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2022年08月08日

従軍章とデバイス

ベトナム共和国の勲章の中でも、最も授章者が多いと思われるのが従軍章(Chiến dịch Bội tinh)です。
従軍章はベトナム戦争中の1964年5月12日に制定された勲章で、長期間の軍事作戦(戦役)に一定期間直接参加した軍人および部隊が授章または死後授章する勲章と定められていました。
この勲章の授与対象は自国軍だけでなく外国軍も含まれるため、数百万人のベトナム共和国軍軍人に加えて、アメリカや韓国、タイ、オーストラリア等、ベトナムに派遣された同盟国軍の兵士全員が授章した、ベトナム戦争を象徴する勲章と言えます。

▲HUY CHƯƠNG Ân Thưởng Trong QUÂN-LỰC VIỆT-NAM CỘNG-HÒA(1969)より

またこの従軍章の対象となる戦役当時行われていたベトナム戦争に加え、過去に行われた第一次インドシナ戦争も含まれました。
その為、その従軍章がどちらの戦役による物かを区別するため、勲章のリボン部分および略綬には、それぞれの戦役が行われた年号を記したスクロール型のデバイスが装着されました。

・1949-54(略綬用は49-54):第一次インドシナ戦争
※第一次インドシナ戦争の開戦は、フランスのインドシナ再侵攻という意味では1945年、ベトミンによる武装闘争の公式宣言という意味では1946年ですが、この従軍章の対象は1949年に創設されたベトナム国軍(ベトナム共和国軍の前身)以降のベトナム軍人を想定しているため、デバイスの年号は1949-1954となっています。

・1960-(略綬用は60-):ベトナム戦争
※従軍章およびデバイスが制定された1964年当時はもちろん、この勲章が授与されたのはベトナム戦争の期間中のみなので、終戦の年号(1975年)は入っていません。

▲従軍章が制定された当時の資料(1965年)


以上が従軍章の公式な規定ですが、同盟国軍(特にアメリカ軍)では上記の二つ以外にも非公式なデバイスが用いられることがありました。
公式なデバイスでは、ベトナム戦争従軍者は全員『1960-』となりますが、非公式版では、その人物が実際に従軍した年号が入ります。


これらの非公式デバイスが生産・販売されたのはベトナムなのか米国内なのかははっきりしないのですが、少なくともベトナム共和国政府から授与される正式なデバイスではない事は確かです。
  


2022年08月04日

我が家のキャロット

これまでコスプレ用にいくつかキャロット(仏語でギャリソンキャップの意)を買ってきたものの、いまだに着用して撮影したことがありません。
なので今回は話の種に、キャロット単体でご紹介。


①フランス植民地軍歩兵部隊Mle46キャロット(デスボランティア製リプロ)

第一次インドシナ戦争~アルジェリア戦争で使われたキャロットの植民地軍仕様。錨のバッジ以外は陸軍と共通。
赤い色は歩兵の兵科色で、植民地軍の場合は植民地歩兵部隊を意味します。


②フランス植民地軍Mle47キャロット(フランス製リプロ)

第一次インドシナ戦争~アルジェリア戦争で使われた熱帯用キャロットの植民地軍仕様で、こちらも錨のバッジ以外は陸軍と共通。
上のMle46と違って兵科色を示さないので、どの兵科でも被れる便利な帽子です。


③アメリカ陸軍カーキギャリソンキャップ(実物)

フランス軍Mle47キャロットの代用品として買いました。Mle47キャロットは米軍ギャリソンキャップのコピーであるため、代用にはもってこいです。
上で述べたように錨なしのキャロットはフランス陸軍仕様であるのに加え、第一次インドシナ戦争期のベトナム陸軍や支援軍(民兵)でも着用されました。
またベトナム戦争期には陸軍ではキャロットは廃止されていたものの、一方でMle47と同様のカーキ色キャロットがベトナム海軍や人民自衛団(民兵)の一部、学生向け軍事教練プログラムで着用されました。


③アメリカ空軍士官ギャリソンキャップ(実物)

ベトナム空軍士官キャロットの代用品として買いました。
第2次大戦後にアメリカの支援によって創設された西側諸国の空軍同様、ベトナム空軍のキャロットも見た目はアメリカ空軍の物と瓜二つです。


ちなみにキャロット(Calot)はフランス語ですが、ベトナム共和国軍ではCalotをベトナム語読みして"カロット帽( Calot)"と呼んでいたようです。

▲Huấn Lệnh Điều Hành Căn Bản (1969)より

Calot自体に帽子という意味があるのでカロット帽だと意味が重複していますが、日本語でもベレー帽とかマスケット銃とかチゲ鍋とか言うように、外国語を輸入するとこういう事ってよく有りますよね。

  


2022年07月25日

ベトナム警察の制服と階級章

今回はベトナム共和国の警察の制服、中でもいわゆるお巡りさんの着る勤務服の変遷をまとめました。

なおベトナム共和国の警察組織は、時期によって『警察(Cảnh Sát)』と『国家警察(Cảnh Sát Quốc Gia)』の二つの名称があります。1955~1962年までベトナムでは公安警察総局(Tổng Nha Cảnh Sát Công An)の下で、警察と公安が別々の組織として存在していました。その後、1962年になると警察と公安は統合されて新たに国家警察が発足し、公安警察総局国家警察総局(Tổng Nha Cảnh Sát Quốc Gia)へと改編されたました。


制服(勤務服)の変遷



1st (1955-1962)※公安警察総局期
制帽: 白
シャツ: 白(長袖)
パンツ: 白

2nd (1962-1966)これ以降国家警察
制帽: 白
シャツ: 白(半袖)
パンツ: 白
1st~2nd期は全身白い制服を着ていたため、ベトナムに派遣されたアメリカ兵たちは街のベトナム人警察官たちを『ホワイトマウス』とあだ名した事が知られています。そのイメージが強いせいか、映画フルメタルジャケットではサイゴン市内で交通整理をしている警察官がこの白い制服を着ていますが、映画の時代設定である1968年には白制服は廃止されていたので時代考証的には誤りです。

3rd (1966-1971)
制帽: ライトブルーグレー
シャツ: 白(半袖)
パンツ: ライトブルーグレー

4th (1971-1975)
制帽: ブルーグレー
シャツ: ブルーグレー(半袖)
パンツ: ブルーグレー
なお内勤者では引き続き白シャツ(半袖)の着用例が多く見られる。


階級章の変遷



過去記事『国家警察の階級』も参照

ベトナム警察の階級システムおよび階級章は大きく分けて3つの時代に分けることが出来ます。

1st (1955-1962) ※公安警察総局期
公安警察総局期の階級章に関しては、まだ資料が手に入っていないので、今回は割愛しています。

2nd (1962-1971)
1962年制定の国家警察前期階級章は、1971年まで基本デザインは同じですが、1966年の制服改定(3rd制服導入)に伴い、パッド型からスリップオン式肩章に変更されています。

3rd (1971-1975)
1963年11月の軍事クーデター以降、国家警察は軍の指揮下に置かれており、国家警察総局総監を始めとする警察幹部の大半は軍からの出向者が務めていました。ベトナム戦争が激化すると軍と国家警察の同化はますます進み、1971年には新たに4thの制服が採用されるのと同時に、国家警察の階級システムおよび階級章のデザインも陸軍式に切り替わります。またこの1971年制定階級章では、台布の色でその人の身分が警察官(国家警察正職員)か、軍人(国家警察出向者)かを表すようになりました。
  


2022年07月15日

独立区と特別区

※2022年7月18日更新
※2022年7月20日更新

これまで当ブログではBiệt KhuとĐặc Khuの両方を「特区」と邦訳してきましたが、混同を避けるために今回からBiệt Khuは「独立区」、Đặc Khuは「特別区」と書き分けています。



独立区(Biệt Khu)

ベトナム共和国軍は発足以来、南ベトナムの領土をいくつかの管区に分けて防衛していました。
中でも1962年に再制定された4つの戦術区(1970年に軍管区に改称)は、米軍からCTZ(Corps Tactical Zone)と呼ばれ、ベトナム戦争を通じてベトナム、アメリカ、その他同盟国軍の基本的な管区として用いられた事は割と知られていると思います。
ベトナム陸軍では、第1~第4戦術区/軍管区に、それぞれ第1~第4軍団(各軍団は2~3個歩兵師団+3~6個レンジャー大隊で構成)が配置されていました。(過去記事『ベトナム共和国軍陸軍部隊一覧』参照)
また地方軍では各戦術区/軍管区に、53~144個の地方軍中隊/大隊が駐屯しました。(過去記事続・地方軍の構成』参照)

それら戦術区/軍管区に加えて、ベトナムには戦略上の必要に応じて、戦術区/軍管区の指揮系統から独立し総参謀部の直接指揮下に置かれる独立区累計で4つ設置されました。

・首都独立区(Biệt khu Thủ đô)
管轄範囲:サイゴン市およびザーディン省
1961年に戦術区と同時に制定。首都サイゴンの防衛を担う。

・第24独立(Biệt khu 24)
管轄範囲:コントゥム省、プレイク省
第2戦区より独立。中部高原(タイグエン地方)の国境防衛を担う。

・第44独立(Biệt khu 44)
管轄範囲:ハーティエン市、チャウドック省、キエンフォン省、キエントゥオン省
第4戦区より独立。ベトナム南西部(ミェンタイ地方)の国境防衛を担う。1973年に解散し第4軍管区隷下に復帰。

