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2022年09月24日

西か東か

※2022年9月27日更新


先日の雨天撮影会で雨に当たったせいで、56式自動歩槍の金属パーツ全体に大量の白サビが発生してしまいました。
発生からあまり時間は経っていないので、錆は表面だけで内部には達していませんが、あまりに見た目が悪いのでスプレーブラッセン再塗装しました。




過去記事『ベトナム戦争期の56式/K-56』でも書きましたが、このトイガンはマルイのAK-47に56式フロントサイトキット(メーカー不明)を組んで初期型の56式を再現した物です。
ただし、キットに付属していたプラ製銃剣は折れてしまったので、代わりにリアルソード製56式(後期型)用の銃剣を加工して無理やり取り付けています。
僕はもともと、この56式をベトナム共和国軍の特殊部隊コスプレの為に持っており、特殊部隊では銃剣を外している事も多かったので、折れた銃剣はそのままにしていました。
しかしその後、FANK(クメール国軍)用にちゃんとした56式が必要になったので、銃剣を修復した次第です。

▲カンボジア内戦初期のクメール国軍兵士 [1970年]
こう見えてギリ西側陣営。(60年代まで東側寄りの第三世界だったけど、1970年のクーデター以後アメリカの同盟傘下に転向)


反対に、1959年に西側から東側に転向したキューバでは、革命から60年以上経った現在でも、革命前の旧キューバ軍(バティスタ政権)が装備していた米国製の火器や装備が今も一部で使われている模様。


まぁ、装備品に関しては、すべての装備を新型(東側式)に更新しきるほどのお金は無いから、以前から有る物(米国製)をそのまま使っているんだろうなと理解できます。

しかし帽子はどうなってるんだ??


キューバ革命軍陸軍の作業帽は、旧キューバ軍が使用していた米陸軍式のリッジウェイキャップ(M51フィールドキャップ亜種)をそのまま継承。カストロもいつも被っています。
さらに、その隣の米陸軍式ベースボールキャップ(ホットウェザーキャップ)に至っては、旧キューバ軍では使用されておらず、明らかに革命後に新規に導入しています。なんで?
(キューバ革命軍のベースボールキャップは側面がメッシュになっており、米軍そのままという訳ではありませんが)
僕は中南米の軍装に関しては門外漢なので、どなたか事情をご存じの方がおられましたらご一報ください。

また過去記事『ベトナム人民軍の南ベ復古?』で書いたように、現在のベトナムでも、アメリカ海軍・海兵隊(および旧ベトナム共和国軍)式の八角帽(エイトポイントカバー)がベトナム人民軍・人民自衛軍団(民兵)・民間警備会社等で広く使われています。
あの記事を書いてから8年経ちましたが、なぜ共産主義国家がかつての敵国である米軍式の帽子を新規に導入したのか、いまだに納得のいく答えは得られていません。
なんかベトナムもキューバも、単に「かっこいいから」という理由だったような気がしてなりません。
  


2018年09月28日

ベトナム戦争観


古森義久「池上彰氏のベトナム戦争論の欠陥」 Yahooニュース/Japan In-depth

 この記事にある池上彰氏に対する批判は至極真っ当かつ、日本ではなかなか取り上げられなかった貴重な意見だと思います。私自身は一応リベラル派なつもりなので、この記事の掲載元である保守系ニュースサイトや著者 古森氏の出身である産経新聞は大嫌いなのですが、それでもこの記事の内容には同意します。また、この記事がYahooニュースという大手メディアに取り上げられた事は私にとっても嬉しい事です。日本人でも、実際に当時ベトナムで取材した人は、本当の事を分かっているんですね。この人も、私と同じ気持ちを40年以上持っていたのだと思います。ジャーナリストの意見にしては、批判の仕方がやけに感情的ですし。
 なお、この記事は池上氏個人の記事に対する批判という形ですが、この池上氏の見解は世の中にはびこるベトナム戦争への誤った認識の典型例に過ぎず、これは池上氏一人がおかしいのではなく、彼が育った日本の言論界全体が長年に渡って空想の世界に浸っていた結果だと私は思います。
 日本を含む先進国の人々の多く(右派・左派ともに)が持つベトナム戦争への歪んだ色眼鏡、つまりアメリカへの劣等感と、「アメリカに立ち向かう解放勢力」への空想じみた憧れを捨てて事実だけを見つめれば、この記事に書いてある事は、あの戦争に対するごく当たり前の認識だと分かるはずです。
 しかし情けない事に、「坑仏」や「坑米」という意図的に単純化された分かりやすくヒロイックなストーリーは、実に多くの人々の思考を停止させる事に成功しています。アメリカへの劣等感(ある意味でアメリカ中心主義)の中に生きる人々は50年以上、ベトナムという国を己の対米感情を肯定するための道具として利用し、歪んだ色眼鏡越しに見る気持ちの良い空想にしがみつき、事実をないがしろにしてきました。
 彼らは幸運にも手にする事の出来た言論と良心の自由をアメリカへの批判に傾ける一方で、ベトナム国民からその自由を奪ったホー・チ・ミンを初めとするベトナム共産党に対しては英雄視を続けてきました。彼らは、自分たちさえ自由なら、ベトナムや他の国の国民の自由などどうでも良かったのです。
 世の中には多くの知識人がいる事になっていますが、その多くはアカデミックなふりをしていても、結局は感情論を優先していると私は感じています。最初から感情的な結論は決まっていて、それに合わせて都合のいい情報を集め、研究したつもりになってしまう。これは大なり小なり全ての人間に当てはまる事ですが、しかしあれほど世間で評価されている池上氏のような人でもこのレベルなのは悲しいです。
 また、それだけに留まらず、なぜあれほど多くのベトナム人がフランス連合やサイゴン政府側についたのかについては、そもそもその存在を無視したり、または彼らを単に拝金主義で大国の帝国主義に迎合した日和見主義者と卑下する事により、「解放」という気持ちの良いストーリーの整合性を保とうとしている事が、私には我慢なりません。


  


2018年03月16日

マウタン1968(テト攻勢)から50年

マウタン1968犠牲者追悼式典

 今から50年前の1968年2月、ベトナムで最も神聖な祝日である元旦節(テト)を狙ったベトコン(ベトナム共産軍)による同時多発テロ<マウタン1968>、通称『テト攻勢』が発生し、ベトナム戦争始まって以来最大の犠牲者を出す大惨事となりました。
 このマウタン1968から50年目の節目を迎え、日本在住ベトナム人協会は2018年2月11日、神奈川県藤沢市の寺院においてマウタン1968の犠牲者を追悼する法要・式典を執り行いました。式にはかつてのベトナム難民を始め、現在日本に住んでいるベトナム人研修生や一般労働者、在日米軍のベトナム系アメリカ軍人らも参列しました。



映像: Hiệp Hội Người Việt tại Nhật

フエ虐殺事件目撃者の声

 また法要後の懇談会では、共産軍によって行われたあの惨たらしい事件を風化させないよう、当時その場でマウタン1968を体験した方々が、戦後生まれの若い世代に自身の体験を語りかけました。お世話になってる知人が、今回も話の内容を同時通訳してくださったので、その一部をご紹介します。


映像: Hiệp Hội Người Việt tại Nhật



ブウ氏

 ブウ氏は当時、フエ在住の13歳の少年であり、共産軍による26日間のフエ占領を体験しました。
 ブウ氏によると、フエでマウタンの戦闘が始まったのはテト二日目の夜であり、最初は誰もが銃声を爆竹の音だと思い、戦闘が始まったとは思いもしなかったそうです。
 しかし朝になると街は共産軍に占領されており、通りには共産軍の兵士たちが堂々と歩いていました。戦争とは無縁の生活を送っていたブウ氏はこの時初めて実際に共産軍の姿を見ましたが、当時は子供だったため特に恐怖は感じなかったそうです。
 しかしその日、フエ市内で拘留されていた共産ゲリラ容疑者が釈放されると状況は一変します。共産軍が住民の家々に押し入り、軍人、警察、政府関係者を次々と逮捕し始めました。ブウ氏の兄2名も軍人でしたが、その年はたまたま二人とも帰省していなかったため、父がその場で尋問されただけで済んだそうです。しかし父の友人であり恩師の神父は連行され、二度と帰ることはありませんでした。
 占領下の生活の中で、ブウ氏は自宅周辺では夜しか戦闘の音が聞こえず、なぜ夜だけなのか不思議に思っていたそうです。
 その後、共産軍は逮捕者リストを作り、再度ブウ氏の自宅に押し入ってきました。そして兄たちがフエには居ないことが分かると、共産軍はブウ氏の自宅を完全に破壊しました。翌朝、ブウ氏は瓦礫の中から家族の写真を探そうとしましたが、軍服姿の兄の写真が共産軍に見つかると危険なため、父に止められたそうです。
 まもなくフエ市街と対岸を結ぶチュンティエン橋が共産軍によって爆破され、大人たちは共産軍が撤退を始めたと言いいました。この時すでに、逮捕された数千人のうち約900名が市内で殺害されていた事が後に判明します。人々は銃ではなく、鉈などで頭を割られて殺されていました。そして残る4000名の逮捕者は撤退する共産軍によって郊外に連行されました。
 共産軍が去ったのを見計らい、ブウ氏らフエ市民はすぐさま政府軍のいる方向に避難しました。しばらくすると前からアメリカ軍の黒人兵士が走ってきて、市民たちに「逃げろ!」と叫びました。市民たちはこれでようやく共産軍の恐怖から解放されました。
 一方、共産軍に連行された4000名の人々は行方知れずでしたが、間もなく郊外で全員虐殺された事が判明します。生存者は一人もおらず、遺体が遺棄された場所の捜索に一年間かかりました。結果22箇所の地中から遺体が見つかりましたが、遺体の多くは白骨化しており、遺族は残された衣服などから家族の亡骸を探し続けたそうです。
 それ以来、家族が集うベトナム民族にとって最も幸福な祝日であるはずのテトは、フエでは虐殺の日、家族の命日として記憶されており、当時を知る家庭では今でもテトは祝われず、帰省もしないとの事です。
 ベトナムの歴史上、血塗られた虐殺事件は幾度もありましたが、それらは全て、中国やフランスなど、外国によって行われたものでした。しかしベトコン、ホーチミンは同じベトナム人に対してそれを行ったのです。


