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2020年07月05日

ベトナム共和国軍コマンド・特殊部隊の系譜

内容は過去記事とも重複しますが、図にしたら分かりやすいかなと思って、系図を作りました。




コマンド・特殊部隊黎明期の略史(1951年-1963年)

1951年
フランス防諜・外国資料局(SDECE)によるインドシナ平定作戦の一環として、フランス植民地軍内にインドシナ先住民から成るコマンド部隊『混成空挺コマンド群(GCMA)』が創設される。

1954年
フランスはディエンビエンフー失陥を機にベトミンとジュネーブ協定を結び、ベトナム国の領土の北緯17度線以北(北ベトナム)をベトミン政権(ベトナム民主共和国)の領土として承認。ベトナムは南北に分断され、北ベトナムに駐屯していたフランス連合軍および約100万人の北ベトナム難民が17度線以南のベトナム国領(南ベトナム)領に避難する。

1955年
ベトナム国首相ゴ・ディン・ジエムが無血クーデターを決行し、国長バオダイ(保大帝)を追放。ベトナム共和国の成立、フランス連合からの脱退を宣言。

1956年
南ベトナムに駐屯していた最後のフランス軍部隊の撤退が完了し、フランス軍の各施設はベトナム共和軍に引き継がれる。
ベトナム共和国軍内にコマンド・特殊部隊の創設を計画していたジエム総統は、特殊作戦を統括する『総統府連絡局(Sở Liên lạc Phủ Tổng thống)』を創設。
総統府連絡局および米軍ベトナム軍事支援顧問団(MAAGベトナム)は、カインホア省ニャチャン市ドンデーに位置していた旧フランス軍GCMA基地を改装してベトナム軍初の本格的なコマンド訓練センター『ディンティエンホアン 体育・コマンド学校 (Trường Biệt đông đội Thể dục, Đinh Tiên Hoàng)』を創設。

▲ディンティエンホアン 体育・コマンド学校の正門(1956-1957年頃)
この学校が、ベトナム戦争で多大な活躍をしたベトナム軍コマンド・特殊部隊の始まりの地となる。
『ディンティエンホアン(丁先皇)』はベトナム最初の中国からの独立王朝である丁(ディン)朝の建国者のから。

1957年
ディンティエンホアン・体育コマンド学校が『ドンデー訓練センター(Trung tâm Huấn luyện Đồng Đế)』に改称。
同年11月、ドンデー訓練センターでのコマンド訓練を修了した58名によって、ベトナム陸軍初の特殊部隊『第1観測隊(Liên đội Quan sát Số 1)』が編成される。

1958年
第1観測隊は規模を拡大し、『第1観測群(Liên Đoàn Quan sát Số 1)』に改称。
同年10月、第1観測群内に、対ゲリラ軽歩兵部隊レンジャー(Biệt Đông Đội)』小隊が発足。

1959年
Đ小隊を除く第1観測群が『第77群(Liên Đoàn 77)』に改編。

1960年
Đ小隊が拡大されレンジャー部隊(Biệt Động Quân)』が発足。特殊部隊(総統府連絡局)から独立した兵種として共和国軍総参謀部の指揮下に移管される。
同年4月、総統府連絡局は『地理開拓局(Sở Khai thác Địa hình)』に改称。

1961年
地理開拓局内に、水陸両用作戦タスクフォース『シーコマンド(Biệt Hải)が発足。
同年、アメリカCIAおよび特殊部隊によるCIDG計画開始。『民間戦闘隊(Dân Sự Chiến Đấu)』発足。

1963年
地理開拓局内に第31群(Liên Đoàn 31)創隊。間もなく第77群・第31群が統合され、『特殊部隊(Lực Lượng Đặc Biệt)』が発足。
同年11月、軍事クーデターによりジエム政権が崩壊。ジエムの直接指揮下にあった地理開拓局および特殊部隊は解体される。
同年末、特殊部隊で対北工作を担当していた『北方部(Sở Bắc)』を基に、総参謀部直属の特殊工作機関『開拓局(Sở Khai thác)』が発足。シーコマンドも開拓局へ編入。以後国外工作は開拓局(後のNKT)の担当となる。
特殊部隊も総参謀部直属機関として再建されたが、これ以降は国内作戦のみを担当する

これ以降については、以下の過去記事をご参照ください。
  


2019年11月03日

偵察中隊/ベトナム軍LRRP

※2019年11月3日加筆・訂正
※2019年11月24日加筆・訂正


これまでも、ベトナム共和国一般部隊(主に陸軍)には、特殊部隊とは別の、アメリカ陸軍のLRRPに倣った偵察中隊(Đại Đội Trinh Sát)が存在していたとちょいちょい書いてきましたが、あらためて記事にまとめてみました。
ただし、これら偵察中隊に関する詳細な資料は乏しく、未解明な部分もかなり多いです。今回の記事は、あくまで今私が把握している範囲での情報になりますので、実際にはもっと多くの偵察中隊が存在していたはずだと思います。


現在把握できている偵察中隊一覧

【歩兵師団本部付き】
全ての歩兵師団に師団本部付きの偵察中隊が存在。

第1歩兵師団 第1偵察中隊
第2歩兵師団 第2偵察中隊
第3歩兵師団 第3偵察中隊
第5歩兵師団 第5偵察中隊
第7歩兵師団 第7偵察中隊
第18歩兵師団 第18偵察中隊
第21歩兵師団 第21偵察中隊
第22歩兵師団 第22偵察中隊
第23歩兵師団 第23偵察中隊
第25歩兵師団 第25偵察中隊

【連隊本部付き】
全ての連隊が保有したかは未確認なものの、少なくとも歩兵師団内の以下の連隊には連隊本部付きの偵察中隊が存在した。

第1歩兵師団 第51連隊 偵察中隊
                 第52連隊 偵察中隊
第2歩兵師団 第4連隊 偵察中隊
第3歩兵師団 第56連隊 偵察中隊
        第57連隊 偵察中隊
第5歩兵師団 第8連隊 偵察中隊
第7歩兵師団 第11連隊 偵察中隊
第9歩兵師団 第15連隊 偵察中隊
          第16連隊 偵察中隊
第18歩兵師団 第48連隊 偵察中隊
          第52連隊 偵察中隊
第21歩兵師団 第32連隊 偵察中隊
第22歩兵師団 第40連隊 偵察中隊
          第42連隊 偵察中隊
          第47連隊 偵察中隊
第23歩兵師団 第44連隊 偵察中隊
          第45連隊 偵察中隊
第25歩兵師団 第46連隊 偵察中隊


【空挺師団】
空挺師団では3個の旅団本部に各1個の偵察中隊が存在した。

空挺師団 第1空挺旅団 第1偵察中隊
            第2空挺旅団 第2偵察中隊
            第3空挺旅団 第3偵察中隊


【海兵師団】
海兵師団では、師団本部付きと、4個の旅団本部に各1個の偵察中隊が存在した。

海兵師団 偵察中隊(師団本部付き)
     第147海兵旅団 第147偵察中隊
     第258海兵旅団 第258偵察中隊
     第369海兵旅団 第369偵察中隊
     第468海兵旅団 第468偵察中隊


【レンジャー部隊
レンジャー部隊では、全てのレンジャー群が保有したかどうかは未確認なものの、少なくとも以下の群本部に各1個の偵察中隊(長距離偵察中隊)が存在した。

第4レンジャー群 第4長距離偵察中隊
第6レンジャー群 第6長距離偵察中隊
第7レンジャー群 第7長距離偵察中隊
第12レンジャー群 第12長距離偵察中隊
第14レンジャー群 第14長距離偵察中隊
第15レンジャー群 第15長距離偵察中隊
第21レンジャー群 第21長距離偵察中隊
第22レンジャー群 第22長距離偵察中隊
第23レンジャー群 第23長距離偵察中隊
第24レンジャー群 第24長距離偵察中隊
第25レンジャー群 第25長距離偵察中隊
第31レンジャー群 第31長距離偵察中隊
第32レンジャー群 第32長距離偵察中隊
第33レンジャー群 第33長距離偵察中隊

※偵察部隊の部隊名は「偵察(Trinh Sát)」という表記が一般的ですが、レンジャーのみ「長距離偵察(Viễn Thám)」となっています。


【第81空挺コマンド群】
第81空挺コマンド群は1960年代後半にプロジェクト・デルタを実行していた特殊部隊(LLĐB)第81空挺コマンド大隊を、1970年8月のLLĐB解散後に再編成した部隊であるため、かつての「デルタ偵察チーム(Toán Thám Sát DELTA)」は第81空挺コマンド群内に「偵察中隊」として統合され、引き続き偵察任務に当たった。なお偵察中隊への統合後も、部隊の通称としては「デルタ偵察チーム」が用いられた。また偵察中隊は1975年、部隊再編に伴い「第815部隊」に改称される。

第81空挺コマンド群 偵察中隊/第815部隊(通称デルタ偵察チーム)

※この記事は特殊部隊以外の偵察部隊についてのまとめであり、LLĐB時代のデルタ偵察チームについては今回は触れませんが、1971年以降の第81空挺コマンド群は空挺師団や海兵師団と同じ「統合予備部隊(総参謀部直属の即応部隊)」に含まれるので、再編後の偵察中隊のみ記載しています。


偵察中隊の写真・映像

最初に、偵察中隊に関する資料は少ないと書きましたが、実際に彼ら偵察隊員が写っている写真・映像資料はもっともっとレアです。
僕が今まで見付けられたのは、以下の部隊だけです。

第1歩兵師団第1偵察中隊(1971年ケサン基地, ラムソン719作戦)


第22歩兵師団第22偵察中隊の偵察隊員(中隊不明)


空挺師団の偵察隊員(1970年, 旅団/中隊不明)


海兵師団の偵察隊員(旅団/中隊不明)
※左胸に米軍MACVリーコンドースクール修了章を着用している事に注目


レンジャー部隊長距離偵察隊員(/中隊不明)



長距離偵察訓練と資格証

長距離偵察証(Chứng chỉ Viễn Thám)は、ドゥックミー レンジャー訓練センターにおける長距離偵察(Viễn Thám)課程を修了した者に与えられる資格証です。この訓練はレンジャーのみならず、この記事で紹介した歩兵師団や空挺、海兵隊など、特殊部隊を除く*ベトナム共和国軍の各偵察中隊の隊員候補たちが受講する、偵察要員の登竜門でした。ちなみにこの資格を取得すると、毎月600ドンの資格手当が支給されたそうです。


 
ドゥックミー レンジャー訓練センター付きの米軍アドバイザー向けに作成された1968年当時のカリキュラム
英語表記"Long range reconnaissance patrol course"が長距離偵察課程(Khóa VIễn Thám)です。

これによると訓練期間は5週間、計419時間のカリキュラムで、内訳は以下の通りです。
・戦術    235時間
・総合課題  161時間
・武器及び破壊 23時間
(139時間の夜間訓練を含む)

フェーズ1(16日間):基礎課程、総合課題講習
フェーズ2(11日間):湿地野営、ジャングル・山岳野営
フェーズ3(8日間)  :戦術航空機動作戦(5日間)、最終筆記試験および体力テスト、卒業式(3日間)

※レンジャー訓練センターの説明では特殊部隊(NKTやLLĐB)もこの訓練を受講したとされていますが、これらの特殊部隊ではそれぞれの訓練センターで独自の偵察・コマンド訓練を行っているため、わざわざ全員がレンジャー訓練センターに出向いて同じような訓練を繰り返す意味は無いように思えます。当時の写真でも特殊部隊員がこの長距離偵察証を着用している例はかなり少ない(私はほとんど見た記憶がない)ので、おそらく実際に受講したのはごく一部の兵士だけだったと思われます。

ベトナム陸軍ドゥックミー レンジャー訓練センター正門(TTHL BĐQ ở Dục Mỹ)

なお1960年代、レンジャー訓練センターはカインホア省ドゥックミーとハウギア省チュンホアの2カ所に存在しており、長距離偵察課程はドゥックミーで行われていました。チュンホアは第3、第4軍団所属のレンジャー部隊に追加の訓練を行う補助的な訓練センターであり、さらに1968年には閉鎖されたそうです。



アメリカ軍MACVリーコンドースクール

MACVリーコンドースクール正門(1969年)

 先に挙げたベトナム軍偵察中隊の多くは、米陸軍における長距離偵察パトロール(LRRP・LRP)部隊の成功を受け、これを手本として組織されたものですが、この本家米軍LRRPのチームリーダーを育成したのが、グリーンベレーが運営するMACVリーコンドースクールでした。上記のレンジャー訓練センターにおける長距離偵察課程も、概ねこのリーコンドースクールのカリキュラムに倣ったものです。
 このMACVリーコンドースクールではアメリカ兵の他にも同盟軍兵士、特に上記のベトナム軍各偵察中隊からの研修生を多数受け入れており、訓練を終えた者はその修了章を軍服に身についている例が見られます。(海兵師団偵察隊員の写真参照)

MACVリーコンドースクール修了章

以下History Channel "Recondo School"よりキャプチャ

リーコンドースクールでグリーンベレーの指導による偵察訓練を受講するベトナム陸軍第1歩兵師団第51連隊偵察中隊の隊員

ベトナム陸軍第2歩兵師団第2偵察中隊(中隊不明)の偵察隊員

※両部隊とも、米軍SOGで開発されたSTABOハーネスを装備している事に注目
  


2019年10月06日

地方軍の即応中隊

 ベトナム共和国軍は1955年制定の軍の管轄区域を1961年に刷新し、改めて全国を4つの『戦術区(Vùng Chiến Thuật)』に区分けします。(ただし首都サイゴン市および周辺のジアディン省は『首都特区(Biệt Khu Thủ Đô)』に指定され、戦術区には含まれない。)また戦術区本部には、中央にアラビア数字で戦術区/軍管区の番号が入った八角形の部隊章が制定されました。なお、その後戦術区は1970年に軍管区(Quân Khu)へと改称されます。

第1から第4戦術区/軍管区および首都特区の区域分け(1961-1975)

戦術区/軍管区本部パッチ(サブデュード)の使用例(第2戦術区/軍管区本部・プレイク省プレイメ)

 この戦術区の下には複数の小区(Tiểu khu)が設置され、この小区はそのまま従来の行政区域である省(Tỉnh)に割り当てられました。
 その後1963年末にクーデターによってジエム政権が倒れ軍事政権が行政を掌握すると、戦術区は軍の管轄区域であるのと同時に、政府の行政区域としての役割も担うようになります。それにともない各戦術区の下にある小区本部は省政府を兼ねるようになり、小区司令官が省政府長官を兼任しました。
 1964年5月、それまで内務省所管の地方警備部隊だった『保安隊(Bảo an đoàn)』および民兵組織『民衛隊(Dân vệ đoàn)』の二つの武装組織は国防省に移管され、それぞれ『地方軍(Địa Phương Quân)』および『義勇軍(Nghĩa quân)』として再編成され、正式にベトナム共和国軍に編入されます。この地方軍および義勇軍の指揮権は小区本部(省政府)にあり、小区副司令官(省副長官)がその地域の地方軍・義勇軍司令官を兼任しました。


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 さて、本題はここから。八角形の戦術区/軍管区本部部隊章には、これに類似したものとして、戦術区/軍管区番号の右上に、丸で囲まれた小区番号が入る部隊章も存在しました。

 当時、戦術区/軍管区の下にある小区=省にはそれぞれ番号が割り振られており、例えば図の第2戦術区/軍管区の9番はトゥインドゥック小区(トゥインドゥック省)となります。
 なので私は長らく、このパッチも戦術区/軍管区本部と同様に、各小区(省)本部のものだと思っていました。しかし写真を集めていくうちに、どうもその認識が疑わしく思えてきたのです。



 上の2枚ではいずれも、地方軍兵士が例の戦術区/軍管区番号の右上に小区番号が追加されたパッチを身につ行けていますが、彼らはどう見ても前線の戦闘員であり、本部勤務者には見えないのです。
 本部勤務者だって本部のある省都が危なくなれば戦闘に加わることもあるでしょうが、不思議な事に他の写真でもこのパッチの着用例は前線で作戦中のものばかりであり、逆に本部で勤務している例は一つも見つけられませんでした。

 そこで、この疑問を知り合いの研究者に振ってみたら、ソッコーで答えが返ってきました。なんでも、このパッチの部隊は小区本部ではなく、各戦術区/軍管区の下で、小区の管轄を超えて出動する地方軍の即応部隊との事でした。この即応部隊は各小区(省)本部に所属していましたが、活動地域はその小区だけ留まらず、戦術区/軍管区地方軍本部の要請によって、戦術区/軍管区内の他の小区にも出撃する機動部隊だったそうです。

 これを米陸軍戦史センター編纂の『Territorial Forces by Ngo Quang  Truong (1981)』に記載されているベトナム地方軍の組織図と照らし合わせてみると、以下の黄色く塗りつぶした『独立地方軍中隊(Đại Đội Địa Phương Quân biệt lập)』だけが小区の下位の支区(Chi khu=都市・コミューン)には属しておらず小区本部直属である事から、僕の予想ではこの独立地方軍中隊が、の即応部隊に該当するのでは考えています。

Territorial Forces, U.S. ARMY CENTER OF MILITARY HISTORY (1981)から邦訳
 
Territorial Forces, U.S. ARMY CENTER OF MILITARY HISTORY (1981)から邦訳


 なので、あらためてこのパッチを例にとってみると、これは『第2戦術区/軍管区トゥインドゥック小区独立地方軍中隊』と考える事が出来そうです。まだ確証はありませんが、現状ではこの解釈が一番しっくりきますね。
 地方軍の細かい編成についてはまだまだ謎だらけなので、引き続き資料集めを続けたいと思います。
  


2019年08月31日

ベトナム共和国軍の女性軍人など

※2019年8月31日加筆修正

ベトナム共和国軍の女性軍人(NQN)

※この記事では、日本語的な言い回しを優先して「女性軍人」、「婦人隊員、」「婦人隊」など言葉の使い分けを行っていますが、ベトナム語ではすべて「Nữ Quân nhân (NQN)」と表現されます。

①女性軍人の始まり
ベトナム共和国軍において、正式に女性軍人(NQN)の組織・制度が発足したのは1965年になります。
しかしベトナム人女性が軍に参加・協力する事自体はフランス連合時代(1948-1955)からすでに始まっていました。
1948年にベトナム国がフランス連合構成国として独立し、フランス植民地軍のベトナム人部隊を改編した国軍が発足すると、まもなくベトナムの共産主義化を防ぐため、一般のベトナム人女性もフランス連合・ベトナム国軍への協力を始め、軍の補助業務を担う婦人部隊が発足しました。

ベトナム国軍の女性補助隊員 [1952-55年頃]

ベトナム国軍の女性隊員と、部隊を指揮するフランス軍女性軍人 [1954年ハノイ]

ベトナムが1955年にフランス連合を脱退し、ベトナム共和国として独立宣言を行った後も、女性部隊は引き続きベトナム共和国軍において補助要員として軍務に就いていきました。
この頃フランス連合軍に参加した女性隊員たちが、後にベトナム共和国軍将校として、女性軍人の躍進を牽引していく事になります。


②婦人学校(1965年以降)
ベトナム共和国では徴兵制が施行されていましたが、兵役があるのは男性のみであり、女性軍人は全員志願者で構成されていました。
まず女性が軍に入隊すると、生活は男性兵士とは分けられ、サイゴン郊外に位置する婦人学校で新兵教育が行われます。ここでの女性新兵に対する教育は、軍における女性の躍進が進んでいる、アメリカ軍婦人陸軍部隊(WAC)のアドバイザーが全面的にバックアップする形で行われていました。

入隊と同時に婦人学校で軍服の支給を受ける女性志願者[1965年]


婦人学校における教育を記録した映像[1966年]
米軍とのコミュニケーション向上の為、米軍WACによる英語教育や、看護・社会福祉に関する教育内容が多かった模様です。

婦人学校では教練の一環として戦闘訓練も行われますが、実際に女性が戦闘部隊に配属される事はほとんどありませんでした。
(戦争末期の兵力不足の際も、兵役年齢引き下げにより16歳以上の男子が徴兵された一方、女性は最後まで前線には配置されませんでした)


