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2018年11月12日

SESSIION限定配信記事

クリエーター支援サイトSESSIIONにて記事の配信を始めてからはや三ヶ月が経ちました。
これまで当ブログにコメントを頂いていた読者の方々に加え、なんと中国に住むベトナム共和国軍マニアの方からも、日本語が読めないのにもかかわらず私の執筆活動を応援したいとSESSIIONを通じてご支援を頂くようになり、感謝の念に堪えません。


SESSIIONでは当ブログ「一番槍BLOG」を書くための資料や考察・下書きに加えて、今後もインターネット上で公にするつもりは無い少々込み入った話も時々配信しています。以下はこれまでに投稿したタイトルの一部です。

カオダイ教と日本[2](仮)




















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Posted by 森泉大河 at 23:25Comments(0)【ベトナム共和国軍】1954-1975News!言論

2018年10月26日

越風総本家 ARVNを支える職人たち

アンタン (An-Thành)

かつてサイゴンには『アンタン』という軍御用達の勲章・徽章メーカーがありまして、コレクターが公開している当時の勲章やチラシ・カタログでその名がよく見られます。

 

今回、そのアンタンの実店舗の写真をようやく見つける事が出来ました。1965年撮影との事です。
店の中はよく見えないですが、表の略綬の看板がかっこいいです。



アンタンは制服は扱っていないので直接は関係無いのですが、上の看板に描いてあるこの絵の制服は


こちらの陸軍大礼服のようです。


しかしこの服は1963年を最後に使用例がパタリと消えています。第一共和国(ゴ・ディン・ジエム政権期)、この服はジエム総統の側近の陸軍幹部によく着用されていたので、恐らく反ジエム派の軍人たちはこの服をジエム・シンパの服と忌み嫌っており、63年11月のクーデターでジエム政権が崩壊すると、この大礼服も廃止されたのではないかと私は推測しています。
そのため、看板の写真が1965年撮影であったとしても、この服自体は当時の大礼服ではありません。おそらく看板が描かれたのは1963年以前で、制服が変わった後も看板はそのままだったのでしょう。

このアンタンが戦後どうなったのか定かではありませんが、箱やカタログに書いてある店の住所「サイゴン市レ・タン・トン154」をGoogleマップで見てみると、お店があった場所は現在(2014年撮影)こうなっているそうです。

当時と同じ建物かどうかはよく分かりませんが、通りの雰囲気はあまり変わっていないようですね。



ルォンファン (Luong Phan)

一方、コレクター界で最も有名なサイゴンのテーラー『ルォンファン』があった「サイゴン市ハイ・バー・チュン64」の現在の様子はこちらです。


当時のルォンファンの写真はまだ見付けられていませんが、見るからに新しい建物が建っているので、多分ほとんど面影はないでしょうね。

ルォンファンはテーラーですが、どちらかと言うと帽子と布製インシグニアで知られたお店です。特に手刺繍パッチが有名でして、ベトナム軍だけでなくアメリカ軍からも注文を受けて、いわゆる「ローカルメイド」と呼ばれる非公式な徽章類を作っていました。

以下はルォンファンの製品見本を撮影した貴重な写真です。デニス・キム氏、ボブ・チャット氏らが公開したもので、1971年制定のレンジャー部隊ラオス遠征章が写っている事から撮影時期は1971年以降と思われますが、中には60年代初頭に廃止された古い物も混ざっています。




街のテーラー

こちらは場所や店名は不明ですが、当時軍人たちがよく使っていた街のテーラー(あるいはお直し屋)の典型的な例です。


当時ベトナム軍では支給された軍服を自分の体形に合わせて細身にしたり、上着の袖を七分袖・半袖化したり、ズボンを脛まで裾上げしたりといった改造が当たり前に行われており、基地や駐屯地の周りにはこうした町テーラーが無数にあったようです。
今日私のようなマニアが、40年以上前に消滅したベトナム共和国軍の軍装を取り憑かれたように調べているのは、過酷な戦場でも見栄えにこだわる軍人ならではのお洒落根性と、彼ら町テーラーの存在があってこその事だと思います。


国防省需品局 (Cục Quân Nhu)

最後に、上の町工場とは比べ物にならない膨大な数の軍服を正規に生産していたベトナム国防省需品局の軍服工場の映像をいくつかご紹介します。

米軍が制作した、キャンプ・イェンディ内の『軍装生産センター(TTSXQT)』における軍服生産を紹介する映像

ちなみにこのキャンプ・イェンディにはNKTとMACV-SOGが共同運営するNKT訓練センターも設置されており、米軍からはキャンプ・ロンタンと呼ばれていました。


第121需品中隊が運営する別の軍服工場 (1970年)

   


国防省需品局および需品中隊の部隊章の例(第131需品中隊)


ベトナム共和国軍の軍服と言うとTTSXQTのスタンプがよく知られていますが、これらの映像から、実はTTSXQTは軍服を生産する工場ではなかった事が分かってきました。
映像にあるように、実際の縫製工場は各地に複数存在しており、またそれらの工場は国防省需品局所属の各需品中隊が運営し、民間人工員を雇用する形で生産を行っていた模様です。
私が思うに、TTSXQTとは軍服の規格を管理する需品局内の部署であり、動画のナレーションにあるように、各需品中隊が正規に生産した軍服は最後に検品され、合格したものにTTSXQTスタンプが押されるようです。

※2018年10月27日訂正
TTSXQTはキャンプ・イェンディ内に実在する工場でした。ただし軍服の生産自体はTTSXQT以外の工場でも行われていた模様です。

TTSXQTスタンプの例

完成した軍服にTTSXQTと思しき検印が押される瞬間


またキャンプ・イェンディの動画はアメリカが供給した生地が軍服になるまでを紹介したものであり、さらに下の写真(第121需品中隊)にも、アメリカからの援助物資である事を示すUSAIDの印刷が生地が入った段ボール箱が写っています。


ベトナム軍ではイガーストライプやERDL(リーフ)系迷彩服の生地をアメリカからの援助(中でもタイガーは沖縄・日本本土・韓国製が主)に頼っていた事は広く知られていますが、カーキ作戦服の生地もアメリカ軍から来ていたんですね。
考えてみれば、一般部隊向けのカーキ作戦服の方が、迷彩服とは比べ物にならないくらい遥かに大量に必要だったでしょうから、別に不思議な事ではないですね。
そうなるとこのカーキ生地の生産国も気になりますが、迷彩ならまだしもただの緑色の布なので、どうやって調べたらいいのか見当もつきません。


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2018年10月16日

儀仗・首都警備部隊

 先日、サイゴン市内の独立宮殿や政府関連施設の警備を行っていたベトナム共和国軍の儀仗兵の部隊章について、海外のコレクター・研究者の方々と意見や資料を提示し合い、有意義な議論が出来ました。議論を重ねる中での考察の途中経過は、SESSIIONにてプレッジ購入者限定で公開しています。

SESSIIONアクティビティ

これらの議論を経て、ある程度全体像が見えてきたので、以下にまとめます。


儀仗・首都警備部隊の成り立ち

ベトナム国時代(1948-1955)、ベトナム国長(阮朝皇帝)バオダイおよびフランス要人への儀仗はベトナム国軍の近衛部隊が担っていた。

1955年10月、国民投票によりバオダイが追放され、ゴ・ディン・ジエム首相がベトナム共和国初代総統に就任。サイゴンのノロドン宮殿に総統府(Phủ Tổng Thống)が置かれる。また南ベトナムをフランスから独立させたジエム総統の功績を称え、ノロドン宮殿は独立宮殿(Dinh Độc Lập)」と呼ばれるようになる。

共和制への移行から2か月後の1955年12月31日、ベトナム国防省はダラット駐屯の第22近衛大隊を改編し、サイゴンにて総統府防備部隊(Lực Lượng Phòng Vệ Phủ Tổng Thống, 以下PVPTT)を発足させる。

1960年1月1日、PVPTTの部隊名が総統府防備群(Liên Đoàn PVPTT)に改称される。この時点ではPVPTTは国防省直属の部隊であり、本部はサイゴン1区の総統府(独立宮殿)に隣接していた。

1961年6月1日、ベトナム共和国軍はサイゴン市およびジアディン省にまたがる首都圏を首都特区(Biệt Khu Thủ Đô, 以下BKTĐ)に制定し、政府重要施設(総統府除く)警備する首都特区部隊(Lực Lượng BKTĐ)が創設される。部隊は第306、307、308、309、310中隊の計5個中隊で構成され、それぞれ国防省本庁舎、首相官邸、参謀本部、そしてサイゴン・ラジオおよびテレビ局の警備を担った。

1962年5月25日、PVPTTは総統府防備兵団旅団(Lữ Đoàn Liên Binh PVPTT)へと発展・改称される。

1963年11月1日に発生したクーデターでPVPTTは革命軍と交戦。翌11月2日、PVPTTは解散され、BKTĐ総統府の警備も担う事となる。

1965年7月26日、BKTĐ内の5個の警備中隊(306、307、308、309、310中隊)がBKTĐから独立し、儀仗群(Liên Đoàn An Ninh Danh Dự)として再編される。このうち第306中隊が総統府および総統や国賓の警護・儀仗の任に当てられ、同部隊の通称として、63年に解散したPVPTTの名称が復活する。

1969年~1971年の間に、儀仗群は首都保安群(Liên Đoàn An Ninh Thủ Đô)へと改称される。


儀仗・首都警備部隊の制服および部隊章

【近衛大隊: 1948-1955年】

フランスから返還された大南皇帝の金印とサーベルをバオダイ(保大帝)に捧げる近衛兵 [1952年 ダラット]

  
1. 近衛兵外出服  2. 近衛兵袖章  3. 近衛大隊部隊章およびベレー章


【総統府防備隊(PVPTT): 1955-1963年】

ジエム総統への儀仗を行いPVPTT隊員 [1962年11月18日 サイゴン]

  
1. PVPTT隊員  2.PVPTT部隊章兼ベレー章  3.PVPTT肩章(将校用) 
ベレー色は赤だったとする説もあるが、カラー写真は未確認。袖につける部隊章は存在しない模様。

1963年11月革命で革命軍の襲撃を受け損壊したPVPTT本部 [1963年1月11サイゴン]


【首都特区(BKTĐ)警備中隊: 1961-1965年】

63年11月革命から1年を祝う国慶日パレードで政府首脳に栄誉礼を行うBKTĐ警備中隊らしき部隊[1964年11月1日 サイゴン]
BKTĐ警備中隊と思われる画像はまだ不鮮明なものしか見付けられていません。

BKTĐ部隊章
なお警備中隊が独立した後も、BKTĐのその他の部隊はサイゴン市内の政府関連施設の警備や、式典の際の祝砲などの任務を継続していく。


【儀仗群/首都保安群: 1965-1975年】

政府施設を警備する儀仗群/首都保安群隊員

儀仗群/首都保安群部隊章  

1969年版の軍装規定集Huấn Lệnh Điều Hành Căn Bảnに掲載されている儀仗群(LĐANDD)の軍装
左から堵列準礼服、堵列大礼服、栄誉礼大礼服、栄誉礼準礼服

   
1. 栄誉礼準礼服  2. 勤務服  3. 作戦服
儀仗群/首都保安群の勤務時の軍装は、警備対象によっては略式となる。
ベレー章は陸軍一般兵科と同一だが、ベレーの色は階級に関わらず黒で統一されている。


第306中隊 (新PVPTT): 1965-1975年】

総統府庁舎でグエン・カオ・キ副総統とリンドン・ジョンソン米大統領への栄誉礼を行う第306中隊/PVPTT [1970年1月1日 サイゴン]

 
第306中隊: PVPTT(新)部隊章
部隊章以外の軍装は親部隊である儀仗群/首都保安群と同一。

筆者は使用例を未確認であるものの、PVPTTの部隊章は1974年にこのデザインに変更されたとする説もある。



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2018年10月03日

マイクフォースのベレー

10年前に失くしたと思っていたMASHシルバータイガーのベレーを先日、実家の両親の寝室で見つけました。
なんで10年間も誰も気付かなかったの

 

レプリカとは言え、今では手に入らない物ですから見つかって良かったです。


ちなみにこちらは、MASHベレーが行方不明になってから5年後くらいに買ったメーカー不明のベレー。


タイガーベレーと言えばマイクフォース(MSF)という事で、このベレーには第II, 第IV軍団および第5MSFで使用が確認できる『柳葉刀と稲妻』のパッチをベレー章として付けています。

