2023年01月15日
銀英伝2周目
※2023年1月25日更新
銀河英雄伝説の劇場版がリマスター上映されると聞いたので、さっそく観てきました。
内容はすでに知っているのですが、あらためて映画館の大画面で見ると良いものです。
しかも喜んでいいのやらどうやら、私が観た上映時間に、観客は私一人。
まさかのシアター丸ごと貸し切りで見ることが出来ました。贅沢な時間でした。
そして劇場版を見て気分が盛り上がったので、プライムビデオで本編の再視聴を開始。
ただでさえ話数が多くて長いのに、本編観るのは数年ぶりだったので、また新鮮な気持ちで観れています。
この作品はあくまでフィクションであり、エンタメ作品。
でも作品内で扱われる、民主主義の在り方に関する問題については現実に通じるものも多く、それがこの作品の魅力の一つと言えるでしょう。
一方、現実世界において、私が一時は同志として寝食を共にして活動したベトナム民主化運動グループや、元ベトナム共和国軍人の中に、ヤン・ウェンリーのように民主主義の精神を理解し、心から尊ぶ人はほとんど居ませんでした。
詳しくは書きませんが、私は活動の中で色々失望して(逆に向こうは私に失望したはず)、現在のベトナム民主化運動からは完全に手を引きました。
これは言い訳にすぎませんが、例えば三国志の研究者が現在の中華人民共和国の民主化運動に役に立つことは無いでしょう。
私は半世紀前に滅び去った国の歴史を愛好する、単なる変わり者の外国人であり、そんな人間はそもそも必要とされていないと思い知りました。
ただし、そんな器の小さな私から見ても、「そんなんじゃ永遠に無理だろ・・・」と思うような状態だっと述べておきます。
思えばベトナムにおいて民主主義が(形だけでも)政体として存在したのは1967年~1975年の約8年間(ベトナム共和国における第二共和国期)のみ。それも壮絶な内戦(ベトナム戦争)の最中。
北ベトナムに至っては、歴史上今まで一度も民主主義を享受した事がありません。
1975年以降難民としてアメリカや日本に渡った人々は、一応民主国家に住むことになりましたが、そこでその恩恵は受けこそすれ、その根本にある精神まで吸収する事は叶わなかったようです。
そもそもアメリカ人や日本人ですら、たまたま生まれた時から民主主義が制度としてそこにあっただけで、自ら勝ち取った世代はもう居ないので、その精神的な部分については忘れられている、あるいは大きく誤解されており、民主主義そのものをずいぶん粗末に扱っているのですから、これをベトナム人だけの問題と思ってはいけませんが。
国家の基本理念をフィクション作品を通じて語る事が愚かなのか、あるいはフィクション作品の中にしかまともな例が無いこの理念そのものが有名無実なお題目なのか。
できれば前者であって欲しい。
2023年01月02日
陽暦節2023
新年あけましたね!(喪中なのでこの表現)
喪中ですと神社に初詣する事はできませんが、仏教寺院ならOKだそうなので、今年もグレゴリオ暦の新年(陽暦節)を祝うベトナム寺の初詣に行ってきました。
もう10年くらい前から初詣は毎年このお寺なので、ここにお参りしないと新年が始まった気持ちがしないのです。
彼らは今回僕が誘うまでこのお寺の存在を知らず、来日してから今まで、こういったベトナム人コミュニティーに足を運んだ事が無かったのだそうです。
なので日本でこんな盛大にお祭りをやっている事に驚いていました。ベトナム本国では安全上の理由から禁止されてしまった爆竹も、日本ではまだ健在です。
遠い異国の地で働く同僚たちに、少しでも故郷の雰囲気を味わってもらえたなら嬉しいです。
2022年12月01日
NKTおじさんコンバットマガジンデビュー
友人から連絡を受けて知ったのですが、コンバットマガジンの2022年12月号および2023年1月号に、当ブログで度々紹介している「NKTおじさん」ことファム・バン・ホア(米国名ホア・ファム)氏のインタビュー記事が掲載されました!
しかも2023年1月号では雑誌の表紙まで飾っています。

よく知っている人なので、書店でこの表紙を見て、つい吹き出してしまいました。
ホア少尉についてはこちらの過去記事をお読みください。
僕がホア少尉とリアルで会ったのは2回。
1回目は黒塗りのメルセデスにサングラス、スーツ姿で僕を迎えに来て、家に連れて行ってくれました。
なんでも、アメリカに移住した当時、アジア人はよくチンピラにからまれたので、舐められないよう映画ゴッドファーザーで見たイタリアンマフィアの服装を真似して、懐にはピストル(不法所持)を忍ばせていたそうです。それ以来、そういうスタイルが好みなのだとか。

この時、ホア少尉からブー・ディン・ヒュー著『Lực Lượng Đặc Biệt(特殊部隊)』と『Cuộc Chiến Bí Mật (秘密戦争)』全4巻の計5冊をプレゼントして頂きました。

当時LLĐBやNKTに所属したベテランの証言をまとめた本です。
なんでも、この本は在米ベトナム人コミュニティー内のみでの販売であり、どうせ一般のアメリカ人は読めないので、まだペンタゴンが機密指定解除していない情報も書いちゃった。てへっ
だそうです(笑)

2022年09月24日
西か東か
※2022年9月27日更新





先日の雨天撮影会で雨に当たったせいで、56式自動歩槍の金属パーツ全体に大量の白サビが発生してしまいました。
発生からあまり時間は経っていないので、錆は表面だけで内部には達していませんが、あまりに見た目が悪いのでスプレーブラッセンで再塗装しました。


過去記事『ベトナム戦争期の56式/K-56』でも書きましたが、このトイガンはマルイのAK-47に56式フロントサイトキット(メーカー不明)を組んで初期型の56式を再現した物です。
ただし、キットに付属していたプラ製銃剣は折れてしまったので、代わりにリアルソード製56式(後期型)用の銃剣を加工して無理やり取り付けています。
僕はもともと、この56式をベトナム共和国軍の特殊部隊コスプレの為に持っており、特殊部隊では銃剣を外している事も多かったので、折れた銃剣はそのままにしていました。
しかしその後、FANK(クメール国軍)用にちゃんとした56式が必要になったので、銃剣を修復した次第です。

▲カンボジア内戦初期のクメール国軍兵士 [1970年]
こう見えてギリ西側陣営。(60年代まで東側寄りの第三世界だったけど、1970年のクーデター以後アメリカの同盟傘下に転向)
反対に、1959年に西側から東側に転向したキューバでは、革命から60年以上経った現在でも、革命前の旧キューバ軍(バティスタ政権)が装備していた米国製の火器や装備が今も一部で使われている模様。

まぁ、装備品に関しては、すべての装備を新型(東側式)に更新しきるほどのお金は無いから、以前から有る物(米国製)をそのまま使っているんだろうなと理解できます。
しかし帽子はどうなってるんだ??

