カテゴリ
News! (90)
銃器 (60)
映画 (19)
音楽 (16)
言論 (32)
民生 (3)
阮朝 (2)
人物 (33)
式典 (3)
BB/歩兵 (29)
ND/空挺 (47)
KB/騎兵 (8)
PB/砲兵 (1)
TT/通信 (3)
QV/輸送 (2)
HQ/海軍 (9)
KQ/空軍 (10)
QY/衛生 (2)
QC/軍警 (6)
軍犬隊 (1)
FULRO (11)
デガ (25)
モン族 (15)
ヌン族 (9)
本土軍 (2)
コマンド (10)
SDECE (3)
1914-1918 (2)
1918-1939 (8)
1939-1945 (22)
1945-1954 (88)
1954-1975 (463)
1975-1989 (19)

2024年02月14日

ラオスの黒虎


こちらは言わずと知れたベトナム陸軍レンジャー部隊のトレードマーク「黒虎(Cọp đen)」ですが、実はこれと同じデザイン、と言うかこのレンジャー部隊章がそっくりそのまま同時期のラオス王国軍でも使われていました。

使用していた部隊はラオス陸軍第4軍管区特別遊撃隊(MR4 SGU)です。(SGUは米国CIA・タイ国境警備警察PARUアドバイザーの指揮下にある、モン族・ブル族等の少数民族で構成されたコマンド部隊)



ラオス陸軍では米軍式のSSI(左袖に部隊章縫い付け)の他に、部隊章を左胸ポケット上に着用する場合もありました。



上の写真の2枚に写っている、部隊章の上に付いているタブはこちらと思われます。



この部隊章は徽章だけでなく、基地内の装飾にも使われています。



また、それこそベトナム軍レンジャーを模倣しているかのごとく、ヘルメットへの黒虎のマーキングも見られます。(ただし黒虎マーキングのヘルメットはベトナム軍レンジャーでは野戦で使用されたが、ラオス軍SGUでは式典用の正装としてのみ使用)

 


そもそもベトナム軍とラオス軍どちらが先にこのデザインを作ったのか、はっきりとした証拠はありませんが、ベトナム軍でこの部隊章が制定されたのはレンジャー部隊が発足した1960年頃(遅くとも1962年)なのに対し、ラオス軍SGUでこの部隊章が確認できるのは今のところ1968年が最初なので、オリジナルはベトナム軍で間違いないと思います。

ではなぜSGUは他国の部隊章をそっくりそのまま採用したのでしょうか?
これも確たる情報は何もありません。しいて言えばラオスにとって南ベトナムは同じアメリカ傘下の同盟国であり、また第4軍管区はラオスで唯一南ベトナムと国境を接している軍管区でありますが・・・、これだけじゃ根拠が希薄です。何ならラオスにとってはベトナムよりも、同じタイ系民族のタイ王国の方がよっぽど深い関係にあります。(ラオス人諸国家は何百年にも渡ってシャム王国=タイと朝貢関係にあった)

なんか実はちゃんとした理由なんか無くて、単にたまたまベトナム軍レンジャー部隊章を知ったSGU幹部が、「それカッコいいじゃん!うちも使う!」と、他国のデザインである事なんか意に介さずパクっただけのような気がします。特にSGUは建前上はラオス軍所属ですが、実質的な指揮権はCIAにある民兵組織であり、構成員も低地ラオ族(ラオスの多数派民族)ではありません。そのためラオス軍としてのコンプライアンス意識は希薄であったと思われます。

という訳で、正確な事は何もわかりませんでした!いかがでしたか?
  


2024年01月20日

ラオスもいける

※2024年1月27日更新

昨年11月の撮影会で仏軍コマンド・ダムサンを始めたと書きましたが、その時着たのがこの、パリを散策した際にミリタリーグッズショップ『ドゥースー(Doursoux)』で買ってきたTAP47/56降下服のレプリカです。



この服を買った時はフランス製という認識だけで、どのメーカーが作ったのかは分からなかったのですが、後にフランス軍マニアの先輩に聞いたら、そのドゥースーのオリジナル製品っぽいです。
米国のWhat Price GloryでもTAP47/56のレプリカを販売していますが、ドゥースーの方が良い色してます。
良い買い物しました。

僕はこのTAP47/56を、コマンド・ダムサン用に使う事を第一の目的として買ったのですが、実は使い道はそれだけではありません。
過去記事いろんなTAP47で述べたように、TAP47降下服シリーズは第一次インドシナ戦争中の1947年に登場し、さらにフランスがインドシナから撤退したも、TAP47は空挺部隊の象徴としてベトナム、カンボジア、ラオス軍で引き続き着用されました。
ただし、TAP47シリーズの最終モデルである56型は、その名の通り1956年に改良されたモデルであり、その頃にはベトナム(南べトナム)はすでにフランス連合から脱退していたため、ベトナム軍に56型が支給される事はありませんでした。(支給されたのは53型が最後と思われる)
一方、第一次インドシナ戦争終結後もフランスと友好関係を保っていたラオスやカンボジアは、引き続きフランスから軍事物資を輸入しており、TAP47も新型がフランスから直接供給されました。
なおラオス軍では56型の使用が確認できますが、カンボジア(クメール)軍では私は54型までしか使用例を確認できていません。(クメールでも56型を使っていても何の不思議もありませんが、クメール空挺の写真を見ると、TTA47をメインで着ていたようで、TAP47の着用例自体が少ないです)

以下、ラオス王国軍でTAP47/56が使用されている写真です。

▲中立派軍所属の空挺部隊 [ビエンチャン 1962年]
話が服からは逸れますが、上の写真に写っているベレー章が何なのか分からなかったのでケン・コンボイ先生に質問したら、これは中立軍を示すもので、半年くらいしか使用されなかったレアな徽章との事です。→画像
また、1960年に王国軍(右派)から分離独立したコンレー大尉率いる王国軍中立派はこの時期、右派に対抗するためパテート・ラオと同盟を結んだことで、ソ連から軍事支援を受けていたため、ソ連製のPPSh-41短機関銃を装備しています。(その後中立派は中立を維持できず右派と左派に分裂)

空挺部隊の将校
撮影年は不明ですが、後ろにパテート・ラオの兵士が一緒に写っている事から、1973年の停戦より後と思われます。こちらの写真のベレー章が本来の空挺部隊の物。(過去記事『代用ラオス軍ベレー』参照)

空挺ベレー章も、胸の降下徽章もすでに持ってるので、最低限必要な物は揃いました。
暖かくなったら外で着て写真を撮りたいと思います。
  


2023年09月09日

黒キャンバスブーツのレプリカ発売。しかし・・・

かねてよりWhat Price Glory(以下WPG)で企画されていたMDAP黒キャンバスブーツのレプリカが発売間際のようです。



なお、このレプリカには米軍コントラクト/調達局コードスタンプも再現されているようで、そのコードは『DA-92-557』となっています。これは1965~1966年に日本(沖縄含む)で生産された事を意味します。

長年待ち望んでいた初のレプリカであり、宣伝写真からもなかり精巧に再現されている事が分かったので、発売を本当に楽しみにしていました。
そして先日、WPGの中の人に近い友人から価格や在庫数などの先行販売情報が回って来たのですが・・・
今回生産されるサイズは、7 1/2から13。僕の靴のサイズは7なので、7 1/2ならなんとか履けるのですが、その7 1/2サイズは、僕に話が回って来た時点ですでに予約満了でした。次に小さいサイズは8 1/2ですが、これでは大きすぎます・・・。

本来この靴はベトナム軍・ラオス軍向けの支援物資であり、アメリカ兵に着用される事はほとんど無かったのですが、今回レプリカを作るにあたっては大柄な欧米人マニアがターゲットにされたため、小柄なアジア人サイズは無視されてしまいました。くっそ~!

