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2020年05月01日

4月30日に際して



 正直、こんな零細ブログを何年書き続けようが、どうせ日本人の脳裏に刷り込まれたステレオタイプなベトナム史・ベトナム戦争観は今後も変わる事は無いだろうという諦めは年々募っております。しかしそれでも、当のベトナム人たちからは、私を応援する声を常に頂いておりますので、彼らに向けた言葉だけは絶やさないようにしています。


 2016年、私はベトナムの友人たちと共に旧ベトナム共和国ビエンホア軍人墓地を参拝し、在日本ベトナム共和国軍伝統保存会の代表として、戦争で亡くなったベトナム共和国の軍人・市民に追悼を捧げました。
 今日、私たちはベトナム戦争終結から45年を迎えます。そしてこの日、私は「平和」の意味について思いを馳せます。1975年にベトナム戦争は終結しました。しかし私の目には、1945年以来多くの善良なベトナムの人々が望んでいた平和は、いまだにベトナムには訪れていないと感じています。
 いつの日か、あの墓地に眠る霊たちが、真の平和の中で安らかに眠れる日が来ることを祈ります。

 Năm 2016, tôi đến thăm Nghĩa trang Quân đội Biên Hòa của Việt Nam Cộng Hòa cùng các bạn người Việt. Và tôi đã bày tỏ sự tưởng nhớ đến những người trực thăng và công dân của VNCH với tư cách là đại biểu của Hội Bảo Tồn Truyền Thống QLVNCH tại Nhật.
 Hôm nay chúng tôi đã đạt được 45 năm kể từ khi kết thúc Chiến tranh Việt Nam, và tôi nghĩ về "hòa bình" nghĩa là gì. Chiến tranh đã kết thúc. Tuy nhiên, trong mắt tôi, Việt Nam chưa có được một hòa bình mà nhiều người tốt đã mong muốn kể từ năm 1945.
 Tôi cầu nguyện các linh hồn ở nghĩa trang đó sẽ ngủ yên với hòa bình thật một ngày nào đó.

 In 2016, I visited the Bien Hoa Military Cemetery of the Republic of Vietnam with my Vietnamese friends. And I paid our tribute to the memory of the fallen heloes and citizens of the Republic Of Vietnam as the delegate of the RVN Armed Forces Preservation Association in Japan.
 Today we reached 45 years from the end of the Vietnam War, and I think about what "peace" means. The war is over. However, in my eyes, Vietnam don't get yet a peace what many good people have been wishing since 1945. 
 I pray that the spirits in that cemetery have rest in the true peace someday.


  


2019年11月24日

カオダイ軍の歴史[草稿]

※2019年11月28日加筆訂正


以前、『カオダイ教と日本[1]』という記事を書いた後、その続きを書き溜めていたのですが、資料集めがなかなか進まず、しばらく放置している状態でした。しかし大まかな流れは把握できているし、このまま眠らせておいてももったいないので、まだ草稿の状態ではありますが、まとめて公開いたします。


カオダイ教団と松下光廣

 カオダイ教はベトナムのタイニン省で1920年頃に誕生し、その後の20年間でコーチシナ(Nam Kỳ: サイゴンを中心とするベトナム南部)全域に急速に広がった。第二次大戦前までに信徒数は優に100万人を超えており、この新宗教の急速な勢力拡大に当時インドシナを支配していた仏領インドシナ植民地政府やフランス人は危機感を抱いた。またカオダイ教側もタイニン省にける宗教的自治を求めて次第に植民地政府と対立していった。
 またカオダイ教団はこの時期、ベトナムで起業した日本人実業家 松下光廣(1896-1982)との関係を深めていった。熊本県天草出身の松下は1912年、若干15歳の若さでベトナムに移住し、現地の日系企業で勤めた後、1922年に貿易会社『大南公司』をハノイで創業した。その後大南公司は現地のベトナム人・ベトナム華僑と良好な関係を築き、さらにイ、マレーシア、シンガポール、ビルマ等にも支店を持つ巨大商社へと成長していった
 また松下は成功した実業家であるのと同時に、長年に渡ってベトナムの独立運動を支援してきた人物でもあった。ベトナム民族主義運動の祖ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu, 1867-1940)と共にベトナム独立を志し、その活路を求めて日本に渡った阮朝の皇族クオン・デ(Cường Để, 1882-1950)は松下を盟友とし、松下はその財力を活かしてクオン・デが結成したベトナム復国同盟会(Việt Nam Phục quốc Đồng minh Hội)を資金面で支えていた。また松下は同じく抗仏運動を展開していたコーチシナの二大新宗教カオダイ教およびホアハオ教とも親しい関係を持っており、特にカオダイ教に対し非常に強い影響力を持っていた。
 そのため植民地政府は松下を危険視し、松下が日本に一時帰国していた1937年に欠席裁判によって『禁錮8年または国外追放』の有罪判決を下したため、松下はその後3年間ベトナムに戻る事が出来ず、東京やタイ王国を移動しながら大南公司の経営を続けた。

壮年期の松下光廣の肖像


日本軍インドシナ進駐

 1939年、オダイ教教皇ファム・コン・タク(Phạm Công Tắc, 1890-1959)は(おそらく松下から得た情報を基に)神からの啓示として、近く日本軍がベトナムに到来する事を予言し、カオダイ教団は来るべきフランスへの蜂起に備えてクオン・デのベトナム復国同盟会への支援を開始した
 同年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、インドシナを統治するフランスは1940年にドイツに敗北し、フランスの政権はドイツが擁立したヴィシー政府に取って代わられた。フランスが枢軸国陣営に組み入れられた事で、ドイツの同盟国日本は米英ソによる中国への軍事支援輸送路『援蒋ルート』の遮断および資源奪取のため、1940年に北部仏印に進駐。さらに翌年には南部にも展開を進めインドシナ全域を掌握した。教皇の予言通り日本が仏印進駐を開始した事で、カオダイ教徒は日本軍を好意的に迎えた。

カオダイ教教皇"護法"ファム・コン・タク

 後の1941年12月に日本が米英蘭との戦争に突入すると、緒戦相次いで勝利した日本軍は、連合国が支配していた東南アジア諸地域を次々と占領していった。『八紘一宇』を掲げる日本軍は、これら占領地で現地の独立運動指導者を取り込んで親日政権を擁立し、『西洋列強植民地支配からのアジア解放という戦争の大義名分を実行していった。ただしこれらの『解放』は、実際には列強が作り上げた植民地経済・資源の利権構造を日本が掌握し日本を中心とする経済ブロック『大東亜共栄圏』を構築るための戦略的政策であり、あくまで親日政権かつ日本の軍政下である事を前提とする事実上の保護国化であった。
 一方、ベトナムを含む仏領インドシナへの対応は他のアジア占領地とは異なった。日本軍は1940~1941年に行った一連の進駐によってインドシナ全域を掌握しており、日本が必要とする経済的・軍事的な利益が十分に確保できていた事から、日本政府はドイツ・フランスとの関係に配慮してインドシナ諸国の独立運動への支援は行わず、「治安維持」の名目で引き続きフランス植民地政府に統治を委ねた。以後4年間、インドシナは植民地政府と日本軍による二重支配を受ける事となり日本軍によってインドシナの支配が「公認」されたフランスのインドシナ総督ジャン・ドゥクー(Jean Decoux, 1884-1963)海軍大将は、独立勢力への締め付けをより一層強めた。

