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2023年01月15日

銀英伝2周目

※2023年1月25日更新

銀河英雄伝説の劇場版がリマスター上映されると聞いたので、さっそく観てきました。


内容はすでに知っているのですが、あらためて映画館の大画面で見ると良いものです。
しかも喜んでいいのやらどうやら、私が観た上映時間に、観客は一人。
まさかのシアター丸ごと貸し切りで見ることが出来ました。贅沢な時間でした。

そして劇場版を見て気分が盛り上がったので、プライムビデオで本編の再視聴を開始。
ただでさえ話数が多くて長いのに、本編観るのは数年ぶりだったので、また新鮮な気持ちで観れています。

この作品はあくまでフィクションであり、エンタメ作品。
でも作品内で扱われる、民主主義の在り方に関する問題については現実に通じるものも多く、それがこの作品の魅力の一つと言えるでしょう。

一方、現実世界において、が一時は同志として寝食を共にして活動したベトナム民主化運動グループや、元ベトナム共和国軍人の中に、ヤン・ウェンリーのように民主主義の精神を理解し、心から尊ぶ人はほとんど居ませんでした。
詳しくは書きませんが、は活動の中で色々失望して(逆に向こうはに失望したはず)、現在のベトナム民主化運動からは完全に手を引きました。
これは言い訳にすぎませんが、例えば三国志の研究者が現在の中華人民共和国の民主化運動に役に立つことは無いでしょう。
私は半世紀前に滅び去った国の歴史を愛好する、単なる変わり者の外国人であり、そんな人間はそもそも必要とされていないと思い知りました。
ただし、そんな器の小さな私から見ても、「そんなんじゃ永遠に無理だろ・・・」と思うような状態だっと述べておきます。

思えばベトナムにおいて民主主義が(形だけでも)政体として存在したのは1967年~1975年の約8年間(ベトナム共和国における第二共和国期)のみ。それも壮絶な内戦(ベトナム戦争)の最中。
北ベトナムに至っては、歴史上今まで一度も民主主義を享受した事がありません。
1975年以降難民としてアメリカや日本に渡った人々は、一応民主国家に住むことになりましたが、そこでその恩恵は受けこそすれ、その根本にある精神まで吸収する事は叶わなかったようです。
そもそもアメリカ人や日本人ですら、たまたま生まれた時から民主主義が制度としてそこにあっただけで、自ら勝ち取った世代はもう居ないので、その精神的な部分については忘れられている、あるいは大きく誤解されており、民主主義そのものをずいぶん粗末に扱っているのですから、これをベトナム人だけの問題と思ってはいけませんが。

国家の基本理念をフィクション作品を通じて語る事が愚かなのか、あるいはフィクション作品の中にしかまともな例が無いこの理念そのものが有名無実なお題目なのか。
できれば前者であって欲しい。
  


2022年04月13日

夕陽之歌

※2022年4月14日更新

今回ベトナム紀行はいったんお休みして、最近マイブームの『夕陽之歌』について。

夕陽之歌は近藤真彦の『夕焼けの歌』香港の国民的スター アニタ・ムイ(梅艷芳)が広東語でカバーした曲で、映画『アゲイン/男たちの挽歌III(英雄本色III)』の主題歌でもあります。

(僕は映画の方でこの曲を知ったので原曲が近藤真彦のものだったと知ったのは実はつい最近の事でした笑)



先日この映画を見直していたら、無性に夕陽之歌をカラオケで歌いたい衝動に駆られてしまったのです。
英雄本色III自体についもいずれ記事にしなくてはと思っていますが、まずは大好きな主題歌を歌えるように練習しました。

しかし当然僕は広東語はできないので、歌詞に仮名が振ってあるサイトがないか、インターネットで探したのですが、ヒットしませんでした。
なので仕方なく自分で仮名を振る事に。
まず、歌をそのまま聞いただけでは発音があいまいで聞き取れない部分が多いので、歌詞を細かく区切って、こちらの広東語読み上げツールで文節ごとに発音を確認(カタカナ化)します。
その上で、実際にアニタさんが歌っている声を聴き、機械読み上げでは表現されない、歌う上での発音に近付くよう修正しました。
こうして自分用に作ったカタカナ歌詞が以下になります。


夕陽之歌
作詞:陳少琪    作曲:Kohji Makaino

――――――――――――――――――――前半――――――――――――――――――

ツェーユモハン   モノイズィ ヤセガッツァラン
斜陽無限       無奈只一息間燦爛

チョイワン ハーチサン  ツァホイテイ コンツォイファッフォワン
隨雲霞漸散        逝去的光彩不復還

チーチミンユー  ナンノイツェー ヤッサンテンピワン
遲遲年月     難耐這一生的變幻

ユファー ワンチョイサン チビーツェー  ツォソンテーグナー
如浮雲聚散         纏結這滄桑的倦顏

マンチェロウ ツァココイラトイガン
漫長路      驟覺光陰退減

フニャンチョティンツォン メチョイファン
歡欣總短暫未再返

ナコホトウォーモスン シーペンタン
哪個看透我夢想是平淡

ツァンユーシャティトー フンユファン
曾遇上幾多風雨翻

ピンツェモーカウ チョーモワン
編織我交錯夢幻

ツァンユーネイツァンサーン テイペイワン
曾遇你真心的臂彎

オウォーツァ コーワンナン
伴我走過患難

ファンコチョンサン フイータン
奔波中心灰意淡

ロサファンユーホーチー ツォイヤッファン
路上紛擾波折再一彎

ヤッティン スントホイーホイターイマーン
一天想到歸去但已晚

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(間奏)


(前半繰り返し)

(間奏)

啊・・・ 

ティンサンクータンテイウォーサンノタン
天生孤單的我心暗淡

ロサンフォンスンホーシウ ツォイヤッファン
路上風霜哭笑再一彎

ヤッティンスン スントホイーホイターイマーン
一天想 想到歸去但已晚

――――――――――――――――――――後半――――――――――――――――――

ツァンユーシャティトー フンユファン
曾遇上幾多風雨翻

ピンツェモーカウ チョーモワン
編織我交錯夢幻

ツァンユーネイツァンサーン テイペイワン
曾遇你真心的臂彎

オウォーツァ コーワンナン
伴我走過患難

ファンコチョンサン フイータン
奔波中心灰意淡

ロサファンユーホーチー ツォイヤッファン
路上紛擾波折再一彎

ヤッティンスン スントホイーホイターイマーン
一天想 想到歸去但已晚

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(後半繰り返し)

歌詞が出来たら、あとは原曲を聴きながら練習するだけ。
数日練習したら、ある程度歌えるようになったので、香港人の友人に見せるために動画を撮りました。


つたない発音ですが、日本人が香港の歌を歌っている事には喜んでもらえたので良かったです。

実は僕は以前から、香港映画の影響で何曲か広東語の曲を練習しており、すでに以下の3曲は歌えるようになりました。


考えてみると、歴史趣味ではベトナム一辺倒な僕だけど、映画や歌などのカルチャー面では香港が大好きみたいです。
だからその分、2019年の香港民主化デモの時は、北京の中共政府に立ち向かう若者たちを心から尊敬した一方、香港社会の仕組みそのものはまんまと中共に飲み込まれたという現実に、かなり暗い気持ちになりました。
かつてジャッキーが演じた香港警察が、いまや北京の犬・・・。
これはある面では、香港人の民心が低きに流れて中共側に傾いた結果でもあるので、単に香港全体を被害者と見るつもりはないのですが・・・。
中国しかり、ベトナムしかり、ロシアしかり。人の心の弱さにつけ込み、気持ちの良い情報を与えて大衆を蒙昧にし、利用するのが独裁政権だという事を改めて認識させられました。
  


Posted by 森泉大河 at 09:50Comments(2)2010年代・現在1975-1989【中国】音楽言論

2019年09月15日

人種とは?

 今回はミリタリーとは関係無い上に、ちょっと不純な(でも男としては当然の)動機から始まったお話です。

 自分のパソコンに保存してあるセクシーなデータが多くなってきたので、ちょっと整理しようと思い、フォルダー分けを始めました。
個人別にフォルダーを作るのは当然として、さらに整理整頓するため、その上位に、人種による分類フォルダーを作ることにしました。(国別だと多くなりすぎる上に整理する目的から外れるので、外見的特徴による人種別とした)

 こうして東アジア、東南アジア、スラブ、アングロサクソン、ラテン等とフォルダを作っていった訳ですが、この中で、人間を「人種」で分けるという事の難しさ、そして無意味さが分かってきました。

 例えば、金髪碧眼のフランス人女性は当然アングロサクソンかと思いきや、フランス人は全体としては歴史的にラテン系(あるいは地中海人種)に分類されるそうです。
 また褐色黒髪美女のlironちゃんは、顔的にラテン系に見えたのでラテンフォルダに入れていたのですが、あとになって彼女はイスラエル人(ユダヤ人)だと分かり、ユダヤ人をラテン(かつてのローマ人あるいはカトリック文化民族)に入れるのはなんか失礼だよなと思いました。
 と言うか、「ユダヤ人」がある程度まとまった民族集団(イスラエル民族)だったのは2000年以上前の事で、その後は中東・北アフリカ・ヨーロッパ全土へと広範囲に散り散りとなっていったので、当然各地で混血が進み、今やユダヤ人を遺伝的な意味での人種・民族としてまとめる事は不可能であり、実質的にはユダヤ教を信仰する、あるいはヘブライ系言語を使う宗教・言語による民族分類と見なすのが一般的なようです。ただし実際には(その地域の様々な定義によって)ユダヤ系に分類される人の中には非ユダヤ教徒や非ヘブライ系言語話者も含まれるので、もう訳が分かりません。

 この辺は、反ユダヤ主義の筆頭たるナチス・ドイツも、すでにドイツ人との混血が進んでいる中で迫害する対象たるユダヤ人をどう定義するか苦慮したようです。しかし彼らは結局細かい事を考えるのが面倒くさくなり、最終的にはドイツ人から見て「ユダヤっぽい」と思えばユダヤ人と見なすというかなり曖昧かつ身勝手で主観的な分け方をして無辜の人々を殺していきました。
 またナチス関係でいえば、彼らは「アーリア人種」という怪しい概念を引っ張り出してレイシズムを国策とした訳ですが、これにはインド・ヨーロッパ語族すべてが含まれるので、北欧系のパツキン長身色白白人も、黒人並みに色黒のインド人(南アジア人)も、みんなアーリア人種に含まれます。その上同盟国だからという理由で日本人まで「名誉アーリア人」と呼んでいたんだから、彼らの人種概念がいかに非科学的かつ恣意的なものだったかよく分かります。

 しかし「科学的」であれば分かりやすいかと言うとそうでもなく、いわゆる「白人」と同義に使われる事の多い「コーカソイド」という遺伝子による概念でも、北欧から北アフリカ、北西インド人まで全てが含まれてしまい、一般的な(あるいは僕がセクシーフォルダに求めていた)「人種」という概念には収まりきらないものでした。

 同様にアジアも、単純に地域によって東アジア、東南アジア等と人種(外見)を分けられるものではなく、例えばタイ人は、中国に近い北部には色白が多い(もともとタイ系民族は中国から南下してきた)一方、南に行くほどクメール人、ビルマ人、マレー人との混血が進み褐色・色黒の人が多くなっていきます。フィリピンにはスペイン人の血が流れている人もかなり多いです。
 さらに国土の広い中国は、モンゴル系からテュルク(西アジア/イスラム文化圏)系まで千差万別。ちなみに僕はとあるテュルク系中国人の娘が超お気に入りです。

 もっと言えば、僕自身が、いわゆる日本人の典型的な顔立ちではありません。タイやベトナムに旅行した際に現地人に間違われる事は慣れっこでしたが、先日、ついに日本国内で、駐車場の係員に「日本語話せますか?」と聞かれました。もう笑うしかありません。
 僕の父親も色黒で顔が濃いので「沖縄の人?」と度々聞かれますが、うちは信州(長野)発祥の家系で、曽祖父の代から埼玉に住んでいます。でも、もしかしたら、何百年か昔には、南方から来た渡来人がご先祖様にいるかもしれないですね。僕が趣味の上でも東南アジアが大好きなのは、自分の顔立から彼らに親近感を感じているからかも知れません。

 タイでベトナム空軍コスプレした時の写真。自分でも笑っちゃうくらいリアルだなぁ。日本人だと名乗るにはあまりに説得力の欠ける写真です。(でも胴長短足な部分だけは大和民族の特徴を継承しているぜ!)
 ただしこんなに色黒なのは何度も日焼けを繰り返したせいで、元々地黒という訳ではありませんでした。今でもお尻と太ももはわりと色白です。疑うならメールアドレスを教えてください。僕の美白でツルツルなお尻の写真をお贈りします。

 ええと、何の話でしたっけ?

 要は、人類とは何万年もかけて遺伝的多様性を広げながら生きてきた一つの種族であり、それはどんなに離れた遺伝子を持った人間同士(男女)であっても子孫を作れることからも確実な事です。
 「人類皆兄弟」なんて綺麗ごとを言うつもりはありませんが、少なくとも僕自身は、時代や権力によって左右される人種・民族という概念に縛られる事なく、これからも世界中の綺麗なチャンネーの写真を集めて行こうと思います。

え???
  