③タイガー・レディー

おそらくもっとも有名なベトナム共和国軍の女性軍人が、「タイガー・レディー」の異名で知られる、陸軍第44レンジャー大隊の大隊最先任下士官ホー・ティー・クェー(Hồ Thị Quê)上士(曹長)だと思います。

米軍将校より米国大統領部隊感状(Presidential Unit Citation)を授章するクェー上士 [1965年]

ただし実際には、上で述べたとおり、ベトナム共和国軍では女性が戦闘部隊に所属する事はほとんどありませんでした。
クェー上士の場合は、夫のダン少佐が同第44レンジャー大隊の大隊長であった事から、夫婦で家族経営的な指揮体制を取っていたため、妻のクェーは下士官として昇進し、それがメディアに取り上げられて有名になっただけであり、このように女性軍人が戦闘部隊の指揮官になる事は極めて例外的なケースです。
(ちなみにクェー上士1965年、夫のダン少佐に拳銃で撃たれ死亡します。ダン少佐はその後の取り調べで、自分の浮気がバレて喧嘩になり、はずみで撃ってしまったと供述していますが、実際には大隊長である自分よりも妻の名声が高まった事への嫉妬もあったのではと当時報道されていた模様です)


④後方支援

実際のベトナム共和国軍において、女性軍人が活躍する場として最も多かったのが、通信や需品などの後方支援部隊です。

パラシュートの梱包についてレクチャーを受ける需品部隊の女性軍人たち

海軍基地に勤務する女性下士官
徽章が異なるだけで、制服(勤務服・礼服)そのものは陸海空軍海兵隊どこに所属していても全女性軍人で共通です。


オーストラリア空軍機による空挺降下訓練に臨むベトナム陸軍空挺師団所属の女性軍人 [1966年ブンタウ]
こういった訓練は女性隊員にも行われましたが、あくまでマスコミ向けのパフォーマンス的な意味合いが強く、実際の彼女たちの任務は本部での事務作業や後方支援でした。


⑤厚生局

厚生学校の教官と学生 [1960年代末~1970年代前半]
厚生学校は総参謀部政治戦総局厚生局が所管する、女性のみが入学できる軍の士官学校であり、卒業後は厚生士官として、前線部隊の本部における支援業務、後方での傷痍軍人・遺族への支援や社会福祉など、厚生局の任務に当たります。

サイゴンの共和国総合病院で傷病兵の看護にあたる陸軍空挺師団所属の厚生士官 [1969年]


婦人隊本部

①のフランス連合時代から軍務に就いている女性軍人たちはその後も軍における女性軍人の躍進・地位向上を牽引し、1965年の女性軍人制度開始後は、彼女たちは正式なベトナム軍将校として、軍の後方支援業務を担う重要な地位を占めるようになっていきました。全ての女性軍人を統括する婦人隊本部はベトナム共和国軍総参謀部の直下に置かれ、中でも最古参の女性軍人の一人、チャン・カム・フゥン(Trần Cẩm Hương)氏は、最終的に婦人隊本部司令官として陸軍大佐にまで昇進しました。

▲フゥン大佐(中央)と総参謀部婦人隊本部の女性将校たち [1975年]
フゥン大佐の左隣に立つのが
グエン・ティ・ハン・ニョン空軍中佐

フゥン大佐の軍歴

ベトナム女性軍人に関する参考サイト


ちなみに僕が去年、日光や富士山観光を案内したオーストラリア在住の人権活動家テレーズさんは、およそ40数年前、ベトナム軍の事務職員として日本に来日し、市ヶ谷の防衛庁で研修を受けたそうです。40年経った今も、上野公園でお花見した思い出は鮮明に覚えているそうです。また日本の桜をお見せする事が出来て僕も光栄でした!ベトナム国旗柄のマフラーはテレーズさんから僕へのプレゼントです(^ ^)



⑦民兵組織

正確には軍人ではありませんが、軍の指揮下にあった民兵組織には多数の女性が所属していました。

共和国少女団(Thanh Nữ Cộng Hòa)
第一共和国(ゴ・ディン・ジェム政権期)に存在した共和国青年団(Đoàn Thanh Niên Cộng Hòa)の女性部門です。共和国青年団はジェム総統とその弟ゴ・ディン・ニューが率いるカンラオ党(人格主義労働者革命党)が指導する政治色の強い民間武装組織であり、形式的には(ジェム総統が軍の最高司令官であるため)軍の指揮系統にありましたが、実質的にはカンラオ党の党軍でした。
その婦人部門である共和国少女団は、ニューの妻、チャン・レ・スアンを指導者とし、ベトナム人女性による反共運動として政治的なパフォーマンスを主に行っていました。
なお1963年11月の軍事クーデターでジェム政権が崩壊すると、共和国青年団・少女団は解体され、多くの隊員は後述の人民自衛団に編入されます。


準軍事婦人隊 (Phụ Nữ Bán Quân Sự)
こちらもジェム政権期に存在した女性による準軍事(民兵)組織です。上記の共和国少女団よりも軍の補助部隊としての性格が強く、ゴ・ディン・ニュー、チャン・レ・スアン夫妻の長女ゴ・ディン・レ・トゥイが幹部として準軍事婦人隊を率い、挙国一致の反共体制をアピールしていました。
なおこの組織も1963年のクーデター後に解体されましたが、軍の補助要員としての存在価値は高かったため、彼女たち準軍事婦人隊の組織を基に、軍は1965年に婦人隊(NQN)を正式に発足させました。


人民自衛団(Nhân Dân Tự Vệ)
終戦までベトナム全土で活動した、軍の指揮下にある民間防衛組織です。(人民自衛団本部は軍の総参謀部内に設置)
隊員の多くは男性でしたが、兵役で男性の少なくなった郷里を共産ゲリラから防衛すべく、銃後の守りとして女性も多く所属していました。
なおこの写真ではパレード用の礼装を着用していますが、実際の活動時は作業着として黒色のアオババ(所謂ブラックパジャマ)を着ている事がほとんどです。


農村開拓団(Xây Dựng Nông Thôn)
人民自衛団同様、郷里を共産ゲリラから防衛するための民兵組織ですが、人民自衛団に比べ、より人口の少ない農村部にのみ設置され、指揮権も地方行政府(もちろん地方政府も軍の指揮下にはありますが)が持つ地域密着型の自警団のような組織です。こちらも隊員の多くは男性でしたが、女性も少なからず所属していました。
また農村に設置される組織であるため、農民のシンボルである黒色のアオババが正式な制服でした。

黒色のアオババ(ブラックパジャマ)=ベトコンなのはフィクション作品の中だけです。ベトナム人にとって黒アオババは単なる作業着なので、実際には政府側も黒アオババを着ている組織は多く、ベトナム共和国海軍にいたっては、正規の海軍軍人も作業着として黒アオババを着る事が多々あります)


⑧民間人協力者

「民兵」というほど組織化されたものではなく、基地・駐屯地で軍務に就く家族・恋人と共に生活していたり、自主的に軍に協力している民間人女性が軍服を着ている例はしばしば見受けられます。
政府軍やアメリカ軍等の基地内で通訳や秘書など「軍属」と言える仕事をしている女性も相当いたようで、中でも米海軍SEALに直接雇用された元ベトナム海軍の戦闘通訳員 グエン・ホアン・ミン氏の妻は、夫と共にSEALの指揮下でベトコンに対する情報収集活動(スパイ)を行っていたそうです。(過去記事『ベトナム海軍LĐNN/SEAL』参照)
しかし、全員が軍に雇用された正式な軍属という訳でもなく、給料ももらっていたり、いなかったり、人によってまちまちだったと思われます。


特にCIDG計画では村落そのものが国境防衛のための要塞化され、ベトコンからの村落防衛は全住民の生活の一部となったため、デガやチャム族などの村落=国境特殊部隊キャンプでは、女性も軍服を着用して村の警備に当たっている例が見受けられます。


番外編:軍装彼女(戦中コスプレ)

マニアの間でもよく誤解されているのですが、以下の軍服姿の女性たちの写真は、撮影されたのはベトナム戦争中で間違いないのですが、同時に高い確率で、正規の女性軍人ではないと私は考えます。
(民兵組織に所属している可能性は否定できませんが、少なくともそれは写真で着ている軍服とは関係ありません)


当時のベトナムでは、一般女性が軍務に就く男性への愛情表現として、写真館等で貸衣装(あるいはパートナーの男性軍人)の軍服を着て写真を撮り、家族・恋人に贈ることが流行していました。

正規の女性軍人と軍装彼女(戦中コスプレ)を見分けるポイントとしては、まず髪の長さです。正規の女性軍人は髪の長さが肩に掛からない程度と厳しく制限されており、長髪の女性軍人などまずありえません。
また長髪ではない場合でも、写真館で撮ったような綺麗な写真や、ヘルメットなどの野戦装備を身に着けているなど、通常の女性軍人ではまず見られないような写真の場合は、コスプレである可能性を疑うべきだと思います。


おまけ

「お前が軍服着る(男装する)なら俺は女装するわ!」と、男女で服装を入れ替えて記念写真を撮ったカップル。


二人とも生きててくれればいいな・・・



  


2018年12月18日

空軍付き憲兵隊

 ベトナム共和国軍の軍警隊(Quân Cảnh, 通訳「憲兵」)は米陸軍のMilitary Policeや自衛隊の警務隊とは異なり、総参謀部直属の憲兵隊本部が陸海空軍海兵隊の全軍を管轄としており、その隷下の各憲兵大隊や中隊が各軍管区や部隊に配置されていました。
 その中で、空軍に配置されていた憲兵隊としては第203憲兵中隊(ĐĐ203QC)が知られており、退役軍人協会の公式サイトにもそのように記載されています。
Quân Chủng Không Quân QLVNCH: ĐĐ203QC
(ベトナム共和国軍空軍: 第203憲兵中隊)

 しかし当時の写真を調べていくと、空軍付き憲兵隊が使っているヘルメットの側面の番号には、ĐĐ203QCを示す203だけでなく、233や105など複数のパターンが見られる事が分かってきました。特に105については、これまで知られていた情報では、ĐĐ105QCは陸軍第5歩兵師団に配置されているはずであり、なぜ空軍に105という番号が見られるのかも謎でした。


▲203の例 空軍司令部(タンソンニュット基地)にて


▲233と思しき例 タンソンニュット基地にて

 
▲105の例 タンソンニュット基地にて

ただし、先の退役軍人協会サイトには、部隊名は203としか記載されていなかったものの、以下のような但し書きも添えられていました。
Trong thời chiến, KLVNCH có sáu (6) Sư đoàn Không quân, mỗi SĐKQ-KLVNCH có 1 Đại Đội QC trực thuộc.
(戦時中、ベトナム空軍は6個の空軍師団を有しており、各空軍師団に一つずつ憲兵中隊が配置された。)

これについて他の研究者の方々にも意見を伺ったのですが、なにぶん資料不足で明確な答えは出せずにいました。
ところが先日、日本に住んでいる僕の知り合いの元ベトナム共和国軍人のおじさん、ディェップ一等中士(Trung Sĩ Nhất Diệp)が、まさにその空軍付き憲兵だった事を知りました。ディェップさんが憲兵だったのは以前から知っていましたが、まさか空軍付きというレアな所属だったとは思いもよりませんでした。
せっかくなので詳しくお話を聞かせて頂いたところ、いままでほとんど謎だった空軍憲兵の全体像が明らかになってきました。その結果をまとめたのが下の票になります。


今まで知られていなかった重要なポイントとしては、空軍付き憲兵隊には三つの時期があったという点です。

第1期:1960年代初頭から1965~1967年頃*
ĐĐ203QCが発足し、空軍唯一の憲兵中隊として空軍全体を担当した。

第2期:1965~1967年頃*から1970/1971年
各空軍基地に新たに組織された憲兵中隊が配置され、ĐĐ203QCは解散した。新しい憲兵中隊はそれぞれの基地に本部を置く戦術航空団(Không Đoàn Chiến Thuật)の番号を由来とする中隊番号が与えられた。
ダナン - KĐ 41 CT - ĐĐ 241 QC
ニャチャンおよびプレイク** - KĐ 62 CT - ĐĐ 262 QC
ビエンホア - KĐ 23 CT - ĐĐ 223 QC
タンソンニュット - KĐ 33 CT - ĐĐ 233 QC
カントー - KĐ 74 CT - ĐĐ 274 QC

*ディェップ氏は、この最初の改編が行われた時期については自分が入隊する前だったため詳しくは知らないが、遅くとも1968年のマウタン(テト攻勢)が始まった時点では改編は完了していたため、恐らく1965~1967年頃だったろうと述べている。

第3期:1970/1971年から1975年
ベトナム空軍が1970年から1971年にかけて、戦術航空団を統括する空軍師団(Sư Đoàn Không Quân)を発足させたことに伴い、各基地の憲兵中隊は、それぞれの基地に本部を置く空軍師団の番号を由来とする中隊番号に改称される。
ダナン - SĐ 1 KQ - ĐĐ 101 QC
ニャチャン - SĐ 2 KQ - ĐĐ 102 QC
ビエンホア - SĐ 3 KQ - ĐĐ 103 QC
カントー - SĐ 4 KQ - ĐĐ 104 QC
タンソンニュット - SĐ 5 KQ - ĐĐ 105 QC
ただしSĐ 6 KQ本部が置かれたプレイク基地だけは、ĐĐ 262 QC**からの改編が遅れており、1975年中にĐĐ 106 QCへの改編が予定されていたが、その前に敗戦を迎えた為、最後までĐĐ 262 QCのままであった。
また1970年代初頭には、アメリカ軍の撤退に伴い、複数の基地がアメリカ軍からベトナム側に返還された。その中で、チャノック基地についてはカントー基地からすぐ近くに位置していたため、カントーのĐĐ 104 QCがチャノックも併せて担当した。一方、ファンラン基地は他の基地から離れていたため、空軍師団には無い番号であるが、ファンラン担当として新たにĐĐ 107 QCが発足した。

**他の研究者との討論の中で、プレイク基地には第72戦術航空団本部が置かれており、プレイクの憲兵は262ではなく272だったのではないかと指摘いただきましたが、今回証言を頂いたディェップ氏ははっきり「第262憲兵中隊がニャチャンとプレイクの両方を担当していた」と述べており、現状ではそれを覆すほどのエビデンスは確認できていません。

また70年代に米軍から引き渡されたビントゥイ、ソクチャン、フーカット、トゥイホアおよびカムラン基地の憲兵隊については特に情報はありませんでした。

なお証言者であるディェップ一等中士の軍歴は以下になります。
1969年、兵卒としてベトナム空軍に入隊。ニャチャン基地の空軍訓練センターで基礎教育を修了。
憲兵隊に進み、ヴンタウの憲兵学校を修了。
1970年、タンソンニュット基地の第233憲兵中隊に配属。
第233憲兵中隊が第105憲兵中隊に改称。同部隊で勤務。
1972年、ファンラン基地の第107憲兵中隊に転属。1975年まで同部隊で勤務。

▲第105憲兵中隊時代のディェップ氏 (1970-1972年頃)
Mr. Diep when he belonged to ĐĐ 105 QC (1970-1972)


The other day, Sergeant First Class Diep Ngo told me again and he gave me a lot of infors this time. As far as his memory, the following table lists the QC units attached to VNAF.
QC units in VNAF had three periods.

1st period: From 1960s early to circa 1965-1967*.
ĐĐ 203 QC took charge of all VNAF units as the only of the QC Company attached to VNAF. 

2nd period:From circa 1965-1967* to circa 1970/1971.
ĐĐ 203 QC was dissolved, and new QC Companies were established at each Air bases. Those new QC Companies were named from the numbers of each Tactical Wings (Không Đoàn Chiến Thuật) of Air Force placing at those Air bases. 
Đà Nẵng - KĐ 41 CT - ĐĐ 241 QC
Nha Trang and Pleiku** - KĐ 62 CT - ĐĐ 262 QC
Biên Hòa - KĐ 23 CT - ĐĐ 223 QC
Tân Sơn Nhứt - KĐ 33 CT - ĐĐ 233 QC
Cần Thơ - KĐ 74 CT - ĐĐ 274 QC
*He don't know well when this first changing of unit designations done, but he can say it was already done by the Tet Offensive at the latest.
**KĐ 72 CT was in Pleiku, so 272 sounds more natural than 262 for Pleiku. But he surely told me that 262 used to take charge of both air bases, Nha Trang and Pleiku. If 262 in Pleiku was just a mistake of 272, he wouldn't say me "both". However, I don't have an evidence except his testimony. I wish we find some more evidence.

3rd period:From circa 1970/1971 to 1975.
VNAF established Air Divisions (Sư Đoàn Không Quân) in 1970 to 1971, and each QC Companies were renamed from the numbers of each Air Divisions.
Đà Nẵng - SĐ 1 KQ - ĐĐ 101 QC
Nha Trang - SĐ 2 KQ - ĐĐ 102 QC
Biên Hòa - SĐ 3 KQ - ĐĐ 103 QC
Cần Thơ - SĐ 4 KQ - ĐĐ 104 QC
Tân Sơn Nhứt - SĐ 5 KQ - ĐĐ 105 QC
*ĐĐ 262 QC (SĐ 6 KQ at Pleiku) was planned to change its unit designation to ĐĐ 106 QC in 1975, but the war was over before done it. 
Additionally, some air bases were returned from US to Vietnam in early 1970s.
Tra Noc AB was located close to Cần Thơ AB, so ĐĐ 104 QC took charge of Tra Noc too.
On other hand, there was no QC unit which could take charge of Phan Rang AB, so ĐĐ 107 QC was established as a new company.
His memory is limited, he didn't tell me about Bình Thủy, Soc Trang, Phu Cat, Tuy Hoa and Cam Ranh so far.