キューバ革命軍陸軍の作業帽は、旧キューバ軍が使用していた米陸軍式のリッジウェイキャップ(M51フィールドキャップ亜種)をそのまま継承。カストロもいつも被っています。
さらに、その隣の米陸軍式ベースボールキャップ(ホットウェザーキャップ)に至っては、旧キューバ軍では使用されておらず、明らかに革命後に新規に導入しています。なんで?
(キューバ革命軍のベースボールキャップは側面がメッシュになっており、米軍そのままという訳ではありませんが)
僕は中南米の軍装に関しては門外漢なので、どなたか事情をご存じの方がおられましたらご一報ください。
また過去記事『ベトナム人民軍の南ベ復古?』で書いたように、現在のベトナムでも、アメリカ海軍・海兵隊(および旧ベトナム共和国軍)式の八角帽(エイトポイントカバー)がベトナム人民軍・人民自衛軍団(民兵)・民間警備会社等で広く使われています。
あの記事を書いてから8年経ちましたが、なぜ共産主義国家がかつての敵国である米軍式の帽子を新規に導入したのか、いまだに納得のいく答えは得られていません。
なんかベトナムもキューバも、単に「かっこいいから」という理由だったような気がしてなりません。
2022年08月17日
夏の思い出
今年のお盆休みは、ベトナムで5日間過ごしてきました。









ベトナムには今年の3月に映画撮影ロケで行ったばかりですが、今回は純粋にバカンスを楽しんできました。

タンソンニュットに着くと外は雨で、気温はなんと24℃。
日本より10℃も低い!ベトナムとは思えない涼しさでした。
寝床は今回もドンタップ省にある友人の実家。
親戚同士が隣同士で、一つの大家族として住んでいるので、夕方は親戚で集まりほぼ毎日宴会が開かれました。


生まれて初めてネズミを食べました。
味や触感は手羽先みたいなもので、普通に食べれる味です。
でもやっぱり見た目がキモいので、1匹食べて止めました。

家で飼ってるワンコがやたら僕に懐いてくれました。
そして今回も家族旅行に同行させてもらい、ベトナム南西部を巡ってきました。
まず、カンボジア国境沿いにある有名なお廟の主處聖母(Miếu Bà Chúa Xứ Núi Sam)をお参り。


そこからさらに西に移動して、ハーティエン市の海鮮市場で食材を購入。

そしてハーティエン市のムイナイ浜で海水浴。
海鮮市場で買ったエビやカニを、浜辺のレストランで調理してもらい食べました。


遠出したのはこのハーティエンのみで、あとはドンタップ省内をバイクで行ける範囲でちょっとコーヒーや食事に行った程度です。
あと日本への帰国に必要なPCR検査のために、ヴィンロン市内の病院まで2往復。(検査と陰性証明書受け取り)
最終日なんてやる事なくて、ずっと家の中のハンモックで寝ていました。
今回は、これまでの旅行と違ってミリタリー・歴史趣味に関する事は何もありませんでしたが、元々ベトナムに関係する事全てが趣味みたいなものなので、これはこれで得るものがあります。
休みが明けて今日からまた退屈な日常に戻った事で、あの5日間がいかに贅沢な時間だっかのか、今になってじわじわと感じています。
2022年06月27日
癒しの動物園
最近立て続けに動物園に行ってます。
僕は元々、犬や観賞魚は好きだったのですが、ペットにならない野生動物についてはそんなに興味はなく、動物園などは子供の頃に1・2回行ったことがある程度でした。
ところがこの1年くらい、Youtubeのへんないきものチャンネルさんをよく見るようになり、それからいろんな生物に興味が湧き、動物園に行くのが楽しみになりました。
動物園と言うと子供を連れていくレジャー施設というイメージがありますが、一方で動物園・水族館には野生動物を飼育研究する学術機関としての側面もあるので、大人になってある程度知識を持った上で展示を見ると、より楽しめると思います。
2022年3月:サイゴン動植物園
僕はどうしてもアジア最古の動物園として名高いサイゴン動植物園をこの目で見たかったので、僕一人だけロケから抜けて園内を散策してきました。
こちらは動植物園という名前の通り、植物園としてもとても美しい展示をしており、都会の喧噪を忘れてゆったりと動植物を楽しめる素晴らしい場所でした。
ちなみに数年前、ホーチミン市当局がこのサイゴン動植物園を閉鎖して大型駐車場に変えるという愚かな計画をしている事が報道されました。これにはベトナム国内で反対運動が起り、計画は中断されたようですが、この一件はベトナムがいかに中共式開発独裁・拝金主義に毒されているかを物語っています。(政府当局だけでなく一般市民の中にも、経済発展の為ならこんな古臭い動物園くらい潰しても構わないという声は少なからずあります。)
当日は、ロケが終わってみんな移動すると連絡が来たので園内には2時間しか居られませんでしたが、できれば一日かけてゆっくり見たかったです。
2022年5月:埼玉県こども動物自然公園
自分の住んでいる県、しかも都心からそこまで遠くない距離にこんな大きな施設が存在していたとは驚きでした。
またカンガルーなどは、人が歩くルート上に半ば放し飼い状態になっており、こんなに近付いて大丈夫なのかと思うくらい近い距離でじっくり見ることが出来ました。
当日は見学途中で雨が降り出してしまい、園全体を周る事ができなかったので、いずれ再訪問したいと思います。
東武動物公園は動物園に加え、遊園地やプールも併設された総合レジャー施設です。
この東武動物公園には子供の頃父親と行ったのですが、その時は園内のジェットコースターなどの乗り物の思い出がメインで、動物の事は覚えていませんでした。なので動物の展示は今回初めて見るようなものであり、世界的に珍しいホワイトタイガー(白毛のベンガルトラ)の他、鳥類最強の攻撃力で有名なヒクイドリも初めて実物を見ることが出来ました。
なお今回ジェットコースターには乗りませんでしたが、VR体験アトラクションがあったので、それで遊んできました。
生きた動物というのは何回見ても飽きないので、このまま月一ペースで行くのもアリだなと思っています。
2022年05月16日
ベテラン訪問
3月のベトナムロケで取材させて頂いた元ベトナム共和国軍将校のお二方との記念写真です。
元陸軍装甲騎兵将校

氏は友人の祖父の異母兄弟で、6年前のベトナム初訪問の際にもお話を伺いました。
1968年のマウタン(テト攻勢)以降、M113装甲兵員輸送車部隊の指揮官として終戦まで戦ったお方です。
マウタン1968ではサイゴン川の対岸に終結した共産軍に対し、車載のM2重機関銃を撃ちまくって撤退させたと思い出を語ってくださりました。

僕が日本の友人と共同で製作したベトナム共和国軍コンバットレーション、『Cơm sấy(乾燥米)』の自家製リプロをお披露目。
「そうそう、これ食ってた」と懐かしんでいただけました。
元陸軍特殊部隊/レンジャー部隊将校

この方はかつて特殊部隊(LLÐB)隊員として、米豪軍と共にCIDG部隊を指揮したベテランです。
1970年にCIDG計画が終了し、各国境特殊部隊キャンプのCIDG部隊が陸軍レンジャー部隊(BÐQ)に編入、国境レンジャー大隊(BÐQ Biên Phòng)として再編されると、氏もレンジャー部隊に転属し、引き続きCIDG隊員で構成された国境レンジャー大隊を指揮しました。

氏の腕に残るLLÐBの精神的シンボル=棺桶の入れ墨。
棺桶は「もう自分用の棺桶は用意してある」=「死ぬ覚悟はできている」という決意を意味しているそうです。

戦時中は棺桶がデザインされた非公式パッチも存在し、一部のLLÐB隊員たちの間で胸ポケットに着用されまた。
なお肝心のインタビューはベトナム語で行われたので、僕は内容をあまり理解できていません。
ただ、撮影を終えたあと監督がインタビューの謝礼にと、二人に現金を渡したのですが、そのお金がドンではなく米ドル札だったのは印象深かったです。
別に米ドルを有難がっている訳ではなく、(米ドルが一番両替し易いというのはあれど)本質的にはどこの国の紙幣でも別に構わないのです。
ただ少なくとも、ホーチミンの肖像が入った金など渡したくないし受け取りたくないというのが、インタビューする側、される側共通の心情でした。
2022年04月28日
カフェー・キムソン
前回『BGIと飲料ボトル』で1975年以前のラルーとコンコップの瓶を紹介しましたが、これらをプレゼントしてくださったのが、チャーヴィン省チャーヴィン市内にある喫茶店キムソン(Kim Sơn)のマスターです。
このお店はマスターが趣味で収集したベトナム(特に南部)のアンティークアイテムが店内所狭しと大量に展示されている、ベトナム近現代史好きにとってはたまらないお店です。