ところで、マイクフォースのベレーを立てる向きには
左上がり(イギリス・アメリカ式)と
 

右上がり(フランス・ベトナム式)
の両方が見られます。

ベレーの向きとは部隊の伝統を示す重要なアイコンであるはずなのに、なぜ同じマイクフォース内で違いがあるのでしょうか?
私はまだその理由について明確に記された資料を見つけられていないので、現段階では当時の写真から推測をしてみます。

まず、これらのベレーの向きは概ね部隊単位で決まっており、個人個人が好きに買ったものではないという事です。

左上がり:第5MSF(ニャチャン・マイクフォース)第6中隊
第5MSFでは他の中隊でも確認できるのは左上がりのみでした。


右上がり:第IV軍団MSFエアボート中隊 
※中心にいる左上がりベレーの白人はアメリカもしくはオーストラリア兵なので自国の左上がり式を使っています。


ただし、稀に左右が混在している場合もあります。

第II軍団MSF
※ただし、他の写真では第II軍団MSFは左上がりの例が多いので、基本は左上がりだったと思われます。

以上から、マイクフォースにおけるベレーの向きは多くの場合、左上がりで統一されていたが、一部の部隊では右上がりを採用していた、という事が分かります。

次に、左上がりが多い理由についてです。
これは、マイクフォースを含むCIDG部隊は長年アメリカ軍グリーンベレーによって組織・指揮された部隊であり、グリーンベレーへのリスペクトから米軍と同じ左上がりを採用したと見てまず間違いないと思われます。
なぜなら、本来マイクフォースのベレーは後述する右上がりの方が自然なはずで、むしろ左上がりは不自然な事であり、グリーンベレーの影響以外に説明がつきません。

マイクフォースでは米軍グリーンベレーを模した左上がりの濃緑色ベレーの着用例も見られます。(第5MSF第6中隊)


では、右上がりは何なのかと言いますと、これはズバリ、ベトナム共和国軍の正式なベレーの向きです。
マイクフォースを含むCIDGは米軍およびオーストラリア軍が中心となって組織した部隊ですが、その正式な所属はあくまでベトナム陸軍特殊部隊(LLĐB)です。マイクフォースとはベトナム共和国軍の各軍団本部直属(第5MSFのみ全国即応)の軽歩兵部隊であり、決してアメリカ軍ではありません。そもそも外国人が米軍人にはなれませんし、マイクフォースを指揮するグリーンベレー隊員も、あくまでベトナム軍特殊部隊付きの軍事顧問という立場でした。
なのでマイクフォースが所属するLLĐBのベレーは、米軍とは反対の右上がりの濃緑色ベレーであり、本来はマイクフォースでもベレーの向きはベトナム軍と同じ右上がりになるのが自然です。
実際に、タイガーベレーでは左上がりを使っている部隊であっても、LLĐBである事を表すウール製の濃緑色ベレーの場合は右上がりを使っている例が多く見られます。

第II軍団MSF

第5MSF

第IIもしくは第IV軍団MSF


以上がマイクフォースのベレーの向きに関する僕の解釈です。
ベレーの向きという一見些細な部分からも、正式な所属はベトナム軍だけど、心情的にはアメリカ軍が好きという、CIDGの微妙な立場がにじみ出ていますね。
なおコスプレ的には、タイガーベレーは左上がり、ウール製は右上がりにしておくのが一番使い勝手が良いかなと思っています。


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2018年09月28日

ベトナム戦争観


古森義久「池上彰氏のベトナム戦争論の欠陥」 Yahooニュース/Japan In-depth

 この記事にある池上彰氏に対する批判は至極真っ当かつ、日本ではなかなか取り上げられなかった貴重な意見だと思います。私自身は一応リベラル派なつもりなので、この記事の掲載元である保守系ニュースサイトや著者 古森氏の出身である産経新聞は大嫌いなのですが、それでもこの記事の内容には同意します。また、この記事がYahooニュースという大手メディアに取り上げられた事は私にとっても嬉しい事です。日本人でも、実際に当時ベトナムで取材した人は、本当の事を分かっているんですね。この人も、私と同じ気持ちを40年以上持っていたのだと思います。ジャーナリストの意見にしては、批判の仕方がやけに感情的ですし。
 なお、この記事は池上氏個人の記事に対する批判という形ですが、この池上氏の見解は世の中にはびこるベトナム戦争への誤った認識の典型例に過ぎず、これは池上氏一人がおかしいのではなく、彼が育った日本の言論界全体が長年に渡って空想の世界に浸っていた結果だと私は思います。
 日本を含む先進国の人々の多く(右派・左派ともに)が持つベトナム戦争への歪んだ色眼鏡、つまりアメリカへの劣等感と、「アメリカに立ち向かう解放勢力」への空想じみた憧れを捨てて事実だけを見つめれば、この記事に書いてある事は、あの戦争に対するごく当たり前の認識だと分かるはずです。
 しかし情けない事に、「坑仏」や「坑米」という意図的に単純化された分かりやすくヒロイックなストーリーは、実に多くの人々の思考を停止させる事に成功しています。アメリカへの劣等感(ある意味でアメリカ中心主義)の中に生きる人々は50年以上、ベトナムという国を己の対米感情を肯定するための道具として利用し、歪んだ色眼鏡越しに見る気持ちの良い空想にしがみつき、事実をないがしろにしてきました。
 彼らは幸運にも手にする事の出来た言論と良心の自由をアメリカへの批判に傾ける一方で、ベトナム国民からその自由を奪ったホー・チ・ミンを初めとするベトナム共産党に対しては英雄視を続けてきました。彼らは、自分たちさえ自由なら、ベトナムや他の国の国民の自由などどうでも良かったのです。
 世の中には多くの知識人がいる事になっていますが、その多くはアカデミックなふりをしていても、結局は感情論を優先していると私は感じています。最初から感情的な結論は決まっていて、それに合わせて都合のいい情報を集め、研究したつもりになってしまう。これは大なり小なり全ての人間に当てはまる事ですが、しかしあれほど世間で評価されている池上氏のような人でもこのレベルなのは悲しいです。
 また、それだけに留まらず、なぜあれほど多くのベトナム人がフランス連合やサイゴン政府側についたのかについては、そもそもその存在を無視したり、または彼らを単に拝金主義で大国の帝国主義に迎合した日和見主義者と卑下する事により、「解放」という気持ちの良いストーリーの整合性を保とうとしている事が、私には我慢なりません。


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2018年09月23日

50年代のベトナム海兵隊

空挺の成り立ちやったんだから次は海兵だろうという事で、最近はベトナム海兵隊(TQLC)の発展についてまとめていたのですが、これがやってみるとなかなか難航しています。
というのも、海兵隊の黎明期、つまり1950年代後半に関する情報がやけに錯綜しているのです。
私は海兵隊ベテランが書いた記事や、1973年にサイゴンのアメリカ大使館が作成した報告書も翻訳しましたが、それらには海兵隊組織の発展のプロセスや、部隊が改変されたタイミング、特に後の海兵大隊の前身である「第1上陸大隊」の成り立ちについてはいくつも矛盾がありました。
なので以下の図は暫定版であり、今後改定していくつもりです。


こうした矛盾を解決するには、さらに資料を収集して地道に読み解いていくしかないので、まだまだ時間がかかりそうです。
なので、この謎多き50年代の海兵隊については、サクッと写真貼るだけにしておきます。


海兵隊の前身となったCEFEO(極東フランス遠征軍団) コマンド部隊

北ベトナム・コマンド (Commandos Nord Viet-Nam) および
南ベトナム・コマンド (Commandos Sud Viet-Nam)
▲パレードに参加する北ベトナム・コマンド コマンド13 (第13コマンド中隊)
 
海軍コマンド (Commandos marine)
勲章を受けるフランス海軍コマンドのベトナム兵 [1952年]

ベトナム海兵隊発足

第1海軍歩兵大隊 (1er Bataillon de l’Infanterie Marine / Ðệ I Tiểu Đoàn Bộ Binh Hải Quân)
 
▲フランス海軍より北ベトナム・コマンドの隊旗を受け継ぐ第1海軍歩兵大隊 [1954年]

第1海軍歩兵大隊兵士とアメリカ軍MAAGアドバイザー [1955年]

第1上陸大隊 (Tiểu Đoàn 1 Đổ Bộ)
▲領有を巡り中国と対立するホンサ諸島を占領した第1上陸大隊 [1957年]

▲アメリカ留学に発つ第1上陸大隊幹部 [1957年]
この時点では海兵隊は海軍に属していたので、野戦服と勤務服は陸軍式だが、外出服と大礼服は海軍式。

▲ザーコップ(タイガーストライプ)迷彩服を採用した第1上陸大隊幹部 [1950年代末]



おまけ

最近、運転中に聞く歌はHysteric Blueがお気に入り。



あとLOVE YOU ONLY。このあいだ友達と一緒にカラオケで歌ったら超気持ち良かった。




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2018年08月30日

サマーキャンプ

日本在住ベトナム人協会サマーキャンプ2018

 先日、日本在住ベトナム人協会主催のサマーキャンプに参加してきました。今年のキャンプにはテレサ・チャン・キウ・ゴック氏とナンシー・ハン・ヴィ・グエン氏が特別ゲストとして参加し、日本に住む大勢の若いベトナム人たちと議論会をおこないました。一番槍の姉妹ブログ[ベトナムウゥッチ]に、その討論の要約を日本語で記してあります。私はこのお二方とお話しする事が出来てとても光栄です。彼女たちが持つ祖国ベトナムと国民への愛情、思いやりは、必ずや善良な人々の心に届くものと信じています。

またキャンプではリクリエーションとして、口にくわえたスプーン同士でビー玉を渡してリレーし、かつ水鉄砲で紙の的を破くという、けっこう難易度の高い競争をしました。


実は私はナンシーさんと同じチームだったので、ずっとナンシーさんにビー玉を渡す役でした。まさかあんな有名人とこんなに顔面近付けて遊ぶことになるとはね。けっこう本気で照れちゃいました(笑) 下の写真のピンク色の服着ているのがナンシーさんで、黒いのが私。

 

バーベキューでは日本各地に住んでいる、初めてお会いする方々ともお話しする事ができて良かったです。


キャンプファイヤーでは皆で輪になって踊りました。


この時私は酒が入っていたので、ボビナム(ベトナム格闘技)やってる友達に酔拳で戦いを挑み、何度も投げ飛ばされたので服が泥だらけになりました。また来年も参加したいと思います。



ニュース:ヴェト・ルォン少将、在日米陸軍司令官に就任

 当ブログでは旧ベトナム共和国出身のベトナム系アメリカ軍人ヴェト・ルォン(ベトナム名 ルゥン・スァン・ヴェト)少将が2014年に、アメリカ陸軍第1騎兵師団副師団長に就任した事をお伝えしましたが、この度ルォン少将は在日米陸軍(USARJ)司令官に任命され、2018年8月28日に神奈川県のキャンプ座間米陸軍基地にて司令官交代式が執り行われました。ベトナム系初の米軍将官であるがルォン少将が、北朝鮮とも近い≪実戦的な≫在日米軍の陸軍司令官に任命されたニュースは、世界のベトナム移民系メディアで大きく取り上げられています。


動画: U.S. Army in Japan / Facebook


過去記事にも載せていますが、改めてルォン少将の経歴を記します。

ヴェト・ルォン氏は1965年、ベトナム共和国ビエンホア生まれ。
彼の父はベトナム共和国海兵隊(TQLC)第6海兵大隊『聖鳥』大隊本部所属のルン・スァン・デュウン少佐で、1972年の"クアンチの戦い"ではベトナム戦争で最大の対戦車戦闘を指揮し、多大な戦果を挙げた人物でした。

ン・スァン・デュウン ベトナム海兵隊少佐

デュウン少佐と子供達(左端がヴェト・ルォン)

しかし1975年、敗戦に伴いルン一家はサイゴンからの脱出を余儀なくされ、政治難民としてアメリカに移住します。この時、ヴェト・ルォンは9歳でした。
カリフォルニア州マウンテンビューで成長したルォン氏は、父の影響で軍人を志し、勉学に勤しみます。
そして南カリフォルニア大学(USC)で生物学の学士号を取得後、同大学院で軍事科学の修士号を取得。1987年、アメリカ陸軍歩兵中尉に任官しました。

