2020年04月26日
STAY HOMEその1
コロナが有ろうが無かろうが、元々根暗なので休みの日は家から出ないのですが、撮影会が出来なくなった事で急におあずけくらった気分になったせいで、むしろ数年前から放置していた服の改造をやる気が出てきました。

今回ベースとするのはYMCLKY製の米軍TCU(5thモデル)風ジャケット。
実際のTCUはポプリン/リップストップ生地ですが、こちらはファッション向けにコットン生地で出来ています。
それが今回の改造ベースにはうってつけなのです。

胸ポケットを外して、下膨れ状の形状を出来るだけ直線的に修正。そしてこれを服に水平に縫い付ければ完成。

ベトナム共和国軍が米軍TCUのデザインを模して1972年頃に導入したTCU型4ポケット作戦服を再現しました。
このTCU型ジャケットにはいくつものバリエーションがありますが、今回はカーキのTCU型で最もオーソドックスな(気がする)水平ポケット・隠しボタンのタイプを再現しました。
設定はベトナム戦争末期の1974年~1975年にかけて大きな活躍をした、第3騎兵旅団第22騎兵大隊(M48戦車大隊)の戦車兵です。

▲ベトナム軍TCU型(水平ポケット・隠しボタン)作戦服の使用例
(第2騎兵旅団第19騎兵大隊)

なお胸ポケットだけではなく、背面にもベトナム製4ポケット作戦服各種によく見られるウエスト調整ストラップを付けました。
(切り離した袖のカフスを移植)
すでにM24チャーフィー、M41ウォーカーブルドッグを使った戦車兵コスプレは撮影済みだから、次はこの服を着てM48パットン戦車で撮ってくるのが目標です。


ドイツ軍のヴィットマン風に撮ろうと思ったら、体の向きを間違えました。
2018年03月09日
3年ぶりのバンコク撮影会
久しぶりに台湾とタイを旅してきました。
タイでは友人たちのご厚意で、再びバンコクで撮影会を行う事が出来ました!
この時が来るのを3年間待ってたぜ!
前回の撮影会はこちら『タイでコスプレ 撮影会編』
ベトナム空軍パイロット
(飛行服は友人からの借り物)



一緒に撮影会をやったタイ人の内2名がたまたまドンムアン空港で働いてる本職の航空整備士だったので、
飛行前にパイロットが行う簡易点検を一通り教えてもらいました。


間の悪い事にH-34やUH-1などヘリコプターが展示されている建物は改装工事中で入れず、
残念ながら今回はヘリはおあずけ。
ベトナム陸軍装甲騎兵




念願のM41ウォーカーブルドッグとM113APCで撮影成功!夢がまた一つ叶ったよ。
すでにM24軽戦車では撮ってるから、残すところはM48パットンだけだな。
今回一緒に遊んでくれたタイのリエナクターグループ
Pad1968 (ベトナム派遣タイ軍)
バンコク第十八歩兵師団 (日本帝国陸海軍)
の皆さま

撮影の後はみんなでチャトチャックマーケットに移動してミリタリー系の店を周り、
その後また移動して友人お勧めのタイ東北料理レストランで夕飯を食べました。

ご飯を食べながら日本とタイのリエナクトメントイベントについて話し合いましたが、
彼らもなかなかに意識高くて、うちらも負けてられないなと思いました。
みんな、ありがとー!!!
またそのうち会おうね!
2016年09月14日
ベトナム戦争と戦車
関連記事『装甲騎兵』
戦車はベトナムに不向き?
一部のマニアの間では昔から「ベトナムは水田とジャングルばかりで戦車は役に立たなかった」という説が囁かれているそうですが、必ずしもそんな事はありませんでした。地域にもよりますが、実際にはベトナムはハリウッド映画で描かれるほど水田やジャングルだらけではなく、むしろ地平線を見渡せるほどの広大な原野が各地にみられました。