Posted by 森泉大河 at 21:22Comments(4)言論

2018年11月12日

SESSIION限定配信記事

※2019年11月24日追記
これまで複数の方々にご支援いただいておりましたが、時間と気力の問題から、定期的に限定配信記事を書くという約束を守る事が出来なくなったため、SESSIIONでの支援募集は中止いたしました。誠に申し訳ございません。



クリエーター支援サイトSESSIIONにて記事の配信を始めてからはや三ヶ月が経ちました。
これまで当ブログにコメントを頂いていた読者の方々に加え、なんと中国に住むベトナム共和国軍マニアの方からも、日本語が読めないのにもかかわらず私の執筆活動を応援したいとSESSIIONを通じてご支援を頂くようになり、感謝の念に堪えません。


SESSIIONでは当ブログ「一番槍BLOG」を書くための資料や考察・下書きに加えて、今後もインターネット上で公にするつもりは無い少々込み入った話も時々配信しています。以下はこれまでに投稿したタイトルの一部です。

カオダイ教と日本[2](仮)





















  


Posted by 森泉大河 at 23:25Comments(0)1954-1975News!言論

2018年09月28日

ベトナム戦争観


古森義久「池上彰氏のベトナム戦争論の欠陥」 Yahooニュース/Japan In-depth

 この記事にある池上彰氏に対する批判は至極真っ当かつ、日本ではなかなか取り上げられなかった貴重な意見だと思います。私自身は一応リベラル派なつもりなので、この記事の掲載元である保守系ニュースサイトや著者 古森氏の出身である産経新聞は大嫌いなのですが、それでもこの記事の内容には同意します。また、この記事がYahooニュースという大手メディアに取り上げられた事は私にとっても嬉しい事です。日本人でも、実際に当時ベトナムで取材した人は、本当の事を分かっているんですね。この人も、私と同じ気持ちを40年以上持っていたのだと思います。ジャーナリストの意見にしては、批判の仕方がやけに感情的ですし。
 なお、この記事は池上氏個人の記事に対する批判という形ですが、この池上氏の見解は世の中にはびこるベトナム戦争への誤った認識の典型例に過ぎず、これは池上氏一人がおかしいのではなく、彼が育った日本の言論界全体が長年に渡って空想の世界に浸っていた結果だと私は思います。
 日本を含む先進国の人々の多く(右派・左派ともに)が持つベトナム戦争への歪んだ色眼鏡、つまりアメリカへの劣等感と、「アメリカに立ち向かう解放勢力」への空想じみた憧れを捨てて事実だけを見つめれば、この記事に書いてある事は、あの戦争に対するごく当たり前の認識だと分かるはずです。
 しかし情けない事に、「坑仏」や「坑米」という意図的に単純化された分かりやすくヒロイックなストーリーは、実に多くの人々の思考を停止させる事に成功しています。アメリカへの劣等感(ある意味でアメリカ中心主義)の中に生きる人々は50年以上、ベトナムという国を己の対米感情を肯定するための道具として利用し、歪んだ色眼鏡越しに見る気持ちの良い空想にしがみつき、事実をないがしろにしてきました。
 彼らは幸運にも手にする事の出来た言論と良心の自由をアメリカへの批判に傾ける一方で、ベトナム国民からその自由を奪ったホー・チ・ミンを初めとするベトナム共産党に対しては英雄視を続けてきました。彼らは、自分たちさえ自由なら、ベトナムや他の国の国民の自由などどうでも良かったのです。
 世の中には多くの知識人がいる事になっていますが、その多くはアカデミックなふりをしていても、結局は感情論を優先していると私は感じています。最初から感情的な結論は決まっていて、それに合わせて都合のいい情報を集め、研究したつもりになってしまう。これは大なり小なり全ての人間に当てはまる事ですが、しかしあれほど世間で評価されている池上氏のような人でもこのレベルなのは悲しいです。
 また、それだけに留まらず、なぜあれほど多くのベトナム人がフランス連合やサイゴン政府側についたのかについては、そもそもその存在を無視したり、または彼らを単に拝金主義で大国の帝国主義に迎合した日和見主義者と卑下する事により、「解放」という気持ちの良いストーリーの整合性を保とうとしている事が、私には我慢なりません。


  


2018年08月19日

あるベトナム残留日本人と家族の漂泊

※2019年11月28日加筆訂正


 1945年(昭和20年)8月、日本政府は連合国のポツダム宣言を受託し、第二次世界大戦・大東亜戦争は日本の敗北によって終結しました。この時点で中国・満州・朝鮮・台湾そして東南アジア各地には日本陸海軍の軍人・軍属が約330万人、日本人民間人が約330万人、合わせて約660万人が進駐・居住していました。そして終戦後、日本政府・陸海軍にとって目下最大の課題は、この660万人という途方もない数の在外軍人・邦人を無事本土に帰国させる事となりました。この外地からの引き揚げはまるで民族大移動の様相を呈しており、現地では急激な治安の悪化、略奪、飢餓、家族の生き別れなどが大量に発生し、それは戦時中以上に壮絶なものだったたと伝え聞きます。
 その一方で、終戦に伴う帰国命令を受けた後も、ごく一部の日本軍将兵や民間人は日本への帰国を拒否して各地に留まり、個人的な意思で現地の紛争に参加していた事は割と知られた話だと思います。私がベトナム人協会への取材でいつもお世話になっている(宴会で僕が酔っぱらう度に家に泊めさせていただいている)サイゴン出身の女性Aさんは、この時ベトナムに残ってベトミン軍に参加した元日本陸軍兵士M氏の娘さんであり、M氏とAさんらご家族の辿った過去を詳しく伺う事が出来ました。ただし、Aさんが生まれたのはM氏が第一次インドシナ戦争終結後に南ベトナムに移住した後なので、Aさん自身はベトミン軍時代の父を直接は知りませんでした。ところがその後、関係資料を調べていたらベトミン軍時代のM氏の足跡が多少判明したので、Aさんから許可を頂いたうえでここに概要を記します。
 なおM氏は既に他界されていますが、娘さんやご親戚は現在も日本で生活されているので、個人名は控えさせていただきます。また、この記事はAさんの証言および、ある大学教授が日本に帰国した多数の元ベトナム残留者に聞き取りを行った報告書を出典としておりますが、M氏を始め、多数の人物の実名が載っておりますので、ここでの公表は差し控えさせていただきます。出典を確認されたい方はコメントにて、メールアドレスと共にその旨をお知らせください。個別にご連絡させて頂きます。


日本軍出奔とベトミン軍への参加

 Aさんの父M氏は第二次大戦中、日本陸軍第22師団第86歩兵連隊に所属する一兵卒であった。1945年8月、同連隊が中国広東省から南下し、ベトナム・ハティン省の省都ハティンに宿営している時に、M氏らは日本敗戦の知らせを受けた。この直後、同じ部隊の中から、日本軍を離れてベトミンに合流しようという声が上がり、M氏を含む10名が同意したという。そして終戦1ヶ月後の1945年9月のある晩、彼らは2ヶ月分の米と小銃弾2,000発を用意し、歩哨を「朝まで黙っていろ」と脅かして部隊から脱走した。

 ハティンの海岸に着いた彼らが満潮時刻を待って舟を出そうとしていたところ、日本兵脱走の知らせを受けたのか、ベトミン政府*が任命したハティン省知事レ・ズン(のちの国会議員)が通訳を連れて現れ、彼ら脱走日本兵に、ベトミン軍の軍事顧問役を依頼してきた。M氏らはその要請を受け入れ、ハティン省北部のドクトー県へ移動し、そこで現地の地主の屋敷に迎え入れられた。ドクトー県には同様に軍を抜けた元日本兵が30名ほどおり、その内M氏のいた村には25名が集まっていた。
 ドクトー県到着から間もなく、M氏らはベトミン軍側から、フランス軍のナペ基地を攻撃してほしいと要請を受けた。現地のベトミン軍兵士はまだ基本的な訓練さえ修了していないほとんど素人の集団であったため、この第1回のナペ攻撃(9月)は事実上、日本人12名だけで行われた。攻撃は夜間に行われ、彼らはフランス軍基地を一時占拠し、大量の武器弾薬と食糧を奪うことに成功したが、この戦闘でM氏を含む3名が負傷した。
 その後、ナペでは1946年初頭に日本人20名、ベトナム人300名の部隊による第2回夜襲が行われ、作戦は成功したが日本人兵士3名が戦死した。続いて行われた第3回の夜襲は失敗に終わり、さらに3名の日本人が戦死した。
 なお、第1回ナペ攻撃で負傷したM氏がいつ頃前線に復帰したかは分かっておらず、今確認できている資料では、M氏はその後「フエ以南で戦った」とあるのみである。

※1945年後半の時点では、インドシナに駐留していたフランス軍部隊はまだ微々たるものでフランスはベトナム全土を再統治できておらず、8月革命によって成立したハノイのベトミン政権がベトナム民主共和国を名乗っていた。しかしベトミン政権側の軍事力はさらに貧弱であったため、その後フランス軍が続々と到着するとフランスは支配地域を拡大。1946年中に全土がフランスの施政下に戻り、ベトミンは政権を追われゲリラ組織としてフランスへの武力闘争を続けた。


ハティン省ドクトー県の位置
(区画は当時と異なる可能性あり)


ホー・チ・ミン政権からの脱出

 その後、第一次インドシナ戦争が激化する中で、M氏はベトナム人女性と結婚し、娘(Aさんの姉)を授かった。その女性は、ベトミン協力者であり、M氏ら元日本兵の世話をしていたハティン省の地主の娘であった。その後1954年までにM氏はベトミンの軍務から離れ、ハティン省で一般人として生活していた。
 ところが1954年、第一次インドシナ戦争がベトミンの勝利に終わり、ハティン省を含む北緯17度線以北(北ベトナム)がホー・チ・ミン/ベトナム労働党の支配下になると、M氏の義父は、それまで命がけでベトミンに協力していたのにも拘らず、共産主義思想に基づき、ただ「地主である」という理由で粛清の対象とされた。義父は危険を察知し、M氏に娘と孫を連れて日本に逃げるよう促した。その直後、義父は人民裁判にかけられ、「反動分子」としてハティン市内を引き回された後、政治犯収容所に送られ、二度と帰ることはなかった。この地主階級の粛清「土地改良」を含む一連の共産主義革命によって、北ベトナム領内では1954年から1956年にかけて10万人以上の人々がホー・チ・ミン政権によって虐殺されたと言われている。

 日本帰国を決意したM氏は、妻に家を引き払うよう命じ、船を確保するため一人先行してハイフォンの港に向かった。しかしハイフォンに着くと、日本行きの船は既に出航した後だった。その後すぐに妻と娘たちもハイフォンに到着したが、すでに家は引き払った後であり、帰る場所は無かった。その時ちょうど、ホー・チ・ミン政権から逃れるため南ベトナムに脱出する難民を運ぶ船に空きがあったため、M氏一家は南ベトナムで出直す事に決め、サイゴンに移住した。

※ジュネーヴ協定により北ベトナムにホー・チ・ミンの共産主義政権が成立した事で、北ベトナム政府による迫害・虐殺から逃れるため、約100万人のベトナム国民が1954年から1956年にかけて北ベトナム領から南ベトナムに脱出した。共産主義者(ベトコン)に家族を殺され、故郷を奪われた人々の共産主義に対する憎しみは深く、後のベトナム戦争では、この時南に移住した北部人勢力が率先して北のホー・チ・ミン政権打倒を主張した。


フランス・アメリカ海軍によるベトナム国民の北ベトナム脱出・移送作戦『自由への道(Passage to Freedom)』

サイゴン郊外に設置された北ベトナム難民キャンプ [1954年]


サイゴンの日本人コミュニティ

 南ベトナムに移住したM氏一家はその後の20年間、サイゴンで比較的穏やかな生活を送った。1960年代に入ると南ベトナム国内の共産ゲリラ(解放民族戦線)によるテロ活動や北ベトナム軍の南侵によってベトナム戦争が激化したが、幸いにも一家は戦闘に巻き込まれる事なく終戦を迎えたという。Aさんはこのサイゴン移住後に生まれた末っ子だった。
 またサイゴンにはM氏と同様に、かつてベトミン軍に参加していた元日本軍人や、戦前からサイゴンに住んでいる日本人商人・技術者が少数ではあるが居住していた。彼ら南ベトナム在住日本人は互助会『寿会』を結成しており、M氏もこれに参加した。第一次インドシナ戦争終結後、アメリカの支援を得て経済発展を続けていた南ベトナムには西側諸国の企業が進出を始めており、日本も例にもれず南ベトナムにおいて事業を展開していた。寿会のメンバーは、こうした日系企業の現地社員・通訳・コンサルタントなどを務める者が多く、M氏も日系の製糖会社に勤務した。
 また寿会は、明治時代に単身ベトナムに渡り、以後半世紀以上に渡ってフランスや日本軍による妨害に遭いながらもベトナム民族解放と独立を援助し続けた日本人実業家 松下光廣(1896-1982)がサイゴンで経営する『大南公司』と深い関係を持っていた。南ベトナム政府と日本政府は松下の仲介で第二次大戦中の賠償に関する交渉を行い、日本政府は賠償金としてベトナム最大の水力発電所ダニム・ダム建設の費用を提供した。M氏は日系の建設会社に転身し、松下と共にこのダニム・ダム建設事業に従事した。これ以降、M氏と松下は家族ぐるみの付き合いとなっていった。
 幼いころのAさんにとって、当時のM氏はいつも厳しい父親であった一方で、寿会の日本人たちと日本の歌謡曲を聞きながら酒を飲んでいる時だけは、M氏は涙を流して日本を懐かしんでいたという。

1964年に完成したダニム・ダム(ダニム水力発電所) [写真:日本工営]


 

ベトナム共産党政権による追放

 1975年4月30日、北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴンを制圧し、ベトナム戦争は共産主義勢力の勝利に終わった。こうしてベトナム全土がハノイのベトナム共産党政権の支配下に堕ちると、旧南ベトナム国民は大変な困窮に見舞われた。M氏一家も例外ではなく、すでに戦争末期には日系企業が撤退していたため、M氏は別の仕事を探すしかなかった。松下も大南公司の資産の全てを政府に没収され、明治以来幾度もの苦難を経験しては復活を果たしてきた大南公司は完全に解体された。
 さらにベトナム共産党政府は1978年に、全ての外国人を国外追放する事を決定した。かつてベトミン軍の一員として命がけでフランス軍と戦ったM氏も、外国人であるという理由で国外追放となった。一時は日本への帰国を目指していたM氏だったが、ベトナムに住んで既に30年以上が経過しており、国外追放はそこで築いた友人・仕事・財産の全てを失う事を意味していた。また妻や娘たちは日本語がほとんど分からず、日本での生活に順応できるかも心配された。
 こうしてM氏一家は、他の日本人・外国人住民らと共に国外に船で移送され、M氏は難民として30年ぶりに日本に帰国した。帰国後一家はM氏の生まれ故郷の町に移り住み、M氏は会社員として平穏な余生を送った。来日した当時14歳だったAさんも苦学の末日本語を習得し、現在は日本国内でベトナム語通訳の仕事をしている。
 なお、M氏も松下も既に他界されているが、互いの親族同士の交流は現在も続いているという。