【ルォン少将の軍歴】

第8歩兵連隊第1大隊/小銃小隊長・対戦車小隊長・副中隊長・大隊管理将校 〔コロラド州フォート・カーソン〕
第82空挺師団第325空挺歩兵連隊第2大隊/大隊S-3(作戦参謀)補佐・A中隊長 〔ノースカロライナ州フォート・ブラッグ〕
Theater Quick即応部隊/指揮官 〔ハイチ〕
JATC(統合即応訓練センター)/総監部員 〔ルイジアナ州フォート・ポーク〕
陸軍指揮幕僚大学/参謀教育受講 〔カンザス州レブンワース〕
SETAF (南欧タスクフォース)/SETAF G-3(作戦参謀)主任参謀 〔イタリア ヴェニツィア〕
第173空挺旅団第508空挺歩兵連隊第1大隊/副大隊長 〔コソボおよびボスニア・ヘルツェゴビナ〕
JTF North (北部統合タスクフォース)/計画参謀・国土安全保障省訓練開発部門主任 〔テキサス州フォート・ブリス〕
第82空挺師団第3旅団戦闘団第505空挺歩兵連隊第2大隊/大隊長 〔イラク〕
第101空挺師団第3旅団戦闘団第187歩兵連隊/連隊長 〔アフガニスタン〕
スタンフォード大学/国家安全保障研究員 〔カリフォルニア州スタンフォード〕
統合参謀本部J5(戦略計画・政策)パキスタン・アフガニスタン調整部/副部長 〔ワシントンDC〕
第1騎兵師団/副師団長 〔テキサス州フォート・フッド〕
在日米陸軍/司令官(現職) 〔日本キャンプ座間〕


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2018年08月28日

ベトナム語とフォネティックコード

 今回はベトナム共和国軍のフォネティックコードについてまとめましたが、ベトナム語の文字・単語は日本語はもちろん英語とも大きく異なる独特の仕組みで成り立っているので、フォネティックコードに触れる前にまず、ベトナム語の仕組みについて簡単に説明します。


ベトナム語の文字

 まず19世紀末以降、ベトナム語を表記する文字としてはクォックグー(ローマ字)が使われています。なので日常的にローマ字を使う我々日本人にとってベトナム語のアルファベット自体は見慣れた物なのですが、ベトナム語で使われるアルファベットは英語と同じではありません。英語比べた場合、ベトナム語のアルファベットには次のような違いがあります。
・F、J、W、Zは使用しない。
・英語では使用されないĂ、Â、Đ、Ê、Ô、Ơ、Ưというアルファベットがある。これらはアルファベット声調記号を追加したものではなく、独立した一つのアルファベットである。
つまり英語のアルファベットはA~Zの26個ですが、ベトナム語の場合は以下の29個のアルファベットで構成されています。
 


 この中のA、Ă、Â、E、Ê、I、O、Ô、Ơ、U、Ư、Y12個が母音です。これらの母音にはさらに、それぞれ第1声から第6声までの6つの声調があり、声調記号(第1声は声調記号無し)と組み合わされて以下の表ように表記されます。なお子音に声調は無く、声調記号も付きません。
 この声調は外国人がベトナム語を学習する上で一番ネックとなる部分で、私自身もまだまだ使いこなせていませんが、声調というシステム自体は日本語にも英語にも存在しています。例えば日本語の「はし」は、声調の違いによって「橋」と「箸」の二つに分かれます。しかし日本語の場合は声調が多くても2~3個であり、なおかつ漢字を使う事によって一目で意味の違いが分かるため、声調記号は使われていません。一方ベトナム語の場合は声調が6個もあり、漢字も廃止してしまったため、声調記号を付加する事によって同綴異義語になる事を防いでいます。


 以上がベトナム語で用いられる文字となります。続いて単語の構成ですが、これは基本的には日本語と似たような作りで、頭子音+母音+末子音となっています。大きな違いとしては母音に上記の声調記号が付く事ですが、これは一見複雑に見えて、実は非常に理にかなったシステムだったりします。
 同じくローマ字を使う英語の場合、英語には声調記号が無いので、発音の異なる同綴異義語は、単に文字を見ただけではその発音・意味を見分ける事は出来ません。例えば「desert」という単語は声調の違いによって「見捨てる」と「砂漠」という意味に分かれますが、声調記号が無いので前後の文脈からその意味を推測するしかありません。言うなれば日本語を漢字を使わずひらがなのみで書いているような状態です。
 一方ベトナム語は一部に同音異義語があるものの、声調記号があるため、例え知らない単語であっても文字を見ればその発音が完全に理解できます。元々クォックグーは、フランス人宣教師たちがベトナム語を研究し、自分たちの文字(ローマ字)をベトナム語の発音に当てはめる事によって考案されたものなので、実は外国人にとっても非常に分かり易い文字なのです。
 一方、クォックグー採用以前にベトナム語の表記に使用されていた漢字やチュノムは、高い水準の教育を施されたエリート層しか理解できず、庶民の識字率が上がらない原因になっていました。そこに登場したクォックグーは、フランスによるベトナム植民地化によって強制的に使用が広まった面がある一方で、同時に庶民の識字率向上に大きく貢献し、20世紀中盤にはベトナム人自身が漢字を捨てクォックグーをベトナム語の正式な文字として受け入れるようになりました。 

ベトナム語の単語の作り。私のベトナム語学習ノートから


ベトナム共和国軍のフォネティックコード

 ここからが本題。フォネティックコード(通話表)とは、主に無線交信の際に聞き間違いを防ぐため、各文字に設定された読み方の規則の事です。無線に関わりがない人でも、A:アルファー、B:ブラボーといった英語を基準にした欧文通話表/NATOフォネティックコードは聞き覚えがあると思います。実際、現在では多くの国が欧文通話表/NATOフォネティックコードを採用しており、国際的な無線通信の基本通話表となっています。しかし国際的なやり取りを目的としないドメスティックな通信の場合は、国ごと、言語ごとに様々なフォネティックコードが存在しており、現在でも用いられています。
 1975年まで存在したベトナム共和国軍も独自のフォネティックコードを運用しており、その一部はオスプレイのArmy of the Republic of Vietnam 1955–75, Gordon L. Rottmanにも掲載されていましたが、この本を含め、英語で書かれた文献のほとんどはベトナム語独自のアルファベット(Ă、Â、Đ、Ê、Ô、Ơ、Ư)や声調記号を省略して英語のアルファベットで書いてしまっているので、その発音を読み取ることは出来ませんでした。
 ところが先日、ベトナム共和国軍研究家のCharlie Brown氏がベトナム語で書かれたフォネティックコードに関する詳細な情報を公開した事で、ついにその発音を把握する事が出来ました。またベトナム軍のフォネティックコードは、NATOのように単にアルファベットにコードを付加するだけでなく、ベトナム語ならではの工夫が施されていた事も初めて知りました。以下がそのまとめになります。

[1971年までのフォネティックコード]

A (アー) Anh Dũng (アンズン / アンユン)
B (ベー) Bắc Bình (バックビン)
C (セー) Cải Cách (カイカック)
D (ゼー) Duy Tân (ズイタン / ユイタン)
Đ (デー) Đống Đa (ドンダ)
E (エー) E Dè (エーゼー / エーイェー)
F Foxtrot (フォックストロット)
G (ジェー) Gay Go (ゲイゴー)
H (ハーッ) Hồng Hà (ホンハー)
I (イー) Im Lặng (イムラン)
J Juliett (ジュリエット)
K (カー) Kinh Kỳ (キンキー)
L (エンロー) Lê Lai (レーライ)
M (エンモー) Mạnh Mẽ (マインメェ)
N (エンノー) Non Nước (ノンヌック)
O (オー) Oanh Liệt (オンリェット)
P (ペー) Phú Quốc (フークック)
Q (クー) Quang Trung (クアンチュウン)
R (エール) Rạch Giá (ゼックザー)
S (エシー) Sơn Tây (ソンタイ)
T (テー) Tư Tưởng (トゥートゥウン)
U (ウー) Ủng Hộ (ウンホオ)
V (ウェー) Vẻ Vang (ヴェヴァン)
W Whiskey (ウィスキー)
X (イシー) Xung Phong (スンフォン)
Y (イグレック) Yên Bái (インバイ)
Z Zulu (ズールー)

0 (ホン)
1 (モッ)
2 (ハーイ)
3 (バー)
4 (ボン)
5 (ナム)
6 (サウ)
7 (バイ)
8 (ターム)
9 (チン)

※括弧内のカタカナは便宜的にふったもので、実際のベトナム語の発音を日本語の50音で正確に表記する事はできない。
F, J, W, Zはベトナム語では使われないためベトナム語読みは存在しないが、軍ではNATOフォネティックアルファベットが充てられている。
Dは北部の発音では日本語の「ザ行」に近い音だが、南部の発音では「ヤ行」の発音をする。

 上記が1971年まで長年に渡って使用された基本的なフォネティックコードとなります。アルファベットは英語/NATOフォネティックコードと同じA~Zを基本としており、本来ベトナム語では使用されないF, J, W, Zも、NATOフォネティックコードを当てはめてる事で使用されています。一方、ベトナム語独自のアルファベット(Ă、Â、Đ、Ê、Ô、Ơ、Ư)はほとんどが省略されており、Đのみが採用されています。また声調記号は存在しませんでした。
 とことが、似たような単語が多く、正確に発音しないと会話にならないベトナム語の特性上、やはりベ無線通信にはベトナム語独自のアルファベットと声調記号が必要だったようで、これらは1971年初頭に新たに制定され、既存のフォネティックコードに追加される事となります。
 ただし、新たに追加されたアルファベット(Ă、Â、Ê、Ô、Ơ、Ư)は、これまでのアルファベットのように頭文字が同じ単語を新たに設定するのではなく、複数個の既存のアルファベットを組み合わす事で表現する方式となりました。これは、Ă、Â、Ê、Ô、Ơ、Ưが全て母音であるため、その母音を頭文字とする単語が少ない、また存在しなかったためだと思われます
 また5つの声調記号にはL、S、X、R、Vという既存のアルファベットが新たに割り当てられ、単語の最後に追加されます。L、S、X、R、Vは通常のベトナム語では末子音に使用されない文字であり、一目でそれが声調記号を示すものだと分かるようになっています。

[1971年に追加されたコード]

ベトナム語 アルファベット フォネティック・アルファベット における表記
Ă (アー) AW
 (アー) AA
Ê (エー) EE
Ô (オー) OO
Ơ (オー) OW
Ư (ウー) UW
ƯƠ (ウオ) UOW
声調
第2声 (フエン) L
第3声 (サック) S
第4声 (ホイ) X
第5声 (ンガー) R
第6声 (ナン) V

これによって、少々複雑ではあるものの、ベトナム語の単語のスペルを声調記号まで正確に伝達できるようになりました。以下、それぞれの単語をフォネティックコードに変換した例になります。
TUẤN TUAANS (トゥートゥウン・ウンホオ・アンユン・アンユン・ノンヌック・ソンタイ)
THỌ THOV (トゥートゥウン・ホンハー・オンリェット・ヴェヴァン)
PHƯỚC PHUOWCS (フークック・ホンハー・ウンホオ・オンリェット・ウィスキー・カイカック・ソンタイ)
PHƯỢNG PHUOWNGV (フークック・ホンハー・ウンホオ・オンリェット・ウィスキー・ノンヌック・ゲイゴー・ヴェヴァン)
BẮC BAWCS (バックビン・アンユン・ウィスキー・カイカックソンタイ)
VĨNH VINHR (ヴェヴァン・イムラン・ノンヌック・ホンハー・ゼックザー)

 一見、非常に複雑でまどろっこしい方式に見えますが、当時はこれ以外にスペルを音声で正確に伝達できる手段はなかったようです。ベトナムは単語だけでなく地名にも似たような名前が多いですから、作戦を円滑に進める共に友軍や民間人への誤射・誤爆を防ぐ上でも、単語を正確に伝達する事は軍にとって非常に重要な課題だったと思われます。

