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2021年05月01日

AR-15モデル601完成


【前記事】


最後に残っていた改造箇所を片付けました。


エジェクションポートカバー

もともとJACのエジェクションポートカバーはAR-15第2・第3世代(つまりM16/XM16E1からM16A1シリーズ)の形状をとても良く再現しているのですが、今回はこれをプラ棒等で、もっと古い第1世代の形状に改造しました。

改造前、改造後


ちょっと接着剤の跡が汚くなってしまいました・・・



マガジンリリース

これもセレーションが水平になっている第1世代タイプに改造。


元からある円形のセレーションを削り落とし、パテで水平の溝を作成

改造前、改造後


う~ん、やはりセレーションは難しい。
でも細かい部分を気にしだすとキリがないので、ひとまずこれで完了とします。


レシーバーピボットピン


ジャンク箱に入っていた、中がメスネジになっている謎のボルトをベースに改造。
第2世代以降が備えている脱落防止のピンを内蔵したエジェクションポート下のリブが第1世代のレシーバーには無いので、第1世代の脱落防止機構はピボットピン側に付いています。
しかし、それを再現するのは大変なので、ピンの太さをレシーバー側の穴の径ギリギリにして圧入する事で簡単には落ちないようにしました。

改造前、改造後



こうしてついに、全ての改造が完了しました・・・

これが我が家のコルト・アーマライトAR-15(モデル601)


刻印はいじってないし、僕の工作技術も未熟なため、まだ完璧とは程遠いものの、なんとか形になりました。
当面はこの状態で使うつもりですが、もしかしたらそのうち我慢できなくなって刻印も打ち直す事になるかも。でもその時はちゃんと業者に頼みます。


モデル601とベトナム軍

そもそも僕がモデル601を作った動機は、この銃がコルトによって製造された最初のAR-15であるという銃器マニア的な興味に加えて、ベトナム共和国軍マニアとしても長年渇望していた銃だったからであります。
AR-15モデル601は1960年にアメリカ空軍に採用され、さらにその後ベトナムにおいて米陸軍特殊部隊が実地テストを行った事は広く知られています。
しかし実はその陰で、1961年から1962年にかけて約1,000丁のモデル601が軍事支援物資としてアメリカからベトナム共和国軍に供与されていました。
当時、東南アジアにおける共産主義勢力の排除を目的とした限定的非対称戦争『プロジェクト・アージル(Project AGILE)』を実行していたアメリカ国防総省ARPA(高等研究計画局)は、軽量・高威力を両立しているAR-15(モデル601)は従来の米軍火器よりも体格の小柄なベトナム人兵士に適していると考え、コルトに対し新たにモデル601発注、1962年に計965丁のモデル601と5.56mm弾薬55万発をベトナム軍の各部隊に供与しました。

モデル601ベトナム軍における配備先】
空挺旅団 390
CIGD 125
第7歩兵師団 100
レンジャー部隊 100
海兵隊 100
特殊部隊 100
第5歩兵師団 40
(出典:Black Rifle: M16 Retrospective, R.Blake Stevens, Edward C. Ezell, 1992)

こうして米軍はモデル601を空軍基地の地上警備および特殊部隊による小規模なテストでしか使用しなかった一方、ベトナム軍はAR-15という銃を初めて実戦で本格的に運用した組織となりました。

▲AR-15モデル601とベトナム陸軍空挺旅団の兵士(1960年代前半撮影)

それから2年後の1964年、アメリカ陸軍および海兵隊はようやく重い腰を上げてAR-15(モデル603 1964年型)を『XM16E1』として試験採用。翌65年からベトナム派遣部隊に大々的に配備していきます。
その一方でベトナム軍へのAR-15の供与は1962年分で一旦打ち切られており、新型のXM16E1が配備されるのは米軍から2年遅れの1967年となりました。
なおXM16E1の改良型として1967年に制式採用された『M16A1』(モデル603 1967年型)の配備はアメリカ・ベトナム両軍共に順調に進められ、米軍での採用翌年の1968年初頭にはベトナム軍でも、一線級部隊の主力小火器はM16A1に置き換わりました。
  


2021年04月29日

モデル601その3

【これまでのお話】
モデル601の進捗


マガジン

前回、形状修正までやったので、塗装に向けてサーフェイサーを吹きました。


白い成形色装状態では分かりませんでしたが、サフを吹くと表面の粗さが目立ちます。
これはナイロンを素材にした以上避けられないと分かっていたので、対策は考えてあります。



全体に溶きパテを厚めに筆塗り。その後サンドペーパーで、ひたすら研磨。
表面が滑らかになったらエアブラシで塗装します。



まず下地に、ボルトキャリアを塗ったのと同じMr.スーパーメタリック2を塗布。
その上にあえて新品っぽく見えるよう、薄くセミグロスブラックを吹いてみました。
(ワッフルマガジンは使っているアルミ合金の種類が違うのか、普及型マガジンのように黄色く変色している例は見ない気がします。)
よく見ると細かい傷が沢山あるけど、最初のコンクリートブロック状態と比べたら、だいぶ金属っぽくなりました。


このマガジンは一応、側面のリブだけでなく、底面も極初期のAR-15のものを再現したつもりです。
上から自作品、実物初期型、実物普及型


しかし底面は特に3Dプリンターによる成形時の角度の問題で積層跡が大きく、溶きパテ+サンドペーパーをもってしても細かい部分をきれいに仕上げる事は出来ませんでした。



チャージングハンドル


さて最後に残った大物、チャージングハンドルです。
これは形を作るだけなら簡単なものの、強度を保つためにオリジナルのダイキャスト製ハンドルと3D出力した物とを合体させニコイチにしよう思案していました。
(後になって、ナイロンなら十分強度があるのでニコイチにせずとも大丈夫ったっと分かりましたが・・・)

そのため、3Dプリンターのデータはこのような形状にしました。

 


ダイキャスト製ハンドルからハンドル部分を切除し、ロッド部分のみを新造ハンドルに移植します。
外からは見えませんが、内部にはハンドルをロックするためのスプリングをはめる穴やスリットがある関係上、どうしてもこんな形状でしか接合できませんでした。
しかしデコガンとは言えチャージングハンドルは引く度に力が掛かる部分なので、金属にも対応している瞬間接着剤アロンアルフア  プロ用耐衝撃』を使ってガチガチに固めました。
あとはマガジンと同じように溶きパテとサンドペーパーで表面を滑らかにして塗装。



こんな感じになりました。うん、悪くないと思います。


これにて大きな部品は終了。
あとは小物を何点か作っていきます。
  


Posted by 森泉大河 at 15:40Comments(0)【アメリカ】銃器1954-1975自作グッズ

2021年04月23日

今週の601

前記事『モデル601の進捗』


ボルトキャリア

エジェクションポートから見えてる部分の塗装をワイヤーブラシではがし、ボルトフォアードアシストのラチェットの切り欠き、その他開口部分をパテで埋める。
これにサーフェイサー→Mr.カラー ブラック(黒)→Mr.スーパーメタリック2 スーパークロームシルバーをエアブラシで塗装。

改造前のJAC M16A1(モデル603)と改造後の比較


スーパーメタリックすごい!こんなにリアルな金属感でるんだ。これは大成功!



ボルトキャッチ

当初はボルトキャッチは3Dプリンターで作ろうと思っていましたが、JACの改造でも大した手間では無さそうだったので、手作りしました。

第3世代(モデル603/604)タイプのボルトキャッチをベースに、ボルトキャリアを手動で止めるための下側のでっぱりを切り落とし、パテで肉盛りし、手作業でセレーションを彫る。
一回目はパテで延長すべき部分の長さが足りなかったり、セレーションがかなり歪になったのでボツ。パテ部分を全部取ってやり直し、2回目でなんとか形になりました。

左から改造前、改造後、実物


セレーションはアップで見るとまだとちょっと歪んでいますが、やり直しても手作業ではこれ以上精密には作れなそうなので、許容範囲とします。
あ、よく見たら、実物ってボルトキャッチの下側のレシーバーに窪みがあるんだ。これは見なかった事にしたいな・・・



マガジン

自分でデータ作成し、DMM.makeに3Dプリントを注文していたワッフルマガジンが届きました。

塗装前に取り付けチェック。うん、マガジンキャッチの穴の位置もばっちり。ウエ~イ!
と思ったら、なんか横リブの位置がおかしい。あれれ?
改めて寸法を測り直したら、なんと3Dデータを作る際に採寸したJAC製マガジン自体がもとから、装着した際に実銃よりも11mmほど長くレシーバーから出ている事が分かりました。
しかし横リブの位置は実銃の位置に合わせて作ってあるので、そこにズレが生じてしまったのです。
横リブの無いマガジンなら気になりませんでしたが、ワッフルマガジンだと11mmの差は大きく、違和感が出てしまっています。
しかたないので手作業で修正。せっかく3Dプリンター使ったのに~(泣)

マガジンの長さ(正確にはレシーバーからの飛び出し長)を実銃に合わすため、JACサイズに作ったマガジンの上部を11mm切除して短縮。マガジンキャッチの穴も手作業で開け直します。

