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2024年08月15日

マスターアジア来日

※2024年8月16日更新

このブログを読んでる人ならご存じかも知れませんが、僕には大師匠≪グランドマスター≫として人生で最も尊敬する軍事史研究者が居ます。それがケン・コンボイ(ケネス・J・コンボイ)氏。
コンボイ先生は知る人ぞ知る東南アジア軍事史研究の世界的権威・偉大なコレクターで、多数の著作を発表しており、特にラオス、カンボジア、インドネシア研究については他の追随を許さない圧倒的な情報量と当事者へのインタビュー実績があります。

Amazonで販売中の先生の著作の一部

40年近い研究・執筆活動の中で、先生は多数の軍人・CIA職員のみならず、ベトナム共和国総統グエン・バン・テューやラオス王国軍モン族指導者ヴァン・パオ将軍、ラオス中立派軍指導者コン・レー将軍など、第2次インドシナ戦争の中心人物への直接インタビューを幾度も行っています。
またこれは偶然ですが、先生は大学時代に日本の現デジタル大臣 河野太郎氏とルームメイトで、今でも親交があるそうです。どんだけ人脈持ってるんだこの人・・・

僕は高校生の時、ベトナム戦争コスプレサバゲを始めた頃にコンボイ先生の本に出合いました。
先生の本は、決して日本語で出版される事の無い第2次インドシナ戦争の本質に迫る貴重な情報を与えてくれるもので、その著者であるコンボイ先生は長年雲の上の存在でした。



それから時は流れ、数年前、Facebookを通じてそのコンボイ先生とコンタクトを取ることが出来ました。

日本からコンボイ先生に送った写真。
先生の著書『FANK: A History of the Cambodian Armed Forces 1970-1975』を手に、クメール国軍第294猟兵大隊のコスプレ写真を披露。喜んでいただけました。

そして今年8月、コンボイ先生がご家族と一緒に日本に旅行に来る事になったので、私は是非ドライバーとして日本を案内させて欲しいと申し出てその旅行に2日間同行させて頂くことが出来ました。

一日目は先生のご家族の希望で、富士の青木ヶ原樹海と富岳風穴を散策。
お盆なので物凄い渋滞でしたが、目的は達成できたので良かったです。



二日目、先生のご家族がディズニーランドに行ってる間、僕と先生は二人で中野ブロードウェイでショッピング。
実は先生は日本の(特に昭和の)怪獣映画の大ファンであり、僕もゴジラファンの端くれなので、先生とは歴史だけでなく怪獣関係でも話が合い、以前から先生の怪獣コレクション収集に協力させて頂いておりました。

先生の依頼で、僕が日本で代理購入したゴジラやガメラのガレージキット

なので中野ブロードウェイは僕らにとってお宝の山なのです。
先生は1965年公開当時の『フランケンシュタイン対地底怪獣』のポスターをゲットして大変喜んでおられました。


長年憧れていた大先生と丸二日間一緒に旅をし、色々な事をお話しできて、最高に幸せな時間でした。


  


Posted by 森泉大河 at 10:23Comments(0)映画News!旅行・海外

2024年05月11日

ゴールデンウィークの行楽

今年のゴールデンウィークは幸い大型連休となりましたので、ミリタリー趣味とは関係無い、人間らしいリクリエーションも楽しんできました。

その1 昇仙峡(山梨県)


雄大な自然、綺麗な空気の中で吸うタバコが美味いのなんの。
昇仙峡ではまず最初にロープウェイで山に登って展望台に行く。
その後ロープウェイを下って遊歩道を歩いて仙娥滝などを見てきました。
昇仙峡のあとは、まなしフルーツ温泉ぷくぷくでお風呂に入り帰宅。
良い休日でした。


その2 大阪コミコン2024


実は僕、つい最近までコミコンというイベントを知らず、4月に同僚から聞いて初めて知りました。
公式サイトを見てみると、僕の好きな映画の俳優さんたちが何人も来るではありませんか!
特にバックトゥザフューチャーのクリストファー・ロイド、ロボコップのピーター・ウェラー、ハンニバルのマッツ・ミケルセンの3人を生で見れると知り、居ても経っても居られず大阪行きのチケットを買いました。
(過去記事の浅羽佐喜太郎公紀念碑は、この大阪コミコンへの道中で寄ってきました。とは言え駅や高速ICからはかなり離れた場所にあるので、寄り道と呼べるほど気楽に行ける距離ではありませでしたが・・・)
大阪では3日間開催されるコミコンの全てに参加し、ステージショーや展示を楽しんできました。

[ステージショーを生で見る事できた有名人]
クリストファー・ロイド
・トーマス・ウィルソン
・ジェイソン・モモア
・ピーター・ウェラー
小島秀夫
・マッツ・ミケルセン
・ノーマン・リーダス
・釈由美子
・竹内力

[司会・ゲスト]
・斎藤工
・LiLiCo
・なべやかん
・ゆりやんレトリィバァ

いやぁ、映画って本当にいいもんですね。
  


Posted by 森泉大河 at 09:18Comments(0)映画旅行・海外

2022年12月11日

コブラ会イッキ見

今週はNetflixで『コブラ会』をシーズン1から5まで一気に見ました。
正直こんなに面白いとは思ってなかったです。


僕は子供の頃から背が低くて華奢だったので、ガタイのいい奴らにプロレス技という名の嫌がらせを度々やられていました。
僕はそこで、武器を使って一撃必殺の不意打ちをするという方向に進んだので、僕に手出しする奴はいなくなり、いじめに遭う事無く学生生活を終えました。
一般的に、喧嘩で武器を使うのは卑怯とされていますが、体格も喧嘩においては絶対的な武器です。
生まれつき恵まれた体躯を持っている奴らに集団でボコボコにされれば、いかに人間の人生が不公平であり、素手でタイマンというスポーツ的な考えは恵まれた人間同士の自己満足に過ぎない事がよく分かります。
素手で納得のいく結果が得られるのなら、この世には軍隊も戦争もありません。有史以来、人間は武器を使って集団で他者を攻撃する生き物なのです。
なので僕も、体格差をカバーすにはこれくらいのハンデ(武器使用)は当然だと思うようになりました。
いまだに銃とかミリタリーが好きなのも、武器は自分の体の貧弱さをカバーしてくれる特効薬的な存在だったからもしれません。

しかし大人になって思い返せば、あのやり方はとても誇れたものではないし、一歩間違えば相手が死んでいたかもしれない。
上で軍隊の例えを出しましたが、まさに軍隊は相手を殺すために武器を持っているのであって、それを学生同士の喧嘩で使うのはやはり間違いだと思います。

友人は大阪で最悪と言われる荒れた高校に通っていましたが、少林寺拳法の有段者だった(ついでに眉毛剃って額も鬼剃りしていた)ので、自分は何もしていないのに周囲が勝手にビビってくれて、一度も絡まれたり喧嘩に巻き込まれる事なく卒業できたそうです。これが一番理想的ではないでしょうか。
(なお、彼はいじめられたくないので外見だけ不良ぶっていましたが、中身は善良なアイドルマニアです)

僕は己の弱さ故に危うい手段を取ったけど、もし彼のように格闘技をやっていれば、もっと自信を持って正々堂々戦えた、あるいはそもそも喧嘩などせずに済んだのかも知れません。
今こうしてコブラ会にハマっているのは、そういった自分には無い心身の強さへの憧れも少なからず有るのだろうなと感じています。

ちなみに友人の高校の話は聞いてるだけで超笑えます。教師の車をみんなで押してひっくり返したりとか、警察署に投石してリアルケイドロごっことか。危うい(笑)
  


Posted by 森泉大河 at 15:50Comments(0)映画

2020年09月05日

14年ぶりのサバゲー

仕事終わりの夜に、いつもベトナム軍リエナクトを一緒やっている友人たちと集合して、貸し切りインドアサバゲーをやってきました。
ただし今回は気分転換に、ベトナムとは関係なく服装は各自自由です。



僕がヒストリカルとは関係ない純粋なサバゲーに参加するのは、実に14年ぶりです。
せっかく普段と違う事をするなら何か変わった服装がしたいと思い、今回のために友人の協力を得て揃えたのが、映画「ザ・ロック」の反乱海兵隊。



政府に見捨てられた戦友の無念を晴らす為(そして何より金のため)、英雄ハメル准将の決起に馳せ参じ候!

