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2019年05月07日

令和元年ゴールデンウィークの思い出

ゴールデンウィークは10連休とまでは行きませんでしたが、土日含めて計6日休みが取れたので、色々な事ができました。


1. 国祖記念祝賀会の打ち上げ

 
 先日執り行われた日本在住ベトナム人協会主催ベトナム国祖記念祝賀会の打ち上げ反省会が都内のベトナム料理店で開催され、僕もお呼ばれしたのでお邪魔してきました。ベトナム戦争を経験した難民世代から、留学生・技能実習生として来日した若者まで、幅広い年代がこうして集まり語り合える場は、とても大切なものだと思います。


2. 日本在住ベトナム人協会会長宅訪問

 打ち上げの翌日、日本在住ベトナム人協会会長カン氏の自宅にお邪魔して、生春巻きを食べながらいろいろお話を聞いてきました。
 1968年のテト攻勢の際、フエを占領したベトコン(解放民族戦線)は約5,000名のフエ市民を地中に生き埋めにして虐殺しましたが、当時大学生だったカン氏はボランティアとしてその虐殺事件の犠牲者の遺体掘り起こし作業に従事し、ベトコンが行う『抗米戦争』の正体を目の当たりにします。その翌年、カン氏は政府軍(ベトナム共和国軍)に士官候補生として志願入隊し、陸軍中尉として1975年まで軍務に就きました。終戦時は、スァンロクから撤退してきたレ・ミン・ダオ少将麾下の混成部隊とビエンホアで合流し、その指揮下に入りましたが、反攻は叶わずその地で無条件降伏の知らせを受けたそうです。終戦と同時にカン氏は共産主義政権に逮捕され、6年間も収容所に投獄され強制労働を課せられた後、難民として国外に脱出して最終的に日本に定住されました。
 またカン氏の友人のハイはベトナム戦争当時はまだ子供でしたが、その頃経験した出来事を語って下さいました。ハイは当時ファンティエットに住んでいました。ベトナム戦争中、ベトコンゲリラはしばしばファンティエット市役所を狙ってB-40(RPG-2)無反動砲を発射するテロ攻撃を行っていましたが、B-40は命中精度が悪いため、発射された砲弾のほとんどは市役所を外れて付近の民家に落下していました。ハイ自宅はファンティエット市役所の横にあったために、計2発が自宅に着弾し、壁に大穴を開けたそうですが、幸い家族に怪我人は出なかったそうです。しかし、そうではない人もいました。ハイには近所に住む2歳年上の仲の良い友達がいました。1968年2月のテト攻勢最初の夜、彼は親戚のおばさんの家に泊まりに行っていました。そして翌朝自宅に帰ってみると、ベトコンが発射した砲弾は彼の自宅に命中しており、家の中には爆発により変わり果てた姿となった彼の両親と妹の三人の遺体が四散していました。一晩で家族全員を失った彼は親戚の家に引き取られ、ハイ氏と会う機会は無くなりました。しかしその数年後、14歳になったハイ氏がたまたまファンティエット市内の政府軍の基地の前を歩いていると、基地の中から「お~い、ハイ!」と聞き覚えのある声がします。見るとフェンスの向こうには仲の良かったあのお兄さんが軍服姿で立っていました。16歳になっていた彼はベトコンに殺された家族の仇を取るため、年齢を詐称して政府軍に志願していたのです。ハイ氏と彼は嬉しくてフェンス越しに再開を喜び合いましたが、彼には仕事があるのでいつまでも話してはいられませんでした。彼は「じゃあな、ハイ!」と手を振ってハイ氏に別れを告げましたが、その後戦場に赴いた彼が帰還する事は無く、このフェンス越しの会話が二人の今生の別れとなったそうです。


3. 台湾ロケット花火祭り仲間、新宿で再結集

 台湾の台南市で毎年開催されているロケット花火祭り『鹽水蜂炮』で、台湾日本合同チーム『鹽水周倉將軍護駕炮兵團』のリーダーを務める電冰箱ことサイモン・リンさんが来日したので、日本人メンバーが集合して新宿で飲み会しました。僕が鹽水蜂炮に参加したのは2016年2018年の2回だけですが、サイモンさんはちょいちょい日本に遊びに来ているので、来るたびに一緒に観光したり飲み会やってます。(日本での思い出:2016年(1)2016年(2)2017年)
 またこの日は日本に住んでいるサイモンさんの友人で、元台湾軍少佐のTさんも来て下さりました。日本に来てからいろいろ大変な目に会ってるそうで、一等国ぶっていても中身はスカスカな日本社会の暗部ばかり見せてしまい、日本人として恥ずかしい限りです。つもる話が多くて終電を逃してしまったため、この日はそのままTさんの自宅に泊まらせていただきました。(後半はずっと台湾・日本の風俗店の話ばかりだったのは内緒)


4. 公園でNERF合戦

YDAメンバーおよびその家族と公園でNERF(ナーフ)で遊びました。これ子供より大人が本気になる玩具ですわ。大人の経済力で凄い数の弾丸とマガジンを用意して、一日中遊んできました。


5. ブラック・クランズマンとピクサーのひみつ展


 地元の友達・僕の弟と一緒に日比谷で映画『ブラック・クランズマン』を見て、その後六本木ヒルズで開催されている『ピクサーのひみつ展』を見てきました。
 ブラック・クランズマンは予告編では痛快刑事ものとして宣伝され、事実本編もテンポの良い映画でしたが、ガチの人種差別主義がテーマなだけに、良い映画ではあるけど笑うに笑えない内容でした。レイシストが「あの業界は〇〇人に牛耳られてる」とか「主国民の私たちが虐げられている」とかいって被害者ぶるのは、日本の在特会やネトウヨどもとまったく同じ精神構造だね。またそれを批判する側(この映画の監督含む)も、情けないことにすぐ単純な反権力・反体制に走って、結局は右と左の口汚い罵り合いに終始するあたりも日本と一緒。だからイデオロギーに興味のない大半の人は、そういう面倒くさい事には関わりたくないと思ってしまう。レイシストが非難されるのは当然だが、批判できる立場にいる事に酔って批判の仕方をはき違えると、それはもう問題解決のための道筋からかけ離れた、単に自分が「正しい」側に居る事を確認するための自慰的活動になってしまう。そんな事をラストの逆さ吊り星条旗を見て思いました。
 ピクサー展の方は、最先端のCG技術を子供にも分かりやすく解説しており、展示そのものにもすごい金がかかってて、さすが世界一の会社だと思いました。また一緒に行った弟はアニメ制作会社でCGディレクターやってますから、最高の解説者に恵まれました


6. BĐQ将校のお孫さんの家でBBQ&軍装家族写真

 日本に住んでいるベトナム人の友人の家で開催されたバーベキューパーティーにお邪魔してきました。彼のお祖父さんはベトナム共和国陸軍レンジャー部隊(BĐQ)将校でしたが、1975年のスァンロクの戦いで捕虜となり、そのまま収容所で帰らぬ人となりました。彼はお祖父さんをいたく尊敬しており、また彼は初めての子供を授かったことから、祖父の写真のように軍服を着て家族写真を撮りたいのだけど協力してもらえないかと打診を受けました。なので僕たちも一肌脱いで彼のためにBĐQ(風)の軍服を用意して一緒に記念撮影を行いました。すごく喜んで頂けましたし、僕たちとしても共和国軍人のご遺族のお手伝いが出来てとしても光栄です。
  


2018年03月14日

鹽水蜂炮に再挑戦

順番が前後しますが、タイに行く前に4日ほど台湾に行ってきました。
僕が台湾に行くのは2年ぶり2度目で、今回は前回行く事の出来なかった北投温泉、九份老街、十分老街など日本でもおなじみの観光地を堪能してきましたが、やっぱり最大の目的は『鹽水蜂炮』
2年前に参加した時は重度の胃炎に苛まれており、ほんのちょっとしか参加できなかったのが心残りだったので、再挑戦してきました。

3月2日、台北から新營駅まで台鉄の特急、そこからタクシーで鹽水に移動してSさん(通称 電冰箱)率いる台湾・日本合同チーム『鹽水周倉將軍護駕炮兵團』と合流。


我ら一番神輿、鹽水周倉將軍護駕炮兵團!!

我らがリーダー電冰箱氏一番神輿を引く権利を得たので、我々も祭りの先頭で一番神輿を引いて練り歩くという栄誉を授かりました。
なお、このチームは2年前の時点では日本人メンバーは僕と豊〇氏の2名だけでしたが、回を重ねるごとに人数が増えていき、ついに今年は日本人が計7名と、台湾人メンバーよりも多くなってしまいました。
台湾人ですらめったに手に出来ない無いチャンスを我々外国人が頂いちゃっていいのかな(笑)


そして日も傾き、午後7時、いざ出陣。

放てぇぇぇ!!!


これを午前2時過ぎまで7時間以上、ひたすらやる。
街中に無数の発射台が隠されており、次から次へと想像を絶する量のロケット花火と爆竹を浴びせられる。
なんでもロケット花火だけで二日間で300万発消費するとか。ちょっと桁数がおかしいです。
この動画はある程度浴びた後に、休憩の為列から離れた時に撮った物です。中で動画撮る余裕なんてとてもありません。
(僕の友達は気合で最前列で撮ったけど、煙で何が映ってるか分かりませんでした)

一緒に一番神輿を引いて周った最強の台湾おばちゃんと。
地元の実行委員みたいですが、祭慣れしすぎちゃってて、頭は農作業用の日除け帽、服はTシャツに実行委員のチョッキ、日除けのアームカバーのみという、信じ難い軽装です。良い子も多少頭の悪い子も絶対真似しちゃダメ。
身体に爆竹巻き付けて黒焦げになる若者は何人も見たけど、年配の女性でこれですか・・・。鹽水育ち、恐るべし。
おばちゃんは僕らが日本人だと分かっているのに、ず~とハイテンションな台湾語で僕らに何かを話し続けてました。こっちが理解できるかどうかは関係ありません。彼女は話したいから話してるのです。

こんな感じでロケット花火は、痛みさえ我慢すれば楽しかったです。
しかしその後、前回僕が体験していなかった、とんでもない地獄の我慢大会が待っていました。
神輿を引いて細い路地に入ったところ、地面が全て爆竹で覆われているのです。
マジで地面が見えないくらい、足元が全て爆竹で、その上に立ったところで神輿は停止しました。
そして点火・・・


※この動画は祭りが終わった後に残った爆竹で遊んでる人たちを撮ったもので、本番ではこの何倍もの爆竹が使われました。

熱い!熱い!熱い!マジで靴が燃えたと思いました。
さらに大量の爆煙で息が出来ず、視界もゼロで、本気で恐怖を感じました。


終わってみると、靴は燃えてはいませんでしたが、火の粉対策で巻いていたガムテープは黒焦げとなり、スニーカー本体も結構溶けていました。
僕の友達は、ズボンがポリ混紡の作業服だったので、スボンの生地が溶けて足首を火傷していました。
火の粉対策はしていたけど、足元からこんなに熱が加えられるとは想定していなかったです。これ溶接用の装備が必要だわ。