・ハイイェン独立区(Biệt Khu Hải Yến)
管轄範囲:アンスェン省カイヌォック地区
1962年に第4戦区より独立。中国キリスト教難民を主体とする人民自衛団ハイイェン部隊で構成。1966年に解散し第4戦術区隷下に復帰。(過去記事グエン・ラック・ホア神父』参照)

▲戦術区/軍管区および独立区の範囲と部隊章

▲首都独立区所属の陸軍将校


特別区(Đặc Khu)

特別区(Đặc Khu)は独立区(Biệt Khu)と名前が似ていますが、独立区が総参謀部直属の高次な軍事戦術地区なのに対し、特別区はそれよりもかなり下位の階層にある、小区の下に特別に設置される地方軍および地方組織の地区です。
通常、小区(省)の下には支区(都市)本部が置かれますが、特別区は支区に属さず、大きな自治都市や離島に設定されました。(過去記事地方軍・義勇軍の構成参照)

・ルンサット特別区(Đặc Khu Rừng Sát)
所属:第3戦術区/軍管区ザーディン小区
管轄範囲:ザーディン省ルンサット地区

クアンダ/ダナン特別区(Đặc khu Quảng Đà / Đà Nẵng)
所属:第1戦術区/軍管区クアンナム小区
管轄範囲:クアンナム省ダナン市

・カムラン特別区(Đặc khu Cam Ranh)
所属:第2戦術区/軍管区カムラン
管轄範囲:カムラン省カムラン市

・ブンタウ特別区(Đặc khu Vũng Tàu)
所属:第3戦術区/軍管区フォクトイ
管轄範囲:フォクトイ省ブンタウ市

・フーコック特別区(Đặc khu Phú Quốc)
所属:第4戦術区/軍管区キエンザン
管轄範囲:キエンザン省フーコック島

・コンソン特別区(Đặc khu Côn Sơn)
所属:*
管轄範囲:コンソン島*
※人口が少なく主に海軍基地と刑務所が置かれていたコンソン島の行政区画は以下のように幾度も変更されています。
・コンソン省(1956-64):独立した省。軍事的には全面的に海軍の管轄下。
フォクトイ省ブンタウ市コンソン基礎行政区(1964-1965):一時的にブンタウ市の行政区画に組み込まれる。
・コンソン基礎行政区(1965-1972):省には属さない独立した地区となる。
・ザーディン省/首都独立区コンソン特別区(1972-1975):行政区画がザーディン省所管となる。また軍事的には首都独立区が所管。


これら特別区に関する情報は少なく、このうち私が部隊章を確認できているのは、今のところルンサット特別区とクアンダ特別区の二つだけです。

ンサット特別区

 
クアンダ特別区

▲米軍から表彰を受けるクアンナム小区クアンダ特別区所属の地方軍将兵 
  


2022年07月09日

第222野戦警察団

※2022年7月10日更新

ベトナム国家警察野戦警察隊については以前野戦警察』で概要をまとめましたが、今回は僕が野戦警察のコスプレをする際に設定としている第222野戦警察団についてまとめました。

▲手持ちのPhuoc Hung製レプリカの警察(ホアマウダット)迷彩服。詳しくはこちら


【組織の変遷】

I. 陸軍 第611白虎大隊(1961-1963)

ベトナム国家警察第222野戦警察団はもともと、陸軍の治安部隊として発足した。
1960年11月11日の政府軍幹部によるジエム政権へのクーデター未遂事件から1年後、ジエム政権は社会秩序の維持およびデモや暴動鎮圧を目的とする治安部隊を陸軍内に発足させた。
チャン・バン・ダン少佐が指揮するその部隊は1961年11月6日に創設され、その創設日にちなんで第611白虎大隊(Tiểu Đoàn Bạch Hổ 611)』と命名された。以後、白虎大隊は約2年間に渡ってジエム政権の下で治安維持任務に当たった
しかし1963年11月のクーデターでジエム政権は崩壊し、白虎大隊もその任務を終えた。


II. 国家警察 戦闘警察大隊(1963-1964)

1963年11月クーデター後にグエン・ゴック・トーを首相とする暫定政権『革命軍事評議会(HĐTLCM)』が発足すると、ジエムの配下にあった白虎大隊は陸軍から国家警察へと編入され、新たにフイン・ホン・カム少佐が指揮する『戦闘警察大隊(Tiểu Đoàn Cảnh Sát Chiến Đấu)として再出発した。
(なお、1963年の軍事クーデター以降、国家警察は軍の指揮下に置かれ、国家警察長官をはじめとする警察幹部のほとんどは軍からの出向者が務めた)

▲戦闘警察大隊部隊章(コレクター所蔵品)

戦闘警察大隊ベレー


III. 国家警察 秩序警察大隊(1964)

翌1964年、グエン・カーン将軍が革命軍事評議会を転覆させ、自らを首班とする『軍事評議会(HĐQL)』政府を発足させた。
この政変に伴い、戦闘警察大隊はズォン・クアン・ティェップ少佐(後の第1国家警察管区司令)が指揮する『秩序警察大隊(Tiểu Đoàn Cảnh Sát Trật Tự)へと再び改称された。


IV. 国家警察 第222野戦警察団(1964-1975)

1964年2月22日、秩序警察大隊は再び改編され、その改編日にちなんで第222野戦警察団(Biệt Đoàn 222 Cảnh Sát Dã Chiến)(以下BĐ222)』へと改称された。
さらに翌1965年1月からは、BĐ222に倣った国家警察の機動実力部隊=野戦警察中隊(Đại Đội CSDC)が全国の省警察本部に順次編成された。

▲野戦警察隊部隊章(袖章)

▲BĐ222部隊章(胸章)


白虎大隊の創設から数えてのべ14年間、BĐ222国内の治安維持を担っており、首都サイゴンにおける政府施設防衛、暴動鎮圧のほとんどに投入されている。サイゴンでは国家警察本部、独立宮殿、首相官邸、テレビ局、ラジオ局、各政府省庁などの重要施設がBĐ222の警備対象であった。
同時に、BĐ222は国家警察司令部直属の総予備(即応)部隊でもあり、各地方の治安部隊が対処能力を超えた事態に遭遇した場合、要請に応じて中隊群(Liên Đội)または中隊規模の部隊をしばしばブンタウ、ニャチャン、ダラット、コンソン、フーコックなどに派遣した。
また陸軍に匹敵する高い戦闘能力を持つBĐ222は、米軍と合同でのサーチ&デストロイ作戦や、CIAが主導するフェニックス・プログラムによる平定作戦の実行部隊としても活躍した。

BĐ222は国家警察に所属する部隊ではあったが、その編成は陸軍部隊に準じたものであった。
兵力はおよそ3,000名の少数精鋭部隊であり、部隊の編成は以下の通りであった。

・本部―参謀第1室(管理), 第2室(情報), 第3室(計画・作戦・訓練), 第4室(兵站)
          心理戦部
          警察保安部
          通信部
・公務中隊
・作戦中隊×12
・重火器小隊×1
・中隊群本部×3 (A, B, C中隊群)

各中隊は通常、団本部の直接指揮下にあるが、作戦に応じて2個以上の中隊を運用する場合、団本部の下位に中隊群本部が設置される。
治安維持と戦闘という二つの異なる性格の任務を果たすために、BĐ222の隊員は必要に応じて通常の軍事訓練に加えて、治安維持に関する専門的な訓練を受けた。
また軍事面での作戦能力を高めるため、BĐ222の将校は空挺、レンジャー、特殊部隊、空挺コマンドなど陸軍のエリート部隊から派遣されていた。


歴代指揮官

Trần văn Dần (第611白虎大隊)
Huỳnh Hồng Cẩm (戦闘警察大隊)
Dương Quang Tiếp (秩序警察大隊)
Phạm Huy Sảnh (第222野戦警察団)
Nguyển Trọng Tòng
Phạm Ngọc Anh
Nguyển Thành Sinh
Nguyển Kim Biên
Lai Văn Sáng
Nguyễn Công Triệu


【第222野戦警察団の主な活動】


1963年 仏教徒危機

1963年に仏教徒危機が発生すると、サイゴン市内は政府への抗議者で溢れ、首都は機能停止状態に陥っていた。これに対し政府は軍・警察の治安部隊を投入し、秩序回復を命じられた陸軍第611白虎大隊(後のBĐ222)はデモ参加者の鎮圧にあたった。

▲仏教徒危機においてデモ参加者を逮捕・移送する陸軍の治安部隊 [1963年サイゴン]
迷彩服を着用していることから、白虎大隊もしくは特殊部隊と思われる。


1966年 中部仏教徒デモ

1966年ベトナム中部のフエ、ダナンを中心に、僧侶ティック・チ・クアンおよびダム・クアン・イウ大佐らの主導による大規模な反政府デモが発生。
状況を打開するため、国家警察総局総監グエン・ゴック・ロアン(当時空軍大佐)は自ら現地に赴き、またロアン総監に随行してファム・フイ・サン少佐が率いるBĐ222がダナンに出動した。
ロアン総監BĐ222によるデモ隊強制排除の可能性を材料にデモ主導者のチ・クアンと直接交渉を行い、その結果チ・クアンは逮捕されサイゴンのズイタン病院に軟禁されたが、その見返りに警察側による実力行使は回避され、混乱は早々に終息した。

▲デモ指導者ティック・チ・クアン師との直接交渉にあたるグエン・ゴック・ロアン国家警察総監 [1966年ダナン]
ロアン総監は野戦警察の迷彩服を着用している。


1967年 ビンディン省におけるサーチ&デストロイ作戦

1967年、BĐ222は第4戦術区ビンディン省ボンソンにおいて、アメリカ陸軍第1騎兵師団と合同でサーチ&デストロイ作戦に従事した。ベトコンゲリラの聖域とされたこの地域での平定作戦は数ヶ月に渡って実施された。