(Source) Mr. Diep Ngo, Sergeant First Class of QC, served in 1969-1975

  


2018年09月23日

50年代のベトナム海兵隊

空挺の成り立ちやったんだから次は海兵だろうという事で、最近はベトナム海兵隊(TQLC)の発展についてまとめていたのですが、これがやってみるとなかなか難航しています。
というのも、海兵隊の黎明期、つまり1950年代後半に関する情報がやけに錯綜しているのです。
私は海兵隊ベテランが書いた記事や、1973年にサイゴンのアメリカ大使館が作成した報告書も翻訳しましたが、それらには海兵隊組織の発展のプロセスや、部隊が改変されたタイミング、特に後の海兵大隊の前身である「第1上陸大隊」の成り立ちについてはいくつも矛盾がありました。
なので以下の図は暫定版であり、今後改定していくつもりです。


こうした矛盾を解決するには、さらに資料を収集して地道に読み解いていくしかないので、まだまだ時間がかかりそうです。
なので、この謎多き50年代の海兵隊については、サクッと写真貼るだけにしておきます。


海兵隊の前身となったCEFEO(極東フランス遠征軍団) コマンド部隊

北ベトナム・コマンド (Commandos Nord Viet-Nam) および
南ベトナム・コマンド (Commandos Sud Viet-Nam)
▲パレードに参加する北ベトナム・コマンド コマンド13 (第13コマンド中隊)
 
海軍コマンド (Commandos marine)
勲章を受けるフランス海軍コマンドのベトナム兵 [1952年]

ベトナム海兵隊発足

第1海軍歩兵大隊 (1er Bataillon de l’Infanterie Marine / Ðệ I Tiểu Đoàn Bộ Binh Hải Quân)
 
▲フランス海軍より北ベトナム・コマンドの隊旗を受け継ぐ第1海軍歩兵大隊 [1954年]

第1海軍歩兵大隊兵士とアメリカ軍MAAGアドバイザー [1955年]

第1上陸大隊 (Tiểu Đoàn 1 Đổ Bộ)
▲領有を巡り中国と対立するホンサ諸島を占領した第1上陸大隊 [1957年]

▲アメリカ留学に発つ第1上陸大隊幹部 [1957年]
この時点では海兵隊は海軍に属していたので、野戦服と勤務服は陸軍式だが、外出服と大礼服は海軍式。

▲ザーコップ(タイガーストライプ)迷彩服を採用した第1上陸大隊幹部 [1950年代末]



おまけ

最近、運転中に聞く歌はHysteric Blueがお気に入り。



あとLOVE YOU ONLY。このあいだ友達と一緒にカラオケで歌ったら超気持ち良かった。




  


2018年09月13日

ベトナム陸軍空挺部隊の成り立ち

※2018年9月17日更新

 過去記事『ベトナム空挺 1948-1954』で私は、「ベトナム空挺部隊の歴史は、1948年にに創設されたCIP (フランス植民地軍空挺インドシナ中隊)から始まった。」と述べましたが、これは私の認識不足でした。CIPは1951年以降ベトナム国軍に順次編入され、ベトナム陸軍空挺部隊の中核を担った事自体は間違いないのですが、ベトナム空挺の『始まり』という意味では、もっと早くに発足した部隊が存在しました。今回はそうしたCIPとは別系統で発足した部隊も含めた、ベトナム空挺の成り立ちについてです。

まずは分かり易く図にしました。



EPGRC (コーチシナ共和国衛兵隊空挺戦隊) 1947-1948

 前の記事では書けなかった、CIPとは異なるベトナム空挺のもう一つの大きな源流の一つがEP (空挺戦隊)です。コーチシナ自治共和国およびコーチシナ共和国衛兵隊そのものについては今別の記事を書いているので詳細はそちらで解説しますが、簡潔に言うとコーチシナ自治共和国とは、第二次大戦終結後、まだベトナム全土を再占領出来ていなかったフランスが、まずインドシナ経済の中心地であるコーチシナ(ベトナム南部)だけでもホー・チ・ミンのベトミン政権から切り離し、フランスの権益を確保しようとして1946年に擁立したフランスの保護国です。
 そして同年、コーチシナ自治共和国には、その国軍としてGRC(コーチシナ共和国衛兵隊)が発足します。ただし、当初GRCに所属していた将兵のほとんどは、コーチシナに駐屯していたフランス軍正規部隊のフランス人であり、現地のベトナム人の採用は『パルチザン』と呼ばれるフランス軍指揮下の民兵部隊に留まっていました。その後、GRCは1947年初頭に、主にフランス国家憲兵隊員で構成されたLMGR(共和国衛兵隊徒歩軍団)の指揮下となり、コーチシナ領内の警備活動を担う治安部隊という位置付けとなりました。
 しかしこの時期、インドシナ駐屯フランス軍=CEFEO(極東フランス遠征軍団)では駐留期間を終えた部隊の帰国と、若者を植民地維持のための戦争に送ることへのフランス国内世論の反発、戦闘による損失が重なったことによる兵力不足が深刻化していました。その結果、フランス軍は兵力不足を補うためにインドシナの現地民をフランス軍の正規部隊に採用するようになります。
 GRCでもベトナム人の採用が進めらると共に、1947年にはGRC初の空挺部隊であるEP (空挺戦隊)EPGRC (コーチシナ共和国衛兵隊空挺戦隊)が発足します。EPGRCは近い将来、ベトナム人で構成された空挺部隊を創設するために、フランス人空挺隊員がベトナム人兵士に対して落下傘降下を教育する最初の部隊となりました。
 その後、同様の経緯で、フランス植民地軍BCCP(空挺コマンド植民地大隊)や外人部隊BEP(空挺外人大隊)内にも、主にベトナム人で構成されたCIP / CIPLEが1948年以降順次創設されていきます。

EPGRC部隊章
(1947-1948)


EPGVNS (南ベトナム衛兵隊空挺戦隊) 1948-1951

 その後、インドシナ人やアフリカ人、北アフリカ人兵士で増強されたCEFEOは各地の都市部からベトミン軍を駆逐し、ベトナム全土が再びフランスの施政下に戻ります。そこでフランスは、自国の利権の為にベトナムを分断したとして紛争の元凶となっていたコーチシナ自治共和国を1948年に解体し、代わりに阮朝最後の皇帝バオダイを国家元首(国長)とし、ベトナム全土を統治する統一国家『ベトナム国』を擁立します。
 これによってフランスがベトナム民族主義の高まりを抑えるために禁じていた『ベトナム』という国名が復活し、それまでベトナムという言葉を避けるために地域ごとに別々の国として扱われていたトンキン、アンナン、コーチシナという区分けは廃止されます。そしてこれに伴い、GRC(コーチシナ共和国衛兵隊)の名称は、GVNS(南ベトナム衛兵隊)へと改称され、そのままベトナム国の国軍へと昇進しました。また同時に、EPGRC (コーチシナ共和国衛兵隊空挺戦隊)はEPGVNS(南ベトナム衛兵隊空挺戦隊)へと改称されます。
 翌1949年、GVNSの名称はベトナム語でベトナム国衛兵隊へと改称されますが、フランス語では引き続きGVNSと呼ばれました。まEPGVNSはその後、GVNS第1空挺中隊へと改称されます。

EPGVNS / 第1空挺中隊部隊章
(1948-1951)

EPGVNSの隊員たち 1949年
(Photo from Les Paras Francais En Indochine, 1945-1954)


BPVN (ベトナム空挺大隊) 1951-1954

  1950年には、ベトナム国政府が直轄していたベトナム南部だけでなく、CEFEO内のFTVN(北ベトナム方面軍)が管轄するベトナム北部=トンキンでもGVNS所属のEPが発足します。このトンキンEP指揮官に任命されたのがグエン・カーン大尉、副長がド・カオ・チ中尉でした。そして翌1951年、トンキンEPはGVNS初の空挺大隊である1er BPVN (第1ベトナム空挺大隊)へと発展します。トンキンEP指揮官グエン・カーン、ド・カオ・チの両名はそのまま1er BPVNの大隊長、副長に任命され、ベトナム陸軍空挺部隊の発展を牽引していく事となります。
 またフランスによるベトナム国政府への権限移譲=ベトナマイゼーションの加速にともない、1952年にはGVNSはFAVN(ベトナム国軍)へと改称されます。これ以降、FTVN所属の各ベトナム人部隊は順次FAVNへと編入され、FAVNの戦力と権限は急激に増していきました。皮肉な事に、ベトナム国政府をフランスの傀儡政権として打倒しようとするベトミンの攻撃が激化するほど、ベトナム国はフランスに対する独立性を増していったのです。
 この流れの中で、フランス植民地軍および外人部隊に所属していたベトナム人CIPもFAVNに編入されてBPVNへと改編され、1954年までに計5個のBPVNが編成されました。


 BPVNおよびBPVNを統括するCEFEO直轄のGAP3については前記事にも概要をまとめてありますので、そちらをご覧ください。
 またGAP3はその後、フランス撤退にともないベトナム共和国軍空挺群として再編され、その後空挺群は空挺旅団、空挺師団へと発展していきます。この部分も長くなるので、また改めて記事にしたいと思います。


本文では各組織名のフランス語、ベトナム語表記は長くなるため省略したので、以下にまとめて書きます。

日: 極東フランス遠征軍団
仏: Corps Expéditionnaire Français en Extrême-Orient (CEFEO)

日: 北ベトナム方面軍
仏: Forces terrestres du Nord-Viet-nam (FTVN)

日: 共和国衛兵隊徒歩軍団
仏: Légion de Marche de Garde Républicaine (LMGR)

日: コーチシナ自治共和国
仏: République autonome de Cochinchine
越: Cộng hòa Tự trị Nam Kỳ

日: ベトナム国
仏: État du Viêt Nam
越: Quốc gia Việt Nam (QGVN)

日: コーチシナ共和国衛兵隊
仏: Garde Républicaine de Cochinchine (GRC)
越: Vệ binh Cộng hòa Nam Kỳ

日: 南ベトナム衛兵隊
仏: Garde du Viet-Nam Sud  (GVNS)
越: Vệ binh Nam Việt

日: ベトナム国衛兵隊
越: Vệ binh Quốc gia Việt Nam

日: ベトナム国軍
仏: Forces Armées Vietnamiennes (FAVN)
越: Quân đội Quốc gia Việt Nam (QĐQGVN)

日: 空挺インドシナ中隊
仏: Compagnie Indochinoise Parachutiste (CIP)
越: Đại đội Nhảy dù Đông Dương

日: 外人部隊空挺インドシナ中隊
仏: Compagnie Indochinoise Parachutiste de la Légion Etrangère (CIPLE)
越: Đại đội Nhảy dù Đông Dương Binh đoàn Lê dương

日: 空挺戦隊
仏: Escadron Parachutiste (EP)
越: Đại đội Nhảy dù Biệt

日: コーチシナ共和国衛兵隊空挺戦隊
仏: Escadron Parachutiste de la Garde Républicaine de Cochinchine (EPGRC)
越: Đại đội Nhảy dù Biệt / Vệ binh Cộng hòa Nam Kỳ

日:南ベトナム衛兵隊空挺戦隊
仏: Escadron Parachutiste de la Garde du Viet-Nam Sud (EPGVNS)
越: Đại đội Nhảy dù Biệt / Vệ binh Nam Việt

日: ベトナム空挺大隊
仏: Bataillon de Parachutistes Vietnamiens (BPVN)
越: Tiểu Đoàn Nhẩy Dù (TĐND)

日: 空挺群
仏: Groupement Aéroport  (GAP)
越: Liên Đoàn Nhẩy Dù


  


2018年07月18日

漢字にすれば、いいのです

過去記事『ベトナム語を読む』で少しだけ触れましたが、ベトナムと日本は古代から中国文化に強い影響を受けており、今でこそベトナム語は漢字を廃止してクォックグー(ローマ字)に完全移行したものの、20世紀中盤までは漢字(および漢字を基にしたチュノム)が広く使われていました。なので現在でもベトナム語の名詞の多くはクォックグーから漢字に逆変換でき、漢字に慣れ親しんだ私たち日本人であればその意味を容易に理解できるようになっています。(中国からの輸入語の場合、読み方も日本語漢字の音読に似ている場合が多い)

こちらのサイトでクォックグー/漢字を双方向で変換できます。

特に兵法・軍事に関しては両国とも中国から輸入された概念や用語を広く取り入れているため、漢字表記すればその意味は非常に分かり易く、また共通している単語も多々あります。
ただし、それらの漢字・単語は、各国に取り入れられてから千~二千年と長い歳月が経っているため、それぞれの漢字が持つ細かい意味・ニュアンスは各国で若干変わっている場合もあります。


上記のように、分隊・旅団・師団・軍団などは両国とも全く同じ漢字・意味で使われていますが、日本語で言う小隊~連隊までは微妙に異なっており、クォックグーから漢字にしたものをそのまま日本語の意味で捉えると齟齬が生じます。(なお、本家中国ではまたさらに違う言い方に変化している)
また、日本語の班に相当するToánは算という漢字に変換できますが、これは同音異義語であり、軍事的な意味におけるToánの漢字表記はまだ把握できていません。(中国漢字にベトナム語の意味に該当する文字が無い場合はチュノムが使われるが、チュノムにも該当する文字がいまだ見つからない)

加えて、以下はベトナム語(旧ベトナム共和国軍)特有の部隊編成に関する用語になります。一部で日本語と共通している単語もありますが、多くは日本語的な感覚では正しく理解できないため意訳が必要となります。とは言え、漢字を見れば大体の意味は何となく分かるかと思います。(ただし一部に連隊=中隊未満など引っ掛けがありますが)



またベトナム共和国軍の『部隊名』に関しても、同様に日本語と共通する部分が多く、一部で意訳が必要な場合でも、漢字から意味を推測するのは容易です。



なお、ベトナム語には漢字表記すると『兵種』となる『Binh Chủng』という単語があり、上の表はそのBinh Chủngの一部なのですが、上であえて『兵科・兵種』ではなく『部隊名』と書いたのには理由があります。実はベトナム語(ベトナム共和国軍)におけるBinh Chủngは日本語(旧帝国陸軍・陸上自衛隊)における兵科・兵種・職種とはまた異なった概念なのです。
まず、日本語における兵科・兵種はその名の通り、その分野の専門技能を持った将兵の職種を意味しています。その為日本では陸軍のどの部署に属していようとも、歩兵や砲兵などの兵科毎に横のつながりがあり、それぞれの兵科が一種の派閥を作っています。
一方、ベトナム共和国軍はフランス植民地軍を前身としているため、その構成もフランス式となっています。もちろんフランス軍にも兵科に相当するものはありますが、同時に空挺部隊、海兵隊(旧植民地軍)、外人部隊等は同じフランス陸軍に属しながらもそれぞれ別の組織であるかのように独立性を持っています。兵科が横のつながりならば、こういった部隊毎の独立性は言わば縦のつながりであり、ベトナム語のBinh Chủngとはまさにこの部隊の縦割りを意味する言葉なのです。
もちろん各部隊の中にはそれぞれ歩兵や砲兵、工兵、通信など様々な兵科の将兵が所属していましたが、特に独自のベレー帽が制定されているようなエリート部隊は兵科毎のつながりよりも、伝統を持った部隊ごとの団結を重視しました*。したがって上の表にある歩兵**や空挺、遊撃隊(レンジャー)、海兵隊などは、兵科ではなく部隊名であり、私はBinh Chủngを『部隊』と意訳する事にしています。

* 日本やそれ以外でも空挺部隊や特殊部隊などのエリート部隊は同様に部隊ごとに独立性が強いですが、フランス軍やベトナム軍はそういった独立性のある部隊の割合が他国と比べて高いのが特徴と言えます
** 歩兵(Bộ Binh)という単語は兵科名(歩兵科)、部隊名(歩兵師団)以外にも、エリート部隊を除く陸軍全般を指す用語として用いられる場合もあります。例えば総参謀部が編纂した当時の軍装規定では、陸軍全般で広く使われたオリーブ色のベレー帽が歩兵(Bộ Binh)用として紹介されています。また当時の士官学校では陸海空軍いずれに進もうとも、士官候補生は全員陸軍の訓練センターで歩兵科士官課程(中隊指揮官レベル)を修了する必要があったので、ベトナム共和国軍の将校はパイロットも航海士も会計隊も全員が歩兵戦闘を心得た『歩兵の軍隊』だったと言えます。
※2019年11月24日訂正
士官候補生は入隊すると全員最初にクアンチュン訓練センターでの基礎教育を受講しますが、歩兵指揮官課程を受けるのは陸軍・海兵隊の士官候補生のみであり、海軍・空軍士官候補生はそれぞれ海軍士官学校、空軍訓練センターに進むので、全員が受講するというのは誤りでした。

Huấn Lệnh Điều Hành Căn Bản, ベトナム共和国軍総参謀部第5室編 (1969)


  


2018年05月26日

70年代のレンジャーと軍団タブについて

※2020/6/24訂正

 以前『部隊識別色』の中で、ベトナム陸軍レンジャー部隊が1970年代に使用していた軍団識別色タブについて書きましたが、その後当時レンジャー部隊にアドバイザーとして派遣されていた元米軍将校や、元レンジャー隊員の方々に意見をうかがったところ、新たに有力な情報をお寄せ頂けましたので、前記事の訂正を兼ねて1970年代のレンジャー部隊と、その軍団タブについて解説させて頂きます。


1970年代のレンジャー部隊略史

 ベトナム陸軍レンジャー部隊(BĐQ)は1960年代末まで、全国4つの軍団指令部直属の機動軽歩兵部隊として6個レンジャー群、計20個大隊で構成されていた。
 アメリカ軍の撤退にともない1970年にCIDG計画が終了すると、それまでベトナム陸軍特殊部隊(LLĐB)に所属していた数十の国境特殊部隊キャンプ駐屯CIDG部隊(CSF)は全てBĐQに移管され、CSF1970年8月から1971年1月にかけて順次、国境レンジャー大隊(BĐQ-BP)へと改編された(過去記事CIDG計画の組織』参照)。国境レンジャー大隊は全国で計37個大隊編成され、BĐQの兵力は約2.5倍に増加した。国境レンジャー大隊は既存のレンジャー大隊と同様に、各キャンプの所在地を管轄する各軍団のレンジャー本部の指揮下に置かれたが、この時点ではそれらを統括するレンジャー群は編成されず、国境レンジャー大隊は軍団レンジャー本部の直接指揮下にあった。
 同じころ、それまで第3軍団レンジャー司令部の指揮下にあった第5・第6レンジャー群が第3軍団を離れ、総参謀部直属の即応部隊として全国に派遣される『統合予備部隊(TTB)』に1970年中に編入された。
 その後1973年中盤になり、BĐQに対して最後の大規模な再編成が行われた。
1. 第1~第3軍団レンジャー内に各国境レンジャー大隊を統括する9個のレンジャー群(7, 11, 14, 15, 21, 22, 24, 25, 33レンジャー群)を新設し、全ての国境レンジャー大隊がその指揮下に入る。
2. 第4軍団レンジャー本部を解体し、その指揮下にあった第4レンジャー群は統合予備部隊に、国境レンジャー大隊は第1~第3軍団内の各レンジャー群に編入。
3. 第1, 2, 3, 5レンジャー群の名称を、第12, 23, 31, 32レンジャー群へと改称。(この時点で第5レンジャー群は統合予備部隊から第3軍団へ復帰していた)
4. 第6レンジャー群に加え、第4軍団から異動した第4レンジャー群、および新設された第7レンジャー群統合予備部隊とする。
 加えて1974年10月、パリ協定による捕虜返還およびBĐQの戦力増強の為、捕虜収容所を運営していた第9および第14憲兵大隊が解体され、同大隊の人員はBĐQに編入され、第3軍団内に第8レンジャー群として再編成される。1975年1月には、同じく第7および第8憲兵大隊が解体され、第3軍団内に第9レンジャー群として再編成される。
 その後も戦況は悪化の一途を辿った事から、BĐQは1975年3月末から4月上旬にかけて残存部隊の再編成を行い、統合予備部隊として第101および第106レンジャー師団の2師団を創設した。この2師団は首都防衛の任に充てられ、4月30日のサイゴン陥落まで最後の抵抗を続けた。


軍団・部隊番号タブ

 1971年末、BĐQは全部隊で、黒豹黒虎マークの部隊章の上側に取り付ける軍団・部隊番号タブを採用した。このタブは所属する各軍団(および統合予備部隊)を5色の色で示し、その中に部隊番号または部署・役職を示す略称が入る。

左袖のレンジャー部隊章の上に縫い付けられている数字の入った長方形の布が軍団識別色タブ
写真は第3軍団第33レンジャー群第83レンジャー大隊, 1973-1975年

▲軍団識別色とその軍団内のレンジャー群一覧
第1軍団: 緑、第2軍団: 赤、第3軍団: マルーン、第4軍団: 黄、統合予備:青。()内はそのタブが使用たと考えられる年代。
略語はBĐQ / QĐ:軍団レンジャー、LĐ BĐQ:レンジャー群、BĐQ / TTB:統合予備レンジャー
なお軍団ではないが、ドゥックミ・レンジャー訓練センター(TTHL BĐQ Dục Mỹ)にも赤色のタブが制定された模様。

部隊番号または部署の表記例
本部付の部署・役職の略称としてはHCCV(管理担当), CHCV(指揮担当), YTCV(支援担当), CT(作戦), TT(通信), QY(衛生), CCX(対戦車)などが見られる。


おまけ:第101レンジャー師団


 BĐQ初の師団として1975年4月上旬に編成されたものの、それからわずか1ヶ月足らずで終戦を迎えた幻のレンジャー部隊の一つ、第101レンジャー師団(Sư Đoàn 101 Biệt Động Quân)とされる写真を最近初めて見ました。同時期には同じく第106レンジャー師団も編成されているのですが、存在した期間が短かった事と、敗戦間際の混乱した時期であった事から、この2師団についてはまだ不明な点が多いです。
 第101レンジャー師団については、第3軍団に所属していた第31, 32, 33レンジャー群を統合したものという記述がDÒNG SÔNG CŨにありましたが、それ以外の事はまだ分かりません。第106レンジャー師団に至っては、写真も、元となった部隊が何なのかさえも情報が見つかりません。101師団の例に倣えば、106師団は統合予備部隊であった第4, 6, 7レンジャー群が統合されたのではないかとも推測出来ますが、確かな事はまだ何も言えませんねぇ。
 一方、最初に書いた、本記事の情報源となった米越軍のベテラン兼研究者の方々は今、レンジャー部隊に関する最新の研究成果をまとめたものを何らかの形で発表すべく作業を進めているそうなので、これまで知られていなかった情報や、あるいは誤って広まってしまった不正確な情報を正しく総括してくれることを期待して止みません。

