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2025年01月02日

東洋漫遊記③フエ皇城

新年明けましておめでとうございます。
実は僕は12月のベトナム・ラオス旅で体力を限界まで使い切ったらしく、帰国したその日から風邪をこじらせて1週間以上出歩けない状態が続いております。
なので毎年恒例の氏神様での年越しもベトナム寺への初詣もできませんでした。
とは言え、本来グレゴリウス暦なんて日本人には意味のない暦なので、太陽太陰暦(旧暦)の正月に本来の初詣をすれば良いかなと思っております。

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以下、旅の記録の続き

フエではもちろん、ベトナム屈指の史跡であり観光地でもある、フエ皇城(ダイノイ)にも行ってきました。


ダイノイは阮朝ベトナム(大南国)の創始者 嘉隆帝(ザーロン帝)が新たな宮廷として1804年から建設を開始し、最後の皇帝 保大帝(バオダイ帝)が1945年に退位するまで約140年間使われた、阮朝の栄華と没落を物語る宮殿です。

ちなみにホー・チ・ミンの八月革命によって退位して以来国外に亡命していたバオダイは、1948年にベトナム国国長(国家元首)としてベトナムに帰国を果たしますが、ダイノイには戻らず、以後はダラット等のリゾート地で生活しました。そのため皇帝を警護するベトナム陸軍近衛大隊もフエではなくダラット駐屯です。

ダイノイは本当に素敵な場所で、何時間居ても飽きませんでした。
中では写真を撮りまくりましたが、全部紹介していると切りがないので、今回は僕が特に興味をひかれた部分を掲載します。


紫禁城と太和殿


ダイノイは中国北京の紫禁城を手本としており、宮廷の最重要儀礼を行う宮殿は中国と同じく「太和殿(Điện Thái Hòa)」という名前です。
もちろん古代中国から受け継がれ、日本の朝廷でも取り入れてきた「天子南面」の思想に基づき、ダイノイおよび太和殿も南側が正面となっています。
また、太和殿の後方(北側)にあり、皇帝一家と側室・女官・宦官が暮らす後宮エリアはズバリ紫禁城(Tử Cấm thành)」という名前です。
(本家中国の「紫禁城」は後宮だけでなく宮殿全体を指す)


太和殿の前には式典の際の廷臣の立ち位置を示す石の看板が立っていますが、そこに記された官位も中国と同じく正一品から始まるものです。

実はこの太和殿、老朽化によりかなりボロボロの状態になっていたそうで、2021年から解体を伴う本格修復が行われていました。
そして僕が訪れる約1月前の2024年11月、3年がかりの修復工事が終わった事を記念し、阮朝の朝廷儀式を再現した完成式典が行われました。



僕はこの修復工事の事を知らずにフエに行ったので、日にちが1か月早ければ太和殿はまだ工事中で中を見れないところでした。ラッキーでした。



ベトナム戦争期

一応教養として阮朝時代についても学んだものの、やっぱり僕が一番興味あるのはベトナム戦争期。
ダイノイは1945年のベトミンによる破壊に続いて、1968年にはまたしてもベトコンによるマウタン1968(テト攻勢)で激しい戦禍に見舞われボロボロに崩壊します。
そんなベトナム戦争期のダイノイと現在の比較写真を撮ってきました。


自分たちベトナム民族の財産たる史跡をこんなボロボロになるまで破壊できてしまうのだから、戦争は恐ろしい、いや、戦争は単なる結果であって、その根底にあるのは人間の正義感と憎悪。
正義に酔うのは簡単。憎悪に狂うのも簡単。しかしそれがどんな結果を生むか想像する力は、一朝一夕で養えるものではありません。
歴史を保存し学ぶ意義はここにあります。
  


2024年12月29日

東洋漫遊記②クオン・デ候の墓参り

※2024年12月31日更新

サイゴンでトニー君と遊んだ翌日、朝から飛行機に乗ってフエに移動しました。


フエでの最大の目的は、日本と深い因縁を持つグエン朝の皇族クオン・デ(Cường Để)の墓参りです。
クオン・デについては日本語の本が何冊も出ていますので読んでみてください。


クオン・デは1951年に東京で亡くなった後、遺骨は3ヵ所に分けて埋葬されたので、墓と呼べる場所も3ヵ所あります。
一つはクオン・デ自身が建立した東京の雑司ヶ谷霊園のチャン・ドン・フォンの墓クオン・デは東遊運動期に弟のように可愛がっていたフォンの墓に、死後自分の遺骨を合葬するよう遺言に残しました。ここは数年前にお参りしました。
残る二つは、故郷ベトナムのフエ、そしてクオン・デと深いつながりのあったカオダイ教の総本山(タイニン聖座)です。

この内、フエの墓の所在地についての情報はかなり限られていますが、一応Wikipediaベトナム語版には「thuộc tổ 10, khu vực 5, phường An Tây, TP Huế」という住所が載っていました。これをGoogle Mapで検索すると、この位置になります。

ベトナムの住所はかなりいい加減なので、たぶん一発で辿り着く事はないだろうと思いながら、とりあえずGoogle Mapで示された地点に向かいました。
フエ市街地からタクシーで20分くらいかけ到着すると、そこは高校生くらいの若い僧が住み込みで勉強する、割と立派な仏教学校でした。
そこでタクシーを待たせ、僧の方々にクオン・デの墓知りませんか?と聞いて回りましたが、誰も知りません。

この墓参りの動機の一つとなった本、『「安南王国」の夢(牧久著)』では、著者は現地のドライバーに「あまりクオン・デという名前を出さない方が良い。公安に目を付けられる」と警告されていましたが、実際には現地の人も誰一人クオン・デという人物自体を知らない気がします。

うーん、困った。
念のため再度Google Mapで「Mộ Cường Để (墓 クオン・デ)」と検索してみたところ、近くにヒットする場所がありました。

この時点では半信半疑でしたが、結論から言うと、この位置で正しかったです。

そしてタクシーで5分くらいかけ、マップで示された位置にあるChùa Diệu Sơn (イウソン寺)の前に着いたのですが、寺の門は締まっていました。
しかしここで引き下がるわけにはいかないので、勝手に門を開けて寺の境内に進入。
するとそこに若い尼の方が居たので、再度クオン・デの墓について聞くも、やっぱり知らないと言います。
しかしスマホでマップを見せると、たぶん寺の中じゃなくで裏山だと言います。
なので一旦寺を出て、言われた通りに進むと、山の中に通じる細い林道を発見。これを登っていきます。


山を登る途中、お墓が複数あったので、一つ一つ確認しましたが、どれもクオン・デの物ではありませんでした。
しかしあきらめずに登っていくと、マップで示されたまさにその位置付近で、ついにクオン・デの墓を発見!


