2025年01月31日
1月の思い出
前回の記事と順番が前後しますが、今年の1月はけっこう遊んだ月でした。
①箱根
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①箱根
日本に住んでいる中国の友人と二人で大涌谷、関所、小涌園ユネッサンに行ってきました。
実はユネッサンについては、子供向けのプールだと思っていたので期待していませんでしたが、行ってみたらなかなか楽しめました。
おしゃべりしながら長くお風呂に浸かるのも悪くないですね。
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②ガーラ湯沢
タイの友人(ミリタリーマニアじゃない方)が6年ぶりに日本に旅行に来たので、今回も一緒に新潟のガーラ湯沢に遊びに行きました。
思い返せば、彼らと知り合ったのは丁度10年前の今頃でした。
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昼間一緒に行動したのはこの日一日だけでしたが、彼らは都内のホテルに泊まっていたので、別の日にも合流し、3回ほど居酒屋で夕食を一緒に取りました。久しぶりに会えて良かったです
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③伊香保
日本人の友人と、伊香保おもちゃと人形自動車博物館および伊香保温泉に行ってきました。
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最大の目的は1/1ティーガー戦車を見る事でしたが、それ以外にも様々なテーマの展示物が物凄い量展示してあり、思ったよりもはるかに長い時間、館内を見て周る事になりました。
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伊香保温泉では階段を全て上り、伊香保神社と、更にその奥にある飲泉所まで行きました。もちろん飲んできましたが、温泉は浸かるものであって口にするものではないなと思いました。
そして最後に黄金の湯館に入浴。いや~、良い休日でした。
2025年01月16日
東洋漫遊記⑫サイゴン(帰路)
日本に帰る途中、この旅の始まりの地サイゴンに戻ってきました。
うおぉぉ!こりゃええ。
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ただ帰るだけなら、他にもハノイやバンコクで乗り換えるルートもあったのですが、初日にトニー君と会った時に、サイゴンにあるホーチミン作戦博物館の事が話題に上がり、僕はまだ行ったことが無かったので、帰りに寄ろうと思っていたのです。
ここはベトナム戦争末期の1975年4月に共産軍が行ったサイゴン攻略戦「ホーチミン作戦(ホーチミン戦役)」を讃え、共産軍の言うところの「サイゴン解放」を記念する資料館です。
僕はサイゴンに来るのは今回で4回目なのですが、小さい博物館なので、今まで完全にノーマークでした。
しかしトニー君の情報では、なにげに現政府の敵であるはずのベトナム共和国軍の展示が充実しているとの事なので、こりゃ行かねばと思った次第です。
この日、サイゴンに到着したのが午後10時頃だったので、まずは激安ホステル(一泊500円)にチェックインして一泊。
翌朝、バイクタクシーを呼んで博物館に移動しました。
まず博物館に着くと、屋外に戦闘機や車両、火砲が展示してあります。まぁ、この辺は見慣れたものです。
中に入ると、1階は第二次大戦から現在までのベトナム人民軍に関する展示です。
そして2階に上がると、展示室は二つあり、一つはサイゴンを攻める共産軍の部屋。
そしてもう一つは、部屋丸ごとベトナム共和国軍についての展示でした。
これが博物館らしく、かなり貴重な品々のオンパレードです。
確かにトニー君の言う通り、共和国軍に関しては他のどの博物館よりも充実した展示です。
特に紙系の資料は内容をちゃんと読みたいので写真を撮りまくりました。
特に紙系の資料は内容をちゃんと読みたいので写真を撮りまくりました。
いやぁ、来て良かった。
この後は、観光する元気がなかったのでホステルに戻り、夜までのんびり過ごしました。
(行く先々で気温が違い過ぎて体調がおかしくなっていました。シエンクワンは5℃だったのに、サイゴンは30℃)
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▲ホステルで飼われている看板猫
旅の途中から東南アジア料理に飽きていたので、この日の夕食は日本食を求めて、日本人が経営する油そば屋さんに足を運びました。
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そして午後11時、タンソンニュット空港から成田行の飛行機に乗り、今回の旅が終了しました。
旅を終えた気分を歌に例えるとこちら。
旅した期間はのべ10日。元々は1か月くらい放浪しようと思っていたのですが、思いのほか目的が早く達成できたのに加え、長距離移動と気温の変化の連続で体調がおかしくなってきたので、無理せず帰国しました。
旅を振り返ってみると、なかなか密度の濃いものになったと思います。
・日本からの往復で使ったベトジェットエアーは座席が薄っぺらくてケツが超痛い
・陸路でラオスに入国したら現金が無くてご飯食べれなかった
・ワッタイ空港でSIMカード買ったら通信速度が遅すぎてGoogle検索すらできない不良品だった
・夜行バスはチケットが二重発券されてる、冷房が寒すぎて寝れない
などトラブルもありましたが、まぁこの程度で済んでよかったと思います。
翌朝、成田に着き、自宅に戻ったあたりから、思った通り本格的に体調が悪くなりました。
いつもは風邪くらい2・3日で治るのですが、今回は10日以上伏して過ごす事に。不本意ながら寝正月となりました。
2025年01月14日
東洋漫遊記⑪帰路につく
当初の予定では、ロンチェン(LS20A)の次はラオス北部の古戦場プーパティ(LS85)に行こうと思っていたのですが、プーパティに行くためにはシエンクワンからまた長距離バスに乗ってサムヌアに行き、そこでまたレンタルバイクまたは車をチャーターして未舗装の峠道を60km以上も登らなければなりません。その上、プーパティは街でもないただの辺境の山の一つで、遺構も大して残っていないようです。
ロンチェンに行けた事でだいぶ満足したのに、ここからさらに苦労して行くか?と自分に問いかけた結果、今回は行くのを止めようという結論に至りました。
(ちなみにネットで検索したらプーパティを含むラオス戦争戦跡ツアーをやっている会社がありましたが、問い合わせたら参加費用が40万円超えだったので諦めました。)
なので、これにてラオス旅は終了。疲れたので日本に帰ります。
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▲帰りのルート
当日はシエンクワン観光も終えて時間が余っていた+バスのチケットが売り切れになったら困るので、発車時刻の5時間も前にバスターミナルに行ってチケットを購入しました。
なのでチケットは無事買えましたが、その後5時間バス停で時間を潰す事に。
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バスターミナルの前に立派なお寺が有ったので見学しましたが、10分で見終わりました。
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暇過ぎるのでカッコつけて自撮り。 電池切れになったら困るので、スマホのゲームもそんなに長時間できません。
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陽が落ちて、夕焼けに浮かび上がるお寺。すごく良い感じ。バイバイ、シエンクワン。また来るよ。
と言いつつ、日没からバス発車まではまだ3時間あります。
陽が落ちると一気に気温が下がりますが、バスターミナルはガソリンスタンドのように、屋根はあるけど壁は無い吹きさらし。手持ちの服を全部着て寒さを耐え忍びます。
そうして、やってきました、この旅2度目の寝台夜行バス。
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今回は2人で添い寝ではなく、各自に一人用ベッドがあるタイプでした。
それは良いのですが、このベッド、横幅がとてつもなく狭いです。
僕は身長160cmで小柄な方ですが、それでもベッド幅は肩幅より狭く、常に体を縮めていないといけませんでした。これで明朝まで11時間過ごします。
でも前回のような冷房地獄ではなかったので、寝るのに支障はありませんでした。
翌朝、ビエンチャンに到着。
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ビエンチャンのカフェでコーヒータイム。ここでスマホとモバイルバッテリーを充電できたのは助かりました。
そしてワッタイ空港から、再びベトナムのサイゴンに向けて出発します。
2025年01月12日
東洋漫遊記⑩シエンクワン
※2025年1月13日更新
今回、ロンチェン訪問の起点としたのがシエンクワン(ポーンサワン)という町です。
ここの町は元々シエンクワン県シエンクワン郡という名前だったのですが、ラオス戦争で壊滅的な被害を受けたため、戦後街はほぼ一から再建され、その際新たに「ポーンサワン郡」という名前が付けられたそうです。
しかし現地に行ってみると、バスの行先や公共の施設名などには、まだまだ「シエンクワン」という名前が使われており、むしろポーンサワンの使用例の方が少なく感じるくらいでした。
元々僕の目的地はロンチェンただ一か所だったので、シエンクワンを観光する予定は無かったのですが、ロンチェン訪問が順調に進んだおかげで時間がだいぶ余ったので、ホテルから歩いて行ける範囲でシエンクワンの街を散策しました。
MAG(地雷諮問グループ)はイギリスに本部を置き、世界中に残された地雷・不発弾の捜索と処理を行う国際NGOです。
