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2020年08月15日

ベトナム戦争期の56式/K-56

 ベトナム戦争中、ベトナム共産軍(人民軍・解放民族戦線)は中国から莫大な数の中国製カラシニコフ=56式自動歩槍の供与を受け、ベトナム語名称『K-56自動小銃(Súng trường tự động Kiểu 56)』の制式名で長年に渡って使用してきました。そしてその後ベトナム戦争が終結し、中国との戦争を経た現在でも、いまだに大量の中国製56式/K-56がベトナム人民軍で現役で使われています。

▲ベトナム戦争中、ベトナム共和国軍が共産軍から押収した56式自動歩槍の山(看板の文字は『中共自動小銃K-56の意)

 ところで、中国製の56式自動歩槍には、大きく分けて2つの世代がある事が知られています。一つは、ソ連製AK-47(III型の面影を強く残す切削加工レシーバーの前期型。もう一つが、ソ連がAK-47の改良型であるAKMを開発した事に伴い、それに倣ってレシーバーをAKM風のプレス加工にした後期型です。この後期型56式が登場したのは1960年代中頃と言われていますが、正確な時期は分かりませんでした。

56式自動歩槍前期型(上)と後期型(下)の比較


 ここで僕が前々から気になっていたのが、この後期型56式もベトナム戦争で使われたのか?という点です。最初に述べたように、56式は延べ数十万丁が中国からベトナム共産軍に供与されているため、戦後に撮られた写真には、後期型56式の使用例がいくらでも見られます。

後期型56式を構えるベトナム人民軍兵士(写真:Báo Lao Động)

 しかし、ベトナム戦争が終結する1975年より前の写真では、僕が確認している限り共産軍の使用している56式は前期型だけであり、後期型の使用例は一例も見た事がありません。後期型が登場したのが1960年代中頃だとするなら、時期的には後期型もベトナムに送られていて当然のような気がしますが、不思議な事にそういった例は今のところ確認できていません。
 これは私の推測ですが、もしかしたら当時中国は自軍の56式を旧型(前期型)から新型(後期型)へと置き換えている最中であり、これによって余剰となったお古の前期型56式をベトナム共産軍に援助物資として送っていたのではないでしょうか?56式には、あの特徴的な銃剣をオミットした輸出型も存在していますが、ベトナム共産軍に供与された56式の大半は輸出型ではなくスタンダードな中国軍モデルなのも、これらが最初からベトナムへ供与するために製造されたのではなく、中国軍のお下がりだったからなのかもしれません。
 また銃と同様に、56式用のマガジンポーチ(弹匣袋)も、ベトナム戦争中における使用例は金属製コキカンを備える初期型しか僕は確認できていないので、これもベトナム向けに製造されたのではなく、中国軍のお下がりだったのかもしれません。
 まるで兄の服のお下がりが弟にまわってくるような話ですが、実際中国共産党とベトナム労働党(現共産党)は第2次大戦中から兄弟政党みたいなものなので、さもありな話です。
 また中国以外も同様で、元々ろくな産業の無い北ベトナムや、反政府ゲリラである解放戦線の資金力など微々たるものなので、本来ならベトナム共産軍には、アメリカを相手に15年も戦争を続けられるような国力・経済力はありませんでした。しかしそれでも戦争を行えたのは、ベトナム共産軍が東西冷戦を背景とした対米代理戦争の実行役となった事で、ソ連を中心とする世界の共産陣営が兵器や物資をじゃんじゃん支援してくれたからでした。


うちのトイガン

 近年リアルソードやガーダーから56式自動歩槍の電動ガンが発売されていますが、残念ながらこれらは後期型を再現したモデルであり、上記の通りベトナム戦争期の時代設定で使うには根拠が乏しいと思っています。なので僕は東京マルイのスタンダードAK-47に、56式コンバージョンキット(メーカー失念)のバレル・フロントサイトのみを組み込んで前期型56式を再現した物を使っています。またハンドガードとグリップは木製、レシーバーも金属製に変えてありますが、刻印までは再現していません。
 なおNKTやLLĐBといったベトナム共和国軍特殊部隊では、兵士の外見や銃の発砲音を共産軍のように偽装するため、敵から鹵獲したAK-47や56式が多数使用されましたが、こういった部隊では56式に搭載されているスパイクバイヨネットは不要と見做され取り外されている場合が多いので、うちの56式もバイヨネットは外してあります。

▲うちの初期型56式風電動ガン

バイヨネットが取り外された初期型56式を使用するNKTコマンド雷虎SCU (MACSOG Ops-35 C&C部隊)隊員



まとめ?