修正完了。微妙な違いだけど、やはりこうして並べてみると雰囲気が違う事が分かります。

そうしたところで、今回はここまで。
なんとかゴールが見えてきました。
  


Posted by 森泉大河 at 20:24Comments(0)【アメリカ】銃器1954-1975自作グッズ

2021年04月12日

モデル601の進捗

ちびちびと進めてます。

ストックにあるガスホースの穴をエポキシパテで埋める。


樹脂パーツを食器洗剤で洗ったら、クレオスのMr.マホガニーサーフェイサーで下地処理。


601特有のダークグリーン色で塗装。
塗料はMr.カラーのC302/グリーン FS34092をベースに、オリーブドラブ(2)や基本色のグリーン、ブラックを足して調色しました。
樹脂パーツの色は写真にによって色味がかなり違って見えるので、自分がイメージする色を作りました。
僕の中では、あの色は普通のオリーブドラブよりもかなりグリーンの色味が強いイメージです。
最後にMr.スーパークリアー 半光沢で表面仕上げして完成。


まだ自作しなくてはならないパーツがいくつかありますが、だいぶ形になってきたので、仮組みしてやる気を出していきます。
現状ではこんな感じ。


601フラッシュハイダーは、G&P製の物の段差の谷部分にイモネジを立ててJACのバレルにで無理やり装着してます。


レシーバーはJAC M16A1の樹脂製レシーバーをAR-15第1世代型レシーバーに改造したもの。(前オーナーによる改造)



ストックも前オーナーがJAC製ストックに可動式スリングスイベルを取り付けたもの。


その他のパーツは3Dプリンターで作る予定です。

横リブの入った"ワッフルマガジン"は、JACのレシーバーに挿せるようにJAC製マガジンの寸法で作成。
すでにデータは完成しているので、他のパーツのデータが出来たら一緒に出力します。


チャージングハンドルは、取っ手部分の形状はすでに出来上がっていますが、エジェクションポートカバーを開ける*ためにはある程度強度が必要であり、できればその部分だけJACの金属製チャージングハンドルと合体させたいので、ニコイチにする方法を検討中です。
※ベースにしたJACガスガンはブローバック式ではないので、チャージングハンドルを引いてもボルトキャリアは動かないが、エジェクションポートカバーは開く。
  


Posted by 森泉大河 at 11:46Comments(0)【アメリカ】銃器1954-1975自作グッズ

2021年03月20日

手榴弾ディテイルアップ、と言うか悪あがき

最初からちゃんとしたレプリカを買えば済む話なのですが、ケチって安く済ませようとしたばかりに、手持ちのレプリカ手榴弾の形状・塗装に満足できず、結局自分で手を加えて少しでもリアルに見えるよう誤魔化し(悪あがき)する羽目になっています。

その1 G&G製M18スモークグレネード

G&G製M18金属製かつ低価格というのが魅力的ですが、いかんせん塗装がおかしい。
十歩譲ってベースのOD色が明るすぎるのに目をつぶっても、さすがに本体底面にまで色が塗ってあるのはいただけません。
なので全体をMr.カラーのオリーブドラブ(2)で塗装。(本体の白い帯のみマスキングで残しました)
上面の煙の色を示すカラーを(縁の内側のみに)再塗装しました。


本物は底面に煙の噴出穴があり、水・異物侵入防止のためにテープで穴を覆ってあります。なのでテープを貼ってしまえば実際に穴を開けなくても誤魔化せるのですが、ちょうど家にODテープの在庫が無かったので、後日買ったら貼り付けます。

また本体にプリントされるM18 SMOKE...等の文字は、ステンシルで一文字ずつ切り抜いて塗る事も可能ではあるのですが・・・面倒くさい。家庭用のプリンターでは白インクによるデカールを作ることも不可能。
という事で、この際割り切って印字は省略しました。実物も印字がかすれてほとんど見えなくなってる物も多いし。リグに付けちゃえばほとんど気にならないでしょう。


その2 TMC製M18スモークグレネード

TMC製M18は、G&Gのようにスモーク色が上面の縁の外側まで塗られているので、縁の外側のみODで塗って隠しました。
これだけでグッと雰囲気が良くなります。


本当は、本体のサイズ自体が細かったり、上面の形状が違うのですが、それを修正するのは難しいので無視しています。


その3 サンプロジェクト製M33→M67フラググレネード

貧乏装備の定番、サンプロ手榴弾型BBボトル。数を揃えるのには良いのですが、再現度は、さすがに価格相応。
特にM67(セーフティクリップが無いので正確にはM33と呼ぶべき)は、使われているヒューズ・レバーが同社のMk.IIやM26と共通なのでレバーが長過ぎて不格好でした。
なので、これまた定番改造ですが、プラスチック製の本体上部に穴を開け、M67と同型(たぶんM69訓練用手榴弾)の実物ヒューズ・レバー一式を無理やりねじ込んで装着。レバーは訓練用の青色だったのでOD色に塗装してあります。
あと本体は、如何にもプラスチックと言う感じにテカっていたので、800番のサンドペーパーで表面を荒らしてつや消ししました。


雰囲気はかなり良くなりました。なお、こちらも印字は省略します。


その4 サンプロジェクト製Mk.IIおよびM26フラググレネード

実物ヒューズもそんなに安くはないので、レバーの形状がそこまで変ではないMk.IIとM26に関しては、レバーの色をODに塗っただけで、そのまま使用しています。
ただしセーフティーピン&リングは、他の実物手榴弾(機種不明)のものに変えてあります。リングを太くするだけで、雰囲気はだいぶ違って見えます。


大してディテールアップしてないので単体で見るとショボいですが、グレネードアダプター(左がM1、右がM1A2)に装着する事で全体的に迫力が出で、細かい部分など気にならなくなる・・・はず。
そして今初めて気付いたのですが、よく見たら、実物M1A2アタプターにプラスチック製のグレネードを何年も付けっ放しにしていたせいで、アダプター側の板バネの力に負けてM26の本体がベッコリへこんでます。いや~ん、恥ずかし。
  


2021年03月12日

調査中のインシグニア① 共匪防衛パッチ

調査中なので、まだ正体がよく分かっていないベトナム軍のインシグニアについてです。
本当はちゃんと調べがついてから発表したいのですが、なかなか情報が集まらず行き詰っているので、情報提供を呼びかけたく記事にしました。


このパッチは米陸軍特殊部隊のヴァーノン・ギレスピー大尉も着用していた事から、デザインだけは有名なのですが、実はその詳細はよく分かっていません。
なおパッチの上下端に入る文字には、少なくとも二種類のバリエーションがあった事が知られています。

左:CHỐNG CỘNG PHI (反共匪)/BẢO-VỆ QUYỀN TỰ-CHỦ (自主権防衛)
右:DIỆT CỘNG PHI (滅共匪)/BẢO-VỆ TỔ-QUỐC (祖国防衛)
カッコ内は日本語訳

このように文言は若干異なるものの、「CỘNG PHI(共匪)」と「BẢO-VỆ(防衛)」の部分は共通なので、以下便宜的に「共匪防衛パッチ」と呼びます。

この共匪防衛パッチは長年、ほとんど『ギレスピー大尉が着けている』という部分でしか注目されてきませんでした。
なので当時ギレスピー大尉が第2戦術区ダルラク省内のCIDGキャンプ、ブォンブリェン基地(Căn cứ Buôn Briêng)を担当していた事から、共匪防衛パッチは「CIDG(の何か)」やダルラク省CIDG」のパッチと呼ばれてきました。


疑問

しかし僕は、この通説について前々から疑問に思っていました。
・・・これ、本当にCIDGなの?

共匪防衛パッチのデザインを、ブォンブリェン基地が存在した1964年5月~1965年9月と同時期に、同じ第2戦術区内に存在した他のCIDGキャンプのパッチと比べてみても、共匪防衛だけはその意匠がかなり異なるように見えます。

※下段の西暦はその基地が存在した期間であり、パッチが使用された時期と必ずしも同一ではない。

一部例外はあるものの、60年代前半から1970年のCIDG計画終了まで、CIDGの部隊章に使われるモチーフは多くの場合『虎』でした。
また大半のCIDGパッチに入る基地の名前も、共匪防衛パッチには入っていません。
そして何より、共匪防衛パッチに描かれている人物が被っているノンラー(葉笠)は、ベトナムの支配民族であるキン族の庶民・農民の象徴であり、CIDGを構成する少数民族、特に中部高原のデガ(南インドシナ・モンタニャール)諸部族がノンラーを被ることはほとんど無いのです。(なお1975年以降は共産党政権下でキン族への同化政策が強行され少数民族固有の文化は衰退しつつあるので、デガも単に安い日傘としてノンラーを被ることがあります)
このように共匪防衛パッチには、CIDGの部隊章としては不自然な点が多数あり、通説をすんなり受け入れる事は到底できないのです。

一方、ノンラーを被った民兵のデザインから連想されるのが、ベトナム共和国軍の指揮下にある、共産ゲリラからの自衛・自警を目的とする民兵組織『人民自衛団(Nhân Dân Tự Vệ)』です。

 
人民自衛団の徽章
ノンラーを被った民兵の意匠が描かれている。

ノンラーを着用する人民自衛団の女性団員(1968年フエ)
この黒アオババ(通称ブラックパジャマ)+ノンラーの組み合わせは、ハリウッド映画において典型的なベトコンゲリラの服装として描かれていますが、実際には黒アオババは政府側民兵の制服でもあり、決してベトコンの象徴ではありません。
なお、ノンラーは伝統的に(キン族の)庶民の象徴であるためパッチのデザインに採用されましたが、実際の活動時にはもっと実用性の高い軍隊式のブッシュハットやキャップが着用されました。

このように、共匪防衛パッチのデザインは、少数民族主体のCIDGよりも、キン族を主体とした人民自衛団にふさわしい印象を受けます。
ではなぜCIDGキャンプを担当する米軍将校が、キン族民兵を示すデザインのパッチを着用しているのでしょうか?


