カテゴリ
News! (90)
銃器 (60)
映画 (19)
音楽 (16)
言論 (32)
民生 (3)
阮朝 (2)
人物 (33)
式典 (3)
BB/歩兵 (29)
ND/空挺 (47)
KB/騎兵 (8)
PB/砲兵 (1)
TT/通信 (3)
QV/輸送 (2)
HQ/海軍 (9)
KQ/空軍 (10)
QY/衛生 (2)
QC/軍警 (6)
軍犬隊 (1)
FULRO (11)
デガ (25)
モン族 (15)
ヌン族 (9)
本土軍 (2)
コマンド (10)
SDECE (3)
1914-1918 (2)
1918-1939 (8)
1939-1945 (22)
1945-1954 (88)
1954-1975 (463)
1975-1989 (19)

2024年01月16日

最近行った場所

日曜日にビクトリーショウに足を運んできました。
お目当てはこちらの展示。



デスボランティアさんが所蔵する超貴重なコレクションの数々です。鼻血が出ちゃいます。
米国カリフォルニア州ウェストミンスターにはベトナム共和国軍史資料館という私設博物館があり、私は2回訪問しているのですが、迷彩服に限って言えば、こちらの展示の方が凄いです。
いや見に行って良かったぁ~face05


また順番は前後しますが、最近、成田空港の隣にある航空科学博物館にも行ってきました。
なんとベルX-1(XS-1)1号機『グラマラス・グレニス』のコックピット部分の実物大レプリカが展示されており、中に入る事ができました。
館内にはゼロ戦のコックピットもあったけど、映画『ライトスタッフ』が好きな僕的にはX-1の方が燃える!


僕は昔は飛行機と言えば軍用機しか興味ありませんでしたが、度々海外旅行で旅客機に乗るようになってから民間エアラインにも興味が湧いてきて、ここ数年はYoutubeで、エアライン系フライトシムのゆっくり実況をやっているe92m3s65b40agogoさんの動画を毎回見ています。
これで多少はエアラインのコックピットでどのようなやり取りが行われているか知識が得られたので、その上で航空科学博物館の展示を見れたのはとても良かったです。
ちなみに僕、運行しているコンコルドに乗ったことはありませんが、ドイツのジンスハイム自動車・技術博物館に展示されている実機のコンコルドの機内・コックピットに入ったことがあるのはちょっとした自慢です。


  


2024年01月13日

ホアロイのHALO潜入作戦

過去記事『ベトナム空挺の降下作戦1955-1975』にて、ベトナム軍NKTのコマンド部隊は夜間HALO(高高度降下低高度開傘)による潜入作戦を複数回行っていたと述べましたが、それらの多くは他の特殊偵察計画と同様に、ベトナム軍NKTと米軍SOGの合同チームによって実施されていました。
しかし一部ではSOG隊員が参加せず、NKT隊員のみで実施されたHALO作戦も存在していました。今回は、こうしたNKT隊員のみで構成されたHALOチームの一つ、雷虎CCCチーム『ホアロイ(Hỏa Lôi)』のチームリーダーを務めたホアン・ニュー・バー少尉の回想録から、ホアロイが実施したベトナム軍初の夜間HALO潜入作戦の概要をまとめました。


1960年代末まで、NKTの越境コマンド部隊およびSOGとの合同チームは敵性地域への潜入作戦の際に、夜間低高度フリーフォールを多用していた。
これは夜間に、非常に低い高度を飛行するC-47やC-123輸送機からフリーフォール降下するのもので、この作戦に選抜されたNKT隊員にはロンタンのNKT訓練センターで夜間フリーフォール訓練が施された。そして作戦実施が決定されると、機密保持のため隊員はブリーフィングを終えると、出撃の日時まで数日間、基地内の立ち入り禁止区域に隔離された。
この低高度フリーフォールには、低高度からジャンプする事でチームが一か所にまとまって着地できる利点であったが、同時に以下の欠点も存在していた。
・航空機が低空を飛行した事により乱気流が発生し、パラシュートが回転したり、風に流されて着地地点から外れてしまう事がある。
・狭い範囲内で複数人のパラシュートが同時が開傘するとパラシュート同士が絡まる危険性があるため、自動開傘装置が使えない。
・航空機が低空を飛行するため、騒音が大きく、敵に発見されて潜入作戦の意味を成さなくなる。また対空火器による被害を受けやすい。

そこで米軍SOGとベトナム軍NKTは1970年に、当時研究段階にあった新技術HALO(高高度降下低高度開傘)の実戦投入を決定した。
HALOは対地高度18000フィート(約5500m)からフリーフォールし、高度2000フィート(約600m)で開傘するもので、高高度を飛行する事で敵に探知・迎撃される事を防ぐとともに、兵員が降下中に互いに近付く低高度フリーフォールと同様にチームの着地地点を一か所に集約する事が可能であった。
このHALO作戦実行のため、ロンタンのNKT訓練センターに加えて、沖縄の米軍基地にもHALO訓練コースが設置され、米軍グリーンベレーの管理・指導の下、NKTおよびSOG隊員に対し訓練が実施された。
なお、このHALO訓練コースにおいて、CCN所属のグエン・ソン准尉が訓練中の事故で死亡した。





1970年末、ホアン・ニュー・バー少尉以下ゴ・スアン・マン、ラム・サヴェル、グエン・バン・ドーの計4名からなるCCCチーム・ホアロイは、NKT訓練センターHALO訓練コースを修了した直後、同訓練センター内でブリーフィングに召集され、NKT連絡部司令グエン・バン・ミン大佐からNKT単独でのHALOによるカンボジア領内への潜入作戦の決行を告げられた。
共産軍の防空設備及び指揮所・食料集積場の存在が疑われるこの地域への潜入作戦は過去に数回、CCS所属のチームが夜間低高度フリーフォールによる潜入を実施していたが、低高度で飛行したために共産軍の対空砲火を受け、ヘリコプター2機が撃墜、コマンド隊員も2チームが失われていた。そのため今回は対空砲火を避けるため、ホアロイによるHALO潜入が選択された。
ミン大佐は今回の作戦がNKT隊員のみで実施される事について、「これはアメリカ軍がベトナム軍の能力を試す特別な作戦だ。これまでの経験があれば、我々は課題を克服して任務を完遂できると信じている」とホアロイの隊員達に訴えた。
ホアロイの4名は、通常であればそのまま基地内の隔離区域に収容されるはずであったが、その隔離区域はたまたま別のチームが使用していたため、ホアロイには特別に2日間の休暇が与えられた。未だ前例のない危険な任務であったため、ホアロイの隊員たちにとってこの2日間はただ不安を募らすだけの時間となった。
そして作戦当日、隊員たちは基地内の隔離区域に集合し、出撃の時間を待った。午後10時、隊員たちは背嚢、AK突撃銃、黄色いカーキの戦闘服(CISO戦闘服の一種)、偽装用の共産軍ブッシュハット、パラシュートといった装備を受け取り、出撃の時を迎えた。
出撃を前に、ミン大佐はホアロイの隊員一人一人に体調を尋ね、激励の言葉をかけるとともに、パンとコーラの缶を手渡し、機内で食べるよう伝えた。そしてミン大佐とホアロイの4名は米空軍のMC-130特殊戦機に乗り込み、作戦空域へと飛び立った。
午前0時45分、乗機がカンボジア領内の作戦地域上空に到達し、後部ハッチが開いた。ミン大佐は各自の肩を叩いて励まし、3回目のベルと共に機体後部のランプが赤から青に変わった。これを合図に、ホアロイの4名は高度5500mから暗黒の大地へと飛び降りた。