 これだけ書いておいて言うのもなんですが、ベトナム戦争では共産軍・米越政府軍ともに、ソ連製AK-47(あるいはほとんど同じ外見の北朝鮮製58式自動歩槍等)もかなり多数使っているので、実は56式を使う事にこだわる必要など全く無く、むしろ無理やり後期型の56式を使うくらいなら、市販のAK-47をそのまま使った方が考証的にはよっぽど正しいという点を申し添えさせて頂きます。
  


2019年10月13日

CIDG計画とFULRO(フルロ)

※2019年10月15日更新

 最近、CIDGごっこを計画する中でフルロ(FULRO)の話が話題に上がった(と言うか僕が話したくて仕方なかった)ので、CIDGとフルロの関係を分かりやすく図にしてみました。

▲CIDGとフルロの大まかな関係を示した図(クリックでPDF開きます)

 なお今回は触れませんでしたが、少数民族の自治・独立運動は1958年のバジャラカ運動が最初という訳ではなく、1945年には最初のデガ諸部族の連携組織が発足しており、もっと昔には、現在のベトナムの領土の南半分以上はチャンパ王国やクメール王国が支配していた場所なので、彼らが「少数民族」と呼ばれる事になるはるか以前から、この争いはず~っと続いてきたわけです。
 また1975年以降も彼らの戦いは現在に至るまで続いています。このベトナム戦争の前と後の話は、まじめに書くとかなり長くなるので、またの機会に。



これまでのおさらい&よく見る誤解を訂正

・CIDG=デガ(モンタニヤード)ではない
 CIDG計画には多数のデガ諸部族が参加しましたが、チャム族やクメール族、ヌン族など、デガ以外の少数民族も多く参加しており、また一部ではカオダイ教徒など、反政府的なベトナム人も参加していました。

CIDGフルロではない
 フルロは長年ベトナム人から迫害を受けてきたデガ、チャム族、クメール族の三勢力の連合です。その目的はベトナム(この当時は南ベトナム)からの自治・独立です。彼らにとってこの戦いは積年の恨みが詰まった人種戦争であり、当初はベトナム人であれば南北に関係なく、一般市民すらも見境なく虐殺する過激な武装組織でした。なおそれまで大した反乱も越せなかった彼らがフルロを結成し、大規模な反乱を起こす事が出来たのは、米軍のCIDG計画の賜物でした。フルロ兵士はCIDG計画に参加する事で米軍によって訓練され、米軍から与えられた武器で武装し、米軍から支払われる給料がフルロの資金源となっていました。なのでCIDGフルロではありませんが、CIDG計画無くしてフルロの活動は無かったと言えます。
 一方、CIDGに参加していたヌン族は、中国国民党の影響下にある中華系の少数民族であるため、第一次インドシナ戦争では反共主義に基づいてベトミンと戦ったものの、ベトナム人との関係は悪いものではありませんでした。1954年に北ベトナムが失陥すると、約5万人のヌン族が南ベトナムに移住し、そのままサイゴン政府軍にヌン師団が創設されます。後に政争によってヌン師団長が解任された事でヌン族兵士はサイゴン政府に反旗を翻しますが、ジェム政権崩壊(1963年)後は再び良好な関係に戻ります。よってフルロに参加する事はありませんでした。

・フルロ=CIAの工作ではない
 インターネットを見ていると、一部のベトナム人の間ではフルロは「ジェム政権を崩壊させるためのアメリカCIAの工作だった」と語られていますが、それは完全に間違いです。まずフルロが結成されたのはジェム総統がクーデターで暗殺されてから10ヶ月も後の事です。また当時CIDGを指揮していたアメリカ人たちは、言葉の壁から、自分の部下たちが秘密裏に米軍による軍事支援を利用して反政府ゲリラ組織を結成している事に気付く事が出来ませんでした。そして実際に1964年にフルロの反乱が起こった際には、CIAですらこの反乱の背後関係を把握できておらず、ベトコンまたはフランスの支援・扇動によるサボタージュ説が唱えられていました。
 後に判明する事ですが、当時実際にフルロの組織化・反乱を支援してのは隣国カンボジアのシハヌーク政権でした。カンボジアとしては、クメール王朝時代にクメール領だった南ベトナムの領土を奪還する事を最終的な目標としており、その為に、ベトコンとの内戦を抱える南ベトナムを、内部からの反乱でさらに混乱に陥れる事を目論みました。そのためカンボジアは、CIDG計画によって南ベトナム領内の少数民族に武器・資金が流入した事を確認したうえで、少数民族に連携と反乱をけしかけたのでした。