仮説

その答えとして、僕は「少なくとも1960年代中盤まで、CIDGは人民自衛団の一部として扱われていたのではないか」と推測しています。
米軍側呼称『Civilian Irregular Defense Group(通訳「不正規民間防衛隊」)』は、ベトナム語では『Lực Lượng Dân Sự Chiến Đấu(民間戦闘部隊)』と呼ばれていました。
つまり構成員が少数民族かキン族かの違いこそあれCIDG・人民自衛団のどちらも基本的には、民間人で構成された民兵なのです。

1961年に米国がCIDG計画を開始した当時、ベトナム共和国政府はすでに人民自衛団を始めとするキン族による民兵組織を保有していました。
一方、ベトナムでは南北どちらの政権でも、少数民族への差別・圧政が敷かれており、少数民族はほとんど自国民とは見なされていませんでした。そのため政府としては、反乱の危険性がある少数民族に武器を持たせる事などもっての他であり、第一次インドシナ戦争中にフランスによって組織され、後にベトナム国軍に編入されたモンタニャール大隊も、1955年のフランス連合脱退後、すぐさま解体されていました。
ところが、最大のスポンサーであるアメリカが、フランスのように少数民族を戦力として活用したいと言い出したのです。軍事・経済の両面でアメリカからの支援に依存していたベトナム政府は不本意ながらこれを承認せざるを得ませんでした。(そして実際にCIDG計画開始から3年後の1964年、ベトナム政府が懸念した通りCIDGによる大規模な武装蜂起『FULROの反乱』が発生し、短期間ながら民族紛争に発展します)
こうして少数民族が米軍によって懐柔されCIDGとして武装化されていく訳ですが、CIDG計画の目的は国境付近に住む少数民族自身にベトコンの侵入を阻止、掃討させる事であるため、兵士は毎日家族の住む自宅に帰り、地元を離れる事はありません。その有り様は民兵そのものです。
またベトナム政府としても、本心では少数民族を二等国民以下と見下していながらも、対外的には一応ベトナム国民なので、CIDGは『ベトナム国民で構成された民兵』という事になります。つまりCIDGは、構成民族や指揮系統以外の面では既存の人民自衛団と同じ形態の組織なのです。

また人民自衛団の構成員は、必ずしもキン族でなければならないという訳ではありません。キン族以外が人民自衛団に編入された例として、主に中国人(漢族)で構成された武装組織『海燕(ハイイェン)』があります。海燕は中国共産党による弾圧を逃れ、1959年にベトナムのカマウ半島に集団移住した中国キリスト教難民(元国民革命軍兵士を多数含む)が村落防衛のため結成した自衛組織です。(過去記事『グエン・ラック・ホア神父』参照)
つまり元から国内に居た少数民族ですらない、外国人(ただし政府から市民権は与えられている)の組織であっても、人民自衛団に編入された例があるという事です。無論、ベトコンに対抗する政府側戦力であり、政府の指揮監督下にあるという事が必須条件ですが。

以上の点から、僕は以下のように推測します。
・共匪防衛パッチは人民自衛団内の何らかの徽章である。
CIDGは形式的には人民自衛団の一部とされていた。
・それ故、共匪防衛パッチはCIDG関係者にも着用された。

とは言えまだ史料による裏付けは得られていないので、何か情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非お教えください。
  


2020年10月18日

100均ミニスモーク

自作の士官候補生階級章は、思ったより手間がかかっており、まだ完成していませんが、その間片手間で別の工作をしていました。

先日、仕事帰りに100円ショップのダイソーに寄ったら、良い小瓶、と言うか良い「アルミ蓋」を見つけました。2個セットで100円です。


これを見た瞬間、ある物が思い浮かびました。
そう、米軍SOG、およびSOG指揮下のベトナム軍NKTコマンド部隊御用達の超小型発煙手榴弾、通称『ミニスモーク』です。



このアルミケースは、形だけなら似たようなものがいくらでもあるのですが、
ミニスモークの代用に使えるような小さいサイズの物は、何年探しても見つかりませんでした。
それが今回偶然、蓋だけとは言えサイズ・形状がそっくりな物が手に入ったので
さっそくミニスモークを自作する事にしました。
なお、僕はこれをコスプレ時のアクセサリーとしか考えていないので、
最初から精密に再現する気も、お金をかける気もありませんでした。

まず、蓋と同じような太さのプラスチック製ボトルを切って接着。
最初は同じくダイソーで売っていたデオドラントローションのボトル(直径33mm)を使いましたが、
いざ蓋に付けてみたら思ったより太かったので他の物を探したところ、
家にあった親の白髪染めのボトル(31.5mm)が丁度良かったです。
これを目分量で切って、ダイソーのホットボンド(200円)で蓋に接着。



そしてプラスチックの部分を、これまたダイソーのアクリル絵の具(銀色)で筆塗り。


どう見ても同じ素材には見えませんし、ケース上部のリブも再現できていませんが、
どうせリグに取り付ける時はビニルテープで巻き付けるのでほとんどテープで隠れてしまい、
下の部分がちょっと見えるだけなので、僕的にはこの程度で十分です。

以上、『ダイソーから始まったのだからダイソーで終わらせる』と半分意地になりながら作ったミニスモーク制作記でした。


  


2020年09月05日

14年ぶりのサバゲー

仕事終わりの夜に、いつもベトナム軍リエナクトを一緒やっている友人たちと集合して、貸し切りインドアサバゲーをやってきました。
ただし今回は気分転換に、ベトナムとは関係なく服装は各自自由です。



僕がヒストリカルとは関係ない純粋なサバゲーに参加するのは、実に14年ぶりです。
せっかく普段と違う事をするなら何か変わった服装がしたいと思い、今回のために友人の協力を得て揃えたのが、映画「ザ・ロック」の反乱海兵隊。



政府に見捨てられた戦友の無念を晴らす為(そして何より金のため)、英雄ハメル准将の決起に馳せ参じ候!

でも、タクティカルベストってけっこう暑いんですね。インドアなので一応エアコンはかかってますが、それでも汗だくで気持ち悪くなったので、早々に装備は脱ぎ捨てました。



結局、僕にとってはこのラーメン店員スタイルが最善でした。
銃もマルイのエアコキ1911一丁。セガール映画で学んだ近接戦闘術が役立ち、思った以上に撃ちとることが出来ました。

3時間強のゲームでしたが、ものすごく楽しめました。
また近々やれたらと思います。  


2020年07月11日

シルク織りパッチ改造

 すでに数年前にはほとんどのインシグニアを作成、縫い付け終わっていたのに、1枚だけ手に入らないパッチがあり作成途中になっていた服がありました。目標としている服の設定は、1967~1968年頃のベトナム陸軍第5マイクフォースです。
 第5マイクフォースのパッチはレプリカが沢山販売されているのですが、僕が欲しいのは上側に"MIKE FORCE / AIR BORNE"のタブが付いていないシンプルな細身タイプのシルク織りパッチであり、この仕様は何年も探しましたが、いまだにレプリカが製造された事はない模様です。

市販のタブ付きタイプのレプリカ(左)とシンプルタイプの実物(右)

※その他のマイクフォースの部隊章については過去記事『続・マイクフォースのパッチについて』参照

恐らく今後もシンプルタイプのレプリカが発売される見込みは無いので、自分で作る事にしました。
とは言え、シルク織りパッチを業者に頼む場合、数百枚単位で作る事になりますが、そんなに作ったところで誰も買わないのは目に見えているので、あくまで自分用として、市販のタブ付きタイプのレプリカをベースに改造しました。

最初は余分な部分をマジックで塗ろうとしましたが、思った以上にインクが滲んだので却下。
次に、必要な部分のみマスキングテープで覆って、その外側をスプレーのつや消しブラックで塗りました。
思い付きでやった割には上手くいったと思います。
さらに弩(石弓)の弦の部分もマスキングしてスプレー塗りし、あとはいつも通り裏地をあてて服に付いつけました。
なおシンプル細身タイプでは、米軍から授与されるAIR BORNEタブは後付けとなります。


今回の改造品(左)、実物(右)
ぱっと見、違和感なく仕上がったかと思います。
あくまでインチキな改造品ですが、無い物ねだりしてても始まらないので、とりあえずは形になって良かったです。



こうして念願の第5マイクフォース一式が完成!
服はMASHのシルバータイガー。ベレーはメーカー不明
胸の徽章は昔作った自作のCIDG階級章です。

 マイクフォースと言えばエアボーン、ヘリボーンによる強襲任務に特化した空中機動CIDG部隊として有名ですが、中でも第5マイクフォースは1967年4月のハーヴェスト・ムーン作戦、翌5月のブラックジャック作戦という二つの作戦において、計800名以上が戦闘空挺降下を行った実績を持つ、ベトナム戦争を代表する空挺部隊の一つでもあります。


