2025年04月30日
サイゴン陥落から50年
※2025年5月4日更新
【過去の4月30日関連の記事】
2020年: 4月30日に際して
2023年: サイゴン陥落から48年
2024年: いつか本気で笑おうや
50年前の今日4月30日、ベトナム南部がソ連・中共の手先としてベトナム人民への殺戮を繰り返したテロリストの手に堕ち、ベトナム全土で恐怖政治が始まりました。
以後、このテロリストが支配するベトナム社会主義共和国という国は、隣国と戦争を繰り返し、弾圧・飢餓により100万人の難民を出しつつも、国民を恐怖政治と洗脳教育で統制することで今日に至るまで存続しています。
ベトナム戦争終結後20年間続いたあの地獄の時代を知っている世代では、弾圧を恐れて政府を批判する事は出来ないものの、ベトナム共産党のおぞましい実態を知っている人は少なくありません。
しかしあの致命的な経済破綻の後、90年代から開始されたドイモイ政策により経済が再建されていく中で生まれ育った若い世代は、この復興がまるで「政府のお陰で」経済が発展しているかのような錯覚に陥っており、そこに幼少期から刷り込まれた愛国=共産党崇拝教育が合わさり、空虚な自尊心と盲目的愛国心を爆発させております。
同時に彼らサルども、もとい若い愛国的ベトナム人たちは、学校でホー・チ・ミンと共産党を賛美する事しか習わなかったので、その他の物事を考える能力が著しく欠如しており、日本における外国人犯罪検挙数ナンバー1がベトナム人という結果を生んでいます。
1960年代末から70年代初頭にかけて、ベトナム共和国は戦争を抱えながらも、同時に経済発展と民主化を推し進める東南アジア有数の新興国でした。もし第一次インドシナ戦争が無ければ、その発展はさらに10年は早かったでしょう。
またベトナム共和国は同時期の北ベトナムや韓国、台湾、インドネシアのように政府が自国民を大量虐殺するような事件も起こしていません。これらの国に比べると、ベトナム共和国政府ははるかにまともな体制でした。
このようにベトナム人は元々、まともな国家・社会・道徳心を持っていた人々なのです。それをホー・チ・ミンという悪魔に率いられたベトナム共産党がすべて破壊してしまいました。
後に残った物は、過去のテロを『聖戦』として賛美し、それ以外の一切を否定するカルト国家。
まるでホー・チ・ミン以前にベトナムは存在しなかったのように、ドン紙幣は全てホー・チ・ミンの肖像一色。
共産党に非協力的な仏教僧は弾圧され殺されるか国外脱出したため、ベトナム国内に残った僧侶はホー・チ・ミンを仏陀と同格の現人神として崇める始末。
日本では北朝鮮の異常性はよく報道されますが、同じくらいカルト社会化しているベトナムの実態は全く知られていません。
だから2018年には、岡山県の美作市が、市営の美術館にベトナム大使館から寄贈された巨大なホー・チ・ミン像を展示するという、日本の名誉に関わる恥知らずな事件を起こしました。
この時は世界中のベトナム難民団体から美作市に抗議が殺到し、私も日本在住ベトナム人協会ならびにドイツ、オーストラリア在住ベトナム難民代表団に同行して美作市役所と美術館での抗議活動に参加しました。

2018年美作市作東美術館にて。横断幕の文字は「美作市の銅像展示に抗議します。ホー・チ・ミン=大量殺人者」の意
なんか、世の中ではミリタリーマニアは歴史に対して公平中立であるべきって言われてるらしいですが、私はそんなの知ったこっちゃありません。
私にとってベトナム戦争とそれが生んだ結果は、『どっちもどっちだよね』と知ったかぶりして公平ぶる事は到底できないのです。
元より日本国内のミリタリーマニアとは関係が希薄な私ですから、マニアの世界でどう思われようが、そんなのは最初からどうでも良い事です。
私の心は常に、50年前に祖国を失った人々、そして今もなお恐怖政治の下で我慢を強いられている思慮深い友人たちと共にあります。
以下、2025年5月4日追記
この記事を書いた4月30日『国恨の日』に合わせ、世界各地のベトナム難民コミュニティ―でも式典・反共産党政権デモが行われましたのでご紹介します。

アメリカ ワシントンDC

アメリカ カリフォルニア州

アメリカ ジョージア州

アメリカ テキサス州

アメリカ ヴァージニア州

フランス パリ

オーストラリア キャンベラ

ドイツ ベルリン

ノルウェー オスロ

カナダ トロント
ベトナム戦争はアメリカとベトナムの戦争ではありません。ベトナムは勝者ではありません。
ベトナムは30年間も共産主義陣営による侵略と殺戮に晒され続け、滅亡した国家なのです。
今『ベトナム社会主義共和国』を名乗っているテロル政権に、ベトナムを名乗る資格はありません。
2025年01月02日
東洋漫遊記③フエ皇城
新年明けましておめでとうございます。
実は僕は12月のベトナム・ラオス旅で体力を限界まで使い切ったらしく、帰国したその日から風邪をこじらせて1週間以上出歩けない状態が続いております。
なので毎年恒例の氏神様での年越しもベトナム寺への初詣もできませんでした。
とは言え、本来グレゴリウス暦なんて日本人には意味のない暦なので、太陽太陰暦(旧暦)の正月に本来の初詣をすれば良いかなと思っております。
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以下、旅の記録の続き

ダイノイは阮朝ベトナム(大南国)の創始者 嘉隆帝(ザーロン帝)が新たな宮廷として1804年から建設を開始し、最後の皇帝 保大帝(バオダイ帝)が1945年に退位するまで約140年間使われた、阮朝の栄華と没落を物語る宮殿です。
ちなみにホー・チ・ミンの八月革命によって退位して以来国外に亡命していたバオダイは、1948年にベトナム国国長(国家元首)としてベトナムに帰国を果たしますが、ダイノイには戻らず、以後はダラット等のリゾート地で生活しました。そのため皇帝を警護するベトナム陸軍近衛大隊もフエではなくダラット駐屯です。
ダイノイは本当に素敵な場所で、何時間居ても飽きませんでした。
中では写真を撮りまくりましたが、全部紹介していると切りがないので、今回は僕が特に興味をひかれた部分を掲載します。
紫禁城と太和殿

ダイノイは中国北京の紫禁城を手本としており、宮廷の最重要儀礼を行う宮殿は中国と同じく「太和殿(Điện Thái Hòa)」という名前です。
もちろん古代中国から受け継がれ、日本の朝廷でも取り入れてきた「天子南面」の思想に基づき、ダイノイおよび太和殿も南側が正面となっています。
また、太和殿の後方(北側)にあり、皇帝一家と側室・女官・宦官が暮らす後宮エリアはズバリ「紫禁城(Tử Cấm thành)」という名前です。
(本家中国の「紫禁城」は後宮だけでなく宮殿全体を指す)

太和殿の前には式典の際の廷臣の立ち位置を示す石の看板が立っていますが、そこに記された官位も中国と同じく正一品から始まるものです。
実はこの太和殿、老朽化によりかなりボロボロの状態になっていたそうで、2021年から解体を伴う本格修復が行われていました。
そして僕が訪れる約1月前の2024年11月、3年がかりの修復工事が終わった事を記念し、阮朝の朝廷儀式を再現した完成式典が行われました。
僕はこの修復工事の事を知らずにフエに行ったので、日にちが1か月早ければ太和殿はまだ工事中で中を見れないところでした。ラッキーでした。
ベトナム戦争期
一応教養として阮朝時代についても学んだものの、やっぱり僕が一番興味あるのはベトナム戦争期。
ダイノイは1945年のベトミンによる破壊に続いて、1968年にはまたしてもベトコンによるマウタン1968(テト攻勢)で激しい戦禍に見舞われボロボロに崩壊します。
そんなベトナム戦争期のダイノイと現在の比較写真を撮ってきました。
正義に酔うのは簡単。憎悪に狂うのも簡単。しかしそれがどんな結果を生むか想像する力は、一朝一夕で養えるものではありません。
歴史を保存し学ぶ意義はここにあります。
2024年12月29日
東洋漫遊記②クオン・デ候の墓参り
※2024年12月31日更新








サイゴンでトニー君と遊んだ翌日、朝から飛行機に乗ってフエに移動しました。

フエでの最大の目的は、日本と深い因縁を持つグエン朝の皇族クオン・デ(Cường Để)の墓参りです。
クオン・デについては日本語の本が何冊も出ていますので読んでみてください。
クオン・デは1951年に東京で亡くなった後、遺骨は3ヵ所に分けて埋葬されたので、墓と呼べる場所も3ヵ所あります。
一つはクオン・デ自身が建立した東京の雑司ヶ谷霊園のチャン・ドン・フォンの墓。クオン・デは東遊運動期に弟のように可愛がっていたフォンの墓に、死後自分の遺骨を合葬するよう遺言に残しました。ここは数年前にお参りしました。
残る二つは、故郷ベトナムのフエ、そしてクオン・デと深いつながりのあったカオダイ教の総本山(タイニン聖座)です。
この内、フエの墓の所在地についての情報はかなり限られていますが、一応Wikipediaベトナム語版には「thuộc tổ 10, khu vực 5, phường An Tây, TP Huế」という住所が載っていました。これをGoogle Mapで検索すると、この位置になります。
ベトナムの住所はかなりいい加減なので、たぶん一発で辿り着く事はないだろうと思いながら、とりあえずGoogle Mapで示された地点に向かいました。
フエ市街地からタクシーで20分くらいかけ到着すると、そこは高校生くらいの若い僧が住み込みで勉強する、割と立派な仏教学校でした。
そこでタクシーを待たせ、僧の方々にクオン・デの墓知りませんか?と聞いて回りましたが、誰も知りません。
この墓参りの動機の一つとなった本、『「安南王国」の夢(牧久著)』では、著者は現地のドライバーに「あまりクオン・デという名前を出さない方が良い。公安に目を付けられる」と警告されていましたが、実際には現地の人も誰一人クオン・デという人物自体を知らない気がします。
うーん、困った。
念のため再度Google Mapで「Mộ Cường Để (墓 クオン・デ)」と検索してみたところ、近くにヒットする場所がありました。
この時点では半信半疑でしたが、結論から言うと、この位置で正しかったです。
そしてタクシーで5分くらいかけ、マップで示された位置にあるChùa Diệu Sơn (イウソン寺)の前に着いたのですが、寺の門は締まっていました。
しかしここで引き下がるわけにはいかないので、勝手に門を開けて寺の境内に進入。
するとそこに若い尼の方が居たので、再度クオン・デの墓について聞くも、やっぱり知らないと言います。
しかしスマホでマップを見せると、たぶん寺の中じゃなくで裏山だと言います。
なので一旦寺を出て、言われた通りに進むと、山の中に通じる細い林道を発見。これを登っていきます。

山を登る途中、お墓が複数あったので、一つ一つ確認しましたが、どれもクオン・デの物ではありませんでした。
しかしあきらめずに登っていくと、マップで示されたまさにその位置付近で、ついにクオン・デの墓を発見!