この絨毯爆竹で心が折れたので、僕と友人一名は午後11時ごろ、夕飯を食べに神輿の列から離れました。
食事の後列に戻りましたが、もう爆竹ゾーンはNG。ロケットも後ろの方から見てました。

そして午前2時過ぎ、神輿の列が鹽水の街を周り終え、出発地点の武廟に戻ったところでメインの祭りは終了。

一番神輿のリーダーとして、TシャツにウッドランドBDU一枚のみという薄着で根性を示し、
7時間近く最前列でロケット・爆竹を浴び続けた電冰箱氏の背中。男の勲章です。

(この後青あざが広がってもっとひどい見た目になるんだよ)

僕は足に2・3カ所あざが出来ただけなので、まだまだ参加賞レベル。
ちなみに午前2時に武廟を中心とするメインの祭りは終わっても、鹽水各所ではまだまだ祭りは続いており、午前4時ごろまでロケット、爆竹、打ち上げ花火の爆音が街に鳴り響きます。
僕はその日の昼にタイ行きの飛行機に乗らなくてはならなかったので、祭りが終わるとそのまま車で新幹線の駅まで送ってもらい、始発で桃園空港に戻り、着替えもせずに飛行機に乗っちゃいました。
自分でも分かるくらい服が火薬臭い。完全に危険人物だよな~と思っていたら、案の定、香港で乗り換えした際に香港警察に呼び止められ、別室で取り調べを受けました。
でも調べられたのは荷物や旅の行程などで、火薬臭い事については何も聞かれませんでした。単に見た目が怪しかったから止められただけかもしれません。
こんな感じで今回の台湾旅は締めくくられたのでした。


お祭りの様子はこちらでも詳しくレポートされてます。
2018年の鹽水蜂炮に行ってきた完全レポート http://xn--1rwm9g63x6ov.com/2018-report/ 
  


2016年12月04日

グエン・ラック・ホア神父

※2022年7月15日更新


神父オーガスティヌ・グエン・ラック・ホア
Augustine Nguyễn Lạc Hóa

 グエン・ラック・ホア神父の出自に関しては、いくつかの説が存在する。まず出生名は、『チェン・イーチョン(陳 頤政?)』という説(台湾外務省)と、『ユン・ロクファ(雲 樂華)』という説の二つが存在する。(この記事ではチェン・イーチョンとして書く)
 また出身地と誕生日についても二つの説があり、一つは1908年8月18日に、トンキン湾に面した清国広東省雷州半島の村生まれたというもの。もう一つは1908年8月28日に仏領インドシナ・トンキン ハイニン省(現ベトナム・クアンニン省)のモンカイ生まれ、両親はサイゴンに住んでいたという説である。ただし後者は現ベトナム政府が公表しているもので、これはホア神父が中国からベトナム北部に移住(不法入国)した際に、ベトナム当局に対し自分はベトナム出身だと身分を偽って申請した際の内容である可能性もあると思われる。
 いずれにせよ、ホア神父は中国広東省の漢族の家系に生まれ、キリスト教徒(カトリック)として育ち、洗礼名は『オーガスティヌ (Augustine)』であった。


日中戦争と国共内戦

 "オーガスティヌ" ・チェン・イーチョン英領マラヤのペナンで神学を学んだ後、1935年に英領香港でカトリック教会の司祭に任命された。しかしチェン神父の生まれ故郷中国(中華民国)は当時、国民党政府と中国共産党との間で(第一次)国共内戦の只中にあった。中国に戻ったチェン神父は国民党政府傘下のキリスト教武装集団の指導者の一人として、キリスト教を敵視する共産党の討伐に加わった。
 しかし1937年、日本が中国への侵攻を激化させると、対日戦に集中するため国民党政府は一転して共産党との連携(第二次国共合作)を開始した。チェン神父は再度戦争に動員され、聖職を離れて蒋介石率いる国民革命軍(現・台湾軍)の中尉を務め、広東省と広西省の境にある十万大山山脈において、圧倒的な戦力で押し寄せる日本軍に対しゲリラ戦を挑んだ。
 1945年8月、日本が連合国に降伏し8年間続いた日中戦争が終結した。その頃には、チェン国民革命軍の少佐(少校)へと昇進していた。しかし日本という共通の敵を失った国民党と共産党は再び内戦(第二次国共内戦)へと逆戻りした。この戦いの中でチェンは中佐(中校)へと昇進したが、国民党は次第に劣勢に追い込まれていった一方、チェンは軍を離れる機会を得たため、神父として本来の宗教活動を再開した。


中国キリスト教難民の漂泊

 しかし1949年、毛沢東率いる中国共産党が内戦に勝利し、中華人民共和国の成立が宣言された。その直後、毛沢東政権はヴァチカンのカトリック教会の影響力を排除するため、国内のカトリック信徒への宗教弾圧を開始した。この中でチェン神父は『反動』の烙印を押され、三日間の逃亡の末、当局に逮捕、投獄された。
 投獄から1年と4日後、チェン神父は収容所からの脱獄に成功した。その後チェン神父はパリの友人を介し、中国共産党の毛沢東に宛てて10通ほど手紙を送ったという。その内の一通は以下のような内容であったと伝わっている。
「毛先生、私は貴方に感謝ています。貴方は寛大にも、私に自由とは何かを教えてくました。今や私は、永遠に貴方の敵となりました。私は毎日、一人でも多くの人々に、貴方の敵になるよう説得を続けています。貴方と、貴方の邪悪な思想がこの世から消え去る日が来るまで」
 まもなくチェン神父は、中国共産党政府による弾圧から逃れるため、1951年に約200名の中国人キリスト教徒と共に船で中国を脱出し、ベトナム国北部(トンキン地方)ハイニン省へと移住した。当時ベトナム国はフランス連合の一部であった事からキリスト教が迫害される恐れは無く、彼らカトリック難民にとって安全な場所と思われていた。チェン神父はこの地でグエン・ラック・ホア(Nguyễn Lạc Hóa ※"Lạc Hóa"は"樂華"のコックグー表記)へと改名してベトナムに帰化し、中国人キリスト教徒のベトナムへの脱出を支援する活動を開始した。その後の6か月間で、チェン・イーチョン改めグエン・ラック・ホア神父は450世帯、2174名のカトリック信徒を中国からベトナムに入国させる事に成功した。
 しかしこの時期、ベトナム北部では毛沢東の支援を受けたホー・チ・ミンのゲリラ組織ベトミンが活動を活発化させていた。ベトミンはフランスの保護を受けるカトリックを『反民族的』と見做し、同じベトナム人であってもテロの対象としていた。さらに、ベトナム北部は古代から中国からの侵攻に脅かされてきた歴史があるため、ベトミンから中国人を守ろうというベトナム人は居なかった。こうしてベトナムでも再び共産主義者による迫害にさらされたホア神父は、やむを得ず2100名の中国人信徒と共にベトナムを離れ、隣国のクメール王国(カンボジア)に集団移住することを余儀なくされた。

 以後7年間、ホア神父率いる難民グループはベトナム・フォクロン省との国境に面したクメール王国クラチエ州Snuol郡に村を建設して避難生活を送った。しかしこの時期、クメールのシハヌーク政権は中国・ソ連・北ベトナム、特に毛沢東と密接な関係となり、共産主義に傾倒した『政治的中立』政策を開始した。難民たちは、クメールでも共産政権によって中国や北ベトナムのような宗教弾圧が始まる事を恐れ、ホア神父は三度移住を模索し始めた。
 そこでホア神父は友人のバーナード・ヨー(Bernard Yoh)の協力を得てベトナム共和国(南ベトナム)総統ゴ・ディン・ジェムと接触した。ヨーは上海出身の中国人で、イエズス会の学校で教育を受けたカトリック信徒であった。ヨーは日中戦争において故郷上海を占領した日本軍と戦うため抗日地下組織に参加し、後にアメリカOSSと中国国民党が合同で設立した諜報機関『SACO (中美特种技术合作所)』の一員として、抗日ゲリラ部隊のリーダーを務めた。大戦後は1947年にアメリカに移住し、1950年代後半からはアメリカ政府職員(CIA)としてベトナムに派遣され、ジェム総統直属の政治顧問を務めていた。
 ジェム総統は熱心なカトリック信徒であり、また強烈な反共思想を思っていた。さらに1954年のベトナム分断以降、南ベトナムにはホー・チ・ミン政権による弾圧から逃れるためカトリック信徒を含む100万人の北ベトナム難民が避難していた。ジェム総統はそうした難民とカトリック勢力に強く支持された人物であり、アメリカ政府と強いパイプを持つバーナード・ヨーの仲介もあった事から、ジェム総統は1958年にホア神父の中国人カトリック難民グループの受け入れを決定した。
 受け入れに際し、ジェム総統は移住先として南ベトナム領内の三ヵ所の候補地を提示した。ホア神父はこの中から、700平方キロメートルにおよぶ手付かずの広大な土地と、肥沃な土壌、水源を持ち、稲作に最も適していたベトナム最南端のアンスェン省(現・カマウ省)カイヌォック(Cái Nước)地区を選択した。(画像: ホア神父率いる中国キリスト教難民の避難先の変遷)


ビンフン村

 ホア神父と200世帯の難民はサイゴン政府の支援を受けて、1958年から1959年にかけてカマウの南西に位置するカイヌォック地区への移住を進めた。しかしそこは三カ所の候補地の中で最も危険と目されていた場所であった。なぜなら1954年のジュネーヴ協定調印以降も南ベトナム領内のベトミン・ベトコン勢力(後の解放民族戦線)は活動を継続しており、中でもカマウはゲリラの活動拠点として大量の武器弾薬が集積されていた為である。さらに夕方になると、ジャングルから蚊の大群が黒い雲のように発生した。土地は開墾が進んでおらず、どこにも作物の無い原野であった。難民たちは自ら煮えたぎる釜の中に飛び込んで行ったかのように思われたが、ホア神父は人々に訴えかけた。「私は滅びるためではなく、生き残るために皆さんをこの地に導いたのです。ここは肥沃な土地です。あなたたちは各自3ヘクタールもの自分の水田を持てるのです。我々の努力次第で、収穫は無限大です。私はこの場所を平らに均し、家々を建てて発展させる事を決意し、ビンフン (平興 / Bình Hưng)と名付けます」。