筆者の見解

 私はM氏を含むベトミン軍に参加した元日本兵たちの足跡が日本国内のメディアやインターネットで紹介されるのを目にする度に残念な気持ちになります。なぜならば、それらの紹介の仕方、あるいは紹介する目的は初めから、何らかの思想・主張を肯定するための道具として都合の良い部分だけ切り取られ、いいように利用しようとしているものばかりだからです。
 具体的には、ある時は日本が東南アジア侵攻の大義名分に掲げた『アジア解放』が偽りのない崇高な精神だった事の証拠として。またある時は、欧米の帝国主義に立ち向かいベトナム『解放』を後押ししたものとして。日本国内では右派・左派双方が長年、彼らの戦いを美談として祀り上げ利用してきました。また現在のベトナム共産党政権も、気前よくODAをくれる日本政府におべっかを使うため、この話を『日越友好』を標榜する材料の一つとして利用しています。
 しかし私は「日本軍は戦後もベトナム独立のためにフランスと戦いました。ベトナム人はその恩を忘れません。」というような日本国内で流布されている認識は、最初から美談として利用するために日本人にとって都合の良い、気持ちの良い部分だけを寄せ集めた虚像だと考えています。以下がその理由です。

・日本政府はアジア解放を謳う一方で、インドシナに関してはドイツ・フランスとの関係を優先しており、日本軍は1941年の北部仏印進駐以来4年間、フランスと合同でベトナムを支配する側にいた。ベトナム独立勢力に対しても、彼らを支援するどころか、妨害・取り締まりを行っていた。(ただし、下記の明号作戦に動員する目的で、親日的な独立勢力への接触は松下の大南公司を通じて進駐直後から水面下で始まっていた)

・1945年の明号作戦は、戦局の悪化から連合国側に寝返る可能性のあるインドシナ総督府・フランス軍を排除する事を目的とした日本の利益の為の軍事行動であり、ベトナム独立を目的としたものではない。

・ほとんどのベトナム国民は明号作戦の後に日本が擁立したベトナム帝国政府を日本の傀儡政権と見なしていた。なので日本敗戦後に行われたベトナム帝国政府の解体とベトナム民主共和国の独立宣言=8月革命を真のベトナム独立と見做し沸き立った。

・終戦後も日本陸軍の組織および軍法は正式に存続しており、個人の意思で隊を離れる事は脱走、また武器弾薬被服装備を持ち出す事は横領にあたる。したがってベトミンに参加した彼らは国家の命令に従った『日本兵』ではなく、あくまで個人の思想によって行動した『元日本兵のゲリラ』である。

・そもそも第一次インドシナ戦争は、残留日本人が1945年にベトミンに参加した当初においては、ベトミンの敵はインドシナの再植民地化を目指すフランス軍であり、『ベトナム独立戦争』と呼んで差し支えない状況であった。しかしフランス側が譲歩し1948年にベトナム国の独立を承認してから(つまり戦争中期以降)は、ベトナム国政府はベトミン政権を拒否する民衆から一定の支持を得ており、フランス連合軍の人員の7割が現地のインドシナ諸国の兵士(そして全体の5割がベトナム国軍)となるに至る。こうして第一次インドシナ戦争は当初のフランスからの独立戦争という単純な構図から、次第にフランス連合に残留して段階的な独立を目指す穏健派のベトナム人(ベトナム国政府)と、フランスの影響力およびベトナム国政府に好意的な人間を徹底排除し共産主義政権樹立を目指す過激派ベトナム人(ベトミン)というベトナム人同士の内戦へと変化していった。

・残留日本人たちは、当初ベトミンが掲げていた純粋な民族解放という理想に共感しベトミンに参加していたが、ベトミンが中国共産党からの支援への依存度を増すにつれて組織全体が共産主義体制に変質し、同じベトミン内の戦友・支援者までもを反革命分子として粛清していくのを目の当たりにした事で違和感を増していった。しかし戦争遂行に深く関わり過ぎており、途中で組織を抜ける事は出来なかった。

・残留日本人の多くはベトナム独立の理想とベトナム人戦友たちへの愛情を変わらず持ち続けたが、同時に戦争中期から戦後の1950年代全般にかけてベトミン・ベトナム労働党が行った急激な国家改造・共産主義化(土地改良に始まる弾圧・大量虐殺)には批判的であり、複雑な心境を伺わせる証言を残している。

・フランスや日本軍による妨害に遭いながらも身の危険を顧みずベトナム民族の解放と独立を援助し続けた松下光廣は、ホー・チ・ミンとベトミンを民族解放の志士とは見ておらず、むしろベトミンの暴力革命を「共産分子のテロ」と強い言葉で非難している。


 まとめると、彼ら残留日本人の多くは、現地で独立を渇望するベトナムの民衆の想いを間近で感じ、同じ人間としての共感しており、こうした人情の上に敗戦のショックと敵の占領下の日本で生きる事への不安・抵抗が重なり、彼らは日本軍人としての身分を捨て、フランス軍との戦闘に身を投じました。
 しかし彼らが協力したベトミンは、そんな残留日本人たちの意志とは無関係に、その目標を『独立』から『共産主義革命』へと変えていきました。また敵であるフランス軍も、当初の再植民地化を目指す『白人帝国主義者』から、フランス連合の枠内での独立に甘んじようとも共産主義政権は阻止したい『フランス連合派ベトナム人』へと変わってしまいました。
 最終的に戦争はベトミン側の勝利に終わり、残留日本人たちは北ベトナムの独立に貢献した事になりましたが、それは同時にベトミンによる共産主義革命・大量虐殺などを許す事となり、残留日本人たちが目指していたベトナム民族の解放と平和とは程遠い結果を招いてしまったと私は見ています。
 多大な犠牲を払いながらこうした結果に終わり、彼らの心中は察するに余りあります。しかしだからこそ、「ベトナムは独立して人々は幸せに暮らしました、めでたしめでたし」で終わる訳にはいかないのです。私の意図は、彼ら残留日本人を共産主義革命の協力者として非難する事ではありませんし、まして「日本人がアジアを解放した」などと恥知らずな自慰行為に利用する事でもありません。
 人間の歴史、特に戦争に関する部分は、常に後世の人間によって何らかの意図をもって都合よく切り取られ、利用されがちですが、私はそれに抗いたいのです。この戦いに限らず、人間が理不尽に命を奪い奪われる最悪の惨事を、見たい部分だけ見て喜び、見たくない部分には目を背ける、そういった人間の生命・人生に対して不誠実な姿勢を私は軽蔑し、否定します。
  


2018年06月08日

ベトナム空軍神風部隊~トートン~浮世絵

 ベトナム空軍では、他の西側諸国と同様に、航空機の機首にノーズアートが描かれている例がいくつかありましたが、中でも特によく知られているのが、グエン・カオ・キ中将(後の副総統)の直接指揮下にあった第83特殊作戦航空団『※神風部隊(Biệt Đoàn Thần Phong)』のものだと思います。この神風部隊では少なくとも以下の二種類の特徴的なノーズアートがA-1スカイレイダー攻撃機の機首右側面に描かれていました。



※日本の神風特攻隊とは関係ありません。
※なお、この神風部隊は特殊作戦を専門とする『空の特殊部隊』であったからか、本来国籍マークが入るはずの機体胴体側面には部隊のシンボルマークがペインいる点が他の部隊の機体ペイントとは大きく異なります。

 この二つの漢字のような梵字のようなよく分からない図形の正体については、僕自身長年把握できておらず、たぶんチュノム(ベトナム語表記にローマ字=クォックグーが採用される以前に使われていた漢字を基にした表語文字)の一種なのかな、くらいに考えていました。ところがある日、さるベトナム空軍研究家にこのノーズアートについて話を振ったところ、即座に正解を教えて頂く事が出来ました。
 なんでもこの図形はチュノムや特定の言語の文字ではなく、ベトナムの伝統的なカードゲーム『トートン(Tổ tôm)』に描かれた、漢字を基にした記号なのだそうです。
 トートンは中国発祥のカードゲーム(紙牌)である『ハンフー(看虎)』から派生したもので、麻雀やトランプのようにいくつかのスート(柄)と数字の組み合わせでデッキが構成されていました。
 スートと数字は文字(漢字)と漢数字を組み合わせた記号で表されており、スートの文字が漢字の部首の偏のように左側に、漢数字が旁(つくり)のように右側に配置され、その記号自体が一つの漢字のようにデザインされていました。(チュノムも同様に二つの漢字を組み合わせて一つの文字としていましたが、トートンに用いられたのはチュノムではなく、単なる記号です。)
 左側のスートは、現在のトートンでは専ら文(Văn)、索(Sách)、萬(Vạn)の3つが用いられていますが、過去には升(Xừng)や[※1]湯(Thang)といった文字も使われていたようです。このうち索と萬は、もっと後の時代に考案された麻雀(索子と萬子)に受け継がれていますね。 [※2]右側の数字は1~10まであり、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と漢数字で表記されています。(十は謎の異字体が使われていますが) 

[2018年6月13日訂正]
※1 Thang (湯)は現在でも使われていました。
※2 右側に入る数字は正しくは1~9であり、一、二、三、四、五、六、七、八、九と漢数字で表記されています。下のカード一覧の一番右側にある3枚はそれぞれのスートの十ではなく、それぞれÔng Cụ (萬の行)、Chi Chi (文の行)、Thang Thang (策の行)という役を作るのに使う特殊なカードであり、これに各スートの一(萬の一、策の一、文の一)を含めたカード6種のカードが『Yêu』と呼ばれ、麻雀で言うドラのような役割を持っているそうです。

▲現在出回っている一般的なトートンのカード

そしてこの中で、神風部隊にノーズアートとして描かれたのは、升の九(Cửu Xừng)』と索の九(Cửu Sách)になります。


※なおRobert C Mikesh著『Flying Dragons: The South Vietnamese Air Force』には、神風部隊では上記の二つに加えて『萬の九』、『文の九』もマーキングされていたと記述されているそうですが、当時の写真を探してもその実例を確認する事はできませんでした。

 実はこれらを調べる過程で、頭を悩ませたのが、Cửu Xừng』についてでした。先述したように、現在のトートンで用いられているスートは文・索・萬の三つであり、インターネットで調べても、このカードに関する情報はなかなか見つかりませんでした。しかもかなり文字を崩したデザインなので、元の漢字が何だったかも全く分かりませんでした。
 さらに僕を混乱させたのが、この漢字のクォックグー表記は『Sừng』だというベトナム人からの情報でした。結果から言うと、これは間違いであり、ほぼ同じ発音をする『Xừng』の書き間違いでした。僕はさっそくSừngの漢字・チュノム表記を調べましたが、その表記は漢字では『角』、チュノムでは『䈊』、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162049参照)』、、『表示不可(https://jigen.net/kanji/162050参照)』であり、カードに描かれた文字とは似ても似つきません。
 その後、別の人から『Xừng』と書かれている資料をもらい、その表記を調べると、漢字にはXừngに対応する文字はありませんでしたが、チュノムにはありました。それが『表示不可(hyouhttps://jigen.net/kanji/133567参照)』です。これも一見、カードに描かれた文字とはだいぶ違うように見えますが、上で述べたようにチュノムは、中国の漢字では表す事の出来ないベトナム語の発音を表記するために、別々の漢字を組み合わせて一つの文字としているので、このチュノムの構成要素は、『称』と『升』という二つの漢字になります。(出典: Chu Nom.org https://www.chunom.org/pages/209BF/#209BF)
 そして、この中の『升』が、かなり崩されてはいるものの、問題のカードの文字と一致しているように見えます。これでようやく点と点が繋がりました。なお、漢越辞書によると、『升』という漢字を単にクォックグー表記した場合は『Xừng』ではなく『Thăng』になるようですが、日本人なら知っているように、漢字というものはその時代や地域によって様々な読み方をされる物であり、この場合も升という漢字がXừngと読まれていたのではないかと推測しています。この推測に則り、この記事ではCửu Xừng』を『升の九』と書いています。(もし違っていたらごめんなさい)

 ところで、お気付きかも知れませんが、これらのトートンのカードに描かれている人間のイラストは、19世紀の日本人の姿だったりします。その由来はWikipediaによると、フランス植民地時代にマルセイユの玩具メーカー カモワン社(Camoin)が、自社がベトナム向けに生産していたトートンに、日本から輸入された木版画・浮世絵に描かれた日本の庶民の姿をプリントしたのが始まりだそうです。そしてそのカモワン社製トートンがベトナムで広く流通したことで、それらのイラストはトートンの絵柄として定着し、100年以上経った現在でも変わらずに使われ続けているそうです。
 では、なぜカモワン社はベトナム人向けのカードゲームに日本の木版画のイラストを採用したのかと言いますと、具体的には説明されていません。しかしおそらくは、当時フランスでは日本から輸入された木版画・浮世絵などの『エキゾチック』な芸術作品が人気を博し、ジャポニスム(Japonisme)』と呼ばれる流行が発生したため、デザイン業界でも浮世絵に描かれた『オリエント』なモチーフを取り入れられた事がその一因であろうと推察できます。また、当時ほとんどの西洋人はベトナムも日本も中国も一括りにアジア、オリエントと見做しており、それぞれの文化の違いなど気にしなかったため、両国の文化は混同され、ベトナム向けのカードゲームに浮世絵のイラストが採用されたのだろうと僕は思っています。