カイン氏

 カイン氏は当時サイゴンの大学に通う学生で、社会奉仕団体でボランティア活動をしていたため、フエ奪還から一週間後、復興支援の為フエに赴きました。そこでカイン氏らが任されたのは、共産軍によって虐殺された人々の遺体捜索・回収でした。
 カイン氏によると、人々は地面から比較的浅い深さに、座ったような姿勢ですし詰め状態で埋められていました。外傷のある遺体は少なく、ほとんどが生き埋めにされて殺害されていました。地中から掘り出された遺体は腐乱しており、ある時は野犬が遺体から足をちぎり取っていったため、カイン氏が犬を追いかけて足を取り返すといった事もありました。
 二週間の捜索で数百の遺体を掘り出した後、カイン氏はサイゴンに戻りましたが、その後半年間は肉を食べられなくなりました。この経験でカイン氏は共産軍の残虐性を目の当たりにし、人生観が一変します。そして共産軍と戦うため、翌69年に政府軍に志願入隊しました。





戦後世代の声


ザカット氏

 ザカット氏はフエ出身で、両親祖父母がフエ占領を経験しました。戦後、フエ虐殺は共産党政府によって闇に葬られましたが、当時フエにいた者なら全員、共産軍によって何が行われたかを知っています。私は戦後生まれですが、家族から当時の話を聞いていました。


ウエン氏

 ウエン氏も両親祖父母がフエ占領の恐怖を経験しました。しかし多くの一般市民は戦後、共産党政府による弾圧を恐れてそれを口にする事は出来ませんでした。ウエン氏の両親も、娘に戦中の事を詳しくは話しておらず、戦後生まれのウエン氏は、学校で教わった共産軍の英雄的な物語を信じきっていました。ウエン氏が自国の真の歴史、家族の思いに気付く事が出来たのは、成長してインターネットで国外の情報に触れる事が出来るようになってからの事でした。



また懇談会では私も意見を求められたので、僭越ながらほぼ唯一の日本人参加者の視点から私の考えを述べさせていただきました。

映像: Hiệp Hội Người Việt tại Nhật



 1946年以来、数限りないテロで大量のベトナム人の命を奪い、今現在もベトナムを恐怖と暴力で支配しているベトナム共産党政権は依然として、このマウタンを解放戦争の英雄的な戦果として喧伝しています。
 欧米や日本はもちろん、世界中のほとんどの国々が民主主義を重んじている今日において、普通、非民主的な独裁政権のプロパガンダが真実として受け入れられる事はほとんどありません。例えば中国や北朝鮮政府による主張や宣伝を鵜呑みにする人はほとんど居ないでしょう。
 しかし非常に残念な事に、ベトナムに関してだけは、特定の思想によって都合良く作り出されたプロパガンダが多くの人々の思考を停止させる事に成功しており、ベトナム共産党(現ベトナム社会主義共和国政府)というテロ組織の主張や宣伝が無批判に受け入れられてしまっています。
 私はこの記事を読んでいる方に今一度、ベトナムという国に対する認識の再考をお願いしたく思います。これは単なる『外国の歴史』の問題ではありません。この記事にあるのは今現在日本に住んでいる隣人の声です。そしてその声に耳を傾けるか事が、日本を「どんな残虐な独裁政権でも都合よく解釈して好意的に見る恥知らずな国」から、「正義と人道を旨とする矜持ある国」へと挽回する唯一のチャンスです。大げさに聞こえるかもしれませんが、本来こんなのは50年前にやっておくべきだった事であり、私の世代はもう目をそらす事なく、この50年分の誤り・怠慢と向き合っていく必要があると考えています。
  


2018年01月06日

美作市のホーチミン像問題

※2018年7月3日更新

筆者の別ブログ ベトナムウォッチと重複している記事を、ベトナムウォッチの方に一本化しました。

ベトナムウォッチ 『美作市のホーチミン像問題』



またこの記事の後、美作市役所に対する抗議運動が実施されました。

ベトナムウォッチ 『美作市ホーチミン像に世界のベトナム難民団体が抗議』
  


2017年07月08日

新ブログスタート

これまで当ブログでは、現在ベトナムの国内外で行われている民主化運動や、それに対するベトナム共産党政権による凄惨な弾圧について度々お伝えしてきましたが、この度、そういった戦後および現代ベトナムの社会問題に関するブログを新たに立ち上げました。

やはりどんなに真剣にそういった問題を扱っていても、他の記事で『戦争ごっこ』などという常識を欠ていると見られかねない遊びをしているようでは、ちょっと説得力に欠けるよなと前々から思っていました。

そこで、ちょうど先日、お台場で行われた在日ベトナム人によるベトナム共産党政権への抗議デモを取材し、そこで知り合った皆さんに必ずブログに書きますと約束したので、この際新しくブログを作る事にしました。これまでこの一番槍ブログに載せてきた記事も掲載してあります。

ベトナムウォッチ ※ブログ名を変更しました。


今後戦後および現代ベトナム関連の話題はこちらのブログに書いていきますが、記事をアップしたら一番槍の方にもリンクを貼ってお知らせします。

興味のある方は是非ご覧いただき、テレビでは報じられない、ベトナム国民の生の声に少しでも耳を傾けて頂けたら幸いです。
  


2016年12月03日

リュックのおまけ

先日知人が某所でオリジナルの『インディジネス・ラックサック』を入手しました。
これ自体かなりの掘り出し物だったのですが、さらにそのポケットの中から、面白いものが出てきました。


くしゃくしゃに丸まったB5サイズほどの紙2枚と、小さめの紙1枚です。あ!なんか出てきた~!と、思わぬおまけにみんなウキウキ。だけどそれはなかなかの古い紙で所々虫に食われており、無理に広げるとそのままボロボロと崩れそうなので、慎重を期して広げていきます。
するとその紙には、なにやらベトナム語が印刷されていました。おおー!これはもしかしたら、ベトナム戦争当時NKTやLLĐBなどのベトナム共和国軍特殊部隊員が使った当時の書類がそのまま入ってたんじゃないか!?と、一気に興奮しました。
でも誰もベトナム語が読めないので、それが何の書類なのかその場では分からず。なので僕がこれを借り受け、内容を調べる事になりました。
その後、一応自分でもGoogle翻訳を使って翻訳してみましたが、ベトナム人に読んでもらう方が確実なので、スキャンした画像を知り合いに見てもらったところ、以下の内容だという事が分かりました。

まず大きい紙の方は、何かの『返品請求書』だそうです。内容は記載されておらず、真ん中の表は注文商品、商品の説明、重量・サイズ、材質、数量、単価、合計金額がを記入する欄だそうです。また、このフォーマットの作成日は1983年3月24日と印刷されていました。

次に赤い印刷の紙は、手巻き煙草の巻紙のパッケージだそうです。こちらに印字されている日付は1988年9月12日となっていました。

両方とも1980年代の物なので、期待していたようにベトナム戦争時代の物ではありませんでしたが、これはこれで、このリュックが戦後も使われていた事の証拠と言えます。
1975年に戦争に勝利したハノイ政権は戦後、旧ベトナム共和国軍の装備品を接収し、戦闘機からブーツに至るまでベトナム人民軍の装備に加えてその後のカンボジアや中国との戦争に使用していきました。
なので1960年代初頭にアメリカ軍がCIDG向けの装備として設計したこのインディジネス・ラックサックも、戦後のベトナム人民軍で長らく使用されたそうです。
今回見つけたリュックが人民軍で使用された物かどうかはこれらの書類からだけでは判然としませんが、少なくとも80年代までベトナム国内で誰かに使われていた事は確かであり、このリュックが見てきたであろうベトナムの苦難の歴史につい思いを馳せます。

ちなみに、旧ベトナム共和国軍の装備品の一部は今でも人民軍で現役で使用されており、僕が今年ベトナムに行った時も、人民軍の基地近くの街道を米国製のM35トラックが何台も走っていました。またM113やXM706(V-100)装甲兵員輸送車もまだまだ現役であり、さらに近年、長年倉庫に眠っていたXM16E1/M16A1ライフルをカービン風に改修した『M18小銃 (Súng M18)』が新たに人民軍の特殊部隊に採用されるなど、いかに大量のアメリカ製装備が戦後も残っていたかを物語っていますね。

▲現在のベトナム人民軍陸軍の憲兵
車輌はともかく、M1ヘルメットやM69ボディーアーマーまで現役ってのには驚かされます。
決して物が無い訳ではないので、こうまでして使い続ける理由は多分、
単純に『見た目がカッコいいから』なんだろうなぁ。
  


2016年09月10日

オールインワンショット



一枚の写真にいろんなリーフ迷彩が写ってるナイスな写真見つけました。
カッコいいのでうちのブログのバナーに使わせてもらいます。

ベトナム陸軍空挺師団第1空挺大隊 [1969年1月 タイニン省]

(大きい写真なので2分割して載せてます)

①コマーシャル/シビリアン/インビジブル
②ERDL/グリーンリーフ
③レンジャー/エアボーン(パステル系)
レンジャー/エアボーン(エメラルド系)

※上の迷彩パターンの名称は戦後のマニアの間で使われるもので、当時のものではない
各迷彩については過去記事『ベトナム軍の迷彩』参照


ついでに、一枚にいろいろ写ってる系の写真をご紹介。

ベトナム陸軍第5歩兵師団 [1966年ニントゥアン省ファンラン]

 兵隊の持ってる銃がM1ガランド、M1/M2カービン、M1A1トンプソン、M1918A2 BARとバラエティー豊か。この写真には写っていませんが、M79グレネードランチャーやM3A1グリースガン、M1919A6機関銃も当時歩兵部隊で使われていました。
 この時期のベトナム共和国軍は武器が足りず、アメリカから供与された銃をとりあえず何でも使っていた感じです。その後、1966年にXM16E1ライフルがベトナム陸軍で正式採用されると、1967年末頃には一線級部隊の小銃は全てXM16E1/M16A1に統一されます。(士官・下士官はその後もあえて軽量なM1/M2カービンを携帯する事がありますが) また分隊支援火器も徐々にM60機関銃に更新され、60年代末には当時の米軍と同じ武装となりました。


サイゴンを占領したベトナム人民軍 [1975年4月30日サイゴン]

一枚の写真に、少なくとも4種類のカラシニコフ自動小銃(Vz58は見た目だけだけど)が写ってます。
・中国製56式自動歩槍
・AK-47系(ソ連製AK-47、中国製56式自動歩槍輸出型、北朝鮮製58式自動歩槍のいずれか)
・ルーマニア製AIM
・チェコスロバキア製Vz58

 スパイク銃剣の56式以外はどこ製だか写真からは判断しにくいですが、基本的には北ベトナム軍では東側諸国から輸入された各種カラシニコフがごちゃ混ぜで使われていたようです。一口にカラシニコフと言っても各モデルで部品の寸法が異なりますし、Vz58に至っては外観が似ているだけで中身は完全に別の銃なので、北ベトナム軍も外国からの援助兵器を次から次へと前線に送るだけで、結局終戦まで弾薬以外は統一する余裕はなかったようです。