という訳で、僕にとっては『発売前に完売した』という事実が分かっただけで今回は終わりです。悲C・・・。
友人が、売れ行きが良ければ再生産もあるかも、と言っていたので、それに望みをかけるしかありません。

なお、物自体はかなり良さそうなので、サイズが合う方はこの機会に買っておく事をお勧めします。
(そして僕のために再生産につなげてください)
  


2022年01月05日

代用ラオス軍ベレー

※2022年1月6日更新
※2022年4月9日更新
※2024年2月14日更新

先日、ネット通販でお洒落なベレー帽を買いました。

exrevo ウール混フェルトパイピングベレー 


こいつにはさっそく、ラオス王国軍陸軍ベレーの代用品になってもらいます。
ファッション向けなので軍用ベレーのように裏地は付いていませんが、どうせ被ってしまえば中は見えないので、コスプレ用の代用品と割り切れば問題ありません。
それに余計な空気穴が無いため、よく通販で売ってるフランス要素が一つもない『フランス軍タイプベレー(笑)』より、よっぽど使い勝手が良いのです。

そしてこれに付けるのが、残念なアメリカ製レプリカを改造して再利用したラオス陸軍ベレー章です。


つい最近、タイのラオス軍マニアたちラオス陸軍ベレー章のレプリカを作ったようですが、それまではまともなベレー章が市販されていなかったのです。
そして僕はタイ製レプリカの存在を知る前に、すでに改造用の素材として変な米国製レプリカ(ベレーサイズだけど裏面は制帽用。しかも本来金色なのに間違って銀色になってる)を買っていました。
タイ製の方が出来が良いのは分かっているのですが、せっかく買った帽章を余らせてもしょうがないので、予定通り改造しました。

制帽用のネジが付いていてそのままではベレーに取り付ける事が出来ない為、ネジ部分を切り落とし、代わりに安全ピンを瞬間接着剤でガチガチに固定。さらに塗料で金色に塗りました。
安全ピンを仮止めしていたマスキングテープに瞬着が染み込み酷いことに。でも裏側なので気にしない。

以上でベレー章は完成なのですが、それとは別に100円ショップのセリアで良い感じの星形の画鋲を見つけたので、これも尉官の階級章として代用します。



熱を加えるといい感じに黄金色に変色してくれました。


 
▲ラオス陸軍第2軍管区SGU(モン族コマンド部隊)の中尉 [1960年代]


またベレー章を変えると他の設定にも使えます。

・フランス軍空挺部隊のベレー章(レプリカ)


ラオス陸軍空挺部隊[1975年]

もともとはフランス空挺のベレー章なのですが、第一次インドシナ戦争中にフランス軍の傘下で創設されたラオス空挺部隊も同一のベレー章を使用しており、さらにラオス空挺はフランスから独立した後も、1975年の終戦まで永きに渡って同じデザインのベレー章(ラオスまたはタイ製)を使い続けていました。


ラオス軍空挺部隊のベレー章(レプリカ)



上でフランス式ベレー章は終戦まで使用されたと書きましたが、実はラオス軍独自のベレー章も存在していました。「独自」と言っても、剣が三叉槍に代わっただけですが。
Ken Conboy氏によると、この三叉槍タイプは1959年ごろに導入されたもののフランス式に置き換わる事はなく、ラオス空挺では終戦までフランス式・ラオス式両方のベレー章が使われていたそうです。
ただし当時の写真ではフランス式と見分けがつきにくいので、ラオス式がどの程度広まっていたのかについては、いまだ把握できていません。

※ちなみに、同じくフランス軍によって創設されたベトナム空挺およびカンボジア空挺でも当初はフランス軍ベレー章を使用していましたが、フランス連合脱退後は完全に独自のデザインに切り替わっています。



SGUとベレー

SGU(Special Guerrilla Unit)とは、ラオス政府の支配が行き届かずベトナム共産軍によるホーチミントレイルおよびラオス共産党の『聖域』と化していたラオス中部ジャール平原(第2軍管区内)において、その地に住むモン族を共産主義勢力に対抗する政府側戦力として活用すべく、米国CIAが組織したコマンド部隊です。
SGUは建前上はラオス陸軍に属しているものの、元々モン族はラオスの多数派民族であるラオ族(低地ラオ族)から人種差別の対象とされていたため、実際の指揮はCIA/米軍のアメリカ人およびタイ軍/国境警備警察のタイ人アドバイザーが担っていました。この辺りはベトナムで行われていたCIDG計画と似たような構造です。
しかし戦争の激化とともにSGUの重要性、そしてラオス軍内におけるモン族の地位は一気に高まり、モン族の軍事指導者ヴァン・パオ将軍はラオス軍第2軍管区司令としてラオス政府中枢、そしてラオス内戦の趨勢に大きく関わる事となります。

 CIAが支援したモン族の本拠地にして最後の砦ロンチェン基地にて[1972年ロンチェン]
左から米国CIA軍事将校ブル・スミス、タイ陸軍参謀長スラキジ・マヤラブ、ラオス第2軍管区司令ヴァン・パオ

SGUでは、基本的にラオス陸軍ベレー章が着用されましたが、SGUが政府軍(右派軍)の主力部隊として躍進すると、陸軍の精鋭である空挺部隊(主にラオ族)将兵の一部もSGUに配属されるようになりました。(CIAが予算出してるSGUの方が空挺部隊より給料が良かったらしい)
こうしてSGUにはモン族に加えて空挺部隊のラオ族も所属するようになり、彼ら空挺部隊からの転属者はSGUに所属しながらも引き続き原隊の空挺ベレー章を着用し続けたようです。なので同じSGUでも、部隊によっては陸軍ベレー章の人(モン族)と空挺ベレー章の人(主にラオ族)の両方が見られます。

空挺ベレー章を着用する第3軍管区SGU将校(おそらくラオ族) [1970年]


さらに1974年初旬、ラオス王国軍は大幅な組織改編を行い、SGUはそれまでの「外国軍に指揮される不正規戦部隊」という扱いから、正式なラオス軍部隊へと昇格します。
これに伴い、空挺降下作戦が可能な一部のエリートSGU部隊は陸軍コマンド大隊(BC)へと改編され、ベレーにはエリートの証である空挺ベレー章が着用されるようになります。
またそれ以外の一般のSGUは陸軍歩兵大隊(BI)へと改編され、ベレーには引き続き陸軍ベレー章が着用されました。

空挺ベレー章を着用する第2軍管区モン族コマンド大隊(元SGU)の将兵 [1974年12月ロンチェ]
  


2020年05月13日

仮置き

注文していたレプリカ徽章類が到着しました。
しかしまだそろっていないインシグニアがあったり、被服自体を改造しなけばならない物もあるため完成はまだ先になりますが、とりあえず今持っているインシグニアを仮置きして、やる気を盛り上げていきます。

ベトナム空軍第23戦術航空団第518駆逐飛行隊 A-1攻撃機パイロット
フライトスーツは現行のヒューストン製K-2B風カバーオールを使用。この服は値段が安いのは良いのですが、ジッパーがプラスチック製な事と、特に下半身の作りに難があるので、これから行う服の改修が大変そうです。