▲降下訓練中の第5マイクフォース隊員(1967年頃)
最終的な目標はこのスタイルなので、残すはT-10パラシュートだけとなりました・・・
  


2020年06月15日

週末の工作

再度、70年代迷彩ヘルメットの再現にチャレンジ中。

以前『ヘルメット塗装の実験』で塗ったレンジャーのヘルメットは、スモークの効果を試す役割を終えたので、再度実験台になってもらいます。


ペイントリムーバーで塗装全落とし。水性の塗料はがしなのでお風呂場でやっちゃいました。

 
下地が結構強力で完全には落ちなかったけど、上から塗り直しするので問題ありません。


今回はプラモデル用の塗料ではなく、当時と同じようにペンキで塗っていきます。
さて、どうなる事やら。


さらに同時並行で、自分用にこんなのも作っています。

前々から温めていたAR-15モデル601再現計画を本格始動。
(上の写真はオリジナルのコルト製ではなく、Brownells社製の5.56mmNATO対応版リプロ実銃)
いろいろ自作しなくてはならない部品が多いですが、今の時代は無料の3D制作ソフトでデータを作って、DMMの3Dプリンターで出力できるそうなので、重い腰を上げて制作をスタートしました。
こういう外観上の部品だけでなく、既製品のフラッシュハイダーを取り付けるためのスペーサーなど細かいワンオフの部品も、自分で設計して1,000円以下で作れましたから、スクラッチの敷居がだいぶ低くなりましたね。
  


2020年06月08日

リュックのコキ交換

今日は空気がからっとした初夏の晴天
こんな気持ちの良い日は、ラックサックの改造がしたくなりますよね。

僕が高校生の頃に買った、UENS☆DAY製リプロのインディジナスラックサック(当時は「インディジナス」なんて呼び名は知られておらず、「LRRPリュック」で通っていた)
生地がトラックの幌用の帆布で出来ているので、硬さがあってとても雰囲気がいいです。

しかしこのリプロを企画した当時、ベルトを留めるコキ(アジャスターバックル)だけはどうしてもオリジナルと同形状の物(板コキ/角板送り)手に入らなかったらしく、一般に流通している線コキが使われています。
このコキは、いつかリアルなものに交換しようと考えてはいたのですが、コキを交換するためには一度リュック本体に縫い付けられたベルトを取り外し、再度縫い直す作業をしなければならず、それを面倒くさがっているうちに、あれよあれよと15年が経ってしまいました

しかし最近の僕は何かに憑りつかれたように、今まで後回しにしてきた軍装品改造を片付けているので、この勢いでインディジナスラックサックのコキ交換もやってしまいます。

材料となる板コキ(角板送り)はネット通販で簡単に買えました。ニッケル仕上げだったので、サンドペーパーで艶消ししてからスプレーブラッセンで黒染め。


今回は硬い帆布に分厚い織ベルトを縫い付けるので、家庭用ミシンでは歯が立ちません。
レザー用のロウ引き糸と、ごん太縫い針で手縫いしていきます。


一旦ベルトを外して、新しいコキに替えてまた縫い付け。
バッグが縫えるような工業用ミシンがあれば他愛のない作業なのですが、これが手縫いとなると話は別です。生地やベルトが硬いのなんの。指ぬきを使っても、指先が痛くなります。この作業を計7カ所やらなければなりませんでした。
昔NSドイツのコスプレやってた頃、LSSAH儀仗隊の白革装備を手縫いで自作した事がありますが、縫い穴を開けてから糸を通すレザークラフトの方がまだ楽でした。


肩ひもは分厚くて幅も広いので、この2個だけ大きいサイズの板コキを使っています。


こうして指の痛みと戦いながら、なんとか7個全てのコキの交換を完了。俺は満足だった。


今のきもち

  


2020年04月08日

インドシナのショットガン

 Pan American Airwaysさんの記事『米軍のコンバットショットガン』に触発され、僕もベトナム戦争/第2次インドシナ戦争中アメリカの援助を受けていたインドシナ諸国の政府軍におけるショットガンの使用状況について記事にしてみました。ただし文献による裏付けは無いので、この記事はあくまで僕がこれまで集めた写真・映像資料の中にあった使用例、およびそれから推察した内容になります。

 まず、ベトナムを始め、インドシナ諸国におけるショットガンの使用例は極めて少ないです。どのくらい少ないかと言うと、僕がパソコンに保存してある第2次インドシナ戦争期の写真・動画、約3万点の中で、ショットガンが写っているものは、この記事に挙げた写真3枚+動画1個だけでした。今後も探し続ければ多少は使用例が見つかるかも知れませんが、それでもかな~り稀であったことは間違いありません。
 以下、そんな超スーパーレア兵器『ショットガン』の写真・映像です。


ベトナム

▲ウィンチェスター モデル1897トレンチ
『トレンチガン』として有名な、第1次大戦期に導入された米軍制式12ゲージショットガンの一つです。
使用者は軍装から、陸軍歩兵部隊もしくは地方軍と思われますが、詳細は不明です。


▲レミントン モデル870?
地方軍とされる写真の中に、モデル870らしきショットガンを持った兵士が一人写っていました。
モデル870が米軍で正式採用されるのは海兵隊仕様の"Mark 1"からであり、写真のタイプは米軍制式仕様ではない(ただし米軍での使用例はある)ので、どういった経緯でベトナム軍に渡ったのか気になります。案外、米軍をすっ飛ばしてベトナム政府がレミントン社から直接買ってたりしたりして。


▲形式不明
写真右端と左から2番目の人物がショットガンを持っていますが、ちょうど形式を見極める特徴的な部位が手とスリングで隠れていて、僕にはその種類がわかりません。知識のある方、ご意見をお待ちしております。
なお、こちらも部隊は地方軍とされています。


ラオス

▲スティーブンス モデル77E
まさかのラオス王国警察の婦人警察官の訓練の映像に、スティーブンス モデル77Eが写っていました。

最初はイサカ モデル37かと思いましたが、トリガーガードの形状からスティーブンスの方っぽいです。

▲映像:ラオス王国警察 婦人警察官学校(1964年)


 僕が把握している使用例は以上になります。ベトナム政府にはイサカ モデル37やスティーブンス モデル77Eが米軍から大量に供与されていたという記録があるようですが、不思議な事に僕はその使用例をいまだ確認できていません。
 またベトナムと言えば年がら年中反政府デモが頻発しており、その度に国家警察や軍が警備・鎮圧に出動していましたが、そういったライアット(暴徒鎮圧)任務の際に使われている装備も、盾と棍棒、銃剣を装着したライフルやカービン、そしてCSガス手榴弾であり、本来ライアットに使われるはずのショットガンがデモ鎮圧で使われている例は、一度も見たことがありません。

▼ベトナム政府軍のライアット装備の例



情報が少なすぎて、まだ確かな事は何も言えないので、今後何か進展があったら改めて記事にしたいと思います。
  


2020年03月15日

いわゆる『CIAポーチ』とCISO製SMGポーチについて

今回は、日本では長年「CIAポーチ」と呼ばれ、欧米では「CISOインディジナス・マガジンポーチ」とも呼ばれる、このマガジンポーチについてのお話です。

 
 このポーチはマニアの間で、米国CIAあるいは米軍CISOが、国外の友好(反共)勢力を軍事的に支援するための援助物資として設計し、沖縄等で生産されたものとして有名であり、ベトナム戦争期のアイテムとして扱われています。

 しかし不思議な事に、僕はこのポーチがベトナム、あるいはどこかの戦場で使われている例を一度も見た事がないのです。マジで。(実は存在していて僕が知らないだけかも知れないけど、にしたって無さすぎです。)

 一方実は、このCIAポーチに似ているけど、ちょっと形の違うSMG(サブマシンガン)用ポーチの使用例なら、ちらほら見られます。

 
写真:1962年頃のベトナム軍CIDG部隊

 CIAポーチはM16の30連マガジンやAK-47のマガジンなどアサルトライフルのマガジンが入りそうな幅広のポケットを持っていますが、写真のポーチはSMGのマガジン専用のようです。
 全体の形状から、有名な方のCIAポーチと無関係では無さそうなのですが、このSMGポーチが市場に出回る事は滅多に無いため、マニアの間でもその存在はあまり認知されていません。
 そんな中、その貴重な現物を所有しているコレクターさんが写真を公開してくれたので、引用させて頂きます。

写真:Erich Neitzke氏コレクション
上の使用例と同型と思しき、革ストラップ留めタイプ。フランス軍のTAP50系マガジンポーチのように、ショルダーストラップが脱着式になっているようです。

写真:John Cummings III‎氏コレクション
こちらは上のSMGポーチを紐留めにした簡略版のようです。ショルダーストラップはCIAポーチと同じくナイロン製となり、また同じくストラップ自体が斜めに縫い付けられいます。

 僕が思うに、CISOがベトナム戦争期に制作していたのはこちらのSMG用のポーチであり、現在CIAポーチとして知られる幅広ポケット(アサルトライフル用)のタイプは、第二次インドシナ戦争の末期あるいは終結後に製造されたもので、インドシナに送る機会を失い米軍の倉庫にデッドストック(死蔵)されていたものが、戦後サープラスとして民間に流れたのではと推測しています。
 いや、CIAポーチもベトナムで使われているよ!と使用例をご存知の方、ぜひご一報下さい。
  


2020年03月02日

TL-122フラッシュライトと代用品

※米国製の各種アングルヘッドフラッシュライトについてはSPECIAL WARFARE NETさんで詳しく解説されているのでリンクさせて頂きました。

TL-122シリーズ

第二次大戦の戦火で本土が荒廃したフランスは第二次大戦終結後、米英軍からの供与、および敗戦したドイツ軍から接収した装備によって軍の再建を進めました。
その中で、フラッシュライトについては米軍から供与されたTL-122シリーズ(主に大戦中に生産されて余剰となったTL-122-Bと思われる)を大量に導入し、第一次インドシナ戦争やアルジェリア戦争で使用していきました。
また第一次インドシナ戦争中にフランス連合軍の一部として発足した各種インドシナ人部隊やベトナム国軍も、フランス軍の装備品であるTL-122シリーズを使用しました。

