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2018年10月12日

タイの友達に同行一日目:東京

前回に引き続きタイの友達との日本紀行です。
なお、今回遊んだのは2月に東京案内した友人とは別のグループです。あっちは一般人。
今回は趣味を通じて知り合った濃い~リエナクター・軍装マニアのグループの方々です。
なので一日目の目的地は東京九段の靖国神社遊就館と昭和館という、およそ観光客とは思えない見学ルートです。


僕は遊就館に行くと毎回、割と本気で気持ちが陰るので、あえて冗談交じりに艦これとかストライクウィッチーズの話しをしながら明るく振舞っていました。
またタイ人は(自国が日本の半占領下だったので当然)日本人が考えるよりもはるかにクールに大戦期の日本について理解していますし一人はバンコクの博物館の学芸員ってのもあり、お互い歴史愛好家として率直に感想を言い合いました。
僕が「ここは公的な博物館ではなく、民間の宗教団体の施設だから、彼らの望む歴史観にそぐわない=日本に都合の悪い話は展示しないよ」って言ったら、彼らも「うん、知ってる」って感じでした。

見学を終え、そのまま遊就館の食堂で海軍カレーを食べようとしましたが、やたら混んでたので断念して神社の外のインドカレー屋で昼食。どっちみちカレーなのね(笑)

次に昭和館で、戦中・戦後の庶民の生活などを見学しました。
学芸員の彼は職業としてタイの大衆文化の歴史を研究している上に、大の日本陸海軍および日本文化マニアなので、この時代の日本の大衆文化についてもかなり造詣が深く、日本人の僕も知らなかった事を色々教えてくれました。これ、外国マニアあるあるですわ。

ちなみに偶然、館内に居た別の見学者のグループが、サイゴンにある戦争証跡博物館の館長一行でした。一行を案内している日本人のおっちゃんが、昭和館で戦争体験を語り伝えるおじいちゃん達に得意げに話しているのを横で聞いていました。
なんでもそのおじさんは、学生時代の反戦運動以来、アメリカによるベトナムへの戦争犯罪を世に知らしめる活動に尽力されているそうです。だからベトナム共産党直営の博物館とも深~い付き合いなのだそうです。
へぇ~。そういう人には是非僕のブログ、特にこの記事を読んで欲しいな~と思いましたが、50年も空想の世界に浸っている人が今更何読んでも理解するのは多分無理でしょうね・・・。


その後は普通に渋谷と新宿でショッピングなどして遊んできました。
夜ご飯は、海鮮居酒屋の磯丸水産に行こうとしたけど、土曜の夜という事もあり、新宿西口側にある三店舗まわったけど全部満席で断られました。
仕方ないので、最終的に「すた丼」で食べました。わざわざ日本まで旅行に来てすた丼?!とは思ったけど、まぁ翌日も遊びに行くので、今夜は安く済ませましょう。普通に美味しいし。



偶然通りかかった新宿駅のルミネが「ジョジョの奇妙な冒険」とコラボしていたので、ジョジョ好きな彼らは喜んで記念撮影開始。
僕も一緒にポーズしたけど、実はジョジョをちゃんと読んだ事ないんだよね・・・。知ってるふりして適当にやりました。ごめん。
  


2018年08月19日

あるベトナム残留日本人と家族の漂泊

 1945年(昭和20年)8月、日本政府は連合国のポツダム宣言を受託し、第二次世界大戦・大東亜戦争は日本の敗北によって終結しました。この時点で中国・満州・朝鮮・台湾そして東南アジア各地には日本陸海軍の軍人・軍属が約330万人、日本人民間人が約330万人、合わせて約660万人が進駐・居住していました。そして終戦後、日本政府・陸海軍にとって目下最大の課題は、この660万人という途方もない数の在外軍人・邦人を無事本土に帰国させる事となりました。この外地からの引き揚げはまるで民族大移動の様相を呈しており、現地では急激な治安の悪化、略奪、飢餓、家族の生き別れなどが大量に発生し、それは戦時中以上に壮絶なものだったたと伝え聞きます。
 その一方で、終戦に伴う帰国命令を受けた後も、ごく一部の日本軍将兵や民間人は日本への帰国を拒否して各地に留まり、個人的な意思で現地の紛争に参加していた事は割と知られた話だと思います。私がベトナム人協会への取材でいつもお世話になっている(宴会で僕が酔っぱらう度に家に泊めさせていただいている)サイゴン出身の女性Aさんは、この時ベトナムに残ってベトミン軍に参加した元日本陸軍兵士M氏の娘さんであり、M氏とAさんらご家族の辿った過去を詳しく伺う事が出来ました。ただし、Aさんが生まれたのはM氏が第一次インドシナ戦争終結後に南ベトナムに移住した後なので、Aさん自身はベトミン軍時代の父を直接は知りませんでした。ところがその後、関係資料を調べていたらベトミン軍時代のM氏の足跡が多少判明したので、Aさんから許可を頂いたうえでここに概要を記します。
 なおM氏は既に他界されていますが、娘さんやご親戚は現在も日本で生活されているので、個人名は控えさせていただきます。また、この記事はAさんの証言および、ある大学教授が日本に帰国した多数の元ベトナム残留者に聞き取りを行った報告書を出典としておりますが、M氏を始め、多数の人物の実名が載っておりますので、ここでの公表は差し控えさせていただきます。出典を確認されたい方はコメントにて、メールアドレスと共にその旨をお知らせください。個別にご連絡させて頂きます。


日本軍出奔とベトミン軍への参加

 Aさんの父M氏は第二次大戦中、日本陸軍第22師団第86歩兵連隊に所属する一兵卒であった。1945年8月、同連隊が中国広東省から南下し、ベトナム・ハティン省の省都ハティンに宿営している時に、M氏らは日本敗戦の知らせを受けた。この直後、同じ部隊の中から、日本軍を離れてベトミンに合流しようという声が上がり、M氏を含む10名が同意したという。そして終戦1ヶ月後の1945年9月のある晩、彼らは2ヶ月分の米と小銃弾2,000発を用意し、歩哨を「朝まで黙っていろ」と脅かして部隊から脱走した。

 ハティンの海岸に着いた彼らが満潮時刻を待って舟を出そうとしていたところ、日本兵脱走の知らせを受けたのか、ベトミン政府*が任命したハティン省知事レ・ズン(のちの国会議員)が通訳を連れて現れ、彼ら脱走日本兵に、ベトミン軍の軍事顧問役を依頼してきた。M氏らはその要請を受け入れ、ハティン省北部のドクトー県へ移動し、そこで現地の地主の屋敷に迎え入れられた。ドクトー県には同様に軍を抜けた元日本兵が30名ほどおり、その内M氏のいた村には25名が集まっていた。
 ドクトー県到着から間もなく、M氏らはベトミン軍側から、フランス軍のナペ基地を攻撃してほしいと要請を受けた。現地のベトミン軍兵士はまだ基本的な訓練さえ修了していないほとんど素人の集団であったため、この第1回のナペ攻撃(9月)は事実上、日本人12名だけで行われた。攻撃は夜間に行われ、彼らはフランス軍基地を一時占拠し、大量の武器弾薬と食糧を奪うことに成功したが、この戦闘でM氏を含む3名が負傷した。
 その後、ナペでは1946年初頭に日本人20名、ベトナム人300名の部隊による第2回夜襲が行われ、作戦は成功したが日本人兵士3名が戦死した。続いて行われた第3回の夜襲は失敗に終わり、さらに3名の日本人が戦死した。
 なお、第1回ナペ攻撃で負傷したM氏がいつ頃前線に復帰したかは分かっておらず、今確認できている資料では、M氏はその後「フエ以南で戦った」とあるのみである。

※1945年後半の時点では、インドシナに駐留していたフランス軍部隊はまだ微々たるものでフランスはベトナム全土を再統治できておらず、8月革命によって成立したハノイのベトミン政権がベトナム民主共和国を名乗っていた。しかしベトミン政権側の軍事力はさらに貧弱であったため、その後フランス軍が続々と到着するとフランスは支配地域を拡大。1946年中に全土がフランスの施政下に戻り、ベトミンは政権を追われゲリラ組織としてフランスへの武力闘争を続けた。


ハティン省ドクトー県の位置
(区画は当時と異なる可能性あり)


帰国に失敗し南ベトナムへ移住

 その後、第一次インドシナ戦争が激化する中で、M氏は帰国を諦め、現地のベトナム人女性と結婚。娘(Aさんの姉)を授かった。その頃にはM氏はベトミンの軍務から離れており、ハティン省で一般人として生活していた。
 ところが1954年、第一次インドシナ戦争が終結した事で、M氏は日本に帰国するチャンスを得る。M氏は妻に、家族で日本に移住するので家を引き払うよう命じ、船を確保するため一人先行してハイフォンの港に向かった。しかしハイフォンに着くと、日本行きの船は既に出航した後だった。その後すぐに妻と娘たちもハイフォンに到着したが、すでに家は引き払った後であり、帰る場所は無かった。
 その時ちょうど、ベトナム北部にベトミン(ホーチミン独裁)政権が成立した事にともない北緯17度線以南(南ベトナム)に脱出する人々*を運ぶ船に空きがあったため、M氏一家は南ベトナムで出直す事に決め、サイゴンに移住した。

※ジュネーヴ協定により北ベトナムが成立した事で、ホーチミンの共産主義政権による迫害を恐れて約100万人のベトナム国民が1954年から1955年にかけて北ベトナム領から南に脱出した。ベトミンに故郷を奪われた人々のホーチミンおよび共産主義者への憎しみは激しく、後のベトナム戦争では、この時南に移住した北部人勢力が率先して北のホーチミン政権打倒を主張した。


フランス・アメリカ海軍によるベトナム国民の北ベトナム脱出・移送作戦『自由への道(Passage to Freedom)』

サイゴン郊外に設置された北ベトナム難民キャンプ [1954年]


サイゴンの日本人コミュニティ

 南ベトナムに移住したM氏一家はその後の20年間、サイゴンで比較的穏やかな生活を送った。1960年代に入ると南ベトナム国内の共産ゲリラ(解放民族戦線)によるテロ活動や北ベトナム軍の南侵によってベトナム戦争が激化したが、幸いにも一家は戦闘に巻き込まれる事なく終戦を迎えたという。Aさんはこのサイゴン移住後に生まれた末っ子だった。
 またサイゴンにはM氏と同様に、かつてベトミン軍に参加していた元日本軍人や、戦前からサイゴンに住んでいる日本人商人・技術者が少数ではあるが居住していた。彼ら南ベトナム在住日本人は互助会『寿会』を結成しており、M氏もこれに参加した。第一次インドシナ戦争終結後、アメリカの支援を得て経済発展を続けていた南ベトナムには西側諸国の企業が進出を始めており、日本も例にもれず南ベトナムにおいて事業を展開していた。寿会のメンバーは、こうした日系企業の現地社員・通訳・コンサルタントなどを務める者が多く、M氏も日系の製糖会社に勤務した。
 また寿会は、明治時代に単身ベトナムに渡り、以後半世紀以上に渡ってフランスや日本軍による妨害に遭いながらもベトナム民族解放と独立を援助し続けた日本人実業家 松下光廣(1896-1982)がサイゴンで経営する『大南公司』と深い関係を持っていた。南ベトナム政府と日本政府は松下の仲介で第二次大戦中の賠償に関する交渉を行い、日本政府は賠償金としてベトナム最大の水力発電所ダニム・ダム建設の費用を提供した。M氏は日系の建設会社に転身し、松下と共にこのダニム・ダム建設事業に従事した。これ以降、M氏と松下は家族ぐるみの付き合いとなっていった。
 幼いころのAさんにとって、当時のM氏はいつも厳しい父親であった一方で、寿会の日本人たちと日本の歌謡曲を聞きながら酒を飲んでいる時だけは、M氏は涙を流して日本を懐かしんでいたという。

1964年に完成したダニム・ダム(ダニム水力発電所) [写真:日本工営]