インドシナ総督ジャン・ドゥクーと日本陸軍の将校(1941年インドシナ)

 民衆の間では日本への失望と反感が高まり、戦前から抗仏闘争を行ってきたホー・チ・ミン率いるベトナム最大の民族主義組織ベトミン(ベトナム独立同盟会)は、日本を新たな侵略者と見做し、アメリカOSSなどによる軍事支援を受けながら日本軍へのゲリラ戦を展開していく。
 一方、ベトミンのような大規模な武装集団を持たないクオン・デのベトナム復国同盟会は、植民地政府による取り締まりから逃れるため地下に潜伏せざるを得なかった。また植民地政府は1941年7月にタイニン省のカオダイ教団本部にフランス軍部隊を突入させ、教皇ファム・コン・タクをはじめとする5名のカオダイ教指導者を逮捕した。そして彼らカオダイ教幹部は1941年8月20日に南シナ海のコンソン島に流刑され、さらにその後仏領マダガスカルに移送された。
 このような状況の中で、1940年の日本軍進駐によってベトナムに帰還を果たした松下は、彼ら非ベトミン系独立活動家への資金援助と連絡場所として、サイゴンの華人街チョロンに「レストラン ARISTO」を開業した。しかしこの活動はベトナムの独立運動を許さない日本政府の方針に反していたため、政府は松下がクオン・デを扇動して革命を起す事を危惧し、松下が日本に一時帰国すると彼の旅券を停止し、ベトナムに戻る事を禁じた。その後しばらくして、松下は日本軍に対し「現地の政治問題には関与しない」という誓約書を提出するとともに、松下の理解者である陸軍幹部の保証を得て、ようやくベトナムに帰還する事が出来た。


カオダイ教団と日本軍の接近

 日本軍の進駐後もインドシナ植民地政府はカオダイ教団を弾圧し、日本政府もカオダイ教団に近い大南公司の松下光廣の帰国を妨害するなどしていた。しかしそのような状況にあっても、カオダイ教団は日本との連携を模索した。植民地政府による弾圧に立ち向かう術の無いカオダイ教徒が宗教的な自由を得るためには、新たな支配者である日本軍による庇護を受ける他に道は無かった。また日本軍側も150万人の信徒を抱えるカオダイ教団の組織力に着目し、有事の際にカオダイ教徒を利用するため教団に接近した。
 この時カオダイ教団と日本軍の仲を取り持ったのが、双方とコネクションを持つ松下光廣と大南公司であった。東南アジア各地で多業種に渡ってビジネスを行っていた大南公司は、仏印進駐以降ベトナムに進出した日本の大手企業や日本軍とも大口契約を結び、終戦までに東南アジア各地に41の営業所、現地人従業員を含め約9,000人の社員を抱える大企業に成長していった。
 進駐後、日本軍はベトナム南部の軍事拠点化を進めていたが、当時サイゴン周辺のフランス軍飛行場には600m級の小型滑走路しかなかったため、大本営は長距離雷爆撃機を離発着させるのに必要な1500m級滑走路を持つ飛行場を陸軍3カ所、海軍3カ所の計6か所新たに建設する計画を立てた。大南公司はそのうちの海軍飛行場の建設を1941年9月に大本営から受注した。
 教皇ファム・コン・タクの追放後、カオダイ教団指導者の地位を継いだチャン・クァン・ヴィン (Trần Quang Vinh, 1897-1975)は日本軍との協力関係を築くため、松下の伝手でこの大南公司の日本海軍飛行場建設工事に、建設労働者として数百名のカオダイ教徒を派遣した。

カオダイ教団指導者チャン・クァン・ヴィン



カオダイ民兵創設と明号作戦

 その後、日本本土では長期化する戦争によって働き盛りの成人男性の労働人口が著しく不足していたため、今度は日本国内の建設工事にも多数のカオダイ教徒を労働者として送り込む事となる。これを好機と見た教団指導者チャン・クァン・ヴィンは信徒と共に日本に渡り、1943年に東京でカオダイ教徒による抗仏民兵組織=後のカオダイ軍を発足させた。しかし当初日本側はインドシナ植民地政府との摩擦を避けるため、カオダイ民兵についてその存在は黙認するものの、直接的な支援は行わなかった。
 しかしその後戦況が悪化すると、日本軍はインドシナ植民地政府およびインドシナ駐屯フランス軍が連合軍側に寝返る事を危惧し、武力で植民地政府を制圧・解体し、インドシナを日本の完全な支配下に置く『仏印処理』を計画した。そして1944年、日本軍はこの仏印処理に備えて、ベトナムの民族主義者や新宗教勢力を日本側の民兵として動員するため、彼らへの軍事支援を開始した。
 この中で最大の民兵組織が東京に拠点を置いていたカオダイ民兵であり、日本軍憲兵隊によって本格的な軍事教練を施される事となる。後にフランス連合/ベトナム国軍カオダイ部隊の指揮官となるチン・ミン・テー(Trình Minh Thế)も、この時日本で憲兵隊によって訓練を受けたカオダイ民兵の一人であった。

フランス連合時代のチン・ミン・テー

 第二次大戦末期の1945年3月、日本軍はついにインドシナ駐屯フランス軍の制圧およびインドシナ植民地政府の解体『明号作戦=仏印処理』を開始した。日本で訓練を受けていたカオダイ民兵も予定通りこの作戦に加わり、現地に住む数万人のカオダイ教徒を蜂起に参加させる事で、サイゴン北西部からメコンデルタにかけての広大な地域を掌握し、インドシナ植民地政府は完全に解体された。
 この時、日本軍に協力したカオダイ教徒を含む多くのベトナム人、そして大南公司の松下などは、長年東京に滞在しながらベトナム帰参の機会を待っていたクオン・デが指導者として帰国し、ベトナム独立を導く事を期待していた。しかし明号作戦を立案・実行した日本陸軍第38軍は、民族主義者の強い支持を受けるクオン・デよりも、それまで植民地政府の下でフランスの傀儡を演じてきた保大帝(バオダイ)の方が、ベトナムを日本の統制下に置く上で有用であることから、日本軍はバオダイを皇帝とするベトナム帝国(Đế quốc Việt Nam)政府を擁立した。また同時に日本軍はクオン・デへの支持を打ち消すべく、「クオン・デ候は日本で日本人と結婚して家族を持ったたため、ベトナムに帰国する意思はない」という偽情報をベトナム各地に流布する情報操作工作を行ったため、多くのベトナム国民がクオン・デに失望し、以後クオン・デがベトナムに帰国する機会は二度と無かった。この日本軍による偽情報はその後も訂正される機会が無いまま、70年以上たった現在でもベトナム国内で事実として語られている。(「『クォン・デの家族』に関する誤解」参照)
 