 また各国のカラシニコフが見られるこの写真からは、ベトナム戦争が東西冷戦による代理戦争であった事、そして共産主義陣営に蹂躙されたベトナムという国の悲劇が見て取れます。
 僕が知り合った元ベトナム共和国軍人やそのご家族は、ベトナム戦争について皆さん口をそろえてこう言います。「我々は北ベトナム一国と戦ったのではない。共産主義陣営全体と戦っていたのだ」と。
 1973年、アメリカ軍がベトナムからの撤退が完了し、パリ協定による休戦が発効した段階で、ベトナム戦争は一時終息したかのように思われました。しかし北ベトナムははなっから休戦などする気はなく、アメリカが撤退したこの機を逃すまいと早々に協定を無視し、再び南侵を再開します
 この時点で北ベトナムはいまだソ連・中国の思惑を背景に周辺国への軍事侵攻を続けており、これまで通り東側諸国からの膨大な経済・軍事支援を受けていました。一方、ベトナムからの完全撤退を決めたアメリカや韓国、オーストラリアは政治・経済面でもベトナム共和国への支援を縮小し、ベトナム共和国は同盟国から見捨てられた形となっていました。これにより、それまでの東西の代理戦争という構図は終わり、アメリカという大きな後ろ盾を失ったベトナム共和国は、たった一国で共産主義陣営による侵略から自国を防衛せざるをえなくなりました。
 その後ベトナム共和国軍は2年近くにわたり単独で共産軍との戦いを続けましたが、多勢に無勢で1975年4月30日、ついに首都サイゴンが陥落し、ベトナム全土がベトナム労働党(現・共産党)の支配下に失陥したのでした…。


▲1973年以降のベトナム戦争の政治的構図
  


2016年08月18日

ベトナム戦跡めぐりダイジェスト

お盆休み中、ブログ書く時間は沢山ありました。
ところが去年から調子の悪かった自室のエアコンがついに本格的にイカれてしまい、冷えないどころか逆に熱風が噴き出るようになってしまいました。ダメだこりゃ。
もう暑くて部屋に居られないので、必然的にパソコンをやる機会が減っています。この記事書いてる今現在も汗ダラダラ。
なので、先月のベトナム紀行について書きたいことは山ほどありますが、詳しい記事は涼しくなったらにします。
とりあえず忘れる前に、戦史めぐりとして周った場所をダイジェストで。

トゥックズップ丘陵(Đồi Tức Dụp)

現在は革命戦争の戦跡として歴史公園になっています。射撃場があったので念願のM16A1をフルオートで撃ってきました。

チャウドック省(現・アンザン省)トゥックズップ丘陵/コートー山戦うベトナム陸軍第9歩兵師団兵士 [1970年11月]



クチ・トンネル (Địa đạo Củ Chi)

ベトナム観光のド定番、クチにも行きました。
射撃場でライフル撃ってたら、友人が「ちゃんとメンテしてあるかな?」とか言って、勝手にAK (中国製56式小銃輸出型)を分解してて笑えました。(注・良い子はマネしないでね)
ちなみにここは外国人観光客に人気のスポットだけあって、弾の値段はトゥックズップの4倍。ボッてるなぁ。もったいないのでフルオートでは撃ちませんでした。

あと、銃を選ぶ際、M16ライフルがAR-15と書いてあるのはまだ分かるけど、M1919A4機関銃がM30という名前になってるのはどうかと思う。"Cal.30"をモデル名と勘違いしたんだろうけど。



国道1号線ビエンホア街道 (Quốc Lộ 1)

▲政府軍と共にビエンホア街道で戦う民兵たち [1975年4月末]
4月21日のスンロク陥落以降、共産軍は国道1号線からのサイゴン突入を試みます。ビエンホア街道では周辺に住む住人たちも銃を取り、民兵として敵のサイゴン突入を阻止すべく戦いました。
友人曰く、戦後サイゴンでは多数の市民が山岳地帯に強制移住させられ、現在でも街全体で政府による思想統制が厳しいが、一方でビエンホア街道周辺の集落では強制移住は行われなかったため、現在でもハノイ政府を嫌っている住民が多いとの事。確かに、サイゴンでは街中にあふれていた金星紅旗と共産党旗が、街道沿いの家々にはほとんど掲げられていませんでした。


新港橋 (Cầu Tân Cảng)

国道1号線でスンロク~ビエンホア~サイゴンと移動し、1975年4月の足跡を辿りました。
なお、この橋のある位置は1975年以前と同じですが、現在のサイゴン橋は90年代に建て直されたものです。


▲サイゴンに通じる国道1号線最後の橋、新港橋(ニューポートブリッジ)を守る空挺師団第12空挺大隊 [1975年4月28日]



総参謀部 (Bộ Tổng Tham Mưu)

現在は人民軍第7軍管区司令部となっています。(現地で写真撮ってないので、画像はGoogleストリートビューより)
 
▲ベトナム共和国軍総参謀部正門 [1975年以前]



独立宮殿 (Dinh Độc Lập)

外からの写真はネットでいくらでも見る事ができますが、内部をじっくり見る事が出来たのは貴重な体験でした。
しかし、もし仮にベトナム共和国が現在まで存在していたら、こうして一般人が内部に入る事など出来なかった訳で、少々皮肉に感じました。

 
▲2階の庭園でフランスメディアのインタビューに答えるグエン・バン・テュー総統 (https://youtu.be/2kQZxgjCPjg?t=3m40s)


バチュク祠墓 (Nhà Mồ Ba Chúc)

 
 ベトナム戦争終結後の1978年、かねてよりベトナムと領土・民族問題で対立してきたカンボジア(ポル・ポト政権)がベトナムに軍事侵攻した際、国境から3kmほどの位置にあったバチュク村のベトナム人住民3000人以上がカンボジア兵に殺害されるバチュク村虐殺事件が発生しました。ここは、その時の犠牲者の遺骨を安置・供養する祠墓です。
 このバチュク村の事件はベトナム国民に、カンボジアへの非常に強い敵愾心を抱かせ、現在でも祠墓の隣にはカンボジア兵がいかに残虐な行為に及んだかを展示した資料館が併設されています。一緒に参拝した私の友人も、ベトナム人としてポル・ポト派への憎しみを露わにしていました。
 確かに、こうして大量の遺骨を前にすると言葉に詰まるものがあります。しかし私はベトナム人ではないので、外国人として、一歩引いた目線で見る必要があると感じました。
 カンボジア軍の侵攻後、ベトナム人民軍は報復としてカンボジア領に侵攻し、カンボジア・ベトナム戦争に発展。ベトナム軍はプノンペンを占領し、カンボジアに殺戮の嵐をもたらしたポル・ポト政権を崩壊させますが、ベトナムが擁立した新政権(ヘン・サムリン政権)を拒絶するカンボジアの反ベトナム三派は新政府とカンボジア駐留ベトナム軍を攻撃し、カンボジアは再び長い内戦の時代を迎えます。
 一見ベトナムは正当防衛を行ったかのように見えますが、中越戦争に至った中国との緊張を背景に、カンボジア・ベトナム戦争終結後もベトナム人民軍がカンボジアに駐留し、カンボジアに干渉し続けたが為にカンボジア内戦が長期化した事は周知のとおりです。その間のカンボジア国民の犠牲者数は、バチュク村の比ではありません。この事件は結果的に、カンボジアに干渉する口実を欲していたベトナム共産党政府にとって願ってもない宣伝材料となり、だからこそ今こうして立派なモニュメントが建設されている訳です。
 一方で、現政府にとって不都合な事件、例えば1954年にホー・チ・ミン政権が自国領内の地主階級を1万人以上処刑した大粛清や、10年以上続いたベトコンによる一般市民へのテロ・虐殺などについては、犠牲者を追悼するどころか、全て無かった事にされています。この国では、歴史は政府の都合で決まるのです。
 それを踏まえた上で、私は同じ人間として、不幸にも命を奪われた無辜の人々をただひたすら追悼しました。と言うか、それ以上の事はしてはいけないと思っています。これはベトナムに限らず、こういう惨たらしい事件をここぞとばかりに宣伝に使い、新たな惨劇を欲するあらゆる勢力への、私にできる精一杯の抵抗です。

 
  


2016年08月09日

ビエンホア国軍墓地

※2016年8月17日更新
※2023年4月30日更新

 顔なじみにはもう既に話しましたが、先月、10日間ほどベトナムを訪問してきました。
 ベトナムでは、友人(ベトナム系アメリカ人)の親戚の家にホームステイさせてもらっていたのですが、が帰国した後も彼は2週間ほどベトナムに残っていたので、彼がアメリカに帰国するまでは安全のため、我々がどこに行っていたのかインターネットには書かないという約束でした。
 その友人が先日、無事アメリカに帰国したので、これからたちが訪れた場所を紹介していきます。

 まず、実際に訪れて最も強い衝撃を受けたのが、ビエンホア国軍墓地 (Nghĩa Trang Quân Đội Biên Hòa)でした。
 ビエンホア国軍墓地とは、1961年に着工、1967年に完成したベトナム共和国の軍人(および司法・行政関係戦没者)墓地で、125ヘクタールの広大な敷地に最大30,000基の棺を埋葬できるベトナム最大の国立墓地でした。
 このビエンホア国軍墓地には、ピーク時の1968年(テト攻勢)、1972年(イースター攻勢)に合わせて10,000名もの殉職者が埋葬され、1975年の終戦までに計18,318基のお墓が建立されました。

▲1975年以前のビエンホア国軍墓地
墓地の正面にはビエンホア墓地のシンボルである銅像『追悼像(Thương tiếc)』、小高い丘の上には霊廟『死士殿(Tử Sĩ)』、墓地の中心には高さ43mのコンクリート塔『義勇塔(Nghĩa Dũng )』が建立された。





 ここを訪れて弔意を捧げる事は、今は無きベトナム共和国という国に少なからぬ縁を持った私にとって人生の夢でしたが、同時に非常に危険を伴う困難な目標でもありました。
 なぜならベトナム社会主義共和国は1954年以来、60年間以上に渡ってベトナム共産党による一党独裁体制な訳ですが、彼ら国内の求心力を維持し、自分たちの独裁体制を維持し続けるために掲げられる大義名分は、かつて『フランス・米帝とその傀儡から人民を解放した』という過去の功績しかありません。そしてその為にベトナム共産党は、自分たちが打倒したベトナム共和国という体制を徹底的に悪の権化と宣伝し、1975年以前の南ベトナムに存在したありとあらゆる価値観を、音楽や芸術に至るまで破壊しつくしてきました。そして現在でも、国民が政府を批判する事は許されず、ましてベトナム共和国という旧体制を好意的に見る事は弾圧の対象とされています。(法律に明文化されている訳ではないが、政府に不都合な事は何でもベトナム社会主義共和国刑法245条『公共秩序騒乱罪』で逮捕される)
 しかし一方で、今日ではインターネットの普及によってベトナム共産党による長年の悪政に対する批判が噴出しおり、政府は見せしめのために抗議運動の指導者を次々と逮捕するも、それによってさらに国民の怒りが炎上するという『アラブの春』の前段階に似た状態となっています。さらにその中には、独裁政権下で隠蔽されていたベトナム共和国時代の真実をネットによって知り公然と旧ベトナム共和国という体制を肯定する若者たちもかなり増えてきました。少なくとも私がFacebookで友達になっている400名のベトナム人はそういう人たち。また彼らは旧南ベトナム地域出身者に限らず、ハノイを中心とする北部にも反共産党・親ベトナム共和国派の若者が大勢います。こうした状況の中で今日では、ビエンホア墓地は旧政府時代の国立墓地というだけでなく、ベトナム共産党による支配を阻止するため、祖国ベトナムを守るために戦った英霊の眠る神聖な場所として、現代の反体制派ベトナム人にも再評価されるようになってきました。
 しかしこういった流れは独裁体制を維持したい現政府が最も危惧していた事であり、ベトナム警察はそうした反体制運動への取り締まりをより一層強化しつつあります。なので、パスポートを提示して入国せざるを得ない外国人の私が、警察の目を逃れてこの墓地に赴くことは非常に困難だと考えていました。