 

ベトナム共産党政権による追放

 1975年4月30日、北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴンを制圧し、ベトナム戦争は共産主義勢力の勝利に終わった。こうしてベトナム全土がハノイのベトナム共産党政権の支配下に堕ちると、旧南ベトナム国民は大変な困窮に見舞われた。M氏一家も例外ではなく、すでに戦争末期には日系企業が撤退していたため、M氏は別の仕事を探すしかなかった。松下も大南公司の資産の全てを政府に没収され、明治以来幾度もの苦難を経験しては復活を果たしてきた大南公司は完全に解体された。
 さらにベトナム共産党政府は1978年に、全ての外国人を国外追放する事を決定した。かつてベトミン軍の一員として命がけでフランス軍と戦ったM氏も、外国人であるという理由で国外追放となった。一時は日本への帰国を目指していたM氏だったが、ベトナムに住んで既に30年以上が経過しており、国外追放はそこで築いた友人・仕事・財産の全てを失う事を意味していた。また妻や娘たちは日本語がほとんど分からず、日本での生活に順応できるかも心配された。
 こうしてM氏一家は、他の日本人・外国人住民らと共に国外に船で移送され、M氏は難民として30年ぶりに日本に帰国した。帰国後一家はM氏の生まれ故郷の町に移り住み、M氏は会社員として平穏な余生を送った。来日した当時14歳だったAさんも苦学の末日本語を習得し、現在は日本国内でベトナム語通訳の仕事をしている。
 なお、M氏も松下も既に他界されているが、互いの親族同士の交流は現在も続いているという。




筆者の見解

 私はM氏を含むベトミン軍に参加した元日本兵たちの足跡が日本国内のメディアやインターネットで紹介されるのを目にする度に残念な気持ちになります。なぜならば、それらの紹介の仕方、あるいは紹介する目的は初めから、何らかの思想・主張を肯定するための道具として都合の良い部分だけ切り取られ、いいように利用しようとしているものばかりだからです。
 具体的には、ある時は日本が東南アジア侵攻の大義名分に掲げた『アジア解放』が偽りのない崇高な精神だった事の証拠として。またある時は、欧米の帝国主義に立ち向かいベトナム『解放』を後押ししたものとして。日本国内では右派・左派双方が長年、彼らの戦いを美談として祀り上げ利用してきました。また現在のベトナム共産党政権も、気前よくODAをくれる日本政府におべっかを使うため、この話を『日越友好』を標榜する材料の一つとして利用しています。
 しかし私は「日本軍は戦後もベトナム独立のためにフランスと戦いました。ベトナム人はその恩を忘れません。」というような日本国内で流布されている認識は、最初から美談として利用するために日本人にとって都合の良い、気持ちの良い部分だけを寄せ集めた虚像だと考えています。以下がその理由です。

・日本政府はアジア解放を謳う一方で、インドシナに関してはドイツ・フランスとの関係を優先しており、日本軍は1941年の北部仏印進駐以来4年間、フランスと合同でベトナムを支配する側にいた。ベトナム独立勢力に対しても、彼らを支援するどころか、妨害・取り締まりを行っていた。(ただし、下記の明号作戦に動員する目的で、親日的な独立勢力への接触は松下の大南公司を通じて進駐直後から水面下で始まっていた)

・1945年の明号作戦は、戦局の悪化から連合国側に寝返る可能性のあるインドシナ総督府・フランス軍を排除する事を目的とした日本の利益の為の軍事行動であり、ベトナム独立を目的としたものではない。

・ほとんどのベトナム国民は明号作戦の後に日本が擁立したベトナム帝国政府を日本の傀儡政権と見なしていた。なので日本敗戦後に行われたベトナム帝国政府の解体とベトナム民主共和国の独立宣言=8月革命を真のベトナム独立と見做し沸き立った。

・終戦後も日本陸軍の組織および軍法は正式に存続しており、個人の意思で隊を離れる事は脱走、また武器弾薬被服装備を持ち出す事は横領にあたる。したがってベトミンに参加した彼らは国家の命令に従った『日本兵』ではなく、あくまで個人の思想によって行動した『元日本兵のゲリラ』である。

・そもそも第一次インドシナ戦争は、残留日本人が1945年にベトミンに参加した当初においては、ベトミンの敵はインドシナの再植民地化を目指すフランス軍であり、『ベトナム独立戦争』と呼んで差し支えない状況であった。しかしフランス側が譲歩し1948年にベトナム国の独立を承認してから(つまり戦争中期以降)は、ベトナム国政府はベトミン政権を拒否する民衆から一定の支持を得ており、フランス連合軍の人員の7割が現地のインドシナ諸国の兵士(そして全体の5割がベトナム国軍)となるに至る。こうして第一次インドシナ戦争は当初のフランスからの独立戦争という単純な構図から、次第にフランス連合に残留して段階的な独立を目指す穏健派のベトナム人(ベトナム国政府)と、フランスの影響力およびベトナム国政府に好意的な人間を徹底排除し共産主義政権樹立を目指す過激派ベトナム人(ベトミン)というベトナム人同士の内戦へと変化していった。

・残留日本人たちは、当初ベトミンが掲げていた純粋な民族解放という理想に共感しベトミンに参加していたが、ベトミンが中国共産党からの支援への依存度を増すにつれて組織全体が共産主義体制に変質し、同じベトミン内の戦友・支援者までもを反革命分子として粛清していくのを目の当たりにした事で違和感を増していった。しかし戦争遂行に深く関わり過ぎており、途中で組織を抜ける事は出来なかった。

・残留日本人の多くはベトナム独立の理想とベトナム人戦友たちへの愛情を変わらず持ち続けたが、同時に戦争中期から戦後の1950年代全般にかけてベトミン・ベトナム労働党が行った急激な国家改造・共産主義化(土地改良に始まる弾圧・大量虐殺)には批判的であり、複雑な心境を伺わせる証言を残している。

・フランスや日本軍による妨害に遭いながらも身の危険を顧みずベトナム民族の解放と独立を援助し続けた松下光廣は、ホー・チ・ミンとベトミンを民族解放の志士とは見ておらず、むしろベトミンの暴力革命を「共産分子のテロ」と強い言葉で非難している。


 まとめると、彼ら残留日本人の多くは、現地で独立を渇望するベトナムの民衆の想いを間近で感じ、同じ人間としての共感しており、こうした人情の上に敗戦のショックと敵の占領下の日本で生きる事への不安・抵抗が重なり、彼らは日本軍人としての身分を捨て、フランス軍との戦闘に身を投じました。
 しかし彼らが協力したベトミンは、そんな残留日本人たちの意志とは無関係に、その目標を『独立』から『共産主義革命』へと変えていきました。また敵であるフランス軍も、当初の再植民地化を目指す『白人帝国主義者』から、フランス連合の枠内での独立に甘んじようとも共産主義政権は阻止したい『フランス連合派ベトナム人』へと変わってしまいました。
 最終的に戦争はベトミン側の勝利に終わり、残留日本人たちは北ベトナムの独立に貢献した事になりましたが、それは同時にベトミンによる共産主義革命・大量虐殺などを許す事となり、残留日本人たちが目指していたベトナム民族の解放と平和とは程遠い結果を招いてしまったと私は見ています。
 多大な犠牲を払いながらこうした結果に終わり、彼らの心中は察するに余りあります。しかしだからこそ、「ベトナムは独立して人々は幸せに暮らしました、めでたしめでたし」で終わる訳にはいかないのです。私の意図は、彼ら残留日本人を共産主義革命の協力者として非難する事ではありませんし、まして「日本人がアジアを解放した」などと恥知らずな自慰行為に利用する事でもありません。
 人間の歴史、特に戦争に関する部分は、常に後世の人間によって何らかの意図をもって都合よく切り取られ、利用されがちですが、私はそれに抗いたいのです。この戦いに限らず、人間が理不尽に命を奪い奪われる最悪の惨事を、見たい部分だけ見て喜び、見たくない部分には目を背ける、そういった人間の生命・人生に対して不誠実な姿勢を私は軽蔑し、否定します。


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2018年04月18日

カオダイ教と日本[1]

 カオダイ教(Đạo Cao Đài)とは現在ベトナム国内に約500万人の信徒を抱え、過去には日本との深い関わりもあったベトナム最大の新宗教です。今回はそのカオダイ教徒たちが辿った歴史をご紹介します。


カオダイ教団と松下光廣

 カオダイ教はベトナムのタイニン省で1920年頃に誕生した。カオダイ教はその後の20年間でコーチシナ地方(Nam Kỳ: サイゴンを中心とするベトナム南部)全域に急速に広がり、信徒数は100万人を優に超えていた。この新宗教の急速な勢力拡大に当時インドシナを支配していた仏領インドシナ植民地政府やフランス人は危機感を抱き、またカオダイ教側もタイニン省にける宗教的自治を求めて次第に植民地政府と対立していった。
 またカオダイ教団はこの時期、ベトナムで起業した日本人実業家 松下光廣(1896-1982)との関係を深めていった。熊本県天草出身の松下は1912年、若干15歳の若さでベトナムに移住し、現地の日系企業で勤めた後、1922年に貿易会社『大南公司』をハノイで創業した。その後大南公司は現地のベトナム人・ベトナム華僑と良好な関係を築き、さらにイ、マレーシア、シンガポール、ビルマ等にも支店を持つ巨大商社へと成長していった
 また松下は成功した実業家であるのと同時に、長年に渡ってベトナムの独立運動を支援してきた人物でもあった。ベトナム民族主義運動の祖ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu, 1867-1940)と共にベトナム独立を志し、その活路を求めて日本に渡った阮朝の皇族クオン・デ(Cường Để, 1882-1950)は松下を盟友とし、松下はその財力を活かしてクオン・デが結成したベトナム復国同盟会(Việt Nam Phục quốc Đồng minh Hội)を資金面で支えていた。また松下は同じく抗仏運動を展開していたコーチシナの二大新宗教カオダイ教およびホアハオ教とも親しい関係を持っており、特にカオダイ教に対し非常に強い影響力を持っていた。
 そのため植民地政府は松下を危険視し、松下が日本に一時帰国していた1937年に欠席裁判によって『禁錮8年または国外追放』の有罪判決を下したため、松下はその後3年間ベトナムに戻る事が出来ず、東京やタイ王国を移動しながら大南公司の経営を続けた。

▲壮年期の松下光廣の肖像


日本軍進駐

 1939年、オダイ教教皇ファム・コン・タク(Phạm Công Tắc, 1890-1959)神からの啓示として、近く日本軍がベトナムに到来する事を予言し、カオダイ教団は来るべきフランスへの蜂起に備えてクオン・デのベトナム復国同盟会への支援を開始した
 同年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、インドシナを統治するフランスは1940年にドイツに敗北し、フランスの政権はドイツが擁立したヴィシー政府に取って代わられた。フランスが枢軸国陣営に組み入れられた事で、ドイツの同盟国日本は米英ソによる中国への軍事支援輸送路『援蒋ルート』の遮断および資源奪取のため、1940年に北部仏印に進駐。さらに翌年には南部にも展開を進めインドシナ全域を掌握した。教皇の予言通り日本が仏印進駐を開始した事で、カオダイ教徒は日本軍を好意的に迎えた。

