2024年09月21日
調査中の制服・徽章(第一共和国期)
※2025年3月14日更新
なので、まとめと言える状態ではないですが、もしかしたら広い世の中には同じ分野に興味を持っている人が誰か居るかもしれないので、今現在分かっている事を公開してみます。
①保安民衛局(Nha Bảo An và Dân Vệ)



②公安警察総局(Tổng Nha Cảnh Sát Công An)


保安民衛局はベトナム共和国内務省内の民兵部門で、1955年から1964年まで全国に民兵組織『保安隊(Bảo An Đoàn)』と『民衛隊(Dân vệ đoàn)』を擁しました。
その後、これらの民兵組織は1964年に国防省に移管され、『地方軍(Địa Phương Quân)』および『義軍(Nghĩa quân)』へと発展。それらを統括する『地方軍・義軍本部(Bộ Tư lệnh Địa phương quânn-Nghĩa quân)』が設置されました。
(地方軍発足以降については過去記事『地方軍』参照)

▲保安民衛局徽章

▲保安民衛局の帽章

▲保安民衛局職員の制服
肩章に保安民衛局の徽章、加えてもう一つ星が付いているので、これは階級章と思われますが、この写真以外にはまだ何の情報もありません。
1955~1962年まで、ベトナム警察は『公安警察総局(Tổng Nha Cảnh Sát Công An)』の下部組織であり、その公安警察総局では警察とは異なる独自の制服・徽章が着用されていました。

▲公安警察総局職員の制服
肩章には何かケバケバしい模様とCACS(公安警察)の文字が刺繍されています。
この模様の部分は、人によってデザインが違うように見えるので、もしかしたらこの模様で階級を示しているのかも知れません。
しかし、こちらもまだまともな資料を見た事ありません。
参考までに、同時期(公安警察総局隷下)のベトナム警察の制服と肩章・帽章はこちら

その後、1962年に公安警察総局は解体され、新たに『国家警察(Cảnh Sát Quốc Gia)』へと改編されます。これ以降、すべての警察組織の制服・徽章は統一されます。
(過去記事『ベトナム警察の制服と階級章』参照)
③右側飾緒
こちらはベトナム軍で第一共和国期(1955-1963年)のみ着用例が見られる飾緒です。

とは言え、上の写真のように、右側飾緒の着用例が見られるのは大礼服や準礼服のような礼装の時のみであり、またデザインも英勇章部隊感状のような等級別に分かれたものではなく全て同一の金色に見えるので、この飾緒は単なる礼装用の装飾のように思えます。
しかしそうだとすると、今度はなんでジェム政権崩壊後には(国内では)一切見られないのか、という疑問も湧いてきます。(同様に詰襟の陸軍大礼服もジェム政権崩壊後に姿を消す)
もしかしてこれら詰襟大礼服や右側飾緒はジェム総統からの表彰を表すものだったりして?だからクーデター後の新政権下で着る訳にはいかなかったのかも?
想像は膨らみますが、所詮は推測なので、引き続き調べていきたいと思います。
右側飾緒に関する追加情報があります→『続・右側飾緒の謎』
2024年04月01日
4か月ぶりの撮影会
春の陽気に誘われて、今年一発目の撮影会を行ってきました。
念願だったこの年代の海兵の軍装をようやく再現できました。
今回の全体テーマは1965年頃のベトナム共和国軍地方軍です。
みんなで撮った後は、私個人のコスプレ。
個人装備を使いまわして、1962~65年頃のベトナム海兵隊です。
迷彩服は先日記事にしたVMSもどきです。
この服が有れば、1965年の『南ベトナム海兵大隊戦記』はもちろん、1963年11月クーデターごっこだって出来ちゃいます。
撮影が終わって気付いたのですが、一日中日光を浴びていたせいで、みんな日焼けしちゃいました。
つい1週間前まで寒さに凍えて暖房を使っていたのに、こんなに急に暑くなるとは。
気温の変化に身体が付いていけないのか、撮影のあと二日連続で頭痛がしています。
2022年07月15日
独立区と特別区
※2022年7月18日更新
※2022年7月20日更新
※2024年9月21日更新

独立区(Biệt Khu)
ベトナム共和国軍は発足以来、南ベトナムの領土をいくつかの管区に分けて防衛していました。
中でも1962年に再制定された4つの戦術区(1970年に軍管区に改称)は、米軍からCTZ(Corps Tactical Zone)と呼ばれ、ベトナム戦争を通じてベトナム、アメリカ、その他同盟国軍の基本的な管区として用いられた事は割と知られていると思います。
それら戦術区/軍管区に加えて、ベトナムには戦略上の必要に応じて、戦術区/軍管区の指揮系統から独立し総参謀部の直接指揮下に置かれる独立区が累計で4つ設置されました。
・首都独立区(Biệt khu Thủ đô)
管轄範囲:サイゴン市およびザーディン省
1961年に戦術区と同時に制定。首都サイゴンの防衛を担う。
・第24独立区(Biệt khu 24)
管轄範囲:コントゥム省、プレイク省
第2戦術区より独立。中部高原(タイグエン地方)の国境防衛を担う。
・第44独立区(Biệt khu 44)
管轄範囲:ハーティエン市、チャウドック省、キエンフォン省、キエントゥオン省
第4戦術区より独立。ベトナム南西部(ミェンタイ地方)の国境防衛を担う。1973年に解散し第4軍管区隷下に復帰。
・ハイイェン独立区(Biệt Khu Hải Yến)
管轄範囲:アンスェン省カイヌォック地区


▲首都独立区所属の陸軍将校
特別区(Đặc Khu)
特別区(Đặc Khu)は独立区(Biệt Khu)と名前が似ていますが、独立区が総参謀部直属の高次な軍事戦術地区なのに対し、特別区はそれよりもかなり下位の階層にある、小区の下に特別に設置される地方軍および地方組織の地区です。
・ルンサット特別区(Đặc Khu Rừng Sát)
所属:第3戦術区/軍管区ザーディン小区
管轄範囲:ザーディン省ルンサット地区
・クアンダ/ダナン特別区(Đặc khu Quảng Đà / Đà Nẵng)
所属:第1戦術区/軍管区クアンナム小区
管轄範囲:クアンナム省ダナン市
・カムラン特別区(Đặc khu Cam Ranh)
所属:第2戦術区/軍管区カムラン小区
管轄範囲:カムラン省カムラン市
・ブンタウ特別区(Đặc khu Vũng Tàu)
所属:第3戦術区/軍管区フォクトイ小区
管轄範囲:フォクトイ省ブンタウ市
・フーコック特別区(Đặc khu Phú Quốc)
所属:第4戦術区/軍管区キエンザン小区
管轄範囲:キエンザン省フーコック島
・コンソン特別区(Đặc khu Côn Sơn)
所属:*
管轄範囲:コンソン島*
※人口が少なく主に海軍基地と刑務所が置かれていたコンソン島の行政区画は以下のように幾度も変更されています。
・コンソン省(1956-64):独立した省。軍事的には全面的に海軍の管轄下。
・フォクトイ省ブンタウ市コンソン基礎行政区(1964-1965):一時的にブンタウ市の行政区画に組み込まれる。
・コンソン基礎行政区(1965-1972):省には属さない独立した地区となる。
・ザーディン省/首都独立区コンソン特別区(1972-1975):行政区画がザーディン省所管となる。また軍事的には首都独立区が所管。
これら特別区に関する情報は少なく、このうち私が部隊章を確認できているのは、今のところルンサット特別区とクアンダ特別区の二つだけです。

ルンサット特別区

クアンダ特別区

▲米軍から表彰を受けるクアンナム小区クアンダ特別区所属の地方軍将兵
2021年10月22日
謎のM16A1 w/ XM148
先日、海外の友人が、ベトナムにおける不可思議なM16ライフルの写真を見せてくれました。
写真その1

アドバイサーと思しき米兵がXM148グレネードランチャー付きのM16A1ライフルを持っていますが、なんとハンドガードがXM148専用の物ではなく、通常のM16A1のままです。
なお撮影された場所・年代等は不明ですが、ボートを運転しているベトナム兵の左胸に付いているパッチは情報学校のものです。
写真その2

上の写真と続けて撮影されたと思われるこの写真では、XM148に加えてE4Aらしきサイレンサーまで装着されています。こちらもハンドガードは通常タイプで、スリングベルトも同じように付いているので、もしかしたら銃自体が同じ個体かも知れません。
なので撮影場所は第4軍管区(旧・第4戦術区)内のどこかという事になります。
この銃をイラストにすると、こんな感じ。

ベトナム軍(しかも二線級の地方軍)でサイレンサーが見られる事自体驚きですが、こちらは物さえあれば取り付けられるのでひとまず置いておくとして、とにかくハンドガードが謎過ぎます。こんな取り付け方は他に見た事がありません。
XM148を取り付けるために、わざわざハンドガードの下面を大きくくり貫いて穴を開けたとしか思えません。
たまたまグレネードランチャー本体だけ手元にあって、専用ハンドガードが無かったから、無理くり付けちゃったのでしょうか・・・。
なおベトナム軍では、XM148やM203といったアンダーバレルグレネードランチャー自体が一般部隊にはほとんど出回っておらず、その支給先は特殊部隊、特にNKT傘下のコマンド部隊に限られていました。
NKTはベトナム軍の特殊工作機関であるものの、1960年代を通じて米軍SOGによる特殊工作の実行部隊として活動しており、アンダーバレルグレネードランチャーを含む最近の火器・装備をSOGから直接支給されていました。
また下の写真のように、1970年代にはベトナム海軍LĐNN(フロッグマン部隊)でもまとまった数のXM148付きM16A1が見られますが、LĐNNは創立当初よりSOG指揮下のNKTシーコマンド部隊を構成していたため、このXM148もSOGがシーコマンドに対して支給した物を引き継いでいるのではないかと思われます。
(1973年の休戦に伴い潜入工作部隊であるシーコマンドは解散となったため、海軍シーコマンド中隊はそのままの装備で原隊であるLĐNNに復帰した)

国軍記念日のパレードにおけるLĐNN隊員(1973年6月19日サイゴン)
Posted by 森泉大河 at
14:57
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│【ベトナム共和国軍】│【アメリカ】│銃器│1954-1975│NKT/技術局│SOG/特殊作戦│被服・装備│LĐNN/フロッグマン│HQ/海軍│ĐPQ-NQ/地方軍・義軍
2021年08月29日
PRUのパッチ(暫定版)
以前から自分用にPRUのパッチのリストを作っているのですが、なかなか情報が集まらず、まだ半分も把握できていません。
また断片的な情報に頼っているため、現在リストに入っている物も、本当に正しいかどうか検証するには至っていません。
なので、ここで暫定版リストを公開して、記事をご覧の方に情報提供をお願いしたいと思います。情報あるいは指摘がございましたら、コメントでお知らせ頂けると助かります。
なお、PRUのパッチ・部隊名は以下の二つの時期で異なるので、リストの方も各省2段ずつで作ってあります。
VCI(ベトコン組織)破壊を目的とする鳳凰計画(フェニックス・プログラム)の実働部隊として各省政府に設置された準軍事警察部隊。
計画全体の指揮はサイゴン政府の鳳凰計画局および米国CORDS(事実上のCIA)が統括。
PRUは各省政府直属の組織であったため、省の名前が部隊名であり、部隊番号は持たなかった。
1972-1975年:地方軍独立偵察中隊 (Đại Đội Trinh sát biệt lập)
1972年のフェニックス・プログラム終了に伴い、各PRUは同じ省(小区)の指揮下にある地方軍に編入され、「独立偵察中隊」へと改名される。また地方軍の編成に合わせ3桁の部隊番号が割り振られた。また必要に応じ中隊は増設された。
地方軍編入後も引き続きVCI破壊作戦は任務に含まれていたが、この時点でベトナム政府はすでに国内のVCIおよびゲリラ部隊をほぼ完全に壊滅させていたため、PRUも地方軍編入後は、南侵した北ベトナム軍に対する正規の軍事作戦が主な任務となった。

おまけ
先日、二郎系ラーメン食べ歩きが150店目に達しました。
150店目は、東京西日暮里の「えどもんど」さん。
実はこのお店にトライするのはこれが3度目でして、最初の2回はコロナのせいで臨時休業&早閉まいで、お店の前まで行って食えず終い。3度目の正直でようやく食べる事が出来ました。

うん、記念に相応しい味とボリュームでした。大満足!!
2019年10月06日
地方軍の即応中隊
※2022年7月15日更新
※2024年9月21日更新
ベトナム共和国軍は1955年制定の軍の管轄区域を1961年に刷新し、改めて全国を4つの『戦術区(Vùng Chiến Thuật)』に区分けします。また各戦術区本部には、中央にアラビア数字で各戦術区/軍管区の番号が入った八角形の部隊章が制定されました。なお、その後戦術区は1970年に軍管区(Quân Khu)へと改称されます。
※戦術区および独立区については追加記事『独立区と特別区』参照

戦術区/軍管区本部パッチ(サブデュード)の使用例(第2戦術区/軍管区本部・プレイク省プレイメ)
この戦術区の下には複数の小区(Tiểu khu)が設置され、この小区はそのまま従来の行政区域である省(Tỉnh)に割り当てられました。
その後、1963年末にクーデターによってジエム政権が倒れ軍事政権が行政を掌握すると、戦術区は軍の管轄区域であるのと同時に、政府の行政区域としての役割も担うようになります。それにともない各戦術区の下にある小区本部は省政府を兼ねるようになり、小区司令官が省政府長官を兼任しました。
1964年5月、それまで内務省所管の地方警備部隊だった『保安隊(Bảo an đoàn)』および民兵組織『民衛隊(Dân vệ đoàn)』の二つの武装組織は国防省に移管され、それぞれ『地方軍(Địa Phương Quân)』および『義軍(Nghĩa quân)』として再編成され、正式にベトナム共和国軍に編入されます。この地方軍および義軍の指揮権は小区本部(省政府)にあり、小区副司令官(省副長官)がその地域の地方軍・義軍司令官を兼任しました。

