2023年01月08日
ダラットの徽章
※2023年1月9日更新
※2023年1月16日更新
関連記事:ダラットの大礼服
第1次インドシナ戦争からベトナム戦争期にかけてのベトナム軍(ベトナム国軍・ベトナム共和国軍)士官学校「ダラット」の徽章についてまとめました。
※この士官学校の校名は、ベトナム士官学校→ダラット統合武備学校→ベトナム国立武備学校と時代によって移り変わっていますが、この記事では「ダラット」で統一します。
※士官課程第1期および2期のみ、ダラットではなくトゥアティエン省フエ市ダップダのベトナム士官学校時代に実施されました。
※同じくダラット市には政治戦士官を養成するダラット政治戦大学が存在しましたが、これは本記事で言う「ダラット」とは別の学校です。
I. 校章
①第1~2期(1948年~)
未確認
②第3期~(1950年~)
仏軍式の金属製バッジを右胸ポケットに佩用する。

③1959年~
校名がベトナム国立武備学校に改称。米軍式の布製パッチを左袖に佩用する。

II. 帽章
①第1~11期(1948年~)
ダラット独自の帽章は制定されず、陸軍(ベトナム国軍陸軍)帽章が用いられる。またダラット学生は黒または濃紺色ベレーを常時着用するが、ベレー章は制定されていない。

▲制帽章(上)、ベレー章なし(下)
②第12~31期(1955年~)
赤地の制帽章が制定される。また後(1959年より後)にベレー章も制定される。

▲制帽章(上)、ベレー章(下)
III. 士官候補生章/学年章
階級章に相当。任官前の士官候補生(Sinh Viên Sĩ Quan)は正式な軍人ではなく、階級を持たない。ただし士官候補生である事を示す『α(アルファ)』の意匠の徽章を階級章と同様に着用する。またこの徽章は学校ごとにデザインが異なる。
①第1~11期(1948年~)
初代のダラット士官候補生章は正肩章のみ。台布色は黒で、アルファの上に龍の刺繍が施されている。当時の教育期間は1年未満であったため、学年による等級は無い。

②第12~31期(1955年~)
台布色が赤色に変更される。また服装に応じて正肩章(準礼服・外出服)、略肩章(勤務服)、襟章(作戦服)、胸章(作戦服で襟に指揮官章が付いている場合)の4種が使い分けられる。
さらに教育期間が延長され、最終的に4年制となったため、学年による等級が設定される。2年生以降アルファの下に線が追加され、4年生で3本線となる。



IV. 学生隊指揮官章
第12期から学生隊内での役職を示す指揮官章が制定される。
①第12~21期(1955年~)
作業着(作戦服)および外出服の両襟に佩用される学生隊指揮官章は以下の通り。


▲第17期生の参謀(モノクロのため等級不明)


②第22期(1965年~)
第22期以降の学生隊指揮官章は、ブルゾンまたはジャケット着用時(冬季大礼服・冬季準礼服・冬季勤務服・冬季外出服・夏季外出服)のみ両襟に佩用される。なお1965年に制定された指揮官章は第22期のみ用いられた。

③第23~31期(1966年~)
第23期から改定された学生隊指揮官章は1975年の終戦まで使用された。


▲連隊参謀(左)、連隊長(右)
V. 初年生教育隊指揮官章
ダラットでは初年生への教育は上級生が担い、学生隊とは別に、初年生教育隊における指揮官章が設定された。
(採用時期は未確認だが、デザインが1965年制定学生隊指揮官章と似ているので、同時に制定かも?)


▲ 初年生教育隊小隊長。胸の徽章は学年章(2年生)
VI. 部隊感状
ダラットは学校の部隊感状として英勇章飾緒 (Dây Biểu Chương "Anh Dũng Bội tinh")を佩用する。

英勇章飾緒については過去記事『英勇章部隊感状と飾緒について』参照
2022年10月20日
(暫定)初代LLÐBベレー章
以前『LLĐBのベレー』で、ベトナム陸軍特殊部隊(LLĐB)のベレーの変遷について記事にしましたが、その時は把握できていなかった初代(1st)と思われるのLLÐBベレー章のデザインが、先日あるコレクターが公開した画像から判明しました。
これで一応、1957年から1975年までの、全ての期間のLLĐBベレーの変遷を把握できた事になります。

こちらが1st(仮)ベレー章が実際に着用されている写真です。

写真のチャン・フック・ロック上士(曹長)は、地理開拓局(後のLLĐB)のコマンド隊員の一人として1961年7月に北ベトナム領内への潜入作戦に参加しますが、乗機のC-47輸送機がハノイの南約100kmのニンビン省コントイ村に墜落し、他のコマンド隊員・空軍乗組員らと共に戦死します。(墜落原因が対空砲火による撃墜なのか、機体トラブルなのかは不明)
なのでこのロック上士の写真は確実に1961年以前に撮影された物であり、そこに写っているベレー章は、1961年に導入されたと思われる2ndベレー章(空挺部隊と共通)よりもさらに古い時代の物と考えられます。
僕はこれ以上古い年代に撮影された特殊部隊の写真を見たことが無いので、現状ではこのベレー章を1stと捉えたいと思います。
ただし、とある研究者は、1957年にベトナム陸軍初の特殊部隊として創設された第1観測隊(翌年から第1観測群)では、部隊番号の1を意匠としたベレー章が使われたとしているので、もしそれが本当だとすると、今回紹介したベレー章は2ndであり、真の1stはそちらになってしまいます。
なので、今回1stとしているのは、あくまで暫定的なものです。
2022年08月08日
従軍章とデバイス
ベトナム共和国の勲章の中でも、最も授章者が多いと思われるのが従軍章(Chiến dịch Bội tinh)です。
従軍章はベトナム戦争中の1964年5月12日に制定された勲章で、長期間の軍事作戦(戦役)に一定期間直接参加した軍人および部隊が授章または死後授章する勲章と定められていました。
この勲章の授与対象は自国軍だけでなく外国軍も含まれるため、数百万人のベトナム共和国軍軍人に加えて、アメリカや韓国、タイ、オーストラリア等、ベトナムに派遣された同盟国軍の兵士全員が授章した、ベトナム戦争を象徴する勲章と言えます。