▲カオダイ教教皇"護法"ファム・コン・タク

 後の1941年12月に日本が米英蘭との戦争に突入すると、緒戦相次いで勝利した日本軍は、連合国が支配していた東南アジア諸地域を次々と占領していった。『八紘一宇』を掲げる日本軍は、これら占領地で現地の独立運動指導者を取り込んで親日政権を擁立し、『西洋列強植民地支配からのアジア解放という戦争の大義名分を実行していった。ただしこれらの『解放』は、実際には列強が作り上げた植民地経済・資源の利権構造を日本が掌握し日本を中心とする経済ブロック『大東亜共栄圏』を構築るための戦略的政策であり、あくまで親日政権かつ日本の軍政下である事を前提とする事実上の保護国化であった。
 一方、ベトナムを含む仏領インドシナへの対応は他のアジア占領地とは異なった。日本軍は1940~1941年に行った一連の進駐によってインドシナ全域を掌握しており、日本が必要とする経済的・軍事的な利益が十分に確保できていた事から、日本政府はドイツ・フランスとの関係に配慮してインドシナ諸国の独立運動への支援は行わず、「治安維持」の名目で引き続きフランス植民地政府に統治を委ねた。以後4年間、インドシナは植民地政府と日本軍による二重支配を受ける事となり日本軍によってインドシナの支配が「公認」されたフランスのインドシナ総督ジャン・ドゥクー(Jean Decoux, 1884-1963)海軍大将は、独立勢力への締め付けをより一層強めた。

インドシナ総督ジャン・ドゥクーと日本陸軍の将校(1941年インドシナ)

 民衆の間では日本への失望と反感が高まり、戦前から抗仏闘争を行ってきたホー・チ・ミン率いるベトナム最大の民族主義組織ベトミン(ベトナム独立同盟会)は、日本を新たな侵略者と見做し、アメリカOSSなどによる軍事支援を受けながら日本軍へのゲリラ戦を展開していく。さらに1944年後半から1945年前半にかけてベトナム北部で発生した大規模な飢饉によって数十万から数百万人とも言われる大量の餓死者を出した事で、日本軍はより一層敵視された。
 一方、ベトミンのような大規模な武装集団を持たないクオン・デのベトナム復国同盟会は、植民地政府による取り締まりから逃れるため地下に潜伏せざるを得なかった。また植民地政府は1941年7月にタイニン省のカオダイ教団本部にフランス軍部隊を突入させ、教皇ファム・コン・タクをはじめとする5名のカオダイ教指導者を逮捕した。そして彼らカオダイ教幹部は1941年8月20日に南シナ海のコンソン島に流刑され、さらにその後仏領マダガスカルに移送された。
 このような状況の中で、1940年の日本軍進駐によってベトナムに帰還を果たした松下は、彼ら非ベトミン系独立活動家への資金援助と連絡場所として、サイゴンの華人街チョロンに「レストラン ARISTO」を開業した。しかしこの活動はベトナムの独立運動を許さない日本政府の方針に反していたため、政府は松下がクオン・デを扇動して革命を起す事を危惧し、松下が日本に一時帰国すると彼の旅券を停止し、ベトナムに戻る事を禁じた。その後しばらくして、松下は日本軍に対し「現地の政治問題には関与しない」という誓約書を提出するとともに、松下の理解者である陸軍幹部の保証を得て、ようやくベトナムに帰還する事が出来た。



次回「カオダイ軍創設と明号作戦」に続く


[参考文献]

平田豊弘 (2011) 「松下光廣と大南公司」, 『周縁の文化交渉学シリーズ4 『磁器流通と西海地域』』 p.115-122, 関西大学文化交渉学教育研究拠点, <https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/5888/1/12_hirata.pdf>2018年4月15日アクセス
Andrew R. Finlayson (2008) 「The Tay Ninh Provincial Reconnaissance Unit and Its Role in the Phoenix Program, 1969-70」, 『A Retrospective on Counterinsurgency Operations』, Central Intelligence Agency<https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/csi-studies/studies/vol51no2/a-retrospective-on-counterinsurgency-operations.html>2018年4月15日アクセス
Arnaud Brotons・Yannick Bruneton・Nathalie Kouamé(dir.) (2011) 『Etat, religion et répression en Asie: Chine, Corée, Japon, Vietnam- (XIII-XXI siècles)』 KARTHALA
Chizuru Namba (2012) 『Français et Japonais en Indochine (1940-1945): Colonisation, propagande et rivalité culturelle』 KARTHALA
Dr Sergei Blagov 「Armée De Caodai」, 『Caodaisme』<http://caodaisu.tn.free.fr/cultue/0,,703,00.html>2018年4月15日アクセス
Shawn McHale 「Cochinchina – a failed revolution?」, 『End of Empire - 100 days in 1945』, <http://www.endofempire.asia/0825-cochinchina-a-failed-revolution-3/>2018年4月15日アクセス
松下光廣翁の足跡を辿る会 (2012) 「記念講演会開催のご報告墓参」<http://matsushitamitsuhiro.kataranna.com/e3246.html>2018年4月15日アクセス
Institut Pierre Renouvin1 (2015) 「La collaboration franco-caodaïste au début de la guerre d’Indochine (1945-1948) : un « pacte avec le Diable » ?」, 『Bulletin de l'Institut Pierre Renouvin1』 2015/1 (N° 41) Université Paris 1, <https://www.cairn.info/revue-bulletin-de-l-institut-pierre-renouvin1-2015-1-page-75.htm>2018年4月15日アクセス
Mémoires d'Indochine (2013) 「HỒI KÝ TRẦN QUANG VINH – MÉMOIRES DE TRAN QUANG VINH [1946]」, <https://indomemoires.hypotheses.org/8301>2018年4月15日アクセス
ORDRE DE LA LIBÉRATION 「GEORGES THIERRY D'ARGENLIEU」, <http://www.ordredelaliberation.fr/fr/les-compagnons/946/georges-thierry-d-argenlieu>2018年4月15日アクセス




  


2018年03月22日

タイでもらったパッチ

先日のバンコクでの撮影会の際、タイの友人たちが記念にと、タイ軍関係のパッチをいろいろプレゼントしてくれたので紹介します。



タイ王国義勇連隊"クイーンズコブラ" (FWMFタイ陸軍部隊 1967~1968年)

ベトナム戦争期、ベトナムに展開した自由世界連合軍(FWMF)の中で、韓国軍・オーストラリア軍に次いで3番目(※2018年3月22日訂正: オーストラリア軍より多かったので正しくは2番目)の規模の地上戦闘部隊を擁していたのがタイ陸軍でした。このベトナム派遣タイ陸軍部隊、通称"クイーンズコブラ連隊"は1967年にベトナムに到着し、以後アメリカ陸軍第9歩兵師団の指揮下で作戦を遂行していきます。
このパッチはリプロですが、友人曰く、当時同パッチを製造していた徽章屋が当時と同じ素材・製法で制作した高品質な複製品だそうです。なのでよほどのタイ軍コレクターでないと、真贋の見分けはつかないくらいよく出来ているそうです。


タイ王国陸軍義勇軍"ブラックパンサー師団" (FWMFタイ陸軍部隊 1968~1972年)
クイーンズコブラ連隊の派遣から間もなく、タイ政府はベトナムへの戦闘部隊の増派を決定し、1968年1月に兵力約11,000名から成るタイ王国陸軍義勇軍(RTAVF)"ブラックパンサー師団"が編成されます。FWMFに加わったブラックパンサー師団は以後、ビエンホア省等においてサーチ&デストロイ作戦や、ベトナム市民への人道支援活動に従事していきます。なお派遣の翌年の1969年にアメリカがベトナムからの撤退を表明した事で、FWMFの各国軍も順次撤退を開始し、タイ軍ブラックパンサー師団は1972年に撤退完了、解散しました。※タイを含む同盟国の活動概要については、アメリカ陸軍省編のAllied Participation in Vietnam(1985)に詳しく乗ってますので、ご参照ください。
なお上のクイーンズコブラと異なり、こちらのパッチは一目で近年作られたリプロと分かる機械刺繍製です。


タイ陸軍帽章(フィールドキャップ用)
ベトナム戦争期から変わらず使われているタイ陸軍の帽章。現代製だけど、リプロと言うよりPX品。


タイ王国空軍 F-16戦闘機搭乗員
実物らしいです。裏はベルクロ


タイ王国空軍 第5航空団
第5航空団は輸送および観測を主任務とする割と地味な航空団みたいですが、調べてみると、実は過去に日本と因縁のある部隊だという事が分かりました。
太平洋戦争開戦前夜の1941年12月7日午後11時、日本政府はタイ王国政府に対し、タイ領内における日本軍の進駐・無制限通行権を要求します。日本軍の目的はマレーおよびビルマに駐屯するイギリス軍の撃退であり、その道程にあるタイ王国は問答無用で日本への服従を強いられました。これは事実上の最後通牒であり、タイ政府は日本の要求を受け入れて独立国としての尊厳を失うか、要求を拒否して日本との戦争に突入するか選択を迫られました。しかし日本軍の戦力は圧倒的であり、タイ側は対抗手段が無い事を認めざるを得ず、武力による恫喝に屈して日本の要求に渋々同意します。
そしてその数時間後の12月8日未明、真珠湾攻撃とほぼ同時刻に日本軍がタイ領内への侵攻を開始します。しかしこれに対し、戦いもせず外国の侵略に屈する事を良しとしない一部のタイ軍部隊は、中央の命令を無視して独断で日本軍の迎撃を開始します。
タイ中部のプラチュワップキーリーカン県では、タイ空軍第5航空師団(現・第5航空団)が中心となって、上陸した日本軍に対する大規模な反攻が開始されました。戦闘は翌9日まで続き、正午には第5航空師団のプラワー・チュンサーイ中佐が、備蓄燃料が日本軍の手に渡る事を防ぐため、自軍の燃料集積所を爆撃するに至ります。
しかし同日、タイ政府は改めて日本との休戦協定を締結すると共に、現場部隊に対し休戦命令の徹底を行い、33時間におよぶタイ軍の抵抗は終わりを迎えました。尊厳よりも国家の存続を優先する苦渋の決断によって降伏したタイ軍でしたが、このプラチュワップキーリーカンの戦いでは、タイ側の戦死者は42名、一方当初圧倒的優勢と思われていた日本側の戦死者は115名以上とされており、短期間ながらタイ軍の意地と愛国心を示した英雄的な戦いとして現地には記念碑が建立されています。そして現在、その戦いを主導した第5航空師団の後継である第5航空団の部隊章には、その栄光を称えプラチュワップキーリーカンの戦い記念碑の、軍旗を掲げる航空兵の像がデザインされています。

プラチュワップキーリーカンの戦い記念碑 (画像:  กรุงเทพธุรกิจ มีเดีย จำกัด)


彼らの内何人かは、今年中に日本に遊びに来るみたいだから、その時はたっぷりおもてなししてあげよ~っと!face02
  


2016年12月04日

グエン・ラック・ホア神父

神父オーガスティヌ・グエン・ラック・ホア
Augustine Nguyễn Lạc Hóa

 グエン・ラック・ホア神父の出自に関しては、いくつかの説が存在する。まず出生名は、『チェン・イーチョン(陳 頤政?)』という説(台湾外務省)と、『ユン・ロクファ(雲 樂華)』という説の二つが存在する。(この記事ではチェン・イーチョンとして書く)
 また出身地と誕生日についても二つの説があり、一つは1908年8月18日に、トンキン湾に面した清国広東省雷州半島の村生まれたというもの。もう一つは1908年8月28日に仏領インドシナ・トンキン ハイニン省(現ベトナム・クアンニン省)のモンカイ生まれ、両親はサイゴンに住んでいたという説である。ただし後者は現ベトナム政府が公表しているもので、これはホア神父が中国からベトナム北部に移住(不法入国)した際に、ベトナム当局に対し自分はベトナム出身だと身分を偽って申請した際の内容である可能性もあると思われる。
 いずれにせよ、ホア神父は中国広東省の漢族の家系に生まれ、キリスト教徒(カトリック)として育ち、洗礼名は『オーガスティヌ (Augustine)』であった。