でも、タクティカルベストってけっこう暑いんですね。インドアなので一応エアコンはかかってますが、それでも汗だくで気持ち悪くなったので、早々に装備は脱ぎ捨てました。



結局、僕にとってはこのラーメン店員スタイルが最善でした。
銃もマルイのエアコキ1911一丁。セガール映画で学んだ近接戦闘術が役立ち、思った以上に撃ちとることが出来ました。

3時間強のゲームでしたが、ものすごく楽しめました。
また近々やれたらと思います。  


2019年08月17日

写真と映画からいくつか

近頃、私生活で色々とまいってまして、自分の趣味すら心から楽しめる状態ではないので、ブログの方もしばらくは、以前のような量・頻度では書けなそうです。
ただ、趣味そのものを止めたわけでないので、ちょっと投げやりですが、最近気になった写真を貼っていきます。


黒豹中隊のベレー章

ベトナム陸軍で唯一、歩兵師団本部直属の強襲(コマンド)部隊として第1歩兵師団内に存在していた『黒豹中隊(Đại Đội Hắc Báo)』では、独自のベレー章が使われていた事がこれまでも写真から知られていましたが、実物はおろか鮮明な写真すら見つかっていなかっため、その詳細は一流の研究者たちの間でも謎となっていました。

ところが先日、僕の友人のベトナム人が、長年探し求めていたその写真を発見してくれました!

第1歩兵師団黒豹中隊中隊長チャン・ノック・フイー大尉(左)と、黒豹中隊チーフアドバイザー ロジャー・V・ウェルブロック米海兵隊大尉(右) [1968年ベトナム]


さらに別の友人も、実物と思しき物の画像を発見、僕に提供してくれました。完璧です。


友人はこの発見に興奮して、「さっそくリプロ作るわ!」と言っていってきたので、
僕は「こんなベレー章、不人気というレベルではなく、そもそも存在を知っている人間がこの世に数える程しか居ないじゃん。もし作るなら俺は買うけど、やめといた方が良いよ~」と諭しました。

ちなみに、ベトナム軍の各師団(歩兵師団・空挺師団・海兵師団)およびレンジャー群内には、師団本部直属の偵察中隊が存在しており、第1歩兵師団も第1偵察中隊を擁していましたが、この偵察中隊は黒豹中隊とは別物です。偵察中隊は米軍のLRRPに倣った、師団本部の目となる少人数制の長距離偵察チームですが、黒豹中隊はフランス連合時代のコマンドや、60年代以降のレンジャー(BĐQ)、空挺コマンド(BKD)のように、まとまった数で強襲作戦を行う機動歩兵部隊であり、このような強襲部隊は第1歩兵師団以外の各師団には設けられませんでした。(空挺・海兵はもともと師団そのものが強襲部隊ですが)



若かりし頃のオン・コップ

映画『ディエン・ビエン・フー(残念邦題「スカイミッション~空挺要塞DC3~」)』で、賭場の顔役として戦争の趨勢を賭けにして金儲けをしているホア族(ベトナム華僑)のオン・コップ(虎爺)を覚えてますでしょうか?
たびたび主人公(?)のアメリカ人記者に意味ありげな言葉を伝え、フランス連合とベトミン、どちらが勝っても漁夫の利を得るのは中国人である事を暗に示す重要な脇役でした。


そのオン・コップを演じたベトナム人俳優テー・アイン氏の若かりし頃の写真を発見。
なんとベトナム共和国軍陸軍将校の軍装です。


実はこれは、1966年に北ベトナムで製作された映画Nổi gió (浮風)』 で、テー・アイン氏がこの映画の主人公のベトナム共和国軍人フウン中尉を演じた際のスチルだそうです。
あらすじをGoogle翻訳で大雑把に翻訳してみたところ、テー・アイン演じるフウン中尉は政府軍の将校だったが、フウンの妹はサイゴン政府に批判的であり、兄妹で対立が深まる。しかし妹はフウンを説得し続け、またフウン自身も政府軍の非道や米軍の横暴を目にした事で、次第に妹の正しさに気付き、最終的に軍を去って妹と共に解放民族戦線に転向。人民のための解放戦争に加わるのであった・・・的な内容みたいです。
公開は1966年ですが、作中では壁に1963年11月にクーデターで暗殺されたゴ・ディン・ジエム総統の肖像が飾ってあったことから、時代設定は1963年より前のようです。
まあ戦時中の北ベトナムで製作され、当時から『解放映画』と呼ばれている純然たるプロパガンダ映画なんですが、軍装マニア目線で見ると、いくつか注目したい点がありました。

まず上のフウン中尉が被っている制帽(少なくとも帽章)は本物ですね。ただ肩章は先が尖ってますが、この時代は丸いのが正解です。

また軍装の組み合わせ自体は間違っているのですが、下のこの帽章はなかなかレアです。多分本物。


1955年以降、ベトナム共和国の警察機構は公安警察庁の下で警察と公安が別々に存在していたのですが、1962年にそれらは統合されて国家警察(CSQG)となります。そしてこの帽章は、国家警察に統合される1962年以前に使われていた旧・警察の帽章なのです。


まあこの作品内では、この帽章を付けている人物は制服も肩章も陸軍式だから考証的には完全に間違っているんだけど、少なくともこの帽章自体は本物のような気がします。北越の宣伝映画とたかをくくっていたけど、まさかこんな発見があるとはね。

  


2019年05月07日

令和元年ゴールデンウィークの思い出

ゴールデンウィークは10連休とまでは行きませんでしたが、土日含めて計6日休みが取れたので、色々な事ができました。


1. 国祖記念祝賀会の打ち上げ

 
 先日執り行われた日本在住ベトナム人協会主催ベトナム国祖記念祝賀会の打ち上げ反省会が都内のベトナム料理店で開催され、僕もお呼ばれしたのでお邪魔してきました。ベトナム戦争を経験した難民世代から、留学生・技能実習生として来日した若者まで、幅広い年代がこうして集まり語り合える場は、とても大切なものだと思います。


2. 日本在住ベトナム人協会会長宅訪問

 打ち上げの翌日、日本在住ベトナム人協会会長カン氏の自宅にお邪魔して、生春巻きを食べながらいろいろお話を聞いてきました。
 1968年のテト攻勢の際、フエを占領したベトコン(解放民族戦線)は約5,000名のフエ市民を地中に生き埋めにして虐殺しましたが、当時大学生だったカン氏はボランティアとしてその虐殺事件の犠牲者の遺体掘り起こし作業に従事し、ベトコンが行う『抗米戦争』の正体を目の当たりにします。その翌年、カン氏は政府軍(ベトナム共和国軍)に士官候補生として志願入隊し、陸軍中尉として1975年まで軍務に就きました。終戦時は、スァンロクから撤退してきたレ・ミン・ダオ少将麾下の混成部隊とビエンホアで合流し、その指揮下に入りましたが、反攻は叶わずその地で無条件降伏の知らせを受けたそうです。終戦と同時にカン氏は共産主義政権に逮捕され、6年間も収容所に投獄され強制労働を課せられた後、難民として国外に脱出して最終的に日本に定住されました。
 またカン氏の友人のハイはベトナム戦争当時はまだ子供でしたが、その頃経験した出来事を語って下さいました。ハイは当時ファンティエットに住んでいました。ベトナム戦争中、ベトコンゲリラはしばしばファンティエット市役所を狙ってB-40(RPG-2)無反動砲を発射するテロ攻撃を行っていましたが、B-40は命中精度が悪いため、発射された砲弾のほとんどは市役所を外れて付近の民家に落下していました。ハイ自宅はファンティエット市役所の横にあったために、計2発が自宅に着弾し、壁に大穴を開けたそうですが、幸い家族に怪我人は出なかったそうです。しかし、そうではない人もいました。ハイには近所に住む2歳年上の仲の良い友達がいました。1968年2月のテト攻勢最初の夜、彼は親戚のおばさんの家に泊まりに行っていました。そして翌朝自宅に帰ってみると、ベトコンが発射した砲弾は彼の自宅に命中しており、家の中には爆発により変わり果てた姿となった彼の両親と妹の三人の遺体が四散していました。一晩で家族全員を失った彼は親戚の家に引き取られ、ハイ氏と会う機会は無くなりました。しかしその数年後、14歳になったハイ氏がたまたまファンティエット市内の政府軍の基地の前を歩いていると、基地の中から「お~い、ハイ!」と聞き覚えのある声がします。見るとフェンスの向こうには仲の良かったあのお兄さんが軍服姿で立っていました。16歳になっていた彼はベトコンに殺された家族の仇を取るため、年齢を詐称して政府軍に志願していたのです。ハイ氏と彼は嬉しくてフェンス越しに再開を喜び合いましたが、彼には仕事があるのでいつまでも話してはいられませんでした。彼は「じゃあな、ハイ!」と手を振ってハイ氏に別れを告げましたが、その後戦場に赴いた彼が帰還する事は無く、このフェンス越しの会話が二人の今生の別れとなったそうです。


