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2017年09月02日

単発写真や動画

僕のブログは常に下書き記事が10件以上ある状態でして、暇な時にちょっとずつ書き進めていくようにしていますが、調べているうちにボリュームが増えすぎてなかなか記事が完成しないという状態が最近続いています。なので今回は息抜きに、最近見つけた興味深い画像や動画を脈絡なく貼っていきます。



【ベトナム関係】

◆パレード映像の中にムイ老師を発見!
エン・バン・ムイ(Nguyen Van Moi)1972年当時、73歳という高齢でありながら義勇軍(NQ)の小隊長を務めていた事で知られる人物です。


▲フエで行われた地方部隊(地方軍・義勇軍・人民自衛団他)の軍事パレード。 記録映画『北ベトナム軍の侵略』のワンシーン [1972年フエ]
パレード装をした義勇軍の中に、ベトナム国旗の旗手を務めるグエン・バン・ムイが映っています。また観閲するアメリカ人の中にフェニックス・プログラムを監督するCORDS(事実上のCIA)職員たちも写っている事に注目。

米国フロリダ州の地方紙サラソタジャーナルに、ムイの小隊が夜襲に成功したという記事が掲載されていました。
Sarasota Journal - Apr 22, 1971 

これによると、ムイはカマウ半島中部のチュンティェン省ドゥックロンに住む義勇軍兵士でしたが、軍の定年をとうに過ぎているため階級は持っておらず、人々は彼を"Ông (年配の男性に対する敬称)"、もしくは"Ông Moi"と敬意をこめて呼び親しんでいました。しかし数々の武功を持つムイは、高齢をものともせず第203義勇軍小隊(Trung Đội 203 Nghĩa Quân)の小隊長を務めており、民兵で構成された義勇軍小隊を率いてベトコンゲリラに対する夜襲を成功させるなど、衰えを知らない豪傑な人物でした。
またムイには五男一女、計6人の子供がいましたが、そのうち長男から三男までの3人の息子はベトコンに殺害され、四男は負傷。そして23歳になる五男が義勇軍兵士としてムイの小隊に所属していたそうです。
ムイは取材に対し、「この戦争で老人から子供まで多くの人々が死んだ。私は一刻も早くこの戦争を終わらせる事が私の使命だと確信している」、「私は死ぬまで兵士として祖国に仕えたい」と語っています。
残念ながら、私が知る限りムイがメディアに紹介されたのは1971年が最後で、この1972年のパレード以降の消息はつかめていません。


◆準軍事婦人隊(Phụ Nữ Bán Quân Sự)の制服の色が判明
モノクロ写真は何枚もありましたが、ようやくカラー写真で服の色を把握できました。

 

準軍事婦人隊は第一共和国(ゴ・ディン・ジエム政権期)に存在した国内軍部隊です。準軍事」と名はついていますが、指揮権はベトナム共和国軍総参謀部にはなく、おそらく内務省が所管する政治工作機関だったようです。"ドラゴン・レディ"として知られるジエム総統の弟の妻チャン・レ・スアン(マダム・ニュー)は、自らの支持を得るために女性の政治参加を積極的に推進しており、このような女性による準軍事組織まで創設しました。この準軍事婦人隊には、チャン・レ・スアンの長女(ジエム総統の姪にあたる)ゴ・ディン・レ・トゥイが参加し、老若男女が一して共産主義と戦う姿勢をアピールする広告塔を務めていました。

準軍事婦人隊員としてパレードに参加するゴ・ディン・レ・トゥイ

同様に、政府が組織した反共青年政治組織としては当時、『共和国青年団』が存在しており、その女性部門である『共和国少女団(Thanh Nữ Cộng Hòa)』もチャン・レ・スアンの私兵組織として機能していました。

共和国少女団のパレード装(左)と通常勤務服(右)

なお、1963年11月の軍事クーデターでゴ・ディン家の独裁体制が崩壊すると、これらの政治工作組織は解体され、以後は軍事政権の下で人民自衛団(NDTV)など軍が所管する民兵組織へと再編成されていきます。



【カンボジア関係】

クメール海兵隊の戦闘 [1973年カンボジア]


クメール海兵隊の兵力は計4個大隊ほどと決して大きな組織ではなかったので、動画はおろか写真すら滅多に見つからないんです。それがこんなにはっきりと、しかもカラー映像で見られるとは。AP通信様様。


◆プノンペンの歌姫 ロ・セレイソティアの空挺降下訓練 [1971年7月カンボジア]


↓こちらは女性が参加した別の降下訓練をカラーフィルムで撮影した映像


こちらも女性が軍に参加する姿を宣伝する事で、挙国一致を国民にアピールする狙いがあったのでしょうね。
また、リザード迷彩やリーフ迷彩をエリート部隊の証として支給していたベトナム軍やラオス軍とは異なり、カンボジア軍空挺部隊はダックハンター系の迷彩を1970年代まで多用していたのが特徴的ですね。


◆南ベトナム領内のベトナム共和国軍基地で訓練を行うクメール国軍兵士 [1970年7月ベトナム]


基地はベトナム軍の施設ですが、教官はクメール人が務めているようです。
米軍特殊部隊B-43の指揮の下、ベトナム領内のキャンプ・フクトゥイで訓練を受けていたクメール軍特殊部隊(Forces Speciales Khmères)は割と知られていますが、一般部隊までベトナムで訓練されていたのは初めて知りました。
1970年のロン・ノル政権成立によって中国・北ベトナムに反旗を翻したカンボジア(クメール共和国)は、アメリカの仲介の下で南ベトナムとの協力関係を深めていきます。しかしカンボジアとベトナムは、メコンデルタ地帯を巡って中世から戦争を繰り返してきた長年の宿敵であり、現に1970年までクメール王国(シハヌーク政権)は南ベトナムを敵国と見做して北ベトナム軍に協力すると共に、南ベトナム政府へのサボタージュ工作を幾度も行っていました。
そのカンボジアが(国内の内戦に負ける訳にはいかないという事情があったにせよ)、過去の遺恨に目をつむって南部のベトナム人と一時的に和解したという事実は驚くべきことだと思います。



【ラオス関係】

◆ラオス王国軍モン族遊撃隊 GM41の日常風景 [1969年ラオス]


モン族GM(Groupement Mobile)のプライベート動画なんて初めて見ました。撮ったのはGMを指揮したCIA戦闘員(アメリカ軍人)のようです。大変貴重な映像です。感動しました。

◆同じくGMを指揮したCIA戦闘員が楽しそうに重機関銃を撃ってる動画 [1971年ラオス]



◆ラオス王国空軍に参加したCIA(アメリカ空軍)パイロットとその息子 [1971年]


CIAだからと特別に家族がラオスに住んでいたのか、それともタイの米空軍基地に住んでいて、お父さんに会いに家族とラオスまで来たのか。プライベートビデオならではの、微笑ましくも歴史の激流を感じる映像でした。
  


2017年06月24日

フェニックス・プログラムとPRU


長年、様々な憶測をもって語られてきた『フェニックス・プログラム』と『PRU』ですが、近年米国では情報公開法に基づく情報開示請求によってベトナム戦争当時CIAが作成した内部文書が機密指定解除されて公開されており、またそれら一次史料を基に学術的な研究を行った論文が多数CIAの公式サイトに掲載されています。

米国CIA 情報研究センター(Center for the Study of Intelligence)

今回は、それらの中から、かつて実際にPRUを指揮した元アメリカ海兵隊将校が自身の体験も交えて記した以下の論文の抜粋をご紹介します。

The Tay Ninh Provincial Reconnaissance Unit and Its Role in the Phoenix Program, 1969-70, Colonel Andrew R. Finlayson, USMC (Ret.), Last Updated: Jun 26, 2008 07:13 AM

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※用語の表記について

[フェニックス・プログラム]
ベトナム語: Chương trình Phụng Hoàn (漢字: 章程鳳凰)
英語: Phoenix Program
ベトナム語の『Phụng Hoàn』を日本語訳すると『鳳凰』、『Phoenix』は『不死鳥』となるがこの記事では便宜的にフェニックス』を用いる

[PRU] ※2017年9月29日訂正
ベトナム語: Đại Đội Trinh sát biệt lập (ĐĐ/TS/BL) またはĐại Đội Trinh sát ĐPQ (ĐĐ/TS/ĐPQ)
英語: Provincial Reconnaissance Unit (PRU)
PRUはベトナム共和国軍地方軍のパトロール部隊であり、本来のベトナム語名から邦訳すれば『地方軍(独立)偵察中隊』となる。
中隊は省(地方軍小区)単位で編成されたため、『省の探察隊』と言う意味で英語名のPRUは名付けられた。
PRUの日本語訳としては『地方偵察隊』が用いられる事が多いが、Provincialは『地方』ではなく『省』と訳すべきと思われる
この記事は英語文献からの翻訳の為、便宜的に英語表記のPRUを用いる。
PRUのベトナム語表記は正しくは『Đơn Vị Thám Sát Tỉnh』でした。また『地方軍(独立)偵察中隊(Đại Đội Trinh sát biệt lập (ĐĐ/TS/BL) またはĐại Đội Trinh sát ĐPQ (ĐĐ/TS/ĐPQ))』は、フェニックス・プログラム終了に伴って各省のPRUが地方軍に編入された1972年以降の部隊名でした。


[省]
国の地方行政区画である省(Tỉnh)にはそれぞれ地方軍の管轄区画である小区(Tiểu khu)が割り振られており、タイニン省(Tỉnh Tây Ninh)は地方軍の編成上、第3戦術地区/軍管区の『タイニン小区(Tiểu khu Tây Ninh)』となる。
つまりタイニン省PRUのベトナム語の正式名は『タイニン小区地方軍偵察中隊』となる。
なお、この記事では原文が省(Province)で統一されている事から、小区ではなく全て省と表記する。

[ベトコン]
ベトナム語: Việt Cộng(VC)
英語: Vietnamese communist / Viet Cong (VC)
ベトナム人が使う『Việt Cộng』と、アメリカや日本など外国で使われる『Viet Cong(ベトコン)』という言葉は、その意味する所が異なる。
ベトナムにおけるViệt Cộngは『越共』、つまり共産主義ベトナム人全般を指し、1930年代のインドシナ共産党に始まり北ベトナムのベトナム労働党政権、現在のベトナム共産党政権に至るまでベトナムに存在した全ての共産主義系組織を指す。
それに対して外国人が用いるベトコンは、ベトナム共和国領内に1960年から1976年まで存在した反政府ゲリラ組織南ベトナム解放民族戦線(MTDTGPMN)』のみを指す場合が多い。
普段このブログではベトコンをベトナム語の意味(共産主義組織全般)で用いているが、この記事では原文に倣い解放民族戦線という意味でベトコンという単語を用いる。

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タイニン省PRUとフェニックス・プログラムにおけるその役割、
1969-1970年

アメリカ合衆国海兵隊 アンドリュー・R・フィンレイソン退役大佐
(タイガ訳)

 フェニックス・プログラムはアメリカおよび南ベトナム政府がベトナム戦争中に行った政策の中でも最も誤解され、また物議を呼んだプログラムである。簡潔に述べると、これは南ベトナムにおけるベトナム労働党の政治基盤(以下、ベトコンインフラまたはVCI)を攻撃、破壊する事を目的とする一連のプログラムであった。(※1)
 当時フェニックスは機密事項であり、報道関係者が得られた情報の多くは誇張、捏造、または事実誤認であったため、このプログラムは大いに誤解された。そして米国やその他の国々の反戦運動家や批判的な学者は、このプログラム一般市民を対象とした違法で残忍な殺戮計画であるかのように吹聴したため、論争を巻き起こす事となった。
 残念ながら、これまでフェニックスについて客観的な分析が行われた事はほとんどなく、ベトナム戦争を研究する者の多くがこのプログラムを疑惑と誤解をもって見ていた。