▲ビンロン省アンロク, 1972年
またベトナム戦争当時、アメリカ陸軍はベトナムにおける機甲部隊の運用について調査を行い、以下の見解を示していました。
・南ベトナムの国土の65%で現代的な戦闘車輌群が使用可能
・雨季においても、戦車(※)は南ベトナムの国土の46%を走破可能。水陸両用機能を付加されている装甲兵員輸送車(APC)はそれ以上 ※アメリカ陸軍の調査なのでM48戦車での数値
・起伏にとんだ地形やジャングルは現代的な機甲部隊の戦術展開に何の支障にもならない
【引用】 要塞戦記: ヴェトナム戦争アメリカ軍ファイヤーベース PART.1, 秋田郁夫, wardroom, 2011年
中東やヨーロッパの平原に比べれば少ないかもしれませんが、それでも国土の65%、雨季でも46%という数字は決して小さくはないでしょう。当時のベトナム共和国の面積が173,809km²なので、その65%は107,761km²、日本の本州の約半分に相当します。また46%でも79,952km²で、北海道より少し狭い程度です。これだけ広大な地域で戦車部隊が運用できたのですから、ベトナムの地形が特別機甲部隊に不向きだったとは言えません。
そもそも機甲部隊の装軌車輌(キャタピラ車)は、通常の装輪車輌(タイヤ)では通行困難な悪路を、装輪式よりも大きな重量で走破できる事が強みです。だからこそ、世界中の戦闘車両や建設重機が装軌式を取り入れている訳です。
装軌式が装輪式よりも走破性が良いのはひとえに接地圧の低さの賜物です。どんなに重量があっても、広い面積で地面と接していれば圧力は分散され、ぬかるみに嵌りにくくなります。雪の上を歩くかんじきやスキー板と同じ原理です。逆に軽い物でも、地面と接する面積が小さければ荷重が一点に集中するため地面へのめり込みは大きくなります。この接地圧は"psi (重量ポンド毎平方インチ)"という単位で表され、以下の数値が目安とされています。
M113A1装甲車 7.8 psi
成人男性 8 psi
M41A3軽戦車 10.2 psi
T-54/55戦車 11.5 psi
M48A3戦車 11.8 psi
馬 25 psi
乗用車 30 psi
象 35 psi
ハイヒールを履いた女性 471 psi
ハイヒールの先っちょは重量約52tのM48戦車の40倍も接地圧が大きいというのは驚きですね。(あくまで地面へのめり込みやすさを示す数値であって、実際にハイヒールに戦車40台分=2080tの荷重がかかる訳ではない)
つまり、重量約12tのM113装甲車の雪やぬかるみに対する沈みにくさは、人間の足とほぼ同じなのです。また重量52tのM48戦車ですら、乗用車の約1/3程度の接地圧という事になります。そのため、自動車が通れないような水田や湿地帯でも装軌車輌ならば平然と進むことができます。また樹木などの障害物も、その低い接地圧と強力なエンジンの力でブルドーザーのようになぎ倒しながら進める、究極のオフロード性能を備えています。
