2024年05月06日
浅羽佐喜太郎公紀念碑を訪問
このゴールデンウィークを利用して、ずっと前から行きたかったとある史跡を訪問してきました。
それは静岡県袋井市の常林寺境内にある浅羽佐喜太郎公紀念碑です。
何を隠そう、この碑を建立したのは、ベトナム史に名を残す独立運動家ファン・ボイ・チャウその人なのです。
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▲袋井ベトナム友好協会パンフレットより
ファン・ボイ・チャウは20世紀初頭にフランスからのベトナム独立を目指して活動した人物であり、ベトナム人の間では今も世代・地域を超えて尊敬される真の愛国者の一人です。
同じ革命家でもソ連・中国の威を借りてベトナム国民へのテロと虐殺で権力を握ったホー・チ・ミンとは大違いです。
そのファン・ボイ・チャウが約100年前の1918年に日本で建てた紀念碑を実際に訪れる事ができ、ベトナム近代史をかじる者として感無量です。
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その一方で、美談に水を差すようですが、この紀念碑はあくまでファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎という個人間での友情を語り継ぐものであり、それを「日本とベトナムの友情」などと国家レベルに拡大して宣伝されているのは気持ちの悪い事です。
そもそもフランスとの関係を優先してファン・ボイ・チャウの東遊運動を潰し、国に戻ればフランスによって投獄されると知りながらベトナム人留学生達を強制送還したのは日本です。
以前訪問した東京にあるチャン・ドン・フォンの墓は、その東遊運動の中で自殺したベトナム人留学生のものです。(ただしフォンの自殺は日本政府による学生強制送還開始より前)
またこの記念碑が作られらた二十数年後には、日本軍はベトナムを含むインドシナに進駐しますが、そこでも日本はフランスによる独立派への弾圧を容認し続けます。
日本が国としてベトナムの独立を支援した事なんて一度もありません。
(後にフランスが邪魔になったので日本の軍政下でベトナム帝国という傀儡政権を建てたけど、それをベトナムの独立と見なすベトナム人はほとんど居ません)
また過去記事『あるベトナム残留日本人と家族の漂泊』で書いたように、終戦後ベトミンに参加した日本人兵士の存在も、事ある毎に「日本とベトナムの友情」あるいは「日本によるアジア解放」の例として都合良く利用されていますね。彼らは皆、個人の意思で日本政府の命令に背いて非合法に軍を離脱した人なのに、それを「日本」という主語に置き換えるのはおかしいでしょう。
僕は数年前、国賓として来日したベトナム国家主席への抗議デモに参加しましたが、それも「日本が抗議した」って事になるのかな?ならんでしょう。
とは言え、そもそも友情とは個々の人間同士の間にのみ存在するものであり、国というスケールで見れば、他国にそこまで優しくしてやる必要は無いので、別に日本が特別薄情だと言っている訳ではありません。どの国も自国の利益を最優先するのは当然の事でしょう。
ただ、そういった冷徹な利害関係=ある意味正常な判断に基づく歴史を、わざわざ美談であるかのように粉飾して、「日本人は自己犠牲の精神でアジアを解放した」などと馬鹿げた宣伝に利用する輩の多さにぞっとします。
2024年01月16日
最近行った場所
日曜日にビクトリーショウに足を運んできました。
お目当てはこちらの展示。
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デスボランティアさんが所蔵する超貴重なコレクションの数々です。鼻血が出ちゃいます。
米国カリフォルニア州ウェストミンスターにはベトナム共和国軍史資料館という私設博物館があり、私は2回訪問しているのですが、迷彩服に限って言えば、こちらの展示の方が凄いです。
いや見に行って良かったぁ~
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また順番は前後しますが、最近、成田空港の隣にある航空科学博物館にも行ってきました。
なんとベルX-1(XS-1)1号機『グラマラス・グレニス』のコックピット部分の実物大レプリカが展示されており、中に入る事ができました。
館内にはゼロ戦のコックピットもあったけど、映画『ライトスタッフ』が好きな僕的にはX-1の方が燃える!
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僕は昔は飛行機と言えば軍用機しか興味ありませんでしたが、度々海外旅行で旅客機に乗るようになってから民間エアラインにも興味が湧いてきて、ここ数年はYoutubeで、エアライン系フライトシムのゆっくり実況をやっているe92m3s65b40agogoさんの動画を毎回見ています。
これで多少はエアラインのコックピットでどのようなやり取りが行われているか知識が得られたので、その上で航空科学博物館の展示を見れたのはとても良かったです。
2024年01月06日
新年と昔の写真
新年あけましておめでとうございます。
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そしてここ数日、正月休みを利用してパソコン内のデータを整理していたら、懐かしい写真が出てきました。
今年の正月は初詣に3回行ってきました。(いや初詣と言えるのは最初の1ヵ所だけか?)
まず大晦日の夜は、地元の氷川神社(我が家の氏神)で年超し・初詣。
そして元日の朝、いつものベトナム寺の陽暦節のお参り。
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しかしこの日の夕方、能登半島地震が起き、とんでもない新年のスタートとなってしまう。人間の暦など、自然には無関係か・・・。
最後に、三が日最終日に友人と高尾山薬王院をお参りしてきました。
そしてここ数日、正月休みを利用してパソコン内のデータを整理していたら、懐かしい写真が出てきました。
今から22年前、僕が中学3年の時の写真です。手に持ってるのは自衛隊の9mm拳銃。
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とある陸上自衛隊の駐屯地祭に一人で行った際、僕が警務隊の白パジェロを写ルンですで嬉しそうに撮っていたら、背広を着た警務隊の一団が「兄ちゃん、写真撮ってあげるよ」と声をかけてきました。
お言葉に甘えてカメラを渡すと、今度は一番年長のおっちゃんが、「これ持ちなよ」と、背広の下のホルスターからピストル(9mm拳銃)を取り出し、僕に手渡してきたのです。
本物の拳銃に触るのはこれが初めてだったので、とても興奮しました。
さすがに弾は入ってなかったと思いますが、展示用ですらない、実際に私服警備に使用中の拳銃を子供に持たせちゃうとは、今では考えられないいい加減もとい大らかな時代でした(笑)
2023年04月01日
桜の園
なんだか最近タイ関係の記事が続いていますが、今回もタイです。
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うちからそう遠くない距離に住んでいるので、今日は彼をピックアップして土浦駐屯地の観桜一般開放イベントへGO。
彼はタイで日本軍リエナクトや自衛隊コスプレしている人なので、土浦は持ってこいだと思った次第です。
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彼の一番好きな自衛隊の車両は60式自走106mm無反動砲だそうです。そんなタイ人いるのかよ。
初めて見る実物に大興奮で写真を撮りまくってました。
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ただ今回は、渋滞にハマって到着するのが遅くなり、昼食を食べていたら閉会時間が来てしまったため、旧軍の戦車や火砲のあるゾーンを案内できなかったのが心残り。
まぁ彼は数年日本に滞在するので、また来年来たいと思います。
土浦駐屯地の展示の後は、隣にある予科練平和記念館も見学。
予科練となると必然的に特攻の展示が多いので、正直僕は見ていて辛い(そして市ヶ谷の老害が始めた戦争を無知なガキに押し付けて死に追いやった当時の日本が大嫌い)のですが、日本海軍コスプレもしている彼には一度見てもらった方が良いので、展示内容を英語に通訳しながら一緒に見て周りました。
おまけ
今回彼からもらったタイ土産。
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タイのタバコ(Krobgthip)と、僕たっての希望で買ってきてもらったNanyangのスニーカー。
スニーカーは軍装コスプレで使うので、追って記事にしたいと思います。
2020年01月03日
2020年陽暦節
新年あけましておめでとうございます。
そして三が日最終日、こちらの初詣にも。
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今年も例年通り、日付が変わると同時に地元の氏神様をお参りし、お昼にいつものベトナム寺にも初詣に行ってきました。
お寺の公式チャンネル
東アジア・東南アジア全域で広く親しまれており、ベトナム語では「ムアサップ(Múa Sạp)」と呼ばれる、
リズムに合わせて竹の間をケンケンパする遊びを僕も友人とやってきました。
僕はこの遊び、たぶん保育園時代にやって以来です。
今年のテト(元旦節)は1月25日と早いから、あと3週間もすれば、またお正月が来るんですよね。
僕がこのお寺に初詣に来るようになって今年で8年目ですが、年々参拝者も増え、飾りも豪華になっていきますね。
でもこれは、手放しで喜べることではありません。
つい10年前まで、日本に住んでいるベトナム人のほとんどは、インドシナ難民として来日した1万人足らずでした。
ところが近年、日本政府は「人手不足だから(=日本人の給料上げる気はないだけ)」と、なりふりかまわず技能実習生という名目の出稼ぎ労働者を年間8万人呼び込み、留学生がバイト漬けになる事を最初から見込んで労働力確保のために留学ビザを発給しまくり、ついに在日ベトナム人の数は35万人を超えました。
日本という国は、もうベトナム人無しにはやっていけない国なっています。日本政府が、そうしてしまいました。
でもはたして日本社会は、ベトナムの事をどのくらい分かっているんでしょうかね。
僕は、たまにはベトナムの明るい面も見ておきたいので度々このお寺に参拝しておりますが、そうでもしないとマジで関わるのが嫌になるくらいベトナムには暗い面が沢山あります。
本当にベトナムを理解するのであれば、「ベトナムの人々は貧しくても心は豊か」などと言う日本人特有のアホな幻想を捨てて、60年以上続くベトナム共産党独裁政権の下で庶民から政府レベルまでモラル・道徳が荒廃した現在のベトナムの実態にもっと目を向けるべきだと考えます。
その辺は僕の別ブログ『ベトナムウォッチ』で記事にしていますので、是非ご高覧下さい。
そして三が日最終日、こちらの初詣にも。
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ラーメン二郎越谷店 ラーメン小「ニンニク、アブラ」で今年の二郎お食い初め。
2019年11月24日
カオダイ軍の歴史[草稿]
※2019年11月28日加筆訂正
以前、『カオダイ教と日本[1]』という記事を書いた後、その続きを書き溜めていたのですが、資料集めがなかなか進まず、しばらく放置している状態でした。しかし大まかな流れは把握できているし、このまま眠らせておいてももったいないので、まだ草稿の状態ではありますが、まとめて公開いたします。
カオダイ教団と松下光廣
カオダイ教はベトナムのタイニン省で1920年頃に誕生し、その後の20年間でコーチシナ(Nam Kỳ: サイゴンを中心とするベトナム南部)全域に急速に広がった。第二次大戦前までに信徒数は優に100万人を超えており、この新宗教の急速な勢力拡大に当時インドシナを支配していた仏領インドシナ植民地政府やフランス人は危機感を抱いた。またカオダイ教側もタイニン省にける宗教的自治を求めて次第に植民地政府と対立していった。
またカオダイ教団はこの時期、ベトナムで起業した日本人実業家 松下光廣(1896-1982)との関係を深めていった。熊本県天草出身の松下は1912年、若干15歳の若さでベトナムに移住し、現地の日系企業で勤めた後、1922年に貿易会社『大南公司』をハノイで創業した。その後大南公司は現地のベトナム人・ベトナム華僑と良好な関係を築き、さらにタイ、マレーシア、シンガポール、ビルマ等にも支店を持つ巨大商社へと成長していった。
また松下は成功した実業家であるのと同時に、長年に渡ってベトナムの独立運動を支援してきた人物でもあった。ベトナム民族主義運動の祖ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu, 1867-1940)と共にベトナム独立を志し、その活路を求めて日本に渡った阮朝の皇族クオン・デ(Cường Để, 1882-1950)は松下を盟友とし、松下はその財力を活かしてクオン・デが結成したベトナム復国同盟会(Việt Nam Phục quốc Đồng minh Hội)を資金面で支えていた。また松下は同じく抗仏運動を展開していたコーチシナの二大新宗教カオダイ教およびホアハオ教とも親しい関係を持っており、特にカオダイ教に対し非常に強い影響力を持っていた。
そのため植民地政府は松下を危険視し、松下が日本に一時帰国していた1937年に欠席裁判によって『禁錮8年または国外追放』の有罪判決を下したため、松下はその後3年間ベトナムに戻る事が出来ず、東京やタイ王国を移動しながら大南公司の経営を続けた。
日本軍インドシナ進駐
1939年、カオダイ教教皇ファム・コン・タク(Phạm Công Tắc, 1890-1959)は(おそらく松下から得た情報を基に)神からの啓示として、近く日本軍がベトナムに到来する事を予言し、カオダイ教団は来るべきフランスへの蜂起に備えてクオン・デのベトナム復国同盟会への支援を開始した。
同年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、インドシナを統治するフランスは1940年にドイツに敗北し、フランスの政権はドイツが擁立したヴィシー政府に取って代わられた。フランスが枢軸国陣営に組み入れられた事で、ドイツの同盟国日本は、米英ソによる中国への軍事支援輸送路『援蒋ルート』の遮断および資源奪取のため、1940年に北部仏印に進駐。さらに翌年には南部にも展開を進めインドシナ全域を掌握した。教皇の予言通り日本が仏印進駐を開始した事で、カオダイ教徒は日本軍を好意的に迎えた。
後の1941年12月に日本が米英蘭との戦争に突入すると、緒戦に相次いで勝利した日本軍は、連合国が支配していた東南アジア諸地域を次々と占領していった。『八紘一宇』を掲げる日本軍は、これら占領地で現地の独立運動指導者を取り込んで親日政権を擁立し、『西洋列強植民地支配からのアジア解放』という戦争の大義名分を実行していった。ただしこれらの『解放』は、実際には列強が作り上げた植民地経済・資源の利権構造を日本が掌握し、日本を中心とする経済ブロック『大東亜共栄圏』を構築するための戦略的政策であり、あくまで親日政権かつ日本の軍政下である事を前提とする事実上の保護国化であった。