偶然にも私がビエンホアを訪れる二日前に、別のベトナムの若者たちが共和国軍を偲んだ軍服姿でビエンホアを参拝し、警察が出動したというニュースが流れました。

 しかし去る7月上旬のある日、ある米国在住の友人から突然「今ベトナムに居る。君も来るならビエンホアに案内する」と誘いを受けてしまいました。は正直、行くかどうかかなり迷いました。ただでさえベトナムは、気に食わない人間は外国人でも平気で不当逮捕(=罪状なしで拉致監禁)する国だし、ビエンホア墓地はその中でもかなり監視が厳しい所だろうし、がどういう人間かはインターネットを通じて監視されているだろうし・・・。
 でも今なら、向こうの事情に通じた友人たちがエスコートしてくれると言う。今行かなければ、次に行けるのは何年後になるか分からない。誘われてから丸一日じっくり考えた末、意を決してベトナム行きの航空券を買いました。

 そしてベトナム入国二日目に、私とベトナムの友人5名(うち2名は参拝後すぐ立ち去れるよう車で待機)でビエンホア国軍墓地に赴きました。車の中で友人たちに「ここは監視が厳しく普通のベトナム人ですら危ないが、外国人は特にマズいので、タイガは言葉を話すな」と指示を受けました。また携帯電話を持っているだけでも警察が飛んで来るので、スマホも全員車内に置いて行きました。なのではこの場所で写真を撮っていませんが、友人は腕時計型カメラ(秋葉原とかで売ってるやつ)を身に着け動画を撮りながら行ったので、後日彼が製作しているドキュメンタリー映画でその時の動画が使われるそうです。

 このビエンホア国軍墓地は霊廟、義勇塔、墓地の三つで構成されています。 そのうち、義勇塔は戦後、共産主義者によって塔が半分ほどに取り壊されました。 また兵士たちの墓石は残っており、遺族によって整備・維持されているものの、墓石に刻印された顔写真の多くは戦後に破壊されました。しかしこの二つは監視が厳しいため、今回はお参りしませんでした。一方、丘の上の霊廟は人目に付きにくいたため、我々は残された霊廟にお参りする事にしました。
 しかし車の中からも確認していましたが、霊廟の門のあたりには私服警官らしき男たちが張り込んでいたので、我々は地元民を装って門を素通りし、そのまま数百m歩いて丘の裏手にまわり、周囲に人が居ない事を確認してから霊廟裏手の階段に進みました。
 そこは、死者が眠るかつての荘厳な景色の面影など一切ない、ただの雑木林と化していました。最初は40年も放置されれば木も生えると思っていましたが、階段を登っているうちに、これらの樹木は人為的に植えられたものである事に気付きました。石段から直接、段毎に等間隔で木が生えています。これは明らかに、この施設が周辺住民の目に入らぬよう、霊廟を木々で覆い隠す目的で植えられたものでした。

(↓私は現場で写真を撮っていないので、以下の写真は他の人が違う言う日に撮影したものです)
 

 一度林の中に入ってしまえば、外で見張っている警官からは見えないので、霊廟の正面と内部で焼香させていただきました。それは、私がベトナム共和国軍に興味を抱いてから13年目にして迎えた、最も心の震える瞬間でした。
 戦死者約20万人、戦傷者100万人もの大きすぎる犠牲を払いながら、国際社会から無視され、越共テロル政府から国を売った悪魔と喧伝され、無知なミリタリーマニアから嘲笑の的にされ続けるベトナム共和国軍。彼らの霊が癒される時は果たして来るのでしょうか。私はただ、心の中で彼らの無念を偲ぶ事しかできませんでした。
 私は今回、こうして不可能だと思っていた夢を叶えました。しかし少しもハッピーな気持ちにはなれません。この夢のフィールドにあったのは、悲しみと怒りだけでした。動画を撮影している友人は、私に感想を尋ねました。しかし、答える言葉が見つかりません。この邪悪な行いに対する感想を、どう英語で表現したらいいのか私には分かりませんでした。
 一般に、戦争とは異なる立場の人間同士の衝突であり、一概にどちらが良い悪いと言いきれるものではないという事は承知しています。しかし、このように死者の眠る場所を冒とくし、あまつさえ全ての墓標を破壊し全て無かった事にしてしまうなどという行為は、どんな大義名分があろうと『悪行』以外の何者でもありません。
 私はかねてより、ホー・チ・ミンらベトナム共産党がいかにベトナムという国を不幸のどん底に叩き落したかという事を主張してきましたが、今回実際にこの目でその惨状の一部を目の当たりにし、改めて彼らが行った『解放』と『統一』の正体を再認識させられました。

 願わくば、この隠伏の木々が鎮守の森の役目を担い、来るべきベトナムの再出発の日まで、この地に眠る霊たちを守り続けん事を。
  


2016年06月13日

めぐりあい東京

先週末は友人たちと都内各所をめぐってきました。


土曜日

【ベトナムフェスティバル2016】

流暢な日本語を話すベトナム人三人組(笑)

お祭りは例年通り大盛況。暑かった~

昼飯は久しぶりのバインミー。去年カリフォルニア行った時は、一日二食はこれ食べてたなぁ。
朝リトルサイゴンでバインミー買って、ハリウッドのユニバーサルスタジオに持ち込んで中で食べたり。
なお夕飯は主に、アナハイムのスーパーで買ったカップラーメンという貧乏旅行っぷりでした。

デガ(タイグエン地方の山岳民族)の伝統楽器の奏者さん。でもこの人はデガではなくキン族っぽいです。

あと写真は載せないでおきますが、山岳民族の子供たちへの生活支援を呼びかけるブースに掲げられた逆さ吊りの金星紅旗にはドキッっとしました。このイベントは完全に越共政府系だし、しかもブースは運営本部の隣のテントです。なぜ誰も指摘しないんだ?
ブースに居た人たちがキン族なのか少数民族なのか見た目では分かりませんでしたが、あの旗を掲げる政府が少数民族に対し何をしてきたかを考えると、何らかの意図がある行動なのではと勘ぐってしまいます。ナチが自国のゲットーを紹介しているようなものなので。


【原宿 竹下通り・表参道】

実はメコンデルタ生まれのS君が仕事の都合で近々東京を離れるそうなので、せっかくなのでベトナムフェスティバルの会場である代々木公園から歩いて竹下通りと表参道を見学。
フッ、俺のような埼玉生まれアニソン育ちには、ベトナムより遠い異国に感じるぜ・・・


【江戸東京博物館】

原宿の後は僕のお勧め、両国の江戸東京博物館へ移動。
ここは街のミニチュアが見応えあるし、江戸~昭和の建物が1/1で再現されていたりで超面白いです!
模型で展示されていた御茶ノ水のニコライ堂はまだ同じ場所にあるよと言うと、S君がぜひ行ってみたいと言うので、翌日行くことにしました。

シクロ・・・ではなく明治時代の人力車に乗るT君。ズボンとハットが共和国軍だけど、ベトナム兵と言うよりは危ないお兄さんだ。


【日高屋】

夕飯は寿司にしようという話になり、スマホで検索するも、都内は回転寿司でもまぁまぁ高い店ばかり。一皿100円が見つからない。
仕方ないので、ラーメン・中華料理の日高屋に入る。うん、俺たちはこういう所が合ってるんだよ。安いし煙草も吸えるし最高だね。
ちなみにS君は日高屋のヘビーユーザーなので、ありがたく大盛り無料券を頂戴する。いろいろ喋くってこの日は解散。



日曜日

【東京国立博物館】

朝10時、S君と上野公園で集合。彼のたっての希望で東京国立博物館を見学する。
彼はなかなかの歴史趣味人なので、こういう場所が大好きなんです。

モンゴルのシャガイ占い(家畜のくるぶしの骨を投げてその向きの組み合わせで吉凶を見る)体験で大吉的なものを引いたS君。良い門出になったね!

5時間くらいかけてくじっくり見学してきました。彼は三国志の大ファンなので、古代中国の展示物の豊富さにも大満足してくれました。
一方、S君が言うには、ベトナムではフランス植民地時代に陶器などかなりの数の歴史遺産が海外に流出してしまった為、自国に残っている物はあまり多くないのだそうです。フランスは植民地支配を終えても、一度ぶん盗った美術品をその国に返すなんて事は絶対にしないので。
彼はいつの日かルーブル美術館にベトナムの遺産を見に行きたいと言っていました。いいね。お金ができたら一緒にフランス行こう。


【上野東照宮・花園稲荷神社】

博物館の後は、上野公園内の僕のお勧めスポットへ。
中学時代はよく埼玉から中田商店・松崎商店までチャリで通ってて、そのついでに上野公園にもよく来ていたので、ここは僕にとって都内で一番馴染みのある場所です。
(そういえば先日、テレ東の『モヤモヤさまぁ~ず』で松崎さんが取材されてましたね。テレビの前で大爆笑してしまいました)

まず、補修工事が終わった上野東照宮にお参り。拝観料ケチって中には入らず。

 
次に、鳥居が京都の伏見稲荷っぽい、花園稲荷神社へ。
京都のは常に観光客で一杯だけど、こっちは人が居ないし、穴稲荷様はなかなか雰囲気のある場所だから、僕はここが大好きです。


【ニコライ堂】

上野をあとにし、昨日江戸東京博物館でS君が興味を持った御茶ノ水のニコライ堂(東京復活大聖堂)へ。

こちらは明治時代に建立された日本ハリストス正教会(キリスト教ギリシャ正教会)の教会で、その歴史的価値から、信徒以外の人も聖堂を拝観させて頂くことが可能です。
S君の故郷ベトナムにはローマカトリックの教会は沢山ありますが、正教会はまずありませんし、日本にあったという事にも驚いてました。