お店に展示してある品々
全部解説してるとキリが無いので、僕の趣味的に気になった物をいくつか紹介します。
①ベトナム共和国軍陸軍工廠製栓抜き(1969年製)
かつてサイゴン市内に存在した陸軍工廠(Lục quân công xưởng)が製作した栓抜きです。こんなものが存在したんですね~


②USAID供与ラジオ
ベトナム戦争期、USAID(アメリカ国際開発庁)によってベトナムに供与された民生品のラジオです。ラジオ自体は普通の市販品ですが、正面左下にUSAID供与を示すシール(星条旗と握手のイラスト)が残っています。


③ベトナム共和国切手収集ファイル(1971年)
ベトナム国内の切手コレクターが収集したファイルです。切手は全てベトナム共和国時代の物であり、またファイルには元の持ち主が記したと思われる1971年の日付がありました。これは友人がキムソンのマスターから購入しました。


④M72対戦車ロケット
お店の一角にはミリタリー物もいくつか飾ってあり、店先には使用済みのM72ロケットが乱雑に立てかけてありました。武器系は買ったところで飛行機で持って帰れないので、いじくりまわして遊んでました。

歴史アイテムに囲まれて、歴史好きの仲間と語らいながらアイスコーヒー飲むの幸せ~
惜しむらくは、このお店が僕の家から4,500kmも離れた場所にあること。近所にあったら毎日通っちゃいますよ。
2022年04月13日
夕陽之歌
※2022年4月14日更新
今回ベトナム紀行はいったんお休みして、最近マイブームの『夕陽之歌』について。
(僕は映画の方でこの曲を知ったので、原曲が近藤真彦のものだったと知ったのは実はつい最近の事でした笑)
先日この映画を見直していたら、無性に夕陽之歌をカラオケで歌いたい衝動に駆られてしまったのです。
英雄本色III自体についもいずれ記事にしなくてはと思っていますが、まずは大好きな主題歌を歌えるように練習しました。
しかし当然僕は広東語はできないので、歌詞に仮名が振ってあるサイトがないか、インターネットで探したのですが、ヒットしませんでした。
なので仕方なく自分で仮名を振る事に。
まず、歌をそのまま聞いただけでは発音があいまいで聞き取れない部分が多いので、歌詞を細かく区切って、こちらの広東語読み上げツールで文節ごとに発音を確認(カタカナ化)します。
その上で、実際にアニタさんが歌っている声を聴き、機械読み上げでは表現されない、歌う上での発音に近付くよう修正しました。
こうして自分用に作ったカタカナ歌詞が以下になります。
夕陽之歌作詞:陳少琪 作曲:Kohji Makaino
――――――――――――――――――――前半――――――――――――――――――
ツェーユモハン モノイズィ ヤセガッツァラン斜陽無限 無奈只一息間燦爛
チョイワン ハーチサン ツァホイテイ コンツォイファッフォワン隨雲霞漸散 逝去的光彩不復還
チーチミンユー ナンノイツェー ヤッサンテンピワン遲遲年月 難耐這一生的變幻
ユファー ワンチョイサン チビーツェー ツォソンテーグナー如浮雲聚散 纏結這滄桑的倦顏
マンチェロウ ツァココイラトイガン漫長路 驟覺光陰退減
フニャンチョティンツォン メチョイファン歡欣總短暫未再返
ナコホトウォーモスン シーペンタン哪個看透我夢想是平淡
ツァンユーシャティトー フンユファン曾遇上幾多風雨翻
ピンツェモーカウ チョーモワン編織我交錯夢幻
ツァンユーネイツァンサーン テイペイワン曾遇你真心的臂彎
オウォーツァ コーワンナン伴我走過患難
ファンコチョンサン フイータン奔波中心灰意淡
ロサファンユーホーチー ツォイヤッファン路上紛擾波折再一彎
ヤッティン スントホイーホイターイマーン一天想到歸去但已晚
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(間奏)
啊
(前半繰り返し)
(間奏)
啊・・・
ティンサンクータンテイウォーサンノタン天生孤單的我心暗淡
ロサンフォンスンホーシウ ツォイヤッファン路上風霜哭笑再一彎
ヤッティンスン スントホイーホイターイマーン一天想 想到歸去但已晚
――――――――――――――――――――後半――――――――――――――――――
ツァンユーシャティトー フンユファン曾遇上幾多風雨翻
ピンツェモーカウ チョーモワン編織我交錯夢幻
ツァンユーネイツァンサーン テイペイワン曾遇你真心的臂彎
オウォーツァ コーワンナン伴我走過患難
ファンコチョンサン フイータン奔波中心灰意淡
ロサファンユーホーチー ツォイヤッファン路上紛擾波折再一彎
ヤッティンスン スントホイーホイターイマーン一天想 想到歸去但已晚
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(後半繰り返し)
歌詞が出来たら、あとは原曲を聴きながら練習するだけ。
数日練習したら、ある程度歌えるようになったので、香港人の友人に見せるために動画を撮りました。
つたない発音ですが、日本人が香港の歌を歌っている事には喜んでもらえたので良かったです。
実は僕は以前から、香港映画の影響で何曲か広東語の曲を練習しており、すでに以下の3曲は歌えるようになりました。
あと東方的威風/ジャッキー・チェンも歌おうと試みたけど、メロディの部分が早くて、まだちゃんと歌えません。
考えてみると、歴史趣味ではベトナム一辺倒な僕だけど、映画や歌などのカルチャー面では香港が大好きみたいです。
だからその分、2019年の香港民主化デモの時は、北京の中共政府に立ち向かう若者たちを心から尊敬した一方、香港社会の仕組みそのものはまんまと中共に飲み込まれたという現実に、かなり暗い気持ちになりました。
かつてジャッキーが演じた香港警察が、いまや北京の犬・・・。
これはある面では、香港人の民心が低きに流れて中共側に傾いた結果でもあるので、単に香港全体を被害者と見るつもりはないのですが・・・。
中国しかり、ベトナムしかり、ロシアしかり。人の心の弱さにつけ込み、気持ちの良い情報を与えて大衆を蒙昧にし、利用するのが独裁政権だという事を改めて認識させられました。
2022年04月07日
ティンロン7の墓碑
サイゴンでは、市内の墓地にある『ティンロン7』の墓碑にもお参りしました。
ベトナム共和国軍空軍第5空軍師団第53航空団第821飛行隊所属のAC-119Kガンシップ、コールサイン『ティンロン7』の7名の乗員は、1975年4月のサイゴン防衛戦を戦い、ベトナム戦争における空軍最後の戦死者として記憶されています。
<ティンロン7最期の戦い>




1975年4月の時点で、タンソンニュット基地所属のティンロン7はベトナム空軍に残された2機のAC-119ガンシップのうちの1機であり、ティンロン7は首都サイゴンに最後の猛攻をかける共産軍に対抗し、4月28日から全力で出撃を繰り返していた。
ティンロン7は武装として20mmバルカン砲2門、7.62mmミニガン4門を備え、タンソンニュット基地の眼前に迫る敵地上部隊を上空から砲撃し続け、弾薬・燃料が尽きれば基地に戻り、補給次第再び出撃していた。