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さて、本題はここから。八角形の戦術区/軍管区本部部隊章には、これに類似したものとして、戦術区/軍管区番号の右上に、丸で囲まれた小区番号が入る部隊章も存在しました。

当時、各戦術区/軍管区の下にある小区=省にはそれぞれ番号が割り振られており、例えば図の第2戦術区/軍管区の9番はトゥインドゥック小区(トゥインドゥック省)となります。
なので私は長らく、このパッチも戦術区/軍管区本部と同様に、各小区(省)本部のものだと思っていました。しかし写真を集めていくうちに、どうもその認識が疑わしく思えてきたのです。


上の2枚ではいずれも、地方軍兵士が例の戦術区/軍管区番号の右上に小区番号が追加されたパッチを身につ行けていますが、彼らはどう見ても前線の戦闘員であり、本部勤務者には見えないのです。
本部勤務者だって本部のある省都が危なくなれば戦闘に加わることもあるでしょうが、不思議な事に他の写真でもこのパッチの着用例は前線で作戦中のものばかりであり、逆に本部で勤務している例は一つも見つけられませんでした。
そこで、この疑問を知り合いの研究者に振ってみたら、ソッコーで答えが返ってきました。なんでも、このパッチの部隊は小区本部ではなく、各戦術区/軍管区の下で、小区の管轄を超えて出動する地方軍の即応部隊との事でした。この即応部隊は各小区(省)本部に所属していましたが、活動地域はその小区だけ留まらず、戦術区/軍管区地方軍本部の要請によって、同戦術区/軍管区内の他の小区にも出撃する機動部隊だったそうです。
これを米陸軍戦史センター編纂の『Territorial Forces by Ngo Quang Truong (1981)』に記載されているベトナム地方軍の組織図と照らし合わせてみると、以下の黄色く塗りつぶした『独立地方軍中隊(Đại Đội Địa Phương Quân biệt lập)』だけが小区の下位の支区(Chi khu=都市・コミューン)には属しておらず小区本部直属である事から、僕の予想ではこの独立地方軍中隊が、その即応部隊に該当するのでは考えています。

Territorial Forces, U.S. ARMY CENTER OF MILITARY HISTORY (1981)から邦訳

Territorial Forces, U.S. ARMY CENTER OF MILITARY HISTORY (1981)から邦訳

なので、あらためてこのパッチを例にとってみると、これは『第2戦術区/軍管区トゥインドゥック小区独立地方軍中隊』と考える事が出来そうです。まだ確証はありませんが、現状ではこの解釈が一番しっくりきますね。
地方軍の細かい編成についてはまだまだ謎だらけなので、引き続き資料集めを続けたいと思います。
2019年03月25日
第一回教練会(ヴァンキエップ訓練センター)
一昨年より構想しておりました、ベトナム共和国軍の国立訓練センターにおける新兵教育を想定した教練会を開催しました。
【設定年代・場所】
1970年頃 第3軍管区フクトゥイ省ブンタウ ヴァンキエップ訓練センター(TTHL Vạn KIếp)
【演じる部隊】
ヴァンキエップ訓練センター タインタイ大隊(地方軍新兵教育隊)
【実施した教練の内容】
・個人の基本教練(各種基本姿勢、敬礼、回れ右など)
・集団行動(集合や行進など)

・小銃の取り扱い(各種基本姿勢)



・射撃訓練(小銃・手榴弾)


写真だけ見るとカッコいいんですが、実際の教練では教官役の私自身がよくわかっていない部分が多く、訓練生役の皆さんに色々指摘を受けながらの指導(ごっこ)となりました。
以前、SAITAMA101さんの教練会に参加させて頂いた際に、一日かけてみっちりご指導いただいたのですが、やはり時間が経つと細かい部分を忘れてしまいますね・・・
次回までにちゃんと勉強しておこうと思います!
おまけ
今回教練会を開催するにあたって参考にした、ヴァンキエップ訓練センターにおける地方軍への訓練を撮影した実際の動画
ヴァンキエップ訓練センター 1970年2月10日
ヴァンキエップ訓練センター 1970年2月13日
2019年03月08日
続・右袖のパッチについて
過去記事『右袖のパッチについて』で、僕は「右袖にパッチを付ける部隊は私の知る限り、BĐQ(レンジャー)、TQLC(海兵隊)、そしてLĐ81 BCND(第81空挺コマンド群)の三部隊に限られていました。」と書きましたが、その後、他の部隊でも右袖パッチの使用例が見つかりましたので、前回書き忘れていた事も含めて、改めて記事にさせて頂きます。
BĐQ-BP (国境レンジャー)
前記事の中の『謎の組み合わせ』の項で、私はLLĐB(特殊部隊)パッチをつけているBĐQ隊員は、1960年代にCIDGキャンプを担当していた元LLĐB隊員であり、1970/1971年にBĐQ-BP(国境レンジャー)に部隊ごと転属したのではと推測しましたが、一方で写真は軍病院の慰問コンサートで撮影されたものであり、退役した傷痍軍人だから過去の所属部隊のパッチを自由に付けていたのであろうと結論しました。
しかし先日、新たに右袖にLLĐBパッチを付けたBĐQ隊員の写真がフォーラムに投稿されました。今回は傷痍軍人ではなく現役の将校のようです。

▲右袖にLLĐBパッチをつけているBĐQ隊員の例
そこでも当然、なぜBĐQ隊員がLLĐBパッチを身に着けているのか議論になりましたが、これについて複数のベテラン、研究者の方々から、先の病院の写真に関する僕の推測と同様の見解、つまりこの人物はかつてCIDGキャンプを指揮していたLLĐB隊員であり、その後CIDGキャンプがBĐQ-BPへ改編されると、CIDG部隊と一緒にBĐQに転属したのだろうという意見が示されました。
つまり、右袖のLLĐBパッチは傷痍軍人であるかないかに関係なく、元CIDG付きLLĐBだったBĐQ-BP所属者はLLĐBパッチを右袖に付ける事があったと言った方が良さそうです。(ただし軍装規定に則ったものではなく、あくまで個人的に身に付けているだけと考えられます)
ちなみに、1973年中頃に行われたBĐQの組織再編で、元CIDG部隊である事を示す「国境レンジャー大隊(TĐ BĐQ-BP)」という部隊名は廃止され、BĐQ内の全ての大隊の部隊名は「レンジャー大隊(TĐ BĐQ)」で統一されます。なお部隊番号については国境レンジャー時代から変更ありません。
例)
第2軍団特殊部隊 プレイメ キャンプストライクフォース (1960s-1970)
↓
第2軍団レンジャー 第82国境レンジャー大隊(1970-1973)
↓
第2軍団レンジャー 第24レンジャー群 第82レンジャー大隊(1973-1975)
軍団特殊部隊本部の高級将校
別の人物の写真でも右袖にLLĐBパッチが付いている例がありましたが、こちらの軍服の左袖に付いているのは軍団パッチなので、この人物の所属は軍団本部という事になります。

▲右袖にLLĐBパッチをつけている軍団本部所属者の例。グエン・ホップ・ドアン大佐
この場合、この二つのパッチの組み合わせは各軍団本部内の特殊部隊本部(LLĐB C1~C4本部)所属者を意味していると考えていいと思います。なのでこのドアン大佐の例で言えば、所属はLLĐB C2(第2軍団特殊部隊)本部となると思われます。また使用例もドアン大佐くらいしか見当たらないので、他にいるとしても、全国に4人しかいない各軍団の特殊部隊本部司令官のような高級将校のみだったと思われます。
となると特殊部隊と同様に各軍団本部内にあるレンジャー本部司令官も同じように左袖に軍団パッチ、右袖にBĐQパッチが付いても良さそうな気がしますが、そういった例はいまだ発見できていません。(そもそもこの右袖LLĐBパッチが規定から外れた付け方なので、レンジャーでも同じはずと考えるのが間違いかも知れませんし)
歩兵師団の高級将校
こちらは歩兵師団所属者が右袖に軍団パッチを付けている例で、比較的よく見ます。

▲右袖に軍団パッチをつけている歩兵師団将校の例。第2軍団第23歩兵師団長ルー・ラン准将(1965年当時)
右袖の軍団パッチの意味としては、レンジャー部隊でも見られるように、自分の所属している部隊(師団)を統括している軍団本部のようです。ただし、兵卒でも個人的に軍団パッチを着用しているレンジャーとは異なり、歩兵師団における軍団パッチ着用例は師団長や連隊長といった高級将校限定だったようです。
なお軍団と歩兵師団、レンジャー本部、特殊部隊C本部の関係についてはこちらのベトナム共和国軍地上戦闘部隊の構成概念図(1968)を参照
歩兵師団隷下の騎兵大隊
こちらも極めて稀な例ですが、左袖に歩兵師団、右袖に騎兵大隊パッチが着用されている写真があります。

▲右袖に騎兵大隊パッチをつけている装甲騎兵隊員の例(おそらく第25歩兵師団第10騎兵大隊)
まず基本的に、騎兵隊員が騎兵大隊のパッチを付ける位置は99%左袖です。ただし、歩兵師団の隷下にある騎兵大隊では左袖に大隊の所属する歩兵師団のパッチを付ける例自体は稀に見られます。しかしその場合も、大隊パッチは胸ポケットに付けるのが普通であり、右袖に大隊パッチを付けるのは例外中の例外だと思います。
2019年3月8日追記
ĐPQ(地方軍)
ĐPQ(地方軍)でも右袖に軍団パッチを付けている例が見つかりました。

▲右袖に軍団パッチをつけている地方軍隊員の例
まず地方軍が右袖にパッチを付けている事自体が極めて珍しいのですが、さらにそのパッチが軍団(第2か第3軍団っぽい)なのが驚きです。なぜならレンジャーや歩兵師団とは異なり、地方軍は軍団には属していなかったからです。
各軍団は全国4つの軍管区(1970年以前は「戦術地区」)をそれぞれ管轄していた為、軍団と戦術地区/軍管区は実質的に同じものと扱われる事も多々もありますが、正確に言うと組織も役割も別物です。軍団はその名の通り軍(正規軍)の編成単位であった一方、戦術地区/軍管区とは地方軍、国家警察、民兵組織、PRU等の地方部隊の指揮権を持つ地方行政府の区域分けでした。従ってその本部部隊章も別々であり、軍団は丸にローマ数字、軍管区は八角形にアラビア数字が入っていました。(1970年以前の戦術地区の時代は六角形だったという情報もありますが、資料不足のため現段階ではハッキリとは言えません。)

▲Hướng dẫn Sĩ quan (1970)より
つまり地方軍部隊が所属していたのは正規軍の軍団ではなく、戦術地区/軍管区であり、より正確にはその下位にある各小区本部(省政府)でした。なので地方軍が軍団パッチを付けているのは、軍服のどの位置に付けるかに関わらず、そもそも不自然な事なのです。
ではなぜ、現にこういった写真があるのでしょうか?これはあくまで私の推測に過ぎませんが、軍団と戦術地区/軍管区は今現在もマニアの間で混同されているように、当時も現場の兵隊の間で混同された為かも知れません。戦術地区/軍管区本部に出入りする本部職員や将校ならまだしも、現場の地方軍兵士たちは自分の地元で訓練を受けて警備活動をしているだけなので、全員が上層部の組織構造を正確に理解していたとは思えませんから、こういう誤解が生じてもおかしくはないかと思います。
Posted by 森泉大河 at
17:09
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│【ベトナム共和国軍】│1954-1975│BB/歩兵│LLĐB/特殊部隊│DSCĐ/CIDG計画│被服・装備│ĐPQ-NQ/地方軍・義軍│BĐQ/レンジャー
2018年02月25日
軍装例:マウタン1968(テト攻勢)
※2025年3月24日更新
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2025年3月、この記事の内容を含む、
『ベトナム共和国軍の軍装1949-1975 Vol.1』を
発売しました。
歴代の被服・装備・軍装例をまとめたフルカラー図解です。
是非お買い求めください。
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軍装ガイドの完成ははまだまだ先になりそうですが、来週から家を空ける為しばらく作業できないので、現在描き終わっているイラストだけ先に公開しちゃいます。解説はまたおいおい書きます。
イラストは1968年当時に見られるベトナム共和国軍歩兵の軍装例です。実際にはこの他にも無数に組み合わせがありますが、イラストは私が1968年当時の例として最も典型的、あるいは特徴的だと思うものをまとめました。
当時支給されていた被服・個人装備・銃器は絶えず新たな調達品へと切り替わっていったため、その軍装は1年足らずで様変わりしています。なのでイラストはあくまで1968年前半のみの例であり、15年間続いたベトナム戦争のほんの一部分でしかない事にご注意ください。
【Mậu Thân1968】
今から50年前の1968年2月、ベトナムで最も神聖な祝日である元旦節(テト)を狙ったベトナム共産軍(ベトコン)による同時多発テロ<マウタン1968>、通称『テト攻勢』によって、南ベトナム全土が戦火に包まれ、以後半年間でベトナム戦争始まって以来最大の犠牲者を出す大惨事となりました。激しい戦闘の末、ベトナム政府軍およびアメリカ・自由世界軍(FWMF)は国内の共産ゲリラ組織(解放民族戦線)をほぼ壊滅状態にまで追い詰める事に成功しましたが、ベトナム戦争の様相はその後、アメリカ軍の撤退と北ベトナム軍による南侵の激化によって南北ベトナム正規軍同士による総力戦へと突入していきます。