  


2018年01月28日

SOGの組織構造


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【お知らせ】

 このブログでも岡山県美作市が市営博物館に設置した『ホーチミン空間』なる展示に世界中のベトナム人から批判が集まっている事をお伝えしましたが、今月に入り、日本在住ベトナム人協会も、ホーチミン空間の撤去を求め美作市長および市議会議員へ送付する請願書へのウェブ署名運動を開始しました。

Change.org: 美作市作東芸術文化博物館のホー・チ・ミン像撤去に関する請願書

 私の別ブログ ベトナムウォッチに、日本在住ベトナム人協会会長グェン・フォン・カィン氏による日本語版請願文を掲載してありますので是非ご一読いただき、ご賛同いただけるようでしたらウェブ署名へのご協力をお願いいたします。



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【以下、記事本文】


 当ブログでは度々、米軍SOGが支援するベトナム共和国軍の特殊作戦機関 NKT(技術局, 英略称STD)について紹介にしてきましたが、SOGそのものについてはまだちゃんと解説していなかったので、今回は戦争当時SOG本部がペンタゴンの統合参謀本部に向けて作成した報告書"Draft MACSOG Documentation Study (U) (1970年7月10日)"に掲載されている組織図で、SOGの組織構造についてざっとまとめてみます。



※SOGの意味と邦訳について
 SOG (Studies and Observation Group)という組織名は、実は"Special Operations Group (特殊作戦群)"のカバーネームであるという噂が、現在のマニアはもちろん、当時SOGに所属していた兵士たちにも実しやかに信じられています。現在Studies and Observation Groupの日本語訳としては"研究・観測グループ"という訳が定着しており、多くのマニアが「『アメリカ軍最強特殊部隊』の名称に"研究"や"観測"という不相応な言葉が使われているのは、実態を隠すためのカバーネームだろう」と考えているようです。しかし私はこれに異を唱えたいと思います。
 まずStudyの意味は一般的には"研究"や"勉強"ですが、ジーニアス英和辞典によるとStudyはもともと"努力する"を原義としており、"専門とする"というような意味もあるようです。さらに複数形のStudiesの場合には研究対象の題目を表す時に用いられる事もあるそうで、例えば"cultual studies"で"教養学科"となるそうです。これは軍隊風に意訳すれば、"専門分野=技術"と捉える事ができ、SOGのようなアメリカ陸海空軍海兵隊・CIA・NSAなどから集結した各分野における特殊作戦の専門家集団の名称としては自然だと思います。また実際、SOGと一体で作戦を遂行するベトナム軍側の特殊作戦機関は"技術局(Nha Kỹ Thuật)"という名称です。その為この記事では、意味が分かり易いよう"Studies"を"研究"ではなく"技術"と訳しています。
 次に"Observation (観測)"ですが、これは科学の分野での観測だけでなく、"オブザーバー(観測者)"という言葉に表されるように、"意見する"も意味します。これもSOGの主任務であるベトナム軍特殊部隊への支援・助言と合致します。
 以上の点から、"Studies and Observation"は実態を隠すための無意味なカバーネームではなく、SOGの任務をありのままに表記した、非常に実態に即した名称だと私は考えています。
 
MACVと列記する場合の表記について
 SOGはアメリカ軍ベトナム軍事援助司令部(MACV, MAC-V))直属の機関であったことから、MACV-SOGあるいはMACSOGとも表記されます。民間の書籍ではMACV-SOGが一般的ですが、今回引用している報告書など、当時の米軍の公式文書ではMACVのVは省略されて"MACSOG"が使用されている場合が多いです。

作戦計画について
 SOG参謀および作戦部門の各部署は、ペンタゴンおよびCIAが策定した"作戦計画(Operation Plan)"に合わせて編成されていました。例えば作戦計画30(Operation Plan 30)の担当はSOG-30となります。なお、Operation Planの略称としてはOP, OPLAN, Opsなどが使われますが、意味はどれも同じです。




【SOGの全体像】

▲SOG組織図(1965年1月)

▲SOG組織図(1968年12月)

▲SOG組織図(1969年6月)

▲SOGとベトナム軍NKT(STD)各部署の対応関係



【SOG本部】

SOG-00 司令室 (Office of the Chief)

SOG-01 次席司令 (Deputy)
SOG-02 副司令 (Executive Officer)
SOG-03 特別補佐官(Special Assistant)
SOG-04 総監 (Inspector General)
SOG-05 本部支援隊 (Headquarters Support)


SOG-10 人事・管理部 (Personnel and Administration Division)


SOG-20 情報部 (Intelligence Division)



SOG-40 兵站部 (Logistics Division)



SOG-50 計画部 (Plans Division)


SOG-60 通信部 (Communications Division)



SOG-90 監査部 (Comptroller Division)



【SOG参謀部門】

SOG-30 / OP-30 作戦・訓練技術部
(Operations and Training Studies Division)


SOG-31 / OP-31 海上技術課 (Maritime Studies Branch)
SOG-32 / OP-32 航空技術 (Air Studies Branch)
SOG-33 / OP-33 心理戦技術 (Psyops Studies Branch)
SOG-34 / OP-34 地上技術 (Ground Studies Branch)
状況分析班 (Status and Analysis Section)




【SOG作戦部門】

SOG-35 / OP-35 地上技術グループ (Ground Studies Group)


OP-35はベトナム軍NKT連絡部(コマンド雷虎)で構成されたC&C部隊(SCU)による国境地帯への越境偵察作戦。
規模はSOG作戦部門の中で最大。また本部での指揮だけでなくSCU偵察チームの現場指揮もSOG-35隊員が担った。

▲SOG-35隊員
主に陸軍第5特殊部隊群隊員で構成

▲NKTコマンド雷虎(SCU)とSOG-35隊員(右)
雷虎は元々正規のベトナム軍人のみで構成されていたが、後にOP-35の規模拡大に伴い、CIDG兵士で構成されたプロジェクト・シグマやガンマのチームもSCUに編入された。


SOG-36 / OP-36 空挺技術グループ (Airborne Studies Group)


OP-36はNKT第11群および第68群による空挺降下潜入工作作戦。主に敵軍または民間人に変装して敵性地域に潜入し、情報収集および破壊工作を行う。
1961年にCIAの指揮の下開始されたパラソル・スイッチバック作戦を起源とし、1964年にOP-34AとしてSOG所管の作戦となる。後に作戦の実行はOP-36として独立した作戦となる。
SOG-36隊員は本部での指揮・運用のみで出撃はしない。

▲NKT第11群STRATAチーム(チーム111)

▲NKT第68群アースエンジェルチームとSOG-36隊員(左)


SOG-37 / OP-37 海上技術グループ (Maritime Studies Group)

OP-37はNKT沿岸警備部による海上からの越境工作作戦。1964年にOP-34Aとして開始され、後に作戦の実行はOP-37として独立した作戦となる。
SOG-37は当初はNAD(海軍顧問団)として編成され、主に本部での指揮・運用を担ったが、一部でSOG-37所属のSEALおよび特殊ボート隊員がNKT沿岸警備部部隊と共に出撃する事もあった。

▲SOG-37隊員
主に海軍および海兵隊員で構成

▲NKT沿岸警備局シーコマンド(特海部隊)とSOG-37のSEAL隊員

NKT沿岸警備局シーパトロール(海探部隊)のナスティ高速哨戒艇


SOG-38 / OP-38 教導技術グループ (Training Studies Group)


OP-38はNKTの各コマンド部隊への訓練計画サイゴン東部ロンタンに設置されたNKT訓練センター"クェッタン / イェンディ"を運営する。またOP-35の規模が拡大すると、C&C部隊のチームリーダー(1-0)を育成するため、SOG-35所属のアメリカ兵に訓練を施す『ワンゼロ偵察訓練プログラム(通称ワンゼロスクール)』も実施した。
SOG-38は主に陸軍第5特殊部隊群B-53分遣隊で構成され、NKT訓練センターのインストラクターを務めた。

▲SOG-38のインストラクターとNKTコマンド訓練生

SOG-38によるワンゼロ偵察訓練コースを受講するSOG-35隊員



SOG-39 / OP-39 心理戦技術グループ (Psyops Studies Group)


OP-39はNKT心理戦部による北ベトナム・ラオス・カンボジアへの心理戦工作。
宣伝ラジオ放送はOP-70でも行われたが、OP-39は偽情報による攪乱を行う、心理戦の中でも『ブラック』と規定される作戦を行った。
例えばベトナム人とカンボジア人の歴史的な対立感情を煽る事で、ベトナム共産軍とクメールルージュ間での対立を画策するなど、より攻撃的な心理作戦を担った。


SOG-70 / OP-70 ラジオ技術グループ (Radio Studies Group)


OP-70は当初はSOG-40として編成された、NKT心理戦部によるラジオ放送心理戦工作。
偽情報を流すOP-39と異なり、OP-70では『ホワイト』ないし『グレー』と規定される、概ね事実に基づいた情報を放送した。


SOG-75 航空技術グループ (Air Studies Group)

SOG-75はNKT航空支援部およびアメリカ軍飛行隊の運用調整を行う。
以下の飛行隊が常時SOG-75の調整の下、NKTによる作戦の支援にあたった。

SOG第1飛行隊(1st Flight Squadron): C-123輸送機
アメリカ空軍 第15特殊作戦飛行隊: C-130輸送機
アメリカ空軍 第90特殊作戦飛行隊: C-130輸送機
アメリカ空軍 第20特殊作戦飛行隊: UH-1Fヘリコプター
ベトナム空軍 第219ヘリコプター飛行隊: H-34ヘリコプター
アメリカ海軍: EC-121電子戦機

また上記以外にも必要に応じてベトナム空軍・アメリカ空軍の飛行隊を運用した。

▲SOG-75第1飛行隊

▲NKT航空支援部/ベトナム空軍第219飛行隊"龍馬”/キングビー飛行隊とSOG-75隊員


SOG-80 / OP-80 救難技術グループ (Recovery Studies Group)


OP-80はにNKT作戦部隊を支援する特殊作戦レスキュー計画。
人員はSOG-80 "統合捜索救難センター(Joint Personnel Recovery Center)"のアメリカ兵で構成され、行方不明となったNKTおよびSOGのコマンド隊員の捜索・救難を担った。
1973年にアメリカ軍がベトナムから撤退した後も、JPRCは"統合遭難者解決センター(Joint Casualty Resolution Center)"と改称してベトナムに残留し、NSA(国家安全保障局)およびDIA(国防情報局)の指揮下でアメリカ軍捕虜・行方不明者の捜索にあたった。
1975年にサイゴンが陥落すると、JCRC本部はハワイ ハーバーズポイントのNSA秘密施設972に移転。その後インドシナ地域を担当するJCRCは他の捜索機関と統合されていき、現在はハワイ州ヒッカム空軍基地に本部を置くJPAC(統合捕虜・不明者対策コマンド)となっている。




おまけ: ベトナム軍装ガイド制作進行中


 以前、アニメ風女性キャラクターが軍服を着ているイラストでベトナム軍装ガイドを制作している事をブログに載せてきましたが、その後気が変わり、男性の絵に描き直す事にしたので、時間がかかってしまいました。イラストさえ出来てしまえば、解説なんていつもブログで書いているのと大差ないので、完成まで大してかからないはずです。多分。
 残念ながら、これまで日本のベトナム戦争ヒストリカルにおいて、<フィクションではなく現実の>ベトナム共和国軍への理解度は非常に低いものだったと言わざるを得ない為、今後少しでも正しい情報が普及する事を祈って、イベントで最も需要があると思われる1968~1969年頃の軍装については無料公開しようと考えています。
 なお有料版では、仏領インドシナ成立後、初めてベトナムに国軍が創設された1948年から、サイゴン政府が消滅する1975年までの約30年分の各部隊の軍装を紹介する事が最終的な目標です。なのでこの軍装ガイドのタイトルは『南ベトナム』ではなく、『ベトナム』軍装ガイドなのです。
  


2017年12月23日

リプロネームテープと軍人身分証明書

【お知らせ】

先日のチャリティーパーティーの詳細を私の別ブログに投稿いたしました。よろしければご覧ください。

ベトナムウォッチ 『良心の囚人に捧げるクリスマス・チャリティー』 

もし、これら現代ベトナムの社会問題について関心をお持ちの方が居られましたら、コメント欄にその旨と連絡先をご記入いただければ、こちらからご連絡さし上げます。(そのコメントは公開しません)

ちなみに、僕と面識のない方には誤解を与えているかも知れませんが、僕自身は自分の趣味とこの活動は別物と考えているので、ミリタリー趣味の場でこういった活動に誘う事はありませんので、どこかで会っても逃げないで下さい(笑)

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外注刺繍ネームテープ完成

友人たちから注文を募って刺繍屋さんに制作していただきました。



ありがたい事に刺繍屋さんは持ち込み無料なので、これまで服を改造する度に貯め込んできた各種リプロ軍服の端切れから生地を切り出し、それに刺繍していただきました。


工賃は枚数が多い方が割安になるので、僕は思い切って15枚注文。そんなに付ける服持ってないけど、今後欲しくなった時にこんなに安くは作れないので、この機会に一生分作っちゃいました。それに友人たちの注文分も加えて、計37枚作ってもらいました。
注文する際、お店側に分かり易いよう「サバゲーで使う軍服の名札です」と説明しましたが、刺繍する名前は日本でも欧米風でもない謎のローマ字の羅列なので、不思議がられたと思います(笑)


自家製軍人身分証明書

サイゴンに住んでる友達が僕の身分証を作ってくれました。


ただ実物画像をプリントアウトしたのではなく、印字は全て僕の指定した内容にし、写真も別でプリントしたものを貼り付けてくれています
ただし、階級は下士(Hạ sĩ =伍長)にしてって言ったのに、友人は「君は士官候補生のコスプレしたんだから、今後は将校ね」と言って勝手に少尉(Thiếu úy)にされました。いや、遊びとは言え、本物の将校さん達と付き合いのある身としては、僕みたいな外人が勝手に将校の階級名乗るのは宜しくないというか、今まで気を遣って避けてたんだよねぇ。
なお、裏面の誕生日や両親の名前は実名(漢字をクォックグー表記したもの)なので載せないでおきます。友人曰く、漢字を直にクォックグーに変換した名前は、実際にホア族(在越華人)で使われているそうなので、きっと君のご両親はチョロンのホア族だねと言われました(笑)

なおベトナム共和国軍の軍人身分証明書には少なくともテンプレート番号『QĐ-849』と『QĐ-849A』2種類のタイプが確認できまして、今回作ってもらったのはその中のQĐ-849になります。


シンプルなデザインのQĐ-849
表面左下に記載されているように、このテンプレートの制定は1966年8月のようです。
問題はいつまで使われていたのかという点ですが、それを説明する資料にはまだ出合えていないません。
ネットで実物画像を集めた限りでは、1972年発行まで確認できました。

偽造防止が施された改良型の『QĐ-849A
こちらはテンプレート制定年が印字されていませんが、同じくネットにある実物画像を観察した限りでは、1973年以降に発行されたものしか見つかりませんでした。
これは上記のQĐ-849が1972年まで確認できた事と辻褄があっており、軍人身分証のテンプレートは1972~1973年頃にQĐ-849Aへと切り替わったと考えていいかもしれません。

ところで、QĐ-849は1966年制定と書きましたが、当然、じゃあそれ以前の身分証は何だ?となりますよね。
実は、僕もよく分かりません。1972年以降なら、戦況の悪化から徴兵しまくったために証明書発行が間に合わず、軍人身分証に代わる簡易な『現役証明書(QĐ-750FおよびQĐ-750G/V)』も使われていたようですが、逆に1966年以前のものはなかなか見つかりません。
書類関係はネットで画像集めるだけで、本格的に研究した事はないので、もし情報をお持ちの方がいらっしゃれば、教えて頂けると幸いです。
  


2017年11月30日

ベトナム共和国軍 地上戦闘部隊の構成

 今までベトナム共和国軍の部隊構成については、それぞれの部隊ごとに記事にしてきましたが、それだけでは全体像が分かりにくかったので、地上戦闘部隊の構成を概念図にまとめてみました。
 部隊の構成は年代と共に刻々と変化していますが、今回はまず、資料が豊富だったテト攻勢の最中の1968年前半と、軍の規模が最大となった1974年の二つの年代をまとめました。

※2017年12月1日訂正

【1968年】

【1974年】


各部隊の詳細については過去記事をご参照ください。

正規部隊および統合予備部隊一覧
http://ichiban.militaryblog.jp/e813649.html

正規部隊および統合予備部隊の歴代司令官

装甲騎兵部隊

特殊部隊キャンプ一覧

CIDG部隊の構成

MSF(マイクフォース)の構成

空挺コマンド部隊の歴史

技術局(NKT)の構成(1)

技術局(NKT)の構成(2)

地方軍・義勇軍の歴史

地方軍・義勇軍の構成(1)

地方軍・義勇軍の構成(2)

LĐNN(フロッグマン部隊)の歴史

国家警察野戦警察隊

フェニックス・プログラムとPRU

おまけ

長年正体不明だったパッチについて、ある研究者の方から情報を頂いたのは良いけど、また新たな謎が浮かんでしまいました。


(画像: David Levesque氏コレクション)

 Richard Woods氏によると、このパッチは元々"第135地方軍連隊(135th Territorial Forces Regiment/ Trung Doan 135 Dia Phuong)"のものであり、後にこの部隊は地方軍から正規部隊に昇格し、第52歩兵連隊(第10/第18歩兵師団隷下)になったとの事です。他の資料にもこのパッチは第52歩兵連隊の初期の部隊章と紹介されているらしいので、恐らくその説明で正しいでしょう。
 しかし問題は第135地方軍「連隊」という部隊名。僕の知る限り、1960年代まで地方軍の編成単位は最大でも「中隊」であり、1970年代に入ってようやく大隊・群編成になるはずなので、地方軍の連隊なんて初めて聞きました。
 Woods氏が言う"連隊(Regiment/ Trung Doan)"とは、単に"中隊(Company / Đại Đội)"の記憶違いなのか・・・?しかしそうだとすると、たかだか100名程度の地方軍中隊が、数千名からなる陸軍の歩兵連隊に昇格する理由が分かりません。
 考えられるのは、その第135地方軍連隊は例外的に他の地方軍の一般的な編成と異なり、本当に連隊(後の地方軍群に相当?)編成だったという可能性です。それならば色々と辻褄が合うのですが、まだ資料による裏付けが得られていないので、改めて地方部隊関係の資料をあさってみようと思います。
  


2017年07月30日

続・マイクフォースのパッチについて



過去記事『マイクフォースのパッチについて』の後、いろいろ新たな発見があったので、内容を改訂したものをここに掲載します。


各パッチの使用例

【黒い鳥】

I Corps MSFのみで確認

I Corps MSF (1st MSFC 第113MSF中隊)



【ドラゴン】

II Corps MSFで確認
IV Corps MSFでも使用という情報あり

▲II Corps MSF (2nd MSFC)

IV Corps MSFでの使用例については写真では確認できなかったものの、
元グリーンベレー隊員のRichard Hayse氏より、
「ドラゴンの部隊章は最初IV Corrps MSFで採用され、
後にII Corrpsに受け継がれた」
と指摘を頂きました。



【ジョリーロジャー】

II, III, IV Corps MSFの三部隊で確認

 
▲II Corps MSF (USSF B-20分遣隊)

▲III Corps MSF (3th / 36th MSFC )

 
▲IV Corps MSF (4th / 40th MSFC エアボート中隊)



柳葉刀と稲妻】

IIIV Corps MSFおよび5th MSFの三部隊で確認

▲II Corps MSF (2nd / 20th MSFC 第4MSF大隊)