▲BĐ222隊員と米陸軍第1騎兵師団第545憲兵中隊隊員 [1967年ビンディン省]


1968年 マウタン1968戦役(テト攻勢)

解放民族戦線がテト休戦の慣例を破り、ベトナム人にとって最も重要な祝日であるテトを狙って全国で同時多発的に攻撃を開始。
首都サイゴンにおいても複数の政府関連施設及び重要施設が解放民族戦線によって一時占拠される。
その後BĐ222は占拠されたサイゴン・ラジオ局の奪還に当たり、敵を掃討してラジオ局の奪還に成功した。


1972年 ロンタン孤児院一斉捜索

フェニックス・プログラムの一環として、BĐ222は1972年2月、国家警察司令部の直接指揮下でビエンホア省本部に派遣され、同省内にあるロンタン孤児院の一斉捜索へ投入された。
国家警察による捜査の結果、このロンタン孤児院の実態は共産ゲリラの隠れ蓑であり、慈善事業を装ってテロ活動のための資金・物資を調達する拠点となっていた。また院内では、孤児たちを共産側の兵力として利用すべく、解放戦線や労働党秘密党員幹部によって、子供たちに対する反サイゴン政府洗脳教育が行われていたとされている。


1973年 コンソン島捕虜収容所における捕虜交換

1973年、パリ協定によって北ベトナムとの戦争が一旦休戦し、南北の捕虜交換が開始されると、コンソン島の共産軍捕虜収容所にはパリ協定に基づき、収監されている囚人の中から北ベトナムへの送還者を共産軍側が選別する『コンソン矯正センター監督委員会』が設置された。
BĐ222はコンソン島に派遣され、共産側の監督委員会と合同で捕虜の送還に当たった。また同時に、人質として監督委員会に監禁されていた政府側の収容所所長がBĐ222によって保護された。


1974年 サイゴン反政府デモ

1974年10月、サイゴンにおいて政府の腐敗を糾弾する大規模デモが発生。BĐ222を含む治安部隊が鎮圧にあたる。



1974年 ホアハオ部隊反乱鎮圧

1974年末、第4軍管区カオランにて、それまで政府軍に属していたホアハオ教徒による地方部隊『ホアハオ保安総隊 (Tổng Đoàn Bảo An Hòa Hảo)』が反乱を起こしたため、BĐ222は鎮圧に派遣された。


1975年 サイゴン橋の戦い

共産軍が首都サイゴンを包囲した1975年4月28日から29日にかけて、BĐ222最後の戦いを行う。
4月28日午後4時頃、空挺師団が守備にあたっており、すでに共産軍との戦闘の最中にあったビエンホア街道上のサイゴン橋に、BĐ222 A中隊群(第5,8,10中隊)が到着。守備任務を空挺師団から引き継ぐ。
サイゴン橋をめぐる一昼夜に及ぶ激しい戦闘の末、共産軍はサイゴン橋の攻略を断念し、4月29日午後4時に一時撤退する。
辛くもサイゴン橋の防衛に成功したBĐ222は新たな戦闘に備え、武器・食料の補給を行う。
しかし翌30日午前10時15分、ズオン・バン・ミン総統が全軍に戦闘停止を下令し、戦争は終結した。


参考サイト




  


2022年07月02日

ベトナム陸軍の職種徽章

※2022年7月3日更新

前回の記事『金属製 天使の翼』に関連して、今回はベトナム戦争期のベトナム陸軍の職種徽章(Bằng Chuyên Môn)全般についての解説です。


▲Huấn Lệnh Điều Hành Căn Bản (1969)より

職種徽章のデザインのいくつかはアメリカ陸軍の影響を強く受けていますが、米軍とは異なり、レンジャーや空挺は独立した職種(兵科)です。
職種徽章は装着する被服によって佩用の仕方が異なるので、以下、被服ごとの使い方です。

将校外出服/大礼服の場合

佩用位置:ジャケットの両襟(ラペル)
徽章の素材:金属

ただし尉官・佐官のみで将官は職種徽章を佩用しない。
また佩用するかどうかは個人の自由だった模様。





勤務服の場合

空挺科(後述)を除き、勤務服には佩用されない。


作戦服の場合

佩用位置:右胸ポケット上側
徽章の素材:主に布製(織りまたは刺繍)、一部で金属

まず、作戦服に職種徽章を佩用するか否かは職種によって異なる。歩兵や砲兵では佩用例は少ない一方、機甲や各支援部隊では佩用率は高い。
佩用する場合、作戦服には多くの場合で布製の職種徽章が佩用される。ただし憲兵隊員には金属製の使用例が多く見られる。

例:機甲科の職種徽章。左から金属製、織り製、刺繍製

織り製職種徽章を佩用する機甲科将校

▲刺繍製(左)、金属製(右)職種徽章を佩用する第21歩兵師団所属の主計将校



特殊な例① 空挺科



空挺科の職種徽章『天使の翼章』は、他の職種とは違った方法で佩用される。
※『天使の翼章』は英語圏では『Jump Status(降下資格)』と呼ばれていますが、実際にはこの徽章は資格を表す物ではないので、この英語名は不適切だと思います。

I. 勤務服(チノシャツ)の場合

佩用位置:左エポレット
徽章の素材:金属

通常、勤務服に職種徽章は佩用されないが、空挺科の兵下士官(一等中士以下)のみ、エポレットに佩用する。



 II. 作戦服の場合

佩用位置:左胸ポケット
徽章の素材:布製(織りまたは刺繍)

1964年以降、空挺部隊隊員の作戦服には、職種に関わらず全員、布製の天使の翼章がすべての階級で佩用される。
即ち、布製の天使の翼章は職種徽章と言うより空挺部隊の部隊章の一つと考えられる。




特殊な例② レンジャー科


佩用位置:左襟
徽章の素材:金属

通常、レンジャー部隊では作戦服に職種徽章は佩用されないが、1965~1966年にかけての短い期間のみ、佩用例が確認できる。












  


2022年06月29日

金属製 天使の翼

※2022年7月1日更新

先日、ベトナム陸軍空挺部隊の職種徽章(いわゆる兵科章)『天使の翼章(Huy hiệu Cánh Thiên Thần)』の金属製レプリカを買いました。


こういった職種を示す徽章の中でも、金属製の物は多くの場合、勤務服や外出服、大礼服といった制服に佩用されます。(※憲兵など一部の部隊では作戦服にも佩用されます)
また外出服および大礼服に佩用する際は、ジャケットの襟(ラペル)に左右対称に佩用します。(※尉官・佐官のみ)

▲空挺師団師団長レ・クアン・ルオン准将(当時中佐)

しかし上の写真のようなジャケット用の左右対称デザインのレプリカは今のところ存在していない(はず)なので、今回買ったレプリカを装着できるのは勤務服(チノシャツ)に限られます。
なおこういった徽章を勤務服に佩用する場合、普通は右胸ポケットの上に装着されるのですが、空挺部隊だけは他の部隊とは違った独特の文化をもっており、天使の翼章は左エポレットに装着されます。


ただしこれは階級章が袖に付く一等中士(一等軍曹)以下の階級だけで、上士(曹長)以上は階級章がエポレットに通すスリップオン式になるため、天使の翼章はこの位置には佩用されません。

この付け方を手持ちの服で再現するとこんな感じになります。


赤い台布は有っても無くても構いませんが、有った方がカッコいいのでフェルト布を切って作りました。


なお過去に何度か記事に書いてきましたが、天使の翼章の由来は、フランス軍空挺部隊が1946年に導入した、大天使ミカエルの翼と剣をモチーフにしたベレー章になります。
このベレー章はフランス軍の麾下で1951年に発足したベトナム陸軍空挺部隊にも継承されており、1955年にベトナムがフランス連合を脱退した後も、そのデザインは空挺部隊のシンボル=天使の翼章として継承されました。


こうした経緯から、大天使ミカエルはベトナム陸軍空挺部隊の守護天使とされており、空挺部隊本部が置かれたホアン・ホア・タム駐屯地(タンソンニュット基地内)の前には巨大な聖ミカエル像が鎮座してました。

  


2022年05月16日

ベテラン訪問

3月のベトナムロケで取材させて頂いた元ベトナム共和国軍将校のお二方との記念写真です。

元陸軍装甲騎兵将校


氏は友人の祖父の異母兄弟で、6年前のベトナム初訪問の際にもお話を伺いました。
1968年のマウタン(テト攻勢)以降、M113装甲兵員輸送車部隊の指揮官として終戦まで戦ったお方です。
マウタン1968ではサイゴン川の対岸に終結した共産軍に対し、車載のM2重機関銃を撃ちまくって撤退させたと思い出を語ってくださりました。

僕が日本の友人と共同で製作したベトナム共和国軍コンバットレーション、『Cơm sấy(乾燥米)』の自家製リプロをお披露目。
「そうそう、これ食ってた」と懐かしんでいただけました。



元陸軍特殊部隊/レンジャー部隊将校


この方はかつて特殊部隊(LLÐB)隊員として、米豪軍と共にCIDG部隊を指揮したベテランです。
1970年にCIDG計画が終了し、各国境特殊部隊キャンプのCIDG部隊が陸軍レンジャー部隊(BÐQ)に編入、国境レンジャー大隊(BÐQ Biên Phòng)として再編されると、氏もレンジャー部隊に転属し、引き続きCIDG隊員で構成された国境レンジャー大隊を指揮しました。