▲TINH-LONG RỰC-SÁNG(2013)より

▲AC-119Kスティンガーの武装
サイゴン陥落前日の4月29日午前5時、ティンロン7は最後の出撃へと飛び立った。その後約2時間に及ぶ戦闘の末、弾薬が尽きたティンロン7は補給のため基地に引き返した。
午前7時ごろ、タンソンニュット基地上空に差し掛かったところで、共産軍はティンロン7に対し複数のSA-7地対空ミサイルを同時に発射した。タンソンニュット基地の地上勤務員は、その光景を真下から目撃しており、ティンロン7の機体の周りで4つの爆発が目撃された。
そしてこのうち一基のミサイルがティンロン7の左エンジンに命中しており、その数秒後にエンジンが炎上。ティンロン7はそのまま飛行を続けたが、間もなく左主翼がエンジンごと脱落し、機体は制御を失った。

▲TINH-LONG RỰC-SÁNG(2013)より

▲地上から撮影された墜落するティンロン7
ティンロン7の8名の乗員は脱出を試み、機関砲手のグエン・バン・チン一等上士だけは機外に脱出してパラシュートを開く事が出来たが、機長のチャン・バン・タイン中尉以下7名の乗員は機体と運命を共にした。ティンロン7はそのままタンソンニュットの飛行場敷地内に墜落し、炎上。機内に生存者はなかった。
唯一パラシュート脱出したグエン・バン・チンは重傷を負ったものの、地上で陸軍空挺師団の兵士に救助され、生還を果たした。
それからおよそ24時間後、総統府に共産軍が突入し、ベトナム共和国政府は降伏を宣言。15年間続いたベトナム戦争が終結した。
ティンロン7の最期については、唯一の生存者であるグエン・バン・チンが共著したこちらの文書に詳しく記載されています。
時は流れて撃墜から35年後の2010年、タンソンニュットの敷地内で、ティンロン7の乗員7名の遺骨が発見されました。
その知らせを受けたベトナム国内外の元空軍関係者と乗員の遺族は資金を出し合い、サイゴン市内の墓地にティンロン7の墓標が建設されました。
共産党政府当局の摘発・妨害を避けるため、墓標の発注は匿名で行われたといいます。
今回僕は仲間と共にお墓の清掃と焼香、撮影を行ってきましたが、運悪く墓地の管理人が居合わせてしまい、管理人が警察に通報する恐れがあったので長居はできませんでした。
もちろん金を渡して黙っててとお願いしましたが、金を受け取った上でさらに通報する人間も多いので安心はできません。焼香を終えたら、そそくさと退散しました。
お墓という事で当局も大目に見ている部分があるのでしょうが、現在のベトナム国内に旧ベトナム空軍の紋章が残っているという事自体、とても貴重な事です。この墓標がいつまでも保全されることを願って止みません。
2022年04月06日
サイゴンの残光
※2022年4月15日更新
前回に続き、今回足を運んだサイゴン市内に残る史跡の紹介です。
ベンニャーゾン(龍の家埠頭)

サイゴン川沿いにあるベンニャーゾン(Bến Nhà Rồng)は、仏領インドシナ期の1864年に完成した、フランスの海運会社『Messageries maritimes』の本社跡です。
インドシナ銀行サイゴン支店/ベトナム国立銀行

ベンニャーゾンのすぐ近くにあるのが、かつてのインドシナ銀行サイゴン支店です。
インドシナ銀行自体は19世紀末からこの場所にありましたが、現在の建物は1930年代後半に完成したものです。
第一インドシナ戦争終結に伴い、この建物はフランスからベトナム共和国政府に引き継がれ、ベトナム国立銀行本店となりました。

ベトナム共和国時代の50ドンや500ドン札には、このベトナム国立銀行ビルが描かれています。
この埠頭周辺はサイゴン川と南シナ海を結ぶコーチシナの玄関口であり、今も残る仏領時代の遺構を見ると、この場所がかつてフランスが莫大な投資を行い作り上げたインドシナ植民地経済の中心地だった事を思い起こさせます。
これらの場所と直接の関係はないですが、20世紀前半のベトナムの歴史や雰囲気は、映画『インドシナ』を連想させるものでした。
アンズンヴン(安陽王)像

アンズンヴン(An Dương Vương)は紀元前3世紀、古代ベトナム北部を統一し甌雒(オーラック)国を建国した英雄で、この記念碑はベトナム共和国時代の1966年に建設されたものです。
実はアンズンヴンはもともとベトナム人ではなく、始皇帝率いる秦に滅ぼされた古蜀の王子で、秦から逃れ南下した末に、現在のベトナム北部で挙兵し諸国を統一、甌雒を建国したそうです。
ベトナム共和国軍総参謀部

15年に及ぶベトナム戦争を戦い抜いたベトナム共和国軍の総司令部跡。
正門は過去記事『グレイタイガーの4月30日』で紹介したファム・チャウ・タイ少佐が最後の防御陣地とした場所でもあります。
戦後はベトナム人民軍に接収され、人民軍第7軍管区司令部となっていますが、正門は現在でもほぼ当時のまま残っています。
なお軍の施設なので車の中からこっそり撮影したため画質悪いです。
水上レストラン ミーカイン跡地

チャンフンダオ像のすぐ近くにあるバックダン埠頭には、今も昔も水上レストランがあります。
ベトナム共和国時代、この場所にあったレストラン『ミーカイン(My Canh)』は、1965年6月25日、解放民族戦線による夕食時を狙った爆弾テロに合い、死者31-32名、重軽傷者42名を出す大惨事の現場となりました。
▲ミーカン爆破事件を伝える米国のニュースフィルム
このテロ事件が国際世論に与えた影響は大きく、米国以外の西側諸国も共産主義拡大の危険性に目を向け、ベトナムへの派兵や軍事・経済支援を強化するきっかけとなりました。
2022年04月05日
サイゴンのチャンフンダオ像と香炉
※この記事では僕の好みで、街の名前を『サイゴン』、行政当局の名前を『ホーチミン市』と記しています。
ベトナム入国初日は、タンソニュット空港に到着して、その足でサイゴン市内に残る史跡を巡りました。
まず最初に行ったのがチャンフンダオ像(Tượng Đức Thánh Trần Hưng Đạo)。

左が1975年以前、右が現在
チャンフンダオは13~14世紀の大越(のちのベトナム)の武将で、中国(元)による侵攻を2度に渡って撃退したとされる、ベトナムの民族的英雄・軍神です。
このチャンフンダオ像はベトナム共和国時代の1967年に、サイゴン川のほとりのバックダン埠頭に建立され、以後半世紀に渡ってサイゴンの名所として親しまれてきました。
なお、これは全くの偶然なのですが、僕がこの場所を訪れた2022年3月17日、このチャンフンダオ像がニュースになりました。
実はバックダン埠頭/メーリン公園およびチャンフンダオ像は老朽化の為、約3年前の2019年から改修工事が行われており、チャンフンダオ像の前に置かれた香炉もその間サイゴン市内の寺院に移設されていました。
しかしその香炉が撤去された2019年2月17日というのがちょうど、中越戦争(1979)開戦から40周年の記念日であり、こんな日に抗中の英雄像から香炉を撤去するというホーチミン市当局の無神経さに、当時国民から批判が噴出しました。
それから3年後、改修は無事終了し、2022年3月16日の夜間に、問題の香炉がチャンフンダオ像前に返還。そして僕がサイゴンに到着したのとほぼ同時刻の3月17日朝には、多くの人々が香炉の返還を喜び焼香に訪れたとニュースになりました。