ついにフエの墓前で合掌することが叶いました。




この日は疲れたので、クオン・デのお墓参りを済ませるとホテルに戻りました。

翌朝、同じくフエ市内にあるファン・ボイ・チャウのお墓参りに向かいます。
ベトナム国内で非常に評価の低い、あるいは全く無名なクオン・デとは異なり、ファン・ボイ・チャウは現在もベトナム独立運動の父として顕彰されているため、墓所は立派な記念館になってるそうです。
中には日越友好を謳う日本語の紀念碑もあるそうで。(東遊運動を潰してファン・ボイ・チャウを国外追放したのは日本政府なんですけどね)


そして現地に到着


しかし、なんか門が閉まっています。


2024年8月から休館中・・・だとぉ?
ふざけんなクソー!フエに来る機会なんてそう無いんだよ。もう!

クオン・デの墓は山の中に野ざらしのなのである意味年中無休ですが、こちらはちゃんとした記念館になっている事がかえって仇になってしまいました。
しょうがないので門の前で一応合掌しましたが、これでは墓参りとは言えないでしょう。何年先になるか分かりませんが、リベンジしなくてはならなくなりました。
  


2024年10月20日

紫禁城できた

以前こちらの記事で、「我が家に紫禁城を作りたい」と言いましたが、あれは本気でした。


9月末、AliExpressで中国WANGE Blockの故宮太和殿を注文。
紫禁城の建物は他にも何種類か売っていましたが、WANGEの太和殿が一番大きくて細密そうだったので、これを買いました。



無事に届いたので組み立て開始。土台部分は幅50cm超え。分かってはいたけど、やはりデカい。



そして完成。ジャジャーン


これぞ世界を統べる天子の宮城。
かなりデフォルメされているとは言え、大きさも相まって迫力あります。

また太和殿の扁額は元々漢字と満洲文字が併記されていたのが、1915年に袁世凱が中華帝国建国を宣言した際に、清朝(満洲族による支配)の終焉をアピールすべく扁額から満洲文字が削除され現在に至るそうです。
それが、このミニチュア太和殿の扁額に満洲文字も併記されているので、現在の故宮博物院ではなく紫禁城だった時代を再現しているのです!素晴らしい!



皇帝陛下と廷臣を配置。



マジかっこいい・・・。うっとりする。


  


Posted by 森泉大河 at 12:59Comments(0)19世紀-1914古代~近世【中国】

2024年08月04日

7月まとめ

7月は単独で記事にするほど何かした訳ではなかったので、まとめて書いちゃいます。

①大清帝国

最近、清代中国にハマっているので、AliExpressでこういうLEGOのパチ物を購入。


もうちょっと人数を集めて我が家に紫禁城を作りたいです。
でも、皇帝陛下の朝冠が他の臣下たちと同じなのは頂けない。皇帝専用に改造するつもりです。


清朝ブームに乗って、浅田次郎原作の日中合作ドラマ「蒼穹の昴」も鑑賞。



昔NHKで放送している時にちょっと見ていたのですが、毎週は見れなかったのでちゃんとストーリーを分かっていませんでした。
ずっと見直したいと思っていたところ、U-NEXTで配信されていたので、ようやく全話視聴がかないました。
いや~、僕は歴史衣装が好きなので、清朝の官服がたくさん見れて眼福でした。



②上田信

銀座で開催された上田信先生の個展を見学してきました。


僕は小学生の時にコンバットバイブルを買い、その影響で中学・高校時代はミリタリー系イラストレーターになるのが夢でした。
その後、プロになるほどの情熱は無かったので絵の道は諦めましたが、それでも僕にとって上田先生は本当に憧れの画家です。



③ベトナム語試験

6月に受験した実用ベトナム語技能検定試験5級ですが、残念ながら不合格でした。


合格ラインは65%だそうですが、今回の成績は筆記が63%、リスニングが53%。
う~ん、まだ実力が足りません。
一応、3か月間みっちり単語の書き取りはやったんだけどな・・・



まぁ、そこまでひどい点数ではなかったので、また来年チャレンジしてみます。
   


2024年05月06日

浅羽佐喜太郎公紀念碑を訪問

このゴールデンウィークを利用して、ずっと前から行きたかったとある史跡を訪問してきました。
それは静岡県袋井市の常林寺境内にある浅羽佐喜太郎公紀念碑です。
何を隠そう、この碑を建立したのは、ベトナム史に名を残す独立運動家ファン・ボイ・チャウその人なのです。

▲袋井ベトナム友好協会パンフレットより


ファン・ボイ・チャウは20世紀初頭にフランスからのベトナム独立を目指して活動した人物であり、ベトナム人の間では今も世代・地域を超えて尊敬される真の愛国者の一人です。
同じ革命家でもソ連・中国の威を借りてベトナム国民へのテロと虐殺で権力を握ったホー・チ・ミンとは大違いです。