氏の腕に残るLLÐBの精神的シンボル=棺桶の入れ墨。
棺桶は「もう自分用の棺桶は用意してある」=「死ぬ覚悟はできている」という決意を意味しているそうです。

戦時中は棺桶がデザインされた非公式パッチも存在し、一部のLLÐB隊員たちの間で胸ポケットに着用されまた。


なお肝心のインタビューはベトナム語で行われたので、僕は内容をあまり理解できていません。
ただ、撮影を終えたあと監督がインタビューの謝礼にと、二人に現金を渡したのですが、そのお金がドンではなく米ドル札だったのは印象深かったです。
別に米ドルを有難がっている訳ではなく、(米ドルが一番両替し易いというのはあれど)本質的にはどこの国の紙幣でも別に構わないのです。
ただ少なくとも、ホーチミンの肖像が入った金など渡したくないし受け取りたくないというのが、インタビューする側、される側共通の心情でした。
  


2022年04月28日

カフェー・キムソン

前回『BGIと飲料ボトル』で1975年以前のラルーとコンコップの瓶を紹介しましたが、これらをプレゼントしてくださったのが、チャーヴィン省チャーヴィン市内にある喫茶店キムソン(Kim Sơn)のマスターです。
このお店はマスターが趣味で収集したベトナム(特に南部)のアンティークアイテムが店内所狭しと大量に展示されている、ベトナム近現代史好きにとってはたまらないお店です。




お店に展示してある品々



全部解説してるとキリが無いので、僕の趣味的に気になった物をいくつか紹介します。

①ベトナム共和国軍陸軍工廠製栓抜き(1969年製)
かつてサイゴン市内に存在した陸軍工廠(Lục quân công xưởng)が製作した栓抜きです。こんなものが存在したんですね~



②USAID供与ラジオ
ベトナム戦争期、USAID(アメリカ国際開発庁)によってベトナムに供与された民生品のラジオです。ラジオ自体は普通の市販品ですが、正面左下にUSAID供与を示すシール(星条旗と握手のイラスト)が残っています。



③ベトナム共和国切手収集ファイル(1971年)
ベトナム国内の切手コレクターが収集したファイルです。切手は全てベトナム共和国時代の物であり、またファイルには元の持ち主が記したと思われる1971年の日付がありました。これは友人がキムソンのマスターから購入しました。

 


④M72対戦車ロケット
お店の一角にはミリタリー物もいくつか飾ってあり、店先には使用済みのM72ロケットが乱雑に立てかけてありました。武器系は買ったところで飛行機で持って帰れないので、いじくりまわして遊んでました。




歴史アイテムに囲まれて、歴史好きの仲間と語らいながらアイスコーヒー飲むの幸せ~

惜しむらくは、このお店が僕の家から4,500kmも離れた場所にあること。近所にあったら毎日通っちゃいますよ。
  


2022年04月19日

古いレンズと短パン空挺

過去記事『写真作りについて』で述べたように、リエナクトや歴史コスプレの写真を撮るにあたって、写真を当時物っぽく見せるために最も確実なのは、実際に当時使われていた機材を使う事です。
なので過去には僕も1959年発売のレンジファインダーカメラ(135フィルム)を使って撮っていましたが、いかんせんフィルムは撮れば撮るほど現像代とデジタル化の費用がかかるので、気軽に撮りまくれる物ではありませんでした。

そこで写真の雰囲気とコストパフォーマンスを両立すべく構想していたのが、想定する時代に近い古いレンズを用意し、それを現代のデジカメに搭載して撮影する方法です。
この方法自体はだいぶ前から考えていたのですが、ついに先日、重い腰を上げてニコン製の古いレンズを買いました。
レンズはNIKKOR 50mm F1.4で、中でも1976年発売の『New NIKKOR (後期型)』と呼ばれるモデルだそうです。

1976年発売なので時代としてはベトナム戦争終結後になりますが、NIKKOR 50mm F1.4という商品自体は1962年の発売から徐々に改良が繰り返されてきたレンズなので、写真の写り方自体は1975年以前のモデルと比べても恐らく大きな違いはないはずと思っています。
そして、このレンズをPixco製のマウントアダプターを介して手持ちのオリンパスE-620に取り付け。


ちなみに、これは偶然なのですが、オリンパスのデジタル一眼レフは手振れ補正機構がレンズではなくカメラ本体側に付いているので、半世紀近く前のレンズであっても手振れ補正が働いてくれるのです!

こうして機材の準備が整ったので、さっそく友人と二人でコスプレ撮影しました。
設定は1953年ごろのベトナム陸軍第3空挺大隊(フランス極東遠征軍団第3ベトナム空挺大隊)。



レンズは絞りF1.4という事で、ボケ具合は申し分なし。
ただ、カメラの設定がオートのままだと写真があまり古い感じにならなかったので、今回もあとからフィルムっぽく加工しています。
あらかじめISO感度を高めに設定しておけば、画がザラついてフィルムっぽさが出るかな?次回試してみます。

なお、こちらが今回テーマとした1953年の第3空挺大隊の写真。


フランス連合の空挺部隊と言うとビシッと迷彩服を着ているイメージですが、発足当初のベトナム空挺大隊は迷彩服の支給が少し遅かったため、部隊によっては1953年頃までTTA47戦闘服やカーキ半ズボンなど、一般部隊と同じ被服も使われています。

女子っぽく言うと、半ズボンという一見空挺部隊には見えないスタイルに「ギャップ萌え」ですよね。
  


2022年04月10日

海賊島の石碑

※2022年4月10日更新

今回の旅の中では、サイゴンから遠く離れて、ベトナム本土南部最西端の街ハーティンとフーコック島の中間にある小さな島、その名も『ハイタック島=海賊島』にも行きました。


リゾート地として有名なフーコック島ではなく、わざわざこんな辺鄙な島に行ったのには当然理由があります。
それがこちらの記念碑。ベトナム共和国時代の1958年にベトナム海軍によって設置された、ハイタック島を含むハイタック群島(現ハーティン群島)の領有を記念する石碑です。
石碑には当時のまま、ベトナム共和国(Việt Nam Cộng Hòa)の国名、そして旧ベトナム海軍の紋章が残されており、今日のベトナムでは大変貴重な史跡です。



このハイタック/ハーティン群島は長年、タイランド湾を荒らしまわる海賊の本拠地となっており、そこから海賊群島という名前が付けられたほどの無法地帯でした。
19世紀末にインドシナがフランス領になってからも海賊は一掃されず、資源も住民も無いこの群島は数十年に渡って植民地政府からも放置されていました。
その後、1939年に当時のインドシナ総督ジョセフ・ジュール・ブレビエによってタイランド湾の各諸島の(インドシナ連邦内での)行政区画を定めた『ブレビエ線(ligne Brévié)』が設定され、これが現在のベトナム・カンボジア国境の基礎となります。
このブレビエ線によって、ハイタック群島はついにコーチシナ(後のベトナム)の領域と定められました。

▲ベトナム・カンボジア国境。タイランド湾内の国境はブレビエ線に依る。

しかしその後、第一次インドシナ戦争の結果フランスがインドシナから撤退し、ベトナム、ラオス、カンボジアの3国が名実ともに独立を果たすと、旧宗主国フランスが一方的に設定したブレビエ線の正当性は失われます。
これによりハイタック群島を含むタイランド湾内の島々は、その領有を巡ってベトナム・カンボジア両国の係争地となりました。
そして1958年、ベトナム・カンボジア両国はそれぞれタイランド湾に軍を派遣し、各群島の実効支配を開始します。
しかし両国とも軍事衝突は避けたことから、支配地域はそれまでのブレビエ線とほぼ同一となり、そのまま両国の国境が確定しました。
この際、ハイタック群島がベトナムの領土として確定した事を記念したのが、今回訪問した記念碑になります。

なお、1975年のベトナム戦争終結以降、ハノイの共産党政権は旧ベトナム共和国が築いた歴史・文化・財産を徹底的に破壊しましたが、国境という権益だけはそのまま継承したため、ハイタック群島の領有を示すこの記念碑は今日まで破壊を免れてきたようです。

領土と言えば、ベトナム戦争中、中国に依存しきったハノイ政府は一度たりともホンサ諸島(西沙諸島)の領有権を主張しなかった一方、ベトナム共和国政府は中国海軍との海戦・地上戦を行ってでもホンサ諸島を自国の領土として守ろうとしました。(過去記事『ホンサ海戦から44年』参照)
しかしハノイ政府は、そんな過去は無かった事にして、すでに中国が占領済みのホンサ諸島の領有をいまさら主張していますね。まぁこれは本気で中国に対抗しているのではなく、国内向けのリップサービスというのが見え見えですが。
  


2022年04月07日

ティンロン7の墓碑

サイゴンでは、市内の墓地にあるティンロン7』の墓碑にもお参りしました。
ベトナム共和国軍空軍第5空軍師団第53航空団第821飛行隊所属のAC-119Kガンシップ、コールサイン『ティンロン7』の7名の乗員は、1975年4月のサイゴン防衛戦を戦い、ベトナム戦争における空軍最後の戦死者として記憶されています。


<ティンロン7最期の戦い>

1975年4月の時点で、タンソンニュット基地所属のティンロン7はベトナム空軍に残された2機のAC-119ガンシップのうちの1機であり、ティンロン7は首都サイゴンに最後の猛攻をかける共産軍に対抗し、4月28日から全力で出撃を繰り返していた。
ティンロン7は武装として20mmバルカン砲2門、7.62mmミニガン4門を備え、タンソンニュット基地の眼前に迫る敵地上部隊を上空から砲撃し続け、弾薬・燃料が尽きれば基地に戻り、補給次第再び出撃していた。