▲TL-122-Bを身に着けるフランス植民地軍GCMAモン族部隊 [1953年ラオス]

その後1960年代に入ると、アメリカからベトナムへの軍事支援が本格化し、(1944年に設計され主に第二次大戦後に生産された)TL-122-Dも直接ベトナム軍へと供与されていきます。
また米軍は1962年頃にTL-122-Dの後継モデルとしてMX911/Uを新たに採用しており、このMX911/UもTL-122-Dと共にベトナム軍に供与されていったと考えられます。
しかしTL-122-DとMX911/Uは外見が非常に似ており、当時の写真からそれを見分けるのはちょっと難しいのです。
違いと言えば、MX911/Uは下部にスイベルリングを追加され、長さが数ミリメートル長くなっているくらいなので、よほどアップで撮られた鮮明な写真じゃないとなかなか見分けがつきません。

▲TL-122-DあるいはMX911/Uを身に着けるベトナム陸軍第34レンジャー大隊 [1966年ベトナム・ロンアン省]
下部のスペアフィルターコンテナの長さ的にTL-122-Dのような気がしますが、いまいち自信がありません。


TL-122-Dの代用品

今回は僕が1960年代のベトナム軍コスプレで、TL-122-Dアングルヘッドフラッシュライト代用品として使っているフランス軍のLampe coudée TL122D Fr』をご紹介します。



TL122D Fr / Google Photos

このTL122D Frはその名の通り、米軍のTL-122-Dをフランスがライセンス生産したものです。刻印以外は米国製のTL-122-Dとほぼ同じものです。
しかしオリジナルのTL-122-Dの生産開始が1944年であるのにも関わらず、フランスでTL122D Frの生産が始まったのは意外と遅く、少なくとも1960年代より後のようです。
それくらい、あえて新規で生産するまでもなく、大戦中・終戦直後に製造された米国製TL-122シリーズはフランス軍に大量に供与されたという事でしょうか。

つまりTL122D Frは第一次インドシナ戦争期にはまだ存在しておらず、またベトナムは1955年にフランス連合を脱退し、それ以降フランスから装備を調達していないため、ベトナム戦争でも使われていません。

しかし形状は米国製TL-122-Dとほぼ同一であるため、1960年代のベトナム軍コスプレでTL-122-Dの代用として使うにはうってつけなのです。もちろん1940年代後半~1960年代の米軍やフランス軍用代用品として使えます。
そして何より値段が安い!新品でも2,000円以下で売ってます。
ベトナム軍は米軍ほどフラッシュライトを個人装備に装着している例は多くは無いので、コスプレ的にマストという訳ではないですが、泊りのイベントに行ったら夜は何かしら明かりが必要になるので実用上も役に立つという点を加味すれば、買っておいて損は無いアイテムだと思います。
  


2019年11月10日

アドバイザーのローカルメイドパッチ

今回は珍しく米軍のインシグニアのお話です。

以下のパッチは、マニアの間でもしばしば「南ベトナム軍のもの」と誤解されているのですが、実際にはベトナム軍付き米軍アドバイザーのローカルメイドパッチでした。


トニー・ザ・タイガー

トニー・ザ・タイガー(トラのトニー)」は、1960年代前半にベトナムに派遣された米軍アドバイザー用として製作したとされる、一連のローカルメイドパッチです。
中でも特に有名なのが、ベトナム陸軍特殊部隊(LLĐB)付きのアドバイザー(グリーンベレー)向けのものですが、戦後、このLLĐB付きアドバイザーのパッチばかりがフェイク/レプリカとして繰り返し生産されたので、このパッチはいつしかアドバイザー向けであったことが忘れられ、「LLĐBの」ローカルメイドパッチと誤解されるようになりました。

写真: デニス・キム氏コレクション


ベトナム軍LLĐB部隊章


たしかに緑色の背景とパラシュート、虎のデザインはLLĐBの部隊章と酷似していますが、実はこれと同様のデザインのパッチはLLĐB付き(グリーンベレー)のみならず、空挺旅団付き(AT-162)やレンジャー部隊付き(AT-77)向けにも制作されていました。

写真: デニス・キム氏コレクション

元ベトナム軍レンジャー付きアドバイザー(MACV AT-77)で、なおかつ著名なミリタリーインシグニアコレクター/戦史研究家のデニス・キム米陸軍退役大尉によると、このパッチが生まれた経緯には2つの説があるそうです。

一つ目は、ある日3人の米軍アドバイザーが朝食を採りながら、自分たちのオリジナルパッチを作ろうという話になり、デザインを考え始めたところ、たまたま自分たちの食べていたケロッグ・コーンフロスティ(Frosted Flakes)の箱が目に留まり、これをそのまま街の刺繍屋に持って行って、部隊名の入っていないローカルメイドパッチを25枚作製させた(この時点でLLĐB部隊章のデザインが参考にされていた)。そして完成後、そのパッチにはさらにその3人各々が担当していたLLĐB、空挺、レンジャーの文字が付け加えられた、というものです。これはちょっと話が出来過ぎている気もしますね。

もう一つは、これらはアドバイザー自身がデザイン・発注したものでは無く、現地の刺繍屋米兵の興味を引くために、アメリカ人に馴染み深いキャラクターであるケロッグのトニー・ザ・タイガー(Tony the Tiger)」を取り入れてデザイン、販売したという説です。

どちらが真実なのか確かめる術はありませんが、少なくとも以下の2点は確かなようです。
・全体のデザインはLLĐBの部隊章がベースである(つまり1963年以降にデザインされた)が、空挺旅団やレンジャー部隊付きアドバイザー向けにも制作・販売されていた
・トラの顔は米国ケロッグ社のコーンフロスティのマスコットキャラクター「トニー・ザ・タイガー」である

トニー・ザ・タイガーの新旧デザイン

このパッチに使われたトニーのデザインは1951年に考案された古いタイプもので、その後1980年代にデザインが一新され現在に至ります。僕も現在のトニーは子供の頃からよく知っていましたが、このパッチのトラが、昔のトニーの顔だった事は、キム氏から聞くまで全く分かりませんでした。当然ケロッグ社も、ベトナム戦争で自社マスコットが使用されていた事など関知していません。



AT-86

ベトナム戦争当時、米軍MACVには100個以上のベトナム軍付きAT(アドバイザリーチーム)が存在し、各々のATが現地でローカルメイドパッチを発注・着用していたので、その種類・バリエーションは膨大なものになりますが、その中でもちょっと特別なパッチをご紹介します。

写真:David Levesque氏コレクション

こちらはシルクスクリーンプリント製かつアジア的な龍があしらわれたデザインであるため、一見するとベトナム共和国軍の何かの部隊章のように見えますが、実は米軍MACV AT-86 (アドバイザリーチーム 86)のローカルメイドパッチだそうです。
AT-86はロンアン省タンチュー県のベトナム地方軍・義勇軍担当アドバイザリーチームで、定員はたった5名(+ベトナム人通訳1名)の小さなチームでした。詳細は米軍ベテランのコミュニティーサイトTogether We Served内のMACV Advisory Team 86をご参照ください。
シルクスクリーンプリント製法はその名の通り、色毎にシルクスクリーンの版を作成して布に印刷する大量生産のための製法なので、通常ATのような小規模な部隊の部隊章には用いられない(手刺繍製が普通である)のですが、なぜかAT-86にはシルクスクリーンプリント製が存在しています。
一応、これが戦後に作られたフェイク品である可能性も疑うべきではあるのですが、それにしては出来が良すぎるし、そもそもコストが高くつく上に、AT用としては不自然なシルクスクリーンでわざわざフェイクを作る意味もありません。現に巷で(実物として)取引されているフェイク品は100%手刺繍製です。

※ベトナム人は昔から、こういうローカルメイドパッチを外国のマニアが高い金で買ってくれる事をよく知っていますから、実物と偽ったフェイク品を大量に作りまくっています。ただ、昔はフェイクであっても、実物に似せようと頑張っていたのでそれなりに出来が良かったのですが、近年は業者が出来の悪いフェイクをまた更に劣化コピーする事を繰り返しており、また買う側のマニアも、実物がどんなものかを知らない世代に変わってしまったので、その低レベルなコピー品を実物と信じて買い求めるため、今じゃフェイクともレプリカとも呼べないお土産品レベルの物ばかりが市場にあふれています。トホホ・・・


おまけ

アドバイザーとは関係ないけど、欧米人の間でかなり誤解が広がってるのがこの写真



「ベトコン女性兵士」だそうです。

アジア人の女が武器持ってれば何でもベトコンかい(笑)

まぁ、これはいくらなんでもド素人(と言うか非常識)な人たちが言ってる事でして、ちょっと知識がある人は、これがベトナム人ではない事など一目瞭然なので、こうツッコみます。

「違うよ、これは日本赤軍の重信房子というテロリストだ。1972年にレバノンで撮影された写真だよ。」

この重信房子説はネット上でかなり拡散されていて、最初に紹介したキム大尉ですら、僕が違いますよと説明するまで、この写真を重信だと本気でじていました。
欧米人は、セーラー服が日本の女学生の制服であることを何となくは知っていますが、それが高校まで、という事はほとんど知らないので、これを大学時代の重信の写真と言われれば、何の疑いもなく信じてしまうようです。
にしたって、普通に考えて、テロリストが学生服着たまま外国でテロ活動するかよ(笑)