【アメ横】

この後はS君の自転車を停めてある上野に戻り、アメ横で夕飯を食べる事に。
昨日に引き続き寿司屋を探すも、やはり全品一皿100円な激安店は見つからず。
でもここには安くて美味しい海鮮丼屋(以前タイのみんなを案内した店)があるので、今回もそこで夕飯を食べました。


【上野公園】

ご飯あとは、足が超疲れたので上野公園の彰義隊の墓の近くで座って駄弁る。もう当分会えなくなるので、暗くなるまでいろんな話をしました。
その中でS君に、僕の夢は何かと聞かれました。僕は「土地買って自分専用のFSB(ファイヤーサポートベース)作って、そこでBB弾を使わないベトナム戦争リエナクトやりたい」と答えました。だけどそれは遊びとしてやりたい事であって、真に心から求めるものという意味では、僕はすでに夢の入り口に立ち入っている気がします。
この10年、寝ても覚めてもベトナムの事ばかり考えてきた僕が、ベテランの方々に受け入れて頂き、こうしてベトナムの仲間と本当の友達になれたのだから、こんなに嬉しい事はありません。僕にとってこうした出会いは本当に運命めいたものに感じられます。なんかS君にも、他のベトナム人にも、「君の前世は共和国の兵士でしょ」って言われるし(笑)
その上で強いて望みを言えばそれは、いつの日か大手を振ってベトナムに行き、ビエンホアの共和国軍軍人墓地をお参りする事です。これが僕の本当の夢ですね。でも今はまだ出来ません。ナンシー・グエン(※)と同様、政治犯としてベトナム警察に拉致されかねないので。

ナンシー・グエン(Nancy Nguyễn)さん
アメリカの人権活動家。ベトナム系アメリカ人。2016年5月、昨今ベトナムで深刻化している海洋汚染への抗議デモ参加の為サイゴンを訪れた際、宿泊先のホテルで突如ベトナム警察に拘束・監禁される。その後、たまたまオバマ大統領の訪越が重なり、無事解放されたが、外国人すら逮捕状なしに拘束するベトナム共産党の恐怖政治ぶりを世界に示した事件でした。


S君も「タイガさんは危ないからベトナムに行かない方がいい」と言いますが、同時にこうも言ってくれます。。

「そのうち出来るよ。そんなに遠くないうちに。ちょっと待ってて」

頼もしい言葉です。僕は本当に良い友達を持てて幸せです。
短い間だったけど、本当に良い思い出になったよ。
新しい街に行っても元気でね!また会おう!
  


2016年01月26日

ベトナムで大雪...

東アジア全域を襲っているこの異常な寒波は、日本でもニュースになっていますが、
一昨日にはハノイに住んでる友達からこんな写真が送られてきました。

2016年1月24日ハノイ市内


さらにハノイより200kmほど南に位置するゲアン省もこんな状態。

 


最低気温-4℃って、ウチより寒いじゃん。。。

ベトナムでは過去にも、2013年に中国国境に面するライカオ省サパで雪が降り、その地域の農業に深刻なダメージを与えたそうですが、今回のはそれを大きく上回る異常気象ですね。
『ベトナム北部に降り続ける「異常な降雪」での被害が拡大』 地球の記録 http://119110.seesaa.net/article/383540111.html
『Sa Pa snowfall damages farms』 Viet Nam News http://vietnamnews.vn/society/249033/sa-pa-snowfall-damages-farms.html

一方、ベトナム国内では、積雪を珍しがって見物に来る人が大勢いるそうで、当局は交通事故等を警戒し、降雪地域での『観光目的』での移動を4週間禁止にしたそうです。
『Những lưu ý khi du lịch vùng băng tuyết』 VTC News http://vtc.vn/nhung-luu-y-khi-du-lich-vung-bang-tuyet.594.592310.htm

普段温暖な台湾では、家庭に暖房器具が無いために、この寒さで高齢者を中心に80名以上が低体温症で亡くなられたそうです。
当然、台湾よりもはるか南に位置するベトナムの一般家庭に暖房なんてまず無いでしょう。まだそういったニュースは伝わってきていませんが、心配です。


以下、私事
実は僕、日本の寒さから逃れるために来月台湾旅行に行く予定だったんですが、寒いのかなぁ・・・
  


2015年12月23日

グエン・ベト・ズン裁判


 去る12月14日、今年4月に逮捕されて以来8ヶ月間も警察署に拘留されていたベトナム民主化運動ブロガーのグエン・ベト・ズン氏に対する裁判が、ハノイ市内のホアンキエム地区人民裁判所で行われました。
 グエン・ベト・ズン氏(ハンドルネーム: ズン・フィー・コ)は、僕と同い年で、1986年にゲアン省イェンタン地区ハウタンの貧しい農家の一人息子として生まれました。彼は子供の頃から聡明、勤勉で、友達思いの少年だったそうです。
 2004年にはゲアン省主席としてハノイ工科大学に入学しましたが、3年生の時に反中国デモに参加したために退学処分となりました。(反中デモは、ベトナム政府の望む時には奨励されるが、そうでない時は取り締まられる)
 その後、ズンは昨年2014年4月30日(サイゴン陥落の日)、旧ベトナム国旗(共産政権以前の伝統的な国旗)を自宅に掲揚したため、そのベトナム民族の旗が他の農民の目に入らないよう、治安部隊に自宅の周囲を封鎖されるという事態となりました。(違法行為ではなく、逮捕はされたが不起訴となった)
 強い人権意識と愛国心を持つズンは2015年4月2日、フェイスブックに民主化運動ページ『共和党(Đảng Cộng Hòa)を設立。その1週間後の4月9日、仲間と共にハノイ市内で街路樹保護を訴えるデモに参加します。そしてデモ参加4日目の4月12日、ズンは他の4名の仲間と共に突如ホアンキエム警察署に逮捕されました。

【逮捕から現在までの経過】

2015年4月12日、ホアンキエム警察署に逮捕される。本来容疑者の逮捕は直ちに公にされるが、ハノイ警察は逮捕の事実を隠蔽する。(つまり法に則った逮捕ではなく、警察官による拉致に等しい)
4月19日、逮捕から1週間後にハノイ警察がズンの逮捕を公表。罪状はベトナム社会主義共和国刑法第245条に基づく『破壊活動』および『公共秩序騒乱罪』だったとする
4月20日、捜査の結果、違法行為がなかったため、ハノイ警察は刑法第245条の容疑を取り下げる(普通ならこの時点で釈放される)
同日、ハノイ警察は容疑を『精神障害による異常行動』に変更し、釈放せず。以後ズンらは8ヶ月間に渡り拘留され、拷問を含む厳しい取調べが行われる
ハノイ警察は再び刑法第245条『公共秩序騒乱罪』でズンらを起訴
12月14日、裁判開廷


逮捕当日のズンと4名の仲間(4月12日ハノイ)


▲息子の無実と解放を訴えるズンのご両親(ゲアン省)

▲ズンの弁護を引き受けた弁護士のレ・バン・ルアン氏(左)、チャン・チュー・ナム氏(右)は11月3日、ハノイ市内で7名の暴漢に襲撃され大怪我を負った

▲裁判開廷。ズンの解放を求め裁判所前で抗議する市民(12月14日ハノイ)


▲抗議に集まった市民の多くが、ズンの実家があるゲアンの貧しい農家の人々であった

 
▲市民らは警察官によって締め出され、裁判所前は閉鎖された。裁判所は今回の裁判を『公開裁判』と規定しているが、市民が傍聴席に座ることは許可されなかった

▲抗議に参加した三名の弁護士(チャン・チュー・ナム氏、グエン・カー・タイン氏、ボー・アン・ドン氏)
ズンの弁護団の一人、チャン・チュー・ナム氏は裁判所から強制的に退場させられ、弁護はレ・バン・ルアン氏一人のみで行われた


そして、3時間足らずの裁判でズンに下された判決は懲役15ヶ月の有罪判決でした。
無実の市民を不法に拘束し、裁判まで8ヶ月間も拘留した上に、さらに15ヶ月間も投獄するという卑劣極まりないハノイ警察・ベトナム政府の姿勢に、私は憤りを禁じえません。
また、こうした弾圧に晒されているのはズン一人ではありません。これまで数え切れない人々が、ベトナム国内で人権・民主化・言論の自由を訴えたがために、党に危険分子と見なされ逮捕・投獄されました。

 


しかし恥ずべき事に、日本ではこういったベトナム共産党政権による国民への弾圧は全くと言っていいほど知られていません。
本来、こういう報道はメディアや人権団体が行うべきなのですが、日本の言論界は呆れるを通り越して情けないくらいベトナム共産党びいきですし、日本国民もベトナム国内の問題になど興味ないので、ニュースになる見込みはありません。
それどころか日本国内の知識人は、右派・左派が一致してベトナム共産党を好意的に見ているのが現状です。
彼らの論調は、大まかに言えば、さしずめ以下の二点といったところでしょう。

・中国が嫌い・目障り!だから、中国と対立しているベトナムは親日!共に経済・防衛関係を発展させ中国に立ち向かいましょう!(日本の利益にならない話は興味ねーよ。面倒臭い話はそっちで勝手にやってくれ)

・アメリカを追い出した真の独立国!ホー・チ・ミンの気高い理想でベトナム国民は救われた!(理想の為には独裁政権や100万人の難民くらい仕方ないさ。それも過去にフランス・アメリカによる支配があったが故の結果で、政権が悪い訳じゃないさ。てゆーか、『坑米』の部分しか興味ないわ)

どちらにせよ、ベトナム国民の事なんてこれっぽっちも興味ないのは確かですな。

サイゴンに住むある若者は、私にこう訴えかけてきました。

M: 「なぜか欧米のメディアは、ベトナム戦争の頃から越共びいきなんだ。僕は奴らが憎いよ。民主主義国家に住む人間は、独裁政権がどんなに悲惨か想像できないんだ。外国人なんて旅行でちょっとベトナムを見ていくだけで、もう二度と来ないだろう。奴らは試しに、ベトナム・中国・北朝鮮に1年間住んでみればいいんだ。そしたら少しは利口になるさ。越共を支持する欧米メディアに、民主主義を享受する資格なんてないよ!」

私: 「日本のメディアも同じさ。奴らはアメリカを批判すること=知的だと思っていて、その為にあなたの国の不幸を利用しているのさ。奴らは「戦争反対!」と叫ぶ一方で、越共による20世紀後半最悪の『解放』戦争を支持していたんだもん。単に幼稚な正義感を振り回したいだけで、ベトナム国民のことなんて眼中にないよ。」