▲TINH-LONG RỰC-SÁNG(2013)より

▲AC-119Kスティンガーの武装

サイゴン陥落前日の4月29日午前5時、ティンロン7は最後の出撃へと飛び立った。その後約2時間に及ぶ戦闘の末、弾薬が尽きたティンロン7は補給のため基地に引き返した。
午前7時ごろ、タンソンニュット基地上空に差し掛かったところで、共産軍はティンロン7に対し複数のSA-7地対空ミサイルを同時に発射した。タンソンニュット基地の地上勤務員は、その光景を真下から目撃しており、ティンロン7の機体の周りで4つの爆発が目撃された。
そしてこのうち一基のミサイルがティンロン7の左エンジンに命中しており、その数秒後にエンジンが炎上。ティンロン7はそのまま飛行を続けたが、間もなく左主翼がエンジンごと脱落し、機体は制御を失った。

▲TINH-LONG RỰC-SÁNG(2013)より

▲地上から撮影された墜落するティンロン7

ティンロン7の8名の乗員は脱出を試み、機関砲手のグエン・バン・チン一等上士だけは機外に脱出してパラシュートを開く事が出来たが、機長のチャン・バン・タイン中尉以下7名の乗員は機体と運命を共にした。ティンロン7はそのままタンソンニュットの飛行場敷地内に墜落し、炎上。機内に生存者はなかった。
唯一パラシュート脱出したグエン・バン・チンは重傷を負ったものの、地上で陸軍空挺師団の兵士に救助され、生還を果たした。
それからおよそ24時間後、総統府に共産軍が突入し、ベトナム共和国政府は降伏を宣言。15年間続いたベトナム戦争が終結した。


ティンロン7の最期については、唯一の生存者であるグエン・バン・チンが共著したこちらの文書に詳しく記載されています。

時は流れて撃墜から35年後の2010年、タンソンニュットの敷地内で、ティンロン7の乗員7名の遺骨が発見されました。
その知らせを受けたベトナム国内外の元空軍関係者と乗員の遺族は資金を出し合い、サイゴン市内の墓地にティンロン7の墓標が建設されました。
共産党政府当局の摘発・妨害を避けるため、墓標の発注は匿名で行われたといいます。





今回僕は仲間と共にお墓の清掃と焼香、撮影を行ってきましたが、運悪く墓地の管理人が居合わせてしまい、管理人が警察に通報する恐れがあったので長居はできませんでした。
もちろん金を渡して黙っててとお願いしましたが、金を受け取った上でさらに通報する人間も多いので安心はできません。焼香を終えたら、そそくさと退散しました。

お墓という事で当局も大目に見ている部分があるのでしょうが、現在のベトナム国内に旧ベトナム空軍の紋章が残っているという事自体、とても貴重な事です。この墓標がいつまでも保全されることを願って止みません。
  


2022年04月01日

ベトナムロケから帰国

実は3月中盤から約2週間ベトナムに行っており、本日、日本に帰国しました。
(エイプリルフールじゃないですよ。笑)

前回のベトナム訪問同様、安全のため日本に帰国するまでは一切の情報を伏せていました。

【2016年のベトナム訪問】
ビエンホア国軍墓地
https://ichiban.militaryblog.jp/e789059.html
スンロクの戦跡
https://ichiban.militaryblog.jp/e789541.html
ベトナム戦跡めぐりダイジェスト
https://ichiban.militaryblog.jp/e790372.html


今回はアメリカ在住の友人がプロデュースする、南のベトナム人から見たベトナム戦争をテーマとする映像作品制作が主たる目的であり、僕もそのロケに同行して一部出演してきました。

内容は主にベトナム各地の史跡訪問やベテランへのインタビューですが、一部当時の軍装を再現して、戦時中の再現ビデオ、つまりリエナクト撮影も行いました。

現在の社会主義ベトナムでは、例えアマチュアであってもベトナム共和国時代をテーマとする取材は危険ですし、まして軍装を着て撮影なんて完全アウトなので、警察の目の届かない私有地や田舎の田んぼで撮影しました。






まさにベトナムその地なので、本当にこれ以上ないロケーション。
かつて埼玉の普通の高校生がナム戦コスプレサバゲを始めてから18年。運命に導かれてついにここまで来てしまいました。なかなか感慨深いです。


撮影で巡った場所などについては、おいおい記事にしていきます。
まずは、無事日本に帰ってこれた事の報告になります。

実は僕は出発前、日本での生活に未練なんか無いので最悪向こうでくたばっても構わない、くらいの気持ちで出国したのですが、いざ羽田に帰ってきて高速道路から満開の桜を見たら、なぜか急に感動しちゃったんです。
何だかんだ言って、僕の故郷はこの国だったようです。
あと、便所にトイレットペーパーが置いてあるってだけで十分素晴らしい事。  


2022年03月12日

第一次インドシナ戦争期のベトナム陸軍 その3:その他の戦闘部隊

※2022年4月9日更新
※2022年5月10日更新

前記事

その3は、その1・2では紹介しきれなかったその他の戦闘部隊についてです。


砲兵大隊 (Tiểu đoàn Pháo Binh)

第5砲兵大隊のM2A1榴弾砲砲隊 [1952年12月ナサン]

ベトナム陸軍砲兵部隊の発足は1951年後半であり、当初の名称は『独立砲隊(Pháo Ðội Biệt Lập』、CEFEOでの呼称は『独立射撃砲隊(Batterie de tir autonome)』であった。独立砲隊は各2個の砲隊から成り、各軍管区に配置された。
しかし独立砲隊はCEFEOにとって二線級部隊であり、その装備はフランス軍で使われなくなったイギリス製のQF25ポンド砲や旧日本軍の九五式野砲などの旧式火砲が主であった。
独立砲隊が運用した火砲は次の通り。
・QF25ポンド砲(イギリス製): 122門
・九五式野砲(日本製):29門
・M3 105mm榴弾砲(アメリカ製): 11門
・QF 3.7インチ山岳榴弾砲(イギリス製):7門
・138mmカノン砲(フランス製):4門
・モデル1905 75mmカノン砲(ブルガリア製):2門

その後、1952年から1953年にかけて独立砲隊は『砲兵大隊(Tiểu đoàn Pháo Binh)』、CEFEO呼称『ベトナム砲兵群(GAVN: Groupe d'artillerie Vietnamiens)』へと再編され、その装備もフランス軍と同水準に更新された。
各砲兵大隊はアメリカ製のM2A1 105mm榴弾砲12門を装備する3個砲隊で構成され、各軍管区本部の直接指揮下に置かれた。

第1軍管区:第1砲兵大隊
第2軍管区:第2砲兵大隊
第3軍管区:第3砲兵大隊
第4軍管区:第4砲兵大隊
未確認  :第5砲兵大隊

なお、各砲兵大隊の大隊長は長らくフランス軍のフランス人将校が務めており、ベトナム人将校が大隊長に就いたのは終戦後の1954年10月であった。


軽大隊(Tiểu đoàn khinh quân)

▲第4軍管区第808軽大隊の将校 [年代不詳]

CEFEOでの呼称は『軽大隊(Bataillon léger)』。
軽大隊(軽中隊含む)の前身はフランス軍の指揮下にあるベトナム人民兵部隊『支援軍(forces supplétives)』内のコマンド中隊であった。支援軍を構成する計595個の中隊のうち91個がコマンド中隊であり、このうち54個中隊が1953年に民兵から正式なベトナム国軍部隊へと昇格し、軽大隊へと改称された。
軽大隊は当初、総兵力10万人規模に拡大する事が計画されていたが、最終的には約4万人に留まった。一個大隊の定数は当初625、後に737に拡大されたが、実際には常に人員が不足しており、「500人大隊 (Bataillon de 500)」と揶揄された。
軽大隊の任務は、ベトナム国軍を含むフランス連合軍の正規部隊がある地域のベトミン主力部隊を軍事的に制圧した後、その地域内の各都市・村落内に潜伏するベトミンゲリラ部隊を掃討・駆逐する事であった。正規戦においてフランス連合軍はベトミン軍を各地で撃退したが、それでもベトナム領内に存在する約七千の村落のうち約五千が依然ゲリラの支配下にあった。軽大隊はこうしたゲリラを掃討することで、実効性のある占領統治を目指した。
一方、ベトミン側はそうした中央の支配力が及ばない地方村落を拠点に活動していたため、軽大隊による村落掃討は死活問題となった。そのためベトミン軍は軽大隊への迎撃にも主力部隊を投入せざるを得なくなり、ベトミン軍の戦力は二分された。結果的に軽大隊は目的通り占領地域内のゲリラや小規模部隊の掃討に成果を上げたが、その一方で部隊そのものが小規模だった事から、ベトミン軍主力部隊による急襲を受け壊滅する事もあった。


ビンスエン部隊(Bộ đội Bình Xuyên)

▲ビンスエン部隊将兵 [1952年チャンソン基地]