 余談ですが、『オリエンタリズム(Orientalisme)』という言葉に代表される、このような当時のフランス人(およびほとんどの西洋人)が持っていた『想像上の』アジアへの憧憬、そして偏見は、つい半世紀前まで続いていた欧米諸国によるアジアへの植民地支配、帝国主義と深く結びついた概念でもありました。
 ただし、異国の文化についての誤解は、なにも西洋人に限った話ではなく、日本人もヨーロッパ諸国それぞれの国の文化の違いを正しく理解している者は少ないでしょうし、もっと言えば日本の周りの国ですら、いまだにあまりよく分かっていません。過去には、自国中心の偏見に満ちたアジア観を基に周辺国への領土拡大と統治を行い、大変な反発と遺恨を生じさせた事実は日本人なら誰もが知っておくべき事柄です。また現在でも、例えば日本のテレビ番組ではしばしば海外で日本の文化がいかに誤解されているかを取り上げていますが、では日本にある外国料理は?日本人が話す外来語やカタカナ英語は本来の意味で使われているのか?と思い返してみれば、他人の事は言えないですよね。
 さらに言えば、マスメディアやインターネットでは、タイと台湾は当然のように(反日の対義語として)『親日国』として語られますが、では実際、所謂『反日国』や、それ以外の国々とどれほど違うかと言いますと、実はそんなに変わらないと僕は思っています。第二次大戦において日本と戦ったアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア・フランスはもちろん、日本軍の恫喝によって軍政下に置かれたタイや、長く中国国民党政権が続いた台湾でも、大戦中の日本軍を好意的に見ている人はほとんど居ないです。一方、戦後日本が育んだ食事や音楽などの文化、工業・医療製品については、世界の大半の国々、そして日本で反日』と呼ばれる中国や韓国でも大人気であり、特に中国の小金持ちはこぞって日本に観光に訪れ、帰国後日本に行ったと自慢する事が一種のステータスとなっている感すらあります。
 数年前、あるニュース番組で、中国で発行されている『知日』という情報誌が紹介されていました。その雑誌を編集している僕と同じ世代、1980年代生まれの中国人編集者たちはインタビューの中で、「私たちはこの雑誌で、読者に日本を好きになってもらおうとは思ってはいません。ただ、彼らを好くにせよ嫌うにせよ、まずは相手の本当の姿を知る事が、我々自身にとっても大切な事なのです」という趣旨の言葉を語っていました。その通りだと思います。日本に訪れる中国人観光客が皆こういった意識を持っているとは思っていませんが、少なくとも中国国内にはこういう理知的な人々が居り、彼らの雑誌が人気を博してる事実は、両国の未来にとって歓迎すべきことだと思います。
 なお、知日は日本でも買えるようですが、ちょっと良い値段しますし、どうせ中国語読めないのでまだ呼んだ事は無いです。もし日本語訳版を作ってくれたら、是非読んでみたいですね。

こちらで販売中

今日は我ながら、いろんな方向に話が飛んでいくブログでした。

  


2018年03月16日

マウタン1968(テト攻勢)から50年

マウタン1968犠牲者追悼式典

 今から50年前の1968年2月、ベトナムで最も神聖な祝日である元旦節(テト)を狙ったベトコン(ベトナム共産軍)による同時多発テロ<マウタン1968>、通称『テト攻勢』が発生し、ベトナム戦争始まって以来最大の犠牲者を出す大惨事となりました。
 このマウタン1968から50年目の節目を迎え、日本在住ベトナム人協会は2018年2月11日、神奈川県藤沢市の寺院においてマウタン1968の犠牲者を追悼する法要・式典を執り行いました。式にはかつてのベトナム難民を始め、現在日本に住んでいるベトナム人研修生や一般労働者、在日米軍のベトナム系アメリカ軍人らも参列しました。



映像: Hiệp Hội Người Việt tại Nhật

フエ虐殺事件目撃者の声

 また法要後の懇談会では、共産軍によって行われたあの惨たらしい事件を風化させないよう、当時その場でマウタン1968を体験した方々が、戦後生まれの若い世代に自身の体験を語りかけました。お世話になってる知人が、今回も話の内容を同時通訳してくださったので、その一部をご紹介します。


映像: Hiệp Hội Người Việt tại Nhật



ブウ氏

 ブウ氏は当時、フエ在住の13歳の少年であり、共産軍による26日間のフエ占領を体験しました。
 ブウ氏によると、フエでマウタンの戦闘が始まったのはテト二日目の夜であり、最初は誰もが銃声を爆竹の音だと思い、戦闘が始まったとは思いもしなかったそうです。
 しかし朝になると街は共産軍に占領されており、通りには共産軍の兵士たちが堂々と歩いていました。戦争とは無縁の生活を送っていたブウ氏はこの時初めて実際に共産軍の姿を見ましたが、当時は子供だったため特に恐怖は感じなかったそうです。
 しかしその日、フエ市内で拘留されていた共産ゲリラ容疑者が釈放されると状況は一変します。共産軍が住民の家々に押し入り、軍人、警察、政府関係者を次々と逮捕し始めました。ブウ氏の兄2名も軍人でしたが、その年はたまたま二人とも帰省していなかったため、父がその場で尋問されただけで済んだそうです。しかし父の友人であり恩師の神父は連行され、二度と帰ることはありませんでした。
 占領下の生活の中で、ブウ氏は自宅周辺では夜しか戦闘の音が聞こえず、なぜ夜だけなのか不思議に思っていたそうです。
 その後、共産軍は逮捕者リストを作り、再度ブウ氏の自宅に押し入ってきました。そして兄たちがフエには居ないことが分かると、共産軍はブウ氏の自宅を完全に破壊しました。翌朝、ブウ氏は瓦礫の中から家族の写真を探そうとしましたが、軍服姿の兄の写真が共産軍に見つかると危険なため、父に止められたそうです。
 まもなくフエ市街と対岸を結ぶチュンティエン橋が共産軍によって爆破され、大人たちは共産軍が撤退を始めたと言いいました。この時すでに、逮捕された数千人のうち約900名が市内で殺害されていた事が後に判明します。人々は銃ではなく、鉈などで頭を割られて殺されていました。そして残る4000名の逮捕者は撤退する共産軍によって郊外に連行されました。
 共産軍が去ったのを見計らい、ブウ氏らフエ市民はすぐさま政府軍のいる方向に避難しました。しばらくすると前からアメリカ軍の黒人兵士が走ってきて、市民たちに「逃げろ!」と叫びました。市民たちはこれでようやく共産軍の恐怖から解放されました。
 一方、共産軍に連行された4000名の人々は行方知れずでしたが、間もなく郊外で全員虐殺された事が判明します。生存者は一人もおらず、遺体が遺棄された場所の捜索に一年間かかりました。結果22箇所の地中から遺体が見つかりましたが、遺体の多くは白骨化しており、遺族は残された衣服などから家族の亡骸を探し続けたそうです。
 それ以来、家族が集うベトナム民族にとって最も幸福な祝日であるはずのテトは、フエでは虐殺の日、家族の命日として記憶されており、当時を知る家庭では今でもテトは祝われず、帰省もしないとの事です。
 ベトナムの歴史上、血塗られた虐殺事件は幾度もありましたが、それらは全て、中国やフランスなど、外国によって行われたものでした。しかしベトコン、ホーチミンは同じベトナム人に対してそれを行ったのです。


カイン氏

 カイン氏は当時サイゴンの大学に通う学生で、社会奉仕団体でボランティア活動をしていたため、フエ奪還から一週間後、復興支援の為フエに赴きました。そこでカイン氏らが任されたのは、共産軍によって虐殺された人々の遺体捜索・回収でした。
 カイン氏によると、人々は地面から比較的浅い深さに、座ったような姿勢ですし詰め状態で埋められていました。外傷のある遺体は少なく、ほとんどが生き埋めにされて殺害されていました。地中から掘り出された遺体は腐乱しており、ある時は野犬が遺体から足をちぎり取っていったため、カイン氏が犬を追いかけて足を取り返すといった事もありました。
 二週間の捜索で数百の遺体を掘り出した後、カイン氏はサイゴンに戻りましたが、その後半年間は肉を食べられなくなりました。この経験でカイン氏は共産軍の残虐性を目の当たりにし、人生観が一変します。そして共産軍と戦うため、翌69年に政府軍に志願入隊しました。





戦後世代の声


ザカット氏

 ザカット氏はフエ出身で、両親祖父母がフエ占領を経験しました。戦後、フエ虐殺は共産党政府によって闇に葬られましたが、当時フエにいた者なら全員、共産軍によって何が行われたかを知っています。私は戦後生まれですが、家族から当時の話を聞いていました。


ウエン氏

 ウエン氏も両親祖父母がフエ占領の恐怖を経験しました。しかし多くの一般市民は戦後、共産党政府による弾圧を恐れてそれを口にする事は出来ませんでした。ウエン氏の両親も、娘に戦中の事を詳しくは話しておらず、戦後生まれのウエン氏は、学校で教わった共産軍の英雄的な物語を信じきっていました。ウエン氏が自国の真の歴史、家族の思いに気付く事が出来たのは、成長してインターネットで国外の情報に触れる事が出来るようになってからの事でした。



また懇談会では私も意見を求められたので、僭越ながらほぼ唯一の日本人参加者の視点から私の考えを述べさせていただきました。

映像: Hiệp Hội Người Việt tại Nhật



 1946年以来、数限りないテロで大量のベトナム人の命を奪い、今現在もベトナムを恐怖と暴力で支配しているベトナム共産党政権は依然として、このマウタンを解放戦争の英雄的な戦果として喧伝しています。
 欧米や日本はもちろん、世界中のほとんどの国々が民主主義を重んじている今日において、普通、非民主的な独裁政権のプロパガンダが真実として受け入れられる事はほとんどありません。例えば中国や北朝鮮政府による主張や宣伝を鵜呑みにする人はほとんど居ないでしょう。
 しかし非常に残念な事に、ベトナムに関してだけは、特定の思想によって都合良く作り出されたプロパガンダが多くの人々の思考を停止させる事に成功しており、ベトナム共産党(現ベトナム社会主義共和国政府)というテロ組織の主張や宣伝が無批判に受け入れられてしまっています。
 私はこの記事を読んでいる方に今一度、ベトナムという国に対する認識の再考をお願いしたく思います。これは単なる『外国の歴史』の問題ではありません。この記事にあるのは今現在日本に住んでいる隣人の声です。そしてその声に耳を傾けるか事が、日本を「どんな残虐な独裁政権でも都合よく解釈して好意的に見る恥知らずな国」から、「正義と人道を旨とする矜持ある国」へと挽回する唯一のチャンスです。大げさに聞こえるかもしれませんが、本来こんなのは50年前にやっておくべきだった事であり、私の世代はもう目をそらす事なく、この50年分の誤り・怠慢と向き合っていく必要があると考えています。
  


2018年01月06日

美作市のホーチミン像問題

※2018年7月3日更新

筆者の別ブログ ベトナムウォッチと重複している記事を、ベトナムウォッチの方に一本化しました。

ベトナムウォッチ 『美作市のホーチミン像問題』



またこの記事の後、美作市役所に対する抗議運動が実施されました。

ベトナムウォッチ 『美作市ホーチミン像に世界のベトナム難民団体が抗議』
  


2017年10月07日

9~10月の日常

<衆院選>

枝野さんかっこいいですね。道のりは険しいですが、これからも頑張って頂きたいです。応援しています。
そして一刻も早く安倍内閣、自民・公明政権を終わらせ、戦後日本国民が培ってきた知性と品位をこの国に取り戻す事を心から願っています。



<ラーメン二郎新潟店・会津若松店>

9月は新潟に1週間出張があったので、当然のごとくラーメン二郎新潟店に食べに行く(2度目)。[画像左]
ついでに帰りは磐越道を通り、ようやく会津若松店に行く事が出来マシた。[画像右]


これでまだ食せていないラーメン二郎は、残すところ札幌、仙台、京都の3店舗のみ。
うまい事そっちに出張にならないかなぁ。仙台は一度行ったけど、新幹線で日帰りだったから時間無くて、昼食は駅前のサイゼという悲しいオチだったたんだよねぇ。


↓今まで食べた店。緑がラーメン二郎で、赤が二郎インスパイア系
そろそろ100店舗超えてると思う。(90店過ぎたあたりから数えてない)



<カラオケと飲み会>

8月の在日ベトナム人協会サマーキャンプで友達になった皆と飲み会&カラオケ行ってきました。
当日はまず高田馬場でバインミー食べて、新大久保でカラオケして、歌舞伎町の居酒屋でベトナムに帰る人の送別会やって、また新大久保で遅くまでカラオケという流れでした。その間、移動は全て徒歩。けっこうな距離を歩きました。
東京最大のコリアンタウンとして観光地化している新大久保ですが、現在はタイやベトナム、ネパールなどから来た人も増え、多国籍な感じの街になっています。そんな新大久保ですから、カラオケ店も客の多様化に対応して、日本のカラオケには入っていない各国の歌を唄えるよう、カラオケの機械にiPhoneを接続してYoutubeの動画が流せるコネクターが完備されていました。
この日集まった皆はベトナムの環境問題や人権問題に取り組む青年グループのメンバー。汚職と貧困、暴力がはびこるベトナム共産党独裁政権の下に育ちながらも、勉学に励んで日本に渡り、遠い異国に暮らしながらも祖国の発展と国民救済のための運動を続けている人たちです。100年前のファン・ボイ・チャウやクォン・デじゃないけど、彼等にとって日本という国は、経済的成功と同時に人権と言論の自由が保証された未来のベトナムの理想像であり、私としても自分の国がそう見られている事は誇らしく思います。(だからこそ日の丸で千摺りこく事しか頭に無い厚顔無恥な『保守』が大嫌いなんですけどね。)

ベトナム国内では公の場で唄っただけで警察に逮捕される『反動』な歌も、日本では唄い放題です(笑)