一方、ベトナムを含む仏領インドシナへの対応は他のアジア占領地とは異なった。日本軍は1940~1941年に行った一連の進駐によってインドシナ全域を掌握しており、日本が必要とする経済的・軍事的な利益が十分に確保できていた事から、日本政府はドイツ・フランスとの関係に配慮してインドシナ諸国の独立運動への支援は行わず、「治安維持」の名目で引き続きフランス植民地政府に統治を委ねた。以後4年間、インドシナは植民地政府と日本軍による二重支配を受ける事となり、日本軍によってインドシナの支配が「公認」されたフランスのインドシナ総督ジャン・ドゥクー(Jean Decoux, 1884-1963)海軍大将は、独立勢力への締め付けをより一層強めた。
民衆の間では日本への失望と反感が高まり、戦前から抗仏闘争を行ってきたホー・チ・ミン率いるベトナム最大の民族主義組織ベトミン(ベトナム独立同盟会)は、日本を新たな侵略者と見做し、アメリカOSSなどによる軍事支援を受けながら日本軍へのゲリラ戦を展開していく。
一方、ベトミンのような大規模な武装集団を持たないクオン・デのベトナム復国同盟会は、植民地政府による取り締まりから逃れるため地下に潜伏せざるを得なかった。また植民地政府は1941年7月にタイニン省のカオダイ教団本部にフランス軍部隊を突入させ、教皇ファム・コン・タクをはじめとする5名のカオダイ教指導者を逮捕した。そして彼らカオダイ教幹部は1941年8月20日に南シナ海のコンソン島に流刑され、さらにその後仏領マダガスカルに移送された。
このような状況の中で、1940年の日本軍進駐によってベトナムに帰還を果たした松下は、彼ら非ベトミン系独立活動家への資金援助と連絡場所として、サイゴンの華人街チョロンに「レストラン ARISTO」を開業した。しかしこの活動はベトナムの独立運動を許さない日本政府の方針に反していたため、政府は松下がクオン・デを扇動して革命を起す事を危惧し、松下が日本に一時帰国すると彼の旅券を停止し、ベトナムに戻る事を禁じた。その後しばらくして、松下は日本軍に対し「現地の政治問題には関与しない」という誓約書を提出するとともに、松下の理解者である陸軍幹部の保証を得て、ようやくベトナムに帰還する事が出来た。
カオダイ教団と日本軍の接近
日本軍の進駐後もインドシナ植民地政府はカオダイ教団を弾圧し、日本政府もカオダイ教団に近い大南公司の松下光廣の帰国を妨害するなどしていた。しかしそのような状況にあっても、カオダイ教団は日本との連携を模索した。植民地政府による弾圧に立ち向かう術の無いカオダイ教徒が宗教的な自由を得るためには、新たな支配者である日本軍による庇護を受ける他に道は無かった。また日本軍側も150万人の信徒を抱えるカオダイ教団の組織力に着目し、有事の際にカオダイ教徒を利用するため教団に接近した。
この時カオダイ教団と日本軍の仲を取り持ったのが、双方とコネクションを持つ松下光廣と大南公司であった。東南アジア各地で多業種に渡ってビジネスを行っていた大南公司は、仏印進駐以降ベトナムに進出した日本の大手企業や日本軍とも大口契約を結び、終戦までに東南アジア各地に41の営業所、現地人従業員を含め約9,000人の社員を抱える大企業に成長していった。
進駐後、日本軍はベトナム南部の軍事拠点化を進めていたが、当時サイゴン周辺のフランス軍飛行場には600m級の小型滑走路しかなかったため、大本営は長距離雷爆撃機を離発着させるのに必要な1500m級滑走路を持つ飛行場を陸軍3カ所、海軍3カ所の計6か所新たに建設する計画を立てた。大南公司はそのうちの海軍飛行場の建設を1941年9月に大本営から受注した。
教皇ファム・コン・タクの追放後、カオダイ教団指導者の地位を継いだチャン・クァン・ヴィン (Trần Quang Vinh, 1897-1975)は日本軍との協力関係を築くため、松下の伝手でこの大南公司の日本海軍飛行場建設工事に、建設労働者として数百名のカオダイ教徒を派遣した。
カオダイ民兵創設と明号作戦
その後、日本本土では長期化する戦争によって働き盛りの成人男性の労働人口が著しく不足していたため、今度は日本国内の建設工事にも多数のカオダイ教徒を労働者として送り込む事となる。これを好機と見た教団指導者チャン・クァン・ヴィンは信徒と共に日本に渡り、1943年に東京でカオダイ教徒による抗仏民兵組織=後のカオダイ軍を発足させた。しかし当初日本側はインドシナ植民地政府との摩擦を避けるため、カオダイ民兵についてその存在は黙認するものの、直接的な支援は行わなかった。
しかしその後戦況が悪化すると、日本軍はインドシナ植民地政府およびインドシナ駐屯フランス軍が連合軍側に寝返る事を危惧し、武力で植民地政府を制圧・解体し、インドシナを日本の完全な支配下に置く『仏印処理』を計画した。そして1944年、日本軍はこの仏印処理に備えて、ベトナムの民族主義者や新宗教勢力を日本側の民兵として動員するため、彼らへの軍事支援を開始した。
この中で最大の民兵組織が東京に拠点を置いていたカオダイ民兵であり、日本軍憲兵隊によって本格的な軍事教練を施される事となる。後にフランス連合/ベトナム国軍カオダイ部隊の指揮官となるチン・ミン・テー(Trình Minh Thế)も、この時日本で憲兵隊によって訓練を受けたカオダイ民兵の一人であった。
第二次大戦末期の1945年3月、日本軍はついにインドシナ駐屯フランス軍の制圧およびインドシナ植民地政府の解体『明号作戦=仏印処理』を開始した。日本で訓練を受けていたカオダイ民兵も予定通りこの作戦に加わり、現地に住む数万人のカオダイ教徒を蜂起に参加させる事で、サイゴン北西部からメコンデルタにかけての広大な地域を掌握し、インドシナ植民地政府は完全に解体された。
この時、日本軍に協力したカオダイ教徒を含む多くのベトナム人、そして大南公司の松下などは、長年東京に滞在しながらベトナム帰参の機会を待っていたクオン・デが指導者として帰国し、ベトナム独立を導く事を期待していた。しかし明号作戦を立案・実行した日本陸軍第38軍は、民族主義者の強い支持を受けるクオン・デよりも、それまで植民地政府の下でフランスの傀儡を演じてきた保大帝(バオダイ)の方が、ベトナムを日本の統制下に置く上で有用であることから、日本軍はバオダイを皇帝とするベトナム帝国(Đế quốc Việt Nam)政府を擁立した。また同時に日本軍はクオン・デへの支持を打ち消すべく、「クオン・デ候は日本で日本人と結婚して家族を持ったたため、ベトナムに帰国する意思はない」という偽情報をベトナム各地に流布する情報操作工作を行ったため、多くのベトナム国民がクオン・デに失望し、以後クオン・デがベトナムに帰国する機会は二度と無かった。この日本軍による偽情報はその後も訂正される機会が無いまま、70年以上たった現在でもベトナム国内で事実として語られている。(「『クォン・デの家族』に関する誤解」参照)
一方、1944年後半から1945年前半にかけてトンキン(ベトナム北部)で発生した大規模な飢饉によって数十万から数百万人とも言われる大量の餓死者を出した事で、日本軍はベトナムの民衆から敵視されており、ベトミンはベトナム帝国を日本の傀儡政権と喧伝しながら、日本軍へのゲリラ戦を継続していく。
また日本軍に加えカオダイ教徒までもが蜂起し、フランス人を支配下に置いたという事実は、それまでインドシナの支配者として君臨していたフランス人にとって耐えがたい屈辱であり、フランス人のカオダイ教徒に対する憎しみは、その後フランス政府が公式にカオダイ教徒と和解をしてもなお、インドシナ在住フランス人の間に根強く残る事となる。
日本敗戦と八月革命
明号作戦から5か月後の1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して連合軍に降伏し、第二次世界大戦は終結する。ベトミンはこれを機にベトナム全土で一斉に蜂起し、日本軍の後ろ盾を失ったベトナム帝国政府を転覆させる事に成功した(ベトナム八月革命)。この時、フランス・日本という大国による支配が失われたことで、ベトナムの独立はついに達成されたかのように思われた。
しかし政治の実権を握ったベトミンが行ったのは、同じベトナム人への粛清であった。地主・資産家・政治家・軍人・公務員・カトリック信徒など革命前に体制側に属していた人々は、フランスや日本による植民地支配に協力した売国奴と見做され、ベトミンによる無秩序なリンチ・処刑がベトナム各地で頻発した。
また少数民族やカオダイ教、ホアハオ教といった少数派の新宗教も弾圧の対象となり、フランスからの解放を目指したカオダイ軍指導者チャン・クァン・ヴィンも日本軍に協力した容疑で1945年10月にベトミン政府の警察によって逮捕され、1946年1月に釈放されるまで拷問を受けたと伝えられている。
コーチシナ自治共和国
一方、日本の降伏後、ビルマで日本軍と戦っていたイギリス軍、インド軍およびフランス軍(当初は英軍指揮下の自由フランス軍コマンド部隊)は、インドシナ駐屯日本軍の武装解除を行うべく、1945年9月以降続々とベトナムに到着した。インドシナ植民地政府の解体は日本軍によって不法に行われたものであるというのが連合国の一致した見解であり、さらにフランスおよびイギリスは共産主義のベトミン政権も認められないという立場を取った。
すぐさまインドシナの再統治に乗り出したフランスはまず最初に、インドシナ経済の中心地であるコーチシナ(ベトナム南部)をベトミン政権から切り離すべく、イギリス、そして連合国の指揮下に下った在インドシナ日本軍と合同で、コーチシナにおけるベトミン勢力の掃討(マスターダム作戦)を行った。
そして1946年春、インドシナ問題の対応に当たったフランス政府高等弁務官兼インドシナ総督チェヒー・ダハジョンリューは、ベトミン政府の猛反発を無視してコーチシナ地方をベトミン政権から切り離し、フランスが直接管理する『コーチシナ自治共和国』として自治独立させる事を宣言した。
この際、フランス側はコーチシナの自治について後に住民投票を行う事を約束し、その選挙工作を開始する。そしてフランス側はこの時初めて、カオダイ教徒の囲い込みを試みた。当時カオダイ教徒はコーチシナ共和国領内の有権者の約10%を占めていた事に加え、何よりカオダイ教徒はつい1年前に行われた日本軍の明号作戦の際に植民地政府に対し一斉蜂起したばかりであり、百数十万人の信徒を抱えるカオダイ教団が死を覚悟した宗教的信念の下に反乱を起こす事の恐怖はフランス人の脳裏に深く刻まれていた。
フランス側はそれまで弾圧の対象としていたカオダイ教徒を懐柔するため、1946年5月に教皇ファム・コン・タクをマダガスカルから帰還させる事を決定した。しかし同時に、明号作戦の際に日本軍の指揮下でフランス軍を攻撃した当時のカオダイ教団指導者チャン・クァン・ヴィンは抗仏運動を無力化する為、フランスの官憲に逮捕された。
日本軍からの支援を失ったカオダイ民兵にフランスの支配を覆す戦力は無く、チャン・クァン・ヴィンはフランスに恭順して教団の存続を計るか、最後まで抵抗して百万人の信徒を道連れに死を選ぶかという非常に厳しい選択を迫られた。そしてチャン・クァン・ヴィンは釈放後の1946年6月9日、カオダイ教団の集会でフランスへの抵抗を放棄をする事を宣言し、カオダイ民兵の武装解除に応じた。その後1946年8月に帰国した教皇ファム・コン・タクも、否応なしにフランスとの講和を受け入れた。
一方、フランス側もカオダイ教徒に配慮し、ファム・コン・タクの顧問を務めていたレ・バン・ホアツを1946年11月26日にコーチシナ共和国大統領に任命した。しかしチャン・クァン・ヴィンは信徒たちを守るため降伏を決断したものの、フランスを信用した訳ではなく、フランスが擁立したコーチシナ新政権への不服を表明した。
同時期、フランス軍は1946年中にベトミン政権の首都ハノイにまで進駐し、ベトナムは事実上、再びフランスの支配下に戻った。こうして八月革命によってもたらされたつかの間の『独立』は終わりを迎えた。独立を待ち望んでいた多くのベトナム国民はこれに深く落胆したものの、同時に、ベトミンによって行われた一連の国民への暴力は、『民族解放』を口実に血の粛清と共産主義化を強行するベトミン、そしてホー・チ・ミンという人物の正体を明るみにし、特にベトミンによる被害を被った都市部の人々の間に、ベトコン(ベトナム人共産主義者)に対する強い憎しみも生じさせる結果となった。こうしてベトナム民族の悲願であった『独立』は新たなイデオロギーの対立を生み、以後30年間に渡って繰り返されるベトナム人同士の憎しみと殺戮の連鎖へと繋がっていく事となる。
なお日本軍は1940年の仏印進駐から終戦後のコーチシナ制圧まで終始、フランスと共にベトミンの制圧に当たってきたが、その一方で日本陸軍将兵の一部には、自国が行ってきた(「アジア解放」という建前に大きく矛盾する)政策に疑問を感じ、敵であるベトミン側に共感する者も居た。彼らは日本政府から正式な引き上げ命令を受けた後もそれを拒否して軍を離脱(脱走)し、軍事顧問として個人的にベトミンの闘争に加わった。ベトミンは彼ら元日本兵たちの指導を受けて1946年6月にクアンガイ陸軍中学を創設し、日本人教官に訓練されたベトミン(ベトナム人民軍)将校たちが、後の第一次インドシナ戦争やベトナム戦争を戦っていく事となる。
フランス連合軍カオダイ部隊
フランスの恫喝によってやむを得ず抗仏運動を停止したカオダイ教団であったが、1946年9月になると、今度はコーチシナに潜伏していたベトミン・ゲリラが、フランスに恭順したカオダイ教徒に対し激しいテロ攻撃を始めた。これを受けて教皇ファム・コン・タクはカオダイ教徒を守るため、むしろ積極的にフランスに協力する姿勢に転向する。
同時期、インドシナに派遣されたフランス軍は深刻な人員不足に陥っていた。この中でフランス軍はその戦力を補うため、ベトミンからの迫害に晒されていたベトナム人や少数民族、宗教組織を武装化し、植民地軍に組み込んでいく。そして1947年、フランス軍はかつて日本軍によって武装化されたカオダイ民兵を復活させ、新たに『カオダイ部隊(Troupes Caodaïstes)』としてフランス連合軍の一部とした。タイニン省で組織されたカオダイ部隊はフランス植民地軍の指揮下でベトナム南部におけるベトミンとの戦いに投入される。宗教による強い結束を持つカオダイ部隊は各地で大きな戦果を挙げ、その活躍が続いた事から、カオダイ教団自体もベトナム国内でカトリックと双璧を成す一大勢力へと成長していく。
フランス軍幹部とカオダイ教団幹部(カオダイ教団本部にて)
教皇ファム・コン・タクの他、カオダイ部隊指揮官としてフランス連合軍の将官となったチャン・クァン・ヴィンの姿も見える
フランス連合カオダイ部隊兵士 1950年タイニン
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カオダイ部隊の制服用肩章と部隊章
ジエム政権による粛清
しかし1954年のディエン・ビエン・フー陥落を機にフランスは北緯17度線以北のベトナム領をベトミンが支配する事(ベトナム民主共和国=北ベトナムの成立)を認め、第一次インドシナ戦争は終結する。一方、カオダイ教徒が住む南ベトナムは引き続きバオダイを首班とするベトナム国政府が統治する事となった。しかしカオダイ教徒の苦難はそこで終わらなかった。