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2018年08月19日

あるベトナム残留日本人と家族の漂泊

 1945年(昭和20年)8月、日本政府は連合国のポツダム宣言を受託し、第二次世界大戦・大東亜戦争は日本の敗北によって終結しました。この時点で中国・満州・朝鮮・台湾そして東南アジア各地には日本陸海軍の軍人・軍属が約330万人、日本人民間人が約330万人、合わせて約660万人が進駐・居住していました。そして終戦後、日本政府・陸海軍にとって目下最大の課題は、この660万人という途方もない数の在外軍人・邦人を無事本土に帰国させる事となりました。この外地からの引き揚げはまるで民族大移動の様相を呈しており、現地では急激な治安の悪化、略奪、飢餓、家族の生き別れなどが大量に発生し、それは戦時中以上に壮絶なものだったたと伝え聞きます。
 その一方で、終戦に伴う帰国命令を受けた後も、ごく一部の日本軍将兵や民間人は日本への帰国を拒否して各地に留まり、個人的な意思で現地の紛争に参加していた事は割と知られた話だと思います。私がベトナム人協会への取材でいつもお世話になっている(宴会で僕が酔っぱらう度に家に泊めさせていただいている)サイゴン出身の女性Aさんは、この時ベトナムに残ってベトミン軍に参加した元日本陸軍兵士M氏の娘さんであり、M氏とAさんらご家族の辿った過去を詳しく伺う事が出来ました。ただし、Aさんが生まれたのはM氏が第一次インドシナ戦争終結後に南ベトナムに移住した後なので、Aさん自身はベトミン軍時代の父を直接は知りませんでした。ところがその後、関係資料を調べていたらベトミン軍時代のM氏の足跡が多少判明したので、Aさんから許可を頂いたうえでここに概要を記します。
 なおM氏は既に他界されていますが、娘さんやご親戚は現在も日本で生活されているので、個人名は控えさせていただきます。また、この記事はAさんの証言および、ある大学教授が日本に帰国した多数の元ベトナム残留者に聞き取りを行った報告書を出典としておりますが、M氏を始め、多数の人物の実名が載っておりますので、ここでの公表は差し控えさせていただきます。出典を確認されたい方はコメントにて、メールアドレスと共にその旨をお知らせください。個別にご連絡させて頂きます。


日本軍出奔とベトミン軍への参加

 Aさんの父M氏は第二次大戦中、日本陸軍第22師団第86歩兵連隊に所属する一兵卒であった。1945年8月、同連隊が中国広東省から南下し、ベトナム・ハティン省の省都ハティンに宿営している時に、M氏らは日本敗戦の知らせを受けた。この直後、同じ部隊の中から、日本軍を離れてベトミンに合流しようという声が上がり、M氏を含む10名が同意したという。そして終戦1ヶ月後の1945年9月のある晩、彼らは2ヶ月分の米と小銃弾2,000発を用意し、歩哨を「朝まで黙っていろ」と脅かして部隊から脱走した。

 ハティンの海岸に着いた彼らが満潮時刻を待って舟を出そうとしていたところ、日本兵脱走の知らせを受けたのか、ベトミン政府*が任命したハティン省知事レ・ズン(のちの国会議員)が通訳を連れて現れ、彼ら脱走日本兵に、ベトミン軍の軍事顧問役を依頼してきた。M氏らはその要請を受け入れ、ハティン省北部のドクトー県へ移動し、そこで現地の地主の屋敷に迎え入れられた。ドクトー県には同様に軍を抜けた元日本兵が30名ほどおり、その内M氏のいた村には25名が集まっていた。
 ドクトー県到着から間もなく、M氏らはベトミン軍側から、フランス軍のナペ基地を攻撃してほしいと要請を受けた。現地のベトミン軍兵士はまだ基本的な訓練さえ修了していないほとんど素人の集団であったため、この第1回のナペ攻撃(9月)は事実上、日本人12名だけで行われた。攻撃は夜間に行われ、彼らはフランス軍基地を一時占拠し、大量の武器弾薬と食糧を奪うことに成功したが、この戦闘でM氏を含む3名が負傷した。
 その後、ナペでは1946年初頭に日本人20名、ベトナム人300名の部隊による第2回夜襲が行われ、作戦は成功したが日本人兵士3名が戦死した。続いて行われた第3回の夜襲は失敗に終わり、さらに3名の日本人が戦死した。
 なお、第1回ナペ攻撃で負傷したM氏がいつ頃前線に復帰したかは分かっておらず、今確認できている資料では、M氏はその後「フエ以南で戦った」とあるのみである。

※1945年後半の時点では、インドシナに駐留していたフランス軍部隊はまだ微々たるものでフランスはベトナム全土を再統治できておらず、8月革命によって成立したハノイのベトミン政権がベトナム民主共和国を名乗っていた。しかしベトミン政権側の軍事力はさらに貧弱であったため、その後フランス軍が続々と到着するとフランスは支配地域を拡大。1946年中に全土がフランスの施政下に戻り、ベトミンは政権を追われゲリラ組織としてフランスへの武力闘争を続けた。


ハティン省ドクトー県の位置
(区画は当時と異なる可能性あり)


帰国に失敗し南ベトナムへ移住

 その後、第一次インドシナ戦争が激化する中で、M氏は帰国を諦め、現地のベトナム人女性と結婚。娘(Aさんの姉)を授かった。その頃にはM氏はベトミンの軍務から離れており、ハティン省で一般人として生活していた。
 ところが1954年、第一次インドシナ戦争が終結した事で、M氏は日本に帰国するチャンスを得る。M氏は妻に、家族で日本に移住するので家を引き払うよう命じ、船を確保するため一人先行してハイフォンの港に向かった。しかしハイフォンに着くと、日本行きの船は既に出航した後だった。その後すぐに妻と娘たちもハイフォンに到着したが、すでに家は引き払った後であり、帰る場所は無かった。
 その時ちょうど、ベトナム北部にベトミン(ホーチミン独裁)政権が成立した事にともない北緯17度線以南(南ベトナム)に脱出する人々*を運ぶ船に空きがあったため、M氏一家は南ベトナムで出直す事に決め、サイゴンに移住した。

※ジュネーヴ協定により北ベトナムが成立した事で、ホーチミンの共産主義政権による迫害を恐れて約100万人のベトナム国民が1954年から1955年にかけて北ベトナム領から南に脱出した。ベトミンに故郷を奪われた人々のホーチミンおよび共産主義者への憎しみは激しく、後のベトナム戦争では、この時南に移住した北部人勢力が率先して北のホーチミン政権打倒を主張した。


フランス・アメリカ海軍によるベトナム国民の北ベトナム脱出・移送作戦『自由への道(Passage to Freedom)』

サイゴン郊外に設置された北ベトナム難民キャンプ [1954年]


サイゴンの日本人コミュニティ

 南ベトナムに移住したM氏一家はその後の20年間、サイゴンで比較的穏やかな生活を送った。1960年代に入ると南ベトナム国内の共産ゲリラ(解放民族戦線)によるテロ活動や北ベトナム軍の南侵によってベトナム戦争が激化したが、幸いにも一家は戦闘に巻き込まれる事なく終戦を迎えたという。Aさんはこのサイゴン移住後に生まれた末っ子だった。
 またサイゴンにはM氏と同様に、かつてベトミン軍に参加していた元日本軍人や、戦前からサイゴンに住んでいる日本人商人・技術者が少数ではあるが居住していた。彼ら南ベトナム在住日本人は互助会『寿会』を結成しており、M氏もこれに参加した。第一次インドシナ戦争終結後、アメリカの支援を得て経済発展を続けていた南ベトナムには西側諸国の企業が進出を始めており、日本も例にもれず南ベトナムにおいて事業を展開していた。寿会のメンバーは、こうした日系企業の現地社員・通訳・コンサルタントなどを務める者が多く、M氏も日系の製糖会社に勤務した。
 また寿会は、明治時代に単身ベトナムに渡り、以後半世紀以上に渡ってフランスや日本軍による妨害に遭いながらもベトナム民族解放と独立を援助し続けた日本人実業家 松下光廣(1896-1982)がサイゴンで経営する『大南公司』と深い関係を持っていた。南ベトナム政府と日本政府は松下の仲介で第二次大戦中の賠償に関する交渉を行い、日本政府は賠償金としてベトナム最大の水力発電所ダニム・ダム建設の費用を提供した。M氏は日系の建設会社に転身し、松下と共にこのダニム・ダム建設事業に従事した。これ以降、M氏と松下は家族ぐるみの付き合いとなっていった。
 幼いころのAさんにとって、当時のM氏はいつも厳しい父親であった一方で、寿会の日本人たちと日本の歌謡曲を聞きながら酒を飲んでいる時だけは、M氏は涙を流して日本を懐かしんでいたという。

1964年に完成したダニム・ダム(ダニム水力発電所) [写真:日本工営]


 

ベトナム共産党政権による追放

 1975年4月30日、北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴンを制圧し、ベトナム戦争は共産主義勢力の勝利に終わった。こうしてベトナム全土がハノイのベトナム共産党政権の支配下に堕ちると、旧南ベトナム国民は大変な困窮に見舞われた。M氏一家も例外ではなく、すでに戦争末期には日系企業が撤退していたため、M氏は別の仕事を探すしかなかった。松下も大南公司の資産の全てを政府に没収され、明治以来幾度もの苦難を経験しては復活を果たしてきた大南公司は完全に解体された。
 さらにベトナム共産党政府は1978年に、全ての外国人を国外追放する事を決定した。かつてベトミン軍の一員として命がけでフランス軍と戦ったM氏も、外国人であるという理由で国外追放となった。一時は日本への帰国を目指していたM氏だったが、ベトナムに住んで既に30年以上が経過しており、国外追放はそこで築いた友人・仕事・財産の全てを失う事を意味していた。また妻や娘たちは日本語がほとんど分からず、日本での生活に順応できるかも心配された。
 こうしてM氏一家は、他の日本人・外国人住民らと共に国外に船で移送され、M氏は難民として30年ぶりに日本に帰国した。帰国後一家はM氏の生まれ故郷の町に移り住み、M氏は会社員として平穏な余生を送った。来日した当時14歳だったAさんも苦学の末日本語を習得し、現在は日本国内でベトナム語通訳の仕事をしている。
 なお、M氏も松下も既に他界されているが、互いの親族同士の交流は現在も続いているという。




筆者の見解

 私はM氏を含むベトミン軍に参加した元日本兵たちの足跡が日本国内のメディアやインターネットで紹介されるのを目にする度に残念な気持ちになります。なぜならば、それらの紹介の仕方、あるいは紹介する目的は初めから、何らかの思想・主張を肯定するための道具として都合の良い部分だけ切り取られ、いいように利用しようとしているものばかりだからです。
 具体的には、ある時は日本が東南アジア侵攻の大義名分に掲げた『アジア解放』が偽りのない崇高な精神だった事の証拠として。またある時は、欧米の帝国主義に立ち向かいベトナム『解放』を後押ししたものとして。日本国内では右派・左派双方が長年、彼らの戦いを美談として祀り上げ利用してきました。また現在のベトナム共産党政権も、気前よくODAをくれる日本政府におべっかを使うため、この話を『日越友好』を標榜する材料の一つとして利用しています。
 しかし私は「日本軍は戦後もベトナム独立のためにフランスと戦いました。ベトナム人はその恩を忘れません。」というような日本国内で流布されている認識は、最初から美談として利用するために日本人にとって都合の良い、気持ちの良い部分だけを寄せ集めた虚像だと考えています。以下がその理由です。

・日本政府はアジア解放を謳う一方で、インドシナに関してはドイツ・フランスとの関係を優先しており、日本軍は1941年の北部仏印進駐以来4年間、フランスと合同でベトナムを支配する側にいた。ベトナム独立勢力に対しても、彼らを支援するどころか、妨害・取り締まりを行っていた。(ただし、下記の明号作戦に動員する目的で、親日的な独立勢力への接触は松下の大南公司を通じて進駐直後から水面下で始まっていた)

・1945年の明号作戦は、戦局の悪化から連合国側に寝返る可能性のあるインドシナ総督府・フランス軍を排除する事を目的とした日本の利益の為の軍事行動であり、ベトナム独立を目的としたものではない。

・ほとんどのベトナム国民は明号作戦の後に日本が擁立したベトナム帝国政府を日本の傀儡政権と見なしていた。なので日本敗戦後に行われたベトナム帝国政府の解体とベトナム民主共和国の独立宣言=8月革命を真のベトナム独立と見做し沸き立った。

・終戦後も日本陸軍の組織および軍法は正式に存続しており、個人の意思で隊を離れる事は脱走、また武器弾薬被服装備を持ち出す事は横領にあたる。したがってベトミンに参加した彼らは国家の命令に従った『日本兵』ではなく、あくまで個人の思想によって行動した『元日本兵のゲリラ』である。

・そもそも第一次インドシナ戦争は、残留日本人が1945年にベトミンに参加した当初においては、ベトミンの敵はインドシナの再植民地化を目指すフランス軍であり、『ベトナム独立戦争』と呼んで差し支えない状況であった。しかしフランス側が譲歩し1948年にベトナム国の独立を承認してから(つまり戦争中期以降)は、ベトナム国政府はベトミン政権を拒否する民衆から一定の支持を得ており、フランス連合軍の人員の7割が現地のインドシナ諸国の兵士(そして全体の5割がベトナム国軍)となるに至る。こうして第一次インドシナ戦争は当初のフランスからの独立戦争という単純な構図から、次第にフランス連合に残留して段階的な独立を目指す穏健派のベトナム人(ベトナム国政府)と、フランスの影響力およびベトナム国政府に好意的な人間を徹底排除し共産主義政権樹立を目指す過激派ベトナム人(ベトミン)というベトナム人同士の内戦へと変化していった。