ついにフエの墓前で合掌することが叶いました。

この日は疲れたので、クオン・デのお墓参りを済ませるとホテルに戻りました。
翌朝、同じくフエ市内にあるファン・ボイ・チャウのお墓参りに向かいます。
ベトナム国内で非常に評価の低い、あるいは全く無名なクオン・デとは異なり、ファン・ボイ・チャウは現在もベトナム独立運動の父として顕彰されているため、墓所は立派な記念館になってるそうです。
中には日越友好を謳う日本語の紀念碑もあるそうで。(東遊運動を潰してファン・ボイ・チャウを国外追放したのは日本政府なんですけどね)
そして現地に到着

しかし、なんか門が閉まっています。


2024年8月から休館中・・・だとぉ?
ふざけんなクソー!フエに来る機会なんてそう無いんだよ。もう!
クオン・デの墓は山の中に野ざらしのなのである意味年中無休ですが、こちらはちゃんとした記念館になっている事がかえって仇になってしまいました。
しょうがないので門の前で一応合掌しましたが、これでは墓参りとは言えないでしょう。何年先になるか分かりませんが、リベンジしなくてはならなくなりました。
2024年05月06日
浅羽佐喜太郎公紀念碑を訪問
このゴールデンウィークを利用して、ずっと前から行きたかったとある史跡を訪問してきました。
それは静岡県袋井市の常林寺境内にある浅羽佐喜太郎公紀念碑です。
何を隠そう、この碑を建立したのは、ベトナム史に名を残す独立運動家ファン・ボイ・チャウその人なのです。

▲袋井ベトナム友好協会パンフレットより
ファン・ボイ・チャウは20世紀初頭にフランスからのベトナム独立を目指して活動した人物であり、ベトナム人の間では今も世代・地域を超えて尊敬される真の愛国者の一人です。
同じ革命家でもソ連・中国の威を借りてベトナム国民へのテロと虐殺で権力を握ったホー・チ・ミンとは大違いです。
そのファン・ボイ・チャウが約100年前の1918年に日本で建てた紀念碑を実際に訪れる事ができ、ベトナム近代史をかじる者として感無量です。

その一方で、美談に水を差すようですが、この紀念碑はあくまでファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎という個人間での友情を語り継ぐものであり、それを「日本とベトナムの友情」などと国家レベルに拡大して宣伝されているのは気持ちの悪い事です。
そもそもフランスとの関係を優先してファン・ボイ・チャウの東遊運動を潰し、国に戻ればフランスによって投獄されると知りながらベトナム人留学生達を強制送還したのは日本です。
以前訪問した東京にあるチャン・ドン・フォンの墓は、その東遊運動の中で自殺したベトナム人留学生のものです。(ただしフォンの自殺は日本政府による学生強制送還開始より前)
またこの記念碑が作られらた二十数年後には、日本軍はベトナムを含むインドシナに進駐しますが、そこでも日本はフランスによる独立派への弾圧を容認し続けます。
日本が国としてベトナムの独立を支援した事なんて一度もありません。
(後にフランスが邪魔になったので日本の軍政下でベトナム帝国という傀儡政権を建てたけど、それをベトナムの独立と見なすベトナム人はほとんど居ません)
また過去記事『あるベトナム残留日本人と家族の漂泊』で書いたように、終戦後ベトミンに参加した日本人兵士の存在も、事ある毎に「日本とベトナムの友情」あるいは「日本によるアジア解放」の例として都合良く利用されていますね。彼らは皆、個人の意思で日本政府の命令に背いて非合法に軍を離脱した人なのに、それを「日本」という主語に置き換えるのはおかしいでしょう。
僕は数年前、国賓として来日したベトナム国家主席への抗議デモに参加しましたが、それも「日本が抗議した」って事になるのかな?ならんでしょう。
とは言え、そもそも友情とは個々の人間同士の間にのみ存在するものであり、国というスケールで見れば、他国にそこまで優しくしてやる必要は無いので、別に日本が特別薄情だと言っている訳ではありません。どの国も自国の利益を最優先するのは当然の事でしょう。
ただ、そういった冷徹な利害関係=ある意味正常な判断に基づく歴史を、わざわざ美談であるかのように粉飾して、「日本人は自己犠牲の精神でアジアを解放した」などと馬鹿げた宣伝に利用する輩の多さにぞっとします。
2024年02月11日
甲辰年元旦節
新年明けましておめでとうございます!
今年もいつものベトナム寺に元旦節の初詣に行ってきました。

お寺で偶然、知り合いの元ベトナム共和国軍将校(陸軍中尉)Tさんと再会。

Tさんと初めて会ったのは今から約10年前の2014年で、その時の感想は過去記事『生き証人』に記したとおりです。
僕にとっては初めて生で会話したベトナム軍ベテランであり、またその時に地雷を踏んで義足になった足を見せてもらい、自分の歴史・軍事趣味は、今現在生きている人間の人生の記録でもあるのだと強烈に印象付けられました。
また、会場ではTさんのご友人方ともお話しさせて頂きました。皆さん40数年前に難民として来日し、そのまま定住された方々です。(戦争中は学生だったので、元軍人ではない)
日本におけるインドシナ難民の受け入れと支援体制は、『無いよりはマシ』程度のもので、同じく難民として欧米に移住したベトナム人コミュニティと比べると、日本のベトナム難民はだいぶ苦労したと皆さん仰っていました。
そんな中、Tさんは自身が身体障害を負いながらも、年下の仲間の相談に乗り、仕事の世話をするなどし、周囲からの尊敬を集めていたといいます。
この10年で僕は、日本・ベトナム・アメリカ・フランスに住む大勢のベテランおよび難民の方々とお会いしてきましたが、初めて出会ったベテランがこの方で本当に良かったと思います。
2023年08月05日
断念したTシャツ
※2023年8月17日更新
ずいぶん前の事ですが、『チューホイ計画(Chương Trình Chiêu Hồi )』において使用されたTシャツのレプリカを作ろうと試みた事があります。
チューホイ計画の詳細については下記の引用元サイトでかなり細かく解説されていますが、簡潔に述べると、この計画はベトナム戦争中、ベトナム共和国政府の宣伝・チューホイ省が主導した共産軍(解放民族戦線および労働党・人民軍)兵士に投降・転向を促す心理作戦です。
この計画は1963年から1971年にかけて実施され、最終的に約10~17万人の共産軍兵士が自主的にベトナム共和国政府に投降するという空前の大成功を収めました。
(これを受けて北ベトナムの労働党政権は解放民族戦線による革命を断念し、代わりに人民軍による直接的な南ベトナム侵攻を強化します。)
チューホイ計画では敵兵に投降・転向を促すため様々な伝単・アイテムが用いられましたが、その中の一つに、こういったTシャツも存在したそうです。

Psywarrior
このTシャツ欲しい+レプリカとして売りたいと思った僕は、さっそくプリント用の画像データを作成しました。
しかし、いざデータが完成し、Tシャツ屋で見積もりを取ってみると、意外と値段が高くなる事がわかりました。
作るなら当時と同じ製法であるシルクスクリーン印刷が良かったのですが、その製法だと版を計4つ(前3色+後1色)使うので、版代がえらい金額になっちゃいます。
これが外注ではなく自分で自家製の版を作ってプリントすれば費用はだいぶ安く済むんですが・・・、別にTシャツ作りが趣味って訳ではないので、そこまで労力をかけようとは思わないのです。
そこで、妥協してインクジェット印刷も考えましたが、それでも前後2か所は安くありません。
販売価格はインクジェットでも一着6000円くらいになりそうだと分かり、それでは高すぎて売れる見込みが無いので、販売は諦めました。
でも、せっかく画像データを作ったので、レプリカではなく、単なる記念品として前面のみプリントしたものを自分用に1着だけ作りました。
(僕はちゃんとしたレプリカと呼べる物以外は売りたくないので、前面のみプリントのものは販売しません。)