着地するとバー少尉を含む3名はすぐに合流したが、マンとは合流できなかった。計画ではパラシュートを隠した後、1時間その場に隠れて敵をやり過ごす事になっていたが、サヴェルのパラシュートは高い樹木に引っ掛かってしまったため、3名で協力してパラシュートを切り離さなくてはならなかった。
また午前2時半になってもマンとは合流できず、これ以上同じ場所で待つ事は出来なかったため、バー少尉はマンとの合流を諦め、予定通り東へ移動しながら目標の捜索を開始した。
夜が明け、午前9時ごろ、3名は草原で水牛の大群と出くわした。そして不運にも、異変を感じた水牛が一斉に鳴き始めた事で、付近に居た敵兵を呼び寄せる事となった。これによりホアロイの3名は敵兵に発見され、銃撃戦となる。
敵の歩兵部隊に追跡された3名は、その後4時間に渡って必死の逃走を続けた。草原にはシロアリ塚が無数に立っており、ホアロイはこれに隠れながら断続的に射撃する事で、敵の追撃を押し留めていた。しかしその間、サヴェルは足を捻挫した上、竹の枝が目に刺さる怪我を負った。
バー少尉この状況を無線で本部に伝え、救助を求めた。これを受けて、午後3時には陽動の為ベトナム空軍のF-5戦闘機が作戦地域に向けて発進した。
午後5時の時点で、ホアロイの3名は敵に包囲され、絶体絶命の状態にあった。しかし無線で現在地を報告した直後、上空にベトナム空軍のO-2観測機が現れ、FACから救援に来た旨が知らされた。
さらにその後、F-5戦闘機2機と米陸軍のAH-1コブラ4機が飛来し、敵地上部隊を空爆した。その間、米空軍のHH-53救難ヘリがホアロイの3名を縄梯子で抽出し、現地から脱出する事に成功した。

その後3名を乗せたヘリは、CCSの前線基地であるクアンロイ飛行場に到着し、そこで行方不明となっていたマンも無事発見され帰還の途にある事を知らされた。なお戦闘中に負傷したサヴェルはそのまま病院へ搬送されたが、大事には至らなかった。
翌朝、バー少尉SOGアドバイザーから、昨日の作戦目標であった敵防空施設は、今回の作戦で位置が特定できた事から、B-52による爆撃で破壊に成功したと告げられた。


以上が、NKTが単独で行った最初のHALO潜入作戦の一部始終です。
この作戦では、チームは敵に捕捉され全滅の危機に陥りましたが、結果的には死者を出すことなく全員無事帰還でき、ベトナム軍にとっては大きな前進となりました。
これ以降、ベトナマイゼーションによる米軍撤退・SOG解散により、HALOに限らず、NKT単独での作戦は急激に増加していきます。


  


2023年10月21日

MACV-SOGパッチへの懐疑

いきなりですが、僕はこの『MACV-SOG』のものとされるパッチは、ベトナム戦争後に捏造されたファンタジーパッチの可能性が高いと考えています。


まず、このデザイン自体はMACV-SOGのもの(非公式)で間違いなく、当時も基地内の装飾などに使われていました。また後述するSOG内の各部署のパッチもこのデザインを基に製作されました。しかし同時に、SOG全体としてのパッチは存在せず、このデザインもパッチ化されなかったと僕は考えています。
なぜならSOGは固有の「部隊」ではなく、アメリカ陸海空軍海兵隊、NSA、DIA、CIA等から諜報・特殊作戦の専門家が結集したタスクフォース/アドバイザー機関であり、SOGはそういった多数の異なる軍種・分野毎の部署の集合体でした。(過去記事SOGの組織構造』参照)

※ミリタリーマニアの間では地上偵察計画のOP-35(C&C部隊)=SOG-35だけがSOGとして知られていますが、実際にはSOG-35は(人数は一番多かったにせよ)数あるSOG内の部署の一つに過ぎません。

そしてSOG内の部隊パッチは、それぞれの部署ごとに個別に製作されていました。
またSOG本部各部署(SOG-00,10,20,30,40,50,60,90)でパッチが製作された例は確認できておらず、パッチが製作されるのはSOG-35,37,75,80などの作戦部門に限られていました。

▲パッチの画像はレプリカ含む


このように、SOG系のパッチというのは、作戦部門の各部署が各々独自に製作したものであり、それ以外にSOG本部要員が身に付けたり、SOG全体を表すパッチは存在しなかったというのが私の考えです。

とは言え、問題のMACV-SOGパッチに対して「存在しなかった証拠」を示す事は出来ません。なぜならこれは一種の『悪魔の証明』というやつで、「実在する事」なら証拠も集めようがありますが、「実在しない事」の証拠など、そもそも存在しないからです。
しかしどんなに調査研究しても実在した証拠が一点も見つからないのなら、その実在性は十分疑わしい、と言うか「無かった」と考えるべきでしょうね。

もしこのパッチについて何か有力な情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非ともご一報下さい。
  


Posted by 森泉大河 at 13:58Comments(0)【アメリカ】1954-1975SOG/特殊作戦

2022年12月18日

偵察チームとリアクションフォース

ベトナム戦争期、アメリカ陸軍特殊部隊”グリーンベレー”は常にベトナム軍付きのアドバイザーという立場であり、アメリカ軍人のみで作戦を行うことはほぼ皆無でした。
彼らグリーンベレーが主導する作戦として代表的なものが、ベトナム軍特殊部隊やCIDGで構成されたコマンド部隊の現場指揮官としてグリーンベレー隊員が付く米越合同の『特殊偵察計画(Special reconnaissance project)』です。
この特殊偵察計画には以下の4組織があり、それぞれ細部は異なりますが、いずれも『偵察チーム』と『リアクションフォース』から構成される点は共通していました。(※括弧内は作戦を主導する米軍部隊)


・プロジェクト・デルタ (B-52 / 5th SFGA)
プロジェクト・シグマ (B-56 / 5th SFGA)→1967年OP-35に編入
プロジェクト・オメガ (B-50 / 5th SFGA)1967年OP-35に編入
プロジェクト・ガンマ (B-57 / 5th SFGA)
・OP-35 (SOG-35 / MACV-SOG)

偵察チーム(Reconnaissance Team (RT))は読んで字のごとく、偵察を専門とする小規模なチームで、各チームのチームリーダーをグリーンベレー隊員が務めました。

リアクションフォース(Reaction Force)は中隊以上の規模で構成された軽歩兵部隊であり、偵察ではなく待ち伏せ攻撃や偵察チームへの救援など、積極的な攻撃を任務としました。CIDG兵で構成されたリアクションフォースはマイクフォースの一部とされます。
なおReaction Forceを直訳すると『反動部隊』等になりますが、日本語的にはしっくりこないので、この記事では英語のまま『リアクションフォース』と書いています。

以下、各特殊偵察計画における偵察チームとリアクションフォースを見ていきます。

【プロジェクト・デルタ】

偵察チーム:デルタ偵察チーム
グリーンベレー4名、ベトナム陸軍特殊部隊(LLĐB)6名で構成されたチームが12個。

リアクションフォース:LLĐB第91/81空挺コマンド大隊
LLĐB128名で構成された中隊が6個。

デルタ偵察チームと91空挺コマンド大隊は1968年5月に統合され、第81空挺コマンド大隊へと改称される。その後、1970年にプロジェクト・デルタが終了するとLLĐBも解散したが81空挺コマンド大隊はLLĐBの後継組織たる81空挺コマンド群へと拡大する。(過去記事『空挺コマンド』参照)