 以下に、南ベトナムのタイニン省で行われた一連のフェニックスの一部始終の概要を示す。これらは限られた年代と地域における一例であるが、そこからは1968年のテト攻勢後の数年間でフェニックスが効果を発揮する事が出来た重要な要因の一つが見て取れる。それは全国で実施されたフェニックスの実行部隊たる省探察隊(PRU)』に関する事柄である。


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フェニックスの構造
 フェニックスは1960年代にCIAが南ベトナムで実施した平定および農村警備プログラムの一つである。もし南ベトナム政府とアメリカが農民たちに対し、彼等を真剣にベトコンから守る意志があると説得できれば、農民自身に自衛の為の訓練を施す事で、米軍が直接介入せずとも南ベトナムの広大な農村地帯を敵から防衛する事が出来る。これが平定達成の為の条件であった。

 1967年までに、米軍ベトナム軍事援助司令部(MACV)は軍民全ての平定プログラムを『民事作戦および革新的開発支援(CORDS)』という一つの組織に統合する事に成功する。
 CORDSにはCIAとMACVが深く関与しており、サイゴン政府と共同で運営されていた。CORDSの指揮は当初、元CIA局員のロバート・H・コマーが執っていたが、CORDSが最も活発に活動し成果を挙げたのは1968年にコマーの後任として赴任したウィリアム・コルビーの時代であった。
 コルビーは1959年から1962年にかけてCIAサイゴン支部長を務め、その後はCIA極東地域部長の地位にあった人物であった。コルビーはアメリカが南部の村々を支配する共産主義系勢力を排除し、地方のベトコンインフラ(VCI)を根絶しなければならないと確信していた。そのためCORDSは村落防衛・民事活動プログラム─後に土地改良、インフラ建設、経済発展を含むに取り組み、VCIの根絶に相当の労力を費やした。

 CORDSのもう一つの要素がフェニックス・プログラムであった。(※2) フェニックスは表向きはサイゴン政府によって運営されていたが、実際に資金を提供しその活動を管理していたのはCIAであった。フェニックスは南ベトナムの100以上の省および地区でVCIに関する情報を収集し、野戦警察および準軍事組織によるベトコン掃討の基礎となる情報を提供するためにCIAが構築した情報作戦委員会(Intelligence operation committees)』というネットワークを基礎に構築された。

▲フェニックス・プログラムを非難するポスターに描かれたウィリアム・コルビー。CIA史料写真。年代不明

 基本的に、この委員会の活動は、VCI活動者と目される人物のリストを作成する事であった。一度VCIメンバー個人の名前、階級、居場所が判明すれば、CIAの準軍事部隊、南ベトナムの警察または軍隊がその人物を拘束し、共産主義組織の内部構造と活動に関する情報を得るために取り調べた。
 このリストはベトナム国家警察、米海軍SEAL、米陸軍特殊部隊群、そしてタイニン省を含む各省PRUなどのフェニックス実行部隊に使用された。そしてこれらの部隊は村落に出向き、指定された人物を特定し、その"中和(Neutralize)"を試みた。リストに記載された人物は取り調べのために逮捕・拘束され、抵抗した場合は殺害された。当初CIAはベトナム側の協力の下、省または地区政府レベルで取り調べを行っていた。その後、このプログラムがサイゴン政府に移譲されると、CIAは情報収集活動のみを担当した。最終的に、CIAと米軍軍人合わせて約600名のアメリカ人がVCI容疑者の取り調べに直接関与した。

 PRUはフェニックスにおいて恐らく最も物議の的となった要素である。彼は元々1964年に南ベトナム政府とCIAによって創設された準軍事特殊部隊であり、当初彼は対テロ部隊と認知されていた。PRUには最終的に4,000名以上の兵士が所属し、南ベトナム領内の44の省の全てで活動していた。PRUは1969年11月まで米軍将校および上級下士官によって指揮されており、それ以降はCIAのアドバイザーに引き継がれた。
 米国のベトナムへの関与に批判的な人々は、PRUは殺戮部隊に他ならず、戦争全期間を通じたVCI死者数の内、南ベトナム軍・警察および米軍との戦闘による戦死者以外のほとんど、すなわち全体の14%がフェニックス・プログラムの期間中にPRUによって殺害されたと主張している。

 1972年のCORDSの報告によると、1968年のテト攻勢以来、フェニックスは5,000名以上のVCIの活動・軍事行動を阻止し、そして2万名を超えるとみられるVCIがフェニックスの成果によって─ベトコン組織から脱走した。またMACVは、フェニックスおよびテト攻勢に対する米軍の反撃は、他の農村保安や民兵プログラムとも相まって、投降、拘束または殺害によって8万名を上回るVCIを無力化したと主張している。
 ただしこれらは多く見積もった場合の数字であり、実際にはその数は各々の統計の信頼性に左右される。しかしながら、ほとんどの─ベトコン側を含む─資料に共通している点は、フェニックス(1971年終了)およびその他の平定プログラムはVCI組織を地下深くに追いやり、実質的な活動が不可能になるほど弱体化させたという事である。フェニックスおよび同盟軍の活動はVCIに深刻な打撃を与え、1972年のイースター攻勢や1975年の時点でも、VCIおよびベトコンゲリラ部隊の活動は見られなかった。


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※2. 1967年末、南ベトナム首相は政府が行う対VCI活動の全てを一つのプログラムに統合し、それを特別な力を持つ神話上の鳥"鳳凰(Phụng Hoàn)"と名付けた。コマーはそれをアメリカ人顧問に分かり易いよう、欧米で鳳凰に相当する"不死鳥(Phoenix)"と名付けた。

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(中略)
※訳者注: ベトナム戦争中アメリカ海兵隊将校としてフォースリーコン、後に歩兵中隊長を務めていた筆者は1969年にPRUでの勤務を希望し、CIAの面接を受けて採用され、1969年9月にPRU指揮官としてタイニン省に赴任する。

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 タイニンに到着すると、私は省政府担当官(PIOC)─実際には省政府付きのCIA上級局員で、日々我々の活動を監督している─が率いるアメリカ人チームと合流した。私はチームのメンバーから、我々は二人の"ボス"の下で働くことになる事を教えられた。一人はアメリカ側のPIOC、一人はタイニン省における作戦権限の全てを司る南ベトナム側のタイニン省長官である。翌日、私は省長官と面会した。彼は英語の堪能なベトナム軍の中佐であり、有能で自信に満ち、尊敬されるリーダーである事が分かった。私にとって彼は理想的なリーダーであり、南ベトナムの省政府関係者によく見られるような堕落した部分が一切ない人物に見えた。


タイニン省PRUの隊員たちとは?

 タイニン到着の二日目、私は比較的カジュアルな会合、私が指揮・助言する事になる92名のタイニン省PRUメンバーたちの多くと初顔合わせをした。彼は皆勇敢で経験豊富な兵士で、一部にはかつてカオダイ軍(ベトミンと戦った民兵)や南ベトナム軍空挺師団、米軍特殊部隊に指揮された不正規民間防衛隊(CIDG)に所属した経験がある者も居た。またPRU隊員のほとんどはカオダイ教徒であり、一部にローマ・カトリック教徒、そしてクメール族が2・3人所属していた。彼皆ベトコンに対し深い憎しみを持っている人々であった。その主な理由は、や彼の家族がベトコンによる残虐行為の被害者だったからでである。彼にとって宗教と家族は人生で最も大切なものだった。

 タイニンPRUは18人編成のチームが5チームで構成(各チームは3個の分隊で構成)され、4チームがタイニン省の4つの地区それぞれに、1チームが省都タイニン市に配置された。タイニンPRU本部はタイニン市チームと合同で設置され、司令官と作戦将校の2名が指揮を執った。またタイニン市チームの指揮官はタイニンPRUの副指令も兼務した。
 PRUの武装はM16ライフル、M60マシンガン、45口径自動拳銃、M79グレネードランチャーであったが、各々の隊員はそれらに加えて個人的に入手した様々な武器を持っていた。さらに部隊にはPRC-25無線機、7x50双眼鏡、医療キット、トヨタ製四輪駆動トラック、ホンダ製のオートバイが装備されていた。隊員たちは地区本部の駐屯地では私服を着ており、前線ではタイガーストライプもしくはブラックパジャマを着ていた。また部隊付きの米軍アドバイザーも同様の装備・武装であった。

▲タイニン省PRUとフェニックス・プログラムにおけるその役割、1969-1970年 より

 私がPRUの作戦能力についてまず初めに感じた事は、各チームはほとんどの状況でうまく機能しているものの、火力支援に関する部分が欠けているという事であった。つまり、各チームは火力支援の下で効果的に行動する事が出来ず、また支援兵器(一般的には砲撃)に対して射撃要求や調整を行う事が十分に出来ていなかった。そのため部隊は敵と偶然遭遇した場合や、敵側がこちらと戦う用意をしている場合にはうまく機能しなかった。
 これは彼が受けていた非体系的かつ不安定な訓練にある程度原因があった。PRU隊員たちのほとんどはPRUに来るまで精強な戦闘部隊で何年も生き残ってきた経験豊富な元軍人であったが、一方で一部は初歩的な野戦訓練しか受けていないか、もしくは非戦闘部隊で勤務していた者たちであった。PRUの訓練は国レベルでは南シナ海沿岸にあるブンタウ近郊のキャンプで行われたが、地方レベルでは活動の順延が許される状況の時のみ米軍司令官とアドバイサーが訓練を施していた。その結果、訓練の頻度や部隊の能力はまちまちになっていた。

 一方、PRUの強みはタイニン省の住民や地理に関して深く完全な知識を持っている事である。この知識こそが訓練の欠点を補い、地方のVCIに対する作戦を成功に導いた核心であった。この地域に根差した知識は対VCI情報網を発展させ、体系的な作戦の計画に大いに貢献した。またPRU隊員は擬装、潜伏、そして夜間行動に精通していた事から、結果として彼は決定的な戦果を得るために待ち伏せ攻撃に特化する傾向があった。


情報源

 CORDS関連のシステムの導入により、タイニン省PRUは理論的には幅広い有用な情報源を持つ事ができ、地方の諜報員レポートから国家レベルの情報機関まで全ての情報を地区情報作戦調整センター(DIOCCs)を介して得られ、米軍の地区アドバイザーはその地区のPRUの作戦優位性を確保できるはずであった。なお、省レベルでも整合をとるため同様の組織構造が存在したが、省におけるアメリカ人PRUアドバイザーの役割はあくまで、地区付きの軍事顧問という地位に充てられていた。
 しかし実際には当事国の事情により、地区レベルでも一部の指揮権はアメリカ側だけでなくPRU側と共同という事になっていた。ベトナム国家警察、ベトナム特別警察、そして地区指揮官との間にはいささかの管轄争いがあり、それが現場におけるPRUの優位性を妨げる事もあった。
 同様の問題はアメリカ側にも存在しており、米軍司令官や民間のアドバイザーは歩み寄りを拒んでベトナム側と情報を共有する事に消極的であった。情けない事に、アメリカの民間アドバイザーはサイゴンのアメリカ大使館から特にそうするよう指示を受けた場合であってもPRU側と情報を共有する事を渋っており、さらに彼の多くは仕事の成果を横取りされないよう、他の米国機関との情報共有にすら消極的であった。
 理屈の上では、DIOCCのシステムは作戦運用の向上や実行時に大いに役立つはずであった。しかしながら、個人の非協力的な姿勢と官僚的な組織対立のために、タイニン省では概してこの仕組みは正しく機能していなかった。

 一様に不正確だった情報源が、米軍情報部隊によって組織された諜報員からのレポートだった。私がPRUアドバイザーを務めていた10か月間、PRUが米軍から受け取ったレポートの中で価値のある情報と判断されたものは一つもなかった。米軍は諜報員に対し歩合制で報酬を支払っていた為、価値のないレポートの乱造を引き起こしていた。
 同様にベトナム国家警察からの諜報員レポートも役に立たず、場合によっては危険なほど不正確だった。国家レベルでもたらされる情報は正確だったものの、それらはしばしばVCIには関連性のない情報だった。彼等は省内からVCIを根絶する上で、PRUの活動にさほど重きを置いていなかった。