▲HUY CHƯƠNG Ân Thưởng Trong QUÂN-LỰC VIỆT-NAM CỘNG-HÒA(1969)より
またこの従軍章の対象となる戦役は当時行われていたベトナム戦争に加え、過去に行われた第一次インドシナ戦争も含まれました。
その為、その従軍章がどちらの戦役による物かを区別するため、勲章のリボン部分および略綬には、それぞれの戦役が行われた年号を記したスクロール型のデバイスが装着されました。
・1949-54(略綬用は49-54):第一次インドシナ戦争
※第一次インドシナ戦争の開戦は、フランスのインドシナ再侵攻という意味では1945年、ベトミンによる武装闘争の公式宣言という意味では1946年ですが、この従軍章の対象は1949年に創設されたベトナム国軍(ベトナム共和国軍の前身)以降のベトナム軍人を想定しているため、デバイスの年号は1949-1954となっています。
・1960-(略綬用は60-):ベトナム戦争
※従軍章およびデバイスが制定された1964年当時はもちろん、この勲章が授与されたのはベトナム戦争の期間中のみなので、終戦の年号(1975年)は入っていません。

▲従軍章が制定された当時の資料(1965年)
以上が従軍章の公式な規定ですが、同盟国軍(特にアメリカ軍)では上記の二つ以外にも非公式なデバイスが用いられることがありました。
公式なデバイスでは、ベトナム戦争従軍者は全員『1960-』となりますが、非公式版では、その人物が実際に従軍した年号が入ります。

これらの非公式デバイスが生産・販売されたのはベトナムなのか米国内なのかははっきりしないのですが、少なくともベトナム共和国政府から授与される正式なデバイスではない事は確かです。
2022年07月15日
独立区と特別区
※2022年7月18日更新
※2022年7月20日更新

独立区(Biệt Khu)
ベトナム共和国軍は発足以来、南ベトナムの領土をいくつかの管区に分けて防衛していました。
中でも1962年に再制定された4つの戦術区(1970年に軍管区に改称)は、米軍からCTZ(Corps Tactical Zone)と呼ばれ、ベトナム戦争を通じてベトナム、アメリカ、その他同盟国軍の基本的な管区として用いられた事は割と知られていると思います。
それら戦術区/軍管区に加えて、ベトナムには戦略上の必要に応じて、戦術区/軍管区の指揮系統から独立し総参謀部の直接指揮下に置かれる独立区が累計で4つ設置されました。
・首都独立区(Biệt khu Thủ đô)
管轄範囲:サイゴン市およびザーディン省
1961年に戦術区と同時に制定。首都サイゴンの防衛を担う。
・第24独立区(Biệt khu 24)
管轄範囲:コントゥム省、プレイク省
第2戦術区より独立。中部高原(タイグエン地方)の国境防衛を担う。
・第44独立区(Biệt khu 44)
管轄範囲:ハーティエン市、チャウドック省、キエンフォン省、キエントゥオン省
第4戦術区より独立。ベトナム南西部(ミェンタイ地方)の国境防衛を担う。1973年に解散し第4軍管区隷下に復帰。
・ハイイェン独立区(Biệt Khu Hải Yến)
管轄範囲:アンスェン省カイヌォック地区


▲首都独立区所属の陸軍将校
特別区(Đặc Khu)
特別区(Đặc Khu)は独立区(Biệt Khu)と名前が似ていますが、独立区が総参謀部直属の高次な軍事戦術地区なのに対し、特別区はそれよりもかなり下位の階層にある、小区の下に特別に設置される地方軍および地方組織の地区です。
・ルンサット特別区(Đặc Khu Rừng Sát)
所属:第3戦術区/軍管区ザーディン小区
管轄範囲:ザーディン省ルンサット地区
・クアンダ/ダナン特別区(Đặc khu Quảng Đà / Đà Nẵng)
所属:第1戦術区/軍管区クアンナム小区
管轄範囲:クアンナム省ダナン市
・カムラン特別区(Đặc khu Cam Ranh)
所属:第2戦術区/軍管区カムラン小区
管轄範囲:カムラン省カムラン市
・ブンタウ特別区(Đặc khu Vũng Tàu)
所属:第3戦術区/軍管区フォクトイ小区
管轄範囲:フォクトイ省ブンタウ市
・フーコック特別区(Đặc khu Phú Quốc)
所属:第4戦術区/軍管区キエンザン小区
管轄範囲:キエンザン省フーコック島
・コンソン特別区(Đặc khu Côn Sơn)
所属:*
管轄範囲:コンソン島*
※人口が少なく主に海軍基地と刑務所が置かれていたコンソン島の行政区画は以下のように幾度も変更されています。
・コンソン省(1956-64):独立した省。軍事的には全面的に海軍の管轄下。
・フォクトイ省ブンタウ市コンソン基礎行政区(1964-1965):一時的にブンタウ市の行政区画に組み込まれる。
・コンソン基礎行政区(1965-1972):省には属さない独立した地区となる。
・ザーディン省/首都独立区コンソン特別区(1972-1975):行政区画がザーディン省所管となる。また軍事的には首都独立区が所管。
これら特別区に関する情報は少なく、このうち私が部隊章を確認できているのは、今のところルンサット特別区とクアンダ特別区の二つだけです。