Posted by 森泉大河 at
00:45
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│【ベトナム共和国軍】│1954-1975│イラスト│BB/歩兵│被服・装備│TQLC/海兵隊│ND/空挺│CSQG/国家警察│ĐPQ-NQ/地方軍・義軍│BĐQ/レンジャー
2017年11月30日
ベトナム共和国軍 地上戦闘部隊の構成
※2022年10月22日更新
※2024年9月21日更新
今までベトナム共和国軍の部隊構成については、それぞれの部隊ごとに記事にしてきましたが、それだけでは全体像が分かりにくかったので、地上戦闘部隊の構成を概念図にまとめてみました。
部隊の構成は年代と共に刻々と変化していますが、今回はまず、資料が豊富だったテト攻勢の最中の1968年前半と、軍の規模が最大となった1974年の二つの年代をまとめました。
※2017年12月1日訂正
【1968年】
【1974年】
各部隊の詳細については過去記事をご参照ください。
正規部隊および統合予備部隊一覧
http://ichiban.militaryblog.jp/e813649.html
正規部隊および統合予備部隊の歴代司令官
装甲騎兵部隊
特殊部隊キャンプ一覧
CIDG部隊の構成
MSF(マイクフォース)の構成
空挺コマンド部隊の歴史
技術局(NKT)の構成(1)
技術局(NKT)の構成(2)
地方軍・義軍の歴史
地方軍・義軍の構成(1)
地方軍・義軍の構成(2)
LĐNN(フロッグマン部隊)の歴史
長年正体不明だったパッチについて、ある研究者の方から情報を頂いたのは良いけど、また新たな謎が浮かんでしまいました。


(画像: David Levesque氏コレクション)
Richard Woods氏によると、このパッチは元々"第135地方軍連隊(135th Territorial Forces Regiment/ Trung Doan 135 Dia Phuong)"のものであり、後にこの部隊は地方軍から正規部隊に昇格し、第52歩兵連隊(第10/第18歩兵師団隷下)になったとの事です。他の資料にもこのパッチは第52歩兵連隊の初期の部隊章と紹介されているらしいので、恐らくその説明で正しいでしょう。
しかし問題は第135地方軍「連隊」という部隊名。僕の知る限り、1960年代まで地方軍の編成単位は最大でも「中隊」であり、1970年代に入ってようやく大隊・群編成になるはずなので、地方軍の連隊なんて初めて聞きました。
Woods氏が言う"連隊(Regiment/ Trung Doan)"とは、単に"中隊(Company / Đại Đội)"の記憶違いなのか・・・?しかしそうだとすると、たかだか100名程度の地方軍中隊が、数千名からなる陸軍の歩兵連隊に昇格する理由が分かりません。
考えられるのは、その第135地方軍連隊は例外的に他の地方軍の一般的な編成と異なり、本当に連隊(後の地方軍群に相当?)編成だったという可能性です。それならば色々と辻褄が合うのですが、まだ資料による裏付けが得られていないので、改めて地方部隊関係の資料をあさってみようと思います。
続きを読む2017年09月02日
単発写真や動画
※2024年9月21日更新
僕のブログは常に下書き記事が10件以上ある状態でして、暇な時にちょっとずつ書き進めていくようにしていますが、調べているうちにボリュームが増えすぎてなかなか記事が完成しないという状態が最近続いています。なので今回は息抜きに、最近見つけた興味深い画像や動画を脈絡なく貼っていきます。
【ベトナム関係】
◆パレード映像の中にムイ老師を発見!
▲フエで行われた地方部隊(地方軍・義軍・人民自衛団他)の軍事パレード。 記録映画『北ベトナム軍の侵略』のワンシーン [1972年フエ]
パレード装をした義軍の中に、ベトナム国旗の旗手を務めるグエン・バン・ムイが映っています。また観閲するアメリカ人の中にフェニックス・プログラムを監督するCORDS(事実上のCIA)職員たちも写っている事に注目。
米国フロリダ州の地方紙サラソタジャーナルに、ムイの小隊が夜襲に成功したという記事が掲載されていました。
Sarasota Journal - Apr 22, 1971
これによると、ムイはカマウ半島中部のチュンティェン省ドゥックロンに住む義軍兵士でしたが、軍の定年をとうに過ぎているため階級は持っておらず、人々は彼を"Ông (年配の男性に対する敬称)"、もしくは"Ông Moi"と敬意をこめて呼び親しんでいました。しかし数々の武功を持つムイは、高齢をものともせず第203義軍小隊(Trung Đội 203 Nghĩa Quân)の小隊長を務めており、民兵で構成された義軍小隊を率いてベトコンゲリラに対する夜襲を成功させるなど、衰えを知らない豪傑な人物でした。
またムイには五男一女、計6人の子供がいましたが、そのうち長男から三男までの3人の息子はベトコンに殺害され、四男は負傷。そして23歳になる五男が義軍兵士としてムイの小隊に所属していたそうです。
ムイは取材に対し、「この戦争で老人から子供まで多くの人々が死んだ。私は一刻も早くこの戦争を終わらせる事が私の使命だと確信している」、「私は死ぬまで兵士として祖国に仕えたい」と語っています。
残念ながら、私が知る限りムイがメディアに紹介されたのは1971年が最後で、この1972年のパレード以降の消息はつかめていません。
◆準軍事婦人隊(Phụ Nữ Bán Quân Sự)の制服の色が判明
モノクロ写真は何枚もありましたが、ようやくカラー写真で服の色を把握できました。
準軍事婦人隊は第一共和国(ゴ・ディン・ジエム政権期)に存在した国内軍部隊です。「準軍事」と名はついていますが、指揮権はベトナム共和国軍総参謀部にはなく、おそらく内務省が所管する政治工作機関だったようです。"ドラゴン・レディ"として知られるジエム総統の弟の妻チャン・レ・スアン(マダム・ニュー)は、自らの支持を得るために女性の政治参加を積極的に推進しており、このような女性による準軍事組織まで創設しました。この準軍事婦人隊には、チャン・レ・スアンの長女(ジエム総統の姪にあたる)ゴ・ディン・レ・トゥイが参加し、老若男女が一して共産主義と戦う姿勢をアピールする広告塔を務めていました。
▲準軍事婦人隊員としてパレードに参加するゴ・ディン・レ・トゥイ
同様に、政府が組織した反共青年政治組織としては当時、『共和国青年団』が存在しており、その女性部門である『共和国少女団(Thanh Nữ Cộng Hòa)』もチャン・レ・スアンの私兵組織として機能していました。
▲共和国少女団のパレード装(左)と通常勤務服(右)
なお、1963年11月の軍事クーデターでゴ・ディン家の独裁体制が崩壊すると、これらの政治工作組織は解体され、以後は軍事政権の下で人民自衛団(NDTV)など軍が所管する民兵組織へと再編成されていきます。
【カンボジア関係】
クメール海兵隊の戦闘 [1973年カンボジア]
クメール海兵隊の兵力は計4個大隊ほどと決して大きな組織ではなかったので、動画はおろか写真すら滅多に見つからないんです。それがこんなにはっきりと、しかもカラー映像で見られるとは。AP通信様様。
◆プノンペンの歌姫 ロ・セレイソティアの空挺降下訓練 [1971年7月カンボジア]
↓こちらは女性が参加した別の降下訓練をカラーフィルムで撮影した映像
こちらも女性が軍に参加する姿を宣伝する事で、挙国一致を国民にアピールする狙いがあったのでしょうね。
また、リザード迷彩やリーフ迷彩をエリート部隊の証として支給していたベトナム軍やラオス軍とは異なり、カンボジア軍空挺部隊はダックハンター系の迷彩を1970年代まで多用していたのが特徴的ですね。
◆南ベトナム領内のベトナム共和国軍基地で訓練を行うクメール国軍兵士 [1970年7月ベトナム]
基地はベトナム軍の施設ですが、教官はクメール人が務めているようです。
米軍特殊部隊B-43の指揮の下、ベトナム領内のキャンプ・フクトゥイで訓練を受けていたクメール軍特殊部隊(Forces Speciales Khmères)は割と知られていますが、一般部隊までベトナムで訓練されていたのは初めて知りました。
1970年のロン・ノル政権成立によって中国・北ベトナムに反旗を翻したカンボジア(クメール共和国)は、アメリカの仲介の下で南ベトナムとの協力関係を深めていきます。しかしカンボジアとベトナムは、メコンデルタ地帯を巡って中世から戦争を繰り返してきた長年の宿敵であり、現に1970年までクメール王国(シハヌーク政権)は南ベトナムを敵国と見做して北ベトナム軍に協力すると共に、南ベトナム政府へのサボタージュ工作を幾度も行っていました。
そのカンボジアが(国内の内戦に負ける訳にはいかないという事情があったにせよ)、過去の遺恨に目をつむって南部のベトナム人と一時的に和解したという事実は驚くべきことだと思います。
【ラオス関係】
◆ラオス王国軍モン族遊撃隊 GM41の日常風景 [1969年ラオス]
モン族GM(Groupement Mobile)のプライベート動画なんて初めて見ました。撮ったのはGMを指揮したCIA戦闘員(アメリカ軍人)のようです。大変貴重な映像です。感動しました。
◆同じくGMを指揮したCIA戦闘員が楽しそうに重機関銃を撃ってる動画 [1971年ラオス]
◆ラオス王国空軍に参加したCIA(アメリカ空軍)パイロットとその息子 [1971年]
CIAだからと特別に家族がラオスに住んでいたのか、それともタイの米空軍基地に住んでいて、お父さんに会いに家族とラオスまで来たのか。プライベートビデオならではの、微笑ましくも歴史の激流を感じる映像でした。
Posted by 森泉大河 at
16:04
│Comments(1)
│【ベトナム共和国軍】│【アメリカ】│1954-1975│【ラオス】│人物│【カンボジア】│モン族│ĐPQ-NQ/地方軍・義軍│CIA/中央情報局│クメール王国│ラオス王国
2017年06月24日
フェニックス・プログラムとPRU