 一方、1944年後半から1945年前半にかけてトンキン(ベトナム北部)で発生した大規模な飢饉によって数十万から数百万人とも言われる大量の餓死者を出した事で、日本軍はベトナムの民衆から敵視されており、ベトミンはベトナム帝国を日本の傀儡政権と喧伝しながら、日本軍へのゲリラ戦を継続していく。
 また日本軍に加えカオダイ教徒までもが蜂起し、フランス人を支配下に置いたという事実は、それまでインドシナの支配者として君臨していたフランス人にとって耐えがたい屈辱であり、フランス人のカオダイ教徒に対する憎しみは、その後フランス政府が公式にカオダイ教徒と和解をしてもなお、インドシナ在住フランス人の間に根強く残る事となる。
 

日本敗戦と八月革命

 明号作戦から5か月後の1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して連合軍に降伏し、第二次世界大戦は終結する。ベトミンはこれを機にベトナム全土で一斉に蜂起し、日本軍の後ろ盾を失ったベトナム帝国政府を転覆させる事に成功した(ベトナム八月革命)。この時、フランス・日本という大国による支配が失われたことで、ベトナムの独立はついに達成されたかのように思われた。
 しかし政治の実権を握ったベトミンが行ったのは、同じベトナム人への粛清であった。地主・資産家・政治家・軍人・公務員・カトリック信徒など革命前に体制側に属していた人々は、フランスや日本による植民地支配に協力した売国奴と見做され、ベトミンによる無秩序なリンチ・処刑がベトナム各地で頻発した。
 また少数民族やカオダイ教、ホアハオ教といった少数派の新宗教も弾圧の対象となり、フランスからの解放を目指したカオダイ軍指導者チャン・クァン・ヴィンも日本軍に協力した容疑で1945年10月にベトミン政府の警察によって逮捕され、1946年1月に釈放されるまで拷問を受けたと伝えられている。


コーチシナ自治共和国

 一方、日本の降伏後、ビルマで日本軍と戦っていたイギリス軍、インド軍およびフランス軍(当初は英軍指揮下の自由フランス軍コマンド部隊)は、インドシナ駐屯日本軍の武装解除を行うべく、1945年9月以降続々とベトナムに到着した。インドシナ植民地政府の解体は日本軍によって不法に行われたものであるというのが連合国の一致した見解であり、さらにフランスおよびイギリスは共産主義のベトミン政権も認められないという立場を取った。
 すぐさまインドシナの再統治に乗り出したフランスはまず最初に、インドシナ経済の中心地であるコーチシナ(ベトナム南部)をベトミン政権から切り離すべく、イギリス、そして連合国の指揮下に下った在インドシナ日本軍と合同で、コーチシナにおけるベトミン勢力の掃討(マスターダム作戦)を行った。

合同でベトミン掃討に当たる英仏日軍

 そして1946年春、インドシナ問題の対応に当たったフランス政府高等弁務官兼インドシナ総督チェヒー・ダハジョンリューは、ベトミン政府の猛反発を無視してコーチシナ地方をベトミン政権から切り離し、フランスが直接管理する『コーチシナ自治共和国』として自治独立させる事を宣言した。
 この際、フランス側はコーチシナの自治について後に住民投票を行う事を約束し、その選挙工作を開始する。そしてフランス側はこの時初めて、カオダイ教徒の囲い込みを試みた。当時カオダイ教徒はコーチシナ共和国領内の有権者の約10%を占めていた事に加え、何よりカオダイ教徒はつい1年前に行われた日本軍の明号作戦の際に植民地政府に対し一斉蜂起したばかりであり、百数十万人の信徒を抱えるカオダイ教団が死を覚悟した宗教的信念の下に反乱を起こす事の恐怖はフランス人の脳裏に深く刻まれていた。
 フランス側はそれまで弾圧の対象としていたカオダイ教徒を懐柔するため、1946年5月に教皇ファム・コン・タクをマダガスカルから帰還させる事を決定した。しかし同時に、明号作戦の際に日本軍の指揮下でフランス軍を攻撃した当時のカオダイ教団指導者チャン・クァン・ヴィンは抗仏運動を無力化する為、フランスの官憲に逮捕された。
 日本軍からの支援を失ったカオダイ民兵にフランスの支配を覆す戦力は無く、チャン・クァン・ヴィンはフランスに恭順して教団の存続を計るか、最後まで抵抗して百万人の信徒を道連れに死を選ぶかという非常に厳しい選択を迫られた。そしてチャン・クァン・ヴィンは釈放後の1946年6月9日、カオダイ教団の集会でフランスへの抵抗を放棄をする事を宣言し、カオダイ民兵の武装解除に応じた。その後1946年8月に帰国した教皇ファム・コン・タクも、否応なしにフランスとの講和を受け入れた。
 一方、フランス側もカオダイ教徒に配慮し、ファム・コン・タクの顧問を務めていたレ・バン・ホアツを1946年11月26日にコーチシナ共和国大統領に任命した。しかしチャン・クァン・ヴィンは信徒たちを守るため降伏を決断したものの、フランスを信用した訳ではなく、フランスが擁立したコーチシナ新政権への不服を表明した。

 同時期、フランス軍は1946年中にベトミン政権の首都ハノイにまで進駐し、ベトナムは事実上、再びフランスの支配下に戻った。こうして八月革命によってもたらされたつかの間の『独立』は終わりを迎えた。独立を待ち望んでいた多くのベトナム国民はこれに深く落胆したものの、同時に、ベトミンによって行われた一連国民への暴力は、『民族解放』を口実に血の粛清と共産主義化を強行するベトミン、そしてホー・チ・ミンという人物の正体を明るみにし、特にベトミンによる被害を被った都市部の人々の間に、ベトコン(ベトナム人共産主義者)に対する強い憎しみも生じさせる結果となった。こうしてベトナム民族の悲願であった『独立』は新たなイデオロギーの対立を生み、以後30年間に渡って繰り返されるベトナム人同士の憎しみと殺戮の連鎖へと繋がっていく事となる。
 なお日本軍は1940年の仏印進駐から終戦後のコーチシナ制圧まで終始、フランスと共にベトミンの制圧に当たってきたが、その一方で日本陸軍将兵の一部には、自国が行ってきた(「アジア解放」という建前に大きく矛盾する)政策に疑問を感じ、敵であるベトミン側に共感する者も居た。彼らは日本政府から正式な引き上げ命令を受けた後もそれを拒否して軍を離脱(脱走)し、軍事顧問として個人的にベトミンの闘争に加わった。ベトミンは彼ら元日本兵たちの指導を受けて1946年6月にクアンガイ陸軍中学を創設し、本人教官に訓練されたベトミン(ベトナム人民軍)将校たちが、後の第一次インドシナ戦争やベトナム戦争を戦っていく事となる。