ルンサット特別区

クアンダ特別区

▲米軍から表彰を受けるクアンナム小区クアンダ特別区所属の地方軍将兵
2022年07月02日
ベトナム陸軍の職種徽章
※2022年7月3日更新

▲Huấn Lệnh Điều Hành Căn Bản (1969)より
職種徽章のデザインのいくつかはアメリカ陸軍の影響を強く受けていますが、米軍とは異なり、レンジャーや空挺は独立した職種(兵科)です。
職種徽章は装着する被服によって佩用の仕方が異なるので、以下、被服ごとの使い方です。
将校外出服/大礼服の場合
佩用位置:ジャケットの両襟(ラペル)
徽章の素材:金属
ただし尉官・佐官のみで将官は職種徽章を佩用しない。
また佩用するかどうかは個人の自由だった模様。
勤務服の場合
空挺科(後述)を除き、勤務服には佩用されない。
作戦服の場合
佩用位置:右胸ポケット上側
徽章の素材:主に布製(織りまたは刺繍)、一部で金属
まず、作戦服に職種徽章を佩用するか否かは職種によって異なる。歩兵や砲兵では佩用例は少ない一方、機甲や各支援部隊では佩用率は高い。
佩用する場合、作戦服には多くの場合で布製の職種徽章が佩用される。ただし憲兵隊員には金属製の使用例が多く見られる。
例:機甲科の職種徽章。左から金属製、織り製、刺繍製


▲織り製職種徽章を佩用する機甲科将校

▲刺繍製(左)、金属製(右)職種徽章を佩用する第21歩兵師団所属の主計将校
特殊な例① 空挺科

空挺科の職種徽章『天使の翼章』は、他の職種とは違った方法で佩用される。
※『天使の翼章』は英語圏では『Jump Status(降下資格)』と呼ばれていますが、実際にはこの徽章は資格を表す物ではないので、この英語名は不適切だと思います。
I. 勤務服(チノシャツ)の場合
佩用位置:左エポレット
徽章の素材:金属
通常、勤務服に職種徽章は佩用されないが、空挺科の兵下士官(一等中士以下)のみ、エポレットに佩用する。

II. 作戦服の場合
佩用位置:左胸ポケット
徽章の素材:布製(織りまたは刺繍)
1964年以降、空挺部隊隊員の作戦服には、職種に関わらず全員、布製の天使の翼章がすべての階級で佩用される。
即ち、布製の天使の翼章は職種徽章と言うより空挺部隊の部隊章の一つと考えられる。
特殊な例② レンジャー科

佩用位置:左襟
徽章の素材:金属
通常、レンジャー部隊では作戦服に職種徽章は佩用されないが、1965~1966年にかけての短い期間のみ、佩用例が確認できる。

2022年06月29日
金属製 天使の翼
※2022年7月1日更新
先日、ベトナム陸軍空挺部隊の職種徽章(いわゆる兵科章)『天使の翼章(Huy hiệu Cánh Thiên Thần)』の金属製レプリカを買いました。

こういった職種を示す徽章の中でも、金属製の物は多くの場合、勤務服や外出服、大礼服といった制服に佩用されます。(※憲兵など一部の部隊では作戦服にも佩用されます)
また外出服および大礼服に佩用する際は、ジャケットの襟(ラペル)に左右対称に佩用します。(※尉官・佐官のみ)

▲空挺師団師団長レ・クアン・ルオン准将(当時中佐)
しかし上の写真のようなジャケット用の左右対称デザインのレプリカは今のところ存在していない(はず)なので、今回買ったレプリカを装着できるのは勤務服(チノシャツ)に限られます。
なおこういった徽章を勤務服に佩用する場合、普通は右胸ポケットの上に装着されるのですが、空挺部隊だけは他の部隊とは違った独特の文化をもっており、天使の翼章は左エポレットに装着されます。

ただしこれは階級章が袖に付く一等中士(一等軍曹)以下の階級だけで、上士(曹長)以上は階級章がエポレットに通すスリップオン式になるため、天使の翼章はこの位置には佩用されません。
この付け方を手持ちの服で再現するとこんな感じになります。

赤い台布は有っても無くても構いませんが、有った方がカッコいいのでフェルト布を切って作りました。
なお過去に何度か記事に書いてきましたが、天使の翼章の由来は、フランス軍空挺部隊が1946年に導入した、大天使ミカエルの翼と剣をモチーフにしたベレー章になります。
このベレー章はフランス軍の麾下で1951年に発足したベトナム陸軍空挺部隊にも継承されており、1955年にベトナムがフランス連合を脱退した後も、そのデザインは空挺部隊のシンボル=天使の翼章として継承されました。

こうした経緯から、大天使ミカエルはベトナム陸軍空挺部隊の守護天使とされており、空挺部隊本部が置かれたホアン・ホア・タム駐屯地(タンソンニュット基地内)の前には巨大な聖ミカエル像が鎮座してました。


2022年03月08日
『儀仗・首都警備部隊』の訂正
前記事『儀仗・首都警備部隊』の内容に一部誤りがあったので訂正します。
ただし、まだ事の全容解明には至っていないので、あくまでこの記事は現時点での僕の認識であり、今後の進展次第ではまた変わってくる可能性があります。
儀仗群(Liên Đoàn An Ninh Danh Dự)
まず、以前の記事では「赤地に龍」の部隊章を第306中隊のものとしましたが、正しくは「儀仗群」でした。
その名の通り、ベトナム政府首脳や外国の来賓などに対し儀仗を行う部隊だったようです。
▲1970年 総統府,サイゴン
首都保安群(Liên Đoàn An Ninh Thủ Đô)
また、「青い城」のパッチは「儀仗群および首都保安群」のものとしましたが、正しくは「首都保安群のみ」でした。
こちらは総統府などサイゴン市内の政府重要施設の警備を行う衛兵隊であり、制服は儀仗群とほぼ同じであるものの、儀仗ではなく日常の警備が主な業務であった模様です。

上記訂正へと至った経緯
・儀仗群は首都保安群へと改名された?
とある研究者は、「儀仗群は1969~1971年の間に首都保安群へと改名された」としており、僕も前回の記事ではその説を採用し、儀仗群と首都保安群を同一組織として説明しましたが、その後この説にはいろいろ矛盾がある事が分かりました。