ラオス戦争時代、アメリカはラオスに地上部隊を派遣しなかった一方、航空機による共産軍への空爆は第二次大戦を上回る猛烈な規模で実施されました。特にここシエンクワン県は、ジャール平原をめぐって十年以上一進一退の攻防が繰り返された場所なので、空爆が行われた回数も膨大になります。
▲1965~1973年にアメリカ空軍がラオス領内で空爆を行った地点
これについて反米思想を持つ人々は、あたかもアメリカがラオス国民を狙って無差別爆撃したかのように宣伝しますが、それは大嘘です。
当時のラオスはアメリカの同盟国であり、アメリカはラオスを防衛するため、ラオスを侵略する北ベトナム軍を対象に爆撃を行ったまでです。仮に日本が他国に侵略されれば、国内に侵入した敵を迎撃するために自衛隊や米軍は日本国内を爆撃せざるを得ないのと同じことです。
とは言え、当時も今も、民間人や民間施設を巻き込まない「きれいな爆撃」など不可能であり、ラオス国民が空爆によって大きな被害に遭ったのもまた事実です。そしてその戦禍は、終戦後も不発弾という形でラオス国民を苦しめてきました。
特にクラスター爆弾は、1個の弾体から約300個の子弾が放出されますが、MAGの資料ではその内20~30%が不発を起こし地上に残ってしまいます。またその子弾は小型で発見が難しいため、人が接触して爆発する事故が後を絶ちません。一説によると、ラオス国内に残る不発クラスター子弾の数は8000万個におよぶと推定されています。
ここでクラスター爆弾という兵器の是非について語る気はありませんが、危険を顧みずラオス国民の為に不発弾処理に当たるMAGの活動には頭が下がるばかりです。
古代のジャール平原石壺遺跡から、この地に住む多様な民族、仏領インドシナ時代、そしてラオス戦争まで、シエンクワン県の歴史にまつわる品々を展示している博物館です。多分この分野に興味が無いと何も面白くないかも知れませんが、僕は十分楽しめました。
なお節電の為、僕が入るまでは中の電気が消えており、僕が展示室を移動するたびに係員のおばちゃんが電気をON/OFFしにやってきます。なんだか恥ずかしいなぁと思いながら見て周りました。
ここには第二次大戦末期の日本軍によるシエンクワン占領についても展示があました。
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これによると、フランス軍*コマンド部隊は1945年1月にシエンクワンに空挺降下し、現地でモン族を中心とする抗日組織『メオ・マキ』を組織して、現地の兵力や資金、弾薬を日本軍が到達する前に隠匿します。
(※この「フランス軍」が在インドシナ仏軍なのか、連合軍の一員としてインド・ビルマに進軍した自由フランス軍なのかは記述がありませんでした)
その後日本軍がシエンクワンに進駐すると、まだ十代だったヴァン・パオ(後の王党派モン族指導者・ラオス王国軍第2軍管区司令)は日本軍に雇われ通訳を務めつつ、裏ではメオ・マキの一員としてフランス軍の為に日本軍の情報を集めるスパイ活動をしていたそうです。
あのヴァン・パオ将軍が日本軍と関係が有ったという話は初めて知ったので驚きました。
③モン族服ショッピングモール
適当に通りを歩いていて、たまたま立ち寄ったショッピングモールがとても良かったです。Google Mapによると「KhwHmoob」という名前らしいですが、何て読むのか分かりません。
ここは1階は普通の生活雑貨や衣料品が売られていますが、2階に上がると、なんという事でしょう。モン族の民族衣装専門店が十数店も軒を連ねるモン族天国でした。
ウヒョヒョ。たまんねぇぜ。
実はシエンクワンもロンチェンも住民の大半はモン族なのですが、彼らはもう民族衣装なんて着ていなくて、日本人と同様にTシャツやらジーパンを着て生活しているので、せっかくモン族の街に来たのにモン族感が全然なかったのです。京都に来たのに和服の日本人がいなくてガッカリする外国人観光客の気分でした。
そんな中、思いがけずこのショッピングモールに出会ってしまい、大興奮で建物内を何回も往復しました。
ここで売っている服は女性用がメインですが、もちろん男性用もあります。
ただ僕が着る場合、リエナクトが主目的なので、今売っている服は使いにくいのです。
と言うのも、現代のモン族は普段民族衣装を着ないので、ここで売っている服は装飾が沢山付いた、結婚式など特別な時に着る正装・晴れ着だけなんです。
一方、僕がリエナクトで必要なのは、当時の一般的な普段着・野良着。残念ながらそういう物はもうどこにも売っていません。
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▲70年代以前のモン族の普段着(左)と、現在売っているアパレル製晴れ着(右)
なので僕は、当時風の服を自作して着ています。
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▲2024年に参加した「愛と戦火の大地2 ~スカイミッション~」にて
そんな中、コスプレに使えそうなアイテムを発見したので購入しました。
英語でスピリット・ロック(魂の鍵)と呼ばれるモン族の代表的なネックレスの一つです。
今売られている物は晴れ着用に華美な装飾が付いたものばかりですが、モール内を探し回ったら、このように昔ながらのシンプルなデザインの物を見つけることが出来ました。
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▲右は1950年代前半のフランス軍GCMA(混成空挺コマンド群)所属のモン族兵
当時のGCMAの映像:https://www.youtube.com/watch?v=oVBWCVA0Hvc
いや~、ビエンチャンよりも、この田舎町の方が何倍も楽しめました。
道中はなかなか大変でしたが、来て良かったです。
Posted by 森泉大河 at
16:13
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2025年01月10日
東洋漫遊記⑨ロンチェン
※2025年2月7日更新
ラオス戦争を通じてラオス王国軍・米国CIAの最重要拠点かつモン族最大の都市だった場所です。
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ちなみにこの町のローマ字表記はLong Tiengと書かれる事が多いですが、現地での発音は完全に「ロンチェン」でした。
ラオス戦争とロンチェンについては過去記事参照
ラオス戦争は1975年に終結しましたが、戦後もこの一帯ではモン族による共産主義政権への抵抗活動が続いたので、ロンチェンは2015年までラオス人民軍が管理する閉鎖都市でした。
なので現地に着くまではどんな雰囲気なのか想像がつかなかったのですが、いざ到着してみると、道中の未開のジャングルっぷりが嘘のように、割と綺麗に整った地方の村落という感じでした。
道はちゃんと舗装されており、住居や商店もたくさんあり、レストランやホテルまであります。いささか拍子抜け。
ま、元々戦時中から、この辺りで一番栄えていた町なので、当然と言えば当然ですが。
【余談】
・Wikipediaにはロンチェンは「当時のラオスで2番目に大きな都市であった」と書いてあるけど、それはさすがに嘘でしょう。今も昔も、平野部にあるサワンナケートやパクセーの方が何倍も人口が多いです。CEICによると、1976年当時のサワンナケート県の人口は約43万人。これは都市ではなく県全体の人口ですが、おそらくその大半はサワンナケート市街に住んでいたはずです。
・またロンチェンはしばしば「地球上で最も秘密の場所」という謳い文句で紹介されますが、これも欧米人の記者が読者の耳目を集めるために誇張した表現です。たしかに戦時中は地図に街の存在は載っていませんでしたが、戦時中の軍事施設が民間の地図に載っていないのは当たり前です。それにここはれっきとしたラオス王国軍第2軍管区本部の所在地であり、共産軍もそれを分かった上で十年以上ももロンチェンに対し攻撃を繰り返していました。ラオス戦争に関する情報には何でもかんでも「秘密」という言葉が付いてまわりますが、これはミステリアスな雰囲気を出して注目を集め、本や記事を売るための商業活動に過ぎないと感じています。
さて、ロンチェンに到着したのがちょうどお昼時だったので、さっそくレストランで食事をしました。
店内には観光客向けに、ラオス戦争時代のロンチェンの写真が堂々と飾ってあります。
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▲写真の下の文字は、「CIAが運営し、ヴァン・パオ将軍が率い、モン族が防衛したアメリカ軍事秘密基地」の意
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CIAが作った航空基地「リマサイト20A」の滑走路を眺めながら、鶏軟骨の唐揚げを食べる。
手前の道は戦後作られた幹線道路で、その奥にある砂利道が元滑走路です。
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▲当時のLS20A (LS98やLS30という別称もあります)
滑走路の奥(北側)にある切り立った尾根はアメリカ人から「スカイライン」と呼ばれ、ロンチェンの最終防衛ラインとしてモン族やタイ軍の防御陣地が置かれており、ロンチェン攻略を目指す北ベトナム軍との激戦が幾度も行われました。
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▲ロンチェン駐屯のモン族SGU将校たち(1967年)
お昼ご飯を食べ終えると、周辺を散策開始。
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これまでのミリタリー趣味人生の中で最高の写真です。僕はこの日のために生きてきました。
撮影後さっそく、ケン・コンボイ先生に「あんたの本のせいで、俺はこんな事になってしまったんだ」と、この写真を送りつけてやりました。
なお、ラオスは現役バリバリの共産主義国家であり、こういう事しているのが当局に見つかると非常にまずい事になります。
当日、警察官は見ませんでしたが、小脇にAKSを抱えた若い民兵がスクーターでパトロールしていました。