ベトコンに参加したデガ勢力

 1954年以来、南ベトナム政府に対する少数民族たちの要求は、主に自治権・民族自治区の設置(特にデガは、1946年にフランスが設定した「南インドシナ・モンタニャール国」の復活・ベトナムからの独立)でしたが、、同時に政治イデオロギー的には、ほとんどの少数民族は第一次インドシナ戦争以来、反ベトミン・反共産主義・反北ベトナムで一致していました。
 しかし1958年のバジャラカ運動の失敗後、イーバムら運動の指導者を失ったデガの間では、今後の独立運動の方針について迷いが生じていました。そこに、北ベトナムの労働党が南ベトナム破壊工作として南ベトナム領内の旧ベトミン・共産主義・民族主義勢力の再組織化(後の「南ベトナム解放民族戦線」)を1960年に開始すると、デガ内部の一部勢力は、ベトコン(労働党・解放民族戦線)が語る「勝利の暁には民族自治区が約束される」という白々しい口車にすがってしまい、約1,000名のデガが「タイグエン自治運動」を結成して南ベトナム解放民族戦線の指揮下に入りました。
 しかしその兵力は微々たるもので、またベトコンははなっから少数民族に自治権を与えるつもりなど毛頭なかったので、この共産主義系デガ組織「タイグエン自治運動」がその後どうなったのかは、定かではありません。
 もしその後の15年間、ひたすらベトコンの指揮下でアメリカやサイゴン政府軍、そして同胞のデガ兵士たちと戦い続けたとしても、その勝利の後に待っているのはベトナム共産党政権によるデガ自身への民族浄化です。
 でも、もしかしたら、デガの同胞を大量に死に追いやっておきながら、自分だけはうまく共産党で出世して、戦後英雄気取りのデガも、もしかしたら居るかもしれませんね。
 だって現に、現在のベトナム社会主義共和国には、そういうベトナム人が腐るほど大量に居て、そんな連中が戦後40年以上、独裁政権下で私腹を肥やし、ベトナム国家・国民を食い物にしているんですもの。
  


2019年08月17日

写真と映画からいくつか

近頃、私生活で色々とまいってまして、自分の趣味すら心から楽しめる状態ではないので、ブログの方もしばらくは、以前のような量・頻度では書けなそうです。
ただ、趣味そのものを止めたわけでないので、ちょっと投げやりですが、最近気になった写真を貼っていきます。


黒豹中隊のベレー章

ベトナム陸軍で唯一、歩兵師団本部直属の強襲(コマンド)部隊として第1歩兵師団内に存在していた『黒豹中隊(Đại Đội Hắc Báo)』では、独自のベレー章が使われていた事がこれまでも写真から知られていましたが、実物はおろか鮮明な写真すら見つかっていなかっため、その詳細は一流の研究者たちの間でも謎となっていました。

ところが先日、僕の友人のベトナム人が、長年探し求めていたその写真を発見してくれました!

第1歩兵師団黒豹中隊中隊長チャン・ノック・フイー大尉(左)と、黒豹中隊チーフアドバイザー ロジャー・V・ウェルブロック米海兵隊大尉(右) [1968年ベトナム]


さらに別の友人も、実物と思しき物の画像を発見、僕に提供してくれました。完璧です。


友人はこの発見に興奮して、「さっそくリプロ作るわ!」と言っていってきたので、
僕は「こんなベレー章、不人気というレベルではなく、そもそも存在を知っている人間がこの世に数える程しか居ないじゃん。もし作るなら俺は買うけど、やめといた方が良いよ~」と諭しました。

ちなみに、ベトナム軍の各師団(歩兵師団・空挺師団・海兵師団)およびレンジャー群内には、師団本部直属の偵察中隊が存在しており、第1歩兵師団も第1偵察中隊を擁していましたが、この偵察中隊は黒豹中隊とは別物です。偵察中隊は米軍のLRRPに倣った、師団本部の目となる少人数制の長距離偵察チームですが、黒豹中隊はフランス連合時代のコマンドや、60年代以降のレンジャー(BĐQ)、空挺コマンド(BKD)のように、まとまった数で強襲作戦を行う機動歩兵部隊であり、このような強襲部隊は第1歩兵師団以外の各師団には設けられませんでした。(空挺・海兵はもともと師団そのものが強襲部隊ですが)



若かりし頃のオン・コップ

映画『ディエン・ビエン・フー(残念邦題「スカイミッション~空挺要塞DC3~」)』で、賭場の顔役として戦争の趨勢を賭けにして金儲けをしているホア族(ベトナム華僑)のオン・コップ(虎爺)を覚えてますでしょうか?
たびたび主人公(?)のアメリカ人記者に意味ありげな言葉を伝え、フランス連合とベトミン、どちらが勝っても漁夫の利を得るのは中国人である事を暗に示す重要な脇役でした。