1955年2月13日、フランス軍の撤退に伴い、カオダイ部隊は正式にベトナム国軍に編入され、カオダイ部隊司令官チン・ミン・テー准将は国軍の将官の地位を得た。しかしその3か月後の5月3日、チン・ミン・テー准将は自動車で移動中、何者かに狙撃され死亡する。この暗殺事件は未解決のままだが、カオダイ教徒と対立したフランス人や、カオダイ勢力の拡大を恐れるゴ・ディン・ジエム首相らベトナム国政府高官が関与した可能性が指摘されている。
その後、1955年10月に、当時ベトナム国首相だったゴ・ディン・ジエムはフランスに従属するバオダイを見限り、同時にアメリカを自分の新たなパトロンとして利用すべく、米国CIAの協力を得てバオダイを追放する無血クーデターを断行する。アメリカの後ろ盾を得て独裁的な権力を得たジエムは、自身が信仰するカトリックを政治の中心に据え、同時に他の全ての宗教勢力を排除する政策を開始した。
特にフランス軍によって武装化されていたカオダイ教やホアハオ教、そしてビンスェン団は反政府武装勢力として危険視され、政府軍(ベトナム共和国軍)による掃討・武装解除が開始された。政府軍はカオダイ教の聖地タイニン省にも進攻し、圧倒的な戦力でカオダイ部隊を武装解除し、その組織を解体した。
これによってカオダイ部隊兵士たちの多くは、ジエム政権に恭順して政府軍に編入されるか、或いは政府と戦うためそれまで敵だったベトミン・ゲリラ側に転向したが、それ以外のおよそ5千~6千名のカオダイ兵士はどちらにも付かず、政府への抵抗勢力として国内に潜伏する道を選ぶ。これに対してジエム政権は、1956年から58年にかけて約3400名のカオダイ教徒を逮捕・投獄するなどして、カオダイ部隊の残党狩りを続けていった。
アメリカの介入とサイゴン政府との和解
こうしてカオダイ教徒はジエム政権からも弾圧の対象とされてしまったが、1961年に新たな転機が訪れる。それはアメリカ軍とCIAが開始した『CIDG計画』だった。ジエム政権・ベトコン双方から迫害を受けるカオダイ教徒は、同じく迫害を受ける少数民族たちと同様に、ジエムの政府に下ることなくアメリカの保護下で自治と自衛を図るべく、進んでアメリカ軍特殊部隊の指揮下に加わって行った。こうして、かつて日本軍、フランス軍によって支援されたカオダイ教武装組織は、新たにアメリカ軍によってCIDG(民事戦闘団)という形で復活を遂げる。
さらに1963年11月には、CIAによる支援を受けた政府軍幹部によるクーデターでジエム政権が崩壊した事で、政府とカオダイ教の対立は和らぎ、政府と同じくベトコンとの戦いに臨むカオダイ教は、ある程度の市民権を得るに至る。さらに翌1964年には、かつてのカオダイ部隊司令官チャン・クァン・ヴィンがベトナム共和国軍の将校としての地位を得るなど、元カオダイ部隊将校が政府軍に再登用され、政府とカオダイ教団の和解はついに達成される。なお、ヴィン将軍は2年後の1966年に軍務を辞し、カオダイ教をアフリカに布教すべくコンゴ共和国に移住した。
その後もCIDGや政府軍所属のカオダイ教徒軍人の躍進は続き、カオダイ教は再びベトナムにおける一大勢力の地位に返り咲くこととなる。さらに米国CIA主導のベトコン組織破壊工作『フェニックス・プログラム』が開始されると、タイニン省では主にカオダイ教徒兵で構成されたPRU(省探察隊)が組織され、1970年頃までに省内のベトコン組織をほぼ完全に壊滅させる事に成功した。(過去記事「フェニックス・プログラムとPRU」参照)
サイゴン陥落後
1975年4月30日にサイゴンが陥落し、30年間続いた共産主義革命戦争が終結すると、戦争に勝利したハノイ政権は、直ちにカオダイ教徒を含む膨大な人数のサイゴン政府関係者への粛清を開始した。
かつてのカオダイ教指導者チャン・クァン・ヴィンはアフリカでのカオダイ教布教活動の後ベトナムに帰国していたが、1975年にサイゴンが陥落すると共産政権に逮捕され、以後消息は不明である。
タイニンPRUはベトコン組織破壊への貢献度が高かった分、戦後隊員のほとんどが逮捕、処刑された。ただし若干の生存者は国外脱出したか、あるいはカンボジア国境地帯のジャングルに潜伏し、1990年代まで共産党政権へのゲリラ戦を継続したという。
しかし全体としては、第二次大戦からベトナム戦争終結までの間にベトミン・ベトコン勢力と戦ったカオダイ軍幹部のほとんどは粛清され、教団としての武装闘争は1975年のサイゴン陥落を境に終焉を迎えた。その後40年間、カオダイ教団はハノイ政府の厳重な統制下に置かれており、1975年以前の武装闘争について語る事は教団内でもタブー視されている。現在、カオダイ教徒はベトナム国内だけでおよそ250万人もいるが、かつて教団が日本・フランス・アメリカの支援を受けて共産主義勢力(つまり現ベトナム政府)と戦った事について知っている者はほとんど居らず、難民として海外に脱出したごく一部のカオダイ教徒だけが、その歴史の語り部となっている。
一方、第二次大戦前から戦中にかけてカオダイ教団と深く関わった松下光廣は、1945年の日本の敗戦・八月革命によってベトミン政権に全財産を没収されたが、その後サイゴンに大南公司を復活させ、ベトナム戦争終結後の1976年まで南ベトナムで事業を続けた。この間、松下はベトナム(南ベトナム)と日本政府間による戦後賠償交渉の仲介役となり、日本からの無償援助で建設されたダニム・ダム(水力発電所)建設プロジェクトを主導する傍ら、戦争孤児院を運営するなど、ベトナム国民への奉仕を続けた。また、サイゴンに住む日本人互助会『寿会』を主宰し、在ベトナム日本人への支援も行っていた。その中には、かつて日本軍を脱走してベトミンに参加しフランスと戦ったものの、ホー・チ・ミンによる内部粛清や国民へのテロ・虐殺を目の当たりにしてベトミンに失望し、南ベトナムに避難した元ベトミン軍顧問の日本人兵士も含まれる。(過去記事「あるベトナム残留日本人と家族の漂泊」参照)
しかし1976年に南ベトナムが北ベトナムのベトナム共産党政権に併合されると、共産主義に則り南ベトナム国内のすべての企業が解体・国有化された。大南公司も例外ではなく、松下は再び共産主義政権に全財産を没収された。その後、ハノイ政府は1978年にすべての外国人の国外追放を決定し、松下は日本に強制送還された。ただしその後も松下は、1982年に亡くなる直前まで、何らかのルートでベトナムに再度入国していた事が判明している。
松下は戦前からクォン・デのベトナム復国同盟会への支援に尽力し、フランスや日本、ベトミン、ベトコン勢力による妨害に遭いながらも、身の危険を顧みずベトナムの独立と発展を支援し続けた人物であった。と同時に、中国・ソ連の支援を受けながらベトナム国民へのテロ、恐怖政治を行うホー・チ・ミンら共産主義勢力の蛮行を現地で見てきた松下は、彼らをベトナム民族解放の志士とは見ておらず、むしろ「共産分子のテロ」と強い言葉で非難している。
[参考文献]
平田豊弘 (2011) 「松下光廣と大南公司」, 『周縁の文化交渉学シリーズ4 『磁器流通と西海地域』』 p.115-122, 関西大学文化交渉学教育研究拠点, <https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/5888/1/12_hirata.pdf>2018年4月15日アクセス
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Chizuru Namba (2012) 『Français et Japonais en Indochine (1940-1945): Colonisation, propagande et rivalité culturelle』 KARTHALA
Dr Sergei Blagov 「Armée De Caodai」, 『Caodaisme』, <http://caodaisu.tn.free.fr/cultue/0,,703,00.html>2018年4月15日アクセス
Shawn McHale 「Cochinchina – a failed revolution?」, 『End of Empire - 100 days in 1945』, <http://www.endofempire.asia/0825-cochinchina-a-failed-revolution-3/>2018年4月15日アクセス
松下光廣翁の足跡を辿る会 (2012) 「記念講演会開催のご報告墓参」, <http://matsushitamitsuhiro.kataranna.com/e3246.html>2018年4月15日アクセス
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Mémoires d'Indochine (2013) 「HỒI KÝ TRẦN QUANG VINH – MÉMOIRES DE TRAN QUANG VINH [1946]」, <https://indomemoires.hypotheses.org/8301>2018年4月15日アクセス
ORDRE DE LA LIBÉRATION 「GEORGES THIERRY D'ARGENLIEU」, <http://www.ordredelaliberation.fr/fr/les-compagnons/946/georges-thierry-d-argenlieu>2018年4月15日アクセス
The Tay Ninh Provincial Reconnaissance Unit and Its Role in the Phoenix Program, 1969-70, Colonel Andrew R. Finlayson, USMC (Ret.), <https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/csi-studies/studies/vol51no2/a-retrospective-on-counterinsurgency-operations.html>2017年06月24日アクセス
Posted by 森泉大河 at
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2019年11月10日
アドバイザーのローカルメイドパッチ
※2024年9月21日更新
今回は珍しく米軍のインシグニアのお話です。
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AT-86
ベトナム戦争当時、米軍MACVには100個以上のベトナム軍付きAT(アドバイザリーチーム)が存在し、各々のATが現地でローカルメイドパッチを発注・着用していたので、その種類・バリエーションは膨大なものになりますが、その中でもちょっと特別なパッチをご紹介します。
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今回は珍しく米軍のインシグニアのお話です。
以下のパッチは、マニアの間でもしばしば「南ベトナム軍のもの」と誤解されているのですが、実際にはベトナム軍付き米軍アドバイザーのローカルメイドパッチでした。
トニー・ザ・タイガー
「トニー・ザ・タイガー(トラのトニー)」は、1960年代前半にベトナムに派遣された米軍アドバイザー用として製作したとされる、一連のローカルメイドパッチです。
中でも特に有名なのが、ベトナム陸軍特殊部隊(LLĐB)付きのアドバイザー(グリーンベレー)向けのものですが、戦後、このLLĐB付きアドバイザーのパッチばかりがフェイク/レプリカとして繰り返し生産されたので、このパッチはいつしかアドバイザー向けであったことが忘れられ、「LLĐBの」ローカルメイドパッチと誤解されるようになりました。
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写真: デニス・キム氏コレクション
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ベトナム軍LLĐB部隊章
たしかに緑色の背景とパラシュート、虎のデザインはLLĐBの部隊章と酷似していますが、実はこれと同様のデザインのパッチはLLĐB付き(グリーンベレー)のみならず、空挺旅団付き(AT-162)やレンジャー部隊付き(AT-77)向けにも制作されていました。
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写真: デニス・キム氏コレクション
元ベトナム軍レンジャー付きアドバイザー(MACV AT-77)で、なおかつ著名なミリタリーインシグニアコレクター/戦史研究家のデニス・キム米陸軍退役大尉によると、このパッチが生まれた経緯には2つの説があるそうです。
一つ目は、ある日3人の米軍アドバイザーが朝食を採りながら、自分たちのオリジナルパッチを作ろうという話になり、デザインを考え始めたところ、たまたま自分たちの食べていたケロッグ・コーンフロスティ(Frosted Flakes)の箱が目に留まり、これをそのまま街の刺繍屋に持って行って、部隊名の入っていないローカルメイドパッチを25枚作製させた(この時点でLLĐB部隊章のデザインが参考にされていた)。そして完成後、そのパッチにはさらにその3人各々が担当していたLLĐB、空挺、レンジャーの文字が付け加えられた、というものです。これはちょっと話が出来過ぎている気もしますね。
もう一つは、これらはアドバイザー自身がデザイン・発注したものでは無く、現地の刺繍屋が米兵の興味を引くために、アメリカ人に馴染み深いキャラクターであるケロッグの「トニー・ザ・タイガー(Tony the Tiger)」を取り入れてデザイン、販売したという説です。
どちらが真実なのか確かめる術はありませんが、少なくとも以下の2点は確かなようです。
・全体のデザインはLLĐBの部隊章がベースである(つまり1963年以降にデザインされた)が、空挺旅団やレンジャー部隊付きアドバイザー向けにも制作・販売されていた
・トラの顔は米国ケロッグ社のコーンフロスティのマスコットキャラクター「トニー・ザ・タイガー」である
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トニー・ザ・タイガーの新旧デザイン
このパッチに使われたトニーのデザインは1951年に考案された古いタイプもので、その後1980年代にデザインが一新され現在に至ります。僕も現在のトニーは子供の頃からよく知っていましたが、このパッチのトラが、昔のトニーの顔だった事は、キム氏から聞くまで全く分かりませんでした。当然ケロッグ社も、ベトナム戦争で自社マスコットが使用されていた事など関知していません。
AT-86
ベトナム戦争当時、米軍MACVには100個以上のベトナム軍付きAT(アドバイザリーチーム)が存在し、各々のATが現地でローカルメイドパッチを発注・着用していたので、その種類・バリエーションは膨大なものになりますが、その中でもちょっと特別なパッチをご紹介します。
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写真:David Levesque氏コレクション
こちらはシルクスクリーンプリント製かつアジア的な龍があしらわれたデザインであるため、一見するとベトナム共和国軍の何かの部隊章のように見えますが、実は米軍MACV AT-86 (アドバイザリーチーム 86)のローカルメイドパッチだそうです。