【プロジェクト・シグマ/プロジェクト・オメガ】

偵察チーム:シグマ偵察チーム/オメガ偵察チーム
グリーンベレー2名、CIDG4名で構成されたチームが16個。

リアクションフォース:第2軍団マイクフォース
グリーンベレー3名、CIDG150名で構成された中隊が3個。

※プロジェクト・シグマとオメガは担当地域が異なるだけで、ほぼ同じ任務・構成でした。また、この2部隊は1967年にMACV-SOG主導のOP-35に編入され、CCSとして統合されます。

 

【プロジェクト・ガンマ】

プロジェクト・ガンマはデルタ、シグマ、オメガに続くグリーンベレー主導の特殊偵察計画の一つですが、公式な資料は何一つ公表されていません。
1969年、プロジェクト・ガンマ担当のグリーンベレーB-57隊員らが、部隊内のあるベトナム軍LLĐB将校を敵側に内通しているとして秘密裏に処刑した一件が『グリーンベレー事件』としてマスコミに報道され、米国政府を巻き込んだスキャンダルに発展したため、米軍はいまだにプロジェクト・ガンマの活動内容を機密にしたままです
(機密にされるとなおさら憶測を呼ぶもので、ガンマについてはかなり非合法な活動をしていたと噂されていますが、越境工作や拉致暗殺の類は他の部隊もやってたので、僕はガンマだけが特別な存在だったとは思っていません)



【OP-35】

偵察チーム:
・1964-1968: スパイクチーム(ST)・・・グリーンベレー2名、雷虎(ベトナム軍NKTまたはCIDG)4名で構成。
・1968-1970: 偵察チーム(RT)・・・グリーンベレー3名、雷虎9名で構成。
チーム数はCCN所属が49個、CCCが30個、CCSが24個(時期により変動)

リアクションフォース:ハチェットフォース(Hatchet Force)中隊またはエクスプロイテーションフォース(Exploitation Force)中隊
CIDG約100名で構成された中隊がCCNに3個、CCC4個、CCS3個。

  



  


2022年11月26日

3/4カラーボディーアーマー

※2022年11月27日更新
※2022年12月4日更新

最近米軍の3/4カラーボディーアーマーを入手したので、以前から持っていたRVNAF 3/4カラーボディーアーマーと比較してみました。

3/4カラーボディーアーマー(Armor, Body, Fragmentation Protective, With 3/4 Collar以下3/4カラー)は、マニアの間で「M69」と誤った呼び方をされていますが、本物のM69は、この3/4カラー(ジッパー留め)をベルクロ留めに改良したモデル=M69 3/4カラーボディーアーマーの事です。

RVNAF 3/4カラーボディーアーマー(Armor, Body, Fragmentation Protective, With 3/4 Collar (RVNAF). 以下RVNAF)とは、米国がベトナム共和国軍(RVNAF)に供与するため、自国のM69 3/4カラーボディーアーマーをアジア人向けにスケールダウンして生産したモデルで、1970年代に供与されたと考えられています。

以下、写真は左が米軍の3/4カラー、右がRVNAFです。


両方ともサイズはミディアムという表記ですが、明らかに大きさが違います。
RVNAFの方は説明書がベトナム語で書かれていますが、米国政府の予算で作られた物なので、米軍装備と同様FSNとDSAナンバーが入っています。



胸のループは6割くらいの長さに短縮




サイズ調整の鳩目は3/4カラーが5穴、RVNAFが4穴




おまけ:ボディーアーマー用水筒

これは私の所持品ではなく知人のコレクターから頂いた写真なのですが、ベトナム戦争当時、ベトナム共和国軍では米軍1クォート水筒を国産化したもの(右)に加えて、PX品として左のような小さい水筒も使われていました。
この水筒は水筒ポーチ(キャンティーンカバー)ではなく、ボディーアーマーのポケットに入れるために小型化したアイディア商品だそうです。

浮彫文字の意味

[上段]
官給・PX共通: CHỈ ĐỂ ĐỰNG NƯỚC. TRÁNH NGỌN LỬA VÀ VỈ LÒ NÓNG  (水専用 炎および熱したコンロから離す事)
↑米国製水筒の注意書きをそのままベトナム語に翻訳したもの

[下段]
・官給:Q.L.V.N.C.H (ベトナム共和国軍)
・PX:BÌNH NƯỚC NHỎ CỦA QUÂN NHÂN (軍人用小型水筒)


ボディーアーマーのポケットに水筒を入れている例 (1972年アンロクの戦い)
  


2022年11月17日

JACのCAR-15を塗装

※2022年12月18日更新

今日はJAC製ガスガンのXM177E2のレシーバーを塗装しました。
マガジンも純正品を塗装したものです。
M203グレネードランチャーもJAC製ですが、特に塗装はしていません。
特に何の工夫も無いので、工程は端折って完成した写真だけ載せます。





ベトナム戦争期、特殊部隊向けに開発されたXM177E2(通称CAR-15)は米軍MACV-SOGでも使用されましたが、実のところSOGは単独で作戦を実行する事は無く、常に少数のSOG隊員が数倍の人数のベトナム軍NKTやCIDGのコマンド隊員を指揮する立場でした。
なのでSOGの指揮下で特殊作戦の実行役を担ったベトナム軍NKTには、60年代末以降SOGから大量のCAR-15が供給されており、米軍撤退後もNKTではCAR-15が使われ続けました。
つまりベトナム戦争に限って言えば、CAR-15の配備数は米軍よりもベトナム軍の方が圧倒的に多かったと思われます。なので僕にとってCAR-15とは「NKTの銃」なのです。
ちなみにこの銃はベトナム軍でもCAR-15と呼ばれており、ベトナム語では「カー・ムイラム(Ca Mười lăm)」と発音します。
また米軍ではベトナム派遣期間中の配備数が少なかったXM203/M203グレネードランチャーも、1970年代に入るとまとまった数がNKTに供給されるようになり、NKTのコマンド部隊では、各チーム2・3名がM203装備という状態になります。

▲NKT作戦部"コマンド黒龍"第71作戦群 (1970年代前半)


▲NKT作戦部"コマンド黒龍"第72作戦群 (1970年代前半)
バレルを短縮したM203が写っているとても珍しい写真です。ベトナム戦争期にM203のバレルが短縮されている例は、まだこの写真一枚しか見たことがありません。
また写真の兵士が着ているのはSOGチームリーダー=ワンゼロ用として知られるワンゼロベストです。このベストもベトナム軍で着用されているのはとても珍しいです。
  


2022年10月27日

初期のハチェットフォースとエアコンパッチ

※2022年10月28日更新

ベトナム戦争期、米軍MACV-SOG SOG-35が主導した越境特殊偵察OP-35/C&C部隊と言うと、米越合わせて6人または12人編成の『偵察チーム(RT)』が有名ですが、OP-35内にはそれとは別の役割の部隊も存在していました。それが『ハチェットフォース』と『エアコン』です。
ハチェットフォースはRTへの増援や目標への待ち伏せ攻撃を任務とする即応強襲部隊で1チームは米越合わせて20~40名程度で構成されていました。
エアコン(航空調整班)については資料が少なく具体的な規模はまだ分かっていませんが、名前からしてFAC(前線航空管制)を専門とする小規模なチームだったと思われます。