そのファン・ボイ・チャウが約100年前の1918年に日本で建てた紀念碑を実際に訪れる事ができ、ベトナム近代史をかじる者として感無量です。



その一方で、美談に水を差すようですが、この紀念碑はあくまでファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎という個人間での友情を語り継ぐものであり、それを「日本とベトナムの友情」などと国家レベルに拡大して宣伝されているのは気持ちの悪い事です。
そもそもフランスとの関係を優先してファン・ボイ・チャウの東遊運動を潰し、国に戻ればフランスによって投獄されると知りながらベトナム人留学生達を強制送還したのは日本です。
以前訪問した東京にあるチャン・ドン・フォンの墓は、その東遊運動の中で自殺したベトナム人留学生のものです。(ただしフォンの自殺は日本政府による学生強制送還開始より前)
またこの記念碑が作られらた二十数年後には、日本軍はベトナムを含むインドシナに進駐しますが、そこでも日本はフランスによる独立派への弾圧を容認し続けます。
日本が国としてベトナムの独立を支援した事なんて一度もありません。
(後にフランスが邪魔になったので日本の軍政下でベトナム帝国という傀儡政権を建てたけど、それをベトナムの独立と見なすベトナム人はほとんど居ません)
また過去記事あるベトナム残留日本人と家族の漂泊』で書いたように、終戦後ベトミンに参加した日本人兵士の存在も、事ある毎に「日本とベトナムの友情」あるいは「日本によるアジア解放」の例として都合良く利用されていますね。彼らは皆、個人の意思で日本政府の命令に背いて非合法に軍を離脱した人なのに、それを「日本」という主語に置き換えるのはおかしいでしょう。
僕は数年前、国賓として来日したベトナム国家主席への抗議デモに参加しましたが、それも「日本が抗議した」って事になるのかな?ならんでしょう。

とは言え、そもそも友情とは個々の人間同士の間にのみ存在するものであり、国というスケールで見れば、他国にそこまで優しくしてやる必要は無いので、別に日本が特別薄情だと言っている訳ではありません。どの国も自国の利益を最優先するのは当然の事でしょう。
ただ、そういった冷徹な利害関係=ある意味正常な判断に基づく歴史を、わざわざ美談であるかのように粉飾して、「日本人は自己犠牲の精神でアジアを解放した」などと馬鹿げた宣伝に利用する輩の多さにぞっとします。
  


2023年12月04日

西洋のパリ

日曜に映画館で『ナポレオン』を観てきました。もちろん吹き替えで。


一言で言うと、滅茶苦茶良かったです。
劇場の大画面と大音響で、あの時代の砲撃戦や戦列歩兵、騎兵突撃を見れただけで十分興奮しました。
それに、これは偶然ですが、つい1か月前にパリを観光し、ナポレオンゆかりの地に足を運んだばかりだったので、なおさらこの映画を楽しめました。(旅行している最中もこの映画の公開を楽しみにしていました)

【ナポレオンゆかりの地】


ノートルダム大聖堂
ナポレオンがフランス皇帝に即位し戴冠式を行った場所です。


テュイルリー庭園(テュイルリー宮殿跡地)
フランス革命中は国王ルイ16世とマリー・アントワネット夫妻の居城、後にナポレオンが公邸としたテュイルリー宮殿があった場所です。
残念ながら宮殿は後にパリ・コミューンの放火により焼失しており、現在は庭園のみが残っています。
せっかくパリに来たので、この庭園内で、スマホで音楽を鳴らしながら『御旗のもとに』を歌ってきました。



エトワール凱旋門
ナポレオンがアウステルリッツの戦いに勝利した記念に建築された戦勝記念碑です。近くで見ると物凄く大きな建物でした。


【ブルボン朝ゆかりの地】
以下は時代をナポレオンから少し遡って、ブルボン朝に関連する場所です。

ルーブル美術館(ルール宮殿)
今は美術館ですが、元々はルイ14世の時代まで王宮だった建物です。
美術館の内部を見学するには入館料が要りますが、敷地に入って建物を見るだけなら無料でした。


コンコルド広場
フランス革命によりルイ16世とマリー・アントワネット夫妻が処刑された場所です。
映画『ナポレオン』でも冒頭でちょっと出てきました。
でもコンコルド広場全体が、2024年のパリ・オリンピック関連の工事中だったので風情には欠けました。


オテルドラマリーン(旧ガルド・ムーブル/フランス海軍省)
コンコルド広場に面するこの建物は、ルイ15世によって建造された宮殿・王室財産保管庫(ガルド・ムーブル)であり、フランス革命後はフランス海軍省庁舎として2015年まで200年以上に渡って使われていたそうです。現在は18世紀の内装を復元し、高級ホテルとして営業しています。


シャンゼリゼ通り
このシャンゼリゼ通りも元々はブルボン朝時代に建設されたそうです。
でも史跡と言うよりは現役バリバリの商業の通りなので、フランスの表参道と言った感じ。


【第二帝政】

サン・ミシェル橋
所謂ナポレオン(ナポレオン1世)ではなく、その甥のナポレオン3世が作らせた橋だそうです。
ちなみにナポレオン3世は、フランスがインドシナを征服した時期の皇帝なので、東アジア史が趣味の的にはナポレオン1世よりも3世の方が馴染があります。


ノートルダムから凱旋門まで5kmほど歩いただけで、こんなにもたくさんの名所を見て周る事ができました。
他にもエッフェル塔やヴェルサイユ宮殿、廃兵院など行ってみたい場所はいくつもありましたが、この後パリ市内のサープラスショップを2店周らなければならなかったので、時間的・体力的に余裕が無く、今回はおあずけ。
でも、フランスにはまた来る気がするので、次回見に行けばいいやと思っています。
  


2023年09月17日

補服を着たい

数ヶ月前から、なんだか急に中国史が好きになってきまして、Youtubeで『鳥人間 中国史三昧』さんの動画を毎日見ています。
特に、清代末期は以前から映画やドラマで馴染みがありましたし、歴史的にも大激動の時代でしたので、一番興味が強いです。
そして僕の趣味はコスプレなので、いっそ清代のコスプレを始めてみようかと思い、アリエクスプレスで衣装を探してみました。
すると、ありましたよ。一番着たいと思っていた清朝の官服(官吏の制服)の礼装一式のレプリカ(と言うか演劇用衣装)が。しかも1万円以下で!