そのオン・コップを演じたベトナム人俳優テー・アイン氏の若かりし頃の写真を発見。
なんとベトナム共和国軍陸軍将校の軍装です。


実はこれは、1966年に北ベトナムで製作された映画Nổi gió (浮風)』 で、テー・アイン氏がこの映画の主人公のベトナム共和国軍人フウン中尉を演じた際のスチルだそうです。
あらすじをGoogle翻訳で大雑把に翻訳してみたところ、テー・アイン演じるフウン中尉は政府軍の将校だったが、フウンの妹はサイゴン政府に批判的であり、兄妹で対立が深まる。しかし妹はフウンを説得し続け、またフウン自身も政府軍の非道や米軍の横暴を目にした事で、次第に妹の正しさに気付き、最終的に軍を去って妹と共に解放民族戦線に転向。人民のための解放戦争に加わるのであった・・・的な内容みたいです。
公開は1966年ですが、作中では壁に1963年11月にクーデターで暗殺されたゴ・ディン・ジエム総統の肖像が飾ってあったことから、時代設定は1963年より前のようです。
まあ戦時中の北ベトナムで製作され、当時から『解放映画』と呼ばれている純然たるプロパガンダ映画なんですが、軍装マニア目線で見ると、いくつか注目したい点がありました。

まず上のフウン中尉が被っている制帽(少なくとも帽章)は本物ですね。ただ肩章は先が尖ってますが、この時代は丸いのが正解です。

また軍装の組み合わせ自体は間違っているのですが、下のこの帽章はなかなかレアです。多分本物。


1955年以降、ベトナム共和国の警察機構は公安警察庁の下で警察と公安が別々に存在していたのですが、1962年にそれらは統合されて国家警察(CSQG)となります。そしてこの帽章は、国家警察に統合される1962年以前に使われていた旧・警察の帽章なのです。


まあこの作品内では、この帽章を付けている人物は制服も肩章も陸軍式だから考証的には完全に間違っているんだけど、少なくともこの帽章自体は本物のような気がします。北越の宣伝映画とたかをくくっていたけど、まさかこんな発見があるとはね。

  


2019年04月01日

56式腹掛け

前々から欲しかった、中国軍の56式自動歩槍用のマガジンポーチ(弹匣袋)の古いモデルが手に入りました。
56式用マガジンポーチには複数のバリエーションがありますが、今回手に入れたのはベルト長を調整するバックルが金属製のものです。僕が知る限り、このモデルが56式用のチェストリグ型マガジンポーチとして中国人民解放軍で最初に制式化されたものなので、便宜的にこのモデルを『初期型』と呼称します。

ベトナム戦争期、軍事支援として56式自動歩槍と共に中国からベトナム共産軍(特に解放戦線)に対して大量に供与された56式用マガジンポーチは、ほとんどがこの初期型でした。

初期型マガジンポーチを着用する南ベトナム解放民族戦線の兵士


またベトナム共和国軍や米軍の特殊部隊も、潜入作戦の際に共産軍に変装するため、しばしば敵から鹵獲した56式用マガジンポーチを使用していましたが、その場合も当時の写真で見られるのは初期型ばかりです。

初期型マガジンポーチを始め共産軍の軍装を着用するベトナム共和国軍NKT第68群チーム『アースエンジェル』*
(※SOG-36の指揮下にあった、共産軍に偽装して潜入破壊工作を行う専門チーム)


しかしこの初期型は今まで、日本国内では滅多に出回らなかったため、僕は入手が容易な、バックルが革製となった改良(簡略化?)モデルを代用品としてコスプレに使っていました。(スタンプが滲んでいて製造年は不明)
以下、初期型(写真上)と手持ちの改良型(下)の比較です。




ようやくこの初期型ポーチが手に入った事で、心置きなく特殊部隊コスプレで身に着ける事が出来ます。
と言うか、まさか普通のサバゲー用品店がAmazonで売っていたとは・・・。もう品切れですが、これをレアものと分かって買った人って少ないかも。

ところで、これまで代用品として使ってきた改良型のポーチは、もうお役御免なのでしょうか?
そう思って、56式用ポーチについて検索してみたら、興味深い例がこちらのブログに掲載されていた。

人生楽しく行きましょう!! 56式小銃用チェストリグ

僕はベトナム戦争における56式用ポーチの使用例は初期型しか見た事がないので、改良型に移行したのは1970年代なのだろうと考えていました。
ところがどっこい!この形は1966年度製が存在しているのだそうです。今回僕が入手した初期型のスタンプは1965年度製でしたから、たった一年しか変わりません。
改良型が遅くとも1966/67年頃に存在していたのなら、それらがベトナム共産軍に渡っていた可能性は十分にあるはずです。
しかし不思議な事に、その使用例はいまだ見付けられていません。僕は共産軍の軍装を専門的に調べた事がないので、絶対に無かったとは言い切れませんし、むしろ年代的には使われていない方がおかしいくらいだと思います。
しかしその一方で、現に実際の使用例が全然見られないという事は、もし存在した場合でもごく少数だっただろうと言うしかありません。
また共産軍は1975年の終戦の時点でも初期型しか使っていない事から、仮に改良型が1960年代中盤に登場していたとしても、中国の全ての工場における生産が改良型に切り替わった訳ではなく、その後も初期型の生産が続き、ベトナムに供与された物のほとんどはその初期型だったのだろうと推察されます。