 PRUにとってある程度重要で価値のある情報は、ベトナム特別警察が省政府取り調べセンター(PIC)で容疑者への尋問によって聞き出したものであった。PICに収容されている容疑者の多くがVCIのメンバーと活動について正確でタイムリーな情報をもたらしてくれた。これはそう頻繁にある事ではないが、そういった情報がPRUと共有されれば通常大きな成果に結び付いた。
 そして特に重要だったのは、チューホイ・プログラム(Chieu Hoi Program)によって南ベトナム政府側に転向した多数の元ベトコン達だった。彼等"Hoi Chanhs (転向者)"は南ベトナム政府に降伏後PICで取り調べを受け選抜された者たちであり、彼等はしばしば高烈度競合地域におけるVIC容疑者逮捕のためPRUチームを先導する任務に志願した。転向者たちは通常、他の容疑者よりもはるかに信頼度が高く、彼等がかつてベトコンゲリラや北ベトナム兵(NVA)であったのにも関わらず、彼等はVCI目標に関する有用な情報をもたらしてくれた。

 また分析に時間を要し利用も簡単ではなかったものの、しばしば生産的だったもう一つの情報源が、1963年から64年にかけて不服調査(Census Grievance)チームが蓄積した膨大なデータの数々であった。このチームは国勢調査の際に住民との面談を行い、その思想の傾向を密かに調査した。そして各世帯の南ベトナム政府への忠誠度を色で表した地図を省・地区・村落単位で作製した。緑の世帯は政府に従順であり、黄色は中立、赤はベトコンに同調的である事を示していた。
 さらにこの地図に記載された各世帯の家族構成の名簿には、VCIメンバーないし共産主義に同調する者の名が含まれている事がよくあった。そのためこれらのデータはタイニン市内にあるCIAの施設に保管され、米国の運用指導アドバイザーによって定期的に見直しが行われていた。ほとんどの場合、その名簿からは容疑者にたどり着けないか、既に死亡している、または共産主義シンパとして逮捕されていたように、その情報は古く活用困難だった。しかしその一方で、いくつかの例において、この不服調査マップによる情報の成果としてVCI中堅の重要人物を逮捕ないし討伐出来た事は特筆に値する。もしこの地図がデジタル化され、データベースに簡単にアクセスできたならば、情報収集にかかる時間は大幅に短縮され、より多くの作戦を優位に進められたはずである。

 しかし、これらよりはるかに多くPRUの情報源として用いられたのは、PRU独自の諜報システムであった。先に記したように、他の情報機関はVCI目標に関する情報を共有する事に消極的であったため、タイニン省PRUは自前の情報源を開拓する事を余儀なくされた。タイニン省PRUの隊員は、全員ではないにしてもほとんどの者はこのタイニン省で生まれ育ち、この省の住民として働き生活している者たちであった。彼等は皆地域社会の一員であり、また彼らの家族・親戚はタイニン省の至る所で、あらゆる職業に関与していた。PRUはこうした親類からの情報提供を通じて、村落レベルでVCIの活動を調査し、VCIに関する正確な情報を上手く収集する広域情報システムを構築するに至った。
 多くの場合、PRUに捕らえられたVCI幹部は、PRU隊員たちにとって個人的に、むしろ子供のころからよく知っている人であり、彼等はVCI容疑者の家族と私生活についても詳細を把握していた。そのため、時にはPRU隊員は自ら諜報員としてVCI内部に潜入する事にすら成功していた。
 彼等のVCIに関する非常に正確で深い知識は、幾度も作戦の優位性と、複数のVCI重要人物の討伐につながった。私がタイニン省PRUの米国側アドバイザーであった期間中、PRUによって逮捕ないし討伐されたVCI容疑者のおよそ2/3が、PRUが構築した生活の中での諜報活動システムによって特定された人物であった。


運用上の関係

 PRUプログラムはアメリカのCORDS、そしてベトナム内務省の管理下にある全国規模の組織であるものの、実際には各省の"実力部隊"であった。PRUに下される逮捕命令や作戦命令にサインする事が出来る指揮権限者は省長官ただ一人であり、彼がPRUの運用方針と権限の全てを握っていた。
 そのため私はタイニン省付きの米国側PRUアドバイザーとして、ベトナム軍・アメリカ軍双方の調整をしながら作戦の計画を練っていたが、それは私には耐えがたい事であった。タイニン省PRUがVCI目標に対して何らかの作戦を行う際には、私は毎回タイニン省長官に書面で作戦遂行の許可を要請し、長官の承認とサインを得なければならなかったのである。
 とは言え長官と彼の側近、米国側アドバイザーは毎日のように顔を合わせていたので、この件がPRUの作戦遂行を実際に妨げる事はなかった。省の下位の地区レベルでは、ベトナム側の地区司令官は米国PRUアドバイザーと省長官の承認を経ずにその地域のPRUを作戦に投入す事は出来なかった。しかしそれでも、地区情報作戦調整センター(DIOCC)は運用要請を迅速に処理できるよう組織されていた為、私の在任中、地区レベルでのPRUの作戦承認に遅れは見られなかった。


アメリカが関与する役割の変化による影響

 私のPRUにおける立場が変わる時がやってきた。1969年9月にPRUの"指揮官"として配置された私は、同年11月以降"アドバイザー"という肩書に変わった。それまでPRUの"指揮官"には米軍の将校や上級下士官が割り当てられていたが、この仕組みは11月以降変更された。それは米国国内でフェニックス・プログラムが残虐な作戦であると認識されてしまった事、そしてその残虐だという主張がこの戦争への支持を打ち消してしまう事をMACV司令官クレイトン・エイブラムス将軍が懸念した為であった。
 11月、エイブラムス将軍はPRUに配置されたアメリカ兵の肩書を"指揮官"から"アドバイザー"に変更する命令を下した。彼はまた、アメリカ人はPRUチームに同行して現場に赴く事はない、とも規定した。これは、アメリカ人が軍法統一規定(The Uniform Code of Military Justice)に抵触する恐れのある活動に関与する可能性を避ける為であった。
 私自身はエイブラムスや彼の参謀がこれらの制限を設定した時、その理由については関知していなかったが、これだけは言える。タイニン省での任期中、私はアメリカ人・PRU隊員のどちらも軍規に反する作戦行動を行った例は一度として見た事がないし、聞いたこともなかった。

▲タイニン省PRUでは正式な隊伍を組む事は稀であった。これは米陸軍第25歩兵師団との合同作戦中に勇敢な行為のあった4名のPRU隊員が米軍からブロンズスター勲章を授与される際の写真である。撮影: 筆者
 
 この新たな方針はタイニン省の兵士たちから士気と実効性を奪い去った。PRUは危険な作戦にも同行して米軍支援部隊、特に救急ヘリコプターや砲兵部隊との無線交信を担うアメリカ人に大きく依存していた。アメリカ人による手引きが失われたことで、PRUはC戦区(War Zone C)やカンボジア国境のアンタィン・カイメー地域などのタイニン市北部及び西部競合地域への出撃を躊躇するようになっていった。もし緊急事態に直面した場合でも、アメリカ人が一緒でなければ米軍ヘリによる救護避難、火力支援、そして緊急脱出が受けられない事を彼等は知っていたからである。
 タイニン省PRUにとって、その問題は小さくはなかった。チームは北ベトナム軍の第5、第7、第9師団が展開する地域内で活動していた。軽武装のPRUは、もし北ベトナム軍やベトコン主力部隊との戦闘に遭遇した場合、速やかに米軍による火力支援を受ける必要があったのである。

 1969年11月以降、タイニン省PRU隊員たちが進んで競合地域に出撃するようになるまでには数ヶ月の長い訓練を要した。私のPRUへの忠義とリーダーシップというものへの理解に立脚し、私はMACVが課した制限に対し度々疑問を感じていたことを認めざるをえない。私は正式に方針の見直しを上申したが、その要請は却下された。


PRUチームがVCI壊滅に成功した理由とは?

 私の体験が必ずしも他のPRUアドバイザーや部隊に当てはまる訳ではないと思うが、少なくとも私の任期中、タイニン省PRUは成功を収めた部隊だった。1969年9月から1970年6月までにタイニン省PRUは31名のVCIを討伐、64名を逮捕した。一方、PRU隊員の損害は戦死2名、負傷2名のみであった。
 テト攻勢後の数ヶ月間でVCI上級幹部の大半がタイニン省PRUによって討伐または逮捕されたか、隣国のカンボジアに逃亡した事が1968年12月初旬の時点で明らかになっていた。私が1970年6月にベトナムを離れる頃には、ベトコンはあらゆる面で政治的脅威としての存在感を失っていた。
 PRUの活動が高い成果を挙げていた事実は、1975年に共産軍が南ベトナムを敗北させた際にも証明された(※4)。タイニン省を占領した北ベトナム軍司令官は、すぐさまこの地に200名の民間政治幹部を派遣するよう北ベトナム政府に要請した。彼の報告によると、戦後タイニン省の統治に携わるはずだったベトコン幹部は、この時点でたった6人しか残っていなかったという。
 タイニン省PRUが成功を収めた主な理由、それは彼等が省内、住民、そして敵側の事情に精通した集団だったからであった。また彼等には規律、強力なリーダーシップ、そしてベトコンを壊滅させるという個人的かつ激しい動機が備わっていた。彼等は敵に付け入る隙を与えない正確で非常に効率的な諜報システムを持っており、それらは家族との強い絆と宗教、そして住民との信頼関係に支えられたものであった。
 アメリカ人司令官およびアドバイザーが果たした役割は重要なものであった。しかしどの省でも、1年以上勤務した者はほとんど居なかった。私(そして同輩のPRUアドバイザーたち)もPRUに貢献するため、そういった信頼関係を築きたいと思っていたが、結局、それは私(そして我々)には成し得ない事であった。アメリカ人が南ベトナムを去った後も長らく、タイニン省PRUはVCIの根絶に従事し続けた。この作戦のコンセプトはアメリカ側の発案であったが、その実行と応用は完全にベトナム側によるものだった。

 1975年4月のサイゴン陥落以降、タイニン省PRU隊員たちの人生は一転して悲惨なものとなった。彼等は捜索に遭い逮捕もしくは殺害された。多くの者が再教育収容所に投獄され、長期間拷問と強制労働を強いられた。その内一部の者は収容所を脱出し、アメリカ政府から住居と就職先が与えられアメリカに定住した。
 しかしほとんどの者は処刑されたか、収容所の劣悪な環境の中で死亡した。ただしごく一部の者は決して降伏せず、彼等PRUの生き残りは"黄龍(Yellow Dragons)"と呼ばれる"残存"部隊を組織し、ベトナム共産党と南部のシンパに対する戦いを続けた。その活動は1990年代に入ってもタイニン省の共産政権当局によって報告されていた。

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※4. 私がベトナムを去った後のタイニン省におけるVCIの状況に関しては、1985年にアメリカに亡命した2名の元タイニン省PRU隊員たちから聞き取った情報である。

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教訓

 タイニン省での経験を踏まえて、私はある部隊がPRU同様に組織、装備、訓練されている場合、他の地域や時代でもPRUのような成功を再現できるかを時折考える。武装勢力を特定・逮捕するため地域社会の人間で構成された特別警察は、我々が信じる民主主義の原則に沿った上で成功するだろうか?私は、PRUに備わっていた以下の条件が満たされさえすればそれは可能だと信じている。