フランス連合軍カオダイ部隊

 
 フランスの恫喝によってやむを得ず抗仏運動を停止したカオダイ教団であったが、1946年9月になると、今度はコーチシナに潜伏していたベトミン・ゲリラが、フランスに恭順したカオダイ教徒に対し激しいテロ攻撃を始めた。これを受けて教皇ファム・コン・タクはカオダイ教徒を守るため、むしろ積極的にフランスに協力する姿勢に転向する。
 同時期、インドシナに派遣されたフランス軍は深刻な人員不足に陥っていた。この中でフランス軍はその戦力を補うため、ベトミンからの迫害に晒されていたベトナム人や少数民族、宗教組織を武装化し、植民地軍に組み込んでいく。そして1947年、フランス軍はかつて日本軍によって武装化されたカオダイ民兵を復活させ、新たに『カオダイ部隊(Troupes Caodaïstes)』としてフランス連合軍の一部とした。タイニン省で組織されたカオダイ部隊はフランス植民地軍の指揮下でベトナム南部におけるベトミンとの戦いに投入される。宗教による強い結束を持つカオダイ部隊は各地で大きな戦果を挙げ、その活躍が続いた事から、カオダイ教団自体もベトナム国内でカトリックと双璧を成す一大勢力へと成長していく。

フランス軍幹部とカオダイ教団幹部(カオダイ教団本部にて)
教皇ファム・コン・タクの他、カオダイ部隊指揮官としてフランス連合軍の将官となったチャン・クァン・ヴィンの姿も見える

フランス連合カオダイ部隊兵士 1950年タイニン

カオダイ部隊の制服用肩章と部隊章



ジエム政権による粛清

 しかし1954年のディエン・ビエン・フー陥落を機にフランスは北緯17度線以北のベトナム領をベトミンが支配する事(ベトナム民主共和国=北ベトナムの成立)を認め、第一次インドシナ戦争は終結する。一方、カオダイ教徒が住む南ベトナムは引き続きバオダイを首班とするベトナム国政府が統治する事となった。しかしカオダイ教徒の苦難はそこで終わらなかった。
 1955年2月13日、フランス軍の撤退に伴い、カオダイ部隊は正式にベトナム国軍に編入され、カオダイ部隊司令官チン・ミン・テー准将は国軍の将官の地位を得た。しかしその3か月後の5月3日、チン・ミン・テー准将は自動車で移動中、何者かに狙撃され死亡する。この暗殺事件は未解決のままだが、カオダイ教徒と対立したフランス人や、カオダイ勢力の拡大を恐れるゴ・ディン・ジエム首相らベトナム国政府高官が関与した可能性が指摘されている。

ベトナム国軍カオダイ部隊部隊章

カオダイ部隊によるチン・ミン・テー将軍の葬儀


 その後、1955年10月に、当時ベトナム国首相だったゴ・ディン・ジエムはフランスに従属するバオダイを見限り、同時にアメリカを自分の新たなパトロンとして利用すべく、米国CIAの協力を得てバオダイを追放する無血クーデターを断行する。アメリカの後ろ盾を得て独裁的な権力を得たジエムは、自身が信仰するカトリックを政治の中心に据え、同時に他の全ての宗教勢力を排除する政策を開始した。
 特にフランス軍によって武装化されていたカオダイ教やホアハオ教、そしてビンスェン団は反政府武装勢力として危険視され、政府軍(ベトナム共和国軍)による掃討・武装解除が開始された。政府軍はカオダイ教の聖地タイニン省にも進攻し、圧倒的な戦力でカオダイ部隊を武装解除し、その組織を解体した。
 これによってカオダイ部隊兵士たちの多くは、ジエム政権に恭順して政府軍に編入されるか、或いは政府と戦うためそれまで敵だったベトミン・ゲリラ側に転向したが、それ以外のおよそ5千~6千名のカオダイ兵士はどちらにも付かず、政府への抵抗勢力として国内に潜伏する道を選ぶ。これに対してジエム政権は、1956年から58年にかけて約3400名のカオダイ教徒を逮捕・投獄するなどして、カオダイ部隊の残党狩りを続けていった。

 
アメリカの介入とサイゴン政府との和解

 こうしてカオダイ教徒はジエム政権からも弾圧の対象とされてしまったが、1961年に新たな転機が訪れる。それはアメリカ軍とCIAが開始した『CIDG計画』だった。ジエム政権・ベトコン双方から迫害を受けるカオダイ教徒は、同じく迫害を受ける少数民族たちと同様に、ジエムの政府に下ることなくアメリカの保護下で自治と自衛を図るべく、進んでアメリカ軍特殊部隊の指揮下に加わって行った。こうして、かつて日本軍、フランス軍によって支援されたカオダイ教武装組織は、新たにアメリカ軍によってCIDG(民事戦闘団)という形で復活を遂げる。
 さらに1963年11月には、CIAによる支援を受けた政府軍幹部によるクーデターでジエム政権が崩壊した事で、政府とカオダイ教の対立は和らぎ、政府と同じくベトコンとの戦いに臨むカオダイ教は、ある程度の市民権を得るに至る。さらに翌1964年には、かつてのカオダイ部隊司令官チャン・クァン・ヴィンがベトナム共和国軍の将校としての地位を得るなど、元カオダイ部隊将校が政府軍に再登用され、政府とカオダイ教団の和解はついに達成される。なお、ヴィン将軍は2年後の1966年に軍務を辞し、カオダイ教をアフリカに布教すべくコンゴ共和国に移住した。
 その後もCIDGや政府軍所属のカオダイ教徒軍人の躍進は続き、カオダイ教は再びベトナムにおける一大勢力の地位に返り咲くこととなる。さらに米国CIA主導のベトコン組織破壊工作『フェニックス・プログラム』が開始されると、タイニン省では主にカオダイ教徒兵で構成されたPRU(省探察隊)が組織され、1970年頃までに省内のベトコン組織をほぼ完全に壊滅させる事に成功した。(過去記事「フェニックス・プログラムとPRU」参照)

米軍による表彰を受けるタイニンPRU(タイニン省探察隊)隊員

タイニンPRU部隊章



サイゴン陥落後

 1975年4月30日にサイゴンが陥落し、30年間続いた共産主義革命戦争が終結すると、戦争に勝利したハノイ政権は、直ちにカオダイ教徒を含む膨大な人数のサイゴン政府関係者への粛清を開始した。
 かつてのカオダイ教指導者チャン・クァン・ヴィンはアフリカでのカオダイ教布教活動の後ベトナムに帰国していたが、1975年にサイゴンが陥落すると共産政権に逮捕され、以後消息は不明である。
 タイニンPRUはベトコン組織破壊への貢献度が高かった分、戦後隊員のほとんどが逮捕、処刑された。ただし若干の生存者は国外脱出したか、あるいはカンボジア国境地帯のジャングルに潜伏し、1990年代まで共産党政権へのゲリラ戦を継続したという。
 しかし全体としては、第二次大戦からベトナム戦争終結までの間にベトミン・ベトコン勢力と戦ったカオダイ軍幹部のほとんどは粛清され、教団としての武装闘争は1975年のサイゴン陥落を境に終焉を迎えた。その後40年間、カオダイ教団はハノイ政府の厳重な統制下に置かれており、1975年以前の武装闘争について語る事は教団内でもタブー視されている。現在、カオダイ教徒はベトナム国内だけでおよそ250万人もいるが、かつて教団が日本・フランス・アメリカの支援を受けて共産主義勢力(つまり現ベトナム政府)と戦った事について知っている者はほとんど居らず、難民として海外に脱出したごく一部のカオダイ教徒だけが、その歴史の語り部となっている。