以下は、最初期のOP-35のFOB(前進作戦基地)、FOB-1(後のCCN)およびFOB-2(後のCCC)に存在したハチェットフォースおよびエアコンのパッチと使用例になります。
ハチェットフォースやエアコン部隊自体は1966年から1973年まで存在したようですが、これらの部隊章は今のところ1966-1967年頃の短い期間でしか確認できていなため、1967年に各FOBがC&C部隊に改名される前の短い期間のみ使われら物だと思います。


ハチェットフォース強襲中隊 (Hatchet Force Raider company)

▲FOB-1 (トゥアティエン省フーバイ) 1966年



エアコン/航空調整班(AIRCON / Air-Conditioning)


▲FOB-2(コントゥム省コントゥム) 1966年


1966年頃のFOB-1およびFOB-2の勤務証明書には、これら初期のハチェットフォース/エアコンのパッチが描かれています。

 

実はこれらの証明書は、軍ではなく現場の兵士が勝手に作った非公式な物なので、内容はかなり冗談めかして書いてあります。ベトナム思い出あるある的な感じ。
当時の米兵しか分からない内容もあるので日本語訳はしませんが、興味ある方は読んでみてください。


  


2022年10月06日

円筒ハンドガード付きM16A1

※2022年10月7日更新
※2022年10月8日更新

先日友人から、なぜ1992年のロス暴動に出動したカリフォルニア州軍はM16A2のハンドガードが付いたM16A1を使っているの?と質問がありました。


僕はその場で、「これはM16A2のじゃなくて、60年代にコルトが設計したけど米軍には採用されなかったM16A1向けの円筒ハンドガードだよ」と答えました。
しかし改めて調べなおしたところ、もう一つの可能性も出てきたので、その両方をここに記します。


可能性その1:コルト603用円筒ハンドガード

過去記事訂正、そして深まる謎』で少し書きましたが、コルト社はAR-15モデル603が米陸軍にXM16E1として採用された直後(一説によると1964年)には、すでに上下分割式の円筒型ハンドガードを開発しており、改良型モデル603(=M16A1)には、その64年型円筒ハンドガードが搭載される予定となっていました。




また同時期に開発されたCAR-15コマンド(コルト609および610)用には、同ハンドガードの短縮版(6ホール)が開発され、こちらはXM177E1およびGAU-5Aとして一足早く米軍に採用されます。
しかしフルサイズ版(64年型)テストの結果が悪かったのか、結局土壇場で円筒ハンドガードの採用は見送られ、1967年に米陸軍が決定したM16A1の仕様には含まれませんでした。
なのでコルト社側には円筒ハンドガードの設定が存在していたものの、米陸軍・海兵隊に納入されるM16A1には一世代前のXM16E1と同じ左右分割式ハンドガードが搭載されていました。
では、なぜ僕は写真の銃のハンドガードを、その不採用になった64年型であると考えたかと言いますと、それはその銃を使っているのが州軍だったからです。
州軍は、戦時には連邦軍(アメリカ合衆国軍)の指揮下に置かれるものの、基本的には連邦軍とは別の予算・指揮系統で運営される独立した組織です。
なので州軍がコルト社にモデル603を発注する場合、その仕様は必ずしも連邦軍の定めたM16A1である必要はないのではないか?
つまり、コルト社がカリフォルニア州軍に64年型円筒ハンドガードをお勧めして、州側がそれを使うと決めたから、普通に購入したのではないか?と想像した次第です。


可能性その2:M16A2と同じハンドガード

もう一つの可能性が、友人の想像した通り、M16A1にM16A2と同じハンドガードが搭載されていたというものものです。
実際に、こういう資料があります。

▲TM 9-1005-249-23&P (1991年版)

このマニュアルは、遅くとも1991年には、M16およびM16A1に標準で搭載されるハンドガードは円筒型に変更されていた事を明示しています。
また同書には、その円筒ハンドガードのNSN(国家備品番号)は『1005-01-134-3629』と記載されています。
そして、このNSNは1982年に制式化されたM16A2以降に搭載される円筒ハンドガードと同一です。
つまり、一般的にM16A2用と呼ばれている円筒ハンドガード(NSN 1005-01-134-3629)は、実際にはM16・M16A1・M16A2・M16A3・M16A4の計5機種に搭載されるものでした。
なのでこのハンドガードは、M16A2用と言うより、1982年型円筒ハンドガードと呼んだ方が良さそうです。
こうしてM16A1には円筒ハンドガードが標準装備と正式に定められたのだから、実際にその仕様のM16A1が使われていても、何の不思議もありません。
実際、90年代のアメリカ空軍では、このマニュアルの通りに、円筒ハンドガードを搭載したM16を使用している例が多数見られます。

ちなみに空軍では、本来M16ではないコルト601/602のロアレシーバーを使った銃も一緒くたにM16として扱っています。(M16として生産されたのはコルト604のみ)


で、結局どっちなの?

文献で確認できない以上、写真から読み解くしかなさそうです。
64年型円筒ハンドガードは、ベンチレートホールの数が14個なのに対し、82年型は15個。
そしてロス暴動時に見られるハンドガードは・・・

たぶん15個?
これ以上くっきり写っている写真が見つからなかったので、まだ断言はできないのですが、おそらく82年型だと思います。
経緯にしたって、「州軍だから独自仕様(64年型ハンドガード)を使っている」という若干飛躍した想像よりも、マニュアルに書かれた通りの仕様である82年型ハンドガード方が、はるかに筋が通ります。

という訳で、最初に僕が友人に答えた内容は恐らく間違いであり、実際には「これが当時のM16A1の仕様だった」が正解だと思います。
知ったかぶりしてごめんなさい!
  


Posted by 森泉大河 at 21:26Comments(0)【アメリカ】銃器1954-19751990-2000年代

2022年10月02日

XM16E1

※2022年10月3日更新

前記事『コルト604』で書いたように、JACベースのM16(コルト604 1964年型)風ガスガンを、さらに別モデルに改造していきます。
目標とするのは、コルト第2世代AR-15の米陸軍モデルであるXM16E1 (コルト603 1964年型)です。
コルト603と604は兄弟機種であり、単に陸軍仕様(603)がアッパーレシーバーにフォアードアシスト付き、空軍仕様(604)がフォアードアシスト無しという違いしかないので、改造とは言うものの、実際はアッパーレシーバーをJAC純正のフォアードアシスト付きタイプに戻すだけです。
なおJACのメタル製レシーバーには実物のストックが組付けられるものの、プラ製の方には組めなかったので、実物ストックが組めるよう取り付け部分を少し削りました。
そして上下レシーバーを同一色(パーカーシール)で塗装。ついでにボルトキャリアもクロームメッキ風に塗装。



これに、手持ちのM16A1(コルト603 1967年型)に付けている実物ストックを乗せ換えて、XM16E1が完成。




過去に散々ベトナム戦争期のAR-15について蘊蓄語ってきたのに、今頃かよって感じもしますが、これには訳があるんです。
確かにベトナム派遣アメリカ軍やFWMF(自由世界軍)では、1965年以降大量のXM16E1が使用されました。
しかし僕のライフワークであるベトナム共和国軍にXM16E1が配備開始されたのは、僕の知る限り1967年2月と比較的遅く、さらにその翌年の1968年初頭には新型のM16A1(コルト603 1967年型)の大量配備が開始されました。
つまりベトナム共和国軍では、装備するAR-15系ライフルのうち、XM16E1が主だった期間はわずか1年ほどで、しかも装備するのは一部のエリート部隊に限られていました。
一方M16A1は1968年から1975年まで7年近くアメリカから供与され続け、ベトナム共和国軍全軍に行き渡ったので、その数はXM16E1とは比べ物になりません。
なので僕にとって、ベトナム戦争リエナクトに必要なAR-15は圧倒的にM16A1であり、XM16E1の優先度は低い物だったのです。
(でもマニア心に突き動かされ、もっと配備数の少ないコルト601は先に作っちゃった。)