AT-86はロンアン省タンチュー県のベトナム地方軍・義軍担当アドバイザリーチームで、定員はたった5名(+ベトナム人通訳1名)の小さなチームでした。詳細は米軍ベテランのコミュニティーサイトTogether We Served内のMACV Advisory Team 86をご参照ください。
シルクスクリーンプリント製法はその名の通り、色毎にシルクスクリーンの版を作成して布に印刷する大量生産のための製法なので、通常ATのような小規模な部隊の部隊章には用いられない(手刺繍製が普通である)のですが、なぜかAT-86にはシルクスクリーンプリント製が存在しています。
一応、これが戦後に作られたフェイク品である可能性も疑うべきではあるのですが、それにしては出来が良すぎるし、そもそもコストが高くつく上に、AT用としては不自然なシルクスクリーンでわざわざフェイクを作る意味もありません。現に巷で(実物として)取引されているフェイク品は100%手刺繍製です。
※ベトナム人は昔から、こういうローカルメイドパッチを外国のマニアが高い金で買ってくれる事をよく知っていますから、実物と偽ったフェイク品を大量に作りまくっています。ただ、昔はフェイクであっても、実物に似せようと頑張っていたのでそれなりに出来が良かったのですが、近年は業者が出来の悪いフェイクをまた更に劣化コピーする事を繰り返しており、また買う側のマニアも、実物がどんなものかを知らない世代に変わってしまったので、その低レベルなコピー品を実物と信じて買い求めるため、今じゃフェイクともレプリカとも呼べないお土産品レベルの物ばかりが市場にあふれています。トホホ・・・
おまけ
アドバイザーとは関係ないけど、欧米人の間でかなり誤解が広がってるのがこの写真
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「ベトコン女性兵士」だそうです。
アジア人の女が武器持ってれば何でもベトコンかい(笑)
まぁ、これはいくらなんでもド素人(と言うか非常識)な人たちが言ってる事でして、ちょっと知識がある人は、これがベトナム人ではない事など一目瞭然なので、こうツッコみます。
「違うよ、これは日本赤軍の重信房子というテロリストだ。1972年にレバノンで撮影された写真だよ。」
この重信房子説はネット上でかなり拡散されていて、最初に紹介したキム大尉ですら、僕が違いますよと説明するまで、この写真を重信だと本気で信じていました。
欧米人は、セーラー服が日本の女学生の制服であることを何となくは知っていますが、それが高校まで、という事はほとんど知らないので、これを大学時代の重信の写真と言われれば、何の疑いもなく信じてしまうようです。
にしたって、普通に考えて、テロリストが学生服着たまま外国でテロ活動するかよ(笑)
この写真の正体は、何の事は無い、1987年のTVドラマ「少女コマンドーIZUMI」の主役 五十嵐いづみさんです。
五十嵐さんも、まさか自分の写真が30年も経ってからベトコンだの日本赤軍だの言われ世界中に拡散する事になるなんて思いもよらなかったでしょうね。フェイク情報が簡単に拡散する現代のネット社会の典型例ですわ。
この件は、たまたま僕らが日本人だったから間違いに気づいて笑い種になりましたが、そうではない他の国に関する事柄については、僕ら自身も(個人レベルあるいは特定の勢力によって意図的に流布された)偽情報を既に信じてしまっている可能性は常にあります。
僕も先日、米軍ベテラン向け情報誌に掲載されていた、ベトナム戦争中に行われたというある捕虜救出作戦の記事をがんばって翻訳していましたが、あとになって、それがその雑誌のコラム欄に掲載されていたジョークネタ(全部嘘)だったと知りました。危うく自信満々にブログで発表する所でしたよ。危ない、危ない。
なので僕のブログの内容も、全部鵜呑みにはしないで下さいね。後で間違いに気づいて訂正する事なんて、しょっちゅうありますから。
2019年09月13日
ルオン少将と特科隊旗
去る9月5日、自衛隊と在日米軍の共同訓練(年次演習) 『Orient Shield 2019』が開始され、熊本県の健軍駐屯地にて訓練開始式が執り行われました。開始式には陸自西部方面総監の本松陸将と在日米陸軍(USARJ)司令官のルオン少将が出席しました。
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ルオン少将(左)と本松陸将(右)
[Photo: US Army]
この演習は毎年行われているのですが、今回の開会式の映像は、ネット上のベトナム人の間でちょっとした話題になりました。
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[Photo: US Army]
もう想像はつくと思いますが、ベトナム人の間では、
「なぜ日本軍がベトナム国旗(1948-1975)を掲げているんだ!?」
「ルオン将軍はベトナム共和国出身だから、きっと日本人はルオン将軍に敬意を示しているんだ!」
などなど、憶測が飛び交っています。
実際には、自衛隊がもう存在しない国家の国旗を掲げるはずもなく、これは陸自の特科群の隊旗であり、黄色地に赤い3本線のデザインが、たまたまベトナム国旗と酷似していただけです。
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ちなみに上の図(右側)の『ベトナム国旗に共和国軍のシンボル(1967年以降)である鷲の紋章が描かれた図柄』は1975年まで、軍に関係する様々な場で用いられましたが、実際のベトナム共和国軍の正式な軍旗は、国旗柄ではなく、黄色単色に四隅のオリーブが描かれたこちらのものでした。(四隅のオリーブのデザインはフランス軍旗から継承されている)
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ベトナム共和国軍旗 [Huấn Lệnh Điều Hành Căn Bản (1969)より]
これ以前にも、この陸自特科群の隊旗については度々ベトナム人から質問を受けていたので、この機会にベトナム人に向けて、Facebook上でこの旗の正体について説明をしました。辞書を使いながらの拙いベトナム語ですが、なんとか意味は伝わったと思います。
Tôi thường được bạn bè người Việt hỏi về lá cờ vàng này ở Nhật.
Đây chỉ là một cờ đội của Lực lượng Phòng vệ Mặt đất Nhật (Lục quân Nhật). Màu vàng có nghĩa là "Pháo binh" và ba đường ngang là "Liên đoàn". Và thiết kế (Sakura) đặt ở trung tâm của lá cờ là biểu tượng của Lục quân Nhật.
Trong trường hợp này, cờ này người lính Nhật có nghĩa "Liên đoàn Pháo binh". Vì vậy, Lục quân Nhật có cờ đội đủ thứ màu sắc và đường kẻ. Ví dụ: một cờ hai đường ngang trắng trên nền đỏ là một Tiểu đoàn Bộ binh.
Tuy nhiên, tôi cảm cờ này đã được trình bày cho Tướng Lương Xuân Việt sinh ở VNCH lá một ngẫu nhiên thú vị.
[日本語訳]
私は度々ベトナム人の友人から、日本のこの黄色い旗について質問を受けます。
これは陸上自衛隊の隊旗の一つです。黄色は特科(砲兵)を意味し、赤い三本線は群(または指揮官が一佐)の部隊を示します。そして旗の中心の紋章(サクラ)は陸上自衛隊のシンボルです。
なのでこの場合、写真の日本人兵士が持っている旗は特科群の隊旗です。陸上自衛隊にはこれ以外にも、様々な色や線の本数の隊旗があります。例えば赤地に白二本線は普通科(歩兵)大隊です。
しかし、この(ベトナム共和国国旗によく似た)旗が、ベトナム共和国出身のルオン少将の前で掲げられた事は、非常に興味深い偶然だと私は感じています。
ちなみに以前、僕の友達の在日ベトナム人たちは、キャンプ座間の中にあるルオン少将の家(戸建て米軍住宅)でのパーティーにお呼ばれして、遊びに行ってました。
僕も何かの間違いで呼ばれたりしないかなぁ。中佐までは遊びに行ったことがあるけど、さすがに将官は無理か(笑)
※2019年9月15日 誤字訂正
2018年10月30日
『クォン・デの家族』に関する誤解
阮朝の始祖嘉隆帝のひ孫クォン・デと日本の関係を調査した複数の研究者が、ベトナムではクォン・デと彼の家族について誤った情報が広まっていると指摘しています。
ベトナムでは、クォン・デは日本で暮らすうちに日本人女性と結婚して5人の子供をもうけ、ベトナム独立の志を失い、日本人として生きる事を望んだという説が歴史学者の間でも定説となっているそうです。そしてこの写真はクォン・デの日本の家族の写真として広く知られています。
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写真: 森達也(2007)『クォン・デ―もう一人のラストエンペラー』
しかしそれは大きな誤りです。まずクォン・デは日本では一度も結婚をしておらず、子供もいません。この写真はクォン・デが昭和15年(1940年)に台湾を旅行した際に、台北に住む友人の家族と撮影したもので、写っているのはクォン・デの子供ではありません。
ただし、写真の中で和服を着ている女性は、晩年のクォン・デと生活を共にした日本人 安藤ちゑです。ちゑはクォン・デが死ぬまで傍らに寄り添い、内縁関係にありましたが、最後まで入籍はしませんでした。
またちゑには安藤成行という息子がおり、三人は一緒に生活していましたが、成行はクォン・デの子ではありません。成行はちゑの甥であり、戦時中成行の実家が空襲で焼失したためちゑとクォン・デの家に預けられ、クォン・デの死後、成行はちゑの養子となったそうです。当時この三人は家族のように暮らしていましたが、実際には成行はクォン・デにとって内縁の妻の甥であり、血縁関係はありません。
ちなみにウィキペディア ベトナム語版には、成行は昭和天皇の養子であり、「クォン・デは成行と結婚した」などと書かれています(笑)
では何故ベトナムではクォン・デは5人の子供がいるという誤解が広まり、今も信じられているのでしょうか?クォン・デの生涯を調査した牧久は、この誤解はそもそもは日本軍によって意図的に流布されたものであった可能性を指摘しています。
1940年の進駐以来仏領インドシナをフランスと合同で支配していた日本陸軍は、1945年3月に植民地政府とフランス軍を襲撃してインドシナ連邦を解体し、阮朝の皇帝バオ・ダイを元首とする『ベトナム帝国』を建国させます。
阮朝の縁戚でフエ在住の歴史学者ファン・タン・アンは、あの写真はこの日本軍によるクーデターの前後に何者かによって、「クォン・デはベトナムを捨てて日本で家族を持っている」という噂と共にハノイやフエの識者たちにばら撒かれたとしています。そして多くのベトナム国民が、この写真によってその噂を信じ、クォン・デに失望したそうです。
実際にはこの時代、クォン・デの盟友としてベトナム復国同盟会を支援していた大南公司社長松下光廣や日本のアジア主義政治団体、そして何より多くのベトナム国民がクォン・デがベトナムに帰還し、独立を導く事を長年心待ちにしていました。
しかし日本軍の意向は異なりました。日本軍の中でもインドシナ連邦解体後にクォン・デを呼び戻すことは検討されましたが、現場でこのクーデターを計画・指揮した陸軍第38軍司令官 土橋勇逸中将は、それまでフランスの統治下でフランスの傀儡を演じてきたバオ・ダイの方が革命後も日本の意のままに操りやすい事からクォン・デの帰還に反対し、最終的にバオ・ダイを元首とする事が決定されました。
そして牧久は、あの写真と『クォン・デの家族』の噂は、ベトナム国民からクォン・デへの期待を奪うと共にバオ・ダイの正当性を宣伝すべく日本軍が流布したプロパガンダ工作だったとしています。あの写真は旅行先で撮影されたプライベート写真でしたが、それが何らかの理由で日本軍の手に渡り、悪意のある宣伝に利用されたのです。残念な事にベトナム国民の間ではクォン・デへの期待が大きかった分、「裏切られた」という気持ちも大きく、この日本軍がでっち上げたフェイクニュースは戦後70年経った現在でもベトナム国内で信奉されています。
クォン・デを研究した日本の識者たちは、戦前においはクォン・デを追うフランス当局の捜査網はインドシナのみならず中国や日本国内にも及んでおり、また戦中には日本から独立運動への支援を得るために日本軍に協力した事でかえって日本政府の監視下に置かれてしまったため、長年に渡って思うように独立運動につながる行動が出来ず、結果的にクォン・デは最後までベトナムに帰還する事が出来なかった。しかしそれでも祖国ベトナムへの想いは最後まで失っていなかったと評価しています。
ベトナムの歴史を学ぶ者として、またそのベトナム史を大きく変えてしまった日本の国民として、私はクォン・デの名誉が彼の祖国で回復される事を願っています。
森泉大河
[The misunderstanding about "Cường Để's family in Japan"]
A plural researcher who studied about the relationship between Cường Để, a great-grandchild of Gia Long the founder of Nguyễn dynasty, and Japan point out that there's a big misunderstanding in Vietnam about Cường Để's family. That tells that Cường Để got married with a Japanese woman, got five children, lost an ambition for independence of Vietnam and he wished to live as a Japanese while he were staying in Japan, and those are the long-accepted theory in Vietnam even in historians. And this picture is widely known as the Cường Để's family in Japan.
However, that is a big misunderstanding. First, Cường Để has never been married and never have a child in Japan.
That picture was taken when he visited his friends who living in Taiwan in 1940, and those persons in the picture were not his family.