3. 台湾ロケット花火祭り仲間、新宿で再結集

 台湾の台南市で毎年開催されているロケット花火祭り『鹽水蜂炮』で、台湾日本合同チーム『鹽水周倉將軍護駕炮兵團』のリーダーを務める電冰箱ことサイモン・リンさんが来日したので、日本人メンバーが集合して新宿で飲み会しました。僕が鹽水蜂炮に参加したのは2016年2018年の2回だけですが、サイモンさんはちょいちょい日本に遊びに来ているので、来るたびに一緒に観光したり飲み会やってます。(日本での思い出:2016年(1)2016年(2)2017年)
 またこの日は日本に住んでいるサイモンさんの友人で、元台湾軍少佐のTさんも来て下さりました。日本に来てからいろいろ大変な目に会ってるそうで、一等国ぶっていても中身はスカスカな日本社会の暗部ばかり見せてしまい、日本人として恥ずかしい限りです。つもる話が多くて終電を逃してしまったため、この日はそのままTさんの自宅に泊まらせていただきました。(後半はずっと台湾・日本の風俗店の話ばかりだったのは内緒)


4. 公園でNERF合戦

YDAメンバーおよびその家族と公園でNERF(ナーフ)で遊びました。これ子供より大人が本気になる玩具ですわ。大人の経済力で凄い数の弾丸とマガジンを用意して、一日中遊んできました。


5. ブラック・クランズマンとピクサーのひみつ展


 地元の友達・僕の弟と一緒に日比谷で映画『ブラック・クランズマン』を見て、その後六本木ヒルズで開催されている『ピクサーのひみつ展』を見てきました。
 ブラック・クランズマンは予告編では痛快刑事ものとして宣伝され、事実本編もテンポの良い映画でしたが、ガチの人種差別主義がテーマなだけに、良い映画ではあるけど笑うに笑えない内容でした。レイシストが「あの業界は〇〇人に牛耳られてる」とか「主国民の私たちが虐げられている」とかいって被害者ぶるのは、日本の在特会やネトウヨどもとまったく同じ精神構造だね。またそれを批判する側(この映画の監督含む)も、情けないことにすぐ単純な反権力・反体制に走って、結局は右と左の口汚い罵り合いに終始するあたりも日本と一緒。だからイデオロギーに興味のない大半の人は、そういう面倒くさい事には関わりたくないと思ってしまう。レイシストが非難されるのは当然だが、批判できる立場にいる事に酔って批判の仕方をはき違えると、それはもう問題解決のための道筋からかけ離れた、単に自分が「正しい」側に居る事を確認するための自慰的活動になってしまう。そんな事をラストの逆さ吊り星条旗を見て思いました。
 ピクサー展の方は、最先端のCG技術を子供にも分かりやすく解説しており、展示そのものにもすごい金がかかってて、さすが世界一の会社だと思いました。また一緒に行った弟はアニメ制作会社でCGディレクターやってますから、最高の解説者に恵まれました


6. BĐQ将校のお孫さんの家でBBQ&軍装家族写真

 日本に住んでいるベトナム人の友人の家で開催されたバーベキューパーティーにお邪魔してきました。彼のお祖父さんはベトナム共和国陸軍レンジャー部隊(BĐQ)将校でしたが、1975年のスァンロクの戦いで捕虜となり、そのまま収容所で帰らぬ人となりました。彼はお祖父さんをいたく尊敬しており、また彼は初めての子供を授かったことから、祖父の写真のように軍服を着て家族写真を撮りたいのだけど協力してもらえないかと打診を受けました。なので僕たちも一肌脱いで彼のためにBĐQ(風)の軍服を用意して一緒に記念撮影を行いました。すごく喜んで頂けましたし、僕たちとしても共和国軍人のご遺族のお手伝いが出来てとしても光栄です。
  


2019年04月13日

YDA JAPAN映像作品「第二次アプバクの戦い 1965」

※2019年11月27日訂正

昨年、YDA JAPANとして二回に渡って動画撮影会を行いました。

そしてこちらが、編集作業を終えたYDA JAPAN映像作品第一弾『第二次アプバクの戦い 1965』になります。
(本当は昨年末には完成していたのですが、ブログに載せるのをすっかり忘れておりました。)



一応僕が主催者ですが、正直、ここまで良い出来になるとは思っていませんでした。
撮影会に集まってくれた友人たちには本当に感謝しています。
中でも特に、撮影・編集に尽力して下さった963中隊の皆さんの熱意と技術には感服するばかりです。


【作品解説】

 1965年の「第二次アプバクの戦い」におけるベトナム陸軍第7歩兵師団第11連隊を米軍映像記録部隊が撮影・編集した宣伝映画を想定しています。
 なぜ有名な1963年の「(第一次)アプバクの戦い」ではなく、わざわざ無名な1965年の方をやっているかといいますと、実は私たちも元々はその1963年の戦いを再現するつもりで資料集めを始めました。しかしアプバクの戦いは戦史上有名な割には、米軍の本格参戦前なので外国メディアによる取材例が少なく、それに伴い作戦中の写真も少ないので資料集めは難航しました。そんな中見つけたのがこちらの映像資料です。



 写真資料が少ない中、この映像はアプバクの戦いを記録したこれ以上ない資料だと思い、我々はこの映像をモチーフに作品を撮る事に決めました。そして映像に移っている第7歩兵師団のスカーフなども製作し、6月に撮影を行いました。音声もこの映像の物をそのまま流用しています。
 ところがこの1回目の撮影会の後、フランスに住む研究者から「この映像には第一次アプバクの戦いには投入されていないはずのUH-1D型やM113APCの機銃防盾が写っている。これ1963年じゃなくて1965年の第二次アプバクの戦いの方だと思うよ」と指摘を頂きました。この映像をYoutubeにアップした人物は、1963年の方の第一次アプバクの戦いと勘違いしてタイトル・キャプションを書いたようです。そして僕もそれを鵜呑みにしてしまったと。うわぁ~、やっちまった~!
 もう一から撮り直しは出来ないため、2回目の撮影会からは設定を急遽1965年に変更しました。これが今回、第二次アプバクの戦いがテーマとなった経緯です。
 まぁ当初の目標とは異なるけど、見方を変えれば、、第一次アプバクの戦いは政府軍がゲリラ相手に敗退した不名誉な戦いとして記憶されている一方、第二次では政府軍が普通に勝ったのでニュースにならなかっただけで、僕らとしては別に第二次を拒む理由はありません。


【YDA】

 ちなみに僕らのグループ名『YDA JAPAN』ですが、これはYDAの日本支部という意味で、本家YDAはアメリカにあります。YDA (Young Daragon Asociation)とは僕の友人で米国在住の映像作家ハウ・ルック氏が主宰する、主に在米ベトナム人で構成されたベトナム戦争専門映像制作グループです。元々ハウを中心とする大学生のアマチュアグループでしたが、現在ではベトナム共和国軍伝統保存会(本部カリフォルニア)公認の下、カリフォルニア州のベトナム語放送テレビ局SBTNと共同で連続ドラマや長編ドキュメンタリーを制作するに至っています。

【本家YDAの作品】

全米大学映画祭(Campus MovieFest)出品作品

短編ドラマ集としてSBTNで全12話放送。この作品から衣装協力でYDA作品制作に参加。

初の長編ドキュメンタリー映画。SBTNで放映。ベトナム国内でのロケには僕も出演しています。

過去作品いくつかを編集したミュージックビデオ。発砲シーンはCG半分、実弾半分。僕も少し写ってます。

全米大学映画祭 審査員賞受賞作品。
撮影当日、「タイガはベトナム語話せないから台詞の無いベトコン役やってよ」と言われ、端役だと思ってOKしたんですが、撮ってみたらナイフ一本で政府軍のエリート部隊兵士二名を殺害する最強ベトコンソルジャー役でした。
撮影場所は監督の彼女(現奥さん)の家の裏にある雑木林なので、この時は実弾は使いませんでした。


 そして僕もYDAの一員という事になっているので、日本で撮影会を行うにあたり、勝手にYDA JAPANを名乗っちゃいました。(※ハウ監督には事後承諾済み(笑))
 日本に住む我々では、言葉や人種まで再現することは出来ませんが、それ以外の部分は愛と工夫で補う事ができると思っています。日本のリエナクターとして、これからも良い意味で本家と張り合って行きたいです。
  


2018年02月10日

【祝】WAR全米大学映画祭 審査員賞受賞!

過去のハウ・ルック監督作品いついては過去記事参照

2016年12月、僕は米国ジョージア州にて、アマチュア映画監督の友人が製作しているショートフィルムの撮影に参加してきました。あれから1年強、その時撮った作品がようやく完成し、この度、全米大学映画祭(Campus Movie Fest)に出品されました。
そしてその結果・・・

審査員賞(Jury Award)を受賞しました!!やったーーーーー!!!