(この服は官僚の礼服であり、一般人は着ることが出来ませんが、死装束として死者に着せることは黙認されていたので、日本ではキョンシーの衣装として有名かも知れません。)

よっしゃ、さっそく買おう!と思ったものの、一応僕も歴史衣装マニアの端くれなので、買う前にまず、この衣装がどういった身分のものなのか調べました。
この服装は、常勤装である『蟒袍』(大蛇の柄の長丈の上衣)の上に、礼装である『補服』を着た状態です。
そして補服の前後にある四角い文様を『補子』と言い、この補子の図柄と帽子(朝帽)の装飾で官職の等級を示しています。


そして、この衣装が再現している図柄は鶴と麒麟なので、等級は一品(正一品・従一品)の文官および武官という事になります。
一品とは官位の最上級で、歴史上の人物で言えば曽国藩や李鴻章クラス。つまり、中央政府の大臣・総督のような超大物が着るもの。品だった袁世凱よりも上です。
上の商品の他にも補服のレプリカ(キョンシー用含む)はいくつか売られていましたが、それらも皆、補子の図柄は一品でした。

う~ん、位が高すぎて着れない。いくらコスプレとは言え、そんな高官の服を僕が着るのはあまりに不釣り合いでしょう。
とは言え、補服を着るなら他に選択肢はなさそう。

・・・写真を撮った後に、補子の部分だけフォトショップで他の図柄に加工しちゃおうかな。いや、しかし・・・。

現在僕の心の中で、「メインの趣味じゃないんだから、あまり気負わず楽しめば良いじゃない」という声と、
「貴様それでも軍装マニアか。フォトショ加工が許されるなら、今までやってきたベトナム軍装も全部合成で良いじゃないか」
という声がせめぎあっており、まだ結論は出せておりません。
  


Posted by 森泉大河 at 12:58Comments(0)19世紀-1914【中国】

2022年12月22日

チャン・ドン・フォンの墓

 もう何年も前の事ですが、東京の雑司ヶ谷霊園にあるチャン・ドン・フォン(Trần Đông Phong)の墓にお参りしました。


 チャン・ドン・フォンは、ベトナム民族主義指導者ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu)が1905年(明治38年)に始めた『東遊運動(Phong trào Đông Du)』によって来日したベトナム人留学生の一人です。
 東遊運動とは、将来有望なベトナムの若者を、明治維新を成し遂げ当時アジア唯一の近代国家となっていた日本に留学させ、近代的な教育を受けさせることで、将来的にフランスの植民地支配下にあるベトナムの解放を目指す運動の事です。 留学とは言っても、当時ベトナム人はフランス植民地政府の許可無しに出国することはできなかったので、東遊運動に参加した学生らはフランスの目を掻い潜って密出国し、また日本では清国人と身分を偽って生活していました。
 この中で、チャン・ドン・フォンは最初に来日した9人の学生の一人であり、実家が裕福であったことから、東遊運動を資金面で支える役割を担っていました。 ファン・ボイ・チャウの片腕として来日し共に東遊運動を牽引した阮朝の皇族クオン・デ(Cường Để)は、フォンを弟のように可愛がったといいます。
 しかし1908年(明治41年)になると、フォンの実家からの送金が途絶えます。実際にはフランス側が東遊運動を阻止するためフォンの実家からの手紙や送金を押収していたのですが、それを知らないフォンは父に見捨てられたと誤解し、また東遊運動の資金が途絶えた事で仲間に迷惑をかけた事を恥じ、フォンは1908年5月2日に、小石川の東峯寺境内にて首を吊って自殺します。
 さらにその前年の1907年には日本とフランスの間で日仏協約が締結されており、1908年になるとフランスは日本政府に対し、日本国内のベトナム人留学生の国外追放を要請します。日本政府はフランスとの関係を優先してこの要請に従い、翌1909年初旬には、全ての留学生がベトナムに強制送還されたことで、約3年間続いた東遊運動は瓦解しました。
 ファン・ボイ・チャウは、犬養毅など東遊運動を支援した日本人支援者には感謝を示す一方、事実上フランスと共に東遊運動を弾圧した日本に失望し、二度と日本を頼る事はありませんでした。
 一方、クオン・デはその後ファン・ボイ・チャウとは別行動をとり、カンボジア、シャムを経てドイツ等を漂泊しましたが、何ら成果を上げられぬまま1915年(大正4年)には犬養毅を頼って再び日本に戻り、以後犬養の庇護の下、東京生活します。この時期(1920年頃)、クオン・デ1908年に亡くなったチャン・ドン・フォンの墓を雑司ヶ谷霊園に建立しました。
 しかしその後20年近く、クオン・デは目立った活動を行う事なく月日が流れます。クオン・デはベトナム光複会(Việt Nam Quang Phục Hội)の代表であり、ベトナムで成功した日本人実業家 松下光廣の協力も得ていたものの、フランスと日本の官憲は常にクオン・デの動向を厳重に監視しており、またクオン・デ自身の行動力の低さもあり、ベトナム光複会が具体的な行動を起こすまでには至りませんでした。そしてその間、ベトナム国内で勢力を拡大したのが、ホー・チ・ミンが創設したインドシナ共産党(後のベトナム労働党/共産党)でした。
 1945年(昭和20年)3月、日本軍が仏印処理によって仏領インドシナを解体しベトナム帝国を擁立すると、ベトナム国内のベトナム復国同盟会(ベトナム光複会の後継組織)やカオダイ教徒クオン・デが君主としてベトナムに帰国する事を望みましたが、日本軍はフランス同様バオダイ(保大帝)を傀儡として皇帝に据えたため、ついにクオン・デが政治の表舞台に上る機会はありませんでした。
 そして1951年(昭和26年)、ベトナムへの帰国も叶わぬまま、クオン・デは東京都内の病院で息を引き取ります。この時期ベトナムでは第一次インドシナ戦争が激化し、ベトナム人同士が血みどろの抗争を繰り広げている最中でした。
 クオン・デの遺言により、彼の遺骨は三等分に分けられ、一つは故郷ベトナムのフエ、一つはタイニンのカオダイ教本部、そして残る一つは弟分であるチャン・ドン・フォンの墓に収められました。なのでチャン・ドン・フォンの墓は、同時に日本にある唯一のクオン・デの墓でもあります。