 こうして彼らは3ヶ月間昼夜問わず働き、住居と村落をゲリラから守るための堀と土塁を建設した。ホア神父は国民革命軍将校として日中戦争・国共内戦を戦ってきた経験から、村を防御に適した四角形にデザインし、要塞として機能するよう設計していた。また湿地帯で冠水しやすい土地のため、住人が村内を往来しやすいよう村の中央に水路の交差点と橋を構築した。村は湿地帯にある為、水路で物資を運搬する事が出来た。(写真: 上空から見たビンフン村。集落の周囲を四角い堀で囲み、防御陣地としてしている。)
 人々は小さいながらも各々の家を建て、ようやくビンフン村での生活が始まった。また難民たちには、政府からベトナム国民としての市民権が与えられた。そして過酷な労働は実を結び、数か月後には水田から大量の米が収穫された。その後、ビンフン村の水田は、1回の収穫毎に村で消費する米の3年分を生み出すまでに成長した。
 また度重なる共産主義者からの迫害により中国、北ベトナム、カンボジアと三度も移住を迫られた難民たちは、このビンフン村を最後の砦として自分たちの力で守る事を決意し、ホア神父は住民による民兵制を開始した。民兵は5名単位の班に分かれ、それぞれの班が村落の警戒にあたった。

 一方、ベトコン側は当初カマウへの中国人難民移住を無視していた。しかしビンフン村が完成し、村に黄色と赤のベトナム国旗(ベトコンにとっては反動傀儡政府の旗)が掲揚されると共に大量の作物が収穫されている事を知ると、ベトコンは嫌がらせの為の小規模な宣伝部隊をビンフン村に送り始めた。この時、ビンフン村の民兵が持っている武器は手榴弾6個と、ナイフや木製の槍しかなかった。しかし彼らの一部は国民革命軍兵士として長年日本軍と戦ってきた元兵士であった為、このような質素な武器による戦闘術を心得ており、ゲリラを撃退する事に成功していた。さらにホア神父と村人たちは周辺のベトナム人集落と協力関係を築き、情報交換しあう事でベトコンゲリラの襲撃に備えた。
 この小規模な戦闘の後、ジェム政権は1959年12月に、すでに軍では廃止されていた旧式のフランス製ライフル12丁ゲリラへの対抗策としてビンフン村の民兵に提供した。1960年になると、ビンフン村はしばしばベトコンによる襲撃や狙撃に晒されたが、ビンフン村民兵はそのたびに捕虜を捕え、彼らに村を取り囲む堀・土塁を増築工事させる事で村の防御力は高まっていった。1960年6月、サイゴン政府はフランス製ライフル90丁以上、短機関銃2丁、拳銃12丁をビンフン村に提供し、後にライフル50丁、機関銃2丁、短機関銃7丁を提供し、さらにその後、1955年にビンスエン団から押収したフランス製のルベル小銃(M1886)50丁と、アメリカ製のスプリングフィールド小銃(M1903)120丁も追加した。しかし銃の数に対し弾薬が不足していた為、ビンフン村ではバーナード・ヨーやホア神父が猟銃用に使っていた古い弾丸組み立て機を使い、自家製のライフル弾を製造した。

 1960年11月19日、サイゴン政府はビンフン村民兵部隊を、政府が統制する民兵組織人民自衛団(Nhân Dân Tự Vệ)』正式に編入し、部隊名を人民自衛第1001団(Nhóm NDTV 1001)』として、ベトナム共和国軍(Quân đội VNCH)の指揮下に組み込んだ。隊員は18歳から45歳の住民で構成され、訓練は特殊部隊が担当した。その内容は基礎教練、武器の取り扱い、心理戦、情報評価、通信、応急処置などで、短期間で集中的な訓練が施された。
 1960年12月には、ベトコン工作員が単身ビンフン村に潜入し、村に掲げられていたベトナム国旗をベトコンの旗に置き換えようと試みたが、この工作員は間もなく発見、射殺された。この報復として、ベトコンは昼夜関係なくビンフン村への襲撃を開始し、週に2回は大小の戦闘に発展した。その後6回ほど大規模な戦闘が行われたが、ベトコン側はビンフン村側に対し8:1の割合で死傷者を出していた。ベトコンとの戦闘を経験し、ホア神父はただ襲撃されるのを待つ事を止め、自ら積極的にベトコンゲリラを捜索・掃討すべく、ビンフン村民兵に周辺のパトロールを毎日行うよう命じた。
 そんな中、1960年末にホア神父は村の資金調達のため護衛と共にサイゴンに出張した。するとそれを見計らい、1961年1月3日に約400名のベトコン部隊がビンフン村を襲撃した。村はライフルや短機関銃の集中砲火を受け、村人たちは皆地面に伏せて逃げ惑った。そしてベトコンは村に戻ったホア神父ら80~90名の民兵部隊を2方向から待ち伏せしたが、勝ち急いだベトコンは民兵による反撃を受け、20~30mの距離で発砲し合う接近戦となった。戦闘はその後三日間続き、ベトコン側は計800名のゲリラを戦闘に投入したが、最終的に172名の死亡者を出し、ビンフン村から撤退した。一方、ビンフン村側の死者は16名であった。

 この戦いの直後、アメリカ空軍のエドワード・ランズデール(Edward Lansdale)准将はビンフン村を訪れ、村人の戦闘能力を高く評価するレポートを本国に提出した。ランスデール准将は1953年にアメリカ軍MAAGインドシナの一員としてベトナムに派遣されて以来、長期に渡ってベトナムでの政治工作に従事していたCIAエージェントでもあり、当時はジェム総統の顧問駐在武官という立場にあった。(写真: ラスデール准将とゴ・ディン・ジェム総統, HistoryNet.comより)
 この報告を受けたジョン・F・ケネディ大統領(アメリカでは少数派のカトリック信徒)はビンフン村に強い関心を持ち、アメリカ軍による東南アジア自由世界(=親米・反共勢力)への軍事支援計画『プロジェクト・アージル(Project AGILE)』の対象にビンフン村も加えるよう指示した。ジェム総統は、村の防御力をより完全なものに強化するため、アメリカ軍から提供された武器・弾薬・医療・食品などの軍事支援物資をビンフン村に与える事を許可した。プロジェクト・アージルはケネディ大統領の指示によりアメリカ国防総省ARPA(高等研究計画局)が1961年に開始した、東南アジアにおける共産主義勢力の排除を目的とした限定的非対称戦争計画であり、ベトナムの他、ラオスやタイの政府軍、カンボジアの反共・反政府組織『自由クメール抵抗軍』に対しても軍事支援が行われた。
 またホア神父とバーナード・ヨーは慈善団体やサイゴン政府当局に対し、警備活動、医療、教育、小麦粉や食用油などの食料品など、難民への生活支援を求める活動を絶え間なく行っていた。その結果、ビンフン村には中国人難民に加え、北ベトナム出身のベトナム人カトリック難民もホア神父の下で暮らすためビンフン村に集まり、村の人口は開村から2年で4倍に増加した。


海燕(ハイイェン)

 1961年6月、ホア神父はビンフン村民兵の部隊名を第1001から、『ハイイェン(海燕 / Hải Yến)』に変更する事をジェム総統に提案し、合意を得た。ハイイェンの名は白黒二色の海燕がカトリック司祭のキャソック(司祭平服)を連想させる事、田畑の害虫を食べ農民を助ける鳥である事、さらに渡り鳥である海燕は毎年生まれ故郷の中国に帰ってくる事から、いつか故郷へ帰還する希望をこめて選ばれた。この時点で、『人民自衛団部隊ハイイェン(Lực lượng NDTV Hải Yến)』には340名の民兵が所属し、さらに80名が新兵として訓練中であった。またハイイェンはボーイスカウト式の『三指の敬礼』で互いに敬礼を行った。(画像: ハイイェンの部隊章。隊員は軍服の左袖にこの徽章を佩用する)
 1959年以降、ジェム総統は180名のビンフン村民兵に与える賃金を捻出するため一部民間の資金を使用していたが、1961年には300名の民兵に対し、階級に関わらず一人一律12米ドルの月給が国費から支払われるようになった。さらに40余名分の供与はホア神父が自費で捻出した。しかしこれらを合わせてもビンフン村を維持するための資金は十分とは言えず、兵士は訓練に参加しただけでは賃金が発生せず、食事が提供されるのみであった。さらにホア神父とバーナード・ヨー村人が着用する衣類など集め、その生活支えるために個人的な借金を重ねていたが、その額は1961年半ばまでに合わせて10万米ドルに達していた。
 しかし正式に国軍の指揮下に入った後も、ホア神父は軍の将校としての地位と賃金を受け取る事は固辞し、ビンフン村の指導者として無償で数多くの軍事作戦に志願し、その指揮官を務めた。ホア神父は聖職者である自分が軍事作戦を指揮するに事について、所属するカトリック教区の司教に相談したことがあった。その時司教はそれを許可しなかったが、ビンフン村の住人にとってホア神父のリーダーシップと軍事経験は村が生き残る為の唯一の希望であった事から、ホア神父は司教の言葉を無視し、自ら戦場に赴いた。(写真: 軍服姿でハイイェンのパトロール部隊に同行するホア神父.1962年。狩猟が趣味のホア神父はしばしば、パトロールの際にアメリカ軍アドバイザーから入手した16ゲージ散弾銃で家畜を襲う鷹を獲り楽しんだ。)

 その後、政府からビンフン村にまとまった財政支援が行われると、ホア神父は村を守るための傭兵を募りに南ベトナム中を周った。彼はそこで、ビンフン村での生活は安い給料の割に戦闘は激しく、生命の危険がある事を警告したが、それでも242名のデガ(山地民/モンタニヤード)と、ヌン族1個中隊=132名がハイイェンに志願した。
 デガの多くはカトリック信徒であり、その上デガは長年ベトナム人から迫害を受けていたため、非ベトナム人カトリック組織であるハイイェンに進んで参加した。またヌン族グループはホア神父やビンフン村の人々と同様に、かつて蒋介石の国民革命軍に所属し、その後毛沢東、ホー・チ・ミンによる弾圧から逃れ南ベトナムに流れ着いた中国出身の難民たちであった。
 彼ら元国民革命軍のヌン族兵士は、国共内戦に敗れると他の国民党勢力と共にベトナム北部に移住し、その地でフランス植民地軍に参加して第1次インドシナ戦争を戦った。しかしフランスが撤退し北ベトナムがホー・チ・ミン政権に支配されると、5万人のヌン族が南ベトナムに避難した。そこでもヌン族はゴ・ディン・ジェム政権の下でベトナム共和国軍に参加し、『ヌン師団(第16軽師団・第3野戦師団)を構成していた。しかし1959年にヌン師団師団長ファム・バン・ドン少将がジェム総統との確執から更迭されると、これに反発した多数のヌン師団将兵が政府軍から脱走し、以後元ヌン師団兵士たちはアメリカ軍MAAGおよびベトナム共和国軍特殊部隊などに傭兵・基地警備要員として雇われていた。こうして彼ら傭兵の指導者たちはビンフン村に鉄兜(軍事力)をもたらし、ホア神父は彼らに祭服(信仰)をもたらす事で、ゲリラに対抗しうる強力な戦力を整えていった。