 特定の政府関係者や政治指導者だけでなく、国民に対し責任を負う、プロフェッショナルそして市民としての倫理観が部隊に浸透している事。
 高い水準のプロフェッショナリズムに装備・訓練されている事。
 給料が十分に(そして定期的に)支払われる事、そして具体的な成果には報酬を与える事──これは腐敗や敵の浸透を防ぐ重要な要素である。
 部隊はその者らが属するコミュニティーの者だけで構成し、小規模でも強固な絆のチームを編成する事(ベトナム戦争中、南ベトナムの人口1700万人強の内、PRU隊員だった者は4,500名足らずであった。それはPRU隊員のほとんどが生まれも育ちもその省という地元住民に限定されていたからである)。 これによって彼等は的確に司法と政治の監視下に置かれ、有効な法的権限を持つ者の命令無しに、認められていない手段の作戦を行う事が出来ない。
 部隊は別の場所に移動している間、対象の個人を識別するという目的を超えて捕虜を尋問・監禁する権限を持たない事。PRU型部隊は他の警察部隊、特に犯罪捜査および逮捕に関わる者とは明確に区別される事。
 隊員とその家族を報復の可能性から保護し、個人名が報道関係者や部外者に漏れないようにする事。
 最高水準の専門的かつ論理的なリーダーシップが提供される事。
 南ベトナムのDIOCCsのような省庁間の調整機構を通じて、目標に関する完全な情報を得られるようにする事。
 もしアメリカ人アドバイザーがそれらの部隊に配置される場合、その者は事前に言語・文化・情報管理・小規模部隊戦術、幕僚計画について専門的な訓練を受ける必要がある。

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以上のフィンレイソン大佐の論文も踏まえて、フェニックスとPRUに対する僕の認識をまとめると、以下になります。

・フェニックス・プログラムとは米国CIAが主導したベトナム政府による一連のベトコン政治基盤(VCI)破壊工作
フェニックス・プログラムの実行は米国CIA・米軍MACVの下部組織であるCORDSが担った。
・CIA、ベトナム国家警察などの情報報機関が収集したVCIに関する情報はCORDSによって調査・整理される。
CORDSが入念な捜査によって目標を特定すると、各省のPRUや国家警察野戦警察隊米海軍SEAL、米陸軍特殊部隊に逮捕命令が下る。
・PRUは省政府保有する対ゲリラ部隊であり、CIAから派遣された米軍人アドバイザーによって指揮された。
PRU隊員やその家族はその地域の住民であるため、地元のVCIについては政府や米国の情報機関よりも正確な情報を得られた
・逮捕されたVCI容疑者は省政府の取り調べセンター(PIC)に連行され、特別警察によって取り調べを受ける。
・PRUの任務は容疑者の逮捕であり、尋問を行う権限は無い。
・PRUは競合地域内に潜伏するゲリラの逮捕を行っていたため、ゲリラ側が抵抗した場合は戦闘の末殺害する事があった。
一般市民は概してPRUに協力的であり、市民からの情報提供によって国内のベトコン組織はほぼ完全に壊滅した。

 これらはベトナム共産党を支持する者や、その宣伝を信じた人々が書いた本を鵜呑みにしている多くのミリタリーマニアの認識とは真逆ではないでしょうか。"CIAの秘密殺戮部隊"・・・。マニアにとっては夢のあるお話なんでしょうが、それにはかなりの誇張、捏造が含まれていると考えます。あるのはただ、年間2,000人もの人々を虐殺しているベトコンというテロ組織を、あくまで司法に則った形で追い詰め、郷里と家族、信仰を守ろうとした父や夫たちの姿でした。

  


2016年12月04日

グエン・ラック・ホア神父

※2022年7月15日更新


神父オーガスティヌ・グエン・ラック・ホア
Augustine Nguyễn Lạc Hóa

 グエン・ラック・ホア神父の出自に関しては、いくつかの説が存在する。まず出生名は、『チェン・イーチョン(陳 頤政?)』という説(台湾外務省)と、『ユン・ロクファ(雲 樂華)』という説の二つが存在する。(この記事ではチェン・イーチョンとして書く)
 また出身地と誕生日についても二つの説があり、一つは1908年8月18日に、トンキン湾に面した清国広東省雷州半島の村生まれたというもの。もう一つは1908年8月28日に仏領インドシナ・トンキン ハイニン省(現ベトナム・クアンニン省)のモンカイ生まれ、両親はサイゴンに住んでいたという説である。ただし後者は現ベトナム政府が公表しているもので、これはホア神父が中国からベトナム北部に移住(不法入国)した際に、ベトナム当局に対し自分はベトナム出身だと身分を偽って申請した際の内容である可能性もあると思われる。
 いずれにせよ、ホア神父は中国広東省の漢族の家系に生まれ、キリスト教徒(カトリック)として育ち、洗礼名は『オーガスティヌ (Augustine)』であった。


日中戦争と国共内戦

 "オーガスティヌ" ・チェン・イーチョン英領マラヤのペナンで神学を学んだ後、1935年に英領香港でカトリック教会の司祭に任命された。しかしチェン神父の生まれ故郷中国(中華民国)は当時、国民党政府と中国共産党との間で(第一次)国共内戦の只中にあった。中国に戻ったチェン神父は国民党政府傘下のキリスト教武装集団の指導者の一人として、キリスト教を敵視する共産党の討伐に加わった。
 しかし1937年、日本が中国への侵攻を激化させると、対日戦に集中するため国民党政府は一転して共産党との連携(第二次国共合作)を開始した。チェン神父は再度戦争に動員され、聖職を離れて蒋介石率いる国民革命軍(現・台湾軍)の中尉を務め、広東省と広西省の境にある十万大山山脈において、圧倒的な戦力で押し寄せる日本軍に対しゲリラ戦を挑んだ。
 1945年8月、日本が連合国に降伏し8年間続いた日中戦争が終結した。その頃には、チェン国民革命軍の少佐(少校)へと昇進していた。しかし日本という共通の敵を失った国民党と共産党は再び内戦(第二次国共内戦)へと逆戻りした。この戦いの中でチェンは中佐(中校)へと昇進したが、国民党は次第に劣勢に追い込まれていった一方、チェンは軍を離れる機会を得たため、神父として本来の宗教活動を再開した。


中国キリスト教難民の漂泊

 しかし1949年、毛沢東率いる中国共産党が内戦に勝利し、中華人民共和国の成立が宣言された。その直後、毛沢東政権はヴァチカンのカトリック教会の影響力を排除するため、国内のカトリック信徒への宗教弾圧を開始した。この中でチェン神父は『反動』の烙印を押され、三日間の逃亡の末、当局に逮捕、投獄された。
 投獄から1年と4日後、チェン神父は収容所からの脱獄に成功した。その後チェン神父はパリの友人を介し、中国共産党の毛沢東に宛てて10通ほど手紙を送ったという。その内の一通は以下のような内容であったと伝わっている。
「毛先生、私は貴方に感謝ています。貴方は寛大にも、私に自由とは何かを教えてくました。今や私は、永遠に貴方の敵となりました。私は毎日、一人でも多くの人々に、貴方の敵になるよう説得を続けています。貴方と、貴方の邪悪な思想がこの世から消え去る日が来るまで」
 まもなくチェン神父は、中国共産党政府による弾圧から逃れるため、1951年に約200名の中国人キリスト教徒と共に船で中国を脱出し、ベトナム国北部(トンキン地方)ハイニン省へと移住した。当時ベトナム国はフランス連合の一部であった事からキリスト教が迫害される恐れは無く、彼らカトリック難民にとって安全な場所と思われていた。チェン神父はこの地でグエン・ラック・ホア(Nguyễn Lạc Hóa ※"Lạc Hóa"は"樂華"のコックグー表記)へと改名してベトナムに帰化し、中国人キリスト教徒のベトナムへの脱出を支援する活動を開始した。その後の6か月間で、チェン・イーチョン改めグエン・ラック・ホア神父は450世帯、2174名のカトリック信徒を中国からベトナムに入国させる事に成功した。
 しかしこの時期、ベトナム北部では毛沢東の支援を受けたホー・チ・ミンのゲリラ組織ベトミンが活動を活発化させていた。ベトミンはフランスの保護を受けるカトリックを『反民族的』と見做し、同じベトナム人であってもテロの対象としていた。さらに、ベトナム北部は古代から中国からの侵攻に脅かされてきた歴史があるため、ベトミンから中国人を守ろうというベトナム人は居なかった。こうしてベトナムでも再び共産主義者による迫害にさらされたホア神父は、やむを得ず2100名の中国人信徒と共にベトナムを離れ、隣国のクメール王国(カンボジア)に集団移住することを余儀なくされた。

 以後7年間、ホア神父率いる難民グループはベトナム・フォクロン省との国境に面したクメール王国クラチエ州Snuol郡に村を建設して避難生活を送った。しかしこの時期、クメールのシハヌーク政権は中国・ソ連・北ベトナム、特に毛沢東と密接な関係となり、共産主義に傾倒した『政治的中立』政策を開始した。難民たちは、クメールでも共産政権によって中国や北ベトナムのような宗教弾圧が始まる事を恐れ、ホア神父は三度移住を模索し始めた。
 そこでホア神父は友人のバーナード・ヨー(Bernard Yoh)の協力を得てベトナム共和国(南ベトナム)総統ゴ・ディン・ジェムと接触した。ヨーは上海出身の中国人で、イエズス会の学校で教育を受けたカトリック信徒であった。ヨーは日中戦争において故郷上海を占領した日本軍と戦うため抗日地下組織に参加し、後にアメリカOSSと中国国民党が合同で設立した諜報機関『SACO (中美特种技术合作所)』の一員として、抗日ゲリラ部隊のリーダーを務めた。大戦後は1947年にアメリカに移住し、1950年代後半からはアメリカ政府職員(CIA)としてベトナムに派遣され、ジェム総統直属の政治顧問を務めていた。
 ジェム総統は熱心なカトリック信徒であり、また強烈な反共思想を思っていた。さらに1954年のベトナム分断以降、南ベトナムにはホー・チ・ミン政権による弾圧から逃れるためカトリック信徒を含む100万人の北ベトナム難民が避難していた。ジェム総統はそうした難民とカトリック勢力に強く支持された人物であり、アメリカ政府と強いパイプを持つバーナード・ヨーの仲介もあった事から、ジェム総統は1958年にホア神父の中国人カトリック難民グループの受け入れを決定した。
 受け入れに際し、ジェム総統は移住先として南ベトナム領内の三ヵ所の候補地を提示した。ホア神父はこの中から、700平方キロメートルにおよぶ手付かずの広大な土地と、肥沃な土壌、水源を持ち、稲作に最も適していたベトナム最南端のアンスェン省(現・カマウ省)カイヌォック(Cái Nước)地区を選択した。(画像: ホア神父率いる中国キリスト教難民の避難先の変遷)


ビンフン村

 ホア神父と200世帯の難民はサイゴン政府の支援を受けて、1958年から1959年にかけてカマウの南西に位置するカイヌォック地区への移住を進めた。しかしそこは三カ所の候補地の中で最も危険と目されていた場所であった。なぜなら1954年のジュネーヴ協定調印以降も南ベトナム領内のベトミン・ベトコン勢力(後の解放民族戦線)は活動を継続しており、中でもカマウはゲリラの活動拠点として大量の武器弾薬が集積されていた為である。さらに夕方になると、ジャングルから蚊の大群が黒い雲のように発生した。土地は開墾が進んでおらず、どこにも作物の無い原野であった。難民たちは自ら煮えたぎる釜の中に飛び込んで行ったかのように思われたが、ホア神父は人々に訴えかけた。「私は滅びるためではなく、生き残るために皆さんをこの地に導いたのです。ここは肥沃な土地です。あなたたちは各自3ヘクタールもの自分の水田を持てるのです。我々の努力次第で、収穫は無限大です。私はこの場所を平らに均し、家々を建てて発展させる事を決意し、ビンフン (平興 / Bình Hưng)と名付けます」。