こちらの写真は1971年撮影とされており、「赤地に龍」の儀仗群パッチが見られます。
また、ある研究者は、このパッチは1974年まで着用例が見られるとしています。

一方、こちらはHuấn Lệnh Điều Hành Căn Bản (1969年版)に掲載されている儀仗群(LĐANDD)のイラストなのですが、「赤地に龍」ではなく、首都保安群の「青い城」のパッチが描かれています。このイラストは二つの疑問・解釈を生じさせておりまして、
①「青い城」のパッチは儀仗群と首都保安群の両方で使われたのか?もしくは単にこの本の誤記なのか?
②誤記だったとしても、少なくとも1969年の時点で「青い城」のパッチは確実に存在していた。つまり「赤地に龍」と「青い城」は同時に存在しており、部隊改名に伴いに変更されたのではない。
・儀仗群は首都保安群内の組織?
「赤地に龍」のパッチは、首都保安群内の儀仗隊である第306中隊のものであるという説もありましたが、上で示したように当時の資料からこのパッチは儀仗群(LĐANDD)である事が確定した為、この説は否定されました。
また儀仗群と首都保安群の部隊規模は両方とも群(Liên Đoàn)であり、どちらか片方がもう一方の下部組織である可能性も否定されました。
以上の二点から今回僕は、部隊が改名された説を否定し、儀仗群と首都保安群は元から別々の部隊として同時に存在していたと認識を改めた次第です。
2022年01月30日
ベトナム陸軍の帽章・階級章
※2022年2月2日更新
※2022年2月18日更新
陸軍帽章の変遷

1949年~1955年:フランス連合期
バナーの文字は『Quốc gia Việt Nam』
1955年~1963年:第一共和国期
共和制移行に伴いバナーの文字が『Việt Nam Cộng Hòa』に変更
1963年~1964年:ジェム政権末期
1963年に各軍の帽章のデザインが一新されるが、間もなく発生した軍事クーデターによってジェム政権が崩壊したため、このデザインは短命に終わる
1964年~1967年:軍事政権期
クーデター後、1963年制定の帽章は廃止され、変更前のデザインに戻る
1967年~1975年:第二共和国期
新憲法施行に伴い、軍の体制を大幅に改革。帽章や階級章なども改定される
陸軍階級章の変遷
ベトナム国軍(当時の名称はベトナム国家衛兵隊)はフランス連合期の1949年に、それまでフランス軍(主に植民地軍)に所属していたベトナム人兵士を新たに組織された国軍に充てることで発足しました。またその後もベトナム国軍はフランス連合軍の一部として1955年までCEFEO(極東フランス遠征軍団)の指揮下にありました。
この関係は陸軍の階級章にも表れており、ベトナム国軍期の兵~中級下士官の階級章はフランス軍(特に植民地軍)をベースとしながらも、独立国として独自の変更も加えられており、シェブロンの向きはフランスと上下逆さまになっています。この下向きシェブロンのデザインはフランス連合脱退後のベトナム共和国軍にも継承され、終戦まで長きに渡って使用されました。

ベトナム国軍では兵~中級下士官の階級章に変更が加えられた一方、上級下士官~士官の階級章は、フランス軍のような部隊を示す刺繍がなくなっただけで、全く同じデザインが用いられました。
しかし1955年以降のベトナム共和国軍期に入ると、そのデザインは完全に一新されます。
さらに1967年に新憲法が施行され第二共和国期に入ると、帽章と併せて階級章のデザインも変更が加えられました。


2022年01月02日
レプリカ海兵ベレー
※2022年1月8日更新
先月アメリカのショップに注文していた3ピースベレーとベトナム海兵隊ベレー章のレプリカが年末に届いたのですが、それぞれ気に入らない部分があるので手直ししました。
まずはベレー章。1956年~1966年頃まで使われた、兵および下級下士官(二等兵~一等下士)用です。
(ベレー章の変遷については過去記事『ベトナム海兵隊のインシグニアについて:ベレー』参照)

しかしこのレプリカ、八角形なのはまだ許せるにしても、刺繍の中心がずれていやがる。
モール刺繍部分が良くできているだけに勿体ないです。

なので一旦バラして中の八角形の芯を外し、中心が合うように新しい円形の芯を入れて接着しました。
次にベレー本体ですが、こちらは1950年代から1960年代前半に多く用いられた3ピース構造で、全体的な雰囲気はとても良いのですが、なぜかサイズを絞るリボンが付いていません。

仕方ないので針金を曲げて作った紐通しで、スエットバンドの中にリボンを通しました。
こうして海兵ベレーが完成。

当時の着用例

実はすでに、1962~1967年ごろまで支給されたVMS風ザーコップ迷彩服もオーダーしてあり、1月中に届く予定なので、これで念願の1963年クーデターや、ベトナム海兵大隊戦記(1965年)の頃の海兵隊の軍装が一応揃います。
おまけ:最近見つけたスタイリッシュ海兵
①いろいろと変

▲年代不詳なものの、階級章は1967年以降のタイプ
本来左袖に付ける海兵隊の部隊章(SSI)をベレーに付けてる中佐。しかもベレーは通常とは逆の左立て(英米式)。
さらに本来右胸ポケットに付けるはずの海兵隊胸章(1966年タイプ)も左胸という規定ガン無視状態。
さすが中佐ともなると叱る人が居ないのでやりたい放題といったところでしょうか。
②イキるとはこういう事

▲年代不詳なものの、徽章・ネームテープから1971年頃と推定
情報過多なので箇条書きにします。
・ベレー章は非公式な小型の金属製バッジ
・ベレー章の下に下士(伍長)の布製階級章。襟用か?
・ネームテープはベトナム語をフォネティックコード表記したもの(SƠN→SOWN)
・名前の後ろに大隊中隊番号の「3」(非公式だが稀に使用例あり)
・迷彩服はテーラーで大幅に改造された2ボタンポケット+ジッパーポケット
もうこれ以上のオシャレ海兵は見つからないと思います。
もしこれが現代の軍装コスプレだったら、僕は「こんなやり過ぎの改造軍服ありえない」と非難するでしょう。
それくらい、一枚の中にいろんな要素が濃縮されている写真でした。
2022年01月02日
陽暦節2022
明けましておめでとうございます。