※動画を再生出来ない場合は他のブラウザに変えてお試し下さい。



こちらが審査員賞受賞作品「WAR」 監督 ハウ・ルック



なんとなく分かると思いますが、あるベトナム人兄弟が生き別れとなり、それぞれ別々にベトナム政府軍と共産ゲリラ兵士となり、その二人が不幸にも戦場で再会し、お互いを兄弟と知らずに殺し合ってしまうという大変悲しいストーリーです。
実はこの話には元ネタがありまして、それらを全て撮れれば、なぜ兄が首にドッグタグではなく紙を三角形に折った物を下げているのか等が分かってもらえたのですが、ショートフィルムなので時間的な制限からストーリーは大幅にカットせざるを得ず、そこは描ききれませんでした。
とは言え、撮影や編集の技術が認められ、この度賞を頂けたのですから、出演者としては素直に嬉しいです。

しかし観客も審査員も、弟役を演じているのは当日ゲリラ役やってよと言われて気軽に引き受けた日本人だなんて思いもよらないだろうな。我ながら熱の入った演技をしたものだ(笑)


世にも珍しいゲリラ役のわたくし





なお我々はアマチュアなのでプロップ買うお金が無いため、銃やナイフは全部本物です。
M16はコルトAR-15モデルSP-1、56式自動歩槍はノリンコMAK-90で代用。
空砲なんて一般人には手に入らないので、発砲シーンは全部実弾。(この作品では実弾を使ったシーンは使われていません)
銃剣で腹を刺すシーンは、「ゆっくりやれ」、「ベルトに当てろ」と言われましても、なかなか怖い物です。
あと、この作品には使われていませんが、拳銃で自殺するシーンも撮りました。
いくら弾が入っていない事を何度も確認したとは言え、やっぱり実銃を頭に当てて引き金を引くのはかなり気持ち悪いものです。
しかもテイク5くらい撮り直したし・・・。
監督曰く今年の5月ごろまでには、それらの映像も使った作品をDVDでリリースするらしいので、完成を楽しみに待っています。

  


2017年06月15日

映画 Trên Bốn Vùng Chiến Thuật ── 四つの戦術地区で ──

前回の記事に「おまけ」として書きましたが、改めて記事にします。

ベトナム出身で米国在住のセミプロ映像作家の友人が監督し、僕も制作に関わった新作ドキュメンタリー映画『Trên Bốn Vùng Chiến Thuật (四つの戦術地区で)』が6月18日(僕の誕生日!)に米国のベトナム移民系テレビ局SBTNで放映され、翌6月19日『国軍の日(Ngày Quân Lực)』にDVDでリリースされます!
この『四つの戦術地区で』は、元共和国軍人やご遺族へのインタビュー、現在の戦跡、当時の記録映像と再現VTRなどで、若い世代の目線からベトナム共和国軍とベトナム戦争の歴史を紐解いていくドキュメンタリー映画です。

画像: SBTN chuẩn bị trình chiếu và ra mắt DVD bộ phim tài liệu “Trên Bốn Vùng Chiến Thuật”


新たにDVDのCMが公開されました。



僕もまだ完成版は見てないのですが、監督本人から、本編にはタイガもけっこう登場しているよ、と教えてもらいました。
たぶんここら辺の映像が使われていると思います。

サイゴン 独立宮殿(旧総統府)

ビエンホア国軍墓地


米国ジョージア州およびケンタッキー州 ドラマ・再現VTR撮影



去年4月、彼がHồi Ức』製作しSBTNで放映された事を記事にした時、僕はこう書いていました。

「彼とはそう遠くないうちに会う事になる気がしています。情熱さえあれば、地球なんて案外狭いものさ。」

しかし、まさかその3か月後に二人でベトナムを旅し、12月にはアメリカで一緒に映画を撮る事になるとは予想だにしていませんでした。
しかも彼は、彼と出会う前に僕が日本で友達になった別の在日ベトナム人とドンタップ省の中学校で同級生だったという奇跡まで発生しました。
地球狭いとは言ったけど、狭すぎるだろ!(笑)
  


2017年02月12日

テレビ、映画、ベトナム語

【いつも見てるテレビ番組】

月: YOUは何しに日本へ?、世界まる見え!テレビ特捜部、月曜から夜ふかし

火: 開運!なんでも鑑定団、ガイアの夜明け

水: 和風総本家

木: カンブリア宮殿、超入門!落語 THE MOVIE

金: 全力!脱力タイムズ、モーガン・フリーマン 時空を超えて、タモリ倶楽部

土: さんまのお笑い向上委員会

日: ザ!鉄腕!DASH!!、世界の果てまでイッテQ!、サイエンスZERO

月~木: 午後のロードショー

月~金: 華政(ファジョン)

いろいろ: ER緊急救命室、警察24時系、世界の衝撃映像系

休止中: タイムスクープハンター

見れない時は録画して土日で一気に見るようにしているのに、うちの親父はハードディスクの容量を気にして、僕がまだ見てない回を次々消してしまう。『NEW!』マークの番組は消しちゃダメだって言ってるのにぃ!!!なぜ2・3年前の午後のロードショーを消さずに、録ったばかりの新しいのから消していく!?


【吹き替え大好き】

 昔、mixiやってた頃に映画好きコミュニティという所に入ってみたけど、なんか話題は所謂マイナーな、かつ芸術的な(僕にとっては退屈な)映画の話ばかりだったから、僕は「はじめまして。僕はハリウッド映画が大好きです。洋画は必ず吹き替えで見ます。午後のロードショー毎日録画して見てます。一番好きな映画はターミネーター2です。よろしくお願いします」と書きました。すると、普段会話に参加していなかった人たちがこぞってイイネ!してくれました。なんだ、本当はみんなこういうの好きなのね(笑)
 なぜか『映画好き』の間では、洋画の吹き替えは軽んじられてるみたいですが、僕は可能な限り吹き替えが良いですねぇ。だって字幕って画面に載せられる文字数の関係で台詞がメチャメチャ省略されてるんですもん。字幕では言葉の細かなニュアンスは書ききれないし、なまじ英語が聞き取れると、俳優の言ってる台詞と字幕の内容が違うのが分かってしまい残念な気分になります。とは言え、字幕なしで全編台詞を理解できるほどの英語力はないので、そうなると最初から声優に日本語吹き替えしてもらうのが僕にとって一番映画を楽しめる手段なんです。
 しかし吹き替えにも弱点はありまして、好きな映画をテレビ放送で録画して何度も見ていると、その声や台詞が頭に焼き付いてしまい、レンタル版や市販ソフト版では違う声優や翻訳になってるため違和感を感じて仕方なかったのです。これは全国の洋画吹き替えファンにとって長年悩みの種でありました。僕の場合、小学校に上がる前から親父がVHSに録画したターミネーター(テレビ朝日版)と、ターミネーター2(フジテレビ版)をテープが千切れるまで繰り返し見ていたので、もうその声でないと見れなくなってしまいました。なので大人になってからも、DVDを買おうと思えばいつでも手に入りましたが、納得のいく吹き替えが収録されたものがなかなか発売されなかったので、大好きな映画であるにも関わらず、ずっと手元に無い状態が続いていました。
 それがここ数年で、各テレビ吹き替え番が一気にDVD/BD化されてきて、我々吹き替えファンを長年の苦しみから解放してくれました。特に20世紀フォックスの『吹替の帝王』シリーズは、まさに吹替ファンのために作られたシリーズであり、もう予告動画を見てるだけで感動します。本当にフォックスさんには感謝の念に堪えません。


ただ一つ問題があるとすれば、それはうちのブルーレイレコーダーが壊れてしまったこと。とりあえず以前使っていたDVDレコーダーを繋ぎ直してテレビの録画とDVD鑑賞はできる状態だけど、せっかく買ったブルーレイが見れない状態が続いている。なんで壊れるんだよ・・・



【ベトナム語学習】


 今までベトナム人とは全部英語でやり取りしてきたけど、これだけ付き合いが増えたんだから、いい加減僕もベトナム語を身に着けようと先日ついに重い腰を上げました。英語は中学校で習った(高校ではほとんど授業寝てた)けど、ベトナム語はまったく下地の無い状態からスタートしなければならないため、英語学習には1円もお金を使わなかった僕が、今回ばかりはベトナム語のテキストを購入しました。
 このテキストはほんの入門用ですが、まずはこれを完全に頭に入れる事を目標としています。僕は毎日片道1時間の電車通勤をしているので、1日2時間、週10時間以上は電車の中で勉強する時間を確保できます。またこれまで英語の練習のためにFacebookは全て英語で書いてきましたが、これからは英語に加えてベトナム語でも同じ内容を書くことにしました。英語の時も、こうやって例文集を見ながら自分の言いたい事を作文するのは大いに役に立ったので、これからはベトナム語を学ぶために同じ方法を行っていきます。それにつたないベトナム語であっても、とにかく書いておけば、友人たちが「そこはこう書くべき」と教えてくれるのが何ともありがたいです。
 またベトナム語を学び始めるにあたり、友人たちに注意されたのが、「英語をベースにベトナム語を考えない事」でした。ベトナム語の語順は割と英語に似た部分もあるので、英語が分かる身としては、つい先に英語の文を思い浮かべて、それぞれの語に対応するベトナム語に入れ替えたくなるのですが、それだと何となく意味は伝わったとしても、いつまで経ってもまともなベトナム語は身に付かないとの事です。あとGoogle翻訳も文章が滅茶苦茶になるから使うなとよく言われます。たしかに教科書を見てるうちに、単に単語を入れ替えただけでは全然ベトナム語の言い方にならないし、英語には無いルール(自分や相手の性別・年齢によって人称が変わる、物の種類によって変わる類別詞があるなど)が沢山ある事が分かってきました。
 だから今は毎回、ちゃんと教科書を見て、ベトナム語のルールを頭に叩き込みながら作文をしています。そして昨日、このベトナム語作文を始めて1ヶ月にして、初めてベトナム人たちから「完璧!」と褒めてもらえる文を書く事が出来ました。嬉しかったのでここにも載せちゃいますface02