CEFEOでの呼称はビンスエン部隊(Troupes Bình Xuyên)』
ビンスエン団はフランス領時代、コーチシナ(ベトナム南部)を中心に違法なアヘン生産・密輸を行った犯罪組織であり、植民地政府やフランスマフィアと共同で『フレンチ・コネクション』と呼ばれる欧米への一大麻薬流通ルートを形成し、その元締めを担った。これによりビンスエン団はインドシナで強大な力を有し、「20世紀最大の犯罪組織」と言われるほどに成長する。
その組織力と地域への影響力は単なる暴力団の枠に留まらず、これに目を付けたフランスはビンスエン団の一部を治安維持部隊ビンスエン部隊』として登用していた。
1945年に日本が第二次大戦に敗北しベトミンが政権を握ると、当初ビンスエン団はベトミン政府と同盟を結んだが、それは一時的なものに終わり、1948年には反対にフランスが擁立したベトナム国政府側に付いた。これに伴い、ビンスエン部隊はベトナム国衛兵隊/国軍麾下の部隊となった。
ビンスエン部隊は1948年の時点では約200名の小規模な組織に過ぎなかったが、戦争末期の1954年には2,500名にまで規模を拡大し、ビンスエン部隊司令官レ・バン・ビエン(Lê Văn Viễn)はベトナム国軍の陸軍少将の位を得た。

なお、第一次インドシナ戦争終結後の1955年4月、フランスの撤退に乗じてビエン少将はベトナム国の政権を簒奪すべくビンスエン部隊およびビンスエン団構成員を動員してサイゴンで武装蜂起を起こす。
これに対しゴ・ディン・ジェム首相は政府軍の精鋭部隊を出動させて反撃を行い、『サイゴンの戦い』と呼ばれる市街戦へと突入するが、程なくして政府軍がビンスエン部隊を壊滅させ、クーデターは鎮圧された。また反乱の首謀者であるビエン少将はフランスへと亡命した。


ヌン大隊(Tiểu đoàn Nùng)

▲ヌン族指導者ヴォン・アー・サン大佐(右から3番目)とヌン族兵士

中国南部からベトナム北部に住む少数民族ヌン族で構成され歩兵部隊の総称
1951年にフランス植民地軍内『第1ヌン大隊(1er Bataillon Nùng)』が発足したが、同大隊は1952年末にベトナム国軍に編入され『第57歩兵大隊』(第5ベトナム師団隷下)へと改名される。以後、ベトナム国軍内にヌン族で構成された歩兵大隊(ヌン大隊)が複数編成される。

第1次インドシナ戦争終結後、ジュネーブ協定によりベトナム国の国土の北半分がベトミンに割譲されると、ヌン大隊の兵士を含む北ベトナム在住のヌン族約5万人が南ベトナムに避難し、ベトナム陸軍には新たに各ヌン大隊を統合した第6軽師団、通称『ヌン師団』が創設された。
第二次大戦中の自由フランス軍時代からヌン族将兵を率いてきたヴォン・アー・サン(Vòng A Sáng)大佐は第1ヌン大隊、第57歩兵大隊長、第6軽師団長のほか、1947年にフランスが設定した『ヌン自治区』の指導者を歴任し、1967年からはベトナム共和国の国会議員を務めた。


ムオン大隊(Tiểu đoàn Muơng)

▲第2ムオン大隊の兵士

ベトナム北部の山岳地帯に住む少数民族ムオン族で構成された歩兵部隊の総称。
フランス植民地軍は1950年3月に『ムオン大隊(Bataillon Muong)』を編成し、この大隊は1951年に『第1ムオン大隊(1er bataillon Muong)』へと改称される。また同年4月には『第2ムオン大隊(2è bataillon Muơng)』が編成される。
第2ムオン大隊は1952年12月にギサ村での掃討作戦に投入され、1個大隊に相当するベトミン部隊を全滅させる。しかしこの戦闘により第2ムオン大隊も後方での再編成を余儀なくされ、この際、同大隊はベトナム国軍に編入され、『第73歩兵大隊』(第7ベトナム師団隷下)へと改名された。


キリスト防衛機動隊 (Unités mobiles de défense de la chrétienté)

▲キリスト防衛機動隊の将兵

ベトミンによるキリスト教徒へのテロに対抗するためベンチェ省で結成された部隊。
仏越混血のフランス軍将校ジョン・ルホア(Jean Leroy)大佐の主導により、ベンチェ省のアンホア島で1947年に結成された民兵部隊『カトリック旅団』を基に、その後複数の民兵部隊を統合して『キリスト防衛機動隊 (UMDC)』が誕生した。部隊の基礎となったカトリック旅団がたった60名の部隊だったのに対し、UMDCの兵力は最終的に5,840名にまで拡大した。
1949年にルホア大佐がUMDCとベンチェ省の完全な指揮権を得ると、それから1年でUMDCはベンチェ省からベトミンを一掃する事に成功した。
その後UMDCはフランス軍麾下の部隊としては1952年に活動を停止し、指揮官のルホア大佐はアルジェリアの部隊へと異動となった。またUMDCの人員は翌1953年にベトナム国軍に編入される。(歩兵大隊または軽大隊へと改編か?)
なお、UMDCは元々キリスト教徒による村落自衛部隊をコンセプトとしていたが、ベンチェやヴィンロン周辺の様々な民兵部隊を統合した結果、最終的には人員の大多数を仏教徒などの非キリスト教徒が占めたとする文献もある。


終戦後にベトナム国軍に編入:カオダイ部隊(Quân đội Cao Đài)

▲カオダイ部隊兵士 [1950年タイニン]

20世紀初頭にタイニン省で勃興した新興宗教であるカオダイ教の信徒で構成された歩兵部隊。
1947年、フランス軍はかつて第2次大戦末期に日本軍によって動員、武装化されたカオダイ教徒による民兵組織を復活させ、新たに『カオダイ部隊(Troupes Caodaïstes)』としてフランス連合軍の一部とした。タイニン省で組織されたカオダイ部隊はフランス植民地軍の指揮下でベトナム南部におけるベトミンとの戦いに投入される。宗教による強い結束を持つカオダイ部隊は各地で大きな戦果を挙げ、その活躍が続いた事から、カオダイ教団自体もベトナム国内でカトリックと双璧を成す一大勢力へと成長していく。

第1次インドシナ戦争終結後の1955年2月13日、フランス軍の撤退に伴い、カオダイ部隊は正式にベトナム国軍に編入され、カオダイ部隊司令官チン・ミン・テー准将は国軍の将官の地位を得た。しかしその3か月後の5月3日、チン・ミン・テー准将は自動車で移動中、何者かに狙撃され死亡する。この暗殺事件は未解決のままだが、カオダイ教徒と対立したフランス人や、カオダイ勢力の拡大を恐れるゴ・ディン・ジェム首相らベトナム国政府高官が関与した可能性が指摘されている。
その後、1955年10月にクーデターで政権を獲得したゴ・ディン・ジェムは、自身が信仰するカトリックを政治の中心に据え、同時に他の宗教勢力を排除する政策を開始した。特にフランス軍によって武装化されていたカオダイ教やホアハオ教は反政府武装勢力として危険視され、政府軍(ベトナム共和国軍)による掃討・武装解除が開始された。政府軍はカオダイ教の聖地タイニン省にも進攻し、圧倒的な戦力でカオダイ部隊を武装解除し、その組織を解体した。
これによってカオダイ部隊兵士たちの多くは、ジェム政権に恭順して政府軍に編入されるか、或いは政府と戦うためそれまで敵だったベトミン・ゲリラ側に転向したが、それ以外のおよそ5千~6千名のカオダイ兵士はどちらにも付かず、政府への抵抗勢力として国内に潜伏する道を選ぶ。これに対してジェム政権は、1956年から58年にかけて約3,400名のカオダイ教徒を逮捕・投獄するなどして、カオダイ部隊の残党狩りを続けていった。
  


2022年03月08日

『儀仗・首都警備部隊』の訂正

前記事『儀仗・首都警備部隊』の内容に一部誤りがあったので訂正します。
ただし、まだ事の全容解明には至っていないので、あくまでこの記事は現時点での僕の認識であり、今後の進展次第ではまた変わってくる可能性があります。


儀仗群(Liên Đoàn An Ninh Danh Dự)

まず、以前の記事では「赤地に龍」の部隊章を第306中隊のものとしましたが、正しくは儀仗群」でした。
その名の通り、ベトナム政府首脳や外国の来賓などに対し儀仗を行う部隊だったようです。

▲1970年 総統府,サイゴン




首都保安群(Liên Đoàn An Ninh Thủ Đô)

また、「青い城」のパッチは「儀仗群および首都保安群」のものとしましたが、正しくは「首都保安群のみ」でした。
こちらは総統府などサイゴン市内の政府重要施設の警備を行う衛兵隊であり、制服は儀仗群とほぼ同じであるものの、儀仗ではなく日常の警備が主な業務であった模様です。

総統府,サイゴン, 撮影年不明



上記訂正へと至った経緯

・儀仗群は首都保安群へと改名された?
とある研究者は、「儀仗群は1969~1971年の間に首都保安群へと改名された」としており、僕も前回の記事ではその説を採用し、儀仗群と首都保安群を同一組織として説明しましたが、その後この説にはいろいろ矛盾がある事が分かりました。

こちらの写真は1971年撮影とされており、「赤地に龍」の儀仗群パッチが見られます。
また、ある研究者は、このパッチは1974年まで着用例が見られるとしています。

一方、こちらはHuấn Lệnh Điều Hành Căn Bản (1969年版)に掲載されている儀仗群(LĐANDD)のイラストなのですが、「赤地に龍」ではなく、首都保安群の「青い城」のパッチが描かれています。このイラストは二つの疑問・解釈を生じさせておりまして、
「青い城」のパッチは儀仗群と首都保安群の両方で使われたのか?もしくは単にこの本の誤記なのか?
誤記だったとしても、少なくとも1969年の時点で「青い城」のパッチは確実に存在していた。つま「赤地に龍」と「青い城」は同時に存在しており、部隊改名に伴いに変更されたのではない。