ラオス王国陸軍第2軍管区第21機動群(モン族空挺コマンド)兵卒 勤務服
最低限の徽章は揃ったので、このまま着てしまっても大丈夫なのですが、あとは階級章であったり名札であったり、小物を自作していく事になると思います。


フランス陸軍外人部隊CIPLE(外人部隊空挺インドシナ中隊)兵卒 ベレー帽
第1次インドシナ戦争中、フランス外人部隊の二つの空挺大隊内に編成されたCIP(ベトナム人中隊)専用のベレー帽のレプリカです。
安かったので買いましたが、サイズ表記58cmなのに、実際に被ってみる60cmくらいあってブカブカ。毎度のことだけど、作る方もいい加減だけど、売る方もいい加減だよなぁ。それにサイズ調整のリボンも付いていないので、これから自分で改造してカッコ良くします。



おまけ

去年、大型台風が来たとき、職場に泊まり込みで災害に備える事となったので、防災服と言い張ってオレンジ色のK-2Bを着て台風襲来に備えました。実際やった事と言えば、強風と停電、さらには地震に怯えながらテレビ見てただけですけどね。幸い自分の周りでは、本当に災害対応に出向くような事態は発生せず、僕はただの変人で終わったので良かったです。
  


2020年05月05日

ステホ9

部屋をあさってみたらボタン付け糸が出てきたので、サクッとインシグニアとボタンを付けちゃいました。

でもまだ気に入らない部分があるので、明日片付けます。


また、別の服に付けるための自家製パッチも続々作成中。

ただし僕のポリシーとして、自家製パッチを作るのは、当時シルクスクリーンプリント製パッチが存在していて、それをトレースして再現できる場合のみなので、プリント製パッチが存在していたか確認できない物については作る気はありません。「きっとあったはず」などと想像でやっちゃったら、それは再現ではなくファンタジーです。
なので上のベトナム空軍関係のパッチ(左の2つ)はプリント製が確認できるので自分で作りましたが、服に付けようと思っている別のもう2種類のパッチ(飛行隊と搭乗機種)は刺繍製しか確認できていないので、海外から刺繍製レプリカを取り寄せるつもりです。

右のラオス軍GM21のパッチは過去に1個作りましたが、かつてヴァン・パオ将軍の側近だったラオス軍中佐(モン族)のお孫さんがアメリカに住んでおり、ネットを通じて彼と知り合いになったので、記念に手持ちのGM21パッチをプレゼントしちゃいました。なので今回は自分のコスプレ用に再生産した物です。

アメリカで、僕の作ったパッチを身に着けてくれているジョニー君。
彼はまだ若くてお金無いし、軍装の知識も無いですが、祖父や親戚たちが戦ったラオス内戦の歴史についてはかなり詳しく知っているので、彼から沢山の事を学ばせてもらっています。
モン族に限らず、軍人の子孫であっても大半の人は歴史に興味など無いので、彼は歴史の伝承者として、また趣味の仲間としても貴重な存在です。
逆に軍装関係は僕の専門なので、正真正銘のモン族である彼に今から色々教育して、いずれ完璧なラオス軍コスプレをさせるのが僕の目標です(笑)
  


2017年09月30日

最近やった縫物

※2023年3月25日更新

ひとまず完成したもの

◆ベトナム陸軍空挺旅団(1962-1964年頃)


◆ベトナム共和国軍トゥドゥック歩兵学校 予備士官候補生(1967-1975年頃)


◆ベトナム共和国軍ヴァンキェップ訓練センター 教導士官(1967-1975年頃)


まだ作成中

◆ベトナム国家警察 第222野戦警察団 (1967-1975年頃)

※服を作り直しました。『第222野戦警察団』参照


◆ベトナム陸軍第3軍団マイクフォース (1966-1968年頃)
やる気が出たらボタン取り替えます。


◆ベトナム陸軍第5マイクフォース (1966-1968年頃)
既存の第5マイクフォースパッチのリプロは、上側にMIKE FORCE / AIRBORNEタブが予め組み合わさってるもの(画像左)しか出ていないようです。しかし当時の写真をよく見てみると、このタイプはMSF付きのアメリカ兵が左胸ポケットに付けているのは見ますが、ベトナム兵はどちらかと言うと上側にタブが無いタイプのパッチにAIRBORNEタブのみを後付けしている(画像右)事が多い気がしています。

 
なので、そのタブ無し(かつ上側が丸くなっている)タイプが、どうにか手に入らないかな~と探し中です。別にタブ付きタイプでも間違いではないのですが、思い入れのある部隊なので、どうせならそこも拘りたいんです。それに当時はパッチ付けてない兵隊も多く居ましたから、良いパッチが見つかるまでは無理して付ける事ないかと思ってます。


◆ラオス第21機動群 (1970-1975年頃)

※交渉間違いがあったので再製作します。


次作ろうとしている服

◆迷彩じゃないマイクフォース (1968-1970年頃)

ベトナマイゼーションに伴い1968年に米国のCIDG計画が終了すると、マイクフォースを含む全CIDG部隊の指揮権は正式に米軍からベトナム陸軍特殊部隊(LLĐB)に移管されます。それまでCIDG部隊の被服・装備品の多くはCIAの予算で調達されたMDAPやCISOによる非正規装備品(タイガーストライプなど)が支給されていましたが、この移管によってそれらの支給は終わり、以後CIDG部隊にはベトナム軍2ポケ作戦服や米軍TCUなど越米軍の迷彩ではない正式な被服が支給されていく事になります。(※)
またこの際、それまでCSFおよびMSF(マイクフォース)の部隊章は部隊ごとにバラバラだった事から、それぞれCSF共通(画像左)、MSF共通(画像右)の新デザインが採用されます。

 

※ただしLLĐB移管から2年弱経った1970年にはLLĐBが解散し、CSFはベトナム陸軍BĐQ(レンジャー科)へ、MSFはNKT(越境特殊部隊)へと編入されて、それぞれの編入先でベトナム軍制式の迷彩服を支給されます。


◆ラオス陸軍モン族SGU (1960-1970年頃)
  


2017年09月02日

単発写真や動画

僕のブログは常に下書き記事が10件以上ある状態でして、暇な時にちょっとずつ書き進めていくようにしていますが、調べているうちにボリュームが増えすぎてなかなか記事が完成しないという状態が最近続いています。なので今回は息抜きに、最近見つけた興味深い画像や動画を脈絡なく貼っていきます。



【ベトナム関係】

◆パレード映像の中にムイ老師を発見!
エン・バン・ムイ(Nguyen Van Moi)1972年当時、73歳という高齢でありながら義勇軍(NQ)の小隊長を務めていた事で知られる人物です。


▲フエで行われた地方部隊(地方軍・義勇軍・人民自衛団他)の軍事パレード。 記録映画『北ベトナム軍の侵略』のワンシーン [1972年フエ]
パレード装をした義勇軍の中に、ベトナム国旗の旗手を務めるグエン・バン・ムイが映っています。また観閲するアメリカ人の中にフェニックス・プログラムを監督するCORDS(事実上のCIA)職員たちも写っている事に注目。

米国フロリダ州の地方紙サラソタジャーナルに、ムイの小隊が夜襲に成功したという記事が掲載されていました。
Sarasota Journal - Apr 22, 1971 