Tôi vẽ Bức tranh lính Mỹ, VNCH, VC trong Sổ tay Lịch sử Thế giới khi tôi 15 tuổi.
(僕は15歳の時、世界史のノートにアメリカ、ベトナム共和国、ベトコンの兵士の絵を描いていました。)

↑ちなみにこれは、中学の社会科の授業で、ノートに自主学習した内容を書くと点数がもらえるという事で、世界の兵隊シリーズを描いて提出していたものです。こんな感じで全20回くらい描きましたが、紹介している国がモルドバとかギリシャとかトルコとか、今見るとかなり不思議なチョイスでした。内容は今見るとかなり間違ってます。M653なんて無ぇよ・・・

 こんな感じで、読み書きはこの方法でなんとか身に付きそうな気がします。問題は発音ですね。こればかりは時間がかかります。友人は、外国人がベトナム語の発音をマスターするには20年かかるよと言っていました。あっそ、でも大丈夫。とりあえず意図が通じるくらいのレベルにもっていければ良いから。それは決して不可能ではないはず。
 てな訳で、先の教科書についてきたCDに収録されているベトナム語の発音集をスマホにコピーして、通勤中に毎日聴こう。毎日やってればそれなりに分かってくるべ。
 人が何かをする時、それができない理由を探せば恐らく無数に見つける事が出来ます。しかしそんなものいくつあっても何の役にも立ちません。本当に必要なのは、「したい」という動機ただ一つなのです。
  


2016年10月08日

普通のブログ

かなり久しぶりに漫画の『地獄先生ぬ~べ~』を1巻から読み直してます。
小学生の頃から大好きな漫画だったけど、こんなに泣ける話だったっけ。
一巻毎に最低1回は必ずウルウルしちゃう。歳取ると涙腺が緩くなるのかな。膀胱も緩くなったし。
続編の霊媒師いずな、地獄先生ぬ〜べ〜NEOはまだほとんど読んでなかったから、この機会に買って読もっと。

地獄先生ぬ〜べ〜NEO 1 (ジャンプコミックス)
岡野 剛
集英社 (2014-10-03)
売り上げランキング: 65,288




シン・ゴジラ2回目見に行ってきました。同じ映画を2回も見に行くのはこれが初めて。このゴジラを見る事ができてとても幸せです。
作品に関しては、この2か月間散々巷を席捲してきたものなので今更書くべき事も無いのですが、あえて一つだけ無いものねだりを言わせてもらえば・・・
やっぱり怪獣と戦う戦車は煙突マズルブレーキが付いてて欲しいなぁ。ついでに単色塗装に日章旗マーキングで。

庵野監督ならやるんじゃないかと、ちょっとだけ期待してた。

これからもずっと、"子供に見せられる"自衛隊と日本が続きますように。
クレヨンしんちゃん+怪獣大戦争マーチ https://youtu.be/k03lgPEuJLA?t=1h12m50s




8月末、台風のあとに巨大な虹が出現。家のベランダから撮りました。

虹が大き過ぎてフォーサーズ14-42mmのレンズ(35mm換算で28-84mm相当)では全然画角に収まらなかったので、3枚の写真をつなげてあります。空の色に切れ目があるのはそのせい。
加えて、目で見るのとは違って、写真ではコントラストをかなり上げないと虹がはっきり見えなかったので、空は実際にはもっと明るかったです。



こちらも8月に撮ったやつ。

仕事の合間にケータイで撮りました。ずっと田舎の方を周ってたので、夏っぽい良い風景が沢山見られました。
しかし移動は車だったとは言え、作業は外で行うので、連日の猛暑でやってられっか!って状態でした。
無理無理、1件終わるごとに車に戻ってエアコンMAXにして体力が回復するまで休憩。
汗の量が尋常じゃない。車のシートまで汗びっしょりだし。マジで車内が臭いのでファブリーズ常備してました。

仕事の最中、周囲に民家がなく近所付き合いもなさそうな場所にある一軒家に、認知症らしき老人が何するわけでもなく一人でボーっと座りこでいるという場面に何度も出くわしました。
服は汚れ、玄関から見える家の中はゴミだらけ。声をかけても、いまいち会話にならない・・・。
すごく心配になるけど、特に危険が迫っている訳ではないし、僕も仕事があるので次の場所に行かなくてはならない・・・
自治体がこの状況を把握し、様子を見に来ている事を祈るしかありませんでした。
誰もが憧れる美しい里山風景の影には、過疎と高齢化により社会から孤立してしまった独居老人たちが想像以上に多くいるという現実を思いがけず知ることとなりました。
自民党の議員先生たちが『一億総活躍』や『地方創成』という言葉を口にする時、その恩恵を受けるはずの『国民』に、こういった弱い立場の人々も含まれているのか、よくよく疑って見る必要があるでしょう。
  


2016年04月09日

映画『記憶』:共和国兵士三世の視点で

 以前『リエナクターの輪』で紹介した"My bro"ハウ・ルック君(25歳)の監督作品が、カリフォルニアのベトナム移民系テレビ局SBTN(Saigon Broadcasting Television Network)で放映される事が決定しました。SBTNの公式サイトに詳細が掲載されていますので、その全文を邦訳したものをここに記します。

引用: Saigon Broadcasting Television Network
http://www.sbtn.tv/vi/tin-cong-dong-hai-ngoai/sbtn-trinh-chieu-phim-hoi-uc-goc-nhin-nguoi-linh-cong-hoa-tu-he-thu-ba.html


映画『記憶』SBTNにて放映決定:共和国軍兵士三世の視点で

 今年の"暗黒の四月(サイゴン陥落)"を記念し、SBTNテレビは『記憶(Hồi Ức)』と題された全12話の短編映画を放映します。この作品はSBTNと若干25歳のアマチュア映画監督ハウ・ルック氏との共同制作作品です。この作品はおそらく、海外在住ベトナム人コミュニティにおいて、共和国軍兵士の孫の世代が彼らの祖父達を描いた初の映像作品であり、彼らが祖父たちの時代をどのように理解しているかも見所です。


画像: 映画『記憶』より

 ベトナム ドンタップ出身のハウ・ルック氏は今から10年前、15歳の時にベトナムを去り、アメリカ合衆国ジョージア州に移住しました。彼の祖父は元ベトナム共和国軍の空挺部隊兵士でした。ハウ・ルック氏は少年時代にベトナム本土で受けた"社会主義教育"を覚えており、教師たちは今だに、1975年以前の南ベトナムの政権関係者を"米帝の傀儡"、"猟犬"、"売国奴"と罵り、子供たちに旧政権への憎悪を繰り返し植え付けていたといいます。
 彼はある日、家で両親と祖父母が"私たちの国"について話しているのを聞きました。「ちくしょう、共産のやつらめ・・・」という声が聞こえてきました。ルック氏は子供ながらに好奇心に駆られ、独学で歴史を勉強するようになり、ついに教師の教える歴史は事実とは全く異なる捏造だという事に気付いてしまいました。そして再び授業中に教師が"米帝の傀儡"を非難したとき、ルック氏は席から立ち上がって反論しました。すると教師はルック氏を「クソ反動め!」と罵ったといいます。休み時間になり、ルック氏の周りには「なんであんな事を言ったの?」とクラスメイト達が集まったので、ルックは知っている事を説明したそうです。

 家族の過去、そして少年時代の好奇心から、ルック氏は次第にベトナム共和国軍人への憧れを強めていきました。さらにアメリカに移住した事で、ベトナム本土では"勝者(ベトナム共産党)"と"融和を拒んだ者(旧ベトナム共和国政府)"という歪んだ二元論によって隠蔽・捏造されているベトナム共和国時代の真実の情報が得られ、その情熱はさらに燃え上がっていきました。彼は共和国軍に関するアイテムに魅了され、彼の家は小さな軍事史博物館と化していきました。