M: 「しかし、なんでIS(イスラム国)は非難されるのに、越共は支持されるんだ?やってる事はまるで同じなのに...」

私: 「ISは欧米人も殺すから問題視される。越共は自国民を殺すだけだから、欧米や日本は、何にも困らない。」

M: 「なるほど...」



なぜ私は熱心にこういう記事を書くのか。
このブログの他の記事を読めば、単に私がベトナム共和国(南ベトナム)軍が好きだから旧南ベトナム政権を支持し、その敵を非難していると思われるかもしれません。
私自身は、趣味とこの問題はまったく別であり、分けて考えているつもりですが、ちょっと説得力に欠けることは自覚しています。この趣味が無ければベトナムに興味など抱かなかった訳で、そういう意味では、趣味が入り口であったことは否定しません。
ただ、ブログにはあまり書きませんが、私はベトナム趣味と同時にナチス・ドイツ、特にSSのマニアである事は一部の人に知られています。だけど、あんな腐れレイシストどもを庇う気など微塵もないので、その一線は引いているつもりです。
当ブログをよく読んでもらえば、100件以上ベトナム共和国時代の記事を書いていながら、当時のベトナム共和国政府を賞賛した事など一度も無いことが分かると思います。
その上で、偶然か必然か、私は日本に住みながら彼らベトナム人の過去・現在と関る機会を得ました。そして彼らの生の声を聞く度に、心が強く動かされます。
安直に善悪の二元論を振り回すのは馬鹿の十八番だし、そういった価値観は相対的なものであることは中学生だって知っていますが、かと言ってそこで不貞腐れて、見て見ぬふりをしたり、利口ぶってシニカリズムに走るのは、大人としてみっともない事だと私は思っています。
こうして記事を書く度に、ベトナム共産党の弾圧を逃れて難民として海外に脱出した在日・在米ベトナム人たち、そして今もベトナム本土に住む人々から、たくさんの感謝と励ましの声を頂きます。
幸運にもこの機会を得た以上は、世界中の誰も耳を貸さない、忘れ去られた彼らの声を代弁することは、私の使命であると考えています。

最後に、ズンが逮捕の直前に人々に向けて語った、ズンの好きなロックバンドGuns N' Rosesの歌詞の一文を紹介します。


"You can't trust freedom when it's not in your hands"
~自由を信じる為には、まず自由を手にする必要があるんだ~(意訳)
Guns N' Roses - Civil War

  


2015年12月05日

12月ですね

関東地方のラーメン二郎全店喫食完了

二郎を食い始めてから約7年。正直関東全域周れるとは思ってなかったけど、最近仕事で神奈川方面に行くことが多くなったお陰で達成できちゃいました。(閉店・長期休業の店舗を除く)
ラストは、昨日行った桜台駅前店。そんなに遠くないので過去二回トライしているんだけど、店の前まで行って、定休日や臨時休業で開いてないことに気付くという情けない失敗を繰り返してしまった因縁のお店でした。
それが昨日で一区切り付いて、ほっとしています。ごちそうさまでした!



全店制覇までは、残り5店舗。(休業中の立川店含む)
ここからは長い道のりになりそうです。
さすがにラーメンのみを目的に行ける距離ではないので、何かの用事でそっち方面に行く機会があれば多少無理してでも食べに行こうかな、といったところです。




新しい友達

先日Facebookで友達になった日本在住のベトナム人S君から、一度会って話しませんか?とメッセージが来たので会ってきました。
いろいろ脅迫を受けている身としては、正直本土から来たベトナム人に対しては警戒心を抱いてしまうので、人通りの多い池袋駅で待ち合わせ。相手が複数人いたらそのまま逃げるつもりでした。
しかし幸い、S君は一人で来てくれたし、テロリストでもなかったので良かったです(笑)
彼は(僕のコスプレ写真みて喜ぶくらいなので当然)現在のベトナム共産党政府に批判的な立場の若者ですが、民主派というよりは、純粋にベトナム共和国軍の戦史マニアって感じでした。
デニーズでお茶しながら色々話しましたが、僕がS君に「どこの出身?」と尋ねると、「メコンデルタの方の街。共和国軍の第7、第9、第21師団がいたあたり」と、細かい部隊の配置までスラスラでてきます。ワーオ!
さすがにベトナム語が読み放題なだけあって、僕なんかよりずぅ~と共和国軍の戦史や軍人の経歴に詳しいです。羨ましい。
また彼は日本で働くという夢を持ってサイゴンの大学で日本語を学び、大阪大学に留学し、現在は東京都内の会社に就職しているので、日本語ペラペラです。
なので、僕が共和国軍の事を勉強するためにベトナム語を頑張って訳してる事を知ると、「それなら私が日本語に訳しますよ!」と申し出てくれました。超ありがたいです。
さすがに翻訳したい文章を全て丸投げする気はありませんが、どうしても理解できない文については今後彼にお願いしようと思います。

ちなみにS君が一番好きな共和国軍人はニョ・クアン・チュウン (Ngô Quang Trưởng)中将。
政治に進出して大物になった将軍は多いけど、純粋に軍人としての指揮能力ではチュウン将軍がベトナム戦争の中で最高だよ!」といたく尊敬してました。
【チュウン中将の経歴】
空挺旅団副指令(1964-1966)
第1歩兵師団長(1966-1970)
第Ⅳ軍団司令(1970-1972)
第Ⅰ軍団司令(1972-1975)


その一方で、彼は軍装に関しては素人なので、その分野では僕が先輩です。
せっかく池袋にいるので、S君に「この近くに有名な軍服屋があるよ」と伝えると、是非行ってみたいと言うので、そのまま二人でサムズさんにお邪魔してきました。
まさか日本で旧ベトナム共和国の国旗が販売されているとは思いもよらなかったようで、各種サイズの国旗のどれを買おうか目を輝かせながら選んでいました。

あと意外だったんですが、僕が「さすがに共和国の旗は無いだろうけど、今はアメリカの国旗くらいならベトナムでも売ってるんじゃん?」と訊いたところ、「いや、売ってるの見たことない」とS君は言ってました。
社会主義ベトナムは、今でこそ中国と揉めているふり(※)をしているためアメリカと協調する姿勢をとっていますが、それでもかつての敵国であるアメリカの国旗は、まだ一般人が買えるものではないようです。
だってアメリカを悪の帝国主義者って事にしておかないと、ホー・チ・ミン政権以来60年間続いている『坑米』やら『解放』やらのプロパガンダが全部嘘だったとバレちゃうから。
※いくら領土問題で国民感情が悪化しようが、実際にはベトナム経済の中国依存は深まる一方。ベトナム共産党は、国民の不満を外国に向けさせ、政府の求心力を維持するというテンプレ通りのガス抜きをしているだけで、上辺だけ中国と『対立しているふり』をしているに過ぎないと考えます。党幹部が中国関係の莫大な既得権益を手放す訳が無いし。



地方部隊の史料


いい資料み~けっ!アメリカ陸軍戦史センター編纂の、ベトナム共和国軍地方部隊に関する資料(1981年)です。
地方軍(DPQ)、義勇軍(NQ)、人民自衛団(NDTV)、農村開拓団(XDNT)など地域ごとに組織された部隊の詳細な記録が盛り沢山。
これ一冊で洋書数万円分以上の価値があるとおもいます。(文字だけで、写真は無いけど)
それがなんと、アメリカのテキサス工科大学のサイトで公開されてました。
PDFは5つに分かれているので、以下ファイル直リンク
しかも執筆者は偶然にも、先に挙げたニョ・クアン・チュウン中将その人。アメリカに亡命した後、米軍の戦史編纂に参加したようです。
同様にNKT副指令だったニョ・ディ・リン大佐も、戦後アメリカ国防総省に非常勤翻訳者として務めていましたね。
戦史センターのように資料の分析・編纂・保管までを一連の任務と捉えるのなら、ベトナム戦争という20世紀後半最大の戦争の戦後処理は1980年代になっても継続していた、と言えるのかも知れません。



ド・カオ・チ将軍の音声付動画


S君のお気に入りがチュウン中将なら、僕のフェイバリットコマンダーはド・カオ・チ中将!
音声の無い動画なら確認していたのですが、ようやく肉声を聞く事ができました。
しかも撮影は1970年4月30日。まさに一連のカンプチア作戦『トアンタン42(Toàn Thắng 42)』が始まった日のインタビューです。
チ中将は第Ⅲ軍団司令としてこのカンプチア作戦を指揮し、ニクソンをして”ベトナム戦争で最も成功した軍事作戦”と言わしめる大戦果をあげました。
しかし翌1971年のラオス作戦『ラムソン719』(第Ⅰ軍団司令ホアン・スァン・ラム中将指揮)において、チ中将は戦場をヘリで上空から視察していたところを対空砲の餌食となり墜落、死亡します。(死後大将に昇進)
第一次インドシナ戦争では空挺将校としてグエン・カン(後のベトナム共和国国長)の下で死線を潜り抜け、戦後は謀反の疑いでジエム総統一派に拘束された将軍達を助けるため、独立宮殿に「今から部隊を率いてお前らを殺しに行く」と電話して将軍達を解放させたりと、色々伝説を残している人なだけに、あまりにあっけない最期でした・・・
  


2015年06月30日

良心の囚人

前記事

先日、Tさん(サイゴン在住・26歳女性)より新たなお便りを頂きました。
彼女は身の危険を省みず外国人である僕にベトナムの実情を訴えてくれているので、僕は彼女の勇気を尊重し、多くの日本人にこの話を読んで頂きたいので、ここに日本語訳を掲載します。

Tさん:
(僕がタイでベトナム共和国軍のコスプレしてる写真を見て)ベトナムでは、それは許されない行為なのよ。可哀そうなグエン・ベト・ズンのように。あなたはベトナムにいなくて本当にラッキーよ。

タイガ:
僕は複雑な気持ちだよ。僕はベトナムが大好きだから、いつか必ずベトナムに行きたい。でも今は出来ないよ。ベトナム共産党に逮捕されるのが怖いから。
ズンの家族が訴えているのを読んだよ。ズンは逮捕から2ヶ月たった今も警察から拷問を受け続けているらしい。海外に住んでいる多くのベトナム移民も同じ気持ちだよ。彼らはそれぞれの国の政治家に対し、ベトナム共産党によるズンの不法逮捕を非難するよう訴えかけているし、僕も日本の人権団体に同じ訴えを行った。僕らはグエン・ベト・ズンの事を決して見捨てない。

グエン・ベト・ズン(Nguyễn Viết Dũng)
民主化運動ブロガー。2015年4月、街路樹保護を訴えるデモの最中に逮捕され、裁判どころか罪状すら確定しないまま2ヶ月以上不法に拘束、拷問を受けている。彼は僕の個人的な友人でもあり、彼が自由になるまで僕はベトナム政府を徹底的に非難し続けます。