という訳で、ベトナム戦争における改良型ポーチの使用については、可能性は否定は出来ないけど、実例が確認できない以上肯定する事も出来ないので、今のところは代用品の域を出ないのではと考えます。
もし改良型の使用例をご存知の方は是非コメントでお知らせください!お願いいたします。

  


2018年08月19日

あるベトナム残留日本人と家族の漂泊

※2019年11月28日加筆訂正


 1945年(昭和20年)8月、日本政府は連合国のポツダム宣言を受託し、第二次世界大戦・大東亜戦争は日本の敗北によって終結しました。この時点で中国・満州・朝鮮・台湾そして東南アジア各地には日本陸海軍の軍人・軍属が約330万人、日本人民間人が約330万人、合わせて約660万人が進駐・居住していました。そして終戦後、日本政府・陸海軍にとって目下最大の課題は、この660万人という途方もない数の在外軍人・邦人を無事本土に帰国させる事となりました。この外地からの引き揚げはまるで民族大移動の様相を呈しており、現地では急激な治安の悪化、略奪、飢餓、家族の生き別れなどが大量に発生し、それは戦時中以上に壮絶なものだったたと伝え聞きます。
 その一方で、終戦に伴う帰国命令を受けた後も、ごく一部の日本軍将兵や民間人は日本への帰国を拒否して各地に留まり、個人的な意思で現地の紛争に参加していた事は割と知られた話だと思います。私がベトナム人協会への取材でいつもお世話になっている(宴会で僕が酔っぱらう度に家に泊めさせていただいている)サイゴン出身の女性Aさんは、この時ベトナムに残ってベトミン軍に参加した元日本陸軍兵士M氏の娘さんであり、M氏とAさんらご家族の辿った過去を詳しく伺う事が出来ました。ただし、Aさんが生まれたのはM氏が第一次インドシナ戦争終結後に南ベトナムに移住した後なので、Aさん自身はベトミン軍時代の父を直接は知りませんでした。ところがその後、関係資料を調べていたらベトミン軍時代のM氏の足跡が多少判明したので、Aさんから許可を頂いたうえでここに概要を記します。
 なおM氏は既に他界されていますが、娘さんやご親戚は現在も日本で生活されているので、個人名は控えさせていただきます。また、この記事はAさんの証言および、ある大学教授が日本に帰国した多数の元ベトナム残留者に聞き取りを行った報告書を出典としておりますが、M氏を始め、多数の人物の実名が載っておりますので、ここでの公表は差し控えさせていただきます。出典を確認されたい方はコメントにて、メールアドレスと共にその旨をお知らせください。個別にご連絡させて頂きます。


日本軍出奔とベトミン軍への参加

 Aさんの父M氏は第二次大戦中、日本陸軍第22師団第86歩兵連隊に所属する一兵卒であった。1945年8月、同連隊が中国広東省から南下し、ベトナム・ハティン省の省都ハティンに宿営している時に、M氏らは日本敗戦の知らせを受けた。この直後、同じ部隊の中から、日本軍を離れてベトミンに合流しようという声が上がり、M氏を含む10名が同意したという。そして終戦1ヶ月後の1945年9月のある晩、彼らは2ヶ月分の米と小銃弾2,000発を用意し、歩哨を「朝まで黙っていろ」と脅かして部隊から脱走した。

 ハティンの海岸に着いた彼らが満潮時刻を待って舟を出そうとしていたところ、日本兵脱走の知らせを受けたのか、ベトミン政府*が任命したハティン省知事レ・ズン(のちの国会議員)が通訳を連れて現れ、彼ら脱走日本兵に、ベトミン軍の軍事顧問役を依頼してきた。M氏らはその要請を受け入れ、ハティン省北部のドクトー県へ移動し、そこで現地の地主の屋敷に迎え入れられた。ドクトー県には同様に軍を抜けた元日本兵が30名ほどおり、その内M氏のいた村には25名が集まっていた。
 ドクトー県到着から間もなく、M氏らはベトミン軍側から、フランス軍のナペ基地を攻撃してほしいと要請を受けた。現地のベトミン軍兵士はまだ基本的な訓練さえ修了していないほとんど素人の集団であったため、この第1回のナペ攻撃(9月)は事実上、日本人12名だけで行われた。攻撃は夜間に行われ、彼らはフランス軍基地を一時占拠し、大量の武器弾薬と食糧を奪うことに成功したが、この戦闘でM氏を含む3名が負傷した。
 その後、ナペでは1946年初頭に日本人20名、ベトナム人300名の部隊による第2回夜襲が行われ、作戦は成功したが日本人兵士3名が戦死した。続いて行われた第3回の夜襲は失敗に終わり、さらに3名の日本人が戦死した。
 なお、第1回ナペ攻撃で負傷したM氏がいつ頃前線に復帰したかは分かっておらず、今確認できている資料では、M氏はその後「フエ以南で戦った」とあるのみである。