 それから彼は、共和国軍人への敬意を何らかの形で示そうと考え、戦時中の自分の祖父を演じることにしました。映画への情熱と学習意欲を持つ彼は、理系大学で学んでいるもののあえてCGを用いない映画を目指しており、モンタージュ技法を得意としています。そして彼は共和国軍の兵士テーマとして短編映像を制作し、それを大学生アマチュア映画コンテストに出品すると、作品は見事入賞を果たしました。

▲全米学生映画祭(Campus MovieFest)に出品されたハウ・ルック氏の監督作品『Nightmare』

 この作品をきっかけにSBTNテレビは彼の存在を知り、我々は彼を奨励すると共に彼の情熱がさらに実を結ぶようサポートする事となりました。こうして生まれたのが『記憶』と題された12の短編映画です。

 ハウ・ルック氏は自身について、ワンマンバンドのようなアマチュア映画監督だと冗談めかして答えました。各フィルムは20分ほどの短編であり、作品のプロットは全て共和国軍兵士達の証言に基づいています。ストーリーはルック氏自身が元空挺部隊、海兵隊、レンジャー隊員などから聞き取った実話であり、また作品に使われている衣装、軍装品などはすべてルック氏個人のコレクションが使用されています。映画に出演する俳優はルック氏の情熱に賛同する若い仲間達であり、彼らもまた映画を作る中で自分自身のルーツを学び、探求する喜びを分かち合っていきました。

 一方でルック氏は、自分ひとりの情熱だけでは当時の歴史・政治の側面を詳細に調べきるには不十分だとも自覚しています。彼の映画は、正直だが思慮深い者、家庭的だが誇り高い者、温和だが祖国と同盟国の為に自分を犠牲にする覚悟がある者など、共和国軍兵士の人生の物語を再構成しようとするものです。その為、我々はこの記事を読まれている元共和国軍兵士からのお便りを心からお待ちしております。あなたの物語は、この熱意と誇りに満ちた若き映画製作者の作品に特別な魂を吹き込み、あなた自身の人生の価値を後世に残すものとなります。

 『記憶』は、海外で生まれ育った若い世代が、自分達の祖父・父親の世代が辿った物語を尊重する作品です。そこには軍隊時代の良き思い出と共に、祖国防衛を果たせなかった無念が綴られています。『記憶』のように、世代と世代との認識がつながっている限り、ベトナム共和国の歴史は決して忘れ去られる事のないものだと信じます。

 またルック氏は『記憶』を通じて、ベトナムに住んでいる若者に、我々の世代は何をすべきか、情熱をどこに向けるべきかを考えて欲しいと語っています。

 映画『記憶』は2016年4月15日よりSBTNにて放映を開始します。『記憶』は海外在住ベトナム人にとって今年の暗黒の四月を記念するものであり、また同時に全てのベトナム共和国軍兵士へ捧げる、意義のある作品であります。

ドアン・フン / SBTN


映画『記憶』予告編

【あとがき】
 ちなみに彼らが着ている衣装のうち何着かは、僕が日本で代理購入し発送したリプロ迷彩服。このような記念碑的な作品に、自分も衣装協力という形で関れた事を大変光栄に思います。でもルックから衣装を集めて欲しいと依頼された時には、既に品切れになっている商品が多くて、人数分揃えてあげられなかったのが少し心残り。今度、NKTコマンド雷虎(いわゆるMACV-SOGのRT)の作品撮るんだけど、よかったら君も出演してみない?ってお誘いが来たけど、さすがにアトランタは遠いな・・・。ただ今は無理でも、彼とはそう遠くないうちに会う事になる気がしています。情熱さえあれば、地球なんて案外狭いものさ。
  


2015年03月23日

ライド・ザ・サンダー

来る3月27日(金)、待ちに待った映画"ライド・ザ・サンダー"が(米国で)公開となります!
この映画は1972年、クアンチの戦いを勝利に導いたベトナム共和国海兵隊レ・バ・ビン中佐の日記に基づく物語です。

"Ride The Thunder" - A Story Of Honor and Triumph
監督: Fred Koster
原作 "Ride the Thunder" Richard Botkin


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2015年01月13日

おすすめベトナム映画

僕のところには時々、「南ベ装備やるのにお勧めの映画ってありますか?」というご質問を頂くことがあります。

あります。あるんですよ。超お勧めのが。

Chiếc bóng bên đường (道端の影) / 1973年
出演: Kim Cương, Kiều Chinh, Thành Được, bà Bảy Nam, Vũ Thành An
監督 : Nguyễn Văn Tường 


<ストーリー>
ある日、少年が外で遊んでいたところベトナム地方軍(DPQ)駐屯地の地雷原に足を踏み入れて身動きが出来なくなってしまった。
少年の姉マイが見守る中、部隊指揮官のトゥアン中尉は自ら地雷原に入り少年を救出。後日、駐屯地近くの洋裁店に勤めるマイはお礼を言う為駐屯地を訪問し、DPQ兵士達と親睦を深める。
マイは弟を助けてくれたトゥアン中尉に惹かれていったが、トゥアンと同部隊のロアン中尉は以前からマイを好きだったためトゥアンをライバル視し、恋の三角関係に発展する。
(中略)
ようやく結ばれたトゥアンとマイだったが、戦争は無情にも二人の中を切り裂き、トゥアンは戦死する。
トゥアンを失ったマイと弟たちは悲しみにくれるが、トゥアンが教えてくれた勇気と慈しみの精神はいつまでも消えることは無い・・・
(中国語とフランス語字幕しかないので台詞がぜんぜん分からないんですが(笑)、映像と中国語字幕の漢字、あとキャプションから何となく分かったストーリーはこんな感じ)
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2014年12月10日

今年を振り返って

【皆既月食】

そう言えば今年10月の皆既月食を撮影したのに、ブログに載せるのを忘れていました。
こんな感じです。僕の機材ではこれが精一杯。


ちなみに一昨年の金冠日食の時も撮りました。


普通日食の写真は、レンズにNDフィルターという光量を低下させるフィルターを装着して撮影しますが、あれってけっこういい値段するし、当日天気悪かったら無駄に終わるので、僕はNDフィルターを買いませんでした。
そこで僕は、友人から教えてもらった『墨汁作戦』を実行。仕組みは至極単純で、桶に張った墨汁の水面に写る太陽を撮影するだけです。


当日、家の中でいざ撮ろうとしたら、朝なので太陽高度が低くてカメラと桶との距離が十分に取れず。
やむなくアパートの駐車場に出て撮影しましたが、ちょうど小学生や幼稚園児の通学時間に重なってしまい、近所の子供や保護者が僕の行動を不思議そうに見つめていました。
カメラを空に向けていれば日食を撮ってると分かるでしょうが、僕が撮ってるのは地面に置いたバケツですからねぇ(笑)
しかも屋外なので、わずかな風で墨汁の水面が波打ってしまい、完全な無風になるまでなかなか撮れなかったし。まぁ機材をケチった分手間がかかるのはしょうがない事です。
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Posted by 森泉大河 at 16:07Comments(0)映画カメラ・写真ラーメン

2014年07月30日

またつぶやき

ちょろちょろ出していきます。

苔の生い茂ったししおどしのように。

おじいちゃんのオシッコのように。

たいが
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2014年06月08日

米国製ナム戦映画

ベトナム戦争を舞台とした映画で、僕が一番好きなのは断トツで
ダンボドロップ大作戦 (Operation Dumbo Drop)!!!


ディズニー映画と侮るなかれ。この映画は、僕が今まで見たどのナム戦映画よりも素晴らしい出来でした。
僕は映画に装備の考証なんて求めてない(諦めてる)んですが、これはかなり正確です。
ま、そんなのはどうでもいいんですが、やっぱこの映画は実話を基にしているだけあって、映画では無視されがちなベトナムの地理に関しても正しい設定がなされてます。
原作は、僕がバイブルとしている『グリーンベレー(War Story)』の著者ジム・モリス少佐です。
CIDG兵士やデガ(モンタニヤード)の集落、ベトナムの街並みもちゃんと再現されてて、文句ありません。
そして何よりストーリーが面白くて好きです。
映画の規模・クオリティ全てにおいて、さすがディズニーと言ったところですね。
ナム戦云々抜きにして、映画としてとても好きな作品です。
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Posted by 森泉大河 at 21:50Comments(0)映画

2014年05月10日

続・世界残酷物語

1963年制作のイタリア映画に『続・世界残酷物語(Mondo cane 2)』という作品があります。
この中には、南ベトナムにおいて仏教徒の暴動と政府軍(ジェム政権)による凄惨な弾圧が行われた1963年の仏教徒危機を撮ったとされるシーンもあります。