・残留日本人たちは、当初ベトミンが掲げていた純粋な民族解放という理想に共感しベトミンに参加していたが、ベトミンが中国共産党からの支援への依存度を増すにつれて組織全体が共産主義体制に変質し、同じベトミン内の戦友・支援者までもを反革命分子として粛清していくのを目の当たりにした事で違和感を増していった。しかし戦争遂行に深く関わり過ぎており、途中で組織を抜ける事は出来なかった。

・残留日本人の多くはベトナム独立の理想とベトナム人戦友たちへの愛情を変わらず持ち続けたが、同時に戦争中期から戦後の1950年代全般にかけてベトミン・ベトナム労働党が行った急激な国家改造・共産主義化(土地改良に始まる弾圧・大量虐殺)には批判的であり、複雑な心境を伺わせる証言を残している。

・フランスや日本軍による妨害に遭いながらも身の危険を顧みずベトナム民族の解放と独立を援助し続けた松下光廣は、ホー・チ・ミンとベトミンを民族解放の志士とは見ておらず、むしろベトミンの暴力革命を「共産分子のテロ」と強い言葉で非難している。


 まとめると、彼ら残留日本人の多くは、現地で独立を渇望するベトナムの民衆の想いを間近で感じ、同じ人間としての共感しており、こうした人情の上に敗戦のショックと敵の占領下の日本で生きる事への不安・抵抗が重なり、彼らは日本軍人としての身分を捨て、フランス軍との戦闘に身を投じました。
 しかし彼らが協力したベトミンは、そんな残留日本人たちの意志とは無関係に、その目標を『独立』から『共産主義革命』へと変えていきました。また敵であるフランス軍も、当初の再植民地化を目指す『白人帝国主義者』から、フランス連合の枠内での独立に甘んじようとも共産主義政権は阻止したい『フランス連合派ベトナム人』へと変わってしまいました。
 最終的に戦争はベトミン側の勝利に終わり、残留日本人たちは北ベトナムの独立に貢献した事になりましたが、それは同時にベトミンによる共産主義革命・大量虐殺などを許す事となり、残留日本人たちが目指していたベトナム民族の解放と平和とは程遠い結果を招いてしまったと私は見ています。
 多大な犠牲を払いながらこうした結果に終わり、彼らの心中は察するに余りあります。しかしだからこそ、「ベトナムは独立して人々は幸せに暮らしました、めでたしめでたし」で終わる訳にはいかないのです。私の意図は、彼ら残留日本人を共産主義革命の協力者として非難する事ではありませんし、まして「日本人がアジアを解放した」などと恥知らずな自慰行為に利用する事でもありません。
 人間の歴史、特に戦争に関する部分は、常に後世の人間によって何らかの意図をもって都合よく切り取られ、利用されがちですが、私はそれに抗いたいのです。この戦いに限らず、人間が理不尽に命を奪い奪われる最悪の惨事を、見たい部分だけ見て喜び、見たくない部分には目を背ける、そういった人間の生命・人生に対して不誠実な姿勢を私は軽蔑し、否定します。


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2018年08月07日

続・下向きシェブロン階級章

 前回の記事で、1948年にベトナム国の国軍として発足した南ベトナム衛兵隊(1948-1952)は、将校の階級章はフランス軍のデザインそのままである一方、兵・下士官の階級章に関してはフランス式とは似て非なる下向きシェブロンを採用しており、これが後のベトナム国軍(1952-1955)、そしてベトナム共和国軍(1955-1975)で用いられた下向きシェブロン階級章の原点だったのかも知れないと書きましたが、後日先輩研究者の方から興味深い資料を提供していただく事が出来ました。


上の3点はFrancois Millard氏から、ベトナム国軍階級章の実物画像として提供して頂いたものです。
当時の写真から確認出来る階級章にこれらも加味すると、1948~1955年の兵・下士官階級章は以下のようになっていたと推測されます。

※南ベトナム衛兵隊~ベトナム国軍時代の階級章の基本デザインは同一と仮定
※菱形章の中の徽章は部隊ごとに異なる
※階級章は略式の菱形と、正式な亀甲型があるが基本デザインは同じ

注目すべき点は二つありまして、まず一つ目は二色シェブロンの『黄色』の位置です。
なお後のベトナム共和国軍の階級章は、配色のパターンは受け継がれている物の、色自体は変更されており、色の名前で説明すると混乱するので、以下階級の低い側で使われる色(フランス式で言えば赤、共和国軍式で言えば黄色)をA色、高い側の色(フランス式:黄色、共和国軍式:白)をB色とします。

左がフランス軍、中央がベトナム国軍、右がベトナム共和国軍の一等(上級)伍長の階級章です。
いずれもシェブロンの配色は上からB-A-Aとなっています。これはつまり、南ベトナム衛兵隊以降下向きシェブロンは、単にフランス軍のものを上下反転させたのではなく、B-A-Aという配色を守ったままシェブロンの向きが下向きになった事を意味しています。そしてそのパターンは、色こそ変われど、ベトナム共和国軍に引き継がれていったことが分かります。
※なお現在のフランス陸軍には上級伍長の一つ上の階級として、B-B-Aという配色の一等上級伍長(Caporal-chef de première classe)という位がありますが、これは1999年に新設されたものであり、第一次インドシナ戦争期には存在しませんでした。


二つ目はさらに興味深いことに、フランス軍における軍曹の階級章はB色シェブロンが2本ですが南ベトナム衛兵隊以降は中士(軍曹に相当)の階級章はB色1本に変わっているのです。
正確には、フランス軍にもB色1本の階級章は存在しましたが、そちらは契約軍曹(sergent sous contrat)という徴兵対象者または予備役者に用いられるもので、部隊で勤務する現役軍曹(sergent de carrière)は2本となっていました。(なお現在は契約軍曹という階級は廃止され、B色1本の階級章は下士官候補生(Élève sous-officier)を示すものとなっています)
南ベトナム衛兵隊は、現場では勤務していないこの契約軍曹という階級は受け継がなかったものの、下位の軍曹という意味で、中士(現役軍曹)の階級章としてB色1本シェブロンを取り入れたのではないかと思われます。
一方、軍曹/中士の一つ上の上級軍曹/一等中士にはそのままB色シェブロン3本というデザインが引き継がれています。したがって南ベトナム衛兵隊以降はフランス軍において軍曹を示すB色2本のデザインは廃止され、1本の次は3本という不自然な増え方となっています。

これらを踏まえて、改めてフランス軍の階級章が南ベトナム衛兵隊、ベトナム国軍を経て最終的にベトナム共和国軍時代のデザインに至るまでの変遷をまとめると、次のようになっていたと考えられます。


僕はつい先日まで、ベトナム共和国軍の士官の階級章はフランス軍式から大きく変わっている事から、全ての階級章が1955年のベトナム共和国軍創設時にデザインし直されたものだと思っていました。しかし実際には、南ベトナム衛兵隊時代には上級軍曹/一等中士以下が下向きシェブロンに変更されており、そして1955年に曹長/上士以上が一気に刷新されるという段階的な変化を辿っていたようです。
なおベトナム共和国軍になった後も、1967年の軍の再編の際には上士および佐官の階級章には大きなデザイン変更が施されました。それも含めた階級章一覧は、現在作成中の軍装ガイドに掲載しますので気長にお待ちください。

いや~、こういう先行研究が皆無で断片的な情報を拾い集めていくしかないような分野でも、長年コツコツ情報集めをやっていれば、いつかこうやって点と点が線で繋がる瞬間がやってくるし、その時の感動と言ったら、たまんないね。


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2018年07月21日

軍装ガイド進捗

服以外の小物も出来る限りイラストにしております。



正直、風呂敷広げ過ぎたかも知れない・・・
つい「1946年からやる(=植民地軍も含める)」と口走ってしまったせいで、ベルティエ小銃なんて19世紀の骨董品を一から調べる羽目になっております。(これがまたバリエーションが多いんだ・・・)

こんなにこだわっても、タイトルが『ベトナム軍』である限りろくに売れないのは分かってます。
もしこれが『フランス外人部隊』とか『ナム戦アメリカ軍』だったら、この本の3分の1の内容で3倍は売れるでしょう。
でも、それは出来ません。


そもそも愛がなければ、こんな七面倒くさい事やってないですしね。
まだ個人装備の方には手を付けてないので、まだまだがんばるゾーイ!!



【おまけ】

アイドルに興味無かった僕が唯一好きになった台湾のアイドルグループ 伊梓帆(イー・ツー・ファン)を宣伝。


伊梓帆はもともと台湾プロ野球のチアリーダーからアイドルとして独立した3人組で、グループ名の由来は各メンバーの名前/ニックネームから。

末っ子:陳奕如陳伊(チェンイー)または伊伊(イーイー)
隊長:董梓甯/梓梓(ツーツー)またはChloe(クロエ)
副隊長:楊曉帆/小帆(シャオファン)またはFan(ファン)

僕は特に小帆ちゃんが好きです。
僕は4年前から彼女たちのFacebookをチェックしており、その間2回も台湾に行く機会があったのですが、向こうは芸能人なのでそうそうお目にかかれるものではないですね。ライブの日にちも合いませんでしたし。
逆に伊梓帆は時々日本にも来てるようなのですが、いつも写真集やVTR撮影で来るだけで、ライブやファンとの交流会はありません。
おそらく日本にファンがいるって事自体認識してないかも・・・。ここにいるぞー!!!
もともとチアだけあって今まではイベントでのダンス活動が中心だったけど、今年4月にはついに1stシングル『Boy,Why Boy』をリリースした事だし、いつかK-POPみたいに日本進出する日を待ってるよー


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2018年07月18日

漢字にすれば、いいのです

過去記事『ベトナム語を読む』で少しだけ触れましたが、ベトナムと日本は古代から中国文化に強い影響を受けており、今でこそベトナム語は漢字を廃止してクォックグー(ローマ字)に完全移行したものの、20世紀中盤までは漢字(および漢字を基にしたチュノム)が広く使われていました。なので現在でもベトナム語の名詞の多くはクォックグーから漢字に逆変換でき、漢字に慣れ親しんだ私たち日本人であればその意味を容易に理解できるようになっています。(中国からの輸入語の場合、読み方も日本語漢字の音読に似ている場合が多い)

こちらのサイトでクォックグー/漢字を双方向で変換できます。

特に兵法・軍事に関しては両国とも中国から輸入された概念や用語を広く取り入れているため、漢字表記すればその意味は非常に分かり易く、また共通している単語も多々あります。
ただし、それらの漢字・単語は、各国に取り入れられてから千~二千年と長い歳月が経っているため、それぞれの漢字が持つ細かい意味・ニュアンスは各国で若干変わっている場合もあります。


上記のように、分隊・旅団・師団・軍団などは両国とも全く同じ漢字・意味で使われていますが、日本語で言う小隊~連隊までは微妙に異なっており、クォックグーから漢字にしたものをそのまま日本語の意味で捉えると齟齬が生じます。(なお、本家中国ではまたさらに違う言い方に変化している)
また、日本語の班に相当するToánは算という漢字に変換できますが、これは同音異義語であり、軍事的な意味におけるToánの漢字表記はまだ把握できていません。(中国漢字にベトナム語の意味に該当する文字が無い場合はチュノムが使われるが、チュノムにも該当する文字がいまだ見つからない)

加えて、以下はベトナム語(旧ベトナム共和国軍)特有の部隊編成に関する用語になります。一部で日本語と共通している単語もありますが、多くは日本語的な感覚では正しく理解できないため意訳が必要となります。とは言え、漢字を見れば大体の意味は何となく分かるかと思います。(ただし一部に連隊=中隊未満など引っ掛けがありますが)