今でも普段着として着用しています。でもインクジェットで作ったから、案の定すぐ色落ちしちゃいました。
2023年04月30日
サイゴン陥落から48年
48年前の今日、ベトナム共産党は約30年に及ぶ共産主義革命戦争の末にサイゴンを陥落させ、ベトナム全土を支配下に置きました。
以後、ベトナム共産党は旧ベトナム共和国政府に属した軍人・公務員を数年から十数年投獄しただけでなく、「解放」したはずの南部の市民を山岳地帯に強制移住させて農地開拓に充てる、その上経済政策の失敗により農業国のくせに全国的な飢餓を発生させるなど、暴政の限りを尽くしてきました。
20世紀後半最悪の戦争であるベトナム戦争の最中には難民がほとんど発生しなかったのにも関わらず、ベトナム共産党によるベトナム統一が成された途端、数十万人の国民が難民として海外に脱出した事実が、ベトナム共産党による統治の全てを物語っています。
さて、私は過去2回、このベトナム共産党からベトナム国民を守るため戦い、そして命を落とした旧ベトナム国・ベトナム共和国政府の軍人・公務員の墓地であるビエンホア国軍墓地 (Nghĩa Trang Quân Đội Biên Hòa)を参拝してきました。
1回目は2016年で、その時は墓地の周囲を私服警官が囲んでいたので、人目に付かない霊廟のみ参拝しました。→『ビエンホア国軍墓地』
2回目は2022年で、ベトナムで2週間ほど動画撮影ロケをした際に、ついに前回入れなかった墓地の内部に入ることが出来ました。通常、この墓地は戦死者の遺族しか入る事ができず、入り口の守衛所で全員身分証を提示する必要があります。無論、外国人などもっての外。
しかし、そこは良くも悪くもベトナム。警備員に金を渡して、私を含む撮影班は中に入る事ができらました。それでも私が外国人だとバレると危ないので、事前に私は一切言葉を話さないよう、仲間から厳命されました。こういう時、自分の顔が東南アジア風で良かったと思います(笑)
墓地の中にいる間は、警備員のおっちゃんがずっとスクーターで私達の後を付いて回り、常時監視されていました。

中に入り、まず墓地のシンボルである義勇塔に花を供えて焼香。
この義勇塔は戦後破壊され、高さが元の1/2程度になっています。

その後、友人たちと手分けして、できるだけ多くの墓石に線香をお供えしました。
手持ちの線香に限りがあるので、一つの墓石につき一本しか供えられませんでしたが、それでも100個くらいの墓石に焼香できたと思います。

しかし、この墓石への焼香は辛いものがあります。と言うのも、戦後、共産主義者は義勇塔だけでなく、個人の墓石まで破壊していたからです。
ベトナムでは墓石に故人の顔写真を刻印する習慣があり、この軍人墓地にも多くの顔写真付きの墓石があります。しかしそれらの多くは、共産主義者によって顔の部分が無残に破壊されていました。これを見た遺族がどんな気持ちになった事か・・・。
死者にまでこんな仕打ちを平然と行う国家。それがホー・チ・ミンが1000万人の人命を犠牲にして作った現在のベトナム社会主義共和国です。











2023年01月29日
フランス連合期の民族自治区
第一次インドシナ戦争が開戦して間もない1946年、フランスはベトナム領内の少数民族から支持を得るために、二つの広大な民族自治区を設定しました。それが『北インドシナ・モンタニャール国』と『南インドシナ・モンタニャール国』です。この二つの自治区は1950年に『皇朝疆土』と名前を変えつつ、フランスの後ろ盾をもって1954年及び1955年まで存在していました。
以下は、それらフランスが設定した民族自治区の概要です。

【1946-1948】
1946年5月、アンナンのタイグエン(中部高原)地方に南インドシナ・モンタニャール国が発足。
同年12月、トンキン北部山岳地帯に北インドシナ・モンタニャール国およびこれを構成する5つの自治区が発足。
両自治区は形式的にはベトナム臨時中央政府に属しているが、実際にはフランスの間接統治下にある。
フランス統治









│
├─ベトナム臨時中央政府(トンキン・アンナン連合)
│ │
│ ├─①一般行政区
│ │
│ ├─②北インドシナ・モンタニャール国
│ │ │
│ │ ├─タイ国(タイ自治区)
│ │ │
│ │ ├─ヌン自治区(ハイニン自治区)
│ │ │
│ │ ├─ムオン自治区
│ │ │
│ │ ├─トー自治区
│ │ │
│ │ └─メオ自治区
│ │
│ └─③南インドシナ ・モンタニャール国
│
└─①コーチシナ自治共和国
【1948-1950】
1948年、ベトナム臨時中央政府とコーチシナ自治共和国が合併し、ベトナム国政府が発足。
南北のインドシナ・モンタニャール国は引き続きフランスの間接統治下にある。
ベトナム国
│
├─①一般行政区
│
├─②北インドシナ・モンタニャール国
│ │
│ └─5自治区
│
└─③南インドシナ ・モンタニャール国
①一般行政区

主にキン族(ベトナム人)が住む地域。
②北インドシナ・モンタニャール国(Pays Montagnard du Nord-Indochinois)

トンキン北部山岳地帯に設定された自治区。主にタイ系諸民族の住む地域。
民族ごとにタイ国(タイ族)、ヌン自治区(ヌン族)、ムオン自治区(ムオン族)、トー自治区(トー族)、メオ自治区(モン族)から成る。
③南インドシナ ・モンタニャール国(Pays Montagnard du Sud-Indochinois)

アンナンのタイグエン(中部高原)地方に設定された自治区。主にデガ諸民族(マレー・ポリネシア語族およびモン・クメール語族)の住む地域。
【1950-1954】
1950年、南北のモンタニャール国が正式にベトナム国の領域に編入され、『皇朝疆土』へと改名される。
これはベトナム国政府ではなくベトナム皇帝(バオダイ帝)の直轄領であり、皇帝が少数民族に下賜する形で、それまでの民族自治区を継承した。
ベトナム国の一部ではあるものの、政府の施政からは独立しているため、事実上フランスによる間接統治のままである。
ベトナム国
│
├─①一般行政区
│
├─②皇朝疆土(北部)
│ │
│ └─5自治区
│
└─③皇朝疆土(タイグエン)
①一般行政区

ベトナム国政府の施政下にある領域。主にキン族(ベトナム人)が住む地域。
②皇朝疆土(北部)(Hoàng triều Cương thổ)

皇帝直轄領。北インドシナ・モンタニャール国を継承したタイ系諸民族の自治区。
北インドシナ・モンタニャール国を構成した5つの自治区も存続している。
③皇朝疆土(タイグエン)(Hoàng triều Cương thổ)

皇帝直轄領。南インドシナ・モンタニャール国を継承したデガ諸民族の自治区。
ちなみに、かの『ディエンビエンフーの戦い』が行われたディエンビエンフーは、北部の皇朝疆土(旧北インドシナ・モンタニャール国)タイ国領内に位置し、住民のほとんどが黒タイ族で構成されている地域でした。また要塞にはフランス植民地軍に所属するタイ族歩兵部隊2個大隊(第2および第3タイ大隊)が駐屯していました。


▲フランス連合軍ディエンビエンフー駐屯部隊と、周辺に住むタイ族住民 [1954年]

▲ディエンビエンフーに駐屯するフランス植民地軍タイ大隊兵士 [1953年]
ジュネーブ協定後
1954年7月のジュネーブ協定によって第一次インドシナ戦争は終結しましたが、それと同時にベトナムの北緯17度線以北はホー・チ・ミンが支配する北ベトナム領となり、その中に取り残された北部の皇朝疆土はすぐさま解体されました。
その後、北ベトナムではあらためてタイ系民族の自治区が設定されましたが、それに関連する資料はベトナム共産党が公表している物しか無いので、その実態については分かりかねます。ただ、一般国民(キン族)すらまともに人権の無い共産主義政権の下で、フランスに協力していた少数民族がどう扱われたかは想像に難くないでしょう。
一方、南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権もタイグエンの皇朝疆土を1955年に廃止し、デガによる自治は終わりを迎えます。
その後デガは南インドシナ・モンタニャール国の復活を求めて1958年の『バジャラカ運動』、1964年の『フルロの反乱』などを行いますが、これらの抵抗は政府軍に鎮圧されます。
しかし同時期、デガを含む南ベトナム領内の少数民族を反共戦力として活用するCIDG計画の存在によって、アメリカが南ベトナム政府と少数民族との間を仲裁した事から、南ベトナム政府は少数民族側に譲歩せざるを得なくなり、1960年代末にはタイグエン(旧南インドシナ・モンタニャール国)においてデガによる事実上の自治が再開されます。
しかしこれも、1975年にサイゴンが陥落しベトナム全土がベトナム共産党の支配下に堕ちるとあえなく終了し、その後は共産政権によるデガへの壮絶な報復・弾圧が行われます。
※詳細については以下の関連記事参照
2023年01月15日
銀英伝2周目
※2023年1月25日更新
銀河英雄伝説の劇場版がリマスター上映されると聞いたので、さっそく観てきました。
内容はすでに知っているのですが、あらためて映画館の大画面で見ると良いものです。
しかも喜んでいいのやらどうやら、私が観た上映時間に、観客は私一人。
まさかのシアター丸ごと貸し切りで見ることが出来ました。贅沢な時間でした。
そして劇場版を見て気分が盛り上がったので、プライムビデオで本編の再視聴を開始。
ただでさえ話数が多くて長いのに、本編観るのは数年ぶりだったので、また新鮮な気持ちで観れています。
この作品はあくまでフィクションであり、エンタメ作品。
でも作品内で扱われる、民主主義の在り方に関する問題については現実に通じるものも多く、それがこの作品の魅力の一つと言えるでしょう。
一方、現実世界において、私が一時は同志として寝食を共にして活動したベトナム民主化運動グループや、元ベトナム共和国軍人の中に、ヤン・ウェンリーのように民主主義の精神を理解し、心から尊ぶ人はほとんど居ませんでした。
詳しくは書きませんが、私は活動の中で色々失望して(逆に向こうは私に失望したはず)、現在のベトナム民主化運動からは完全に手を引きました。
これは言い訳にすぎませんが、例えば三国志の研究者が現在の中華人民共和国の民主化運動に役に立つことは無いでしょう。
私は半世紀前に滅び去った国の歴史を愛好する、単なる変わり者の外国人であり、そんな人間はそもそも必要とされていないと思い知りました。
ただし、そんな器の小さな私から見ても、「そんなんじゃ永遠に無理だろ・・・」と思うような状態だっと述べておきます。
思えばベトナムにおいて民主主義が(形だけでも)政体として存在したのは1967年~1975年の約8年間(ベトナム共和国における第二共和国期)のみ。それも壮絶な内戦(ベトナム戦争)の最中。
北ベトナムに至っては、歴史上今まで一度も民主主義を享受した事がありません。
1975年以降難民としてアメリカや日本に渡った人々は、一応民主国家に住むことになりましたが、そこでその恩恵は受けこそすれ、その根本にある精神まで吸収する事は叶わなかったようです。
そもそもアメリカ人や日本人ですら、たまたま生まれた時から民主主義が制度としてそこにあっただけで、自ら勝ち取った世代はもう居ないので、その精神的な部分については忘れられている、あるいは大きく誤解されており、民主主義そのものをずいぶん粗末に扱っているのですから、これをベトナム人だけの問題と思ってはいけませんが。
国家の基本理念をフィクション作品を通じて語る事が愚かなのか、あるいはフィクション作品の中にしかまともな例が無いこの理念そのものが有名無実なお題目なのか。
できれば前者であって欲しい。
2022年12月22日
チャン・ドン・フォンの墓
もう何年も前の事ですが、東京の雑司ヶ谷霊園にあるチャン・ドン・フォン(Trần Đông Phong)の墓にお参りしました。