特に僧侶ティック・クアン・ドックが抗議のため自らガソリンを浴びて焼身自殺したシーンは、世界中の人々に衝撃を与えました。
このシーンはドック師の死の瞬間として、今もベトナムの人々の間で、当時の情勢を伝える記録フィルムとして知られています。

※焼身自殺の瞬間(とされている)映像なので、苦手な方はご注意下さい。

しかしこの映画は、モンド映画と呼ばれる"観客の見世物的好奇心に訴える猟奇系ドキュメンタリー・モキュメンタリー映画"で、ぶっちゃけやらせ映像が多い事でも有名です。
僕もこの"仏教徒危機"とされる映像に、違和感を感じる個所がいくつもあったので、ちょっと検証してみます。

※2014年5月12日訂正・追記
00:52くらいに映るサイゴン市内の進入禁止の看板がおかしいとご指摘いただきました。


確かに変です。子音のGに補助記号付く時点で、それはもうベトナム語ではありません。
また、音節も区切ってないので、読む事が不可能な文章です。
さらにベトナムの第二公用語はフランス語であり、ほとんどのベトナム人は英語を読む事ができません。
米軍が本格的に駐留を開始した1965年以降であれば『米兵向けに』英語が書かれる事もありますが、1963年当時はわざわざ誰も読めない英語で書く意味がありません。
よって、自動車の車内からの街並みも、かなり"作られた"ものの可能性があります。
(ただし軍人や警察官の服装から、撮影場所は南ベトナムである可能性が高いと思います)

さらに暴動のシーン以降は、南ベトナムで撮影されたかも怪しくなります。



南ベトナム政府軍とされている兵士が、全員日本軍の三八式歩兵銃を持っています。
第二次大戦終戦直前の1945年に日本軍はベトナム帝国を支援し、三八式歩兵銃を供与したそうなのでそれが残っていた可能性が全く無いわけではないですが、少なくともその後の第1次インドシナ戦争やベトナム戦争で政府軍がこの銃を使用した事実は一度も確認されていません。
(この時点で「あ~あの国で撮ったのね」と気付く人もいらっしゃるはずw)



そして謎の階級章。こんなデザインは当時の南ベトナムには存在しません。
強いて言えば、フランス植民地軍時代の階級章に似ていますが、それも1954年に廃止されています。



お巡りさんの制帽・制服も謎。どこの国だよ。
ちなみに1963年当時の南ベトナムの警察官の制服はこちら↓



そして決定的なのが、ベトナムの仏教寺院として映し出された寺と仏像。


はい、タイ王国の有名な寺院ワット・プラパトムチェーディーでした。
そもそもベトナム仏教は日本と同じ中国経由の北伝仏教なので、こういうインドから来た南伝仏教とは寺も仏像もぜんぜん違うし。
ま、イタリア人には区別つかないよな~

そしてもちろん、タイ国内で、僧侶が南ベトナム政府に抗議して自殺した事実はありません。
また、看板や標識もわざわざベトナム語に変えて、南ベトナムの街並みを再現しているくらいなのですから、これがタイ国内で実際にあった何らかの事件の映像という事もないでしょう。

つまり、これら一連の映像は、(好意的に見れば)ものすごく手間隙掛けて作られた再現VTRと言えるでしょう。
上記のように、撮影に協力した現地の軍や警察(タイの軍装には疎いので、そこがタイであるという確証はありませんが)の服装に関しては再現が及ばなかったようですが、あのエキストラの数やロケの規模を考えると、単に「やらせ」と呼ぶのは惜しいくらい、よく出来てます。
ドック師のシーンも、ちゃんと背後にガソリンスタンドのEssoが写ってるんですよ。(実際に自殺が行われた場所もEssoの前だった)
またドック師のクルマ"オースチンA95"も同じ車種が用意されています。(色に関しては、おそらくモノクロ写真しか存在せず、カラーのものはそれに着色した物なので写真によってまちまち。現在フエの寺に展示されているA95が本物だと信じるなら色はブルーとなる)

そもそも世界残酷物語はモキュメンタリーなので、それにツッコミ入れるのは野暮な事なのかもしれませんが、当のベトナム人自身が(少なくともベトナムのネットユーザーは)これを歴史的な記録フィルムと誤解している人が居るので、そこの区別はちゃんとした方が良いんじゃないの?と思ってしまいます。
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Posted by 森泉大河 at 01:45Comments(2)【ベトナム共和国軍】1954-1975映画

2014年04月07日

ナンバーテンブルース さらばサイゴン

ベトナム戦争最末期の1975年、全編南ベトナムロケで製作された幻の日本映画が40年の時を経てついに公開!

『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』



脚本・監督は「修羅雪姫 怨み恋歌」を執筆した長田紀生、撮影は椎塚彰がそれぞれ担当。
諸事情により未公開となっていたが、国立フィルムセンターに所蔵されていたネガと0号プリントを元に2012年10月にデジタル編集の上、修復完成。
2013年にロッテルダム国際映画祭で正式招待作品として上映された。
2013年9月21日より、広島県尾道市、福山市で開催された「お蔵出し映画祭2013」にて上映。

世界各国の映画祭で"奇跡"と謳われた幻の邦画が、40年の時を経て待望の劇場公開!­停滞する日本映画に痛烈な一撃を放つ!
4月26 日(土)テアトル新宿にてロードショー!

【物語】 
日本人よ、お前は一体どこへ行こうとしているのか?!
1975 年、南ベトナム。日本人商社員・杉本俊夫はテト(旧正月)で賑わうサイゴンの街での勝­手気ままな生活を存分に楽しんでいた。悲惨な戦争は今も続いているが、所詮俺には関係­ない。だが、ある日、ふとした行きがかりから、彼は現地雇いのベトナム人を殺してしま­う。金の力にまかせ気ままに暮らしていた杉本の人生が一転する。殺人者となり追われる­身になった杉本の暴力と犯罪が更にエスカレートし、遂にはベトナムからの脱出を企てる­のだった。友人で戦場カメラマンの太田の車を奪い、一路北端の町フエへと向かう。同行­するのは、杉本の恋人ランと、旧日本兵とベトナム人との混血として生まれたタロー。ベ­トナム全土に戦火が渦巻く中、杉本の車は北へと突っ走る。

【出演】川津祐介、ファン・タイ・タン・ラン、磯村健治 他
【監督・脚本】長田紀生
【プロデューサー】磯村健治
【配給】プレサリオ


という訳で、4月26日にテアトル新宿に見に行こうと思います。
戦争をテーマとした映画ではありませんが、あの1975年4月30日の敗戦で全てが変わってしまう前のベトナムをロケ地としている、数少ない日本映画の一つです。
1949年から1975年まで存在したベトナム国・ベトナム共和国という国家の歴史に魅入られた僕とっては、この映画は貴重な映像資料とも言えます。


この映画でヒロインを演じた歌手・女優のタン・ラン(Thanh Lan/本名ファン・タイ・タン・ラン)さんは今もご健在で、米国カリフォルニア州にお住まいです。
彼女は南ベトナム時代、ベトナム人なら知らぬ者は居ないほどのトップスター歌手兼女優でした。
また当時は日本のミュージシャンとも積極的に交流しており、ヤマハが主催した第1回東京国際歌謡音楽祭でがファイナリストに勝ち残ったそうです。
日本映画に出演したのもその縁かもしれませんね。


ランさんも他の南ベトナム難民たちと同様に、敗戦とともに祖国を追われアメリカに移り住みました。
しかし、アメリカに渡ってからもベトナム移民社会における彼女の人気は絶大で、ランさんはアメリカでも歌手・女優業を再開しました。
そして、言葉の通じない見ず知らずの土地で一から人生をやり直ざるを得なかったベトナム移民たちの心の支えとして、40年近く経った現在も精力的に活躍されています。
むしろ芸歴はアメリカに渡ってからの方が長いので、もはやベトナムの歌手というより、ベトナム系アメリカ人歌手と言った方が正しいかも知れません。

2013年、封印されていた過去の出演作『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』が38年の時を経てついに完成しました。
この映画は各国際映画祭で賞賛を得、女優タン・ランの名は再び国際社会の脚光を浴びることとなりました。
今月4日には、カリフォルニアのベトナム移民向け地方局"TVベトナム(NGƯỜI VIỆT TV)"にランさんが出演し、この映画の思い出を語っています。
(僕はベトナム語分からないのですが、途中NHKがどうこう言ってるので、日本での音楽活動の事も話しているようです。)




  