なので民兵はもちろん、地元住民にも見られないよう人けの無くなったタイミングを見計らい、大急ぎで撮影を済ませました。
やった本人が言うのも何ですが・・・、まともな人生送りたい人は真似しない方が良いと思います。(マジで逮捕されるので)
またロンチェンには、滑走路以外にも遺構が残っています。
それが何を隠そう、1966年に建設されたヴァン・パオ将軍個人の邸宅です。
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▲当時のヴァン・パオ邸
周囲の建物が何一つ残っていない中、真っ先に破壊されそうなヴァン・パオ邸だけが残っているのは、幸運と言うか不思議です。
現在この建物は一般公開されていないようですが、門が開いていた上、誰も居なかったので、勝手に敷地に入って写真撮っちゃいました。
あとは、軍事施設ではないですが、戦時中の1966年に建立されて以来、ロンチェンの人々の信仰の中心に有ったお寺ワット・ロンチェンをお参り。
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▲当時のワット・ロンチェンが写っている写真。滑走路の東側の丘の上にあります。
こうして長年待ち望んでいたロンチェン訪問が終了。
最高の気分です。この一日で、僕の人生の夢がまた一つ叶いました。
今回は何日かかるか分からない行き当たりばったりの旅のため、帰国するタイムリミットを気にしたくなかったので会社を辞めちゃったけど、全然後悔有りません。
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▲朝から長時間悪路を運転してくれたミグさん。ロンチェンからの帰り道、僕にミカンを買ってくれました。何から何まで感謝です!
2025年01月09日
東洋漫遊記⑧ロンチェンへの道
いよいよこの旅最大の冒険、ロンチェンに向けて出発です。
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この遺跡は約2000年前に先住のモン・クメール語族が作った物とされていますが、文字記録が残っていないので、詳細は謎に包まれています。(周辺から埋葬された人骨が見つかっているので、恐らく石壺は墓碑や墓の装飾として設置されたらしい)
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ホテルのあるシエンクワン(ポーンサワン)市街からロンチェンまでは約87km。
これをレンタルバイクで走破し、日帰りで戻るという考えでした。
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この日の為に日本で国際免許も取得したのですが、レンタルバイク屋では特に免許の提示は求められず、デポジットとしてパスポートを預けるだけで簡単にスクーターをレンタルできました。
しかしスクーターの準備ができたところで、店主に「どこに行くの?」と訊かれたので、「ロンチェンに行く」と答えると、「いや、道が悪いからスクーターでは絶対無理」「雨が降ったらマジで動けないよ」と必死に止められました。
うん、かなりの悪路であるという事は事前に把握していましたが、ロンチェンはバスも通っていない辺境の地なので、バイクの他に交通手段が無いのです。厳しい旅になる事は覚悟していました。
しかし、現地の人がここまで強く止めてくるという事は、本当に無茶なんだろうな・・・。
仕方ないので、試しに「車出してもらう事できます?」と訊いてみたら、このレンタルバイク屋はツアーもやってる会社だったので、即OKしてもらえました。
車と運転手を一日チャーターするので、価格はレンタルバイクの十数倍になりましたが、背に腹は代えられません。
僕の目的は「冒険」ではなく「ロンチェンに行く事」これ一点なので、一番確実な方法に辿り着けたのはむしろラッキーでした。
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▲レンタルバイク屋の受付に掲げられていたイラスト。描かれているのはジャール平原で戦うラオス王国軍。
まるで僕の為に用意されたかのような、最高の店に出会えました。
こうしてトヨタのランクルに乗ってレッツゴー!
まずはロンチェンへの道すがら、世界遺産のジャール平原石壺遺跡群に寄ってきました。
石壺(ジャール)遺跡は平原の各地に点在していますが、今回僕が行ったのは市街地から一番近いサイト1という場所です。
シエンクワン市街から遺跡あたりまでは、道路が舗装されているので快適に進めます。
この遺跡は約2000年前に先住のモン・クメール語族が作った物とされていますが、文字記録が残っていないので、詳細は謎に包まれています。(周辺から埋葬された人骨が見つかっているので、恐らく石壺は墓碑や墓の装飾として設置されたらしい)
このように遺跡自体は古代の物ですが、それから約2000年後、このジャール平原はラオス戦争の激戦地になったため、遺跡の周囲には塹壕や爆弾穴などの戦跡が生々しく残っています。
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▲石壺遺跡のすぐ横にある塹壕跡。恐らくラオス王国軍第2軍管区SGU(モン族やタイ人兵)が使ったもの。
遺跡見学を終えると、ジャール平原をさらに南下。道路の舗装が終わります。
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そして平原が終わり、人も住んでいないような山岳地帯、ガチ辺境へ突入。
ここから先は日本の外務省から危険レベル2が出ている地域です。(山岳地帯に立て籠もるモン族の反政府ゲリラ組織チャオファがラオス政府軍と度々衝突しているため)
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▲おしっこ休憩中
バイク屋で制止されただけあって、たしかに酷い道でした。
轍だらけ、岩だらけのいろは坂って感じ。4WD車でも10km/hくらいでゆっくり進むしかないような難所が無数にあります。
幸い天気が良かったので地面が乾いており泥濘に嵌る事はありませんでしたが、これ雨が降ってたらアウトでしたね。
そんなひどい道でしたが、僕は前日の夜行バスで全然寝れていなかったので、車の中でウトウト。
いや~、人に運転してもらうって楽だわぁ。
そうこうしているうちにロンチェンが眼前に迫ってきました。山の谷間にある狭い盆地がロンチェンです。
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いよいよ。ついに。
2025年01月07日
東洋漫遊記⑦ラオスの夜行バス
ビエンチャン観光を終えた夜、夜行バスに乗ってシエンクワン(ポーンサワン)に向かいました。
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本当は飛行機で行きたかったのですが、シエンクワン空港にはしばらく定期便が運行していないそうなので、バスしか移動手段がなかったのです。この夜行バスが色々大変でした。
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まず、このバスは寝台車になっており、ベッドに横になって寝れます。
それは良いのですが、乗客はベッド一台に付きつき二人が割り振られているので、見ず知らずのラオス人と狭いベッドで添い寝する事になります。
そしてバスに乗車すると、僕のベッドには既におっさんが寝ており、僕がベッドに入ろうとすると、なんか拒否してきます。
いやいや、ここは俺のベッドだとチケットを見せると、おっさんは「俺は一人で寝るために追加料金払ったんじゃ」とチケットを見せてきました。
うわぁ、これチケット発券ミスってるじゃん。おっさんの言い分ももっともです。
困ったのでバスの係員に事情を説明すると、係員はおっさんに、我慢して二人で寝ろと指示しました。
しかしこれに納得のいかないおっさんはスマホで(多分バス会社に)電話をかけ、大声でクレームを入れます。
その結果、おっさんは別の便に変更されたらしく、バスから降りていきました。
こうして僕は結果的に、無料でベッドを一人で占有できました。ラッキー♪
こうしてバスは無事発車したのですが・・・。天井からの冷房が強すぎる。
外は15℃を下回るような肌寒さなのに、車内の冷房がMAX。何考えてるんだ。
しかもエアコンの吹き出し口が丁度顔の真上にあり、冷風が顔面に当たり続ける。
寒すぎるので頭を毛布で覆ってなんとか寝ようとしましたが、常に全身に冷風が当たり続け、毛布が負けています。
その上、一度は独り占めできた僕のベッドに、途中からバスの搭乗員(荷物積み下ろしする若い兄さん)が入って来て、結局二人で寝る事に。
でも、これは結果的には助かりました。なぜならこのお兄さんの体温が湯たんぽ代わりになり、だいぶ温めてもらう事ができたからです。
もう頼るものはこのお兄さんの体温しかないので、全身密着して体温を分けて頂き、なんとか寝ようと頑張りました。
「現地の人々に密着し、人の温もりを感じる旅」と言うと、なんか素敵に聞こえません?僕は二度と御免です。
結局、途中ウトウトはしましたが、熟睡は出来ないまま、午前6時ごろ、目的地のシエンクワン(ポーンサワン)バス停に到着。
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ようやく冷房地獄から解放されたと思ったら、外はもっと寒くて、おそらく気温5℃ほど。
完全に吐く息が白いです。ラオスってこんな寒くなるんだと驚きました。
そこからトゥクトゥクに乗って市街地に移動し、ホテル探し。
こんな早朝でしたが、快くチェックインさせてくれました。
部屋に入るとまず、体を温めるべくシャワーを浴びます。シャワーはお決まりの電気湯沸かし器。
水量を最大にすると熱量が足りなくてお湯にならないので、蛇口を絞って、ギリギリお湯になるラインを探ります。
チョロロロ・・・と、シャワーと言うより水漏れレベルですが、お湯が出てくれました。
ああ、ありがたい。冷え切った体が生き返りました。
こうして一休みしたら、いよいよこの旅最大の目的地ロンチェンへ出発です!!