 一方、第二次大戦前から戦中にかけてカオダイ教団と深く関わった松下光廣は、1945年の日本の敗戦・八月革命によってベトミン政権に全財産を没収されたが、その後サイゴンに大南公司を復活させ、ベトナム戦争終結後の1976年まで南ベトナムで事業を続けた。この間、松下はベトナム(南ベトナム)と日本政府間による戦後賠償交渉の仲介役となり、日本からの無償援助で建設されたダニム・ダム(水力発電所)建設プロジェクトを主導する傍ら、戦争孤児院を運営するなど、ベトナム国民への奉仕を続けた。また、サイゴンに住む日本人互助会『寿会』を主宰し、在ベトナム日本人への支援も行っていた。その中には、かつて日本軍を脱走してベトミンに参加しフランスと戦ったものの、ホー・チ・ミンによる内部粛清や国民へのテロ・虐殺を目の当たりにしてベトミンに失望し、南ベトナムに避難した元ベトミン軍顧問の日本人兵士も含まれる。(過去記事あるベトナム残留日本人と家族の漂泊参照)
 しかし1976年に南ベトナムが北ベトナムのベトナム共産党政権に併合されると、共産主義に則り南ベトナム国内のすべての企業が解体・国有化された。大南公司も例外ではなく、松下は再び共産主義政権に全財産を没収された。その後、ハノイ政府は1978年にすべての外国人の国外追放を決定し、松下は日本に強制送還された。ただしその後も松下は、1982年に亡くなる直前まで、何らかのルートでベトナムに再度入国していた事が判明している。
 松下戦前からクォン・デのベトナム復国同盟会への支援尽力し、フランスや日本、ベトミン、ベトコン勢力による妨害に遭いながらも、身の危険を顧みずベトナムの独立と発展を支援し続けた人物であった。と同時に、中国・ソ連の支援を受けながらベトナム国民へのテロ、恐怖政治を行うホー・チ・ミンら共産主義勢力の蛮行を現地で見てきた松下は、彼らをベトナム民族解放の志士とは見ておらず、むしろ「共産分子のテロ」と強い言葉で非難している。



[参考文献]

平田豊弘 (2011) 「松下光廣と大南公司」, 『周縁の文化交渉学シリーズ4 『磁器流通と西海地域』』 p.115-122, 関西大学文化交渉学教育研究拠点, <https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/5888/1/12_hirata.pdf>2018年4月15日アクセス
Andrew R. Finlayson (2008) 「The Tay Ninh Provincial Reconnaissance Unit and Its Role in the Phoenix Program, 1969-70」, 『A Retrospective on Counterinsurgency Operations』, Central Intelligence Agency<https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/csi-studies/studies/vol51no2/a-retrospective-on-counterinsurgency-operations.html>2018年4月15日アクセス
Arnaud Brotons・Yannick Bruneton・Nathalie Kouamé(dir.) (2011) 『Etat, religion et répression en Asie: Chine, Corée, Japon, Vietnam- (XIII-XXI siècles)』 KARTHALA
Chizuru Namba (2012) 『Français et Japonais en Indochine (1940-1945): Colonisation, propagande et rivalité culturelle』 KARTHALA
Dr Sergei Blagov 「Armée De Caodai」, 『Caodaisme』<http://caodaisu.tn.free.fr/cultue/0,,703,00.html>2018年4月15日アクセス
Shawn McHale 「Cochinchina – a failed revolution?」, 『End of Empire - 100 days in 1945』, <http://www.endofempire.asia/0825-cochinchina-a-failed-revolution-3/>2018年4月15日アクセス
松下光廣翁の足跡を辿る会 (2012) 「記念講演会開催のご報告墓参」<http://matsushitamitsuhiro.kataranna.com/e3246.html>2018年4月15日アクセス
Institut Pierre Renouvin1 (2015) 「La collaboration franco-caodaïste au début de la guerre d’Indochine (1945-1948) : un « pacte avec le Diable » ?」, 『Bulletin de l'Institut Pierre Renouvin1』 2015/1 (N° 41) Université Paris 1, <https://www.cairn.info/revue-bulletin-de-l-institut-pierre-renouvin1-2015-1-page-75.htm>2018年4月15日アクセス
Mémoires d'Indochine (2013) 「HỒI KÝ TRẦN QUANG VINH – MÉMOIRES DE TRAN QUANG VINH [1946]」, <https://indomemoires.hypotheses.org/8301>2018年4月15日アクセス
ORDRE DE LA LIBÉRATION 「GEORGES THIERRY D'ARGENLIEU」, <http://www.ordredelaliberation.fr/fr/les-compagnons/946/georges-thierry-d-argenlieu>2018年4月15日アクセス
The Tay Ninh Provincial Reconnaissance Unit and Its Role in the Phoenix Program, 1969-70, Colonel Andrew R. Finlayson, USMC (Ret.), <https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/csi-studies/studies/vol51no2/a-retrospective-on-counterinsurgency-operations.html>2017年06月24日アクセス
  


2019年09月13日

ルオン少将と特科隊旗

去る9月5日、自衛隊と在日米軍の共同訓練(年次演習) 『Orient Shield 2019』が開始され、熊本県の健軍駐屯地にて訓練開始式が執り行われました。開始式には陸自西部方面総監の本松陸将と在日米陸軍(USARJ)司令官のルオン少将が出席しました。

ルオン少将(左)と本松陸将(右)
[Photo: US Army]

この演習は毎年行われているのですが、今回の開会式の映像は、ネット上のベトナム人の間でちょっとした話題になりました。

[Photo: US Army]


もう想像はつくと思いますが、ベトナム人の間では、
「なぜ日本軍がベトナム国旗(1948-1975)を掲げているんだ!?」
ルオン将軍ベトナム共和国出身だから、きっと日本人はルオン将軍に敬意を示しているんだ!」
などなど、憶測が飛び交っています。

実際には、自衛隊がもう存在しない国家の国旗を掲げるはずもなく、これは陸自の特科群の隊旗であり、黄色地に赤い3本線のデザインが、たまたまベトナム国旗と酷似していただけです。

ちなみに上の図(右側)の『ベトナム国旗に共和国軍のシンボル(1967年以降)である鷲の紋章が描かれた図柄』は1975年まで、軍に関係する様々な場で用いられましたが、実際のベトナム共和国軍の正式な軍旗は、国旗柄ではなく、黄色単色に四隅のオリーブが描かれたこちらのものでした。(四隅のオリーブのデザインはフランス軍旗から継承されている)

ベトナム共和国軍旗 [Huấn Lệnh Điều Hành Căn Bản (1969)より]


これ以前にも、この陸自特科群の隊旗については度々ベトナム人から質問を受けていたので、この機会にベトナム人に向けて、Facebook上でこの旗の正体について説明をしました。辞書を使いながらの拙いベトナム語ですが、なんとか意味は伝わったと思います。

Tôi thường được bạn bè người Việt hỏi về lá cờ vàng này ở Nhật.
Đây chỉ là một cờ đội của Lực lượng Phòng vệ Mặt đất Nhật (Lục quân Nhật). Màu vàng có nghĩa là "Pháo binh" và ba đường ngang là "Liên đoàn". Và thiết kế (Sakura) đặt ở trung tâm của lá cờ là biểu tượng của Lục quân Nhật.
Trong trường hợp này, cờ này người lính Nhật có nghĩa "Liên đoàn Pháo binh". Vì vậy, Lục quân Nhật có cờ đội đủ thứ màu sắc và đường kẻ. Ví dụ: một cờ hai đường ngang trắng trên nền đỏ là một Tiểu đoàn Bộ binh.
Tuy nhiên, tôi cảm cờ này đã được trình bày cho Tướng Lương Xuân Việt sinh ở VNCH lá một ngẫu nhiên thú vị.