問題の香炉。左がオリジナル。右が返還されたもの
ただし、もともと金のためならどんな汚い事でも平気でやる共産党政府とホーチミン市当局ですので、ネット上ではすでに、「返還された香炉は本当にオリジナルなのか?」「資金目当てに裏で売却され、レプリカが置かれたのでは?」と疑念の声が上がっているようです。
真偽のほどは僕には確かめようもないですが、そんな疑惑も上がって当然と思えるくらい、ベトナムの役人は信用ならないという点には僕も同意します。
2022年04月01日
ベトナムロケから帰国
実は3月中盤から約2週間ベトナムに行っており、本日、日本に帰国しました。
(エイプリルフールじゃないですよ。笑)
前回のベトナム訪問同様、安全のため日本に帰国するまでは一切の情報を伏せていました。
【2016年のベトナム訪問】
ビエンホア国軍墓地
https://ichiban.militaryblog.jp/e789059.html
スンロクの戦跡
https://ichiban.militaryblog.jp/e789541.html
ベトナム戦跡めぐりダイジェスト
https://ichiban.militaryblog.jp/e790372.html
今回はアメリカ在住の友人がプロデュースする、南のベトナム人から見たベトナム戦争をテーマとする映像作品制作が主たる目的であり、僕もそのロケに同行して一部出演してきました。
内容は主にベトナム各地の史跡訪問やベテランへのインタビューですが、一部当時の軍装を再現して、戦時中の再現ビデオ、つまりリエナクト撮影も行いました。
現在の社会主義ベトナムでは、例えアマチュアであってもベトナム共和国時代をテーマとする取材は危険ですし、まして軍装を着て撮影なんて完全アウトなので、警察の目の届かない私有地や田舎の田んぼで撮影しました。




まさにベトナムその地なので、本当にこれ以上ないロケーション。
かつて埼玉の普通の高校生がナム戦コスプレサバゲを始めてから18年。運命に導かれてついにここまで来てしまいました。なかなか感慨深いです。
撮影で巡った場所などについては、おいおい記事にしていきます。
まずは、無事日本に帰ってこれた事の報告になります。
実は僕は出発前、日本での生活に未練なんか無いので最悪向こうでくたばっても構わない、くらいの気持ちで出国したのですが、いざ羽田に帰ってきて高速道路から満開の桜を見たら、なぜか急に感動しちゃったんです。
何だかんだ言って、僕の故郷はこの国だったようです。
あと、便所にトイレットペーパーが置いてあるってだけで十分素晴らしい事。
(エイプリルフールじゃないですよ。笑)
前回のベトナム訪問同様、安全のため日本に帰国するまでは一切の情報を伏せていました。
【2016年のベトナム訪問】
ビエンホア国軍墓地
https://ichiban.militaryblog.jp/e789059.html
スンロクの戦跡
https://ichiban.militaryblog.jp/e789541.html
ベトナム戦跡めぐりダイジェスト
https://ichiban.militaryblog.jp/e790372.html
今回はアメリカ在住の友人がプロデュースする、南のベトナム人から見たベトナム戦争をテーマとする映像作品制作が主たる目的であり、僕もそのロケに同行して一部出演してきました。
内容は主にベトナム各地の史跡訪問やベテランへのインタビューですが、一部当時の軍装を再現して、戦時中の再現ビデオ、つまりリエナクト撮影も行いました。
現在の社会主義ベトナムでは、例えアマチュアであってもベトナム共和国時代をテーマとする取材は危険ですし、まして軍装を着て撮影なんて完全アウトなので、警察の目の届かない私有地や田舎の田んぼで撮影しました。




まさにベトナムその地なので、本当にこれ以上ないロケーション。
かつて埼玉の普通の高校生がナム戦コスプレサバゲを始めてから18年。運命に導かれてついにここまで来てしまいました。なかなか感慨深いです。
撮影で巡った場所などについては、おいおい記事にしていきます。
まずは、無事日本に帰ってこれた事の報告になります。
実は僕は出発前、日本での生活に未練なんか無いので最悪向こうでくたばっても構わない、くらいの気持ちで出国したのですが、いざ羽田に帰ってきて高速道路から満開の桜を見たら、なぜか急に感動しちゃったんです。
何だかんだ言って、僕の故郷はこの国だったようです。
あと、便所にトイレットペーパーが置いてあるってだけで十分素晴らしい事。
2021年08月23日
ペルーPR動画
さる7月28日、在日ペルー大使館が主催する「ペルー独立200周年/ペルー・日本外交関係樹立148周年」記念イベントが渋谷ハチ公前で開催されました。
僕は、縁あってこのイベントの様子やペルー料理など、ペルーの魅力を日本の方々に紹介するPR動画に出演させていただきました。
[撮影裏話]
実は台本を渡されたのは撮影の前日で、しかも全部スペイン語で書いてありました。
僕はスペイン語はちんぷんかんぷんなので、急いで台本をスキャン、OCRにかけて、さらにそれをGoogle翻訳につっこむ事で、どうにか内容を把握できました。

僕は、縁あってこのイベントの様子やペルー料理など、ペルーの魅力を日本の方々に紹介するPR動画に出演させていただきました。
見ての通り素人演技丸出しでお恥ずかしいですが、よろしければご覧ください。
[撮影裏話]
実は台本を渡されたのは撮影の前日で、しかも全部スペイン語で書いてありました。
僕はスペイン語はちんぷんかんぷんなので、急いで台本をスキャン、OCRにかけて、さらにそれをGoogle翻訳につっこむ事で、どうにか内容を把握できました。
なのでストーリーは台本に沿ったものですが、日本語の台詞は実質自分で考えたようなものです。
しかしあらためて画面越しに見ると、太ったな俺・・・。
思い返せば3年前、ダイエットに成功した私は自慢げに半裸写真をアップしておりましたが・・・
その後見事にリバウンドしまして、いまや前回のダイエット開始前をも上回り、自己最高体重を更新中です。
ついに健康診断で脂肪肝と言われちゃったし。
はあ・・・でも、もう前回のように気合入れてダイエットする気力は無いな。
このガイガンみたいな腹も、年齢相応のような気がしてきたし。

まてよ。ガイガンもメカゴジラも、ずんぐりむっくり体形だけど超カッコいいじゃん。
これからは自分の事をガイガンと思う事にしよう。
2021年05月15日
ダオ少将のサイン復元
2016年4月、アメリカ在住の映像作家の友人が、彼が作成しているドキュメンタリー作品の一環として、1975年の『スンロクの戦い』で共和国軍最後の英雄として勇名を馳せた元ベトナム陸軍少将レ・ミン・ダオ氏にインタビューを行いました。
友人はその際、ダオ少将に僕の事を話し、そしてありがたい事に、戦時中のダオ少将(撮影当時は准将)の写真の裏に、本人から僕(あだ名Tiger)宛てに直筆サインを書いてもらいました。

▲友人から「サイン書いてもらったから今度送るよ」というメールと共に来たサインの写真
しかしその後、友人はあろう事か、このサイン入り写真を、僕に送る前に紛失しやがりました。
僕から頼んだ訳ではなけど、もったいなぁ~

ところがその年の12月、僕もアメリカに赴き、その友人と一緒にカリフォルニア在住の元ベトナム共和国軍軍人の方々にインタビューする機会を得ました。そしてその際、なんとダオ少将にもお会いできることになったのです。
がしかし、実際には、約束を取り付ける際の手違い(ダオ少将側が日程を勘違いしていてカナダへの家族旅行とダブルブッキングしていた)でインタビューはキャンセルになったので、残念ながら直接お会いする事は叶いませんでした。
そして昨年2020年3月、ダオ少将は永眠。
インタビューが叶わなかったのはしょうがないけど、せめて本人に書いてもらったサインくらいは欲しかったので、上の友人から送られてきた画像からサイン部分を抽出し、このような形に復元しました。