これによると、ムイはカマウ半島中部のチュンティェン省ドゥックロンに住む義勇軍兵士でしたが、軍の定年をとうに過ぎているため階級は持っておらず、人々は彼を"Ông (年配の男性に対する敬称)"、もしくは"Ông Moi"と敬意をこめて呼び親しんでいました。しかし数々の武功を持つムイは、高齢をものともせず第203義勇軍小隊(Trung Đội 203 Nghĩa Quân)の小隊長を務めており、民兵で構成された義勇軍小隊を率いてベトコンゲリラに対する夜襲を成功させるなど、衰えを知らない豪傑な人物でした。
またムイには五男一女、計6人の子供がいましたが、そのうち長男から三男までの3人の息子はベトコンに殺害され、四男は負傷。そして23歳になる五男が義勇軍兵士としてムイの小隊に所属していたそうです。
ムイは取材に対し、「この戦争で老人から子供まで多くの人々が死んだ。私は一刻も早くこの戦争を終わらせる事が私の使命だと確信している」、「私は死ぬまで兵士として祖国に仕えたい」と語っています。
残念ながら、私が知る限りムイがメディアに紹介されたのは1971年が最後で、この1972年のパレード以降の消息はつかめていません。


◆準軍事婦人隊(Phụ Nữ Bán Quân Sự)の制服の色が判明
モノクロ写真は何枚もありましたが、ようやくカラー写真で服の色を把握できました。

 

準軍事婦人隊は第一共和国(ゴ・ディン・ジエム政権期)に存在した国内軍部隊です。準軍事」と名はついていますが、指揮権はベトナム共和国軍総参謀部にはなく、おそらく内務省が所管する政治工作機関だったようです。"ドラゴン・レディ"として知られるジエム総統の弟の妻チャン・レ・スアン(マダム・ニュー)は、自らの支持を得るために女性の政治参加を積極的に推進しており、このような女性による準軍事組織まで創設しました。この準軍事婦人隊には、チャン・レ・スアンの長女(ジエム総統の姪にあたる)ゴ・ディン・レ・トゥイが参加し、老若男女が一して共産主義と戦う姿勢をアピールする広告塔を務めていました。

準軍事婦人隊員としてパレードに参加するゴ・ディン・レ・トゥイ

同様に、政府が組織した反共青年政治組織としては当時、『共和国青年団』が存在しており、その女性部門である『共和国少女団(Thanh Nữ Cộng Hòa)』もチャン・レ・スアンの私兵組織として機能していました。

共和国少女団のパレード装(左)と通常勤務服(右)

なお、1963年11月の軍事クーデターでゴ・ディン家の独裁体制が崩壊すると、これらの政治工作組織は解体され、以後は軍事政権の下で人民自衛団(NDTV)など軍が所管する民兵組織へと再編成されていきます。



【カンボジア関係】

クメール海兵隊の戦闘 [1973年カンボジア]


クメール海兵隊の兵力は計4個大隊ほどと決して大きな組織ではなかったので、動画はおろか写真すら滅多に見つからないんです。それがこんなにはっきりと、しかもカラー映像で見られるとは。AP通信様様。


◆プノンペンの歌姫 ロ・セレイソティアの空挺降下訓練 [1971年7月カンボジア]


↓こちらは女性が参加した別の降下訓練をカラーフィルムで撮影した映像


こちらも女性が軍に参加する姿を宣伝する事で、挙国一致を国民にアピールする狙いがあったのでしょうね。
また、リザード迷彩やリーフ迷彩をエリート部隊の証として支給していたベトナム軍やラオス軍とは異なり、カンボジア軍空挺部隊はダックハンター系の迷彩を1970年代まで多用していたのが特徴的ですね。


◆南ベトナム領内のベトナム共和国軍基地で訓練を行うクメール国軍兵士 [1970年7月ベトナム]


基地はベトナム軍の施設ですが、教官はクメール人が務めているようです。
米軍特殊部隊B-43の指揮の下、ベトナム領内のキャンプ・フクトゥイで訓練を受けていたクメール軍特殊部隊(Forces Speciales Khmères)は割と知られていますが、一般部隊までベトナムで訓練されていたのは初めて知りました。
1970年のロン・ノル政権成立によって中国・北ベトナムに反旗を翻したカンボジア(クメール共和国)は、アメリカの仲介の下で南ベトナムとの協力関係を深めていきます。しかしカンボジアとベトナムは、メコンデルタ地帯を巡って中世から戦争を繰り返してきた長年の宿敵であり、現に1970年までクメール王国(シハヌーク政権)は南ベトナムを敵国と見做して北ベトナム軍に協力すると共に、南ベトナム政府へのサボタージュ工作を幾度も行っていました。
そのカンボジアが(国内の内戦に負ける訳にはいかないという事情があったにせよ)、過去の遺恨に目をつむって南部のベトナム人と一時的に和解したという事実は驚くべきことだと思います。



【ラオス関係】

◆ラオス王国軍モン族遊撃隊 GM41の日常風景 [1969年ラオス]


モン族GM(Groupement Mobile)のプライベート動画なんて初めて見ました。撮ったのはGMを指揮したCIA戦闘員(アメリカ軍人)のようです。大変貴重な映像です。感動しました。

◆同じくGMを指揮したCIA戦闘員が楽しそうに重機関銃を撃ってる動画 [1971年ラオス]



◆ラオス王国空軍に参加したCIA(アメリカ空軍)パイロットとその息子 [1971年]


CIAだからと特別に家族がラオスに住んでいたのか、それともタイの米空軍基地に住んでいて、お父さんに会いに家族とラオスまで来たのか。プライベートビデオならではの、微笑ましくも歴史の激流を感じる映像でした。
  


2016年05月25日

デガとモン関係

デガ関係

盾が完成。第2軍団LLĐB/DSCĐ儀礼用。
市販の笊をベースにしたので本物とは大きさも構造もかなり違うんだけど、一発目なのでとりあえず金かけずに雰囲気さえ出ればと。
実物のデガの盾はこんな構造みたいです→http://www.tribalmania.com/VIETNAMESEMOISHIELD.htm


ずっと探してたデガのパイプをゲット。
でも、すごく欲しかった割には、実際こういう伝統的なパイプ使ってるのは村の年寄ばかりで、CIDG計画で現金収入のあるデガの兵隊はみんな普通に紙巻タバコ買って吸ってるので、戦争ごっこのイベントで使う機会は無いのだけれども。



モン関係

昨日リサイクルショップにジーパンを探しに行ったら、気付いたらマスケットを買っていました。一応、大昔のマルシン製。
これはデガやDSCĐ用ではなく、ラオス内戦時代のモン族やるのに買いました。モン族は大昔から、西洋から伝わったマスケットを自ら製造しており、猟銃として活用するとともに周辺の多数派民族による迫害から自衛を図ってきました。
ラオス内線が始まると、ラオス王国政府側に付いた右派(王党派)モン族の村落にはADC(村落自衛隊, Auto Defense d'Choc)が編成され、村の男たちはモン族を見境なく虐殺するラオス共産軍パテート・ラーオやベトミン・北ベトナム軍から家族を守るため武器を取りました。
しかし王国軍所属のモン族部隊がフランスやアメリカ製火器で強化される一方、ADCは民兵組織であるため武器の配備は正規軍に比べて遅れており、1960年代になってもADCの一部ではマスケットが使われ続けました。

▲ラオス内戦の停戦を監視する国連代表団の訪問に際し、マスケットやクロスボウを披露するモン族の村人(1959年)