チャン・ドン・フォンは、ベトナム民族主義指導者ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu)が1905年(明治38年)に始めた『東遊運動(Phong trào Đông Du)』によって来日したベトナム人留学生の一人です。
東遊運動とは、将来有望なベトナムの若者を、明治維新を成し遂げ当時アジア唯一の近代国家となっていた日本に留学させ、近代的な教育を受けさせることで、将来的にフランスの植民地支配下にあるベトナムの解放を目指す運動の事です。 留学とは言っても、当時ベトナム人はフランス植民地政府の許可無しに出国することはできなかったので、東遊運動に参加した学生らはフランスの目を掻い潜って密出国し、また日本では清国人と身分を偽って生活していました。
この中で、チャン・ドン・フォンは最初に来日した9人の学生の一人であり、実家が裕福であったことから、東遊運動を資金面で支える役割を担っていました。 ファン・ボイ・チャウの片腕として来日し共に東遊運動を牽引した阮朝の皇族クオン・デ(Cường Để)は、フォンを弟のように可愛がったといいます。
しかし1908年(明治41年)になると、フォンの実家からの送金が途絶えます。実際にはフランス側が東遊運動を阻止するためフォンの実家からの手紙や送金を押収していたのですが、それを知らないフォンは父に見捨てられたと誤解し、また東遊運動の資金が途絶えた事で仲間に迷惑をかけた事を恥じ、フォンは1908年5月2日に、小石川の東峯寺境内にて首を吊って自殺します。
さらにその前年の1907年には日本とフランスの間で日仏協約が締結されており、1908年になるとフランスは日本政府に対し、日本国内のベトナム人留学生の国外追放を要請します。日本政府はフランスとの関係を優先してこの要請に従い、翌1909年初旬には、全ての留学生がベトナムに強制送還されたことで、約3年間続いた東遊運動は瓦解しました。
ファン・ボイ・チャウは、犬養毅など東遊運動を支援した日本人支援者には感謝を示す一方、事実上フランスと共に東遊運動を弾圧した日本に失望し、二度と日本を頼る事はありませんでした。
一方、クオン・デはその後ファン・ボイ・チャウとは別行動をとり、カンボジア、シャムを経てドイツ等を漂泊しましたが、何ら成果を上げられぬまま1915年(大正4年)には犬養毅を頼って再び日本に戻り、以後犬養の庇護の下、東京で生活します。この時期(1920年頃)、クオン・デは1908年に亡くなったチャン・ドン・フォンの墓を雑司ヶ谷霊園に建立しました。
しかしその後20年近く、クオン・デは目立った活動を行う事なく月日が流れます。クオン・デはベトナム光複会(Việt Nam Quang Phục Hội)の代表であり、ベトナムで成功した日本人実業家 松下光廣の協力も得ていたものの、フランスと日本の官憲は常にクオン・デの動向を厳重に監視しており、またクオン・デ自身の行動力の低さもあり、ベトナム光複会が具体的な行動を起こすまでには至りませんでした。そしてその間、ベトナム国内で勢力を拡大したのが、ホー・チ・ミンが創設したインドシナ共産党(後のベトナム労働党/共産党)でした。
1945年(昭和20年)3月、日本軍が仏印処理によって仏領インドシナを解体しベトナム帝国を擁立すると、ベトナム国内のベトナム復国同盟会(ベトナム光複会の後継組織)やカオダイ教徒はクオン・デが君主としてベトナムに帰国する事を望みましたが、日本軍はフランス同様バオダイ(保大帝)を傀儡として皇帝に据えたため、ついにクオン・デが政治の表舞台に上る機会はありませんでした。
そして1951年(昭和26年)、ベトナムへの帰国も叶わぬまま、クオン・デは東京都内の病院で息を引き取ります。この時期ベトナムでは第一次インドシナ戦争が激化し、ベトナム人同士が血みどろの抗争を繰り広げている最中でした。
クオン・デの遺言により、彼の遺骨は三等分に分けられ、一つは故郷ベトナムのフエ、一つはタイニンのカオダイ教本部、そして残る一つは弟分であるチャン・ドン・フォンの墓に収められました。なのでチャン・ドン・フォンの墓は、同時に日本にある唯一のクオン・デの墓でもあります。
このチャン・ドン・フォン/クオン・デのお墓は現在、日本人の有志の方々によって清掃されており、僕がお参りした際、偶然その方々(高齢のご夫婦)がいらっしゃったので、少しお話させて頂きました。
またベトナム人の間でもこのお墓は知られた存在であり、特に私が日本在住ベトナム人協会を通じて知り合った日本に住んでいるベトナム人の若者は、皆で集まってお参りしていました。彼らは恐怖政治と拝金主義しか能の無いベトナム共産党政権を否定し、ベトナム国民に自由と人権を取り戻す事を願う、真に愛国的なベトナム人です。まさにここ日本で祖国の解放を願う彼らの姿は、約100年前の東遊運動の留学生と重なります。
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2022年11月12日
【改訂版】在越ヌン族の戦史
※2022年11月15日更新
過去に何度かベトナム在住ヌン族の戦史について記事にしてきましたが、内容にいくつか誤りがあったので、あらためて記事にしました。
中世~近代
ヌン族(儂族)は元々、中国南部に住むタイ系(現代中国ではチワン族と分類)の少数民族であり、客家語(中国語の方言)を主要言語とした。
またヌン族の一部は16世紀ごろから戦乱続きの中国を逃れて南下し、現在のベトナム北東部の山岳地帯にも広まった。ベトナムに移住したヌン族は、同じタイ系民族でベトナム北西部山岳地帯に住んでいるモン族らと連携し、山岳地帯の支配を目論むベトナム人(キン族)と戦ったが、最終的にキン族に敗れて大南国(阮朝ベトナム)の支配下に降った。
仏領インドシナ期(1860年代-1945)
1860年代、フランスによるインドシナの植民地化が進む中で、フランス人は中央タイ系山岳民族のヌン族(北東部)、モン族・トー族・ムオン族(北西部)を総称して『北インドシナ・モンタニャール』と呼んだ。(※同じくベトナム中部高原に住むデガ諸部族は南インドシナ・モンタニャールと呼ばれたが、単に山岳地帯に住んでいるからモンタニャールと呼ばれただけで、その文化・構成民族は北部のタイ系とは全く異なる)
1885年の天津条約によってフランス領インドシナの領域が確定すると、ヌン族の住む地域は正式に清国領・フランス領に分断された。しかし国境のある山岳地帯は両政府の支配が行き届いては居らず、ヌン族は依然として中国・ベトナムにまたがって生活していた。 またヌン族は元々は山岳地帯に住んでいたが、20世紀前半までにその生活範囲をトンキン湾沿岸にも広げており、中国・ベトナム間での海洋貿易を行うようになっていた。また貿易の拡大に伴い中国との密貿易を行うヌン族の犯罪組織も巨大化し、ヌン族はフランス人から『中国の海賊』と呼ばれ警戒された。
インドシナの植民地化が完了した後も、ベトナム人には強いナショナリズムが残っており、インドシナ植民地政府は常にベトナム人の反乱を警戒しなければならなかった。一方、それまで国家を持たずベトナム人から抑圧される側だった少数民族は、フランスに協力する事で政府による保護と一定の自治を得ることが出来た事から、フランスとの結びつきを強めた。少数民族のエリート層はフランス軍の士官学校で教育を受け、同民族で構成された植民地軍部隊の指揮権を与えられた。こうした中で、ベトナム北東部のハイニン省ではヌン族の部隊が結成されるとともに、フランス軍所属のヌン族将校が誕生した。
第二次世界大戦末期の1945年3月、インドシナ駐留日本軍が『明号作戦』を発動し、フランス植民地政府およびフランス軍への攻撃を開始した。これに対し、フランス植民地軍に所属するヌン族将校ヴォン・アーシャン大尉はヌン族部隊を率いて日本軍と交戦するが、部隊は敗退し、他のフランス軍部隊と共に中国領内の十万大山山脈に潜伏する。