また、戦車・装甲車輌の運用というと必ず車重の問題が語られます。確かに、十数tを超えるような装甲車輌では、その重量に耐えられる橋が無いなどの問題が発生します。しかし、(敵に橋を破壊される場合もあるので)現代の戦闘車両は多少の川なら橋を使わなくてもそのまま渡河できるよう設計されていますし、それが無理な場合でも機甲部隊には必ず架橋車輌が装備されている為、橋を通行できるかどうかが運用上の決定的な問題になる訳ではなかったという事が当時の戦車の配備状況からも見て取れます。
機甲部隊の主役M113APC
戦闘の結果は、政府軍側がゲリラに対し想定を上回る損害を被るという事実上の敗北でしたが、M113の湿地帯での有効性は認められ、以後ベトナム陸軍装甲騎兵部隊は終戦までに1,600輌を超えるM113シリーズを配備していきます。またベトナム派遣アメリカ軍および自由世界軍も同様にM113を多数装備し、M113はベトナム戦争を代表する装甲車両として記憶されます。
届かない戦車
かつてアメリカ軍は朝鮮戦争において、朝鮮半島の山がちな地形を「戦車に不向き」と判断し、戦車の配備を控えたが為に北朝鮮・中国軍のT-34戦車によって大損害を受けた経験があるため、ベトナム戦争の頃には戦車という兵器が『陸の王者』であるということをはっきり認識していました。しかしその一方で、1965年にアメリカ軍の大規模派遣が開始された当初、ベトナムには地形とは別の面で機甲部隊、特に戦車の展開を妨げる要素がありました。それは港湾施設のインフラ不足です。
そもそも南ベトナムの港湾施設はアメリカ軍の受け入れを想定したものではなかったため、大量の軍事物資を陸揚げできるキャパシティを持ち合わせていませんでした。当時ベトナム最大の港であったサイゴン港ですら、沖合には陸揚げの順番待ちをする米軍輸送船が渋滞している状態で、カリフォルニア州サンディエゴ軍港からの10,000マイルの航海よりも、サイゴン沖で入港の順番待ちをしている日数の方が多いといった有様でした。その為、先に上陸したアメリカ軍部隊への補給、基地建設の資材、そして最も重量級である戦車の陸揚げは遅れに遅れていました。
▲サイゴン港で物資を陸揚げするアメリカ軍 [1966年7月サイゴン]
この当時はまだサイゴン港に大型のガントリークレーンが整備されておらず、50t級のM48戦車の陸揚げは容易ではなかった。
しかしその間も、地上部隊は機甲部隊抜きで作戦を実施しなければならなかったため、新たに考案されたのがヘリコプターの大量投入による空中機動戦術でした。こうして港湾インフラの不足は結果的に、ベトナム戦争にヘリコプターが活躍する新しい戦場の姿をもたらし、現在に至るまでそのイメージが定着しています。ベトナム戦争における戦車の活躍があまり記憶されていないのは、こういった派遣初期の戦車不足と、ヘリコプター戦術のインパクトのせいなのかも知れません。
しかし、いくらヘリコプターの有効性が認められたとしても、常に歩兵部隊に随行し、攻撃・防御の要となる機甲部隊の必要性は何も変わっていませんでした。また、派遣兵力の増強と共に装備・兵站物資の需要も高まる一方であったため、各地に小規模補給港を新設すると同時にカムラン港湾の大規模整備が急ピッチで進められます。そして米軍の本格介入から2年経った1967年、ようやく港湾インフラがある程度整ったことで機甲部隊の配置が加速していきます。