長年、様々な憶測をもって語られてきた『フェニックス・プログラム』と『PRU』ですが、近年米国では情報公開法に基づく情報開示請求によってベトナム戦争当時CIAが作成した内部文書が機密指定解除されて公開されており、またそれら一次史料を基に学術的な研究を行った論文が多数CIAの公式サイトに掲載されています。
米国CIA 情報研究センター(Center for the Study of Intelligence)
今回は、それらの中から、かつて実際にPRUを指揮した元アメリカ海兵隊将校が自身の体験も交えて記した以下の論文の抜粋をご紹介します。
The Tay Ninh Provincial Reconnaissance Unit and Its Role in the Phoenix Program, 1969-70, Colonel Andrew R. Finlayson, USMC (Ret.), Last Updated: Jun 26, 2008 07:13 AM
https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/csi-studies/studies/vol51no2/a-retrospective-on-counterinsurgency-operations.html
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※用語の表記について
[フェニックス・プログラム]
ベトナム語: Chương trình Phụng Hoàn (漢字: 章程鳳凰)
英語: Phoenix Program
ベトナム語の『Phụng Hoàn』を日本語訳すると『鳳凰』、『Phoenix』は『不死鳥』となるが、この記事では便宜的に『フェニックス』を用いる。
[PRU] ※2017年9月29日訂正
ベトナム語: Đại Đội Trinh sát biệt lập (ĐĐ/TS/BL) またはĐại Đội Trinh sát ĐPQ (ĐĐ/TS/ĐPQ)
英語: Provincial Reconnaissance Unit (PRU)
各中隊は省(地方軍小区)単位で編成されたため、『省の探察隊』と言う意味で英語名のPRUは名付けられた。
PRUの日本語訳としては『地方偵察隊』が用いられる事が多いが、Provincialは『地方』ではなく『省』と訳すべきと思われる。
この記事は英語文献からの翻訳の為、便宜的に英語表記のPRUを用いる。
※PRUのベトナム語表記は正しくは『Đơn Vị Thám Sát Tỉnh』でした。また『地方軍(独立)偵察中隊(Đại Đội Trinh sát biệt lập (ĐĐ/TS/BL) またはĐại Đội Trinh sát ĐPQ (ĐĐ/TS/ĐPQ))』は、フェニックス・プログラム終了に伴って各省のPRUが地方軍に編入された1972年以降の部隊名でした。
[省]
国の地方行政区画である省(Tỉnh)にはそれぞれ地方軍の管轄区画である小区(Tiểu khu)が割り振られており、タイニン省(Tỉnh Tây Ninh)は地方軍の編成上、第3戦術地区/軍管区の『タイニン小区(Tiểu khu Tây Ninh)』となる。
なお、この記事では原文が省(Province)で統一されている事から、小区ではなく全て省と表記する。
[ベトコン]
ベトナム語: Việt Cộng(VC)
英語: Vietnamese communist / Viet Cong (VC)
ベトナム人が使う『Việt Cộng』と、アメリカや日本など外国で使われる『Viet Cong(ベトコン)』という言葉は、その意味する所が異なる。
ベトナムにおけるViệt Cộngは『越共』、つまり共産主義ベトナム人全般を指し、1930年代のインドシナ共産党に始まり北ベトナムのベトナム労働党政権、現在のベトナム共産党政権に至るまでベトナムに存在した全ての共産主義系組織を指す。
それに対して外国人が用いるベトコンは、ベトナム共和国領内に1960年から1976年まで存在した反政府ゲリラ組織『南ベトナム解放民族戦線(MTDTGPMN)』のみを指す場合が多い。
普段このブログではベトコンをベトナム語の意味(共産主義組織全般)で用いているが、この記事では原文に倣い解放民族戦線という意味でベトコンという単語を用いる。
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タイニン省PRUとフェニックス・プログラムにおけるその役割、1969-1970年
アメリカ合衆国海兵隊 アンドリュー・R・フィンレイソン退役大佐(タイガ訳)
フェニックス・プログラムはアメリカおよび南ベトナム政府がベトナム戦争中に行った政策の中でも最も誤解され、また物議を呼んだプログラムである。簡潔に述べると、これは南ベトナムにおけるベトナム労働党の政治基盤(以下、ベトコンインフラまたはVCI)を攻撃、破壊する事を目的とする一連のプログラムであった。(※1)当時フェニックスは機密事項であり、報道関係者が得られた情報の多くは誇張、捏造、または事実誤認であったため、このプログラムは大いに誤解された。そして米国やその他の国々の反戦運動家や批判的な学者は、このプログラムを一般市民を対象とした違法で残忍な殺戮計画であるかのように吹聴したため、論争を巻き起こす事となった。残念ながら、これまでフェニックスについて客観的な分析が行われた事はほとんどなく、ベトナム戦争を研究する者の多くがこのプログラムを疑惑と誤解をもって見ていた。
以下に、南ベトナムのタイニン省で行われた一連のフェニックスの一部始終の概要を示す。これらは限られた年代と地域における一例であるが、そこからは1968年のテト攻勢後の数年間でフェニックスが効果を発揮する事が出来た重要な要因の一つが見て取れる。それは全国で実施されたフェニックスの実行部隊たる『省探察隊(PRU)』に関する事柄である。
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※1. この記事はフィンレイソン大佐が『ベトナム戦争における諜報戦に関するCSI・テキサス州工科大学合同会議(2006年)』に提出した論文の改訂版である。出典についてはフェニックス・プログラムに関する最も信頼性が高い以下の資料を基にしている。
Dale Andradé, Ashes to Ashes: The Phoenix Program and the Vietnam War (Lexington, MA: D.C. Heath, 1990)
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フェニックスの構造
フェニックスは1960年代にCIAが南ベトナムで実施した平定および農村警備プログラムの一つである。もし南ベトナム政府とアメリカが農民たちに対し、彼等を真剣にベトコンから守る意志があると説得できれば、農民自身に自衛の為の訓練を施す事で、米軍が直接介入せずとも南ベトナムの広大な農村地帯を敵から防衛する事が出来る。これが平定達成の為の条件であった。
1967年までに、米軍ベトナム軍事援助司令部(MACV)は軍民全ての平定プログラムを『民事作戦および革新的開発支援(CORDS)』という一つの組織に統合する事に成功する。CORDSにはCIAとMACVが深く関与しており、サイゴン政府と共同で運営されていた。CORDSの指揮は当初、元CIA局員のロバート・H・コマーが執っていたが、CORDSが最も活発に活動し成果を挙げたのは1968年にコマーの後任として赴任したウィリアム・コルビーの時代であった。コルビーは1959年から1962年にかけてCIAサイゴン支部長を務め、その後はCIA極東地域部長の地位にあった人物であった。コルビーはアメリカが南部の村々を支配する共産主義系勢力を排除し、地方のベトコンインフラ(VCI)を根絶しなければならないと確信していた。そのためCORDSは村落防衛・民事活動プログラム──後に土地改良、インフラ建設、経済発展を含む──に取り組み、VCIの根絶に相当の労力を費やした。
CORDSのもう一つの要素がフェニックス・プログラムであった。(※2) フェニックスは表向きはサイゴン政府によって運営されていたが、実際に資金を提供しその活動を管理していたのはCIAであった。フェニックスは南ベトナムの100以上の省および地区でVCIに関する情報を収集し、野戦警察および準軍事組織によるベトコン掃討の基礎となる情報を提供するためにCIAが構築した『情報作戦委員会(Intelligence operation committees)』というネットワークを基礎に構築された。
▲フェニックス・プログラムを非難するポスターに描かれたウィリアム・コルビー。CIA史料写真。年代不明
基本的に、この委員会の活動は、VCI活動者と目される人物のリストを作成する事であった。一度VCIメンバー個人の名前、階級、居場所が判明すれば、CIAの準軍事部隊、南ベトナムの警察または軍隊がその人物を拘束し、共産主義組織の内部構造と活動に関する情報を得るために取り調べた。このリストはベトナム国家警察、米海軍SEAL、米陸軍特殊部隊群、そしてタイニン省を含む各省PRUなどのフェニックス実行部隊に使用された。そしてこれらの部隊は村落に出向き、指定された人物を特定し、その"中和(Neutralize)"を試みた。リストに記載された人物は取り調べのために逮捕・拘束され、抵抗した場合は殺害された。当初CIAはベトナム側の協力の下、省または地区政府レベルで取り調べを行っていた。その後、このプログラムがサイゴン政府に移譲されると、CIAは情報収集活動のみを担当した。最終的に、CIAと米軍軍人合わせて約600名のアメリカ人がVCI容疑者の取り調べに直接関与した。
PRUはフェニックスにおいて恐らく最も物議の的となった要素である。彼等は元々1964年に南ベトナム政府とCIAによって創設された準軍事特殊部隊であり、当初彼等は対テロ部隊と認知されていた。PRUには最終的に4,000名以上の兵士が所属し、南ベトナム領内の44の省の全てで活動していた。PRUは1969年11月まで米軍将校および上級下士官によって指揮されており、それ以降はCIAのアドバイザーに引き継がれた。米国のベトナムへの関与に批判的な人々は、PRUは殺戮部隊に他ならず、戦争全期間を通じたVCI死者数の内、南ベトナム軍・警察および米軍との戦闘による戦死者以外のほとんど、すなわち全体の14%がフェニックス・プログラムの期間中にPRUによって殺害されたと主張している。
1972年のCORDSの報告によると、1968年のテト攻勢以来、フェニックスは5,000名以上のVCIの活動・軍事行動を阻止し、そして2万名を超えるとみられるVCIが──フェニックスの成果によって──ベトコン組織から脱走した。またMACVは、フェニックスおよびテト攻勢に対する米軍の反撃は、他の農村保安や民兵プログラムとも相まって、投降、拘束または殺害によって8万名を上回るVCIを無力化したと主張している。ただしこれらは多く見積もった場合の数字であり、実際にはその数は各々の統計の信頼性に左右される。しかしながら、ほとんどの──ベトコン側を含む──資料に共通している点は、フェニックス(1971年終了)およびその他の平定プログラムはVCI組織を地下深くに追いやり、実質的な活動が不可能になるほど弱体化させたという事である。フェニックスおよび同盟軍の活動はVCIに深刻な打撃を与え、1972年のイースター攻勢や1975年の時点でも、VCIおよびベトコンゲリラ部隊の活動は見られなかった。
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※2. 1967年末、南ベトナム首相は政府が行う対VCI活動の全てを一つのプログラムに統合し、それを特別な力を持つ神話上の鳥"鳳凰(Phụng Hoàn)"と名付けた。コマーはそれをアメリカ人顧問に分かり易いよう、欧米で鳳凰に相当する"不死鳥(Phoenix)"と名付けた。
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(中略)※訳者注: ベトナム戦争中アメリカ海兵隊将校としてフォースリーコン、後に歩兵中隊長を務めていた筆者は1969年にPRUでの勤務を希望し、CIAの面接を受けて採用され、1969年9月にPRU指揮官としてタイニン省に赴任する。
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タイニンに到着すると、私は省政府担当官(PIOC)──実際には省政府付きのCIA上級局員で、日々我々の活動を監督している──が率いるアメリカ人チームと合流した。私はチームのメンバーから、我々は二人の"ボス"の下で働くことになる事を教えられた。一人はアメリカ側のPIOC、一人はタイニン省における作戦権限の全てを司る南ベトナム側のタイニン省長官である。翌日、私は省長官と面会した。彼は英語の堪能なベトナム軍の中佐であり、有能で自信に満ち、尊敬されるリーダーである事が分かった。私にとって彼は理想的なリーダーであり、南ベトナムの省政府関係者によく見られるような堕落した部分が一切ない人物に見えた。
タイニン省PRUの隊員たちとは?
タイニン到着の二日目、私は比較的カジュアルな会合で、私が指揮・助言する事になる92名のタイニン省PRUメンバーたちの多くと初顔合わせをした。彼等は皆勇敢で経験豊富な兵士で、一部にはかつてカオダイ軍(ベトミンと戦った民兵)や南ベトナム軍空挺師団、米軍特殊部隊に指揮された不正規民間防衛隊(CIDG)に所属した経験がある者も居た。またPRU隊員のほとんどはカオダイ教徒であり、一部にローマ・カトリック教徒、そしてクメール族が2・3人所属していた。彼等は皆ベトコンに対し深い憎しみを持っている人々であった。その主な理由は、彼等や彼等の家族がベトコンによる残虐行為の被害者だったからでである。彼等にとって宗教と家族は人生で最も大切なものだった。
タイニン省PRUは18人編成のチームが5チームで構成(各チームは3個の分隊で構成)され、4チームがタイニン省の4つの地区それぞれに、1チームが省都タイニン市に配置された。タイニン省PRU本部はタイニン市チームと合同で設置され、司令官と作戦将校の2名が指揮を執った。またタイニン市チームの指揮官はタイニン省PRUの副指令も兼務した。PRUの武装はM16ライフル、M60マシンガン、45口径自動拳銃、M79グレネードランチャーであったが、各々の隊員はそれらに加えて個人的に入手した様々な武器を持っていた。さらに部隊にはPRC-25無線機、7x50双眼鏡、医療キット、トヨタ製四輪駆動トラック、ホンダ製のオートバイが装備されていた。隊員たちは地区本部の駐屯地では私服を着ており、前線ではタイガーストライプもしくはブラックパジャマを着ていた。また部隊付きの米軍アドバイザーも同様の装備・武装であった。
▲タイニン省PRUとフェニックス・プログラムにおけるその役割、1969-1970年 より
私がPRUの作戦能力についてまず初めに感じた事は、各チームはほとんどの状況でうまく機能しているものの、火力支援に関する部分が欠けているという事であった。つまり、各チームは火力支援の下で効果的に行動する事が出来ず、また支援兵器(一般的には砲撃)に対して射撃要求や調整を行う事が十分に出来ていなかった。そのため部隊は敵と偶然遭遇した場合や、敵側がこちらと戦う用意をしている場合にはうまく機能しなかった。これは彼等が受けていた非体系的かつ不安定な訓練にある程度原因があった。PRU隊員たちのほとんどはPRUに来るまで精強な戦闘部隊で何年も生き残ってきた経験豊富な元軍人であったが、一方で一部は初歩的な野戦訓練しか受けていないか、もしくは非戦闘部隊で勤務していた者たちであった。PRUの訓練は国レベルでは南シナ海沿岸にあるブンタウ近郊のキャンプで行われたが、地方レベルでは活動の順延が許される状況の時のみ米軍司令官とアドバイサーが訓練を施していた。その結果、訓練の頻度や部隊の能力はまちまちになっていた。
一方、PRUの強みはタイニン省の住民や地理に関して深く完全な知識を持っている事である。この知識こそが訓練の欠点を補い、地方のVCIに対する作戦を成功に導いた核心であった。この地域に根差した知識は対VCI情報網を発展させ、体系的な作戦の計画に大いに貢献した。またPRU隊員は擬装、潜伏、そして夜間行動に精通していた事から、結果として彼等は決定的な戦果を得るために待ち伏せ攻撃に特化する傾向があった。
情報源