この写真の正体は、何の事は無い、1987年のTVドラマ「少女コマンドーIZUMI」の主役 五十嵐いづみさんです。


五十嵐さんも、まさか自分の写真が30年も経ってからベトコンだの日本赤軍だの言われ世界中に拡散する事になるなんて思いもよらなかったでしょうね。フェイク情報が簡単に拡散する現代のネット社会の典型例ですわ。
この件は、たまたま僕らが日本人だったから間違いに気づいて笑い種になりましたが、そうではない他の国に関する事柄については、僕ら自身も(個人レベルあるいは特定の勢力によって意図的に流布された)偽情報を既に信じてしまっている可能性は常にあります。
僕も先日、米軍ベテラン向け情報誌に掲載されていた、ベトナム戦争中に行われたというある捕虜救出作戦の記事をがんばって翻訳していましたが、あとになって、それがその雑誌のコラム欄に掲載されていたジョークネタ(全部嘘)だったと知りました。危うく自信満々にブログで発表する所でしたよ。危ない、危ない。
なので僕のブログの内容も、全部鵜呑みにはしないで下さいね。後で間違いに気づいて訂正する事なんて、しょっちゅうありますから。
  


2019年11月03日

偵察中隊/ベトナム軍LRRP

※2019年11月3日加筆・訂正
※2019年11月24日加筆・訂正


これまでも、ベトナム共和国一般部隊(主に陸軍)には、特殊部隊とは別の、アメリカ陸軍のLRRPに倣った偵察中隊(Đại Đội Trinh Sát)が存在していたとちょいちょい書いてきましたが、あらためて記事にまとめてみました。
ただし、これら偵察中隊に関する詳細な資料は乏しく、未解明な部分もかなり多いです。今回の記事は、あくまで今私が把握している範囲での情報になりますので、実際にはもっと多くの偵察中隊が存在していたはずだと思います。


現在把握できている偵察中隊一覧

【歩兵師団本部付き】
全ての歩兵師団に師団本部付きの偵察中隊が存在。

第1歩兵師団 第1偵察中隊
第2歩兵師団 第2偵察中隊
第3歩兵師団 第3偵察中隊
第5歩兵師団 第5偵察中隊
第7歩兵師団 第7偵察中隊
第18歩兵師団 第18偵察中隊
第21歩兵師団 第21偵察中隊
第22歩兵師団 第22偵察中隊
第23歩兵師団 第23偵察中隊
第25歩兵師団 第25偵察中隊

【連隊本部付き】
全ての連隊が保有したかは未確認なものの、少なくとも歩兵師団内の以下の連隊には連隊本部付きの偵察中隊が存在した。

第1歩兵師団 第51連隊 偵察中隊
                 第52連隊 偵察中隊
第2歩兵師団 第4連隊 偵察中隊
第3歩兵師団 第56連隊 偵察中隊
        第57連隊 偵察中隊
第5歩兵師団 第8連隊 偵察中隊
第7歩兵師団 第11連隊 偵察中隊
第9歩兵師団 第15連隊 偵察中隊
          第16連隊 偵察中隊
第18歩兵師団 第48連隊 偵察中隊
          第52連隊 偵察中隊
第21歩兵師団 第32連隊 偵察中隊
第22歩兵師団 第40連隊 偵察中隊
          第42連隊 偵察中隊
          第47連隊 偵察中隊
第23歩兵師団 第44連隊 偵察中隊
          第45連隊 偵察中隊
第25歩兵師団 第46連隊 偵察中隊


【空挺師団】
空挺師団では3個の旅団本部に各1個の偵察中隊が存在した。

空挺師団 第1空挺旅団 第1偵察中隊
            第2空挺旅団 第2偵察中隊
            第3空挺旅団 第3偵察中隊


【海兵師団】
海兵師団では、師団本部付きと、4個の旅団本部に各1個の偵察中隊が存在した。

海兵師団 偵察中隊(師団本部付き)
     第147海兵旅団 第147偵察中隊
     第258海兵旅団 第258偵察中隊
     第369海兵旅団 第369偵察中隊
     第468海兵旅団 第468偵察中隊


【レンジャー部隊
レンジャー部隊では、全てのレンジャー群が保有したかどうかは未確認なものの、少なくとも以下の群本部に各1個の偵察中隊(長距離偵察中隊)が存在した。

第4レンジャー群 第4長距離偵察中隊
第6レンジャー群 第6長距離偵察中隊
第7レンジャー群 第7長距離偵察中隊
第12レンジャー群 第12長距離偵察中隊
第14レンジャー群 第14長距離偵察中隊
第15レンジャー群 第15長距離偵察中隊
第21レンジャー群 第21長距離偵察中隊
第22レンジャー群 第22長距離偵察中隊
第23レンジャー群 第23長距離偵察中隊
第24レンジャー群 第24長距離偵察中隊
第25レンジャー群 第25長距離偵察中隊
第31レンジャー群 第31長距離偵察中隊
第32レンジャー群 第32長距離偵察中隊
第33レンジャー群 第33長距離偵察中隊

※偵察部隊の部隊名は「偵察(Trinh Sát)」という表記が一般的ですが、レンジャーのみ「長距離偵察(Viễn Thám)」となっています。


【第81空挺コマンド群】
第81空挺コマンド群は1960年代後半にプロジェクト・デルタを実行していた特殊部隊(LLĐB)第81空挺コマンド大隊を、1970年8月のLLĐB解散後に再編成した部隊であるため、かつての「デルタ偵察チーム(Toán Thám Sát DELTA)」は第81空挺コマンド群内に「偵察中隊」として統合され、引き続き偵察任務に当たった。なお偵察中隊への統合後も、部隊の通称としては「デルタ偵察チーム」が用いられた。また偵察中隊は1975年、部隊再編に伴い「第815部隊」に改称される。

第81空挺コマンド群 偵察中隊/第815部隊(通称デルタ偵察チーム)

※この記事は特殊部隊以外の偵察部隊についてのまとめであり、LLĐB時代のデルタ偵察チームについては今回は触れませんが、1971年以降の第81空挺コマンド群は空挺師団や海兵師団と同じ「統合予備部隊(総参謀部直属の即応部隊)」に含まれるので、再編後の偵察中隊のみ記載しています。


偵察中隊の写真・映像

最初に、偵察中隊に関する資料は少ないと書きましたが、実際に彼ら偵察隊員が写っている写真・映像資料はもっともっとレアです。
僕が今まで見付けられたのは、以下の部隊だけです。

第1歩兵師団第1偵察中隊(1971年ケサン基地, ラムソン719作戦)


第22歩兵師団第22偵察中隊の偵察隊員(中隊不明)


空挺師団の偵察隊員(1970年, 旅団/中隊不明)


海兵師団の偵察隊員(旅団/中隊不明)
※左胸に米軍MACVリーコンドースクール修了章を着用している事に注目


レンジャー部隊長距離偵察隊員(/中隊不明)



長距離偵察訓練と資格証

長距離偵察証(Chứng chỉ Viễn Thám)は、ドゥックミー レンジャー訓練センターにおける長距離偵察(Viễn Thám)課程を修了した者に与えられる資格証です。この訓練はレンジャーのみならず、この記事で紹介した歩兵師団や空挺、海兵隊など、特殊部隊を除く*ベトナム共和国軍の各偵察中隊の隊員候補たちが受講する、偵察要員の登竜門でした。ちなみにこの資格を取得すると、毎月600ドンの資格手当が支給されたそうです。


 
ドゥックミー レンジャー訓練センター付きの米軍アドバイザー向けに作成された1968年当時のカリキュラム
英語表記"Long range reconnaissance patrol course"が長距離偵察課程(Khóa VIễn Thám)です。

これによると訓練期間は5週間、計419時間のカリキュラムで、内訳は以下の通りです。
・戦術    235時間
・総合課題  161時間
・武器及び破壊 23時間
(139時間の夜間訓練を含む)

フェーズ1(16日間):基礎課程、総合課題講習
フェーズ2(11日間):湿地野営、ジャングル・山岳野営
フェーズ3(8日間)  :戦術航空機動作戦(5日間)、最終筆記試験および体力テスト、卒業式(3日間)

※レンジャー訓練センターの説明では特殊部隊(NKTやLLĐB)もこの訓練を受講したとされていますが、これらの特殊部隊ではそれぞれの訓練センターで独自の偵察・コマンド訓練を行っているため、わざわざ全員がレンジャー訓練センターに出向いて同じような訓練を繰り返す意味は無いように思えます。当時の写真でも特殊部隊員がこの長距離偵察証を着用している例はかなり少ない(私はほとんど見た記憶がない)ので、おそらく実際に受講したのはごく一部の兵士だけだったと思われます。

ベトナム陸軍ドゥックミー レンジャー訓練センター正門(TTHL BĐQ ở Dục Mỹ)

なお1960年代、レンジャー訓練センターはカインホア省ドゥックミーとハウギア省チュンホアの2カ所に存在しており、長距離偵察課程はドゥックミーで行われていました。チュンホアは第3、第4軍団所属のレンジャー部隊に追加の訓練を行う補助的な訓練センターであり、さらに1968年には閉鎖されたそうです。



アメリカ軍MACVリーコンドースクール

MACVリーコンドースクール正門(1969年)