▲アメリカ陸軍第1歩兵師団のM48A3戦車 [1966年サイゴン郊外北部]
▲オーストラリア陸軍のセンチュリオン戦車 [1970-1971年頃 ベトナム]
※米・豪軍は僕の専門分野ではないので、今回は割愛します。
M41軽戦車の活躍
アメリカ軍が装備するM48戦車はその重量から思うように港への陸揚げが進まなかった一方で、アメリカがベトナム陸軍に供与していたM41A3ウォーカーブルドッグ軽戦車はM48の半部程度の重量しかなかった事からM113同様重量による制約が比較的少なく、配備は順調に進んでいきました。1965年初頭からベトナム陸軍の各騎兵大隊に装備が開始されたM41は、最終的に214輌が配備され、M113と共にベトナム戦争における機甲戦術の中核を担うことになります。
▲北ベトナム軍のイースター攻勢に対抗しフエ市街に進撃するベトナム陸軍騎兵大隊 [1972年5月トゥアティエン省フエ]
M41は軽戦車であるため装甲は貧弱であり、共産軍歩兵が装備する対戦車擲弾発射器RPG-2の強力なHEAT弾頭を防ぎきることはできませんでした。しかしRPG-2の射程は100mほどと短く、また命中精度も決して高くないため、待ち伏せが予想される視界不良地の通行を避け、同時に随伴歩兵と連携する事で、RPG-2による被害を最小限に抑える事は可能でした。
またM41は敵のT-54/55戦車を撃破するのに十分な威力の76.2mm戦車砲を搭載していました。実際に1971年のラムソン719作戦以降、1975年のサイゴン防衛線まで幾度もT-54/55との戦車戦が行われましたが、その度にM41は友軍部隊との連携も相まって圧倒的なキルレシオで敵戦車を撃破しています。
北ベトナム軍機甲部隊の南侵
1970年代に入ると北ベトナム軍の戦術は完全に機甲部隊が主体となり、上で述べたようにベトナムでは大規模な戦車戦・対戦車戦闘が幾度も繰り広げられました。これは、北ベトナム軍にとっても、南ベトナムの地形が戦車を運用するうえで大きな障害にはならなかった事を意味してます。
またさらに、北ベトナム軍機甲部隊は南ベトナム領内に侵入するためにラオス・カンボジア領内のホーチミントレイルを通行して来た訳ですが、それはつまり、戦車がトリプルキャノピーと呼ばれる密林や、第2次大戦で使用された全爆弾量を遥かに上回る規模の絨毯爆撃にあった地域を数百kmも進軍できた証です。
このように、戦車・装甲戦闘車輌が持つ高い不整地走破性は、むしろベトナムのような地形でその真価を発揮するものでした。
▲押し寄せる北ベトナム軍戦車にM72ロケットランチャーで対抗するベトナム陸軍レンジャー部隊 [1972年ビンロン省アンロク]
おまけ
▲無線遠隔操縦仕様M41軽戦車 [2014年アホカリ]
2016年04月06日
先週末
土曜日
プチ生活体験&撮影会: ベトナム共和国軍地方軍, 中部高原のどこか, 1968年
初の試みだったので全てが行き当たりばったりでしたが、課題の洗い出しもでき、次に繋がる経験が出来たと思います。
小雨が降ってて一日中寒かったけど、ラオス・カンボジア国境に接する高原地帯も気温が10℃くらいまで下がる事があるそうなので、これはこれでリアルな天候です。