 ホア神父の方針は、ただ攻撃されるのを待つだけでは戦いに勝つことはできず、自ら打って出て敵を撃破する事ではじめて勝利を掴め得るというものであった。ハイイェン部隊は毎日、毎晩、どんな天候でもパトロールに出撃し、そして必ずベトコンの待ち伏せを発見する事が出来た。それはビンフン村が周囲のベトナム人農村と協力関係を築き、この地域で活動するゲリラやスパイに関する情報が周辺住民から逐次提供されたからであった。同時にハイイェン側も商人に偽装した工作員をベトコンと接触させ、敵側の情報を収集する情報網を作り上げた。
 ホア神父は常々、ゲリラを撃退する最善の方法は、敵がまだ一カ所にまとまっている段階でこちらから攻撃を仕掛ける事であり、こうすれば敵は統制を失い、簡単に叩く事が出来ると力説した。その言葉の通り、ホア神父が指揮するハイイェン部隊は次々と戦いに勝利し、ビンフン村の周囲からベトコンを一掃出来た事を彼自身誇りとしていた。過去2年間で、ベトコン側はハイイェンとの戦いで約500名の死者を出したが、ハイイェン側の死者はわずか27名であり、さらにその大部分は、戦闘ではなく対人地雷やブービートラップによるものであった。このようにハイイェン兵士の戦闘能力は非常に高く、政府軍のアンスェン省長官からの要請により、しばしばハイイェン部隊の一部を他地域への増援として貸し出すほどであった。
 ある日、ホア神父はこの地域のゲリラが成果を出せなかったことから、ベトコン上層部は他の地域から兵力を移動させているという知らせを聞いたが、彼はこれをハイイェンが確実にベトコンに損害を与えている証拠と捉え喜んだという。以前にもホア神父は別の地域から派遣されたベトコン部隊と戦っ事があったので、もし新たな敵が現れたとしても、ハイイェンはいつも通り敵を血祭りにあげるか、捕虜にするだろうと確信していた。(写真: ベトコンに勝利し解放戦線の旗を鹵獲したハイイェン兵士)

 共産主義者を憎むハイイェンの兵士たちは、一たび戦闘となると猛烈な敵意をもってベトコンを攻撃したが、一方で捕虜の扱いには慎重であった。ハイイェンはそれまでの三年間で200名以上のベトコン兵士を捕虜にしており、その中には多数のベトコン幹部と工作員も含まれていた。
 捕虜たちは窓のない長屋に収監されており、特に頑固で反抗的な約40名のベトコン兵士が独房に監禁されていた。しかし他の108名の捕虜たちは、夜寝る時間以外は長屋から出る事が出来た。彼らには一日5~6時間の労役が課せられていたが、日曜日は休日として労役からも解放された。捕虜には一日三食の食事が与えられ、さらに少ないながらも労役に対する賃金が支給され、その金でタバコなどの嗜好品を買うことができた。村人たちは捕虜に対し友好的な態度を取り、しばしば衣類や食料品を差し入れした。また捕虜を収容する長屋にはベッド、毛布、蚊帳まで用意されており、これには一般のゲリラ兵士だけでなくベトコン中核幹部まで、その人道的な扱いに感動を覚えたたという。またベトコンはしばしば農村の女性や子供までもをゲリラ兵士として戦闘に動員したが、ハイイェンはこうした捕虜は長屋に収容せず、また子供の場合はその親を村に呼び寄せ、他の住民と同じくビンフン村の中で生活する事を許した。(写真: 捕虜としてビンフン村内で生活するベトコンの女性・子供たち)
 加えて、村では捕虜たちに対し一日2時間、自由と民主主義、そして共産主義の実態について学ぶ教室が開催された。捕虜となったゲリラ兵士のほとんどは、民主主義も共産主義もよく知らず、ただベトコンが語る『解放』という抽象的な希望にすがっただけの貧しい農夫たちであった。そしてホア神父は捕虜たちがこの講義の意味を十分理解したと感じると、彼らを解放し各自の村に帰した。
 この厚遇を体験した捕虜たちは、こうしたホア神父の寛大で誠実な人柄に瞬く間に魅せられたという。ある日、捕虜を見張っていた年配の看守が、勤務中に酒を飲み、へべれけに酔っぱらってしまった事があった。しかし捕虜たちが逃亡する事はなかった。それどころか捕虜たちは、看守がライフルを置き忘れないよう、本人に代わって持ち運んであげたという。
 捕虜の一部には、ホア神父の理想と人柄に感化され、ベトコンを離れハイイェン部隊に加わる事を願い出る者さえいた。またベトコンはしばしばスパイ活動と破壊工作のために、若くて美しい女性をビンフン村に潜入させていたが、彼女たちの中にもビンフン村の実情を目の当たりにして考えを改め、自分はスパイだったと名乗り出て、ハイイェンへの協力を申し出る者がいた。ホア神父はこうした申し出を寛大に受け入れ、元ベトコン兵士たちがビンフン村内の小さな集落に住むことを許可した。ホア神父が目指す自由で寛容な世界は、残忍なテロで暴力革命を進めるベトコンの扇動よりも、貧しいゲリラ兵士たちの心を打つものであった。

 ビンフン村を訪れた外国人記者たちは、かつて19世紀の小銃で武装した340名の雑多な民兵に過ぎなかったハイイェンが、わずか1年間でM1ライフルやM1カービンを装備し、カーキ色の制服で統一され、非常に統制のとれた、まるで政府軍のような500名の精強な兵士たちに成長したこと驚きを禁じ得なかった。しかし当時村に対するベトコンの攻撃は頻発しており、ハイイェンの民兵たちだけでビンフン村および周辺の集落を守り切る事は、記者たちから見ても容易ではないように思われたという。それでもホア神父は常に自信を持った態度で人々に接しており、村人はホア神父を親しみと尊敬をこめて『おじいちゃん(爺爺)』と呼んでいた。またハイイェンの守備部隊は毎日死と隣り合わせの危険な任務を送りながらも、他の誰からも信仰を妨げられることのないビンフンでの生活に心は晴れ晴れとしており、村人たちは皆ここでの生活に満足しているように見えたという。そのような村落は、カトリックが優遇されていた当時の南ベトナムにおいても、ビンフン村ただ一つであった。
 欧米メディアはビンフン村を、『死を恐れず敵の中心で戦いに挑むキリスト教難民の村』『不屈の村(A village that refuses to die)』として取り上げ、驚きと共感を持って報じた。その姿は、東南アジア諸国への軍事支援を強化するケネディ政権の『成果』の一つとしてアメリカ国民にも好意的に受け入れられ、1961年にはケネディ一家が毎年夏の休暇を過ごすマサチューセッツ州の避暑地ハイアニスポート村や、同州のニューベリーポート市がビンフン村と姉妹都市を宣言した。またニューヨーク市は友好の証として、同市のシティーキー(都市間の信頼関係を示す鍵を模したオブジェ)と、ビンフン村のペナントを互いに交換した。そしてこの年のクリスマスには、西側世界の各国からクリスマスカードやプレゼントがビンフン村に届けられた。こうして村には訪問者やジャーナリストを載せたヘリコプターが定期的に行き来するようになり、ホア神父は56名のハイイェン兵士を選抜し、重要な来賓を迎えるための儀仗部隊を編成した。(写真: ビンフン村における米国ニューベリーポート市との姉妹都市記念式典, 1961年)
 1962年にビンフン村を取材した米国のニュースレポーター スタン・アトキンソン(Stan Atkinson)特にホア神父の人柄に心酔し、ビンフン村に住み着いて村人と共に生活しながら現地の状況をリポートした。後にスタンは体調を崩しビンフン村を離れざるを得なくなったが、その際ホア神父に、何か村に送って欲しい物はあるかと尋ねた。スタンはホア神父が医薬品や武器弾薬を求めると思っていたが、ホア神父の答えは、ディズニーランドのTシャツ1500枚と、コカ・コーラの看板をいくつか、というものであった。それはビンフン村がアメリカからの支援を受けている事をベトコン側に誇示し、心理的に優位に立つための戦術であった。スタンはその後、実際にそれらの品をビンフン村に送り、村人たちはディズニーランドのTシャツを『制服』として日々着用した。またコカ・コーラの看板は敵に見えるよう村の外側に設置され、コークの在庫状況が掲示されるとともに、ベトコンを抜けてビンフン村で共に暮らそうというメッセージが書かれていた。
 また当時、ハイイェンでは作戦時にしばしば、男性兵士の後に続いて女性看護兵も共に出撃していた。彼らお互いを『兄弟』または『姉妹』と呼び、皆強い仲間意識と敢闘精神で結ばれていた。彼女たちビンフン村の女性は、妻であり、母であり、同時に前線の戦闘員でもあった。ビンフン村には約300名の女性兵士が居り、男性兵士が村の外に出撃ししている間は、女性たちが村の防御を担当した。彼女たちは男性兵士と同様に18歳から45歳までの志願者で構成されており、2か月間の軍事教練において武器の使用について必要な訓練を受けているため、重い機関銃でも十分に操作できた。その姿はこの村の境遇とも相まり、イスラエル軍の女性兵士を彷彿とさせたという。ある記者が、なぜこの村の人々は皆あのような苦痛と命の危険を伴う任務に志願したがるのかと質問したところ、ホア神父はこのように答えた。「人は皆、何かをするために生まれたのです。」 (写真: ハイイェンの女性看護兵たちと台湾のテレビ特派員スー・ユーチェン-左から三番目)


アメリカのテレビ局が作成したビンフン村のドキュメンタリー番組『不屈の村(A village that refuses to die)』 (1962)
[主な内容]
00:15 ハイイェンに捕縛されたベトコン捕虜
03:45 ビンフン村の土塁と防御陣地
07:30 労役として湿地から泥のブロックを切り出し土塁を強化する捕虜
09:02 ビンフン村の病院
10:03 ハイイェンによるビンフン村周辺のパトロール
10:50 ビンフン村の学校
11:35 ボートで遠方へのパトロールに向かうハイイェン
13:10 ベトコンの宣伝看板を発見し警戒を強めるハイイェン
14:56 カオダイ教徒の村の捜索
19:40 ビンフン村に収容されたベトコン捕虜
20:32 鹵獲されたベトコンの武器、伝単、
21:36 ベトコンに戦う事を強要されていた少年タイ
22:31 政府軍のC-47輸送機によってパラシュートで投下される村の生活物資
27:25 ビンフン村のパン屋
28:05 ホア神父とカトリック住民の朝の礼拝
29:50 胃の病で死亡したハイイェン兵士の葬儀