また今年も元日に、いつものベトナム寺に陽暦節の初詣に行ってきました。
お寺でふるまわれる精進ブン(米粉麺)には、お好みで唐辛子の調味料を入れることができるのですが、この調味料が異様に辛いです。なんか辛み成分が濃縮されている感じで、見た目の数倍辛いです。
僕はいつも控えめに入れているつもりなのに、それでも辛くなりすぎます。今回もつい入れ過ぎてしまいました。
なのでこの日は気温5℃で風も強く、器を持っている手は凍えているものの、額だけは汗をかきながら食べることとなりました。
年末に作った物の続き
友人に着用してもらうため、MACVハンガーバッジに続き、ベトナム軍の上級降下章(Bằng Nhảy Dù Cao Cấp)も製作しました。
降下章については過去記事『戦技系技能章』参照
まず手持ちの降下章(基礎)レプリカをおゆまるで型取る。

型にプラリペアを流し込むと同時に、太さ1.2mmのステンレス針金を足として埋め込む。
また今回は上級降下章なので、上級を示すヤシ葉のデバイスをエポキシパテで自作。

ヤシ葉をくっつけて塗装したら完成!

あまり出来の良くないレプリカからの複製なので見苦しい点はありますが、コスプレ用の間に合わせとしては見れるレベルかなと。
2021年12月31日
空挺師団の大隊/中隊章
ベトナム陸軍空挺師団では1967~68年頃に、所属する大隊および中隊を示す徽章が導入され、野戦服の左エポレットに着用されるようになりました。(おそらく個人購入なので全員ではない)

▲第5空挺大隊の大隊パッチ*の例
この大隊/中隊章はレプリカパッチが販売されているので以前買っておいたのですが、このパッチは多くの場合エポレットに直接縫い付けられていたので、それをそのまま再現すると、その服の設定が中隊まで決まってしまい、リエナクトできる年代や場所がかなり限られてしまいます。
なので今まではあえて大隊/中隊章は服に付けないようにしてきたのですが、やっぱり付いているとカッコいい。付けたい。
そんな矛盾を解決すべく、当時一部で使用例が見られるスリップオンエポレット式の大隊/中隊パッチを再現してみました。

第3空挺大隊仕様。土台のERDL迷彩生地はドラゴン製レプリカ。

装着状態。服は東京ファントム製レプリカです。
スリップオンなので、このようにエポレットに通すだけで楽に脱着できます。
一応これで、「大隊/中隊章を付けたい」というコスプレイヤー的欲求と、「付けない方が服の使い勝手が良い」というリエナクター的都合の折り合いを付ける事ができました。
なお、大隊/中隊章は基本的に背景の色が中隊を表しているのですが、理由は不明なものの、第3及び第5空挺大隊だけは中隊ごとの色分けが存在せず、すべての中隊が青色で統一されています。(過去記事『部隊識別色』参照)
なので第3・第5大隊なら、パッチを付けても色で中隊は特定されないので、他の大隊よりもまだ若干汎用性が残っているため、今回は第3空挺大隊という設定を選びました。
①パッチ/エポレット直縫い

▲第9空挺大隊大隊長レ・マン・ドゥオン中佐(当時大尉)
当時の写真では、パッチをエポレットに直縫いする方式が一番多く見られるように思います。
②パッチ/スリップオンエポレット式

▲第5空挺大隊の例
今回僕が再現したスリップオンも、ある程度散見されます。土台の布は、迷彩もしくは中隊色と同じ色のどちらか。
③ビアカンバッジ/スリップオンエポレット式

▲大隊不明
割合的には非常に少ないものの、大隊/中隊一体のパッチではなく、中隊色の布を台座(スリップオンエポレット)にし、その上にビアカンバッジ製大隊章を取り付けている例もあります。
【正体不明なもの】
①背景色:白

▲第7空挺大隊。1968年サイゴン
こちらの大隊章はビアカンバッジ製の第7空挺大隊ですが、中隊色に白という色はなく、この台座の色が何を意味しているのかはいまだ不明です。
②謎の菱形章

空挺部隊の大隊章に菱形の物はなく、このスリップオンエポレットは、少なくとも大隊を示すものではないと思われます。
なのでこれは部隊章ではなく、部隊内の何らかの役職・部署を示すものではないかと推測はしているのですが、写真で確認できる使用例はこの人物のみなので、正体は一切不明です。
2021年11月19日
似て非なる物
ベトナム軍で使われた数千種の部隊章・パッチの中には、デザインがよく似ている、というか明らかに使いまわしているものがいくつか見られます。
それらは恐らく、軍から部隊章のデザインを受注したベトナム国内のデザイナーや徽章業者が、デザインを起こす手間を省いたりシルクスクリーンの版をそのまま使いまわすために、すでに同一デザインの部隊章がある事を軍に隠して提案し、そのまま採用されたものと思われます。
以下、そういったデザイン・シルクスクリーン版使いまわしと見られるパッチの例です。

①陸軍第44レンジャー大隊
②地方軍ヴィンビン小区チャークー支区
③不明(文字がないため判別できず)

①陸軍第18歩兵師団第52歩兵連隊偵察中隊
②陸軍第23歩兵師団第44歩兵連隊偵察中隊
③地方軍ヴィンビン小区チャークー支区 ※
※44という数字はチャークー支区とは関係なく、単に業者が②の版を流用した、さらに4は漢語で「死」を暗示する数字であためカッコいいからそのまま採用されたのではと推測しています。

①陸軍第5歩兵師団第8歩兵連隊(1971年改訂版)
②地方軍ヴィンロン小区第747長距離偵察中隊(元ヴィンロンPRU)
ともに1970年代に用いられたパッチです。