直筆ではありませんが、大切に残しておきたいと思います。
【再掲】
スンロクの戦いにおけるダオ少将(当時准将)
ナレーション:
In anxious Saigon, the name Xuan Loc become synonymous with hope and heroism. General Le Minh Dao defied the communists.
(サイゴンの危機に際し、スンロクの名は希望と英雄的行為の代名詞となっている。レ・ミンン・ダオ将軍は共産軍に立ち向かっている。)
ダオ少将:
I will hold Long Khánh, I will knock them down here, even if they bring here two divisions or three divisions.
(私はロンカンを守り抜く。例え敵が2個師団、3個師団で押し寄せようが、私はここで敵を打ち倒す!)
レポーター:
Brigadier General Le Minh Dao told the assembled newsmen that he had beaten back 6 major attacks in 5 days..... I don't care how many divisions the other side sends me, he told us. I will knock them down.
(レ・ミン・ダオ准将は集まった報道陣に対し、この5日間で6つの主要な攻撃を撃退したと語った。彼は、敵が何個師団で攻めて来ようがかまわないと語る。私はそれを打ち倒す、と。)
ダオ少将:
I think the enemy, they think they can swallow down very easy. But now I can say with you, they hit to the rock. They hit to the rock. And we broken their heads already.
(敵はいとも簡単にここを攻略できると考えていた事でしょう。しかし今、私はあなた方に断言できます。敵は躓いた。躓いたのです。そして我々はすでに、彼らの先鋒を撃破しました。)
レポーター:
What is the morale of your men here?
(あなたの部隊の士気はどうですか?)
ダオ少将:
I can say with you they fight for 5 days already, and now today they still launch the attack, and push the enemies away, and you gone. With face of my soldiers always smiling and with good shape, good condition.
(断言します。敵はすでに5日間戦っており、今日、今現在もまだ攻撃を継続しているが、あなた方が見てきたように、我々は敵を撃退しています。兵たちの表情は常に明るく、良い状態です。士気は高いです。)
レポーター:
Is this battle crucial do you think to the future of Saigon?
(この戦いはサイゴンの未来にとって非常に重要なものだと認識されていますか?)
ダオ少将:
First.... if we can hold here, I think we can give good confidence for the people of Saigon. So we will try to do very hard, we will try our best to ...keep it.
This is the first wave of attack. Enemy can use more regiment. More fresh regiment to launch some next attack, again. But no problem! No problem!
(まず・・・、我々がここを守りきれば、サイゴン市民を安心させる事が出来ると思います。そのために我々は奮励努力し、防衛に最善を尽くします。
これは攻撃の第一波に過ぎません。敵はまだ連隊を持っています。次の攻撃にはさらに新たな連隊を投入してくるでしょう。けれど問題ありません。大丈夫です。)
2020年10月02日
庚子中秋
今日は中秋なので、久しぶりにお月様の写真を撮りました。


ベランダの 物干しの先に 十五夜の
名月 鈴虫 ヤブ蚊の音
こんな感じで今年の中秋節は一人寂しく過ごしておりますが、
去年、一昨年は楽しくお祝いできたので、ちょっと振り返ってみます。
2018年

日本在住ベトナム人協会の中秋節祭のお手伝い(主に荷物運び)
2019年

夕食後、僕の生徒の技能実習生たちを、誰かが問題を起こして全員怒られるような深刻な雰囲気を出しながら食堂に集め、
「うっそー!チュントゥー(中秋)パーティーだよ~ん!!」とサプライズ開催。
インドネシア人の子には馴染みが無い文化だけど、何であれパーティーは楽しいので、一緒にカラオケで盛り上がりました。
あれから1年。次々入れ替わる生徒たち全員とつながりを維持するのは無理だけど、一部はFacebook経由で近況を聞いています。
ある人は「当たり」な会社に入って時々観光しながら貯金して、楽しく過ごせてたり。
ある人はブラックな建築現場で日本人上司に日々罵声を浴びせられ日本が嫌いになりつつも、一方で日本人女性をナンパして恋人になってたり。
そういうのを見てきて、僕も考え方が少し変わってきました。
以前は「困っている人の力になりたい」というシンプルな動機で色々首を突っ込んでいましたが、
その結果、自分ごときが他人の人生をどうこうするなど不可能であり、
「救ってやる」なんて考えはとんだ思い上がりだった事に気付かされました。
まぁそれでも、国際貧困ビジネスで暴利を貪る国内外の悪党ども、
特に自国民を売って儲けた金でカリフォルニアの不動産投資に勤しむハノイのウジ虫どもを許す気は無いので、
外国人技能実習制度の暗部については、聞かれたらいくらでもペラペラ喋りますよ~。
2020年08月06日
タイ製ARVNラックサック
僕の持ち物ではないのですが、タイに住むベトナム共和国軍リエナクターの友人が、彼のコレクションの中から興味深い写真を送ってくれたのでご紹介します。

ARVNラックサック
今回はタイ製ARVNラックサックの話なのですが、その前に、こんなブログをやっていながら未だにオリジナルのARVNラックサックについて書いた事がなかったので、軽くおさらいしておきます。
ARVNラックサックとはその名の通り、ベトナム戦争期のベトナム共和国軍で用いられた代表的な背嚢です。
このARVNラックサックは、アメリカ陸軍の装備開発機関ナティック研究所が1960年代前半に、同盟軍であるベトナム共和国軍の戦力増強を目的として開発した軍事支援物資の一つであり、1964年末よりベトナム軍への本格的な支給が始まり、以後1975年の終戦まで10年間に渡って歩兵の基本装備として大量に用いられました。
なお『ARVNラックサック』は単なる通称ではなく、この背嚢を開発・生産したアメリカ軍での正式名称も『Rucksack, ARVN』であり、またアメリカ政府の予算で生産された為、8465-782-3133というFSN(連邦備品番号)も付与されています。

▲納品時に付くARVNラックサックの製品タグ
なお、過去記事『ARVNとは?』で書いたように、当時ARVNとはベトナム共和国軍全体ではなく、陸軍のみを指す言葉でした。
したがって海兵隊や地方軍も陸軍同様ARVNラックサックを支給されていたものの、これらの組織は陸軍には属しておらず、ARVN(陸軍)ラックサックという名称は支給対象を正確に反映したものではありません。
ちなみに1970年には、アメリカはARVNラックサックと同じくベトナム軍向け援助装備として、米軍3/4カラー・M69ボディーアーマーのサイズをベトナム人の体格に合わせて全体的に縮小したボディーアーマーを生産・供与しますが、その名称はARVNではなく、ベトナム共和国軍全体を意味するRVNAFを取り入れ、『3/4カラー・ボディアーマー(RVNAF)』となっています。
タイ製ARVNラックサック
ここからが本題のタイ王国製ARVNラックサックについてです。
第2次大戦後、東西冷戦を背景にタイ軍はアメリカによる軍事支援によって増強され、タイはアメリカを盟主とする反共軍事同盟SEATO(東南アジア条約機構)およびFWMAO(自由世界軍事支援機構)の主要構成国となっていました。
ベトナム戦争にアメリカが本格参戦すると、タイもこれに同調して1967年から1972年までベトナムへの大規模派兵を行い、最終的な派兵兵力はオーストラリアを上回り、アメリカ・韓国に次ぐ第3位のベトナム駐留外国軍となりました。
こうした立ち位置から、当然タイ軍の装備は他の親米諸国と同様に、そのほとんどをアメリカからの供与品およびその国内生産品が占めており、その中には米軍がベトナム軍支援のために開発したARVNラックサックも含まれていました。
ただしタイで生産されたARVNラックサックの中には、ベトナムに供与された物とは明らかに異なる仕様の物が存在していたようです。
以下、友人が所有するアメリカ製(左)・タイ製(右)ARVNラックサックの比較です。