日中戦争と国共内戦

 "オーガスティヌ" ・チェン・イーチョン英領マラヤのペナンで神学を学んだ後、1935年に英領香港でカトリック教会の司祭に任命された。しかしチェン神父の生まれ故郷中国(中華民国)は当時、国民党政府と中国共産党との間で(第一次)国共内戦の只中にあった。中国に戻ったチェン神父は国民党政府傘下のキリスト教武装集団の指導者の一人として、キリスト教を敵視する共産党の討伐に加わった。
 しかし1937年、日本が中国への侵攻を激化させると、対日戦に集中するため国民党政府は一転して共産党との連携(第二次国共合作)を開始した。チェン神父は再度戦争に動員され、聖職を離れて蒋介石率いる国民革命軍(現・台湾軍)の中尉を務め、広東省と広西省の境にある十万大山山脈において、圧倒的な戦力で押し寄せる日本軍に対しゲリラ戦を挑んだ。
 1945年8月、日本が連合国に降伏し8年間続いた日中戦争が終結した。その頃には、チェン国民革命軍の少佐(少校)へと昇進していた。しかし日本という共通の敵を失った国民党と共産党は再び内戦(第二次国共内戦)へと逆戻りした。この戦いの中でチェンは中佐(中校)へと昇進したが、国民党は次第に劣勢に追い込まれていった一方、チェンは軍を離れる機会を得たため、神父として本来の宗教活動を再開した。


中国キリスト教難民の漂泊

 しかし1949年、毛沢東率いる中国共産党が内戦に勝利し、中華人民共和国の成立が宣言された。その直後、毛沢東政権はヴァチカンのカトリック教会の影響力を排除するため、国内のカトリック信徒への宗教弾圧を開始した。この中でチェン神父は『反動』の烙印を押され、三日間の逃亡の末、当局に逮捕、投獄された。
 投獄から1年と4日後、チェン神父は収容所からの脱獄に成功した。その後チェン神父はパリの友人を介し、中国共産党の毛沢東に宛てて10通ほど手紙を送ったという。その内の一通は以下のような内容であったと伝わっている。
「毛先生、私は貴方に感謝ています。貴方は寛大にも、私に自由とは何かを教えてくました。今や私は、永遠に貴方の敵となりました。私は毎日、一人でも多くの人々に、貴方の敵になるよう説得を続けています。貴方と、貴方の邪悪な思想がこの世から消え去る日が来るまで」
 まもなくチェン神父は、中国共産党政府による弾圧から逃れるため、1951年に約200名の中国人キリスト教徒と共に船で中国を脱出し、ベトナム国北部(トンキン地方)ハイニン省へと移住した。当時ベトナム国はフランス連合の一部であった事からキリスト教が迫害される恐れは無く、彼らカトリック難民にとって安全な場所と思われていた。チェン神父はこの地でグエン・ラック・ホア(Nguyễn Lạc Hóa ※"Lạc Hóa"は"樂華"のコックグー表記)へと改名してベトナムに帰化し、中国人キリスト教徒のベトナムへの脱出を支援する活動を開始した。その後の6か月間で、チェン・イーチョン改めグエン・ラック・ホア神父は450世帯、2174名のカトリック信徒を中国からベトナムに入国させる事に成功した。
 しかしこの時期、ベトナム北部では毛沢東の支援を受けたホー・チ・ミンのゲリラ組織ベトミンが活動を活発化させていた。ベトミンはフランスの保護を受けるカトリックを『反民族的』と見做し、同じベトナム人であってもテロの対象としていた。さらに、ベトナム北部は古代から中国からの侵攻に脅かされてきた歴史があるため、ベトミンから中国人を守ろうというベトナム人は居なかった。こうしてベトナムでも再び共産主義者による迫害にさらされたホア神父は、やむを得ず2100名の中国人信徒と共にベトナムを離れ、隣国のクメール王国(カンボジア)に集団移住することを余儀なくされた。

 以後7年間、ホア神父率いる難民グループはベトナム・フォクロン省との国境に面したクメール王国クラチエ州Snuol郡に村を建設して避難生活を送った。しかしこの時期、クメールのシハヌーク政権は中国・ソ連・北ベトナム、特に毛沢東と密接な関係となり、共産主義に傾倒した『政治的中立』政策を開始した。難民たちは、クメールでも共産政権によって中国や北ベトナムのような宗教弾圧が始まる事を恐れ、ホア神父は三度移住を模索し始めた。
 そこでホア神父は友人のバーナード・ヨー(Bernard Yoh)の協力を得てベトナム共和国(南ベトナム)総統ゴ・ディン・ジェムと接触した。ヨーは上海出身の中国人で、イエズス会の学校で教育を受けたカトリック信徒であった。ヨーは日中戦争において故郷上海を占領した日本軍と戦うため抗日地下組織に参加し、後にアメリカOSSと中国国民党が合同で設立した諜報機関『SACO (中美特种技术合作所)』の一員として、抗日ゲリラ部隊のリーダーを務めた。大戦後は1947年にアメリカに移住し、1950年代後半からはアメリカ政府職員(CIA)としてベトナムに派遣され、ジェム総統直属の政治顧問を務めていた。
 ジェム総統は熱心なカトリック信徒であり、また強烈な反共思想を思っていた。さらに1954年のベトナム分断以降、南ベトナムにはホー・チ・ミン政権による弾圧から逃れるためカトリック信徒を含む100万人の北ベトナム難民が避難していた。ジェム総統はそうした難民とカトリック勢力に強く支持された人物であり、アメリカ政府と強いパイプを持つバーナード・ヨーの仲介もあった事から、ジェム総統は1958年にホア神父の中国人カトリック難民グループの受け入れを決定した。
 受け入れに際し、ジェム総統は移住先として南ベトナム領内の三ヵ所の候補地を提示した。ホア神父はこの中から、700平方キロメートルにおよぶ手付かずの広大な土地と、肥沃な土壌、水源を持ち、稲作に最も適していたベトナム最南端のアンスェン省(現・カマウ省)カイヌォック(Cái Nước)地区を選択した。(画像: ホア神父率いる中国キリスト教難民の避難先の変遷)


ビンフン村

 ホア神父と200世帯の難民はサイゴン政府の支援を受けて、1958年から1959年にかけてカマウの南西に位置するカイヌォック地区への移住を進めた。しかしそこは三カ所の候補地の中で最も危険と目されていた場所であった。なぜなら1954年のジュネーヴ協定調印以降も南ベトナム領内のベトミン・ベトコン勢力(後の解放民族戦線)は活動を継続しており、中でもカマウはゲリラの活動拠点として大量の武器弾薬が集積されていた為である。さらに夕方になると、ジャングルから蚊の大群が黒い雲のように発生した。土地は開墾が進んでおらず、どこにも作物の無い原野であった。難民たちは自ら煮えたぎる釜の中に飛び込んで行ったかのように思われたが、ホア神父は人々に訴えかけた。「私は滅びるためではなく、生き残るために皆さんをこの地に導いたのです。ここは肥沃な土地です。あなたたちは各自3ヘクタールもの自分の水田を持てるのです。我々の努力次第で、収穫は無限大です。私はこの場所を平らに均し、家々を建てて発展させる事を決意し、ビンフン (平興 / Bình Hưng)と名付けます」。

 こうして彼らは3ヶ月間昼夜問わず働き、住居と村落をゲリラから守るための堀と土塁を建設した。ホア神父は国民革命軍将校として日中戦争・国共内戦を戦ってきた経験から、村を防御に適した四角形にデザインし、要塞として機能するよう設計していた。また湿地帯で冠水しやすい土地のため、住人が村内を往来しやすいよう村の中央に水路の交差点と橋を構築した。村は湿地帯にある為、水路で物資を運搬する事が出来た。(写真: 上空から見たビンフン村。集落の周囲を四角い堀で囲み、防御陣地としてしている。)
 人々は小さいながらも各々の家を建て、ようやくビンフン村での生活が始まった。また難民たちには、政府からベトナム国民としての市民権が与えられた。そして過酷な労働は実を結び、数か月後には水田から大量の米が収穫された。その後、ビンフン村の水田は、1回の収穫毎に村で消費する米の3年分を生み出すまでに成長した。
 また度重なる共産主義者からの迫害により中国、北ベトナム、カンボジアと三度も移住を迫られた難民たちは、このビンフン村を最後の砦として自分たちの力で守る事を決意し、ホア神父は住民による民兵制を開始した。民兵は5名単位の班に分かれ、それぞれの班が村落の警戒にあたった。

 一方、ベトコン側は当初カマウへの中国人難民移住を無視していた。しかしビンフン村が完成し、村に黄色と赤のベトナム国旗(ベトコンにとっては反動傀儡政府の旗)が掲揚されると共に大量の作物が収穫されている事を知ると、ベトコンは嫌がらせの為の小規模な宣伝部隊をビンフン村に送り始めた。この時、ビンフン村の民兵が持っている武器は手榴弾6個と、ナイフや木製の槍しかなかった。しかし彼らの一部は国民革命軍兵士として長年日本軍と戦ってきた元兵士であった為、このような質素な武器による戦闘術を心得ており、ゲリラを撃退する事に成功していた。さらにホア神父と村人たちは周辺のベトナム人集落と協力関係を築き、情報交換しあう事でベトコンゲリラの襲撃に備えた。
 この小規模な戦闘の後、ジェム政権は1959年12月に、すでに軍では廃止されていた旧式のフランス製ライフル12丁ゲリラへの対抗策としてビンフン村の民兵に提供した。1960年になると、ビンフン村はしばしばベトコンによる襲撃や狙撃に晒されたが、ビンフン村民兵はそのたびに捕虜を捕え、彼らに村を取り囲む堀・土塁を増築工事させる事で村の防御力は高まっていった。1960年6月、サイゴン政府はフランス製ライフル90丁以上、短機関銃2丁、拳銃12丁をビンフン村に提供し、後にライフル50丁、機関銃2丁、短機関銃7丁を提供し、さらにその後、1955年にビンスエン団から押収したフランス製のルベル小銃(M1886)50丁と、アメリカ製のスプリングフィールド小銃(M1903)120丁も追加した。しかし銃の数に対し弾薬が不足していた為、ビンフン村ではバーナード・ヨーやホア神父が猟銃用に使っていた古い弾丸組み立て機を使い、自家製のライフル弾を製造した。

 1960年11月19日、サイゴン政府はビンフン村民兵部隊を、政府が統制する民兵組織人民自衛団(Nhân Dân Tự Vệ)』正式に編入し、部隊名を人民自衛第1001団(Nhóm NDTV 1001)』として、ベトナム共和国軍(Quân đội VNCH)の指揮下に組み込んだ。隊員は18歳から45歳の住民で構成され、訓練は特殊部隊が担当した。その内容は基礎教練、武器の取り扱い、心理戦、情報評価、通信、応急処置などで、短期間で集中的な訓練が施された。
 1960年12月には、ベトコン工作員が単身ビンフン村に潜入し、村に掲げられていたベトナム国旗をベトコンの旗に置き換えようと試みたが、この工作員は間もなく発見、射殺された。この報復として、ベトコンは昼夜関係なくビンフン村への襲撃を開始し、週に2回は大小の戦闘に発展した。その後6回ほど大規模な戦闘が行われたが、ベトコン側はビンフン村側に対し8:1の割合で死傷者を出していた。ベトコンとの戦闘を経験し、ホア神父はただ襲撃されるのを待つ事を止め、自ら積極的にベトコンゲリラを捜索・掃討すべく、ビンフン村民兵に周辺のパトロールを毎日行うよう命じた。
 そんな中、1960年末にホア神父は村の資金調達のため護衛と共にサイゴンに出張した。するとそれを見計らい、1961年1月3日に約400名のベトコン部隊がビンフン村を襲撃した。村はライフルや短機関銃の集中砲火を受け、村人たちは皆地面に伏せて逃げ惑った。そしてベトコンは村に戻ったホア神父ら80~90名の民兵部隊を2方向から待ち伏せしたが、勝ち急いだベトコンは民兵による反撃を受け、20~30mの距離で発砲し合う接近戦となった。戦闘はその後三日間続き、ベトコン側は計800名のゲリラを戦闘に投入したが、最終的に172名の死亡者を出し、ビンフン村から撤退した。一方、ビンフン村側の死者は16名であった。