▲晩年のヴォン・アー・シャン(黃亞生 / Vòng A Sáng)
1902年ハイニン省生まれのヌン族。1914年にフランス軍ヌイデオ幼年学校に入学し、フランス本土のフレジュス士官学校を経て1935年に植民地軍少尉に任官。後に第1ヌン大隊長、第57歩兵大隊長、第6歩兵師団長、ヌン自治区指導者を歴任し、1967年からはベトナム共和国の国会議員としてヌン族及び北ベトナム出身者への支援に尽力した。1975年、サイゴン陥落により家族と共にベトナムから輸送船で脱出するが、5月2日に海上で死去。
第一次インドシナ戦争期(1945-1954)
1945年8月、日本が連合国に降伏すると、ホー・チ・ミン率いるベトミンは9月2日にベトナム民主共和国の成立を宣言する。ベトミン政権はベトナム民族主義の名の下に、それまでフランスに協力的だった少数民族への迫害を開始した。また同時に、中国軍(国民革命軍)が国境を越えてベトナムに侵入し、モンカイを含むハイニン省の複数の都市が中国軍に占領された。
ベトナム・中国国境に位置するハイニン省モンカイは、ヌン族の経済を支える海洋貿易の拠点であり、多くのヌン族が生活していた。ヴォン・アーシャン大尉率いるヌン族部隊は、インドシナの再占領を目指すフランス政府の後押しを受けてモンカイ奪還を目指し、中国広西省防城から船でトンキン湾を渡り、コートー島に上陸、その地をモンカイ奪還作戦の拠点とした。
その後、フランス軍にはベトミンと戦うため数百人のヌン族の若者が新たに加わり、1946年1月にトンキン沿岸隊大隊(Bataillon des forces cotieres du Tonkin。後の第72歩兵大隊)が発足した。これらヌン族部隊はヴォン・アーシャン大尉の指揮下でベトミン軍と交戦し、1946年8月までにモンカイからベトミンおよび中国軍を駆逐する事に成功、ハイニン省はフランス軍(ヌン族部隊)の勢力下に復帰した。このモンカイ奪還はヌン族にとって輝かしい勝利であり、1945年にヴォン・アーシャン大尉が部隊を率いて中国から帰還した際に使用した帆船『忠孝』は、 後にヌン自治区およびフランス軍ヌン族部隊のシンボルとなる。

▲中国・ベトナム国境付近の地図
第二次大戦後、フランスは少数民族をフランスの勢力下に留めるため、各民族に自治区を与えていった。その中でヌン族には1947年にヌン自治区(ハイニン自治区とも)が与えられ、その政治指導者にヴォン・アーシャンが選任された。その3年後の1950年にヌン自治区はベトナム国に『皇朝疆土(Hoàng triều Cương thổ)』として編入されるが、皇朝疆土はベトナム国国長(=阮朝皇帝)バオ・ダイが少数民族に下賜した土地という意味で、実質的な自治領として1954年まで機能した。

▲ヌン自治区(ハイニン自治区)旗
1951年3月、CEFEO(極東フランス遠征軍団)内にはヴォン・アーシャンを指揮官とする『第1ヌン大隊(1er Bataillon Nùng / Bataillon des becs d’ombrelles)』が新たに設立された。この第1ヌン大隊は翌1952年7月1日、ベトナム国軍に編入され、『第57歩兵大隊』(第5ベトナム師団隷下)へと改名される。
同様に1953年3月1日には、ヌン族で構成されたフランス外人部隊第5外人歩兵連隊第4大隊がベトナム国軍に編入され『第75歩兵大隊』へと改名された。以後、ベトナム国軍内にヌン族で構成された歩兵大隊(ヌン大隊)が複数編成される。

▲ヌン族部隊を閲兵するヴォン・アーシャン(中央)とフランス人軍将校

▲CEFEO/ベトナム国軍所属のヌン族部隊章の例
しかし1954年、ジュネーブ協定により第一次インドシナ戦争が終結すると、ベトナム国の国土の北半分がベトミン側に明け渡される事が決定する。これによりヌン自治区は消滅し、十数万人のヌン族がホー・チ・ミン政権による報復を恐れて中国やラオスに避難した。この中でヴォン・アー・シャン大佐は、ヌン大隊の将兵およびその家族数千人を率いて南ベトナムに避難した。一方、北ベトナムに残留したヌン族の多くは迫害を恐れてホー・チ・ミン政権に恭順した。
▲北ベトナム領から脱出するヌン族難民(1954年)
※以下で「ヌン族」と呼ぶのは、1954年に南ベトナムに移住したヌン族グループです。
ベトナム共和国軍ヌン師団(1955-1958)
1955年、ベトナム陸軍は南ベトナムに退避した各ヌン大隊を統合し、ヴォン・アーシャン大佐を師団長とする第6歩兵師団(通称『ヌン師団』)を創設した。その後第6歩兵師団は第6野戦師団、次いで第3野戦師団へと改名される。
しかし1956年、ベトナムにおけるフランスの影響力排除を目指すベトナム共和国総統ゴ・ディン・ジェムは、ヴォン・アーシャン大佐をフランス・シンパと見做し、軍から追放する。以後、ヴォン・アーシャンが軍に復帰する事は無く、民間人として政治活動に専念した。

▲第3野戦師団部隊章
同年10月、ヴォン・アーシャン大佐の後任としてファム・バン・ドン大佐が第3野戦師団師団長に就任する。ドン大佐の第3野戦師団への異動はジェム総統との確執から来る左遷であったが、それでもドン大佐は第3野戦師団のヌン族兵士の心をつかみ、ヌン族はドン大佐に強い忠誠心を抱いた。
しかし、これにジェム総統は危機感を覚え、ドン大佐の権勢を削ぐため、1958年3月にドンを師団長から解任する。英雄ヴォン・アーシャンに続いてファム・バン・ドンまでもが更迭された事で、ヌン族将兵はジェム政権に強く反発し、その結果大量のヌン族兵士が政府軍から離脱した。
その後、軍を抜けたヌン族兵士はドン大佐の私兵兼傭兵へと転身し、その一部は中国キリスト教難民がカマウで組織した武装組織ハイイェンに参加した。

▲ファム・バン・ドン(Phạm Văn Đồng)
ファム・バン・ドン少将自身はキン族(ベトナム人)だが、妻はヌン族であり、ヴォン・アーシャン同様第2次大戦中からヌン族将兵を率いてきた事から兵の信頼を集め、ヴォン・アーシャンに続くヌン族の軍事指導者となった。ジェム政権崩壊後は第7歩兵師団長、サイゴン軍政長官兼首都独立区司令を務めるが、1965年のクーデターにより失脚し、軍の第一線から退く。しかしその後も自宅をヌン族傭兵組織の司令部兼駐屯地とし、その兵力をベトナム共和国軍やアメリカ軍の特殊部隊に貸し出す事で、強い政治的影響力を維持した。また1969年には国会議員に転身し、1974年までグエン・バン・テュー政権で復員省長官を務めた。
グリーンベレーとの傭兵契約(1961-1970)
アメリカ陸軍特殊部隊グリーンベレーは1961年からベトナム共和国領内にてCIDG計画を開始し、各地に特殊部隊キャンプを建設した。当初これら特殊部隊キャンプの守備は、それぞれのキャンプを構成するCIDG隊員や現地採用のベトナム人警備員が担っていたが、中には士気の低い者や敵側に内通している者も少なくなく、共産軍の攻撃によってキャンプは度々陥落の危機に陥っていた。
一方、アメリカ軍から『Chinese Nung』と呼ばれたファム・バン・ドン将軍麾下のヌン族傭兵は、その戦闘経験と忠誠心で高い評価を得ており、各地の特殊部隊キャンプには次第に、現地のCIDGとは別にヌン警備隊(Nung Security Forces)やヌン強襲隊(Nung Strike Force)が設置された。そして1964年には、ベトナムにおけるグリーンベレーの総本部であるニャチャンの第5特殊部隊群本部の守備もヌン警備隊が担うまでに拡大した。
CIDG兵のほとんどはもともと軍隊経験の無い素人であった為、グリーンベレーが一から訓練を施さなければならなかったが、ヌン族兵はつい最近まで正規のベトナム陸軍軍人であった者が多かった為、傭兵として申し分ない能力を持っていた。その為グリーンベレーにおけるヌン族傭兵の需要は高まり続け、ヌン族はマイクフォース、プロジェクト・デルタ、NKTコマンド雷虎などのグリーンベレー/MACV-SOG指揮下のコマンド部隊に大々的に雇用され、1960年代を通じて大きな活躍をした。
なお、全てのヌン族兵士が傭兵であったわけではなく、一定数はベトナム共和国軍に所属する正規の軍人であった。(過去に紹介した元NKT/第81空挺コマンド群のダニエルおじさんもヌン族ですが、士官学校を卒業した正式な陸軍将校です。)

▲ナムドン特殊部隊キャンプ ヌン強襲隊(ヌン第1野戦大隊)[1964年]

▲第5マイクフォース(第5特殊部隊群本部ヌン警備隊から発展)

▲プロジェクト・デルタBDA(爆撃効果判定)小隊

▲NKT雷虎CCN偵察チーム・クライト

アメリカ軍撤退後(1970-)
1968年以降、ベトナマイゼーションに伴いアメリカ軍はベトナムからの撤退を進め、1970年代初頭にはヌン族が参加していたグリーンベレー関連組織のほとんどは活動を終了した。
またこの時期、共産軍の主力は南ベトナム領内のゲリラ(解放民族戦線)から、南進したベトナム人民軍へ移り変わり、その戦力は大幅に増大していた。戦争の敗北はすなわちベトナム全土の共産化を意味しており、ヌン族にとってもベトナム共和国の存続は死活問題となっていた。そしてヌン族は自ら正式なベトナム共和国軍部隊へと復帰し、1975年まで共産軍への抗戦を続けた。
しかし最終的に戦争は共産軍の勝利に終わり、ヌン族は1954年以来2度目の離散を余儀なくされた。以後、ヌン族による組織的な武装闘争は行われていない。

▲1975年以降ベトナムから脱出した在米ヌン族将兵の戦友会 [1994年]
(参考サイト)
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2022年09月04日
ベトコンとは
※2022年9月5日更新