▲IV Corps MSF (4th / 40th MSFC エアボート中隊)

▲5th MSF (5th MSFC)
※5th MSFではベレー章としての使用のみ確認



【柳葉刀・稲妻・石弓】

5th MSFのみで確認

▲5th MSF (5th MSFC)


以上の使用例を踏まえた上で、全国で組織されたMSF(マイクフォース)の組織およびパッチの使われ方を図にまとめると以下になります。

▲クリックで拡大


このように、長年マニアの間で信じられてきた、各部隊章は「C-1~C-5/第1~第5マイクフォースに対応している」という説は誤りであったことが分かります。
通常、一つのデザインの部隊章は一つまたはその直系の部隊でのみ使用されるものですが、なぜマイクフォースでだけこのように複雑な使われ方をされていたのでしょうか?
その理由について、個々の事例については当事者に確認するまで断言はできませんが、一般論として、『部隊の異動』が大きく関係していると僕は考えています。
そもそもマイクフォースは最初から予定されて全国で一斉に編成された部隊ではありませんでした。1961年以降、CIDG計画によって全国に数十の特殊部隊キャンプが建設され、それぞれのキャンプに、後にキャンプストライクフォース(CSF)と呼ばれるCIDG歩兵部隊が編成されます。このCSFは国境地帯の防衛、パトロールを主任務とする守備部隊であり、移動手段は主に徒歩もしくはトラックしかありませんでした。
その後、CSFの一部にヘリボーンやエアボーンといった専門技能を教育し、攻撃任務に適した機動部隊として1964年に第2戦術地区に誕生したのが"イーグルフライト小隊"です。このコンセプトはMACVに高く評価され、以後全国に順次MSF(マイクフォース)が編成されていきます。
そして当時、各CSF、MSFはアドバイザーである米軍グリーンベレーおよび豪軍AATTV分遣隊の指揮下(※)にあり、部隊の編成や部隊章は彼等アドバイザーが決めていました。またこの時期、これら分遣隊は一般部隊と比べてはるかに人数が少ないため、彼等は一つのキャンプを構築し部隊を訓練し終えると、また次のキャンプに異動して同じように部隊を組織するとう作業を繰り返していました。また、編成されたMSF部隊自体も、配置換えで移動する事が度々ありました。
この際、異動する先は同じ省や戦術地区内とは限らず、要請に応じて別の戦術地区に移動する事もよくあります。そしておそらく彼等は、先に制定したMSFの部隊章を、異動した先でも使っていたのではないかと私は推測しています。つまり、これら部隊章は第1~第5MSFという分類で制定したものではなく、彼等を指導したアドバイザー分遣隊や、他の地域から異動してきたMSF部隊によって、MSF大隊・中隊毎にもたらされた考えれば、いくつもの部隊章が複数の軍管区にまたがって使われていた事にも説明がつくかと思います。

※形式的な指揮権は当初からベトナム共和国軍LLDBにあったものの、ベトナマイゼーションが開始される1968年までは、作戦計画や予算の面では、CIDG部隊の運営はほとんど米豪軍に依存している状態でした。


また繰り返しになりますが、そもそもマイクフォースをC-1~C-5と呼ぶ事自体が間違いだと考えます。C-1~C-5の"C"は"Corps (軍団)"の略ではなく、米軍グリーンベレーおよびベトナム軍LLDBの"Cチーム"を意味していました。実際にはCチームの下位にあるBチームのうちマイクフォースを担当しているのは各Cチームにつき1チーム(つまり全国で5チーム)のみで、他の数十のBチームはCSFや訓練センターなどの、マイクフォース以外の部隊を担当していました。

関連記事



おまけ: MSFCの名称について

上の図のように、第1~第4軍団MFSおよび第5MSFにはそれぞれ1つのMSFC(連隊規模のMSF司令部)が設置されており、米豪越特殊部隊の指揮下で作戦を遂行していました。しかしそのMSFCの名称については、以前から不思議に思っていた事がありました。
と言うのも、各MSFCはベトナマイゼーションの開始に伴い1968年5月に改編され、それぞれグリーンベレー分遣隊の部隊番号を受け継いだ部隊番号に改称された事がMobile Strike Forces in Vietnam 1966-70など複数の資料に記載されています。
しかし、どうもこの改称については米軍内でも徹底されていなかった、もしくは改称された事すら認識されていなかったように見受けられます。

例えばマイクフォース最精鋭部隊として知られる第5MSF(ニャチャン・マイクフォース)の"5th MSFC"は、"55th MSFC"に改称されました。

このように、司令部の看板は確実に55th MSFCに変更されています。

しかしその一方で、現場のアメリカ兵が書いたFSBの看板には、改称から2年以上たった1970年以降も"5th MSFC"と記載されています。

また、現在のアメリカ陸軍の公式サイトや、退役軍人協会の公式サイトにも、"55th"ではなく"5th MSFC"と記載されています。
同様に1st~4th MSFCもそれぞれ16th, 20th, 36th, 40th MSFCに改称されているのですが、多くの資料に改称前の部隊名のまま記載されています。
恐らくこれは、MSFCが改称された後も全体の部隊名としては1st~5th MSFが使用され続けた事から当時から"MSF"と"MSFC"が混同されており、改称後のMSFCの名称が使われる機会が少なかった為に生じた誤解ではないかと思っています。  


2017年06月05日

QC/軍警隊


※2017年6月6日訂正・追記

もう3年も前の記事ですが、ヘルメットと腕章の訂正・補足です。
ベトナム共和国軍の"Quân Cảnh"について、当時分からなかった事が分かってきたので、新たに記事にします。

その前に、僕は今まで慣例通りQuân Cảnhを"憲兵"と日本語訳してきましたが、ちょっと表記を改めようと思います。
実はベトナム共和国には1950年代に、フランス国家憲兵隊(Gendarmerie nationale)に倣った軍事警察組織"ベトナム国家憲兵隊(Hiến Binh Quốc Gia)"が存在しており、その"Hiến Binh(HB)"の漢字表記は"憲兵"でした。一方、国家憲兵隊の下部組織として1955年に発足し、1961年に共和国軍内の独立した兵科に昇格した"Quân Cảnh(QC)"の漢字表記は"軍警"です。
国家憲兵隊が一般人も対象とした犯罪捜査を行う司法機関だったのに対し、QCはあくまで軍内部の秩序維持を第一義とした組織であり、その性格は全く異なるものでした。
従って国家憲兵QCを混同するのはよろしくないため、今後はQCを"軍警"と表記していこうと思います。
(ただし軍警隊には1966年に犯罪捜査を行う軍警司法中隊が発足し、過去の国家憲兵としての役割も復活させます)


以下、現在手元にある情報をまとめた軍警科(Binh chủng Quân cảnh)部隊の一覧です。


出典:
Gia Đình Mũ Đỏ Việt Nam "Huy hiệu Binh Chủng Quân Cảnh"
その他ベテランの証言より


当時の軍警隊の写真からはXIやXIVなどのヘルメットマーキングが見てとれるので、少なくとも軍警大隊は第14大隊まで存在しているだろうと予測はしていましたが、それらが具体的にどこを所管している部隊なのかは長年さっぱり分からないままでした。それがようやく分かってホッとしています。

▲フーコック島の共産軍捕虜収容所(Trại giam TBCS / Phú Quốc)を運営する第14軍警大隊


ちなみに現在の社会主義ベトナムでは、これらの捕虜収容所では軍警によって日々残虐な拷問が行われていたと宣伝され、歴史資料館にはご丁寧に実寸ジオラマまで展示されていますが・・・



世界中のメディアが特ダネ求めてスキャンダルを嗅ぎまわり、赤十字国際委員会も常駐してジュネーヴ条約履行を監視している中で、どうやってそんな事が行えたんですかねぇ?


むしろ西側諸国で反戦(と言う名の反米・親共)運動が盛り上がる中で、ベトナム共和国政府は捕虜に対しこれでもかと医療、教育、職業訓練、クリエーションなどの手厚い待遇を施し、それを国際社会に示して自らの正当性をアピールするのと同時に、共産軍兵士の戦意を削ぐ心理戦術として活用していました。



 


写真: flicker "Trại tù binh Phú Quốc 1973", By: manhhai 

もちろん、これらの写真だけでは捕虜虐待が無かった証拠にはなりませんが、少なくとも共和国軍政治戦総局が1963年より実施している『チューホイ(Chiêu Hồi)計画』では、実際にこれら厚遇を受けた多数の捕虜が政府側に転向し、ラジオ放送や伝単などを通じてベトコン側に投降を呼びかけた事で、1971年の時点で累計17万人以上のベトコン兵士が脱走・投降してサイゴン政府側に寝返っています。
参照: Psywarrior, "THE CHIEU HOI PROGRAM OF VIETNAM", by SGM Herbert A. Friedman (Ret.)

戦わずして敵兵力を十数個師団分削る事が出来る訳ですから、こんなにコストパフォーマンスの高い戦術は他にはなく、ベトナム共和国政府・軍はこの政策を本気で行っていた事は確かだと考えます。
  


2017年04月12日

ベトナム海軍LĐNNとSEAL

※2017年4月14日追記
※2019年1月30日更新
※2021年4月17日更新
※2021年5月22日更新

先日のベトベトで「LĐNNを盛り上げよう!」というお話を頂いたのですが、僕自身まだちゃんと分かっていない部分も多かったので、勉強がてらLĐNNとSEALの歴史について概要をまとめてみました。超カッコいい部隊なので興味を持ってくれる人が増えたらいいなぁ。

第1期LĐNN:UDT部隊創設とシーコマンドへの参加

 1960年、ベトナム海軍はUDT(水中破壊チーム)の創設を計画した。まず海軍の分遣隊が台湾で、アメリカ海軍によるUDT訓練を受講した。1961年7月、海軍は『フロッグマン部隊(Liên Đội Người Nhái, 以下LĐNN)』を創設し、台湾での訓練を終えた海軍士官1名、水兵7名がLĐNNの幹部となった。さらに国内で選抜された48名の海軍将兵が集結し、海難救助、水中障害物除去、桟橋の防御、水陸特殊作戦を任務とする第1期LĐNNが始動した。

▲創設当時のベトナム海軍フロッグマン部隊((LĐNN)部隊章

▲第1期LĐNN隊員の訓練[1962年5月 ベトナム]

 LĐNN創設から間もなく、ジエム総統直属の特殊工作機関『総統府連絡部(Sở Liên lạc Phủ Tổng thống)』の傘下にも、水陸作戦部隊『シーコマンド=特海隊(Biệt Hải)』が組織された。シーコマンドの任務は北ベトナムその他国外における越境特殊工作であり、海軍だけでなく陸軍・海兵隊の水陸戦チームも統括する統合任務部隊であった。
 1962年2月より南ベトナムに展開を開始したアメリカ海軍SEAL機動訓練チームは、翌3月より最初のシーコマンド幹部育成のための6か月間の訓練コースを開始し、空挺降下、偵察、ゲリラ戦についての教育が行われた。そして10月までに62名のシーコマンド隊員がSEAL訓練コースを修了した。
 なお1963年11月の軍事クーデターでジエム政権が崩壊すると、総統府連絡部は解体され、シーコマンドは新たに設立されたベトナム共和国軍参謀部直属の特殊作戦機関『開拓部(Sở Khai thác, 後のNKT)沿岸警備部(SPVDH)』の指揮下に移管される。
 1964年1月、士官1名と41名の隊員から成るLĐNNチームが、海岸からの侵入を試みる共産勢力に対抗する特殊作戦を開始。『シードッグ作戦(Operation Sea Dog)』において、フィリピンのイロイロ島(パナイ島)で共産軍の物資を輸送するジャンク船6隻を爆破した。
 1964年2月には、北ベトナムへの圧力を目的としたMACV-SOG主導の秘密作戦OP-34Aが開始された。これに伴い、第1期LĐNNは国外の目標への攻撃に参加するため、海軍の指揮下を離れSKT沿岸警備のシーコマンド部隊に編入された。(OP-34Aおよびシーコマンドについては過去記事『NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[2]』参照)

 
▲シーコマンド部隊章(左)、海軍LĐNNシーコマンド中隊(右)

▲SKTシーコマンド編入後、初代LĐNN隊長ラム・ニュット・ニン海軍大尉(写真②)はシーコマンド総隊長に任命された。
[1964年 ダナンSPVDH本部]


第2期LĐNN:UDT部隊の復活

 OP-34Aによって第1期LĐNN隊員のほとんどがシーコマンドに移動したことで、海軍にはフロッグマンが存在しなくなった。この穴を埋めるため、1964年7月には第2期LĐNN隊員の訓練に60名の訓練生が選抜され、9月からニャチャンにおいて訓練が開始された。この第2期LĐNN訓練コースは、『地獄の週』を含む16週間にわたって行われた。地獄の週では海上漕艇185km、長距離走120km、ボート担ぎ走33km、遠泳16kmという過酷な体力訓練が行われた。また訓練期間中、訓練生たちはニャチャンやビンズオン省において、実際に沈没した船や航空機を海中からの引き上げる作業を経験した。そして1965年1月に33名が訓練を修了し、彼ら第2期LĐNNはベトナム海軍作戦本部副部長の直接指揮下に置かれブンタウに駐屯した。
 1965年には、LĐNNは南ベトナム領内における全ての水陸特殊作戦の権限を与えられた。一方、北ベトナムを含む国外での水陸作戦はSKT沿岸警備部(SPVDH)の管轄となった。

▲第2期LĐNN訓練の修了式[1965年1月 ニャチャン海軍訓練センター]


第3期LĐNN:SEAL部隊への発展

 1960年代中盤までに、アメリカ海軍SEALチーム1および2は、越境工作部隊シーコマンドの訓練に加えて、南ベトナム領内における定期的な戦闘任務への参加を始めていた。彼らは強襲、水陸偵察、ベトコン組織破壊工作の専門家であり、国内での水陸作戦を統括するLĐNNはSEALとの協力関係を深めていった。間もなくSEALチームが南ベトナム領内で行う通常戦術作戦にはベトナム海軍LĐNN隊員も参加する事となり、LĐNNではSEAL派遣要員の選抜が開始された。1966年11月には少人数のLĐNN幹部がフィリピンのスービック湾に派遣され、アメリカ海軍にってより高度なSEAL訓練を施された。
 1967年にはSEAL派遣要員を育成する第3期LĐNN訓練が開始され、400名を超える志願者がブンタウで訓練に参加した。この第3期LĐNN訓練は、それまでUDT訓練が主だったLĐNN訓練コースとは異なり、空挺降下作戦を含む本格的なSEAL訓練が初めて大規模に実施された回であった。1年後、訓練コースを卒業した訓練生は400名中わずか27名と、脱落率94%の過酷な訓練であった。この第3期LĐNN訓練を終えた27名の隊員は、LĐNN初の本格的なSEALチーム『海撃隊(Hải Kích)』として組織化された。海撃隊の作戦範囲は主に南ベトナム国内であったが、カンボジア領内へ潜入する場合もあり、またパラシュート降下による越境作戦も存在した
 これ以降、LĐNN海撃隊はアメリカ海軍のSEALチームに人員を供給し、緊密な協力関係の下で作戦を遂行していく事となる。SEALにおけるベトナム人の役割は単なる通訳だけでなく、一般市民と敵兵を見分けて危険を察知するというベトナムで生まれ育った者にしかできない文化面での知識を持っている事も彼らがSEALに必要とされた大きな理由であった。またフェニックス計画などで情報を聞き出すためベトコン容疑者を逮捕する作戦では、SEALのアメリカ兵が対象を無理に拘束しようとすると必死に抵抗され、やむを得ず射殺してしまい任務失敗となるケースもあったが、同じベトナム人であれば言葉で脅す事でそれを防ぐ事が出来た。

LĐNN海撃隊(Hải Kích)=ベトナム海軍SEALチーム部隊章
画像: Dealing Time "Lieutenant Mike Slattery" 

アメリカ海軍SEALチーム1ヴィクター小隊所属のベトナム海軍LĐNN海撃隊員[1960年代末 ロンフー?]

▲SEALチーム2 第9小隊所属のLĐNN海撃隊員[1969年ベトナム]

▲カムラン移転後のLĐNN訓練キャンプ [1970年カムラン]
第3期LĐNN訓練が終了した直後の1968年2月、共産軍はテト攻勢を開始しブンタウでの訓練が困難となったことから、ほとんどのLĐNN部隊はカムラン湾に移動し、第4期以降のLĐNN訓練はカムランで実施された。

▲ベトナム海軍LĐNNの部隊章 [Military Advisor 2016年9月号より]
1. LĐNN 1stデザイン
2. LĐNN 2ndデザイン
3. 港湾警備チーム (Phòng thủ hải cảng) 1stデザイン
4. 港湾警備チーム (Phòng thủ hải cảng) 2ndデザイン
5. 爆発物処理 / EODチーム (Tháo gỡ)
6. 水中爆破 / UDTチーム (Thủy công)
7. 海撃/ SEALチーム (Hải Kích)
8. 爆発物処理 / EODチーム (Tháo gỡ)
9. サルベージ船隊 (Giang-Đoàn Trục Vớt)
10. バリエーション
※翼のデザインはSEAL訓練が始まった1967年以降に制定されたものと思われる。


ベトナミゼーション

 1971年、アメリカ軍のベトナム撤退に伴うベトナム共和国政府の権限移行(ベトナミゼーション)の影響は海軍LĐNNにも及んでいた。それまでアメリカ海軍SEALが担っていた作戦のほとんどがベトナム海軍LĐNNの管轄に移行され、作戦規模は大幅に拡大した。これに伴い、ベトナム海軍フロッグマン部隊(Liên Đội Người Nhái)は、『フロッグマン群(Liên Đoàn Người Nhái*) 』へと発展・拡大した。拡大したLĐNNは海撃隊(SEALチーム)、水中爆破チーム、爆発物処理チーム、支援舟艇チームから成り、司令部は引き続きサイゴンに置かれた。略称は変わらずLĐNN
 1971年の時点で、LĐNN海撃隊は12~18名単位の分遣隊に分かれ、ホーアン、ダナン北部、フエ、ティンアンの前進基地に駐屯し、南ベトナム国内でのベトコン組織破壊または強襲作戦に従事していた。
 1972年のイースター攻勢において、南ベトナム最北端の城塞都市クアンチが北ベトナム軍によって占領されると、LĐNN海撃隊はクアンチ奪還作戦部隊の一部としてフエに移動した。その後、壮絶な戦闘の末にクアンチが奪還されると、海撃隊の一部はベトコン組織破壊作戦に復帰しクアンガイに移動した。


バット21ブラボーの救出

 イースター攻勢の最中の1972年4月2日、アメリカ空軍のEB-66電子戦機2機が北ベトナム軍の対空ミサイルによって撃墜され、クアンチ省北部に墜落した。EB-66のナビゲーター アイセル・ハンブルトン中佐(コールサイン"バット21ブラボー")は救難無線によって生存が確認されたが、墜落地点は前線から4km北側の敵支配地域であり、そこには南侵した約3万人の北ベトナム軍が展開していた。ハンブルトン中佐は対空ミサイル対抗戦術の専門家であったことから、ミサイル技術の情報が敵側に渡るのを防ぐため、その日のうちに航空機による救難捜索(SAR)が開始された。
 しかし北ベトナム軍の対空ミサイル網は非常に強力であり、SAR機に多数の被害が発生した。在ベトナム米軍司令クレイトン・エイブラムス将軍は、いかなる犠牲を払おうともミサイル技術漏洩を防ぐつもりであったが、捜索開始から5日経ってもハンブルトン中佐は発見されず、最終的に16機のSAR機が撃墜され、14名が戦死または行方不明となる結果に終わった。また誤爆を防ぐため周辺空域での空爆が禁止されたため、クアンチで戦うベトナム共和国軍部隊への航空支援が滞り、地上戦でも多数の損害が出ていた。
 そこでMACV-SOG統合救難センター(JPRC)は地上からの救出作戦を立案し、アメリカ海軍SEALのトーマス・ノリス海軍中尉がその任に当たった。ノリス中尉はこの時点でベトナムに残っていた12名のSEAL隊員の一人であり、ノリスは救出作戦のメンバーとしてNKT沿岸警備部シーコマンド部隊から5名の海軍LĐNN隊員を指名した。そしてその中の一人、グエン・バン・キェット海軍伍長と二人で漁師に変装し、漁船に偽装したサンパンで川を遡って敵支配地域に潜入し、ハンブルトン中佐および捜索中に撃墜されたOV-10のパイロット マーク・クラーク大尉の捜索を行った。
 その結果、二人はハンブルトン中佐・クラーク大尉の両名を発見し、敵の追撃をなんとか振り切り脱出する事に成功した。この危険極まる救出劇はベトナムにおけるSEAL最後の作戦として称えられ、ノリス中尉はアメリカ軍最高位の名誉勲章(Medal of Honor)を、キェット伍長は名誉勲章に次ぐアメリカ海軍最高位の海軍十字章(Navy Cross)を受章した。