またベトナム共和国軍の『部隊名』に関しても、同様に日本語と共通する部分が多く、一部で意訳が必要な場合でも、漢字から意味を推測するのは容易です。



なお、ベトナム語には漢字表記すると『兵種』となる『Binh Chủng』という単語があり、上の表はそのBinh Chủngの一部なのですが、上であえて『兵科・兵種』ではなく『部隊名』と書いたのには理由があります。実はベトナム語(ベトナム共和国軍)におけるBinh Chủngは日本語(旧帝国陸軍・陸上自衛隊)における兵科・兵種・職種とはまた異なった概念なのです。
まず、日本語における兵科・兵種はその名の通り、その分野の専門技能を持った将兵の職種を意味しています。その為日本では陸軍のどの部署に属していようとも、歩兵や砲兵などの兵科毎に横のつながりがあり、それぞれの兵科が一種の派閥を作っています。
一方、ベトナム共和国軍はフランス植民地軍を前身としているため、その構成もフランス式となっています。もちろんフランス軍にも兵科に相当するものはありますが、同時に空挺部隊、海兵隊(旧植民地軍)、外人部隊等は同じフランス陸軍に属しながらもそれぞれ別の組織であるかのように独立性を持っています。兵科が横のつながりならば、こういった部隊毎の独立性は言わば縦のつながりであり、ベトナム語のBinh Chủngとはまさにこの部隊の縦割りを意味する言葉なのです。
もちろん各部隊の中にはそれぞれ歩兵や砲兵、工兵、通信など様々な兵科の将兵が所属していましたが、特に独自のベレー帽が制定されているようなエリート部隊は兵科毎のつながりよりも、伝統を持った部隊ごとの団結を重視しました*。したがって上の表にある歩兵**や空挺、遊撃隊(レンジャー)、海兵隊などは、兵科ではなく部隊名であり、私はBinh Chủngを『部隊』と意訳する事にしています。

* 日本やそれ以外でも空挺部隊や特殊部隊などのエリート部隊は同様に部隊ごとに独立性が強いですが、フランス軍やベトナム軍はそういった独立性のある部隊の割合が他国と比べて高いのが特徴と言えます
** 歩兵(Bộ Binh)という単語は兵科名(歩兵科)、部隊名(歩兵師団)以外にも、エリート部隊を除く陸軍全般を指す用語として用いられる場合もあります。例えば総参謀部が編纂した当時の軍装規定では、陸軍全般で広く使われたオリーブ色のベレー帽が歩兵(Bộ Binh)用として紹介されています。また当時の士官学校では陸海空軍いずれに進もうとも、士官候補生は全員陸軍の訓練センターで歩兵科士官課程(中隊指揮官レベル)を修了する必要があったので、ベトナム共和国軍の将校はパイロットも航海士も会計隊も全員が歩兵戦闘を心得た『歩兵の軍隊』だったと言えます。

Huấn Lệnh Điều Hành Căn Bản, ベトナム共和国軍総参謀部第5室編 (1969)


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2018年07月03日

ベトナム陸軍空挺部隊の部隊章

 過去記事『撮影会②空挺旅団 1963年サイゴン』の中で、ベトナム陸軍空挺部隊の3rdタイプ(白頭鷲のデザイン)の部隊章は、マニアの間で一般に空挺旅団が空挺師団に昇格した1965年12月31日、実質1966年以降に使用されたと言われているが、実際には旅団時代の1964年11月には現場で使われていた事をご紹介しました。

▲反政府デモを鎮圧する空挺旅団兵士[サイゴン, 1964年11月30日]


 更ににその後の記事『いろんなTAP47』では、ゴ・ディン・ジエム総統の閲兵を受ける空挺旅団の写真の中に、3rdタイプに似たパッチを身に着けた兵士が映っており、もしこれが本当に3rdタイプならその採用時期は遅くともジエム総統がクーデターで暗殺される1963年11月より前となると書きました。ただし、その時点では画像が不鮮明なため、あくまで可能性があるという表現に留めておきました。

ジエム総統の閲兵を受ける空挺旅団 [サイゴン]
※画像のキャプションには1962年3月撮影と記載されていましたが、そのまま鵜呑みには出来ません。


 ところが先日、僕と同じ疑問を持っていた海外の研究者の方とこのパッチについて話し合ったところ、決定的な情報を提供していただく事が出来ました。まず、不鮮明だった上の写真の高画質版が発見され、3rdタイプは1963年11月以前から使われていた事が確定しました。

(画像提供: Francois Millard氏)

 さらに別の方から提供された史料が驚きです。1951年に設立された民間で最も権威ある軍事徽章研究者グループThe Military Heraldry Societyが発行している会報の1963年4月版で、すでに3rdタイプが紹介されていたのです!

▲The Military Heraldry Society 1963年4月
(画像提供: Richard Woods氏)

 という事は、3rdタイプの採用は遅くとも1963年4月より前という事になります。さらに、インターネットの無い時代に民間のマニアが採用から即座にパッチの詳細を把握できたとは考え辛い事から、Millard氏は3rdタイプの実際の採用時期は1962年中だった可能性も大いにあると述べています。
 まさか、こんなに時代が遡るとは驚きです。だって3rdタイプの使用時期は一般には1966年以降と言われており、僕自身も確実に使用例が確認できるのは1964年以降という認識だったのですから。

つまり、改めてまとめると、ベトナム陸軍空挺部隊の部隊章は以下の変遷を辿りました。


 しかし、今も多くの元空挺部隊ベテランが存命であり、マニア・研究者の中でも人気の高い部隊なのに、なぜその部隊章の採用時期がここまであやふやだったのかと言いますと、まず当時軍が作成した徽章に関する命令書の多くは敗戦による混乱で失われており、一次史料による検証はまず困難となっています。
 次に今もご健在のベテランの多くは1960年代末以降に入隊した比較的若い世代であり、1960年代初頭に現役だった世代はもうほとんど他界しているため、当人たちによる証言が得られない点が挙げられます。(仮に生きていても、そんな事覚えている人はなかなかいないでしょうし)
 さらに、写真史料による採用時期特定を困難にしているのが、当時の空挺部隊における部隊章の位置づけです。上で「確実に使用例が確認できるのは1964年以降」と述べたように、実は空挺部隊が前線で部隊章を身に着けるようになったのは1964年末以降であり、逆に言うと1951年のベトナム陸軍空挺部隊創立から1964年までの13年間、作戦時に部隊章を縫い付けている例は全く見られません。
 その時代、空挺部隊が部隊章を身に着けるのは、儀仗、パレード、チノ勤務服などのフォーマルな軍装の場合に限られており、それらの写真が撮影される機会はそう多くは無いため、今まで多くのマニアが部隊章のデザインは1962~63年に変更されていた事に気付かなかったという訳です。現に、上のジエム総統の閲兵の写真も、部隊章を付けているのは儀仗隊であり、同時期の前線の写真を見ても、部隊章を身に着けている兵士は見られません。

▲ジエム政権に対するクーデター成功直後の空挺旅団兵士 [サイゴン, 1963年11月]



おまけ

これの準備は9割がた整ったので



次の目標はこれ



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2018年06月27日

週末の写真

今回は動画撮影がメインだったのでスチルは少なめです。





 



お昼ご飯は、当時前線での食事として一般的だったと聞く、乾燥米にヌックマムをかけたものと魚の干物というメニューを再現しました。
お米は市販の備蓄用アルファ米、魚はめざしをその場で焼いて食べました。






撮影会の最後にFANK第294大隊のコスプレもちょこっとやりました。
一緒にやるはずだった友人がこの日は病欠だったので、今回は僕一人だけです。



我ながら厳つい。
とても正規軍には見えないと言われました。
もっとカンボジア軍増やしたいな。

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2018年06月23日

撮影会の準備 その2

前記事『撮影会の準備』の続きです。

去年作ったつるつるM1ヘルメットを庭にぶん投げて土でウェザリング。

メンバーに貸し出しする個人装備を組む。M1小銃/擲弾手用。
ちなみに写真のM1923カートリッジベルトは米国ではなくタイ製の代用品です。USスタンプが無い点以外は50年代の米国製と何も変わりません。アーモクリップは10個も持っていないので、段ボールでアンコ作ってポーチに詰めてあります。
M1945フィールドパックにはポンチョ(自衛隊ので代用)と鍋(タイ製)、ビーチサンダル(ダイソー製品)でデコレーション。ついでにグレネードアダプターやらアーモクリップやら、持ってるもの全部付けちゃった。これじゃあちょっとやり過ぎだな。何個か外そう。

これも貸し出し用。M1918ブローニング自動小銃射手用。これもマガジンがなくてペチャンコだったので急遽段ボールでアンコを作成しました。
 
これは僕の分。分隊長なのでベルト一本とカービンで十分です。(普通の兵隊も同様にサスペンダー無しの場合が結構多い)
M36ピストルベルトは僕が中学生の頃に親戚のお兄さんからもらった物で、メーカー不明のレプリカです。


この時代の米軍式個人装備はハトメにフック通しづらかったり、生地が縮んでいてスナップボタンが閉じれなかったりで、すんなり組める事の方が少ないのが困った所。入れ辛くとも力技でやってしまいますが、これを一日に何度も繰り返したせいで右手親指が内出血したみたいに痛くなってしまいました。夜お風呂に入ったら、血流が良くなったせいでさらに指先が痛みだし、いまだにズキズキします。いや~ん。。。


そう言えば先日32歳の誕生日を迎えました。当日は早朝から深夜まで仕事でへろへろになった一日でしたが、その前々日が知人のベトナム人の誕生日だったので彼女の家で誕生日パーティーをし、その席で僕の誕生日も祝ってもらえました。またその翌日も懇意にして頂いている在日ベトナム人グループの友人たちと食事をご一緒した際、そこでも皆さんからお祝いの言葉を頂きました。
僕は親以外に誕生日を祝ってもらった経験がほとんど無いので、急に大勢の人からおめでとうと言われるとなんだか気恥ずかしく感じてしまいますが、皆さんには縁もゆかりもない外国人だった僕をこうして暖かく受け入れて頂き、本当にありがたく思っています。



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2018年06月21日

撮影会の準備

その1 ベトナム陸軍第7歩兵師団(1963年初頭)


自家製第7歩兵師団プリントパッチ取り付け

クラッシファイドさんのリプロはこれまでで最高の再現度なのですが、ただ一点、ボタンの表面はもうちょっと艶があった方が良いと思ったので、一旦ボタンをすべて外してピカールで磨きました。

左が研磨前、右が研磨後。あまり艶を出し過ぎても変になるので、難しい所です。

今回はM1グレネードアダプターを初投入。左側の2本がMk2手榴弾用のM1アダプター、右がM26用のM1A1アダプター。できれば種類を揃えたかったけど、M1A1は1本しか手に入りませんでした。
グレネード本体は僕が高校生の頃に買ったサンプロ製BBボトルに実物セーフティピン/プルリングを付けた物。ベトナム軍で使われた米国製手榴弾には、米軍のような黄色のマーキングが入っていない物も多く見受けられるので、レバーをOD色に塗っただけで、あえてマーキングは施していません。

このスタイルが目標。でも銃側に付けるM7グレネードランチャーはまだ入手できていません。



その2 クメール陸軍第23旅団第294大隊(1970年代前半)

『はじめてのFANK』で作った自家製第294大隊パッチを、知人から買った怪しげなTCU風ジャケットに縫い付け。

後身頃が二枚になっています。なんじゃこりゃ?