ポケット側に違いはほとんど見られません。

大きな違いは背中側にあります。
まず、オリジナルには無い、X型フレームのクロス部分を覆う布が追加されています。このフレームは四隅をストラップで締め上げる事でフレームを弓上に反らせ、背嚢本体が背中に当たることを防ぐ(腰と両サイドの縦ストラップだけが身体に触れる)ための物なので、正しい使い方をすればこのような保護布を付ける必要は無いはずなのですが・・・タイでは不評だったのでしょうか?
また背嚢そのものの寸法もおよそ1.5インチ(3.8cm)ほど縦長に延長されているそうです。
タイ製ARVNラックサック派生型
ベトナム戦争期に導入されたARVNラックサックはタイ軍でもなかなか好評だったようで、戦後も様々な派生型が生産されました。
しかし、上記のベトナム期モデルではフレームを覆う布が追加されたように、X型フレーム自体は嫌われたらしく、戦後の派生型には最初からフレームが備わっていません。
①タイ国境警備警察ラックサック

全体の構造はオリジナルのARVNラックサックとほぼ同じですが、X型フレームは廃止され、背中側の構造がシンプルになっています。
②タイ軍予備役将校訓練軍団学生ラックサック

素材がコットンに代わってナイロン製となっています。こちらもフレームは備わっていませんが、上の国境警備警察の物とは違って、フレームを覆うカバーのドットボタンや縦に縫い付けられたテープはオリジナルのARVNラックサックの面影を残しています。

学生ラックサックの現用モデル。
タイ人には悪いですが、これをバンコクの軍装品店で見た時は、「いつまで使ってるんだよ!」と吹き出してしまいました。(笑)
もちろんデジタル迷彩になる前のウッドランドっぽい迷彩の物も売っています。
米軍ナティックが最初にARVNラックサックを開発してから今年で56年。
それほどナティックの設計が素晴らしかったと言えなくもないだろうけど、実のところは、何十年もこの形の背嚢を使ってきたので、単に「予備士官候補生といえばこの形!」と形式化しているだけのような気がしなくも無いです。
いつもタイで遊んでくれる友人達も、ミリタリー好き+兵役が嫌という理由で、学生時代に予備役将校の訓練を受けており、みんなこの背嚢のお世話になったそうです。(予備役将校になると兵役抽選が免除になる)
普通のタイ人にとっては何の変哲もない背嚢ですが、ナム戦好きの友人たちの間では、「うちの国いまだにARVNラックサックなんですけど」とネタにされていました。
2020年05月01日
4月30日に際して
2019年:
サイゴン陥落の殉難者
正直、こんな零細ブログを何年書き続けようが、どうせ日本人の脳裏に刷り込まれたステレオタイプなベトナム史・ベトナム戦争観は今後も変わる事は無いだろうという諦めは年々募っております。しかしそれでも、当のベトナム人たちからは、私を応援する声を常に頂いておりますので、彼らに向けた言葉だけは絶やさないようにしています。

2016年、私はベトナムの友人たちと共に旧ベトナム共和国ビエンホア軍人墓地を参拝し、在日本ベトナム共和国軍伝統保存会の代表として、戦争で亡くなったベトナム共和国の軍人・市民に追悼を捧げました。
今日、私たちはベトナム戦争終結から45年を迎えます。そしてこの日、私は「平和」の意味について思いを馳せます。1975年にベトナム戦争は終結しました。しかし私の目には、1945年以来多くの善良なベトナムの人々が望んでいた平和は、いまだにベトナムには訪れていないと感じています。
いつの日か、あの墓地に眠る霊たちが、真の平和の中で安らかに眠れる日が来ることを祈ります。
Năm 2016, tôi đến thăm Nghĩa trang Quân đội Biên Hòa của Việt Nam Cộng Hòa cùng các bạn người Việt. Và tôi đã bày tỏ sự tưởng nhớ đến những người trực thăng và công dân của VNCH với tư cách là đại biểu của Hội Bảo Tồn Truyền Thống QLVNCH tại Nhật.
Hôm nay chúng tôi đã đạt được 45 năm kể từ khi kết thúc Chiến tranh Việt Nam, và tôi nghĩ về "hòa bình" nghĩa là gì. Chiến tranh đã kết thúc. Tuy nhiên, trong mắt tôi, Việt Nam chưa có được một hòa bình mà nhiều người tốt đã mong muốn kể từ năm 1945.
Tôi cầu nguyện các linh hồn ở nghĩa trang đó sẽ ngủ yên với hòa bình thật một ngày nào đó.
In 2016, I visited the Bien Hoa Military Cemetery of the Republic of Vietnam with my Vietnamese friends. And I paid our tribute to the memory of the fallen heloes and citizens of the Republic Of Vietnam as the delegate of the RVN Armed Forces Preservation Association in Japan.
Today we reached 45 years from the end of the Vietnam War, and I think about what "peace" means. The war is over. However, in my eyes, Vietnam don't get yet a peace what many good people have been wishing since 1945.
I pray that the spirits in that cemetery have rest in the true peace someday.

2020年01月03日
2020年陽暦節
新年あけましておめでとうございます。
そして三が日最終日、こちらの初詣にも。

今年も例年通り、日付が変わると同時に地元の氏神様をお参りし、お昼にいつものベトナム寺にも初詣に行ってきました。
お寺の公式チャンネル
東アジア・東南アジア全域で広く親しまれており、ベトナム語では「ムアサップ(Múa Sạp)」と呼ばれる、
リズムに合わせて竹の間をケンケンパする遊びを僕も友人とやってきました。
僕はこの遊び、たぶん保育園時代にやって以来です。
今年のテト(元旦節)は1月25日と早いから、あと3週間もすれば、またお正月が来るんですよね。
僕がこのお寺に初詣に来るようになって今年で8年目ですが、年々参拝者も増え、飾りも豪華になっていきますね。
でもこれは、手放しで喜べることではありません。
つい10年前まで、日本に住んでいるベトナム人のほとんどは、インドシナ難民として来日した1万人足らずでした。
ところが近年、日本政府は「人手不足だから(=日本人の給料上げる気はないだけ)」と、なりふりかまわず技能実習生という名目の出稼ぎ労働者を年間8万人呼び込み、留学生がバイト漬けになる事を最初から見込んで労働力確保のために留学ビザを発給しまくり、ついに在日ベトナム人の数は35万人を超えました。
日本という国は、もうベトナム人無しにはやっていけない国なっています。日本政府が、そうしてしまいました。
でもはたして日本社会は、ベトナムの事をどのくらい分かっているんでしょうかね。
僕は、たまにはベトナムの明るい面も見ておきたいので度々このお寺に参拝しておりますが、そうでもしないとマジで関わるのが嫌になるくらいベトナムには暗い面が沢山あります。
本当にベトナムを理解するのであれば、「ベトナムの人々は貧しくても心は豊か」などと言う日本人特有のアホな幻想を捨てて、60年以上続くベトナム共産党独裁政権の下で庶民から政府レベルまでモラル・道徳が荒廃した現在のベトナムの実態にもっと目を向けるべきだと考えます。
その辺は僕の別ブログ『ベトナムウォッチ』で記事にしていますので、是非ご高覧下さい。
そして三が日最終日、こちらの初詣にも。

ラーメン二郎越谷店 ラーメン小「ニンニク、アブラ」で今年の二郎お食い初め。
2019年11月10日
アドバイザーのローカルメイドパッチ
今回は珍しく米軍のインシグニアのお話です。




AT-86
ベトナム戦争当時、米軍MACVには100個以上のベトナム軍付きAT(アドバイザリーチーム)が存在し、各々のATが現地でローカルメイドパッチを発注・着用していたので、その種類・バリエーションは膨大なものになりますが、その中でもちょっと特別なパッチをご紹介します。