 先に挙げたベトナム軍偵察中隊の多くは、米陸軍における長距離偵察パトロール(LRRP・LRP)部隊の成功を受け、これを手本として組織されたものですが、この本家米軍LRRPのチームリーダーを育成したのが、グリーンベレーが運営するMACVリーコンドースクールでした。上記のレンジャー訓練センターにおける長距離偵察課程も、概ねこのリーコンドースクールのカリキュラムに倣ったものです。
 このMACVリーコンドースクールではアメリカ兵の他にも同盟軍兵士、特に上記のベトナム軍各偵察中隊からの研修生を多数受け入れており、訓練を終えた者はその修了章を軍服に身についている例が見られます。(海兵師団偵察隊員の写真参照)

MACVリーコンドースクール修了章

以下History Channel "Recondo School"よりキャプチャ

リーコンドースクールでグリーンベレーの指導による偵察訓練を受講するベトナム陸軍第1歩兵師団第51連隊偵察中隊の隊員

ベトナム陸軍第2歩兵師団第2偵察中隊(中隊不明)の偵察隊員

※両部隊とも、米軍SOGで開発されたSTABOハーネスを装備している事に注目
  


2019年10月29日

ベトナム空挺81名の遺骨 54年の時を経て米国ベトナム人墓地に埋葬

 ベトナム戦争最中の1965年12月11日、4名の米空軍搭乗員および81名のベトナム陸軍空挺隊員を乗せた米空軍のC-123輸送機がベトナム共産軍の攻撃を受けて撃墜され、計85名の将兵が死亡しました。しかし墜落地点は南北両軍が断続的に戦闘を繰り返す激戦地であり、現地での遺品・遺骨回収が行われたのは墜落から9年後の1974年の事でした。
 回収された遺骨は個人の特定が困難であったため一つの大きな保管箱に収められ、タイ バンコクの米軍JCRC(統合遭難者解決センター)に移送されます。その後、医学的調査によって4名のアメリカ人搭乗員分については遺骨が特定され、無事米国本土に戻され埋葬されました。
 しかし残る81名のベトナム人兵士については、当時の米軍の飛行記録にベトナム軍部隊に関する詳細な記録が残っていなかったこと、また1975年にベトナム共和国政府が消滅し、確認すべき資料も散逸してしまっていたことから、この兵士たちが「ベトナム陸軍空挺師団所属者」である事以外は不明なままでした。
 その後、彼らの81名の遺骨は1986年に米国ハワイ州の米軍捕虜・行方不明者調査機関 JPAC(統合捕虜・不明者対策コマンド)に送られます。以後、米国政府は遺骨を彼らの故郷ベトナムの地に返すべく、ベトナム共産党政府に対し二度も遺骨の返還を申し出ましたが、今もなお旧南ベトナム軍人を売国奴と宣伝し迫害し続ける共産党政府は、二度ともこれを拒否します。さらに遺骨はアメリカ軍人ではないため米軍墓地に埋葬する事も出来ず、81名の遺骨は忘れ去られた存在として33年間もハワイで保管されつづけました。

 事態が動いたのは墜落から52年後の2017年でした。いくつかの米国メディアがハワイに保管されていたこの遺骨を「国の無い兵士」として取り上げた事をきっかけに、在米ベトナム人コミュニティーが遺骨の存在を知り、その埋葬に関して米軍との交渉を開始します。その結果、遺骨はカリフォルニア州オレンジ郡のウェストミンスター市・ガーデングローブ市にまたがる世界最大のベトナム人街=リトル・サイゴンにあるベトナム人墓地に埋葬される事が決定し、遺骨が納められた箱は2019年9月に米空軍機によってハワイからカリフォルニアに移送されました。



 そして去る10月26日、米軍・在米ベトナム人コミュニティー合同の埋葬式典がリトル・サイゴンのベトナム戦争記念碑前で執り行われました。




Photo: Hoa Pham / Facebook

 米軍の調査では、彼ら81名の所属は「空挺師団」という所までしか分かりませんでしたが、在米ベトナム人コミュニティーは元ベトナム軍人のネットワークを通じて独自の調査を行い、より詳細な所属は空挺師団の「第7空挺大隊 第72中隊」であった事を突き止めました。
 DNA検査による確実な個人の特定までには至らなかったものの、こうして所属部隊が判明した事で、行方不明となった時期と照らし合わせ、その遺骨の中に自分の家族が居るはずと、式典では故人の遺影を手に参加する元ベトナム難民の姿も見られました。
 こうして彼ら第72中隊81名の兵士たちは、その死から54年の時を経て、ついに自分たちを迎えてくれる同胞の住む街で、彼らの祖国への奉仕、そして犠牲への感謝と共に埋葬される事が叶ったのでした。

 一方、かつて戦場となったベトナム、ラオス、カンボジア(特に山岳地帯)の地中には、まだまだ大量の兵士や民間人の遺骨が、誰にも知られる事なく埋まったままでいます。そういった人々と比べると、今回の81名はまだ幸運だったと言えるかもしれませんが、そんな彼らでさえ、埋葬されたのは生まれ故郷から1万2000km以上離れた異国の地です。
 残念ながら彼らベトナム軍人が命がけで守ろうとした祖国ベトナムとベトナム国民は、今日においても依然、ベトナム共産党による恐怖政治と中国による間接支配の下にあります。
 いつの日か彼らの霊が浮かばれる事を願って、これからも私はベトナムの歴史をリアルタイムで見つめ続けます。
  


2019年10月13日

CIDG計画とFULRO(フルロ)

※2019年10月15日更新

 最近、CIDGごっこを計画する中でフルロ(FULRO)の話が話題に上がった(と言うか僕が話したくて仕方なかった)ので、CIDGとフルロの関係を分かりやすく図にしてみました。

▲CIDGとフルロの大まかな関係を示した図(クリックでPDF開きます)

 なお今回は触れませんでしたが、少数民族の自治・独立運動は1958年のバジャラカ運動が最初という訳ではなく、1945年には最初のデガ諸部族の連携組織が発足しており、もっと昔には、現在のベトナムの領土の南半分以上はチャンパ王国やクメール王国が支配していた場所なので、彼らが「少数民族」と呼ばれる事になるはるか以前から、この争いはず~っと続いてきたわけです。
 また1975年以降も彼らの戦いは現在に至るまで続いています。このベトナム戦争の前と後の話は、まじめに書くとかなり長くなるので、またの機会に。



これまでのおさらい&よく見る誤解を訂正

・CIDG=デガ(モンタニヤード)ではない
 CIDG計画には多数のデガ諸部族が参加しましたが、チャム族やクメール族、ヌン族など、デガ以外の少数民族も多く参加しており、また一部ではカオダイ教徒など、反政府的なベトナム人も参加していました。

CIDGフルロではない
 フルロは長年ベトナム人から迫害を受けてきたデガ、チャム族、クメール族の三勢力の連合です。その目的はベトナム(この当時は南ベトナム)からの自治・独立です。彼らにとってこの戦いは積年の恨みが詰まった人種戦争であり、当初はベトナム人であれば南北に関係なく、一般市民すらも見境なく虐殺する過激な武装組織でした。なおそれまで大した反乱も越せなかった彼らがフルロを結成し、大規模な反乱を起こす事が出来たのは、米軍のCIDG計画の賜物でした。フルロ兵士はCIDG計画に参加する事で米軍によって訓練され、米軍から与えられた武器で武装し、米軍から支払われる給料がフルロの資金源となっていました。なのでCIDGフルロではありませんが、CIDG計画無くしてフルロの活動は無かったと言えます。
 一方、CIDGに参加していたヌン族は、中国国民党の影響下にある中華系の少数民族であるため、第一次インドシナ戦争では反共主義に基づいてベトミンと戦ったものの、ベトナム人との関係は悪いものではありませんでした。1954年に北ベトナムが失陥すると、約5万人のヌン族が南ベトナムに移住し、そのままサイゴン政府軍にヌン師団が創設されます。後に政争によってヌン師団長が解任された事でヌン族兵士はサイゴン政府に反旗を翻しますが、ジェム政権崩壊(1963年)後は再び良好な関係に戻ります。よってフルロに参加する事はありませんでした。

・フルロ=CIAの工作ではない
 インターネットを見ていると、一部のベトナム人の間ではフルロは「ジェム政権を崩壊させるためのアメリカCIAの工作だった」と語られていますが、それは完全に間違いです。まずフルロが結成されたのはジェム総統がクーデターで暗殺されてから10ヶ月も後の事です。また当時CIDGを指揮していたアメリカ人たちは、言葉の壁から、自分の部下たちが秘密裏に米軍による軍事支援を利用して反政府ゲリラ組織を結成している事に気付く事が出来ませんでした。そして実際に1964年にフルロの反乱が起こった際には、CIAですらこの反乱の背後関係を把握できておらず、ベトコンまたはフランスの支援・扇動によるサボタージュ説が唱えられていました。
 後に判明する事ですが、当時実際にフルロの組織化・反乱を支援してのは隣国カンボジアのシハヌーク政権でした。カンボジアとしては、クメール王朝時代にクメール領だった南ベトナムの領土を奪還する事を最終的な目標としており、その為に、ベトコンとの内戦を抱える南ベトナムを、内部からの反乱でさらに混乱に陥れる事を目論みました。そのためカンボジアは、CIDG計画によって南ベトナム領内の少数民族に武器・資金が流入した事を確認したうえで、少数民族に連携と反乱をけしかけたのでした。