 このチャン・ドン・フォン/クオン・デのお墓は現在、日本人の有志の方々によって清掃されており、僕がお参りした際、偶然その方々(高齢のご夫婦)がいらっしゃったので、少しお話させて頂きました。
 またベトナム人の間でもこのお墓は知られた存在であり、特に私が日本在住ベトナム人協会を通じて知り合った日本に住んでいるベトナム人の若者は、皆で集まってお参りしていました。彼らは恐怖政治と拝金主義しか能の無いベトナム共産党政権を否定し、ベトナム国民に自由と人権を取り戻す事を願う、真に愛国的なベトナム人です。まさにここ日本で祖国の解放を願う彼らの姿は、約100年前の東遊運動の留学生と重なります。


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Posted by 森泉大河 at 19:57Comments(2)人物19世紀-1914【ベトナム史】阮朝

2022年09月10日

ベトナム幼年学校

※2024年9月21日更新

在ベトナム幼年学校の黎明期(1899-1945年)

ベトナム幼年学校の歴史は1899年、当時の仏領インドシナ総督ポール・ドゥメールが、サイゴンとハノイに駐屯する二つのフランス保護軍(=フランス植民地軍麾下のベトナム人治安部隊)内に幼年学生隊を創設する指令に署名した事に始まる。
このサイゴンおよびハノイ学生隊の人数は当初、それぞれわずか10名程度であったが、その後同様の学生隊がベトナム各地に設置されるとともに規模を拡大し、これら学生隊は独立した幼年学校(École des enfants de troupe)へと発展していく。これら在ベトナム幼年学校はフランス軍幼年学校を見本としており、その教育理念および授業内容もフランス本土の物を踏襲した。

[トンキン(ベトナム北部)]
・モンカイ省幼年学校
・ヌイデオ幼年学校
・ダップカウ幼年学校
・フーランソン幼年学校
・ヴェトチ幼年学校
・ハノイ幼年学校

[アンナン(ベトナム中部)]
・フエ幼年学校(当初マンカー城塞、後にフエ城塞内に移転)
・ダラット幼年学校
・バンメトート幼年学校

[コーチシナ(ベトナム南部)]
インドシナ幼年学校(キャップサンジャッキ*/ブンタウ)
・トゥーダウモット幼年学校
・ザーディン幼年学校(ダカオ市)
・サイゴン幼年学校(オーマ城塞)
・ミトー幼年学校
キャップサンジャッキ(聖ジャック岬)はドゥメール総督によって名付けたンタウの別名で、仏領時代は主にこちらで呼ばれた。


▲ハノイ幼年学校生徒と教官[1910年]


フランス連合/第一次インドシナ戦争期(1946-1955年)

その後、十数校あった幼年学校は統廃合が進み、1950年代には以下の7校に集約された。
・第1軍管区幼年学校(ダカオ市
・第2軍管区幼年学校(フエ市)
・第3軍管区幼年学校(ハノイ市)
・第4軍管区幼年学校(バンメトート市)
・モンカイ幼年学校(ヌン族向け)
・ダラット幼年学校*
・インドシナ幼年学校(キャップサンジャッキ/ンタウ)*
ダラット幼年学校およびインドシナ幼年学校の2校はフランス軍直営、その他5校はベトナム国軍によって運営された。


▲フランス連合期の幼年学校各校の映像

▲在ベトナム幼年学校で学ぶフランス人、アフリカ人の生徒
在ベトナム幼年学校の主な生徒はベトナム人であったが、同時にベトナム在住フランス人やアフリカ系軍人の子息も入学し、人種に関係なく平等に教育された。

▲フランス軍幼年学生(Ancien Enfant de Troupe)の徽章。
在ベトナム・フランス軍およびベトナム国軍幼年学校各校でも同じ徽章が用いられた。

1954年、ジュネーブ協定によってベトナム国が領土の北半分を失うと、ハノイにあった第3軍管区幼年学校は南部に移転され、新たに設立されたミトー幼年学校に統合された。なおモンカイ幼年学校は北部失陥に伴い閉鎖された。
この当時、幼年学校各校はベトナム国政府の財政難のため存続が危ぶまれており、アメリカの支援顧問団はベトナム国防省に対しンタウのインドシナ幼年学校だけを残し、その他の5校を閉鎖するよう提言したが、ゴ・ディン・ジェム首相および国軍参謀長レ・バン・ティ中将は南ベトナム領にあるすべての幼年学校を維持する事を決定した。


ベトナム共和国/ベトナム戦争期(1955-1975年)

しかしその後も財政難は続き、ゴ・ディン・ジェム総統はついに1956年6月1日、レ・バン・ティ中将に対し、計1350名の学生を擁する6校の幼年学校を、ンタウのインドシナ幼年学校一か所に集約するよう命じた。
この際、インドシナ幼年学校は『ベトナム幼年学校(Trường Thiếu Sinh Quân Việt Nam)』へと改名され、以後ベトナムで唯一の国立幼年学校として1975年まで多くの卒業生を輩出する。

▲ベトナム幼年学校(旧インドシナ幼年学校)の校舎[ンタウ, 1960年代後半-1975年]
フランスによって建設された幼年学校の中でも最大の規模を誇るベトナム幼年学校(旧インドシナ幼年学校)はベトナム共和国で最も美しい軍事学校の一つに数えられる。
広大な敷地には複数の庭園と運動場を備えており、その中に3階建てのキャンパスが3棟設けられていた。
内部はリビングはもちろん学生の寝室も広々としており、また複数の講堂、教室、図書館、クラブ、応接室を備えているなど、設備は非常に充実していた。また校内にはカトリック教会と仏教寺院も併設されていた。


▲ベトナム共和国期ベトナム幼年学校の映像

ベトナム幼年学校はベトナム共和国国防省付属の学校とされ、一般の学校教育内容も履修するが、それに加えて軍事訓練が施されるため、軍事学校として一般の学校とは区別された。
入学者は主に主力軍(陸海空軍)、地方軍、義軍、国家警察に所属する軍人の子息であり、特に戦死者、戦傷病者、退役軍人の子息が優先的に受け入れられた。
卒業後はベトナム共和国軍の兵・下士官・将校、または軍の後方支援を担う技術者・医師・教師などの進路があった。