<10/5の一人カラオケ>

先日仕事で待ち合わせしていたら、迎えに来る車が故障してレッカー呼んでるらしく、レンタカーで出直すまで3時間以上駅前で待つ羽目になったので、また一人カラオケ行ってきました。
[歌った曲]
仮面ライダーBLACK RX / 宮内タカユキ
嵐の勇者 / 岡柚瑠
輝け!!ダグオン / Nieve
少年 / 黒夢
街 / SOPHIA
ジュリア / 河村隆一
HELLO / 福山雅治
“good-morning Hide / L'Arc~en~Ciel
GLAMOROUS SKY [ENGLISH VER.] / HYDE
TRY AGAIN / Fire Bomber 
レッツゴー ゲキガンガー3 / 金田めろん
疾風になれ / JAM Project featuring 松本梨香、影山ヒロノブ
ILLUSION / INVOICE
感動!ヱクセリヲンのマーチ / 東京混声合唱団
(メモってなかったのであとは思い出せません・・・)


ジュリア」は何度歌っても、一人で歌ってても、歌ってるとだんだん照れくさくなってきて口下がニヤついてしまうんだよねぇ・・・。
だがそれが良い。

  


Posted by 森泉大河 at 14:09Comments(0)音楽言論ラーメン

2017年01月21日

ベトナム人とドナルド・トランプ



 昨日、ついにドナルド・トランプが第45代アメリカ合衆国大統領に就任してしまいました。私が付き合いのあるベトナム人およびベトナム系アメリカ人のほとんどは熱烈なトランプ支持者なので、選挙の時からず~と、Facebookを開けば毎日トランプへの賛辞にあふれていて、人間の心の弱さというものを嫌というほど見せつけられました。

 彼らがそこまでトランプを支持する主たる動機、それは中国への憎悪です。
 本土ベトナム人にとって、ベトナムは第2次インドシナ戦争終結後、常に中国からの圧力に晒されており、もともと中国へのコンプレックスが強いベトナム人の反中感情は近年の中国の南シナ海への進出によってより強まっています(ベトナム共産党は中国からの莫大な援助によって戦争に勝利したのだから戦後中国がその投資を回収しようとするのはある意味当然ですが)。またベトナム共産党政府は国民のガス抜きのため領土問題で中国との対立を装っているものの、実際にはベトナム経済の中国依存は強まるばかりであり、ベトナム政府が中国の言いなりである事はベトナム国民も理解しています。だからこそ彼らは、自国の政府ではなくアメリカのトランプに、中国弱体化の期待を抱いているのだと私は見ています。
 またベトナム(難民)系アメリカ人にとって、彼らの祖国ベトナム共和国はベトコンを介した中国の侵略によって滅ぼされており、1954年の南北分断よりも遥か彼方に分断された彼ら難民の恨みと悲しみが消え去る事は永遠にないでしょう。さらに現在は、第二の故郷アメリカの経済が下火になる一方で、中国が国際社会におけるプレゼンスを増しており、彼らの中国への憎悪と劣等感は頂点に達していました。そこにドナルド・トランプ出現したことで、彼らは既存の日和見主義政治家とは違う強固な(=他人の意見に耳を貸さない)政治姿勢のトランプならこの状況を変えられるかも知れないという期待を抱いてしまいました。またベトナム系コミュニティの中心にいる元ベトナム共和国軍人たちはトランプの支持基盤の一つであるアメリカ軍退役軍人協会と強い結びつきもあり、ベトナム系市民の中でもトランプ支持が拡大してしまいました。この流れはアメリカ以外に住むベトナム難民系コミュニティでも同じような傾向があるように見えます。

 以上が、彼らがなぜトランプを支持するのかについての私なりの理解ですが、私はこのような憎悪と劣等感に突き動かされた政治選択に強い懸念を抱いています。すでに大統領選の時点で、ベトナム系市民はアメリカ社会全体と同様に、トランプ支持と反トランプで大きく分断されていました。選挙とは常に人々の意見が対立するもので、それ自体は悪い事ではないのですが、今回の選挙がこれまでと違う所は、選挙の後もその対立感情が強まる一方だという事です。
 あるトランプ支持派の元ベトナム共和国軍人は大統領選の直後、トランプへの反対を述べたベトナム系の若者に対し、「お前らは負け犬だ」、「アメリカから出ていけ」などの罵詈雑言を浴びせていました。またある時は、オバマ大統領を(明らかに黒人であるという理由で)ゴリラに見立てて、「猿は檻(刑務所)に入れ」という内容の書き込みがベトナム人の間で大量にシェアされていました。また私と懇意にして下さっている元共和国軍人の方も、反トランプデモについて度々嫌悪感を露わにしています。「ほら見ろ、あいつらは暴動を起こした。反対派はアメリカの敵だ」と。
 私はそれを見ていて、「そんな考え方してるからあんたらの国は潰れたんだよ」と思ってしまいました。今まであえて書いてきませんでしたが、正直、戦後の元共和国軍人たちの多くは、敗戦の原因を全て中国や共産主義者のせいにして、自国の政府が行った暴政や弾圧が国内のベトコンを拡大させた事実については無視し続けています。彼らには家族や国を失い、言葉の通じぬ異国に逃げざるを得なかったという非常に辛い過去がありますし、私自身も現在まで続くベトコンによる国民へのテロリズムを憎んでいるので共和国軍人への敬意を持ってこのブログを書いてきましたが、あの時代のあの政府が最善の選択をしていたとは到底思えません。残念ながら彼らの味わった悲しみと絶望感は、彼から過去の自分たちの過ちを反省するという判断力を奪ってしまったように思えます。

 本題に戻りますが、このような自分と異なる意見に対し、それを愚かな事だと決めつけ、話を聞かず、排除しようとする安直な思考は、人権や文化の多様性を奪う、民主主義に最も逆行する行為だと私は断言します。曲がりなりにも民主主義・自由主義という理念を牽引していたアメリカ合衆国が、感情論に流されて自らその理想に背を向ける事は、アメリカ国民ひいては世界の未来に暗い影を落とす行為ではないかと思いっています。レッド・チャイナが憎いからと言って、ホワイト・チャイナになったのでは意味が無いのです。
 なので私は、友人全員を敵に回す覚悟で、あえてトランプ本人およびその支持者の一部は民主主義への理解が欠けており、危険な排外主義であると批判しました。また昨晩はトランプの大統領就任式の生中継を見ながらベトナム人たちがお祭りをしている最中、私は彼らに向けて、オバマ大統領が最後のホワイトハウス記者会見で報道陣に対して述べた言葉を投稿しました。



"But I have enjoyed working with all of you. That does not, of course, mean that I’ve enjoyed every story that you have filed, but that’s the point of this relationship. You’re not supposed to be (inaudible) fans, you’re supposed to be skeptics, you’re supposed to ask me tough questions. You’re not supposed to be complimentary, but you’re supposed to cast a critical eye on folks who hold enormous power and make sure that we are accountable to the people who sent us here, and you have done that."

「私は皆さんと一緒に楽しみながら仕事をしてきました。もちろん、あなた方が書いたすべての話を楽しめた訳ではありませんが。しかしそれこそがこの関係に大切な事なのです。あなた方は私のファンではないし、私を懐疑的に見ており、厳しい質問を投げかけるでしょう。あなた方は私を称賛しないでしょう。しかしあなた方は巨大な権力を持つ者に批判的な目を向け、我々をここホワイトハウスに送ってくれた国民に対し責任がある事を認識させてくれました。」

"And so my hope is is that you will continue with the same tenacity that you showed us, to do the hard work of getting to the bottom of stories and getting them right and to push those of us in power to be the best version of ourselves and to push this country to be the best version of itself.
I have no doubt that you will do so, I’m looking forward to being an active consumer of your work, rather than always the subject of it. I want to thank you all for your extraordinary service to our democracy."

「そして私の望みは、今後もあなた方が私に見せたように粘り強くある事です。徹底的に取材し、正義を求め、権力の座にある者、そしてこの国を最善の状態にすべく仕事に打ち込む事です。私はあなた方がそうすると信じて疑いませんし、今後もそのニュースの題材よりも、あなた方がその仕事の積極的な担い手であることを楽しみにしています。私は皆さんの民主主義への特段の貢献に感謝したいです。」

"if you find yourself isolated because the process breaks down or if you’re only hearing from people who agree with you on everything or if you haven’t created a process that is fact-checking and probing and asking hard questions about policies or promises that you’ve made, that’s when you start making mistakes."

「物事がうまくいかずに孤立した時や、自分に同意する人たちからしか話を聞こうとしない時、事実確認をせずに物事を進め自身の政策や公約に対し手厳しい追及を受ける時、それは間違いを犯す時なのです。」

The New York Times
Obama’s Last News Conference: Full Transcript and Video (JAN. 18, 2017)

 投稿してすぐに、予想通りオバマは詐欺師、容共、イスラムシンパなど批判的な書き込みが相次ぎました。もうタダでベトナム人の家に泊めてもらえないかもね。でもこのくらいで縁を切るような度量が狭い人間とは最初から付き合う気はないので、別に良いのです。それにFacebookで友達になったベトナム人500人のうち、5人はイイネ!してくれたし(笑)、ベトナム系アメリカ人の中にもオバマ大統領を擁護する声は存在しました。しかしトランプ支持派と反対派で口論になり始めたので、私としては以下の考えを述べて締めくくりました。

"Thank you all for give me your opinions. I don't know actually his domestic politics because I'm not in America, and the news from foreign lands have been reported in fragments in Japan. I just know American society has big and deep problems still now so it is natural that people find fault with Obama. Of course excepting a violence even there is any reason, I believe that the act of criticizing makes the wholesome Democracy."

「みんな意見をくれてありがとう。僕はアメリカに住んでるわけではないし、外国のニュースは日本には断片的にしか入ってこないから、実際のところ僕はオバマ政権の内政に関してはよく知らないんだ。ただアメリカ社会はいまだに大きく深刻な問題を抱えている事は知っている。だからオバマ政権の問題点が指摘されることは当然の事だと思うよ。もちろんいかなる理由があろうとも暴力に走る事を除いてだけど、『批判する事』こそが健全な民主主義を作るのだと信じているよ。」


当てつけも含んでいるけど、僕の意図が伝わってくれていればいいなぁ。
  


2016年10月08日

普通のブログ

かなり久しぶりに漫画の『地獄先生ぬ~べ~』を1巻から読み直してます。
小学生の頃から大好きな漫画だったけど、こんなに泣ける話だったっけ。
一巻毎に最低1回は必ずウルウルしちゃう。歳取ると涙腺が緩くなるのかな。膀胱も緩くなったし。
続編の霊媒師いずな、地獄先生ぬ〜べ〜NEOはまだほとんど読んでなかったから、この機会に買って読もっと。

地獄先生ぬ〜べ〜NEO 1 (ジャンプコミックス)
岡野 剛
集英社 (2014-10-03)
売り上げランキング: 65,288




シン・ゴジラ2回目見に行ってきました。同じ映画を2回も見に行くのはこれが初めて。このゴジラを見る事ができてとても幸せです。
作品に関しては、この2か月間散々巷を席捲してきたものなので今更書くべき事も無いのですが、あえて一つだけ無いものねだりを言わせてもらえば・・・
やっぱり怪獣と戦う戦車は煙突マズルブレーキが付いてて欲しいなぁ。ついでに単色塗装に日章旗マーキングで。

庵野監督ならやるんじゃないかと、ちょっとだけ期待してた。

これからもずっと、"子供に見せられる"自衛隊と日本が続きますように。
クレヨンしんちゃん+怪獣大戦争マーチ https://youtu.be/k03lgPEuJLA?t=1h12m50s




8月末、台風のあとに巨大な虹が出現。家のベランダから撮りました。

虹が大き過ぎてフォーサーズ14-42mmのレンズ(35mm換算で28-84mm相当)では全然画角に収まらなかったので、3枚の写真をつなげてあります。空の色に切れ目があるのはそのせい。
加えて、目で見るのとは違って、写真ではコントラストをかなり上げないと虹がはっきり見えなかったので、空は実際にはもっと明るかったです。



こちらも8月に撮ったやつ。

仕事の合間にケータイで撮りました。ずっと田舎の方を周ってたので、夏っぽい良い風景が沢山見られました。
しかし移動は車だったとは言え、作業は外で行うので、連日の猛暑でやってられっか!って状態でした。
無理無理、1件終わるごとに車に戻ってエアコンMAXにして体力が回復するまで休憩。
汗の量が尋常じゃない。車のシートまで汗びっしょりだし。マジで車内が臭いのでファブリーズ常備してました。

仕事の最中、周囲に民家がなく近所付き合いもなさそうな場所にある一軒家に、認知症らしき老人が何するわけでもなく一人でボーっと座りこでいるという場面に何度も出くわしました。
服は汚れ、玄関から見える家の中はゴミだらけ。声をかけても、いまいち会話にならない・・・。
すごく心配になるけど、特に危険が迫っている訳ではないし、僕も仕事があるので次の場所に行かなくてはならない・・・
自治体がこの状況を把握し、様子を見に来ている事を祈るしかありませんでした。
誰もが憧れる美しい里山風景の影には、過疎と高齢化により社会から孤立してしまった独居老人たちが想像以上に多くいるという現実を思いがけず知ることとなりました。
自民党の議員先生たちが『一億総活躍』や『地方創成』という言葉を口にする時、その恩恵を受けるはずの『国民』に、こういった弱い立場の人々も含まれているのか、よくよく疑って見る必要があるでしょう。
  


2016年08月09日

ビエンホア国軍墓地

※2016年8月17日更新
※2023年4月30日更新

 顔なじみにはもう既に話しましたが、先月、10日間ほどベトナムを訪問してきました。
 ベトナムでは、友人(ベトナム系アメリカ人)の親戚の家にホームステイさせてもらっていたのですが、が帰国した後も彼は2週間ほどベトナムに残っていたので、彼がアメリカに帰国するまでは安全のため、我々がどこに行っていたのかインターネットには書かないという約束でした。
 その友人が先日、無事アメリカに帰国したので、これからたちが訪れた場所を紹介していきます。