CORDS関連のシステムの導入により、タイニン省PRUは理論的には幅広い有用な情報源を持つ事ができ、地方の諜報員レポートから国家レベルの情報機関まで全ての情報を地区情報作戦調整センター(DIOCCs)を介して得られ、米軍の地区アドバイザーはその地区のPRUの作戦優位性を確保できるはずであった。なお、省レベルでも整合をとるため同様の組織構造が存在したが、省におけるアメリカ人PRUアドバイザーの役割はあくまで、地区付きの軍事顧問という地位に充てられていた。しかし実際には当事国の事情により、地区レベルでも一部の指揮権はアメリカ側だけでなくPRU側と共同という事になっていた。ベトナム国家警察、ベトナム特別警察、そして地区指揮官との間にはいささかの管轄争いがあり、それが現場におけるPRUの優位性を妨げる事もあった。同様の問題はアメリカ側にも存在しており、米軍司令官や民間のアドバイザーは歩み寄りを拒んでベトナム側と情報を共有する事に消極的であった。情けない事に、アメリカの民間アドバイザーはサイゴンのアメリカ大使館から特にそうするよう指示を受けた場合であってもPRU側と情報を共有する事を渋っており、さらに彼等の多くは仕事の成果を横取りされないよう、他の米国機関との情報共有にすら消極的であった。理屈の上では、DIOCCのシステムは作戦運用の向上や実行時に大いに役立つはずであった。しかしながら、個人の非協力的な姿勢と官僚的な組織対立のために、タイニン省では概してこの仕組みは正しく機能していなかった。
一様に不正確だった情報源が、米軍情報部隊によって組織された諜報員からのレポートだった。私がPRUアドバイザーを務めていた10か月間、PRUが米軍から受け取ったレポートの中で価値のある情報と判断されたものは一つもなかった。米軍は諜報員に対し歩合制で報酬を支払っていた為、価値のないレポートの乱造を引き起こしていた。同様にベトナム国家警察からの諜報員レポートも役に立たず、場合によっては危険なほど不正確だった。国家レベルでもたらされる情報は正確だったものの、それらはしばしばVCIには関連性のない情報だった。彼等は省内からVCIを根絶する上で、PRUの活動にさほど重きを置いていなかった。
PRUにとってある程度重要で価値のある情報は、ベトナム特別警察が省政府取り調べセンター(PIC)で容疑者への尋問によって聞き出したものであった。PICに収容されている容疑者の多くがVCIのメンバーと活動について正確でタイムリーな情報をもたらしてくれた。これはそう頻繁にある事ではないが、そういった情報がPRUと共有されれば通常大きな成果に結び付いた。そして特に重要だったのは、チューホイ・プログラム(Chieu Hoi Program)によって南ベトナム政府側に転向した多数の元ベトコン達だった。彼等"Hoi Chanhs (転向者)"は南ベトナム政府に降伏後PICで取り調べを受け選抜された者たちであり、彼等はしばしば高烈度競合地域におけるVIC容疑者逮捕のためPRUチームを先導する任務に志願した。転向者たちは通常、他の容疑者よりもはるかに信頼度が高く、彼等がかつてベトコンゲリラや北ベトナム兵(NVA)であったのにも関わらず、彼等はVCI目標に関する有用な情報をもたらしてくれた。
また分析に時間を要し利用も簡単ではなかったものの、しばしば生産的だったもう一つの情報源が、1963年から64年にかけて不服調査(Census Grievance)チームが蓄積した膨大なデータの数々であった。このチームは国勢調査の際に住民との面談を行い、その思想の傾向を密かに調査した。そして各世帯の南ベトナム政府への忠誠度を色で表した地図を省・地区・村落単位で作製した。緑の世帯は政府に従順であり、黄色は中立、赤はベトコンに同調的である事を示していた。さらにこの地図に記載された各世帯の家族構成の名簿には、VCIメンバーないし共産主義に同調する者の名が含まれている事がよくあった。そのためこれらのデータはタイニン市内にあるCIAの施設に保管され、米国の運用指導アドバイザーによって定期的に見直しが行われていた。ほとんどの場合、その名簿からは容疑者にたどり着けないか、既に死亡している、または共産主義シンパとして逮捕されていたように、その情報は古く活用困難だった。しかしその一方で、いくつかの例において、この不服調査マップによる情報の成果としてVCI中堅の重要人物を逮捕ないし討伐出来た事は特筆に値する。もしこの地図がデジタル化され、データベースに簡単にアクセスできたならば、情報収集にかかる時間は大幅に短縮され、より多くの作戦を優位に進められたはずである。
しかし、これらよりはるかに多くPRUの情報源として用いられたのは、PRU独自の諜報システムであった。先に記したように、他の情報機関はVCI目標に関する情報を共有する事に消極的であったため、タイニン省PRUは自前の情報源を開拓する事を余儀なくされた。タイニン省PRUの隊員は、全員ではないにしてもほとんどの者はこのタイニン省で生まれ育ち、この省の住民として働き生活している者たちであった。彼等は皆地域社会の一員であり、また彼らの家族・親戚はタイニン省の至る所で、あらゆる職業に関与していた。PRUはこうした親類からの情報提供を通じて、村落レベルでVCIの活動を調査し、VCIに関する正確な情報を上手く収集する広域情報システムを構築するに至った。多くの場合、PRUに捕らえられたVCI幹部は、PRU隊員たちにとって個人的に、むしろ子供のころからよく知っている人であり、彼等はVCI容疑者の家族と私生活についても詳細を把握していた。そのため、時にはPRU隊員は自ら諜報員としてVCI内部に潜入する事にすら成功していた。彼等のVCIに関する非常に正確で深い知識は、幾度も作戦の優位性と、複数のVCI重要人物の討伐につながった。私がタイニン省PRUの米国側アドバイザーであった期間中、PRUによって逮捕ないし討伐されたVCI容疑者のおよそ2/3が、PRUが構築した生活の中での諜報活動システムによって特定された人物であった。
運用上の関係
PRUプログラムはアメリカのCORDS、そしてベトナム内務省の管理下にある全国規模の組織であるものの、実際には各省の"実力部隊"であった。PRUに下される逮捕命令や作戦命令にサインする事が出来る指揮権限者は省長官ただ一人であり、彼がPRUの運用方針と権限の全てを握っていた。そのため私はタイニン省付きの米国側PRUアドバイザーとして、ベトナム軍・アメリカ軍双方の調整をしながら作戦の計画を練っていたが、それは私には耐えがたい事であった。タイニン省PRUがVCI目標に対して何らかの作戦を行う際には、私は毎回タイニン省長官に書面で作戦遂行の許可を要請し、長官の承認とサインを得なければならなかったのである。とは言え長官と彼の側近、米国側アドバイザーは毎日のように顔を合わせていたので、この件がPRUの作戦遂行を実際に妨げる事はなかった。省の下位の地区レベルでは、ベトナム側の地区司令官は米国PRUアドバイザーと省長官の承認を経ずにその地域のPRUを作戦に投入す事は出来なかった。しかしそれでも、地区情報作戦調整センター(DIOCC)は運用要請を迅速に処理できるよう組織されていた為、私の在任中、地区レベルでのPRUの作戦承認に遅れは見られなかった。
アメリカが関与する役割の変化による影響
私のPRUにおける立場が変わる時がやってきた。1969年9月にPRUの"指揮官"として配置された私は、同年11月以降"アドバイザー"という肩書に変わった。それまでPRUの"指揮官"には米軍の将校や上級下士官が割り当てられていたが、この仕組みは11月以降変更された。それは米国国内でフェニックス・プログラムが残虐な作戦であると認識されてしまった事、そしてその残虐だという主張がこの戦争への支持を打ち消してしまう事をMACV司令官クレイトン・エイブラムス将軍が懸念した為であった。11月、エイブラムス将軍はPRUに配置されたアメリカ兵の肩書を"指揮官"から"アドバイザー"に変更する命令を下した。彼はまた、アメリカ人はPRUチームに同行して現場に赴く事はない、とも規定した。これは、アメリカ人が軍法統一規定(The Uniform Code of Military Justice)に抵触する恐れのある活動に関与する可能性を避ける為であった。私自身はエイブラムスや彼の参謀がこれらの制限を設定した時、その理由については関知していなかったが、これだけは言える。タイニン省での任期中、私はアメリカ人・PRU隊員のどちらも軍規に反する作戦行動を行った例は一度として見た事がないし、聞いたこともなかった。
▲タイニン省PRUでは正式な隊伍を組む事は稀であった。これは米陸軍第25歩兵師団との合同作戦中に勇敢な行為のあった4名のPRU隊員が米軍からブロンズスター勲章を授与される際の写真である。撮影: 筆者この新たな方針はタイニン省の兵士たちから士気と実効性を奪い去った。PRUは危険な作戦にも同行して米軍支援部隊、特に救急ヘリコプターや砲兵部隊との無線交信を担うアメリカ人に大きく依存していた。アメリカ人による手引きが失われたことで、PRUはC戦区(War Zone C)やカンボジア国境のアンタィン・カイメー地域などのタイニン市北部及び西部競合地域への出撃を躊躇するようになっていった。もし緊急事態に直面した場合でも、アメリカ人が一緒でなければ米軍ヘリによる救護避難、火力支援、そして緊急脱出が受けられない事を彼等は知っていたからである。タイニン省PRUにとって、その問題は小さくはなかった。チームは北ベトナム軍の第5、第7、第9師団が展開する地域内で活動していた。軽武装のPRUは、もし北ベトナム軍やベトコン主力部隊との戦闘に遭遇した場合、速やかに米軍による火力支援を受ける必要があったのである。
1969年11月以降、タイニン省PRU隊員たちが進んで競合地域に出撃するようになるまでには数ヶ月の長い訓練を要した。私のPRUへの忠義とリーダーシップというものへの理解に立脚し、私はMACVが課した制限に対し度々疑問を感じていたことを認めざるをえない。私は正式に方針の見直しを上申したが、その要請は却下された。
PRUチームがVCI壊滅に成功した理由とは?
私の体験が必ずしも他のPRUアドバイザーや部隊に当てはまる訳ではないと思うが、少なくとも私の任期中、タイニン省PRUは成功を収めた部隊だった。1969年9月から1970年6月までにタイニン省PRUは31名のVCIを討伐、64名を逮捕した。一方、PRU隊員の損害は戦死2名、負傷2名のみであった。テト攻勢後の数ヶ月間でVCI上級幹部の大半がタイニン省PRUによって討伐または逮捕されたか、隣国のカンボジアに逃亡した事が1968年12月初旬の時点で明らかになっていた。私が1970年6月にベトナムを離れる頃には、ベトコンはあらゆる面で政治的脅威としての存在感を失っていた。
PRUの活動が高い成果を挙げていた事実は、1975年に共産軍が南ベトナムを敗北させた際にも証明された(※4)。タイニン省を占領した北ベトナム軍司令官は、すぐさまこの地に200名の民間政治幹部を派遣するよう北ベトナム政府に要請した。彼の報告によると、戦後タイニン省の統治に携わるはずだったベトコン幹部は、この時点でたった6人しか残っていなかったという。
タイニン省PRUが成功を収めた主な理由、それは彼等が省内、住民、そして敵側の事情に精通した集団だったからであった。また彼等には規律、強力なリーダーシップ、そしてベトコンを壊滅させるという個人的かつ激しい動機が備わっていた。彼等は敵に付け入る隙を与えない正確で非常に効率的な諜報システムを持っており、それらは家族との強い絆と宗教、そして住民との信頼関係に支えられたものであった。
アメリカ人司令官およびアドバイザーが果たした役割は重要なものであった。しかしどの省でも、1年以上勤務した者はほとんど居なかった。私(そして同輩のPRUアドバイザーたち)もPRUに貢献するため、そういった信頼関係を築きたいと思っていたが、結局、それは私(そして我々)には成し得ない事であった。アメリカ人が南ベトナムを去った後も長らく、タイニン省PRUはVCIの根絶に従事し続けた。この作戦のコンセプトはアメリカ側の発案であったが、その実行と応用は完全にベトナム側によるものだった。
1975年4月のサイゴン陥落以降、タイニン省PRU隊員たちの人生は一転して悲惨なものとなった。彼等は捜索に遭い逮捕もしくは殺害された。多くの者が再教育収容所に投獄され、長期間拷問と強制労働を強いられた。その内一部の者は収容所を脱出し、アメリカ政府から住居と就職先が与えられアメリカに定住した。
しかしほとんどの者は処刑されたか、収容所の劣悪な環境の中で死亡した。ただしごく一部の者は決して降伏せず、彼等PRUの生き残りは"黄龍(Yellow Dragons)"と呼ばれる"残存"部隊を組織し、ベトナム共産党と南部のシンパに対する戦いを続けた。その活動は1990年代に入ってもタイニン省の共産政権当局によって報告されていた。
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※4. 私がベトナムを去った後のタイニン省におけるVCIの状況に関しては、1985年にアメリカに亡命した2名の元タイニン省PRU隊員たちから聞き取った情報である。
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教訓
タイニン省での経験を踏まえて、私はある部隊がPRU同様に組織、装備、訓練されている場合、他の地域や時代でもPRUのような成功を再現できるかを時折考える。武装勢力を特定・逮捕するため地域社会の人間で構成された特別警察は、我々が信じる民主主義の原則に沿った上で成功するだろうか?私は、PRUに備わっていた以下の条件が満たされさえすればそれは可能だと信じている。
特定の政府関係者や政治指導者だけでなく、国民に対し責任を負う、プロフェッショナルそして市民としての倫理観が部隊に浸透している事。
高い水準のプロフェッショナリズムに装備・訓練されている事。
給料が十分に(そして定期的に)支払われる事、そして具体的な成果には報酬を与える事──これは腐敗や敵の浸透を防ぐ重要な要素である。
部隊はその者らが属するコミュニティーの者だけで構成し、小規模でも強固な絆のチームを編成する事(ベトナム戦争中、南ベトナムの人口1700万人強の内、PRU隊員だった者は4,500名足らずであった。それはPRU隊員のほとんどが生まれも育ちもその省という地元住民に限定されていたからである)。 これによって彼等は的確に司法と政治の監視下に置かれ、有効な法的権限を持つ者の命令無しに、認められていない手段の作戦を行う事が出来ない。
部隊は別の場所に移動している間、対象の個人を識別するという目的を超えて捕虜を尋問・監禁する権限を持たない事。PRU型部隊は他の警察部隊、特に犯罪捜査および逮捕に関わる者とは明確に区別される事。
隊員とその家族を報復の可能性から保護し、個人名が報道関係者や部外者に漏れないようにする事。
最高水準の専門的かつ論理的なリーダーシップが提供される事。
南ベトナムのDIOCCsのような省庁間の調整機構を通じて、目標に関する完全な情報を得られるようにする事。
もしアメリカ人アドバイザーがそれらの部隊に配置される場合、その者は事前に言語・文化・情報管理・小規模部隊戦術、幕僚計画について専門的な訓練を受ける必要がある。
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以上のフィンレイソン大佐の論文も踏まえて、フェニックスとPRUに対する僕の認識をまとめると、以下になります。
・フェニックス・プログラムとは米国CIAが主導したベトナム政府による一連のベトコン政治基盤(VCI)破壊工作。
・フェニックス・プログラムの実行は米国CIA・米軍MACVの下部組織であるCORDSが担った。
・CIA、ベトナム国家警察などの情報報機関が収集したVCIに関する情報はCORDSによって調査・整理される。
・PRUは省政府が保有する対ゲリラ部隊であり、CIAから派遣された米軍人アドバイザーによって指揮された。
・PRU隊員やその家族はその地域の住民であるため、地元のVCIについては政府や米国の情報機関よりも正確な情報を得られた。
・逮捕されたVCI容疑者は省政府の取り調べセンター(PIC)に連行され、特別警察によって取り調べを受ける。
・PRUの任務は容疑者の逮捕であり、尋問を行う権限は無い。
・PRUは競合地域内に潜伏するゲリラの逮捕を行っていたため、ゲリラ側が抵抗した場合は戦闘の末殺害する事があった。
・一般市民は概してPRUに協力的であり、市民からの情報提供によって国内のベトコン組織はほぼ完全に壊滅した。
これらはベトナム共産党を支持する者や、その宣伝を信じた人々が書いた本を鵜呑みにしている多くのミリタリーマニアの認識とは真逆ではないでしょうか。"CIAの秘密殺戮部隊"・・・。マニアにとっては夢のあるお話なんでしょうが、それにはかなりの誇張、捏造が含まれていると考えます。あるのはただ、年間2,000人もの人々を虐殺しているベトコンというテロ組織を、あくまで司法に則った形で追い詰め、郷里と家族、信仰を守ろうとした父や夫たちの姿でした。