※文献には「入学可能年齢は1956年以前は10歳から、それ以降は12歳から15歳」とあったが、当時の写真には明らかに10歳未満の生徒も多数見られる。


ベトナム幼年学校部隊章及びベレー章。左が1956(?)-1966年、右が1966-1975年のデザイン
1966年以前の部隊章にある『TSQ』の文字は幼年学生(Thiếu Sinh Quân)の略。
1966年以降の部隊章にある『Nhân Trí Dũng (仁智勇)』の文字は儒教における三徳すなわち「智の人は惑わず、仁の人は憂えず、勇の人は恐れない」を意味し、ベトナム幼年学校の教育理念とされた。

ベトナム幼年学校のパレード装

▲国軍記念日パレードで行進するベトナム幼年学校学生隊[サイゴン, 1971年6月19日]

▲1975年以降米国に避難した元ベトナム共和国軍人による幼年学校友会の式典[米国ヒューストン, 2016年]
  


2022年04月06日

サイゴンの残光

※2022年4月15日更新


前回に続き、今回足を運んだサイゴン市内に残る史跡の紹介です。

ベンニャーゾン(龍の家埠頭)

サイゴン川沿いにあるベンニャーゾン(Bến Nhà Rồng)は、仏領インドシナ期の1864年に完成した、フランスの海運会社『Messageries maritimes』の本社跡です。


インドシナ銀行サイゴン支店/ベトナム国立銀行

ベンニャーゾンのすぐ近くにあるのが、かつてのインドシナ銀行サイゴン支店です。
インドシナ銀行自体は19世紀末からこの場所にありましたが、現在の建物は1930年代後半に完成したものです。
第一インドシナ戦争終結に伴い、この建物はフランスからベトナム共和国政府に引き継がれ、ベトナム国立銀行本店となりました。

ベトナム共和国時代の50ドンや500ドン札には、このベトナム国立銀行ビルが描かれています。


この埠頭周辺はサイゴン川と南シナ海を結ぶコーチシナの玄関口であり、今も残る仏領時代の遺構を見ると、この場所がかつてフランスが莫大な投資を行い作り上げたインドシナ植民地経済の中心地だった事を思い起こさせます。
これらの場所と直接の関係はないですが、20世紀前半のベトナムの歴史や雰囲気は、映画『インドシナ』を連想させるものでした。




アンズンヴン(安陽王)像

アンズンヴン(An Dương Vương)は紀元前3世紀、古代ベトナム北部を統一し甌雒(オーラック)国を建国した英雄で、この記念碑はベトナム共和国時代の1966年に建設されたものです。
実はアンズンヴンはもともとベトナム人ではなく、始皇帝率いる秦に滅ぼされた古蜀の王子で、秦から逃れ南下した末に、現在のベトナム北部で挙兵し諸国を統一、甌雒を建国したそうです。


ベトナム共和国軍総参謀部

15年に及ぶベトナム戦争を戦い抜いたベトナム共和国軍の総司令部跡。
正門は過去記事『グレイタイガーの4月30日』で紹介したファム・チャウ・タイ少佐が最後の防御陣地とした場所でもあります。
戦後はベトナム人民軍に接収され、人民軍第7軍管区司令部となっていますが、正門は現在でもほぼ当時のまま残っています。
なお軍の施設なので車の中からこっそり撮影したため画質悪いです。


水上レストラン ミーカイン跡地


チャンフンダオ像のすぐ近くにあるバックダン埠頭には、今も昔も水上レストランがあります。
ベトナム共和国時代、この場所にあったレストラン『ミーカイン(My Canh)』は、1965年6月25日、解放民族戦線による夕食時を狙った爆弾テロに合い、死者31-32名、重軽傷者42名を出す大惨事の現場となりました。