 まず、実際に訪れて最も強い衝撃を受けたのが、ビエンホア国軍墓地 (Nghĩa Trang Quân Đội Biên Hòa)でした。
 ビエンホア国軍墓地とは、1961年に着工、1967年に完成したベトナム共和国の軍人(および司法・行政関係戦没者)墓地で、125ヘクタールの広大な敷地に最大30,000基の棺を埋葬できるベトナム最大の国立墓地でした。
 このビエンホア国軍墓地には、ピーク時の1968年(テト攻勢)、1972年(イースター攻勢)に合わせて10,000名もの殉職者が埋葬され、1975年の終戦までに計18,318基のお墓が建立されました。

▲1975年以前のビエンホア国軍墓地
墓地の正面にはビエンホア墓地のシンボルである銅像『追悼像(Thương tiếc)』、小高い丘の上には霊廟『死士殿(Tử Sĩ)』、墓地の中心には高さ43mのコンクリート塔『義勇塔(Nghĩa Dũng )』が建立された。





 ここを訪れて弔意を捧げる事は、今は無きベトナム共和国という国に少なからぬ縁を持った私にとって人生の夢でしたが、同時に非常に危険を伴う困難な目標でもありました。
 なぜならベトナム社会主義共和国は1954年以来、60年間以上に渡ってベトナム共産党による一党独裁体制な訳ですが、彼ら国内の求心力を維持し、自分たちの独裁体制を維持し続けるために掲げられる大義名分は、かつて『フランス・米帝とその傀儡から人民を解放した』という過去の功績しかありません。そしてその為にベトナム共産党は、自分たちが打倒したベトナム共和国という体制を徹底的に悪の権化と宣伝し、1975年以前の南ベトナムに存在したありとあらゆる価値観を、音楽や芸術に至るまで破壊しつくしてきました。そして現在でも、国民が政府を批判する事は許されず、ましてベトナム共和国という旧体制を好意的に見る事は弾圧の対象とされています。(法律に明文化されている訳ではないが、政府に不都合な事は何でもベトナム社会主義共和国刑法245条『公共秩序騒乱罪』で逮捕される)
 しかし一方で、今日ではインターネットの普及によってベトナム共産党による長年の悪政に対する批判が噴出しおり、政府は見せしめのために抗議運動の指導者を次々と逮捕するも、それによってさらに国民の怒りが炎上するという『アラブの春』の前段階に似た状態となっています。さらにその中には、独裁政権下で隠蔽されていたベトナム共和国時代の真実をネットによって知り公然と旧ベトナム共和国という体制を肯定する若者たちもかなり増えてきました。少なくとも私がFacebookで友達になっている400名のベトナム人はそういう人たち。また彼らは旧南ベトナム地域出身者に限らず、ハノイを中心とする北部にも反共産党・親ベトナム共和国派の若者が大勢います。こうした状況の中で今日では、ビエンホア墓地は旧政府時代の国立墓地というだけでなく、ベトナム共産党による支配を阻止するため、祖国ベトナムを守るために戦った英霊の眠る神聖な場所として、現代の反体制派ベトナム人にも再評価されるようになってきました。
 しかしこういった流れは独裁体制を維持したい現政府が最も危惧していた事であり、ベトナム警察はそうした反体制運動への取り締まりをより一層強化しつつあります。なので、パスポートを提示して入国せざるを得ない外国人の私が、警察の目を逃れてこの墓地に赴くことは非常に困難だと考えていました。


偶然にも私がビエンホアを訪れる二日前に、別のベトナムの若者たちが共和国軍を偲んだ軍服姿でビエンホアを参拝し、警察が出動したというニュースが流れました。

 しかし去る7月上旬のある日、ある米国在住の友人から突然「今ベトナムに居る。君も来るならビエンホアに案内する」と誘いを受けてしまいました。は正直、行くかどうかかなり迷いました。ただでさえベトナムは、気に食わない人間は外国人でも平気で不当逮捕(=罪状なしで拉致監禁)する国だし、ビエンホア墓地はその中でもかなり監視が厳しい所だろうし、がどういう人間かはインターネットを通じて監視されているだろうし・・・。
 でも今なら、向こうの事情に通じた友人たちがエスコートしてくれると言う。今行かなければ、次に行けるのは何年後になるか分からない。誘われてから丸一日じっくり考えた末、意を決してベトナム行きの航空券を買いました。

 そしてベトナム入国二日目に、私とベトナムの友人5名(うち2名は参拝後すぐ立ち去れるよう車で待機)でビエンホア国軍墓地に赴きました。車の中で友人たちに「ここは監視が厳しく普通のベトナム人ですら危ないが、外国人は特にマズいので、タイガは言葉を話すな」と指示を受けました。また携帯電話を持っているだけでも警察が飛んで来るので、スマホも全員車内に置いて行きました。なのではこの場所で写真を撮っていませんが、友人は腕時計型カメラ(秋葉原とかで売ってるやつ)を身に着け動画を撮りながら行ったので、後日彼が製作しているドキュメンタリー映画でその時の動画が使われるそうです。

 このビエンホア国軍墓地は霊廟、義勇塔、墓地の三つで構成されています。 そのうち、義勇塔は戦後、共産主義者によって塔が半分ほどに取り壊されました。 また兵士たちの墓石は残っており、遺族によって整備・維持されているものの、墓石に刻印された顔写真の多くは戦後に破壊されました。しかしこの二つは監視が厳しいため、今回はお参りしませんでした。一方、丘の上の霊廟は人目に付きにくいたため、我々は残された霊廟にお参りする事にしました。
 しかし車の中からも確認していましたが、霊廟の門のあたりには私服警官らしき男たちが張り込んでいたので、我々は地元民を装って門を素通りし、そのまま数百m歩いて丘の裏手にまわり、周囲に人が居ない事を確認してから霊廟裏手の階段に進みました。
 そこは、死者が眠るかつての荘厳な景色の面影など一切ない、ただの雑木林と化していました。最初は40年も放置されれば木も生えると思っていましたが、階段を登っているうちに、これらの樹木は人為的に植えられたものである事に気付きました。石段から直接、段毎に等間隔で木が生えています。これは明らかに、この施設が周辺住民の目に入らぬよう、霊廟を木々で覆い隠す目的で植えられたものでした。

(↓私は現場で写真を撮っていないので、以下の写真は他の人が違う言う日に撮影したものです)
 

 一度林の中に入ってしまえば、外で見張っている警官からは見えないので、霊廟の正面と内部で焼香させていただきました。それは、私がベトナム共和国軍に興味を抱いてから13年目にして迎えた、最も心の震える瞬間でした。
 戦死者約20万人、戦傷者100万人もの大きすぎる犠牲を払いながら、国際社会から無視され、越共テロル政府から国を売った悪魔と喧伝され、無知なミリタリーマニアから嘲笑の的にされ続けるベトナム共和国軍。彼らの霊が癒される時は果たして来るのでしょうか。私はただ、心の中で彼らの無念を偲ぶ事しかできませんでした。
 私は今回、こうして不可能だと思っていた夢を叶えました。しかし少しもハッピーな気持ちにはなれません。この夢のフィールドにあったのは、悲しみと怒りだけでした。動画を撮影している友人は、私に感想を尋ねました。しかし、答える言葉が見つかりません。この邪悪な行いに対する感想を、どう英語で表現したらいいのか私には分かりませんでした。
 一般に、戦争とは異なる立場の人間同士の衝突であり、一概にどちらが良い悪いと言いきれるものではないという事は承知しています。しかし、このように死者の眠る場所を冒とくし、あまつさえ全ての墓標を破壊し全て無かった事にしてしまうなどという行為は、どんな大義名分があろうと『悪行』以外の何者でもありません。
 私はかねてより、ホー・チ・ミンらベトナム共産党がいかにベトナムという国を不幸のどん底に叩き落したかという事を主張してきましたが、今回実際にこの目でその惨状の一部を目の当たりにし、改めて彼らが行った『解放』と『統一』の正体を再認識させられました。

 願わくば、この隠伏の木々が鎮守の森の役目を担い、来るべきベトナムの再出発の日まで、この地に眠る霊たちを守り続けん事を。
  


2016年07月04日

参院選と日本国憲法

 今日は参議院選挙の期日前投票に行ってきました。今回は日本という国にとって特に重要な選挙なので、自公政権にきっぱり反対してれる政党に投票してきました。

 安倍首相はこの選挙で「憲法改正を争点にしない」と発言していますが、同時に「憲法改正は要綱・公約に明記してある」と、改正を強行する事を臆面もなく示唆しています。国民による唯一の審判の手段である選挙の時に目的を隠し、選挙に勝ったら国民の信任を得たと曲解し、この国の体質を決定する最も重要な指針を我が物にせんとする安倍政権・自民党・公明党の横暴に、私は一国民として非常に強い憤りを感じています。

 改憲派の論調として最も多用されるのが、「現在の憲法は太平洋戦争の敗北によって戦勝国アメリカに押し付けられたもの」であり、「今の国際情勢にそぐわない」、「日本人が誇りを取り戻すためには自主憲法が必要」というものです。確かに日本国憲法の草案、特に第九条『戦争の放棄』に関しては、当時のアメリカの意向に沿って作られたという事は否定できません。
 しかし、今日『自主憲法』を掲げる安倍政権の政治が、果たして日本の自主性を持ったものだったでしょうか?アメリカの要望に沿って秘密保護法を制定。アメリカの要望に沿って安保関連法を制定。アメリカの要望に沿って普天間基地の辺野古移転を強行。アメリカ軍による事故・犯罪が何度繰り返されようが、決して日米地位協定に触れる事なく「遺憾の意」と「再発防止を求める」だけ。
 これが果たして日本最大の保守政党、そして日本国の政権与党としてふさわしい政策でしょうか?彼らは一体誰のための政府なのでしょうか?そんな彼らが作る憲法が日本国民の総意を反映した『自主憲法』と呼べるものになるでしょうか?

 こんな事書いてると反米論者みたいに思われるかもしれませんが、むしろ僕はアメリカという国が大好きなんです。絶望的なまでの格差、矛盾、日本では考えられないほどの世論の分裂を抱えながらも、それぞれの層が口を紡ぐことなく常に意見を発信し続けられる風土を備えており、そんなひたすら前に進むアメリカという国の文化、力強さをとても羨ましく思っています。
 それに加えて僕は典型的なミリタリーマニアなので、アメリカ軍がだーい好き。家はアメリカ軍の軍装品だらけだし、さらには仕事中も英語のリスニング力向上をかねて毎日米軍ラジオ(AFN)を聞いてるくらいです。
 だけど、良きパートナーである事と、精神まで依存する事とは違います。まして、国民の命を駒にして他国に媚びを売るなんて、一国の政府として絶対にやってはいけない事です。

 また、特に安全保障の分野において、戦後日本の安全保障政策は時折「他の先進国では~」と否定的に比較されがちですが、その先進国の国々の憲法は、長年国民が権力の横暴と戦い、多くの犠牲者を生みながらようやく現在の場所までたどり着いたものなのです。しかしそれでも、人間の社会では常に個人は犠牲にされがちであり、憲法が目指す理想に対しては『先進国』であってもいまだに発展途上と言えます。
 僕は物心ついた頃からミリタリーマニアをやっていますが、この趣味を通じて学んだことは、人間の命がいかに『軽い』かという事です。強大な権力の前に人間個人の存在意義など無いに等しく、政府の政策一つで何万人が死んでしまいます。愛国心を語る政治家は、自国民の生活を救済する事よりも、敵兵を効率的に殺す兵器を開発する事に税金を使います。そして国民が死ねば、ここぞとばかりにその死をプロパガンダに利用します。
 そんな中で現在の日本国憲法は、制定された経緯はどうあれ、世界のいかなる国も辿り着けなかった崇高な理念を掲げているという点で、フランス人権宣言、アメリカ独立宣言に連なる世界で最も先進的な憲法だと私は考えています。この名誉と幸運を、なぜむざむざと手放す必要があるのでしょうか?