2025年01月06日
東洋漫遊記⑥ビエンチャン
さて、やってきましたビエンチャン。
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巷では「世界一何もない首都」と言われており、僕も単にシエンクワンに行くための中継地点として立ち寄っただけなのですが、せっかく来たので何箇所か名所を周ってきました。
①アヌサーワリー(パトゥーサイ)
ビエンチャンと言ったら、やはりここ。
アヌサーワリーはラオス王国時代の1968年に完成した紀念碑で、第二次大戦から戦後の対仏独立闘争で散ったラオス人兵士を顕彰し、ラオス独立を記念する施設です。
当時ラオス王国はアメリカから多額の経済援助を受けていたのですが、何か記念碑を建設したかったラオス政府は、アメリカから空港建設の為として送られた資金とセメントを、黙ってこのアヌサーワリー建設に使ってしまったそうです(笑)
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▲かつてラオス王国軍のパレードが行われたアヌサーワリー前のラーンサーン通り
1975年、共産軍が戦争に勝利すると、パテート・ラーオ(ラオス人民革命党)政権はアヌサーワリーを『パトゥーサイ(勝利の門)』へと改称、革命戦勝記念碑へと再制定して現在に至ります。
とは言え、パテート・ラーオは戦時中ほとんど最初から最後まで北ベトナムにおんぶにだっこで、北ベトナム軍に代わりに戦ってもらい、結果的に勝った側に居ただけのようなものです。
その結果ラオスは実質的にベトナムの保護国となり、ラオス人民革命党はベトナム共産党の代理人としてラオスを統治しているに過ぎません。
パテート・ラーオの言う「勝利」とは、一体誰にとっての勝利なのか。多分勝利の恩恵にあずかったのは、運転手付きのメルセデスに乗っている党のお偉いさん(ハノイの飼い犬)だけです。
②タート・ルアン
後は普通に観光です。
タート・ルアンはラオスを代表するお寺で、その仏塔は国章にも描かれています。
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仏塔は立派ですが、思ったよりも敷地が狭いので、すぐ見終わりました。
仏塔のすぐ隣にある寺院の方が、いろいろ見る物があります。
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③タート・ダム
訳あってパスポートのコピーを用意する必要があり、コピー屋に行ったついでに、近くにある古い仏塔に寄ってきました。
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歴史がある感は伝わってくるのですが、観光地ではなく、住宅街の真ん中にある小さな公園状態なので、一瞬で見終わります。
とは言え、近所の住人が集まってお供え物をしている姿は、ここが遺構や遺跡ではなく現役の宗教施設である事を意味しており、ラオス人のリアルな信仰が目の前で見れたのは良かったです。
愚痴
ミリタリーマニアとしてはラオス人民軍歴史博物館に行ってみたかったのですが、現地に着くとなぜか門が閉まってます。
ネットで調べると昼前後は休み時間らしいので、午前と午後2回も足を運びましたが、やっぱり開いていません。
何の案内もないし、誰も居ない。
なお、その近くにある人民公安博物館も、曜日的に休館日でした。
ふざけんなー!クソッ!
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2025年01月05日
東洋漫遊記⑤サワンナケートとワッタイとタオ・マー
サワンナケートはかつてラオス王国軍第3軍管区本部が置かれ、日本人ラオス軍将校サワット・ムンクルン(山根良人)大佐が生活した地ではありますが・・・
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史跡的には大して見る物も無さそうなので、一泊したらさっさとビエンチャンに移動しました。
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▲サワンナケート空港からラオ・エアラインのATR72に乗って出発。
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▲サワンナケート市街。奥に見えるのがメコン川。川の向こうはタイ王国領
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▲1時間ほどでワッタイ空港(ビエンチャン)に到着
と、ここで蘊蓄開始。
サワンナケート空港はかつてのラオス王国空軍サワンナケート空軍基地(第3/第303空軍基地)であり、1961~1966年まで空軍本部が置かれていました。
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▲かつてのサワンナケート空軍基地正門
この時期空軍本部を率いていたのが、ラオス空軍初代司令官タオ・マー准将です。
タオ・マーは短気で苛烈な性格として知られる一方、不正や腐敗を憎む清廉な人物でもあったため、汚職に手を染めるビエンチャンの王国軍将官たちと長年対立関係にありました。
当初ビエンチャンのワッタイ基地に置かれていた空軍本部がサワンナケートに移転したのも、タオ・マーを首都から遠ざけて権勢を削ぐための政争の結果だったと言われています。
しかしビエンチャンから遠く離れた事がかえって幸いし、タオ・マーはラオス南部の青年将校を糾合し、独自の勢力を築く事に成功します。
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▲米海軍空母エンタープライズを視察するタオ・マー准将(中央) 1965年
参謀本部とタオ・マーの対立が深まる中、参謀本部は1966年10月、タオ・マーをビエンチャンの統合作戦センター司令に任命すると発表します。これは名目上は昇進人事でしたが、実際にはタオ・マーから空軍部隊の指揮権を取り上げ、事務職に追いやる策略でした。
こうして追い詰められたタオ・マーは10月21日、ついに軍事クーデターを実行に移します。サワンナケート基地から出撃したタオ・マー指揮下の空軍T-28(元は練習機だがラオスでは攻撃機として使用された)編隊は首都ビエンチャンの王国軍参謀本部、第5軍管区本部および弾薬庫を爆撃し、多数の死傷者を出します。
また同時にタオ・マー派の陸軍部隊が王国軍参謀長ウアン将軍を拉致する手はずとなっていましたが、土壇場で陸軍部隊司令官がタオ・マーを裏切り反乱から離脱した事で、政府軍の指揮系統を寸断する事に失敗。地上部隊なしでの首都制圧は不可能となり、タオ・マーはクーデターを断念してタイ王国に亡命します。
しかし、その後もタオ・マーはタイ領内で再起を図ります。
1966年のクーデター未遂から7年後の1973年、ラオス王国政府とパテートラーオ間で停戦協定が結ばれたのを機に、タオ・マーは停戦に反対するラオス国内の右派将校と結んで再度ビエンチャンでクーデターを実行します。
秘密裏にラオスに戻ったタオ・マーと同志たちはすぐさまワッタイ基地を占拠し、タオ・マー自身もT-28を操縦し政府軍を爆撃しました。
しかしタオ・マーが出撃している間にワッタイ基地は政府軍によって奪還されており、それを知らずにタオ・マーがワッタイ基地に着陸しようとした際、地上の政府軍から重機関銃による銃撃を受け乗機は墜落。
タオ・マーは地上で逮捕され、そのまま第5軍管区本部に連行されて即時処刑された事でクーデターは終わりました。
▲1973年クーデター未遂事件の映像
2025年01月04日
東洋漫遊記④国道9号線
フエ観光を終えた翌朝7時、予約していたバスに乗り、ラオス・サワンナケートへ向けて出発します。
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本当は飛行機でハノイやサイゴンを経由して行った方が圧倒的に楽なのですが、せっかく目の前にインドシナ国道9号線やベトナム戦争期のDMZ(非武装地帯)があるので、現地を通っていきたかったのです。
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▲今回乗ったフエ発・サワンナケート行バスのルート。所要時間約10時間
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▲大型の高速バスなのに乗客はたった8人という贅沢仕様!(客席の2/3はラオスへ運ばれる貨物でぎっしり埋まっている)
まず、フエを出発すると国道1号線を北上して1972年赤火の夏(イースター攻勢)の激戦地クアンチ、ドンハを通過。
ドンハから国道9号線に入り、西に進みます。
しばらく進むと、1968年のケサンの戦い(ペガサス作戦)の激戦地ケサンを通過。
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▲ケサン近郊。悪天候で景色は良く見えませんでした。
ここから先は1971年の南ラオス戦役(ラムソン719作戦)におけるベトナム陸軍第1騎兵旅団の進軍ルートです。