But the woman who worn a Japanese clothes is Chie Andou, a Japanese woman who were living with Cường Để late in life. She had snuggleing up to Cường Để until he passed away, and they had a common-law marriage, but they didin't enter the family register.
And she has a son named Shigeyuki Andou. He was living with Chie and Cường Để together, but he is not a son of Cường Để. Shigeyuki is a nephew of Chie, and Chie and Cường Để cared him in their house because his parent’s home was burned down by the bombing by US during WW2. Then after Cường Để's death, he became to be Chie's adopted son. They were living together like a real familiy, but Chie didn't get married in officially, Shigeyuki is just her nephew and they were not related by blood.
By the way, the Wikipedia in Vietnamese says that Shigeyuki was an adopted child of Emperor Hirohito and HE GOT MARRIED WITH Cường Để. LOL
So why the misunderstanding what tells "Cường Để has five childs" spread and people believes it even now? Hisashi Maki researched Cường Để's lifetime and he points that there is the possibility that this misunderstanding was spread by Japanese Army on purpose.
Japanese Army had been controling French Indochina jointly with France since 1940.
Then March 1945, Japanese Army attacked French Indochina government and French forces, dissolved the Indochinese Federation and founded the Empire of Vietnam (Đế quốc Việt Nam) what hold Bảo Đại, the emperor of Nguyễn dynasty, as the chief of state under the Japanese control.
Phan Thuận An, a relative of Nguyễn dynasty and a historian who living in Huế, told that the picture was bandied to intellectual persons in Hà Nội or Huế together with a rumour that "Cường Để abandoned Vietnam and he have a family in Japan" by someone during the Japanese coup in French Indochina. And many of Vietnamese people believed that rumour by watching the picture, and they were disappointed in Cường Để.
In that era, actually, many people who crave the independence of Vietnam such as Mitsuhiro Matsushita, some Japanese Pan-Asianism groups and above all, millions of Vietnamese people hoped that Cường Để come back to Vietnam and he take the lead of independence. Matsushita was the president of a big Japanese trading company in Saigon named "Đại Nam Công Ty". And he was supporting Cường Để and Việt Nam Phục quốc Đồng minh Hội (the alliance of national recovery of Vietnam) as a powerful ally long time.
However, Japanese Army's intention was different from that. There was a discussion to call back Cường Để to Vietnam after the dissolution of the Indochinese Federation in Japanese Army too. But Lt. Gen. Yuuitsu Tsuchihashi who planned and commanded the coup on the spot as the commander of the 38th Army opposed to call Cường Để. Because Bảo Đại had been manipulated by France obediently, Lt. Gen.Tsuchihashi also plotted to use Bảo Đại as a puppet. And that plot was adopted finally.
And Hisashi Maki guesses that those picture and rumour about "Cường Để's family" were a propaganda operation by Japanese Army to make Vietnamese people desert their hope to Cường Để and give publicity to the rightfulness of Bảo Đại. The picture was taken when Cường Để had a trip in private. But Japanese Army got it in some way and exploited it as a vicious rumor. Unfortunately, Vietnamese people all the more strongly felt that he betrayed because their hope to Cường Để was so big, and people have been believing this fake news which invented by Japanese Army even now since over 70 years ago.
The researchers in Japan think about him below; before the WW2, the dragnet of French authorities to chase Cường Để were spread in China or Japan too, not only Indochina. And during WW2, he cooperated with Japanese Army to get some suport for the independence movement from Japan, but far from doing, he was kept under surveillance of Army. So he couldn't act for independence as his wishes and return to Vietnam to the last.
I desire that Cường Để's impaired reputation get restored as a researcher of Vietnamese history and a citizen of Japan which took a big part in that history.
Tiger Moriizumi
出典 (source):
森達也(2007)『クォン・デ―もう一人のラストエンペラー』角川書店.
牧久(2012) 『「安南王国」の夢―ベトナム独立を支援した日本人』ウェッジ.
海野芳郎『インドシナをめぐる日仏抗争―ベトナム・ナショナリズムの奔流に水門を開いた日本軍の武力行使を中心に―』.
2018年10月15日
タイの友達に同行二日目:埼玉
二日目は埼玉県与野市で開催された大正時代祭りに参加しました。
このお祭りでは大正時代の人々の衣装の再現やコスプレパレードが行わており、軍人コスプレも有りなので、個人の軍装愛好家も当時の帝国陸海軍の軍装を再現してパレード参加しています。
これを聞きつけたタイのみんなは、なんとこの日の為に1910年代末のシャム王国(後にタイ王国に改名)の軍装をタイから持参してパレードに参加しました。
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シャム陸軍第一次世界大戦欧州遠征部隊および戦後の軍装
日本でこの時代のシャム軍がお目にかかれるなんて後にも先にも今回だけではないでしょうか。
実は彼らは三人とも好きな分野が違いまして、一人は第二次大戦期の日本陸海軍およびイギリス軍、一人は第二次大戦期のタイ軍および日本陸軍、残る一人はベトナム戦争期のタイ軍および米軍だったりします。でも今回はせっかくタイ人としてパレードに参加するという事で、三人とも友人から借りた衣装を持参してシャム軍で合せてました。
できれば僕もこの時代のフランス植民地軍アンナン狙撃兵(ベトナム兵)の軍装でパレードに出てみたかったけど、まだ全然揃ってないので、今回は普通にビールと焼き鳥を食べらながら、沿道で彼らのパレードを撮影していました。
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あの三人は顔があまりタイ人っぽくないので、日本人の僕が一番タイ人っぽいと言われました。この日は特に服装がトロピカルだったし。
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日本ではないっぽい謎の軍服を着た外国人3人組に他の参加者の方々も興味津々。何度も記念撮影を頼まれていました。
当の彼らはと言いますと、日本の文化・カルチャーをよくご存じなので、袴姿の女学生たちを目にすると嬉しそうに「ハーシーレー コウソクノー!」とサクラ大戦の檄帝を口ずさみご満悦な様子でした。それ大正じゃなくて太正!(笑)
太正桜に浪漫の嵐!
パレードを終え大正時代祭りを後にした一行が次に向かったのが『小江戸』として知られる川越市。
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ここでは普通に観光し、川越いものアイスクリームや饅頭、お団子をみんなで食べました。東京なんてバンコクと大して変わらないので、川越でいかにも日本っぽい風景を見てもらう事が出来て良かったです。
僕は川越に来るのは3回目でしたが、昼間しか来た事がなかったので、日が落ちると街灯とライトアップでとても幻想的な街並みになる事を初めて知りました。
夜になると、彼らのホテルがある東京の御徒町に戻り、中田商店を物色。
その後、昨晩満席で入る事の出来なかった磯丸水産に、今度はアメ横で再挑戦。無事席が空いていたので、みんなで夕食を取りました。蟹味噌甲羅焼が美味しかったです。
彼らは翌日以降も日本を観光するそうですが、僕が同行できるのはこの日が最後だったので、「次はバンコクで会おう!」とお別れを言って解散となりました。
なんか僕にとってタイはあまり異国という気がしない場所なので、お別れは言いましたが、どうせまたそのうち会います。気が向いたらふらっと行くかもね。
2018年10月12日
タイの友達に同行一日目:東京
前回に引き続きタイの友達との日本紀行です。
なお、今回遊んだのは2月に東京案内した友人とは別のグループです。あっちは一般人。
今回は趣味を通じて知り合った濃い~リエナクター・軍装マニアのグループの方々です。
なので一日目の目的地は東京九段の靖国神社遊就館と昭和館という、およそ観光客とは思えない見学ルートです。
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僕は遊就館に行くと毎回、割と本気で気持ちが陰るので、あえて冗談交じりに艦これとかストライクウィッチーズの話しをしながら明るく振舞っていました。
またタイ人は(自国が日本の半占領下だったので当然)日本人が考えるよりもはるかにクールに大戦期の日本について理解していますし、一人はバンコクの博物館の学芸員ってのもあり、お互い歴史愛好家として率直に感想を言い合いました。
僕が「ここは公的な博物館ではなく、民間の宗教団体の施設だから、彼らの望む歴史観にそぐわない=日本に都合の悪い話は展示しないよ」って言ったら、彼らも「うん、知ってる」って感じでした。
見学を終え、そのまま遊就館の食堂で海軍カレーを食べようとしましたが、やたら混んでたので断念して神社の外のインドカレー屋で昼食。どっちみちカレーなのね(笑)
次に昭和館で、戦中・戦後の庶民の生活などを見学しました。
学芸員の彼は職業としてタイの大衆文化の歴史を研究している上に、大の日本陸海軍および日本文化マニアなので、この時代の日本の大衆文化についてもかなり造詣が深く、日本人の僕も知らなかった事を色々教えてくれました。これ、外国マニアあるあるですわ。
ちなみに偶然、館内に居た別の見学者のグループが、サイゴンにある戦争証跡博物館の館長一行でした。一行を案内している日本人のおっちゃんが、昭和館で戦争体験を語り伝えるおじいちゃん達に得意げに話しているのを横で聞いていました。
なんでもそのおじさんは、学生時代の反戦運動以来、アメリカによるベトナムへの戦争犯罪を世に知らしめる活動に尽力されているそうです。だからベトナム共産党直営の博物館とも深~い付き合いなのだそうです。
その後は普通に渋谷と新宿でショッピングなどして遊んできました。
夜ご飯は、海鮮居酒屋の磯丸水産に行こうとしたけど、土曜の夜という事もあり、新宿西口側にある三店舗まわったけど全部満席で断られました。
仕方ないので、最終的に「すた丼」で食べました。わざわざ日本まで旅行に来てすた丼?!とは思ったけど、まぁ翌日も遊びに行くので、今夜は安く済ませましょう。普通に美味しいし。
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偶然通りかかった新宿駅のルミネが「ジョジョの奇妙な冒険」とコラボしていたので、ジョジョ好きな彼らは喜んで記念撮影開始。
僕も一緒にポーズしたけど、実はジョジョをちゃんと読んだ事ないんだよね・・・。知ってるふりして適当にやりました。ごめん。