Tさん:
そうね、共産党とトラブルになりたくないなら、ベトナムには行かないほうが良いわね。だってあなたは日本に住んでいるから、違法な事を除いて何でも好きなことが出来るだもの。ベトナムではあなたの趣味は違法で、逮捕されちゃうわよ。
あなたはディウ・カイ氏を知ってる?彼は今アメリカに亡命することが出来て、私もほっとしてるわ。レ・コック・クァン氏も、最近ようやく釈放されたのよ。

ディウ・カイ(Điếu Cày)
フリージャーナリスト。政府の腐敗を告発するサイトを運営したため2008年に逮捕、2014年に釈放されアメリカに亡命。

レ・コック・クァン(Lê Quốc Quân)
民主化と宗教の自由を訴える弁護士。2007年以来度々逮捕され、釈放後も警察官による脅迫、集団暴行を受け続ける。2014年に4回目の逮捕。2015年6月27日釈放される。

タイガ:
この二人の事は初めて知ったよ。残念ながら、彼らは日本で全く知られていないし、それどころかほとんどの日本人はベトナム共産党の恐怖政治について何も知らないんだ。僕は彼ら『良心の囚人』の事を知ってもらえるよう、ブログに日本語でこの事を書くよ。

Tさん:
ベトナムの民主化運動に携わった大勢の弁護士が投獄されたのよ。例えばクー・フイ・ハー・ヴ氏、レ・チ・コン・ニュン氏、レ・コン・ディン氏、そしてレ・コック・クァン氏。他の大勢のブロガーも同じような状況よ。

クー・フイ・ハー・ヴ(Cù Huy Hà Vũ)

レ・チ・コン・ニュン(Lê Thị Công Nhân)

レ・コン・ディン(Lê Công Định)


Tさん:
日本では国民は自由にやりたいことが出来るんだよね。実際日本は民主主義国家だし。私の国も、君の国のように民主主義と人権が保障されるようになる事を願って止まないわ・・・
でも私は分からないわ。なぜ多くの日本人はベトナム共産党の害悪を知らないの?

タイガ:
それは少し長い話になるよ。1950年代から1970年代にかけて、日本では憲法上の問題が持ち上がっていたんだ。日本国憲法は日本が戦争する事を禁じているけど、実際には日本政府はベトナム戦争において多数の在日米軍基地とサービスを米軍に提供していた。この矛盾に当時の大学生たちは猛反発し、日米両政府を非難する学生運動が盛んになったんだ。しかもその一部は、日本の古い社会構造を変革するために共産主義に傾倒し、ベトナム共産軍を支援していたんだ。さらに多くのマスコミが、ベトナム戦争はアメリカによるベトナム侵略だと大衆を煽ったりもした。だけど彼らの頭にあったのは自分たちのイデオロギーを主張する事だけで、ベトナム人の為を思っての行動なんかじゃないよ。そして、それから50年たった今も、ほとんどの日本人はベトナム共産党の蛮行を知ろうともしない。僕は日本人としてこの事が恥ずかしいよ。

Tさん:
だけど、日本は共産主義を選択しなくてラッキーだったわね。あなた達はともてラッキーよ。共産主義はあなたの国を滅ぼしていたでしょうから。

タイガ:
そうだね。今も共産主義政権の国に住んでいる人々の事を思うと、胸が痛むよ。

Tさん:
世界に共産主義国は数えるほどしか残ってないのに、残念ながら私の国はその中の一つなのよね・・・

タイガ:
実際には、ベトナムと中国はもはや共産主義ですらないと思うよ。だって国民の所得格差は拡大し続けているし、拝金主義者が労働者を搾取してるのが現実じゃん。で、その拝金主義者がすなわちベトナム共産党と中国共産党なんだもん。これじゃあ何の理念もない、単なる権威主義の独裁国家だよ。

Tさん:
ええ、知ってるわよ。でも共産党がやってる事だから『共産主義』と呼ぶしかないのよ~
ところで、よく耳にする言葉なんだけど、『日本は唯一、共産主義が成功した国』らしいわね(笑)

タイガ:
あはは、それは部分的には事実だね。日本人は無意識のうちに全体主義的に動く癖があるから。これは日本の長所であり、同時に短所でもあると思うよ。

Tさん:
それでも、それがあなたの国を魅力的にしているのよ。

タイガ:
そう言ってもらえると嬉しいよ^_^




こんなに日本の民主主義を羨ましがる人々がいる一方で、当の日本では政権与党である自民党のバカ議員さん達が「マスコミを懲らしめる」などと言論統制を臭わせる発言をして、世界に日本の政治家、国民、そして民主主義の未熟さを晒してくれちゃいましたね。あれはマジで政治家というか、自由主義国に暮らす人間としてありえない発言ですよ。
ここ数年の自民党政権下ではこういう常軌を逸した言葉が平気で出てくるんだから、彼らが党名に掲げる『自由・民主』がいかに羊頭狗肉なのかを物語っていますね。日本ファシスト党もしくは日の丸オナニー党に変えたらいかがですか?
  


2015年04月30日

30-4-1975 40年



去年の記事も参照 『黒い4月』サイゴン陥落の日


本日、ベトナム共和国の首都サイゴンが陥落し、ベトナム全土がベトナム共産党の支配下に墜ちた国恨(Quốc Hận)の日』から40年が経過しました。
終戦40周年に際し、元ベトナム共和国軍ファム・ホア少尉が英国BBCのインタビューに答えています。

BBC Vietnamese 4月24日(4月25日編集)
1975年までベトナム共和国軍コマンド部隊に所属していた元兵士はBBCのインタビューに対し、サイゴン陥落に至った大きな要因として、同盟国の撤退を挙げた。特殊部隊将校ファム・ホア氏は1972年の『燃える夏(イースター攻勢)』から軍務に就いている。

 「あれは私の人生の中で、短くも壮絶な日々でした」

 ホア氏が語ったところによると、1975年4月29日、彼の部隊はフーコック島への移動を命じられたが、それが首都陥落に伴う脱出とは知らなかったという。そして翌4月30日には、避難民は『ほとんどパニック状態』に陥っていたと語る。

 「これから海外でどうやって生きればいいか分からない。言葉も分からない。誰の助けも無い。国が無くなってしまったのだから、国籍すら無くしてしまった。本当に全てを失ったのです。」

 続けてホア氏は語った。

 「私のような若い将校のほとんどは、アメリカからの支援が無くなった事で南ベトナムが滅びるなどとは考えもしませんでした。」

 なぜ南ベトナム軍は北ベトナム軍に敗れたのか?という問いにホア氏は以下のように答えた。

 「今日では、それが同盟国の支援に左右されていた事は誰の目にも明らかです。敵は共産圏、つまり中国、ソビエト、チェコスロバキア、東欧諸国、東ドイツからの支援を受けていました。世界中の共産陣営がアメリカを叩くためにベトナムの戦場に手を伸ばしていたのです。アメリカが撤退した後、ベトナム共和国一国でどうやって全世界の共産国家を相手にできますか?」

 戦争で最も記憶に残っている事は何か尋ねたところ、ホア氏は1974年に自分の部隊と遭遇し、戦死した北ベトナム兵から回収した手紙を読んだ時だと語った。

 「あの兵士は、自分は死ぬと分かっていたから、故郷の母と恋人に向けた手紙に、わざわざ我々南の兵士に向けたメッセージを書いたのでしょう。私はあの手紙に書かれた北ベトナム兵の思いを一生忘れる事ができません。」

その手紙にはこう書かれていたという。
 
『南部人へ。私達北の人間は、この戦争にとてつもなく大きな代償を払い続けています。これはベトナムという国にとって不幸でしかありません。だからもしあなたが北ベトナム兵と戦う事になっても、憎しみ合う必要はありません。我々はお互いに、自らの義務を果たす一人の兵士に過ぎないのです。  ―――南ベトナム軍の兄弟達、私達は君たち兵士を恨んではいません。君たちもまた、ベトナムの南北分断によって、南側としての犠牲を強いられている同胞なのですから』

ホア氏は最後にこのように語った。

「今のベトナムは、我々ベトナム共和国が願った姿、そしてあの北ベトナム兵が願った祖国の姿、そのどちらでもありません。」

 ホア少尉は40年経った今も、軍人として祖国を守れなかった悔しさと、そして自ら手にかけた北の兵士の言葉の重みを背負って生きておられます。この思いは彼一人だけではありません。サイゴン陥落時および終戦後海外に脱出した200万人を超える在外ベトナム人、そして現在もベトナム国内で暮らす大勢の人々が同じ思いを持って生きています。彼らは、ベトナム共産党政権が求心力を維持するため40年間続けてきた『解放戦争』の賛美と旧政権への憎悪を煽るプロパガンダがベトナムの将来の為にならないことを知っています。そして過去の遺恨を乗り越えベトナムが真に平和で豊かな国家となる為には、現在の独裁政権による恐怖政治を終わらせなければならないと訴え続けています。こうして遠く離れた国で彼らの声を聞く私も、いつの日かベトナムが、彼らの願う自由で平等な国家へ生まれ変わる事を心から祈っています。
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2015年04月22日

友の逮捕、ベトナム政府の弾圧

昨晩、ベトナム民主化運動の指導者であり、私の友人でもあるグエン・ヴェト・ズン(Nguyễn Viết Dũng)と、彼の仲間4名がハノイ市内で逮捕されていたというニュースが届きました。



 ベトナム・ゲアン省在住のグエン・ヴェト・ズン(Facebook名 Dũng Phi Hổ)は、Facebook上で僕のイラストやコスプレを知り、日本人がベトナムの歴史に興味を持っていることをとても喜んでくれて、僕に自分達の活動を紹介してきた事から友達になりました。後で知ったのですが、彼は僕と同い年の28歳で、しかも誕生日も僕と一日違いという事で、なにか運命めいた物を感じました。そして彼は、僕を民主化運動Facebookページの編集者の一人にまで任命してくれました。(僕はベトナム語が書けないので一度も自分から記事を投稿する事は無かったけど)
 ベトナムでは、ズンたち民主化勢力はまだまだ無力な存在であり、警察だけでなく共産党政権を妄信する人々からも『反動』のレッテルを貼られ、毎日のように嫌がらせを受けています。それでも自らの信念を曲げずベトナムの未来の為に頑張る彼らを、僕は心から尊敬するようになりました。
 
 しかし先週、事件が起こりました。ズンと仲間らは4月12日午前11時30分、ハノイで行われた街路樹保護を訴えるデモ(※)に参加していたところを、ハノイ市ホァンキェム警察署によって緊急逮捕されました。罪状は、ベトナム社会主義共和国刑法第245条に基づく『破壊活動』と『公共秩序騒乱罪 (gấy rối trật tự công cộng)』。
(※現在ハノイ市内では約6700本の街路樹の伐採が進められ、長年愛された美しい景観が失われつつある。行政当局は都市開発の為の植え替えと説明しているが、街路樹に使われている樹木は現在では希少な品種であり、伐採されたこれらの街路樹は材木として売られ高値で取引されている。この事から「当局は財政難を補填すべく、最初から材木として売却する目的で百年以上の歴史がある街路樹を伐採している」と市民らが抗議の声を上げていた。)