そしてベトナム・ラオス国境に到達。
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国境越えの際、出入国の窓口で謎の通行料を徴収され一文無しになりました。(ドンを余らせないよう現金を最小限しか持っていなかった)
しかもこの日は朝ご飯を食べていなかったので、お昼ご飯を買うお金も無くなり、サワンナケートに着くまで一日中何も食べられませんでした(泣)
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▲ラオス領内の9号線からの眺め
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▲9号線を西進するベトナム軍(1971年)
途中通過したドンという町にはラムソン719博物館という施設があるそうなのですが、ここに行くには高速バスを降りて地元の路線バスに乗り換えたりしなくてはならず、それだけで1日がかりになりそうだったので、今回はスルーしました。
そしてベトナム陸軍第1歩兵師団が一時占領に成功するも、その後共産軍の総攻撃に遭い全滅状態に陥ったセポーンを通過。
これにてラムソン719進軍ルート素通りバスツアーは終了です。夕方まで車内で寝てました。
バス旅の終盤、かつてのラオス王国軍空挺部隊の本拠地(ラオス空挺発祥の地・第1空挺大隊本部および空挺訓練センターの所在地)セノを通過。
そして17時ごろ、ようやくサワンナケートに到着しました。バス停に着いたらすぐATMに行って現金(キープ)をゲット。
ホテルにチェックインして、ホテルの近くのレストランでチキンカツのカオマンガイを頂く。腹が減っていた分よけいに美味かったです。
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こうして人生初のラオス旅1日目が終わりました。
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(この夜、たまたまホテルの隣の建物で結婚式が行われており、深夜まで大音量でカラオケ大会が続いていてマジむかついた)
2025年01月02日
東洋漫遊記③フエ皇城
新年明けましておめでとうございます。
実は僕は12月のベトナム・ラオス旅で体力を限界まで使い切ったらしく、帰国したその日から風邪をこじらせて1週間以上出歩けない状態が続いております。
なので毎年恒例の氏神様での年越しもベトナム寺への初詣もできませんでした。
とは言え、本来グレゴリウス暦なんて日本人には意味のない暦なので、太陽太陰暦(旧暦)の正月に本来の初詣をすれば良いかなと思っております。
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以下、旅の記録の続き
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ダイノイは阮朝ベトナム(大南国)の創始者 嘉隆帝(ザーロン帝)が新たな宮廷として1804年から建設を開始し、最後の皇帝 保大帝(バオダイ帝)が1945年に退位するまで約140年間使われた、阮朝の栄華と没落を物語る宮殿です。
ちなみにホー・チ・ミンの八月革命によって退位して以来国外に亡命していたバオダイは、1948年にベトナム国国長(国家元首)としてベトナムに帰国を果たしますが、ダイノイには戻らず、以後はダラット等のリゾート地で生活しました。そのため皇帝を警護するベトナム陸軍近衛大隊もフエではなくダラット駐屯です。
ダイノイは本当に素敵な場所で、何時間居ても飽きませんでした。
中では写真を撮りまくりましたが、全部紹介していると切りがないので、今回は僕が特に興味をひかれた部分を掲載します。
紫禁城と太和殿
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ダイノイは中国北京の紫禁城を手本としており、宮廷の最重要儀礼を行う宮殿は中国と同じく「太和殿(Điện Thái Hòa)」という名前です。
もちろん古代中国から受け継がれ、日本の朝廷でも取り入れてきた「天子南面」の思想に基づき、ダイノイおよび太和殿も南側が正面となっています。
また、太和殿の後方(北側)にあり、皇帝一家と側室・女官・宦官が暮らす後宮エリアはズバリ「紫禁城(Tử Cấm thành)」という名前です。
(本家中国の「紫禁城」は後宮だけでなく宮殿全体を指す)
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太和殿の前には式典の際の廷臣の立ち位置を示す石の看板が立っていますが、そこに記された官位も中国と同じく正一品から始まるものです。
実はこの太和殿、老朽化によりかなりボロボロの状態になっていたそうで、2021年から解体を伴う本格修復が行われていました。
そして僕が訪れる約1月前の2024年11月、3年がかりの修復工事が終わった事を記念し、阮朝の朝廷儀式を再現した完成式典が行われました。
僕はこの修復工事の事を知らずにフエに行ったので、日にちが1か月早ければ太和殿はまだ工事中で中を見れないところでした。ラッキーでした。
ベトナム戦争期
一応教養として阮朝時代についても学んだものの、やっぱり僕が一番興味あるのはベトナム戦争期。
ダイノイは1945年のベトミンによる破壊に続いて、1968年にはまたしてもベトコンによるマウタン1968(テト攻勢)で激しい戦禍に見舞われボロボロに崩壊します。
そんなベトナム戦争期のダイノイと現在の比較写真を撮ってきました。
正義に酔うのは簡単。憎悪に狂うのも簡単。しかしそれがどんな結果を生むか想像する力は、一朝一夕で養えるものではありません。
歴史を保存し学ぶ意義はここにあります。
2024年12月29日
東洋漫遊記②クオン・デ候の墓参り
※2024年12月31日更新
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サイゴンでトニー君と遊んだ翌日、朝から飛行機に乗ってフエに移動しました。
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フエでの最大の目的は、日本と深い因縁を持つグエン朝の皇族クオン・デ(Cường Để)の墓参りです。
クオン・デについては日本語の本が何冊も出ていますので読んでみてください。
クオン・デは1951年に東京で亡くなった後、遺骨は3ヵ所に分けて埋葬されたので、墓と呼べる場所も3ヵ所あります。
一つはクオン・デ自身が建立した東京の雑司ヶ谷霊園のチャン・ドン・フォンの墓。クオン・デは東遊運動期に弟のように可愛がっていたフォンの墓に、死後自分の遺骨を合葬するよう遺言に残しました。ここは数年前にお参りしました。
残る二つは、故郷ベトナムのフエ、そしてクオン・デと深いつながりのあったカオダイ教の総本山(タイニン聖座)です。
この内、フエの墓の所在地についての情報はかなり限られていますが、一応Wikipediaベトナム語版には「thuộc tổ 10, khu vực 5, phường An Tây, TP Huế」という住所が載っていました。これをGoogle Mapで検索すると、この位置になります。
ベトナムの住所はかなりいい加減なので、たぶん一発で辿り着く事はないだろうと思いながら、とりあえずGoogle Mapで示された地点に向かいました。
フエ市街地からタクシーで20分くらいかけ到着すると、そこは高校生くらいの若い僧が住み込みで勉強する、割と立派な仏教学校でした。
そこでタクシーを待たせ、僧の方々にクオン・デの墓知りませんか?と聞いて回りましたが、誰も知りません。
この墓参りの動機の一つとなった本、『「安南王国」の夢(牧久著)』では、著者は現地のドライバーに「あまりクオン・デという名前を出さない方が良い。公安に目を付けられる」と警告されていましたが、実際には現地の人も誰一人クオン・デという人物自体を知らない気がします。
うーん、困った。
念のため再度Google Mapで「Mộ Cường Để (墓 クオン・デ)」と検索してみたところ、近くにヒットする場所がありました。
この時点では半信半疑でしたが、結論から言うと、この位置で正しかったです。
そしてタクシーで5分くらいかけ、マップで示された位置にあるChùa Diệu Sơn (イウソン寺)の前に着いたのですが、寺の門は締まっていました。
しかしここで引き下がるわけにはいかないので、勝手に門を開けて寺の境内に進入。
するとそこに若い尼の方が居たので、再度クオン・デの墓について聞くも、やっぱり知らないと言います。
しかしスマホでマップを見せると、たぶん寺の中じゃなくで裏山だと言います。
なので一旦寺を出て、言われた通りに進むと、山の中に通じる細い林道を発見。これを登っていきます。
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山を登る途中、お墓が複数あったので、一つ一つ確認しましたが、どれもクオン・デの物ではありませんでした。
しかしあきらめずに登っていくと、マップで示されたまさにその位置付近で、ついにクオン・デの墓を発見!