儀仗群は首都保安群内の組織?
「赤地に龍」のパッチは、首都保安群内の儀仗隊である第306中隊のものであるという説もありましたが、上で示したように当時の資料からこのパッチは儀仗群(LĐANDD)である事が確定した為、この説は否定されました。
また儀仗群と首都保安群の部隊規模は両方とも群(Liên Đoàn)であり、どちらか片方がもう一方の下部組織である可能性も否定されました。

以上の二点から今回僕は、部隊が改名された説を否定し、儀仗群と首都保安群は元から別々の部隊として同時に存在していたと認識を改めた次第です。
  


2022年02月12日

通信隊のパッチ

ベトナム戦争期のベトナム陸軍通信隊について調べていると、通信隊のパッチには様々な種類がある事が分かります。
そこでこの分野で高名な英国のコレクター兼研究者Richard Woods氏に意見を伺ったところ、さすが、氏はこのパッチの件に関してすでに大部分を把握しておられました。
なのでこの記事はWoods氏から寄せられた情報を基にしています。

まず、ベトナム陸軍通信隊の組織は1964年を境に改編されており、1964年以前は「通信コマンド(Signal Command)」と「通信局(Signal Service)」の二つの組織が別々に存在していました。

黄/黒・剣のデザインが通信コマンドで、固定局および戦術通信を担当。
白/緑・松明のデザインは通信局で、通信機器及び機材の管理を担当する兵站部隊の一部。 

▲1964年以前の通信コマンドパッチ使用例(割とレアな写真)

しかし、この通信コマンドと通信局は似通った性格を持ちながらも別々の組織として存在していたため、しばしば管轄をめぐって争いがあったため、そうした混乱を収めるために通信コマンドと通信局は1964年に一つに統合されたそうです。

そしてそれを裏付けるかのように、1964年以降の新しいパッチのデザインは、通信コマンドの図柄(電子に剣)を踏襲しながらも、色合いは通信局の緑色を基本とした、二つの組織のパッチを融合したデザインになっています。

また1964年以降の通信隊のパッチは、その形状と番号で部隊の種類と規模を表しています。

【形状】
盾型:作戦通信部隊 (Khai Thác Truyền Tin)*
五角形:支援通信部隊 (Yểm Trợ Truyền Tin)

Khai Thácは直訳すると「開拓」になるが、ここでは「作戦」と意訳しています。

【番号】
2桁:群 (Liên Đoàn)
3桁:大隊 (Tiểu Đoàn)

なので例えば、型で番号64は「第64作戦通信群」、五角形で番号631は「第631支援通信大隊」となります。

ちなみに軍事郵便局は通信隊内の組織なので、パッチの色・形状は支援通信部隊に倣っています。

▲軍事郵便局パッチ


戦闘部隊に関しては資料が豊富なため、過去記事『ベトナム共和国軍陸軍部隊一覧』に載せたようにほぼ全ての部隊を把握できていますが、通信隊をはじめ支援部隊の全体像はまだまだ未解明な部分が多いので、今後の課題としたいと思います。
  


2022年02月06日

第一次インドシナ戦争期のベトナム陸軍 その2: ベトナム師団

その1からだいぶ時間が空いてしまいましたが、第一次インドシナ戦争中の1949年にCEFEO(極東フランス遠征軍団)の傘下で発足し、戦争末期にはフランス連合軍の総兵力の約半数を担ったベトナム国軍陸軍についての解説の続きです。


ベトナム師団(Sư Đoàn Việt Nam)

CEFEO内での呼称は『ベトナム師団(Division Vietnamienne)』。
1954年までに計8個のベトナム師団が編成され、ベトナム国の4つの軍管区に配置された。

第1軍管区(南越):第1、6ベトナム師団
第2軍管区(中越):第2ベトナム師団
第3軍管区(北越):第3、5、7ベトナム師団
第4軍管区(高原):第4、8ベトナム師団

ベトナム師団内の部隊は大隊を基本単位とし、旅団や連隊は無く、各大隊が師団の直下に置かれた。
各師団内の部隊については前記事『第一次インドシナ戦争期のベトナム陸軍 その1』参照
なお、ベトナム師団に部隊章は制定されていない。


歩兵大隊 (Tiểu đoàn Bộ Binh)

▲第1歩兵大隊 [年代不詳]

CEFEOでの呼称は『ベトナム大隊(BVN: Bataillon Vietnamiens)』。
歩兵大隊は陸軍の主力である歩兵部隊で、各ベトナム師団は9~10個の歩兵大隊を主に構成された。
歩兵大隊の発足はベトナム国軍の創設と同義であり、1949年末、当時のベトナム国副首相兼国防大臣グエン・バン・スアン(Nguyễn Văn Xuân)中将の主導により、初の国軍部隊として4つの歩兵大隊(第1~4歩兵大隊)が編成された。
その後もベトナム国軍は規模を拡大し、1951年までに24個大隊、1954年の終戦までに約70個の歩兵大隊が編成された。(編成途中で終戦を迎えた大隊も含む)
各歩兵大隊は大隊本部、指揮中隊、そして4個の作戦中隊で構成され、人員定数は将校23名、下士官110名、兵卒696名の計829名であった。
また指揮中隊の定数は将校1名、下士官30名、兵卒116名、計147名。作戦中隊は将校4名、下士官20名、兵卒145名、計169名とされた。
作戦中隊は曹長クラスを小隊長とする指揮小隊1個、将校を小隊長とする重火器小隊1個、将校または曹長を小隊長とする作戦小隊3個で構成された。
各歩兵大隊の基本的な装備は以下の通り。
・火器
拳銃30丁、MAT49短機関銃433丁、MAS36小銃624丁、擲弾発射機36丁、FM24/29機関銃41丁、M1919機関銃8丁、60mm迫撃砲8門、81mm迫撃砲4門、無反動砲4門、バズーカ12門
・車両
ジープ10輌、ダッジ10輌、GMCトラック13輌、GMC救護トラック1輌、リアフック付きLOT7(?)1輌

▲歩兵大隊の兵士 [1950年代前半]


山岳大隊 (Tiểu đoàn sơn cước)

▲国長バオダイとCEFEO司令官ド=ラトル将軍から表彰を受ける山岳大隊の将兵 [1951年バンメトート]

CEFEOでの呼称は『モンタニャール大隊(BM: Bataillon Montagnard)』。
山岳大隊はベトナム中部高原に住む山岳民族(南インドシナ・モンタニャール)で構成された歩兵大隊で、中部高原を管轄するベトナム陸軍第4師団内にのみ設置された。
最終的に9個の山岳大隊が編成され、第4師団はこの山岳大隊を主に構成された。

▲馬を連れて行軍する山岳大隊兵士 [1952年]
自動車が走行できる道路が少ない山岳地帯では馬やロバ、ゾウが物資輸送の主な手段であった。

▲1954年当時の歩兵大隊(BVN)および山岳大隊(BM)一覧


空挺大隊 (Tiểu Đoàn Nhẩy Dù)

▲第3空挺大隊 [1954年ニャチャン]

CEFEOでの呼称は『ベトナム空挺大隊(BPVN: Bataillon de Parachutistes Vietnamiens)』。
ベトナム陸軍が保有する空挺部隊。1951年の第1空挺大隊発足を皮切りに、1954年までに計5個大隊が創設され、おおむね各ベトナム師団に1個空挺大隊が置かれた。
ベトナム国軍のスローガン『保国安民(Bảo quốc An Dân)』の略『保安(Bảo An)』から転じて、ベトナム空挺大隊はフランス軍から『バオアン(Bawouan)』の異名で呼ばれた。


偵察車支隊(Chi Đoàn Thám Thính Xa)

偵察車支隊将兵 [雑誌『インドシナ』1952年4月号より]

CEFEOでの呼称は『ベトナム偵察戦隊(ERVN: Escadron de reconnaissance Vietnamiens)』。
偵察車支隊はベトナム国軍の機甲偵察部隊で、おおむね各ベトナム師団に1個の偵察車支隊が置かれた。
最終的に計10個支隊が編成され、そのうち6個は1951年から1954年の間にベトナム国軍によって新設され、4個支隊はフランス植民地軍から国軍に編入された部隊であった。

第1ベトナム師団:第1偵察車支隊
第2ベトナム師団:第2偵察車支隊
第3ベトナム師団:第3偵察車支隊
第4ベトナム師団:第4偵察車支隊
第5ベトナム師団:第5偵察車支隊
第6ベトナム師団:第6偵察車支隊
第7ベトナム師団:第7偵察車支隊
未確認:第8、10、11偵察車支隊

主な装備はフランスから供与されたアメリカ製のM8装甲車であったが、1954年にはフランス軍からM24チャーフィー軽戦車が供与され、偵察車支隊内にベトナム陸軍初の戦車部隊が設立された。

▲フランス人将校から表彰を受けるベトナム陸軍M24戦車部隊 [1954年]


出典



おまけ

けっこう前から、第一次インドシナ戦争期にフランス連合軍で広く使われたMle1937/1946防御用手榴弾、通称DF37/46の自作を試みているのですが、まだ形になりません。
当初は3Dプリンターで作ろうと思っていたので3Dデータはとっくに出来上がっているのですが、手榴弾って意外と大きいので、見積とったらすごい値段になってしまいました。それではちょっと割に合わないので、そのまま注文はできません。


なので形状がシンプルな弾体部分だけでも手作業で作ろうと思い、パテや樹脂粘土なので粘土細工をしてみたのですが、ぜんぜん上手くいきませんでした。なんかいびつな形のジャガイモが出来ただけです。ろくろがないと無理ですわ。