 
▲モン族のマスケット各種。上二つがマッチロック(火縄)式、下がフリントロック(火打ち)式
去年行ったタイのモン族村に展示してありました。これらを参考に、それっぽく改造しようと思います。



すでにチェンマイ行った時に民族衣装はあらかたゲットしてあるので、ADC計画は着々と進行中です。
実際にはモン族の住んでいる範囲は中国・ベトナム・ラオス・タイとかなり広いので地域によって民族衣装も違ってくる(いわゆる花モンとか青モン等)けど、違いが大きいのは華やかな女性の衣装であって、男性の普段着・野良着はどこも似たような漢服系の黒いシャツなので、誤魔化しはきくかと。
ただ、旅行から丸一年が経過して、買ったとき店のモン族のおばちゃんに教えてもらった帯の巻き方を忘れてしまった・・・。
(モンの帯は、体の前側に帯の端と端を垂らし模様を作るように巻くので、ちょっと複雑な巻き方だった)


そう言えばタイのモン村で晴れ着レンタルした際、レンタル屋のおばちゃん(だったと思う)になんで服にコインみたいな飾りがジャラジャラ付いてるの?」って訊いたら、
「これは昔本当のお金で、モンは昔から戦争などで住処を追われてばかりだったから、逃げる時に家に財産を置き忘れないよう服に直接付けておいたんだ。それが今では民族衣装のデザインになってるんだよ。」と教えてくれました。
なるほど。本当に昔からそういう歴史を繰り返しているんですね・・・。


ちなみに別の日、バンコクで一緒に遊んだ日本陸軍マニアのOさんも、実はモン族(モン系タイ人)。
学生時代日本に留学していたので日本語はペラペラ。当時は中田商店通いに明け暮れていたそうです。それに色白なので、横に並ぶと僕より彼の方がよっぽど日本人っぽい(笑)
そんな彼も、モン族であるという理由でタイ国内の右翼から嫌がらせを受ける事が度々あるそうです。「奴らは私を人間以下の生き物と見なしているよ」
でも彼は、そんな下らない連中に負けるほどヤワではない。日本、中国への留学経験を持ち、今はロンドンに留学中。
普通の人生では味わえない、どデカい視野を持った男になる事でしょう。


日本では昨日、ヘイトスピーチ解消法が成立しましたね。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160524/k10010533051000.html
まだ罰則規定は無いけど、少なくともこれで愛国心を口実に日本の名誉に糞を塗るクズ共の行動を違法行為と認定できるようになったんだから、ようやく一歩前進といった感じでしょうか。
ミリタリー業界からも、そういう馬鹿が消え去る日が来ることを心から願っています。
  


2016年05月14日

フランス連合軍のベトナム兵

※2023年4月29日更新

 第一次インドシナ戦争を戦ったフランス連合軍兵士のほとんどは植民地出身のアジア人とアフリカ人であり、本土フランス人(ウーホピアン)は士官としてその指揮を執るだけという形が大半でした。そのため第二次大戦後のインドシナ半島では、フランスの支配下で生まれ育った彼ら植民地兵が、フランスのため、インドシナ連邦維持のため、植民地解放を掲げるベトミン軍と殺し合うという矛盾に満ちた光景が繰り広げられました。
 これを傍から見れば、植民地兵たちは単に帝国主義の道具として消耗された哀れな人々であります。さらに悲劇的な事に、この戦争の震源地であるベトナム出身の兵士たちにとって、敵は同じベトナム人でした。しかし、彼らは果たしてベトナム共産党が宣伝するような「フランス帝国主義に追従し、自国の解放を妨げた傀儡勢力」だったのでしょうか?
 ベトミンが掲げる民族自決の理想は、植民地支配を受ける多くのベトナム人にとって悲願でした。しかしその一方で、ベトミンの一部にはベトナム人がフランスや日本軍に協力的または単に反抗しなかったというだけで裏切り者と見なす過激な思想があり、ホー・チ・ミンによる八月革命が成功した当初からベトナム国内では『裏切り者』へのテロ、虐殺が相次いでいました。独立への期待が高まる一方で、実際にはベトナム国民の中には長い植民地支配の中で抵抗を諦めフランス人との共存を選んだ者も少なくなく、ベトミンが支配地域を拡大すれば特にキリスト教徒などの親仏派住民がさらに弾圧される事が危惧されていました。
 そんな中、1948年に皇帝バオダイを首班とするベトナム国が建国された事でベトナム国民の中には、戦争による犠牲者ばかりを増やすベトミンを見限り、フランスの勢力下に甘んじるとしても平和な日常を求める声が日増しに強まっていきました。ベトナム独立を志す若者の中にも、ベトミンの闘争が中国・ソ連からの支援に依存している以上、フランスに勝利したとしてもこれらの国からの干渉は避けられず、ベトナムに真の平和と独立はもたらされないと考える者も多くなり、大勢の若者がベトミン政権阻止のため国軍に志願していきました。そしてピーク時の1954年1月には、ベトナム国軍の総兵力は20万人に達し、ベトミン掃討を目指すフランス連合軍の主力として大きな役割を担いました。
 しかし戦いはベトミン軍の勝利に終わり、ベトミンとフランスがジュネーヴ協定を締結した事で、ベトナム国は領土の北半分を失う結果となりました。そして北ベトナムを支配したホー・チ・ミン政権は、その後もベトナム国/ベトナム共和国政府の解体を目指し南ベトナム解放民族戦線を介した政府関係者・一般市民へのテロ攻撃と、周辺国への軍事侵攻を推し進めていきます。(=ベトナム戦争)
 ベトナム共産党は現在でもこの坑仏戦争を、植民地からの解放を成し遂げた英雄的偉業と規定しており、その栄光と犠牲の物語を国内の求心力維持にフル活用しています。しかしその偉業の影には、帝国主義と過激な民族主義の板ばさみの中で祖国の行く末を案じ、あえてフランスと協調する道を選んだベトナム人も大勢いた事を忘れてはならないでしょう。

『忘れられた物語: インドシナ降下兵』 (ドキュメンタリー番組『トリコロールの帝国』より)



フランス ノジャン・シュル・マルヌのベトナム兵記念碑で毎年11月2日に行われる戦没者追悼式典



ノジャン・シュル・マルヌの記念碑にはこう記されています。

天歐赫義越───ベトナム義士欧州の天に輝く
  


2015年03月30日

インドシナ半島の諸民族と歴代勢力


僕がベトナム戦争コスプレを集め始めた当初は米軍LRRPのつもりで装備を集めてましたが、周りから「どう見てもヤードor南ベ」と言われまくったせいで、だんだん興味がベトナム人や少数民族の方に移っていきました。
また今思えば、歴史趣味の観点から見ても、20世紀後半最大の戦争であるベトナム戦争は(当然の事ながら)インドシナ半島の人々を中心に発生しており、彼らを知ることはあの戦争を学ぶ上で避けては通れない道でした。
(つまり僕の中では、第2次大戦を学ぶ上でナチス・ドイツを調べるってくらいオーソドックスな事をしているつもり。)

そんな中、最近ベトナムの少数民族に興味があるという声を(極少数w)頂くので、自分用に作った表を公開してみます。
この表は少数民族に限らず、マジョリティーも含めたインドシナ半島に住む民族と歴代の勢力のまとめです。(ただしミャンマーやマレーシアを含めると書ききれないので、インドシナ戦争に関った人々限定)
こうしてまとめてみると、あの地域の歴史の奥深さを感じるのと同時に、何年経っても争い絶えない怨恨の根深さも垣間見れました・・・
付け焼刃な知識なもので、もしかしたら間違ってる部分もあるかも。

(↑クリックで拡大)
  続きを読む


2014年12月29日

今年入手したもの

※2019年11月24日訂正
※2021年12月12日更新

うちのブログはなんかウンチクばかりで、手持ちの軍装品の写真を載せるのをすっかり忘れていたので、年末という事でまとめて書いてみます。

まず今年最もテンション上がったアイテムと言えば、既にこのブログで何度も取り上げていますが、これです!