2018年09月28日
ベトナム戦争観
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古森義久「池上彰氏のベトナム戦争論の欠陥」 Yahooニュース/Japan In-depth
この記事にある池上彰氏に対する批判は至極真っ当かつ、日本ではなかなか取り上げられなかった貴重な意見だと思います。私自身は一応リベラル派なつもりなので、この記事の掲載元である保守系ニュースサイトや著者 古森氏の出身である産経新聞は大嫌いなのですが、それでもこの記事の内容には同意します。また、この記事がYahooニュースという大手メディアに取り上げられた事は私にとっても嬉しい事です。日本人でも、実際に当時ベトナムで取材した人は、本当の事を分かっているんですね。この人も、私と同じ気持ちを40年以上持っていたのだと思います。ジャーナリストの意見にしては、批判の仕方がやけに感情的ですし。
なお、この記事は池上氏個人の記事に対する批判という形ですが、この池上氏の見解は世の中にはびこるベトナム戦争への誤った認識の典型例に過ぎず、これは池上氏一人がおかしいのではなく、彼が育った日本の言論界全体が長年に渡って空想の世界に浸っていた結果だと私は思います。
日本を含む先進国の人々の多く(右派・左派ともに)が持つベトナム戦争への歪んだ色眼鏡、つまりアメリカへの劣等感と、「アメリカに立ち向かう解放勢力」への空想じみた憧れを捨てて事実だけを見つめれば、この記事に書いてある事は、あの戦争に対するごく当たり前の認識だと分かるはずです。
しかし情けない事に、「坑仏」や「坑米」という意図的に単純化された分かりやすくヒロイックなストーリーは、実に多くの人々の思考を停止させる事に成功しています。アメリカへの劣等感(ある意味でアメリカ中心主義)の中に生きる人々は50年以上、ベトナムという国を己の対米感情を肯定するための道具として利用し、歪んだ色眼鏡越しに見る気持ちの良い空想にしがみつき、事実をないがしろにしてきました。
彼らは幸運にも手にする事の出来た言論と良心の自由をアメリカへの批判に傾ける一方で、ベトナム国民からその自由を奪ったホー・チ・ミンを初めとするベトナム共産党に対しては英雄視を続けてきました。彼らは、自分たちさえ自由なら、ベトナムや他の国の国民の自由などどうでも良かったのです。
世の中には多くの知識人がいる事になっていますが、その多くはアカデミックなふりをしていても、結局は感情論を優先していると私は感じています。最初から感情的な結論は決まっていて、それに合わせて都合のいい情報を集め、研究したつもりになってしまう。これは大なり小なり全ての人間に当てはまる事ですが、しかしあれほど世間で評価されている池上氏のような人でもこのレベルなのは悲しいです。
また、それだけに留まらず、なぜあれほど多くのベトナム人がフランス連合やサイゴン政府側についたのかについては、そもそもその存在を無視したり、または彼らを単に拝金主義で大国の帝国主義に迎合した日和見主義者と卑下する事により、「解放」という気持ちの良いストーリーの整合性を保とうとしている事が、私には我慢なりません。
2018年08月30日
サマーキャンプ
日本在住ベトナム人協会サマーキャンプ2018
先日、日本在住ベトナム人協会主催のサマーキャンプに参加してきました。今年のキャンプにはテレサ・チャン・キウ・ゴック氏とナンシー・ハン・ヴィ・グエン氏が特別ゲストとして参加し、日本に住む大勢の若いベトナム人たちと議論会をおこないました。一番槍の姉妹ブログ[ベトナムウゥッチ]に、その討論の要約を日本語で記してあります。私はこのお二方とお話しする事が出来てとても光栄です。彼女たちが持つ祖国ベトナムと国民への愛情、思いやりは、必ずや善良な人々の心に届くものと信じています。
またキャンプではリクリエーションとして、口にくわえたスプーン同士でビー玉を渡してリレーし、かつ水鉄砲で紙の的を破くという、けっこう難易度の高い競争をしました。
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実は私はナンシーさんと同じチームだったので、ずっとナンシーさんにビー玉を渡す役でした。まさかあんな有名人とこんなに顔面近付けて遊ぶことになるとはね。けっこう本気で照れちゃいました(笑) 下の写真のピンク色の服着ているのがナンシーさんで、黒いのが私。
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バーベキューでは日本各地に住んでいる、初めてお会いする方々ともお話しする事ができて良かったです。
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キャンプファイヤーでは皆で輪になって踊りました。
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この時私は酒が入っていたので、ボビナム(ベトナム格闘技)やってる友達に酔拳で戦いを挑み、何度も投げ飛ばされたので服が泥だらけになりました。また来年も参加したいと思います。
ニュース:ヴェト・ルォン少将、在日米陸軍司令官に就任
当ブログでは旧ベトナム共和国出身のベトナム系アメリカ軍人ヴェト・ルォン(ベトナム名 ルゥン・スァン・ヴェト)少将が2014年に、アメリカ陸軍第1騎兵師団副師団長に就任した事をお伝えしましたが、この度ルォン少将は在日米陸軍(USARJ)司令官に任命され、2018年8月28日に神奈川県のキャンプ座間米陸軍基地にて司令官交代式が執り行われました。ベトナム系初の米軍将官であるがルォン少将が、北朝鮮とも近い≪実戦的な≫在日米軍の陸軍司令官に任命されたニュースは、世界のベトナム移民系メディアで大きく取り上げられています。
動画: U.S. Army in Japan / Facebook
過去記事にも載せていますが、改めてルォン少将の経歴を記します。
ヴェト・ルォン氏は1965年、ベトナム共和国ビエンホア生まれ。彼の父はベトナム共和国海兵隊(TQLC)第6海兵大隊『聖鳥』大隊本部所属のルゥン・スァン・デュウン少佐で、1972年の"クアンチの戦い"ではベトナム戦争で最大の対戦車戦闘を指揮し、多大な戦果を挙げた人物でした。(参照:TQLC戦友会 デュウン少佐『聖鳥の赤く燃ゆる夏』)
ルゥン・スァン・デュウン ベトナム海兵隊少佐
デュウン少佐と子供達(左端がヴェト・ルォン)
しかし1975年、敗戦に伴いルゥン一家はサイゴンからの脱出を余儀なくされ、政治難民としてアメリカに移住します。この時、ヴェト・ルォン氏は9歳でした。カリフォルニア州マウンテンビューで成長したルォン氏は、父の影響で軍人を志し、勉学に勤しみます。そして南カリフォルニア大学(USC)で生物学の学士号を取得後、同大学院で軍事科学の修士号を取得。1987年、アメリカ陸軍歩兵中尉に任官しました。
【ルォン少将の軍歴】
第8歩兵連隊第1大隊/小銃小隊長・対戦車小隊長・副中隊長・大隊管理将校 〔コロラド州フォート・カーソン〕第82空挺師団第325空挺歩兵連隊第2大隊/大隊S-3(作戦参謀)補佐・A中隊長 〔ノースカロライナ州フォート・ブラッグ〕Theater Quick即応部隊/指揮官 〔ハイチ〕JATC(統合即応訓練センター)/総監部員 〔ルイジアナ州フォート・ポーク〕陸軍指揮幕僚大学/参謀教育受講 〔カンザス州レブンワース〕SETAF (南欧タスクフォース)/SETAF G-3(作戦参謀)主任参謀 〔イタリア ヴェニツィア〕第173空挺旅団第508空挺歩兵連隊第1大隊/副大隊長 〔コソボおよびボスニア・ヘルツェゴビナ〕JTF North (北部統合タスクフォース)/計画参謀・国土安全保障省訓練開発部門主任 〔テキサス州フォート・ブリス〕第82空挺師団第3旅団戦闘団第505空挺歩兵連隊第2大隊/大隊長 〔イラク〕第101空挺師団第3旅団戦闘団第187歩兵連隊/連隊長 〔アフガニスタン〕スタンフォード大学/国家安全保障研究員 〔カリフォルニア州スタンフォード〕統合参謀本部J5(戦略計画・政策)パキスタン・アフガニスタン調整部/副部長 〔ワシントンDC〕第1騎兵師団/副師団長 〔テキサス州フォート・フッド〕在日米陸軍/司令官(現職) 〔日本キャンプ座間〕
2018年08月19日
あるベトナム残留日本人と家族の漂泊
※2019年11月28日加筆訂正
1945年(昭和20年)8月、日本政府は連合国のポツダム宣言を受託し、第二次世界大戦・大東亜戦争は日本の敗北によって終結しました。この時点で中国・満州・朝鮮・台湾そして東南アジア各地には日本陸海軍の軍人・軍属が約330万人、日本人民間人が約330万人、合わせて約660万人が進駐・居住していました。そして終戦後、日本政府・陸海軍にとって目下最大の課題は、この660万人という途方もない数の在外軍人・邦人を無事本土に帰国させる事となりました。この外地からの引き揚げはまるで民族大移動の様相を呈しており、現地では急激な治安の悪化、略奪、飢餓、家族の生き別れなどが大量に発生し、それは戦時中以上に壮絶なものだったたと伝え聞きます。
その一方で、終戦に伴う帰国命令を受けた後も、ごく一部の日本軍将兵や民間人は日本への帰国を拒否して各地に留まり、個人的な意思で現地の紛争に参加していた事は割と知られた話だと思います。私がベトナム人協会への取材でいつもお世話になっている(宴会で僕が酔っぱらう度に家に泊めさせていただいている)サイゴン出身の女性Aさんは、この時ベトナムに残ってベトミン軍に参加した元日本陸軍兵士M氏の娘さんであり、M氏とAさんらご家族の辿った過去を詳しく伺う事が出来ました。ただし、Aさんが生まれたのはM氏が第一次インドシナ戦争終結後に南ベトナムに移住した後なので、Aさん自身はベトミン軍時代の父を直接は知りませんでした。ところがその後、関係資料を調べていたらベトミン軍時代のM氏の足跡が多少判明したので、Aさんから許可を頂いたうえでここに概要を記します。
なおM氏は既に他界されていますが、娘さんやご親戚は現在も日本で生活されているので、個人名は控えさせていただきます。また、この記事はAさんの証言および、ある大学教授が日本に帰国した多数の元ベトナム残留者に聞き取りを行った報告書を出典としておりますが、M氏を始め、多数の人物の実名が載っておりますので、ここでの公表は差し控えさせていただきます。出典を確認されたい方はコメントにて、メールアドレスと共にその旨をお知らせください。個別にご連絡させて頂きます。
日本軍出奔とベトミン軍への参加
Aさんの父M氏は第二次大戦中、日本陸軍第22師団第86歩兵連隊に所属する一兵卒であった。1945年8月、同連隊が中国広東省から南下し、ベトナム・ハティン省の省都ハティンに宿営している時に、M氏らは日本敗戦の知らせを受けた。この直後、同じ部隊の中から、日本軍を離れてベトミンに合流しようという声が上がり、M氏を含む10名が同意したという。そして終戦1ヶ月後の1945年9月のある晩、彼らは2ヶ月分の米と小銃弾2,000発を用意し、歩哨を「朝まで黙っていろ」と脅かして部隊から脱走した。
ハティンの海岸に着いた彼らが満潮時刻を待って舟を出そうとしていたところ、日本兵脱走の知らせを受けたのか、ベトミン政府*が任命したハティン省知事レ・ズン(のちの国会議員)が通訳を連れて現れ、彼ら脱走日本兵に、ベトミン軍の軍事顧問役を依頼してきた。M氏らはその要請を受け入れ、ハティン省北部のドクトー県へ移動し、そこで現地の地主の屋敷に迎え入れられた。ドクトー県には同様に軍を抜けた元日本兵が30名ほどおり、その内M氏のいた村には25名が集まっていた。
ドクトー県到着から間もなく、M氏らはベトミン軍側から、フランス軍のナペ基地を攻撃してほしいと要請を受けた。現地のベトミン軍兵士はまだ基本的な訓練さえ修了していないほとんど素人の集団であったため、この第1回のナペ攻撃(9月)は事実上、日本人12名だけで行われた。攻撃は夜間に行われ、彼らはフランス軍基地を一時占拠し、大量の武器弾薬と食糧を奪うことに成功したが、この戦闘でM氏を含む3名が負傷した。
その後、ナペでは1946年初頭に日本人20名、ベトナム人300名の部隊による第2回夜襲が行われ、作戦は成功したが日本人兵士3名が戦死した。続いて行われた第3回の夜襲は失敗に終わり、さらに3名の日本人が戦死した。
なお、第1回ナペ攻撃で負傷したM氏がいつ頃前線に復帰したかは分かっておらず、今確認できている資料では、M氏はその後「フエ以南で戦った」とあるのみである。
※1945年後半の時点では、インドシナに駐留していたフランス軍部隊はまだ微々たるものでフランスはベトナム全土を再統治できておらず、8月革命によって成立したハノイのベトミン政権がベトナム民主共和国を名乗っていた。しかしベトミン政権側の軍事力はさらに貧弱であったため、その後フランス軍が続々と到着するとフランスは支配地域を拡大。1946年中に全土がフランスの施政下に戻り、ベトミンは政権を追われゲリラ組織としてフランスへの武力闘争を続けた。
ハティン省ドクトー県の位置
(区画は当時と異なる可能性あり)
ホー・チ・ミン政権からの脱出
その後、第一次インドシナ戦争が激化する中で、M氏はベトナム人女性と結婚し、娘(Aさんの姉)を授かった。その女性は、ベトミン協力者であり、M氏ら元日本兵の世話をしていたハティン省の地主の娘であった。その後1954年までにM氏はベトミンの軍務から離れ、ハティン省で一般人として生活していた。
ところが1954年、第一次インドシナ戦争がベトミンの勝利に終わり、ハティン省を含む北緯17度線以北(北ベトナム)がホー・チ・ミン/ベトナム労働党の支配下になると、M氏の義父は、それまで命がけでベトミンに協力していたのにも拘らず、共産主義思想に基づき、ただ「地主である」という理由で粛清の対象とされた。義父は危険を察知し、M氏に娘と孫を連れて日本に逃げるよう促した。その直後、義父は人民裁判にかけられ、「反動分子」としてハティン市内を引き回された後、政治犯収容所に送られ、二度と帰ることはなかった。この地主階級の粛清「土地改良」を含む一連の共産主義革命によって、北ベトナム領内では1954年から1956年にかけて10万人以上の人々がホー・チ・ミン政権によって虐殺されたと言われている。
日本帰国を決意したM氏は、妻に家を引き払うよう命じ、船を確保するため一人先行してハイフォンの港に向かった。しかしハイフォンに着くと、日本行きの船は既に出航した後だった。その後すぐに妻と娘たちもハイフォンに到着したが、すでに家は引き払った後であり、帰る場所は無かった。その時ちょうど、ホー・チ・ミン政権から逃れるため南ベトナムに脱出する難民を運ぶ船に空きがあったため、M氏一家は南ベトナムで出直す事に決め、サイゴンに移住した。
※ジュネーヴ協定により北ベトナムにホー・チ・ミンの共産主義政権が成立した事で、北ベトナム政府による迫害・虐殺から逃れるため、約100万人のベトナム国民が1954年から1956年にかけて北ベトナム領から南ベトナムに脱出した。共産主義者(ベトコン)に家族を殺され、故郷を奪われた人々の共産主義に対する憎しみは深く、後のベトナム戦争では、この時南に移住した北部人勢力が率先して北のホー・チ・ミン政権打倒を主張した。
フランス・アメリカ海軍によるベトナム国民の北ベトナム脱出・移送作戦『自由への道(Passage to Freedom)』
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サイゴン郊外に設置された北ベトナム難民キャンプ [1954年]
サイゴンの日本人コミュニティ
南ベトナムに移住したM氏一家はその後の20年間、サイゴンで比較的穏やかな生活を送った。1960年代に入ると南ベトナム国内の共産ゲリラ(解放民族戦線)によるテロ活動や北ベトナム軍の南侵によってベトナム戦争が激化したが、幸いにも一家は戦闘に巻き込まれる事なく終戦を迎えたという。Aさんはこのサイゴン移住後に生まれた末っ子だった。