 こうして彼らは3ヶ月間昼夜問わず働き、住居と村落をゲリラから守るための堀と土塁を建設した。ホア神父は国民革命軍将校として日中戦争・国共内戦を戦ってきた経験から、村を防御に適した四角形にデザインし、要塞として機能するよう設計していた。また湿地帯で冠水しやすい土地のため、住人が村内を往来しやすいよう村の中央に水路の交差点と橋を構築した。村は湿地帯にある為、水路で物資を運搬する事が出来た。(写真: 上空から見たビンフン村。集落の周囲を四角い堀で囲み、防御陣地としてしている。)
 人々は小さいながらも各々の家を建て、ようやくビンフン村での生活が始まった。また難民たちには、政府からベトナム国民としての市民権が与えられた。そして過酷な労働は実を結び、数か月後には水田から大量の米が収穫された。その後、ビンフン村の水田は、1回の収穫毎に村で消費する米の3年分を生み出すまでに成長した。
 また度重なる共産主義者からの迫害により中国、北ベトナム、カンボジアと三度も移住を迫られた難民たちは、このビンフン村を最後の砦として自分たちの力で守る事を決意し、ホア神父は住民による民兵制を開始した。民兵は5名単位の班に分かれ、それぞれの班が村落の警戒にあたった。

 一方、ベトコン側は当初カマウへの中国人難民移住を無視していた。しかしビンフン村が完成し、村に黄色と赤のベトナム国旗(ベトコンにとっては反動傀儡政府の旗)が掲揚されると共に大量の作物が収穫されている事を知ると、ベトコンは嫌がらせの為の小規模な宣伝部隊をビンフン村に送り始めた。この時、ビンフン村の民兵が持っている武器は手榴弾6個と、ナイフや木製の槍しかなかった。しかし彼らの一部は国民革命軍兵士として長年日本軍と戦ってきた元兵士であった為、このような質素な武器による戦闘術を心得ており、ゲリラを撃退する事に成功していた。さらにホア神父と村人たちは周辺のベトナム人集落と協力関係を築き、情報交換しあう事でベトコンゲリラの襲撃に備えた。
 この小規模な戦闘の後、ジェム政権は1959年12月に、すでに軍では廃止されていた旧式のフランス製ライフル12丁ゲリラへの対抗策としてビンフン村の民兵に提供した。1960年になると、ビンフン村はしばしばベトコンによる襲撃や狙撃に晒されたが、ビンフン村民兵はそのたびに捕虜を捕え、彼らに村を取り囲む堀・土塁を増築工事させる事で村の防御力は高まっていった。1960年6月、サイゴン政府はフランス製ライフル90丁以上、短機関銃2丁、拳銃12丁をビンフン村に提供し、後にライフル50丁、機関銃2丁、短機関銃7丁を提供し、さらにその後、1955年にビンスエン団から押収したフランス製のルベル小銃(M1886)50丁と、アメリカ製のスプリングフィールド小銃(M1903)120丁も追加した。しかし銃の数に対し弾薬が不足していた為、ビンフン村ではバーナード・ヨーやホア神父が猟銃用に使っていた古い弾丸組み立て機を使い、自家製のライフル弾を製造した。

 1960年11月19日、サイゴン政府はビンフン村民兵部隊を、政府が統制する民兵組織人民自衛団(Nhân Dân Tự Vệ)』正式に編入し、部隊名を人民自衛第1001団(Nhóm NDTV 1001)』として、ベトナム共和国軍(Quân đội VNCH)の指揮下に組み込んだ。隊員は18歳から45歳の住民で構成され、訓練は特殊部隊が担当した。その内容は基礎教練、武器の取り扱い、心理戦、情報評価、通信、応急処置などで、短期間で集中的な訓練が施された。
 1960年12月には、ベトコン工作員が単身ビンフン村に潜入し、村に掲げられていたベトナム国旗をベトコンの旗に置き換えようと試みたが、この工作員は間もなく発見、射殺された。この報復として、ベトコンは昼夜関係なくビンフン村への襲撃を開始し、週に2回は大小の戦闘に発展した。その後6回ほど大規模な戦闘が行われたが、ベトコン側はビンフン村側に対し8:1の割合で死傷者を出していた。ベトコンとの戦闘を経験し、ホア神父はただ襲撃されるのを待つ事を止め、自ら積極的にベトコンゲリラを捜索・掃討すべく、ビンフン村民兵に周辺のパトロールを毎日行うよう命じた。
 そんな中、1960年末にホア神父は村の資金調達のため護衛と共にサイゴンに出張した。するとそれを見計らい、1961年1月3日に約400名のベトコン部隊がビンフン村を襲撃した。村はライフルや短機関銃の集中砲火を受け、村人たちは皆地面に伏せて逃げ惑った。そしてベトコンは村に戻ったホア神父ら80~90名の民兵部隊を2方向から待ち伏せしたが、勝ち急いだベトコンは民兵による反撃を受け、20~30mの距離で発砲し合う接近戦となった。戦闘はその後三日間続き、ベトコン側は計800名のゲリラを戦闘に投入したが、最終的に172名の死亡者を出し、ビンフン村から撤退した。一方、ビンフン村側の死者は16名であった。

 この戦いの直後、アメリカ空軍のエドワード・ランズデール(Edward Lansdale)准将はビンフン村を訪れ、村人の戦闘能力を高く評価するレポートを本国に提出した。ランスデール准将は1953年にアメリカ軍MAAGインドシナの一員としてベトナムに派遣されて以来、長期に渡ってベトナムでの政治工作に従事していたCIAエージェントでもあり、当時はジェム総統の顧問駐在武官という立場にあった。(写真: ラスデール准将とゴ・ディン・ジェム総統, HistoryNet.comより)
 この報告を受けたジョン・F・ケネディ大統領(アメリカでは少数派のカトリック信徒)はビンフン村に強い関心を持ち、アメリカ軍による東南アジア自由世界(=親米・反共勢力)への軍事支援計画『プロジェクト・アージル(Project AGILE)』の対象にビンフン村も加えるよう指示した。ジェム総統は、村の防御力をより完全なものに強化するため、アメリカ軍から提供された武器・弾薬・医療・食品などの軍事支援物資をビンフン村に与える事を許可した。プロジェクト・アージルはケネディ大統領の指示によりアメリカ国防総省ARPA(高等研究計画局)が1961年に開始した、東南アジアにおける共産主義勢力の排除を目的とした限定的非対称戦争計画であり、ベトナムの他、ラオスやタイの政府軍、カンボジアの反共・反政府組織『自由クメール抵抗軍』に対しても軍事支援が行われた。
 またホア神父とバーナード・ヨーは慈善団体やサイゴン政府当局に対し、警備活動、医療、教育、小麦粉や食用油などの食料品など、難民への生活支援を求める活動を絶え間なく行っていた。その結果、ビンフン村には中国人難民に加え、北ベトナム出身のベトナム人カトリック難民もホア神父の下で暮らすためビンフン村に集まり、村の人口は開村から2年で4倍に増加した。


海燕(ハイイェン)

 1961年6月、ホア神父はビンフン村民兵の部隊名を第1001から、『ハイイェン(海燕 / Hải Yến)』に変更する事をジェム総統に提案し、合意を得た。ハイイェンの名は白黒二色の海燕がカトリック司祭のキャソック(司祭平服)を連想させる事、田畑の害虫を食べ農民を助ける鳥である事、さらに渡り鳥である海燕は毎年生まれ故郷の中国に帰ってくる事から、いつか故郷へ帰還する希望をこめて選ばれた。この時点で、『人民自衛団部隊ハイイェン(Lực lượng NDTV Hải Yến)』には340名の民兵が所属し、さらに80名が新兵として訓練中であった。またハイイェンはボーイスカウト式の『三指の敬礼』で互いに敬礼を行った。(画像: ハイイェンの部隊章。隊員は軍服の左袖にこの徽章を佩用する)
 1959年以降、ジェム総統は180名のビンフン村民兵に与える賃金を捻出するため一部民間の資金を使用していたが、1961年には300名の民兵に対し、階級に関わらず一人一律12米ドルの月給が国費から支払われるようになった。さらに40余名分の供与はホア神父が自費で捻出した。しかしこれらを合わせてもビンフン村を維持するための資金は十分とは言えず、兵士は訓練に参加しただけでは賃金が発生せず、食事が提供されるのみであった。さらにホア神父とバーナード・ヨー村人が着用する衣類など集め、その生活支えるために個人的な借金を重ねていたが、その額は1961年半ばまでに合わせて10万米ドルに達していた。
 しかし正式に国軍の指揮下に入った後も、ホア神父は軍の将校としての地位と賃金を受け取る事は固辞し、ビンフン村の指導者として無償で数多くの軍事作戦に志願し、その指揮官を務めた。ホア神父は聖職者である自分が軍事作戦を指揮するに事について、所属するカトリック教区の司教に相談したことがあった。その時司教はそれを許可しなかったが、ビンフン村の住人にとってホア神父のリーダーシップと軍事経験は村が生き残る為の唯一の希望であった事から、ホア神父は司教の言葉を無視し、自ら戦場に赴いた。(写真: 軍服姿でハイイェンのパトロール部隊に同行するホア神父.1962年。狩猟が趣味のホア神父はしばしば、パトロールの際にアメリカ軍アドバイザーから入手した16ゲージ散弾銃で家畜を襲う鷹を獲り楽しんだ。)

 その後、政府からビンフン村にまとまった財政支援が行われると、ホア神父は村を守るための傭兵を募りに南ベトナム中を周った。彼はそこで、ビンフン村での生活は安い給料の割に戦闘は激しく、生命の危険がある事を警告したが、それでも242名のデガ(山地民/モンタニヤード)と、ヌン族1個中隊=132名がハイイェンに志願した。
 デガの多くはカトリック信徒であり、その上デガは長年ベトナム人から迫害を受けていたため、非ベトナム人カトリック組織であるハイイェンに進んで参加した。またヌン族グループはホア神父やビンフン村の人々と同様に、かつて蒋介石の国民革命軍に所属し、その後毛沢東、ホー・チ・ミンによる弾圧から逃れ南ベトナムに流れ着いた中国出身の難民たちであった。
 彼ら元国民革命軍のヌン族兵士は、国共内戦に敗れると他の国民党勢力と共にベトナム北部に移住し、その地でフランス植民地軍に参加して第1次インドシナ戦争を戦った。しかしフランスが撤退し北ベトナムがホー・チ・ミン政権に支配されると、5万人のヌン族が南ベトナムに避難した。そこでもヌン族はゴ・ディン・ジェム政権の下でベトナム共和国軍に参加し、『ヌン師団(第16軽師団・第3野戦師団)を構成していた。しかし1959年にヌン師団師団長ファム・バン・ドン少将がジェム総統との確執から更迭されると、これに反発した多数のヌン師団将兵が政府軍から脱走し、以後元ヌン師団兵士たちはアメリカ軍MAAGおよびベトナム共和国軍特殊部隊などに傭兵・基地警備要員として雇われていた。こうして彼ら傭兵の指導者たちはビンフン村に鉄兜(軍事力)をもたらし、ホア神父は彼らに祭服(信仰)をもたらす事で、ゲリラに対抗しうる強力な戦力を整えていった。