※1945年後半の時点では、インドシナに駐留していたフランス軍部隊はまだ微々たるものでフランスはベトナム全土を再統治できておらず、8月革命によって成立したハノイのベトミン政権がベトナム民主共和国を名乗っていた。しかしベトミン政権側の軍事力はさらに貧弱であったため、その後フランス軍が続々と到着するとフランスは支配地域を拡大。1946年中に全土がフランスの施政下に戻り、ベトミンは政権を追われゲリラ組織としてフランスへの武力闘争を続けた。


ハティン省ドクトー県の位置
(区画は当時と異なる可能性あり)


ホー・チ・ミン政権からの脱出

 その後、第一次インドシナ戦争が激化する中で、M氏はベトナム人女性と結婚し、娘(Aさんの姉)を授かった。その女性は、ベトミン協力者であり、M氏ら元日本兵の世話をしていたハティン省の地主の娘であった。その後1954年までにM氏はベトミンの軍務から離れ、ハティン省で一般人として生活していた。
 ところが1954年、第一次インドシナ戦争がベトミンの勝利に終わり、ハティン省を含む北緯17度線以北(北ベトナム)がホー・チ・ミン/ベトナム労働党の支配下になると、M氏の義父は、それまで命がけでベトミンに協力していたのにも拘らず、共産主義思想に基づき、ただ「地主である」という理由で粛清の対象とされた。義父は危険を察知し、M氏に娘と孫を連れて日本に逃げるよう促した。その直後、義父は人民裁判にかけられ、「反動分子」としてハティン市内を引き回された後、政治犯収容所に送られ、二度と帰ることはなかった。この地主階級の粛清「土地改良」を含む一連の共産主義革命によって、北ベトナム領内では1954年から1956年にかけて10万人以上の人々がホー・チ・ミン政権によって虐殺されたと言われている。

 日本帰国を決意したM氏は、妻に家を引き払うよう命じ、船を確保するため一人先行してハイフォンの港に向かった。しかしハイフォンに着くと、日本行きの船は既に出航した後だった。その後すぐに妻と娘たちもハイフォンに到着したが、すでに家は引き払った後であり、帰る場所は無かった。その時ちょうど、ホー・チ・ミン政権から逃れるため南ベトナムに脱出する難民を運ぶ船に空きがあったため、M氏一家は南ベトナムで出直す事に決め、サイゴンに移住した。

※ジュネーヴ協定により北ベトナムにホー・チ・ミンの共産主義政権が成立した事で、北ベトナム政府による迫害・虐殺から逃れるため、約100万人のベトナム国民が1954年から1956年にかけて北ベトナム領から南ベトナムに脱出した。共産主義者(ベトコン)に家族を殺され、故郷を奪われた人々の共産主義に対する憎しみは深く、後のベトナム戦争では、この時南に移住した北部人勢力が率先して北のホー・チ・ミン政権打倒を主張した。


フランス・アメリカ海軍によるベトナム国民の北ベトナム脱出・移送作戦『自由への道(Passage to Freedom)』

サイゴン郊外に設置された北ベトナム難民キャンプ [1954年]


サイゴンの日本人コミュニティ

 南ベトナムに移住したM氏一家はその後の20年間、サイゴンで比較的穏やかな生活を送った。1960年代に入ると南ベトナム国内の共産ゲリラ(解放民族戦線)によるテロ活動や北ベトナム軍の南侵によってベトナム戦争が激化したが、幸いにも一家は戦闘に巻き込まれる事なく終戦を迎えたという。Aさんはこのサイゴン移住後に生まれた末っ子だった。
 またサイゴンにはM氏と同様に、かつてベトミン軍に参加していた元日本軍人や、戦前からサイゴンに住んでいる日本人商人・技術者が少数ではあるが居住していた。彼ら南ベトナム在住日本人は互助会『寿会』を結成しており、M氏もこれに参加した。第一次インドシナ戦争終結後、アメリカの支援を得て経済発展を続けていた南ベトナムには西側諸国の企業が進出を始めており、日本も例にもれず南ベトナムにおいて事業を展開していた。寿会のメンバーは、こうした日系企業の現地社員・通訳・コンサルタントなどを務める者が多く、M氏も日系の製糖会社に勤務した。
 また寿会は、明治時代に単身ベトナムに渡り、以後半世紀以上に渡ってフランスや日本軍による妨害に遭いながらもベトナム民族解放と独立を援助し続けた日本人実業家 松下光廣(1896-1982)がサイゴンで経営する『大南公司』と深い関係を持っていた。南ベトナム政府と日本政府は松下の仲介で第二次大戦中の賠償に関する交渉を行い、日本政府は賠償金としてベトナム最大の水力発電所ダニム・ダム建設の費用を提供した。M氏は日系の建設会社に転身し、松下と共にこのダニム・ダム建設事業に従事した。これ以降、M氏と松下は家族ぐるみの付き合いとなっていった。
 幼いころのAさんにとって、当時のM氏はいつも厳しい父親であった一方で、寿会の日本人たちと日本の歌謡曲を聞きながら酒を飲んでいる時だけは、M氏は涙を流して日本を懐かしんでいたという。