Posted by 森泉大河 at
16:25
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│【ベトナム共和国軍】│【アメリカ】│1954-1975│PRU/省探察隊│ĐPQ-NQ/地方軍・義軍│CIA/中央情報局│カオダイ教
2016年11月05日
続・地方軍の構成
※2017年10月2日更新
※2022年7月15日更新
※2024年6月26日更新
※2024年9月21日更新
前記事も併せてお読みください。
今回はベトナム空挺アソシエーション『GĐMĐVN=ベトナム赤帽家族』に掲載されていた地方軍の指揮系統、各軍管区を構成する小区についてのまとめを邦訳しました。
出典: Gia Đình Mũ Đỏ Việt Nam: Trang Huy Hiệu Địa Phương Quân & Nghĩa Quân QLVNCH (by. Hiệp Nguyễn)
指揮系統
地方軍・義軍中央司令部 (Bộ Chỉ huy Trung ương ĐPQ-NQ)サイゴンのベトナム共和国軍総参謀部内に設置された地方軍の最高司令部
戦術地区/軍管区 (Vùng Chiến Thuật / Quân Khu):ベトナム共和国軍の管区。全国4つ管区に分かれ、それぞれに軍団本部および地方軍管区司令部が併設されている。1970年に戦術地区から軍管区に改称される
小区 (Tiểu khu):省毎に設置される地方軍司令部。全国44省にそれぞれ小区本部が設置された
特別区 (Đặc khu):小区の下に特別に設置される地方軍地区。全国に計5個の特別区本部が設置された。特別区はいくつかの支区を束ねるが、全ての支区が特別区に含まれる訳ではない
支区 (Chi khu):小区の下に設置される都市(Thành phố)毎の地方軍地区。全国に計242個の支区本部が設置された
部隊編成
ĐPQ群 (Liên Đoàn ĐPQ):小区の下に設置される地方軍部隊。最終的に全国で50個のĐPQ群が編成された。それぞれのĐPQ群は4~8個のĐPQ大隊で構成される
ĐPQ大隊 (Tiểu Đoàn ĐPQ):小区の下に設置される地方軍部隊。ĐPQ部隊は当初、中隊(Đại Đội ĐPQ)として編成されていたが、地方軍の規模拡大に伴い1972年にĐPQ大隊に改変、最終的に全国で353個のĐPQ大隊が編成された。各ĐPQ大隊は5個の中隊で構成され、本部中隊が80名、4個の作戦中隊はそれぞれ123名が定員とされた。ただし実際にはĐPQ大隊の規模は平均して400名ほどであった
独立ĐPQ中隊 (Đại Đội ĐPQ Biệt lập):ĐPQ大隊に属さない小区本部直属の地方軍中隊
偵察ĐPQ中隊 (Đại Đội Trinh sát ĐPQ):ĐPQ大隊に属さない小区本部直属の独立地方軍パトロール中隊。米国CIAが組織した省探察隊(PRU)がフェニックス・プログラムの終了に伴い解散した後、1972年に地方軍内に偵察中隊として再編されたもの。
NQ小隊(Trung Đội Nghĩa Quân):村長の指揮下に置かれる地方軍の最小単位。独立ĐPQ中隊・NQ小隊は合わせて数千個小隊が編成された地方砲兵 (Pháo binh diện địa):
全国で計176個の砲兵小隊が編成された。地方砲兵は105mm榴弾砲を計352門装備し、その規模は砲兵大隊20個分に相当した
第1戦術地区/軍管区5個小区本部・38個支区本部・1個特別区本部(クァンダ特別区)7個ĐPQ群・53個ĐPQ大隊・その他独立ĐPQ中隊/NQ小隊多数兵力約75,000名
1. クアンチ小区
計3支区・7個ĐPQ大隊/後に第913ĐPQ群を編成
2. トィアティエン小区(フエ市)
計10支区・12個ĐPQ大隊/後に第914ĐPQ群を編成
3. クアンナム小区
計9支区・14個ĐPQ大隊/後に第911ĐPQ群・第915ĐPQ群を編成
4. クアンティン小区
計6支区・8個ĐPQ大隊/後に第916ĐPQ群を編成
5. クアンガイ小区
計10支区・12個ĐPQ大隊/後に第912ĐPQ群・第917ĐPQ群を編成
6. ダナン市
第2戦術地区/軍管区12個小区本部・60個支区本部・1個特別区本部(カムラン特別区)81個ĐPQ大隊・その他独立ĐPQ中隊/NQ小隊多数
1. ビンディン小区(クイニョン市)
計11支区・18個ĐPQ大隊・12個独立ĐPQ中隊・620個NQ小隊/
後にトゥドゥック歩兵学校71年4期生により以下の2個ĐPQ群を編成
第921ĐPQ群(第215ĐPQ大隊・第216ĐPQ大隊・第215ĐPQ大隊・第234ĐPQ大隊)
第927ĐPQ群(第209ĐPQ大隊・第217ĐPQ大隊・第218ĐPQ大隊・第234ĐPQ大隊)
3個独立ĐPQ大隊(第201ĐPQ大隊・第207ĐPQ大隊・第263ĐPQ大隊)
1個独立偵察中隊(第108偵察ĐPQ中隊)
2. フーイェン小区
計6支区・7個ĐPQ大隊/後に第924ĐPQ群を編成
3. カンホア(ニャチャン市およびカムラン市)小区
計6支区
4. ニントゥアン小区
計5支区・3個ĐPQ大隊
第129ĐPQ中隊 - チャンビンニア村
第215ĐPQ大隊 - タンホー
第273ĐPQ大隊
第280ĐPQ大隊 - タンソイ
第373ĐPQ大隊 - タンロン・ソンファ
5. ビントゥアン小区
計8支区・8個ĐPQ大隊/後に第925ĐPQ群を編成
第202ĐPQ大隊
第249ĐPQ大隊
第275ĐPQ大隊
6. フーボン小区
計3支区・4個ĐPQ大隊・10個独立ĐPQ中隊・30個NQ小隊
7. トゥエンドゥック小区(ダラット市)
計3支区
8. ラムドン小区計2支区
9. コントゥン小区
計5支区
10. プレイク小区
計3支区・9個ĐPQ大隊・2個独立ĐPQ中隊
11. ダクラク小区(バンメトート市)
計5支区・6個ĐPQ大隊/後に第918ĐPQ群・第924ĐPQ群を編成
第924ĐPQ群(第612ĐPQ中隊・第204ĐPQ大隊・第2224ĐPQ大隊・第233ĐPQ大隊)
12. クァンドゥック小区
計3支区・4個ĐPQ大隊
第3戦術地区/軍管区11個小区本部・53個支区本部・2個特別区本部(ズンサット特別区・ブンタウ特別区)75個ĐPQ大隊・その他独立ĐPQ中隊/NQ小隊多数
1. ビントゥイ小区
計3支区・4個ĐPQ大隊・9個独立ĐPQ中隊3個ĐPQ群(各3個中隊)が1972年初頭ĐPQ大隊に改編1975年1月にフォクロン小区が陥落するとフォクロンの第341ĐPQ大隊はビントゥイ小区で再編成される。※第341ĐPQ大隊の人員はもともと第1軍管区クアンチ省出身で、1972年の"クアンチの戦い"の際に難民として南部に避難した人々第344ĐPQ大隊 - ホァイドゥック地区(ボーダット)
第369ĐPQ大隊 - 国号1号線・第5基地(ロンカン)、第15基地(ビントゥアン)第370ĐPQ大隊 - ビントゥイおよびビントゥイ小区本部第341ĐPQ大隊第512偵察ĐPQ中隊第513偵察ĐPQ中隊その他8個独立ĐPQ中隊タンリン支区: 第700独立ĐPQ中隊、第710独立ĐPQ中隊、第720独立ĐPQ中隊、第878独立ĐPQ中隊ハムタン支区: 第514独立ĐPQ中隊、他1個独立ĐPQ中隊
2. フゥックトゥイ小区(ブンタウ市)計5支区・6個ĐPQ大隊
3. ザーディン小区(首都サイゴンおよびコンソン島)計8支区・9個ĐPQ大隊クアンスェン支区、カンゾウ支区が属するズンサット特別区に3個ĐPQ大隊・4個独立ĐPQ中隊
4.ロンカン小区計3支区・4個ĐPQ大隊・3個独立ĐPQ中隊
5. ビエンホア小区計6支区・13個ĐPQ大隊(6675名)・12個独立ĐPQ中隊・133個NQ小隊(2979名)
6. ロンアン小区計7支区・12個ĐPQ大隊・5個独立ĐPQ中隊・192個NQ小隊
7. ビンズゥン小区計6支区・8個ĐPQ大隊/後に第935ĐPQ群を編成
8. ハウニア小区計4支区・5個ĐPQ大隊
9. フックロン小区計4支区・4個ĐPQ大隊・48個NQ小隊
10. ビンロン小区計2支区・2個ĐPQ大隊
11. タイニン小区計5支区・8個ĐPQ大隊
第4戦術地区/軍管区16個小区本部・92個支区本部・1個特別区本部(フーコック特別区)17個ĐPQ群・144個ĐPQ大隊・125個独立ĐPQ中隊・NQ小隊1000個以上兵力約115,000名
1. ゴーコン小区計4支区
2. キェンホア小区計9支区・14個ĐPQ大隊(第401ĐPQ大隊・他)
3. ヴィンビンン小区計7支区
4. バースェン小区計5支区/後に第953ĐPQ群を編成ロンフー支区: 第486ĐPQ大隊
5. バクリュウ小区計4支区・ĐPQ / NQ兵士13000名
6. アンスェン小区計6支区・7個ĐPQ大隊第412ĐPQ大隊"Cá Hóa Long"第446ĐPQ大隊"Thần Hổ 446"第490ĐPQ大隊"Mãnh Hổ"第491ĐPQ大隊"Mãnh Sư"第492ĐPQ大隊"Thần Điểu"第536ĐPQ大隊"Hắc Báo"第537ĐPQ大隊"Bạch Phụng"
7. ディントゥン小区(ミトー市)計8支区
8. ビンロン小区計7支区・11個ĐPQ大隊/後に3個ĐPQ群を編成
9. フォンズィン小区(カントー市)計6支区
10. シュンティエン小区計6支区
11. サデク小区計4支区
12. アンザン小区
計4支区・6個ĐPQ大隊・5個独立ĐPQ中隊/後に第954ĐPQ群を編成
13. キェントゥン小区計4支区
14. キェンフォン小区計5支区
15. チョウドック小区計5支区
16. キェンザン小区(ザックザー市)計7支区
以上がGĐMĐVNに掲載されていた地方軍の構成です。支区・ĐPQ大隊の数を把握できたのは嬉しいですが、それぞれの小区内の構成についてはまだまだ不明な部分が多く、その全貌はつかめていません。NQ小隊は多すぎるにしても、せめてĐPQ大隊くらいは全てリスト化したいので、引き続き情報収集を行っていきます。
おまけ: 軍籍番号 (Số Quân)について
最近、長年謎だったベトナム共和国軍軍人が入隊時に取得する軍籍・軍人番号の規則性について進展がありました。
また他の人の意見では、先頭二桁は兵役地区番号ではないかという説も耳にしました。数字に一桁代が見られない(数十以上)なのは、フランス連合時代にベトナム北部から順に地区番号がふられたため、ジュネーヴ協定後は南部の(数字の大きい)番号しか残らなかったためだと考えられるそうです。しかしこれも、不自然な番号や文字が用いられる場合があり、根拠が不足していました。
その後、元共和国軍人の方から「先頭二桁は生まれた年に20を足した数だ」と教えてもらいました。しかしこれも、軍人身分証をいくつも確認していくとそれに当てはまらないパターン、つまり先頭2桁が身分証に記載されている生年下二桁+20にならないパターンも多くある事が分かり暗礁に乗り上げました。