▲ベトナム共和国軍のXM16E1マニュアル BT 22-24の表紙
米軍マニュアルFM23-9(1965年版)をベトナム語訳したもので、このマニュアルの発行自体は1966年のようですが、実際に前線にXM16E1が配備された記録としては、1967年2月のジャンクションシティー作戦に参加したベトナム海兵隊A戦闘団に配備されたものが僕の知る限り一番古いものです。

▲XM16E1を装備するベトナム海兵隊員[1967-1968年頃]




おまけ

余ったフォアードアシスト無しアッパーレシーバーを、同じくJAC製のXM177E2(コルト629)に組み込むと、GAU-5A/A(コルト630)に早変わり。


写真撮ってみたかっただけで、GAU-5A/A自体に特に思い入れは無いので、今後また何か違うモデルに変化するかも知れません。
  


Posted by 森泉大河 at 01:40Comments(0)【アメリカ】銃器1954-1975

2022年10月01日

コルト604

※2022年10月2日更新


最近こんな物を手に入れました。
JACのガスガンがベースのM16ライフル(コルトAR-15モデル604 1964年型)、第2世代AR-15の米空軍モデル風です。
(ただしストックはJAC純正なので、1964年型ゴム底ストックに1971年型の固定スイベルがミックスされた架空の物。ボルトキャリアも違う。)




床井 雅美氏のM16&ストーナーズ・ライフルによると、このコルト604は米空軍の他にも、軍事支援として6145丁がベトナム軍に供与されたそうです。


▲M16(コルト604/1964年型)を持つCIDG兵士 [1969年ベンヘット特殊部隊キャンプ]

6千丁と聞くと凄い数のように感じますが、同時期にベトナム軍に供与されたAR-15陸軍モデルのコルト603(XM16E1およびM16A1)の数はのべ943,989丁に上るそうなので、それと比べると604の割合は1%にも満たないものでした。
ちなみに、僕は以前ベトナムのクチ・トンネルに行った際、偶然にもその貴重な604(のロアレシーバーを使った銃)を撃つ事が出来ました。(過去記事『ただ鉄砲撃ってるだけの動画』)

といった感じで、コルト604はガンマニア的には希少性が高く魅力的なモデルではありますが、それは同時に、リエナクター目線で言えばレア銃過ぎて使い道が無い事も意味しています。
上のCIDGの写真も、米空軍以外で604が使われている、かなりレアな例です。
米空軍コスプレをするなら最適な銃ではありますが、それは僕の趣味の対象外なので、この604風ガスガンは記念写真だけ撮って、さっそく別のモデルへの改造ベースになってもらいます。
何に改造するかはお察しの通り。
  


Posted by 森泉大河 at 00:29Comments(2)【アメリカ】銃器1954-1975

2022年01月17日

トンプソンのスリングベルト

先日、久しぶりにビクトリーショウに足を運びました。
僕はまだ手持ちのマルイ製電動ガンM1A1『トンプソン』SMGに取り付けるスリングベルトを持っていなかったので、米軍M3スリング、 通称「Kerr Sling (カースリング)」を探したところ、メーカー不明のレプリカを安く買う事が出来ました。
そして家に帰ってさっそくこれを銃に取り付けようとしたのですが、カースリングというものを触るのは今回が初めてだったので、普通のスリングベルトとは構造が違い過ぎていて、どうやって取り付けたらいいか全然分かりませんでした。
なのでインターネットで取り付け方を検索。Youtubeに、本来のカースリングの取り付け方をレクチャーしてくれる動画がありました。



しかしメーカーが意図した上の取り付け方は必ずしも現場の兵士のニーズに合ったものではなかったらしく、米軍では実際にはそれ以外にも以下のように、現場で考案された様々な取り付け方が存在したと説明している人も居ました。

MP40's Modelguns Forum: https://mp40modelguns.forumotion.net/t140-how-to-fit-thompson-kerr-type-sling


こうして調べてみたら逆にどれが正解か分からなくなってきたので、僕のトンプソンの使用目的である、ベトナム軍における装着例を改めて見直すことにしました。
スリング部分が鮮明に映っている写真が少ない中で、比較的はっきり見える写真の一つが、こちらの陸軍ドゥックミー・レンジャー訓練センターで撮影されたもの(1961年7月撮影)。


これまた、上の米軍の例とは違う取り付け方。
なんと、片方のフックに、銃側のスイベルとスリング側のリングを一まとめにくっつけています。
これを再現すると、こんな感じ。



また下の海兵隊の写真(1962年撮影)でも、片方のスイベルにフックとリングを同時に留める方式は上のレンジャーの例と同じです。(前後は反対)



なお、レンジャーの例ではもう片方(ストック側)がどうなっているかは見えませんが、海兵隊の例ではもう片方(ハンドガード側)スイベルにはそのままフックのみ装着されています。
なのでおそらくレンジャーの例も下の写真のように、もう片方はフックのみ装着だと思われます。

▲レンジャーの例の再現。海兵隊の例はこれの前後反対

この取り付け方法ではスリングの長さを調整することはできず固定となりますが、少なくとも今回挙げたベトナム軍の2例では、実用上は固定長で問題ないと考えられていたのかも知れませんね。  


2022年01月09日

コルト45ガンベルト

今日、オーストラリアのベトナム共和国軍専門レプリカメーカーフォクフン(Phuoc Hung)に注文していた品物が届きました。




その中の一つが、コルト45(M1911ピストル)用ウェスタン・ガンベルト。
このガンベルトはこれまで複数のメーカーからレプリカが販売されていましたが、その度に(優先度は低めのアイテムなため)買い逃していたので、今回ようやく入手することが出来ました。




やっぱ弾がむき出しで挿してあるとカッチョえぇ~!

しかし元祖コルト45のシングルアクションアーミーなら、カートリッジを一発ずつシリンダーに装填するので、このようにカートリッジを直接ベルトに挿して携帯する事に実用性があったでしょうが、M1911の場合はまずカートリッジをマガジンに入れる必要があるので、ベルトに挿している弾は完全に飾りですね。

なお上で「優先度は低め」と書いたように、このガンベルトは軍の正式な装備品ではなく、民間で販売されている物を将兵が個人的に購入したオシャレアイテムでした。

このような皮革製品屋や露店で売られていたようです。戦時中なので軍・警察向けのホルスターやナイフシースがたくさん売られています。

こうした民間製ホルスター/ガンベルトの中でも、特にウェスタンスタイルのガンベルトはM1911用および各種リボルバー用ともに、空軍での使用例が多く見られるタイプになります。
これはおそらく、陸軍や海兵隊では拳銃を携帯するのは限られた高級将校のみだったのに対し、空軍では航空機搭乗員全体が不時着時の自衛用として拳銃を携帯する事が多かった事、またカートリッジによる光の反射や泥汚れに気を使う必要が無かったためと思われます。