日曜日
コスプレ: ベトナム軍装甲連隊兵士とフランス軍M24軽戦車, ハノイ, 1954年
今年は第一次インドシナ戦争期で。
ディエン・ビエン・フー行きを志願し、ハノイを発つ直前という感じで。
ディエン・ビエン・フー行きを志願し、ハノイを発つ直前という感じで。

2016年01月17日
ボタン比較
柄にもなく、真面目に手持ちのベトナム共和国軍作戦服(戦闘服)の実物ボタンと、各社のレプリカのボタンを比較してみました。




※出来るだけ目で見た色味に近付くよう調整しましたが、それでも照明やモニター等の環境によって色は違って見えます。
※ボタンを外してまで正確に測る気はなかったので、厚みはなるべく厚そうな部分にノギスをつっこんで測った数値です。
今のところ、過去にチャーリーさんが制作した2ポケット緑色(肩当付き)作戦服に付いていたボタンが一番出来が良いと思います。
こうして並べてみると若干黄緑色が強い気もしますが、単体で見れば区別つかないレベル。なので僕はこのボタンを実物作戦服の補修用に使っています。
ただしチャーリー製作戦服はだいぶ昔に販売終了してますし、ボタン単体では出回ってないので入手困難です。
なので僕は長らく、色形の似たボタンということでMASHさんの米軍OG-107作業服用ボタンをメインの代用品として使ってきました。
しかしこのOG-107ボタンはパッと見違和感はありませんが、やはりよく見ると色味はベトナム軍のグリーン色と言うよりはOD色ですし、形も中心部が膨らんでいるので、その部分は妥協するしかありませんでした。
ところが一昨年、ついにクラッシファイドさんより2ポケット作戦服のレプリカが発売され、そのボタンも単体で買えるようになりました!→RVN 南ベトナム軍 ユニフォーム用 OD ボタン 20個セット レプリカ新品【DM便可】
現在唯一入手可能なベトナム軍ボタンのレプリカであり、補修や改造に大変重宝しています。ありがたや、ありがたや
しっかし、こうして見るとベトナム軍作戦服のレプリカって意外と多くのメーカーが作ってるんですね。
上記の他にもアメリカやフランス、香港、台湾などのメーカーからも発売されていましたし。
よくよく考えると、レプリカ軍服の豊富さで言えばベトナム軍は、軍装趣味の王道であるアメリカとナチス・ドイツの次くらいに恵まれているのかも。
まして同じインドシナ諸国でも、ラオスやカンボジアの軍服が商品化される見込みは皆無だし。
ラオス王国軍は出たら必ず買うんだけどなぁ。
おまけ (またいつもように、ただYoutube動画を貼るだけ)
▲ベトナム共和国海軍の訓練・教育とその指導に当たる米海軍軍事顧問 (1962年9月2日)
第一共和国(ジェム政権)期の海軍の動画はかなり珍しいと思います。
▲第25歩兵師団の戦闘 (ハウギア省, 1972年11月13日)
▲ベトコンによる国立報道センター爆弾テロ事件 (サイゴン, 1970年2月10日)
▲FSBダクトの砲兵とレンジャー部隊 (コントゥム省ダクト・トゥカイン, 1970年4月14日)
▲クアンチの戦い (クアンチ省クアンチ, 1972年8月7日)
▲カンボジア領内で作戦中のレンジャー部隊 (クメール共和国Krek, 1971年11月27日)
▲パトロール中の装甲騎兵部隊 (タイニン省, 1973年1月21日)
M48戦車を装備していることから、歩兵師団付きの騎兵大隊ではなく、軍団付き騎兵旅団の騎兵大隊(独立戦車大隊)のようです。
2015年04月08日
2014年03月17日
M41 vs T54
少し前に書いた記事『装甲騎兵』に載せたように、南ベトナム軍の装甲騎兵(機甲)部隊は、1965年以降M41ウォーカーブルドッグ軽戦車(M41A3)を200輌以上装備し、ベトナム戦争における機甲戦力の中枢を担っていました。M41と言えば、陸上自衛隊でも(西ドイツ軍で使われなくなった車輌が)アメリカから供与され、一部は80年代初めまで現役だったという日本人にも馴染み深い戦車だと思います。
そのM41についてですが、上記の記事を書くにあたって資料を調べていたところ、南ベトナム軍のM41A3軽戦車が北ベトナム軍のT54戦車を撃破しまくったという証言がいくつも出てきました。中でも南ベトナム陸軍(第3軍団)第3強襲団司令官チャン・クァン・コイ准将の証言によると、特に1971年の『ラムソン719作戦』では、ラオス領内に進攻した第1騎兵旅団所属のM41A3軽戦車部隊が、1輌の損失もなくT54戦車6輌、PT76水陸両用軽戦車16輌を撃破する大戦果を挙げたそうです。コイ准将は、当時装甲騎兵部隊の軍事顧問だった米陸軍レイモンド・R・バトリアル大佐から、クレイトン・エイブラムス将軍に並ぶ「パットン将軍の後継者」と謳われたほど、ベトナム戦争で最も戦果を挙げた機甲部隊指揮官でした。
僕はこの証言をそのまま記事に書いちゃいましたが、よくよく考えると「本当にウォーカーブルドッグなんかでT54を倒せるの?それも圧倒的優勢で」と不安になってきました。だってM41とT54では、見た目からしてT54の方が強そうなんですもん。


※ベトナム人民軍ではT54とその発展型であるT55はまとめて"T54/55戦車"と扱われており、またT54を中国がライセンス生産した"59式戦車"も使われていましたが、この記事ではこれらは全てを総称してT54戦車と書いています。
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