ところが先日、別のベテランの人から決定的な情報を教えて頂く事が出来ました。
・正規兵(陸海空軍)は生年下二桁+20 例)1951年生まれ=71
・非正規兵(ĐPQ-NQ)は生年下二桁そのまま 例)1951年生まれ=51
なるほど~!確かに言われてみれば、上記以外の軍人身分証を確認してみても、+20になっていないのはĐPQやNQ所属者(階級の横にĐPQもしくはNQと書いてある)だけでした。ただしNQだけは、生年が入る場合と"NQ"という文字が入る場合の2パターンがあるようです。
また正規兵の番号には、単に生年下二桁+20の場合と、生年下二桁+20に"A"というアルファベットが追加される場合があります。今確認できている限りでは、Aが付くのは海軍軍人のみとなっています。しかしなぜ海軍のみAが付くのか、なぜ空軍や海兵隊には何もつかないのかは全く分かりません。今後も調べて行こうと思います。

1974年1月、西沙諸島をめぐる中国海軍との武力衝突"ホンサ海戦"において戦死したベトナム海軍軍人のリスト
(海軍艦隊司令部 1974年3月2日作成の文書より)
2016年08月28日
地方軍ベレー
※2024年9月21日更新
実在した事は確かなんだけど、当時の写真を見る限りほとんど使われてなかったっぽい超不人気ベレーについて。







実在した事は確かなんだけど、当時の写真を見る限りほとんど使われてなかったっぽい超不人気ベレーについて。

▲地方軍・義軍部隊章

▲地方軍ベレー章
以下、着用が確認できる数少ない写真。

▲内務省保安隊司令官・初代地方軍司令官ズン・ゴック・ラム少将 [1964年3月ベトナム]
この写真の時点では保安隊は内務省が管轄する民兵組織だったが、同年5月に組織が国防省に移管され『地方軍 (ĐPQ)』として再編される。

▲地方軍の軍楽隊 [1960年代ベトナム]
地方軍ベレーは基本青色ですが、この写真の指揮官は陸軍一般将兵と同じく黒色のベレーに地方軍のベレー章を付けているように見えます。

▲アメリカ軍MACV地方軍付きアドバイザー [1970年サイゴン]
カナダのドキュメンタリー番組『SAD SONG OF YELLOW SKIN』より

▲米国在住地方軍ベテラン [2015年アメリカ サンノゼ]
去年行ったカリフォルニアの傷痍軍人チャリティーコンサートに参加されていたベテランの方です。
僕が確認している着用例は以上です。地方軍・義軍と言えば最終的に55万人もの兵力を有し、ベトナム共和国軍の総兵力の半数を占める巨大な組織であったのにも関わらず、不思議なことにこのベレー帽の着用例は数えるほどしか見受けられません。もちろん、僕も実物をこの目で見た事はありません。なぜこんなにも使われた数が少ないのでしょうか?
僕は、その理由は単純に『人気が無かったから』だと思っています。まず、独自のベレー帽が制定されているエリート部隊(空挺やレンジャーなど)では、そのベレーを被る事は将兵にとってステータスであり、礼装時も制帽として着用されました。ただし、当時のベトナム共和国軍では多くの部隊でベレー帽は官給品ではなく自費購入品だったそうです。なのでエリート部隊以外の陸軍一般部隊にもベレー帽は制定されていましたが、こちらはあくまで略帽の一種であり、兵科毎の違いもなく、制帽の代わりにはなりませんでした。その為、そんな物をわざわざ自費で購入する兵士は少なく、せいぜい経済的に余裕のある士官・下士官がオシャレとして被る程度でした。
一方、地方軍・義軍には陸軍一般部隊とは別の青いベレー帽が制定されていましたが、これはエリート部隊のようなステータスとは見做されませんでした。なぜなら地方軍・義軍は元々民兵組織であり、陸軍一般部隊よりも格下の補助部隊であるため、ベレーが何色であろうと決してエリートではなかったからです。従って、陸軍一般部隊よりもさらに給料の安い地方軍・義軍の兵士が、わざわざ格下部隊を示す地方軍ベレーを購入する事はほとんど無かった、というのが着用例が極端に少ない原因だと考えています。
しかし、地方軍ベレーが不人気であり続けた一方で、実は地方軍将校の中には地方軍ベレー以外を購入して着用する者が数多くいました。彼らが着用したのが、オリーブ色または黒色の陸軍一般部隊将校ベレーです。むしろベレーを被っている地方軍将校のほとんどが一般部隊ベレーを着用していたので、僕も最近まで、地方軍も陸軍と同じベレーが制定されているのだと誤解していたほどです。

▲アメリカ海兵隊員にベトナム語の講習を行う義軍将校 [1960年代後半ダナン]
アメリカ海兵隊司令部戦闘撮影課製作『Combined Action Program』より
地方軍と言えども、将校は正式な士官教育を修了した正真正銘の陸軍士官ですから、他の部隊から格下と見られたくなかったのでしょう。これは本来制定されているものとは別の被服を身に着けることになるので、正確には規定違反だったようですが、特に咎められることもなったようです。これについてはアメリカ在住の元地方軍PRUやNKTベテランの方々に僕が直接聞き取りを行い、「本当は違かったけど慣例として使ってたよ」と証言を頂いています。
以上、戦後のマニアどころか、当時の兵隊からも見向きもされなかった残念なベレーについてでした。
2016年04月06日
先週末
土曜日
プチ生活体験&撮影会: ベトナム共和国軍地方軍, 中部高原のどこか, 1968年
初の試みだったので全てが行き当たりばったりでしたが、課題の洗い出しもでき、次に繋がる経験が出来たと思います。
小雨が降ってて一日中寒かったけど、ラオス・カンボジア国境に接する高原地帯も気温が10℃くらいまで下がる事があるそうなので、これはこれでリアルな天候です。


日曜日
コスプレ: ベトナム軍装甲連隊兵士とフランス軍M24軽戦車, ハノイ, 1954年
今年は第一次インドシナ戦争期で。
ディエン・ビエン・フー行きを志願し、ハノイを発つ直前という感じで。
ディエン・ビエン・フー行きを志願し、ハノイを発つ直前という感じで。

2016年03月19日
地方軍・義軍の構成
※2024年9月21日更新






4月に、恐らく世界初のベトナム共和国軍の『地方軍(Địa Phương Quân)』をテーマとしたリエナクトメント・撮影会に参加させていただくので、今からお勉強して気分を盛り上げ中です。
地方軍、義軍、その他地方部隊については、元ベトナム共和国陸軍中将ニョ・クアン・チュウン氏が執筆、アメリカ陸軍戦史センターが編纂した第一級の資料『Indochina Monographs - Territorial Forces (1981)』がインターネット上で公開されていますので、今回はその中から、(英文を全部訳すのは面倒くさいので)組織図の部分を邦訳したものを作りました。
出典 Indochina Monographs - Territorial Forces (1981) (テキサス工科大学公式サイト内直リンク)
※2016年11月5日更新





こちらは別の資料から、ベトナム共和国軍の兵力の推移と内訳を示したものです。
地方軍は1964年の編成以降その兵力を急速に増やし、1971年には国軍全体の半数を占めるまでに至ったことが分かります。

写真:1960年代末~1970年代の地方軍兵士
2015年12月05日
12月ですね
※2024年9月21日更新



関東地方のラーメン二郎全店喫食完了
二郎を食い始めてから約7年。正直関東全域周れるとは思ってなかったけど、最近仕事で神奈川方面に行くことが多くなったお陰で達成できちゃいました。(閉店・長期休業の店舗を除く)
ラストは、昨日行った桜台駅前店。そんなに遠くないので過去二回トライしているんだけど、店の前まで行って、定休日や臨時休業で開いてないことに気付くという情けない失敗を繰り返してしまった因縁のお店でした。
それが昨日で一区切り付いて、ほっとしています。ごちそうさまでした!

全店制覇までは、残り5店舗。(休業中の立川店含む)
ここからは長い道のりになりそうです。
さすがにラーメンのみを目的に行ける距離ではないので、何かの用事でそっち方面に行く機会があれば多少無理してでも食べに行こうかな、といったところです。

新しい友達
先日Facebookで友達になった日本在住のベトナム人S君から、一度会って話しませんか?とメッセージが来たので会ってきました。
いろいろ脅迫を受けている身としては、正直本土から来たベトナム人に対しては警戒心を抱いてしまうので、人通りの多い池袋駅で待ち合わせ。相手が複数人いたらそのまま逃げるつもりでした。
しかし幸い、S君は一人で来てくれたし、テロリストでもなかったので良かったです(笑)
彼は(僕のコスプレ写真みて喜ぶくらいなので当然)現在のベトナム共産党政府に批判的な立場の若者ですが、民主派というよりは、純粋にベトナム共和国軍の戦史マニアって感じでした。
デニーズでお茶しながら色々話しましたが、僕がS君に「どこの出身?」と尋ねると、「メコンデルタの方の街。共和国軍の第7、第9、第21師団がいたあたり」と、細かい部隊の配置までスラスラでてきます。ワーオ!
さすがにベトナム語が読み放題なだけあって、僕なんかよりずぅ~と共和国軍の戦史や軍人の経歴に詳しいです。羨ましい。
また彼は日本で働くという夢を持ってサイゴンの大学で日本語を学び、大阪大学に留学し、現在は東京都内の会社に就職しているので、日本語ペラペラです。
なので、僕が共和国軍の事を勉強するためにベトナム語を頑張って訳してる事を知ると、「それなら私が日本語に訳しますよ!」と申し出てくれました。超ありがたいです。
さすがに翻訳したい文章を全て丸投げする気はありませんが、どうしても理解できない文については今後彼にお願いしようと思います。
ちなみにS君が一番好きな共和国軍人はニョ・クアン・チュウン (Ngô Quang Trưởng)中将。
「政治に進出して大物になった将軍は多いけど、純粋に軍人としての指揮能力ではチュウン将軍がベトナム戦争の中で最高だよ!」といたく尊敬してました。
【チュウン中将の経歴】
空挺旅団副指令(1964-1966)
第1歩兵師団長(1966-1970)
第Ⅳ軍団司令(1970-1972)
第Ⅰ軍団司令(1972-1975)
その一方で、彼は軍装に関しては素人なので、その分野では僕が先輩です。
せっかく池袋にいるので、S君に「この近くに有名な軍服屋があるよ」と伝えると、是非行ってみたいと言うので、そのまま二人でサムズさんにお邪魔してきました。
まさか日本で旧ベトナム共和国の国旗が販売されているとは思いもよらなかったようで、各種サイズの国旗のどれを買おうか目を輝かせながら選んでいました。
あと意外だったんですが、僕が「さすがに共和国の旗は無いだろうけど、今はアメリカの国旗くらいならベトナムでも売ってるんじゃん?」と訊いたところ、「いや、売ってるの見たことない」とS君は言ってました。
社会主義ベトナムは、今でこそ中国と揉めているふり(※)をしているためアメリカと協調する姿勢をとっていますが、それでもかつての敵国であるアメリカの国旗は、まだ一般人が買えるものではないようです。
だってアメリカを悪の帝国主義者って事にしておかないと、ホー・チ・ミン政権以来60年間続いている『坑米』やら『解放』やらのプロパガンダが全部嘘だったとバレちゃうから。
※いくら領土問題で国民感情が悪化しようが、実際にはベトナム経済の中国依存は深まる一方。ベトナム共産党は、国民の不満を外国に向けさせ、政府の求心力を維持するというテンプレ通りのガス抜きをしているだけで、上辺だけ中国と『対立しているふり』をしているに過ぎないと考えます。党幹部が中国関係の莫大な既得権益を手放す訳が無いし。
地方部隊の史料