去る9月2日は、現在のベトナム社会主義共和国において元旦節(テト)と並ぶ重要な祝日とされる『国慶日(Ngày Quốc khánh)』でした。
これは1945年8月、日本が太平洋戦争に敗戦した事を機に、ホーチミン率いるベトミンが日本の傀儡政権であるベトナム帝国政府を転覆させ、9月2日にベトナム民主共和国の成立を宣言した事を記念する日で、いわゆる独立記念日に当たるものです。
(ただし、この宣言の直後にフランスがインドシナの再統治に乗り出し、翌1946年にはベトミンは政権を失うので、実際にベトナム民主共和国が安定的に成立したのは1954年のジュネーブ協定による南北分断後です。)

とまぁ、僕には珍しくベトコンの祝日について書いたわけですが、実際フランスによる植民地支配がベトナムに独立運動とセットで共産主義をもたらし、さらに太平洋戦争中の日本軍進駐がアメリカOSSによるベトミンへの軍事支援をもたらした事で、ベトミンは数ある独立運動組織の中で最大勢力へと成長で出来た訳ですから、このホーチミンによる独立宣言は歴史的必然だったと感じています。
しかし当時ハノイでこの演説を聴いて歓喜に沸いた人々も、まさかこれが今後70年以上続く共産主義政権による恐怖政治と絶え間ない戦争の入り口だったとは思いもしなかったでしょうね。
ところで以前このブログで、日本や欧米で用いられている「ベトコン(Viet Cong)」という言葉は、ベトナム語における「Việt Cộng」とは意味する範囲が大きく異なり、当ブログでは本来のベトナム語の意味で使っていると述べました。
そのベトナム語の意味を分かりやすくまとめた画像見つけたのでご紹介します。
Việt Cộngが意味する範囲
まず、Việt Cộngは漢字表記すると「越共」、つまり広義にはベトナムの共産主義者全般への蔑称なのですが、より具体的には、以下の組織およびその構成員・シンパを指します。

・インドシナ共産党/ベトナム労働党/ベトナム共産党
ホーチミンが創設した共産主義政党。中ソの支援を受けてテロ・戦争により支配地域を拡大し、1954年に北ベトナムを掌握、1975年以降はベトナム全土を支配下に置き現在に至る。
・ベトミン(ベトナム独立同盟会)
日本・フランスの支配に対抗する独立闘争組織。1954年に北ベトナムを掌握したが、ホーチミンにより共産主義以外の勢力は粛清されベトミンは解散する。
・ベトナム民主共和国/ベトナム社会主義共和国
ベトミンが1945年に独立宣言し、実際には1954年に北ベトナムを領土として成立。ベトナム労働党独裁政権。1976年に南ベトナム共和国を併合し、国名を『ベトナム社会主義共和国』に変更。
・南ベトナム解放民族戦線
ベトナム労働党の支援を受けた南ベトナムの反政府武装組織。政府軍の掃討により1970年代初頭までにほぼ壊滅するが、南進したベトナム人民軍は越境侵攻の事実を否定するため、元から南ベトナムにいる解放民族戦線の部隊を装った。
・ベトナム民族・民主・平和勢力連盟
南ベトナム解放民族戦線の下部組織で、南ベトナムにおいて合法的な政治運動を装い民衆への宣伝工作を行う。
・ベトナム武装人民部隊
ベトナム民主共和国・ベトナム社会主義共和国が保有する武装組織の総称。ベトナム人民軍、人民公安、人民自衛軍団から成る。
・南ベトナム共和国
1975年にベトナム共和国政府が解体された後、南ベトナム解放民族戦線(南ベトナム臨時革命政府)によって樹立された新政府。しかし南ベトナム解放民族戦線はベトナム労働党により粛清され、南ベトナム共和国は成立からわずか1年後の1976年にベトナム民主共和国に併合され消滅する。
※ネットを見ているとベトナム共和国と南ベトナム共和国を混同している例を時々見ますが、上記のように全く別の政体です。
日本や欧米におけるベトコン(Viet Cong)
上記のように、本来ベトナム語では、1940年代のベトミンから現在のベトナム社会主義共和国政府まで全て「Việt Cộng」なのですが、一方で日本や欧米における「ベトコン(Viet Cong)」という言葉は、ベトナム戦争期の南ベトナム解放民族戦線のみを指して用いられています。
これは、ベトコンという言葉が外国人に知られるようになったきっかけが、南ベトナム解放民族戦線のテロ活動と、それに対抗するベトナム共和国政府・同盟国軍による掃討作戦(=1960年代のベトナム戦争)に関する報道だったからだと思われます。
ちなみに、ベトナム国外に住むベトナム人の場合、英語や日本語など現地の言葉で喋っている時でも、ベトコンという単語についてだけはベトナム語の意味で言ったりするのでややこしいです。
おまけ
以前僕がこの画像作ってFacebookに投稿したら、ベトナム人によってあちこちに転載されて、転載された先でバズってました。

2022年05月16日
ベテラン訪問
※2023年8月30日更新
3月のベトナムロケで取材させて頂いた元ベトナム共和国軍将校のお二方との記念写真です。
元陸軍装甲騎兵将校

氏は友人の祖父の異母兄弟で、6年前のベトナム初訪問の際にもお話を伺いました。
1968年のマウタン(テト攻勢)以降、M113装甲兵員輸送車部隊の指揮官として終戦まで戦ったお方です。
マウタン1968ではサイゴン川の対岸に終結した共産軍に対し、車載のM2重機関銃を撃ちまくって撤退させたと思い出を語ってくださりました。

僕が日本の友人と共同で製作したベトナム共和国軍コンバットレーション、『Cơm sấy(乾燥米)』の自家製リプロをお披露目。
「そうそう、これ食ってた」と懐かしんでいただけました。
元陸軍特殊部隊/レンジャー部隊将校

この方はかつて特殊部隊(LLÐB)隊員として、米豪軍と共にCIDG部隊を指揮したベテランです。
1970年にCIDG計画が終了し、各国境特殊部隊キャンプのCIDG部隊が陸軍レンジャー部隊(BÐQ)に編入、国境レンジャー大隊(BÐQ Biên Phòng)として再編されると、氏もレンジャー部隊に転属し、引き続きCIDG隊員で構成された国境レンジャー大隊を指揮しました。

氏の腕に残るLLÐBの精神的シンボル=棺桶の入れ墨。
棺桶は「もう自分用の棺桶は用意してある」=「死ぬ覚悟はできている」という決意を意味しているそうです。
なお肝心のインタビューはベトナム語で行われたので、僕は内容をあまり理解できていません。
ただ、撮影を終えたあと監督がインタビューの謝礼にと、二人に現金を渡したのですが、そのお金がドンではなく米ドル札だったのは印象深かったです。
別に米ドルを有難がっている訳ではなく、(米ドルが一番両替し易いというのはあれど)本質的にはどこの国の紙幣でも別に構わないのです。
ただ少なくとも、ホーチミンの肖像が入った金など渡したくないし受け取りたくないというのが、インタビューする側、される側共通の心情でした。
2022年04月28日
カフェー・キムソン
前回『BGIと飲料ボトル』で1975年以前のラルーとコンコップの瓶を紹介しましたが、これらをプレゼントしてくださったのが、チャーヴィン省チャーヴィン市内にある喫茶店キムソン(Kim Sơn)のマスターです。
このお店はマスターが趣味で収集したベトナム(特に南部)のアンティークアイテムが店内所狭しと大量に展示されている、ベトナム近現代史好きにとってはたまらないお店です。

お店に展示してある品々
全部解説してるとキリが無いので、僕の趣味的に気になった物をいくつか紹介します。
①ベトナム共和国軍陸軍工廠製栓抜き(1969年製)
かつてサイゴン市内に存在した陸軍工廠(Lục quân công xưởng)が製作した栓抜きです。こんなものが存在したんですね~


②USAID供与ラジオ
ベトナム戦争期、USAID(アメリカ国際開発庁)によってベトナムに供与された民生品のラジオです。ラジオ自体は普通の市販品ですが、正面左下にUSAID供与を示すシール(星条旗と握手のイラスト)が残っています。


③ベトナム共和国切手収集ファイル(1971年)
ベトナム国内の切手コレクターが収集したファイルです。切手は全てベトナム共和国時代の物であり、またファイルには元の持ち主が記したと思われる1971年の日付がありました。これは友人がキムソンのマスターから購入しました。


④M72対戦車ロケット
お店の一角にはミリタリー物もいくつか飾ってあり、店先には使用済みのM72ロケットが乱雑に立てかけてありました。武器系は買ったところで飛行機で持って帰れないので、いじくりまわして遊んでました。