シーコマンド/LĐNNグエン・バン・キェット伍長(左)とアメリカ海軍SEALトーマス・ノリス中尉(右) [1972年]



ホンサ諸島の戦い

 1972年後半、戦闘任務の終了後もLĐNNへのアドバイザー任務を継続していたアメリカ海軍SEALが、ついにベトナムから完全に撤退した。LĐNNはSEALアドバイザーが管理していたカムランのSEAL訓練施設を引き継ぎ、LĐNN / SEAL訓練を継続したが、SEAL訓練は非常に脱落率の高い過酷なものであったため、海撃隊は常に人員不足に悩まされていた。この時点でLĐNN海撃隊の人員は200名強であったが、1971年にアメリカ本土でSEAL訓練を受けたLĐNN士官候補生21名のうち、訓練を修了して海撃隊に入隊できた者は10名しかいなかった。さらに正規軍である北ベトナム軍の南侵が激化し、戦況は悪化の一途を辿っていたことから、LĐNNは戦力を確保するため隊員の訓練期間を半分に短縮し、特に空挺降下訓練については1/5にまで削減された。
 1973年にパリ協定が結ばれベトナム戦争が停戦すると、全国に展開していたLĐNN海撃隊は作戦を終了しサイゴンの海軍本部に戻った。また対外工作機関であるNKTの沿岸警備部は解散され、シーコマンド所属のLĐNN隊員たちは原隊に復帰した。しかし停戦から間もなく、北ベトナム軍はパリ協定を無視して南進を再開し、ベトナムは再び戦火に見舞われた。
 さらに1950年代から続いていた南シナ海のホンサ諸島(西沙諸島)の領有権をめぐるベトナムと中国の対立も激化し、ベトナム共和国政府はホンサ諸島の領有を主張するため、島を占領すべく民兵の守備隊を1973年12月末に派遣した。中国政府はこれに対抗して海軍の陸戦部隊を島に上陸させた。ベトナム海軍は中国軍を撃退するため、1974年1月17日にLĐNN海撃隊をフーラム島(永興島)の西岸に潜入させたが、すでに中国海軍地上部隊は島から撤退しており、海撃隊は難なく島を占領した。
 しかし上陸から二日後の1月19日、中国海軍は突如フーラム島に砲撃を加えると共に陸戦隊を上陸させ、海撃隊との地上戦に発展した。この戦いでLĐNN海撃隊には3名の死者が発生し、島から撤退した。さらに周辺の海域で行われた海軍艦艇同士の海戦では、双方の艦艇が撃沈され、ベトナム側には50名を超える死者が出た。

※なおKen Conboy氏はこの戦いでのLĐNN隊員の死者は2名で、残りは捕虜になったとしているが、元LĐNNのキェット伍長は、この時捕虜になった者はいなかったと指摘している



サイゴン陥落

 1975年4月末までに、LĐNN海撃隊は激しい戦闘の末に人員が50名まで減少していた。4月末に共産軍が首都サイゴンに迫ると、LĐNNの残存兵力は首都防衛のためサイゴン南西のロンアン省に派遣された。この時点でLĐNNにはSEAL訓練を受講中の訓練生が200名居たが、彼らはサイゴンのLĐNN本部に温存された。
 首都陥落が差し迫った4月29日の夕方、LĐNN隊員の家族らは海軍の手引きで小型のUDTボートに分乗し、サイゴンから脱出した。その数時間後、隊員の家族らは国際水域でアメリカ海軍第7艦隊に救助された。



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SEALsに加わったLĐNN以外のベトナム人

PRU (省探察隊)

 米海軍SEALがフェニックス計画におけるベトコンインフラ破壊工作に出動する際には、LĐNN隊員に加えて、同じくフェニックス計画を実施している現地PRUの人員がSEALチームに加わる事もあった。PRUは米国CIAによって組織されたフェニックス計画専従の準軍事組織であり、隊員は各省の住民で構成された。
 フェニックス計画では、南ベトナム領内に一般人を装って潜伏する有力な共産ゲリラ構成員・支援者を特定・逮捕ないし暗殺する事が目的であり、その為には事前に目標を特定する捜査・情報収集が何よりも重要であった。その点において、地元出身者で構成されたPRUはベトナム政府の国家警察や米軍情報部をも凌ぐ非常に高い情報収集能力を有し、フェニックス計画による南ベトナム領内のベトコン組織壊滅という成果の大半はPRUの活動によってもたらされた。

SEALチーム2 第9小隊とPRU隊員


SEAL戦闘通訳員 グエン・ホアン・ミン


 SEAL小隊に所属したベトナム人の中には、LĐNN隊員以外の者も居た。特にSEAL隊員たちから尊敬を集めたのがグエン・ホアン・ミンであった。ミンは1959年から1964年までベトナム海軍で勤務した後、1966年にアメリカ海軍河川哨戒艇部隊に通訳としてスカウトされた。その後ミンは1971年まで5年間、ミトー基地のSEALチーム2 第7小隊および第10小隊戦闘通訳者として勤務した。
 ミンは通訳、ポイントマン、時には潜入諜報員としてSEALの作戦に貢献した。またミンの妻も危険を顧みずメコンデルタ地域におけるSEALの作戦に協力し、ミン夫妻はベトナム戦争時代のSEAL最大のベトナム人功労者としてSEAL隊員たちに記憶されている。


▲ミンが所属したSEALチーム2 第10小隊 [1960年代末~1971年頃 ミトー]
上段左から5番目の弾薬ベストを着た人物がミン。ほかのベトナム人はLĐNN隊員

 1975年の敗戦後、ミンは共産軍に拘束され強制収容所に28か月間投獄された。ミン夫妻はその後45年間に渡って米農家や靴磨きをしながら貧しい生活を送る事となる。
 時は流れて2002年、海軍を退役した元SEAL隊員のジョン・ドノバンは、一冊の本の中に、かつての戦友であるグエン・ホアン・ミンの名前を見つけ、ミンがまだ生きている事を知った。ドノバンはダラスのベトナム難民関係者に連絡を取り、6年後の2008年にミンを探すためベトナムのミトーを訪れた。そして数か月後、ドノバンとミンは40年ぶりの再会を果たした。
 ミン一家の苦境を知ったドノバンは、かつてのSEALの戦友たちに連絡を取り、ミン一家のアメリカ移住を支援する基金を立ち上げた。その後、ミンへの募金は1万5000ドル以上集まったが、アメリカ国務省はミンの移民申請を却下した。その為基金は、ベトナムに住むミンの子や孫の家を補修し、生活環境の改善に当てらてた。2013年、ミンはSEALアソシエーションの招待を受けて初めてアメリカを訪れ、SEALミュージアムでかつての戦友たちと再会を果たした。

ミンのSEALへの貢献と、戦友たちとの再会を伝えるSEALチーム2アソシエーション制作のドキュメンタリー"The Why of Minh"


[参考資料]
Military Advisor: Frog-men of the repblic of Vietnam, by Clement kelley 
  


2017年02月04日

最近やってたこと

足温器に包まり、椎名恵のLOVE IS ALLをリピートで聴きながらやってた事。




国旗とか



歴代指揮官リストとか

出典: Command histories and historical sketches of RVNAF divisions, アメリカ合衆国国務省

第1軍団
(1957年5月11日付の参謀部指令『2,145/TTM/1/1/MK』に
基づき1957年6月1日創隊)
中将 Thai Quang Hoang* 11/23/56 10/15/57
中将 Tran Van Don 10/15/57 12/07/62
少将 Le Van Nghiem 12/07/62 08/21/63
少将 Do Cao Tri 08/21/63 12/11/63
中将 Nguyen
Khanh 12/11/63 01/30/64
少将 Ton That Xung 01/30/64 11/14/64
中将 Nguyen Chanh Thi 11/14/64 03/14/66
少将 Nguyen Van Chuan 03/14/66 04/09/66
中将 Ton That Dinh 04/09/66 05/15/66
少将 Huynh Van Cao 05/15/66 05/30/66
中将 Hoang Xuan Lam 05/30/66 05/03/72
中将 Ngo Quang Truong 05/30/72
* 日付は第1軍管区の前身である旧第2軍管区司令への就任日






第2軍団
(1957年10月1日創隊)
少将 Tran Ngoc Tam 10/01/57 08/13/58
少将 Ton That Dinh 08/13/58 12/20/62
中将 Nguyen
Khanh 12/20/62 12/12/63
中将 Do Cao Tri 12/12/63 09/15/64
少将 Nguyen Huu Co 09/15/64 06/25/65
中将 Vinh
Loc 06/25/65 02/28/68
中将 Lu
Lan 02/25/68 09/28/70
中将 Ngo
Dzu 09/28/70 05/10/72
少将 Nguyen Van Toan 05/10/72
少将 Pham Van Phu 12/01/74 02/02/75






第3軍団
(1959年6月1日仮編成, 1960年5月20日正式創隊)
中将 Thai Quang Hoang 03/01/59 10/11/59
中将 Nguyen Ngoc Le 10/11/59 05/06/60
少将 Le Van Nghiem 05/06/60 12/07/62
少将 Ton That Dinh 12/07/62 01/05/64
中将 Tran Thien Khiem 01/05/64 02/02/64
少将 Lam Van Phat 02/02/64 04/04/64
中将 Tran Ngoc Tam 04/04/64 10/12/64
准将 Cao Van Vien 10/12/64 10/11/65
少将 Nguyen Bao Tri 10/11/65 06/09/66
中将 Le Nguyen Khang 06/09/66 08/05/68
中将 Do Cao Tri* 08/05/68 02/23/71
中将 Nguyen Van Minh 02/23/71 10/29/73
中将 Pham Quoc Thuan 10/29/73 10/23/74
中将 Du Quoc Dong 10/23/74 02/01/75
中将 Nguyen Van Toan 02/01/75 04/30/75
* 1971年2月23日ヘリコプター墜落により戦死






第4軍団
(1963年1月1日創隊)
少将 Huynh Van Cao* 01/01/63 11/04/63
少将 Nguyen Huu Co 11/04/63 03/04/64
少将 Duong Van Duc** 03/04/64 09/13/64
少将 Nguyen Van Thieu 09/15/64 01/20/65
中将 Dang Van Quang 01/20/65 11/23/66
少将 Nguyen Van Manh 11/23/66 02/29/68
中将 Nguyen Duc Thang 02/29/68 07/01/68
中将 Nguyen Viet Thanh*** 07/01/68 05/04/70
少将 Ngo
Dzu 05/04/70 08/24/70
中将 Ngo Quang Truong 08/24/70 05/04/72
少将 Nguyen Van Nghi 05/04/72
少将 Nguyen Khoa Nam 01/01/74 Suicide
* 1963年11月1日クーデターの直後に更迭
** 1964年9月13日クーデターを試み未遂に終わる
*** 1970年5月2日ヘリコプター墜落により戦死












第1歩兵師団
大佐 Le Van Nghiem 01/01/55 12/15/55
大佐 Nguyen
Khanh 12/15/55 08/14/57
大佐 Ton That Dinh 08/14/57 08/09/58
大佐 Nguyen Van Chuan 08/09/58 07/30/59
大佐 Ton That Xung 07/30/59 12/02/60
大佐 Nguyen Duc Thang 12/02/60 10/01/61
大佐 Nguyen Van Thieu 10/01/61 12/08/62
大佐 Do Cao Tri 12/08/62 12/12/63
大佐 Tran Thanh Phong 12/12/63 02/19/64
准将 Nguyen Chanh Thi 02/19/64 10/21/64
准将 Nguyen Van Chuan 10/21/64 03/14/66
准将 Phan Xuan Nhuan 03/14/66 06/18/66
少将 Ngo Quang Truong 06/18/66 08/23/70
少将 Pham Van Phu 08/23/70 11/12/72
准将 Le Van Thao 11/12/72 10/31/73
大佐 Nguyen Van Diem 10/31/73






第2歩兵師団
大佐 Ton That Dinh 01/01/55 11/02/56
中佐 Dang Van Son 11/22/56 06/14/57
中佐 Le Quang Luong 06/14/57 08/23/58
大佐 Duong Ngoc Lam 08/23/58 06/08/61
大佐 Lam Van Phat 06/08/61 06/18/63
大佐 Truong Van Chuong 06/18/63 01/30/64
准将 Ton That Xung 12/06/63 01/30/64
准将 Ngo
Dzu 01/30/64 07/29/64
大佐 Nguyen Thanh Sang 07/29/64 10/15/64
少将 Hoang Xuan Lam* 10/15/64 01/10/67
少将 Nguyen Van Toan 01/10/67 01/22/72
准将 Phan Hoa Hiep 01/22/72 08/27/72
准将 Tran Van Nhut 08/27/72 04/30/75
* 1966年5月30日より第1軍団指令兼任






第3歩兵師団
准将 Vu Van Giai** 10/01/71 05/03/72
少将 Nguyen Duy Hinh 06/09/72
准将 Vu Quang Giai 1973 04/30/75
** 1972年5月3日指揮官の任を解かれる






第5歩兵師団
大佐 Vong A Sang 03/01/53 10/25/56
大佐 Pham Van Dong 10/25/56 03/18/58
中佐 Nguyen Quang Thong 03/18/58 09/16/58
大佐 Ton That Xung 09/16/58 11/19/58
中佐 Dang Van Son 11/19/58 08/03/59
大佐 Nguyen Van Chuan 08/03/59 05/20/61
BG Tran Ngoc Tam 05/20/61 10/16/61
大佐 Nguyen Duc Thang 10/16/61 12/20/62
大佐 Nguyen Van Thieu 12/20/62 02/02/64
准将 Dang Thanh Liem 02/02/64 06/05/64
准将 Cao Hao Hon 06/05/64 10/21/64
准将 Tran Thanh Phong 10/21/64 07/19/65
少将 Pham Quoc Thuan 07/19/65 08/15/69
少将 Nguyen Van Hieu 08/15/69 06/14/71
准将 Le Van Hung 06/14/71 09/04/72
准将 Tran Quoc Lich 09/04/72 11/07/73
大佐 Le Nguyen Vy 11/07/73 suicide






第7歩兵師団
中佐 Nguyen Huu Co 01/01/55 06/15/55
大佐 Ton That Xung 06/15/55 04/27/57
中佐 Ngo
Dzu 04/27/57 03/17/58
大佐 Tran Thien Khiem 04/17/58 03/30/59
大佐 Huynh Van Cao 03/30/59 12/22/62
大佐 Bui Dinh Dam 12/22/62 11/01/63
准将 Nguyen Huu Co 11/01/63 11/05/63
大佐 Pham Van Dong 11/05/63 12/02/63
准将 Lam Van Phat 12/02/63 02/02/64
大佐 Hui Huu Nhon 02/02/64 03/07/64
大佐 Huynh Vau Ton 03/07/64 09/16/64
准将 Nguyen Bao Tri 09/16/64 10/09/65
准将 Nguyen Viet Thanh 10/09/65 07/03/68
准将 Nguyen Thanh Hoang 07/03/68 01/16/70
少将 Nguyen Khoa Nam 01/16/70 01/01/74
准将 Tran van Hai 04/30/75 suicide






第9歩兵師団
大佐 Bui
Dzinh 01/01/62 11/07/63
大佐 Doan Van Quang 11/07/63 02/09/64
准将 Vinh
Loc 02/09/64 05/29/65
准将 Lam Quang Thi 05/29/65 07/03/68
少将 Tran Ba Di 07/03/68 10/26/73
准将 Huynh Van Lac 10/26/73






第18歩兵師団
大佐 Nguyen Van Manh 06/05/65 08/20/65
准将 Lu
Lan 08/20/65 09/16/66
准将 Do Ke Giai 09/16/66 08/20/69
少将 Lam Quang Thi 08/20/69 04/04/72
准将 Le Minh Dao 04/04/72






第21歩兵師団
中佐 Nguyen Bao Tri* 06/01/59 09/08/59
中佐 Tran Thanh Chieu 09/08/59 02/02/60
大佐 Tran Thien Khiem 02/02/60 12/01/62
大佐 Bui Hue Nhon 12/01/62 11/01/63
大佐 Cao Hao Hon 11/01/63 06/01/64
准将 Dang Van Quang** 06/01/64 01/20/65
大佐 Nguyen Van Phuoc 01/20/65 03/24/65
准将 Nguyen Van Minh 03/24/65 06/15/68
少将 Nguyen Vinh Nghi 06/15/68 05/03/72
准将 Ho Trung Hau 05/03/72 08/21/72
准将 Chuong Dzenh Quay 08/21/72 06/09/73
准将 Le Van Hung 06/09/73 Suicide
* 1957年10月16日第21歩兵師団の前身の第11軽師団指揮官に就任
** 1965年1月20日辞職






第22歩兵師団
中佐 Nguyen Van Chuan* 08/01/55
中佐 Le Huy Duyen* 02/19/57
中佐 Ho Van To* 06/14/57
中佐 Tran Thanh Chieu* 04/01/60 09/08/60
中佐 Nguyen Hao Tri 09/08/59 11/05/63
大佐 Nguyen Thanh Sang 11/05/63 02/05/64
准将 Linh Quang Vien 02/05/64 09/07/64
大佐 Nguyen Van Hieu 09/07/64 10/24/64
准将 Nguyen Xuan Thinh 10/24/64 04/01/65
准将 Nguyen Thanh Sang 04/01/65 06/28/66
准将 Nguyen Van Hieu 06/28/66 08/11/69
准将 Le Ngoc Trien 08/11/69 03/01/72
大佐 Le Duc Dat** 03/01/72 04/01/72
准将 Phan Dinh Niem 04/02/72
* 第22歩兵師団の前身の第14軽師団指揮官
** 1972年4月22日戦闘中行方不明






第23歩兵師団
中佐 Nguyen The Nhu* 08/01/55
中佐 Nguyen Van Vinh* 09/16/56
中佐 Bui
Dzinh* 04/09/58
中佐 Tran Thanh Phong 05/19/59 05/17/61
大佐 Le Quang Luong 05/17/61 12/14/63
准将 Hoang Xuan Lam 12/14/63 10/14/64
准将 Lu
Lan 10/14/64 08/20/65
准将 Nguyen Van Manh 08/20/65 11/24/66
准将 Truong Quang An** 11/24/66 09/09/68
准将 Vo Van Canh 09/09/68 01/25/72
准将 Ly Tong Ba 01/25/72 10/20/72
准将 Tran Van Cam 10/20/72 11/14/73
大佐 Le Truong Tuong 11/24/73
* 第23歩兵師団の前身の第15軽師団指揮官
** ヘリコプター墜落により戦死






第25歩兵師団
大佐 Nguyen Van Chuan 07/01/62 12/28/62
大佐 Lu
Lan 12/28/62 04/19/64
大佐 Nguyen Viet Dan 04/19/64 12/01/64
准将 Nguyen Thanh Sang 12/01/64 04/06/65
准将 Phan Trong Chinh 04/06/65 01/10/68
中将 Nguyen Xuan Thinh 01/10/68 01/25/72
准将 Le Van Tu 01/25/72 11/07/73
大佐 Nguyen Huu Toan 11/07/73