メーカータグが付いていたので検索してみたら、FAME (Fabricaciones Militares Ecuatorianas)とはエクアドル軍需産業という意味でした。てことはエクアドル軍の服なのかな。
第294大隊は『ドクロのヘルメット鉢巻き』という個性的なビジュアルのみで選んだイロモノな設定なので、手元にあったこのエクアドルTCUをとりあえず代用品として使ってしまいます。
この次はちゃんとクメール陸軍で一般的だった隠しボタン2ポケ戦闘服を再現して、もっと普通のビジュアルの部隊をやりたいと思います。



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2018年06月08日

ベトナム空軍神風部隊~トートン~浮世絵

 ベトナム空軍では、他の西側諸国と同様に、航空機の機首にノーズアートが描かれている例がいくつかありましたが、中でも特によく知られているのが、グエン・カオ・キ中将(後の副総統)の直接指揮下にあった第83特殊作戦航空団『※神風部隊(Biệt Đoàn Thần Phong)』のものだと思います。この神風部隊では少なくとも以下の二種類の特徴的なノーズアートがA-1スカイレイダー攻撃機の機首右側面に描かれていました。



※日本の神風特攻隊とは関係ありません。
※なお、この神風部隊は特殊作戦を専門とする『空の特殊部隊』であったからか、本来国籍マークが入るはずの機体胴体側面には部隊のシンボルマークがペインいる点が他の部隊の機体ペイントとは大きく異なります。

 この二つの漢字のような梵字のようなよく分からない図形の正体については、僕自身長年把握できておらず、たぶんチュノム(ベトナム語表記にローマ字=クォックグーが採用される以前に使われていた漢字を基にした表語文字)の一種なのかな、くらいに考えていました。ところがある日、さるベトナム空軍研究家にこのノーズアートについて話を振ったところ、即座に正解を教えて頂く事が出来ました。
 なんでもこの図形はチュノムや特定の言語の文字ではなく、ベトナムの伝統的なカードゲーム『トートン(Tổ tôm)』に描かれた、漢字を基にした記号なのだそうです。
 トートンは中国発祥のカードゲーム(紙牌)である『ハンフー(看虎)』から派生したもので、麻雀やトランプのようにいくつかのスート(柄)と数字の組み合わせでデッキが構成されていました。
 スートと数字は文字(漢字)と漢数字を組み合わせた記号で表されており、スートの文字が漢字の部首の偏のように左側に、漢数字が旁(つくり)のように右側に配置され、その記号自体が一つの漢字のようにデザインされていました。(チュノムも同様に二つの漢字を組み合わせて一つの文字としていましたが、トートンに用いられたのはチュノムではなく、単なる記号です。)
 左側のスートは、現在のトートンでは専ら文(Văn)、索(Sách)、萬(Vạn)の3つが用いられていますが、過去には升(Xừng)や[※1]湯(Thang)といった文字も使われていたようです。このうち索と萬は、もっと後の時代に考案された麻雀(索子と萬子)に受け継がれていますね。 [※2]右側の数字は1~10まであり、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と漢数字で表記されています。(十は謎の異字体が使われていますが) 

[2018年6月13日訂正]
※1 Thang (湯)は現在でも使われていました。
※2 右側に入る数字は正しくは1~9であり、一、二、三、四、五、六、七、八、九と漢数字で表記されています。下のカード一覧の一番右側にある3枚はそれぞれのスートの十ではなく、それぞれÔng Cụ (萬の行)、Chi Chi (文の行)、Thang Thang (策の行)という役を作るのに使う特殊なカードであり、これに各スートの一(萬の一、策の一、文の一)を含めたカード6種のカードが『Yêu』と呼ばれ、麻雀で言うドラのような役割を持っているそうです。

▲現在出回っている一般的なトートンのカード

そしてこの中で、神風部隊にノーズアートとして描かれたのは、升の九(Cửu Xừng)』と索の九(Cửu Sách)になります。


※なおRobert C Mikesh著『Flying Dragons: The South Vietnamese Air Force』には、神風部隊では上記の二つに加えて『萬の九』、『文の九』もマーキングされていたと記述されているそうですが、当時の写真を探してもその実例を確認する事はできませんでした。

 実はこれらを調べる過程で、頭を悩ませたのが、Cửu Xừng』についてでした。先述したように、現在のトートンで用いられているスートは文・索・萬の三つであり、インターネットで調べても、このカードに関する情報はなかなか見つかりませんでした。しかもかなり文字を崩したデザインなので、元の漢字が何だったかも全く分かりませんでした。
 さらに僕を混乱させたのが、この漢字のクォックグー表記は『Sừng』だというベトナム人からの情報でした。結果から言うと、これは間違いであり、ほぼ同じ発音をする『Xừng』の書き間違いでした。僕はさっそくSừngの漢字・チュノム表記を調べましたが、その表記は漢字では『角』、チュノムでは『䈊』、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162049参照)』、、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162050参照)』であり、カードに描かれた文字とは似ても似つきません。
 その後、別の人から『Xừng』と書かれている資料をもらい、その表記を調べると、漢字にはXừngに対応する文字はありませんでしたが、チュノムにはありました。それが『表示不可(hyouhttps://jigen.net/kanji/133567参照)』です。これも一見、カードに描かれた文字とはだいぶ違うように見えますが、上で述べたようにチュノムは、中国の漢字では表す事の出来ないベトナム語の発音を表記するために、別々の漢字を組み合わせて一つの文字としているので、このチュノムの構成要素は、『称』と『升』という二つの漢字になります。(出典: Chu Nom.org https://www.chunom.org/pages/209BF/#209BF)
 そして、この中の『升』が、かなり崩されてはいるものの、問題のカードの文字と一致しているように見えます。これでようやく点と点が繋がりました。なお、漢越辞書によると、『升』という漢字を単にクォックグー表記した場合は『Xừng』ではなく『Thăng』になるようですが、日本人なら知っているように、漢字というものはその時代や地域によって様々な読み方をされる物であり、この場合も升という漢字がXừngと読まれていたのではないかと推測しています。この推測に則り、この記事ではCửu Xừng』を『升の九』と書いています。(もし違っていたらごめんなさい)

 ところで、お気付きかも知れませんが、これらのトートンのカードに描かれている人間のイラストは、19世紀の日本人の姿だったりします。その由来はWikipediaによると、フランス植民地時代にマルセイユの玩具メーカー カモワン社(Camoin)が、自社がベトナム向けに生産していたトートンに、日本から輸入された木版画・浮世絵に描かれた日本の庶民の姿をプリントしたのが始まりだそうです。そしてそのカモワン社製トートンがベトナムで広く流通したことで、それらのイラストはトートンの絵柄として定着し、100年以上経った現在でも変わらずに使われ続けているそうです。
 では、なぜカモワン社はベトナム人向けのカードゲームに日本の木版画のイラストを採用したのかと言いますと、具体的には説明されていません。しかしおそらくは、当時フランスでは日本から輸入された木版画・浮世絵などの『エキゾチック』な芸術作品が人気を博し、ジャポニスム(Japonisme)』と呼ばれる流行が発生したため、デザイン業界でも浮世絵に描かれた『オリエント』なモチーフを取り入れられた事がその一因であろうと推察できます。また、当時ほとんどの西洋人はベトナムも日本も中国も一括りにアジア、オリエントと見做しており、それぞれの文化の違いなど気にしなかったため、両国の文化は混同され、ベトナム向けのカードゲームに浮世絵のイラストが採用されたのだろうと僕は思っています。

 余談ですが、『オリエンタリズム(Orientalisme)』という言葉に代表される、このような当時のフランス人(およびほとんどの西洋人)が持っていた『想像上の』アジアへの憧憬、そして偏見は、つい半世紀前まで続いていた欧米諸国によるアジアへの植民地支配、帝国主義と深く結びついた概念でもありました。
 ただし、異国の文化についての誤解は、なにも西洋人に限った話ではなく、日本人もヨーロッパ諸国それぞれの国の文化の違いを正しく理解している者は少ないでしょうし、もっと言えば日本の周りの国ですら、いまだにあまりよく分かっていません。過去には、自国中心の偏見に満ちたアジア観を基に周辺国への領土拡大と統治を行い、大変な反発と遺恨を生じさせた事実は日本人なら誰もが知っておくべき事柄です。また現在でも、例えば日本のテレビ番組ではしばしば海外で日本の文化がいかに誤解されているかを取り上げていますが、では日本にある外国料理は?日本人が話す外来語やカタカナ英語は本来の意味で使われているのか?と思い返してみれば、他人の事は言えないですよね。
 さらに言えば、マスメディアやインターネットでは、タイと台湾は当然のように(反日の対義語として)『親日国』として語られますが、では実際、所謂『反日国』や、それ以外の国々とどれほど違うかと言いますと、実はそんなに変わらないと僕は思っています。第二次大戦において日本と戦ったアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア・フランスはもちろん、日本軍の恫喝によって軍政下に置かれたタイや、長く中国国民党政権が続いた台湾でも、大戦中の日本軍を好意的に見ている人はほとんど居ないです。一方、戦後日本が育んだ食事や音楽などの文化、工業・医療製品については、世界の大半の国々、そして日本で反日』と呼ばれる中国や韓国でも大人気であり、特に中国の小金持ちはこぞって日本に観光に訪れ、帰国後日本に行ったと自慢する事が一種のステータスとなっている感すらあります。
 数年前、あるニュース番組で、中国で発行されている『知日』という情報誌が紹介されていました。その雑誌を編集している僕と同じ世代、1980年代生まれの中国人編集者たちはインタビューの中で、「私たちはこの雑誌で、読者に日本を好きになってもらおうとは思ってはいません。ただ、彼らを好くにせよ嫌うにせよ、まずは相手の本当の姿を知る事が、我々自身にとっても大切な事なのです」という趣旨の言葉を語っていました。その通りだと思います。日本に訪れる中国人観光客が皆こういった意識を持っているとは思っていませんが、少なくとも中国国内にはこういう理知的な人々が居り、彼らの雑誌が人気を博してる事実は、両国の未来にとって歓迎すべきことだと思います。
 なお、知日は日本でも買えるようですが、ちょっと良い値段しますし、どうせ中国語読めないのでまだ呼んだ事は無いです。もし日本語訳版を作ってくれたら、是非読んでみたいですね。

こちらで販売中

今日は我ながら、いろんな方向に話が飛んでいくブログでした。


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2018年06月07日

ヒーノス歯磨き粉

 随分前の事ですが、DeMilitarized Zone氏のブログこちらの記事で、『ヒーノス(Hynos)』がまだ製造されている事を知り驚きました。ヒーノスとはベトナム国産の歯磨き粉ブランドで、ベトナム共和国時代の写真を見ていると、ヒーノストレードマークである白い歯を輝かせて笑う黒人おじさん看板をよく見かけます。


 そのヒーノスがまだ売っているなら僕としては是非とも欲しいし、日本のベトナム軍リエナクター仲間へのお土産にも良いだろうと思い、一昨年ベトナムに行った時にコンビニなどで探したのですが、残念ながらその時は見つける事はできませんでした。サイゴン在住の友人に訊いても、どこで売ってるかは分からないと言っていました。
 それからしばらくヒーノスの事は忘れていましたが、最近ふと思い出しFacebookで友人たちに「これどこで売ってるの?」と質問してみたら、いろいろ教えてもらう事が出来ました。
 まず彼らから得た情報としては、ヒーノスブランドは現在市販されておらず、ホテルのアメニティグッズとしてのみブランドが継続しているとの事でした。なるほど、どうりで街のコンビニでは見つからないはずだ。ただし、当然ベトナムの全てのホテルに備わっている訳ではないので、僕がサイゴンのホテルに泊まった時は残念ながら見かけませんでした。
 ありがたいことに、何人かは「このホテルに置いてあったよ」と、ヒーノスが置いてあったというホテルをいくつか教えてくれたので、どこのホテルに置いてあるかは分かったのですが、歯磨き粉をもらう為だけにわざわざその街に行く訳にはいかないですよね。おそらくサイゴンのホテルにも普通に置いてあるっぽいですが、部屋を予約する時に「ヒーノスの歯磨き粉置いてますか?」なんて聞くのは恥ずかしいなぁ(笑) 

 さらにインターネットを調べてみると、ヒーノスに関する詳細な情報が載っていました。

Báo điện tử Pháp Luật thành phố Hồ Chí Minh(ーチミン市司法局 ホーチミン市法律電子新聞)
Hynos - cứ ngỡ kem đánh răng ngoại

Người Lao Động (ホーチミン市労働者連盟電子新聞 労働者)
Thắp lại hào quang thương hiệu Việt: Từ P/S đến Hynos

 これによると、ヒーノスは元々1950年代にユダヤ系アメリカ人実業家が南ベトナムに工場を作り立ち上げたブランドでした。しかしその創業者は、国に残してきた妻が亡くなった事で傷心し、アメリカに帰国してしまいす。その後、ヒーノスの経営を受け継いだのが、創業者の下で働いていたベトナム人従業員のブン・ダオ・ギア(Vương Đạo Nghĩa)でした。商才に恵まれたギアは、その後10年間でヒーノスをベトナムを代表する有名ブランドに成長させます。
 当時、サイゴンを中心とするベトナム南部の都市部の消費者の指向は欧米的で、いかに広告を打つかがビジネスの鍵であったため、多くの企業が美男美女をイメージキャラクターとして広告に使用しました。しかしヒーノスはあえてありきたりな美男美女を避け、ストレートに歯磨き粉としての効能、歯を白く美しくするという点をアピールするために、あえて肌の色と白い歯のコントラストが印象的な黒人男性の顔をトレードマークに採用します。そして街の至る所に看板を設置し、ラジオCMでは子供向けの陽気なテーマソングを放送するなどして、大人から子供まで誰もが知っている有名ブランドの地位を確立していきました。以下はラジオ広告で放送されたヒーノスの歌です。
Chà chà chà, Hynos, chà chà chà.
Chà chà chà, hàm răng em trắng bóc.
Cha cha cha, cha cha cha.
Và ngàn nụ cười, nụ cười tươi như hoa.