 ホア神父の方針は、ただ攻撃されるのを待つだけでは戦いに勝つことはできず、自ら打って出て敵を撃破する事ではじめて勝利を掴め得るというものであった。ハイイェン部隊は毎日、毎晩、どんな天候でもパトロールに出撃し、そして必ずベトコンの待ち伏せを発見する事が出来た。それはビンフン村が周囲のベトナム人農村と協力関係を築き、この地域で活動するゲリラやスパイに関する情報が周辺住民から逐次提供されたからであった。同時にハイイェン側も商人に偽装した工作員をベトコンと接触させ、敵側の情報を収集する情報網を作り上げた。
 ホア神父は常々、ゲリラを撃退する最善の方法は、敵がまだ一カ所にまとまっている段階でこちらから攻撃を仕掛ける事であり、こうすれば敵は統制を失い、簡単に叩く事が出来ると力説した。その言葉の通り、ホア神父が指揮するハイイェン部隊は次々と戦いに勝利し、ビンフン村の周囲からベトコンを一掃出来た事を彼自身誇りとしていた。過去2年間で、ベトコン側はハイイェンとの戦いで約500名の死者を出したが、ハイイェン側の死者はわずか27名であり、さらにその大部分は、戦闘ではなく対人地雷やブービートラップによるものであった。このようにハイイェン兵士の戦闘能力は非常に高く、政府軍のアンスェン省長官からの要請により、しばしばハイイェン部隊の一部を他地域への増援として貸し出すほどであった。
 ある日、ホア神父はこの地域のゲリラが成果を出せなかったことから、ベトコン上層部は他の地域から兵力を移動させているという知らせを聞いたが、彼はこれをハイイェンが確実にベトコンに損害を与えている証拠と捉え喜んだという。以前にもホア神父は別の地域から派遣されたベトコン部隊と戦っ事があったので、もし新たな敵が現れたとしても、ハイイェンはいつも通り敵を血祭りにあげるか、捕虜にするだろうと確信していた。(写真: ベトコンに勝利し解放戦線の旗を鹵獲したハイイェン兵士)

 共産主義者を憎むハイイェンの兵士たちは、一たび戦闘となると猛烈な敵意をもってベトコンを攻撃したが、一方で捕虜の扱いには慎重であった。ハイイェンはそれまでの三年間で200名以上のベトコン兵士を捕虜にしており、その中には多数のベトコン幹部と工作員も含まれていた。
 捕虜たちは窓のない長屋に収監されており、特に頑固で反抗的な約40名のベトコン兵士が独房に監禁されていた。しかし他の108名の捕虜たちは、夜寝る時間以外は長屋から出る事が出来た。彼らには一日5~6時間の労役が課せられていたが、日曜日は休日として労役からも解放された。捕虜には一日三食の食事が与えられ、さらに少ないながらも労役に対する賃金が支給され、その金でタバコなどの嗜好品を買うことができた。村人たちは捕虜に対し友好的な態度を取り、しばしば衣類や食料品を差し入れした。また捕虜を収容する長屋にはベッド、毛布、蚊帳まで用意されており、これには一般のゲリラ兵士だけでなくベトコン中核幹部まで、その人道的な扱いに感動を覚えたたという。またベトコンはしばしば農村の女性や子供までもをゲリラ兵士として戦闘に動員したが、ハイイェンはこうした捕虜は長屋に収容せず、また子供の場合はその親を村に呼び寄せ、他の住民と同じくビンフン村の中で生活する事を許した。(写真: 捕虜としてビンフン村内で生活するベトコンの女性・子供たち)
 加えて、村では捕虜たちに対し一日2時間、自由と民主主義、そして共産主義の実態について学ぶ教室が開催された。捕虜となったゲリラ兵士のほとんどは、民主主義も共産主義もよく知らず、ただベトコンが語る『解放』という抽象的な希望にすがっただけの貧しい農夫たちであった。そしてホア神父は捕虜たちがこの講義の意味を十分理解したと感じると、彼らを解放し各自の村に帰した。
 この厚遇を体験した捕虜たちは、こうしたホア神父の寛大で誠実な人柄に瞬く間に魅せられたという。ある日、捕虜を見張っていた年配の看守が、勤務中に酒を飲み、へべれけに酔っぱらってしまった事があった。しかし捕虜たちが逃亡する事はなかった。それどころか捕虜たちは、看守がライフルを置き忘れないよう、本人に代わって持ち運んであげたという。
 捕虜の一部には、ホア神父の理想と人柄に感化され、ベトコンを離れハイイェン部隊に加わる事を願い出る者さえいた。またベトコンはしばしばスパイ活動と破壊工作のために、若くて美しい女性をビンフン村に潜入させていたが、彼女たちの中にもビンフン村の実情を目の当たりにして考えを改め、自分はスパイだったと名乗り出て、ハイイェンへの協力を申し出る者がいた。ホア神父はこうした申し出を寛大に受け入れ、元ベトコン兵士たちがビンフン村内の小さな集落に住むことを許可した。ホア神父が目指す自由で寛容な世界は、残忍なテロで暴力革命を進めるベトコンの扇動よりも、貧しいゲリラ兵士たちの心を打つものであった。

 ビンフン村を訪れた外国人記者たちは、かつて19世紀の小銃で武装した340名の雑多な民兵に過ぎなかったハイイェンが、わずか1年間でM1ライフルやM1カービンを装備し、カーキ色の制服で統一され、非常に統制のとれた、まるで政府軍のような500名の精強な兵士たちに成長したこと驚きを禁じ得なかった。しかし当時村に対するベトコンの攻撃は頻発しており、ハイイェンの民兵たちだけでビンフン村および周辺の集落を守り切る事は、記者たちから見ても容易ではないように思われたという。それでもホア神父は常に自信を持った態度で人々に接しており、村人はホア神父を親しみと尊敬をこめて『おじいちゃん(爺爺)』と呼んでいた。またハイイェンの守備部隊は毎日死と隣り合わせの危険な任務を送りながらも、他の誰からも信仰を妨げられることのないビンフンでの生活に心は晴れ晴れとしており、村人たちは皆ここでの生活に満足しているように見えたという。そのような村落は、カトリックが優遇されていた当時の南ベトナムにおいても、ビンフン村ただ一つであった。
 欧米メディアはビンフン村を、『死を恐れず敵の中心で戦いに挑むキリスト教難民の村』『不屈の村(A village that refuses to die)』として取り上げ、驚きと共感を持って報じた。その姿は、東南アジア諸国への軍事支援を強化するケネディ政権の『成果』の一つとしてアメリカ国民にも好意的に受け入れられ、1961年にはケネディ一家が毎年夏の休暇を過ごすマサチューセッツ州の避暑地ハイアニスポート村や、同州のニューベリーポート市がビンフン村と姉妹都市を宣言した。またニューヨーク市は友好の証として、同市のシティーキー(都市間の信頼関係を示す鍵を模したオブジェ)と、ビンフン村のペナントを互いに交換した。そしてこの年のクリスマスには、西側世界の各国からクリスマスカードやプレゼントがビンフン村に届けられた。こうして村には訪問者やジャーナリストを載せたヘリコプターが定期的に行き来するようになり、ホア神父は56名のハイイェン兵士を選抜し、重要な来賓を迎えるための儀仗部隊を編成した。(写真: ビンフン村における米国ニューベリーポート市との姉妹都市記念式典, 1961年)
 1962年にビンフン村を取材した米国のニュースレポーター スタン・アトキンソン(Stan Atkinson)特にホア神父の人柄に心酔し、ビンフン村に住み着いて村人と共に生活しながら現地の状況をリポートした。後にスタンは体調を崩しビンフン村を離れざるを得なくなったが、その際ホア神父に、何か村に送って欲しい物はあるかと尋ねた。スタンはホア神父が医薬品や武器弾薬を求めると思っていたが、ホア神父の答えは、ディズニーランドのTシャツ1500枚と、コカ・コーラの看板をいくつか、というものであった。それはビンフン村がアメリカからの支援を受けている事をベトコン側に誇示し、心理的に優位に立つための戦術であった。スタンはその後、実際にそれらの品をビンフン村に送り、村人たちはディズニーランドのTシャツを『制服』として日々着用した。またコカ・コーラの看板は敵に見えるよう村の外側に設置され、コークの在庫状況が掲示されるとともに、ベトコンを抜けてビンフン村で共に暮らそうというメッセージが書かれていた。
 また当時、ハイイェンでは作戦時にしばしば、男性兵士の後に続いて女性看護兵も共に出撃していた。彼らお互いを『兄弟』または『姉妹』と呼び、皆強い仲間意識と敢闘精神で結ばれていた。彼女たちビンフン村の女性は、妻であり、母であり、同時に前線の戦闘員でもあった。ビンフン村には約300名の女性兵士が居り、男性兵士が村の外に出撃ししている間は、女性たちが村の防御を担当した。彼女たちは男性兵士と同様に18歳から45歳までの志願者で構成されており、2か月間の軍事教練において武器の使用について必要な訓練を受けているため、重い機関銃でも十分に操作できた。その姿はこの村の境遇とも相まり、イスラエル軍の女性兵士を彷彿とさせたという。ある記者が、なぜこの村の人々は皆あのような苦痛と命の危険を伴う任務に志願したがるのかと質問したところ、ホア神父はこのように答えた。「人は皆、何かをするために生まれたのです。」 (写真: ハイイェンの女性看護兵たちと台湾のテレビ特派員スー・ユーチェン-左から三番目)


アメリカのテレビ局が作成したビンフン村のドキュメンタリー番組『不屈の村(A village that refuses to die)』 (1962)
[主な内容]
00:15 ハイイェンに捕縛されたベトコン捕虜
03:45 ビンフン村の土塁と防御陣地
07:30 労役として湿地から泥のブロックを切り出し土塁を強化する捕虜
09:02 ビンフン村の病院
10:03 ハイイェンによるビンフン村周辺のパトロール
10:50 ビンフン村の学校
11:35 ボートで遠方へのパトロールに向かうハイイェン
13:10 ベトコンの宣伝看板を発見し警戒を強めるハイイェン
14:56 カオダイ教徒の村の捜索
19:40 ビンフン村に収容されたベトコン捕虜
20:32 鹵獲されたベトコンの武器、伝単、
21:36 ベトコンに戦う事を強要されていた少年タイ
22:31 政府軍のC-47輸送機によってパラシュートで投下される村の生活物資
27:25 ビンフン村のパン屋
28:05 ホア神父とカトリック住民の朝の礼拝
29:50 胃の病で死亡したハイイェン兵士の葬儀


ハイイェン独立区

 ホア神父の名は『戦う神父』として知れ渡り、カマウで知らぬ者はいないほどの名士となっていた。ジェム政権は、ビンフン村が行っていた集落を一カ所に集合させる事で農民をゲリラから隔離し、住民自身を自衛戦力化する手法はベトコンへの対抗策として非常に効果的であるとして政府の政策に取り入れ後に『戦略村(Ấp Chiến lược)』計画として全国の農村を、ビンフン村を模した自衛村落化へと変えていく政策を推し進めた。(ただしこの手法は、ビンフン村が最初から要塞として設計され住民が狭い範囲に住んでいたからこそ成功したのであり、元々広大な田園地帯に家々が点在するベトナムの農村では、むしろ住民は強制移住させられる事を嫌って政府への反発を強める結果となってしまった。戦略村計画は長年サイゴンの政府中枢で数々の要職を務めたベトナム共和国軍の"アベール"ファム・ゴク・タオ(Albert Phạm Ngọc Thảo)大佐の主導で進められた政策であったが、実際にはタオ大佐は政府に潜入していたベトコン側のスパイであり、初めからこの計画を失敗させて農村地帯における政府の支配力を低下させるを目的としていた)

 1962年2月には、サイゴン政府はビンフン村およびその周辺の村落を包括する戦術エリア『ハイイェン独立区(Biệt Khu Hải Yến)』を設定し、ハイイェン部隊は『ハイイェン独立区人民自衛団(NDTV Biệt Khu Hải Yến)』へと昇格し、ホア神父はハイイェン独立区長官に任命されたハイイェン独立区の範囲21の村落、人口25,000名、面積は約400平方キロメートルに及んだ。
 ホア神父が1959年にビンフン村を設立した時点では、後にハイイェン独立区となるこの地域の住民の90%はベトコン・シンパ、またはゲリラから協力を強要されている人々であった。しかしホア神父の民兵部隊が村から遠く離れた戦場まで進軍し、ベトコンを撃破してゆくのを見る度に、住民たちはビンフン村側に寝返っていった。(画像: ハイイェン独立区の部隊バッジ)