ハイイェン独立区

 ホア神父の名は『戦う神父』として知れ渡り、カマウで知らぬ者はいないほどの名士となっていた。ジェム政権は、ビンフン村が行っていた集落を一カ所に集合させる事で農民をゲリラから隔離し、住民自身を自衛戦力化する手法はベトコンへの対抗策として非常に効果的であるとして政府の政策に取り入れ後に『戦略村(Ấp Chiến lược)』計画として全国の農村を、ビンフン村を模した自衛村落化へと変えていく政策を推し進めた。(ただしこの手法は、ビンフン村が最初から要塞として設計され住民が狭い範囲に住んでいたからこそ成功したのであり、元々広大な田園地帯に家々が点在するベトナムの農村では、むしろ住民は強制移住させられる事を嫌って政府への反発を強める結果となってしまった。戦略村計画は長年サイゴンの政府中枢で数々の要職を務めたベトナム共和国軍の"アベール"ファム・ゴク・タオ(Albert Phạm Ngọc Thảo)大佐の主導で進められた政策であったが、実際にはタオ大佐は政府に潜入していたベトコン側のスパイであり、初めからこの計画を失敗させて農村地帯における政府の支配力を低下させるを目的としていた)

 1962年2月には、サイゴン政府はビンフン村およびその周辺の村落を包括する戦術エリア『ハイイェン独立区(Biệt Khu Hải Yến)』を設定し、ハイイェン部隊は『ハイイェン独立区人民自衛団(NDTV Biệt Khu Hải Yến)』へと昇格し、ホア神父はハイイェン独立区長官に任命されたハイイェン独立区の範囲21の村落、人口25,000名、面積は約400平方キロメートルに及んだ。
 ホア神父が1959年にビンフン村を設立した時点では、後にハイイェン独立区となるこの地域の住民の90%はベトコン・シンパ、またはゲリラから協力を強要されている人々であった。しかしホア神父の民兵部隊が村から遠く離れた戦場まで進軍し、ベトコンを撃破してゆくのを見る度に、住民たちはビンフン村側に寝返っていった。(画像: ハイイェン独立区の部隊バッジ)

 一方、ビンフン村への軍事支援を開始したアメリカ軍はまず初めに、1961年9月にアメリカ海兵隊から7名の調査チームをビンフン村へ派遣した。彼らはそこで1ヶ月間、村の防衛に関する戦術上の問題などを洗い出した。その後、村には新たに3名のアメリカ軍アドバイザーが派遣され、村の飛行場の整備、防衛業務を補助するとともに、部隊を運用するにあたっての気象条件に関する調査を実施した。
 1962年3月には、アメリカ軍のトップである統合参謀本部議長ライマン・レムニッツァー(Lyman Lemnitzer)大将が直接ビンフン村を視察に訪れ、この地の戦況についてホア神父と会談した。さらに同年、アメリカ軍は『プロジェクト・アージル』の一環として、通常の軍事物資に加えて当時アメリカ軍でテスト中であった新型小銃アーマライトAR-15 (コルトAR-15 Model 01)をハイイェン部隊に10丁配備し、実地テストを行った。
 またアメリカ軍はハイイェンに陸軍特殊部隊のチーム(後の第5特殊部隊群A-411分遣隊)を派遣し、特殊作戦の専門家たちがハイイェン部隊を補佐した。(写真: ビンフン村を訪問するレムニッツァー大将と出迎えるホア神父, 1962年)

 こうしてハイイェンはベトナム政府とアメリカ軍双方から支援される唯一の非正規軍事組織となっていた。サイゴン政府はビンフン村を参謀部第4戦術地区司令部の直接指揮下に置き、ホア神父にその指揮の全権を与えた。この時点でハイイェンは152mm榴弾砲や迫撃砲、機関銃などで武装した戦闘部隊を10部隊保有し、それぞれがビンフン村の周囲に駐屯していた。各部隊には138人が所属し、3個の支隊で構成され、各支隊は3個の分隊で構成された。(写真: ビンフン村の中央に掲げられたジェム総統の肖像, 1962年)
 ホア神父は、今やハイイェンの兵力は1,000名にまで増強されたが、そのうち600名はかつて中国国民党勢力として日本や中共軍と戦った元中国軍人(漢族およびヌン族)だと語った。ビンフン村には中国からの亡命者の村として、ベトナム国旗に加えて、中華民国(台湾)の国旗 青天白日満地紅旗も掲げられていた。ビンフン村の中国人たちは、いつか世の中が平和になったら、故郷の中国に帰る事を夢見ていた。ハイイェンの隊歌には、ホア神父と共に中国、ベトナムで戦い続けた兵士たちの静かなる決意が込められている。
眠れ!自由の戦士たち!
君は自由の種をまく。
自由を愛する世界中の民のため、
君と同じく 嵐の中で
戦い、戦い、戦い続ける人々のため
勝利を
その目に映すまで。
(英語訳より和訳)
 この時点でハイイェンはビルマ北部に次ぐ規模の亡命国民党勢力であり、台湾の蒋介石政権ハイイェンへの軍事支援を行った。ホア神父は台湾を訪問し、蒋介石総統との会談においてこのように語った。「この14年間、私たちはさ迷い歩く孤児のような状態でした。しかし今、私たちは祖国(中華民国)からの暖かい支援と感心を頂いております。我々のベトコンとの戦いは、もはや我々だけの孤独なものではなくなったのです」

 1963年末には、ハイイェン部隊はハイイェン独立区の面積の約半分に当たる200平方キロメートルの地域からベトコンを掃討し、人口の60%をその管理下に置いた。カマウ半島は古くからベトコン勢力が強い地域であったのにも関わらず、ハイイェンはこの地域一帯のサイゴン政府軍で最も強力な部隊となっていた。しかし依然、二つの主要なベトコン拠点地域は約400名のゲリラによって防御されており、ハイイェン独立区の人口の40%はそのベトコン支配地域内に住んでいた。
 ベトコンを駆逐したことで、ハイイェンが掌握した地域の人口は一気に約18,000名に拡大したが、ホア神父はその内の約3,700名のカトリック信徒と、その他の宗教の住民を差別する事は無かった。ホア神父は人々に「この戦いにはカトリックも仏教も関係ありません。我々が自由のために戦う以上、我々自身も他者の自由を認めなければならないのです」と訴えた。折しも1963年にはジェム政権による極端なカトリック優遇・仏教排斥政策に反発した仏教徒・学生らによる暴動と、それに対抗する政府による凄惨な弾圧が南ベトナム全土に広がった『仏教徒危機』が発生していたが、ハイイェン独立区の中だけは宗教的な対立が発生しなかった。

 しかし問題は山積していた。人口の増加したビンフン村は防御陣地としては大きくなり過ぎ、本来の要塞としての機能を十分に発揮できなくなりつつあった。また逆に、ベトコンや中共に対し、反攻に転じるための反共産主義勢力の軍事的拠点となるには、この村は小さ過ぎた。
 一方でハイイェン独立区人々の絶え間ない努力によって経済的にも発展し、自衛戦力がますます増大した。ビンフン村の周囲には守衛所、鉄条網、人海戦術による突撃を阻止するための地雷原が設置され、運河は村の東西を繋ぎ、村の前の前哨路まで伸びた。当時村の人口は約2,000人であり、そのうちの90%が中国人であった。村には電気、水道、運動場や病院も備えられた。(写真: ハイイェン独立区を取り囲む鉄条網と正門)
 人口の増加に伴い、ホア神父は人々が住む家のモデルハウスを自ら設計して、その監督下で建物が建設された。ホア神父は、ビンフン村のある湿地帯にも、堅牢な建物が建てられることを証明したかった。なぜならビンフン村やハイイェン独立区は都市部から遠く離れた陸の孤島であるため、人口増加に対応できるほどの生活用品を運ぶ為には、飛行機による空輸に頼るしかなく、そのために最低でも短距離離着陸能力のあるC-123輸送機やC-46輸送機が使用できる滑走路を作る必要があったからであった。また村には就学年齢に達した300名の児童が居たが、当時村にはまだまともな学校が無かったため、子供たちへの教育は各家庭および移動教室で行われていた。ホア神父は、その子たちの為にも丈夫な学校を作ってあげる必要があった。(写真: 仮設の学校で学ぶビンフン村の子供たち)
 そしてホア神父の努力は実を結び、ハイイェン独立区内には1964年初めまでに、湿地から1m盛り土し地盤を強化した上に、長さ700mの滑走路を持つ飛行場が完成した。また耕作地はビンフン村から遠く離れたタンフンタイ(Tân Hưng Tây)まで開墾が進んみ、米の作付面積は一気に増大した。
 1964年8月には、ホア神父はフィリピン共和国マニラにて、『アジアのノーベル賞』とも呼ばれるマグサイサイ賞(Ramon Magsaysay Award)の社会奉仕賞を受賞した。マグサイサイ賞は初代フィリピン大統領ラモン・マグサイサイを記念し、社会貢献や民主主義社会の実現に貢献した人物に送られる賞で、ロックフェラー兄弟財団の援助によって運営されている。
 民族と宗教に寛大なホア神父とビンフン村の人々の理想は、村の開設以来守られ続けた。一つの村の自衛組織に1,100名以上もの兵士が進んで参加したのは、ひとえにグエン・ラック・ホアという自由を求めて戦う一人の修道司祭の存在があったからであった。ホア神父はビンフン村の記念碑に刻む碑文に、彼に付き従ってきた人々と、自分自身に向けた言葉として、中国南宋時代の人物 文天祥の詩を引用した。
人生自古誰無死 留取丹心照汗青
意解:人生は昔から死なない者はないのであって、どうせ死ぬならばまごころを留めて歴史の上を照らしたいものである。(宋の政治家 文天祥は1278年、五坡嶺(現・広東省海豊県の北)で元軍に捕えられた。元の将軍張弘範は、宋の最後の拠点厓山(現・広東省新会県の南海上にある島)を追撃するのに強制的に文天祥を帯同し、宋の総大将張世傑に降伏勧告の書簡を書くよう求めたが、文天祥は拒否してこの詩を作った。)
 しかしビンフン村でホア神父と共に過ごしたスタン・アトキンソンによると、当時ますます混迷を深め、堕落の一途を辿るサイゴンの政治情勢にホア神父は失望感を募らせ、ここベトナムでも人々が自由に生きるという夢は叶わないと予見していたという。
 ホア神父は誰から見ても公明正大な人物であったが、ハイイェンやビンフン村が拡大してゆくと、ベトコンだけでなくサイゴン政府側のベトナム人の中にも、中国人難民たちが力を付けている事を快く思わない者や、ビンフン村で収穫される莫大な米の利権を狙う者たちがいた。ホア神父はジェム政権と常に深い関係にあったが、同時に腹の底ではベトナム人たちを警戒していた。さらにビンフン村を支援していたゴ・ディン・ジェム総統とジョン・F・ケネディ大統領は、それぞれ1963年に暗殺され、ホア神父は二人の国家元首の後ろ盾を失った。
 そうした中で、軍事作戦ではハイイェンを倒せないと悟ったベトコンは、ホア神父を失脚させるための宣伝工作を行った。それは、ホア神父やハイイェンの兵士の多くは亡命という形でベトナムに入国してきた『中国人』であり、その中国人に軍の指揮権を与え武装勢力として活動させる事は国籍法に違反している、というものであった。歴史的に中国への反感が強いベトナムにおいて、政府が『中国人武装集団』を支援して強い権限を与えているという事実は、サイゴン政府の腐敗を糾弾する世論(もちろんベトコンによる世論誘導工作の結果でもあったが)の中で、政府による『不祥事』として問題視された。そしてベトコン側の目論見通り、政府は最終的にホア神父をベトナム国籍とは認めず、支援を完全に停止してしまった。
 そして1964年半ば、サイゴン政府は以前からホア神父と親交のあった政府軍所属のヌン族の少佐2名をハイイェン独立区に派遣した。政府はこのヌン族将校が新たなハイイェン独立区長官に就き、ホア神父は一般のカトリック司祭ならびに村の顧問という役職へと退くことを求めた。これに対しホア神父は、「私もこの(指導者としての)困難な責任から逃れたいと思っていたし、村の自衛部隊が存続できるならそれでいい。ただし、村の修道士を軍に動員するのはやめて欲しい」と述べ、政府の要求に従った。