待ちに待ったベトナム軍2ポケット作戦軍服のリプロが販売されました!!
もう米軍ユーティリティ代用でお茶を濁す必要は無いのです!
これ一着あればもう、歩兵に限らず陸海空軍・地方軍・国家警察・CIDG・NKT(SOGのRT・スパイクチーム)など、60年代のベトナム軍装備がほとんど何でも出来ちゃいます!




フランス軍タイプキャンバスブーツ(リプロ)

同じくCLASSIFIEDさんで扱ってる仏軍タイプキャンバスブーツも、ベトナム軍ブーツへの代用にピッタリなので、購入・改造しました。
ブーツの改造ポイントについては過去記事『MVCキャンプ&撮影会 その2』をご覧下さい。
※ステマじゃないですよ(笑) けど良い物を作ってくれる業者さんは一趣味人として応援したいです



ベトナム軍/インドシナ諸国 日本韓国製キャンバスブーツ

上は代用品でしたが、こっちは資料用に入手した実物。
詳細は過去記事『キャンバスブーツ』参照

 



ベトナム国家警察迷彩ジャケット

警察迷彩ジャケットとしては一般的な、米軍M51フィールドジャケット風の服。
なぜか日本ではこの迷彩が『レオパルド』と呼ばれてるけど、欧米のコレクター界ではレオパルドは『ベオギュン(ベオガム)』を指す言葉ですよね。
この迷彩は見ての通り、まんまミッチェルの茶色側(クラウド)のコピーであり、ベオギュンとは無関係。欧米では『ナショナルポリス』または『クラウド』と呼ばれてます。
まぁ、それも戦後のマニアが名付けたものなので、どれが正しいなんて無いんだけど。
じゃあこの迷彩の本当(ベトナム語)の名前は?と言うと・・・僕もまだ未確認。
現在はベトナム語で『Mây』と表記される事もありますが、これは英語の『Cloud(雲)』を翻訳しただけで、当時使われてた本来の名称とは言えないし。

 



ベトナム軍4ポケット作戦軍服

先輩コレクターからいただいた物。
本当は4ポケットだったけど、おそらく「4ポケットは売れない」という理由でどこかの商売人に下のポケットを取られてしまった哀れな服。
背中側のウエスト調整フラップが、かろうじて4ポケットだった事を物語っている。

 



フランス/インドシナ諸国軍 TAP M47/53降下ジャケット

 

 



ベトナム軍トゥドゥック歩兵学校ベレー

僕は士官学校が好きなので、前々からトゥドゥック歩兵学校(予備士官学校)関連のアイテムを集めてました。
次は制帽と長袖チノの常勤服を揃えたいです。そしていつかは憧れのパレード服を!
トゥドゥック歩兵学校に関する詳細は過去記事陸軍予備士官候補生(SVSQTB)』参照




ベトナム軍軍犬隊腕章

詳細は過去記事『ヘルメットと腕章』参照



ベトナム軍装甲騎兵隊ベレー・下士官用(リプロ)

今年ヤフオクに何度か出品されてたこのレプリカベレーシリーズ、出所不明ながら、けっこう出来が良いんです。
ベトナム製でもけっこうダメダメな物は多いですが、これは誰かちゃんとしたマニアの人が監修してますね。
しかもバリエーションも豊富で、装甲騎兵の下士官・将校用ならまだしも、プレス製の兵用ベレー章まで用意されてるんだからビックリ。
いい買い物しました。



タイ軍TCU風迷彩ジャケット

この服はタイ軍リーフ生地で作られた、いい具合に怪しいTCU風テーラーメイドジャケット。
なにげタイって第2次インドシナ戦争、そして冷戦期の東南アジアのパワーバランスに深く関与していた国なので、最近一気に興味が沸いてきました。
このタイ軍リーフの服は、TCUスタイルは写真では未確認だけど、正規のタイ軍戦闘服スタイルだとこんな感じ。
まぁベトナムやラオス派遣タイ軍SFなら、普通にTCUスタイル仕立てて着てると思います。
パッと見ブラウンリーフっぽいですが、手にとってよく見ると微妙にグリーン系の色合いなんです。
元々米軍の生地ではないので、グリーンなのかブラウンなのかなんて悩むだけ無駄かもしれませんが。



ラオス軍空挺ベレー章(リプロ)


比較的最近作られたリプロです。近々ラオス軍のモン族コマンド部隊のコスプレしようと目論んでます。
ラオス軍の空挺部隊は、フランス軍植民地空挺大隊が育成した組織なので、ベレー章も当時のフランス軍空挺部隊のデザインを踏襲しています。※植民地空挺大隊は第1次インドシナ戦争後に海兵空挺歩兵連隊に改編され、ベレー章のデザインも変更されています。
しかし大きく異なるのが、握られている剣。本家フランス軍では、このベレー章は『サン・ミシェル(聖ミカエル)の剣』を表していますが、ラオス軍ではこの剣が、ラオス王家の紋章であるトリシューラ(三叉戟)になっています。超カッコイイー!!

  



メーカー不明ザーコップ迷彩ベレー(リプロ)

マイクフォースでよく使われてるローカルメイドのタイガーのベレー。
ヤフオクで新品で買いましたが、いったいどこの業者が作った生地なのかさっぱり分かりません。色や作りはいい感じです。
詳しい人に聞いて回ったら、某業者の試作段階の生地がゴニョゴニョされたものでは?等の憶測に行き着きました(笑)



日本製ファーストエイドポーチ風な何か(リプロ?)

僕が愛して止まない、笠敏商店にぶら下がってる謎装備シリーズの一つ。
普通、あんなの誰が買うんだよって思いますよね。
でも急に欲しくなったので、僕が在庫全て買い占めました。
こんな感じにして使ってます。

ちなみに、この時はピストルベルトもキャンティーンケースも日本製。
年々米国製装備の比率が下がってきております。






最後に、今年描いたイラストまとめ





それでは皆さん、良いお年を!
  