①陸軍第1歩兵師団黒豹中隊
②陸軍特殊部隊第91空挺コマンド大隊
②陸軍特殊部隊第91空挺コマンド大隊
特殊部隊ベテランのフォー・コック・ユン氏の証言によると、両部隊章は似ていて紛らわしいと軍内部でも問題になったので、1968年に第91空挺コマンド大隊がデルタ偵察チームを吸収し「第81」空挺コマンド大隊に改称されると同時に②のパッチは廃止され、以後1970年まで第81空挺コマンド大隊に専用の部隊章は制定されなかったそうです。
過去記事『空挺コマンド』参照
なお、上記のように似たようなパッチは他にもあるのになぜこの二つだけ問題になったかというと、おそらく黒豹中隊と第91空挺コマンド大隊は共に軍団本部や総参謀部の指令で動くエリートコマンド部隊だったため、軍上層部がこの二部隊の部隊章がよく似たデザインであることに気付けたからだと思われます。逆に他の部隊は異なる地域に展開する末端組織なので、上層部はおろか、パッチを着用する当人たちも他に同じようなパッチが使われている事に気付いていなかったかも知れません。
2021年11月03日
続・射撃技能章
以前、『調査中のベトナム軍インシグニア ①射撃技能章』で、謎のまま終わっていた射撃技能章のデバイスの正体が分かりました。
意外な事に、海外のコレクターの人が実物を持っていたので、画像を見たら一目瞭然。

真ん中に付いていたのは武器のミニチュアではなく、銃器の種類を記したバー(デバイス)でした。
またこのサンプルから、射撃技能章は少なくとも6種あったようです。
M.1: M1小銃
ĐẠI-LIÊN: 機関銃
TRUNG-LIÊN: 軽機関銃
TIỂU-LIÊN: 自動小銃
CẠC-BIN: カービン
SÚNG-LỤC: 拳銃
またこのサンプルの中にはありませんが、もしかしたらグレネードランチャー(PHÓNG LỰU)や無反動砲(KHÔNG GIẬT)、対戦車ロケット(CHỐNG TĂNG)等のバーも存在したかもしれませんね。
さらに別の研究者からの情報によると、ベトナム軍の射撃技能章には、以下の3つの世代があるとの事です。
1st (1960年代初頭の短期間のみ?): 黒台布、ピストルのミニチュア
2nd (1960年代初頭-1963年9月): 星無し、ライフルのミニチュア
3rd (1963年9月9日-1975年):星付き、銃器種名のバー

しかし前回の記事に載せたように、星あり(3rd)なのに、2ndと同じくライフルのミニチュアが付いている例も存在しており、本当にこの分け方で正しいのかどうかは、まだ確証が得られていません。