 ホア神父が指揮官から退いた後も、ハイイェン独立区はアンスェン省の人民自衛団部隊として引き続き、政府軍の指揮下で作戦を継続した。そしてホア神父に代わってハイイェンの実質的なリーダーとなったのが、ホア神父の下で村の修道士をしていたニェップ(Niep)という男であった。ニェップは政府軍の中尉の階級を持っており、ハイイェンの中隊長を務めた。また過去にはCIAの秘密作戦に参加し北ベトナムに潜入した経験もあった。
 1960年代末、ハイイェンにはアメリカ軍特殊部隊A-411分遣隊に代わって、アンスェン省を担当するMACV(ベトナム軍事援助司令部)のアドバイザーチーム59(AT-59)およびチーム80(AT-80)が派遣され、ハイイェンへの補佐を引き継いだしかし当時アンスェン省の司令官だった政府軍のヌォック(Nuoc)少佐は横暴な男で、住民から勝手に『税金』を徴収して私腹を肥やし、さらに自分に従わない住民やアメリカ軍アドバイザーに発砲するなど、人々の生活を脅かし始めた。そこでハイイェンとアドバイザー達は結託してヌォック少佐を指揮官の座から引きずり下ろし、代わりに他のレンジャー大隊を指揮していた誠実なベトナム人大尉を指揮官に据えた。こうしたハイイェンとアメリカ軍アドバイザーとの絆はアメリカがベトナム戦争から撤退するまで続いた。(写真: MACV AT-59のヘンリー・デジネイス少佐とホア神父)


自由の終焉

 その後もハイイェン独立区はゲリラによる襲撃を退けていたが、ベトコンはその主力部隊を徐々に南ベトナム国内のゲリラ(解放民族戦線)から、国境を越えて南侵する北ベトナムの正規軍(ベトナム人民軍)へとシフトし、戦闘はそれまでの不正規(ゲリラ)戦から、南北の正規軍同士が激突する大規模なものへと変貌していったしかしアメリカをはじめとする西側同盟国はベトナム戦争から撤退した後、南ベトナムへの支援を大幅に削減していた。一方でベトコン側は引き続きソ連・中国から無尽蔵に軍事支援を受け続けており、パリ協定を無視した南ベトナムへの侵攻を続けた。そして戦争の大勢は、次第にベトコン側に傾いていった。
 ゲリラとの戦いでは無敗を誇ったハイイェン部隊と言えども、たった1,000人強の民兵が戦車や重砲で武装した数十万人規模の正規軍を相手に戦うことは不可能であった。そしてビンフン村の人々はベトコンによる報復を恐れ、ベトナムから脱出するため村を離れて散り散りになった。事ここに至り、ついにベトナムでも自由を得る機会は失われたとして、ホア神父は失意の中ベトナムを去った。
 その後ホア神父は国民党の伝手で台湾に渡り、首都台北のカトリック教区に司祭として勤めながらその地で晩年を過ごしたという。ただし台湾移住後もホア神父は反共運動の指導者としての発言を続けており、1972年9月には、日本の田中角栄首相が北京を訪れて中華人民共和国との国交正常化交渉を進めている事を痛烈に批判した。(その直後、日中国交正常化が宣言された事に反発し、台湾政府は日本との断交を宣言した)
 そして1975年4月30日、ついに北ベトナム軍はベトナム共和国の首都サイゴンを占領し、戦争はベトコン側の勝利に終わった。

 1989年、グエン・ラック・ホア台北市内において81歳で死去した。死と暴力が吹き荒れる動乱の中国・ベトナムにおいて、弾圧から人々の信仰を守る為の戦いに生涯を捧げた人生であった。
(写真: 天の軍団を率いサタンを打ち倒す聖ミカエルの像とホア神父. ビンフン村, 1964年)

 スタン・アトキンソンはホア神父について、ニュースレポーターとして世界中を周った中で、彼ほど優れた指導者には出合ったことが無く、人生でもっとも忘れ難い人物だと語る。そして自身が1999年にジャーナリストを引退するにあたり、最後に執筆した記事はホア神父と共に過ごした日々についてであった。
 また、ホア神父と二人三脚でビンフン村を創りあげたバーナード・ヨーは、1963年にアメリカに帰国しており、アラバマ州モントゴメリーのアメリカ空軍航空戦大学(Air War College)で対ゲリラ戦と心理戦の講師として教鞭を執っていた。1974年からは保守系メディア監視団体アキュラシーの幹部としてメリーランド州ロックヴィルに居住し、1995年に74歳で死去した。


共産ベトナムでの評価

 1976年の南ベトナム併合後、ベトナム共産党による独裁政権が40年間続いている現在のベトナム社会主義共和国において、ホア神父は今もなおベトコン政権によって、『ビンフン村の頭目として大量虐殺や強姦を指示し、被害者の腹を裂いて内臓を取り出し、その肝臓を食べた』、『ビンフン村は共産主義革命の拠点を破壊するためサイゴン政府によって作られた工作部隊だった』、『"肉屋"グエン・ラック・ホアは司祭の服をまとった残忍な殺人鬼であり、1,600人以上の人々を無残にも殺害した』(カマウ省政府公式サイト)喧伝されているそして現在、ビンフン村のあった場所には政府によって、ハイイェンに殺害された『民間人』を悼む記念碑が設置されている。またかつてビンフン村の人々が行き来した村の中央の橋は、『捕虜たちはこの橋を渡った先で拷問を受けて殺害された』として、『別れの橋(Cầu Vĩnh Biệt)』と名付けられている。(写真: ビンフン村の橋の当時と現在の様子)
 ただしこれはホア神父やハイイェンに限った話ではなく、1975年までにベトコン(ベトナム労働党・解放民族戦線など)と対立した、または非協力的だった者は全て、戦後『人民の敵』の烙印を押され、終戦から40年以上経った今現在も、ベトコン政権によってその『悪行』が学校教育やメディアを通じて国民に喧伝され続けている。


【参考文献・ウェブサイト】
The Sea Swallows, Henry Dagenais (2014)
MACVTeams.Org, MACV Team 80 – An Xuyen
  


2016年09月19日

ベトナム華人と三合会

今週末のベトベトマニアの年代設定は1966年なので、勉強がてらこの年に起こったある事件を取り上げてみます。

出典: AN NINH THẾ GIỚI記事
Hội Tam Hoàng và vụ xử bắn Tạ Vinh: Nhiệm vụ bất khả thi


米価高騰とタ・ヴィン逮捕

 1966年元旦節の直後、南ベトナムにおいてキロ5ドンだった米の流通価格が突然6ドン、7ドンへと高騰し、当時の肉体労働者の日当8ドンに迫ろうとしていた。政府による捜査の結果、サイゴンの華人街チョロンで『無冠の王』と呼ばれる男の存在が浮かび上がった。事態の解決に当たったグエン・カオ・キ首相(当時)はすぐさま、ベトナム南部で米の貿易を一手に担う華人(ホア族)系通商ギルドの7名を召喚し、最後通牒をつきつけた。
 間もなくキ首相は今回の価格高騰はその中の一人タ・ヴィン(Ta Vinh)の陰謀によるものだと結論し、タ・ヴィンを逮捕し、直ちに死刑に処す決定を下した。しかし、タ・ヴィン逮捕後も米の価格高騰は続き、キロ7.5ドンに上昇した。
 マ・チェン(Mã Tuyên)らチョロンの華人通商ギルドの幹部5名は、身内のタ・ヴィン処刑を回避するため緊急会合を行った。その会議の数時間後、7.5ドンだった価格は約半分の4ドンに低下した。しかしキ首相は、タ・ヴィンの処刑を取りやめる事は無かった。

(写真左: タ・ヴィン 1966年, 写真右: マ・チェン 1963年)



ベトナム華人と国際華人ネットワーク
 
 キ首相がタ・ヴィンの処刑を強行した背景には、ベトナム経済に強い影響力を持つベトナム華人勢力、そして香港を拠点とする国際華人マフィア『三合会』の存在があった。元々タ・ヴィンやマ・チェンなどのベトナム華人通商ギルドは三合会の一員であり、チョロンは長らく三合会の強い影響下にあった。
 また彼らはかつてゴ・ディン一族の独裁政権に取り入り、ベトナム国内の商貿易、そして麻薬取引を独占し莫大な利益を得ていた。しかし1963年11月1日に発生した軍事クーデターにおいてゴ・ディン・ジエム政権は崩壊し、クーデターの際にゴ・ディン兄弟を匿っていた華人ギルド幹部は新たに発足した軍事政権からの追及から逃れるためカンボジアに逃走せざるを得えなかった。


サイゴンで発生した軍事クーデターとゴ・ディン兄弟暗殺を報じる米国CBSニュース [1963年11月]

 こうして全財産を失ったタ・ヴィン、マ・チェンらであったが、この時点でも国際的な華人ネットワークの力は強大であり、タ・ヴィンらは三合会および台湾の国民党政権から2億ドンの資金提供を受け、再びチョロンに舞い戻っていた。この資金提供の裏には、台湾・香港の華人ネットワークを通じてベトナムで強い影響力を持つの華人勢力を操作し、南ベトナム政府をコントロールしようとするアメリカCIAの工作があったとも言われる。
 折しも、1964年から1965年にかけてサイゴンでは軍高官同士のクーデターが乱発しており、政情は混迷を極めていた。その中で資金と組織力を持つ華人ギルドは瞬く間に勢力を取り戻し、1965年には南ベトナムにおける米貿易の80%、食品業界の78%を掌握するに至った。