 一方、ビンフン村への軍事支援を開始したアメリカ軍はまず初めに、1961年9月にアメリカ海兵隊から7名の調査チームをビンフン村へ派遣した。彼らはそこで1ヶ月間、村の防衛に関する戦術上の問題などを洗い出した。その後、村には新たに3名のアメリカ軍アドバイザーが派遣され、村の飛行場の整備、防衛業務を補助するとともに、部隊を運用するにあたっての気象条件に関する調査を実施した。
 1962年3月には、アメリカ軍のトップである統合参謀本部議長ライマン・レムニッツァー(Lyman Lemnitzer)大将が直接ビンフン村を視察に訪れ、この地の戦況についてホア神父と会談した。さらに同年、アメリカ軍は『プロジェクト・アージル』の一環として、通常の軍事物資に加えて当時アメリカ軍でテスト中であった新型小銃アーマライトAR-15 (コルトAR-15 Model 01)をハイイェン部隊に10丁配備し、実地テストを行った。
 またアメリカ軍はハイイェンに陸軍特殊部隊のチーム(後の第5特殊部隊群A-411分遣隊)を派遣し、特殊作戦の専門家たちがハイイェン部隊を補佐した。(写真: ビンフン村を訪問するレムニッツァー大将と出迎えるホア神父, 1962年)

 こうしてハイイェンはベトナム政府とアメリカ軍双方から支援される唯一の非正規軍事組織となっていた。サイゴン政府はビンフン村を参謀部第4戦術地区司令部の直接指揮下に置き、ホア神父にその指揮の全権を与えた。この時点でハイイェンは152mm榴弾砲や迫撃砲、機関銃などで武装した戦闘部隊を10部隊保有し、それぞれがビンフン村の周囲に駐屯していた。各部隊には138人が所属し、3個の支隊で構成され、各支隊は3個の分隊で構成された。(写真: ビンフン村の中央に掲げられたジェム総統の肖像, 1962年)
 ホア神父は、今やハイイェンの兵力は1,000名にまで増強されたが、そのうち600名はかつて中国国民党勢力として日本や中共軍と戦った元中国軍人(漢族およびヌン族)だと語った。ビンフン村には中国からの亡命者の村として、ベトナム国旗に加えて、中華民国(台湾)の国旗 青天白日満地紅旗も掲げられていた。ビンフン村の中国人たちは、いつか世の中が平和になったら、故郷の中国に帰る事を夢見ていた。ハイイェンの隊歌には、ホア神父と共に中国、ベトナムで戦い続けた兵士たちの静かなる決意が込められている。
眠れ!自由の戦士たち!
君は自由の種をまく。
自由を愛する世界中の民のため、
君と同じく 嵐の中で
戦い、戦い、戦い続ける人々のため
勝利を
その目に映すまで。
(英語訳より和訳)
 この時点でハイイェンはビルマ北部に次ぐ規模の亡命国民党勢力であり、台湾の蒋介石政権ハイイェンへの軍事支援を行った。ホア神父は台湾を訪問し、蒋介石総統との会談においてこのように語った。「この14年間、私たちはさ迷い歩く孤児のような状態でした。しかし今、私たちは祖国(中華民国)からの暖かい支援と感心を頂いております。我々のベトコンとの戦いは、もはや我々だけの孤独なものではなくなったのです」

 1963年末には、ハイイェン部隊はハイイェン独立区の面積の約半分に当たる200平方キロメートルの地域からベトコンを掃討し、人口の60%をその管理下に置いた。カマウ半島は古くからベトコン勢力が強い地域であったのにも関わらず、ハイイェンはこの地域一帯のサイゴン政府軍で最も強力な部隊となっていた。しかし依然、二つの主要なベトコン拠点地域は約400名のゲリラによって防御されており、ハイイェン独立区の人口の40%はそのベトコン支配地域内に住んでいた。
 ベトコンを駆逐したことで、ハイイェンが掌握した地域の人口は一気に約18,000名に拡大したが、ホア神父はその内の約3,700名のカトリック信徒と、その他の宗教の住民を差別する事は無かった。ホア神父は人々に「この戦いにはカトリックも仏教も関係ありません。我々が自由のために戦う以上、我々自身も他者の自由を認めなければならないのです」と訴えた。折しも1963年にはジェム政権による極端なカトリック優遇・仏教排斥政策に反発した仏教徒・学生らによる暴動と、それに対抗する政府による凄惨な弾圧が南ベトナム全土に広がった『仏教徒危機』が発生していたが、ハイイェン独立区の中だけは宗教的な対立が発生しなかった。

 しかし問題は山積していた。人口の増加したビンフン村は防御陣地としては大きくなり過ぎ、本来の要塞としての機能を十分に発揮できなくなりつつあった。また逆に、ベトコンや中共に対し、反攻に転じるための反共産主義勢力の軍事的拠点となるには、この村は小さ過ぎた。
 一方でハイイェン独立区人々の絶え間ない努力によって経済的にも発展し、自衛戦力がますます増大した。ビンフン村の周囲には守衛所、鉄条網、人海戦術による突撃を阻止するための地雷原が設置され、運河は村の東西を繋ぎ、村の前の前哨路まで伸びた。当時村の人口は約2,000人であり、そのうちの90%が中国人であった。村には電気、水道、運動場や病院も備えられた。(写真: ハイイェン独立区を取り囲む鉄条網と正門)
 人口の増加に伴い、ホア神父は人々が住む家のモデルハウスを自ら設計して、その監督下で建物が建設された。ホア神父は、ビンフン村のある湿地帯にも、堅牢な建物が建てられることを証明したかった。なぜならビンフン村やハイイェン独立区は都市部から遠く離れた陸の孤島であるため、人口増加に対応できるほどの生活用品を運ぶ為には、飛行機による空輸に頼るしかなく、そのために最低でも短距離離着陸能力のあるC-123輸送機やC-46輸送機が使用できる滑走路を作る必要があったからであった。また村には就学年齢に達した300名の児童が居たが、当時村にはまだまともな学校が無かったため、子供たちへの教育は各家庭および移動教室で行われていた。ホア神父は、その子たちの為にも丈夫な学校を作ってあげる必要があった。(写真: 仮設の学校で学ぶビンフン村の子供たち)
 そしてホア神父の努力は実を結び、ハイイェン独立区内には1964年初めまでに、湿地から1m盛り土し地盤を強化した上に、長さ700mの滑走路を持つ飛行場が完成した。また耕作地はビンフン村から遠く離れたタンフンタイ(Tân Hưng Tây)まで開墾が進んみ、米の作付面積は一気に増大した。
 1964年8月には、ホア神父はフィリピン共和国マニラにて、『アジアのノーベル賞』とも呼ばれるマグサイサイ賞(Ramon Magsaysay Award)の社会奉仕賞を受賞した。マグサイサイ賞は初代フィリピン大統領ラモン・マグサイサイを記念し、社会貢献や民主主義社会の実現に貢献した人物に送られる賞で、ロックフェラー兄弟財団の援助によって運営されている。
 民族と宗教に寛大なホア神父とビンフン村の人々の理想は、村の開設以来守られ続けた。一つの村の自衛組織に1,100名以上もの兵士が進んで参加したのは、ひとえにグエン・ラック・ホアという自由を求めて戦う一人の修道司祭の存在があったからであった。ホア神父はビンフン村の記念碑に刻む碑文に、彼に付き従ってきた人々と、自分自身に向けた言葉として、中国南宋時代の人物 文天祥の詩を引用した。
人生自古誰無死 留取丹心照汗青
意解:人生は昔から死なない者はないのであって、どうせ死ぬならばまごころを留めて歴史の上を照らしたいものである。(宋の政治家 文天祥は1278年、五坡嶺(現・広東省海豊県の北)で元軍に捕えられた。元の将軍張弘範は、宋の最後の拠点厓山(現・広東省新会県の南海上にある島)を追撃するのに強制的に文天祥を帯同し、宋の総大将張世傑に降伏勧告の書簡を書くよう求めたが、文天祥は拒否してこの詩を作った。)
 しかしビンフン村でホア神父と共に過ごしたスタン・アトキンソンによると、当時ますます混迷を深め、堕落の一途を辿るサイゴンの政治情勢にホア神父は失望感を募らせ、ここベトナムでも人々が自由に生きるという夢は叶わないと予見していたという。
 ホア神父は誰から見ても公明正大な人物であったが、ハイイェンやビンフン村が拡大してゆくと、ベトコンだけでなくサイゴン政府側のベトナム人の中にも、中国人難民たちが力を付けている事を快く思わない者や、ビンフン村で収穫される莫大な米の利権を狙う者たちがいた。ホア神父はジェム政権と常に深い関係にあったが、同時に腹の底ではベトナム人たちを警戒していた。さらにビンフン村を支援していたゴ・ディン・ジェム総統とジョン・F・ケネディ大統領は、それぞれ1963年に暗殺され、ホア神父は二人の国家元首の後ろ盾を失った。
 そうした中で、軍事作戦ではハイイェンを倒せないと悟ったベトコンは、ホア神父を失脚させるための宣伝工作を行った。それは、ホア神父やハイイェンの兵士の多くは亡命という形でベトナムに入国してきた『中国人』であり、その中国人に軍の指揮権を与え武装勢力として活動させる事は国籍法に違反している、というものであった。歴史的に中国への反感が強いベトナムにおいて、政府が『中国人武装集団』を支援して強い権限を与えているという事実は、サイゴン政府の腐敗を糾弾する世論(もちろんベトコンによる世論誘導工作の結果でもあったが)の中で、政府による『不祥事』として問題視された。そしてベトコン側の目論見通り、政府は最終的にホア神父をベトナム国籍とは認めず、支援を完全に停止してしまった。
 そして1964年半ば、サイゴン政府は以前からホア神父と親交のあった政府軍所属のヌン族の少佐2名をハイイェン独立区に派遣した。政府はこのヌン族将校が新たなハイイェン独立区長官に就き、ホア神父は一般のカトリック司祭ならびに村の顧問という役職へと退くことを求めた。これに対しホア神父は、「私もこの(指導者としての)困難な責任から逃れたいと思っていたし、村の自衛部隊が存続できるならそれでいい。ただし、村の修道士を軍に動員するのはやめて欲しい」と述べ、政府の要求に従った。

 ホア神父が指揮官から退いた後も、ハイイェン独立区はアンスェン省の人民自衛団部隊として引き続き、政府軍の指揮下で作戦を継続した。そしてホア神父に代わってハイイェンの実質的なリーダーとなったのが、ホア神父の下で村の修道士をしていたニェップ(Niep)という男であった。ニェップは政府軍の中尉の階級を持っており、ハイイェンの中隊長を務めた。また過去にはCIAの秘密作戦に参加し北ベトナムに潜入した経験もあった。
 1960年代末、ハイイェンにはアメリカ軍特殊部隊A-411分遣隊に代わって、アンスェン省を担当するMACV(ベトナム軍事援助司令部)のアドバイザーチーム59(AT-59)およびチーム80(AT-80)が派遣され、ハイイェンへの補佐を引き継いだしかし当時アンスェン省の司令官だった政府軍のヌォック(Nuoc)少佐は横暴な男で、住民から勝手に『税金』を徴収して私腹を肥やし、さらに自分に従わない住民やアメリカ軍アドバイザーに発砲するなど、人々の生活を脅かし始めた。そこでハイイェンとアドバイザー達は結託してヌォック少佐を指揮官の座から引きずり下ろし、代わりに他のレンジャー大隊を指揮していた誠実なベトナム人大尉を指揮官に据えた。こうしたハイイェンとアメリカ軍アドバイザーとの絆はアメリカがベトナム戦争から撤退するまで続いた。(写真: MACV AT-59のヘンリー・デジネイス少佐とホア神父)