▲空軍H-34ヘリコプターのクルー。リボルバー用ウェスタン・ガンベルトを着用している。


▲式典に臨む空軍の高級将校たち。4人中3人がウェスタン・ガンベルトを着用している。
  


2022年01月06日

銀色ガスシリンダー

以前から気になっていたのですが、第2次大戦からベトナム戦争期の写真を見ていると、ガスシリンダー部分だけが銀色に輝いているM1ガーランド小銃を時々見かけます。

▲第2次大戦期のアメリカ陸軍および海兵隊

▲ベトナム戦争期のベトナム共和国軍

▲こちらのラオス王国軍のポスターでは、M1小銃のガスシリンダー部分がわざわざ銀色に塗り分けて描かれています。


これはいったい何なんだろうと思ってネットを検索してみたら、掲示板にその答えらしき書き込みがいくつかありました。

書き込みによると、M1小銃のガスシリンダーアッセンブリーはステンレス鋼でできており、その表面は他の鋼鉄製パーツのようなパーカライジング処理/リン酸塩被膜ではなく、耐熱性エナメル塗料によって黒く塗装されているだけでした。しかし当時の塗料は性能が良くなかったため次第に塗装が剥がれ、ステンレスの下地が丸見えになっている個体が数多く存在するそうです。

▲コレクター所有のビンテージM1小銃

なお全てのビンテージM1小銃が同じような状態になっているわけではなく、ちゃんと黒いままの物も多く存在しているので、生産時期やメーカーによって塗料や表面処理が異なっていたのかもしれません。


とまぁ、謎が解けたところで、こんなの簡単に再現できそうなので、さっそく手元のマルシン製ガスガンを分解。
ガスシリンダーアッセンブリーをMr.メタルカラーのステンレスで塗装しました。



組んでみると、まぁカッコいい!


組みなおす際にガスシリンダーを手で触ったらステンレス塗装が剥がれて黒い下地が出てきてしまいましたが、それがむしろ、自然に塗装が剥がれたリアルな感じになってくれました。(本来は黒塗料が剥がれてステンレス地が出てくるので逆ですが)

あとは、このガスガンのいじるポイントとして、ストックの色にちょっと不満があるので、オイルステインで塗りなおそうと思います。
オイルステインの場合、まず全体をペーパー掛けして今の塗装を全部落とす必要があるそうなので、けっこうな手間暇がかかりそう。
いずれやる気が出たら(あるいは辛抱たまらなくなったら)やろうと思います。
  


2021年12月22日

最近作った物

※2021年12月23日更新
※2021年12月25日更新

ダミー.45ACP弾薬 (M1911ボール風)


M1911ピストル用のウェスタンガンベルトを注文したので、ガンベルトが届く前だけど、ベルトに挿すダミーのM1911ボール(米軍制式.45ACP FMJ弾)を24発分作成。
ケースは使用済みの米軍払い下げ(たぶんM1911ボール)をサンポール洗浄し、ピカールで研磨。
ブレットは個人製作の鉛キャスト製を購入し、自分で銅色に塗装したものです。
送料含め総額1700円弱で揃っちゃいました。こんなに安く済むとは自分でもオドロキ!


クメール国軍(FANK)陸軍第7歩兵旅団群 プラスチックパウチ部隊章


当時存在した、紙に印刷された部隊章を透明プラスチックシート(※)でパウチ加工したものの再現です。
実物はシルクスクリーン印刷ですが、僕のはコピー用紙にインクジェットプリンターで印刷したお手軽仕様です。
裏面に安全ピンがついており、普通のSSIと同じように着用します。

※塩化ビニルのシートだと溶けやす過ぎてうまくホットシーラーでパウチできなかったので、この作例ではポリカーボネイトポリプロピレン製シートを使っています。

パウチ部隊章の使用例。ロン・ノル大統領の閲兵を受ける第7歩兵旅団群 [カンボジア, 1973年11月]



アメリカ軍MACVハンガーバッジ


こちらは自分用ではなく、友人にプレゼントするため作りました。
刺繍パッチを塩化ビニルシートと牛皮でパウチ(ミシン縫い)したタイプです。

ちなみに中のMACVパッチは実物です。
もう10年近く前だと思いますが、今は亡き友人に、知る人ぞ知る個人経営の小さな古着屋を紹介してもらいました。その店の商品はビンテージのアメカジがメインなんですが、同時に大戦~ベトナム期の米軍払い下げ衣類・個人装備・徽章も乱雑に置かれています。しかも店主的にはアメカジしか興味ないので、それらの軍装品は捨て値。
僕は個人装備を買ったついでに、まだ紐で束ねられたデッドストックの米軍MACVパッチが置いてあったので、「これ1枚ください」と言いました。すると店主のおじさんが「紐を解くの面倒くさいから全部あげる」と言って、一束(十数枚)丸ごと1枚分の値段で売ってくれた、と言うか押し付けられました。その中の1枚が今回使用したパッチです。
あのおじさんも大雑把だけど、こんな腐るほど大量にパッチを作りまくって余らせる米軍も、どういう計算でパッチを発注してるんだか謎です。
  


2021年12月07日

100均ポケットCS その2

前回ベース色の塗装までやったので、自分で作った印字デカールを貼り付けます。
以前M7A2 CSガスに貼ったデカールはハイキューパーツ 家庭用インクジェットプリンターデカール用紙に印字されたものでしたが、今回XM58を製作するにあたってデカール用紙を注文しようとした時にちょうど品切れだったので、代わりにオリデカ インクジェットデカールを初めて使ってみました。


ハイキューパーツ同様、このオリデカもインクジェットプリンターで印刷後、インクが水に溶けださないよう表面にクリアーをエアブラシで吹く必要があります。

そして貼り付け。


デカールが一部汚くなってるけど、これは僕のミス。一応、満足いく仕上がりになりました。


おまけ

XM58用デカールを印刷するついでに、M67フラググレネード用のデカールも作りました。



しかし透明タイプのデカールは下地が思いっきり透けるので、下地が暗い色だとこんな感じ。ほとんど意味ないですね。
これが上手くいったらコストコ製の弾薬箱にもデカールで印字を再現しようと思っていましたが、ちょっと無理そう。
実物の手榴弾や弾薬箱は専用のゴム印で印字しているようですが、そこまでは作ってられしないなぁ。
やるとしたら、ステンシル+隙間を筆塗りしかなさそうです。めんどくさぁ・・・
  


Posted by 森泉大河 at 19:33Comments(0)【アメリカ】1954-1975自作グッズ

2021年12月06日

100均ポケットCS

『100均ミニスモーク』に続く手作りグレネード第2弾。
今回はXM58 ポケットCSグレネードです。

XM58は、採用当初こそ米軍SOG傘下の特殊部隊にのみ試験的に配備されていましたが、その実地試験で有用性が認められたため、1970年代に入るとベトナム軍やクメール軍の一般部隊にも支給される、ありふれたCSガスになりました。

▲サスペンダーにXM58を吊り下げるベトナム共和国軍地方軍の将校(スンロク, 1975年)


今回XM58を作ろうと思ったきっかけは先日、家の引き出しの中に、過去に何かで使った残骸と思しきサンプロ製手榴弾のヒューズ・レバーだけが残っているのに気付いた事でした。
さらに、前々からコスプレ用にXM58グレネードが欲しかったので、このヒューズ・レバーを再利用すべく、100円ショップのキャンドゥに走りました。

そこで見つけたのがこちらのスプレーボトル。


これをカッターで切ってセロテープで仮組すると・・・


オーケー、サイズぴったり。


エポパテで形状を整えて、ヒューズを内側からネジ留めして



塗装。


G&G製M18スモークをM7A2 CSガス風に塗りなおした時と同様、Mr.プライマーサーフェイサー1000 スプレー(グレータイプ)の色がCSガスグレネードにぴったりなので、本体色はこのサーフェイサーだけで再現します。