[日本語訳]
私は度々ベトナム人の友人から、日本のこの黄色い旗について質問を受けます。
これは陸上自衛隊の隊旗の一つです。黄色は特科(砲兵)を意味し、赤い三本線は群(または指揮官が一佐)の部隊を示します。そして旗の中心の紋章(サクラ)は陸上自衛隊のシンボルです。
なのでこの場合、写真の日本人兵士が持っている旗は特科群の隊旗です。陸上自衛隊にはこれ以外にも、様々な色や線の本数の隊旗があります。例えば赤地に白二本線は普通科(歩兵)大隊です。
しかし、この(ベトナム共和国国旗によく似た)旗が、ベトナム共和国出身のルオン少将の前で掲げられた事は、非常に興味深い偶然だと私は感じています。



ちなみに以前、僕の友達の在日ベトナム人たちは、キャンプ座間の中にあるルオン少将の家(戸建て米軍住宅)でのパーティーにお呼ばれして、遊びに行ってました。
僕も何かの間違いで呼ばれたりしないかなぁ。中佐までは遊びに行ったことがあるけど、さすがに将官は無理か(笑)


※2019年9月15日 誤字訂正
  


2019年05月07日

令和元年ゴールデンウィークの思い出

ゴールデンウィークは10連休とまでは行きませんでしたが、土日含めて計6日休みが取れたので、色々な事ができました。


1. 国祖記念祝賀会の打ち上げ

 
 先日執り行われた日本在住ベトナム人協会主催ベトナム国祖記念祝賀会の打ち上げ反省会が都内のベトナム料理店で開催され、僕もお呼ばれしたのでお邪魔してきました。ベトナム戦争を経験した難民世代から、留学生・技能実習生として来日した若者まで、幅広い年代がこうして集まり語り合える場は、とても大切なものだと思います。


2. 日本在住ベトナム人協会会長宅訪問

 打ち上げの翌日、日本在住ベトナム人協会会長カン氏の自宅にお邪魔して、生春巻きを食べながらいろいろお話を聞いてきました。
 1968年のテト攻勢の際、フエを占領したベトコン(解放民族戦線)は約5,000名のフエ市民を地中に生き埋めにして虐殺しましたが、当時大学生だったカン氏はボランティアとしてその虐殺事件の犠牲者の遺体掘り起こし作業に従事し、ベトコンが行う『抗米戦争』の正体を目の当たりにします。その翌年、カン氏は政府軍(ベトナム共和国軍)に士官候補生として志願入隊し、陸軍中尉として1975年まで軍務に就きました。終戦時は、スァンロクから撤退してきたレ・ミン・ダオ少将麾下の混成部隊とビエンホアで合流し、その指揮下に入りましたが、反攻は叶わずその地で無条件降伏の知らせを受けたそうです。終戦と同時にカン氏は共産主義政権に逮捕され、6年間も収容所に投獄され強制労働を課せられた後、難民として国外に脱出して最終的に日本に定住されました。
 またカン氏の友人のハイはベトナム戦争当時はまだ子供でしたが、その頃経験した出来事を語って下さいました。ハイは当時ファンティエットに住んでいました。ベトナム戦争中、ベトコンゲリラはしばしばファンティエット市役所を狙ってB-40(RPG-2)無反動砲を発射するテロ攻撃を行っていましたが、B-40は命中精度が悪いため、発射された砲弾のほとんどは市役所を外れて付近の民家に落下していました。ハイ自宅はファンティエット市役所の横にあったために、計2発が自宅に着弾し、壁に大穴を開けたそうですが、幸い家族に怪我人は出なかったそうです。しかし、そうではない人もいました。ハイには近所に住む2歳年上の仲の良い友達がいました。1968年2月のテト攻勢最初の夜、彼は親戚のおばさんの家に泊まりに行っていました。そして翌朝自宅に帰ってみると、ベトコンが発射した砲弾は彼の自宅に命中しており、家の中には爆発により変わり果てた姿となった彼の両親と妹の三人の遺体が四散していました。一晩で家族全員を失った彼は親戚の家に引き取られ、ハイ氏と会う機会は無くなりました。しかしその数年後、14歳になったハイ氏がたまたまファンティエット市内の政府軍の基地の前を歩いていると、基地の中から「お~い、ハイ!」と聞き覚えのある声がします。見るとフェンスの向こうには仲の良かったあのお兄さんが軍服姿で立っていました。16歳になっていた彼はベトコンに殺された家族の仇を取るため、年齢を詐称して政府軍に志願していたのです。ハイ氏と彼は嬉しくてフェンス越しに再開を喜び合いましたが、彼には仕事があるのでいつまでも話してはいられませんでした。彼は「じゃあな、ハイ!」と手を振ってハイ氏に別れを告げましたが、その後戦場に赴いた彼が帰還する事は無く、このフェンス越しの会話が二人の今生の別れとなったそうです。


3. 台湾ロケット花火祭り仲間、新宿で再結集

 台湾の台南市で毎年開催されているロケット花火祭り『鹽水蜂炮』で、台湾日本合同チーム『鹽水周倉將軍護駕炮兵團』のリーダーを務める電冰箱ことサイモン・リンさんが来日したので、日本人メンバーが集合して新宿で飲み会しました。僕が鹽水蜂炮に参加したのは2016年2018年の2回だけですが、サイモンさんはちょいちょい日本に遊びに来ているので、来るたびに一緒に観光したり飲み会やってます。(日本での思い出:2016年(1)2016年(2)2017年)
 またこの日は日本に住んでいるサイモンさんの友人で、元台湾軍少佐のTさんも来て下さりました。日本に来てからいろいろ大変な目に会ってるそうで、一等国ぶっていても中身はスカスカな日本社会の暗部ばかり見せてしまい、日本人として恥ずかしい限りです。つもる話が多くて終電を逃してしまったため、この日はそのままTさんの自宅に泊まらせていただきました。(後半はずっと台湾・日本の風俗店の話ばかりだったのは内緒)


4. 公園でNERF合戦

YDAメンバーおよびその家族と公園でNERF(ナーフ)で遊びました。これ子供より大人が本気になる玩具ですわ。大人の経済力で凄い数の弾丸とマガジンを用意して、一日中遊んできました。