そこで手作業は諦め、木工所に依頼して木材で作る方法も考えたのですが、やはり一つ一つ手作りなだけあって、見積価格は3Dプリンターとほぼ同じ。コストダウンにはなりません。
なので今はDIY用のレンタル作業場を借りて、そこの木工旋盤か3Dプリンターを使う方法を考え中です。
このDF37製作は思ったより大変な道のりになったので、そのうち改めて記事にしたいと思います。
  


2022年01月30日

ベトナム陸軍の帽章・階級章

※2022年2月2日更新
※2022年2月18日更新

ずいぶん前に書いた記事『ベトナム陸軍の制服 1949-1975』の中に、帽章と階級章の変遷も載せていましたが、その後新しい情報が集まり色々訂正が必要になったので、改めてまとめて記事にしました。

陸軍帽章の変遷


1949年~1955年:フランス連合期
バナーの文字は『Quốc gia Việt Nam』

1955年~1963年:第一共和国期
共和制移行に伴いバナーの文字が『Việt Nam Cộng Hòa』に変更

1963年~1964年:ジェム政権末期
1963年に各軍の帽章のデザインが一新されるが、間もなく発生した軍事クーデターによってジェム政権が崩壊したため、このデザインは短命に終わる

1964年~1967年:軍事政権期
クーデター後、1963年制定の帽章は廃止され、変更前のデザインに戻る

1967年~1975年:第二共和国期
新憲法施行に伴い、軍の体制を大幅に改革。帽章や階級章なども改定される




陸軍階級章の変遷

ベトナム国軍(当時の名称はベトナム国家衛兵隊)はフランス連合期の1949年に、それまでフランス軍(主に植民地軍)に所属していたベトナム人兵士を新たに組織された国軍に充てることで発足しました。またその後もベトナム国軍はフランス連合軍の一部として1955年までCEFEO(極東フランス遠征軍団)の指揮下にありました。
この関係は陸軍の階級章にも表れており、ベトナム国軍期の兵~中級下士官の階級章はフランス軍(特に植民地軍)をベースとしながらも、独立国として独自の変更も加えられており、シェブロンの向きはフランスと上下逆さまになっています。この下向きシェブロンのデザインはフランス連合脱退後のベトナム共和国軍にも継承され、終戦まで長きに渡って使用されました。



ベトナム国軍では兵~中級下士官の階級章に変更が加えられた一方、上級下士官~士官の階級章は、フランス軍のような部隊を示す刺繍がなくなっただけで、全く同じデザインが用いられました。
しかし1955年以降のベトナム共和国軍期に入ると、そのデザインは完全に一新されます。
さらに1967年に新憲法が施行され第二共和国期に入ると、帽章と併せて階級章のデザインも変更が加えられました。

  


2022年01月24日

ここは南国

心頭滅却すれば火もまた涼し。東南アジア軍装すれば気温3℃でも南国気分。
という訳で今年最初のプチ撮影会は、僕の希望で1964~1965年ごろのベトナム陸軍空挺旅団。



結論から言うと、心頭滅却なんて無理ですね。
寒さで腕まくりどころじゃないし、写真を撮る寸前までダウンジャケットを羽織ってないとその場に居られませんでした。
やっぱりここは南国じゃなくて北関東だった・・・



以下、大した内容じゃないけど、空挺関係の小話

おまけ①
インターネットで歴史写真を探すとき、LIFEやTIMEといった報道機関と並び、ソースとしてよく使われるのがストック写真会社。
貴重な写真が沢山あるのは確かであり、僕も画像収集で度々お世話にってますが、一方でソースとしての信頼度は報道機関には及びません。特に撮影年に関してはいい加減なもの(キャプション)が多く見られます。

例えば以下の二社のストック写真会社では、この写真の撮影年を1944年としています。
1944年じゃあベトナムは日本軍の統治下じゃん。ベトミンがOSSに支援されてた頃だよ・・・。


正しい撮影年は不明ですが、兵士の袖の部隊章がベトナム陸軍空挺群(1stパターン)なので、このパッチが使われた1955~1959年の間に撮影されたものと推定されます。
パッチの件はマニアにしかわからないにしても、「1944年の南ベトナム軍」という説明がおかしいという事くらいは、常識として分かってほしいものですが・・・。
しょせん企業のサイトは雇われた人が命じられるままに作った物なので、英語でそれらしく書いてあっても、鵜呑みにしてはなりませぬ。


おまけ②

ベトナム陸軍空挺部隊には、軍の公式資料にまで掲載されながら実際には使用されなかった幻のデザインがあります。

▲左:Huấn Lệnh Điều Hành Căn Bản、右:Hướng dẫn Sĩ Quan

こちらの部隊章は、よく知られている3rdパターン(1962?-1975)と酷似していますが、外郭が空挺部隊の特徴である正方形ではなく、他の部隊で一般的なシールド型で描かれています。
この空挺部隊のシールド型部隊章が見られるのは今のところ上にあげた二つの資料のみで、それ以外の使用例は一切見られません。
一説によると総参謀部は、歩兵師団も海兵隊もシールド型部隊章を使っている中で唯一空挺部隊だけは形状が異なっている事から、これを他の師団と統一しようと試みたそうです。このシールド型空挺部隊章は、そうした試みの中で総参謀部編纂の印刷物に掲載されたと思われます。
しかし当の空挺部隊は、正方形という部隊伝統の形状(おそらくフランス軍空挺コマンド植民地準旅団を源流としている)を奪われ、他(非エリート)と一緒にされる事を強く拒絶し、総参謀部による部隊章の変更命令を拒否し続けたそうです。なので実際に空挺部隊の部隊章がシールド型に変わる事は最後までありませんでした。
空挺部隊は軍の精鋭であるのと同時に、幾度も軍事クーデターの主役を担ってきた政治的影響力を持つ部隊でもあるので、この部隊章の一件は、いかに総参謀部といえども彼らを上意下達で従わせる事などできなかったという良い例かも知れません。
  


2022年01月22日

シーウェーブ写経

一昨年買った香港Illusion militaria製レプリカのベトナム海兵隊ザーコップ迷彩(通称VMD/シーウェーブ)。
このレプリカ、パターンは良くできているのですが、購入当初から気になっていたように、迷彩の黒い模様の色がやたら青いのが、やっぱり気に入りません。

このように実物のシーウェーブは色落ちしても黒の部分は黒いまま薄くなり、青みはほとんど無いもいのが多いのです。

そんなに安いレプリカではないので、どうにか手を加えてちゃんとした色にしたいのですが、逆に黒以外の色は悪くないので全体を染めるわけにはいきません。
そこで残された最後の手段が、迷彩マニア界の奥義、と言うか業深き茨の『マジック手書き』。
これしかないのは分かっていながらも、苦行になるのは目に見えていたので、決心するのにかなりの時間を要しました。


まず失敗した場合を考え、最悪切り取ることが可能な袖から塗り始めました。
ペンは布に書いても比較的にじみにくく、また広い面積を塗るのに便利な極太芯のあるサクラクレパス マイネームツイン太字・細字を使用。
思った以上に下地を隠してちゃんと濃い黒色になってるし、適当に塗りつぶしても塗りムラ(濃淡)が出ないので、この用途にばっちりでした。
こうして細芯で輪郭をなぞり、太芯で中を塗りつぶす作業をひたすら繰り返します。



1日作業して左袖まで完了。上着だけでなくパンツもあるので、気の遠くなるような作業です。
なんだか子供のころにやった漢字練習帳のような、あるいは写経で精神統一しているような気分です。(やった事ないけど)
しかし、これも覚悟の上で始めた事。もう後には引けないので、ペンを追加で3本注文しました。
2・3日でできるような作業ではないので、気長にやっていきたいと思います。
とは言え、呑気に押し入れにしまってしまうと、そのまま何年も放置しかねないので、この服は部屋の見える位置に置き、まだ作業が残っている事を自分に意識させたいと思います。



おまけ

先日ネットでベトナム戦争期の写真を検索していたら、見覚えのある写真が出てきました。
丸で囲った写真は2008年頃に撮った、まだ僕が茶髪ロン毛だった頃のコスプレ写真です。


これまでもSNS上で、僕や友人たちのコスプレ写真が無断転載され、本物の戦時中の写真として拡散される事は度々あったけど、今度はアメリカのローカルTV局かよ。しかもベテランから投稿されたベトナム戦争の記憶をまとめる特設サイトで・・・。
一緒に載ってる他の写真もGoogle画像検索で出てきた写真を無断で使ってるだけっぽいし。仮にもマスメディアなんだから、ソースや権利くらい確認しなさいよ・・・。
僕は自分のコスプレ/リエナクト写真はリエナクトであると明示したうえで公開しているので、それを他人が勝手に転載し、本物と勘違いされようが、それは嘘と本物を見分けられないそいつらが間抜けなだけなので知ったこっちゃないというスタンスなのですが、さすがに今回は(いい加減なサイト制作者はともかく)ベテランが関わったまじめな企画のサイトなので、運営者に「その写真は私が日本でコスプレしてる写真ですよ。」とメールを送りました。
5日経っても返事はなく、サイトもそのままですが・・・。
僕は趣味としてできる限りリアルなコスプレ/リエナクト写真を作る事を追及していますが、そんなお遊びと実際の歴史研究・保存は全く別物。他人の写真を(大半はSNSでのイイネ欲しさに)ソースを隠匿、本物と詐称して転載する自称歴史好きの三下どもには呆れ果てています。