次は自家製デカールで赤い印字を再現しますが、まだデカールが出来上がってないので、次回に続きます。



おまけ:自作塗装台

これまで何かを塗装をする際は、ベランダに段ボールを敷いていたのですが、段ボールを屋外に置いておくと湿気を吸ってグニャグニャに変形してしまい使いにくかったので、耐候性のある塗装台を作ってみました。
当初はバーベキュー用の金網をベニヤ板に取り付けようと考えていましたが、ホームセンターをうろうろしていたら、良いものを見つけました。
農作物の苗を育てるセルトレイです。この四隅を真鍮線でベニヤ板に取り付けて完成。


同じセルトレイですが、取り付ける向きを上下分けているのがミソです。
穴の開いている方(上下逆さま)は、割り箸を挿して塗装物を立てて乾燥させることができます。
格子状の方は、ある程度大きい面積の物を塗る時の土台となります。


  


Posted by 森泉大河 at 15:29Comments(0)【アメリカ】1954-1975自作グッズ

2021年11月25日

コルト.45

※2021年11月26日更新


先日、十数年前に買ったマルイのエアコキ M1911A1ピストルを再塗装しました。

塗装前

買った当時、金と手間をかけずに金属感を出そうと、本体は塗装せず、単に銀色のプラモデル用塗料をティッシュに含ませて擦り付けたのですが・・・
本当にただ、プラスチックの上に塗料を乗っけただけって感じ。それにランヤードリングもプラ製なので折れてなくなってしまいました。
しかし僕のメインの趣味であるリエナクトではピストルを持つ機会がほとんど無いので、こんな状態でも困ることはなく、長年放っておいてしまいました。

それが先日、初めてインディのパーカーシールを使ってグリースガンやMAT-49を塗装してみたところ、手軽にリアルなスチールの質感を出せることが分かったので、これを機に手持ちのトイガンを次々再塗装しだしました。
そして今回塗ったのが、僕が持ってる唯一のピストルであるM1911A1ついでにランヤードリングもステンレスの針金で復元。
ちなみに塗装する際、はじめてこのトイガンを分解したのですが、写真を撮らずに部品をバラバラにしたら戻し方が分からなくなり、ちょっと困りました。そこでネットで検索して見つけたこちらの記事(misoのレビュー様)を見ながら、どうにか元に戻す事ができました。


塗装後


下地はミッチャクロンマルチを塗っただけでシルバー系は塗っていませんが、それでも表面をスポンジヤスリで擦ると、こんなに金属っぽくなりました。
この部分だけ見ると、とても定価2,000円以下のエアコキ(スプレー代より安い)3,000円強とは思えない仕上がり。塗ってよかった!



1911系ピストルの呼び方

ところで、実は僕、米軍のM1911ピストルが『ミリガバ』と呼ばれていることをつい最近知りました。最初聞いたときは何のことかわからなかったです。
しかしミリガバって、考えれば考えるほどおかしな言葉。

ミリガバ誕生の流れ】
米軍がコルトの新型45口径自動拳銃を採用、制式名称『M1911』を付与。
コルトがM1911の民間仕様を発売する際、政府採用である事をアピールするため、商品名を『ガバメント(Government)』とする。以後、コルトは民間向け1911シリーズの中で、M1911に準拠したフルサイズ・スタンダード仕様』ガバメントと呼称する。
これを米国の銃器ユーザー・マニアが、『M1911を含む』スタンダード仕様の別名がガバメントであると拡大解釈。
さらに日本の遊戯銃ファンが、M1911を『ガバメントの軍用仕様=ミリタリーガバメント』と呼ぶようになる。

この流れを考えると、ミリガバという言葉は『軍用拳銃の民間仕様の軍用仕様』という、滑稽な意味になりますね。
現在でも製造元のコルトがガバメントと呼称するのは1911シリーズの中でもスタンダード仕様のみであり、それ以外の1911シリーズはガバメントとは呼ばれません。
まして米軍向けに生産されたM1911は本来、ミリガバどころか、ガバメントですらないのです。


じゃあ『ガバメント』以外でM1911や1911シリーズを何と呼ぶべきか?
僕の感覚では、米軍のM1911に関しては、わざわざ別名など使わず、そのまま「M1911 (エム・ナインティーンイレブン)」と呼べばいいじゃんと思います。それが唯一にして絶対の正式名称なんですから。
とは言え、英語への憧れと劣等感が同居している日本の事。「ナインティーンイレブン」なんて言ったら、カッコつけだと笑われそうと心配なら、「いちきゅういちいち」と言う手もあります。野暮ったいので僕は好きじゃないけど。
「11.4mm拳銃」?そりゃ自衛隊だけじゃ。

一方、総称である1911シリーズM1911を含むスタンダード仕様あるいはフルサイズの1911シリーズ関しては、世間への浸透度も高く語呂も良い適切な別名があります。
それが『コルト.45』。シングルアクションアーミーと区別するため『コルト.45オート』とも言います。
読み方は「コルト・フォーティーファイブ」でも良いですが、「こると・よんじゅうご」でも、昔の映画っぽくてカッコいい。(私見)
このコルト.45は映画だけでなく、実銃の世界でも(場合によってはコルト製以外も含む)1911シリーズ全体スタンダード/フルサイズ仕様を指して使われる一般的な愛称です。
M1911もガバメントもデトニクスもハイキャパも、みんなコルト.45。これで世の中丸く収まるじゃないですか。

2021年11月25日訂正:
『コルト.45』と呼ばれるのは基本的にはスタンダードまたはフルサイズ仕様のみで、短縮版など他の仕様の1911シリーズは含めないようですね。僕の勘違いでした。失礼しました。


おまけ

M1911と並行して、これまたいにしえのマルシン製非ブローバックガス式?M1カービンも塗りました。

塗装前




塗装後

 

ストックも塗りましたが、今回は工程簡略化(要は手抜き)の実験として、オイルではなく水性ニス(オールナット色)を使ってみました。
刷毛でさっと塗るだけなので非常に楽チンでしたが、ニスは木材に染み込むのではなく表面を樹脂の層で覆うだけなので、塗りムラが樹脂の塊になってしまいました。
それでもよく見なければ分からないレベルなので、水性ニスは工程が楽で仕上がりはそこそこといった感じ。ちょっとした木材を塗るには良いと思います。
しかし樹脂の塊が生じやすく、重ね塗りしてもそれを隠すことが難しいので、思い入れのある銃に使うにはリスクが高いですね。
次はM1ライフルを塗ろうと思いますが、そのときはちゃんとオイルステインを使おうと思います。
  


Posted by 森泉大河 at 15:55Comments(0)【アメリカ】銃器1918-1939

2021年11月23日

キャンバスブーツのコントラクト/調達局コード

ベトナム戦争期に米軍がインドシナ諸国向け軍事支援物資として日本・韓国で生産させたキャンバスブーツおよびそのコントラクトナンバー(契約番号)について過去記事『キャンバスブーツ』に書きましたが、あの後先輩研究者たちと情報交換していく中で、僕がいろいろと勘違いしていたことがわかりました。
そこで今回はOlivier Bizet氏およびDavid Levesque氏に提供していただいた貴重なデータを基に、僕が改めて情報をまとめたものを発表します。