 この戦いの直後、アメリカ空軍のエドワード・ランズデール(Edward Lansdale)准将はビンフン村を訪れ、村人の戦闘能力を高く評価するレポートを本国に提出した。ランスデール准将は1953年にアメリカ軍MAAGインドシナの一員としてベトナムに派遣されて以来、長期に渡ってベトナムでの政治工作に従事していたCIAエージェントでもあり、当時はジェム総統の顧問駐在武官という立場にあった。(写真: ラスデール准将とゴ・ディン・ジェム総統, HistoryNet.comより)
 この報告を受けたジョン・F・ケネディ大統領(アメリカでは少数派のカトリック信徒)はビンフン村に強い関心を持ち、アメリカ軍による東南アジア自由世界(=親米・反共勢力)への軍事支援計画『プロジェクト・アジョル(Project AGILE)』の対象にビンフン村も加えるよう指示した。ジェム総統は、村の防御力をより完全なものに強化するため、アメリカ軍から提供された武器・弾薬・医療・食品などの軍事支援物資をビンフン村に与える事を許可した。プロジェクト・アジョルはケネディ大統領の指示によりアメリカ国防総省ARPA(高等研究計画局)が1961年に開始した、東南アジアにおける共産主義勢力の排除を目的とした限定的非対称戦争計画であり、ベトナムの他、ラオスやタイの政府軍、カンボジアの反共・反政府組織『自由クメール抵抗軍』に対しても軍事支援が行われた。
 またホア神父とバーナード・ヨーは慈善団体やサイゴン政府当局に対し、警備活動、医療、教育、小麦粉や食用油などの食料品など、難民への生活支援を求める活動を絶え間なく行っていた。その結果、ビンフン村には中国人難民に加え、北ベトナム出身のベトナム人カトリック難民もホア神父の下で暮らすためビンフン村に集まり、村の人口は開村から2年で4倍に増加した。


海燕(ハイイェン)

 1961年6月、ホア神父はビンフン村民兵の部隊名を第1001から、『ハイイェン(海燕 / Hải Yến)』に変更する事をジェム総統に提案し、合意を得た。ハイイェンの名は白黒二色の海燕がカトリック司祭のキャソック(司祭平服)を連想させる事、田畑の害虫を食べ農民を助ける鳥である事、さらに渡り鳥である海燕は毎年生まれ故郷の中国に帰ってくる事から、いつか故郷へ帰還する希望をこめて選ばれた。この時点で、『人民自衛団部隊ハイイェン(Lực lượng NDTV Hải Yến)』には340名の民兵が所属し、さらに80名が新兵として訓練中であった。またハイイェンはボーイスカウト式の『三指の敬礼』で互いに敬礼を行った。(画像: ハイイェンの部隊章。隊員は軍服の左袖にこの徽章を佩用する)
 1959年以降、ジェム総統は180名のビンフン村民兵に与える賃金を捻出するため一部民間の資金を使用していたが、1961年には300名の民兵に対し、階級に関わらず一人一律12米ドルの月給が国費から支払われるようになった。さらに40余名分の供与はホア神父が自費で捻出した。しかしこれらを合わせてもビンフン村を維持するための資金は十分とは言えず、兵士は訓練に参加しただけでは賃金が発生せず、食事が提供されるのみであった。さらにホア神父とバーナード・ヨー村人が着用する衣類など集め、その生活支えるために個人的な借金を重ねていたが、その額は1961年半ばまでに合わせて10万米ドルに達していた。
 しかし正式に国軍の指揮下に入った後も、ホア神父は軍の将校としての地位と賃金を受け取る事は固辞し、ビンフン村の指導者として無償で数多くの軍事作戦に志願し、その指揮官を務めた。ホア神父は聖職者である自分が軍事作戦を指揮するに事について、所属するカトリック教区の司教に相談したことがあった。その時司教はそれを許可しなかったが、ビンフン村の住人にとってホア神父のリーダーシップと軍事経験は村が生き残る為の唯一の希望であった事から、ホア神父は司教の言葉を無視し、自ら戦場に赴いた。(写真: 軍服姿でハイイェンのパトロール部隊に同行するホア神父.1962年。狩猟が趣味のホア神父はしばしば、パトロールの際にアメリカ軍アドバイザーから入手した16ゲージ散弾銃で家畜を襲う鷹を獲り楽しんだ。)

 その後、政府からビンフン村にまとまった財政支援が行われると、ホア神父は村を守るための傭兵を募りに南ベトナム中を周った。彼はそこで、ビンフン村での生活は安い給料の割に戦闘は激しく、生命の危険がある事を警告したが、それでも242名のデガ(山地民/モンタニヤード)と、ヌン族1個中隊=132名がハイイェンに志願した。
 デガの多くはカトリック信徒であり、その上デガは長年ベトナム人から迫害を受けていたため、非ベトナム人カトリック組織であるハイイェンに進んで参加した。またヌン族グループはホア神父やビンフン村の人々と同様に、かつて蒋介石の国民革命軍に所属し、その後毛沢東、ホー・チ・ミンによる弾圧から逃れ南ベトナムに流れ着いた中国出身の難民たちであった。
 彼ら元国民革命軍のヌン族兵士は、国共内戦に敗れると他の国民党勢力と共にベトナム北部に移住し、その地でフランス植民地軍に参加して第1次インドシナ戦争を戦った。しかしフランスが撤退し北ベトナムがホー・チ・ミン政権に支配されると、5万人のヌン族が南ベトナムに避難した。そこでもヌン族はゴ・ディン・ジェム政権の下でベトナム共和国軍に参加し、『ヌン師団(第16軽師団・第3野戦師団)を構成していた。しかし1959年にヌン師団師団長ファム・バン・ドン少将がジェム総統との確執から更迭されると、これに反発した多数のヌン師団将兵が政府軍から脱走し、以後元ヌン師団兵士たちはアメリカ軍MAAGおよびベトナム共和国軍特殊部隊などに傭兵・基地警備要員として雇われていた。こうして彼ら傭兵の指導者たちはビンフン村に鉄兜(軍事力)をもたらし、ホア神父は彼らに祭服(信仰)をもたらす事で、ゲリラに対抗しうる強力な戦力を整えていった。

 ホア神父の方針は、ただ攻撃されるのを待つだけでは戦いに勝つことはできず、自ら打って出て敵を撃破する事ではじめて勝利を掴め得るというものであった。ハイイェン部隊は毎日、毎晩、どんな天候でもパトロールに出撃し、そして必ずベトコンの待ち伏せを発見する事が出来た。それはビンフン村が周囲のベトナム人農村と協力関係を築き、この地域で活動するゲリラやスパイに関する情報が周辺住民から逐次提供されたからであった。同時にハイイェン側も商人に偽装した工作員をベトコンと接触させ、敵側の情報を収集する情報網を作り上げた。
 ホア神父は常々、ゲリラを撃退する最善の方法は、敵がまだ一カ所にまとまっている段階でこちらから攻撃を仕掛ける事であり、こうすれば敵は統制を失い、簡単に叩く事が出来ると力説した。その言葉の通り、ホア神父が指揮するハイイェン部隊は次々と戦いに勝利し、ビンフン村の周囲からベトコンを一掃出来た事を彼自身誇りとしていた。過去2年間で、ベトコン側はハイイェンとの戦いで約500名の死者を出したが、ハイイェン側の死者はわずか27名であり、さらにその大部分は、戦闘ではなく対人地雷やブービートラップによるものであった。このようにハイイェン兵士の戦闘能力は非常に高く、政府軍のアンスェン省長官からの要請により、しばしばハイイェン部隊の一部を他地域への増援として貸し出すほどであった。
 ある日、ホア神父はこの地域のゲリラが成果を出せなかったことから、ベトコン上層部は他の地域から兵力を移動させているという知らせを聞いたが、彼はこれをハイイェンが確実にベトコンに損害を与えている証拠と捉え喜んだという。以前にもホア神父は別の地域から派遣されたベトコン部隊と戦っ事があったので、もし新たな敵が現れたとしても、ハイイェンはいつも通り敵を血祭りにあげるか、捕虜にするだろうと確信していた。(写真: ベトコンに勝利し解放戦線の旗を鹵獲したハイイェン兵士)

 共産主義者を憎むハイイェンの兵士たちは、一たび戦闘となると猛烈な敵意をもってベトコンを攻撃したが、一方で捕虜の扱いには慎重であった。ハイイェンはそれまでの三年間で200名以上のベトコン兵士を捕虜にしており、その中には多数のベトコン幹部と工作員も含まれていた。
 捕虜たちは窓のない長屋に収監されており、特に頑固で反抗的な約40名のベトコン兵士が独房に監禁されていた。しかし他の108名の捕虜たちは、夜寝る時間以外は長屋から出る事が出来た。彼らには一日5~6時間の労役が課せられていたが、日曜日は休日として労役からも解放された。捕虜には一日三食の食事が与えられ、さらに少ないながらも労役に対する賃金が支給され、その金でタバコなどの嗜好品を買うことができた。村人たちは捕虜に対し友好的な態度を取り、しばしば衣類や食料品を差し入れした。また捕虜を収容する長屋にはベッド、毛布、蚊帳まで用意されており、これには一般のゲリラ兵士だけでなくベトコン中核幹部まで、その人道的な扱いに感動を覚えたたという。またベトコンはしばしば農村の女性や子供までもをゲリラ兵士として戦闘に動員したが、ハイイェンはこうした捕虜は長屋に収容せず、また子供の場合はその親を村に呼び寄せ、他の住民と同じくビンフン村の中で生活する事を許した。(写真: 捕虜としてビンフン村内で生活するベトコンの女性・子供たち)
 加えて、村では捕虜たちに対し一日2時間、自由と民主主義、そして共産主義の実態について学ぶ教室が開催された。捕虜となったゲリラ兵士のほとんどは、民主主義も共産主義もよく知らず、ただベトコンが語る『解放』という抽象的な希望にすがっただけの貧しい農夫たちであった。そしてホア神父は捕虜たちがこの講義の意味を十分理解したと感じると、彼らを解放し各自の村に帰した。
 この厚遇を体験した捕虜たちは、こうしたホア神父の寛大で誠実な人柄に瞬く間に魅せられたという。ある日、捕虜を見張っていた年配の看守が、勤務中に酒を飲み、へべれけに酔っぱらってしまった事があった。しかし捕虜たちが逃亡する事はなかった。それどころか捕虜たちは、看守がライフルを置き忘れないよう、本人に代わって持ち運んであげたという。
 捕虜の一部には、ホア神父の理想と人柄に感化され、ベトコンを離れハイイェン部隊に加わる事を願い出る者さえいた。またベトコンはしばしばスパイ活動と破壊工作のために、若くて美しい女性をビンフン村に潜入させていたが、彼女たちの中にもビンフン村の実情を目の当たりにして考えを改め、自分はスパイだったと名乗り出て、ハイイェンへの協力を申し出る者がいた。ホア神父はこうした申し出を寛大に受け入れ、元ベトコン兵士たちがビンフン村内の小さな集落に住むことを許可した。ホア神父が目指す自由で寛容な世界は、残忍なテロで暴力革命を進めるベトコンの扇動よりも、貧しいゲリラ兵士たちの心を打つものであった。