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ついにフエの墓前で合掌することが叶いました。
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この日は疲れたので、クオン・デのお墓参りを済ませるとホテルに戻りました。
翌朝、同じくフエ市内にあるファン・ボイ・チャウのお墓参りに向かいます。
ベトナム国内で非常に評価の低い、あるいは全く無名なクオン・デとは異なり、ファン・ボイ・チャウは現在もベトナム独立運動の父として顕彰されているため、墓所は立派な記念館になってるそうです。
中には日越友好を謳う日本語の紀念碑もあるそうで。(東遊運動を潰してファン・ボイ・チャウを国外追放したのは日本政府なんですけどね)
そして現地に到着
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しかし、なんか門が閉まっています。
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2024年8月から休館中・・・だとぉ?
ふざけんなクソー!フエに来る機会なんてそう無いんだよ。もう!
クオン・デの墓は山の中に野ざらしのなのである意味年中無休ですが、こちらはちゃんとした記念館になっている事がかえって仇になってしまいました。
しょうがないので門の前で一応合掌しましたが、これでは墓参りとは言えないでしょう。何年先になるか分かりませんが、リベンジしなくてはならなくなりました。
2024年12月29日
東洋漫遊記①サイゴン
12月後半、ベトナムとラオスを旅してきました。
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まず、旅の始まりの地サイゴンでは、前もって会う約束をしていたトニー君と初対面。
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ベトナムには「ARVN好き」を名乗るマニアはそれなりに居ますが、正直、総じてレベルは低いと感じています。
そんな中で、彼は年齢は若いですが、飛びぬけて知識が豊富で、ベテランとのコネも多く持つ一流の研究者の一人なのです。
そんなトニー君の運転するスクーターに乗って一緒にヤンシン市場に行きました。
僕は数年前、ヤンシン市場を訪れた際にベトナム戦争期のベトナム共和国軍野戦服ボタンと同型の物(おそらく戦後も同じ型で人民軍向けに生産が続いた)を100個ほど買ったことが有るので、今回もそれを買いに行きました。
しかし軍装品店でボタンちょうだいと言うと、かなり奥にしまってあるので今日は取り出せない、別の日に来てくれと言われてしまいました。ガッカリ
後日トニー君に代理で買ってもらい、日本に送ってもらう事になりました。
他には特に探している物は無かったので、適当に市場内を歩き、気になった物を購入。
①コンナイの瓶
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コンナイ(鹿)はサイゴン市チョロンに本社を置く華人系のフントアン(Phương Toàn)社が生産していたサルシ(シオデという植物の種から作られるソフトドリンク)で、ベトナム共和国期はBGI社のコン・コップと双璧をなした人気炭酸飲料だったそうです。
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▲コンナイの販促ポスター
なお上の記事によると、フントアン社は当時、ライバルの米国ペプシ社のベトナム市場参入を阻むため、ベトナム国内の空き瓶回収業者に金を渡してペプシの空瓶を破壊させたそうです。これによりペプシは毎回米国から新品の瓶を輸入せざるを得ず、コストがかさんだため本格参入できず、ベトナム共和国期の飲料市場はBGI社とフントアン社の独占状態だったそうです。
その後、フントアン社は1975年の終戦後もコンナイを生産し続けましたが、1980年代にひっそりと経営破綻したそうです。なので今回買った瓶がベトナム共和国時代の物なのか戦後製なのかは分からないのですが、少なくとも瓶の外観は共和国時代と同一っぽいので記念品としては満足です。
②ベトナム共和国パスポート
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こちらはアンティークショップで見つけた掘り出し物です。
これだけ良い状態で残っているのは正直驚きでした。
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持ち主は軍人のようです。
1958年にカンボジア(クメール王国)に渡航しており、中にはその時のクメール語の書類も残っていました。
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おまけ
こちらは僕ではなく、トニー君が買った古写真。
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空挺師団の偵察中隊という割とレアな写真です。4ポケット作戦服を着ているのでおそらく1973~1975年頃のもの。
右胸ポケットの丸いパッチが空挺師団内の偵察中隊(第1~第3中隊共通)で、左胸のネームテープの上にあるのが長距離偵察証です。
(関連記事『偵察中隊/ベトナム軍LRRP』参照)
今回、人と会う約束をしていたのはこの日のみなので、翌日から本当の一人旅がはじまります。
2024年08月15日
マスターアジア来日
※2024年8月16日更新
コンボイ先生は知る人ぞ知る東南アジア軍事史研究の世界的権威・偉大なコレクターで、多数の著作を発表しており、特にラオス、カンボジア、インドネシア研究については他の追随を許さない圧倒的な情報量と当事者へのインタビュー実績があります。
Amazonで販売中の先生の著作の一部
40年近い研究・執筆活動の中で、先生は多数の軍人・CIA職員のみならず、ベトナム共和国総統グエン・バン・テューやラオス王国軍モン族指導者ヴァン・パオ将軍、ラオス中立派軍指導者コン・レー将軍など、第2次インドシナ戦争の中心人物への直接インタビューを幾度も行っています。
またこれは偶然ですが、先生は大学時代に日本の現デジタル大臣 河野太郎氏とルームメイトで、今でも親交があるそうです。どんだけ人脈持ってるんだこの人・・・
僕は高校生の時、ベトナム戦争コスプレサバゲを始めた頃にコンボイ先生の本に出合いました。
先生の本は、決して日本語で出版される事の無い第2次インドシナ戦争の本質に迫る貴重な情報を与えてくれるもので、その著者であるコンボイ先生は長年雲の上の存在でした。
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それから時は流れ、数年前、Facebookを通じてそのコンボイ先生とコンタクトを取ることが出来ました。
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日本からコンボイ先生に送った写真。
先生の著書『FANK: A History of the Cambodian Armed Forces 1970-1975』を手に、クメール国軍第294猟兵大隊のコスプレ写真を披露。喜んでいただけました。
そして今年8月、コンボイ先生がご家族と一緒に日本に旅行に来る事になったので、私は是非ドライバーとして日本を案内させて欲しいと申し出て、その旅行に2日間同行させて頂くことが出来ました。
一日目は先生のご家族の希望で、富士の青木ヶ原樹海と富岳風穴を散策。
お盆なので物凄い渋滞でしたが、目的は達成できたので良かったです。
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二日目、先生のご家族がディズニーランドに行ってる間、僕と先生は二人で中野ブロードウェイでショッピング。
実は先生は日本の(特に昭和の)怪獣映画の大ファンであり、僕もゴジラファンの端くれなので、先生とは歴史だけでなく怪獣関係でも話が合い、以前から先生の怪獣コレクション収集に協力させて頂いておりました。
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先生の依頼で、僕が日本で代理購入したゴジラやガメラのガレージキット
なので中野ブロードウェイは僕らにとってお宝の山なのです。
先生は1965年公開当時の『フランケンシュタイン対地底怪獣』のポスターをゲットして大変喜んでおられました。
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長年憧れていた大先生と丸二日間一緒に旅をし、色々な事をお話しできて、最高に幸せな時間でした。
2024年05月11日
ゴールデンウィークの行楽
今年のゴールデンウィークは幸い大型連休となりましたので、ミリタリー趣味とは関係無い、人間らしいリクリエーションも楽しんできました。
雄大な自然、綺麗な空気の中で吸うタバコが美味いのなんの。実は僕、つい最近までコミコンというイベントを知らず、4月に同僚から聞いて初めて知りました。
その1 昇仙峡(山梨県)
雄大な自然、綺麗な空気の中で吸うタバコが美味いのなんの。
昇仙峡ではまず最初にロープウェイで山に登って展望台に行く。
その後ロープウェイを下って遊歩道を歩いて仙娥滝などを見てきました。
昇仙峡のあとは、やまなしフルーツ温泉ぷくぷくでお風呂に入り帰宅。
良い休日でした。
その2 大阪コミコン2024
その2 大阪コミコン2024
公式サイトを見てみると、僕の好きな映画の俳優さんたちが何人も来るではありませんか!