 古今東西、大衆が思考力を失い、力による支配を受け入れる『カルト』が発生する時、必ず行われるのが外敵による『危機感』と、集団への『帰属感』を煽る事。『カルト』は宗教団体に限った話ではなく、規模の大小問わず、国であれ会社であれ学校であれ、人間の集団は常にこのカルト化の可能性をはらんでいます。これは言い換えれば、「我々は正しく、奴らは間違っている」、だから「自分たちを誇り」、「愚かな敵を憎む」という呆れるくらい単純な発想です。しかし残念ながら、この幼稚なプロパガンダは心の弱い大衆にとって非常に甘い誘惑であり、いつの世も絶大な効果を発揮してしまう魔法の言葉、あるいは人類にかけられた呪いとも言えましょう。
 その一方で、我々の住む社会には、この低きに流れる人心に待ったをかける、良識ある人たちも少なからず存在します。選挙とは、一般人の生活とは無縁な為政者たちによる澱んだ密室に風穴を開け、そこに良識ある『代議士』を送り込むための空気の入れ替えであるべきと考えます。
 僕の一票なんて日本全体から見れば本当に些細なものですが、チリも積もれば山になるものです。つい7年前には、実際に政権交代が行われています。
 僕はこの記事を読んだ人が、他人が語る『憎しみ交じりの正義感』に流される事なく、自分自身の良心に従って投票に行って頂くことを心から願っています。


日本国憲法 前文

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。



人が、人としての幸せを味わい、老いて天寿を全うできる、この社会が守られる事を祈って。
  


Posted by 森泉大河 at 21:49Comments(0)【日本】言論

2015年12月23日

グエン・ベト・ズン裁判


 去る12月14日、今年4月に逮捕されて以来8ヶ月間も警察署に拘留されていたベトナム民主化運動ブロガーのグエン・ベト・ズン氏に対する裁判が、ハノイ市内のホアンキエム地区人民裁判所で行われました。
 グエン・ベト・ズン氏(ハンドルネーム: ズン・フィー・コ)は、僕と同い年で、1986年にゲアン省イェンタン地区ハウタンの貧しい農家の一人息子として生まれました。彼は子供の頃から聡明、勤勉で、友達思いの少年だったそうです。
 2004年にはゲアン省主席としてハノイ工科大学に入学しましたが、3年生の時に反中国デモに参加したために退学処分となりました。(反中デモは、ベトナム政府の望む時には奨励されるが、そうでない時は取り締まられる)
 その後、ズンは昨年2014年4月30日(サイゴン陥落の日)、旧ベトナム国旗(共産政権以前の伝統的な国旗)を自宅に掲揚したため、そのベトナム民族の旗が他の農民の目に入らないよう、治安部隊に自宅の周囲を封鎖されるという事態となりました。(違法行為ではなく、逮捕はされたが不起訴となった)
 強い人権意識と愛国心を持つズンは2015年4月2日、フェイスブックに民主化運動ページ『共和党(Đảng Cộng Hòa)を設立。その1週間後の4月9日、仲間と共にハノイ市内で街路樹保護を訴えるデモに参加します。そしてデモ参加4日目の4月12日、ズンは他の4名の仲間と共に突如ホアンキエム警察署に逮捕されました。

【逮捕から現在までの経過】

2015年4月12日、ホアンキエム警察署に逮捕される。本来容疑者の逮捕は直ちに公にされるが、ハノイ警察は逮捕の事実を隠蔽する。(つまり法に則った逮捕ではなく、警察官による拉致に等しい)
4月19日、逮捕から1週間後にハノイ警察がズンの逮捕を公表。罪状はベトナム社会主義共和国刑法第245条に基づく『破壊活動』および『公共秩序騒乱罪』だったとする
4月20日、捜査の結果、違法行為がなかったため、ハノイ警察は刑法第245条の容疑を取り下げる(普通ならこの時点で釈放される)
同日、ハノイ警察は容疑を『精神障害による異常行動』に変更し、釈放せず。以後ズンらは8ヶ月間に渡り拘留され、拷問を含む厳しい取調べが行われる
ハノイ警察は再び刑法第245条『公共秩序騒乱罪』でズンらを起訴
12月14日、裁判開廷


逮捕当日のズンと4名の仲間(4月12日ハノイ)


▲息子の無実と解放を訴えるズンのご両親(ゲアン省)

▲ズンの弁護を引き受けた弁護士のレ・バン・ルアン氏(左)、チャン・チュー・ナム氏(右)は11月3日、ハノイ市内で7名の暴漢に襲撃され大怪我を負った

▲裁判開廷。ズンの解放を求め裁判所前で抗議する市民(12月14日ハノイ)


▲抗議に集まった市民の多くが、ズンの実家があるゲアンの貧しい農家の人々であった

 
▲市民らは警察官によって締め出され、裁判所前は閉鎖された。裁判所は今回の裁判を『公開裁判』と規定しているが、市民が傍聴席に座ることは許可されなかった

▲抗議に参加した三名の弁護士(チャン・チュー・ナム氏、グエン・カー・タイン氏、ボー・アン・ドン氏)
ズンの弁護団の一人、チャン・チュー・ナム氏は裁判所から強制的に退場させられ、弁護はレ・バン・ルアン氏一人のみで行われた


そして、3時間足らずの裁判でズンに下された判決は懲役15ヶ月の有罪判決でした。
無実の市民を不法に拘束し、裁判まで8ヶ月間も拘留した上に、さらに15ヶ月間も投獄するという卑劣極まりないハノイ警察・ベトナム政府の姿勢に、私は憤りを禁じえません。
また、こうした弾圧に晒されているのはズン一人ではありません。これまで数え切れない人々が、ベトナム国内で人権・民主化・言論の自由を訴えたがために、党に危険分子と見なされ逮捕・投獄されました。

 


しかし恥ずべき事に、日本ではこういったベトナム共産党政権による国民への弾圧は全くと言っていいほど知られていません。
本来、こういう報道はメディアや人権団体が行うべきなのですが、日本の言論界は呆れるを通り越して情けないくらいベトナム共産党びいきですし、日本国民もベトナム国内の問題になど興味ないので、ニュースになる見込みはありません。
それどころか日本国内の知識人は、右派・左派が一致してベトナム共産党を好意的に見ているのが現状です。
彼らの論調は、大まかに言えば、さしずめ以下の二点といったところでしょう。

・中国が嫌い・目障り!だから、中国と対立しているベトナムは親日!共に経済・防衛関係を発展させ中国に立ち向かいましょう!(日本の利益にならない話は興味ねーよ。面倒臭い話はそっちで勝手にやってくれ)

・アメリカを追い出した真の独立国!ホー・チ・ミンの気高い理想でベトナム国民は救われた!(理想の為には独裁政権や100万人の難民くらい仕方ないさ。それも過去にフランス・アメリカによる支配があったが故の結果で、政権が悪い訳じゃないさ。てゆーか、『坑米』の部分しか興味ないわ)

どちらにせよ、ベトナム国民の事なんてこれっぽっちも興味ないのは確かですな。

サイゴンに住むある若者は、私にこう訴えかけてきました。

M: 「なぜか欧米のメディアは、ベトナム戦争の頃から越共びいきなんだ。僕は奴らが憎いよ。民主主義国家に住む人間は、独裁政権がどんなに悲惨か想像できないんだ。外国人なんて旅行でちょっとベトナムを見ていくだけで、もう二度と来ないだろう。奴らは試しに、ベトナム・中国・北朝鮮に1年間住んでみればいいんだ。そしたら少しは利口になるさ。越共を支持する欧米メディアに、民主主義を享受する資格なんてないよ!」

私: 「日本のメディアも同じさ。奴らはアメリカを批判すること=知的だと思っていて、その為にあなたの国の不幸を利用しているのさ。奴らは「戦争反対!」と叫ぶ一方で、越共による20世紀後半最悪の『解放』戦争を支持していたんだもん。単に幼稚な正義感を振り回したいだけで、ベトナム国民のことなんて眼中にないよ。」

M: 「しかし、なんでIS(イスラム国)は非難されるのに、越共は支持されるんだ?やってる事はまるで同じなのに...」

私: 「ISは欧米人も殺すから問題視される。越共は自国民を殺すだけだから、欧米や日本は、何にも困らない。」

M: 「なるほど...」



なぜ私は熱心にこういう記事を書くのか。
このブログの他の記事を読めば、単に私がベトナム共和国(南ベトナム)軍が好きだから旧南ベトナム政権を支持し、その敵を非難していると思われるかもしれません。
私自身は、趣味とこの問題はまったく別であり、分けて考えているつもりですが、ちょっと説得力に欠けることは自覚しています。この趣味が無ければベトナムに興味など抱かなかった訳で、そういう意味では、趣味が入り口であったことは否定しません。
ただ、ブログにはあまり書きませんが、私はベトナム趣味と同時にナチス・ドイツ、特にSSのマニアである事は一部の人に知られています。だけど、あんな腐れレイシストどもを庇う気など微塵もないので、その一線は引いているつもりです。
当ブログをよく読んでもらえば、100件以上ベトナム共和国時代の記事を書いていながら、当時のベトナム共和国政府を賞賛した事など一度も無いことが分かると思います。
その上で、偶然か必然か、私は日本に住みながら彼らベトナム人の過去・現在と関る機会を得ました。そして彼らの生の声を聞く度に、心が強く動かされます。
安直に善悪の二元論を振り回すのは馬鹿の十八番だし、そういった価値観は相対的なものであることは中学生だって知っていますが、かと言ってそこで不貞腐れて、見て見ぬふりをしたり、利口ぶってシニカリズムに走るのは、大人としてみっともない事だと私は思っています。
こうして記事を書く度に、ベトナム共産党の弾圧を逃れて難民として海外に脱出した在日・在米ベトナム人たち、そして今もベトナム本土に住む人々から、たくさんの感謝と励ましの声を頂きます。
幸運にもこの機会を得た以上は、世界中の誰も耳を貸さない、忘れ去られた彼らの声を代弁することは、私の使命であると考えています。

最後に、ズンが逮捕の直前に人々に向けて語った、ズンの好きなロックバンドGuns N' Rosesの歌詞の一文を紹介します。


"You can't trust freedom when it's not in your hands"
~自由を信じる為には、まず自由を手にする必要があるんだ~(意訳)
Guns N' Roses - Civil War

  


2015年11月07日

悪を憎む

ここ数日、連続して人間のクズに遭遇してしまい、とっても気分が悪いよ。

世の中では『とっぽい』とか『やんちゃ』というオブラートに包んだ言い方するみたいだけど、はっきりクズと言うべきだね。

『不良』とは、つまり人格が悪質な輩なんだから、積極的に社会から絶滅させなきゃ。

『元ヤンの方が根性ある』とか、『ヤクザにも良い人はいる』とかいう台詞は、真面目に生きている人間への冒涜でしょ。

弱者の生き血をすすってほくそ笑む社会病質者に対しては、素直に「死ね」としか思わない。

僕は普段は感情論に流されないよう気をつけているつもりだけど、ああいう連中に対してだけは100%感情で動いてしまう。

先日も駅のホームで、40歳くらいのおっさん数人が、一人の男性を取り囲んでガキみたいに「オラオラ」言いながら脅していたので、僕はとても不愉快になり「お前ら性格悪いな。最低だよ」とおっさん達に言いに行った。

おっさん達はまたガキみたいにふてくされた態度で去っていったけど、どうせまたどこかで、同じことを繰り返すのだろう。残念ながら僕には、他人の人格を矯正する能力は無い。

また誰かが、ああいうクズのせいで悲しい思いをするのを止められないのが、とても悔しい。






僕はアホなので、30歳を目前にした今でも、子供のころに学んだことを100%そのまま行動に反映する。弱っちいけどね。

  


Posted by 森泉大河 at 02:39Comments(0)言論

2015年09月16日

続・安保法案について

丁度この件を記事にしようとしていたところ、先に投稿した記事『安保関連法案』について以下のご質問を頂きましたので、今回はそれにお答えする形で前記事の補足説明を述べさせていただきます。

【質問】

> 現行の法律と日米安保で対処出来ています

この部分について、具体的にお聞かせいただけないでしょうか? 
それと法案に関しては、米政府内で法案成立に同意を示しているだろうという意見がありますが、
そのあたりについてはいかがでしょうか、与党のことについては記事内で言及されていましたが、
日本政府は米国側に何という反応を示すのが妥当だとお考えでしょうか? 

> 実際僕もタイ人やベトナム人の友人から、日本軍の蛮行について耳の痛いことを聞かされます

この部分について、具体的にお聞かせいただけないでしょうか、
それからそれらの話が、デマや誤解、誇張にもとづいていない話かどうか検証できるか検討したいと思っていますので。

【回答】

>現行の法律と日米安保で対処出来ています 
言葉の通りの意味でして、日本は戦後70年間外国からの攻撃を受けず、今現在も平和と繁栄を保っています。これは国家の安全保障政策が目指すところを十二分に達成しており、これまでの政策が大成功している証であると捉えています。
問題は今後も対処し続けられるかという点だと思いますが、まず大前提として未来に起こることは私にも安倍首相にも誰にも断言は出来ません。出来ることと言えば今後の展開を予想することだけですが、それは件の法案に賛成であれ反対であれ、誰にとっても綱渡りな推論でしかありません。
その上で安倍政権は以下のストーリーを想定して本法案(特に集団的自衛権の部分)を作ったものであると私は解釈しています。

『中国軍の海洋進出、北朝鮮の核ミサイル開発等によって今後日本の経済的・物理的安全が脅かされる危険性はより高まるだろう』
『日米同盟等によって米国などの同盟国は日本を守ってくれるはずだが、金を払って守ってもらう一方ではいつか同盟国に見捨てられるかもしれない』
『日本も対等な責任を負って同盟軍を武力によって守る事で、同盟国との信頼関係は深まり日本の安全保障はより安泰になるだろう』

この推論は一見説得力があるように見えますが、メディアや有識者が声を上げているように、法案の内容を見ると数々の懸念が沸いてきます。

・日本はこれまでも国民の経済的・精神的苦痛を伴いながら膨大な資金・基地などを米軍に提供し、その要求に十分応えてきたはずだが、日本が人命を賭して同盟国を守りさえすれば、米軍基地や財政面での負担が解消される確約はあるのか?
・そうでないなら、これまでの負担に加えてさらに国民・自衛官の命までも差し出さなければ維持できない非常に不平等な関係となるのではないか?
・そのような歪な関係で、最後まで同盟国が日本を守ってくれると言い切れるのか?仮に守られたとして、それは本当に日本の自主独立を維持した状態なのか?
・武力行使の条件たる『存立危機事態』の定義が曖昧であり、さらにその判断を憲法や国会ではなく内閣が決定する以上、実際には日本に直接的な脅威がなくとも時の政権の都合で恣意的に運用される危険性は拭えないのではないか?
・恣意的に運用された場合、日本を守るどころか、むしろ余計な危険を背負う羽目になるのではないか?
・憲法違反である可能性が限りなく高い以上、法案そのものが日本の立憲主義を否定する物であり、それはつまり日本国民が長年培ってきた良識ある社会を破壊し無法な権威主義国家へと貶める行為ではないか?