 ビンフン村を訪れた外国人記者たちは、かつて19世紀の小銃で武装した340名の雑多な民兵に過ぎなかったハイイェンが、わずか1年間でM1ライフルやM1カービンを装備し、カーキ色の制服で統一され、非常に統制のとれた、まるで政府軍のような500名の精強な兵士たちに成長したこと驚きを禁じ得なかった。しかし当時村に対するベトコンの攻撃は頻発しており、ハイイェンの民兵たちだけでビンフン村および周辺の集落を守り切る事は、記者たちから見ても容易ではないように思われたという。それでもホア神父は常に自信を持った態度で人々に接しており、村人はホア神父を親しみと尊敬をこめて『おじいちゃん(爺爺)』と呼んでいた。またハイイェンの守備部隊は毎日死と隣り合わせの危険な任務を送りながらも、他の誰からも信仰を妨げられることのないビンフンでの生活に心は晴れ晴れとしており、村人たちは皆ここでの生活に満足しているように見えたという。そのような村落は、カトリックが優遇されていた当時の南ベトナムにおいても、ビンフン村ただ一つであった。
 欧米メディアはビンフン村を、『死を恐れず敵の中心で戦いに挑むキリスト教難民の村』『不屈の村(A village that refuses to die)』として取り上げ、驚きと共感を持って報じた。その姿は、東南アジア諸国への軍事支援を強化するケネディ政権の『成果』の一つとしてアメリカ国民にも好意的に受け入れられ、1961年にはケネディ一家が毎年夏の休暇を過ごすマサチューセッツ州の避暑地ハイアニスポート村や、同州のニューベリーポート市がビンフン村と姉妹都市を宣言した。またニューヨーク市は友好の証として、同市のシティーキー(都市間の信頼関係を示す鍵を模したオブジェ)と、ビンフン村のペナントを互いに交換した。そしてこの年のクリスマスには、西側世界の各国からクリスマスカードやプレゼントがビンフン村に届けられた。こうして村には訪問者やジャーナリストを載せたヘリコプターが定期的に行き来するようになり、ホア神父は56名のハイイェン兵士を選抜し、重要な来賓を迎えるための儀仗部隊を編成した。(写真: ビンフン村における米国ニューベリーポート市との姉妹都市記念式典, 1961年)
 1962年にビンフン村を取材した米国のニュースレポーター スタン・アトキンソン(Stan Atkinson)特にホア神父の人柄に心酔し、ビンフン村に住み着いて村人と共に生活しながら現地の状況をリポートした。後にスタンは体調を崩しビンフン村を離れざるを得なくなったが、その際ホア神父に、何か村に送って欲しい物はあるかと尋ねた。スタンはホア神父が医薬品や武器弾薬を求めると思っていたが、ホア神父の答えは、ディズニーランドのTシャツ1500枚と、コカ・コーラの看板をいくつか、というものであった。それはビンフン村がアメリカからの支援を受けている事をベトコン側に誇示し、心理的に優位に立つための戦術であった。スタンはその後、実際にそれらの品をビンフン村に送り、村人たちはディズニーランドのTシャツを『制服』として日々着用した。またコカ・コーラの看板は敵に見えるよう村の外側に設置され、コークの在庫状況が掲示されるとともに、ベトコンを抜けてビンフン村で共に暮らそうというメッセージが書かれていた。
 また当時、ハイイェンでは作戦時にしばしば、男性兵士の後に続いて女性看護兵も共に出撃していた。彼らお互いを『兄弟』または『姉妹』と呼び、皆強い仲間意識と敢闘精神で結ばれていた。彼女たちビンフン村の女性は、妻であり、母であり、同時に前線の戦闘員でもあった。ビンフン村には約300名の女性兵士が居り、男性兵士が村の外に出撃ししている間は、女性たちが村の防御を担当した。彼女たちは男性兵士と同様に18歳から45歳までの志願者で構成されており、2か月間の軍事教練において武器の使用について必要な訓練を受けているため、重い機関銃でも十分に操作できた。その姿はこの村の境遇とも相まり、イスラエル軍の女性兵士を彷彿とさせたという。ある記者が、なぜこの村の人々は皆あのような苦痛と命の危険を伴う任務に志願したがるのかと質問したところ、ホア神父はこのように答えた。「人は皆、何かをするために生まれたのです。」 (写真: ハイイェンの女性看護兵たちと台湾のテレビ特派員スー・ユーチェン-左から三番目)


アメリカのテレビ局が作成したビンフン村のドキュメンタリー番組『不屈の村(A village that refuses to die)』 (1962)
[主な内容]
00:15 ハイイェンに捕縛されたベトコン捕虜
03:45 ビンフン村の土塁と防御陣地
07:30 労役として湿地から泥のブロックを切り出し土塁を強化する捕虜
09:02 ビンフン村の病院
10:03 ハイイェンによるビンフン村周辺のパトロール
10:50 ビンフン村の学校
11:35 ボートで遠方へのパトロールに向かうハイイェン
13:10 ベトコンの宣伝看板を発見し警戒を強めるハイイェン
14:56 カオダイ教徒の村の捜索
19:40 ビンフン村に収容されたベトコン捕虜
20:32 鹵獲されたベトコンの武器、伝単、
21:36 ベトコンに戦う事を強要されていた少年タイ
22:31 政府軍のC-47輸送機によってパラシュートで投下される村の生活物資
27:25 ビンフン村のパン屋
28:05 ホア神父とカトリック住民の朝の礼拝
29:50 胃の病で死亡したハイイェン兵士の葬儀


ハイイェン特区

 ホア神父の名は『戦う神父』として知れ渡り、カマウで知らぬ者はいないほどの名士となっていた。ジェム政権は、ビンフン村が行っていた集落を一カ所に集合させる事で農民をゲリラから隔離し、住民自身を自衛戦力化する手法はベトコンへの対抗策として非常に効果的であるとして政府の政策に取り入れ後に『戦略村(Ấp Chiến lược)』計画として全国の農村を、ビンフン村を模した自衛村落化へと変えていく政策を推し進めた。(ただしこの手法は、ビンフン村が最初から要塞として設計され住民が狭い範囲に住んでいたからこそ成功したのであり、元々広大な田園地帯に家々が点在するベトナムの農村では、むしろ住民は強制移住させられる事を嫌って政府への反発を強める結果となってしまった。戦略村計画は長年サイゴンの政府中枢で数々の要職を務めたベトナム共和国軍の"アベール"ファム・ゴク・タオ(Albert Phạm Ngọc Thảo)大佐の主導で進められた政策であったが、実際にはタオ大佐は政府に潜入していたベトコン側のスパイであり、初めからこの計画を失敗させて農村地帯における政府の支配力を低下させるを目的としていた)

 1962年2月には、サイゴン政府はビンフン村およびその周辺の村落を包括する戦術エリア『ハイイェン特区(Biệt Khu Hải Yến)』を設定し、ハイイェン部隊は『ハイイェン特区人民自衛団(NDTV Biệt Khu Hải Yến)』へと昇格し、ホア神父はハイイェン特区長官に任命されたハイイェン特区の範囲21の村落、人口25,000名、面積は約400平方キロメートルに及んだ。
 ホア神父が1959年にビンフン村を設立した時点では、後にハイイェン特区となるこの地域の住民の90%はベトコン・シンパ、またはゲリラから協力を強要されている人々であった。しかしホア神父の民兵部隊が村から遠く離れた戦場まで進軍し、ベトコンを撃破してゆくのを見る度に、住民たちはビンフン村側に寝返っていった。(画像: ハイイェン特区の部隊バッジ)

 一方、ビンフン村への軍事支援を開始したアメリカ軍はまず初めに、1961年9月にアメリカ海兵隊から7名の調査チームをビンフン村へ派遣した。彼らはそこで1ヶ月間、村の防衛に関する戦術上の問題などを洗い出した。その後、村には新たに3名のアメリカ軍アドバイザーが派遣され、村の飛行場の整備、防衛業務を補助するとともに、部隊を運用するにあたっての気象条件に関する調査を実施した。
 1962年3月には、アメリカ軍のトップである統合参謀本部議長ライマン・レムニッツァー(Lyman Lemnitzer)大将が直接ビンフン村を視察に訪れ、この地の戦況についてホア神父と会談した。さらに同年、アメリカ軍は『プロジェクト・アジョル』の一環として、通常の軍事物資に加えて当時アメリカ軍でテスト中であった新型小銃アーマライトAR-15 (コルトAR-15 Model 01)をハイイェン部隊に10丁配備し、実地テストを行った。
 またアメリカ軍はハイイェンに陸軍特殊部隊のチーム(後の第5特殊部隊群A-411分遣隊)を派遣し、特殊作戦の専門家たちがハイイェン部隊を補佐した。(写真: ビンフン村を訪問するレムニッツァー大将と出迎えるホア神父, 1962年)

 こうしてハイイェンはベトナム政府とアメリカ軍双方から支援される唯一の非正規軍事組織となっていた。サイゴン政府はビンフン村を参謀部第4戦術地区司令部の直接指揮下に置き、ホア神父にその指揮の全権を与えた。この時点でハイイェンは152mm榴弾砲や迫撃砲、機関銃などで武装した戦闘部隊を10部隊保有し、それぞれがビンフン村の周囲に駐屯していた。各部隊には138人が所属し、3個の支隊で構成され、各支隊は3個の分隊で構成された。(写真: ビンフン村の中央に掲げられたジェム総統の肖像, 1962年)
 ホア神父は、今やハイイェンの兵力は1,000名にまで増強されたが、そのうち600名はかつて中国国民党勢力として日本や中共軍と戦った元中国軍人(漢族およびヌン族)だと語った。ビンフン村には中国からの亡命者の村として、ベトナム国旗に加えて、中華民国(台湾)の国旗 青天白日満地紅旗も掲げられていた。ビンフン村の中国人たちは、いつか世の中が平和になったら、故郷の中国に帰る事を夢見ていた。ハイイェンの隊歌には、ホア神父と共に中国、ベトナムで戦い続けた兵士たちの静かなる決意が込められている。
眠れ!自由の戦士たち!
君は自由の種をまく。
自由を愛する世界中の民のため、
君と同じく 嵐の中で
戦い、戦い、戦い続ける人々のため
勝利を
その目に映すまで。
(英語訳より和訳)
 この時点でハイイェンはビルマ北部に次ぐ規模の亡命国民党勢力であり、台湾の蒋介石政権ハイイェンへの軍事支援を行った。ホア神父は台湾を訪問し、蒋介石総統との会談においてこのように語った。「この14年間、私たちはさ迷い歩く孤児のような状態でした。しかし今、私たちは祖国(中華民国)からの暖かい支援と感心を頂いております。我々のベトコンとの戦いは、もはや我々だけの孤独なものではなくなったのです」

 1963年末には、ハイイェン部隊はハイイェン特区の面積の約半分に当たる200平方キロメートルの地域からベトコンを掃討し、人口の60%をその管理下に置いた。カマウ半島は古くからベトコン勢力が強い地域であったのにも関わらず、ハイイェンはこの地域一帯のサイゴン政府軍で最も強力な部隊となっていた。しかし依然、二つの主要なベトコン拠点地域は約400名のゲリラによって防御されており、ハイイェン特区の人口の40%はそのベトコン支配地域内に住んでいた。
 ベトコンを駆逐したことで、ハイイェンが掌握した地域の人口は一気に約18,000名に拡大したが、ホア神父はその内の約3,700名のカトリック信徒と、その他の宗教の住民を差別する事は無かった。ホア神父は人々に「この戦いにはカトリックも仏教も関係ありません。我々が自由のために戦う以上、我々自身も他者の自由を認めなければならないのです」と訴えた。折しも1963年にはジェム政権による極端なカトリック優遇・仏教排斥政策に反発した仏教徒・学生らによる暴動と、それに対抗する政府による凄惨な弾圧が南ベトナム全土に広がった『仏教徒危機』が発生していたが、ハイイェン特区の中だけは宗教的な対立が発生しなかった。