自由の終焉

 その後もハイイェン独立区はゲリラによる襲撃を退けていたが、ベトコンはその主力部隊を徐々に南ベトナム国内のゲリラ(解放民族戦線)から、国境を越えて南侵する北ベトナムの正規軍(ベトナム人民軍)へとシフトし、戦闘はそれまでの不正規(ゲリラ)戦から、南北の正規軍同士が激突する大規模なものへと変貌していったしかしアメリカをはじめとする西側同盟国はベトナム戦争から撤退した後、南ベトナムへの支援を大幅に削減していた。一方でベトコン側は引き続きソ連・中国から無尽蔵に軍事支援を受け続けており、パリ協定を無視した南ベトナムへの侵攻を続けた。そして戦争の大勢は、次第にベトコン側に傾いていった。
 ゲリラとの戦いでは無敗を誇ったハイイェン部隊と言えども、たった1,000人強の民兵が戦車や重砲で武装した数十万人規模の正規軍を相手に戦うことは不可能であった。そしてビンフン村の人々はベトコンによる報復を恐れ、ベトナムから脱出するため村を離れて散り散りになった。事ここに至り、ついにベトナムでも自由を得る機会は失われたとして、ホア神父は失意の中ベトナムを去った。
 その後ホア神父は国民党の伝手で台湾に渡り、首都台北のカトリック教区に司祭として勤めながらその地で晩年を過ごしたという。ただし台湾移住後もホア神父は反共運動の指導者としての発言を続けており、1972年9月には、日本の田中角栄首相が北京を訪れて中華人民共和国との国交正常化交渉を進めている事を痛烈に批判した。(その直後、日中国交正常化が宣言された事に反発し、台湾政府は日本との断交を宣言した)
 そして1975年4月30日、ついに北ベトナム軍はベトナム共和国の首都サイゴンを占領し、戦争はベトコン側の勝利に終わった。

 1989年、グエン・ラック・ホア台北市内において81歳で死去した。死と暴力が吹き荒れる動乱の中国・ベトナムにおいて、弾圧から人々の信仰を守る為の戦いに生涯を捧げた人生であった。
(写真: 天の軍団を率いサタンを打ち倒す聖ミカエルの像とホア神父. ビンフン村, 1964年)

 スタン・アトキンソンはホア神父について、ニュースレポーターとして世界中を周った中で、彼ほど優れた指導者には出合ったことが無く、人生でもっとも忘れ難い人物だと語る。そして自身が1999年にジャーナリストを引退するにあたり、最後に執筆した記事はホア神父と共に過ごした日々についてであった。
 また、ホア神父と二人三脚でビンフン村を創りあげたバーナード・ヨーは、1963年にアメリカに帰国しており、アラバマ州モントゴメリーのアメリカ空軍航空戦大学(Air War College)で対ゲリラ戦と心理戦の講師として教鞭を執っていた。1974年からは保守系メディア監視団体アキュラシーの幹部としてメリーランド州ロックヴィルに居住し、1995年に74歳で死去した。


共産ベトナムでの評価

 1976年の南ベトナム併合後、ベトナム共産党による独裁政権が40年間続いている現在のベトナム社会主義共和国において、ホア神父は今もなおベトコン政権によって、『ビンフン村の頭目として大量虐殺や強姦を指示し、被害者の腹を裂いて内臓を取り出し、その肝臓を食べた』、『ビンフン村は共産主義革命の拠点を破壊するためサイゴン政府によって作られた工作部隊だった』、『"肉屋"グエン・ラック・ホアは司祭の服をまとった残忍な殺人鬼であり、1,600人以上の人々を無残にも殺害した』(カマウ省政府公式サイト)喧伝されているそして現在、ビンフン村のあった場所には政府によって、ハイイェンに殺害された『民間人』を悼む記念碑が設置されている。またかつてビンフン村の人々が行き来した村の中央の橋は、『捕虜たちはこの橋を渡った先で拷問を受けて殺害された』として、『別れの橋(Cầu Vĩnh Biệt)』と名付けられている。(写真: ビンフン村の橋の当時と現在の様子)
 ただしこれはホア神父やハイイェンに限った話ではなく、1975年までにベトコン(ベトナム労働党・解放民族戦線など)と対立した、または非協力的だった者は全て、戦後『人民の敵』の烙印を押され、終戦から40年以上経った今現在も、ベトコン政権によってその『悪行』が学校教育やメディアを通じて国民に喧伝され続けている。


【参考文献・ウェブサイト】
The Sea Swallows, Henry Dagenais (2014)
MACVTeams.Org, MACV Team 80 – An Xuyen
  


2014年11月23日

ベトナム軍の食事とPIRレーション


リエクトメントの楽しさは、単なるコスプレ戦争ゴッコに留まらず、当時の兵士の生活を再現し、一時のタイムスリップを体験できる事にあると思います。そして、その気分を盛り上げるにあたり、結構重要なのが食事。既に日本でも、趣味人口の多いアメリカ軍・日本軍・ドイツ軍などでは、いくつかのイベントで当時のフィールドキッチン、戦闘糧食の再現が行われていますね。あの完成度には感服です。
もちろん僕らベトナム共和国軍愛好家も、ある程度食事をベトナムっぽくしようという試みは行ってきました。しかし、その根拠となる資料・証言は、英語で書かれた洋書にはなかなか載っておらず、ほとんど想像でメニューを考えるしかありませんでした。
そこで今回、せっかくネットを通じて元ベトナム共和国軍将兵の方々とお知り合いになったので、(聞きたい事は山ほどあるけどあまり質問責めしたくないので、程々に雑談しながら)当人たちに直接「当時何を食べていましたか?」と尋ねてみました。
以下、その回答です。(画像はイメージです)

・典型的なメニューは、調理済みのお米(乾燥米?)に、魚や肉の干物、あるいは単にお米にニョクマムをかけるだけだったよ。

・作戦時の戦闘糧食は、ハムの缶詰、ビニールパックされたポークとレバーペースト、乾燥米だった。

・米軍のCレーション(MCI)食べてた。


・基地の食堂では、ほとんどが魚や豚肉の煮物と野菜、それにスープとご飯というメニューだった。

いやいや大変貴重な証言を頂けました。
もちろん年代や部隊・職種によって食事内容は様々だったでしょうが、初めて具体的なメニューを知ることが出来て感激です!
と言うか、"ハムの缶詰、ビニールパックされたポークとレバーペースト、乾燥米"ってそれ、最初からパッケージとして生産されたレーションっぽいですよね。
ベトナム軍にレーションが存在していた・・・。考えてみれば当たり前の事ですが、今までそういう話を聞いたことが無かったので、俄然テンション上がりました。
こりゃあ再現するしかないですね・・・
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2014年03月04日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[4]

※2016年11月7日更新
※2022年10月22日更新


 1970年以降、NKTは連絡部(雷虎)と作戦部(黒龍)の二つのコマンド部隊を主力とし、ベトナム・ラオス・カンボジア国境三角地帯の南側を連絡部が、北側を作戦部がその管轄した。彼らは通常の偵察・情報収集に加えて、通信傍受、捕虜捕獲、道路爆破、そして航空・砲兵射撃への直接目標指示などの訓練を受けていた。1971年2月、NKTはベトナミゼーションに従い大規模な再編成が行われた。 拡大したNKTは本部、訓練センター、3個の支援部隊、そして6個の戦闘部隊からなる。()内は本部所在地

NKT本部(サイゴン・総参謀部内)
作戦情報(NKT本部内)
需品管理(NKT本部内)
心理戦(NKT本部内)
連絡(サイゴン)
作戦(ニャチャン/ダナン)
航空支援(ニャチャン)
沿岸警備(ダナン) 
クェッタン/イェンテー訓練センター(ロンタン)

 
NKTの最終的な編成(1973年) 右は原文
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2013年12月01日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[3]

※2016年11月7日更新
※2022年10月22日更新


 1963年11月のクーデター後、ジェム総統とその側近タン大佐の私有機関であった"総統府連絡部"は解体され、その機能は総参謀部(BTTM)に移された。同じくタン大佐が創設した陸軍特殊部隊(LLDB)もBTTMの管理下に置かれ、以後LLDBは対外工作任務から外されアメリカ軍特殊部隊と共に国境および村落の準軍事防衛戦力=CIDG計画の運営に当たった。対外工作については、BTTMの下に新たに連絡部(Sở Liên Lạc/リエゾン・サービス)が設置され、連絡部のコマンド部隊がラオス、カンボジア領内への越境偵察を行う事となった。  続きを読む


2013年10月26日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[2]

※2022年10月22日更新


 1963年、度重なるベトコンのテロ活動、そして反体制派の仏教徒や学生による暴動、それに対する凄惨な弾圧などでゴ・ディン・ジェム総統は民心はおろか軍部からの支持も完全に失っていた。1963年11月、ジェム政権に業を煮やした南ベトナム軍幹部と米国CIAはクーデターを実行し、8年間続いたジェムの独裁政権は崩壊した。このクーデターで、1957年以来ベトナムにおける特殊作戦の全権を握っていた総統府連絡部・LLDB司令官レ・クアン・タン大佐は総統もろとも処刑された。
 クーデターの後、新たに樹立された軍事政権は、総参謀部(BTTM)を無視した総統権限の象徴である総統府連絡部およびLLDB本部をすぐさま解体した。特に対北工作を専門とする地理開拓部・北方コマンドはLLDBから完全に分離され、1964年に総参謀部参謀長の直接指揮下の新組織"開拓部(Sở Khai thác / SKT)"へと再編された。SKT初代司令官にはチャン・バン・ホー大佐が就任し、以後はSKTがベトナム戦争における特殊作戦の中枢を担う事となる。
 前・北方コマンド司令で、総統府連絡部ナンバー2の地位にいたゴ・テー・リン大佐はクーデターによる粛清をまのがれ、SKTに残留した。SKT発足から間もなく、リン大佐はSKT内にシーコマンド(Biệt Hải)部隊、および新設されたシーパトロール(Hải Tuần)部隊を統括するSKTの海洋・沿岸作戦部門、沿岸警備部(Sở Phòng vệ Duyên hải / SPVDH)を発足さ、自ら指揮を執った。
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2013年10月18日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[1]

※2022年10月22日更新


特殊作戦のはじまり(1956~1963年)

 1956年2月、ベトナム共和国総統ゴ・ディン・ジェムは、かつてフランス軍の特殊部隊である第11強襲空挺大隊が設立し、ジュネーブ協定後はニャチャンに移転していたGCMA(混成空挺コマンドグループ)のコマンド学校を、編成が待たれる南ベトナム軍特殊部隊の訓練センターとして再建するよう命じた。これを受けて米軍MAAG(軍事支援顧問グループ)の支援の下、最大100名に体力練成・コマンド訓練を施せる大規模な訓練センターが建設された。このニャチャン訓練センターはベトナム共和国軍総参謀部・研究教育局(Nha Tổng Nghiên Huấn)の管理下に置かれた。
 1956年末、ジェム総統は米国CIAの要請により研究教育局を解隊し、新たに南ベトナムの情報戦・防諜戦略を担う情報機関"社会政治研究局(SEPES)"を設立した。SEPESはチャン・キム・トュエンを局長とし、フエの他、国外のビエンチャン、プノンペン、バンコク、クアラルンプール、シンガポールにも支局を有した。また、その人員の採用、コマンド訓練を行う"総統府連絡部(Sở Liên lạc Phủ Tổng thống)"も設立され、CIAより資金・作戦の支援を受けて活動を開始した。総統府連絡部は、総参謀部の指揮系統に属さないジェム総統直属の機関であり、研究教育局司令・副指令だったレ・クアン・タン中佐とチャン・カク・キン大尉(当時)は新たに総統府連絡部司令・副指令に任命された。タン中佐は南ベトナム軍空挺将校であり、同時にジェム総統の熱烈な支持者であった。また同部のメンバーの多くは、北ベトナム領内での活動を考慮してベトナム北部出身者が選ばれた。

▲レ・クアン・タン大佐
研究教育局司令(~1956年)
総統府連絡司令(1956~1963年)
LLDB初代司令(1962~1963年)
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