いい資料み~けっ!アメリカ陸軍戦史センター編纂の、ベトナム共和国軍地方部隊に関する資料(1981年)です。
地方軍(DPQ)、義軍(NQ)、人民自衛団(NDTV)、農村振興委員団(XDNT)など地域ごとに組織された部隊の詳細な記録が盛り沢山。
これ一冊で洋書数万円分以上の価値があるとおもいます。(文字だけで、写真は無いけど)
それがなんと、アメリカのテキサス工科大学のサイトで公開されてました。
PDFは5つに分かれているので、以下ファイル直リンク
しかも執筆者は偶然にも、先に挙げたニョ・クアン・チュウン中将その人。アメリカに亡命した後、米軍の戦史編纂に参加したようです。
同様にNKT副指令だったニョ・ディ・リン大佐も、戦後アメリカ国防総省に非常勤翻訳者として務めていましたね。
戦史センターのように資料の分析・編纂・保管までを一連の任務と捉えるのなら、ベトナム戦争という20世紀後半最大の戦争の戦後処理は1980年代になっても継続していた、と言えるのかも知れません。
ド・カオ・チ将軍の音声付動画
S君のお気に入りがチュウン中将なら、僕のフェイバリットコマンダーはド・カオ・チ中将!
音声の無い動画なら確認していたのですが、ようやく肉声を聞く事ができました。
しかも撮影は1970年4月30日。まさに一連のカンプチア作戦『トアンタン42(Toàn Thắng 42)』が始まった日のインタビューです。
チ中将は第Ⅲ軍団司令としてこのカンプチア作戦を指揮し、ニクソンをして”ベトナム戦争で最も成功した軍事作戦”と言わしめる大戦果をあげました。
しかし翌1971年のラオス作戦『ラムソン719』(第Ⅰ軍団司令ホアン・スァン・ラム中将指揮)において、チ中将は戦場をヘリで上空から視察していたところを対空砲の餌食となり墜落、死亡します。(死後大将に昇進)
第一次インドシナ戦争では空挺将校としてグエン・カイン(後のベトナム共和国国長)の下で死線を潜り抜け、戦後は謀反の疑いでジエム総統一派に拘束された将軍達を助けるため、独立宮殿に「今から部隊を率いてお前らを殺しに行く」と電話して将軍達を解放させたりと、色々伝説を残している人なだけに、あまりにあっけない最期でした・・・
2014年05月16日
クリパス速報
いっこうにアップロードするフィルムの質と量に衰えを知らないYoutubeチャンネルCriticalPast(以下クリパス)。
ホントありがたいことにほぼ毎日新しいフィルムを十数本アップロードしているので、ボヤボヤしてると良い映像を見逃してしまいそう。だから毎日のチェックが欠かせません。
別に、あとから検索すれば良いんですが、あまりにしょっちゅう見ているので、アップされてから最初の再生が僕ということが多くなってきて、なんかクセになってきました。
恐らく撮影した米軍関係者と、クリパスの担当者以外はまだ誰も見た事の無い映像なので、それを世界で最初に見れるのが楽しくてたまらないのです。
海軍司令官チャン・バン・チョン副提督(海軍准将) 1969年11月20日
1966年から1974年まで南ベトナム海軍司令官を務めたチャン・バン・チョン副提督(当時)の動画!今流行の「提督」です!
「なんで海軍司令なのに"副"提督で"准将"なの?」って感じですが、実は南ベトナム海軍では"提督"は役職や称号ではなく、階級の名称でした。
まず、1964年以前の南ベトナム海軍の将官は、中国の伝統的な称号を継承して"都督(Đô đốc)"という階級であり、陸軍・空軍の将官には以下のように対応していました。
准将:なし
少将:準都督(Chuẩn Đô đốc)
中将:副都督(Phó Đô đốc)
大将:都督(Đô đốc)
1964年、この中の準都督(海軍少将)が"提督(Đề đốc)"に改称され、さらに"副提督(Phó Đề đốc)"が准将(代将)として新設されます。
准将:副提督(Phó Đề đốc)
少将:提督(Đề đốc)
中将:副都督(Phó Đô đốc)
大将:都督(Đô đốc)
ただし、南ベトナム海軍の将官の階級は制度上は存在したものの、実際にはその階級を持つ将官は1967年まで存在しませんでした。
1955年のベトナム共和国海軍設立以来、海軍司令官は少佐から大佐が務めており、66年に就任したチャン・バン・チョンも当時大佐でした。
しかしチョンは翌年の1967年に史上初の副提督(准将)に昇進し、更に1971年には提督(少将)の位を得ました。
南ベトナム海軍で提督にまで上り詰めたのはこのチャン・バン・チョンと、チョンから海軍司令を引き継いだラム・ニュン・タンの二名のみです。
さらに提督の上位の副都督(中将)になったのは1975年に最後の海軍司令に就任したチョン・タン・カンのみで、在任期間も終戦までの1ヶ月間ほどでした。
そしてついに、海軍最高位の都督(大将)の階級を手にする者は一人も出ないまま、ベトナム共和国海軍はそのに歴史を閉じたのでした。
チョン提督は今もご健在(なはず)。
2011年にアメリカ・カリフォルニア州で開催された南ベトナム海軍士官候補生アソシエーションのイベントで講演された際の映像です。
地方軍カントー訓練基地(1967年5月6日)
先日も地方軍(DPQ)の訓練の様子を載せましたが、また新しい動画が出来ました。
徒手格闘訓練のキャプションには『空手』って書いてあるけど、韓国人インストラクターが教えているとも書いてあるので、正しくはテコンドーでしょう。
CIDGキャンプ・ストライク・フォース
軍服・ブーツの支給(1963年8月5日)
キャンプの設営(1963年8月7日)
ジャライ族中隊(1966年2月18日)
デガ村落への訪問医療支援(1966年2月19日)
こうした人道支援による地域住民との協力関係の維持は、国境地帯をベトコンから防衛するCIDG計画の肝であり、グリーンベレーおよびLLDBにとっては戦闘以上に重要な任務の一つでした。
11月1日パレード(1965年11月1日)
1963年11月1日に軍部がクーデターでゴ・ディン・ジェム政権を打倒した事を記念する軍事パレードの様子です。
軍旗の後、士官候補生よりも先に民族衣装を着たCIDG兵士が行進している事に注目!



男性だけでなく女性も居ますね。女性はCIDGと言うより、普通に人民自衛団(NDTV)という扱いだと思います。
FULROの反乱が起きた翌年という事で、少数民族の地位を認めることでなんとか反乱の火種を沈静化しようとする南ベトナム政府の気遣いと言うか苦心が見てとれます。
首相閣下wwww
多分この運転手はグエン・カイン派の残党が差し向けた刺客(笑)
Posted by 森泉大河 at
15:23
│Comments(3)
│【ベトナム共和国軍】│【インドシナ少数民族】│1954-1975│人物│DSCĐ/CIDG計画│HQ/海軍│ĐPQ-NQ/地方軍・義軍│デガ
2014年05月05日
地方軍
※2016年11月5日更新
※2024年1月28日更新
※2024年9月21日更新

地方軍(Địa Phương Quân / ĐPQ)とはベトナム共和国陸軍の地方部隊で、必要に応じて戦地に投入される精鋭の歩兵師団とは異なり、地方軍は比較的小規模な編成で部隊ごとに担当地域(行政区画)の防衛を担う守備部隊でした。その為歩兵師団のように専属の機甲部隊や砲兵部隊は持っておらず、後方部隊の一つという位置づけでした。しかし基地や橋、道路など敵に狙われやすい交通網・重要施設を護り、何より対ゲリラ戦に必要不可欠な地域住民との協力関係を維持していた地方軍は、"縁の下の力持ち"として10年以上ベトコンとの戦いを支え続けました。ベトコンがいかに地方軍の存在に悩まされていたかは、ベトコンが撒いた伝単(宣伝ビラ)に表れています。
“Ngàn hai bắt được thì tha.Chín trăm bắt được đem ra chặt đầu.”
(月給1200ドンの一般兵は捕虜にする。月給900ドンのお前ら(地方軍)はもれなく斬首する。)
地方部隊の始まり
地方軍の始まりは1955年に設立された『保安隊(Bảo an đoàn)』であった。保安隊はフランス連合時代(1949~1954年)に存在した3つの地方保安部隊、ベトナム北部を管轄する『保政隊(Bảo chính đoàn)』、南部の『義勇隊(Nghĩa dũng đoàn)』、中部の『越兵隊(Việt binh đoàn)』の組織をフランスから引継いで統合したもので、さらに1954年のベトミン政権(北ベトナム)成立によって始まった宗教弾圧から逃れ南ベトナムに移住したキリスト教徒の一部も加わった。保安隊は1955年から1964年まで軍ではなくベトナム共和国内務省 保安民衛局(Nha Bảo an Dân vệ)が所管しており、地方単位での治安・警備活動を任務とした。また保安民衛局はこの他に民兵組織『民衛隊(Dân vệ đoàn)』も所管していた。
保安民衛局の部隊(1963年フバイ空港)
地方軍創設
1964年5月、保安隊は内務省から国防省へ移管され、名称を『地方軍(Địa Phương Quân)』へ改めた。部隊構成も中隊(約100人)単位に再編成され、各DPQ中隊は小区(都市および近郊)または統括支区を担当した。更に1年後には民衛隊も国防省に移管されて『義軍(Nghĩa quân)』へと改称され、NQ中隊は支区またはコミューン(都市・集落)を担当した。これ以降、地方軍は民兵ではなく正式な陸軍部隊とされ、内務省保安民衛局は国防省『地方軍・義軍本部(Bộ Tư lệnh Địa phương quânn-Nghĩa quân)』へと改編。後に総参謀部直属の『地方軍・義軍中央司令部(Bộ Chỉ huy Trung ương Địa phương quân-Nghĩa quân)』へと発展した。
地方軍が他の陸軍部隊と最も異なる点は、人員がその地域を地元とする兵士で構成されており、地域に根ざした街ぐるみでの防諜・警備活動を目的とした点であった。また駐屯地には兵士の家族が住むキャンプ『家兵寮(Trại Gia Binh)』が併設されており、兵士は作戦が終わるとその足で家族の待つ家に帰る事が出来た。これはベトコンによるテロから兵士の家族を守り生活を保障する福利厚生であると同時に、住民を政府の管理下に置くことでベトコンに浸透する隙を与えないという、戦略村計画やCIDG計画と同じ対ゲリラ戦略であった。
また、地方軍の指揮官には他の主力部隊に匹敵する優れた指揮能力が要求されたため、中隊長や中隊参謀は訓練として空挺師団やBDQ(レンジャー)、TQLC(海兵隊)などのエリート部隊に出向して共産軍との戦いの実戦経験を積んだ。そのため小規模なNQ小隊であっても主力部隊と同様に戦闘をこなす事ができた。
※地方軍・義軍はまとめて"DPQ"と称される事が多いため、本記事でもそれに倣って"地方軍"と書いています。個別に部隊を指す場合はDPQ、NQの略称を使っています。
※英語訳ではDPQはRF(Regional Forces)、NQはPF(Popular Forces)と表記されます。

規模の拡大
1968年から1972年にかけてDPQの規模は次第に拡大していき、全国で895個あったDPQ中隊は1823個中隊に、人員は13万2千人から30万1千人に膨れ上がった。1972年末、DPQ中隊は規模拡大に伴いDPQ大隊へと改編された。DPQ大隊は4つの戦闘中隊と指揮中隊の計5中隊で構成され、各中隊は小銃小隊3個と機関銃小隊1個の計4小隊(一小隊は10~30人)で構成された。また、DPQ内の偵察中隊は小区司令部3室(作戦室)の直接指揮下に置かれた。ただし軍の規定上中隊の定数は108人だが、実際に出撃する1個中隊の人数は約50人ほどであった。最終的に、各小区に駐屯する地方軍はグループ規模(連隊以上、旅団未満)に上り、第IV軍管区だけでDPQとNQ合わせて約20万人、全国では約55万人が地方軍に所属していた。これは軍全体の半数近くに及ぶ規模であった。
ただし砲兵など専門的な技能を持つ将校は配置されなかったため、作戦の際はその都度砲兵基地から砲兵士官に出向してもらい、無線で支援砲撃を要請してもらう必要があった。また航空支援を要請する際も、直接FAC(前線航空管制)機に指示することが出来ず、地方軍小区司令部を介して通信する必要があった。さらに移動手段は徒歩のみで、トラックやヘリなどの機械化も歩兵師団と比べると遅れていた。このように地方軍は規模は大きく増大したものの、それに人材・装備が追いついておらず、南ベトナム国内のマスコミはこの状況を"幽霊部隊"や"観賞用軍隊"、"のろまな亀"と酷評した。加えて地方軍は他の陸軍部隊に比べて給料が低いため十分に家族を養う事ができず、特にNQ部隊の兵士は給料以外にアメリカ政府からの食糧支援を受けていた。以下は当時の生活苦を風刺した文句。
“Dân Vệ Đoàn vì dân trừ bạo. Hai bao gạo một thùng dầu’’(義軍(NQ)は人々を護ります!米二袋と油一缶のために。)※当時のアメリカ政府による食糧支援は米一袋10kg、食用油一缶4ℓ
しかし、ベトナム戦争において地方軍の果たした役割は決して小さくは無かった。地方軍の制度が広がる以前は、特に地方の農民は都会から来た強権的な政府軍の態度に反感を持ちベトコンに協力しがちであった。だが地方軍はその地域で生まれ育った人間で構成されているため、身内として地域住民にも受け入れられた。実際にはベトコン側に付いていた農民の多くはベトコンによるテロ・報復を恐れて協力を強要されていただけであり、地方軍によって治安が行き届いたことで人々はベトコンから"解放"された。これによりベトコンは政府軍だけでなく、それまで支配下にあった民衆に対しても警戒せざるを得なくなった。ベトコンは常時行われているDPQ偵察中隊によるパトロールによって活動を制限された上に、迂闊に住民に接触すればすぐさま政府軍に通報され、圧倒的な戦力で掃討される事となった。こうして地方軍の存在は目論み通りベトコンのゲリラ戦法に対し大きな抑止力となった。
予備兵力化と苦難
1972年以降、共産軍の脅威はイースター攻勢を皮切りに北ベトナム正規軍による直接的な軍事侵攻に移っていった。地方軍はゲリラの浸透を阻止する警備部隊であるため歩兵師団のような総合的な戦闘能力は持っておらず、敵の大規模な攻撃に対処できる能力は無かった。地方軍は地域ごとに大隊もしくは中隊という編成で固定されており、歩兵師団や他の主力部隊のように連隊や旅団規模で各種兵科を交えた有機的な作戦を行う事ができなかった。しかし同時に、国内のベトコンも依然存在していた事から地域単位での編成を変えることも出来ず、人材・予算の面でもそれを改善する余裕は南ベトナム軍には無かった。にも拘らず、不足する戦力の足しとして地方軍は歩兵師団の予備兵力とされ、北ベトナム軍との戦闘に動員された。
そして北ベトナム軍の攻勢が一層激しくなる中で、南ベトナムは国土の多くを敵に奪われ、地方軍は守るべき故郷を失っていった。担当地域が陥落し、他の地域に撤退する事を強いられた地方軍将兵は1974年末から1975年初頭にかけて歩兵師団などに順次編入され、事実上予備兵力は完全に使い果たされてしまった。しかしそれでも戦争が終わることは無く、1975年4月30日の終戦までに更に多くの血が流されていった。
地方軍付きのアメリカ軍・オーストラリア軍軍事顧問
地域住民との連携が不可欠な地方軍では、政治戦総局(TCCTCT)が所管するボーイスカウトや婦人部隊と連携して市民との交流会がしばしば開催された。
地方軍の訓練の様子(Youtubeより)
「まさか」と言うか、「やはり」と言うか・・・。わんさか出てきましたよYoutubeに!すっばらすぃ~!鼻血ブーです!
『CriticalPast』さんマジありがとうございます。たぶん日本に5人くらいは居るであろう全国の地方軍マニアが今、泣いて喜んでいます!
ヴァンキエップ訓練センター 1970年2月10日
ヴァンキエップ訓練センター 1970年2月13日
訓練生全員がパステルリーフおよびブラウンリーフ迷彩のカバー付けてますよ。他のエリート部隊より支給率高いじゃん。どういうこと?
なにげヴァンキエップ訓練センターの職員の映像もスゲー貴重。
模擬戦闘訓練(展示) 1970年5月10日
模擬戦闘訓練(展示) 1970年5月11日
模擬戦闘訓練(展示) 1970年5月12日
A training film with simulated combat shows Republic of Vietnam RF/PF forces in live fire exercises.
DPQおよびNQのサブドュードパッチを確認。ありがたやありがたや。