5. ブラック・クランズマンとピクサーのひみつ展


 地元の友達・僕の弟と一緒に日比谷で映画『ブラック・クランズマン』を見て、その後六本木ヒルズで開催されている『ピクサーのひみつ展』を見てきました。
 ブラック・クランズマンは予告編では痛快刑事ものとして宣伝され、事実本編もテンポの良い映画でしたが、ガチの人種差別主義がテーマなだけに、良い映画ではあるけど笑うに笑えない内容でした。レイシストが「あの業界は〇〇人に牛耳られてる」とか「主国民の私たちが虐げられている」とかいって被害者ぶるのは、日本の在特会やネトウヨどもとまったく同じ精神構造だね。またそれを批判する側(この映画の監督含む)も、情けないことにすぐ単純な反権力・反体制に走って、結局は右と左の口汚い罵り合いに終始するあたりも日本と一緒。だからイデオロギーに興味のない大半の人は、そういう面倒くさい事には関わりたくないと思ってしまう。レイシストが非難されるのは当然だが、批判できる立場にいる事に酔って批判の仕方をはき違えると、それはもう問題解決のための道筋からかけ離れた、単に自分が「正しい」側に居る事を確認するための自慰的活動になってしまう。そんな事をラストの逆さ吊り星条旗を見て思いました。
 ピクサー展の方は、最先端のCG技術を子供にも分かりやすく解説しており、展示そのものにもすごい金がかかってて、さすが世界一の会社だと思いました。また一緒に行った弟はアニメ制作会社でCGディレクターやってますから、最高の解説者に恵まれました


6. BĐQ将校のお孫さんの家でBBQ&軍装家族写真

 日本に住んでいるベトナム人の友人の家で開催されたバーベキューパーティーにお邪魔してきました。彼のお祖父さんはベトナム共和国陸軍レンジャー部隊(BĐQ)将校でしたが、1975年のスァンロクの戦いで捕虜となり、そのまま収容所で帰らぬ人となりました。彼はお祖父さんをいたく尊敬しており、また彼は初めての子供を授かったことから、祖父の写真のように軍服を着て家族写真を撮りたいのだけど協力してもらえないかと打診を受けました。なので僕たちも一肌脱いで彼のためにBĐQ(風)の軍服を用意して一緒に記念撮影を行いました。すごく喜んで頂けましたし、僕たちとしても共和国軍人のご遺族のお手伝いが出来てとしても光栄です。
  


2019年05月01日

サイゴン陥落の殉難者

毎年4月30日を記念した記事を書いているので、今年もやります。

【過去の記事】
2018年: 不覚にも書けず

今回は、もう4年近く前に行った場所についてですが、改めて記事にさせて頂きます。
私は2015年にベトナム共和国傷痍軍人支援チャリティーコンサートを取材するためアメリカ合衆国カリフォルニア州サンノゼを訪れた際、会場近くにあったベトナム難民博物館「ヴェト・ミュージアム」にも訪問しました。

(この時のアメリカ紀行はこちら)
北米之旅二日目(その一) サンフランシスコ
北米之旅二日目(その二) サンノゼ

サンノゼで私をお世話して下さったグエン・バン・フェップ元NKT少尉とヴェト・ミュージアム前で

この時は残念ながら閉館日であったため中を見学する事は出来ませんでしたが、博物館の前には、1975年4月30日の敗戦およびその直後に自決または共産軍に処刑された多くのベトナム共和国軍将兵・警察官の中でも、特に有名な7名のベトナム共和国軍将官・将校を顕彰する記念碑が建立されていたので、手を合わせてきました。



[肖像に描かれた7名]
左から
グエン・バン・ロン中佐
チャン・バン・ハイ准将
レ・グエン・ビイ准将
グエン・コア・ナム少将
レ・バン・フン准将
ファム・バン・フー少将
ホー・ゴック・カン大佐


 

碑文にはこう綴られています。(英語版から翻訳)

この記念碑は1950年から1975年のベトナム戦争において、自由を守るために多大な犠牲を払った数百万人のベトナム共和国市民を顕彰するものである。
この戦いの中で数十万もの軍人、市民、政府職員および公務員が戦場で、あるいは共産政権下の収容所で命を落とした。また数百名もの将兵が、共産軍への降伏を拒み自決を選択した。
この記念碑には、自決を選んだ、あるいは共産政権に処刑された7名のベトナムの英雄の肖像が描かれている。彼らの高潔な死は、ベトナム共和国軍人の愛国心と不屈の精神を象徴している。
この記念碑は1975年4月30日の南ベトナム陥落の語り部である。
2014年4月―サンノゼ市歴史公園



終戦から44年。いつになったら世界はベトナム戦争を各々の感情論を正当化するための手段として都合よく利用し続けてきた事実を認める勇気を持てるのだろう。アメリカにも日本にも、数えきれないほどの学者や知識人、報道関係者がいるのに、そのほとんどはベトナム戦争『(アメリカを批判するための)アメリカ中心主義』の色眼鏡を通して捉え、人間の人生・生命の価値に優劣をつける悪質な言論ごっこを60年間も繰り返してきた。ベトナム戦争に限って言えば、単に無感心な人の方がよっぽど罪は軽い。  


2018年10月30日

『クォン・デの家族』に関する誤解

 阮朝の始祖嘉隆帝のひ孫クォン・デと日本の関係を調査した複数の研究者が、ベトナムではクォン・デと彼の家族について誤った情報が広まっていると指摘しています。
 ベトナムでは、クォン・デは日本で暮らすうちに日本人女性と結婚して5人の子供をもうけ、ベトナム独立の志を失い、日本人として生きる事を望んだという説が歴史学者の間でも定説となっているそうです。そしてこの写真はクォン・デの日本の家族の写真として広く知られています。

写真: 森達也(2007)『クォン・デ―もう一人のラストエンペラー』

 しかしそれは大きな誤りです。まずクォン・デは日本では一度も結婚をしておらず、子供もいません。この写真はクォン・デが昭和15年(1940年)に台湾を旅行した際に、台北に住む友人の家族と撮影したもので、写っているのはクォン・デの子供ではありません。
 ただし、写真の中で和服を着ている女性は、晩年のクォン・デと生活を共にした日本人 安藤ちゑです。ちゑはクォン・デが死ぬまで傍らに寄り添い、内縁関係にありましたが、最後まで入籍はしませんでした。
 またちゑには安藤成行という息子がおり、三人は一緒に生活していましたが、成行はクォン・デの子ではありません。成行はちゑの甥であり、戦時中成行の実家が空襲で焼失したためちゑとクォン・デの家に預けられ、クォン・デの死後、成行はちゑの養子となったそうです。当時この三人は家族のように暮らしていましたが、実際には成行はクォン・デにとって内縁の妻の甥であり、血縁関係はありません。
 ちなみにウィキペディア ベトナム語版には、成行は昭和天皇の養子であり、「クォン・デは成行と結婚した」などと書かれています(笑)