▲上の世代分けに従うと、右は2ndだが、左は謎。
2021年09月29日
ブル族の人名

この時、右胸には何の気なしに、僕がいつも使っているベトナム人(キン族)名である「Thanh」と刺繍されたネームテープを縫い付けました。
しかしその後、米軍MACSOG TF-1AE(SOG-35 CCNの後継部隊)が作成した当時の資料から、このRTミシガンはブル族で構成されたチームであった事が判明しました。
過去記事『雷虎SCUの構成民族』参照
なので名前もブル族のものでないと不自然なので、ネームテープを作り直す事にしました。しかし『デガ(モンタニヤード)の人名』に載せたように、デガの中でも多数派のジャライ族やラーデ族なら既に人名のサンプルを集めてあるのですが、ブル族については把握できていなかったので、一から調べる事になりました。
するとその中で、思いもしなかったブル族の複雑な境遇を垣間見る事となりました。
まず、古来よりブル族の人名には姓が無く、名のみで構成されていたそうです。しかし1946年、ベトナム領内に住むブル族に大きな転機が訪れます。
その前年の1945年9月、第2次大戦における日本の敗戦を機に、ホー・チ・ミンを首班とするベトミンは日本の傀儡政権であるベトナム帝国政府を転覆させ、ベトナム民主共和国の独立を宣言しました。しかし間もなく、インドシナの再統治を目指すフランス軍と、それを支援するイギリス軍、連合国の指揮下に入った日本軍が合同でコーチシナ地方(ベトナム南部)からベトミンを駆逐。フランス軍はそのままベトミン政府の首都であるハノイに向けて北進し、インドシナ全土の再占領を目指しました。
この時期、ベトナムに住む全ての人々は、多大な犠牲を覚悟の上でフランス軍と戦いベトミンによってもたらされた「独立」を守るか、あるいはフランスに恭順して穏便にフランス連合の枠内での自治権拡大を目指すか、という非常に苦しい選択を迫られました。
ベトナム人と一口に言っても、それぞれの立場は生まれた場所や環境で大きく異なっており、民族の悲願である独立のためベトミンの闘争に参加する者がいる一方で、ベトミン政府によるテロ・弾圧の対象となった公務員や地主、カトリック信徒など、なんとしてもベトミン政権を阻止したい人々も多く居ました。
その結果、ベトナム社会はベトミン(共産)派と反共派に大分裂し、以後30年間に渡って一千万人超の犠牲者を出す壮絶な内戦へと突入します。
そしてこの分裂は多数派のキン族だけでなく、少数民族の中でも起こりました。中でもブル族はこの分裂の結果、一定数の人々が、元々は持っていなかった「姓」を名乗るようなったという特殊な例です。
事の真相は不明なものの、現ベトナム(共産党)政府のクアンチ省フウンホア地区人民委員会の公式サイトによると、ブル族は1946年初頭までに、その一定数がベトミン派に与していました。そしてホー・チ・ミンとベトナム労働党に「忠誠を誓った」とされる人々は、1946年1月6日のベトナム民主共和国国民議会総選挙において、(多数派のキン族を基準に制度設計されたため)投票用紙に姓を書く必要が生じたため、ホー・チ・ミンの姓「Hồ(ホー)」を自らの姓として記入したのです。そしてこれ以降、ベトミン派のブル族はホー姓を名乗るようになったそうです。
同サイトには、1947年のフランス軍への攻撃の際に戦果を挙げたベトミン軍のブル族兵士として、以下の名前が紹介されています。
・Hồ Ray
・Hồ Tơ
・Hồ Hăng
・Hồ Thiên
・Võ Tá Khỉn
・Hồ Cam
・Hồ Hương
そして現在のブル族についても、僕がネットを検索した限りでは、ホー姓の人物しか見当たりませんでした。(ベトナム労働党/共産党政権下では70年近くに渡って、「融和」という名目で少数民族文化の破壊、キン族への強制同化政策が行われているので、姓だけでなく名もキン族風の人しか見つかりませんでした。)
一方で、当時はベトミンを支持しないブル族も数多く存在しており、無論彼らが敵の首魁であるホー・チ・ミンの姓を名乗る事はありませんでした。
彼ら反共派ブル族はその後、ベトナム戦争が始まるとアメリカ軍のCIDG計画に参加し、以後十数年に渡るホー・チ・ミンの軍隊(ベトナム人民軍および解放戦線)との長い戦いに身を投じます。
1967年頃には、ブル族CIDGの中でも優秀な兵士はSCU(Special Commando Unit)としてベトナム軍NKTコマンド雷虎へと編入され、米軍SOG-35隊員を指揮官とするRT(偵察チーム)が順次編成されていきました。そして最終的に、CCNに所属する約30個のRTのうち、1/3以上をブル族のチームが占めるようになりました。
そして僕が軍服を再現したRTミシガンも、そのブル族チームの一つです。しかし残念ながらこの服の見本とした写真の人物の名前は不鮮明で判読できず、また他のRTミシガン隊員の名前を記した資料もまだ見付けられていません。しかし他のブル族チームの情報を探したところ、同じCCN所属のRTハブ(Habu)の隊員の名前が一部判明しました。
・Loi
・Boa
・Bop
・Too
・Cumen
・Ti
・Noi
・Zu
・Xuan
・Thua
・Ti Ti Loi
・Bang
(声調記号等は不明)
こうしてようやくブル族人名(男性名)のサンプルがある程度揃ったので、僕はこの中からネームテープに刺繍する名前として「Bop」を採用する事にしました。もちろんホー姓なしで。サンプルの中にはキン族と似たような名前も幾つか見受けられますが、Bopは一目でキン族ではない事が分かるので、気持ちの棲み分けも出来ます。
余談ですが、たぶん上の「Habu」というチーム名は、琉球諸島の毒蛇「ハブ」の事だと思います。 RTのチーム名は部隊を指揮する米軍SOG-35によって命名されるため、名前のパターンとしてはアメリカの州名の他、アナコンダやサイドワインダーなどアメリカ人にとって凶暴かつクールなイメージの蛇の名前も入ります。おそらく沖縄に駐屯する米兵の間ではハブの事はよく知られており、その危険性は特殊部隊のイメージにぴったりだったんじゃないでしょうか。
Posted by 森泉大河 at
01:18
│Comments(0)
│【ベトナム共和国軍】│【インドシナ少数民族】│1954-1975│1945-1954│NKT/技術局│SOG/特殊作戦│少数民族の歴史・文化│デガ│【ベトコン】│徽章・勲章
2021年09月26日
戦技系技能章
※2021年10月28日更新
※2022年6月28日更新
※2022年7月1日更新
※2022年10月23日更新
・落下傘降下(Nhảy Dù)

訓練施設:ホアンホアタム 空挺訓練センター(ジアディン省タンソンニュット基地内)
降下回数・実戦経験に応じて基礎・中級・上級の三等級があり、中級には星、上級には椰子葉のデバイスが追加される。
・特殊部隊落下傘降下(Nhảy Dù Lực Lượng Đặc Biệt)

訓練施設:ドンバーティン特殊部隊訓練センターおよびクェッタン/イェンテー技術局訓練センター(ともにビエンホア省ロンタン)
(一般)落下傘降下課程に加え、HALOによる潜入や抽出脱出などの特殊作戦に関する技能を学ぶ、事実上の特殊部隊員養成課程。
降下回数・実戦経験に応じて基礎・中級・上級の三等級があり、中級には星、上級には椰子葉のデバイスが追加される。
※作戦服に付ける布製(機械織/刺繍)徽章は、一般の落下傘降下章と同一。

落下傘降下教育の指導員たる資格
落下傘降下資格章と同様に三等級あり、ランクが上がる毎に星、椰子葉のデバイスが追加されるが、初級以外の等級名については現在調査集。
・レンジャー基礎(Căn Bản Biệt Động)

訓練施設:ドゥックミー レンジャー訓練センター(カインホア省ドゥックミー)
レンジャー部隊では基本的に、隊員全員がこのレンジャー基礎課程を修了してから部隊配属となる。
またレンジャー部隊以外に所属する者でも訓練に参加でき、修了者には資格章と資格手当が支給される。
・長距離偵察(Viễn Thám)

訓練施設:ドゥックミー レンジャー訓練センター(カインホア省ドゥックミー)
米軍のMACVリーコンドースクールに倣った長距離偵察(LRRP)課程。
レンジャー部隊の他にも、各歩兵師団や海兵隊の偵察中隊隊員候補たちが受講する偵察部隊の登竜門。
・森林山岳湿地戦(Rừng Núi Sình Lầy)

訓練施設:ドゥックミー レンジャー訓練センター(カインホア省ドゥックミー)
こちらもレンジャー訓練センターで受講できる訓練コース。
ただし理由は不明ながら、この徽章に作戦服用の布製は存在せず、着用例もほとんど見られない。
・フロッグマン (Người Nhái)


