン突入を試みます。ビエンホア街道では周辺に住む住人たちも銃を取り、民兵として敵のサイゴン突入を阻止すべく戦いました。
友人曰く、戦後サイゴンでは多数の市民が山岳地帯に強制移住させられ、現在でも街全体で政府による思想統制が厳しいが、一方でビエンホア街道周辺の集落では強制移住は行われなかったため、現在でもハノイ政府を嫌っている住民が多いとの事。確かに、サイゴンでは街中にあふれていた金星紅旗と共産党旗が、街道沿いの家々にはほとんど掲げられていませんでした。


新港橋 (Cầu Tân Cảng)

国道1号線でスンロク~ビエンホア~サイゴンと移動し、1975年4月の足跡を辿りました。
なお、この橋のある位置は1975年以前と同じですが、現在のサイゴン橋は90年代に建て直されたものです。


▲サイゴンに通じる国道1号線最後の橋、新港橋(ニューポートブリッジ)を守る空挺師団第12空挺大隊 [1975年4月28日]



総参謀部 (Bộ Tổng Tham Mưu)

現在は人民軍第7軍管区司令部となっています。(現地で写真撮ってないので、画像はGoogleストリートビューより)
 
▲ベトナム共和国軍総参謀部正門 [1975年以前]



独立宮殿 (Dinh Độc Lập)

外からの写真はネットでいくらでも見る事ができますが、内部をじっくり見る事が出来たのは貴重な体験でした。
しかし、もし仮にベトナム共和国が現在まで存在していたら、こうして一般人が内部に入る事など出来なかった訳で、少々皮肉に感じました。

 
▲2階の庭園でフランスメディアのインタビューに答えるグエン・バン・テュー総統 (https://youtu.be/2kQZxgjCPjg?t=3m40s)


バチュク祠墓 (Nhà Mồ Ba Chúc)

 
 ベトナム戦争終結後の1978年、かねてよりベトナムと領土・民族問題で対立してきたカンボジア(ポル・ポト政権)がベトナムに軍事侵攻した際、国境から3kmほどの位置にあったバチュク村のベトナム人住民3000人以上がカンボジア兵に殺害されるバチュク村虐殺事件が発生しました。ここは、その時の犠牲者の遺骨を安置・供養する祠墓です。
 このバチュク村の事件はベトナム国民に、カンボジアへの非常に強い敵愾心を抱かせ、現在でも祠墓の隣にはカンボジア兵がいかに残虐な行為に及んだかを展示した資料館が併設されています。一緒に参拝した私の友人も、ベトナム人としてポル・ポト派への憎しみを露わにしていました。
 確かに、こうして大量の遺骨を前にすると言葉に詰まるものがあります。しかし私はベトナム人ではないので、外国人として、一歩引いた目線で見る必要があると感じました。
 カンボジア軍の侵攻後、ベトナム人民軍は報復としてカンボジア領に侵攻し、カンボジア・ベトナム戦争に発展。ベトナム軍はプノンペンを占領し、カンボジアに殺戮の嵐をもたらしたポル・ポト政権を崩壊させますが、ベトナムが擁立した新政権(ヘン・サムリン政権)を拒絶するカンボジアの反ベトナム三派は新政府とカンボジア駐留ベトナム軍を攻撃し、カンボジアは再び長い内戦の時代を迎えます。
 一見ベトナムは正当防衛を行ったかのように見えますが、中越戦争に至った中国との緊張を背景に、カンボジア・ベトナム戦争終結後もベトナム人民軍がカンボジアに駐留し、カンボジアに干渉し続けたが為にカンボジア内戦が長期化した事は周知のとおりです。その間のカンボジア国民の犠牲者数は、バチュク村の比ではありません。この事件は結果的に、カンボジアに干渉する口実を欲していたベトナム共産党政府にとって願ってもない宣伝材料となり、だからこそ今こうして立派なモニュメントが建設されている訳です。
 一方で、現政府にとって不都合な事件、例えば1954年にホー・チ・ミン政権が自国領内の地主階級を1万人以上処刑した大粛清や、10年以上続いたベトコンによる一般市民へのテロ・虐殺などについては、犠牲者を追悼するどころか、全て無かった事にされています。この国では、歴史は政府の都合で決まるのです。
 それを踏まえた上で、私は同じ人間として、不幸にも命を奪われた無辜の人々をただひたすら追悼しました。と言うか、それ以上の事はしてはいけないと思っています。これはベトナムに限らず、こういう惨たらしい事件をここぞとばかりに宣伝に使い、新たな惨劇を欲するあらゆる勢力への、私にできる精一杯の抵抗です。