1964年に完成したダニム・ダム(ダニム水力発電所) [写真:日本工営]


 

ベトナム共産党政権による追放

 1975年4月30日、北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴンを制圧し、ベトナム戦争は共産主義勢力の勝利に終わった。こうしてベトナム全土がハノイのベトナム共産党政権の支配下に堕ちると、旧南ベトナム国民は大変な困窮に見舞われた。M氏一家も例外ではなく、すでに戦争末期には日系企業が撤退していたため、M氏は別の仕事を探すしかなかった。松下も大南公司の資産の全てを政府に没収され、明治以来幾度もの苦難を経験しては復活を果たしてきた大南公司は完全に解体された。
 さらにベトナム共産党政府は1978年に、全ての外国人を国外追放する事を決定した。かつてベトミン軍の一員として命がけでフランス軍と戦ったM氏も、外国人であるという理由で国外追放となった。一時は日本への帰国を目指していたM氏だったが、ベトナムに住んで既に30年以上が経過しており、国外追放はそこで築いた友人・仕事・財産の全てを失う事を意味していた。また妻や娘たちは日本語がほとんど分からず、日本での生活に順応できるかも心配された。
 こうしてM氏一家は、他の日本人・外国人住民らと共に国外に船で移送され、M氏は難民として30年ぶりに日本に帰国した。帰国後一家はM氏の生まれ故郷の町に移り住み、M氏は会社員として平穏な余生を送った。来日した当時14歳だったAさんも苦学の末日本語を習得し、現在は日本国内でベトナム語通訳の仕事をしている。
 なお、M氏も松下も既に他界されているが、互いの親族同士の交流は現在も続いているという。




筆者の見解

 私はM氏を含むベトミン軍に参加した元日本兵たちの足跡が日本国内のメディアやインターネットで紹介されるのを目にする度に残念な気持ちになります。なぜならば、それらの紹介の仕方、あるいは紹介する目的は初めから、何らかの思想・主張を肯定するための道具として都合の良い部分だけ切り取られ、いいように利用しようとしているものばかりだからです。
 具体的には、ある時は日本が東南アジア侵攻の大義名分に掲げた『アジア解放』が偽りのない崇高な精神だった事の証拠として。またある時は、欧米の帝国主義に立ち向かいベトナム『解放』を後押ししたものとして。日本国内では右派・左派双方が長年、彼らの戦いを美談として祀り上げ利用してきました。また現在のベトナム共産党政権も、気前よくODAをくれる日本政府におべっかを使うため、この話を『日越友好』を標榜する材料の一つとして利用しています。
 しかし私は「日本軍は戦後もベトナム独立のためにフランスと戦いました。ベトナム人はその恩を忘れません。」というような日本国内で流布されている認識は、最初から美談として利用するために日本人にとって都合の良い、気持ちの良い部分だけを寄せ集めた虚像だと考えています。以下がその理由です。

・日本政府はアジア解放を謳う一方で、インドシナに関してはドイツ・フランスとの関係を優先しており、日本軍は1941年の北部仏印進駐以来4年間、フランスと合同でベトナムを支配する側にいた。ベトナム独立勢力に対しても、彼らを支援するどころか、妨害・取り締まりを行っていた。(ただし、下記の明号作戦に動員する目的で、親日的な独立勢力への接触は松下の大南公司を通じて進駐直後から水面下で始まっていた)

・1945年の明号作戦は、戦局の悪化から連合国側に寝返る可能性のあるインドシナ総督府・フランス軍を排除する事を目的とした日本の利益の為の軍事行動であり、ベトナム独立を目的としたものではない。

・ほとんどのベトナム国民は明号作戦の後に日本が擁立したベトナム帝国政府を日本の傀儡政権と見なしていた。なので日本敗戦後に行われたベトナム帝国政府の解体とベトナム民主共和国の独立宣言=8月革命を真のベトナム独立と見做し沸き立った。