ミーカン爆破事件を伝える米国のニュースフィルム

このテロ事件が国際世論に与えた影響は大きく、米国以外の西側諸国も共産主義拡大の危険性に目を向け、ベトナムへの派兵や軍事・経済支援を強化するきっかけとなりました。
  


2017年02月04日

2016年05月04日

デガの歴史 古代~1954年



【呼称について】

 このブログで頻繁に用いている『デガ(Degar)』という用語についてまだちゃんと解説を書いてなかったので、改めて説明させて頂きます。デガとはラーデ語で『森の人』を意味し、現在のベトナム中部高原(タイグエン地方)からカンボジア・モンドルキリ州の山岳地帯にかけて住むオーストロネシア(マレー・ポリネシア)語族およびモン・クメール語族系諸民族が、自らの民族集団を指して使う呼び名です。デガには大きく分けて20以上の民族が存在し、さらにそれぞれが地域や風習によって多数分派していますが、文化的には高原地帯での農耕、アニミズム(精霊信仰)、フランス領時代に広まったキリスト教信仰などがほぼ共通しています。
 デガ諸民族はベトナム戦争時代、ベトナム共和国軍のコマンド部隊(CIDG)としてアメリカ軍の指揮下で共産ベトナム軍と戦いましたが、彼らは当時アメリカ兵から『モンタニヤード』、略して『ヤード』と呼ばれていました。モンタニヤードとはフランス語の『モンタニャール』英語読みなのですが、実際にはフランス人が使った『モンタニャール』と、アメリカ人が使った『ヤード』という呼び名は、その意味するところが若干異なっています。
 そもそもモンタニャール(Montagnard)とは、フランス植民地時代にフランス人がインドシナ半島の山岳地帯に住む少数民族(山岳民族)の総称として使い始めた言葉でした。ただし山岳民族と一口に言っても、広大なインドシナ半島には多種多様な民族が入り乱れて生活しており、決して一塊の集団ではありません。その上で、人種や文化の観点からあえてグループ分けをした場合、仏領インドシナ領内のモンタニャールは、中部高原に住むデガ(南インドシナ・モンタニャール)、そしてベトナム北部・ラオス・中国南部山岳地帯に住むタイ族(北インドシナ・モンタニャール)に大別されます。
 アメリカ人は1961年に開始されたCIDG計画から彼らモンタニャールと関りを持つようになりましたが、当時ベトナムはジュネーヴ協定(1954年)によって南北に分断されていたため、CIDG計画に参加したモンタニャールは主にベトナム共和国(南ベトナム)領内に住む南インドシナ・モンタニャール、つまりデガであり、アメリカ兵はデガを指して『ヤード』と呼ぶようになりました。しかし東南アジアの民族事情に馴染みの無かったアメリカ兵は、モンタニャールではないチャム族、クメール族、さらには色黒のベトナム人すら見分ける事ができなかったため、単に肌の色や顔の骨格が濃いというだけで彼らをデガと混同し、『ヤード』と呼ぶ事がありました。一方、元々中国南部・ベトナム北部に住んでいたものの1954年以降北ベトナム政府による迫害から逃れるためベトナム南部に集団移住していたタイ族(北インドシナ・モンタニャール)系のヌン族もCIDG計画に参加しましたが、彼らはデガに比べて色白で顔が平たかったため、アメリカ人はヌン族を『ヤード』とは呼ばず、『チャイニーズ』と読んでいました。
 このようにモンタニャールやヤードという用語は、その言葉の生まれた背景を知らないと誤解を生じ易い言葉となっています。またこれらの呼称そのものに差別的なニュアンスがある訳ではないのですが、基本的にどこの民族も、外国人に付けられた呼び名なんかより自分たち自身の言葉を大切にする物であり、彼らも近年、『デガ』という自称を民族の重要なアイデンティティに据えています。アメリカ国内のFULROの後継団体も当初はアメリカ人に理解し易いよう『モンタニヤード財団(MFI)』と名乗っていましたが、数年前より『デガ財団(DFI)』に改称しています。以上のことから、当ブログでもあえてデガという呼称を主に使っています。

関連記事



デガの歴史

【プタオの国とチャンパ王国】
 
 デガを構成する主要民族の内、最も古い時代の物語が残っているのがラーデ族である。ラーデ族の神話によると、この世が始まった時、神はダム(Dam, 男性)とホビア(HơBia, 女性)という二人の人間を作った。これが人類(ラーデ族)の始まりであるとされている。
 史学的には、中部高原には古代よりジャライ族の小国家『プタオの国』があり、プタオ(王)が政治の中心に居た。プタオには火の王(Thủy Xá)と水の王(Hoa Xá)が居り、プタオはジャライ族の守護神『プリヤ・カーン(Prah Khan:聖なる剣)』をレガリアとして所有した。
 2世紀ごろ、インドシナ半島は中国漢王朝の支配下にあったが、漢の現地人官吏だった古チャム人の区連(オウレン)が西暦192年に挙兵しチャンパ王国を興し漢から独立を果たす。近縁のチャム人が独立国家を建国した事で、その領内にあったプタオの国はチャンパ王国の一部となるが、沿岸部を中心としたチャム人政権からはある程度独立した地位を有していた。その為プタオの国は独自の外交を行っており、1601年にはチャンパと敵対関係にあるクメール(カンボジア)と友好国となる。さらにベトナム人(ヴェト族)の大南国はチャンパ王国を包囲するため、カンボジア、ラオス、プタオを同盟国として外交関係を持った。
 17世紀から18世紀にかけて、チャンパの武将は大南(阮氏)軍の一員としてベトナム統一に貢献した事から、順城鎮(チャンパ王国パーンドゥランガ王朝)には自治権が与えられた。しかし1832年、大南国は方針を一変し、順城鎮は解体されてチャム人の自治権は剥奪された1863年には『鎮静化』を名目にプタオにも大南の徴税人が配置され、中部高原もベトナム人の支配下に落ちた。これによりチャム人とデガの地位は没落し、キン族(京の民族)を自称するベトナム人による激しい迫害が始まった。

3世紀~18世紀ごろのインドシナ半島の勢力地域図 ※ただし時代によって領土は大きく変動する
黄色:大越国(ベトナム)
緑色:チャンパ
紫色:アンコール(カンボジア) 

 

【フランス領インドシナ】

 チャンパの解体から程なく、皇帝ナポレオン三世率いるフランスはインドシナ半島の植民地化を目論み、宣教師、商人そして彼らを保護するという名目でフランス軍を次々インドシナ諸国に派遣していった。そして各地の宗教、経済、軍事の実権をフランス人が握った事で、インドシナ半島はなし崩し的にフランスの植民地となった。そしてフランス領インドシナ総督ポール・ドウメル(Paul Doumer、任期1897~1902年)は軍事力で少数民族を鎮圧し、フランスへの同化政策を推し進めた。この西洋人の侵略に対しデガ諸部族は反フランス勢力として戦い、特にデガ最大勢力のジャライ族は、長年プタオの国として独立を保ってきたことから最も抵抗した。しかし、デガで2番目に人口の多いバナール族およびラーデ族は早々に降伏し、さらにジャライ族側もプタオ(王)が独断でフランスと同盟(事実上の降伏)を結んてしまった事で抵抗は終わった。この降伏によりジャライ族におけるプタオの権威は失墜し、以後プタオは単なる宗教指導者・呪術師という地位となった。
 フランスの支配下において、インドシナの多数派民族であるキン族(ベトナム人)やラオ族(ラオス人)、クメール族(カンボジア人)はいまだナショナリズムを保持していたため、フランス人は常に彼らの反乱を警戒する必要があった。そこでフランスは、少数民族を植民地経営の為に利用した。彼ら少数民族は長年多数派に迫害されていた為、フランスに協力することで自治権が得られると知ると、積極的に植民地政府に参加した。特にラーデ族は優遇され、植民地政府の秘書や工員、植民地軍兵士に登用され、フランスはその見返りに自治領の設定や教育、病院建設を行っていった。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、フランス植民地軍はベトナム人部隊(トンキン、アンナン、コーチシナ狙撃兵)と共にデガ兵士もヨーロッパ西部戦線に派遣した。
 こうした植民地政府への貢献が認められ、1923年にはデガなどの少数民族から植民地政府の知事や裁判官が選出されるに至った。フランスにとって、デガはあくまで他のインドシナ多数派民族を含む『先住民(autochtones)』の一部であり、その中においては優劣をつけなかった。同時に、現地の有力者・エリート層を教化し植民地の行政をになわせる事で民衆に自治権が与えられたような印象を持たせ反乱を防ぐというフランスの手法は、近代的な教育や医療とは程遠い生活を送っていたデガにとって、それらを得るまたと無いチャンスとなった。フランスはデガの貴族や軍人を教育するためフランス本土のパリ(ソルボンヌ)大学やサン・シール陸軍士官学校へ留学させ、指導者としての教養とフランスへの忠誠心を植え付けた。
 また宗教においても、1880年に最初のデガ向けカトリック修道院(28名の入信者と31名の聖職候補者を養成)が建設されたのを皮切りに、デガの村落には次々に教会が建設された。インドシナで布教を行った宣教師らは、デガが長年信仰して来たアニミズム(精霊信仰)を否定することなく、その最上位にキリスト信仰を据える事で信者の拡大に成功した。これによりデガの大多数がカトリックを信仰するに至り、1935年には371名のデガの修道女がカトリック教会に在籍した。さらにはジャライ族首長ネイ・ムルがフランス人女性と結婚するなど、デガはフランスとの同化を進めていった。