空挺師団
中佐 Do Cao Tri 03/01/55 09/01/56
大佐 Nguyen Chanh Thi 09/01/56 11/12/60
大佐 Cao Van Vien 11/12/60 12/19/64
中将 Du Quoc Dong 12/19/64 11/11/72
准将 Le Quang Luong 11/11/72






海兵師団
中佐 Le Quang Trong 10/01/54 01/16/56
少佐 Pham Van Lieu 01/16/56 07/31/56
大尉 Bui Pho Chi* 07/31/56 09/30/56
少佐 Le Nhu Hung 09/30/56 05/07/60
少佐 Le Nguyen Khang 05/07/60 12/16/63
中佐 Nguyen Ba Lien 12/16/63 02/26/64
中将 Le Nguyen Khang 02/26/64 05/05/72
准将 Bui The Lan 05/05/72
* 指揮官代理




今こんな気分だけど、あと2か月したら終わるので、それまでじっと耐えよう・・・
  


2017年01月06日

ジャンクションシティー作戦におけるベトナム共和国軍部隊

新年あけましておめでとうございます。今年も年明けから平常運転で行きます。
来る4月8日・9日開催のベトベトマニアのテーマはズバリ、『ジャンクションシティー作戦』だそうです。
ベトベトマニアVol.3 -Operation JUNCTION CITY -
 ―エピローグ―
1967年2月、南ベトナム軍と米軍はタイニン省とサイゴン北西のカンボジア国境周辺の共産主義拠点を破壊する為に『ジャンクションシティー作戦』を発令、 第1歩兵部隊と第25歩兵部隊、 第 27歩兵連隊、第196軽歩兵旅団 、第173空挺旅団の空挺部隊、 第11装甲騎兵連隊の大型装甲部隊による大規模な戦闘を行うも全体的な成果を果たせなかった。カンボジア国境に隣接するベトベト地区には解放戦線第9師団が侵攻を開始し駐留する南ベトナム、米軍の混成師団は包囲される形となってしまった。弾薬、食糧は残り少なくこれを救出すべく第173空挺旅団が効果作戦を実施する。果たしてベトベト地区に残された混成師団の運命やいかに!
リエナクターを目指す以上、イベントが指定したシチュエーションに沿わない部隊を演じる訳にはいかないので、さっそくベトナム共和国軍部隊として堂々とジャンクションシティー作戦に参加する為の根拠集めを開始。以下はアメリカ陸軍指揮幕僚大学の戦史教本"Operation JUNCTION CITY, VIETNAM 1967" (1983)からの抜粋です。


 ジャンクションシティー作戦(Operation JUNCTION CITY)はアメリカ陸軍およびベトナム陸軍によって、C戦区(War Zone C)として知られるサイゴン北西のタイニン省周辺のにおいて実施された三段階の軍事作戦であり、1967年2月から5月にかけてベトナム共産ゲリラ(解放民族戦線)および北ベトナム軍(ベトナム人民軍)との戦闘が行われた。またアメリカ空軍もこの作戦の支援に加わった。
 作戦は在ベトナム・アメリカ陸軍第2野戦軍が実施し、本部をロンビンに、戦術司令部をダウティエンに置いた。作戦の指揮は3月24日までがジョナサン・O・シーマン(Jonathan 0. Seaman)中将、残りの期間をブルース・パーマー(Bruce Palmer)中将が執った。作戦部隊はジョン・ヘイ(John Hay)少将指揮の第1歩兵師団およびジョン・ティルソンIII世(John Tillson III)少将指揮の第25歩兵師団で構成された。ジャンクションシティー作戦に当たって、第1歩兵師団および第25歩兵師団の指揮下には、他の師団からも複数の有機旅団(Organic brigade: 編成に捕らわれず有機的に展開する旅団)が加わり、合計で22個の機動大隊および14個の砲兵大隊、加えてベトナム共和国軍3個大隊を指揮下に持ち、兵力はおよそ25,000名に上った。 

在ベトナム・アメリカ陸軍 第2野戦軍
ジャンクションシティー作戦 - フェーズI 作戦部隊の編成

第1歩兵師団

第1歩兵師団第1旅団
・第2歩兵連隊第1大隊
・第26歩兵連隊第1大隊
・第28歩兵連隊第1大隊
・タスクフォース・ウォーレス (ベトナム陸軍第3軍団『ウォーレス』戦闘団)
 ├ 第35レンジャー大隊 
  第1騎兵大隊第3中隊

第1歩兵師団第3旅団
・第16歩兵連隊第1大隊
・第2歩兵連隊第2機械化大隊
・第4騎兵連隊第1大隊
・第28歩兵連隊第2大隊

第173空挺旅団
・第503歩兵連隊第1大隊
・第503歩兵連隊第4大隊

第9歩兵師団第1旅団
・第39歩兵連隊第4大隊
・第47歩兵連隊第2(機械化)大隊
・第5騎兵連隊第3大隊


第25歩兵師団

第25歩兵師団第2旅団
・第27歩兵連隊第1大隊
・第27歩兵連隊第2大隊
・第5歩兵連隊第1機械化大隊

第4歩兵師団第3旅団
・第12歩兵連隊第2大隊
・第22歩兵連隊第2機械化大隊
・第22歩兵連隊第3大隊
・第14歩兵連隊第2大隊

第196軽歩兵旅団
・第1歩兵連隊第2大隊
・第21歩兵連隊第3大隊
・第31歩兵連隊第4大隊

・第11装甲騎兵連隊第1大隊
・第11装甲騎兵連隊第3大隊
・第23歩兵連隊第4機械化大隊

タスクフォース・アルファ (ベトナム海兵旅団A戦闘団)
・第1海兵大隊『怪鳥』
・第5海兵大隊『黒龍』


対して共産軍側の主力は南部中央委員会(COSVN)司令部を含む解放戦線第9師団であり、兵力はおよそ7,000名であった。

南部中央委員会
・第70親衛連隊

解放戦線第9師団
・第271連隊
・第272連隊
・第273連隊

ベトナム人民軍 第325師団
・第101歩兵連隊


アメリカ陸軍第25歩兵師団とベトナム海兵隊TFアルファ

 ジャンクションシティー作戦に参加したベトナム共和国軍3個大隊のうち、2個の海兵大隊からなるベトナム海兵旅団A戦闘団(Chiến Đoàn A TQLC)は、アメリカ陸軍第25歩兵師団の作戦指揮下でタスクフォース・アルファ(Task Force Alpha)としてベトナム・カンボジア国境沿いのタイニン省チャンスップに展開した。TFアルファの指揮官はホアン・ティック・トゥン(Hoàng Tích Thông)少佐、主任参謀をチャン・チュン・アイ(Trần Trung Ái)大尉が務めた。この米越合同作戦に際し、アメリカ陸軍第25歩兵師団のティルソン少将TFアルファの戦力向上のため二つのベトナム海兵大隊に新型のXM16E1ライフルを供与し、従来のM1ガランドとの置き換えが進められた。
 サイゴンに駐屯していたベトナム海兵隊TFアルファはジャンクションシティー作戦二日目の1967年2月23日にC戦区『蹄鉄(horseshoe)』エリアに投入され、『蹄鉄』エリアの西側を担当するアメリカ第25歩兵師団と合流した。部隊はこの日、地域の保安任務と中隊レベルでのサーチ&デストロイ作戦を実施した。
 翌2月24日、『蹄鉄』エリア北西のTFアルファはカンボジア国境に近い作戦エリア『クーガー』(AO Cougar)にヘリボーン降下し、南に向けて進撃した。この時点で敵の抵抗は軽微であった。
 2月25日から28日にかけて第25歩兵師団第2旅団および第11装甲騎兵連隊は敵の抵抗を受けながらも『蹄鉄』エリアの掃討に成功した。
 以後、第25歩兵師団はサーチ&デストロイの対象地域を広範囲に拡大したが、敵の攻撃は激化した。3月1日から9日にかけて第1歩兵師団指揮下の部隊には多数の死傷者が発生し、第25歩兵師団指揮下の第11装甲騎兵連隊付き第23歩兵連隊第4機械化大隊にも41名の死傷者が出た。しかし第11装甲騎兵連隊は引き続きカンボジア国境に沿って敵部隊の掃討を続け、3月11日には敵部隊の一部を川の東岸に追い詰め、撃破する事に成功した。
 こうしてジャンクションシティー作戦フェーズIが一定の成果を上げた事で、第2野戦軍はフェーズIIに向けて主要部隊の配置換えを開始した。この中でTFアルファは3月11日にジャンクションシティー作戦への参加を終了してサイゴンへと帰還した。


※2017年1月7日追記

アメリカ陸軍第1歩兵師団とベトナム陸軍TFウォーレス

 一方、蹄鉄』エリアの北部を担当するアメリカ陸軍第1歩兵師団第1旅団内には、ジャンクションシティー作戦に伴いベトナム陸軍第35レンジャー大隊および第1騎兵大隊第3中隊からなるウォーレス戦闘団(Task Force Wallace)が設置され、同旅団はビンズォン省ミンタンで出撃に備え編成が進められた。
 2月22日、ジャンクションシティー作戦フェーズI発動と同時に第1歩兵師団第1旅団は蹄鉄』エリア北部に3個大隊規模のヘリボーン強襲を実施し、その地でサーチ&デストロイ任務を遂行した。
 翌23日、同旅団はシャワー施設まで完備した大隊規模の敵軍ベースキャンプを発見した。この時点で戦闘は軽微であり、遭遇する敵は分隊規模かそれ以下であった。
 3月1日以降、旅団は断続的な戦闘を経た後、カツム北東に南部中央委員会(COSVN)宣伝センターを発見した。これを叩くため3月6日には、第1歩兵師団麾下の第173空挺旅団がカツムの南東Bo Tucの南に位置するLZに3個大隊規模のエアボーン強襲を実施した。一方、第1歩兵師団第1旅団は3月4日、フェーズIIに備えてビンロン省クァンロイに移動した。


 1967年3月15日17時24分、司令部はジャンクションシティー作戦フェーズIの終了を宣言した。アメリカ軍が『蹄鉄』エリアの掃討に成功した事で共産軍側の損害は少なくとも戦死者835名に上り、アメリカ軍は捕虜15名、小火器および重火器264個、その他莫大な量の物資と機材を接収した。
 その後もジャンクションシティー作戦は継続され、3月18日にフェーズIIが開始された。さらに4月15日にはフェーズIIIが開始され、5月14日の作戦終了まで戦闘は続いた。
  


2016年12月24日

野戦警察

※2020年2月11日更新


今回は、ベトナム共和国国家警察野戦警察部隊について、ベテランズアソシエーションのホームページで見付けた情報をいくつかご紹介します。
引用: Gia Đình Mũ Đỏ Việt Nam, Bộ Huy Hiệu Cảnh Sát Quốc Gia VNCH, BKT sưu tầm

※2016年12月25日加筆・修正


野戦警察の概要

野戦警察(Cảnh Sát Dã Chiến, CSDC)ベトナム共和国国家警察(Cảnh Sát Quốc Gia, CSQG)が保有する武装部隊であり、1965年1月27日に設立された。野戦警察は地域の秩序および安全の維持を目的とし、共産ゲリラによる破壊活動阻止及び国内の暴動の鎮圧を遂行した。野戦警察には陸軍歩兵部隊と同等の訓練・装備が施され、最終的に全国で約16,500名の警察官が戦闘任務に当たった。
野戦警察の士官は国家警察アカデミー(Học Viện CSQG)を卒業した後、共和国軍のトゥドゥック歩兵学校において軍の士官課程も修了する必要があった。また野戦警察の士官・下士官はマレーシアやフィリピンの訓練センターに派遣され、暴徒鎮圧やジャングル戦の訓練を受講した。一般の隊員はブンタウで警察官基本課程を修了した後、ダラットの野戦警察訓練センター(TTHL CSDC Ðà Lạt)において軍事および野戦警察の専門知識を学んだ上で部隊配属となった。

▲野戦警察の部隊章


野戦警察中隊 (省)
国家警察は各省の国家警察本部野戦警察中隊(Đại Đội CSDC)を1個中隊配置し、省付きとしては全国で計44個中隊が駐屯した。また各中隊にはその省の人口に応じた数の小隊が編成された。
例として第1戦術地区最大のフエ―トゥアティエン省を管轄する第102野戦警察中隊は10-13個小隊、計500名の小銃兵で構成された。またトゥアティエン国家警察本部(BCH CSQG Thừa Thiên)の職員は野戦警察を含めて約5000名に上り、共和国軍の少佐が本部長を務めた。

戦術地区/軍管区野戦警察中隊
1Quảng Trị101
Thừa Thiên102
Quảng Nam103
Quảng Tín104
Quảng Ngãi106
2Kontum201
Bình Định202
Pleiku203
Phú Bổn204
Phú Yên205
Darlac (BMT)206
Khánh Hòa 207
Quảng Đức208
Tuyên Đức209
Ninh Thuận210
Lâm Đồng211
Bình Thuận212
3Phước Long301
Bình Long302
Bình Tuy303
Long Khánh304
Bình Dương305
Biên Hòa306
Phước Tuy307
Tây Ninh308
Hậu Nghĩa309
Long An310
Gia Định311
4Định Tường401
Kiến Tường402
Gò Công403
Kiến Hòa404
Kiến Phong405
Vĩnh Bình406
Vĩnh Long407
Sa Đéc408
Châu Đốc409
Phong Dinh410
An Giang411
Ba Xuyên412
Bạc Liêu413
Chương Thiện414
Kiên Giang415
An xuyên417


野戦警察中隊 (自治都市)
省付きの他に、以下の6つの自治都市には野戦警察中隊が各1個中隊駐屯する。

戦術地区/軍管区都市野戦警察中隊
1Đà Nẵng105
2Thị xã Cam Ranh?
3Thị xã Vũng Tàu?
Thị xã Long Bình?
Thủ đô Sài Gòn?
4Đảo Phú Quốc?


中央野戦警察団

※2018年7月3日訂正  『Biệt Đoàn』の日本語訳を『群』から『部隊』に変更しました。
※2020年2月11日訂正  『Biệt Đoàn』の日本語訳を『部隊』から『団』に変更しました。

野戦警察には地方を所管する野戦警察中隊の他に、サイゴンに駐屯する中央野戦警察団(Biệt Đoàn CSDC Trung ương)が二部隊存在した。
サイゴン市警察本部に駐屯する第5野戦警察団は、首都サイゴンおよびジアディン省の都市部を管轄し、11-14個の作戦中隊で構成された。
同じくサイゴン駐屯の第222野戦警察は必要に応じて全国に派遣される国家警察本部直属の即応展開部隊であり、6個中隊で構成された。
なお各中央野戦警察部隊内の中隊は4個小隊で構成された。

戦術地区/軍管区 地域 中央野戦警察団
首都特区・3 首都サイゴンおよびジアディン省 5
- 全国 222

第5野戦警察団(左), 第222野戦警察団(右)部隊章


特別警察本部
米国CIAの主導によるベトコンインフラ破壊工作『プロジェクト・フェニックス(Project Phoenix)』が開始されると、ベトナム国家警察はフェニックス計画の実行を指揮する特別警察(Cảnh sát Đặc Biệt)本部を軍団本部に設置した。警察の指揮下にはフェニックス計画の実行に当たる野戦警察、地方軍パトロール中隊(PRU)、CIDGキャンプおよび各民兵組織が集結し、市民への宣伝工作からベトコン容疑者の誘拐・暗殺まで様々な特殊作戦を統括した。

▲国家警察第1軍団特警察 部隊章


国家警察本部部隊

駐屯地 部隊名 部隊番号
サイゴン 国家警察本部 600
ブンタウ 国家警察アカデミー/ 国家警察幹部訓練センター 605
ダラット 野戦警察訓練センター 607 / 816

今回は発見できたのは主に野戦警察に関する事柄であり、他の警察組織についてはまだ不明な点だらけです。
とは言え上の野戦警察中隊リストを見る限りでは、制服の右袖に付ける丸い部隊章の数字は省を示す番号と思われ、恐らく野戦警察もその他の警察組織も共通だという事が分かったのは大きな収穫でした。
ただし500番台は、おそらく第5野戦警察団隷下の中隊だと思われますが、このリストには記載されておらず、まだはっきりとは把握できていません。

▲うちにある506のパッチ
正体が分かったら改造した警察迷彩服リプロに付けようと思ってたのに、まだ微妙なまま。
  


2016年11月19日

ベトナム共和国軍陸軍部隊一覧

また一覧表系。
地方軍、特殊部隊と来たら、正規の陸軍部隊をやらない訳にはいかないですよね。
まだ創設年や支援部隊など調べ切れていない部分はありますが、陸上戦闘部隊に関しては大隊単位まで大体(笑)網羅出来てると思います。