I. 極東向けコントラクトナンバー

1. DA-92
『DA-92』から始まるコントラクトはアメリカ陸軍の極東(Far East)向けコントラクトナンバーであり、同様にヨーロッパ向けには『DA-91』が用いられます。


そしてDA-92に続く三桁の数字が調達局コードとなります。(それぞれの調達局コードについては『DAJB』の項参照)
調達局コードの後ろの『FEC』は『極東司令部 (Far East Command)』の略で、1947年からGHQと同じ東京の第一生命ビルに本部を置き、1952年に市ヶ谷に移転。FEC自体は1957年に発展・解散しましたが、その後も極東地域におけるコントラクトには引き続きFECのコードが使われた模様です。

なおブーツではありませんが、FECとは異なる発注パターンのDA-92ナンバーも存在し、一例として米陸軍工学司令部(Army Engineer Command)が韓国で結んだコントラクトには『DA-92-800-ENG-xxxx』というコードも存在するそうです。


2. DAJB
1966年5月または6月の間に、極東向けコントラクトナンバーの様式はDA-92から『DAJB』に変更され、DAJBに続く二桁の数字が調達局コードとなります。

調達局コードの例】


II. キャンバスブーツのコントラクトナンバー実例


この表のように、キャンバスブーツは1966年前半までは日本製・韓国製両方が存在したものの、DAJBナンバーに切り替わった1966年後半以降は韓国製しか確認されていません。
キャンバスブーツの製造は1975年の第2次インドシナ戦争終結まで続いたと思われ、またこのブーツを使用したベトナム、カンボジア、ラオス各国の軍も年代が進むにつれて兵力(=ブーツの需要)を拡大させていたっため、最終的にはキャンバスブーツ全体の生産数のうち、かなりの割合が韓国製だったと考えられます。


おまけ

上の表で何度も社名が登場している韓国『Dong-Shin (Tong Shin) Chemical Industry (東信化學工業)』のキャンバスブーツ工場を映した当時のニュース映像がありました。


戦後日本が朝鮮戦争特需で経済を復興させたように、韓国にとってもベトナム戦争による特需の恩恵は計り知れないものがあったそうです。
ブーツに限らず、インドシナ軍事援助用の個人装備や被服(タイガーストライプ等)は60年代前半は日本製が多かったですが、その後韓国がベトナムに派兵を進めると、その見返りとして米軍からの発注は韓国へ集中していきました。
第2次インドシナ戦争終結後しばらく、韓国軍が(戦争が終わったせいで送り先がなくなった)大量の韓国製ARVNラックサックを自国で使用していたことを考えると、もしかしたらキャンバスブーツのデッドストックもまだ韓国国内に眠ってるかもしれませんね。
  


2021年11月21日

今度こそRTミシガン服完成

以前『RTミシガン営内・外出着』で作った服がなんだか気に入らず、作り直しました。
前回はEA製のベトナム軍ホアズン(グリーンリーフ)迷彩服をベースにしましたが、今回はより再現度の高いドラゴン製を使いました。

まず、再現目標とした当時の写真では、複数の人物が肩当無し、エポレットのみのタイプの迷彩服を着ています。
(この裁断は60年代末以降のベトナム軍野戦服でカーキ、迷彩ともに多く見られます。)



なのでドラゴン製迷彩服から肩当を撤去。ついでに袖を折り畳みやすいよう、肘当ても撤去して七分袖化しました。
いつもは横着してポケットを潰して縫い付けてる胸ポケット上のパッチも、今回はちゃんとポケットを一度剥がしてパッチを縫い付け、ポケットとして機能するようにしています。
またボタンは戦中同型の戦後ベトナム製ボタンに交換しました。

そして完成したのがこちら。



肩当を剥がした跡が残っていますが、これは何回か洗濯すると目立たなくなります。
胸のネームテープは、ブル族の人名』の時に決めた『BOP(ボプ)』です。
左胸の米軍SFパッチは、以前与野の大正時代祭りにシャム王国軍装で参加したタイの友人からもらったタイ製リプロです。実際にベトナム戦争当時米兵向けにパッチを作っていたバンコクの徽章屋が当時と同じ刺繍ミシンで作った物なので、滅茶苦茶リアルです。



おまけ:パッチとバッジ

 この記事で「肩当て」、「肘当て」と呼んでいる補強用の布は、本来の服飾用語では『パッチ(patch)』と呼ばれます。しかし軍服の世界では、服に直接縫い付ける布製の徽章もパッチと呼ばれます(こちらは『当て付ける布』の意から派生した使い方)。両方の意味の言葉が混在すると紛らわしいので、当ブログではあえて軍装マニア的視点で布製徽章のみを『パッチ』と呼称しています。
 なので、洋裁やってる人に「パッチを付けてほしい」と言う場合、それは「補強布を付けてほしい」という意味になるので、徽章を差し出しても意図が通じないでしょう。それを回避するには、『アップリケ』と言えば間違いなく通じると思います。ダサいけど(笑)
 また『バッジ(badge)』でも通じると思います。徽章業界においてバッジは金属製徽章を指す場合が多いですが、元々は『インシグニア(insignia)』同様、材質に関係なく単に『徽章』を意味する言葉だそうです。そういう意味では、布製も含めた徽章全般をバッジと呼ぶ服飾業界の方が、当の徽章業界よりもバッジという言葉を本来の意味で使っているというパラドックスですね。
  


2021年11月14日

さらに悪あがきM18スモークグレネード

※2021年11月19日更新


①G&G製M18再塗装・グリーン化

以前『手榴弾ディテイルアップ、と言うか悪あがき』の記事で、G&G製レプリカのM18スモークグレネードを再塗装しましたが、その時は表面の印字を再現するのが面倒くさくて省略していました。


ですがその後、海外のリエナクターが、「本体色ごとシールに印刷して貼り付ける」という方法で印字を再現しているのを見つけたので、僕も真似してやってみました。
なお今回は、ベースにしたM18レプリカは発煙色レッドのタイプですが、塗りなおすついでに、まだ持っていなかったグリーンを再現しました。




ビフォーアフター

モニター上では、本体を塗装したMr.カーラー オリーブグリーン(2)の色に合わせたつもりだったのですが、実際に印刷してみると微妙に違う色合いになってしまいました。
なお上側の天板のグリーン色は水性ホビーカラー H50 よもぎ色で塗っています。


②G&G製M18再塗装CSガス

もう一つのG&G製M18は、スモークではなくM7A2 CS(催涙)ガスグレネード仕様にしました。
作業としては、本体色としてMr.プライマーサーフェイサー1000 スプレーをそのまま使っています。
その上に、ヤフオクで販売されていた個人製作のCSガスグレネード用デカールを貼り付けました。

イイ感じ!



③④アリイ(現マイクロエース)製M18 セーフティレバー換装

僕が高校生の時、つまり約18年前に自分で作ったアリイプラモデルのM18。
(このキットの最初の製造販売メーカーはLS。LS倒産後に金型がアリイに移り再販。2004年、アリイがマイクロエースに社名変更。)
このキットは造形が非常に良いものの、セーフティレバーまでプラ製なので、装備につけて野外で使っているとすぐ折れてしまいます。
そこでレバーが折れて以来しまいっぱなしだったものに別の金属製のレバーをつけて再利用。

左(レッド)がサンプロ製レバーを曲げたもの、右(イエロー)がM18と同型の実物(ただし正体不明)のレバー


18年もののビンテージ(笑)なので印字が滅茶苦茶かすれていますが、実物(使用済み)M18も市場に出回るときはこのくらいボロくなっている物がおおいので、逆にリアルじゃね?と自分に言い聞かせてます。




  


Posted by 森泉大河 at 22:03Comments(0)【アメリカ】1954-1975