 しかし問題は山積していた。人口の増加したビンフン村は防御陣地としては大きくなり過ぎ、本来の要塞としての機能を十分に発揮できなくなりつつあった。また逆に、ベトコンや中共に対し、反攻に転じるための反共産主義勢力の軍事的拠点となるには、この村は小さ過ぎた。
 一方でハイイェン特区人々の絶え間ない努力によって経済的にも発展し、自衛戦力がますます増大した。ビンフン村の周囲には守衛所、鉄条網、人海戦術による突撃を阻止するための地雷原が設置され、運河は村の東西を繋ぎ、村の前の前哨路まで伸びた。当時村の人口は約2,000人であり、そのうちの90%が中国人であった。村には電気、水道、運動場や病院も備えられた。(写真: ハイイェン特区を取り囲む鉄条網と正門)
 人口の増加に伴い、ホア神父は人々が住む家のモデルハウスを自ら設計して、その監督下で建物が建設された。ホア神父は、ビンフン村のある湿地帯にも、堅牢な建物が建てられることを証明したかった。なぜならビンフン村やハイイェン特区は都市部から遠く離れた陸の孤島であるため、人口増加に対応できるほどの生活用品を運ぶ為には、飛行機による空輸に頼るしかなく、そのために最低でも短距離離着陸能力のあるC-123輸送機やC-46輸送機が使用できる滑走路を作る必要があったからであった。また村には就学年齢に達した300名の児童が居たが、当時村にはまだまともな学校が無かったため、子供たちへの教育は各家庭および移動教室で行われていた。ホア神父は、その子たちの為にも丈夫な学校を作ってあげる必要があった。(写真: 仮設の学校で学ぶビンフン村の子供たち)
 そしてホア神父の努力は実を結び、ハイイェン特区内には1964年初めまでに、湿地から1m盛り土し地盤を強化した上に、長さ700mの滑走路を持つ飛行場が完成した。また耕作地はビンフン村から遠く離れたタンフンタイ(Tân Hưng Tây)まで開墾が進んみ、米の作付面積は一気に増大した。
 1964年8月には、ホア神父はフィリピン共和国マニラにて、『アジアのノーベル賞』とも呼ばれるマグサイサイ賞(Ramon Magsaysay Award)の社会奉仕賞を受賞した。マグサイサイ賞は初代フィリピン大統領ラモン・マグサイサイを記念し、社会貢献や民主主義社会の実現に貢献した人物に送られる賞で、ロックフェラー兄弟財団の援助によって運営されている。
 民族と宗教に寛大なホア神父とビンフン村の人々の理想は、村の開設以来守られ続けた。一つの村の自衛組織に1,100名以上もの兵士が進んで参加したのは、ひとえにグエン・ラック・ホアという自由を求めて戦う一人の修道司祭の存在があったからであった。ホア神父はビンフン村の記念碑に刻む碑文に、彼に付き従ってきた人々と、自分自身に向けた言葉として、中国南宋時代の人物 文天祥の詩を引用した。
人生自古誰無死 留取丹心照汗青
意解:人生は昔から死なない者はないのであって、どうせ死ぬならばまごころを留めて歴史の上を照らしたいものである。(宋の政治家 文天祥は1278年、五坡嶺(現・広東省海豊県の北)で元軍に捕えられた。元の将軍張弘範は、宋の最後の拠点厓山(現・広東省新会県の南海上にある島)を追撃するのに強制的に文天祥を帯同し、宋の総大将張世傑に降伏勧告の書簡を書くよう求めたが、文天祥は拒否してこの詩を作った。)
 しかしビンフン村でホア神父と共に過ごしたスタン・アトキンソンによると、当時ますます混迷を深め、堕落の一途を辿るサイゴンの政治情勢にホア神父は失望感を募らせ、ここベトナムでも人々が自由に生きるという夢は叶わないと予見していたという。
 ホア神父は誰から見ても公明正大な人物であったが、ハイイェンやビンフン村が拡大してゆくと、ベトコンだけでなくサイゴン政府側のベトナム人の中にも、中国人難民たちが力を付けている事を快く思わない者や、ビンフン村で収穫される莫大な米の利権を狙う者たちがいた。ホア神父はジェム政権と常に深い関係にあったが、同時に腹の底ではベトナム人たちを警戒していた。さらにビンフン村を支援していたゴ・ディン・ジェム総統とジョン・F・ケネディ大統領は、それぞれ1963年に暗殺され、ホア神父は二人の国家元首の後ろ盾を失った。
 そうした中で、軍事作戦ではハイイェンを倒せないと悟ったベトコンは、ホア神父を失脚させるための宣伝工作を行った。それは、ホア神父やハイイェンの兵士の多くは亡命という形でベトナムに入国してきた『中国人』であり、その中国人に軍の指揮権を与え武装勢力として活動させる事は国籍法に違反している、というものであった。歴史的に中国への反感が強いベトナムにおいて、政府が『中国人武装集団』を支援して強い権限を与えているという事実は、サイゴン政府の腐敗を糾弾する世論(もちろんベトコンによる世論誘導工作の結果でもあったが)の中で、政府による『不祥事』として問題視された。そしてベトコン側の目論見通り、政府は最終的にホア神父をベトナム国籍とは認めず、支援を完全に停止してしまった。
 そして1964年半ば、サイゴン政府は以前からホア神父と親交のあった政府軍所属のヌン族の少佐2名をハイイェン特区に派遣した。政府はこのヌン族将校が新たなハイイェン特区長官に就き、ホア神父は一般のカトリック司祭ならびに村の顧問という役職へと退くことを求めた。これに対しホア神父は、「私もこの(指導者としての)困難な責任から逃れたいと思っていたし、村の自衛部隊が存続できるならそれでいい。ただし、村の修道士を軍に動員するのはやめて欲しい」と述べ、政府の要求に従った。

 ホア神父が指揮官から退いた後も、ハイイェン特区はアンスェン省の人民自衛団部隊として引き続き、政府軍の指揮下で作戦を継続した。そしてホア神父に代わってハイイェンの実質的なリーダーとなったのが、ホア神父の下で村の修道士をしていたニェップ(Niep)という男であった。ニェップは政府軍の中尉の階級を持っており、ハイイェンの中隊長を務めた。また過去にはCIAの秘密作戦に参加し北ベトナムに潜入した経験もあった。
 1960年代末、ハイイェンにはアメリカ軍特殊部隊A-411分遣隊に代わって、アンスェン省を担当するMACV(ベトナム軍事援助司令部)のアドバイザーチーム59(AT-59)およびチーム80(AT-80)が派遣され、ハイイェンへの補佐を引き継いだしかし当時アンスェン省の司令官だった政府軍のヌォック(Nuoc)少佐は横暴な男で、住民から勝手に『税金』を徴収して私腹を肥やし、さらに自分に従わない住民やアメリカ軍アドバイザーに発砲するなど、人々の生活を脅かし始めた。そこでハイイェンとアドバイザー達は結託してヌォック少佐を指揮官の座から引きずり下ろし、代わりに他のレンジャー大隊を指揮していた誠実なベトナム人大尉を指揮官に据えた。こうしたハイイェンとアメリカ軍アドバイザーとの絆はアメリカがベトナム戦争から撤退するまで続いた。(写真: MACV AT-59のヘンリー・デジネイス少佐とホア神父)


自由の終焉

 その後もハイイェン特区はゲリラによる襲撃を退けていたが、ベトコンはその主力部隊を徐々に南ベトナム国内のゲリラ(解放民族戦線)から、国境を越えて南侵する北ベトナムの正規軍(ベトナム人民軍)へとシフトし、戦闘はそれまでの不正規(ゲリラ)戦から、南北の正規軍同士が激突する大規模なものへと変貌していったしかしアメリカをはじめとする西側同盟国はベトナム戦争から撤退した後、南ベトナムへの支援を大幅に削減していた。一方でベトコン側は引き続きソ連・中国から無尽蔵に軍事支援を受け続けており、パリ協定を無視した南ベトナムへの侵攻を続けた。そして戦争の大勢は、次第にベトコン側に傾いていった。
 ゲリラとの戦いでは無敗を誇ったハイイェン部隊と言えども、たった1,000人強の民兵が戦車や重砲で武装した数十万人規模の正規軍を相手に戦うことは不可能であった。そしてビンフン村の人々はベトコンによる報復を恐れ、ベトナムから脱出するため村を離れて散り散りになった。事ここに至り、ついにベトナムでも自由を得る機会は失われたとして、ホア神父は失意の中ベトナムを去った。
 その後ホア神父は国民党の伝手で台湾に渡り、首都台北のカトリック教区に司祭として勤めながらその地で晩年を過ごしたという。ただし台湾移住後もホア神父は反共運動の指導者としての発言を続けており、1972年9月には、日本の田中角栄首相が北京を訪れて中華人民共和国との国交正常化交渉を進めている事を痛烈に批判した。(その直後、日中国交正常化が宣言された事に反発し、台湾政府は日本との断交を宣言した)
 そして1975年4月30日、ついに北ベトナム軍はベトナム共和国の首都サイゴンを占領し、戦争はベトコン側の勝利に終わった。

 1989年、グエン・ラック・ホア台北市内において81歳で死去した。死と暴力が吹き荒れる動乱の中国・ベトナムにおいて、弾圧から人々の信仰を守る為の戦いに生涯を捧げた人生であった。
(写真: 天の軍団を率いサタンを打ち倒す聖ミカエルの像とホア神父. ビンフン村, 1964年)

 スタン・アトキンソンはホア神父について、ニュースレポーターとして世界中を周った中で、彼ほど優れた指導者には出合ったことが無く、人生でもっとも忘れ難い人物だと語る。そして自身が1999年にジャーナリストを引退するにあたり、最後に執筆した記事はホア神父と共に過ごした日々についてであった。
 また、ホア神父と二人三脚でビンフン村を創りあげたバーナード・ヨーは、1963年にアメリカに帰国しており、アラバマ州モントゴメリーのアメリカ空軍航空戦大学(Air War College)で対ゲリラ戦と心理戦の講師として教鞭を執っていた。1974年からは保守系メディア監視団体アキュラシーの幹部としてメリーランド州ロックヴィルに居住し、1995年に74歳で死去した。


共産ベトナムでの評価

 1976年の南ベトナム併合後、ベトナム共産党による独裁政権が40年間続いている現在のベトナム社会主義共和国において、ホア神父は今もなおベトコン政権によって、『ビンフン村の頭目として大量虐殺や強姦を指示し、被害者の腹を裂いて内臓を取り出し、その肝臓を食べた』、『ビンフン村は共産主義革命の拠点を破壊するためサイゴン政府によって作られた工作部隊だった』、『"肉屋"グエン・ラック・ホアは司祭の服をまとった残忍な殺人鬼であり、1,600人以上の人々を無残にも殺害した』(カマウ省政府公式サイト)喧伝されているそして現在、ビンフン村のあった場所には政府によって、ハイイェンに殺害された『民間人』を悼む記念碑が設置されている。またかつてビンフン村の人々が行き来した村の中央の橋は、『捕虜たちはこの橋を渡った先で拷問を受けて殺害された』として、『別れの橋(Cầu Vĩnh Biệt)』と名付けられている。(写真: ビンフン村の橋の当時と現在の様子)
 ただしこれはホア神父やハイイェンに限った話ではなく、1975年までにベトコン(ベトナム労働党・解放民族戦線など)と対立した、または非協力的だった者は全て、戦後『人民の敵』の烙印を押され、終戦から40年以上経った今現在も、ベトコン政権によってその『悪行』が学校教育やメディアを通じて国民に喧伝され続けている。


【参考文献・ウェブサイト】
The Sea Swallows, Henry Dagenais (2014)
MACVTeams.Org, MACV Team 80 – An Xuyen
  


2016年03月12日

台北 忠烈祠と国軍歴史文物館

台湾という国は、第二次世界大戦の終結以来、外交・内政ともに微妙な状態が続いています。
日清戦争後、清国の領土であった台湾は1895年に日本に割譲されますが、1945年に日本が連合国に降伏すると台湾は日本から切り離され、大陸を支配する中華民国に編入されます。
しかし中国国民党が国共内戦に敗れると、台湾という小さな島だけが中華民国に残された唯一の領土となり、現在に至ります。
そのため、国際社会は国民党に代わって中国大陸を支配した中国共産党による中華人民共和国を正当な中国政府として外交関係を持っており、日本を含む多くの国々は中華民国(台湾)を国家として公には承認していません。
また台湾の人口の多数を占める本省人(中華民国編入以前から代々台湾に住んでいた人々)にとって、中華民国は同じ中華民族ながら1945年まで外国であり、それが宗主国日本の敗戦によって突然国民党に支配された形でした。
さらにその後、本省人の反乱を恐れる国民党政権によって本省人への大規模な虐殺、白色テロなどが続いたため、中華民国国民である台湾人の中でも、中華民国・国民党への評価は大きく分かれています。
現在の台湾はこうした様々な苦難を乗り越えて経済発展を遂げ、国民党が掲げていた大陸奪還の目標も放棄したため対中関係に差し迫った危機は無く、また内政面でも国民党独裁が終わり民主化が完了しているため、かつて大陸に存在した中華民国とは全く別の体制になっています。
しかしそれでも、国家のアイデンティティーとしては、あくまで孫文を国父と仰ぐ中華民国を継承しており、その姿勢が急激に変わる事は無いでしょう。
それを踏まえたうえで、今回は先日台湾を旅行した際に訪れた台北の忠烈祠と国軍歴史文物館から、台湾に残る"大陸"中華民国の部分を見てきます。