以下のパッチは、マニアの間でもしばしば「南ベトナム軍のもの」と誤解されているのですが、実際にはベトナム軍付き米軍アドバイザーのローカルメイドパッチでした。
トニー・ザ・タイガー
「トニー・ザ・タイガー(トラのトニー)」は、1960年代前半にベトナムに派遣された米軍アドバイザー用として製作したとされる、一連のローカルメイドパッチです。
中でも特に有名なのが、ベトナム陸軍特殊部隊(LLĐB)付きのアドバイザー(グリーンベレー)向けのものですが、戦後、このLLĐB付きアドバイザーのパッチばかりがフェイク/レプリカとして繰り返し生産されたので、このパッチはいつしかアドバイザー向けであったことが忘れられ、「LLĐBの」ローカルメイドパッチと誤解されるようになりました。

写真: デニス・キム氏コレクション

ベトナム軍LLĐB部隊章
たしかに緑色の背景とパラシュート、虎のデザインはLLĐBの部隊章と酷似していますが、実はこれと同様のデザインのパッチはLLĐB付き(グリーンベレー)のみならず、空挺旅団付き(AT-162)やレンジャー部隊付き(AT-77)向けにも制作されていました。

写真: デニス・キム氏コレクション
元ベトナム軍レンジャー付きアドバイザー(MACV AT-77)で、なおかつ著名なミリタリーインシグニアコレクター/戦史研究家のデニス・キム米陸軍退役大尉によると、このパッチが生まれた経緯には2つの説があるそうです。
一つ目は、ある日3人の米軍アドバイザーが朝食を採りながら、自分たちのオリジナルパッチを作ろうという話になり、デザインを考え始めたところ、たまたま自分たちの食べていたケロッグ・コーンフロスティ(Frosted Flakes)の箱が目に留まり、これをそのまま街の刺繍屋に持って行って、部隊名の入っていないローカルメイドパッチを25枚作製させた(この時点でLLĐB部隊章のデザインが参考にされていた)。そして完成後、そのパッチにはさらにその3人各々が担当していたLLĐB、空挺、レンジャーの文字が付け加えられた、というものです。これはちょっと話が出来過ぎている気もしますね。
もう一つは、これらはアドバイザー自身がデザイン・発注したものでは無く、現地の刺繍屋が米兵の興味を引くために、アメリカ人に馴染み深いキャラクターであるケロッグの「トニー・ザ・タイガー(Tony the Tiger)」を取り入れてデザイン、販売したという説です。
どちらが真実なのか確かめる術はありませんが、少なくとも以下の2点は確かなようです。
・全体のデザインはLLĐBの部隊章がベースである(つまり1963年以降にデザインされた)が、空挺旅団やレンジャー部隊付きアドバイザー向けにも制作・販売されていた
・トラの顔は米国ケロッグ社のコーンフロスティのマスコットキャラクター「トニー・ザ・タイガー」である

トニー・ザ・タイガーの新旧デザイン
このパッチに使われたトニーのデザインは1951年に考案された古いタイプもので、その後1980年代にデザインが一新され現在に至ります。僕も現在のトニーは子供の頃からよく知っていましたが、このパッチのトラが、昔のトニーの顔だった事は、キム氏から聞くまで全く分かりませんでした。当然ケロッグ社も、ベトナム戦争で自社マスコットが使用されていた事など関知していません。
AT-86
ベトナム戦争当時、米軍MACVには100個以上のベトナム軍付きAT(アドバイザリーチーム)が存在し、各々のATが現地でローカルメイドパッチを発注・着用していたので、その種類・バリエーションは膨大なものになりますが、その中でもちょっと特別なパッチをご紹介します。

写真:David Levesque氏コレクション
こちらはシルクスクリーンプリント製かつアジア的な龍があしらわれたデザインであるため、一見するとベトナム共和国軍の何かの部隊章のように見えますが、実は米軍MACV AT-86 (アドバイザリーチーム 86)のローカルメイドパッチだそうです。
AT-86はロンアン省タンチュー県のベトナム地方軍・義勇軍担当アドバイザリーチームで、定員はたった5名(+ベトナム人通訳1名)の小さなチームでした。詳細は米軍ベテランのコミュニティーサイトTogether We Served内のMACV Advisory Team 86をご参照ください。
シルクスクリーンプリント製法はその名の通り、色毎にシルクスクリーンの版を作成して布に印刷する大量生産のための製法なので、通常ATのような小規模な部隊の部隊章には用いられない(手刺繍製が普通である)のですが、なぜかAT-86にはシルクスクリーンプリント製が存在しています。
一応、これが戦後に作られたフェイク品である可能性も疑うべきではあるのですが、それにしては出来が良すぎるし、そもそもコストが高くつく上に、AT用としては不自然なシルクスクリーンでわざわざフェイクを作る意味もありません。現に巷で(実物として)取引されているフェイク品は100%手刺繍製です。
※ベトナム人は昔から、こういうローカルメイドパッチを外国のマニアが高い金で買ってくれる事をよく知っていますから、実物と偽ったフェイク品を大量に作りまくっています。ただ、昔はフェイクであっても、実物に似せようと頑張っていたのでそれなりに出来が良かったのですが、近年は業者が出来の悪いフェイクをまた更に劣化コピーする事を繰り返しており、また買う側のマニアも、実物がどんなものかを知らない世代に変わってしまったので、その低レベルなコピー品を実物と信じて買い求めるため、今じゃフェイクともレプリカとも呼べないお土産品レベルの物ばかりが市場にあふれています。トホホ・・・
おまけ
アドバイザーとは関係ないけど、欧米人の間でかなり誤解が広がってるのがこの写真

「ベトコン女性兵士」だそうです。
アジア人の女が武器持ってれば何でもベトコンかい(笑)
まぁ、これはいくらなんでもド素人(と言うか非常識)な人たちが言ってる事でして、ちょっと知識がある人は、これがベトナム人ではない事など一目瞭然なので、こうツッコみます。
「違うよ、これは日本赤軍の重信房子というテロリストだ。1972年にレバノンで撮影された写真だよ。」
この重信房子説はネット上でかなり拡散されていて、最初に紹介したキム大尉ですら、僕が違いますよと説明するまで、この写真を重信だと本気で信じていました。
欧米人は、セーラー服が日本の女学生の制服であることを何となくは知っていますが、それが高校まで、という事はほとんど知らないので、これを大学時代の重信の写真と言われれば、何の疑いもなく信じてしまうようです。
にしたって、普通に考えて、テロリストが学生服着たまま外国でテロ活動するかよ(笑)
この写真の正体は、何の事は無い、1987年のTVドラマ「少女コマンドーIZUMI」の主役 五十嵐いづみさんです。
五十嵐さんも、まさか自分の写真が30年も経ってからベトコンだの日本赤軍だの言われ世界中に拡散する事になるなんて思いもよらなかったでしょうね。フェイク情報が簡単に拡散する現代のネット社会の典型例ですわ。
この件は、たまたま僕らが日本人だったから間違いに気づいて笑い種になりましたが、そうではない他の国に関する事柄については、僕ら自身も(個人レベルあるいは特定の勢力によって意図的に流布された)偽情報を既に信じてしまっている可能性は常にあります。
僕も先日、米軍ベテラン向け情報誌に掲載されていた、ベトナム戦争中に行われたというある捕虜救出作戦の記事をがんばって翻訳していましたが、あとになって、それがその雑誌のコラム欄に掲載されていたジョークネタ(全部嘘)だったと知りました。危うく自信満々にブログで発表する所でしたよ。危ない、危ない。
なので僕のブログの内容も、全部鵜呑みにはしないで下さいね。後で間違いに気づいて訂正する事なんて、しょっちゅうありますから。