ベトコンに参加したデガ勢力

 1954年以来、南ベトナム政府に対する少数民族たちの要求は、主に自治権・民族自治区の設置(特にデガは、1946年にフランスが設定した「南インドシナ・モンタニャール国」の復活・ベトナムからの独立)でしたが、、同時に政治イデオロギー的には、ほとんどの少数民族は第一次インドシナ戦争以来、反ベトミン・反共産主義・反北ベトナムで一致していました。
 しかし1958年のバジャラカ運動の失敗後、イーバムら運動の指導者を失ったデガの間では、今後の独立運動の方針について迷いが生じていました。そこに、北ベトナムの労働党が南ベトナム破壊工作として南ベトナム領内の旧ベトミン・共産主義・民族主義勢力の再組織化(後の「南ベトナム解放民族戦線」)を1960年に開始すると、デガ内部の一部勢力は、ベトコン(労働党・解放民族戦線)が語る「勝利の暁には民族自治区が約束される」という白々しい口車にすがってしまい、約1,000名のデガが「タイグエン自治運動」を結成して南ベトナム解放民族戦線の指揮下に入りました。
 しかしその兵力は微々たるもので、またベトコンははなっから少数民族に自治権を与えるつもりなど毛頭なかったので、この共産主義系デガ組織「タイグエン自治運動」がその後どうなったのかは、定かではありません。
 もしその後の15年間、ひたすらベトコンの指揮下でアメリカやサイゴン政府軍、そして同胞のデガ兵士たちと戦い続けたとしても、その勝利の後に待っているのはベトナム共産党政権によるデガ自身への民族浄化です。
 でも、もしかしたら、デガの同胞を大量に死に追いやっておきながら、自分だけはうまく共産党で出世して、戦後英雄気取りのデガも、もしかしたら居るかもしれませんね。
 だって現に、現在のベトナム社会主義共和国には、そういうベトナム人が腐るほど大量に居て、そんな連中が戦後40年以上、独裁政権下で私腹を肥やし、ベトナム国家・国民を食い物にしているんですもの。
  


2019年09月13日

ルオン少将と特科隊旗

去る9月5日、自衛隊と在日米軍の共同訓練(年次演習) 『Orient Shield 2019』が開始され、熊本県の健軍駐屯地にて訓練開始式が執り行われました。開始式には陸自西部方面総監の本松陸将と在日米陸軍(USARJ)司令官のルオン少将が出席しました。

ルオン少将(左)と本松陸将(右)
[Photo: US Army]

この演習は毎年行われているのですが、今回の開会式の映像は、ネット上のベトナム人の間でちょっとした話題になりました。

[Photo: US Army]


もう想像はつくと思いますが、ベトナム人の間では、
「なぜ日本軍がベトナム国旗(1948-1975)を掲げているんだ!?」
ルオン将軍ベトナム共和国出身だから、きっと日本人はルオン将軍に敬意を示しているんだ!」
などなど、憶測が飛び交っています。

実際には、自衛隊がもう存在しない国家の国旗を掲げるはずもなく、これは陸自の特科群の隊旗であり、黄色地に赤い3本線のデザインが、たまたまベトナム国旗と酷似していただけです。

ちなみに上の図(右側)の『ベトナム国旗に共和国軍のシンボル(1967年以降)である鷲の紋章が描かれた図柄』は1975年まで、軍に関係する様々な場で用いられましたが、実際のベトナム共和国軍の正式な軍旗は、国旗柄ではなく、黄色単色に四隅のオリーブが描かれたこちらのものでした。(四隅のオリーブのデザインはフランス軍旗から継承されている)

ベトナム共和国軍旗 [Huấn Lệnh Điều Hành Căn Bản (1969)より]


これ以前にも、この陸自特科群の隊旗については度々ベトナム人から質問を受けていたので、この機会にベトナム人に向けて、Facebook上でこの旗の正体について説明をしました。辞書を使いながらの拙いベトナム語ですが、なんとか意味は伝わったと思います。

Tôi thường được bạn bè người Việt hỏi về lá cờ vàng này ở Nhật.
Đây chỉ là một cờ đội của Lực lượng Phòng vệ Mặt đất Nhật (Lục quân Nhật). Màu vàng có nghĩa là "Pháo binh" và ba đường ngang là "Liên đoàn". Và thiết kế (Sakura) đặt ở trung tâm của lá cờ là biểu tượng của Lục quân Nhật.
Trong trường hợp này, cờ này người lính Nhật có nghĩa "Liên đoàn Pháo binh". Vì vậy, Lục quân Nhật có cờ đội đủ thứ màu sắc và đường kẻ. Ví dụ: một cờ hai đường ngang trắng trên nền đỏ là một Tiểu đoàn Bộ binh.
Tuy nhiên, tôi cảm cờ này đã được trình bày cho Tướng Lương Xuân Việt sinh ở VNCH lá một ngẫu nhiên thú vị.

[日本語訳]
私は度々ベトナム人の友人から、日本のこの黄色い旗について質問を受けます。
これは陸上自衛隊の隊旗の一つです。黄色は特科(砲兵)を意味し、赤い三本線は群(または指揮官が一佐)の部隊を示します。そして旗の中心の紋章(サクラ)は陸上自衛隊のシンボルです。
なのでこの場合、写真の日本人兵士が持っている旗は特科群の隊旗です。陸上自衛隊にはこれ以外にも、様々な色や線の本数の隊旗があります。例えば赤地に白二本線は普通科(歩兵)大隊です。
しかし、この(ベトナム共和国国旗によく似た)旗が、ベトナム共和国出身のルオン少将の前で掲げられた事は、非常に興味深い偶然だと私は感じています。



ちなみに以前、僕の友達の在日ベトナム人たちは、キャンプ座間の中にあるルオン少将の家(戸建て米軍住宅)でのパーティーにお呼ばれして、遊びに行ってました。
僕も何かの間違いで呼ばれたりしないかなぁ。中佐までは遊びに行ったことがあるけど、さすがに将官は無理か(笑)


※2019年9月15日 誤字訂正
  


2019年08月26日

北ゲッチュにて

北ゲッチュ、それはかつて江戸川の河川敷で行われていた、伝説のナム戦イベント。
当時高校生だった僕は、米軍LRRPコスプレを目指して被服・装備品を集め始めたばかりの頃で、それもまだ十分には揃っていなかったので、特殊部隊を迎え撃つ解放戦線兵士として参加していました。
共産軍として大人数で、少数の特殊部隊を追い掛け回すのはとても楽しかったのですが、その分、あの追われる側の恐ろしさを味わってみたい!という気持ち・特殊部隊への強い憧れを抱かせてくれたイベントでした。

あれから時が経ち、僕も装備・知識がある程度整ってきたので、自主的に特殊部隊(NKT作戦部"黒龍")ごっこを行ったのが2014年のベトベトでした。
その時行った内容は、過去記事『作戦記録:1974年4月13日』に報告書という形で記録してあります。


そして2019年、あの北ゲッチュが帰ってくると聞き、僕は参加を即決したのですが、残念ながら仲間が集まらず、しかも直前になって夏カゼを引き38℃の熱まで出てしまったので、参加すら危ぶまれる状況となりました。
それでも何とか熱は下がったので、ゲーム参加は無理でもせめてコスプレだけはしようと、当日会場に向かいました。

会場に着いて最初に行ったのが、服の準備。
実は今回着たEA製のCISOファティーグや装備品は買ってからずっと衣装ケースにしまいっぱなしのド新品でした。
これをそのまま着るのは自分的にNGなので、とりあえず水で濡らしてから地面に広げ、足で踏みつけて泥だらけにしてやりました。



これで多少は小汚くなってくれたので、ようやく着る服が出来ました。


今回はベトナム共和国軍NKT連絡部"雷虎"SCU、所謂MACV-SOG OP-35のRT(偵察チーム)所属のブル族兵士という脳内設定です。(過去記事『雷虎SCUの構成民族』参照)
この服装は本来司令部要員のものではありませんが、風邪が悪化しないよう、FOB内で一日中駄弁っていました。まぁ兵隊も出撃はシフト制なので、この日はたまたま非番だったという事で。


でもやっぱり戦闘装備のコスプレもしたいので、とりあえず写真だけ撮影。
ファイティングナイフ代わりにあえてM7バヨネットを身に付けているのが今回のオサレポイント。
あと後側で見えないけど、ハンソンリグも下げてます。
RTがSTABOリグを身に付けるのは、空中抽出が予め予定されている作戦のみであり、
それ以外の作戦ではM56装備を使う事もかなり多いので、実はそんなにお金かけなくても
考証的に正しいRTコスプレをする事は可能です。

一緒に来た友達は、健康なのにゲーム参加できずかわいそうだったので、僕の所持品を貸し出して、臨時に他チームに混ぜて頂き、前線に出撃してもらいました。いや、思った以上に似合ってるね。
ちなみに胸の56式用弾帯は、以前紹介したナム戦期の実物です。


ゲーム参加者が出撃する前に、いつも仲良くして頂いている皆さまに混ざって記念写真を撮らせて頂きました。
うへへ、かっこいい~(ლ ^ิ౪^ิ)ლ 

僕はもうインドシナ諸国以外には手を出さないと誓いつつ、それでも年々やりたい部隊・年代が広がり、買ったきり一度も使っていない被服・装備が溜まっていく一方でしたが、今回ようやく手持ちの軍装を一つ消化できました。これだけで今回来た甲斐がありましたよ。

北ゲッチュは今後もレベルアップを目指して続くようなので、次からは僕も(体調に気を付け)出来るだけ協力していきたいと思います。