・終戦後も日本陸軍の組織および軍法は正式に存続しており、個人の意思で隊を離れる事は脱走、また武器弾薬被服装備を持ち出す事は横領にあたる。したがってベトミンに参加した彼らは国家の命令に従った『日本兵』ではなく、あくまで個人の思想によって行動した『元日本兵のゲリラ』である。

・そもそも第一次インドシナ戦争は、残留日本人が1945年にベトミンに参加した当初においては、ベトミンの敵はインドシナの再植民地化を目指すフランス軍であり、『ベトナム独立戦争』と呼んで差し支えない状況であった。しかしフランス側が譲歩し1948年にベトナム国の独立を承認してから(つまり戦争中期以降)は、ベトナム国政府はベトミン政権を拒否する民衆から一定の支持を得ており、フランス連合軍の人員の7割が現地のインドシナ諸国の兵士(そして全体の5割がベトナム国軍)となるに至る。こうして第一次インドシナ戦争は当初のフランスからの独立戦争という単純な構図から、次第にフランス連合に残留して段階的な独立を目指す穏健派のベトナム人(ベトナム国政府)と、フランスの影響力およびベトナム国政府に好意的な人間を徹底排除し共産主義政権樹立を目指す過激派ベトナム人(ベトミン)というベトナム人同士の内戦へと変化していった。

・残留日本人たちは、当初ベトミンが掲げていた純粋な民族解放という理想に共感しベトミンに参加していたが、ベトミンが中国共産党からの支援への依存度を増すにつれて組織全体が共産主義体制に変質し、同じベトミン内の戦友・支援者までもを反革命分子として粛清していくのを目の当たりにした事で違和感を増していった。しかし戦争遂行に深く関わり過ぎており、途中で組織を抜ける事は出来なかった。

・残留日本人の多くはベトナム独立の理想とベトナム人戦友たちへの愛情を変わらず持ち続けたが、同時に戦争中期から戦後の1950年代全般にかけてベトミン・ベトナム労働党が行った急激な国家改造・共産主義化(土地改良に始まる弾圧・大量虐殺)には批判的であり、複雑な心境を伺わせる証言を残している。

・フランスや日本軍による妨害に遭いながらも身の危険を顧みずベトナム民族の解放と独立を援助し続けた松下光廣は、ホー・チ・ミンとベトミンを民族解放の志士とは見ておらず、むしろベトミンの暴力革命を「共産分子のテロ」と強い言葉で非難している。


 まとめると、彼ら残留日本人の多くは、現地で独立を渇望するベトナムの民衆の想いを間近で感じ、同じ人間としての共感しており、こうした人情の上に敗戦のショックと敵の占領下の日本で生きる事への不安・抵抗が重なり、彼らは日本軍人としての身分を捨て、フランス軍との戦闘に身を投じました。
 しかし彼らが協力したベトミンは、そんな残留日本人たちの意志とは無関係に、その目標を『独立』から『共産主義革命』へと変えていきました。また敵であるフランス軍も、当初の再植民地化を目指す『白人帝国主義者』から、フランス連合の枠内での独立に甘んじようとも共産主義政権は阻止したい『フランス連合派ベトナム人』へと変わってしまいました。
 最終的に戦争はベトミン側の勝利に終わり、残留日本人たちは北ベトナムの独立に貢献した事になりましたが、それは同時にベトミンによる共産主義革命・大量虐殺などを許す事となり、残留日本人たちが目指していたベトナム民族の解放と平和とは程遠い結果を招いてしまったと私は見ています。
 多大な犠牲を払いながらこうした結果に終わり、彼らの心中は察するに余りあります。しかしだからこそ、「ベトナムは独立して人々は幸せに暮らしました、めでたしめでたし」で終わる訳にはいかないのです。私の意図は、彼ら残留日本人を共産主義革命の協力者として非難する事ではありませんし、まして「日本人がアジアを解放した」などと恥知らずな自慰行為に利用する事でもありません。
 人間の歴史、特に戦争に関する部分は、常に後世の人間によって何らかの意図をもって都合よく切り取られ、利用されがちですが、私はそれに抗いたいのです。この戦いに限らず、人間が理不尽に命を奪い奪われる最悪の惨事を、見たい部分だけ見て喜び、見たくない部分には目を背ける、そういった人間の生命・人生に対して不誠実な姿勢を私は軽蔑し、否定します。
  


2018年01月06日

美作市のホーチミン像問題

※2018年7月3日更新

筆者の別ブログ ベトナムウォッチと重複している記事を、ベトナムウォッチの方に一本化しました。

ベトナムウォッチ 『美作市のホーチミン像問題』



またこの記事の後、美作市役所に対する抗議運動が実施されました。

ベトナムウォッチ 『美作市ホーチミン像に世界のベトナム難民団体が抗議』