またサイゴンにはM氏と同様に、かつてベトミン軍に参加していた元日本軍人や、戦前からサイゴンに住んでいる日本人商人・技術者が少数ではあるが居住していた。彼ら南ベトナム在住日本人は互助会『寿会』を結成しており、M氏もこれに参加した。第一次インドシナ戦争終結後、アメリカの支援を得て経済発展を続けていた南ベトナムには西側諸国の企業が進出を始めており、日本も例にもれず南ベトナムにおいて事業を展開していた。寿会のメンバーは、こうした日系企業の現地社員・通訳・コンサルタントなどを務める者が多く、M氏も日系の製糖会社に勤務した。
また寿会は、明治時代に単身ベトナムに渡り、以後半世紀以上に渡ってフランスや日本軍による妨害に遭いながらもベトナム民族解放と独立を援助し続けた日本人実業家 松下光廣(1896-1982)がサイゴンで経営する『大南公司』と深い関係を持っていた。南ベトナム政府と日本政府は松下の仲介で第二次大戦中の賠償に関する交渉を行い、日本政府は賠償金としてベトナム最大の水力発電所ダニム・ダム建設の費用を提供した。M氏は日系の建設会社に転身し、松下と共にこのダニム・ダム建設事業に従事した。これ以降、M氏と松下は家族ぐるみの付き合いとなっていった。
幼いころのAさんにとって、当時のM氏はいつも厳しい父親であった一方で、寿会の日本人たちと日本の歌謡曲を聞きながら酒を飲んでいる時だけは、M氏は涙を流して日本を懐かしんでいたという。
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1964年に完成したダニム・ダム(ダニム水力発電所) [写真:日本工営]
ベトナム共産党政権による追放
1975年4月30日、北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴンを制圧し、ベトナム戦争は共産主義勢力の勝利に終わった。こうしてベトナム全土がハノイのベトナム共産党政権の支配下に堕ちると、旧南ベトナム国民は大変な困窮に見舞われた。M氏一家も例外ではなく、すでに戦争末期には日系企業が撤退していたため、M氏は別の仕事を探すしかなかった。松下も大南公司の資産の全てを政府に没収され、明治以来幾度もの苦難を経験しては復活を果たしてきた大南公司は完全に解体された。
さらにベトナム共産党政府は1978年に、全ての外国人を国外追放する事を決定した。かつてベトミン軍の一員として命がけでフランス軍と戦ったM氏も、外国人であるという理由で国外追放となった。一時は日本への帰国を目指していたM氏だったが、ベトナムに住んで既に30年以上が経過しており、国外追放はそこで築いた友人・仕事・財産の全てを失う事を意味していた。また妻や娘たちは日本語がほとんど分からず、日本での生活に順応できるかも心配された。
こうしてM氏一家は、他の日本人・外国人住民らと共に国外に船で移送され、M氏は難民として30年ぶりに日本に帰国した。帰国後一家はM氏の生まれ故郷の町に移り住み、M氏は会社員として平穏な余生を送った。来日した当時14歳だったAさんも苦学の末日本語を習得し、現在は日本国内でベトナム語通訳の仕事をしている。
なお、M氏も松下も既に他界されているが、互いの親族同士の交流は現在も続いているという。
筆者の見解
私はM氏を含むベトミン軍に参加した元日本兵たちの足跡が日本国内のメディアやインターネットで紹介されるのを目にする度に残念な気持ちになります。なぜならば、それらの紹介の仕方、あるいは紹介する目的は初めから、何らかの思想・主張を肯定するための道具として都合の良い部分だけ切り取られ、いいように利用しようとしているものばかりだからです。
具体的には、ある時は日本が東南アジア侵攻の大義名分に掲げた『アジア解放』が偽りのない崇高な精神だった事の証拠として。またある時は、欧米の帝国主義に立ち向かいベトナム『解放』を後押ししたものとして。日本国内では右派・左派双方が長年、彼らの戦いを美談として祀り上げ利用してきました。また現在のベトナム共産党政権も、気前よくODAをくれる日本政府におべっかを使うため、この話を『日越友好』を標榜する材料の一つとして利用しています。
しかし私は「日本軍は戦後もベトナム独立のためにフランスと戦いました。ベトナム人はその恩を忘れません。」というような日本国内で流布されている認識は、最初から美談として利用するために日本人にとって都合の良い、気持ちの良い部分だけを寄せ集めた虚像だと考えています。以下がその理由です。
・日本政府はアジア解放を謳う一方で、インドシナに関してはドイツ・フランスとの関係を優先しており、日本軍は1941年の北部仏印進駐以来4年間、フランスと合同でベトナムを支配する側にいた。ベトナム独立勢力に対しても、彼らを支援するどころか、妨害・取り締まりを行っていた。(ただし、下記の明号作戦に動員する目的で、親日的な独立勢力への接触は松下の大南公司を通じて進駐直後から水面下で始まっていた)
・1945年の明号作戦は、戦局の悪化から連合国側に寝返る可能性のあるインドシナ総督府・フランス軍を排除する事を目的とした日本の利益の為の軍事行動であり、ベトナム独立を目的としたものではない。
・ほとんどのベトナム国民は明号作戦の後に日本が擁立したベトナム帝国政府を日本の傀儡政権と見なしていた。なので日本敗戦後に行われたベトナム帝国政府の解体とベトナム民主共和国の独立宣言=8月革命を真のベトナム独立と見做し沸き立った。
・終戦後も日本陸軍の組織および軍法は正式に存続しており、個人の意思で隊を離れる事は脱走、また武器弾薬被服装備を持ち出す事は横領にあたる。したがってベトミンに参加した彼らは国家の命令に従った『日本兵』ではなく、あくまで個人の思想によって行動した『元日本兵のゲリラ』である。
・そもそも第一次インドシナ戦争は、残留日本人が1945年にベトミンに参加した当初においては、ベトミンの敵はインドシナの再植民地化を目指すフランス軍であり、『ベトナム独立戦争』と呼んで差し支えない状況であった。しかしフランス側が譲歩し1948年にベトナム国の独立を承認してから(つまり戦争中期以降)は、ベトナム国政府はベトミン政権を拒否する民衆から一定の支持を得ており、フランス連合軍の人員の7割が現地のインドシナ諸国の兵士(そして全体の5割がベトナム国軍)となるに至る。こうして第一次インドシナ戦争は当初のフランスからの独立戦争という単純な構図から、次第にフランス連合に残留して段階的な独立を目指す穏健派のベトナム人(ベトナム国政府)と、フランスの影響力およびベトナム国政府に好意的な人間を徹底排除し共産主義政権樹立を目指す過激派ベトナム人(ベトミン)というベトナム人同士の内戦へと変化していった。
・残留日本人たちは、当初ベトミンが掲げていた純粋な民族解放という理想に共感しベトミンに参加していたが、ベトミンが中国共産党からの支援への依存度を増すにつれて組織全体が共産主義体制に変質し、同じベトミン内の戦友・支援者までもを反革命分子として粛清していくのを目の当たりにした事で違和感を増していった。しかし戦争遂行に深く関わり過ぎており、途中で組織を抜ける事は出来なかった。
・残留日本人の多くはベトナム独立の理想とベトナム人戦友たちへの愛情を変わらず持ち続けたが、同時に戦争中期から戦後の1950年代全般にかけてベトミン・ベトナム労働党が行った急激な国家改造・共産主義化(土地改良に始まる弾圧・大量虐殺)には批判的であり、複雑な心境を伺わせる証言を残している。
・フランスや日本軍による妨害に遭いながらも身の危険を顧みずベトナム民族の解放と独立を援助し続けた松下光廣は、ホー・チ・ミンとベトミンを民族解放の志士とは見ておらず、むしろベトミンの暴力革命を「共産分子のテロ」と強い言葉で非難している。
まとめると、彼ら残留日本人の多くは、現地で独立を渇望するベトナムの民衆の想いを間近で感じ、同じ人間としての共感しており、こうした人情の上に敗戦のショックと敵の占領下の日本で生きる事への不安・抵抗が重なり、彼らは日本軍人としての身分を捨て、フランス軍との戦闘に身を投じました。
しかし彼らが協力したベトミンは、そんな残留日本人たちの意志とは無関係に、その目標を『独立』から『共産主義革命』へと変えていきました。また敵であるフランス軍も、当初の再植民地化を目指す『白人帝国主義者』から、フランス連合の枠内での独立に甘んじようとも共産主義政権は阻止したい『フランス連合派ベトナム人』へと変わってしまいました。
最終的に戦争はベトミン側の勝利に終わり、残留日本人たちは北ベトナムの独立に貢献した事になりましたが、それは同時にベトミンによる共産主義革命・大量虐殺などを許す事となり、残留日本人たちが目指していたベトナム民族の解放と平和とは程遠い結果を招いてしまったと私は見ています。
多大な犠牲を払いながらこうした結果に終わり、彼らの心中は察するに余りあります。しかしだからこそ、「ベトナムは独立して人々は幸せに暮らしました、めでたしめでたし」で終わる訳にはいかないのです。私の意図は、彼ら残留日本人を共産主義革命の協力者として非難する事ではありませんし、まして「日本人がアジアを解放した」などと恥知らずな自慰行為に利用する事でもありません。
人間の歴史、特に戦争に関する部分は、常に後世の人間によって何らかの意図をもって都合よく切り取られ、利用されがちですが、私はそれに抗いたいのです。この戦いに限らず、人間が理不尽に命を奪い奪われる最悪の惨事を、見たい部分だけ見て喜び、見たくない部分には目を背ける、そういった人間の生命・人生に対して不誠実な姿勢を私は軽蔑し、否定します。
2018年06月08日
ベトナム空軍神風部隊~トートン~浮世絵
ベトナム空軍では、他の西側諸国と同様に、航空機の機首にノーズアートが描かれている例がいくつかありましたが、中でも特によく知られているのが、グエン・カオ・キ中将(後の副総統)の直接指揮下にあった第83特殊作戦航空団『※神風部隊(Biệt Đoàn Thần Phong)』のものだと思います。この神風部隊では少なくとも以下の二種類の特徴的なノーズアートがA-1スカイレイダー攻撃機の機首右側面に描かれていました。
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※日本の神風特攻隊とは関係ありません。
※なお、この神風部隊は特殊作戦を専門とする『空の特殊部隊』であったからか、本来国籍マークが入るはずの機体胴体側面には部隊のシンボルマークがペインいる点が他の部隊の機体ペイントとは大きく異なります。
この二つの漢字のような梵字のようなよく分からない図形の正体については、僕自身長年把握できておらず、たぶんチュノム(ベトナム語表記にローマ字=クォックグーが採用される以前に使われていた漢字を基にした表語文字)の一種なのかな、くらいに考えていました。ところがある日、さるベトナム空軍研究家にこのノーズアートについて話を振ったところ、即座に正解を教えて頂く事が出来ました。
なんでもこの図形はチュノムや特定の言語の文字ではなく、ベトナムの伝統的なカードゲーム『トートン(Tổ tôm)』に描かれた、漢字を基にした記号なのだそうです。
トートンは中国発祥のカードゲーム(紙牌)である『ハンフー(看虎)』から派生したもので、麻雀やトランプのようにいくつかのスート(柄)と数字の組み合わせでデッキが構成されていました。
スートと数字は文字(漢字)と漢数字を組み合わせた記号で表されており、スートの文字が漢字の部首の偏のように左側に、漢数字が旁(つくり)のように右側に配置され、その記号自体が一つの漢字のようにデザインされていました。(チュノムも同様に二つの漢字を組み合わせて一つの文字としていましたが、トートンに用いられたのはチュノムではなく、単なる記号です。)
左側のスートは、現在のトートンでは専ら文(Văn)、索(Sách)、萬(Vạn)の3つが用いられていますが、過去には升(Xừng)や[※1]湯(Thang)といった文字も使われていたようです。このうち索と萬は、もっと後の時代に考案された麻雀(索子と萬子)に受け継がれていますね。 [※2]右側の数字は1~10まであり、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と漢数字で表記されています。(十は謎の異字体が使われていますが)
[2018年6月13日訂正]
※1 Thang (湯)は現在でも使われていました。
※2 右側に入る数字は正しくは1~9であり、一、二、三、四、五、六、七、八、九と漢数字で表記されています。下のカード一覧の一番右側にある3枚はそれぞれのスートの十ではなく、それぞれÔng Cụ (萬の行)、Chi Chi (文の行)、Thang Thang (策の行)という役を作るのに使う特殊なカードであり、これに各スートの一(萬の一、策の一、文の一)を含めたカード6種のカードが『Yêu』と呼ばれ、麻雀で言うドラのような役割を持っているそうです。
▲現在出回っている一般的なトートンのカード
そしてこの中で、神風部隊にノーズアートとして描かれたのは、『升の九(Cửu Xừng)』と『索の九(Cửu Sách)』になります。
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※なおRobert C Mikesh著『Flying Dragons: The South Vietnamese Air Force』には、神風部隊では上記の二つに加えて『萬の九』、『文の九』もマーキングされていたと記述されているそうですが、当時の写真を探してもその実例を確認する事はできませんでした。
実はこれらを調べる過程で、頭を悩ませたのが、『Cửu Xừng』についてでした。先述したように、現在のトートンで用いられているスートは文・索・萬の三つであり、インターネットで調べても、このカードに関する情報はなかなか見つかりませんでした。しかもかなり文字を崩したデザインなので、元の漢字が何だったかも全く分かりませんでした。
さらに僕を混乱させたのが、この漢字のクォックグー表記は『Sừng』だというベトナム人からの情報でした。結果から言うと、これは間違いであり、ほぼ同じ発音をする『Xừng』の書き間違いでした。僕はさっそくSừngの漢字・チュノム表記を調べましたが、その表記は漢字では『角』、チュノムでは『䈊』、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162049参照)』、、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162050参照)』であり、カードに描かれた文字とは似ても似つきません。
その後、別の人から『Xừng』と書かれている資料をもらい、その表記を調べると、漢字にはXừngに対応する文字はありませんでしたが、チュノムにはありました。それが『表示不可(hyouhttps://jigen.net/kanji/133567参照)』です。これも一見、カードに描かれた文字とはだいぶ違うように見えますが、上で述べたようにチュノムは、中国の漢字では表す事の出来ないベトナム語の発音を表記するために、別々の漢字を組み合わせて一つの文字としているので、このチュノムの構成要素は、『称』と『升』という二つの漢字になります。(出典: Chu Nom.org https://www.chunom.org/pages/209BF/#209BF)
そして、この中の『升』が、かなり崩されてはいるものの、問題のカードの文字と一致しているように見えます。これでようやく点と点が繋がりました。なお、漢越辞書によると、『升』という漢字を単にクォックグー表記した場合は『Xừng』ではなく『Thăng』になるようですが、日本人なら知っているように、漢字というものはその時代や地域によって様々な読み方をされる物であり、この場合も升という漢字がXừngと読まれていたのではないかと推測しています。この推測に則り、この記事では『Cửu Xừng』を『升の九』と書いています。(もし違っていたらごめんなさい)
ところで、お気付きかも知れませんが、これらのトートンのカードに描かれている人間のイラストは、19世紀の日本人の姿だったりします。その由来はWikipediaによると、フランス植民地時代にマルセイユの玩具メーカー カモワン社(Camoin)が、自社がベトナム向けに生産していたトートンに、日本から輸入された木版画・浮世絵に描かれた日本の庶民の姿をプリントしたのが始まりだそうです。そしてそのカモワン社製トートンがベトナムで広く流通したことで、それらのイラストはトートンの絵柄として定着し、100年以上経った現在でも変わらずに使われ続けているそうです。