 しかし他のデモ参加者は、ズンたちは道端の屋台で休んでいるところを警察官に連行されたと証言しており、破壊活動があったなどと信じる者は誰もいません。ズンらは逮捕当時、ベトナム共和国の国章と、英語で『我々国民は政府を恐れない。政府が国民を恐れているのだ』と書かれてた服を着ており、それが直接の逮捕理由となったようです。しかし刑法上それらは公共秩序騒乱罪に該当する行為ではなく、起訴が困難と分かると、ホァンキェム警察署はなんとしてもズンを有罪にするため罪状を二転三転させ、彼を無理やり犯罪者に仕立て上げようとしています。そしてハノイ警察は4月20日、ズンの逮捕理由を『精神障害』として公式に発表しました。

 ズンは過去に何度も政府への抗議活動によって警察に逮捕されていますが、彼は法律に詳しいため違法行為を避けており、これまでは起訴されることなくすぐに釈放されていました。しかし今回は逮捕・拘留されてからすでに十日が経っており、ズンの家族は違法逮捕だとしてズンが拘留されているホァンキェム警察署への抗議を続けています。また警察がズンの家族へ逮捕の告知を行ったのは実際に逮捕されてから1週間後の4月19日であり、本来すぐに公にされるはずの逮捕の事実が隠蔽されていた事も違法行為にあたると家族は主張してます。
 昨日4月21日、タイグエン省に住むズンの妹グエン・ティー・ジュ・アン(Nguyễn Thị Diệu Ánh)さんも、兄の解放を求めてハノイに赴きました。アンさんはホァンキェム警察署に対し、兄が拘留されている理由を明確にするよう繰り返し求めましたが、警察側は「現在捜査中だ」として説明を拒否しました。

SBTNのインタビューに対し、アンさんは以下のように語っています。
『私はズン兄さんが生きているのか死んでいるのか、生きているなら健康なのかこの目で確かめたくてホァンキェム警察署に行きました。しかし警察は、捜査の過程で家族の面会は許されないと言うだけで、彼の安否すら教えてくれませんでした。さらに警察は私に、「兄さんのために今から貯金しておくんだな。これから沢山金がかかるからな」と言いました。』

ズンの母親も息子の安否を心配しています。
『ズンは逮捕されて9日も経つのに、なんでまだ釈放されないの?逮捕通知の罪状は公共秩序騒乱罪のみで、ホァンキェム警察署はその罪で起訴しない事を決定しているのよ。じゃあなぜ9日間も拘留しているの?警察の行動は法に背いているわ』

 現在ズンの家族は、彼を保護し権利を護るための弁護士を探しており、ズンが釈放されるまで政府への請願を続けるとしています。またFacebookで活動するベトナム民主化運動グループは、ズンを釈放するようホァンキェム警察署に最後通牒をつきつけ、もしズンが釈放されなければベトナム全土の都市で、国民に反政府デモを呼びかけるとしています。

 悔しいことに、僕がこの事態を知ったのは、逮捕から9日経った昨晩の事でした。今思えば、逮捕されたちょうどその頃、彼のアカウントやFacebookページが突然削除されたりしておかしいとは感じていたのですが、僕は時間をかけて翻訳作業しない限りベトナム語を読むことが出来ないので、事態を把握できていませんでした。ズンの逮捕は毎度の事なので本人も慣れたものだったと思いますが、今回は罪状も確定しないまま長期間拘留されるという異常事態に陥っており、法を無視してまで民主派を弾圧するベトナム共産党政権の姿勢にベトナム国内外のメディアや著名人も怒りの声を上げています。

 ベトナム警察はいまだに容疑者、特に民主派や少数民族等の政治犯への取調べにおいて、日常的に拷問を行っていると言われています。正直今回はズンもタダでは済まないかも知れない・・・。今はただ彼らが無事に帰ってくることを祈るしかありませんが、無力な自分が悔しいです。そして、改めてベトナム共産党という独裁政権の非道さと、それに支配されるベトナム国民の苦難に心を痛めています。

 私は今後も、ズンたち民主派と、ベトナムという国の現実を記事にして日本にお伝えする事で、微力ながら彼らを応援していきたいと思います。
  


2015年04月13日

ベトナムの若者に聞く その2

昨日は統一地方選挙でしたね。うちの地元は県議会議員選でしたが、僕が投票した候補者は落選しちゃいました。残念。
しかし結果はともあれ、社会主義ベトナムに暮らす人々から話を聞いていると、ただ『(政権交代可能な)選挙がある』、『言論の自由がある』という事が、どれだけ恵まれた事なのか思い起こされます。

前記事



Tさん(サイゴン在住・26歳女性)

 あなたも知っているように、ベトナムの学校ではベトナム共和国について何も教えないし、言及する場合でも教師はベトナム共和国を悪としてしか教えないよ。私はベトナム共和国について父から教わったの。私も子供だった頃は、学校で教わった事を信じて共産党を称えるだけで、父の話など気にも留めなかった。馬鹿だったわ・・・。でも今になって、インターネットで様々なニュースを読むことができ、初めて共産党の恐ろしさに気付かされたの。だから私は父に共和国時代についていろいろ聞く事ができた。でも、私のベトナム共和国に対する考えを友達に話すことは出来ない。一度それを口にすれば、彼らは私を『反動』と見なすから。
 ねえ、『赤色歌(Nhạc Đỏ)』って聞いた事ある?私にとってこの手の音楽は聞くに堪えないけど、学生の頃は何度も聞かざるを得なかったの。もちろん私達は、これが中国共産党に倣ったベトナム共産党の独裁の手段だと知ってるわよ。私達は1975年以前のベトナム共和国時代の歌(イエローミュージック)を所持する事すら許されない。だから私はYoutubeでアジア・センター(※)の音楽を聴いてるの。本当はCDが欲しいんだけど、アジア・センターの音楽は政府が許可しないから・・・。(※アジア・センター:アメリカのベトナム移民系レコード会社)
 君は『名もなき戦士(Chiến Sĩ Vô Danh)』を歌えるんだよね?暗黒の日(サイゴン陥落)の歌『最後の命令(Quân lệnh cuối cùng)』は歌える?あと是非この『祖国に捧ぐ(Một chút quà cho quê hương)』の歌詞も知って欲しいな私たちの哀れなベトナム共和国を想う、悲しくも美しいこの歌の意味が分かれば、なぜ私達が4月30日に涙するのか分かるよ。
 今年の4月は、共産党がずっとテレビで戦争の勝利を祝う番組ばかり流してるよ・・・。かつてグエン・バン・テュー総統言ったの、越共の口車に乗るな、彼らが何をしたかを見ろ』と。彼の言葉は正しかったわね。私には北部出身の友達がいるけど、彼女は私がフェイスブックで『愛国日記(※)』のページにいいね!してるのを知って、なぜ私がそんな事したか聞いてきたの。そして「彼らは反動だから気をつけて」とアドバイスしてきたわ。彼女はHCM(ホー・チ・ミン)を崇拝し、4月30日を『解放の日』と呼んでいるの。今はインターネットが普及しているのに、何故いまだに政府の嘘に気付かないのかしら・・・。(※愛国日記(Nhật ký yêu nước):表現の自由を求めるベトナムの市民団体)
 知ってる?ベトナムではテト休暇中、全ての家庭にホー(ホー・チ・ミンの事)の肖像を飾って彼を崇める事を義務付けられているの。だから私が実家に戻った時も、両親は仕方なく肖像を買わざるを得なかった。だけど、私のお姉ちゃんはその肖像を破いて燃やしちゃったの(笑) 私達は、なんでホーなんかを崇拝しなくてはならないんだって本当に怒ってるわ。共産党はこう言うの。「全てのベトナム国民は同志ホー・チ・ミンを愛している。その証拠に、全ての家庭に肖像が掲げられている」。本当に越共だけは言いたい放題だわ。
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2015年02月28日

独り言

西野カナの歌の「会いたい」の部分を「ヤりたい」に変えて歌いたい。そんな気持ちわかるでしょ。  続きを読む


2014年11月09日

ベトナムの若者に聞く

先日僕のイラストが在米戦友会で紹介されたとお伝えしましたが、ネット上の拡散スピードって凄いですね。
なんと、在外ベトナム人だけでなく、現在ベトナムに住んでいる若者たちまで僕のイラストをFacebookのプロフィール画像に使い出しました。
マジで?社会主義ベトナムで生まれ育ったのに、旧ベトナム共和国を支持してる人間がこんなに居るの!?

彼らの多くは大学生で、
「香港の民主派運動を応援しよう!そしていつか、ベトナム共産党独裁体制を終わらせて、ベトナムを民主化しよう!
とネット上で呼びかけていました。
つまり、現在の共産党政府に不満を持つ学生達は、かつて西側諸国と連携し自由と民主主義を謳っていたベトナム共和国こそがベトナム人国家としてあるべき姿だと考えているようです。
それにちょうど、僕のイラストが拡散した時期が、初代総統ゴ・ディン・ジエムが1955年にフランスからの独立を宣言したベトナム共和国の建国記念日(国慶の日)10月26日と重なったため、彼らはイラストをその宣伝に使ったみたいなんです。アイヤ~!
さらに彼らの活動を見てみると、その地域はかつてベトナム共和国の首都だったサイゴンだけに留まらず、1954年以来共産党のお膝元であるハノイでも、大勢の学生や若者が民主化を目指して集会を行っているそうです。
おおお・・・。時代は変わるものですね。

また僕には、彼らから沢山のメッセージが届きました。
それらは決まって、
「君は在日ベトナム人なの?」「なんで日本人がそんなにベトナム共和国に関心あるの?」
という質問から始まります。
うん。その質問は、出会った外国人みんなに訊かれるw
たぶん、僕は日本人のクレイジーさを濃縮した人間なのさ(笑)

こうして日本に居てはなかなか知ることの出来ない、彼らの生の声を聞くことができたので、その中でも特に興味深かった話をご紹介します。
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2014年02月12日

ベトナム人民軍の南ベ復古?


僕はベトナム人民軍については門外漢なので、今までまともに調べた事なかったのですが、友人が面白い発見をしたのでご紹介します。
※画像は海外サイトで拾ったもので、僕の所有物ではありません。

まず、現在のベトナム人民軍では、陸軍から民兵組織まで、リーフ系迷彩の戦闘服が広く使われているようです。
中には、米軍が開発し南ベトナム軍(ベトナム共和国軍)で広く用いられた低地用ERDL迷彩(グリーンリーフ)にそっくりな色合いのリーフもあります。

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