忠烈祠とは1969年に台北北部に建立された、中華民国の殉死者を祀る社です。
この忠烈祠に祀られている御魂は1911年の辛亥革命から北伐、日中戦争、国共内戦、台北遷都後の大陸反攻と、孫文が建国した中華民国・中国国民党系の勢力の殉死者であり、動乱の20世紀中国の歴史を物語る場所でもあります。

ここでは1時間おきに儀仗兵による栄誉礼・交代式が行われており、訓練された見事なドリル&セレモニーを見物する事が出来るため、国内外の観光客が集まる人気スポットにもなっています。
儀仗中華民国各軍の持ち回りで、この日は海軍の儀仗隊が担当していました。

お次は台北市内の国軍歴史文物館へ。見学は無料です。

 
入り口には1924年に孫文が記した黄埔軍官学校校訓の碑文が。おお~!
ここでは中華民国軍の歴史が時代毎に展示されており、忠烈祠に祀られる戦士たちが辿った、近代中国(大陸)の歴史を学ぶ事が出来ます。

▲蔣中正(蔣介石)に黄埔軍官学校校長就任を命じる孫文直筆の大元帥令(1924年)

蔣介石が使用した国民革命軍総司令旗

蔣介石の軍服

 
▲日中戦争で鹵獲された日本軍の日章旗

▲同じく日本兵の所持品

中華民国(台湾)軍は中国国民党軍/国民革命軍直系の組織であるため、当然日中戦争の歴史も大々的に展示され、南京大虐殺の展示もあります。
日本人がどんなに台湾を親日と呼ぼうが、右翼が歴史修正・捏造で自己弁護を図ろうとも、少なくとも台湾軍自身は、かつて8年間に及ぶ日本による侵略戦争から中国を守りぬいて勝利した事を今でも誇りとしています。




おまけ
この国軍歴史文物館には、辛亥革命から現在までに使用された歴代の兵器の展示もあり、特に銃器は、ここでしか目にする事の出来ない珍しい物がた~くさんあって、軍事博物館としても超面白かったです!

▲まさかの珍銃キャリコ!!

▲ウジグラムは実在した!!!

▲中華民国空軍ライ・ミンタン(賴名湯)一級上将が、ベトナム共和国軍ドン・バン・キュエン(Đồng Văn Khuyên)中将から贈呈されたブローニング・ハイパワー
台湾は中国を刺激することえを恐れて公にはベトナム戦争に参戦していないけど、ベトナム国民党と中国国民党は孫文の時代から姉妹政党であり、また元国民革命軍のヌン族がカマウ半島に興した反共軍閥"海燕特区"は、ほとんど台湾軍の出先機関。ベトナム在住華僑の往来も盛んで、反共で一致するベトナム共和国と台湾は当時とても深い関係にありました。
  


2015年11月02日

北米之旅二日目(その一) サンフランシスコ


この日は純粋にサンフランシスコを観光。
ホステルのフロントに「フィッシャーマズ・ワーフ行くにはどの駅に行けばいい?」って聞いたら、「ここからならタクシーで行ってもそんなに値段変わらないから、タクシー呼んであげるよ」と言うのでお言葉に甘えて呼んでもらう。

サンフランシスコの観光名所フィッシャーマズ・ワーフに到着。

そこで予約してたサンフランシスコ湾クルーズに乗船。

日本語音声ガイドでサンフランシスコの歴史を聞きながらゴールデンゲート海峡を目指す。
なんでもサンフランシスコは過去に度々地震に襲われており、その度に壊滅的な被害を受けながら幾度も復興を繰り返している街らしい。

ゴールデンゲートブリッジに接近。映画で見るよりはるかにデカく感じる!

橋の真下より。一旦橋をくぐって太平洋に出てからUターンして再びサンフランシスコ湾に戻る。

今度はアルカトラズ島に接近。島内を見学する観光客が見えるくらい島の近くをゆっくり航行。
本当は島の上陸ツアーにも行きたかったんだけど、実はアルカトラズ・ツアーは予約数週間待ちの超人気スポットのため、僕が申し込みしようとした時には既に予約で埋まってた・・・。
本気でニコラス・ケイジごっこするつもりだったのに。


 
刑務所内見たかったなぁという思いはありつつも、気持ちい潮風を浴びながら2時間弱でササっと名所を見て回れたのは良かったです。

港に戻った後は周囲を適当に散策。

船着場の目の前にMusée Mécanique (機械仕掛け博物館)という、半世紀以上前の古~い娯楽用機械で遊べてしまう超レトロなゲームセンターがありました。
これだけのものが動態保存されており、しかも一般の人が自由に遊べる場所なんて日本には無いので、とても羨ましい事です。

そのMusée Mécaniqueの横には記念艦USSパンパニトが博物館として係留されており、中を見学することが出来ます。

パンパニトは太平洋戦争後期にウルフパック任務に従事した米海軍の潜水艦で、日本の民間徴用船および駆逐艦6隻撃沈・4隻損害という戦果を残したそうです。

 

潜水艦の後は、腹が減ったので昼飯。

 
平日でもフィッシャーマンズワーフは観光客で盛況。漁港の飲食店街なので、まんま築地場外市場のノリです。

イタリア系のレストランは店の前で熱心に観光客(女性限定)を客引き。美味しそうだったけど、僕にそんな金は無い。

なので中国系の店でロブスターをテイクアウト。一匹丸ごと入って1000円以下でした。安いし美味い。正解でした。
サンフランシスコという街は100年以上前から中国系移民に支えられてきた町なので、こういう店で食う方が歴史を味わえるんです、多分(?)
ちなみにこれを広場のベンチに座って一人で食べてましたが、周りがホームレスだらけで、しかもそのホームレス同士がいきなり大声で喧嘩はじめてしまい、ちょっと困りました。
人が飯食ってる目の前で「ファッキュー!ファッキュー!」言ってます。観光地のど真ん中でこういう光景があるのはアメリカならではですね。

食事の後はさらに範囲を広げて港周辺を歩く。

 

 

この部分だけ見れば、本当に綺麗で、幸せそうな街でした。
僕はこの街を見て、強い愛国心をもって軍隊に入るアメリカ兵たちの事を思い起こしました。
なんかアメリカ人自身、この平和な光景はかりそめの物でいつ消え去ってもおかしくないという危機感を思っていて、だからこそそれを脅かす勢力を何が何でも消し去るんだという強迫観念に苛まれてる気がします。

そしてサンフランシスコ観光最後の目玉、ケーブルカーに乗ってホステルに帰る。
が、駅に行ったら観光客で長蛇の列。ディズニーランドのごとく1時間くらい並んでようやく乗れました。
こんなに混んでちゃ市民の足としては機能してませんね。

映画でよく見るけど、本当にサンフランシスコは坂だらけ。よくこんな急斜面に車を路駐できるなと思う。
そもそもこのケーブルカーが作られたきっかけは、馬車の馬が坂道の途中で力尽き、馬車が坂を転がり落ちて死亡事故が発生した為らしいけど、それもうなずける話です。

運転手は19世紀末から変わらず人力でケーブル、ブレーキを操作してます。物凄い腕の筋肉。

そして始発から終点まで乗って、ケーブルカーを下車。

そこから歩いてホステルに戻りましたが、その道のりはちょっと怖かったです。
最初にホステルのフロントで地図を渡され、「危ないからこの地区には入らないでくれ」と言われていたブロックがあるのですが、駅からホステルまでの最短ルートはそのスラム街の外周だったので、そのストリートをとぼとぼ歩いてました。
すると外周とは言えホームレスだらけ。彼らの体臭で通り全体が臭い・・・。しかも日本のホームレスと違って、本格的に頭がイカれてる人たちが多い。
また通りにはチンピラがたむろしてるし、明らかにシャブ中ジャンキーな男がろれつの回らない言葉で何かを言いながフラフラと近寄ってくるし。うわ、怖ぇー!
今さらながらヤバい所に来たと気付いたので、下向いて超早歩きでその通りを通り抜けました。
タイに1ヶ月住んでたけど、真昼間からこんな危ない空気の場所なんて無かったよ。
さっきの漁港が素晴らしかっただけに、物凄いギャップ。情報としては知ってたけど、アメリカの格差社会って生で見ると本当に深刻なんだね。

  


2014年01月27日

昔やったコスプレ

オットー・カリウス(1944年)

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Posted by 森泉大河 at 17:53Comments(2)【ドイツ】1939-1945漫画・アニメ

2013年12月27日

CEFEO空挺部隊

※2018年9月2日追記

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南ベトナム軍を調べていると、必然的にその前身であるフランス軍に興味が沸いてきます。
中でも第1次インドシナ戦争時代の空挺部隊(Troupes Aéroportées)が超カッコいいんですわ。


しかしフランス軍の空挺部隊って、なんか部隊名がコロコロ変わってて、どういう組織だったのか全体像が分かりにくかったんです。
なので今回は、第2次世界大戦から第1次インドシナ戦争にかけて、日本軍・ベトミン軍と戦ったCEFEO(極東フランス遠征軍団)の空挺部隊の変遷をまとめてみました。
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2013年12月23日

SS大管区

またナチス親衛隊ネタです~

ナチス親衛隊(一般SS)の管轄地域単位『SS大管区(SS Oberabschnitte,統括管区とも)について、ずいぶん前に自分用まとめとして作った表とかです。
SS大管区は、名前がちょこちょこ変わってて、文字だけだと何がなんだか訳ワカメ。表にして、ようやくスッキリしました。
こうして見ると、保護領化やら占領した地域をじゃんじゃんSSの支配下に置いたので、大管区も配置部隊も、その数たるやうなぎ登り!
WW2のSSというと武装SSにばかり目が行きますが、むしろ戦時こそ、一般SSの真価が発揮されたと言っても良いんじゃないでしょうか。
なお、これらはドイツ本国(オーストリア含む)から派遣されたドイツ人によるSS組織であり、現地の民族ドイツ人(ゲルマン系住民)とかナチ・シンパの外国人で構成されたゲルマンSSとは別の組織です。
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Posted by 森泉大河 at 19:38Comments(0)【ドイツ】1939-19451918-1939

2013年11月10日

ベトナム共和国軍のドッグタグ

※2018年9月2日追記

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第二次大戦期からベトナム戦争までのベトナム国軍/ベトナム共和国軍の認識票のまとめを作りました。
pixivにアップしたものなので、全部画像になってます。

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2013年09月04日

ヴィシー・フランス インドシナ軍団

いきなりですが、第2次大戦中のヴィシー政府フランス陸軍インドシナ軍団の戦闘序列をまとめました。
僕の好きな第2次インドシナ戦争期においては、南ベトナムはもちろん、ラオス・カンボジアの高級将校も大抵フランス軍出身でして、
第1次インドシナ戦争はもとより、第2次世界大戦を戦った古参も大勢います。(インドシナ兵は第1次大戦にも出征しています)
そういった人物の経歴を調べていくうちに、こりゃもう、フランス軍自体を勉強するしかないなと思い、海外サイトを翻訳してます。
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Posted by 森泉大河 at 00:34Comments(3)【フランス】1939-1945植民地軍