では、なぜカモワン社はベトナム人向けのカードゲームに日本の木版画のイラストを採用したのかと言いますと、具体的には説明されていません。しかしおそらくは、当時フランスでは日本から輸入された木版画・浮世絵などの『エキゾチック』な芸術作品が人気を博し、『ジャポニスム(Japonisme)』と呼ばれる流行が発生したため、デザイン業界でも浮世絵に描かれた『オリエント』なモチーフを取り入れられた事がその一因であろうと推察できます。また、当時ほとんどの西洋人はベトナムも日本も中国も一括りにアジア、オリエントと見做しており、それぞれの文化の違いなど気にしなかったため、両国の文化は混同され、ベトナム向けのカードゲームに浮世絵のイラストが採用されたのだろうと僕は思っています。
余談ですが、『オリエンタリズム(Orientalisme)』という言葉に代表される、このような当時のフランス人(およびほとんどの西洋人)が持っていた『想像上の』アジアへの憧憬、そして偏見は、つい半世紀前まで続いていた欧米諸国によるアジアへの植民地支配、帝国主義と深く結びついた概念でもありました。
ただし、異国の文化についての誤解は、なにも西洋人に限った話ではなく、日本人もヨーロッパ諸国それぞれの国の文化の違いを正しく理解している者は少ないでしょうし、もっと言えば日本の周りの国ですら、いまだにあまりよく分かっていません。過去には、自国中心の偏見に満ちたアジア観を基に周辺国への領土拡大と統治を行い、大変な反発と遺恨を生じさせた事実は日本人なら誰もが知っておくべき事柄です。また現在でも、例えば日本のテレビ番組ではしばしば、海外で日本の文化がいかに誤解されているかを取り上げていますが、では日本にある外国料理は?日本人が話す外来語やカタカナ英語は本来の意味で使われているのか?と思い返してみれば、他人の事は言えないですよね。
さらに言えば、マスメディアやインターネットでは、タイと台湾は当然のように(反日の対義語として)『親日国』として語られますが、では実際、所謂『反日国』や、それ以外の国々とどれほど違うかと言いますと、実はそんなに変わらないと僕は思っています。第二次大戦において日本と戦ったアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア・フランスはもちろん、日本軍の恫喝によって軍政下に置かれたタイや、長く中国国民党政権が続いた台湾でも、大戦中の日本軍を好意的に見ている人はほとんど居ないです。一方、戦後日本が育んだ食事や音楽などの文化、工業・医療製品については、世界の大半の国々、そして日本で『反日』と呼ばれる中国や韓国でも大人気であり、特に中国の小金持ちはこぞって日本に観光に訪れ、帰国後日本に行ったと自慢する事が一種のステータスとなっている感すらあります。
数年前、あるニュース番組で、中国で発行されている『知日』という情報誌が紹介されていました。その雑誌を編集している僕と同じ世代、1980年代生まれの中国人編集者たちはインタビューの中で、「私たちはこの雑誌で、読者に日本を好きになってもらおうとは思ってはいません。ただ、彼らを好くにせよ嫌うにせよ、まずは相手の本当の姿を知る事が、我々自身にとっても大切な事なのです」という趣旨の言葉を語っていました。その通りだと思います。日本に訪れる中国人観光客が皆こういった意識を持っているとは思っていませんが、少なくとも中国国内にはこういう理知的な人々が居り、彼らの雑誌が人気を博してる事実は、両国の未来にとって歓迎すべきことだと思います。
なお、知日は日本でも買えるようですが、ちょっと良い値段しますし、どうせ中国語読めないのでまだ呼んだ事は無いです。もし日本語訳版を作ってくれたら、是非読んでみたいですね。
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今日は我ながら、いろんな方向に話が飛んでいくブログでした。
2018年04月18日
カオダイ教と日本[1]
カオダイ教(Đạo Cao Đài)とは現在ベトナム国内に約500万人の信徒を抱え、過去には日本との深い関わりもあったベトナム最大の新宗教です。今回はそのカオダイ教徒たちが辿った歴史をご紹介します。
※2019年11月28日更新
こちらに、あらためて加筆修正した記事を掲載してありますのでご覧ください。
2018年01月06日
美作市のホーチミン像問題
※2018年7月3日更新
筆者の別ブログ ベトナムウォッチと重複している記事を、ベトナムウォッチの方に一本化しました。
ベトナムウォッチ 『美作市のホーチミン像問題』
またこの記事の後、美作市役所に対する抗議運動が実施されました。
ベトナムウォッチ 『美作市ホーチミン像に世界のベトナム難民団体が抗議』
2016年10月08日
普通のブログ
かなり久しぶりに漫画の『地獄先生ぬ~べ~』を1巻から読み直してます。
小学生の頃から大好きな漫画だったけど、こんなに泣ける話だったっけ。
一巻毎に最低1回は必ずウルウルしちゃう。歳取ると涙腺が緩くなるのかな。膀胱も緩くなったし。
続編の霊媒師いずな、地獄先生ぬ〜べ〜NEOはまだほとんど読んでなかったから、この機会に買って読もっと。
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岡野 剛
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シン・ゴジラ2回目見に行ってきました。同じ映画を2回も見に行くのはこれが初めて。このゴジラを見る事ができてとても幸せです。
作品に関しては、この2か月間散々巷を席捲してきたものなので今更書くべき事も無いのですが、あえて一つだけ無いものねだりを言わせてもらえば・・・
やっぱり怪獣と戦う戦車は煙突マズルブレーキが付いてて欲しいなぁ。ついでに単色塗装に日章旗マーキングで。
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庵野監督ならやるんじゃないかと、ちょっとだけ期待してた。
これからもずっと、"子供に見せられる"自衛隊と日本が続きますように。
クレヨンしんちゃん+怪獣大戦争マーチ https://youtu.be/k03lgPEuJLA?t=1h12m50s
8月末、台風のあとに巨大な虹が出現。家のベランダから撮りました。
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虹が大き過ぎてフォーサーズ14-42mmのレンズ(35mm換算で28-84mm相当)では全然画角に収まらなかったので、3枚の写真をつなげてあります。空の色に切れ目があるのはそのせい。
加えて、目で見るのとは違って、写真ではコントラストをかなり上げないと虹がはっきり見えなかったので、空は実際にはもっと明るかったです。
こちらも8月に撮ったやつ。
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仕事の合間にケータイで撮りました。ずっと田舎の方を周ってたので、夏っぽい良い風景が沢山見られました。
しかし移動は車だったとは言え、作業は外で行うので、連日の猛暑でやってられっか!って状態でした。
無理無理、1件終わるごとに車に戻ってエアコンMAXにして体力が回復するまで休憩。
汗の量が尋常じゃない。車のシートまで汗びっしょりだし。マジで車内が臭いのでファブリーズ常備してました。
仕事の最中、周囲に民家がなく近所付き合いもなさそうな場所にある一軒家に、認知症らしき老人が何するわけでもなく一人でボーっと座りこでいるという場面に何度も出くわしました。
服は汚れ、玄関から見える家の中はゴミだらけ。声をかけても、いまいち会話にならない・・・。
すごく心配になるけど、特に危険が迫っている訳ではないし、僕も仕事があるので次の場所に行かなくてはならない・・・
自治体がこの状況を把握し、様子を見に来ている事を祈るしかありませんでした。
誰もが憧れる美しい里山風景の影には、過疎と高齢化により社会から孤立してしまった独居老人たちが想像以上に多くいるという現実を思いがけず知ることとなりました。
自民党の議員先生たちが『一億総活躍』や『地方創成』という言葉を口にする時、その恩恵を受けるはずの『国民』に、こういった弱い立場の人々も含まれているのか、よくよく疑って見る必要があるでしょう。
2016年09月09日
日本旅遊3日目・4日目
3日目
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Sさんが宿泊しているホテルからほど近い新宿中央公園で開催されているフリーマーケットに行く。 そのあと、近くのドラッグストアで台湾に持って帰るお土産として風薬と日清カップヌードルを大量買い。 カップヌードルは台湾でも売ってますが、日本で買った方が安いんだそうです。
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ちなみに前回僕らが台湾に行った時は、Sさんは彰化市の彰化火車站・扇型車庫に連れて行ってくれました。
この車庫は日本統治時代の1933年に作られたもので、戦後の各種電気機関車、ディーゼル機関車に加えて、
戦前の日本製蒸気機関車も動態保存されています。
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夜はもともと、Sさんが大宮で日本在住の友人家族と食事する予定だったので、そのまま混ぜてもらいました。
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馬肉専門店です。
馬肉と言うと、今まで赤身の刺身しか食べた事なかったのですが、今回初めて各種部位や燻製を食べてみて、
馬ってこんなに美味しかったのかと驚きました
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Sさんの友人で、台湾出身のHさんは、日本に来て初めて馬刺しを食べてハマってしまい、
今回Sさんをこの店に招待したのだそうです。
Hさんに「中国本土でも馬は食べないんですか?」と聞くと、
「基本的には中国でも馬を食べる習慣は無い。もしかしたら北部の方では郷土料理として食べるかも」との事でした。
またHさんも食に精通するお方なので、台湾・中国料理についていろいろ聞いたのですが、
Hさん曰く「中国には美味しい料理が沢山あるが、国が広すぎて食べに行くのが大変。」
「手前味噌になるけど、台湾は狭い範囲に広東や上海、それに台湾独自の食文化が集約されているから幸運だ」
と教えてくれました。
うん・・・。胃炎で1週間バナナとヨーグルトしか食べられなかった前回の台湾旅行がますます悔やまれる・・・。
こうして楽しい食事も終わり、午前0時、Sさんを新宿に送り届けて本日の観光終了。
僕は翌日から仕事に行かなければならなかったので、Sさんともお別れです。
(Sさんも翌日から2日間ホテルにこもって仕事を片付けなければならないらしい)
Sさんは来日経験あるし、スマホで何でも調べられるので、僕は車を出したくらいでガイドらしい事は何もしていませんが、
久しぶりの日本を楽しんでもらえたようで良かったです。少しは恩返しできたかなぁ。
台湾近いので、またそう遠くないうちに会う気がします。
それでは再見!
2016年09月08日
食の王子 神奈川へ行く
今年の2月、台湾を旅行した際に大変お世話になったSさんが先週来日したので、
今回は僕らが4日間、Sさんに同行して日本旅行をガイドさせていただきました。
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重度の胃炎に罹り死にそうな僕を病院に連れて行ってくれたりと、何から何までお世話になりっぱなしでした。
来日1日目
あれから半年たった9月1日、Sさんが観光兼取材のため東京にやってきたので、羽田空港でお出迎え。
Sさんが来日するのはこれが3年ぶり3度目。(1回目は小学生の頃なのであまり記憶が無いそうですが)
飛行機が到着したのは夜だったので、この日は夕飯を食べて、新宿のホテルに送り届けて解散。
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お土産にもらった台湾海兵隊(中華民国海軍陸戦隊)のキャップ。
Sさんは元陸戦隊で、このキャップは陸戦隊OB会で使われる公式アイテムです。
海軍陸戦隊のシンボルは米海兵隊のEGAの影響を受けたものですが、中央の黒い部分は中国大陸を表しています。
今でこそ台湾は台湾島独自の国家というアイデンティティを確立しつつありますが、
台湾軍はあくまでかつて大陸を統治していた中華民国国民革命軍の直系なので、
中国共産党に奪われた中国本土を奪還するという意思表示はいまだにシンボルマークに受け継がれています。
2日目
Sさんの希望で湘南へ。
なぜ湘南かと言うと、Sさんは漫画の『スラムダンク』と『湘南爆走族』が好きだから一度来てみたかったのだそうです。
ちなみに他の漫画では『魁!!男塾』も好きだと言ってました。見事にジャパニーズカルチャー輸出されてるなぁ(笑)
僕はスラムダンク読んだ事ないのですが、Sさんは事前にアニメ版OPで有名な江ノ電 鎌倉高校前の踏切に行くと決めていたので同行。
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着くと、そこは完全に観光スポットになってました。主に中国、台湾の若い旅行者が十数人いてみんな写真撮ってました。
外国でもそんなに人気だったのか。すげーなスラムダンク。
次は再び江ノ電に載って江ノ島へ。まずボートで島の西側の岩場に行って、そこから島の中を歩きます。
思いのほか暑くて、階段を登っているうちに二人とも超汗だく。キツイ・・・。
お互い運動不足が祟り、景色なんて目に入らないくらいグロッキーになりながら階段を登りました。
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でもお昼に食べたシラス丼は美味しかったです。
江ノ島の次は新江ノ島水族館へ。
すごく綺麗で、規模も大きくて見応えありました。
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なお、Sさんは台北ウォーカーで記事を書くくらいのプロの料理人・グルメライターなので、
「あの魚は刺身にすると美味い!」「あれは高級魚だよ~!」と、
水槽を泳ぐお魚さんたちを完全に食材とみなしていました。
僕は、「なんで周りはカップルだらけなのに、俺は外人のおっさんと二人きりで来てるんだろう」と、一瞬しんみりしました。
水族館の次は横浜に移動し、中華街へ。
定番の関帝廟をお参りしたあとここで夕飯を食べたのですが、Sさんの希望で食べに行ったのは、
華やかな中華街のビルとビルの間の路地にひっそりと佇むこちらのお店。
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見た目は正直、中華街らしからぬと言うか、日本中どこにでもありそうな昔ながらの地味~な中華料理屋さん。
また店内も、店の人の孫らしき小学生がテーブルで宿題やってるというパーフェクトなローカルさです。
しかし実はこちらは、日本に来た中国人の間で話題になるくらいの名店なのだそうです。
(店内には日本の有名人のサインも沢山飾ってあったので、知る人ぞ知るって感じの隠れ有名店っぽい)
Sさんもネットでその情報を知り、わざわざこの店に来るためだけに中華街に出向いたくらいです。
実際に食べてみて、確かに美味しいです。料理はいわゆる日本人向けの『中華』ではなく、ちゃんとした広東料理であるにもかかわらず、本場の味に馴染みの薄い僕のような人が食べても素直に美味しいと感じる、懐の深い味わいでした。
お腹も膨れたところで、このあとはSさんを新宿に送り届けて解散。
でも昨晩もそうだったけど、Sさんはこのあと日本に住んでいる台湾人の友達と再度ご飯を食べて、
さらにホテルに戻ってからも仕事として食レポ記事を書かなければならず、
連日睡眠時間が2時間というハードな旅を続ける事になります。
3日目・4日目に続く