 
  


2015年10月04日

タイで買った物

※2023年3月15日更新

載せるの忘れてたのでリストアップしておきます。

・民生ダック迷彩ベースボールキャップ(ビンテージ生地リメイク)
民生インビジブルリーフ迷彩ベトナム軍パンツ(新古品)
・タイ陸軍ベレー(新品)
タイ タハーン・プラーン SSI兼ベレー章(新品)
・タイ軍アーモバンダリア(60~70年代)
・タイ警察ベレー(新品)
・タイ警察空挺資格章3級(新品)
タイ軍/警察 黒色ベースボールキャップ(新品)
・民生レンザティックコンパス(新品)

タイの友達から記念にもらった物

タイリーフ迷彩アーモベスト(70~80年代)
タイ タハーン・プラーン513部隊 SSI(新品)
タイ タハーン・プラーン "勝利者"タブ(新品)

 見ての通り、タイ軍メインで買ってきました。ナム戦関係での収穫は、程度の良い民生インビジブルリーフのパンツと、タイ軍・警察向け黒キャップくらい。キャップはベトナム共和国軍コスプレに使うため何年も前から代用品を探していましたが、今回ようやくタイで見つけることが出来たました。なにげに今回一番のレアアイテムなので3個ばかし買ってきました。
 あとは大した物見つけることは出来ませんでした。十数年前に豊〇先生が仕入れしていた場所も周りましたが、やはりベトナム戦争時代の物はほぼ全滅ですね。どこ行っても韓国軍の90年代放出品ばかりです。ナム物は、有ったとしても普通のTCUとか、半袖短パンに改造されたERDLとか。また連中も知恵付けてるので、聞いてもいないのに「これベトナム物だよ」と売り込んできます。しかもeBay価格で(笑) 日本で買うよりは多少安いかも知れませんが、別に珍しい物は無かったし、ゴミとして二束三文で売られていた時代を知ってるので買う気にはなれませんでした。
 しかし幸いにも、丁度ラオス内戦や80年代のタイ軍に興味を持ったところだったので、タイ軍関係はそれなりに集まりました。ビンテージではありませんが、コスプレ用なのでこれで十分です。



おまけ 80年代タハーン・プラーン513部隊のカッチョイイ画像

 

そそられます
  


2015年04月17日

プノンペン陥落から40年

 今から40年前の1975年4月17日、クメール共和国(カンボジア)の首都プノンペンはカンボジア共産党軍クメール・ルージュによって占領され、1970年以来続いていたカンボジア内戦は一時終息しました。当時日本の一部メディアやベトナム反戦運動に熱心だった勢力は、ベトナムに先立って『アメリカ帝国主義者の傀儡政権が倒れ、カンボジア人民の真の解放が成された』と大いに賞賛したそうです。解放されたはずのカンボジア国民がその後、どれだけ凄惨な体験をするかなど知る由も無く・・・。

映画『キリング・フィールド』に描かれた陥落直後のプノンペン市内

※映画なんかで歴史を学んだ気になってはいけないけど、この作品は当時その場に居たシドニー・シャンバーグの体験に基づく物であり、ある程度信憑性のある再現VTRとして見る事もできます
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Posted by 森泉大河 at 18:23Comments(0)1954-1975News!1975-1989【カンボジア】

2013年12月07日

資料メモ

僕の趣味である南ベトナムや少数民族の歴史に関する本ってその辺の本屋や図書館にはなかなか置いてないので、何度か国会図書館に通って資料探ししてるんですが、さすがに日本最大の図書館。けっこう日本語の本も出てきますね。
興奮して色んな本から数十ページ分コピーしてきましたが、コピーするまでもない少量の記述に関してはメモしてきました。
そのメモを以下に記します。あくまでメモなので、雑多な状態ですが、興味のある方はどうぞ。
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2013年09月07日

CIDGの人々

※2022年6月28日更新

ベトナム戦争中、アメリカCIAが主導して南ベトナム領内に住む少数民族に軍事教練を施し、反共戦力として活用する
CIDG (Civilian Irregular Defense Group/民間不正規戦グループ) 計画を実行したことは、けっこう有名だと思います。
ただ、具体的にどういう人々がCIDGに参加していたか、そしてその計画がどういう終わり方をしたかについては意外と語られていないので、
簡単にまとめてみました。
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