 では何故ベトナムではクォン・デは5人の子供がいるという誤解が広まり、今も信じられているのでしょうか?クォン・デの生涯を調査した牧久は、この誤解はそもそもは日本軍によって意図的に流布されたものであった可能性を指摘しています。
 1940年の進駐以来仏領インドシナをフランスと合同で支配していた日本陸軍は、1945年3月に植民地政府とフランス軍を襲撃してインドシナ連邦を解体し、阮朝の皇帝バオ・ダイを元首とする『ベトナム帝国』を建国させます。
 阮朝の縁戚でフエ在住の歴史学者ファン・タン・アンは、あの写真はこの日本軍によるクーデターの前後に何者かによって、「クォン・デはベトナムを捨てて日本で家族を持っている」という噂と共にハノイやフエの識者たちにばら撒かれたとしています。そして多くのベトナム国民が、この写真によってその噂を信じ、クォン・デに失望したそうです。
 実際にはこの時代、クォン・デの盟友としてベトナム復国同盟会を支援していた大南公司社長松下光廣や日本のアジア主義政治団体、そして何より多くのベトナム国民がクォン・デがベトナムに帰還し、独立を導く事を長年心待ちにしていました。
 しかし日本軍の意向は異なりました。日本軍の中でもインドシナ連邦解体後にクォン・デを呼び戻すことは検討されましたが、現場でこのクーデターを計画・指揮した陸軍第38軍司令官 土橋勇逸中将は、それまでフランスの統治下でフランスの傀儡を演じてきたバオ・ダイの方が革命後も日本の意のままに操りやすい事からクォン・デの帰還に反対し、最終的にバオ・ダイを元首とする事が決定されました。
 そして牧久は、あの写真と『クォン・デの家族』の噂は、ベトナム国民からクォン・デへの期待を奪うと共にバオ・ダイの正当性を宣伝すべく日本軍が流布したプロパガンダ工作だったとしています。あの写真は旅行先で撮影されたプライベート写真でしたが、それが何らかの理由で日本軍の手に渡り、悪意のある宣伝に利用されたのです。残念な事にベトナム国民の間ではクォン・デへの期待が大きかった分、「裏切られた」という気持ちも大きく、この日本軍がでっち上げたフェイクニュースは戦後70年経った現在でもベトナム国内で信奉されています。
 クォン・デを研究した日本の識者たちは、戦前においはクォン・デを追うフランス当局の捜査網はインドシナのみならず中国や日本国内にも及んでおり、また戦中には日本から独立運動への支援を得るために日本軍に協力した事でかえって日本政府の監視下に置かれてしまったため、長年に渡って思うように独立運動につながる行動が出来ず、結果的にクォン・デは最後までベトナムに帰還する事が出来なかった。しかしそれでも祖国ベトナムへの想いは最後まで失っていなかったと評価しています。
 ベトナムの歴史を学ぶ者として、またそのベトナム史を大きく変えてしまった日本の国民として、私はクォン・デの名誉が彼の祖国で回復される事を願っています。

森泉大河


[The misunderstanding about "Cường Để's family in Japan"]

A plural researcher who studied about the relationship between Cường Để, a great-grandchild of Gia Long the founder of Nguyễn dynasty, and Japan point out that there's a big misunderstanding in Vietnam about Cường Để's family. That tells that Cường Để got married with a Japanese woman, got five children, lost an ambition for independence of Vietnam and he wished to live as a Japanese while he were staying in Japan, and those are the long-accepted theory in Vietnam even in historians. And this picture is widely known as the Cường Để's family in Japan.

However, that is a big misunderstanding. First, Cường Để has never been married and never have a child in Japan.
That picture was taken when he visited his friends who living in Taiwan in 1940, and those persons in the picture were not his family.
But the woman who worn a Japanese clothes is Chie Andou, a Japanese woman who were living with Cường Để late in life. She had snuggleing up to Cường Để until he passed away, and they had a common-law marriage, but they didin't enter the family register.
And she has a son named Shigeyuki Andou. He was living with Chie and Cường Để together, but he is not a son of Cường Để. Shigeyuki is a nephew of Chie, and Chie and Cường Để cared him in their house because his parent’s home was burned down by the bombing by US during WW2. Then after Cường Để's death, he became to be Chie's adopted son. They were living together like a real familiy, but Chie didn't get married in officially, Shigeyuki is just her nephew and they were not related by blood. 
By the way, the Wikipedia in Vietnamese says that Shigeyuki was an adopted child of Emperor Hirohito and HE GOT MARRIED WITH Cường Để. LOL

So why the misunderstanding what tells "Cường Để has five childs" spread and people believes it even now? Hisashi Maki researched Cường Để's lifetime and he points that there is the possibility that this misunderstanding was spread by Japanese Army on purpose.
Japanese Army had been controling French Indochina jointly with France since 1940. 
Then March 1945, Japanese Army attacked French Indochina government and French forces, dissolved the Indochinese Federation and founded the Empire of Vietnam (Đế quốc Việt Nam) what hold Bảo Đại, the emperor of Nguyễn dynasty, as the chief of state under the Japanese control.
Phan Thuận An, a relative of Nguyễn dynasty and a historian who living in Huế, told that the picture was bandied to intellectual persons in Hà Nội or Huế  together with a rumour that "Cường Để abandoned Vietnam and he have a family in Japan" by someone during the Japanese coup in French Indochina. And many of Vietnamese people believed that rumour by watching the picture, and they were disappointed in Cường Để.
In that era, actually, many people who crave the independence of Vietnam such as Mitsuhiro Matsushita, some Japanese Pan-Asianism groups and above all, millions of Vietnamese people hoped that Cường Để come back to Vietnam and he take the lead of independence. Matsushita was the president of a big Japanese trading company in Saigon named "Đại Nam Công Ty". And he was supporting Cường Để and Việt Nam Phục quốc Đồng minh Hội (the alliance of national recovery of Vietnam) as a powerful ally long time.
However, Japanese Army's intention was different from that. There was a discussion to call back Cường Để to Vietnam after the dissolution of the Indochinese Federation in Japanese Army too. But Lt. Gen. Yuuitsu Tsuchihashi who planned and commanded the coup on the spot as the commander of the 38th Army opposed to call Cường Để. Because Bảo Đại had been manipulated by France obediently, Lt. Gen.Tsuchihashi also plotted to use Bảo Đại as a puppet. And that plot was adopted finally.
And Hisashi Maki guesses that those picture and rumour about "Cường Để's family" were a propaganda operation by Japanese Army to make Vietnamese people desert their hope to Cường Để and give publicity to the rightfulness of Bảo Đại. The picture was taken when Cường Để had a trip in private. But Japanese Army got it in some way and exploited it as a vicious rumor. Unfortunately, Vietnamese people all the more strongly felt that he betrayed because their hope to Cường Để was so big, and people have been believing this fake news which invented by Japanese Army even now since over 70 years ago.
The researchers in Japan think about him below; before the WW2, the dragnet of French authorities to chase Cường Để were spread in China or Japan too, not only Indochina. And during WW2, he cooperated with Japanese Army to get some suport for the independence movement from Japan, but far from doing, he was kept under surveillance of Army. So he couldn't act for independence as his wishes and return to Vietnam to the last.
I desire that Cường Để's impaired reputation get restored as a researcher of Vietnamese history and a citizen of Japan which took a big part in that history.

Tiger Moriizumi

出典 (source):
森達也(2007)『クォン・デ―もう一人のラストエンペラー』角川書店.
牧久(2012) 『「安南王国」の夢―ベトナム独立を支援した日本人』ウェッジ.
海野芳郎『インドシナをめぐる日仏抗争―ベトナム・ナショナリズムの奔流に水門を開いた日本軍の武力行使を中心に―』.