※2017年8月2日更新
※2018年5月19日更新

軍団 師団 旅団・連隊・群 大隊・中隊
第1軍団 第21機動群 (1953-1954)
第21師団 (1954-1955)
第1歩兵師団 (1955-)
第1歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/1)
第2歩兵大隊(2/1)
第3歩兵大隊(3/1)
第4歩兵大隊(4/1)
第2歩兵連隊
※11/1971 SD3BBへ異動
第1歩兵大隊(1/2)
第2歩兵大隊(2/2)
第3歩兵大隊(3/2)
第4歩兵大隊(4/2)
第3歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/3)
第2歩兵大隊(2/3)
第3歩兵大隊(3/3)
第4歩兵大隊(4/3)
第51歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/51)
第2歩兵大隊(2/51)
第3歩兵大隊(3/51)
第4歩兵大隊(4/51)
第54歩兵連隊 (6/1968-) 第1歩兵大隊(1/54)
第2歩兵大隊(2/54)
第3歩兵大隊(3/54)
第4歩兵大隊(4/54)
(師団付き) 第10砲兵大隊
第11砲兵大隊
第12砲兵大隊
第14砲兵大隊
第7騎兵大隊 (1966-)
第1工兵大隊
第1衛生大隊
第101憲兵中隊
第1偵察中隊
強襲中隊
第32機動群 (1953-1954)
第32師団 (1954-1955)
第2歩兵師団 (1955-)
第4歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/4)
第2歩兵大隊(2/4)
第3歩兵大隊(3/4)
第4歩兵大隊(4/4)
第5歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/5)
第2歩兵大隊(2/5)
第3歩兵大隊(3/5)
第4歩兵大隊(4/5)
第6歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/6)
第2歩兵大隊(2/6)
第3歩兵大隊(3/6)
第4歩兵大隊(4/6)
(師団付き) 第20砲兵大隊
第21砲兵大隊
第22砲兵大隊
第23砲兵大隊
第4装甲連隊 (1955-1963)
第4騎兵大隊 (1963-)
第2工兵大隊
第102憲兵中隊
第3歩兵師団 (1971-) 第56歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/56)
第2歩兵大隊(2/56)
第3歩兵大隊(3/56)
第4歩兵大隊(4/56)
第57歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/57)
第2歩兵大隊(2/57)
第3歩兵大隊(3/57)
第4歩兵大隊(4/57)
第2歩兵連隊 (11/1971-)
※1971年第1歩兵師団より編入
第1歩兵大隊(1/2)
第2歩兵大隊(2/2)
第3歩兵大隊(3/2)
第4歩兵大隊(4/2)
(師団付き) 第30砲兵大隊
第31砲兵大隊
第32砲兵大隊
第33砲兵大隊
第11騎兵大隊 (1968-)
第3工兵大隊
第3衛生大隊
第103憲兵中隊
(第1軍団レンジャー) 第1レンジャー群 (1966-1973)
第12レンジャー群 (1973-)
第21レンジャー大隊
第37レンジャー大隊
第39レンジャー大隊
第11レンジャー群 (1973-) 第68国境レンジャー大隊 (1970-)
第69国境レンジャー大隊 (1970-)
第70国境レンジャー大隊 (1970-)
第14レンジャー群 (1973-) 第77国境レンジャー大隊 (1970-)
第78国境レンジャー大隊 (1970-)
第79国境レンジャー大隊 (1970-)
第15レンジャー群 (1973-) 第61国境レンジャー大隊(1970-)
第66国境レンジャー大隊(1970-)
第94国境レンジャー大隊 (1970-)
※1973年第4軍団より編入
第60国境レンジャー大隊
第87国境レンジャー大隊 (1970-)
※1974年 第8レンジャー群に異動
第1騎兵旅団 (1968-) 第17騎兵大隊 (1968-)
第20騎兵大隊 (1972-)
(第1軍団砲兵) 第1砲兵大隊
第3砲兵大隊
第44砲兵大隊
第64砲兵大隊
第101砲兵大隊
第102砲兵大隊
第105砲兵大隊
第1憲兵大隊
第1海軍管区
第1空軍師団
第2軍団 第2軽師団 (1955-1956)
第4軽師団 (1955-1956)
第12軽師団 (1956-1959)
第14軽師団 (1956-1959)
第22歩兵師団 (1959-)
第40歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/40)
第2歩兵大隊(2/40)
第3歩兵大隊(3/40)
第4歩兵大隊(4/40)
第41歩兵連隊
※1973年 SD23BBへ異動
第1歩兵大隊(1/41)
第2歩兵大隊(2/41)
第3歩兵大隊(3/41)
第4歩兵大隊(4/41)
第24特殊戦団
第42歩兵連隊 (1969-)
※1969年SD22BBへ編入
第1歩兵大隊(1/42)
第2歩兵大隊(2/42)
第3歩兵大隊(3/42)
第4歩兵大隊(4/42)
第47歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/47)
第2歩兵大隊(2/47)
第3歩兵大隊(3/47)
第4歩兵大隊(4/47)
(師団付き) 第220砲兵大隊
第221砲兵大隊
第222砲兵大隊
第223砲兵大隊
第14騎兵大隊 (1968-)
第22工兵大隊
第22衛生大隊
第22偵察中隊
第5軽師団 (1955-1956)
第15軽師団 (1956-1959)
第23歩兵師団 (1959-)
第41歩兵連隊
※1973年 SD22BBより編入
第1歩兵大隊(1/41)
第2歩兵大隊(2/41)
第3歩兵大隊(3/41)
第4歩兵大隊(4/41)
第44歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/44)
第2歩兵大隊(2/44)
第3歩兵大隊(3/44)
第4歩兵大隊(4/44)
第45歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/45)
第2歩兵大隊(2/45)
第3歩兵大隊(3/45)
第4歩兵大隊(4/45)
第53歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/53)
第2歩兵大隊(2/53)
第3歩兵大隊(3/53)
第4歩兵大隊(4/53)
(師団付き) 第230砲兵大隊
第231砲兵大隊
第232砲兵大隊
第233砲兵大隊
第8騎兵大隊 (1966-)
第23工兵大隊
第23偵察中隊
第23政治戦中隊
第2騎兵旅団 (1971-) 第19騎兵大隊 (1971-)
第21騎兵大隊 (1972?-)
(第2軍団砲兵) 第4砲兵大隊
第37砲兵大隊
第63砲兵大隊
第69砲兵大隊
第103砲兵大隊
(第2軍団レンジャー) 第2レンジャー群 (1966-1973)
第23レンジャー群 (1973-)
第11レンジャー大隊
第22レンジャー大隊
第23レンジャー大隊
第21レンジャー群 (1973-) 第72国境レンジャー大隊 (1970-)
第89国境レンジャー大隊 (1970-)
第96国境レンジャー大隊 (1971-)
第22レンジャー群 (1973-) 第62国境レンジャー大隊 (1970-)
第88国境レンジャー大隊 (1970-)
第95国境レンジャー大隊 (1970-)
第24レンジャー群 (1973-) 第63国境レンジャー大隊 (1970-)
第81国境レンジャー大隊 (1970-)
第82国境レンジャー大隊 (1970-)
第25レンジャー群 (1973-) 第67国境レンジャー大隊 (1970-)
※1973年第2軍団より編入
第76国境レンジャー大隊 (1970-)
※1973年第2軍団より編入
第90国境レンジャー大隊 (1970-)
? 第71国境レンジャー大隊 (1970-)
? 第80国境レンジャー大隊 (1970-)
第2憲兵大隊
第2海軍管区
第2空軍師団
第6空軍師団
第3軍団 第6軽師団 (1955-1956)
第3野戦師団 (1956-1959)
第5歩兵師団 (1959-)
第7歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/7)
第2歩兵大隊(2/7)
第3歩兵大隊(3/7)
第4歩兵大隊(4/7)
第8歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/8)
第2歩兵大隊(2/8)
第3歩兵大隊(3/8)
第4歩兵大隊(4/8)
第9歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/9)
第2歩兵大隊(2/9)
第3歩兵大隊(3/9)
第4歩兵大隊(4/9)
(師団付き) 第50砲兵大隊
第51砲兵大隊
第52砲兵大隊
第53砲兵大隊
第1装甲連隊 (1955-1963)
第1騎兵大隊 (1963-)
第5工兵大隊
第5偵察中隊
第10歩兵師団 (1965-1967)
第18歩兵師団 (1967-)
第43歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/43)
第2歩兵大隊(2/43)
第3歩兵大隊(3/43)
第4歩兵大隊(4/48)
第48歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/48)
第2歩兵大隊(2/48)
第3歩兵大隊(3/48)
第4歩兵大隊(4/48)
第52歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/52)
第2歩兵大隊(2/52)
第3歩兵大隊(3/52)
第4歩兵大隊(4/52)
(師団付き) 第180砲兵大隊
第181砲兵大隊
第182砲兵大隊
第183砲兵大隊
第5騎兵大隊 (1963-)
第18工兵大隊
第18偵察中隊
第18憲兵中隊
第25歩兵師団 (1962-) 第46歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/46)
第2歩兵大隊(2/46)
第3歩兵大隊(3/46)
第4歩兵大隊(4/46)
第49歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/49)
第2歩兵大隊(2/49)
第3歩兵大隊(3/49)
第4歩兵大隊(4/49)
第50歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/50)
第2歩兵大隊(2/50)
第3歩兵大隊(3/50)
第4歩兵大隊(4/50)
(師団付き) 第250砲兵大隊
第251砲兵大隊
第252砲兵大隊
第253砲兵大隊
第10騎兵大隊 (1966-)
第25工兵大隊
第25通信大隊
第25偵察中隊
第3強襲団 (1974-) 第3騎兵旅団 (1970-) 第15騎兵大隊 (1968-1974)
第315戦闘団 (1974-)
第18騎兵大隊 (1968-1974)
第318戦闘団 (1974-)
第22騎兵大隊 (1974?)
第322戦闘団 (1974-)
第33レンジャー群 (1973-) 第64国境レンジャー大隊 (1970-)
第83国境レンジャー大隊 (1970-)
第92国境レンジャー大隊 (1970-)
(第3軍団レンジャー) 第3レンジャー群 (1966-1973)
第31レンジャー群 (1973-)
第31レンジャー大隊
第36レンジャー大隊
第52レンジャー大隊
第5レンジャー群 (1966-1970)
第32レンジャー群 (1973-)
※1970-1973は統合予備
第30レンジャー大隊
第33レンジャー大隊
第38レンジャー大隊
第6レンジャー群 (1968-)
※1973年統合予備部隊へ異動
第34レンジャー大隊
第35レンジャー大隊
第51レンジャー大隊
第65国境レンジャー大隊 (1970-)
第73国境レンジャー大隊 (1970-)
第74国境レンジャー大隊 (1970-)
第91国境レンジャー大隊 (1970-)
第8レンジャー群 (1974-) 第84レンジャー大隊 (1974-)
※第14及び第9憲兵大隊を改編
第86レンジャー大隊 (1974-)
※第14及び第9憲兵大隊を改編
第87レンジャー大隊 (1974-)
※第14及び第9憲兵大隊を改編
第9レンジャー群 (1975-) 第93レンジャー大隊 (1975-)
※第7及び第8憲兵大隊を改編
第97レンジャー大隊 (1975-)
※第7及び第8憲兵大隊を改編
第99レンジャー大隊 (1975-)
※第7及び第8憲兵大隊を改編
(第3軍団砲兵) 第4砲兵大隊
第61砲兵大隊
第104砲兵大隊
第3憲兵大隊
第3海軍管区
第3河川管区
第3空軍師団
第5空軍師団
第4軍団 第7機動群 (1953-1955)
第7軽師団 (1955-1956)
第7野戦師団 (1956-1959)
第7歩兵師団 (1959-)
第10歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/10)
第2歩兵大隊(2/10)
第3歩兵大隊(3/10)
第4歩兵大隊(4/10)
第11歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/11)
第2歩兵大隊(2/11)
第3歩兵大隊(3/11)
第4歩兵大隊(4/11)
第12歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/12)
第2歩兵大隊(2/12)
第3歩兵大隊(3/12)
第4歩兵大隊(4/12)
(師団付き) 第70砲兵大隊
第71砲兵大隊
第72砲兵大隊
第73砲兵大隊
第6騎兵大隊 (1963-)
第7工兵大隊
第7衛生大隊
第7通信大隊
第7偵察中隊
第107憲兵中隊
第9歩兵師団 (1962-) 第14歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/14)
第2歩兵大隊(2/14)
第3歩兵大隊(3/14)
第4歩兵大隊(4/14)
第15歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/15)
第2歩兵大隊(2/15)
第3歩兵大隊(3/15)
第4歩兵大隊(4/15)
第16歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/16)
第2歩兵大隊(2/16)
第3歩兵大隊(3/16)
第4歩兵大隊(4/16)
(師団付き) 第90砲兵大隊
第91砲兵大隊
第92砲兵大隊
第93砲兵大隊
第2装甲連隊 (1955-1963)
第2騎兵大隊 (1963-)
第9工兵大隊
第9衛生大隊
第9通信大隊
第9憲兵中隊
第9偵察中隊
第11歩兵連隊 (1954-1955)
第1軽師団 (1955-1956)
第3軽師団 (1955-1956)
第11軽師団 (1956-1959)
第13軽師団 (1956-1959)
第21歩兵師団 (1959-)
第31歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/31)
第2歩兵大隊(2/31)
第3歩兵大隊(3/31)
第4歩兵大隊(4/31)
第32歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/32)
第2歩兵大隊(2/32)
第3歩兵大隊(3/32)
第4歩兵大隊(4/32)
第33歩兵連隊 第1歩兵大隊(1/33)
第2歩兵大隊(2/33)
第3歩兵大隊(3/33)
第4歩兵大隊(4/33)
(師団付き) 第210砲兵大隊
第211砲兵大隊
第212砲兵大隊
第213砲兵大隊
第9騎兵大隊 (1966-)
第21工兵大隊
第4騎兵旅団 (1969-) 第12騎兵大隊 (1968-)
第16騎兵大隊 (1968-)
(第4軍団砲兵) 第47砲兵大隊
第67砲兵大隊
第68砲兵大隊
(第4軍団レンジャー)
※1973年解散
第4レンジャー群 (1966-1973)
※1973年統合予備部隊へ異動
第42レンジャー大隊
第43レンジャー大隊
第44レンジャー大隊

第66国境レンジャー大隊 (1970-)
第67国境レンジャー大隊 (1970-)
※1973年第25レンジャー群へ異動
第75国境レンジャー大隊 (1970-)
第76国境レンジャー大隊 (1970-)
※1973年第25レンジャー群へ異動
第85国境レンジャー大隊 (1970-)
※1974年第7レンジャー群へ異動
第86国境レンジャー大隊 (1970-)
※1973年第8レンジャー群へ異動
第93国境レンジャー大隊 (1970-)
※1975年第9レンジャー群へ異動
第94国境レンジャー大隊 (1970-)
※1973年第15レンジャー群へ異動
第98国境レンジャー大隊 (1970-)
※1973年第9レンジャー群へ異動
第4憲兵大隊
第4海軍管区
第5海軍管区
第4河川管区
第4空軍師団
首都特別管区隊 (儀仗部隊)
第6憲兵大隊
統合予備部隊 GAP3 (1954-1955)
空挺群 (1955-1959)
空挺旅団 (1959-1965)
空挺師団 (1965-)
第1空挺旅団 第1空挺大隊 (1951-)
第8空挺大隊 (1961-)
第9空挺大隊 (1965-)
(旅団付き)
第2空挺旅団 第5空挺大隊 (1953-)
第7空挺大隊 (1953-1955, 1961-)
第11空挺大隊 (1967-)
(旅団付き)
第3空挺旅団 第2空挺大隊 (1965-)
第3空挺大隊 (1952-)
第6空挺大隊 (1954-)
(旅団付き)
第4空挺旅団 第12空挺大隊 (1974-)
第14空挺大隊 (1974-)
第15空挺大隊 (1974-)
(師団付き) 空挺支援大隊 (1954-)
空挺通信大隊
空挺工兵大隊
空挺衛生大隊
海兵群 (1956-1965)
海兵旅団 (1965-1968)
海兵師団 (1968-)
海兵戦闘団 (1965-1966)
A戦闘団 (1966-1969)
A旅団 (1969)
第147海兵旅団 (1969-)
第1海軍歩兵大隊
第1海兵大隊
第4海兵大隊 (1961-)
第7海兵大隊 (1969-)
第147偵察中隊
第1砲兵大隊
B戦闘団 (1966-1969)
B旅団 (1969)
第258海兵旅団 (1969-)
第2海軍歩兵大隊 (1955-)
第2海兵大隊
第5海兵大隊 (1964-)
第8海兵大隊 (1969-)
第258偵察中隊
第2砲兵大隊
第369海兵旅団 (1969-) 第3海軍歩兵大隊 (1957-)
第3海兵大隊
第6海兵大隊 (1967-)
第9海兵大隊 (1970-)
第369偵察中隊
第3砲兵大隊
第468海兵旅団 (1975-) 第14海兵大隊
第16海兵大隊
第18海兵大隊
第468偵察中隊
第4砲兵大隊
(師団付き) 偵察中隊
第202憲兵中隊
第91空挺コマンド大隊 (1964-1968)
第81空挺コマンド大隊 (1968-1970)
第81空挺コマンド群 (1970-)
第1戦術司令部 (1975-)
第2戦術司令部 (1975-)
第3戦術司令部 (1975-)
第811部隊 (1975-)
第812部隊 (1975-)
第813部隊 (1975-)
第814部隊 (1975-)
偵察チーム (1965-1970)
偵察中隊 (1970-1975)
第815部隊 (1975-)
(統合予備レンジャー)
※1973年 統合予備部隊として再編制
※1975年 レンジャー師団創設予定のまま未完
第4レンジャー群 (1966-)
※1973年第4軍団より編入
第42レンジャー大隊
第43レンジャー大隊
第44レンジャー大隊
第5レンジャー群 (1970-1973)
※1970-1973のみ統合予備
第30レンジャー大隊
第33レンジャー大隊
第38レンジャー大隊
第6レンジャー群 (1968-)
※1973年第3軍団より編入
第34レンジャー大隊
第35レンジャー大隊
第51レンジャー大隊
第61レンジャー大隊
第7レンジャー群 (1973-) 第32レンジャー大隊
第58レンジャー大隊
※第41レンジャー大隊より改称
第85国境レンジャー大隊 (1970-)
※1973年第4軍団より編入
第5憲兵大隊


おまけ: インシグニアについて

ベトナム共和国軍というのは部隊章に非常にこだわりのある軍隊でして、米軍では通常連隊単位までしか部隊章を持たないのに対し、ベトナム陸軍は大隊単位(中には中隊まで)で部隊章が制定されているので、その種類は膨大です。そしてその一部が米国のベトナム共和国歴史協会 (Republic of Vietnam Historical Society)さんのサイトで公開されています。
歩兵師団・連隊・大隊 http://rvnhs.com/museum/arvninsignia.html

以下、歩兵師団、地方軍、空挺師団、レンジャー、海兵師団のインシグニアの種類についてまとめ中の図解。


 
レンジャーと海兵は、そのうち作ります。
  


2016年11月15日

ベトナム共和国軍特殊部隊キャンプ



手持ちの資料を全てまとめた特殊部隊キャンプのリストを作成中。
まだまだ?マークが多いです。悔しい。いつか全ての空欄を埋めてやる・・・。

     

 色分けは、黄色がCIDG計画の中核でありながら、なぜか戦後のマニアからガン無視され続けるCSF (Camp Strike Force: キャンプ駐屯のストライクフォース)。ベトナムに派遣されたグリーンベレー隊員のほとんどはこのCSF付きアドバイザーだったのにね。
 青がCSFから発展した空中機動部隊MSF (Mobile Strike Force: 機動的なストライクフォース)。みんな大好き"MIKE Force (マイクフォース)"の事。実はCSFに比べて規模はかなり小さい。なお"C-1"~"C-5"という名称は5thSFGのCチーム(A~E中隊)の事なので、マイクフォースの部隊名として用いるのは不適当。
 橙色がLLĐB C5やNKT所属の偵察・コマンド部隊。多くはCIDG計画とは別に、ベトナム共和国軍の特殊部隊として創設された部隊なので、隊員はもともとLLĐBのキン族(ベトナム人)およびヌン族が主だった。(1960年代中盤、サイゴン政府とデガ・チャム族・クメール族などのFULRO系少数民族は内戦状態だった。) その後、60年代後半に米軍の仲裁で政府とFULROが部分的に和解し、さらにMSFの規模拡大によって空挺降下や偵察などの技能を持ったCIDG / DSCĐ兵士が増えると、米軍の意向で偵察・コマンド部隊にもFULRO系少数民族が加わる事となった。

 また一口に『キャンプ』と言ってもその種類は様々で、ベトナム戦争中にベトナム共和国軍およびその同盟軍が建設した防御拠点は以下に分類される。
・メインベースまたはベースキャンプ
・戦闘基地、前進作戦基地(FOB)、恒久着陸ゾーン
・射撃支援基地(FSB)
・特殊部隊キャンプまたはCIDGキャンプ
・フランス軍式要塞化陣地
・射撃支援パトロール基地(FSPB)、パトロール基地または前進射撃支援基地(FFSB)
・着陸ゾーン(LZ)
・戦略村
・夜間防御施設(NDP)

これらの内、今回表にまとめたキャンプは特殊部隊のメインベースおよびFOB、特殊部隊キャンプ、CIDGキャンプであり、それぞれの定義は概ね以下の通り。

メインベースまたはベースキャンプ
大規模な恒久施設からなる要塞化されたエリアのことで、飛行場を併設している。特殊部隊ではサイゴンのLLĐB/NKT本部、ニャチャンの5thSFG本部、およびLLĐBのC司令部(USSF Cチーム)が置かれた基地などがこれに当たる。

前進作戦基地(FOB)
メインベースを小型化したものだが恒久的な要塞化された防御陣地が付属しており、少なくとも滑走路が付属している。特殊部隊ではNKT連絡部コマンド"雷虎"のFOB 1~FOB 6や、MSFにおいて複数のFOBが建設された。

特殊部隊キャンプおよびCIDGキャンプ
FOBよりも小型であるが、恒久施設が存在する。通常、ヘリコプター用の着陸ゾーンはあるが固定翼機用の滑走路は無い。ベトナム、アメリカ軍の特殊部隊分遣隊Aチームが常駐し、その指揮下で1個大隊規模のCIDG / DSCĐ部隊が駐屯している。その周辺には兵士の家族用の住居も併設されている。

出典: 要塞戦記: ヴェトナム戦争アメリカ軍ファイヤーベース PART.1, 秋田郁夫, wardroom, 2011年



おまけ: 越米特殊部隊司令部スタッフ


LLĐB本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀本部内, 1968年8月)
5thSFGA司令ハロルド・アーロン大佐(左手前)とLLĐB司令ドァン・バン・クアン少将(右手前)


SKT本部(サイゴン, ベトナム共和国軍参謀本部内, 1966年)
SKT司令チャン・バン・ホー大佐(中央左)と、MACV-SOG司令ジョン・シングラウブ大佐(中央右)


NKT本部(サイゴン, ベトナム共和国軍総参謀部内, 1970-1972年)
MACV-SOG司令ジョン・サドラー大佐(左端)と、NKT司令ドアン・バン・ニュー大佐(右端)