歴史アイテムに囲まれて、歴史好きの仲間と語らいながらアイスコーヒー飲むの幸せ~
惜しむらくは、このお店が僕の家から4,500kmも離れた場所にあること。近所にあったら毎日通っちゃいますよ。
2022年04月10日
海賊島の石碑
※2022年4月10日更新
※2023年8月30日更新
今回の旅の中では、サイゴンから遠く離れて、ベトナム本土南部最西端の街ハーティンとフーコック島の中間にある小さな島、その名も『ハイタック島=海賊島』にも行きました。
リゾート地として有名なフーコック島ではなく、わざわざこんな辺鄙な島に行ったのには当然理由があります。
それがこちらの記念碑。ベトナム共和国時代の1958年にベトナム海軍によって設置された、ハイタック島を含むハイタック群島(現ハーティン群島)の領有を記念する石碑です。
石碑には当時のまま、ベトナム共和国(Việt Nam Cộng Hòa)の国名、そして旧ベトナム海軍の紋章が残されており、今日のベトナムでは大変貴重な史跡です。
このハイタック/ハーティン群島は長年、タイランド湾を荒らしまわる海賊の本拠地となっており、そこから海賊群島という名前が付けられたほどの無法地帯でした。
19世紀末にインドシナがフランス領になってからも海賊は一掃されず、資源も住民も無いこの群島は数十年に渡って植民地政府からも放置されていました。
その後、1939年に当時のインドシナ総督ジョセフ・ジュール・ブレビエによってタイランド湾の各諸島の(インドシナ連邦内での)行政区画を定めた『ブレビエ線(ligne Brévié)』が設定され、これが現在のベトナム・カンボジア国境の基礎となります。
このブレビエ線によって、ハイタック群島はついにコーチシナ(後のベトナム)の領域と定められました。
しかしその後、第一次インドシナ戦争の結果フランスがインドシナから撤退し、ベトナム、ラオス、カンボジアの3国が名実ともに独立を果たすと、旧宗主国フランスが一方的に設定したブレビエ線の正当性は失われます。
これによりハイタック群島を含むタイランド湾内の島々は、その領有を巡ってベトナム・カンボジア両国の係争地となりました。
そして1958年、ベトナム・カンボジア両国はそれぞれタイランド湾に軍を派遣し、各群島の実効支配を開始します。
しかし両国とも軍事衝突は避けたことから、支配地域はそれまでのブレビエ線とほぼ同一となり、そのまま両国の国境が確定しました。

▲ベトナム・カンボジア国境。タイランド湾内の国境はブレビエ線に依る。
この際、ハイタック群島がベトナムの領土として確定した事を記念したのが、今回訪問した記念碑になります。
なお、1975年のベトナム戦争終結以降、ハノイの共産党政権は旧ベトナム共和国が築いた歴史・文化・財産を徹底的に破壊しましたが、国境という権益だけはそのまま継承したため、ハイタック群島の領有を示すこの記念碑は今日まで破壊を免れてきたようです。
領土と言えば、ベトナム戦争中、中国に依存しきったハノイ政府は一度たりともホンサ諸島(西沙諸島)の領有権を主張しなかった一方、ベトナム共和国政府は中国海軍との海戦・地上戦を行ってでもホンサ諸島を自国の領土として守ろうとしました。(過去記事『ホンサ海戦から44年』参照)
しかしハノイ政府は、そんな過去は無かった事にして、すでに中国が占領済みのホンサ諸島の領有をいまさら主張していますね。まぁこれは本気で中国に対抗しているのではなく、国内向けのリップサービスというのが見え見えですが。
2022年04月06日
サイゴンの残光
※2022年4月15日更新
前回に続き、今回足を運んだサイゴン市内に残る史跡の紹介です。
ベンニャーゾン(龍の家埠頭)

サイゴン川沿いにあるベンニャーゾン(Bến Nhà Rồng)は、仏領インドシナ期の1864年に完成した、フランスの海運会社『Messageries maritimes』の本社跡です。
インドシナ銀行サイゴン支店/ベトナム国立銀行

ベンニャーゾンのすぐ近くにあるのが、かつてのインドシナ銀行サイゴン支店です。
インドシナ銀行自体は19世紀末からこの場所にありましたが、現在の建物は1930年代後半に完成したものです。
第一インドシナ戦争終結に伴い、この建物はフランスからベトナム共和国政府に引き継がれ、ベトナム国立銀行本店となりました。

ベトナム共和国時代の50ドンや500ドン札には、このベトナム国立銀行ビルが描かれています。
この埠頭周辺はサイゴン川と南シナ海を結ぶコーチシナの玄関口であり、今も残る仏領時代の遺構を見ると、この場所がかつてフランスが莫大な投資を行い作り上げたインドシナ植民地経済の中心地だった事を思い起こさせます。
これらの場所と直接の関係はないですが、20世紀前半のベトナムの歴史や雰囲気は、映画『インドシナ』を連想させるものでした。
アンズンヴン(安陽王)像

アンズンヴン(An Dương Vương)は紀元前3世紀、古代ベトナム北部を統一し甌雒(オーラック)国を建国した英雄で、この記念碑はベトナム共和国時代の1966年に建設されたものです。
実はアンズンヴンはもともとベトナム人ではなく、始皇帝率いる秦に滅ぼされた古蜀の王子で、秦から逃れ南下した末に、現在のベトナム北部で挙兵し諸国を統一、甌雒を建国したそうです。
ベトナム共和国軍総参謀部

15年に及ぶベトナム戦争を戦い抜いたベトナム共和国軍の総司令部跡。
正門は過去記事『グレイタイガーの4月30日』で紹介したファム・チャウ・タイ少佐が最後の防御陣地とした場所でもあります。
戦後はベトナム人民軍に接収され、人民軍第7軍管区司令部となっていますが、正門は現在でもほぼ当時のまま残っています。
なお軍の施設なので車の中からこっそり撮影したため画質悪いです。
水上レストラン ミーカイン跡地

チャンフンダオ像のすぐ近くにあるバックダン埠頭には、今も昔も水上レストランがあります。
ベトナム共和国時代、この場所にあったレストラン『ミーカイン(My Canh)』は、1965年6月25日、解放民族戦線による夕食時を狙った爆弾テロに合い、死者31-32名、重軽傷者42名を出す大惨事の現場となりました。
▲ミーカン爆破事件を伝える米国のニュースフィルム
このテロ事件が国際世論に与えた影響は大きく、米国以外の西側諸国も共産主義拡大の危険性に目を向け、ベトナムへの派兵や軍事・経済支援を強化するきっかけとなりました。
2022年04月05日
サイゴンのチャンフンダオ像と香炉
※この記事では僕の好みで、街の名前を『サイゴン』、行政当局の名前を『ホーチミン市』と記しています。
ベトナム入国初日は、タンソニュット空港に到着して、その足でサイゴン市内に残る史跡を巡りました。
まず最初に行ったのがチャンフンダオ像(Tượng Đức Thánh Trần Hưng Đạo)。

左が1975年以前、右が現在
チャンフンダオは13~14世紀の大越(のちのベトナム)の武将で、中国(元)による侵攻を2度に渡って撃退したとされる、ベトナムの民族的英雄・軍神です。
このチャンフンダオ像はベトナム共和国時代の1967年に、サイゴン川のほとりのバックダン埠頭に建立され、以後半世紀に渡ってサイゴンの名所として親しまれてきました。
なお、これは全くの偶然なのですが、僕がこの場所を訪れた2022年3月17日、このチャンフンダオ像がニュースになりました。
実はバックダン埠頭/メーリン公園およびチャンフンダオ像は老朽化の為、約3年前の2019年から改修工事が行われており、チャンフンダオ像の前に置かれた香炉もその間サイゴン市内の寺院に移設されていました。
しかしその香炉が撤去された2019年2月17日というのがちょうど、中越戦争(1979)開戦から40周年の記念日であり、こんな日に抗中の英雄像から香炉を撤去するというホーチミン市当局の無神経さに、当時国民から批判が噴出しました。
それから3年後、改修は無事終了し、2022年3月16日の夜間に、問題の香炉がチャンフンダオ像前に返還。そして僕がサイゴンに到着したのとほぼ同時刻の3月17日朝には、多くの人々が香炉の返還を喜び焼香に訪れたとニュースになりました。

問題の香炉。左がオリジナル。右が返還されたもの
ただし、もともと金のためならどんな汚い事でも平気でやる共産党政府とホーチミン市当局ですので、ネット上ではすでに、「返還された香炉は本当にオリジナルなのか?」「資金目当てに裏で売却され、レプリカが置かれたのでは?」と疑念の声が上がっているようです。
真偽のほどは僕には確かめようもないですが、そんな疑惑も上がって当然と思えるくらい、ベトナムの役人は信用ならないという点には僕も同意します。
2022年04月01日
ベトナムロケから帰国
実は3月中盤から約2週間ベトナムに行っており、本日、日本に帰国しました。
(エイプリルフールじゃないですよ。笑)
前回のベトナム訪問同様、安全のため日本に帰国するまでは一切の情報を伏せていました。
【2016年のベトナム訪問】
ビエンホア国軍墓地
https://ichiban.militaryblog.jp/e789059.html
スンロクの戦跡
https://ichiban.militaryblog.jp/e789541.html
ベトナム戦跡めぐりダイジェスト
https://ichiban.militaryblog.jp/e790372.html
今回はアメリカ在住の友人がプロデュースする、南のベトナム人から見たベトナム戦争をテーマとする映像作品制作が主たる目的であり、僕もそのロケに同行して一部出演してきました。
内容は主にベトナム各地の史跡訪問やベテランへのインタビューですが、一部当時の軍装を再現して、戦時中の再現ビデオ、つまりリエナクト撮影も行いました。
現在の社会主義ベトナムでは、例えアマチュアであってもベトナム共和国時代をテーマとする取材は危険ですし、まして軍装を着て撮影なんて完全アウトなので、警察の目の届かない私有地や田舎の田んぼで撮影しました。



まさにベトナムその地なので、本当にこれ以上ないロケーション。
かつて埼玉の普通の高校生がナム戦コスプレサバゲを始めてから18年。運命に導かれてついにここまで来てしまいました。なかなか感慨深いです。
撮影で巡った場所などについては、おいおい記事にしていきます。
まずは、無事日本に帰ってこれた事の報告になります。
実は僕は出発前、日本での生活に未練なんか無いので最悪向こうでくたばっても構わない、くらいの気持ちで出国したのですが、いざ羽田に帰ってきて高速道路から満開の桜を見たら、なぜか急に感動しちゃったんです。
何だかんだ言って、僕の故郷はこの国だったようです。
あと、便所にトイレットペーパーが置いてあるってだけで十分素晴らしい事。
(エイプリルフールじゃないですよ。笑)
前回のベトナム訪問同様、安全のため日本に帰国するまでは一切の情報を伏せていました。
【2016年のベトナム訪問】
ビエンホア国軍墓地
https://ichiban.militaryblog.jp/e789059.html
スンロクの戦跡
https://ichiban.militaryblog.jp/e789541.html
ベトナム戦跡めぐりダイジェスト
https://ichiban.militaryblog.jp/e790372.html
今回はアメリカ在住の友人がプロデュースする、南のベトナム人から見たベトナム戦争をテーマとする映像作品制作が主たる目的であり、僕もそのロケに同行して一部出演してきました。
内容は主にベトナム各地の史跡訪問やベテランへのインタビューですが、一部当時の軍装を再現して、戦時中の再現ビデオ、つまりリエナクト撮影も行いました。
現在の社会主義ベトナムでは、例えアマチュアであってもベトナム共和国時代をテーマとする取材は危険ですし、まして軍装を着て撮影なんて完全アウトなので、警察の目の届かない私有地や田舎の田んぼで撮影しました。