2014年01月25日

南ベトナム海兵大隊戦記

※2022年1月2日更新
※2024年7月13日更新


ちょうど2年前の話ですが、『南ベトナム海兵大隊戦記』の"総集編"を見る機会がありました。

『南ベトナム海兵大隊戦記』とは、日本テレビの『ノンフィクション劇場』で1965年5月9日に放映された、牛山純一製作のドキュメンタリー番組です。
ベトナム戦争中の1965年、ビンディン省でベトコン掃討戦に当たる南ベトナム海兵隊(TQLC)第2大隊第2中隊に密着取材したもので、しかもカメラマンの一人はあの石川文洋という、僕ら歴史・ミリタリーマニアにとっては大変貴重な映像資料でもあります。
“1965 年2月下旬から4月中旬まで,牛山と佐々木久雄,森正博,カメラマンの木村明は南ベトナムを取材。
現地滞在中のカメラマン石川文洋を加えて,当時中部ビンデン省で掃討作戦を行っていた南ベトナム政府軍の海兵大隊に従軍した。”
(NHK放送文化研究所 『放送研究と調査』 2012年5月号より)
▲読売新聞 昭和40年5月9日 テレビ欄


しかしこの番組は、それ以外の分野でも伝説的な番組として知られています。
それは1965年の第1部の放送直後、当時の自民党政権から日テレに圧力がかかり、続編が放送中止(自主規制)に追いやられたという曰くがあるからです。
政府が民放の一番組を潰しにかかるという異常な事態に巻き込まれた事から、50年近く経った今日でも"権力とジャーナリズム"の問題について研究の対象となっているのが、この『南ベトナム海兵大隊戦記』です。

2012年1月、その『南ベトナム海兵大隊戦記』の上映会が東京大学で行われると聞いた僕は、友人と一緒にこの会(丹羽美之研究室TVアーカイブ・プロジェクト第1回「みんなでテレビを見る会」)に参加してきました。

まず東大に乗り込むという事にウキウキ(笑)
僕にとって東大と言えば、

 
これとか

これとか

これとか。

近くの上野にはしょっちゅう行ってますが、本郷に来たのは初めてだったので、観光客みたいに赤門や安田講堂でシャメ撮ってはしゃぎました。
そして安田講堂の隣の工学部2号館という建物の中へ。
ウェブ上の募集ページにははっきり日時が書いてありましたが、いざ来てみるとどこにも案内が貼ってないし、放課後で誰も人が居ないしで、すっげぇ不安になります。
そんな感じで「いいのかここで?」と恐る恐る9階まで上がっていくと、ようやく会場の教室にたどり着く事ができました。

実は、『南ベトナム海兵大隊戦記』という作品を知ったの自体この時が初めてだったので、何の予備知識も無しで見に行ったのですが、東大の先生や、映像を提供した川崎市市民ミュージアムの方のお話はとても興味深かったです。
その時のお話や頂いた資料から、この作品はオリジナルと総集編が存在し、また登場人物のその後を追跡調査した特番もあった事を知りました。

ノンフィクション劇場『ベトナム海兵大隊戦記 第 1 部』 (1965年5月9日放映 25 分)
65年にテレビ放映されたオリジナル版。当時のタイトルは"南ベトナム"ではなく、"ベトナム海兵大隊"だったんですね。
放映されたのはこの第1部のみで、それっきり一度も再放送されなかった、まさに伝説の作品。残念ながらフィルムは現存せず。
つまり、ベトコン容疑者の処刑場面等、後に総集編でカットされるシーンを見た事がある人は、当時リアルタイムでテレビを見ていた人と日テレ関係者のみという事になります。
(不思議な事に、当時の放映は見ていないのにもかかわらず、「斬首シーンを見た」という人は時々居ます。当時ビデオデッキなんて一般家庭には無いので、はたして単なる思い違いなのか、実は再放送があったのか。プチ都市伝説ですね。)


『南ベトナム海兵大隊戦記 総集編』 (1971年 50 分) 
1971年"映像記録の国際シンポジウム"で公開。
1995年NHK衛生第2で放映。
放送が中止された第2~3部の素材(3部作合計75分になるはずだった)を加え、残された映像を使って牛山プロデューサーが後に再編集した作品。第1部で"残虐"とされた箇所はカットされている。
現存する唯一のフィルムで、今回上映されたのはこれ。(素材となった第1部および第2~3部分フィルムはその後行方不明)


『テレビ放送三十五年 怒り、悲しみ、そして喜び』 (1988年8月20日放映)
『南ベトナム海兵大隊戦記』の主人公として描かれたグエン大尉や、射殺された少年の家族のその後を戦後(1988年)に追跡取材した番組。
非常に気になりますが、僕はまだ視聴がかなっていません。

後になって、この動画アップした人は僕の知り合いだった事が判明w
どういう内容だったか伺ったところ、グエン大尉は無事戦争を生き抜き、戦後再教育キャンプを経て、取材当時はエビ漁師をされていたそうです。
お孫さんにも囲まれて幸せそうだったとか。良かった・・・


なお、グエン大尉のフルネームは長らく確認できなかったのですが、この番組をはじめ牛山純一作品を研究されている川崎市市民ミュージアムの濱崎好治氏に伺ったところ、下の名前(呼びかけの名)は「"ハイ"らしい」との事でした。
さらに南ベトナム軍のほとんどの部隊、中隊長以上の将校がデータベース化されているすっげぇサイト"Mekong Republic"で確認したところ、1965年当時の第2海兵大隊第2中隊長は"Đại úy Nguyễn Văn Hay"。こりゃ間違いないですね。
という訳で、グエン大尉のフルネームはグエン・バン・ハイ大尉だったと確認できました。
(ベトナム人の名前は下の名前だけで呼ぶのが普通なので、本来はハイ大尉と呼ぶべきですが)

※追記:石川文洋の本に普通にフルネーム載ってました。


また、この作品を軍装マニア視点で見ると、(上のビデオには無いシーンですが)あるTQLC兵士の被っているベレー帽の帽章が珍しい物でした。
普通の1stモデルは台布が円形なのに対し、作中に登場するベレー章は台布がシールド型でした。
※1965年当時は、所謂1stモデルで正しかったです。



1956~1966年頃に使用されたタイプ。左が中級下士官(中士)以上、右が下級下士官(一等下士)以下用

▲『南ベトナム海兵大隊戦記(総集編)』に写っているベレー章。(記憶を基に再現)
デザインは1stモデルっぽいですが、シールド型というのはこれ一度しか見たこと無いです。


その他では、兵士が持ってる銃の中に、スコープが付いたM1903A4っぽい狙撃銃が写っていたのが印象に残っています。
映像が手元に無いので確認できないのが残念。

あと、面白かったのが60mm迫撃砲の掩体(?)。
夜営地での応急掩体なので大それた物は作らないというのは分かるんですが、そこに映っていたのは図のように地面を20cmくらい掘っただけのもの。
身体を隠せるような盛り土は無く、ただの段差です。


いったいどういう意味があるんだろうと悩みましたが、Youtubeで他の動画見てたらすぐに答えがわかりました。
普通、迫撃砲の射手は砲の両サイドに立ち膝になってスタンバイしますが、立ち膝ってけっこう疲れますよね。
なので、ちょっと地面を掘り下げて、その段差に腰掛けてまったり撃つ為の現場のアイディアだと思われます(笑)
実際当時の動画見ると、敵が迫っていて照準度外視で弾幕を張る必要がある場合は、射手はウンコ座りになって次から次へと砲弾を流し込んでいく様が見て取れます。
そういう意味では、この段差は"掩体壕"とは呼べませんが、れっきとした迫撃砲陣地なのかも知れません。どうぞお試しあれ(笑)

以上が、『南ベトナム海兵大隊戦記(総集編)』を見て、その時に気付いた点です。
一度じゃ見足りないので、機会があれば川崎市市民ミュージアムに行って、また見てみたと思います。(まずオンデマンド配信される事を切に願っていますが・・・)


あと、上映会では質疑応答の時間がありまして、僕もいくつか質問させてもらったんですが、なかなか恥ずかしいもんですよ。
だって周りの質問者は「早稲田大学教授の○○です」「日本大学の~」「学芸員の~」って、みんな有名な大学の教授とか学生、学芸員ばっか。
そもそもこの上映会の目的自体が『ジャーナリズムについて考える』という極めて真面目な物ですから、僕みたいに「南ベが好き!」って理由で来ちゃったのは、70名くらい居た参加者の中で僕ら2人だけだと思います。
考えてみれば、ここ東大なんですよねw
でも来たからにはタダでは帰りません。僕の通ってた専門学校だって東京自動車大学校、略して東大です!
という訳で、他の参加者が当時の政府や報道関係者について質問を挙げる中、僕一人だけ「グエン大尉の本名は?」、「具体的な撮影時期は?」とか、軍ヲタ目線丸出しの質問をさせて頂きました。
にも拘らず、丁寧なお答えをして頂け、大変ありがたく感じています。


この他にも当時日本のマスコミはわんさかベトナムに取材行ってた訳で、その映像は今も各局の資料庫に大量に眠ってるはずなんです。
せめてNHKだけでも、受信料取ってるんだから無料で!オンデマンド配信するなり国会図書館で見れるようにするなり、公開に務めて欲しいものです。