2014年11月15日

タイ軍の友達

以前、ベトナム戦争時代に生まれたタイ料理について教えてくれた絵描き・ミリタリー趣味友達であり、現役タイ軍兵士でもあるSさんが、僕の『ラオス王国軍モン族SGUとタイ国境警備警察PARUのイラストを見て、またいろいろ教えてくれました。


ラオス内戦について

PARU(警察航空支援隊)は、タイ警察の準軍事部門である国境警備警察の特殊部隊だよ。同じ警察でも、バンコク首都警察等とは全く別の組織なんだ。もし興味があったらこれを見て。

『タイガースカウト』 ラオス派遣タイ秘密任務部隊:匿名333部隊 


彼らタイ義勇部隊は認識票を身に付けなかったんだ。なぜならラオスへの派遣は非公式なものであり、捕虜になった場合も最後まで秘密を守らなくてはならなかったから。
だから彼らは皆、本名ではなくコードネームを使っていんだ。(そのため匿名333部隊と呼ばれる)
これは※リマ・サイト85に駐屯したPARU隊員だちだよ。


【リマ・サイト85】
アメリカ空軍およびCIAが同盟国であるラオス王国北部のフアパン県の山岳地帯に設置したレーダー・無線中継施設。
GPSが無かった当時、北ベトナムやラオスへの長距離空爆にはこのような地上電波誘導施設が必要不可欠であり、その防衛任務をモン族SGUと軍事顧問のPARUが担った。
1968年3月、ラオスに侵攻した北ベトナム軍の総攻撃を受けて守備部隊は全滅した。



Sさんの近況

S:
君に聞いて欲しいニュースがあるんだ。
11月の14・15日、僕はヤラー県(マレーシア国境に面したタイ最南端の県)に、第47タハーン・プラーン(=黒服部隊・レンジャー)連隊の選抜試験を受けに行くんだ。

タイガ:
マジで!?すげぇ。
でも君って、海軍沿岸防衛コマンドで対空ミサイル扱ってる人じゃなかったっけ?なんでタハーン・プラーンに行くの?

S:
ああ、3ヶ月前に海軍から陸軍に移ったんだ。タハーン・プラーンは実戦経験豊富だから、ミリタリーイラストを描くのに良い経験になるよ。

タイガ:
なるほど。しかし、よくやるね。

S:
すべては絵のためさ。

タイガ:
はぁ?絵のためにそんな事するの?本気かよ!?

S:
いや、本当はいろいろ理由があるよ(笑)
退役軍人証書(退役後に恩給や保証などがいろいろある)がもらえるし、給料も月18,000バーツと良いし。
そして何より、※『南部タイ反乱』の経験が大きいかな。僕は生まれ故郷を守りたいんだ。
僕の故郷はソンクラー県のハートヤイという町なんだ。そして反乱勢力は、このハートヤイを彼らの首都としてタイから独立しようとしている。
だから僕はタハーン・プラーンに入って故郷を護るんだ。

【南部タイ反乱】
2004年から続いている、タイ深南部のマレー系イスラム教徒武装組織『パタニ連合解放組織』によるタイからの分離独立紛争。
現在に至るまでテロ事件とタイ政府軍による掃討作戦が断続的に続いている。
Sさんの故郷ハートヤイでは2006年に爆弾テロ事件が起き、多数の死傷者がでた。




兵役抽選会で海軍を引いてしまい、嫌々海軍で働いていたアニヲタ兼ミリヲタ、二次元エロ絵師のSさん。
好きなアニメは『カードキャプターさくら』と『Fate』シリーズ。
そんな彼の口からタハーン・プラーンに行くと聞いた時は、「こいつアホだろw」と思いましたが、まさか故郷の町が民族紛争の現場になっていようとは・・・。
こんなシリアスな話だとは想像していませんでした。この記事を書いているまさに今、彼は選抜訓練を受けている最中なんですね。
僕はこんな趣味していながら、(その必要性は理解はしているが)本質的に殺人を生業としている軍人という職業を手放しに称賛はできないので、彼に軍務をがんばって欲しいとは思わないです。
ただただ、彼が怪我無く訓練を終えることを祈っています。

がんばって武者修行してきてね!

  続きを読む


2014年10月16日

2014年08月14日

恋するモン族~Boy meets girl~

以前の記事で紹介しましたが、現在僕は『メコンに死す』という本を読み進んでいるところです。
この本はラオス内戦当時からモン族難民の支援に当たってきたタイ人作家が、彼らの証言を基に再構成した物語です。
物語は内戦の最中の1960年から始まり、パテート・ラーオ(ラオス愛国戦線)指揮下の共産モン族軍に父親を殺されたモン族の少年が、兄と共にヴァン・パオ将軍率いる右派モン族軍※に入隊し、パテート・ラーオや北ベトナム軍、そして同族の共産モン族との戦いに身を投じていくというストーリーです。
(※ラオス王国軍内におけるラオス人部隊の規模・戦意は低く、右派モン族が事実上の政府軍主力部隊だった)
右派モン族を主軸としたお話ですが、敵である共産モン族側の内情も描かれており、内戦に勝った側の共産モン族すら迫害されるという歴史上の結末を考えると、彼らモン族の過酷な運命がより鮮明に感じられます。




第1次~第2次インドシナ戦争におけるモン族とフランス、アメリカ軍との関係は過去記事『モン族を想って』を参照

でも、僕は本を読むのが遅いので、まだ半分くらいまでしか読み進んでいません。1960年から始まって、今ようやく1964年です。
この年、19歳になった主人公のリー・トゥー兵長は休暇で家族の住む村※に戻った際、かねてより恋心を抱いていた少女マイ・トーに求婚します。
(※生まれ故郷は少年時代の1960年にパテート・ラーオ軍の砲撃で集落全体が焼き払われ、生き残った住民全員で移住した山中に村を新設し、そこに家族や幼馴染も住んでいる)
このモン族の若者の恋が、頭の中が戦争のことばかりの僕にはすごく新鮮に感じられました。

なので今回は、どんな時代であっても変わらない人間の普遍的な営み、モン族の恋愛事情について、この本から抜粋・まとめてみました。

モン族の婚姻制度は、親が結婚相手を決める許婚ではなく、伝統的に自由恋愛が基本だそうです。

まず、男子は自力で気に入った女子を見つけます。(※女子の結婚適齢は15~16歳ほど)
それは近所の幼馴染であったり、偶然出会った他所の町のモン族だったりと様々。
ただしモン族には、近親婚を避けるため『同じ姓の異性とは結婚できない』という掟があり、これだけは絶対に守らなくてはなりません。
(この掟のため、実際には血の繋がりが無くても好きな人と付き合う事ができないという悲恋が起こるそうです)
そして気に入った娘に出会ったら、まず自己紹介し、相手の名前と住所を聞き出します。

そこから男子は必死に女の子を口説きにかかりますが、ここからがモン族独特の恋愛スタイル。
いくら自由恋愛推奨とは言え、未婚の男女が公然とイチャイチャするのは憚られるため、男は深夜に彼女の家を訪れます。
そして、彼女の家の外で、屋内の彼女と壁越しに会話をしなければなりません。夜でも直接会ってはならないのです。
また、モン族の未婚女性は基本的に両親と同居しており、家も一間しかない小屋なので、親を起さないよう小声でヒソヒソ話する必要があります。
さらに、初めて娘の家に来た場合、その娘が家のどの位置に居るか分からない為、男子は一か八か、壁の四面をノックして回り、中からの反応を確かめるしかないのです。
当然そんなことしたら娘の両親は起きてしまいますが、この口説き方は自分達もやってきたことなので怒る事も無く、「わしの娘は反対側じゃぁ」と教えてくれます。
こうして、寝てるのか起きてるのか分からない両親の脇で、男女の壁越しの会話が続きます。

ただし、この時点ではまだカップルは成立しておらず、まだお試し期間中なので、モテる女子の家には毎夜代わる代わる様々な男達が口説きに訪れます。
女子は、その中で気に入った男子には愛想良く、不合格者は冷たくあしらう事で徐々にふるいにかけ、相手を絞っていきます。
自分が好かれているか、振られたかは男子側の自己判断という、男のメンタルにはなかなか厳しい風習です。