まさにベトナムその地なので、本当にこれ以上ないロケーション。
かつて埼玉の普通の高校生がナム戦コスプレサバゲを始めてから18年。運命に導かれてついにここまで来てしまいました。なかなか感慨深いです。
撮影で巡った場所などについては、おいおい記事にしていきます。
まずは、無事日本に帰ってこれた事の報告になります。
実は僕は出発前、日本での生活に未練なんか無いので最悪向こうでくたばっても構わない、くらいの気持ちで出国したのですが、いざ羽田に帰ってきて高速道路から満開の桜を見たら、なぜか急に感動しちゃったんです。
何だかんだ言って、僕の故郷はこの国だったようです。
あと、便所にトイレットペーパーが置いてあるってだけで十分素晴らしい事。
2022年03月05日
『国家革命運動』の謎
約9年間続いた第1次インドシナ戦争の結果、フランスは1954年にインドシナからの撤退を決定し、ベトナムの国土の北半分がホー・チ・ミン率いるベトナム労働党の支配下に堕ちます。
その後も労働党は引き続き暴力革命によるベトナム全土の共産主義化を目指し、1960年に南ベトナム領内でテロ組織TDTGPMNVN(南ベトナム解放民族戦線、以下「解放民族戦線」)を組織しました。
ただし、かつてホー・チ・ミンがベトミンを「純粋にベトナム独立を目指す同盟」と偽って様々な民族主義勢力を取り込んだ(そして最終的に労働党=共産主義以外の幹部を大粛清した)のと同様に、解放民族戦線もまた、共産主義革命という労働党の目的は巧みに隠され、「腐敗した南ベトナム政府の打倒と祖国統一」という広く受け入れられ易い宣伝文句によって南ベトナム領内の様々な勢力を取り込んだ組織でした。
なので解放民族戦線では、末端のゲリラ兵士はもちろん、兵を率いる中級幹部ですら、自分たちの闘争が共産主義革命を目指すものであるという自覚は薄かったかも知れません。
彼らが戦う動機はただただ、南ベトナムの絶望的な貧富・権力の格差社会からの「解放」でした。(結果的に彼らは戦争に勝利した事で、共産党政権によるさらに劣悪な権威主義・格差社会を固定化してしまう訳ですが)
このように解放民族戦線に参加したのは共産主義系勢力だけではない(むしろ純共産思想系は少数派だった)事は広く知られていますが、それにしても中には「なぜこいつらがベトコンに加わってるの?」と不思議に思う勢力もあります。それが『PTCMQG(国家革命運動)』です。

▲国家革命運動(Phong Trào Cách Mạng Quốc Gia)の旗

▲共産軍の旗を鹵獲した米海兵隊。国家革命運動(上)と解放民族戦線(下)
上の写真にように国家革命運動の旗がベトコン/解放民族戦線の物として写されている写真が複数存在しています。(特に1968年マウタン=テト攻勢時)
しかし国家革命運動という組織の来歴を考えてみると、それはとても不自然な事なのです。
何故なら国家革命運動は元々、反政府どころかゴ・ディン・ジェム政権を支援するために活動する完全なる反共主義政治組織で、むしろ積極的に労働党・解放民族戦線の打倒を掲げていたからです。
国家革命運動はゴ・ディン・ジェム総統率いるカンラオ党(人格主義労働者革命党)傘下の3つの下部組織の一つとして1955年に創設された、公然の政治運動を通じて大衆にジェム政権支持を促す組織でした。その組織は都市部から地方の農村まで広くネットワークが設置され、8年間に渡ってジェム政権を支えました。

▲国家革命運動の集会[1958年] 壁の文字は「祖国第一 ゴ総統万歳」の意

▲国家革命運動アンスェン省支部。建物にはジェム総統の肖像が掲げられている。
しかし1963年11月に勃発した軍事クーデターでジェム総統が暗殺され政権が崩壊すると、ジェムの配下にあった国家革命運動は解散を余儀なくされました。
こうして国家革命運動の活動は正式に終わったはずなのですが、その後も(少なくとも4年後の1968年には)この国家革命運動を旗を掲げる武装勢力が活動していたのです。しかもあろう事か、宿敵であるはずの解放民族戦線の傘下で。
反共を掲げる政治組織がなぜ共産主義(少なくともサイゴン政府はそう見做している)の解放民族戦線に加わったのか、その理由を説明する資料はまだ発見できていません。知り合いの研究者も、さすがにこれには首を傾げています。
仮説として挙がっているものでは、「国家革命運動のメンバーは1963年クーデター以降、ジェム政権期の体制排除を進める軍事政権から迫害されており、それに反発して彼らは反政府志向を強めたため、政府打倒を掲げる解放民族戦線に勧誘された、あるいは自主的に加わったのではないか」という説がありました。
確かに説明としてはそれが一番分かりやすいのですが、さすがに国家革命運動と解放民族戦線では主義主張が180度違うので、すんなり受け入れられるものではありません。
ちなみに解放民族戦線の傘下には、国家革命運動と似たようなデザインの旗を持つ『LMCLLDTDCHBVN(ベトナム民族・民主・平和勢力連盟)』という組織もありました。こちらは最初から解放民族戦線が創設した地下組織です。

▲ベトナム民族・民主・平和勢力連盟(Liên minh các Lực lượng Dân tộc, Dân chủ và Hòa bình Việt Nam)
一見、国家革命運動の旗と似ているのですが、中心の星は赤ではなく黄色(金星)であり、中央の背景は黄色ではなく水色(白の場合あり)なので、上の米兵の写真の旗とは明らかに異なります。
2021年11月26日
南ベトナムにおける「解放戦争」の欺瞞性(1965)
先日、今から56年前の1965年にベトナム共和国政府が発行した『南ベトナムにおける「解放戦争」の欺瞞性』という資料を入手しました。内容は電子化本家さんに依頼して全ページスキャンし、私が運営するこちらのウェブサイトで公開しています
この本はベトナム共和国政府が自国の1965年版防衛白書を、日本の人々向けに抜粋・翻訳したもので、内容の概要は以下の通りです。
今回の白書は、ハノイ政権がその平和宜伝とはまったく裏腹に、破壊的・侵略的行動を強化しようとしていることを暴露することを目的としたものである。この白書に収録された証拠書類は、いわゆる"南ベトナム解放戦線"がハノイ共産政権に完全に依存していることを示す新たな証拠を提供しているばかりでなく、共産諸国、とくに北京政権が、南ベトナムに対する侵略にかかりあっていることをも立証している。(「まえがき」より抜粋)
・いわゆる"南ベトナム解放戦線"の正体・いわゆる"南ベトナム解放戦争"に対する北ベトナム共産政権の補給と維推の実情・ベトナム共和国政府がとった防衛措置・共産主義者の歴然たる侵略の事例1) 破壊工作員が非武装地帯を越えて潜入している―ポ・パン・ルオンの事例2) 共産国製武器・弾薬の南ペトナムヘの密輸―クア・ベトの事例3) 共産国製武器・弾薬の南ベトナムヘの大最輸送(「目次」より抜粋)
この本は、日本のとある図書館の蔵書だったものが除籍・放出されたもので、中には懐かしの貸し出しカードも入っていました。しかし貸し出しの記録は一つも無し。
ハノイ政権が語る『抗米と解放』のドラマに多くの人々が陶酔している日本では、ハノイ政権に批判的な情報はほとんど「親米ポチの陳腐なプロパガンダ」と鼻で笑われるので、もしかしたら、この半世紀間ほとんど誰にも読まれなかったかも知れません。
とは言え、僕はベトナム共和国やアメリカ政府などハノイに敵対する側による発表の方が真実だと主張している訳でもありません。この本も含め、それはそれで実際都合のいい部分だけをまとめたプロパガンダです。
(余談ですが、僕は長年日本国内外のベトナム難民コミュニティや民主派ベトナム人と関わってきましたが、彼らも気に入らない相手には例え身内であっても「あいつはベトコンだ」とレッテル張りをして排除しようとする下らない光景を何度となく見てきました。ベトナム難民コミュニティはこの40年間、そういった身内での赤狩りを繰り返してきたので、多くの穏健派は自分たちのコミュニティそのものに失望し政治への関心を失いました。)
そもそもの話ですが、この世にある全ての情報が人間の言語で書かれている以上、その全てが人間によって多かれ少なかれ意図的に編纂・公表された『プロパガンダ』であり、人間の意図が介在しない『真実』など、そもそもこの世に存在しないと考えています。 政府発表や民間のメディアはもちろん、個人だって他人に何か伝えたい時は、相手にどう伝えたいかを考えた上で言葉を選んで語るでしょう。
したがって私に出来る事は『真実』の主張ではなく、あくまで歴史愛好家として『そういったプロパガンダがあった事実』を収集・保存する程度だろうというのがここ数年の私のスタンスです。
まぁその部分がどう変わろうとも、結局、私がホー・チ・ミンとベトナム共産党に対して中指立て続ける事に変わりはありませんが。