チャチャチャ ヒーノス チャチャチャ
チャチャチャ みんなの歯を白くする
チャチャチャ チャチャチャ
だからみんながにっこり 花のようににっこり
(筆者による意訳)
 しかし1975年4月30日、ベトナム共産軍がサイゴンを占領しベトナム全土がベトナム共産党の支配下に堕ちると、共産主義に則り南ベトナムに存在したすべての企業が国有化され、政府の統制下に置かれます。ヒーノスも例外ではなく、1975年に国有化された後、かつてのライバル企業であるコルペルロン(Kolperlon)と合併し、歯磨き粉の生産はその子会社のフォンラン(Phong Lan)へと引き継がれました。
 さらに1980年には他の三社とも合併し、ホーチミン市産業局直轄の化学化粧品合弁会社(Xí nghiệp Liên hiệp Hóa Mỹ Phẩm)となりますが、ドイモイ政策開始後の1990年に同社は解体され、フォンラン歯磨き粉を含む傘下にあった企業はそれぞれホーチミン市産業局の下で独立した企業となります。
 翌1991年、フォンラン歯磨き粉はP/S化学会社(Công ty Hóa phẩm P/S)へと改称され、さらにその後、1997年には英・蘭の多国籍企業ユニリーバ(Unilever)がP/Sに出資し、以後P/Sはユニリーバ傘下の化学化粧品メーカーとして現在にいたります。
 現在でもP/Sはベトナムの歯磨き粉トップシェアを誇り、どこのコンビニやスーパーに行ってもP/Sの歯磨き粉が売られていますが、ヒーノスというブランド自体は既に多くのベトナム国民から忘れられており、ホテルのアメニティとして細々と存続しているだけのようです。(もしかしたら一部では市販されているかも知れませんが、少なくとも若い世代におけるヒーノスという商品名の認知度はかなり低いです)


おまけ:1970年代初頭のサイゴン市内のスーパーマーケット


この数年後、サイゴンは北ベトナム軍の侵攻を受けて陥落し、ベトナム共産党政権による南部の『解放』が開始されます。以後ベトナムはベトナム共産党の施政下で世界の最貧国の一つに転落し、ベトナム国民は歯磨き粉はおろか食料すら満足に得られず、数十万人の国民が難民として国外に脱出する事となります。その後ベトナムは自由市場を一部導入する事でなんとか経済を持ち直し、ベトナム共和国時代に存在したような近代的なスーパーマーケットもようやく復活しましたが、そこに至るまでには十数年の歳月と数えきれない国民の犠牲を要したのでした。

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Posted by 森泉大河 at 02:57Comments(0)1954-1975【ベトナムの文化】民生

2018年06月02日

レンジャー大隊識別色

 前回、1971年以降にレンジャー部隊で使用された軍団色付きタブについて書きましたが、それ以前に使用されていた色付きタブについてもかなり踏み込んだ情報をベテラン兼研究者の方々から得られました。

(元レンジャー部隊付きアドバイザーの米陸軍大尉Dennis Kim氏の回答, 2018年5月16日)
1962年から1970年まで、レンジャー部隊は6個レンジャー群、計20個のレンジャー大隊で構成されており、それらは全国4つの戦略区に分かれて配置されていた。この時期、軍団を示すタブは用いられていなかったが、大隊を示す色付きタブが左肩に縫い付けられていた。タブには手書きで中隊番号が記入され、色によって各レンジャー群(LĐ BĐQ)内の大隊を以下のように示していた:
1st RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 21st Bn., Blue 37th Bn., Yellow 39th Bn. 
2nd RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 11th Bn., Blue 22nd Bn., Yellow 23rd Bn. 
3rd RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 31st Bn., Blue 36th Bn., Yellow 52nd Bn. 
4th RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 32nd Bn., Blue 41st Bn., Yellow 42nd Bn. Purple 43rd Bn., Maroon 44th Bn. 
5th RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 30th Bn., Blue 33rd Bn., Yellow 38th Bn. 
6th RANGER GROUP: Green: Group Headquarters, Red 34th Bn., Black 35th Bn., Yellow 51st Bn. 

これを要約すると、色分けは基本的には群本部(BCH/LĐ BĐQ)が緑、次いでそのレンジャー群内で番号の若い大隊(TĐ BĐQ)順に赤・青・黄であった事になります。
ただし第4レンジャー群は他の群よりも大隊の数が多かったため、通常の4色に加えて第43レンジャー大隊が紫、第44レンジャー大隊がマルーンとなっています。また理由は不明ですが、第6レンジャー群内の第35レンジャー大隊だけは青ではなく黒とされています。
またこの色分けは左肩上*またはレンジャー部隊章の上のタブだけでなく、右胸のネームテープでも同様だったようでうす。

※作戦服にエポレットがある場合はエポレットに通すスリーブ状のタブになりますが、エポレットが無い場合は単に四角形の布を直接縫い付ける方式でした。

これら大隊識別色タブ・ネームテープの使用状況は全部隊で統一されていたわけでく、当時の写真からはいくつかのパターンが見られるので、以下に使用例を示していきます。

ネームテープ
この写真は第4レンジャー群とされているので、赤いネームテープから第32レンジャー大隊だと分かります。

▲ネームテープ
上と同時期の第4レンジャー群の写真ですが、紫色のネームテープなのでこの写真は第43レンジャー大隊だと分かります。

▲レンジャー部隊章上のタブ
右手前の人物は赤色、中央は紫色のタブを縫い付けている。
紫色が用いられた大隊は一つだけなので、写真中央の人物は第4レンジャー群第43レンジャー大隊と特定できます。また右の人物は同じ第4レンジャー群の第32レンジャー大隊の可能性が高いと考えられます。
1971年以降の軍団タブと紛らわしいですが、大隊タブには軍団タブのように群や大隊番号は入りません。

レンジャー部隊章上のタブとネームテープ併用
この写真は1971年のラムソン719作戦中に撮影されたものであり、ラムソン719に投入されたレンジャー群は第1レンジャー群のみなので、この部隊は第1レンジャー群第37レンジャー大隊だと考えられます。

エポレットの無い服の左肩上タブとネームテープ併用
第1レンジャー群第21レンジャー大隊
エポレットがない為タブが肩の上側に直接縫い付けられています。

エポレットのある服の左肩上タブとネームテープ併用
エポレットがあるため、タブはスリーブ状になっています。
この写真は1971年のラムソン719作戦中に撮影されたものであり、ラムソン719に投入されたレンジャー群は第1レンジャー群のみなので、この部隊は第1レンジャー群第39レンジャー大隊だと考えられます。



ネッカチーフについて

なお、前線で使用されるネッカチーフは大隊ではなく、各大隊内の中隊を示していたそうです。しかしその色については単色以外にも二色や三色もあり、その色の組み合わせにはいくつものパターンがあるので、これらが全での大隊で統一されていた配色かは疑問であり、恐らくは各大隊が独自に決めていたものと思われます。

▲赤青二色のネッカチーフ(第4レンジャー群第42レンジャー大隊)


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2018年05月26日

70年代のレンジャーと軍団タブについて

 以前『部隊識別色』の中で、ベトナム陸軍レンジャー部隊が1970年代に使用していた軍団識別色タブについて書きましたが、その後当時レンジャー部隊にアドバイザーとして派遣されていた元米軍将校や、元レンジャー隊員の方々に意見をうかがったところ、新たに有力な情報をお寄せ頂けましたので、前記事の訂正を兼ねて1970年代のレンジャー部隊と、その軍団タブについて解説させて頂きます。


1970年代のレンジャー部隊略史

 ベトナム陸軍レンジャー部隊(BĐQ)は1960年代末まで、全国4つの軍団指令部直属の機動軽歩兵部隊として6個レンジャー群、計20個大隊で構成されていた。
 アメリカ軍の撤退にともない1970年にCIDG計画が終了すると、それまでベトナム陸軍特殊部隊(LLĐB)に所属していた数十の国境特殊部隊キャンプ駐屯CIDG部隊(CSF)は全てBĐQに移管され、CSF1970年8月から1971年1月にかけて順次、国境レンジャー大隊(BĐQ-BP)へと改編された(過去記事CIDG計画の組織』参照)。国境レンジャー大隊は全国で計37個大隊編成され、BĐQの兵力は約2.5倍に増加した。国境レンジャー大隊は既存のレンジャー大隊と同様に、各キャンプの所在地を管轄する各軍団のレンジャー本部の指揮下に置かれたが、この時点ではそれらを統括するレンジャー群は編成されず、国境レンジャー大隊は軍団レンジャー本部の直接指揮下にあった。
 同じころ、それまで第3軍団レンジャー司令部の指揮下にあった第5・第6レンジャー群が第3軍団を離れ、総参謀部直属の即応部隊として全国に派遣される『統合予備部隊(TTB)』に1970年中に編入された。
 その後1973年中盤になり、BĐQに対して最後の大規模な再編成が行われた。
1. 第1~第3軍団レンジャー内に各国境レンジャー大隊を統括する9個のレンジャー群(7, 11, 14, 15, 21, 22, 24, 25, 33レンジャー群)を新設し、全ての国境レンジャー大隊がその指揮下に入る。
2. 第4軍団レンジャー本部を解体し、その指揮下にあった第4レンジャー群は統合予備部隊に、国境レンジャー大隊は第1~第3軍団内の各レンジャー群に編入。
3. 第1, 2, 3, 5レンジャー群の名称を、第12, 23, 31, 32レンジャー群へと改称。(この時点で第5レンジャー群は統合予備部隊から第3軍団へ復帰していた)
4. 第6レンジャー群に加え、第4軍団から異動した第4レンジャー群、および新設された第7レンジャー群統合予備部隊とする。
 加えて1974年10月、パリ協定による捕虜返還およびBĐQの戦力増強の為、捕虜収容所を運営していた第9および第14憲兵大隊が解体され、同大隊の人員はBĐQに編入され、第3軍団内に第8レンジャー群として再編成される。1975年1月には、同じく第7および第8憲兵大隊が解体され、第3軍団内に第9レンジャー群として再編成される。
 その後も戦況は悪化の一途を辿った事から、BĐQは1975年3月末から4月上旬にかけて残存部隊の再編成を行い、統合予備部隊として第101および第106レンジャー師団の2師団を創設した。この2師団は首都防衛の任に充てられ、4月30日のサイゴン陥落まで最後の抵抗を続けた。


軍団・部隊番号タブ

 1971年末、BĐQは全部隊で、黒豹マークの部隊章の上側に取り付ける軍団・部隊番号タブを採用した。このタブは所属する各軍団(および統合予備部隊)を5色の色で示し、その中に部隊番号または部署・役職を示す略称が入る。

左袖のレンジャー部隊章の上に縫い付けられている数字の入った長方形の布が軍団識別色タブ
写真は第3軍団第33レンジャー群第83国境レンジャー大隊, 1973-1975年

▲軍団識別色とその軍団内のレンジャー群一覧
第1軍団: 緑、第2軍団: 赤、第3軍団: マルーン、第4軍団: 黄、統合予備:青。()内はそのタブが使用たと考えられる年代。
略語はBĐQ / QĐ:軍団レンジャー、LĐ BĐQ:レンジャー群、BĐQ / TTB:統合予備レンジャー
なお軍団ではないが、ドゥックミ・レンジャー訓練センター(TTHL BĐQ Dục Mỹ)にも赤色のタブが制定された模様。

部隊番号または部署の表記例
本部付の部署・役職の略称としてはHCCV(管理担当), CHCV(指揮担当), YTCV(支援担当), CT(作戦), TT(通信), QY(衛生), CCX(対戦車)などが見られる。


おまけ:第101レンジャー師団


 BĐQ初の師団として1975年4月上旬に編成されたものの、それからわずか1ヶ月足らずで終戦を迎えた幻のレンジャー部隊の一つ、第101レンジャー師団(Sư Đoàn 101 Biệt Động Quân)とされる写真を最近初めて見ました。同時期には同じく第106レンジャー師団も編成されているのですが、存在した期間が短かった事と、敗戦間際の混乱した時期であった事から、この2師団についてはまだ不明な点が多いです。
 第101レンジャー師団については、第3軍団に所属していた第31, 32, 33レンジャー群を統合したものという記述がDÒNG SÔNG CŨにありましたが、それ以外の事はまだ分かりません。第106レンジャー師団に至っては、写真も、元となった部隊が何なのかさえも情報が見つかりません。101師団の例に倣えば、106師団は統合予備部隊であった第4, 6, 7レンジャー群が統合されたのではないかとも推測出来ますが、確かな事はまだ何も言えませんねぇ。
 一方、最初に書いた、本記事の情報源となった米越軍のベテラン兼研究者の方々は今、レンジャー部隊に関する最新の研究成果をまとめたものを何らかの形で発表すべく作業を進めているそうなので、これまで知られていなかった情報や、あるいは誤って広まってしまった不正確な情報を正しく総括してくれることを期待して止みません。


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