グエン・バン・チュー政権

 しかし、1965年に政権を獲得したグエン・バン・チュー将軍、グエン・カオ・キ将軍らは、南ベトナムの政治・経済に多大な影響力を持つ華人勢力を危険視した。この二名の若い将軍は米国政府からの支援を受けてグエン・カン将軍勢力を排除し新たに政権に就いた。しかしアメリカの公認があるとは言え、国内における政権の権力基盤は未だ安定しておらず、敵対勢力への警戒は予断を許さない状態だった。
 そんな中、ベトナム経済に深刻な打撃を与えかねない米価高騰が発生したことで、チュー政権は米貿易を独占する華人勢力に対し強い危機感を抱いた。そして政府はこれを機に華人勢力・三合会の弱体化を図り、タ・ヴィンの処刑を強行した。米の価格操作はタ・ヴィン個人によるものではない事は明らかであり、この処刑は華人社会全体に対する見せしめであった。
 台湾政府、三合会はこれに強く反発し、キ首相と以前から親交のあった台湾空軍司令官 徐煥升(シュー・フアンション)二等上将が直接処刑の中止を求めた。また三合会は人員を総動員して公正な裁判を求める嘆願書を集め、台北のベトナム共和国大使館に提出した。しかし処刑の決定が覆る事はなかった。
 1966年3月14日、チョロンから程近いベンタイン市場フランス語学校裏の処刑場にて、移動裁判所がタ・ヴィンに死刑を宣告した。当時サイゴンの人口の約30%は華人系であったことから市民による大規模な抗議デモ・暴動が予想されたため、政府側は警察・憲兵隊に加えて空挺部隊1個大隊を配置し、厳戒態勢の下で銃殺による公開処刑が行われた。
 


 1955年にジェム政権が20世紀最大の犯罪組織『ビンスエン団』の討伐を行った際はサイゴン市内で大規模な市街戦が発生したのに対し、この1966年の事件の後に三合会が政府に対する破壊活動を行ったという記録は見受けられません。しかし政府が恐れるほどの影響力を持っていた事は確かであり、戦争という混沌とした社会と大金の動く状況の中で、三合会、そしてベトナム華人がどのような役割を果たしたのかについては私としても非常に気になるところであり、今後も調べていきたいです。
  


2016年09月09日

日本旅遊3日目・4日目

3日目

Sさんが宿泊しているホテルからほど近い新宿中央公園で開催されているフリーマーケットに行く。
そのあと、近くのドラッグストアで台湾に持って帰るお土産として風薬と日清カップヌードルを大量買い。
カップヌードルは台湾でも売ってますが、日本で買った方が安いんだそうです。


新宿の後は、Sさんの希望でしながわ水族館へ。
前日の江ノ島に続いて、まさか二日連続で水族館に行くとは思っていませんでした。
ここは江ノ島に比べると規模は小さいですが、見せ方が良くて、とても楽しめました。


水族館のあとは上野アメ横に移動。
異国情緒ただようアメ横センタービル地下食品街や、中田商店などを案内した後、
お腹が減ったので回転ずしを食べました。
実はアメ横の一角は寿司屋激戦区なので、安くて美味しい店を見つける事が出来ました。
都心で一皿140円は激安!味も良かったです。
ちなみにSさんが言うには、寿司も日本より台湾の方が値段が高いそうです。
台湾は日本同様海産物の豊富な国なのに何故?と聞くと、
台湾(と言うか日本以外全部)では魚は通常火を通して食べるものなので、
生で食べるために必要な冷蔵輸送の設備が日本ほど整っていない。
その為、通常の鮮魚とは異なる流通ルートを使わなければならないため、
どうしてもコストが高くなってしまうのだそうです。
なるほど~


上野のあとは夜の浅草寺にお参り。
実はSさんは3年前に日本に旅行に来た際に一度浅草寺に来ているのですが、
その時ちょうど雷門の補修工事が行われていた為、せっかく浅草に来たのに雷門を拝むことができなかったのだそうです。
3年越しのリベンジを果たせてご満悦の様子でした。
ちなみに僕はここ数年、外国人を案内するため浅草寺に度々来ていますが、ここは昼間より夜に来るのが好きです。
昼間は混んでて疲れるというのもありますが、
夜9時を過ぎると仲見世通りの照明が落とされて、人もまばらで、とても幻想的な雰囲気になります。



4日目

新宿でSさんをピックして、一路大宮の鉄道博物館へ向かう。

途中、昼食にピザ食べ放題の馬車道に行く。
でも日曜なのでメチャメチャ混んでて、ピザがなかなか回ってこない。
2時間くらいかけてちびちび食べてるうちに空腹感もなくなってしまい、結局全種類は食べられなかった。
次は平日に来よう。


 
そして鉄道博物館に到着。Sさんも僕も鉄道が好き(鉄道マニアではないけど)なので、大興奮です。
中学生の頃、万世橋の交通博物館に行ったことあるけど、大宮に移転してからは行く機会がなかったので、
この機会に来れてとても良かったです。


ちなみに前回僕らが台湾に行った時は、Sさんは彰化市の彰化火車站・扇型車庫に連れて行ってくれました。
この車庫は日本統治時代の1933年に作られたもので、戦後の各種電気機関車、ディーゼル機関車に加えて、
戦前の日本製蒸気機関車も動態保存されています。


 
夜はもともと、Sさんが大宮で日本在住の友人家族と食事する予定だったので、そのまま混ぜてもらいました。

馬肉専門店です。
馬肉と言うと、今まで赤身の刺身しか食べた事なかったのですが、今回初めて各種部位や燻製を食べてみて、
馬ってこんなに美味しかったのかと驚きましたface05
Sさんの友人で、台湾出身のHさんは、日本に来て初めて馬刺しを食べてハマってしまい、
今回Sさんをこの店に招待したのだそうです。
Hさんに「中国本土でも馬は食べないんですか?」と聞くと、
「基本的には中国でも馬を食べる習慣は無い。もしかしたら北部の方では郷土料理として食べるかも」との事でした。
またHさんも食に精通するお方なので、台湾・中国料理についていろいろ聞いたのですが、
Hさん曰く「中国には美味しい料理が沢山あるが、国が広すぎて食べに行くのが大変。」
「手前味噌になるけど、台湾は狭い範囲に広東や上海、それに台湾独自の食文化が集約されているから幸運だ」
と教えてくれました。
うん・・・。胃炎で1週間バナナとヨーグルトしか食べられなかった前回の台湾旅行がますます悔やまれる・・・。


こうして楽しい食事も終わり、午前0時、Sさんを新宿に送り届けて本日の観光終了。
僕は翌日から仕事に行かなければならなかったので、Sさんともお別れです。
(Sさんも翌日から2日間ホテルにこもって仕事を片付けなければならないらしい)

Sさんは来日経験あるし、スマホで何でも調べられるので、僕は車を出したくらいでガイドらしい事は何もしていませんが、
久しぶりの日本を楽しんでもらえたようで良かったです。少しは恩返しできたかなぁ。
台湾近いので、またそう遠くないうちに会う気がします。
それでは再見!
  


Posted by 森泉大河 at 11:54Comments(0)【日本】旅行・海外【台湾】

2016年09月08日

食の王子 神奈川へ行く

今年の2月、台湾を旅行した際に大変お世話になったSさんが先週来日したので、
今回は僕らが4日間、Sさんに同行して日本旅行をガイドさせていただきました。


台湾ではSさんに台南市塩水地区のロケット花火祭り"鹽水蜂炮"に準備の段階から一緒に参加させてもらったり、

重度の胃炎に罹り死にそうな僕を病院に連れて行ってくれたりと、何から何までお世話になりっぱなしでした。


来日1日目

あれから半年たった9月1日、Sさんが観光兼取材のため東京にやってきたので、羽田空港でお出迎え。
Sさんが来日するのはこれが3年ぶり3度目。(1回目は小学生の頃なのであまり記憶が無いそうですが)
飛行機が到着したのは夜だったので、この日は夕飯を食べて、新宿のホテルに送り届けて解散。

お土産にもらった台湾海兵隊(中華民国海軍陸戦隊)のキャップ。
Sさんは元陸戦隊で、このキャップは陸戦隊OB会で使われる公式アイテムです。
海軍陸戦隊のシンボルは米海兵隊のEGAの影響を受けたものですが、中央の黒い部分は中国大陸を表しています。
今でこそ台湾は台湾島独自の国家というアイデンティティを確立しつつありますが、
台湾軍はあくまでかつて大陸を統治していた中華民国国民革命軍の直系なので、
中国共産党に奪われた中国本土を奪還するという意思表示はいまだにシンボルマークに受け継がれています。



2日目

Sさんの希望で湘南へ。
なぜ湘南かと言うと、Sさんは漫画の『スラムダンク』と『湘南爆走族』が好きだから一度来てみたかったのだそうです。
ちなみに他の漫画では『魁!!男塾』も好きだと言ってました。見事にジャパニーズカルチャー輸出されてるなぁ(笑)
 僕はスラムダンク読んだ事ないのですが、Sさんは事前にアニメ版OPで有名な江ノ電 鎌倉高校前の踏切に行くと決めていたので同行。

着くと、そこは完全に観光スポットになってました。主に中国、台湾の若い旅行者が十数人いてみんな写真撮ってました。
外国でもそんなに人気だったのか。すげーなスラムダンク。

 次は再び江ノ電に載って江ノ島へ。まずボートで島の西側の岩場に行って、そこから島の中を歩きます。
思いのほか暑くて、階段を登っているうちに二人とも超汗だく。キツイ・・・。
お互い運動不足が祟り、景色なんて目に入らないくらいグロッキーになりながら階段を登りました。

でもお昼に食べたシラス丼は美味しかったです。

江ノ島の次は新江ノ島水族館へ。
すごく綺麗で、規模も大きくて見応えありました。

なお、Sさんは台北ウォーカーで記事を書くくらいのプロの料理人・グルメライターなので、
「あの魚は刺身にすると美味い!」「あれは高級魚だよ~!」と、
水槽を泳ぐお魚さんたちを完全に食材とみなしていました。
僕は、「なんで周りはカップルだらけなのに、俺は外人のおっさんと二人きりで来てるんだろう」と、一瞬しんみりしました。

水族館の次は横浜に移動し、中華街へ。
定番の関帝廟をお参りしたあとここで夕飯を食べたのですが、Sさんの希望で食べに行ったのは、
華やかな中華街のビルとビルの間の路地にひっそりと佇むこちらのお店。

見た目は正直、中華街らしからぬと言うか、日本中どこにでもありそうな昔ながらの地味~な中華料理屋さん。
また店内も、店の人の孫らしき小学生がテーブルで宿題やってるというパーフェクトなローカルさです。
しかし実はこちらは、日本に来た中国人の間で話題になるくらいの名店なのだそうです。
(店内には日本の有名人のサインも沢山飾ってあったので、知る人ぞ知るって感じの隠れ有名店っぽい)
Sさんもネットでその情報を知り、わざわざこの店に来るためだけに中華街に出向いたくらいです。
実際に食べてみて、確かに美味しいです。料理はいわゆる日本人向けの『中華』ではなく、ちゃんとした広東料理であるにもかかわらず、本場の味に馴染みの薄い僕のような人が食べても素直に美味しいと感じる、懐の深い味わいでした。