これまでの国会審議でこれらの疑念が払拭されたとは到底考えられず、またそもそも政府が憲法を無視する事自体が国の安全を脅かす異常事態ですので、私は本法案への反対と、安倍内閣への批判を行っています。

>米政府内で法案成立に同意
我が国の法律ですので、外国政府の同意・不同意に左右されてはならないものだと考えます。
それが日米関係を極端に悪化させる恐れのある場合はまた別ですが、今回の法案が流れたところですぐさま関係が悪化し日本が窮地に陥るという事は、米国にとっても不利益であるため考えにくい事だと思います。

>日本政府は米国側に何という反応を示すのが妥当
これまで通り「日本には(米国が作った)憲法9条があるし反戦世論が根強い為、日本の周辺に直接的な攻撃が無い限り、外国に対し軍事的な協力は出来ないんですよ。」という『建前』を通し続けるべきだと考えます。
この白々しい戦後日本の建前は、明治~第二次大戦時代の惨禍によって日本を快く思わない東アジア・東南アジア地域や、米国を敵視するイスラム世界においても、『軍事的脅威は無い上にやたら経済支援をくれるお人好し』という評価を得て友好関係を築き日本企業参入を可能にしました。したがってこの方針は今日の経済発展や国際社会での地位、すなわち我が国の安全保障を支える必須条件と考えます。
一方で日本周辺の不安定な情勢を見れば在日米軍の存在は必要不可欠だという事は私も認識していますので、当面はこれまでのように基地の提供や財政面で米国と密に協力し、現行の日米安保を維持するしかないと思います。これは特に沖縄など長年基地問題に悩まされている人々にさらに我慢を強いる物であり本当に申し訳ない限りですが、現状ではもっと良い方法が思いつきません。

>タイ人やベトナム人
具体的に言われたのは以下についてです。
・1941年12月に日本が独立国であるタイ王国に侵攻し、防衛に当たった多くのタイ軍兵が戦死。さらに武力による恫喝によってタイ政府を枢軸国側に編入させ、それによってタイ国土が戦場となり国民が犠牲となった。
・泰緬鉄道建設において、日本軍が使役した連合国捕虜、タイ人、ビルマ人、マレーシア人、インドネシア人労働者が大量死した件。
・1944年~1945年にかけて日本軍・仏印政府統治下のベトナムで発生した大飢饉によって膨大な人数のベトナム人が餓死した件。

>デマや誤解、誇張
私自身は、これらの事件のうち犠牲者数については誇張が含まれると思っています。(ただし、例え犠牲者がたった一人であっても許されざる犯罪であり、その不名誉は永遠に消せないですが)
史学的に公正な研究が進むことには大賛成ですが、前記事で『事実かどうかに関わらず』と書いたように、残念ながら歴史とはその地の体制によって都合良く書き換えられるものなので、いくらこちらが学術的な主張をしたところで、外国人が持つ歴史認識を変える事は難しいでしょうね・・・。どこの国でも、自己辯護に聞こえる外国人の主張より、学校や自分の親から教わった常識を信じるのが普通ですからね。
私が記事でこの件を引き合いに出したのはこの点を言いたかったからでして、軍隊が自国以外で(偶発的にでも)戦闘すれば、理由の如何を問わずその時点で敵対勢力に対し格好の宣伝材料を与えてしまうという事です。そうして権力・体制によって造られた歴史認識は、何十年でもその地域の人々に憎悪と共に残り、我が国にとって不名誉と不利益であり続ける訳です。
特に相手がテロ組織の場合、その経緯が何であれ、一度敵と見なされれば永遠に攻撃対象とされてしまう危険性が高いと考えます。そしてこういったテロ集団に対し軍事力は抑止力にならず、むしろ敵を増やすばかりだという事は冷戦終結後の米国・欧州・ロシア・中国の状況を見れば明らかです。
そこで本法案が恣意的に運用され米国主導の対テロ戦争に日本が軍事的協力を行う事になれば、我が国までもが敵と見なされ、一層国民を危険に晒すことになるのでは?という懸念は当然浮かびます。これも言わば仮定の話に過ぎませんが、安部政権はこうした事態への防止策を考慮していないようなので、このまま成立させてはならないと考えた次第です。

以上が私の見解です。




【あとがき】

正直、いまさら安部政権が良識を取り戻して法案を取り下げるなんて事は無いだろうから、もう成立は避けられない情勢だという事は分かっています。と言うか、選挙で自民党が大勢取った時点でもう遅かったんだよな・・・。
しかしこの国はまだ独裁国家にまでは墜ちちゃいねぇ。政治家は選挙に負ければ無職なんだから、あんまり調子こいてると議席を減らすという当たり前の事が分かれば、連中だって内閣支持率を気にせざるを得ない。自民だって数年前の政権転落のトラウマはもう繰り返したくはないでしょう。
そうすれば例え法律はあったとしても、懸念される国民の命を駒にした大戦略ゴッコに少しは歯止めがかかるんじゃないかな。かかるといいなぁ・・・。
だから今後も、絶え間なく与党を突つきまくる必要がある。これは嫌がらせとかじゃなくて、権力の横暴を防ぎ健全な民主主義国家を維持する為に必要不可欠なプロセスです。
物心ついた時から『へそ曲がり』と呼ばれ続けて二十余年、いまさらお利口さんにはなれません。生きてる限り一人でも声を挙げ続けていきますよ。
  


Posted by 森泉大河 at 22:52Comments(1)2010年代・現在News!【日本】言論

2015年09月01日

雑記



この歌カッコイイ!!


今出回ってる中国製の仏軍風キャンバスブーツってもう、くるぶし保護のゴムがコンバースみたいに脚の外側にあるやつしかないの?
今回注文した店によると、商品画面に載ってた(内側にゴムが付く)のは旧モデルで、すでにメーカーがこの形にモデルチェンジしてしまったらしい。マジか
返品に応じてもらえたから良かったけど、もしかしたら旧モデルはとっくに在庫が枯渇しているのかも。
無いなら定番のパラディウム買うしかないけど、あれも結局フランス軍のとは似て非なるものだしなぁ。
もしかしたら、この中国製キャンバスブーツシリーズの2バックルブーツ仕様を買って、上の部分をぶった切るのも有りかなと思い始めている。


こちらはCLASSIFIED (クラッシファイド)さんで販売中の、別メーカー(ドイツ製でしたっけ?)の丈長仕様を改造したもの。
イベントの用意するついでに、また少しお色直ししました。
最初はアイレットを全てアルミ製に打ち替えるつもりだったんですが、なんか億劫になったので、タミヤカラーで塗っちゃいました。
ちょっとは雰囲気良くなったかな。



つい2ヶ月前訪れたばかりのプラ・プロム(エラワン廟)。
日本なんかよりずっと文化・人種・宗教に寛容で慈愛あるタイという国を象徴する、平和で美しい場所でした。

写真:Daily Mail Online
それが、こんな姿にされるとはね・・・。
さすがに寛容なタイ人だって、王都のど真ん中でこんな事されたら、「危機感」やら「自衛」やら、もっともらしい言葉の誘惑に苛まれてしまうよ。
それでも今のところ特定の宗教に対して表立った対応をしていないタイ政府の判断は賢明だと思う。(と言うか下手にムスリムを敵に回すと本当に内戦になる)
何を理由にしようが、人間の抱く『怒り』なんて、結局は利己的なものに過ぎない。
それなのに人はそれを容易く『正義感』なるものにすり替えてしまう。
そして、この浅はかな自己暗示が産むものは、結局こんなものなんだよ。



ネトウヨという無知な子供(および子供並の知能の成人)が罹る病気の方々は、やたらベトナム派遣韓国軍に執着があるみたいですが、
少なくとも僕の友人のライダイハン(韓国軍人を父に持つ韓国・ベトナムハーフ)は皆、ベトナム防衛の為に命がけで戦った韓国軍人をいたく尊敬されていますよ。
ネットなんて所詮、ベトナム共産党のプロパガンダが外国のレイシストに利用され、無条件で垂れ流されるような、便所の落書き以下の場所なんですから、読む価値のある文章なんて本当に限られてますよ。
糞を眺める趣味は無いので、僕はGoogleの検索結果に日本語を表示させないように設定しています。



友達に誘われて、大井競馬場で人生初の競馬を体験。
僕はギャンブルやらないので、大井競馬場で開催されていたタイ&ビールフェスティバル目当てで付いてきました。
ただしビールはあまり好きじゃないので、本当にただタイ料理を食いに来ただけ。

タイに住んでた時幾度となく食べたパッタイ(ケチャップ味米粉焼きそば)と、お店オリジナルのトムヤムクーン味カオパット(炒飯)
こういう日本の出店で買うと合計1000円(ビール入れて1600円)になるのは仕方ないんだけど、タイの屋台の値段知ってると、なんか馬鹿らしくなる。向こうじゃ300円で腹いっぱい食えたのに・・・
なお戯れに計1000円ほど馬券を買ってみました。一本も当たりはしなかったけど、3頭中2頭は当たってて、何度も惜しいところまでいってました。
もう一回やれば僕でも当たりそうな気がします。なるほど、こうやって人は身を滅ぼすのか。


ギザギザハートだった頃はだれかれ構わず突っかかってたけど、さすがに僕も大人になったので、今は噛み付く相手は自分より目上の人だけにしている。
  


2015年08月10日

二郎とか選挙とか生徒会とか

今日はラーメン二郎松戸駅前店の店主が交代してリニューアルオープン初日なので、朝から弟と並びに行きました。
開店は午前11時ですが、9時30分に店に着いた時点でやはり行列が。
この日はオープン初日という事で限定120杯なので、整理券が配られていました。
僕の整理券は103番。おお・・・危なかった。この時間に来て整理券に間に合ったのはラッキーでした。
(もしダメだったら同じく松戸市内にある、らーめん おうかで食おうと思ってました。)
整理券もらったものの、順番が来るのは午後1時ごろと言われたので一旦帰宅。
そして昼過ぎに再び来店し、無事新店長の作る二郎を頂く事ができました。

「ニンニク、アブラで」


おいしかったv(°∇^*)


夕方は埼玉県知事選挙の投票へ。
正直僕もあまり興味なかったけど、一応行っておかないとね。
しかし選管の発表によると、僕の住んでる市は投票率21.8%で、全市町村平均の33.8%より12ポイントも低いのね。情けねー

選挙と言えば、何年か前に地元の市議会議員選挙で、父と一緒にボランティアの選挙運動員やった事があります。
まぁ小さい街なので、選挙運動も大都市とは比較にならないのほほんとしたものでしたが、面白い経験ができました。
街宣車(黒いバスではない)で市内廻ってたら、いきなり「喉疲れたから、うぐいす嬢代わって」とか言われて、台本も無いまま急遽スピーカーで喋る羽目に。
いやぁ、あれ恥ずかしいものですよ。緊張して噛みまくるし。
でもやってるうちにだんだん慣れてきて、調子乗って自転車乗ってる知らないおばさんとかお巡りさんに「暑い中ご苦労様です!」とか声かけてみたり。
あと、市内くまなく廻るので、生まれてこの方一度も来た事のない地元というのが見れました。


思い返せば、僕も中学の時に生徒会に立候補して、体育館で何やら演説した記憶がありますが・・・何言ったか全く覚えてないですね。
1年で書記、2年で生徒会長やったけど、毎月やる全校朝礼は、最初は演説の台本書いてたけど、だんだん面倒臭くなってきて、途中から全部アドリブで喋るようになっちゃいました。
生徒会で一番面白かったのは文化祭と三送会(三年生を送る会)でしたね。
文化会では、開会式で僕が体育館の2階から飛び降りて登場する事になってまして、周りから「危ないから絶対回るなよ!」と念を押されたんですが、いざ手すりを乗り越えスポットライトを浴びると是非とも回りたい衝動に駆られたので、1回転して飛び降りました。
そしたらマットで跳ね過ぎて、そのままバウンドして観客席に突っ込み足を捻挫。「バカ」「やるなって言ったろ」「バカ」と生徒会の女子全員から怒られました。ごめんちゃい
あと三送会では、司会やってる時、先代の生徒会長を突然名指しして「今から告ってください」というサプライズを仕掛けたら、先輩が「タイガが告るなら俺も告る」などと意味不明な事を言い出し、それに調子付いた全校生徒みんなで僕に告れコールが始まっちゃいました。
策士策におぼれるとはこの事か。しかたなく壇上から好きだった同じクラスの子に「好きです!」と叫びました。
そしたらその子は突然スポットライトを浴びせられ、全校生徒の前で晒し者にされてしまい、驚いて本気で泣き出してしまいました。あーあ
その後告った先輩もあえなく撃沈。そんなもんだよ。こういうショーは見られる側の人間の自己犠牲で成り立ってるんだ。
軍ヲタ的には、体育祭の開会式で校旗の旗手やったのは良い経験だったはずなんだけど、当時の僕はまだ廃工場に忍び込んで友達とガスガン撃ち合ってる程度だったので、旗手という役目の重大さを全く分かってなかったのが惜しいところ。
ドラムコーア付きの隊列の先頭で行進、観閲席に栄誉礼なんて、もう二度と味わえないシチュエーションじゃないか。あんなガキんちょ時代じゃなくて、今やりたいよ。
  


Posted by 森泉大河 at 00:08Comments(0)2010年代・現在【日本】言論ラーメン

2015年08月05日

秋葉原にて

仕事帰り、午前0時ごろに秋葉原で電車乗り換えるついでに駅前の喫煙所行ったら、夜遅いので閉まってた。

そんで喫煙所の前はこんな有様。





一体何人が路上に投げ捨てたのだろう。
ゆうに200本はあるね。

俺の見てる目の前で、仕事帰りのサラリーマン達が次々と吸い殻を地面に捨てて行くし。

なんかムカついたので、おっさん達がタバコふかしてる周りで、地面の吸い殻をパシャパシャと写メ撮りまくった。

なんか皆、バツの悪そうな顔して見て来たね。

なに?気分を害した?

そりゃ、良かった。


まぁ僕自身喫煙者なので、そのままその場で吸って帰ったけど。

しかし、これじゃあ喫煙者はバカで恥知らずなろくでなしと思われても仕方ないね。

あの人たちは、自分の家の前や、自分の子供の前でも同じ事するのかな?

みんなやってるからいいやって事なのかな?

ずいぶん老けた子供がいるなぁ、おい。  


Posted by 森泉大河 at 00:23Comments(0)【日本】言論