特にバックトゥザフューチャーのクリストファー・ロイド、ロボコップのピーター・ウェラー、ハンニバルのマッツ・ミケルセンの3人を生で見れると知り、居ても経っても居られず大阪行きのチケットを買いました。
(過去記事の浅羽佐喜太郎公紀念碑は、この大阪コミコンへの道中で寄ってきました。とは言え駅や高速ICからはかなり離れた場所にあるので、寄り道と呼べるほど気楽に行ける距離ではありませでしたが・・・)
大阪では3日間開催されるコミコンの全てに参加し、ステージショーや展示を楽しんできました。
[ステージショーを生で見る事できた有名人]
・クリストファー・ロイド
・トーマス・ウィルソン
・ジェイソン・モモア
・ピーター・ウェラー
・小島秀夫
・マッツ・ミケルセン
・ノーマン・リーダス
・釈由美子
・竹内力
[司会・ゲスト]
・斎藤工
・LiLiCo
・なべやかん
・ゆりやんレトリィバァ
いやぁ、映画って本当にいいもんですね。
2024年01月16日
最近行った場所
日曜日にビクトリーショウに足を運んできました。
お目当てはこちらの展示。
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デスボランティアさんが所蔵する超貴重なコレクションの数々です。鼻血が出ちゃいます。
米国カリフォルニア州ウェストミンスターにはベトナム共和国軍史資料館という私設博物館があり、私は2回訪問しているのですが、迷彩服に限って言えば、こちらの展示の方が凄いです。
いや見に行って良かったぁ~
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また順番は前後しますが、最近、成田空港の隣にある航空科学博物館にも行ってきました。
なんとベルX-1(XS-1)1号機『グラマラス・グレニス』のコックピット部分の実物大レプリカが展示されており、中に入る事ができました。
館内にはゼロ戦のコックピットもあったけど、映画『ライトスタッフ』が好きな僕的にはX-1の方が燃える!
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僕は昔は飛行機と言えば軍用機しか興味ありませんでしたが、度々海外旅行で旅客機に乗るようになってから民間エアラインにも興味が湧いてきて、ここ数年はYoutubeで、エアライン系フライトシムのゆっくり実況をやっているe92m3s65b40agogoさんの動画を毎回見ています。
これで多少はエアラインのコックピットでどのようなやり取りが行われているか知識が得られたので、その上で航空科学博物館の展示を見れたのはとても良かったです。
2023年12月04日
西洋のパリ
日曜に映画館で『ナポレオン』を観てきました。もちろん吹き替えで。
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一言で言うと、滅茶苦茶良かったです。
劇場の大画面と大音響で、あの時代の砲撃戦や戦列歩兵、騎兵突撃を見れただけで十分興奮しました。
それに、これは偶然ですが、つい1か月前にパリを観光し、ナポレオンゆかりの地に足を運んだばかりだったので、なおさらこの映画を楽しめました。(旅行している最中もこの映画の公開を楽しみにしていました)
【ナポレオンゆかりの地】
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ノートルダム大聖堂
ナポレオンがフランス皇帝に即位し戴冠式を行った場所です。
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テュイルリー庭園(テュイルリー宮殿跡地)
フランス革命中は国王ルイ16世とマリー・アントワネット夫妻の居城、後にナポレオンが公邸としたテュイルリー宮殿があった場所です。
残念ながら宮殿は後にパリ・コミューンの放火により焼失しており、現在は庭園のみが残っています。
せっかくパリに来たので、この庭園内で、スマホで音楽を鳴らしながら『御旗のもとに』を歌ってきました。
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エトワール凱旋門
ナポレオンがアウステルリッツの戦いに勝利した記念に建築された戦勝記念碑です。近くで見ると物凄く大きな建物でした。
【ブルボン朝ゆかりの地】
以下は時代をナポレオンから少し遡って、ブルボン朝に関連する場所です。
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ルーブル美術館(ルーブル宮殿)
今は美術館ですが、元々はルイ14世の時代まで王宮だった建物です。
美術館の内部を見学するには入館料が要りますが、敷地に入って建物を見るだけなら無料でした。
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コンコルド広場
フランス革命によりルイ16世とマリー・アントワネット夫妻が処刑された場所です。
映画『ナポレオン』でも冒頭でちょっと出てきました。
でもコンコルド広場全体が、2024年のパリ・オリンピック関連の工事中だったので風情には欠けました。
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オテルドラマリーン(旧ガルド・ムーブル/フランス海軍省)
コンコルド広場に面するこの建物は、ルイ15世によって建造された宮殿・王室財産保管庫(ガルド・ムーブル)であり、フランス革命後はフランス海軍省庁舎として2015年まで200年以上に渡って使われていたそうです。現在は18世紀の内装を復元し、高級ホテルとして営業しています。
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シャンゼリゼ通り
このシャンゼリゼ通りも元々はブルボン朝時代に建設されたそうです。
でも史跡と言うよりは現役バリバリの商業の通りなので、フランスの表参道と言った感じ。
【第二帝政】
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サン・ミシェル橋
所謂ナポレオン(ナポレオン1世)ではなく、その甥のナポレオン3世が作らせた橋だそうです。
ちなみにナポレオン3世は、フランスがインドシナを征服した時期の皇帝なので、東アジア史が趣味の僕的にはナポレオン1世よりも3世の方が馴染があります。
ノートルダムから凱旋門まで5kmほど歩いただけで、こんなにもたくさんの名所を見て周る事ができました。
他にもエッフェル塔やヴェルサイユ宮殿、廃兵院など行ってみたい場所はいくつもありましたが、この後パリ市内のサープラスショップを2店周らなければならなかったので、時間的・体力的に余裕が無く、今回はおあずけ。
でも、フランスにはまた来る気がするので、次回見に行けばいいやと思っています。
2023年11月18日
ソミュールでカリウス中尉に会う
フランスでは、パリから遠く離れたソミュールにある機甲博物館(Musée des Blindés)、通称「ソミュール戦車博物館」にも行ってきました。
僕は今のメインの趣味であるベトナム史とは別に、元々戦車大好き少年だったので、ヨーロッパ随一の装甲車両博物館であるソミュールは、フランスに行くからには絶対行きたい場所だったのです。
そしてホームステイ先のエグリ市から車で3時間半かけてソミュールに到着。
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事前にネットで、どんな車両が展示されているかは大体把握していたのですが、現地に行って初めて知ったことも多々ありました。
その一つが、第2次大戦期のドイツ陸軍のエース戦車指揮官、オットー・カリウス中尉のマネキン展示です。
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実は僕、カリウス中尉が大好きで、かつては彼のコスプレもしておりました。(白い陸軍将校夏季制服はオーダーメイド)
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▲22歳の時のカリウス中尉と、同じく22歳の時の私
カリウス中尉は2015年に他界されているので、実際に会う事はもう叶わないのですが、まさかドイツではなくフランスの博物館でカリウス中尉の展示に出会えるとは。
フランスは基本的にナチス・ドイツに対する憎しみがかなり強い国ですが、この博物館に限って言えば、ナチス・ドイツ軍に関する展示はドイツ本国と同等かそれ以上に充実しています。(戦後フランスがドイツ軍の装備を接収して使っていたので物が豊富に有るせいもありますが)
ドイツ陸軍だけならまだしも、武装SSの戦車服や軍装類までちゃんと展示してあったのは驚きでした。(武装SSは国軍ではなくナチ党の私兵組織。幾多の戦争犯罪の主犯とされています)
一方、フランスの博物館なので当然ながらフランス軍に関する展示は世界で一番充実しており、第2次大戦中の自由フランス軍や、ドイツ占領下で活動したレジスタンス/パルチザンに関する展示が見れるのは、ここフランスならではでしょう。
ちなみに博物館を見学中は外がすごい雨だったのですが、見学を終えて昼食を食べにソミュール中心街に行くと、急に晴れて青空が広がりました。