こうして好きな相手が一人に絞られると、ようやくカップル成立。
ここから、二人のお楽しみタイム『コージェー』が始まります。
『コージェー』とは家の壁に穴を開けることで、それまでは壁越しに会話するのみでしたが、女子が『コージェー』を許すと、男子は壁に腕が通るほどの穴を開けます。
そして、そこから腕を突っ込んで、壁越しに彼女の身体を触る事ができるのです。ワンダホ~!
しかし、あいかわらず娘の両親は同じ小屋で寝ています。
小声で話すどころか、親の目の前で揉み揉みタイムまで始まって、彼女の恥じらいはMAX!
男のほうも、壁越しのペッティングに興奮度MAX!!モン族エロい。

しか~し、中には「どっちも好きだから決められない」とか言って二股かける女子もいます。恋の主導権は女子が握っているのです。
そして好きな二人の男子に、それぞれ別々にコージェーさせる場合もあるとか。
二股に気付かない男子は、それぞれ「ようやくあの娘をゲットできた」と浮かれ気分ですが、もともと狭いモン族の社会ですから、いずれ二股はバレます。
当然二股かけられた男たちはブチ切れるわけですが、こういう場合モン族男子には、定番の仕返しがあります。
それは、いつものように彼女の家を訪れコージェーさせてもらう訳ですが、実はそこに全然関係ない別の男友達を連れてきて、その友達に彼女の身体を触らせちゃうのです。
壁越しに行われるコージェーならではのセクハラ・リベンジ。これが慣例として代々受け継がれる復讐の手段なんですから、いかに昔から二股が多かったかを物語っていますね。
(男が怒り狂って暴力に走らないよう、予めソフトな復讐法を決めてあるんだと思います)


こうして幾多の試練を乗り越えたカップルは、ついに結婚へと進みます。
互いに結婚の意志を確認しあうと、男子は自分の両親を通して、正式に娘の両親に結婚を申し込みます。
今まで散々娘が壁越しにイチャイチャしてるのを見てきたので、親は基本的にそのまま結婚を許可し、めでたく結婚式となるわけです。
なお、モン族の夫婦は結婚すると、それぞれ実家を出て二人で新たな家庭を築くので、結婚後両親と同居する事はありません。完全核家族制です。
とは言え、そんな遠くに引っ越す事もないので、爺ちゃん婆ちゃんから孫たちまで、だいたい固まって一つの村で生活します。
これが、代々続いてきたモン族の恋愛・結婚スタイルでした。


以下、1975年以前のモン族の日常風景を記録した映像です。
これらを見ていると、彼らが失ってしまった物の大きさを改めて痛感します。


本格的な内戦に突入する前の、モン族にとって最後の平和な時代。1956年





内戦終結直前の1974年。


この1年後、共産ラオス政府が成立した事で、ラオスに住んでいた20万人のモン族が難民として隣国のタイなどに脱出せざるを得なくなり、彼らは帰る故郷を永遠に失いました・・・




余談ですが、僕が以前スカイプで仲良くなった中国の女の子は、モン族と同族(住む場所によって名前が違うだけ)の貴州省出身のミャオ族の娘でした。
友達につけられたあだ名は、崖の上のポニョに似ているから『ポニョ』だそうですw
当時、その子は武漢の大学で日本語を勉強していて、日本人と仲良くなりたいからスカイプで友達を探していたそうです。
貴州の実家の写真とか、親戚の結婚式の写真とかいろいろ見せてもらいました。まさに、ラオスのモン族のそれといった感じでした。
でも現在中国に住むミャオ族は、少数民族とは言え別段差別されているという事はないので、普段の生活は普通の中国人(漢族)と全く一緒です。
もしラオスのモン族があれほど内戦に深く関っていなければ、ミャオのように今も平和に暮らせていたのかもしれません。同族でも住んでいる場所で大きく明暗が分かれてしまった事を、その子と会話する中で密かに感じていました。

しかしあの子かわいかったな~。二回くらい日本に留学に来たそうですが、日本国内でも遠い場所だったので、結局直接会うことはありませんでした。
ちょっともったいない事したかも。


  


2014年07月09日

最近買った本

メコンに死す
ピリヤ・パナースワン (著), 桜田 育夫 (翻訳)

メコンに死す―インドシナ戦争の裏面を語るノンフィクション・ノベル (アジアの現代文学 7 タイ)

1975年、ラオスは長年に及ぶ内戦の末に、王政を廃止、共和制に移行した。このラオス革命の陰には、右派と左派に引き裂かれ、それぞれに利用されたあげく、大量の難民となって国外に脱出せざるをえなかったモン族(メオ族)の悲劇があった。本書は、このインドシナ戦争の影の部分を克明に描いたドキュメンタリー・ノベルで、ヴァン・パオ将軍やプーマ首相など実在の人物も登場する異色作である。著者は米国の援助機関や難民キャンプでモン族の人たちと長い付き合いがあったタイ人ライター。口絵にはモンの日常風景、主要政治家などの写真を配し、資料的にも貴重である。
(Amazon内容紹介より)
  続きを読む


2014年02月15日

メコンの亡国

だいぶ前に描いたイラストですが、70年代前半におけるインドシナ親米三国(ラオス・南ベトナム・カンボジア)の陸軍将校の制服(勤務服)です。
これら三ヶ国の軍隊はもともと、第1次インドシナ戦争中の1949年に、インドシナに駐屯したフランス陸軍の植民地部隊から(形式的に)独立した国軍でした。独立後もこの三国はフランス連合の一員として、フランス軍の指揮下で1954年まで戦っていきます。(一部では1956年まで戦闘継続)
なので、制服や階級はもとより、軍の組織自体がフランス軍をベースとしたものでした。しかし面白いのが、これらフランス連合国の制服はそれぞれフランス軍のデザインを継承しながらも、見ての通り明らかにフランス軍とは異なるオリジナリティある制服になっていました。

  続きを読む


2014年02月12日

ベトナム人民軍の南ベ復古?


僕はベトナム人民軍については門外漢なので、今までまともに調べた事なかったのですが、友人が面白い発見をしたのでご紹介します。
※画像は海外サイトで拾ったもので、僕の所有物ではありません。

まず、現在のベトナム人民軍では、陸軍から民兵組織まで、リーフ系迷彩の戦闘服が広く使われているようです。
中には、米軍が開発し南ベトナム軍(ベトナム共和国軍)で広く用いられた低地用ERDL迷彩(グリーンリーフ)にそっくりな色合いのリーフもあります。

  続きを読む


2014年02月05日

よく聞く歌&ラオス

唐突に、いつもパソコンやってる時に聞いている歌の再生回数トップ10

今のパソコンはまだ1年ちょっとしか使ってないので、前のノーパソで聞いてた分も含めると順位変わってくると思うけど、確かめようが無いので、この1年ほどでの集計結果です。


第10位(22回) 奥井雅美/Birth


  続きを読む


Posted by 森泉大河 at 01:51Comments(0)1954-1975【ラオス】音楽

2013年12月27日

CEFEO空挺部隊


南ベトナム軍を調べていると、必然的にその前身であるフランス軍に興味が沸いてきます。
中でも第1次インドシナ戦争時代の空挺部隊(Troupes Aéroportées)が超カッコいいんですわ。


しかしフランス軍の空挺部隊って、なんか部隊名がコロコロ変わってて、どういう組織だったのか全体像が分かりにくかったんです。
なので今回は、第1次インドシナ戦争でベトミン軍と戦ったCEFEO(極東フランス遠征軍団)の空挺部隊の変遷をまとめてみました。
  続きを読む