訓練施設:ブンタウLĐNN訓練センター/海軍訓練センター(ニャチャン カムラン)
海軍フロッグマン部隊(LĐNN)課程。
今のところLĐNN隊員以外での着用例は未確認。
2021年09月11日
調査中のベトナム軍インシグニア ②徒手格闘技能章
こちらは射撃技能章とは逆に、当時の使用例は幾つもあるのに、徽章本体の鮮明な画像がなかなか見つからなかった物です。
以前こちらの記事で、ベトナム軍にはテコンドー章(Bằng Taekwondo)なる徽章が存在していた事を書きましたが、その時はまだ画像が不鮮明なため、多分中央の白い図柄は拳(グーパンチ)だろうという事くらいしか分かりませんでした。

しかしその後、もうちょっと鮮明な当時の画像が見つかりました。
ハー・コック・フイ少尉という人物の写真です。

▲第10政治戦大隊 ハー・コック・フイ少尉(左)とズー・トゥー・レ大尉(右) 1973年
画像を拡大すると、今まで読めなかった拳の下の文字がついに読めたのですが・・・
これがまた新たな謎を呼んでくれました。

▲拡大画像(左)と再現図(右)
えー!『KARATE DO(空手道)』って書いてあるじゃん!テコンドー章じゃなかったの!?
しかし空手道と書かれている事自体は、着用者のバックグラウンドと辻褄があっています。
実は写真のフイ少尉は、日本人の鈴木長治が1963年にベトナムのフエで旗揚げした『Suzucho Karatedo(鈴長空手道)』に最初に入門した一番弟子の一人であり、当時既にベトナム格闘技界の第一人者として活躍していた、南ベトナムでは著名な空手家なのです。

▲若き日のハー・コック・フイ(左)と鈴木長治(右)
ちなみにベトナム戦争終結後、鈴木長治氏はベトナム共産党政権による外国人追放政策によって、1978年に日本に帰国。
軍人だったフイ氏は逮捕され、再教育キャンプへ投獄されたものの、数年後に脱獄、国外脱出に成功。難民として1979年に米国へ渡りました。フイ氏は渡米後も武道家として活躍し、HANSHI KARATE(師範空手) 9段、Shorin Ryu Karate (小林流空手) 8段、Okinawan Traditional Weapons(沖縄古武術)7段、米国国際武道協会専任理事会議長などを歴任。『グランドマスター』として今なおベトナム人武道家から尊敬を集めています。
さて、話を本題に戻します。
なぜ、『テコンドー章』と呼ばれている徽章に『KARATE DO』という文字が入っているのか?
その答えとして、二つの可能性を考えてみました。
①徒手格闘は何でもKARATE DOだった/文字はKARATE DOのみのだった説
空手の方がベトナムで先に普及しており認知度が高かったため、同じく打撃系の徒手格闘術であるテコンドーは空手の一種と見做されていた、または徒手格闘の総称としてKARATE DOが用いられていた?
[考察]
当時テコンドーでは空手や柔道と同じ日本式の道着が使われており、実際、欧米ではテコンドーは空手の一流派と見做されるなど、長らく空手と混同されていた。
しかし、ベトナム軍にテコンドーを指導しているのは韓国軍の指導員(軍事顧問)であり、自国のテコンドーを日本のカラテ呼ばわりされる事には強い抵抗があったことは想像に難くない。
また当時ベトナムでは、テコンドーは"Taekwondo"の他にも、韓国国旗の太極の図柄から"Thái cực dào (太極道)"とも呼ばれており、それが韓国由来の武術である事はベトナムでも認知されていたと考えられる。
②実際に習得した格闘技の名前が入る説
入る文字は共通ではなく、他にも"TAEKWON DO(テコンドー)"や"JUDO(柔道)"など、実際に習得した武術の名前が入った?
[考察]
①の考察で述べたように、テコンドーの段位に対してカラテという名称が使われたと考え辛い以上、単に実際に習得した武術の名前が入ると考えた方が自然だと思われる。
今回例に挙げたフイ少尉は鈴長空手道の第一人者であり、KARATE DOの文字が入っている事とは何ら矛盾しない。
ただしKARATE DO以外の文字の使用例はまだ確認できていない。
2021年09月11日
調査中のベトナム軍インシグニア ①射撃技能章
※2021年11月3日更新
射撃技能章(Chứng nhận Thiện xạ)については、海外のコレクターが実物とされるものの画像を公開していたので、その存在は認識していたものの、当時の写真や資料でこのバッジを見た事が無かったので、本当にこれらのバッジがベトナム軍の物なのか疑わしく思っていました。

しかし今日、別件でパソコンに保存してあるトゥドゥック歩兵学校(予備士官学校)の写真を見返していたら、このバッジらしき物が写っているではありませんか!

ベトナム軍には他に似たような徽章は無い(はず)なので、おそらく射撃技能章(星付き)で間違いないと思います。
今まで全然気付かなかった。なんだ、前から使用例の写真持ってたんじゃん。
ただし、この写真のバッジには、上のコレクター所蔵品のようなライフルの造形はありません。
画像が不鮮明ですが、バッジの中央にはなんだか黄色い小さな図柄が付いています。

これは推測ですが、僕はこの写真のバッジ中央にある図柄は、ピストルではないかと思ってます。
正体が判明しました。新たにこちらの記事に記載してあります。

こちらはネットで見つけたクアンチュン訓練センター発行の射撃技能章の証書ですが、これにはM16ライフル(Súng M.16)の射撃技能を認定する旨がタイプされており、さらに証書上部には例のバッジの意匠と共に、COLT(=M1911A1ピストル)、M79グレネードランチャー、M60マシンガンと、M16ライフル以外の各銃器の名称も載っています。

つまり射撃技能章には少なくともライフル、ピストル、グレネードランチャー、マシンガンの4種類が存在していたことが推察されます。
そしてこの中で、図柄が比較的小さくなりそうなのはピストルしかないので、おそらく上の写真のバッジはピストル(M1911A1)の射撃技能章であろうと考えられます。
とは言え、ライフル以外の射撃技能章の鮮明な画像はいまだ見た事が無いので、引き続き写真を探していきたいと思います。