(博物館はソミュール中心街から7kmほど離れた住宅街の中にあり、周りにレストラン等は一切無い)
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雨上がりの空に虹がかかりました。
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帰りの高速道路でも虹を発見。
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2023年11月12日
レジェンドのサイン
先日のフランス旅では、事前に著名なベトナム軍ベテランとお会できる事があらかじめ分かっていたので、この機を逃すまいと、日本からベトナム軍に関する分厚い本を4冊も持参しました。これらの本に、ベテランたちのサイン(オートグラフ)を頂こうと考えた次第です。
しかし慰霊祭会場でこれらの本を携帯する訳にはいかず、また彼らは芸能人ではないので、いきなりサイン下さいと言うのも失礼ですから、実際にサイン下さいと言えるタイミングが有ったのは、昼食会やホームパーティーをご一緒した2名のみでした。
チャン・ドゥック・トゥン陸軍中佐(空挺師団衛生大隊長)
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ユー・コック・ルォン空軍大佐(NKT航空支援部司令)
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これだけでも十分お宝なのですが、せっかくならサインを自分の部屋に飾りたいので、本に書いていただいたサインをスキャンし、当日一緒に撮った写真と組み合わせてプリントする事にしました。
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▲ルォン大佐は現役時代の鮮明な写真が残っていないので、空軍・総参謀部・SOGのシンボルマークと組み合わせました。
それらを額縁に入れて飾ると、こんな感じ。
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左上は2016年に、レ・ミン・ダオ陸軍少将(第18歩兵師団長)から頂いたサインです。
お金では買えない宝物を持つというのは、気分が良いですね。
2023年11月11日
フランスでお会いしたベテラン達
※2023年11月12日更新
※2025年1月11日更新
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右:チャン・ドゥック・トゥン博士・陸軍中佐
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トゥン中佐は陸軍空挺師団所属の軍医で、長らく第3空挺大隊の主任軍医を務め、最終的に空挺師団衛生大隊長を務めておられました。
トゥン中佐は後述するカオ准尉のご親戚(トゥン中佐はユー家の養子。ユー・コック・ルォン大佐、ドン中将の義兄弟)であり、家も近いので、慰霊祭の日はカオ准尉の車で自宅から送り迎えしました。
私は民間人なので軍隊式の敬礼はしないつもりだったのですが、別れ際に、トゥン中佐が私たちに敬礼をされたので、この時ばかりは心を込めて答礼させて頂きました。
(写真は衛生大隊長時代。1975年)
左:チャン・ディン・ヴィ ベトナム陸軍大佐/フランス陸軍大佐
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ヴィ大佐は第1次インドシナ戦争期に、フランス植民地軍麾下のベトナム人コマンド部隊であるコマンドス・ノーヴィトナムの中でも最も勇名を馳せたコマンド24"黒虎"の副隊長(当時曹長)として有名です。
その後1952年にフランス軍からベトナム軍へと移籍し、ベトナム戦争中は陸軍大佐として第41歩兵連隊長、ビンディン省長官(=地方軍ビンディン小区司令)等を歴任しました。
ヴィ大佐の軍歴はこれに留まらず、1975年の敗戦によりベトナムを脱出した後、1976年に特例的にフランス外人部隊に少佐として採用され、第1外人連隊連隊長に就任します。
(通常、元将校であっても、外人部隊に入隊する際は兵卒として採用されます。かつてフランス軍下士官であったとは言え、外国人がいきなり将校、しかも連隊長になるのは異例中の異例の人事です)
その後ヴィ氏は12年間フランス軍で勤務し、フランス軍でも大佐となり、1988年に退役しました。
ヴィ大佐の軍歴の長さと軍功の多さは、数多のベトナム軍人、そしてフランス軍人の中でも抜きんでており、恐らく最も多数の勲章を受章したフランス軍人と言われています。
そんな生ける伝説的な人物と直接お会いできた事は、この旅最大の感動でした。
(写真はコマンド24副隊長時代。1951年ナムディン省)
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右から:
チャン・ドゥック・トゥン陸軍中佐
私
ホアン・コー・ラン陸軍大佐
グエン・バン・トン陸軍一等兵
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ホアン・コー・ラン博士・陸軍大佐
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ラン大佐は在仏ベトナム空挺協会の代表として、毎年ノジャンシュルマルヌ墓地での慰霊祭を主催しておられる人物です。
ラン大佐はハノイ出身で、ハノイのベトナム陸軍衛生学校に在学していましたが、1954年にジュネーヴ協定によって北ベトナムがベトミン政権に明け渡されたため、衛生学校が南ベトナム領内に移転し、それに伴ってラン大佐も南ベトナムに移住しました。そこで訓練の一環として空挺部隊(当時は空挺群)による落下傘降下訓練を受講し、1957年に衛生学校を卒業すると軍医として空挺群に志願します。
当時空挺群に軍医はたった3名しかおらず、その後も空挺部隊、ひいてはベトナム軍全体が慢性的な軍医不足に悩まされていたため、部隊がひとたび戦場に出ると、一般の空挺部隊将兵がシフトを終えて基地に帰還する一方、ラン大佐を始めとする軍医は何か月も前線に留まり続けたそうです。そうした困難な任務に臨み続け、ラン大佐は空挺師団軍医長、そしてサイゴン衛生学校校長を務めておられました。
ラン大佐は昼食を食べながら私に、「私は20年近く空挺部隊にいた。それはあまりに長かったし、あまりに人の死を見過ぎたよ」と語ってくださりました。
(写真は空挺師団軍医長時代)
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ユー・コック・ルォン空軍大佐
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ルォン大佐は長らく、総参謀部直属の特殊工作機関NKT内の航空支援部司令として、米軍MACV-SOGが企画した全ての特殊作戦の航空部門を統括していた方です。
またルォン大佐はベトナム空軍が創設されて間もない1953年にフランスに派遣され、フランス空軍による飛行訓練を受けた、ベトナム空軍の最初期のパイロットの一人でもあります。
戦時中は同じくパイロットであったグエン・カオ・キ空軍中将(副総統)と近しい関係だったそうですが、戦後のキ中将の言動には他のベテランそして多くの元ベトナム共和国国民と同様にうんざりしており、キ中将の話題を振ったら「奴は話し過ぎなんだよ・・・」と嫌悪感を露にしていました。
ちなみにルォン大佐の弟さんは、陸軍空挺師団師団長として有名なユー・コック・ドン陸軍中将で、先述のトゥン中佐も義兄弟です。
(写真はNKT航空支援部司令時代)
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"ルイ"タン・ロック・カオ(ベトナム名カオ・タン・ロック)フランス海兵隊准尉
今回、私がフランスでご自宅にホームステイさせて頂いたのが、ルイおじさんことカオ准尉です。
カオ准尉はベトナム共和国サイゴン出身ですが、ベトナム戦争中はまだ子供だったため、ベトナム軍に従軍した事はありません。彼は1980年に国連の難民脱出プログラムによってフランスに移住し、その後フランス海兵隊将校となりました。
しかし母方のおじがベトナム陸軍空挺師団師団長として有名なユー・コック・ドン陸軍中将(ユー・コック・ルォン空軍大佐の弟)であった縁から、現在では在仏ベトナム空挺協会の若手リーダーを務めていらっしゃいます。
(カオ准尉の現役時代の所属は海兵歩兵連隊であり空挺部隊ではありませんでしたが、落下傘降下資格は持っているそうです)
ホームステイしていた5日間、カオ准尉からはフランスや旧フランス植民地におけるベトナム人コミュニティに関する興味深い話を毎日聞くことが出来ました。
例えばカオ准尉が現役時代に偶然出会った外人部隊のベトナム人曹長。彼はコテコテの北部ベトナム語を話しつつも同時にフランス語も完ぺきに話していたので、カオ准尉は不思議に思い、彼に話しかけたそうです。すると彼は仏領ニューカレドニア生まれ、元ベトナム人民軍少佐、そしてフランス外人部隊曹長という異色すぎる経歴の持ち主だったそうです。大変数奇な人生を送られた方なので、この人についてもまたあらためて記事にできればと思います。