お腹も膨れたところで、このあとはSさんを新宿に送り届けて解散。
でも昨晩もそうだったけど、Sさんはこのあと日本に住んでいる台湾人の友達と再度ご飯を食べて、
さらにホテルに戻ってからも仕事として食レポ記事を書かなければならず、
連日睡眠時間が2時間というハードな旅を続ける事になります。

3日目・4日目に続く
  


Posted by 森泉大河 at 02:29Comments(2)【日本】旅行・海外【台湾】

2016年03月12日

台北 忠烈祠と国軍歴史文物館

※2022年7月15日更新

台湾という国は、第二次世界大戦の終結以来、外交・内政ともに微妙な状態が続いています。
日清戦争後、清国の領土であった台湾は1895年に日本に割譲されますが、1945年に日本が連合国に降伏すると台湾は日本から切り離され、大陸を支配する中華民国に編入されます。
しかし中国国民党が国共内戦に敗れると、台湾という小さな島だけが中華民国に残された唯一の領土となり、現在に至ります。
そのため、国際社会は国民党に代わって中国大陸を支配した中国共産党による中華人民共和国を正当な中国政府として外交関係を持っており、日本を含む多くの国々は中華民国(台湾)を国家として公には承認していません。
また台湾の人口の多数を占める本省人(中華民国編入以前から代々台湾に住んでいた人々)にとって、中華民国は同じ中華民族ながら1945年まで外国であり、それが宗主国日本の敗戦によって突然国民党に支配された形でした。
さらにその後、本省人の反乱を恐れる国民党政権によって本省人への大規模な虐殺、白色テロなどが続いたため、中華民国国民である台湾人の中でも、中華民国・国民党への評価は大きく分かれています。
現在の台湾はこうした様々な苦難を乗り越えて経済発展を遂げ、国民党が掲げていた大陸奪還の目標も放棄したため対中関係に差し迫った危機は無く、また内政面でも国民党独裁が終わり民主化が完了しているため、かつて大陸に存在した中華民国とは全く別の体制になっています。
しかしそれでも、国家のアイデンティティーとしては、あくまで孫文を国父と仰ぐ中華民国を継承しており、その姿勢が急激に変わる事は無いでしょう。
それを踏まえたうえで、今回は先日台湾を旅行した際に訪れた台北の忠烈祠と国軍歴史文物館から、台湾に残る"大陸"中華民国の部分を見てきます。

忠烈祠とは1969年に台北北部に建立された、中華民国の殉死者を祀る社です。
この忠烈祠に祀られている御魂は1911年の辛亥革命から北伐、日中戦争、国共内戦、台北遷都後の大陸反攻と、孫文が建国した中華民国・中国国民党系の勢力の殉死者であり、動乱の20世紀中国の歴史を物語る場所でもあります。

ここでは1時間おきに儀仗兵による栄誉礼・交代式が行われており、訓練された見事なドリル&セレモニーを見物する事が出来るため、国内外の観光客が集まる人気スポットにもなっています。
儀仗中華民国各軍の持ち回りで、この日は海軍の儀仗隊が担当していました。

お次は台北市内の国軍歴史文物館へ。見学は無料です。

 
入り口には1924年に孫文が記した黄埔軍官学校校訓の碑文が。おお~!
ここでは中華民国軍の歴史が時代毎に展示されており、忠烈祠に祀られる戦士たちが辿った、近代中国(大陸)の歴史を学ぶ事が出来ます。

▲蔣中正(蔣介石)に黄埔軍官学校校長就任を命じる孫文直筆の大元帥令(1924年)

蔣介石が使用した国民革命軍総司令旗

蔣介石の軍服

 
▲日中戦争で鹵獲された日本軍の日章旗

▲同じく日本兵の所持品

中華民国(台湾)軍は中国国民党軍/国民革命軍直系の組織であるため、当然日中戦争の歴史も大々的に展示され、南京大虐殺の展示もあります。
日本人がどんなに台湾を親日と呼ぼうが、右翼が歴史修正・捏造で自己弁護を図ろうとも、少なくとも台湾軍自身は、かつて8年間に及ぶ日本による侵略戦争から中国を守りぬいて勝利した事を今でも誇りとしています。




おまけ
この国軍歴史文物館には、辛亥革命から現在までに使用された歴代の兵器の展示もあり、特に銃器は、ここでしか目にする事の出来ない珍しい物がた~くさんあって、軍事博物館としても超面白かったです!

▲まさかの珍銃キャリコ!!

▲ウジグラムは実在した!!!

▲中華民国空軍ライ・ミンタン(賴名湯)一級上将が、ベトナム共和国軍ドン・バン・キュエン(Đồng Văn Khuyên)中将から贈呈されたブローニング・ハイパワー
台湾は中国を刺激することえを恐れて公にはベトナム戦争に参戦していないけど、ベトナム国民党と中国国民党は孫文の時代から姉妹政党であり、また元国民革命軍将兵の中国人キリスト教徒がカマウ半島に興した反共軍閥"海燕独立区"は、ほとんど台湾軍の出先機関。ベトナム在住華僑の往来も盛んで、反共で一致するベトナム共和国と台湾は当時とても深い関係にありました。
  


2016年02月25日

台南 鹽水蜂炮

本当は日曜に帰国する予定だったのですが、結局体調が回復せず旅行どころではなくなったため、急遽別の航空券を買って昨日日本に帰ってきました。
台南で激痛にのたうち回りERに運ばれた時は、マジでこのまま死ぬんじゃないかと思いました。
去年タイで1ヶ月過ごした時は平気だったのに、まさか台湾でここまでやられるとは。ついてないな・・・。

でも今回台湾に行った主な目的は、毎年台南市で開催される『鹽水蜂炮』というお祭だったのですが、それには半分くらいは参加できました。
台南では、縁あって準備の段階から現地の有志?青年会?に混ぜてもらい、膨大な数のロケット花火を発射台に手作業で設置していきました。
二日間で計10時間くらいはこの作業してたと思う。観光客のやる事じゃねぇよな(笑)
でも、お陰で文衡聖帝(※)に捧げる奉納者一覧に、僕の名前も加えて頂けました。

 
※文衡聖帝は別名 関聖帝君。三国志の関羽の事。関羽は中国人の神様であり、このお祭の主神でもある。


そして鹽水蜂炮1日目に参加。


いや~、凄まじかった。最前列の勇者達は、ドリフのコントみたいに服ボロボロの黒焦げになってたし。
僕は発射台から6・7m離れてたけど、それでも無数のロケットが襲ってきて訳分からない状態だった。


そして2日目。発射開始の前に、台湾のみんなに連れられて関羽を祭った武廟にお参り。


しかし、お参りを終えて帰ろうとしたところ、丁度その場で今夜の発射が始まってしまった。
ヘルメットを持っていない僕らはマジで危険なので、全員ダッシュでお寺の中に逃げ込む。
ロケットは寺の中にもガンガン打ち込まれ、また不発弾みたいなのが空からぼとぼと落ちてきて足元で爆発する。
僕らは身を寄せ合って壁に隠れ、頭を抱えてこの嵐が過ぎるまで耐えるしかなかった。

お寺での発射が終わっても、危険は終わらない。
人ごみがすごくてなかなか進めないでいると、今度は別の場所で「撃つぞ~!」と始まる。
ヤバイ!ヤバイ!と全員必死で走って逃げた。後ろから爆発音が迫ってくる。
決して後ろは振り向かない。だって目とかに当たったら本当に大怪我するもん。ああ、怖かった・・・。
例えるならこんな状態 https://youtu.be/xuQZJHfWf9U?t=45s

幸い怪我は無かったけど、この全力ダッシュのせいで治りかけていた痛みがぶり返してきました。
そして次第に耐え難い激痛に襲われ、そのままタクシーで病院に搬送。その日お祭に戻る事は出来ませんでした。無念
  


Posted by 森泉大河 at 17:26Comments(0)旅行・海外【台湾】

2016年02月19日

台湾 近況

台北滞在三日目に胃腸炎にかかり病院で注射を4本射たれる。

今はいくらか回復したので、台南でロケット花火300万発を発射台に設置中です。


  


Posted by 森泉大河 at 23:35Comments(0)News!旅行・海外【台湾】

2016年02月11日

もうすぐ台湾

近々、2週間ほど台湾を旅してきます。
この旅行は2ヶ月前から計画していたのですが、今回はタイミングの悪い事に、訪問予定だった台南市で2月6日に地震が発生し、多数の犠牲者が出る事態となってしまいました。
現地で僕らを案内してくれる台南在住のサイモンさんによると、街全体では地震の被害は大した事は無く、ビルの倒壊は手抜き工事が招いた人災という見方が大半のようです。
なので亡くなった方々は本当に気の毒ですが、現地の人が気にせず観光に来て欲しいと仰ってるので、予定通り遊んできます。
タイミングが合えば、一昨年東京で一緒に遊んだ台北在住のみんなとも遊べたらいいなぁ。
過去記事『すし詰め湾岸ドライブ』http://ichiban.militaryblog.jp/e593485.html

あと飛行機は行き帰り共に乗継があり、行きは上海に1時間程度しかいませんが、帰りはマカオに一晩滞在するので、マカオ観光も楽しみです。
どうせ行くからには思い切り楽しんでくるゼ!

映画を見て中華モードを高めるゼ!


  


Posted by 森泉大河 at 16:59Comments(0)旅行・海外【台湾】

2014年10月06日

すし詰め湾岸ドライブ

土曜日の20時ごろ、某ベトナム軍装界のレジェンドより「台湾の友達と大黒ふ頭に行かない?」と電話が来る。

21時、某氏と合流。

23時、渋谷109前で台湾人グループと合流。
来るのは3人だと思っていたら4人も居て、僕らを含めると計6人にもなってしまった。しかも3列目シートは氏の仕事の荷物で埋まっているので、後部座席に無理やり4人乗車。台湾人の一人が大柄だったので、彼を助手席にして、僕は後部座席。せまい

途中、彼らの泊まっているマンションに寄る。ホテル・オークラの横の超高級マンション。
マンションの持ち主は、日本で商売している超セレブ台湾人。氏はフリーマーケットで偶然この人と知り合い、そのまま友達になったそうです。あの人マジで誰とでも友達になっちゃうからすごい。
そこに今回、台北から3人の友達が旅行で日本に来て、滞在中彼のマンションに泊めてもらってるそうです。
まさかそんなリッチな彼らが、こんなオンボロタウンエースの後部座席で、初対面の外国人とすし詰め状態でドライブに行く事になるとは思いもしなかっただろう(笑)

道中、僕が「中国語の歌を謡えるよ」と言ったら、Youtubeの動画をスピーカーで流してくれたので、車内でジャッキー・チェンの『男兒當自強』を歌った。

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Posted by 森泉大河 at 14:12Comments(0)旅行・海外【台湾】