▲中部高原に建てられたカトリック修道院とデガの修道女

▲ラーデ族の男性(1931年頃)

▲プランテーションで働くデガ労働者(1931年頃)


【第一次インドシナ戦争】

 1945年に日本軍が降伏し第二次世界大戦が終結すると、ホー・チ・ミン率いるベトミンは『ベトナム民主共和国』の樹立を宣言した。これに対しフランスは、大戦中西部戦線の主戦場となった本土の傷も癒えぬままインドシナの再統治に乗り出し、南部ベトナム反乱鎮圧(マスターダム作戦 / War in Vietnam)を開始した。この作戦にはインドシナで日本軍の武装解除を担当していたイギリス軍と、降伏後連合軍司令部の指揮下に入った日本軍も参加した。これにより都市部の治安は回復し、中国軍の追い出しにも成功した。しかし1946年にイギリス軍・日本軍がインドシナから撤退すると、ベトミンによるフランス植民地政府への攻撃は激しさを増し、第一次インドシナ戦争開戦に突入した。
 この中でフランス植民地政府は、インドシナ連邦内の各少数民族に自治領を与えることで、自らを多数派民族から少数民族を護る保護者と位置付け、少数民族からの支持を得ようと試みた。1946年、フランスはデガに対し自治領『南インドシナ・モンタニャール国(Pays Montagnards du Sud Indochinois)』を与え、特にジャライ族からの支持を得るべく「プタオの国の後見人」を自称した。(ただし当時すでにプタオという地位そのものに政治的権威は無かった)
 1948年、ベトナム(トンキン・アンナン・コーチシナ)が植民地という立場から昇格し、フランス連合内の『ベトナム国(Quốc gia Việt Nam)』として独立した。これに伴い、フランスが制定した少数民族自治区はベトナム国政府に引き継がれ、1950年に『皇朝疆土(Hoàng triều Cương thổ)』として統合された。皇朝疆土は、ベトナム国国長(=阮朝皇帝)バオダイが少数民族に下賜した土地という意味で、実質的な自治領として1954年まで機能していた。
 またベトナム国発足に伴いフランス植民地軍内のベトナム人部隊がベトナム国軍へと再編された事で、デガで構成されていた『南アンナン・モンタニャール狙撃兵大隊』は北インドシナ・モンタニャール部隊と統合され、ベトナム国軍の一部へと改編された。
 しかし、1954年にフランスがインドシナからの撤退を開始すると状況は一変する。ジュネーヴ協定によって北ベトナムにホー・チ・ミン政権(ベトナム民主共和国)が誕生し、また南ベトナムでも1955年に反仏派のゴ・ディン・ジエム政権(ベトナム共和国)が成立したによって少数民族は自治権を剥奪され、民族自治区は全て消滅した。そして南北ともに少数民族に対するベトナム人(キン族)からの迫害が再び始まった。デガはその後、FULRO闘争などを通じて1946年に設定された南インドシナ・モンタニャール国の復活を求め戦い続ける事になる。
※1960年代以降のデガの歴史については過去記事『CIDGの人々』参照


▲南インドシナ・モンタニャール国旗(1946-1950年)

▲デガ兵士に勲章を授与するベトナム国国長バオダイとフランス軍ジャン・ド・ラトル・ド・タシニー将軍(バンメトート 1950年)

   
デガで構成されたベトナム国軍第4師団第28大隊の兵士



【参考文献】

『ベトナムの少数民族』 菊池一雅 1988年
『世界地理風俗大系〈第8巻〉インドシナ半島』  誠文堂新光社 1963年
『ベトナムの少数民族定住政策史』 新江利彦 2007年
『世界民族大百科』 日本メール・オーダー 1979年
その他フランス軍公式サイトなど


【あとがき】

 実はこの記事のほとんどは2年ほど前に書いたものなのですが、第二次世界大戦や第一次インドシナ戦争期のデガに関する資料がなかなか集まらなかったので、下書きのままずっとほったらかしにしていました。でも、このまま寝かせておいても意味が無いので、とりあえず暫定版という事で公開しちゃいました。今後もっと掘り下げていきます。
  


2013年12月07日

資料メモ

僕の趣味である南ベトナムや少数民族の歴史に関する本ってその辺の本屋や図書館にはなかなか置いてないので、何度か国会図書館に通って資料探ししてるんですが、さすがに日本最大の図書館。けっこう日本語の本も出てきますね。
興奮して色んな本から数十ページ分コピーしてきましたが、コピーするまでもない少量の記述に関してはメモしてきました。
そのメモを以下に記します。あくまでメモなので、雑多な状態ですが、興味のある方はどうぞ。
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